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アメリカと対峙した中川昭一、アメリカに追従せざるをえなかった安倍晋三 . . . (伊藤貫)
youtube.com/watch?v=nvmPT4zbA8M
豊岳正彦
安倍ちゃんの問題はヒ素ミルクで赤ちゃんを大量殺傷した戦争犯罪毒殺鬼森永昭雄の娘に引っかかって結婚し日本で最初のファーストレディ気取りをさせたことだよ。
昭雄も昭恵も森永ミルクヒ素中毒被害者にかつて一度も謝ってないのだ。
ヒ素ミルク殺人鬼森永昭雄を犯人特定した世界一名医わが父豊岳正道を恐れていたのは岡山日赤と森永昭雄一人娘安倍昭恵の戦争犯罪毒殺鬼コンビ米軍スパイABCC比治山放医研広島日赤小児白血病テロ殺人鬼である。
ヒ素ミルク赤子殺し殺人鬼森永昭雄を売国汚職犯人特定した薬師如来仏弟子豊岳正道の長男私儀豊岳正彦岩国豊岳小児科二代目院長を攻撃して豊岳正道が創建した24時間365日全科救急医院ごと地位協定治外法権戦争犯罪麻薬向精神薬取締法違反致死毒殺害偏執狂餓鬼道地獄暴力で物理的に殺害消滅しようとしてきた日本国内憲法24条違反LGBTQ立法汚職首謀者がアメリカスパイファーストレディ妄想奴隷麻薬ヒ素毒殺テロ暗殺鬼女共政会美人局三つ児殺し安倍昭恵ということさ。
ロシア正教父母報恩武士道修身二十則菩薩プーチン大光王露国大統領は安倍晋三武士道報恩菩薩大和国総理暗殺首謀殺人犯が安倍寛武士家系に潜り込んだ獅子身中の虫ヒ素ミルク乳児毒殺鬼女【嘘つき乳幼児殺し常習犯】森永昭恵だという真実を知っている。
私も知っているがw
山岡鉄舟高歩大居士修身二十則第一条「嘘を云うべからず候」は政治家の公約違反が国家反逆刑法極刑汚職犯罪であると幣原喜重郎武士が作った日本国憲法99条最高法規に書いてあるからね。
靖国英霊大和魂ご先祖様はすべてわれら全国市区町村民ご先祖様であり英霊軍神第一号は広島護国神社安芸広島藩志和村の高間省三神機隊学問所講頭主座修道学園創始者である。
日本を守る靖国英霊は全員が天皇ではない現在の市区町村民ご先祖両親様でありそれは無有大陸時代以前から悠久の南無父母恩重経祖先父母大慈悲菩薩ご先祖如来様である。
一切衆生に父母がある。
天は何物も創らない。
人も人以外のすべての生物も無生物もすべてその親が我が身を分け与えて命を捨てて作るのである。
明治維新回天の元勲は真に西郷南洲山岡鉄舟勝海舟の敬天愛人至誠父母報恩「嘘云わぬ」三州舟なり。
森永ヒ素ミルク赤ちゃん殺害鬼森永昭雄一人娘昭恵鬼女の共犯者が岩国地裁岡田総司東大法学部と林芳正高村正彦河村平岡東大文一卒と医者弁護士全員と福田良彦柏原伸二田中優広島共政会麻薬ヤクザ白井正司さん美人局詐欺麻薬使用殺人犯罪組織構成員CIAスパイ池田大作創価学会憲法20条違反国家反逆子殺し餓鬼道地獄亡者親不孝反社である。
そもそも岸信介はアメリカに面従腹背である。
岸はCIA資金で政界復帰したが日米地位協定を吉田茂安保条約本体から分離したために怒ったCIAが創価学会経由で東大医学部に資金を流し日本赤軍という国際テロ組織を作って岸を内戦を起こして日本人に暴力で殺させようとしたが失敗してCIAの弱みを握った岸信介実弟佐藤栄作の沖縄返還無血交渉を受け入れざるを得なくなったということだ。
岸信介佐藤栄作は周防田布施伊藤博文のような卑しい素性の非人忍者暗殺テロリストではない正々堂々毛利藩の譜代武士だから鮫島小泉加世田田布施非人桂小五郎医者非人や岩倉三条エタどもとは三つ子の躾が違う敬天愛人無刀流免許武士道修身二十則至誠父母報恩広大無辺大和魂の持ち主なのさ。
天誅は敬天愛人武士道の正義発露世直しそのものだ。
よって伊藤博文非人忍者朝鮮国母閔妃暗殺テロリストを堂々と自ら名乗って天誅した安重根は敬天愛人忘己利他無我父母報恩武士道の尊皇攘夷義士の鑑である。
暗殺は亡国テロ犯罪だが天誅は世直し正義司法執行である。
井伊直弼拝金保身夷敵奴隷奉仕売国奴の日米修好通商不平等条約締結以来武勇(むう)仏国土浄土真宗父母報恩不可思議解脱神州忘己利他日本を侵す諸悪の根源は自我利己一辺倒暗殺略奪一神教カルト汚職偏執狂伊藤博文が犯した大光王七不衰仏法破り大罪「廃仏毀釈」なのだ。
戦争犯罪テロリストは常に売国汚職乳幼児殺人犯罪を犯し、売国汚職乳幼児殺人を犯す者は常に戦争犯罪テロリストである。
これが三世十方父母大慈悲無始無終無常宇宙を貫く唯一にして不二の真理だ。
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日本国王全国市区町村民は直ちに能登へ50兆円無償配布するよう憲法15条日本国王の下僕三権公務員政府に厳命す。
hougakumasahiko/muragon.com/entry/671.html
豊岳正彦
【能登災害】県の対応に激怒 後輩でもある馳浩知事を断罪する
youtube.com/watch?v=IGzud_TEHKg
ダボスの手先自公政府憲法15条三権公務員を全員国家反逆罪で断罪し日本主権者全国市区町村民が国王命令して7兆ドル米国債一括売却して直ちに能登へ現金50兆円無償投入せよ。
直ちに日米地位協定破棄し全米軍に5兆円やって帰米させよ。
1ドル10円レート端金で永遠に戦争犯罪偏執狂と縁斬り。
「公務員武士道に嘘は厳禁」嘘つき汚職に刑法が極刑罰を以て臨む。
高知白バイ衝突死事故。ねつ造主導した県警本部長と法廷で助け舟を出した裁判官の現在【冤罪 高知県警 ゆっくり解説】
youtube.com/watch?v=CdMgLSRT004&t=63s
【1時間耐久/歌ってみた】ギンギラ銀河で“日本国憲法前文” ( 妖怪ウォッチOP / すとぷり × ナユタン星人 )
mix.com/!1134360536956275712
【暴露】萩生田さん、国内事務所の引き出しで保管した裏金の領収書は「海外ホテルと海外レストラン」
youtube.com/watch?v=fsw85RoUf4Q
日本国憲法手帳より。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/620.html
第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
/
第15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
・
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
・
3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
・
4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
/
国際会議でフランスに質問されなかったか「公明党創価学会はフランスでカルト認定しているが日本ではカルト認定してるのか?」と。
国際常識として統一教会はカルトじゃないが創価公明はカルトであり憲法15条を破って池田大作とその一族に一部奉仕してるぜ。
カルトとは憲法20条違反政教一致団体である。
政教一致とは憲法15条投票の自由と秘密を侵害して上司の指示と異なる候補者に投票した場合に公的にも私的にも制裁を加える憲法36条汚職極刑犯罪を犯す犯罪組織のことを言うのだ。
つまり創価信者は憲法15条投票の自由と秘密を公明党とその共犯者によって著しく侵害されているカルトテロ被害者である。
刑訴法239条何人でも、犯罪があると思料するときは、告発をすることができる。
この告発は刑訴法239条2項公務員犯罪告発責務より上の主権者国民固有の権利行使だから、主権者国民に全体奉仕する責務を負う警察検察は必ず国民が通報や文書で告発した被告発人を逮捕して犯罪を捜査し証拠と調書で身柄送検し必ず起訴しなければならず、特別司法公務員検察警察が憲法99条を破って全体奉仕犯罪捜査犯人検挙公職責務を果たさぬ時公務員汚職現行犯である。
そもそも司法は憲法99条裁判官が憲法77条により検察警察の刑事司法業務を決定するがもちろん裁判官の司法公務員公務決定内容が憲法98条に合憲でなければ全部無効である。この時全ての裁判官が憲法99条違反刑法81条外患誘致罪犯罪者だ。裁判官の憲法76条違反汚職は直ちに憲法前文違反憲法99条違反憲法9条違反憲法98条違反刑法極刑外患誘致戦争犯罪だから迅速に現行犯逮捕極刑執行。情状酌量なし時効なし。
汚職外患誘致裁判官に従った警察検察が刑訴法241条~247条違反特別公務員職権乱用汚職憲法15条違反汚職の罪で刑法77条81条極刑を現行犯執行すると六法全書に書いてある。全国の公務員非公務員市区町村民とその子弟は憲法15条公職選挙で汚職犯罪があると思料すれば直ちに110番通報して汚職犯人を警察検察国会議員自衛隊に強制逮捕起訴させる国家主権を持っている。犯罪告発は日本人の日本国憲法遵守責務だよ。犯罪者を全員告発して逮捕してやれば日本は江戸時代の世界で最も汚職がない美しい日本を安倍晋三中川昭一田中角栄佐藤栄作岸信介幣原喜重郎荒木貞夫磯部浅一北一輝大正天皇明治天皇乃木希典田中正造幸徳修水勝海舟山岡鉄舟西郷隆盛高間省三廣澤眞臣と共に取り戻すことができるのだ。
【聞き流し】日本国憲法全文 (穴埋め式)
mix.com/!1128949461867827200
幸徳秋水。バカAI知能変換チャットGPTはほんとにバカの嘘製造機だ。
皆手書きで手紙書けよ。三つ子の魂百まで。
日本人は一人一人がその良心に従い独立して事を行うすなわち仕事するのだ。
三つ子の時から百になるまで山岡鉄舟修身二十則を日夜実践躬行せよ。
特に修身の第一公務員はいや日本人は「うそを言う可かsらず候」
ameblo.jp/hougaku-masahiko/entry-12820906648.html
公務員は武士道日本人が務める者である。
嘘つき汚職エタ非人が公職に就いてはならぬ。
特に伊藤博文廃仏毀釈長州ファイブロスチャイルドスパイが諸悪の根源亡国棄民極悪汚職暗殺専門テロリストだ。
ロックフェラースパイ東大ジョン万次郎慶応義塾福沢諭吉も伊藤博文外国スパイ共犯売国棄民外患誘致汚職同罪。
明治以来日本の国家公務員敬天愛人天下の大道政治家の鑑を示す。
hougakumasahikotan.hatenablog.com/entry/2024/10/29/123801
勝海舟山岡鉄舟西郷隆盛南洲明治三宝父母恩重経公儀武士道鑑
hougakumasahiko.muragon.com/entry/670.html
勝 海舟かつ かいしゅう文政6年1月30日1823年3月12日- 明治32年1899年1月19日は、日本の武士幕臣、政治家[1]。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。江戸幕府幕府陸軍最後の陸軍総裁。
山岡鉄舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟と呼ばれる[2]。東京都本所出身。
【勝 海舟かつ かいしゅう / 勝 安芳かつ やすよし】
時代 江戸時代末期(幕末)- 明治時代初期
生誕 文政6年1月30日/1823年3月12日
死没 明治32年1899年1月19日75歳没
改名 麟太郎りんたろう(幼名)→ 義邦 よしくに→ 安芳やすよし
別名 号:海舟、通称:麟太郎
戒名 大観院殿海舟日安大居士
墓所 洗足池公園
官位 参議、海軍卿、枢密顧問官、贈正二位、勲一等、伯爵、従五位下安房守
幕府 江戸幕府 幕臣
氏族 物部氏
父母 父:勝小吉、母:信(勝元良の娘)
兄弟 勝順子(後に瑞枝と改名、佐久間象山の妻)
妻 正妻:民子
妾:梶玖磨(お久)別名:小谷野クマ
妾:増田糸
妾:小西かね
妾:香川とよ
妾:森田米子
子 内田夢、疋田孝子、小鹿、四郎、梶梅太郎、目賀田逸子、八重、岡田七郎、妙子
【略歴】
幼名および通称は麟太郎りんたろう。諱は義邦よしくに。明治維新後は安芳やすよしと改名。これは幕末に武家官位である「安房守(あわのかみ)」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。海舟は号で佐久間象山直筆の書「海舟書屋」からとったものだが「海舟」という号は本来誰のものであったかは分からないという。氏族としては物部氏を称し氏姓+諱の組み合わせで物部義邦[3]物部安芳[4]という署名や蔵書印も残している。
曽祖父は視覚障害を持ち新潟の農民に生まれ江戸に出て米山検校となる。祖父はその九男男谷平蔵。父は男谷平蔵の三男旗本小普請組41石の勝小吉、母は勝元良(甚三郎)の娘信。幕末の剣客男谷信友(精一郎)は血縁上は又従兄で、信友が海舟の伯父に当たる男谷思孝(彦四郎)の婿養子に入ったことから系図上は従兄に当たる[5]。家紋は丸に剣花菱。
10代のころから島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。16歳で家督を継ぎ、弘化2年1845年から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年1860年には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。
李鴻章を始めとする清の政治家を高く評価し、明治6年1873年には不和だった福沢諭吉(福澤諭吉)らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、哲学館(現東洋大学)や専修学校(現専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。
【生涯】
生い立ち
文政6年1823年、江戸本所亀沢町[注釈 1]の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した[注釈 2]。
曽祖父・銀一は、越後国三島郡長鳥村[注釈 3]の貧農の家に生まれた盲人であったが、江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得て、朝廷より盲官の最高位検校を買官し「米山検校」を名乗った。銀一は三男の平蔵に御家人・男谷(おだに)家の株を買い与えた[注釈 4]。銀一の孫で男谷平蔵の末子が海舟の父・勝小吉であり、小吉は三男であったため、男谷家から勝家に婿養子に出された。勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は天正3年1575年以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父に当たる命雅(のぶまさ)が宝暦2年1752年に累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。
幼少時の文政12年1829年、男谷の親類・阿茶の局の紹介で江戸幕府11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(家斉の嫡男で後の12代将軍徳川家慶の五男、後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が天保9年1838年に早世したためその望みは消えることとなる。同年、父の隠居で家督を相続[7]。
生家の男谷家で7歳まで過ごした後は、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らした。
野良犬強襲事件
実父の勝小吉が書いた「夢酔独言」に依ると、『岡野へ引っ越して2ヶ月程、段々脚気も良くなって来た。9歳になった息子が御殿から下って来たので、本の稽古に3つ目向こうの多羅尾七郎三郎と云う用人の処へ通わせていたが、ある日その途中の道で、病犬に出会って金玉を噛まれた。』との記述がある。
これは、当時9歳(1831年)の海舟が野良犬に襲われた事件である。この事件がきっかけで犬が苦手になり、大小を問わず犬を晩年迄苦手にしていた。
本の稽古(現在の学習塾に相当)の帰り道に海舟が野良犬に襲われ、野良犬が袴の中へ潜り込み[8]、陰嚢を噛み切られて睾丸が露出する程の裂傷を負った。
花町の仕事師八五郎と云う者が海舟を救助して、自宅に上げ医者を呼ぶなどの世話を行う。自宅で寝て居た小吉の元に知らせを入れ、小吉が八五郎の家へ向かった。
既に成田と云う外科医が呼ばれて居て、小吉が「命は助かるか?」との問いに「難しい。」との回答。海舟を自宅へ連れて帰り、地主が呼んだ篠田と云う外科医に傷を縫合させた。その医者の手が震えていたため海舟は泣きわめいたが、小吉は枕元に刀を突き立てて「ここで死んだら犬死に」と言い聞かせて黙らせた[8]。
その外科医に様子を伺うと「今晩持つかどうか保証出来ない」との診断で、生死を彷徨う重症で小吉は、金比羅へ願掛けの裸参りを行ない、毎晩水垢離をして祈った[8]。
始終小吉が海舟を抱いて眠り、他の者には手を付けさせなかった。幸い快方に向かい陰嚢の傷も癒え、野良犬に襲われてから70日目には、日常生活が出来る程に回復した[8]。
修行時代
剣術は、実父・小吉の実家で従兄の男谷信友の道場、後に信友の高弟・島田虎之助の道場[注釈 5]で習い、直心影流の免許皆伝となる。師匠の虎之助の勧めにより禅も学んだ。兵学は窪田清音の門下生である若山勿堂から山鹿流を習得している[9]。蘭学は、江戸の蘭学者・箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断られたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りし蘭学を学んだ。弘化3年1846年には住居も本所から赤坂田町に移り、更に後の安政6年1859年7月に氷川神社の近くに移り住むことになる。
この蘭学修行中に辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写した有名な話がある。1部は自分のために、1部は売って金を作るためであった。蘭学者・佐久間象山の知遇も得て[注釈 6]、象山の勧めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いた。開塾は嘉永3年1850年とされているが、それがいつなのかはっきりしない。後に日本統計学の祖となる杉亨二が塾頭となるが、こちらも年代が特定出来ず、安政元年1854年に入塾した佐藤政養と同じころと推定されている[注釈 7][11]。
長崎海軍伝習所
嘉永6年1853年、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、幕府老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重な姿勢を取り、海防に関する意見書を幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集した。これに海舟も海防意見書を提出(嘉永6年7月。西洋式兵学校の設立と正確な官板翻訳書刊行の必要を説く)、意見書は阿部の目に留まることとなり、目付兼海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから安政2年1855年1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たし、海舟は自ら人生の運を掴むことができた。
同月から洋学所創設の下準備、1月23日から4月3日にかけて勘定奉行石河政平と一翁が命じられた大阪湾検分調査の参加を経て7月29日に長崎海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語が堪能であったため教監も兼ね、伝習生とオランダ人教官の連絡役も務めた。この時の伝習生には矢田堀鴻(景蔵)、永持亨次郎らがいる。しかし、海軍に関する知識はほとんど無かったため、本心では分野違いの長崎赴任を嫌がっていたが(8月20日の象山宛の手紙より)、幕府の期待に応えない訳にも行かず、10月20日に船で長崎へ来航、以後3年半に渡り勉強に取り組むことになる。長崎に赴任してから数週間で聴き取りもできるようになったと本人が語っているためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす[12]。
海舟の学問成果については賛否両論で、藤井哲博は海舟の成績は悪く安政4年1857年3月に一期生が江戸へ戻ったのに海舟が長崎に残った点を挙げて落第したと書いたが、松浦玲は藤井の記述に反論、安政3年1856年6月に海舟が伝習所の成果に見切りをつけて江戸へ帰府の伺いを提出し、翌4年1月に江戸に軍艦教授所(後の軍艦操練所)を創設することを幕府が考案、帰府が決まった所、一転して残留に変更したことを詳細に記し、落第留年ではないと主張している[注釈 8]。しかし、海舟が頻繁に船酔いに苦しんでいたことと、思うように勉強がはかどらなかった(特に数学が苦手)ことは事実であり、海舟が船乗りに非常に不向きな体質から帰府の話が浮上する理由があった[13]。いずれにせよ、海舟は安政4年の時点ではまだ江戸へ戻れず、更に2年を長崎で過ごすことになる。
この時期に当時の薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得ており、安政5年1858年3月と5月に海舟は薩摩を訪れて斉彬と出会う。2人は初対面ではなく藩主になる前の斉彬が江戸で海舟と交流していたが、後の海舟の行動に強い影響を与えることとなる[14]。
同年から始まった安政の大獄で推薦者の一翁が左遷されたが、長崎にいる海舟に影響は無く、大獄を主導した大老井伊直弼の政治手法や大獄の一因である南紀派と一橋派の政争を批判する余裕を見せている。8月に外国奉行永井尚志と水野忠徳が遣米使節を建言すると、10月と11月にそれぞれ永井と水野に宛ててアメリカ行きを希望、2人から了解の返事を取り付け、安政6年1月5日に朝陽丸に乗って1月15日に帰府、幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられ、新たに造られた軍艦操練所で海軍技術を教えることになる[15]。
【渡米】
1860年渡米時にサンフランシスコにて撮影
万延元年1860年幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節をアメリカへ派遣する。このアメリカ渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら一橋派の幕臣であった。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされたため、正使・新見正興、副使・村垣範正、目付・小栗忠順らが選ばれ、アメリカ海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米した。この時、護衛と言う名目で軍艦を出すことにし、咸臨丸がアメリカ・サンフランシスコに派遣された。品川からの出発は1月13日でアメリカ到着は2月26日(新暦で3月17日)、閏3月19日(5月8日)にサンフランシスコを旅立ち、品川への帰着は5月6日、旅程は37日で全日数は140日であった[16][注釈 9]。
咸臨丸には軍艦奉行・木村喜毅(艦の中で最上位)、教授方頭取として海舟、教授方として佐々倉桐太郎、鈴藤勇次郎、小野友五郎などが乗船し、米海軍から測量船フェニモア・クーパー号艦長だったジョン・ブルック大尉も同乗した。通訳のジョン万次郎、木村の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も乗り込んだ。咸臨丸の航海を諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある[注釈 10]。
古来、海舟は咸臨丸艦長として渡米したと言われている(ブルックも同乗時からそう呼んでいる)が、それに反発する諭吉の『福翁自伝』には木村が「艦長」、海舟は「指揮官」と書かれている。しかし、実際にそのような役職はなく、上記のように木村は「軍艦奉行」、海舟は「軍艦操練所教授方頭取」という立場であった。アメリカから日本へ帰国する際は、海舟ら日本人の手だけで帰国することができた[注釈 11]。
アメリカ滞在中は政治・経済・文化など何もかも日本と違う文明に衝撃を受けたが、他の乗組員といざこざを起こしたとされている。サンフランシスコ入港時に木村が実家の家紋を咸臨丸の旗に掲げようとしたのに対し、海舟は徳川将軍家の葵の御旗を掲げるべきと主張、議論の末に木村案が通った話、咸臨丸から祝砲を打ち上げようと佐々倉が言うと海舟が拒否したが、佐々倉が見事成功したため面目が潰れたという逸話、パナマ行きを巡り帰国したがった木村と対立したという問題が挙げられる。最初の問題は事実だが、2つ目の話は諭吉の記憶違いで事実ではなく、3つ目も確かな裏付けが取れないため虚構とされる。松浦はこれらの逸話を検討した上で海舟と木村の対立は事実だとして、自分達は一国を代表してアメリカへ来たという意識があった海舟と、そういう意識が無かった木村との間が上手くいかなかったことが原因と書いている[18]。また、明治も半ばを過ぎてから、諭吉が「瘠我慢の説」で新政府に仕えた勝を攻撃したことで知られる諭吉と勝の確執も、咸臨丸航海から始まっている。
帰国後の6月24日に蕃書調所頭取助に異動、旗本としての格式は天守番頭加人となった。翌年の文久元年1861年9月5日に講武所砲術師範となり天守番之頭格に格上げされたが、海軍から切り離されたためこれを左遷または海軍からの追放と受け取り、直弼暗殺後に政権を担当した安藤信正・久世広周の元では海軍強化の提案もロシア軍艦対馬占領事件に関する建策も採用されず不満の日々を送った。また、蕃書調所での勤務態度は不真面目でさぼってばかりで、頭取古賀謹一郎に任せきりだったとされる[19]。
海軍興隆へ奔走
文久2年1862年安藤らが失脚した後に松平春嶽・一橋慶喜ら一橋派が島津久光(斉彬の異母弟)の台頭で復帰、文久の改革でそれぞれ政事総裁職・将軍後見職に就任。それに伴い海舟も7月5日に軍艦操練所頭取として海軍に復帰し、閏8月17日に軍艦奉行並に就任。これに先立ち一翁も7月4日に御側御用取次として復帰。海舟は一翁および春嶽と、その顧問横井小楠を提携相手として手を組み、彼らが主張する公議政体論(諸侯の政治参加を呼びかけ、幕府と共同で政治を行う主張)の支持者となりその実現に向けて動き出すことになる。
早速軍艦奉行並就任から3日後の閏8月20日に幕府海軍の強化策を話し合う会議が開かれ、意見を披露した。海舟が不在の間海軍は木村が安房館山藩主稲葉正巳の下で改革案を練り上げ、この会議で軍艦総数を370隻以上、乗組員総数6万人を集め全国6ヶ所に軍艦を配置する一大構想を掲げる。しかし海舟は500年かかっても無理だと反対して地方からの人材登用・育成論を語り、木村の案を事実上廃棄へ追い込んだ[注釈 12]。反対の根拠は、諸侯に金だけ出させ、幕府だけ軍事力強化に走る構想が公議政体論と合わず、諸侯と幕府が協力するだけでなく海軍も互いに手を取り合い強化すべきとする小楠の意見を参考にして人材登用論を発表したのだった。
一方、14代将軍徳川家茂の上洛が取り沙汰されると、6月に費用節約の観点から海路上洛を書いた建白書を一翁を通して提出したが却下された。代わりに手付金5000ドルでイギリス船ジンキーを試乗して気に入り、15万ドルで購入したジンキーを順動丸と改名し上洛用に運用することが出来たが、11月5日に一翁が左遷され23日に罷免(朝廷からの攘夷催促に反対し政権返上を口にしたのが慶喜に嫌われたためとされる)。小楠も12月19日に刺客に襲われた事件で京都へ行けなくなり、同志を2人失う痛手を被った海舟は幕府首脳を順動丸で大坂へ移送する役目を負う。そして12月17日に老中格小笠原長行を乗せて品川を出発、24日に大坂へ到着し滞在、長行に兵庫で海軍操練所建造を提案しつつ海岸線調査を行い、年を越した文久3年1863年1月13日に兵庫を出航、16日に品川へ戻った。この間に坂本龍馬の名前が海舟の12月29日付の日記に出るが、両者のそれ以前の交流は不明である[21]。
2月、将軍の海路上洛が陸路上洛に変更され落胆するも、同月13日に江戸を出発した家茂の後を追う形で24日に順動丸で海路上洛、2日後の26日に大坂で投錨して先回りした(家茂一行は3月4日に上洛)。そこで砲台設置を命じられていたため検分に務め、4月23日に京都から大坂へ下った家茂を出迎え、順動丸に乗せて神戸まで航行した。神戸は碇が砂に噛みやすく水深も比較的深く大型の船も入れる天然の良港なので、神戸港を「日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべし」との提案を大阪湾巡回を案内しつつ家茂にしている[注釈 13]。
家茂にこの提案を受け入れさせる一方、海舟は同行していた公家の姉小路公知も抱き込み、27日の幕府の命令で神戸海軍操練所設立許可が下り、年3000両の援助金も約束、操練所とは別に海舟の私塾も作ってよいと達しも出た。操練所はすぐには作れないため私塾の方が先に始動、薩摩や土佐藩の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、海舟は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた[注釈 14]。後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた海舟は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。海舟自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。
5月9日には朝廷からの命令を通した幕府から製鉄所の設立も命じられ(姉小路公知が朝廷説得に動いたとされる)、海軍強化に大きく前進していった。しかし政局も動乱が相次ぎ、まず3月から上洛していた家茂が朝廷に攘夷実行を迫られ、これに反対して政権返上を主張した春嶽が3月21日に無断で京都を離れてしまった。続いて姉小路が5月20日に何者かに暗殺され(朔平門外の変)、海舟は提携相手を2人も失い、度々幕閣に攘夷を主張しても受け入れられず、戦争のきっかけに考えていた生麦事件も幕府が賠償金をイギリスに支払い事態収拾されたため、政治的に不利になっていった[注釈 15][23]。
政治構想の頓挫と罷免
先に上げたように、海舟は公議政体論の軍事的応用として諸侯との協力を前提にした「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれていた上、頼りにしていた春嶽も3月21日に政局を放り出して離脱、海舟は孤立していった。6月に兵を率いて海路で江戸から大坂へ到着した小笠原長行が率兵上洛を企て、これが一因で6月13日に朝廷から江戸帰還を許された家茂を海舟は順動丸に乗せて海路江戸へ戻ったが(長行は率兵の責任を取らされ罷免)、家茂は朝廷から攘夷を約束されたため、攘夷が不可能であると知っている海舟にとってはやりづらい状況となっていた。また、春嶽が治めていた越前福井藩では政変が起こり、率兵上洛および諸侯を集めた列藩会議召集を主張する小楠と対立した一派が7月23日に上洛派を追放、8月11日に小楠も福井を去り公議政体論実現は難航した。1週間後に起こった八月十八日の政変を報告された海舟は日記に失望感を書いている。
それでも海舟は9月に老中酒井忠績と同行して順動丸で再び上洛、政局に嫌気が差していた春嶽に上洛を促し、彼を説得して家茂上洛の下準備を整え10月28日に大坂を出発して11月3日に江戸へ到着、12月28日から翌4年(元治元年1864年)1月8日にかけて家茂と共に上洛、1月10日に海軍増強策を上奏したりしている[24]。
2月から4月まで幕府の命令で長崎に滞在、オランダ総領事ポルスブルックと交渉して前年の長州藩による外国船砲撃への諸国の報復を抑えるため説得に動いた。しかし、上奏は採用されず長州藩への制裁も下関戦争として発生した上、海舟が公議政体論の具体化として期待していた参預会議も一橋慶喜の策動で3月9日に解体され、海舟は5月14日に軍艦奉行に昇格、神戸海軍操練所も設置されたが政治構想をことごとく潰され、幕府に対して不満を抱いていた。7月11日に象山が暗殺、19日に禁門の変が発生、続く第一次長州征討で幕府は勢いづき公議政体論の見通しは無くなり、海舟の立場も危うくなった。
そして11月10日に軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。罷免の理由について、海舟は幕府の姑息ぶりを非難する一方で老中の1人阿部正外は褒めていて、その話を聞いた福井藩と薩摩藩が阿部と打ち合わせ、海舟の持論だった諸侯と幕府の提携を勧めた所、拒絶した阿部が幕府に報告、権力強化を進めていた幕府に危険視されたこと、神戸塾で脱藩浪人を抱えていたことなどが理由とされている。神戸塾と海軍操練所も翌慶応元年1865年に閉鎖され、海舟はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだという[注釈 16]。
海舟が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、元治元年9月11日の大坂・専称寺においてである[25]。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は海舟を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている[26]。慶応元年には淀川の警備の為に右岸に高浜台場、左岸に楠葉台場を奉行として完成させている。
長州征討と宮島談判
慶応2年1866年5月28日、長州藩と幕府の緊張関係が頂点に達する直前に軍艦奉行に復帰して大坂へ向かい、老中板倉勝静の命令で出兵を拒否した薩摩藩と会津藩の対立解消、および薩摩藩を出兵させる約束を取り付けることにした。この任務は成功したと後年海舟は語っているが、実際は薩摩藩は拒否したままであり、会津藩と薩摩藩の対立も続いたままだったため完全に失敗していた。
板倉との間が気まずくなった海舟は帰府を考えたが大坂に留まり、7月20日に家茂が死去した後に宗家を継承した徳川慶喜(12月に将軍職も継承)から8月に京都へ召集され、そこで第二次長州征討の停戦交渉を任される。海舟は単身宮島大願寺での談判に臨み、9月2日に長州藩の広沢真臣・井上馨らと交渉したが、幕府軍の敗色が濃厚だったためここでも交渉は難航、辛うじて征長軍撤退の際は追撃しないという約束を交わしただけに終わった。再交渉の余地を残すことを相手側に仄めかしたが、慶喜が停戦の勅命引き出しに成功したことでそれも無駄になり、憤慨した海舟は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。[要出典]辞職は却下され軍艦奉行職はそのままだったが、以後は事務仕事に勤め大政奉還まで目立った働きはなかった[27]。
駿府城会談と江戸城無血開城
[詳細は「江戸開城」を参照
結城素明画『江戸開城談判』(聖徳記念絵画館所蔵)。勝海舟と西郷隆盛が、江戸開城をめぐり交渉する場面を描く。
東京都港区芝五丁目にある「江戸開城 西郷南洲・勝海舟会見之地」の碑(2018年3月29日撮影)]
慶応4年明治元年1868年戊辰戦争の開始および鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北し官軍の東征が始まると、幕府の要職を罷免された海舟は、身分を越えた友人にまでなった最後の老中板倉勝静によって、江戸幕府最後の陸軍総裁にまで起用されていく。幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順を慶喜が1月14日に罷免、海舟は17日に海軍奉行並、続いて23日に徳川家の家職である陸軍総裁に昇進、2月25日に陸軍取扱という職に異動され、恭順姿勢を取る慶喜の意向に沿いフランスとの関係を清算した後、会計総裁となった一翁らと朝廷の交渉に向かうことになった[注釈 17]。官軍が駿府城にまで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。
まず3月9日、高橋泥舟の推薦により徳川慶喜から使者として命じられた山岡鉄舟が駿府へ交渉へ行く前に基本方針を擦り合わせした。勝と山岡はこの時初対面であった。海舟は鉄舟が自分の命を狙っていると言われていたが、面会して鉄舟の人物を認めた。打つ手がなかった海舟はこのような状況を伝え、征討大総督府参謀の西郷隆盛宛の書を授ける。よく山岡は勝海舟が派遣した使者と説明されているが、徳川慶喜が直々に命じた使者が正しい[29]。
この会談に赴くに当たっては江戸市中の撹乱作戦を指揮し奉行所に逮捕されて処刑寸前だったところを勝自身が庇護・匿っていた薩摩武士・益満休之助を説得して案内役にしている[注釈 18]。予定されていた江戸城総攻撃の3月15日の直前の13日と14日には海舟が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命と家屋・財産の一切が戦火から救われた[30]。
海舟は交渉に当たり、幕府側についたフランスに対抗するべく新政府側を援助していたイギリスを利用し、英国公使のパークスを抱き込んで新政府側に圧力をかけさせたとする説がある。しかし、松浦はパークスの圧力についてはパークスが14日に長州藩士木梨精一郎と会見していたことを指摘して海舟と西郷の会見に間に合わないと否定している[31]。また水野靖夫は横浜開港資料館に保管されていた英国公文書を照合した結果、『サトウ回想録』を丹念に読めば、サトウが最初に江戸に派遣された時には勝に会っていないことが分かり、勝は、西郷・勝会談以前にアーネスト・サトウに会ってはおらず、したがって西郷との会談において、サトウを介してイギリス公使パークスから西郷に、慶喜の助命、江戸総攻撃中止の圧力をかけてもらうという工作はできなかった。すなわち勝は、西郷との会談において「パークスの圧力」を利用することはできなかったと論じている[32][33]。
さらに交渉が完全に決裂したときは江戸の民衆を千葉に避難させたうえで新政府軍を誘い込んで火を放ち、武器・兵糧を焼き払ったところにゲリラ的掃討戦を仕掛けて江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる焦土作戦の準備をして西郷に決断を迫ったとされている。この作戦はナポレオンのモスクワ侵攻を阻んだ1812年ロシア戦役における戦術を参考にしたとされている[注釈 19]。この作戦を実施するに当たって、江戸火消し衆「を組」の長であった新門辰五郎に大量の火薬とともに市街地への放火を依頼し、江戸市民の避難には江戸および周辺地域の船をその大小にかかわらず調達、避難民のための食料を確保するなど準備を行っている。幕府の軍艦は新政府軍の兵糧と退路を絶つ為、東京湾内に配置して東海道への艦砲射撃の準備をさせ、慶喜の身柄は横浜沖に停泊していたイギリス艦隊によって亡命させる手筈になっていた。(以上の戦略については否定的な意見もあり、焦土作戦も時間的に余裕がなかったとして否定している説もある[34]。)
この会談の後、交渉は一旦保留され改めて東征大総督府と海舟らの話し合いが行われたが、江戸から上洛した西郷から条件を受け取った京都は大総督府と西郷が旧幕府に妥協し過ぎと受け取り、閏4月11日に徳川家処分の決定案を持って三条実美が江戸へ下向、24日に到着して29日に田安亀之助(後の徳川家達)の相続が発表された。詳細は旧幕府側の暴発を恐れ当面伏せられたが、5月15日に大村益次郎が新政府軍を指揮して不満分子である彰義隊を壊滅(上野戦争)させてからは正式発表できるようになり、24日に徳川家の領土が400万石から駿府藩70万石に決定された。海舟は西郷が出て行った後は参謀海江田信義と交渉、一時は石高半減も認めない強気の姿勢を取ったが、彰義隊壊滅でそれも難しくなり、海江田が罷免されたこともあり、大減封である処分案正式発表を受け入れざるを得なかった[35][注釈 20]。
戊辰戦争は上野戦争後も続くが、海舟は榎本武揚ら旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であることが予想されたこと、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が2分される恐れがあったことなどがその理由である。米沢藩士宮島誠一郎が朝廷宛に奥羽越列藩同盟の建白書を届ける途中に自宅を訪れた時は面倒を見たが、列藩同盟に対する評価は低く人材不足と時勢の乗り遅れ、会津藩への非難を6月3日付の日記に書いている[37][注釈 21]。
明治時代
明治期
明治維新後も海舟は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵に叙された。しかし明治政府への仕官に気が進まず、これらの役職は辞退したり、短期間務めただけで辞職するといった経過を辿り、元老院議官を最後に中央政府へ出仕していない。枢密顧問官も叙爵も政府からの求めに応じただけで度々辞退していた。
出仕前の慶応4年7月19日、江戸から水戸藩で謹慎していた慶喜がまず駿府藩へ船で移動、23日の到着後は宝台院で謹慎した。続いて8月9日、家達ら旧幕臣達が駿府藩へ移封され15日に駿府へ着いたが、前後して海舟は政府との交渉役を任され、10月11日に船で江戸を去り、翌12日に駿府へ着いてからは幹事役として大久保利通と駿府藩の折衝を務めた。明治2年1869年7月18日に政府から外務大丞に任じられたが8月13日に辞任、11月23日の兵部大丞任命もすぐに辞表を提出し翌明治3年1870年6月12日に受理された。明治4年1871年の廃藩置県を経て翌5年1872年3月3日に政府の要請で東京へ向かい、赤坂氷川神社の近くで住居を構え生活することになる[38]。
明治5年5月10日に海軍大輔に任じられ、明治6年1873年3月22日には勅使として西四辻公業と共に鹿児島へ下向し、4月に島津久光を東京へ上京させた。同年の明治六年政変で西郷らが下野した後の10月25日に海軍卿に任じられたが、翌7年(1874年)の台湾出兵に反対して引き籠り、欠席したまま明治8年1875年4月25日に元老院議官へ転属したが、11月28日に辞職して下野した。勝が海軍と直接的に関わった形跡はないが、咸臨丸時代からの知り合いだった赤松則良と佐々倉桐太郎を兵学寮へ出仕させ、実務を彼らや川村純義に任せて間接的ながら海軍の発展に貢献した[39]。
枢密顧問官として、明治21年1888年に始まった大日本帝国憲法制定時の枢密院審議に出席したが、一切発言しなかった。これは当初ただ外国から翻訳した法を丸写ししただけの憲法を作るのではないかという懸念を抱いていたが、伊藤博文ら作成者にそのような意図がないことに安心、日本の習慣に応じて修正すべきとする自分の考えと合っていたからだった。翌22年1889年2月11日に憲法が公布されると、伊藤らを称える意見書を提出している[40]。
また座談を好み、西郷隆盛や大久保利通をその後の新政府要人たちと比較した自説を開陳しているが、一方で自身はその政治的姿勢を團團珍聞などのマスメディアから厳しく批判された[41]。ただ、政府に対しては不満はあったが、提出した意見書は説教に止まり、藩閥協力を呼びかける程度の物で、政治的安定を願う海舟には体制批判は見られない。また、民権運動には無関心だった[42]。明治22年1889年の東京市会議員選挙に赤坂区から立候補したが落選した[43]。
徳川慶喜とは、幕末の混乱期には何度も意見が対立し勝はその存在自体を慶喜に疎まれていたが、その慶喜を明治政府に赦免させることに維新直後から30年の間尽力した。この努力が実り、慶喜は明治2年9月28日に謹慎解除され、明治31年1898年3月2日に明治天皇に拝謁を許され特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。これに先立つ明治25年1892年に海舟は長男小鹿を失い、友人の溝口勝如を通して慶喜に末子精を勝家の養嗣子に迎え、小鹿の娘伊代を精と結婚させることを希望し慶喜と和解した[44]。
他にも旧幕臣の就労先の世話や事業への資金援助、生活の保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。明治2年に投獄された榎本の母や、同じく罪人となった荒井郁之助(矢田堀の甥、榎本と共に新政府と戦った)の家族への資金援助を始めとする手助け、明治6年5月に商人の大黒屋六兵衛から供出させた資金を元手に中村正直、津田仙、永井尚志ら旧幕臣への資金援助をしたり、明治13年1880年に徳川一族から積立金を集め保晃会を設立、日光東照宮保存を図ったことや明治19年1886年に徳川家墓地管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会を設立している。駿府藩から政府や諸藩に人材を送ったり、明治2年に精鋭隊長中条景昭らを金谷原へ移住させ茶畑開墾を奨励させ、静岡がお茶の名産地となる原動力を仕掛けたり、旧幕臣の前島密を駿府藩公用人に抜擢している[45]。自身の活動の為に大金を融通して貰っていた川上善兵衛にはワインの製造と葡萄栽培を奨め、そのことが日本で最も古い歴史をもつ新潟県上越市で岩の原葡萄園と岩の原ワインへと繋がった。
また、江戸城無血開城と維新の立役者であったが征韓論で下野した西郷隆盛のことを気にかけ、明治10年1877年に西南戦争が起こると自宅を訪れたアーネスト・サトウに向かい西郷軍への同情論を語っている。戦後は逆賊の臣となり討たれてしまった西郷の名誉回復に奔走し、明治天皇の裁可を経て上野への銅像建立を支援している。一方、政府から西郷との調停役を依頼された時は断り、戦争に際して静岡の士族が不穏な動きをしたため慰撫に努めたが、その時詐欺に遭い金を騙し取られ、警察に追及される苦い経験もしている[46][注釈 22]。
海舟は日本海軍の生みの親ともいうべき人物であり、連合艦隊司令長官の伊東祐亨は海舟の弟子とでもいうべき人物だったが、福沢諭吉が野蛮な国を教え導くための「正しい戦争」であるとし、鼓舞・正当化した日清戦争には反対の立場をとった。清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌が敗戦後に責任をとって自害した際は海舟は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。海舟は戦勝気運に盛り上がる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった[47]。
晩年
晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる。一方で旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画に対して向山黄村に活動資金を与え、編纂阻止工作にあたらせこれを妨害した。結果、この計画は実現には至らなかった。[48]またその独特な談話、記述を理解できなかった者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。晩年は子供たちの不幸にも悩み続けるなど、孤独な生活を送っていたという[49]。
足尾銅山の鉱毒問題について、水害への懸念、民心の不安、銅の精錬の燃料のために日光の樹木を伐採することへの懸念などの視点から「文明流にせよ(「よく理を考えて、民の害とならぬ事をする」の意)」と批判している[50]。
明治32年1899年1月19日、風呂上がりにトイレに寄った後に倒れ、侍女に生姜湯を持ってくるように頼んだが、間に合わないとして持ってこられたブランデーを飲んだ直後に脳溢血により意識不明となり、息を引き取った[51]。海舟の最期の言葉は「コレデオシマイ」だった[注釈 23]。享年75。
墓は海舟の別邸 洗足軒のあった東京大田区の洗足池公園にある。洗足軒は後の戦災で焼失し、現在は大田区立大森第六中学校が建っている。
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勝海舟エピソード
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2024-10-25 12:16:26
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人物逸話 トラウマ
9歳のころ狂犬に睾丸を噛まれて70日間生死の境をさまよっている「夢酔独言」。この時父の小吉は水垢離みずごりをして息子の回復を祈願した。福沢諭吉との関係木村喜毅の従者という肩書きにより自費で咸臨丸に乗ることができた福沢諭吉は船酔いもせず病気もしなかった。一方海舟は伝染病の疑いがあったため自室にこもりきり艦長らしさを発揮できなかった。諭吉はそれをただの船酔いだと考えていたようで海舟を非難する格好の材料としている。また海舟の方も福沢諭吉にあまりいい印象を抱いていなかったとされる。福沢諭吉の海舟批判慶應義塾を興した福沢諭吉だったが西南戦争が始まると薩摩出身の学生が大量に退学するなどして一時その経営が危ぶまれた。当時勝が経済的に困窮した旧幕臣に対して比較的分け隔てなく大金を無担保無期限で融通していたので諭吉は借金を勝に申し入れてたが勝は福沢が三田に1万5000坪にも及ぶ広大な敷地を持っていたことを知っていた為土地を売却しても尚苦しいようであれば貸すと断った。だが福沢は三田の土地を気に入っていたので遂に売却することをしなかった。明治34(1901)年になって諭吉が主宰していた「時事新報」に<痩我慢の説>という諭吉の勝海舟批判のコラムが掲載された。敵に対して勝算がない場合でも力の限り抵抗することが武士のやせ我慢であり佐幕派の諸藩と連携して徹底抗戦討ち死にするべきだったのに降伏して江戸城を明け渡してしまった。こんなことは世界でも類をみないことで外国人は冷笑したであろうと海舟の講和を厳しく非難した。「殺人散財は一時の禍にして士風の維持(痩我慢)は万世の要なり」と説いている。また勝が維新後に枢密院顧問を務め伯爵に叙されたことなどを指し薩長人と並び立って得々名利の地位に居る明治政府に仕えて名利を貪むさぼっていると強く弾劾した。海舟批判書状の『瘠我慢の説』への勝の回答「自分は古今一世の人物でなく皆に批評されるほどのものでもないが先年の我が行為にいろいろ御議論していただき忝ない」として「行蔵は我に存す毀誉は他人の主張我に与らず我に関せずと存候(世に出るも出ないも自分がすることそれを誉める貶すは他人がすること自分はあずかり知らぬことと考えています)」として特に弁明も批判もしなかった。尚福沢諭吉は後の自伝で「人に借用すれば必ず返済せねばならぬ。当然のことでわかり切っている。返済する金が出来るくらいならば出来る時節まで待っていて借金はしないと覚悟を決めてきた。過去一度も借りたことが無い」と綴っている[咸臨丸の実情和船出身の水夫が60人。士分にはベッドが与えられていたが水夫は大部屋に雑魚寝。着物も布団もずぶ濡れになり航海中晴れた日はわずかで乾かす間もなかった。そのため艦内に伝染病が流行し常時14、5人の病人が出た今でいう悪性のインフルエンザか。サンフランシスコ到着後には3人が死亡現地で埋葬された。ほかにも7人が帰りの出港までに完治せず現地の病院に置き去りにせざるを得なかった。病身の7人だけを残すのが忍びなかったのか水夫の兄貴分だった吉松と惣八という2名が自ら看病のため居残りを申し出た。計9人の世話を艦長の海舟は現地の貿易商チャールズ・ウォルコット・ブルックスに託し充分な金も置いていった。ブルックスは初代駐日公使ハリスの友人で親日家だった。受爵の時受爵の時の話を海舟が亡くなった際に宮島誠一郎がこう話している。「授爵の時は伊藤サンから手紙が来た。勝が御受けせぬであろうがドウゾ君の尽力でススメてくれという事で。固より好まない事は知れているがまた固より受けても相当の事と思うから行った。スルト運動に出たという事でおばあさんが出てきて断ったが是非会って申さなければならぬことだからと言って待っていたがドウしても還って来ぬ。ヤット十二時頃になって今帰りましたということであった。それから話すとイツモの調子ではなく厳然としてその受けられぬ訳を答えた。真に功もなく恐れ多いというのだ。なかなかむつかしい。それでこれではイカヌと思ってコッチモ勝流をキメテソウ言った。「勝サンそれはソウダガ私は伊藤サンの使いだ。これが西郷ナラ私も使いにはならんしまた自分で来るだろう。何しろ相手が伊藤サンだからソウイジメないでもイイではないかモウこれで二時だがドウか受けてくれ」と言ったらソレデようやくマトマッタ。」なおこの明くる日の受爵に本人は行かず代理で済ませたようである。亡くなった時の様子について海舟が亡くなる直前の様子について長年女中を務めていた増田糸子がこう話している。「あの日はお湯からお上りなすって大久保の帰るのは(大久保一翁の子供の帰朝)昨日だか今日だっけと仰しゃっただけでそれからハバカリからお出になってモウ褥の方へいらっしゃらずココの所へ倒れていらっしゃいますからドウなすったかとビックリしました。死ぬかも知れないよと仰しゃってショウガ湯を持って来いと仰しゃいましたが間に合いませんからブランデーをもって参りました。油あせが出るからと仰しゃいますのでお湯はその時モウ落としてしまいましたからあちらで取って参りましたからそれで一度おふきなすったのです。それで奥さまに申し上げましてコチラにお出でになりました時にはモウ何とも仰しゃらず極く静かにお眠りでした。」[53]徳富蘇峰との関係徳富蘇峰は明治20年代に赤坂氷川の海舟の邸内の借家(名義は勝の長女の嫁ぎ先の内田氏)に住み勝の教えを受け、海舟を生涯の師の一人と仰いでいる。蘇峰は「勝先生と相見たのは先生の六十歳以後であり、立てば小兵で別段偉丈夫らしく見えぬが、ただ五尺の短身すべてエネルギーというべきもので、手を触れれば花火を飛ばすごとき心地がした。先生が正面から人を叱りつけたことは見たこともなく、聞いたこともなかったが、その上げたり下げたり、人をひやかすことの辛辣手段に至っては、いかなる傑僧の毒話も及ぶところではない。誰でも先生に面会すれば、一度は度肝を抜かれた。先生は何人に対しても、出会い頭に真拳毒手を無遠慮に下した。それを辛抱して先生の訓えを聴かんとする者には必ず親切、丁寧に、手を取らんばかりに教え導いてくれた。」と書き残している[54]。上記のように海舟の人となりを最大限に讃えている蘇峰だが、晩年の勝の放言には閉口することもあったようで、「惜しむらくはあまりにも多弁」とも書き残している。高橋敏は、著書で福澤諭吉が蘇峰の書いた文章を読んで驚き、『瘠我慢の説』を執筆したとしている[55]岡田以蔵の護衛龍馬の推薦で以蔵が勝の護衛をしていた。京の夜道で刺客に襲われた時、以蔵が救っている。[56]その他
新谷道太郎 によれば、「殿様に呼ばれて出ると、『小僧オレの所に何しに来たか』と問われました。『日本一の知恵者の顔を見たいので』と言いますと『だれがオレを日本一の知恵者と言ったか』と言われます。『世間の人が皆申します』と言うと、勝様は嘆息して『それなら、オレは、日本一の知恵者ではない。日本一の知恵者なら、世間の者には分からぬはずじャ、我が知恵を人の前に隠すことが出来ぬようでは、オレは、二流の人物じャ』と言われた」とのこと[57]。
佐久間貞一が若い頃、西郷隆盛を殺そうと勝の紹介状を持って面会に行くとすぐさま西郷にその目的を見破られ、諭された。なぜわかったのか尋ねたところ、紹介状に「この馬鹿者どもが殺しに行くから説教してやってくれ」と書かれていたという(当時、紹介状には封をしないのが礼儀だったがそれには封がしてあり、佐久間たちは中身を知らなかった)。のちに佐久間が印刷所を立ち上げた際、英国より秀でろという意味で勝が「秀英舎」と命名した(のちの大日本印刷)。[58]
語録
勝ちを望めば逆上し措置を誤り、進退を失う。防御に尽くせば退縮の気が生じ乗ぜられる。だから俺はいつも、先ず勝敗の念を度外に置き虚心坦懐事変に対応した。[要出典]
自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。[要出典]
オレは、(幕府)瓦解の際、日本国のことを思って徳川三百年の歴史も振り返らなかった。[要出典]
どうも、大抵の物事は(外部からではなく)内より破れますよ。[要出典]
行政改革というものは、余程注意してやらないと弱い物いじめになるよ。肝心なのは、改革者自身が己を改革する事だ。[要出典]
やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ。(日本の行く末等を心配している人たちに)[要出典]
いつ松を植えたか、杉を植えたか、目立たないように百年の大計を立てることが必要さ。[要出典]
文明、文明、というが、お前ら自分の子供に西欧の学問をやらせて、それでそいつらが、親の言うことを聞くかぇ?ほら、聞かないだろう。親父はがんこで困るなどと言ってるよ。[要出典]
敵は多ければ多いほど面白い。(勝自身も、生きている間は無論、亡くなってからも批判者が多いことは、十分に理解していた)
我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます。(訪米使節から帰還し、将軍家茂に拝謁した際、幕閣の老中からアメリカと日本の違いは何か、と問われての答弁)[要出典]
ドウダイ、鉱毒はドウダイ。山を掘ることは旧幕時代からやって居たが、手の先でチョイチョイ掘って居れば毒は流れやしまい。海へ小便したって海の水は小便になるまい。今日は文明だそうだ。元が間違っているんだ。(足尾鉱毒事件が明白になってもなお採掘を止めない政府に対して)[要出典]
世の中に無神経ほど強いものはない。[要出典]
今までは人並みなりと思ひしに五尺に足りぬ四尺(子爵)なりとは[注釈 24]。[要出典]
世間では(日清戦争を)百戦百勝などと喜んで居れど、支那では何とも感じはしないのだ。そこになると、あの国はなかなかに大きなところがある。支那人は、帝王が代らうが、敵国が来り国を取らうが、殆ど馬耳東風で、はあ帝王が代つたのか、はあ日本が来て、我国を取つたのか、などいつて平気でゐる。風の吹いた程も感ぜぬ。感ぜぬも道理だ。一つの帝室が亡んで、他の帝室が代らうが、誰が来て国を取らうが、一体の社会は、依然として旧態を損して居るのだからノー。国家の一興一亡は、象の身体(からだ)を蚊(か)か虻(あぶ)が刺すくらゐにしか感じないのだ。ともあれ、日本人もあまり戦争に勝つたなどと威張つて居ると、後で大変な目にあふヨ。剣や鉄砲の戦争には勝つても、経済上の戦争に負けると、国は仕方がなくなるヨ。そして、この経済上の戦争にかけては、日本人はとても支那人には及ばないだらうと思ふと、俺は密かに心配するヨ。[要出典]
日清戦争には、おれは大反対だつたよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないじゃないか。たとえ日本が勝つてもドーなる。支那はやはりスフインクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分つたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。一体支那五億の民衆は日本にとつては最大の顧客サ。[要出典]
世間は生きている。理屈は死んでいる。(氷川清話)[要出典]
略年譜
📷前列左からロバート・ヴァン・ヴォールクンバーグ(アメリカ公使)、稲葉正巳、大関増裕。後列左から江連堯則(外国奉行)、石川重敬、勝海舟、松平太郎。
(明治5年12月2日までは旧暦)
天保9年(1838年)7月27日、家督相続し、小普請組に入り、40俵扶持。
安政2年(1855年)1月18日、異国応接掛附蘭書翻訳御用となる。 7月29日、海軍伝習重立取扱となる。 8月7日、小普請組から小十人組に組替。
安政3年(1856年)3月11日、講武所砲術師範役となる。 6月30日、小十人組から大番に替わる。
安政6年(1859年)5月、伊予松山藩が武蔵国神奈川(現在の横浜市神奈川区)に築造した砲台を設計する。 11月24日、アメリカ派遣を命ぜられる。
安政7年(1860年)1月13日、品川から咸臨丸出航。 2月26日、サンフランシスコに入航。 閏3月8日、サンフランシスコを出航。 改元して万延元年5月6日、品川沖に入航。 5月7日、江戸に帰府。 6月24日、天守番頭過人・蕃書調所頭取助となる。石高400石取りとなる。
文久元年(1861年)9月5日、天守番頭格・講武所砲術師範役に異動。
文久2年(1862年)7月4日、二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動。 閏8月17日、軍艦奉行並に異動。役高1,000石。
文久3年(1864年)2月5日、摂海警衛及び神戸操練所運営を委任される。 改元して元治元年5月14日、作事奉行次席軍艦奉行に異動し、役高2,000石。大身となり、武家官位として従五位下に叙され安房守に任官。 11月10日、軍艦奉行を罷免され、寄合席となる。
慶応2年(1866年)5月28日、町奉行次席軍艦奉行に復職。
慶応3年(1867年)3月5日、海軍伝習掛を兼帯。
慶応4年(1868年)1月17日、海軍奉行並に異動。役高5,000石。列座は陸軍奉行並の上。 1月23日、陸軍総裁に異動。列座は若年寄の次座。 2月25日、陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動。 3月13日・14日、薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見。同日、江戸城無血開城。
明治2年(1869年)7月13日、諱を安芳と改める[注釈 25]。 7月18日、維新政府の外務大丞に任官。 8月13日、外務大丞を辞す。 11月23日、兵部大丞に任官。
明治3年(1870年)6月12日、兵部大丞を辞す。
明治5年(1872年)5月10日、海軍大輔に任官。 6月15日、従四位に昇叙。
明治6年(1873年)10月25日、参議に転任し、海軍卿を兼任。
明治7年(1874年)2月18日、正四位に昇叙。
明治8年(1875年)4月25日、元老院議官に異動。 4月27日、元老院議官を辞表を提出。 11月28日、元老院議官を辞す。
明治20年(1887年)5月9日、伯爵を受爵。 12月、従三位に昇叙。
明治21年(1888年)4月30日、枢密顧問官に任官。 10月、正三位に昇叙。
明治22年(1889年)5月8日、枢密顧問官の辞表を提出するが、翌日却下。 12月、勲一等瑞宝章を受章。
明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に当選するものの辞退。
明治27年(1894年)6月30日、従二位に昇叙。
明治29年(1896年)10月27日、枢密顧問官辞表を提出するが、11月4日、却下。山田方谷遺蹟碑の題字を担当。
明治31年(1898年)2月26日、勲一等旭日大綬章を受章。
明治32年(1899年)1月19日、死去。 1月20日、贈正二位。法名:大観院殿海舟日安大居士。
[栄典・授章・授賞]
位階
明治5年6月15日 - 従四位[59]
1874年(明治7年)2月18日 - 正四位[60]
1887年(明治20年)12月26日 - 従三位[61]
1888年(明治21年)10月20日 - 正三位
1894年(明治27年)6月30日 - 従二位[62]
1899年(明治32年)1月20日 - 正二位
[勲章等]
1887年(明治20年)5月9日 - 伯爵[63]
1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[64] 12月27日 - 勲一等瑞宝章[65]
1892年(明治25年)3月5日 - 御紋付御盃
1896年(明治29年)3月28日 - 金盃一個
1898年(明治31年)12月28日 - 勲一等旭日大綬章[66]
[記念館や記念碑、銅像]
📷勝海舟銅像 (墨田区役所うるおい広場)
洗足池(東京都大田区)のほとりに海舟の晩年の邸宅「千束軒(洗足軒)」があったが戦災で焼失した。隣の鳳凰閣(旧清明文庫)は大田区が取得し「勝海舟記念館」として整備した。千束軒跡の傍らには海舟夫妻の墓があるほかその隣には海舟が自費で建設した「西郷南洲留魂碑」がその隣には海舟と西郷隆盛の江戸城無血開城の偉業をたたえた徳富蘇峰の詩碑が建立されている。
「勝海舟生誕地碑」:海舟は父小吉の実家である男谷家で生まれた。現在跡地は両国公園となっており公園内に碑が立っている。
「西郷南洲勝海舟会見之地」碑(東京都港区芝):江戸城無血開城を取り決めた勝西郷会談が行われた薩摩藩邸跡地に建っている。
「勝海舟銅像」(東京都墨田区吾妻橋):墨田区役所(リバーピア吾妻橋)に隣接する「うるおい広場」に2003年7月21日(海の日)今日の東京の発展の基礎を作った海舟の功績を顕彰するために有志(勝海舟の銅像を建てる会)一般からの寄付金などで建てられた。
「勝海舟寓居地」(和歌山県和歌山市船大工町):文久3年1863年幕府より紀州の海岸防衛工事の監督として赴任した際に暮らしていた居宅跡を顕彰する石碑。
[評価]
日本史上稀代の外交手腕と慧眼を備えた政治家戦略家実務家と評し心酔するファンがいる一方理科系の教養に暗く大言壮語する成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。
西郷隆盛 「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にてどれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候英雄肌で佐久間象山よりもより一層有能でありひどく惚れ申し候」
坂本龍馬 「日ノ本第一の人物」
栗本鋤雲 「羞恥心を知らない者」
小栗忠順 「勝は有害な人間である。我は彼を除かんと欲す」
大村益次郎 「どうも勝安房と云う人は大家である。幕府の人には珍しい人じゃ。どうもあの一人は違っている」
福澤諭吉 「やせ我慢をせぬもの」
三浦梧楼 「勝海舟機智の人であったろうが俺は好かぬ人であった」
伊藤痴遊「先生に会ってみるとその態度は余りに無造作であり十年も馴染んだ人の如く少しの隔たりも置かずに叱り付けもすれば教えてもくれる。毒舌風刺は言うも更なり縦横無尽に説き立てる。その調子には少なからず驚かされた。ちょいちょいお訪ねしてみたが難しい事をやさしく話す談論の骨は実に絶妙と言うべく大いに得る所があった。時にはその経歴を聞かされ幕末時代の人物や大きい出来事について軽妙な比喩を交えながら話されるうちには種々の教訓が含まれていた」 「『(自分の先祖は)わしの想像では十五か六歳で僅かの銭を持って国を離れたのであるしそれに生まれつきの盲目ということぢゃからまァ乞食のようなものぢゃったろう。元来小千谷という所が瞽女の本場という事で冬を越してから雪が解ける頃になると破れ三味線を背負って道中を稼ぎながら江戸へ出てくるという事を聞いているから要するにその仲間ぢゃったろう。ハッハッハッ...』偉くなった人は先祖の事を自慢らしく話もすればまた話すほどの先祖がなければわざわざ先祖を拵えて吹き立てるものである。然るに海舟はそんな事に頓着なく先祖は瞽女と一緒に出て来た乞食のようなものだろうと平気で哄笑されたのだからわたしも意外の思いをした」
蘭学への素養を活かして洋書翻訳で得た知見を国内に紹介することで洋式砲術家としての名声を得ていたが上記のように理数系の素養に暗かったこともあって海軍の実務には暗くまた知己を得ていた豪商たちからの影響もあってその海軍論は海軍と海運の区別が不明瞭であるなど西洋海軍の実態にそぐわない観念的な部分が多かった。ただし長崎海軍伝習を通じて頻繁に練習航海を経験していたことから内海沿岸航海についてはある程度の水準に達しており咸臨丸に便乗していたブルック大尉は外洋航行中の指揮には不足な点が多かったとする一方浦賀入港の際の操艦については「非常に巧みに船を操った」と評価している。
このためもあって海軍からも嫌われており文久3年8月16日に軍艦組の頭取以下全員が辞職を楯にストライキを敢行海舟が説得に当たる騒ぎに発展した。また文久3年12月28日から翌4年1月8日にかけて家茂を順動丸に乗せて海路で2度目の上洛を敢行した際途中滞在した下田で乗組員と対立して出発延期を押し切られたり随行した他の船が下田へ戻ったこと日記で盛んに家茂を褒め称えながら他人や他の船などは書かないなど海軍指揮官として問題が多々見られる。
死の3日後氷川邸に勅使がきて勅語を賜っている。
幕府ノ末造ニ方リ体勢ヲ審ニシテ振武ノ術ヲ講シ皇運ノ中興ニ際シ旧主ヲ輔ケテ解職ノ実ヲ挙ク爾後顕官ニ歴任シテ勲績愈々彰ル今ヤ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘン茲ニ侍臣ヲ遣シ賻賵ヲ齎シテ以テ弔慰セシム
[系譜]
小吉
安芳(海舟)
小鹿
知代
四郎
伊代
逸
芳孝
芳邦
精
道子
喜子
静子
中子
当子
[家族・親族]
正妻:民子長女:内田夢(1846年 - ?) - 内田誠故と結婚[80] 次女:疋田孝子(1849年 - ?) - 疋田正善と結婚[80] 長男:勝小鹿 孫:知代、伊与(伊代) 次男:四郎(1854年 - 1866年)[81]
妾:梶玖磨(お久) - 長崎伝習所時代の海舟(34歳~ )に、当時14歳の梶玖磨を妾にする。25歳没。女児:死亡。 三男:梶梅太郎(1864年 - 1925年)…妻:クララ・ホイットニー
妾:増田糸 - 勝家の使用人・安政7年、咸臨丸渡米前に手をつける。三女:逸子(いつこ) - 目賀田種太郎夫人 四女:八重
妾:小西かね(兼) - 赤坂氷川邸で働く使用人。四男:岡田義徴(七郎)[82]
妾:清水とよ - 近所の旧幕臣の娘・清水とよ。この後、暇を与えて香川家に嫁がせて「香川とよ」となる。五女:妙子
妾:森田米子 - 赤坂氷川邸で働く使用人。
嫡男の小鹿は海舟の最晩年に40歳で急逝したため、小鹿の長女・伊代に旧主徳川慶喜の十男・精を婿養子に迎えて家督を継がせることにした。海舟はこれを見届けるかのようにしてこの世を去っている。精は実業界に入り、浅野セメントや石川島飛行機などの重役を勤めた。
義弟:佐久間象山 - 妹・順子の夫。
[子孫について]
孫である次女 孝子の子 疋田輝子は東洋一のサナトリウムと言われた茅ケ崎の南湖院創設者 高田畊安に嫁した。
同じく孫である三女 逸子の子 目賀田多計代はエフェドリンを発見した長井長義の長男で戦前は外交官として活躍した長井亜歴山に嫁した。
財務省事務次官の勝栄二郎および世界銀行副総裁の勝茂夫の兄弟は曾孫に当たるという伝説が、霞ヶ関などで流布されていたが、栄二郎は雑誌の取材に対して海舟との関係を完全に否定している。
[著作等]
回想録として吉本襄による『氷川清話』や巌本善治による『海舟座談』がある。
『氷川清話』は吉本襄が新聞や雑誌をまとめ漢語調や文章体であったものを口語体に統一した上で分類編集し書籍化したものであるが、底本とした原談話から吉本が歪曲改竄している疑いのある個所も多い。江藤淳松浦玲が編集しているものについては吉本が底本とした原談話と比較し歪曲改竄の疑いがあるものについて指摘し解説がなされている。特に『氷川清話』の『第一章 履歴と体験』この中には長崎海軍伝習時代や咸臨丸での太平洋横断、第二次長州征討の講和談判、江戸城開城など幕末を語る海舟の談話が多く載っているがこれに関しては底本となった原談話が少なく、松浦も「校正の腕を振るいにくかった」と書いている。
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『海舟座談』は巌本善治による海舟筆記録で、元は『海舟餘波』として海舟死没直後の明治32年3月に巌本が発行したものを昭和5年(1930年)に巌本自身が日付別に整理し『海舟座談』として文庫化したものである。海舟本人からの巌本による聞き書きで海舟の話し方の細かな特徴まで再現されており、幕末明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることができる。ただし、時局に差しさわりのある発言は『海舟餘波』に載っていたものが『海舟座談』では削られてしまい一部は正反対の意味に書き換えられてしまっている[86]。こちらも江藤・松浦が編纂しているものについては『海舟餘波』などと比較した上で歪曲・改竄の疑いがあるものについて指摘し解説がなされている。また氷川清話についての勝自身の言葉が巌本善治の『海舟座談』にある。
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明治30年(1897年)10月6日の座談「吉本襄が来て、新聞に出た此方のはなしを集めて、『氷川清話』を出版したいと言うた。たいそう困るから、そうさせてもらいたいと言った。勝手にしなさいと言うて置いた。」この言葉に対し巌本善治が「序文はお書きにならぬが宜しいです。新聞に出たのはたいてい間違っておりますから」と言うと「ナーニ目くら千人目あき千人だから構いやしない。吉本はイイやツだよ。少し頑固だけれどネ。」と返している。
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この巌本の言葉から吉本が元にした『氷川清話』の新聞記事そのものからして間違っており、さらにそこに吉本による歪曲・改竄が加わっているのだと考えられる。そのためそれを元にした『氷川清話』に勝の意志や談話が正しく反映されているのだとは言い切れない。同じく『海舟座談』の明治31年1898年10月23日の談話では続々氷川清話のことが載っている。
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「吉本襄がまた『続々氷川清話』を作るといってよこしました。私は、断りましたが、皆んなから、書いたものを集めるそうです」という巌本に対し「そうかエ。もうよせばいいのに。前のでもうかったということだ。尾崎が来てそう言ったから確かだろう。少しも此方は関係しないのだが。この間も二度ほど来たから断わって返した。」
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この言葉から『氷川清話」は著作というよりも海舟のこれまでの談話が載った新聞や雑誌の記事を吉本が海舟の許可を得た上で書籍化したのだろうか。吉本の『たいそう困るから、そうさせてもらいたい』は吉本が金に困っていたということでありその1年後の『続々氷川清話』についての海舟の言葉「前のでもうかったということだ」「少しも此方は関係しないのだが」からは『氷川清話』で吉本に多額の印税が入り続編が出ることになったこととその印税は勝の元には入らなかったであろうことがわかる。
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膨大な量の全集があり、維新史、幕末史を知る上での貴重な資料となっている。海舟は相当の筆まめであり、かなりの量の文章・手紙等が残っている。また父・小吉も自伝『夢酔独言』(平凡社東洋文庫ほか)を書いている。
[著名作(新版)]
『氷川清話』 講談社学術文庫、江藤淳・松浦玲共編。ISBN 978-4-06-159463-0。
『海舟語録』 講談社学術文庫、江藤淳・松浦玲共編。ISBN 978-4-06-159677-1。
『海舟座談』 巌本善治編、岩波文庫、勝部真長解説。ISBN 978-4-00-331001-4、ワイド版も刊 ISBN 978-4-00-007161-1。
『氷川清話』 勝部真長編・解説、角川ソフィア文庫 ISBN 978-4-04-320901-9。旧版角川文庫
『氷川清話 夢酔独言』 後者は勝小吉著、川崎宏編。中央公論新社[中公クラシックス]。ISBN 978-4-12-160135-3。
『勝海舟全集』 江藤・松浦・司馬遼太郎・川崎宏・編集委員(講談社)『勝海舟全集』 勝部・松本三之介・大口勇次郎・編集委員(勁草書房)。各・全24巻
『山岡鉄舟の武士道』 勝海舟評論、勝部真長編、角川ソフィア文庫、1999 ISBN 978-4-04-348501-7。『武士道 文武両道の思想』 大東出版社、1997(新版) 『英傑巨人を語る』 安部正人編、日本出版放送企画[武士道叢書]、1990。 『鉄舟随感録』 勝海舟評論 高橋泥舟校閲 安部正人編、宋栄堂、1943。国書刊行会(復刻)、2001 ISBN 978-4-336-04335-1。
[脚注]
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注釈
^ 現在の東京都墨田区両国の一部。当時の本所亀沢町と現在の墨田区亀沢とは町域が重なっていない。
^ 墨田区立両国公園(両国4-25)内に「勝海舟生誕之地」碑が建っている。また、墨田区役所敷地(吾妻橋1-23)内には勝海舟像が建つ。
^ 現在の新潟県柏崎市の一部。
^ 男谷家は平蔵が継ぎ旗本となり、次男で小吉の兄彦四郎思孝、その次は思孝の従甥で男谷忠之丞の子信友(下総守、剣聖・精一郎)が継いだ[6]。
^ 浅草新堀。現在の台東区元浅草、三筋付近。
^ 後に妹の順子は象山に嫁いでいる。
^ 富田鉄之助作成の年譜で開塾が海舟の父が死んだ同年9月と一緒に記録されているため、年は特定出来ても月日が分からない。また、杉と佐藤の入門時期は佐藤が安政元年10月28日と記録に書かれているが、杉は諸説ありはっきりしない[10]。
^ 第一期から三期まで在籍したことを「勝は成績が悪く、三度落第した」とする文献もある。航海術に必要な数学(算数)が苦手だったようである。ただし、これは反勝派の旧幕臣から出たものであり、事実とは言いがたいという反論もある。オランダ教官からは非常に評価されているとのことである。
^ 妻には「ちょっと品川へ船を見に行ってくる」とだけ言って出かけたらしい[17]。
^ この時の海舟の船酔いについては、実は海舟が何らかの伝染病に罹っており、自らを隔離するために船室に引き籠もっていたとする説もある。
^ 帰路もアメリカ人が乗船したとの説もある。
^ この会議での対応は木村の面目を潰す行為だったが、海舟はなんら気にせずに開陳、11月に再度開かれた会議では無言で通した。以後も木村の対応はぞんざいで、日記では同じ船に乗ったこと、木村と会ったことなどが書かれていない[20]。
^ 神戸は平安時代末の平清盛以来の国際貿易港であったが、それは朝鮮・中国を相手にしたものである。その神戸を西欧諸国との貿易のために活かそうとした点で海舟の提案は斬新だった。
^ この塾頭が坂本龍馬だった。また、塾生には後の外務大臣陸奥宗光や海軍元帥伊東祐亨、元老院議官湯地定基らがいた。
^ 海舟が主張する攘夷は、外国と戦えば負けることを前提に、戦争よりも寧ろ戦後処理を重視している。戦争に負けて天下に攘夷が不可能なことを知らしめ人心を一新、加えて外国と攘夷論者に怯えて消極的な対応しか出来ない幕臣も追放、武備を充実させて世論を統一させた上で改めて外国との条約締結を論じている。これは既に春嶽や小楠が公議政体論と重ねて言っていることで、彼らと同志である海舟もこの種の大開国論者になっていた[22]。
^ 逆にそうでない期間には本など読まなかったとも述べている。
^ 後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担うという説明があるが、松浦はこの説を否定、若年寄に任命された旗本集団(浅野氏祐・川勝広運ら)が事実上幕府の全権を担い(後に一翁も若年寄に就任)、海舟は若年寄を辞退し彼らの下に置かれている事実を強調している。一方、不平分子を退散させるため、新選組の近藤勇・土方歳三らに甲陽鎮撫隊と改称させ甲府城へ向かわせ、古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊を別方面に出発させている[28]。
^ 例えば高橋敏の『清水次郎長と幕末維新』(岩波書店、2003年)などで清水次郎長とその配下に護衛を依頼したとする説を一次資料を提示しない「通説」としてとりあげているが、高橋自身も賛同はしておらず『清水次郎長とその周辺』の増田知哉や藤田五郎、村本喜代作、長谷川昇、戸羽山翰も同様である旨を明記しておく。また海舟と次郎長について交際のあった一次資料はない。同じ3月に街道警護役を伏谷如水から押し付けられた件と混同している向きもある。
^ 海舟自身は日記・座談で明言していないが、津本陽・檜山良昭ら多くの作家が調査のうえ、海舟が知識としては持っており参考にした可能性が高いと論じている。
^ 海舟の政治構想はなるべく400万石を保った徳川の存続を図り、徳川を含めた諸侯から一律の割合で費用を徴収、政治体制は公議政体論の実現を目指した物だったが、上野戦争を経て新政府が旧幕府に妥協する必要がなくなると海舟の構想も頓挫してしまった。失敗の原因である彰義隊について海舟は暴発を防ごうと説得に当たったが失敗、彼らを扇動したとして寛永寺執当の覚王院義観を激しく非難している[36]。
^ 勝海舟は、慶応4年6月3日(1868年7月22日)の日記(『海舟日記』)に以下のように記し、人材不足と時勢への乗り遅れを指摘し、会津藩を非難した。 「榎本和泉白戸石介仙臺米澤の議論を助けて衆評せむと云 我見る所別にあり 此大意を挙て答ふ 當今大事を成すは國の大にあらす人の多きにあらす唯人才に在り 今哉東國人才あるを聞かす 唯大國と人衆を頼みて策略甚疎なり 且小是を守て別に大是あるを知らす 又彼を詳察せす己を斗らす如何そ全勝を算せん哉 誠に鎖国の陋習と泰平の名分を頼みて天下の形勢を洞察せす 會藩忠あるに似て其實は非なり 徳川氏今日の事、會の爲に誤らるる者十にして八九 是を知らすして慢に干戈を起さむとす 亦危からすや 我如何そ是を頼まむ云々」 国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集 第九巻 (海舟日記其他)』153頁 「海舟日記」 慶応4年6月3日 (著者:勝安芳 出版者:改造社 発行:昭和3年(1928年)11月5日) (2018年10月10日閲覧。)
^ 当時、明治天皇の侍従を務めていた山岡鉄舟を介して西郷の赦免、西郷の遺児を江戸に呼ぶことを明治天皇に提案している。その後、西郷の嫡男・寅太郎は明治政府に採用されてポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、庶長子菊次郎は外務書記生としてアメリカ公使館勤務となった。また、西郷の甥で弟・吉二郎の長男の隆準も寅太郎と同行し留学を希望したので、海舟は徳川家から借金をして寅太郎と隆準の留学の際の餞別金350円を手渡している。
^ 作家の山田風太郎は、自身の著書『人間臨終図巻』の中で、海舟のこの言葉を「臨終の際の言葉としては最高傑作」と評している。
^ 当初は子爵の内示だったが、左記の感想を述べ辞退、のちに伯爵を授爵したという説と伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌という説がある。だが、宮島誠一郎が語った上記の逸話を踏まえれば「伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌」という説の方が自然とも言える。勝の身長は実際に五尺ちょっとで、当時の人の中にあっては実際人並みであるが、西郷など長身だった者も維新で活躍した中には多く、その自身の身長に掛けている。事実、勝は自分のことをよく「小男」などと表現している。
^ 新政府への遠慮、旧時代との決別などではなく、7月8日(8月15日)に新政府が「百官受領」を廃止すると布告したため、勝安房(守)が使用できなくなったからである。この布告により名を改めた同様の例として、大目付や箱館奉行などを歴任した織田泉之(旧名は信重。官途名は和泉守)がいる。
^ 数学が必須の海軍伝習で、幕臣関係同期生39人中留年者は勝ほか4人であった[68]。
^ この騒動の結末は書かれていないため不明だが、翌9月に海舟が順動丸に老中酒井忠績を乗せて江戸から大坂へ向かったため、ストライキはうやむやに終わったのではないかと推測されている[78]。
^ 海舟没後、勝家は男子の後継者を法的に定めておらず、女戸主となり一旦爵位を返上している。なお精の代に3回家宝の売立てを行っている[83]。
[出典]
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[関連書籍]
花村奨『勝海舟物語』新人物往来社、 1974年。
勝部真長『勝海舟』 上巻、PHP研究所、1992年。ISBN 978-4-569-53617-0。
勝部真長『勝海舟』 下巻、PHP研究所、1992年。ISBN 978-4-569-53618-7。
江藤淳『海舟余波 わが読史余滴』文藝春秋〈文春文庫(新版)〉、1984年。
松本健一『幕末の三舟 海舟・鉄舟・泥舟の生きかた』講談社〈講談社選書メチエ〉、1996年。
Clark, Edward Warren (1904) (English). Katz Awa: "The Bismarck of Japan," or the Story of a Noble Life". New York: B. F. Buck & Co.. OCLC 236052852
徳富猪一郎『蘇翁夢物語 わが交友録』中央公論新社〈中公文庫(新版)〉、1990年。
大森曹玄『山岡鉄舟』
大森曹玄『剣と禅』
高橋敏『小栗上野介忠順と幕末維新―『小栗日記』を読む』(岩波書店、ISBN 978-4000258883、2013年)
関良基『赤松小三郎ともう一つの明治維新―テロに葬られた立憲主義の夢』(作品社、ISBN 978-4861826047、2016年)
水野靖夫『英国公文書などで読み解く江戸無血開城の新事実 : パークスの圧力はなかった。勝海舟、山岡鉄舟の史実再検証』(山岡鉄舟研究会、2017年)
水野靖夫『勝海舟の罠―氷川清話の呪縛、西郷会談の真実』(毎日ワンズ ISBN 978-4901622981、2018年)
岩下哲典『江戸無血開城: 本当の功労者は誰か? (歴史文化ライブラリー)』(吉川弘文館、ISBN 978-4642058704、2018年)
水野靖夫『定説の検証「江戸無血開城」の真実 西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟』(ブイツーソリューション 2021年) ISBN 978-4434284953
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藤井哲博『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯 : 幕末明治のテクノクラート』中央公論社〈中公新書〉、1985年。ISBN 4121007824。
土居良三『軍艦奉行木村摂津守 : 近代海軍誕生の陰の立役者』中央公論社〈中公新書〉、1994年。ISBN 4121011740。
クララ・ホイットニー 著、一又民子・ほか訳注 訳『クララの明治日記 勝海舟の嫁』 上巻、中公文庫、1996年。ISBN 978-4122026001。
クララ・ホイットニー 著、一又民子・ほか訳注 訳『クララの明治日記 勝海舟の嫁』 下巻、中公文庫、1996年。ISBN 978-4122026216。
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関良基『赤松小三郎ともう一つの明治維新――テロに葬られた立憲主義の夢』(作品社、ISBN 978-48618260472016年)
『英国公文書などで読み解く江戸無血開城の新事実 : パークスの圧力はなかった。勝海舟、山岡鉄舟の史実再検証』(水野靖夫、山岡鉄舟研究会、2017年)
『勝海舟の罠―氷川清話の
呪縛、西郷会談の真実』(毎日ワンズ ISBN 978-4901622981、2018年)
岩下哲典『江戸無血開城: 本当の功労者は誰か? (歴史文化ライブラリー)』(吉川弘文館、ISBN 978-4642058704、2018年)
水野靖夫『定説の検証「江戸無血開城」の真実 西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟』(ブイツーソリューション 2021年) ISBN 978-4434284953
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藤井哲博『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯 : 幕末明治のテクノクラート』中央公論社〈中公新書〉、1985年。ISBN 4121007824。
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クララ・ホイットニー 著、一又民子・ほか訳注 訳『クララの明治日記 勝海舟の嫁』 上巻、中公文庫、1996年。ISBN 978-4122026001。
クララ・ホイットニー 著、一又民子・ほか訳注 訳『クララの明治日記 勝海舟の嫁』 下巻、中公文庫、1996年。ISBN 978-4122026216。
『小栗上野介忠順と幕末維新――『小栗日記』を読む』(岩波書店、ISBN 978-4000258883、2013年)
関良基『赤松小三郎ともう一つの明治維新――テロに葬られた立憲主義の夢』(作品社、ISBN 978-48618260472016年)
『英国公文書などで読み解く江戸無血開城の新事実 : パークスの圧力はなかった。勝海舟、山岡鉄舟の史実再検証』(水野靖夫、山岡鉄舟研究会、2017年)
『勝海舟の罠―氷川清話の呪縛、西郷会談の真実』(水野靖夫、毎日ワンズ ISBN 978-4901622981、2018年)
『江戸無血開城: 本当の功労者は誰か? (歴史文化ライブラリー)』(岩下哲典、吉川弘文館、ISBN 978-4642058704、2018年)
浦辺登著『勝海舟から始まる近代日本』弦書房、2019年、ISBN 978-4-86329-197-3
『会津人群像№43』「勝海舟の補佐役・会津藩士林三郎[西郷頼母]」池月映 歴史春秋社 2022
[関連作品 小説・ドラマ・漫画・ゲームなど。 詳細は「勝海舟が登場する大衆文化作品一覧」を参照 ]
[関連項目]
和田岬砲台 明石藩舞子台場跡 甲南女子大学本源氏物語 江戸時代の人物一覧 幕末の人物一覧 [編集]
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勝安房に関するカテゴリ: 東邦協会の人物
日本の地方議会議員選挙の立候補経験者
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1823年生 1899年没
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岡山日赤地域特定中核殺人病院
hougakumasahiko.muragon.com/entry/667.html
令和3年9月6日岡山日赤病院で発生したコロナワクチン接種後膀胱出血救急入院増成昭二さん密室殺害事件告発状
告発人豊岳正彦
「増成昭二氏殺人犯人「60兆円医療介護保険金詐欺医療法人」日赤岡山病院を組織犯罪処罰法で極刑断罪する全世界公開告発状
masa-ho.blogspot.com/2023/03/blog-post_31.html」
の続報である。
増成昭二氏が死亡したのは令和3年9月6日場所は岡山日赤病院である。
医療法公文書の死亡診断書を作成したのは消化器内科入院主治医原田亮医師。
原田亮医師が初めて増成昭二氏と医療法の入院診療契約を結んだ日は令和3年7月24日。
その日岡山日赤の救急室で、すべてワープロ印字の、
医療法第6条の4に依拠する「説明と同意インフォームド・コンセント」入院診療計画書を、
原田亮医師が作成し、
看護師數藤麻子薬剤師平井淳子同席で、
駆け付けた増成淳氏に説明し、
原田が捺印し増成淳氏に署名させた。
令和3年7月24日岡山日赤病院救急室入院診療計画書の記載をテキストで全文転記する。
-----------------------------------
病棟(病室):救急(851号室)
主治医以外の担当者名:數藤麻子(看護師)、平井淳子(薬剤師)
在宅復帰支援担当者名:空白
病名(他に考え得る病名):急性腎不全
症状:食事摂取不良
治療計画:点滴などにて加療後、胃瘻造設を行います
検査内容及び日程:適宜血液検査などを行います
手術内容及び日程:予定はありません
推定される入院期間:約1-2週間
特別な栄養管理の必要性:無
その他看護計画リハビリテーション等の計画:別紙参照
在宅復帰支援計画:空白
総合的な機能評価:全介助
(主治医氏名)原田亮 捺印・・・ワープロ
(本人・家族)増成淳・・・自筆署名
________________
増成昭二氏は令和3年7月24日救急外来から消化器内科へ入院したが、
救急隊報告主訴は血尿と食欲不振で、
消化器内科に入院して血尿がそもそも治せるかという当然の疑念を誰でも抱くであろう。
しかも原田医師の診断は、急性腎不全である。
治療計画は、点滴と、胃瘻造設。
世界中どこを探しても急性腎不全の救急患者に点滴して胃瘻造設する医者など一人もいない。
点滴は加療ではないし、腎不全患者に点滴や輸血を行えば確実に死亡する。
しかも急性腎不全患者に胃瘻造設することは絶対に治療ではないし、
未治療の急性腎不全患者に胃瘻造設すれば術中又は術後すぐ死亡することは火を見るよりも明らかだ。
医師の医療行為は全て故意である。
自分が患者に施す全ての医療行為について結果を予測できる医学教育を6年以上受けているのだから、
自分が主治医として管理する入院中の患者が、
いやしくも6年間医学のみ勉強した医者たる自分が医療法第6条の10に言う「全く予期せぬ死亡」を遂げるなんてことは、
阪神大震災などの地域が全体崩壊するような大災害時以外ありえない。
医療法は国民受療者のために、医療の安全確保を必ず達成するよう、
医療の最高責任者医者に最大の善管注意「責務」カルテ作成義務を科している。
それが入院診療計画書であり、
医師がこれを善管注意責務を果たして正しく作成せねば、
医療法は入院診療をすること、すなわち国民と診療契約を結ぶこと自体許さない。
こうして医療法は受療者国民の法益「身体生命と私有財産」を、
無知で無能な善管注意義務も憲法すらも知らない愚か者が、
白い巨塔の密室で振るう無法なる殺人兵器の凶器攻撃から守って、
国民すべての医療安全を確保する。
医者はあらゆる機会にその職権に付帯した善管注意義務を知悉通暁していることを、
医療法証拠カルテに正しく表現し
記載して証明しなければならない。
また医師は、良心に従い独立してその職権を行い、
日本国憲法及びあらゆる法律にのみ拘束されて、
医師として神聖な善管注意義務を完全に果たして、
国民受療者の身体生命を医師法第1条に従い最大限の奉仕で守り切らねば、
医師の刑法上の違法性は阻却されない。
これが医療法が規定する医師総指揮カルテ管理チーム医療の実行マニュアルである。
医学部の臨床実習でカルテ記載の善管注意義務を習得しなければ
卒業できないはずである。国家試験でも地雷問題で善管注意義務をわきまえない危険な愚か者を排除して二重チェックしているのだがね。
その医療安全確保上最も重要な医師作成診療記録が「入院診療計画書」カルテである。
令和3年7月24日原田亮殺人容疑者が作成した無惨な医師法第1条違反殺人医療証拠カ
ルテの「入院診療計画書」を、
最高裁判事よりも六法全書のあらゆる法理に通暁知悉した医師豊岳正彦が、
刑法相当因果関係を証明しつつ証拠吟味する。
・吟味開始・
この計画書には
1.病名の虚偽記載、
2.症状の虚偽記載、
3.無効な治療計画、
4.診断上無意味な検査内容日程、
5.入院予定期間の根拠なき設定、
6.総合的な機能評価の根拠が明示されてない。
という、ほとんど全項目が医療法医療安全確保要件違反の詐欺契約書であることを指摘せぬ者はいない。
最初の計画で1-2週間で治癒退院としていたのに、日赤に入院した結果5週後に昭二氏は死亡退院である。
この医療法に完全に無知な医療安全無視診療計画書1通だけで、
無法な医者が致死性凶器を入院中無防備な国民受療者様にふるう故意の第1級殺人行為によって増成昭二氏が故意に治療されず病院内で殺害された刑法相当因果関係が証明され、
殺人は変死なのに病死死亡退院を岡山日赤病院が偽装したことで、
医療法人岡山日赤病院に
増成昭二氏は故意に凶器を以て殺害され、
故意に診療報酬を詐取され生命財産法益全てを棄損されたという事実が証明される。
刑法相当因果関係で説明しよう。
入院中患者の予期せぬ死亡は医師単独の善管注意義務違反による変死であり、
すべての病気を知悉して薬物作用も知悉しているはずの医師が治療
中患者の死亡を予期できないこと自体が
病死でない変死である証明だ。
そもそも一人の個体死亡に病死と変死は絶対に両立しない。
(元気と病気が両立しないのと同じである)
そして医師法第1条医師の任務は一人の病気に苦しむ人が自分と診療契約を結んで病気を治してくれと訪れた時に、全力を挙げて病気を治しもともとの元気な生活を患者様に取り戻してもらうために医師免許がある。すなわち医師の任務はあらゆる病気を滅私奉公で治して病人を元気にすること以外の何者でもない。故に医師の管理下で予期せぬ死亡が起こればすべて変死であり、変死は殺人だから医師が一番殺人犯になる確率が高いのだ。
これを防ぐために最高度の教育で最高度の善管注意義務を医師に科すのだ。
致命傷を与えた凶器は、泌尿器科甲斐誠二が実行した急性腎前性腎不全患者に対する輸血で、
輸血同意書が医療法違反医師法違反の2回目ゆえに前回無効が証明された違法な無目的有害治療であり、
輸血同意書が日赤岡山病院全医師共
謀の医療保険金詐欺契約書という刑法違反保険金詐欺殺人の動かぬ証拠である。この2回目の輸血が増成昭二氏の直接死亡原因になったことは、病理解剖で腎臓ネフロンに全く腎前性腎不全組織が証明されなかったことでも明らかである。
病理解剖所見を冒頭から転記する。
_______
病理解剖診断 剖検番号:A-3060 剖検年月日:2021年9月6日 出所:岡山赤十字病院
診療科:消化器内科 担当医:田中駿二郎、原田亮 主刀:直井友亮 検閲:田村麻衣子
患者:85歳(生年月日1936年1月5日)男性 職業:無職(前職不明) 住所:岡山県
死亡日2021年9月6日12時20分
解剖開始日時2021年9月6日14時56分 死後経過約2.5時間
「病悩期間約3か月」 解剖部位:全身解剖(開頭なし)
________
【臨床経過】現病歴:死亡3か月前より食事摂取不良と尿閉を認め、尿道カテーテルを留置されていた。尿道カテーテル自己抜去後から血尿が見られるようになり、当院泌尿器科紹介となった。精査の結果、血尿の原因としては尿道損傷と膀胱広範囲にわたる「慢性炎症」(意見:急な血尿に慢性膀胱炎が関与しているなら抗生物質治療だけで血尿が治まるはずで、最初の甲斐医師の入院診断が腎不全というのは明らかに誤診で輸血の必要性が全くないばかりか、腎不全患者に輸血は禁忌であり、同意書を取って輸血したことは甲斐医師と辻尚志医師の連名署名があるから日赤病院全体の増成昭二氏に対する故意の暴行傷害殺人罪が刑法相当因果関係によって確定する。一体日赤病院の医師免許は全員医学部卒業レベルにも達していないが、本当に医師なのか?それどころか本当に人間なのかさえ根本的に疑わねばならん。)とされ、尿閉の原因としては前立腺肥大症も関与していると考えられた(意見;急な尿閉に前立腺肥大が関与しているはずが無かろう)。対症療法で経過フォローされていたが、腎機能悪化が見られるようになり死亡した(意見;感染症や敗血症は根治療法が第一選択で、対症療法なら必ず経過中早期死亡する。対症療法フォローは救急中核病院指定を受けた日赤岡山病院医師全員の共謀確定殺意が証明される医療法医療安全確保責務違反であり、組織的故意に基づく刑法199条殺人罪が成立する。)。
既往歴:脳梗塞(右片麻痺、失語症)、肺気腫、高血圧、慢性膀胱炎(意見:病悩期間が書いてないのになぜ慢性だとわかるのか。君らの診断は皆医学部卒業レベル以下である。)、胆のう摘出術後
臨床診断
1.慢性膀胱炎
2.腎不全
3.低栄養状態(胃瘻造設後)「意見:低栄養状態改善目的で胃瘻造設したにもかかわらずその後に低栄養の改善がなかったのは全身の感染症管理ができていない為である。)
_________________
「病理解剖診断」
主病変:敗血症状態
(a)尿路感染症
(b)化膿性肺炎
(c)播種性血管内凝固症候群(DIC)
___中略____
総括「意見:腎不全は死因ではないと言いつつカルテも説明も腎不全で亡くなった死因「腎不全」としているが、腎不全が死因になるのは末期尿毒症しかない。尿毒症もDICも生存中の生体検査でのみ診断され病理解剖で証明されない。よって腎不全は病理解剖でも存在せず。ゆえに腎不全はそもそも尿毒症以外死因ではありえない。
この病理解剖所見の記載にも偽証が見られる。膀胱と尿路の病変について出血がいこい荘にてコロナワクチン接種直後の6月から発症したことについて病理組織の検討がなく納得できる説明がない。」
以下略別紙添付書証参照
_____________
死亡診断書
令和3年9月6日 医師 原田亮
死亡の原因I
(ア)急性腎不全 発病から死亡まで約1か月{意見:岡山日赤救急室7月10日すでに甲斐医師のカルテに腎不全とあり、よって発症から死亡まで約2か月と書かねば偽造}
(イ)尿路結石、慢性膀胱炎 発病から死亡まで不詳{意見:いずれも通常抗生物質で治るまで加療するため入院中死亡原因になりえないから、これも偽造}
手術 無 ―{意見:胃瘻造設術施行したのに無とするのは偽造}
解剖有 主要所見 両側尿路結石、両側腎結石、水腎症、肺水腫{意見:水腎症も肺水腫も生態で診断する病名だから解剖所見として死因の項に書くのは不適当→偽証}
______________
結論:この死亡診断書は記載した死因が以上の如く全て不正であるため、
岡山日赤消化器内科原田亮医師の公文書偽造行使罪が確定した。
鑑定医:豊岳正彦
これゆえ
医療法第6条15以下の医療事故調査機関である医療事故調査・支援センターに、
増成昭二氏に対する日赤岡山病院の不正な保険診療全てについて、
あらゆる医師が刑訴法239条2項犯罪告発責務に従い、
医師法違反且つ刑法違反且つ医療法違反且つ憲法違反の申し立てを行わねば、
明らかに刑訴法239条2項に違反する犯罪者である。
以上、
医療法医療安全確保責務違反の日赤岡山病院が、
厚労大臣が認める医療法人の要件に100%不適格で、
厚労大臣により医療法人指定取り消し処分相当であると証明した。
また同時に、医療法第40条の2が医療法人の収益源として指定する有価証券カルテの、
岡山日赤病院医師管轄カルテ不実記載「公文書偽造行使医療保険金介護保険金診療報酬詐欺犯行」を、
カルテ証拠の刑法相当因果関係で詐欺犯人を明らかにすることによって、
全世界万人に岡山日赤病院が保険金詐欺殺人犯罪組織であると証明した。
鑑定医 豊岳正彦
_____________
医療法違反カルテ偽造が組織的憲法99条違反刑法極刑汚職犯罪であることの補足説明
昭二氏は死亡退院となった日赤入院の2か月前7月10日にすでに主訴血尿、食欲不振で岡山日赤の救急外来を救急車搬送受診してそのまま泌尿器科甲斐誠二主治医作成「ワープロ印字入院診療計画書」の元に入院し同日輸血を受け出血症状全身状態悪化して甲斐誠二が治療放棄し入院診療計画すべて破棄して7月24日無法に退院させている。全身状態悪化で退院させることを刑法で故意の殺人というのだ。さらに甲斐誠二は一回目のみならず2回目消化器内科入院でも1回目に全く止血無効だった輸血を行い患者を入院死亡させた、六法全書によれば医師法第1条違反戦争兵器を用いた憲法9条違反戦争犯罪テロリスト殺人犯。
証拠の7月10日甲斐誠二作成入院診療計画書を示す。
甲斐は泌尿器科ではないただの無知犯罪者だ。
____________
・病名:血尿!(血尿という病名はない)
・症状:血尿
・治療計画:尿道カテーテル、洗浄して出血をコントロール後に、出血の原因を調べます
・検査内容及び日程:採血、膀胱鏡等
・手術内容及び日程:予定なし
・推定される入院期間:1週間
・特別な栄養管理の必要性:無
・その他看護計画リハビリテーション等の計画:看護計画参照
・在宅復帰支援計画:空白
・総合的な機能評価:空白
_____________
との内容で、令和3年7月10日に日赤病院に駆け付けた増成淳氏に同書類を提示しワープロ印字甲斐誠二捺印して増成淳氏だけ自筆署名させた。
この入院診療計画書が医療安全確保目的の医療法依拠インフォームド・コンセントであるが、
その内容には医師の不実記載しか証明されないのであり、
明々白々な医療法違反公文書不実記載行使医療保険金詐欺契約の偽計を用いた
医師法第1条善管注意義務違反の憲法36条違反暴行障害陵虐重大刑事犯罪である。
医療法は保険医療機関を受診する受療者国民の医療安全を確保するために、
保険医療機関の医師が診療契約提示する最初の行為に厳重な善管注意義務を科して、
受療者国民が医師と病院の不法行為により身体生命財産法益を棄損されることを予防しているのであって、
医療という常に生命の危険を伴う刑法違反通常業務を行うに際して、
医業において最も大切なカルテ証拠である診療契約書に、
医師の良心と誠実な善管注意義務を信頼して診療契約を結びに来た患者国民の、
医療安全に対する信頼を裏切る虚偽記載「入院診療計画」通り
違法かつ危険な医行為を患者の身体に加えれば受療者国民の身体生命は直ちに失われるのである。
刑法相当因果関係は、
被害者死亡の変死体が在るとき、
直ちに検察官が刑訴法229条検視を行わねばならぬとしている。
医師は検視を行ってはならない。検視は犯罪捜査である。
変死が犯罪の結果であれば、犯罪現場にいる者は全員容疑者なのだ。
医師もまた変死を発生させた犯人容疑者である。
犯人に検視させれば誰でも証拠隠滅するのは自明の理である。
医療法第6条の10「予期せぬ死亡」は医師に限ってすべて予見可能である。
6年以上医学を修めて予期せぬ死亡など、医師どころか人間失格に等しい犯罪だ。
無知は明白に法治社会で罪なのである。
甲斐医師とすべての日赤医師は「血尿」という病名が世界のどこにも存在しないことを、
国家試験合格した医師としてあるまじきことだが全員が知らないから、
医療法の大原則「医療安全絶対確保」神聖な責務に違反して不正なカルテを作成し、
チーム医療を破壊して、
受療者国民の生命を医師のみが違法診療で奪って、
全国民が納税形成した医療保険金60兆円支払基金に対し、
無法な密室拷問虐待殺人の非道な診療報酬支払いを、
厚顔無恥に全額水増し粉飾不正請求し、
詐欺契約で入院させた受療者全員に対する60兆円医療保険金介護保険金詐欺を犯行し、
病院密室で国民を殺害し続けている。
増成昭二さんの入院診療計画書不実記載犯行により、
厚労省医政局と保険診療病院共謀共同正犯の汚職、
インサイダー保険金詐欺税金詐欺組織的殺人、
すなわち刑法77条81条内乱外患誘致国家反逆犯行が、
刑法相当因果関係で加害者凶器被害者全て証明された。
日赤の電子カルテはすべて公文書偽造だ。
電子カルテ採用病院はすべて同罪。
西洋医学の医師と病院は、
組織的犯罪処罰法第3条医療保険金詐欺計画的医療殺人常習国家反逆テロ組織として、
日本国刑法が日本国憲法98条99条最高法規違反汚職の罪を以て、
憲法37条迅速に全世界公開して極刑断罪するのだ。
勿論増成昭二さんを直接殺害したのは、
2回の救急入院の主訴尿路出血を、
入院治療のたびに悪化させ最初は治療放棄計画殺人で退院させ、
最終的に入院密室内において無用の輸血で変死させたのに、死体検案書を出さず刑訴法229条検視を要請せず、変死体に必ず必要な検視をせぬまま悪意ある病理解剖で死体損壊し変死殺人証拠隠滅を組織的に図ったものであることも、病理解剖所見を鑑定した結果犯罪を証明した。
次に、死亡診断書公文書捏造したのは岡山日赤病院だが、
そもそも健康だった増成昭二さんが、
突然尿路出血を発症したのは、
刑法相当因果関係の時系列で、
中谷紳経営いこい荘で、
保護者増成淳氏に無断で接種同意書を偽造した中谷伸が、
コロナワクチン2回接種した2回目直後から、
増成昭二さんの人生全ての病歴で初めての尿路出血が始まったから、
検死報告の第一死因は尿路出血腎不全診断に対する致死性輸血だが、
結局最終的に治療できぬまま3か月後に致死に到った尿路出血を惹起せしめた原因凶器が、
中谷伸がいこい荘入所者様に同意書偽造違法行為で用いたコロナワクチン致死性劇薬指定注射液であることは、
刑法相当因果関係で100%証明した。
山下医院山下良孝は増成昭二氏死亡には関係しないが、
中谷紳岡山日赤病院共同共謀正犯の医療法違反保険金詐欺組織的殺人犯罪の医療法違反に加担した罪で同罪である。
中谷紳と共謀して刑訴法239条2項犯罪告発責務を放棄して、劇物指定注射殺人を告発せず隠蔽した弁護士森脇正も同罪。
(人体に用いれば直ちに殺人罪が確定する薬事法劇物指定薬物の一覧をアドレス転記する。)
https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=81097000&dataType=0
致死性毒物注射偽計威迫接種を共謀共同正犯した犯罪者は刑法199条にて処罰する旨六法全書に書いてある。刑法9条付加刑も執行。
犯罪者はすべて六法全書と争え。
司法公務員が六法全書に違反すれば直ちに刑法極刑77条内乱罪で現行犯逮捕裁判不要直ちに公開処刑と六法全書にある。
極刑は情状酌量なし時効なし。
六法全書によれば、自首自供のみ1年間極刑の執行を猶予するそうだ。
付加刑の全財産没収は避けられないが、
山寺へ出家して寺にこもって修行すれば犯罪を犯すこともなく長く生きることもできよう。
自首自白せよすべての犯罪者、命を保ちたいならば。
豊岳正彦文責。令和6年10月15日初稿記す
______________________
補追
カルテの医療法上正しい作成法は以下を参照せよ。
60兆円医療保険金詐欺殺人組織を組織犯罪処罰法で極刑断罪する
masa-ho.blogspot.com/2023/03/60_27.html
なお、豊岳正彦が原告側鑑定医を受任した
本件裁判記録はさいたま地裁医療裁判記録にある。
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能登応援投稿
防人司 20241015
youtube.com/shorts/cDYzwxbZrkU
豊岳正彦
facebook.com/groups/20240921notohantouhokubugouu/posts/534604549181046/?comment_id=535027395805428
豊岳正彦
政府は直ちに50兆円能登に無償で投入せよ!財源は厚労省が水増し粉飾不正使用している60兆円予算から直ちに50兆円能登へ振り替えればよい。病院は救急外科以外不要である。厚労省予算は10兆円あればお釣りが来て労働行政もリストラできるのだ。
「ラシャメン立国論」大菩薩峠中里介山青空文庫
戦後パンパンガールと呼ばれ米兵に体を売った娼婦たち【大東亜戦争】【太平洋戦争】戦争議事録TV
youtube.com/watch?v=fViVhDsj5JM
豊岳正彦
幕末日本にアメリカ人に対する売娼があった。軍法「ラシャメン立国論」。
中里介山大菩薩峠をテキスト読み上げで聞いてみよ。
aozora.gr.jp/cards/000283/files/4342_14330.html
・
お絹という名を呼ばれたその瞬間からはじまったらしいのです。
そんなことにお気のつかない金公は、いい気になって、
「全く以てあのマダム・シルクときた日には、いつ、どこへお年をお取りなさるんだかわかりません、たまらないものでげす、ぶち殺してやりたいようなもんでげす」
と、ベラベラ附け加えてしゃべってしまったので、神尾の三つの目がまたも炎を出しながら、クルクルと廻転しました。
「びた公!」
と言った神尾の権幕の変っているのに思わずゾッとした鐚助は、それでも、これは食べつけている例の病気だなと、甘く見ることをも心得ているものですから、さあらぬ体ていで、それをあやなすつもりで、
「何事でげすかな」
「あの絹という女は、ありゃ、今では真実ラシャメンになりきっているのか」
「いや、これはこれは、事改まって異様なるおんのうせ」
扇子でピタリと自分の頭を叩いて言いました。
「お絹様――ペロに翻訳をいたしましてマダム・シルク――あの方が、真実正銘のラシャメンになりきったかとの御尋ね、これはほかならぬお殿様のおんのうせとしては甚はなはだ水臭い」
「野のだわ言ごとを申さず、はっきりと白状しろ、あの女は、このごろは異人館へ入りびたりだ、ちっともここへは落ちつかない」
「そりゃそのはずでございます――お絹様は遠大なる目的を以て、異人館に乗込んでいらっしゃる、その遠大なる目的の、遠大なる所以ゆえんに至っては、どなたよりも、こちらの殿様が御承知のはずでいらっしゃる、それをいまさら改まって、お絹はラシャメンになりきったのか、キシメンにのしきったのかというようなお尋ねは、いささか水臭いおたずねじゃないかと、びたは心得ます」
「うむ――それはそんなものかも知れないがな」
と神尾は、強しいて癇癪をおしこらえるように、言葉を胸の中へ一ぺん送り返して、また言いました、
「そりゃ、そんなものかも知れないが、世間には木乃伊ミイラ取りの木乃伊というのがある」
「これはまた我々共を御信用ないこと夥おびただしい、いささかな邪推、中傷……マダム・シルクに限って――それに参謀として目から鼻へ抜けるボーイの忠作君、また物の数ならねどかく申す鐚助」
「そいつらがみんな甘いものだ、なめたつもりで総なめに舐なめられるなよ、毛唐けとうの方が役者が上だ、毛唐とはいえ、あいつらは海山を越えて、嫌われ抜いているこの国へやって来て仕事をしようという奴等だ、貴様たちの手に乗るような甘口ばかりじゃない、日本の国を覘ねらって来る奴等だ、貴様たちの一人や二人丸呑みにするのは、蛇が蚊を呑んだようなものだ。それを思うと、あの女をはじめ貴様たちをあいつらに近づけたのは、こっちの大きなぬかりだ、うっかり甘口に乗った神尾主膳ののろさ加減を、今つくづく考えていたところだ。毛唐を舐めてものにしてやろうと企んでいる奴等が、舐められている、貴様も舐められている、お絹なんぞは、頭から尻尾しっぽまで舐められている――」
こう言って、神尾主膳の三つの眼が勢いを加えて、また乱舞をはじめました。
百二
「それが、いけやせん」
と鐚は扇子を斜しゃに構え、
「すべて、敵をはかるは味方より、というのが軍法の極意でげして、従って敵を舐めんとすれば、まず味方を舐めさせて、甘いところをたっぷりと振舞って置くのが寸法でげす。いかにも仰せの通り、海山を越えて、この尊王攘夷そんのうじょういの真只中へ乗込もうて代物しろものでげすから、たとえ眼の色、毛の色が変りましょうとも、一筋縄の奴等じゃあがあせん、うっかりしていた日には、日本の国の甘い汁という汁はみんな吸われて持って行かれちゃいやす。現に近代に於ても、性しょうのいいところの日本の国の金銀を、どのくらいあの奴等に持って行かれたか、数えられたものじゃあがあせん――どうして、船にいたせ、機械にいたせ、あちらとこちらとでは段が違いやして、太刀打たちうちができる相手じゃあがあせん。現に相州の生麦村なまむぎむらに於て、薩摩っぽうが無礼者! てんで、毛唐を二人か二人半斬ったはよろしいが、その代りに、みすみす四十四万両てえ血の出るような大金を、異国へ罰金として納め込まにゃなりやせん。長州の菜っぱ隊が、下関で毛唐の船とうち合いをして、日本の胆ッ玉を見せたなんぞとおっしゃりますが、その尻はどこへ廻って参りましょう、みんな徳川の政府が、このせち辛い政治向のお台所から、血の出るような罰金として、毛唐めに納めなきゃあならない次第でげす――そこへ行きますてえと、何といってもエライのは日本の絹と、ラシャメンでげすよ、日本の絹糸はどしどし毛唐に売りつけて、こっちへ逆にお金を吸い取って来る、それからラシャメンでげす、ラシャメンというと品が下って汚いような名でげすが、名を捨てて実を取る、というのがあの軍法でげしてな」
金公は抜からぬ面かおで、いつもの持論をまくし立てる。
今の日本人は、毛唐に対して、威張れば威張るほど損をする。威張っている上流の人間ほど、毛唐から借金をしたがったり、毛唐に罰金を取られたがっている。
それに反して、日本の絹糸を売り込みさえすれば、毛唐は喜んで高金を出して買って行く。それがために、どのくらい日本へ金が落ちるか知れない。
それと、もう一つは、この鐚助独特のラシャメン立国論で――こいつが臆面なく喋しゃべり立てるラシャメン立国論というのは、つまり次のような論法である。
露をだに厭いとふ大和の女郎花おみなへし降るあめりかに袖は濡らさじ――なんてのは、ありゃ、のぼせ者が作った小説でげす。
拙せつが神奈川の神風楼しんぷうろうについて実地に調べてみたところによると、その跡かたは空くうをつかむ如し、あれは何かためにするところのある奴がこしらえた小説でげす。
事実は大和の女郎花の中にも、袖を濡らしたがっている奴がうんとある。毛唐の奴めも、女にかけては全く甘いもんで、たった一晩にしてからが、洋銀三枚がとこは出す。月ぎめということになるてえと、十両は安いところ、玉によっては二十両ぐらいはサラサラと出す。そこで、仮りに日本の娘が一万人だけラシャメンになったと積ってごろうじろ、月二十両ずつ稼かせいで一年二百四十両の一万人として、年分二百四十万両というものが日本の国へ転がりこむ。これがお前さん、資本もとで要らずでげすから大したもんでげさあ。というような論法が、こいつのラシャメン立国論になっている。
百三
「ねえ――殿様、さいぜんも槍のお話が出ましたことでげすが、昔はそれ、槍一本で一国一城の主ともなりました、お旗本の御先祖様なんぞは大方はそれでげす。ところが、当今になりましては、もはや槍一本で一国一城の主というような夢は、歴史が許しませんでげしてな」
鐚びた公は、しゃあしゃあとして、高慢面に喋りつづける。
「その一国一城てのが、当今はみんな心細いものでしてな、お台所をうかがいますてえと、大大名といえども内実は、みんな大町人に頭が上らないんでげすからな、借金だらけでげすよ、勤王方も佐幕方も、台所方は似たりよったりでげす、表はお家柄の格式で威張っていても、蔭へ廻ると、大町人のお金の光にはかないません、みじめなもんでげすよ――将来は金でげすな、もう槍先の功名こうみょうの時代じゃあがあせん」
そこで大きく金を儲もうけるためには、どうしても、いやな毛唐と取組まなければならない。毛唐と取組むには、女に限る――
要するに一つの軍法だ。
それともう一つ、いま築地の異人館へボーイに住込ませて置く忠作という小僧が、あれがまたなかなかのちゃっかり者で、ボーイに身をやつして、毛唐の趣味趣向から、その長所弱点をことごとく研究中である。そこで、マダム・シルクを先鋒として、忠作を中堅に、我々が後援で、異人館を濡手で乗取ってしまうのも間近いうち――まずそれまでは、しばしの御辛抱――というようなことを、鐚助が口に任せてベラベラとまくし立てるのは例の通りで、神尾といえども、こいつらの軽口にそのまま乗ってしまうほどの男ではないが、そういう話を聞かされるうちに、またまた癇癪かんしゃくが多少緩和されてきて、頭の中は雨時のように、曇ったり晴れたりするが、そのむしゃくしゃの原因がきれいに拭い去られたわけではない。
「鐚公、貴様の能書と講釈ばかりを、いい気になって聴いているおれではない――おれにはおれで野心があるのだ、いいか、今日はひとつ、いやが応でもそれを切出すから、貴様ひとつ手配をしてみろよ」
「もとより、殿の御馬前に討死を覚悟の鐚助めにござります」
「ほかではない、今時はラシャメンが流行はやる、なるほど、貴様の言う通り、ラシャメンで国を富ます方法もあるかも知れない、そんなことがいいの悪いのと、貴様を相手に討論するおれではない、ラシャメンをするような腐れ女に、金を出したい毛唐は出せ、ラシャメンになってまで金が欲しい女はなれ、おりゃ、かれこれと子しのたまわくは言わねえ――だが、毛唐めが日本の女を弄もてあそんでみたいのも人情というやつなら、日本の男も毛唐の女をおもちゃにしてみてえというのも人情だろう――おれは万事、むしゃくしゃする胸の中を、相身互いとして納めてみたいんだ。いいか、おれも今まで、遊びという遊びはおおかたやったよ、人間のする道楽という道楽も、一通りや二通りはやってやり尽したが、まだ毛唐の女を相手にしてみたことはないんだ。いいかい、お絹という女は、おれの見る前で、いい気で毛唐をおもちゃにしていやがる、おれも、毛唐の女と遊んでみたいというのは無理かい。貴様ひとつ取持て――」
「えッ?」
「誰彼といおうより、築地の異人館のあの支配人てえやつの女房を、おれに取持て」
「えッ?」
百四
「えッ」と金公は、主膳の一文句ごとに仰山らしくクギリをつける。神尾は物凄い顔をしてつづける。
「日本へ来ている毛唐の奴は、見ゆる限りの日本の女を択り取りだ、こっちの人間は毛唐の女に対してそうはいかぬ、相手にしたくとも、こっちへ来ている毛唐の女の数は知れている、択り好みするわけにはいかねえのだから、見たとこ勝負だ、一昨日おととい異人館で見た、あの支配人のかかあというのがよろしい、いいも悪いもない、あれに決めた、貴様、あの毛唐の女房とひとつ、水入らずで一杯飲めるように取持ちをしろ」
「これは奇抜でげす、ズバ抜けた御註文でげす、さすがの鐚びた公、すっかり毒気を抜かれやしてげす」
「どうだ、いやとは言えまい、こっちからお為ごかしにお絹を連れ出して、異人館へハメ込んで置くのを大目に見てやっている以上は、あっちから相当の奴を、こっちへ廻させる、それが交易こうえきというものだ――交易の講釈は貴様がお師匠で、飽きるほど聞かされている、いやとは言えまい」
「いやどうも、敵すべからずでげす、何とあいさつを致していいか、鐚助、このところ返答に窮す」
「窮することはない」
「弱りましたな」
「弱ることはない」
「とにかく――その、殿様、殿様のおっしゃるところにも、そりゃ一理あるにはありますが、どうもはや……とにかく、女房はいけませんよ、主ある女はいけません、何でしたら、そのうちいいのを物色いたしまして、殿様のお望みを叶えることに致しやしょう、そう短兵急におっしゃられては困ります」
「逃げ口上は許さぬ、おれがいったん口に出した以上は、横にでも、縦にでも、車を押切るのだ」
「でも、人の女房はいけません、主ある女はいけません――ほかに」
「なぜ、いけない」
「なぜとおっしゃりましても、売り物買い物なら、それは差支えございません、素人しろうとでございましても、色の恋のというまでもなく、得心ずくでしたら、そりゃ横恋慕よこれんぼもかなうことがございましょう、毛唐とはいえ、れっきとした商館の女房を取持て――こりゃ御無理でござんしょう」
「無理でない」
「無理でないとおっしゃるのが、無理の証拠でござんしょう」
「無理でない――なるほど、こっちの倫理道徳から言えば無理かも知れないが、毛唐の奴には無理でない」
「毛唐と申しましても、人間の道に二つはございますまい」
「ある、二つも三つもある、毛唐は即ち外道げどうなんだ、聞け、鐚公、こっちでは、娘のうちももとより、女の貞操というものを重んずるが、女房になってからは絶対的だ、娘のうちは多少ふしだらをしても、どうやら女房に納まった後は不義をしない、また売女遊女の上りでも、人の女房となれば、日本の女は貞操を守るというのが習わしだ、ところが、毛唐の女は違う、娘のうちは存外品行が正しいが、女房になってからかえって貞操を解放する習わしだと聞いている、もちろん、みんながみんなそうではあるまいが、毛唐の方では、比較的自由であると聞いている、だから、人の女房でも、存外たやすくものになると聞いている――おれが知っているそのくらいの風俗を、貴様が知らないはずはあるまい、どうだ、真剣に返事をしろ」
主膳の三ツ眼が青い炎を吹いている。
百五
金助改めびた助は、こういう場合に、主膳の意に逆らうような文句を以て応酬することの、かえって火に油を注ぐようなものであることだけはよく知っている。
そこで、忽たちまちに論法を一変してしまって、ことごとく神尾の言い分に同じてしまいました。そうして、毛唐なんていうものは、要するに獣の部類に属するもので、お体裁ばかりは作っているが、その実、人倫なんぞは蹂躙じゅうりんしてかまわない、その証拠としては、衣冠束帯などの儀式を知っているものは一人もなく、男はみんな仕事師同様の筒っぽを着ている。
女は鳥の毛や毛皮を好んで着たがるが、それは今いうところのお体裁ばかりだから、室内にいる時は裸になりたがる。ごらんなさい、毛唐の女の絵といえば、八分通りはみんな裸でげすからな。裸になれと言えば、どんな高尚な奥様でも裸になるばかりか、その裸姿を絵に描きたいからと言えば、どんな高尚な奥様でも二つ返事で、その裸を描かせてくれる。そればかりじゃがあせん、その裸の姿を、大勢の見るところの書画会かなにかへ持って来てさらしものにすると、どんな高尚な奥様でも、御当人嬉しがること、嬉しがること。
そこへ行くと日本の国の女なんぞは、肌を人に見られると舌を噛かんで死んでしまう。たいした違いでげす。日本の女は肌をさらしものにされることを恥辱と心得ているが、あちらの方は、素裸を社会公衆の前にさらしものにして、それが御自慢なんでげす。つまり、人間のこしらえた衣裳なんぞを引っかけたのでは天真の美を損ずる――わが女房の一糸もかけぬ肉体をごろうじろ、この通り天の成せる艶麗なる美貌――テナわけでがあしてな。
でげすから、なあに、商館の番頭の女房といえども、支配人の細君といえども、話の持ちかけようによっては、どうにかならない限りはがんすまい。びた一代の知恵を搾しぼって、腕によりをかけてごらんに入れますから、少々お気を長くお待ち下さい。そもそも兼好けんこうほどの剛の者がついておりながら、高武蔵守師直こうのむさしのかみもろなおが塩谷えんやの妻でしくじったのも、短気から――すべて色事には短気がいちばんの損気。
というようなおべんちゃらを、びた助が繰返して、またともかくも神尾主膳を一応まるめ込んでしまいました。
さて、それからようやく、金助改めびた公が、今日ここへ神尾をそそのかしに来た来意のほどを申し出る段取りになりましたが、その問答は、
「時に、今日は例の悪食あくじきの御報告を兼ねて推参、ぜっぴおともが仰せつけられたい――ところは三輪みのわ町の金座――時間は正七ツ――」
ということの誘いでした。
「行こう」
神尾が一議に及ばず賛成したものですから、
「有難え――」
と仰山ぎょうさんらしく、びた助が自分の頭を叩いて、そうして、駕籠かごを、乗物をというのを断わって、神尾が、
「三輪までは一足だ、ブラブラ歩こうではないか」
「結構でげす、金座へ向けてブラブラ歩き、これが当時はやりの金ブラでげす」
神尾主膳は、縮緬ちりめんの頭巾を被かぶって三ツ眼の一つにすだれをおろして、一刀を提げて立ち上ると、びたはころころしながらその後について、外へ出かけたのですが、その目的地は今もびた公が言った通り、三輪町の金座――というところであり、その目的は悪食――にある。けだし、相当のものであろうと思われる。
百六
金助改めびた公が、神尾主膳をそそのかして外へ引っぱり出しました。びた公がそそのかした建前たてまえを聞いてみると、今日の正七ツ時――悪食の会、ところは三輪の金座――というところになっていて、神尾もそれを先刻御承知のもののように、一議に及ばず出動ということになったのだが、悪食の会は悪食の会でよろしいとして、三輪の金座とはどこだ。
金座といえば、一昨年焼ける前まで、日本橋の金吹かねふき町に在あったはずだが、それが、三輪方面へ移転したという話は聞かない。では、銀座の間違いではないか。銀ブラ――道庵先生でさえハイキングをやる世の中だから、この両デカダンが銀ブラを企てることもありそうなことではあるが、当時にあっても銀座といえば、やっぱり京橋から二丁目あたりの地名ではあるが、電車も、バスも、円タクもない時代に、根岸からではブラブラの区域にならない。
果してこの二人は、江戸の中心地を目指して進んで行くのではなく、根岸から東北へそれて行くのは、当然、びたが先刻言明した通りの、三輪あたりを志すものに相違ない。根岸から三輪ならば、相当のブラブラ区域です。
神尾主膳も一議に及ばず、びたの勧誘に応じて出動したくらいですから、最初のほどはかなり気をよくして、ブラブラ歩き出したものですが、そのうちに、またも気色きしょくを悪くしてしまいました。
それは、あの辺には、寺と、広い武家屋敷とのほかに、百姓地が多くある。それからまた、千住せんじゅから三輪街道のあたりは、かなりの百姓街道になっている。
もとより、往来するものは百姓だけではないが、あいにく、この日に限ったことではないが、近在の百姓連が多く、それも、神尾の姿を見て、多少の畏憚おそれを以て行き違うものもあるが、どうかすると、あぶなく突き当りかけて、かえってこっちの間抜けを罵ののしり顔に過ぎて行くものもある。
その百姓を見る時に、神尾の気色がまた悪くなりました。
神尾は生れながら、百姓というものは人間でない――ものの如く感じている。
それは、当然、階級制度の教えるところの優越性も原因することには相違ないが、それほど神尾というものが、百姓を、忌み、嫌い、呪うというのは、別にまた一つの歴史もあるのです。
それは、神尾の先祖が、百姓を搾しぼろうとして、かえって百姓からウンと苦しめられ、いじめられている。神尾の祖先のうちの一人が、自分の放蕩費の尻を知行所の百姓に拭わせようとしたために、百姓一揆いっきを起されて、家を危うくしたことがある。
体面の上からは勝ったが、事実に於ては負けた。領主としての面目は辛かろうじて立ったが、内実は百姓の言い分が通ってしまったのだ。だから、心ある人は、それから神尾の家風を卑しむようになっている。
その歴史が今も神尾を憤らせている。百姓というやつは、厳しくすれば反抗する、甘くすればつけ上る――表面は土下座しながら、内心ではこっちを侮っている、最も卑しむべき動物は百姓だ――これには強圧を加えるよりほかに道はないと、それ以来の神尾家は、代々そう心得て百姓を抑えて来ていた。今の神尾主膳も、百姓を見ると胸を悪くすること、その歴史から来ている。
百七
この点に於て、神尾主膳は徳川家康の農民政策を支持している。
「権現様の収納の致し様」といって、百姓は生かしもせず、殺しもせざるようにして搾しぼれ、ということが、すなわち徳川家康の農民政策であったと、今日まで伝えられているのだ。
毎年の秋、幕府直轄の「天領」を支配する代官が、その任地に帰ろうとする時、家康はこれらを面前に呼びつけて、郷村の百姓共をば、
「死なぬように、生きぬようにと合点がてんいたし、収納申付くべし」
と申しつけたということである。
その伝統を承って、これは家康の落胤らくいんだといわれた土井大炊頭どいおおいのかみの如きは、ある年、その居城、下総の古河に帰った時、前年までは見る影もなかった農民の家が、今は目に立つようになって来たとあって、
「百姓、生き過ぎはしないか」
と、部下の役人に詰問的の問いをかけたということになっている。
その当時の一村の名主の家には、必ず水牢、木馬の類が備えてあったのだ。百姓共が年貢を滞納する時は、水牢に入れ、木馬に乗せて、これを苦しめたものだ。
それだけを聞いていると、いかにも農民に対して、血も涙もない遣やり方のように聞える。徳川家は、農民を見ること牛馬以下であって、農民にとって徳川家は仇敵きゅうてきででもあるかのように聞えるが――事実、天下を政治するものが、好んで農民を苦しめたがる奴があるものか、苦しめるには苦しめるだけの理由があるからだ、苦しめられる方は、苦しめられるだけの因縁があるからなのだ。
いったい、発祥時代の徳川家の地位を考えてみるがいい。天下は麻の如く乱れて四隣みな強敵だ。その間から千辛万苦して、日本を平らかにする――勢い兵馬を強からしめねばならない。兵馬を強からしめるには、後顧こうこの憂うれいを断たなければならない。兵馬を強からしめるには、兵馬を練ればよろしいが、後顧の憂いなからしむるためには、百姓を柔順にして置かなければならぬ。百姓は、矢玉の間に命がけで立働くには及ばない代り、柔順に物を生産して、軍隊の兵站へいたんを補充しなければならない。万一、百姓を強くして、これに反抗の気を蓄えしめた暁には、強い戦争ができるはずはない。そこで百姓を骨抜きにしておかなければ、軍隊を強くして、天下を平定することはできないのだ。だによって、家康が百姓をおさえたのは、武力を伸ばさんため。武力を伸ばすのは、天下を平定せんがためなのだ。そうして、家康はそれに成功したのだ。天下の平和のために、百姓を犠牲にしたのだ。百姓をいじめたいから、自分が栄華をしたいから、そこで百姓を虐待したわけではないのだ。現に百姓共が、安穏あんのんに百姓をしていられるのも、この徳川の武力あればこそではないか。強い武力がなければ、国は取られ、田は荒され、百姓は稼かせぐところを失うどころか、稼ぐべき田地をさえ持つことはできない。
だから、百姓は百姓として、分を知って服従していさえすればいいのに、ややもすれば反抗したがる。表面服従して、少し目をはなせば一揆いっきを起したがるのが百姓だ――ことに近来は、一揆の無頼漢の音頭を取るものを称して「義民」だのなんのと祭り上げる輩やからが多いから、百姓がいよいよ増長する。そもそも、百姓をかく増長せしめた近来での大親玉は、水戸の光圀みつくにだ――
百八
神尾主膳の頭の中にまたしても、真黒い雲がうず巻いて来ました。
そもそも、この徳川の宗家にとって害物であるところのものは、水戸以上のものはない。
水戸は徳川の一家でありながら、最初から徳川の根を枯らすことばかりやっている。そうして大向うからは人気を取っている。
神尾主膳が水戸を毛嫌いをしていることは、今に始まったことではないのです。
何か機会があると、まず光圀を槍玉に挙げる。あの光圀を天下の名君の如く騒ぐ奴の気が知れない。あれは謀叛人むほんにんだ、徳川にとって獅子身中の虫なのだ。あれは最初から宗家に平らかならざることがあって、池田光政あたりと通謀して、天下を乗取ろうとした腹黒い奴である。大日本史を編んだり、楠公なんこうの碑をたてたり、また、いやに農民におべっかをつかって、下に親しむように見せかけるのが水戸の家風だ。その実、家中は党を立てて血で血を洗っている。あの斉昭なりあきの行状を見るがいい、烈公が何だ――その血筋を引く一橋が本丸に乗込んだ。思い通り天下を乗取って水戸万歳のようなものだが、いまに見ていろ、徳川を売るのは水戸だ――
神尾は、やみくもにこういうふうに邪推して、水戸を憎がっている。しかし、この男としては公然とそれを唱えて、同志を作って、その売られんとする宗家のために戦うというような気概があるわけではない。ただ、むしゃくしゃと、そう感憤激昂して、水戸を毛嫌いしている――
こういうむしゃくしゃ腹で、薬王寺前あたりへ来た時に、どんと無遠慮に神尾の前半にぶつかったものがありました。
それは、わざとぶつかったものではない、脇見をしながら歩いていたのが、はからず神尾にぶつかってしまったので、それがちょうど、百姓を呪い、水戸を憎んで、悪気が全身に充満していた神尾のことですから、たまりませんでした。
「無礼者! 貴様は水戸の百姓か」
勃然として神尾主膳は脇差を抜いてしまったのです。抜いてただ威おどすだけならまだしも、百姓を呪い、水戸を憎む一念が、つい知らず、その抜いた脇差の切先まで感電してしまったので、
「人殺し!」
ぶっつかった人間は、怖ろしい絶叫をしながら、もと来た方向、つまり千住大橋の方へ向って無二無三に逃げ出したのです。
「そうれ、人殺しだ!」
白昼、四宿ししゅくの中の往還のことですからたまりません。
殺気がみるみるその街道に充溢して、忽たちまち往来止めの有様でした。
主膳は眼を吊つるし上げて、脇差の抜身を持っている。その地面にはたしかに血の滴したたりがあり、脇差の切先にも血がついている。道行く人は逆転横倒する。
「無礼者! 貴様は水戸の百姓か」
今日は酒乱とは言えない昂奮ですが、昂奮の程度が、もはや酒乱以上に達している。
再び脇差を振りかぶった神尾主膳は、そのまま群集の中に殺到しました。
それは、当るを幸いに斬るつもりはなかったのでしょう。自分ながら、思わぬ昂奮からやや醒さめてみると、あたりの光景がもう許さないものになっている。理不尽りふじんに人を斬った狼藉ろうぜき武士――袋叩きにしろ、やっつけてしまえ、という空気がわき立っている。
百九
その時に、目の色を変えた鐚びたが、周章あわてふためいて神尾主膳にとりつき、
「殿様、な、なんとあそばします」
それを突き放した神尾主膳が、
「逃げろ! 鐚」
と言って、一ふりその脇差を振り廻したところが、それがほんの糸を引いたほど、鐚の頬をかすったものですから、真甲から断ち割られでもしたもののように、鐚が後ろへひっくり返ると共に、頬を抑えて起き上り、脱兎の如く逃げ出しました。
群集の中へ殺入した神尾主膳の姿も、いつしか見えなくなって、町の巷ちまたが恐ろしい空気の動揺を残しているだけです。
「斬った!」
「斬られた!」
と、千住三輪街道は、往ゆくさ来るさの人が眼の色を変えて騒ぐけれども、斬った当人の姿はいつしか見えず、斬られた本人は、どこへどう逃げたか行方知れず、斬った当人は相当身分のありそうな姿をしていたが、それも一目散に逃げてしまって行方がわからない。
これによって見ると、神尾主膳は一旦むらむらとして、例の病気から、前後を忘れて脇差を抜いて、通りがかりの者をひとたち斬ったには相違ないが、血を見た瞬間に自分も醒めたものらしい。酒乱の時は知らぬこと、今日は乱れるほど酒を飲んでいない。むかっとやっつけたが、血を見た瞬間、これはやり過ぎた! と覚ったものと見える。そうして自分は群集の中へ殺到するように見せて、実はその中を突抜けて、早くも身を隠してしまったのだ。その行きがけに鐚をも振り飛ばして、何でもかまわず早く逃げろと言った。
この要領で、加害者側の二人は姿を消してしまったのだが、気の知れないのは斬られた方の被害者です。
理不尽に斬りつけられたのだから、驚くのは当然であり、驚いて一時は前後不覚に逃げ出すのも当然であるが、それも程度問題で、後顧の憂えがなくなってしまいさえすれば、改めて訴えて出るか、身辺の人に、その危急を物語るとか、そうでなければお医者へ駈込むとか、担かつぎ込まれるとか、何とかしなければならないのに、こいつがまた全く行方不明でありました。
だから、この騒動は、動揺だけはずいぶん烈しく、いまだに附近の人心は恟々きょうきょうとしているのですが――当事者は、加害被害ともに跡かたもなくなっている。騒動は騒動だが、狐につままれたようになっている。
「斬ったのは、身分ありげな侍だ」
「斬られたのは、水戸の百姓だ」
「斬ったやつには、お供が一人ついていた」
「そいつはたぬきのような奴だった」
「斬ったおさむらいは、旗本のおしのびらしい」
「斬られたのは、水戸の百姓」
どちらも根拠のある説ではないが、斬られた方を、水戸の百姓ときめてしまったのがおかしい。
かくて、神尾の行方はわからないが、鐚は鐚であれから一目散に、横っ飛びに飛んだけれども、本来、転んでも只は起きないふうに出来ている男だから、横っ飛びにも一定の軌道があって、まもなく同じ三輪の町の、とある非常に大きな構えの門内へ飛び込むと、雪駄せったを片足だけ玄関の上に穿はき込んで、
「た、た、たいへんでござります」
と言って、頬っぺたを抑えたままその玄関に倒れると共に、息が絶えてしまったのはかわいそうです。
「ラシャメン立国論」大菩薩峠中里介山青空文庫
戦後パンパンガールと呼ばれ米兵に体を売った娼婦たち【大東亜戦争】【太平洋戦争】戦争議事録TV
youtube.com/watch?v=fViVhDsj5JM
豊岳正彦
幕末日本にアメリカ人に対する売娼があった。軍法「ラシャメン立国論」。
中里介山大菩薩峠をテキスト読み上げで聞いてみよ。
aozora.gr.jp/cards/000283/files/4342_14330.html
・
お絹という名を呼ばれたその瞬間からはじまったらしいのです。
そんなことにお気のつかない金公は、いい気になって、
「全く以てあのマダム・シルクときた日には、いつ、どこへお年をお取りなさるんだかわかりません、たまらないものでげす、ぶち殺してやりたいようなもんでげす」
と、ベラベラ附け加えてしゃべってしまったので、神尾の三つの目がまたも炎を出しながら、クルクルと廻転しました。
「びた公!」
と言った神尾の権幕の変っているのに思わずゾッとした鐚助は、それでも、これは食べつけている例の病気だなと、甘く見ることをも心得ているものですから、さあらぬ体ていで、それをあやなすつもりで、
「何事でげすかな」
「あの絹という女は、ありゃ、今では真実ラシャメンになりきっているのか」
「いや、これはこれは、事改まって異様なるおんのうせ」
扇子でピタリと自分の頭を叩いて言いました。
「お絹様――ペロに翻訳をいたしましてマダム・シルク――あの方が、真実正銘のラシャメンになりきったかとの御尋ね、これはほかならぬお殿様のおんのうせとしては甚はなはだ水臭い」
「野のだわ言ごとを申さず、はっきりと白状しろ、あの女は、このごろは異人館へ入りびたりだ、ちっともここへは落ちつかない」
「そりゃそのはずでございます――お絹様は遠大なる目的を以て、異人館に乗込んでいらっしゃる、その遠大なる目的の、遠大なる所以ゆえんに至っては、どなたよりも、こちらの殿様が御承知のはずでいらっしゃる、それをいまさら改まって、お絹はラシャメンになりきったのか、キシメンにのしきったのかというようなお尋ねは、いささか水臭いおたずねじゃないかと、びたは心得ます」
「うむ――それはそんなものかも知れないがな」
と神尾は、強しいて癇癪をおしこらえるように、言葉を胸の中へ一ぺん送り返して、また言いました、
「そりゃ、そんなものかも知れないが、世間には木乃伊ミイラ取りの木乃伊というのがある」
「これはまた我々共を御信用ないこと夥おびただしい、いささかな邪推、中傷……マダム・シルクに限って――それに参謀として目から鼻へ抜けるボーイの忠作君、また物の数ならねどかく申す鐚助」
「そいつらがみんな甘いものだ、なめたつもりで総なめに舐なめられるなよ、毛唐けとうの方が役者が上だ、毛唐とはいえ、あいつらは海山を越えて、嫌われ抜いているこの国へやって来て仕事をしようという奴等だ、貴様たちの手に乗るような甘口ばかりじゃない、日本の国を覘ねらって来る奴等だ、貴様たちの一人や二人丸呑みにするのは、蛇が蚊を呑んだようなものだ。それを思うと、あの女をはじめ貴様たちをあいつらに近づけたのは、こっちの大きなぬかりだ、うっかり甘口に乗った神尾主膳ののろさ加減を、今つくづく考えていたところだ。毛唐を舐めてものにしてやろうと企んでいる奴等が、舐められている、貴様も舐められている、お絹なんぞは、頭から尻尾しっぽまで舐められている――」
こう言って、神尾主膳の三つの眼が勢いを加えて、また乱舞をはじめました。
百二
「それが、いけやせん」
と鐚は扇子を斜しゃに構え、
「すべて、敵をはかるは味方より、というのが軍法の極意でげして、従って敵を舐めんとすれば、まず味方を舐めさせて、甘いところをたっぷりと振舞って置くのが寸法でげす。いかにも仰せの通り、海山を越えて、この尊王攘夷そんのうじょういの真只中へ乗込もうて代物しろものでげすから、たとえ眼の色、毛の色が変りましょうとも、一筋縄の奴等じゃあがあせん、うっかりしていた日には、日本の国の甘い汁という汁はみんな吸われて持って行かれちゃいやす。現に近代に於ても、性しょうのいいところの日本の国の金銀を、どのくらいあの奴等に持って行かれたか、数えられたものじゃあがあせん――どうして、船にいたせ、機械にいたせ、あちらとこちらとでは段が違いやして、太刀打たちうちができる相手じゃあがあせん。現に相州の生麦村なまむぎむらに於て、薩摩っぽうが無礼者! てんで、毛唐を二人か二人半斬ったはよろしいが、その代りに、みすみす四十四万両てえ血の出るような大金を、異国へ罰金として納め込まにゃなりやせん。長州の菜っぱ隊が、下関で毛唐の船とうち合いをして、日本の胆ッ玉を見せたなんぞとおっしゃりますが、その尻はどこへ廻って参りましょう、みんな徳川の政府が、このせち辛い政治向のお台所から、血の出るような罰金として、毛唐めに納めなきゃあならない次第でげす――そこへ行きますてえと、何といってもエライのは日本の絹と、ラシャメンでげすよ、日本の絹糸はどしどし毛唐に売りつけて、こっちへ逆にお金を吸い取って来る、それからラシャメンでげす、ラシャメンというと品が下って汚いような名でげすが、名を捨てて実を取る、というのがあの軍法でげしてな」
金公は抜からぬ面かおで、いつもの持論をまくし立てる。
今の日本人は、毛唐に対して、威張れば威張るほど損をする。威張っている上流の人間ほど、毛唐から借金をしたがったり、毛唐に罰金を取られたがっている。
それに反して、日本の絹糸を売り込みさえすれば、毛唐は喜んで高金を出して買って行く。それがために、どのくらい日本へ金が落ちるか知れない。
それと、もう一つは、この鐚助独特のラシャメン立国論で――こいつが臆面なく喋しゃべり立てるラシャメン立国論というのは、つまり次のような論法である。
露をだに厭いとふ大和の女郎花おみなへし降るあめりかに袖は濡らさじ――なんてのは、ありゃ、のぼせ者が作った小説でげす。
拙せつが神奈川の神風楼しんぷうろうについて実地に調べてみたところによると、その跡かたは空くうをつかむ如し、あれは何かためにするところのある奴がこしらえた小説でげす。
事実は大和の女郎花の中にも、袖を濡らしたがっている奴がうんとある。毛唐の奴めも、女にかけては全く甘いもんで、たった一晩にしてからが、洋銀三枚がとこは出す。月ぎめということになるてえと、十両は安いところ、玉によっては二十両ぐらいはサラサラと出す。そこで、仮りに日本の娘が一万人だけラシャメンになったと積ってごろうじろ、月二十両ずつ稼かせいで一年二百四十両の一万人として、年分二百四十万両というものが日本の国へ転がりこむ。これがお前さん、資本もとで要らずでげすから大したもんでげさあ。というような論法が、こいつのラシャメン立国論になっている。
百三
「ねえ――殿様、さいぜんも槍のお話が出ましたことでげすが、昔はそれ、槍一本で一国一城の主ともなりました、お旗本の御先祖様なんぞは大方はそれでげす。ところが、当今になりましては、もはや槍一本で一国一城の主というような夢は、歴史が許しませんでげしてな」
鐚びた公は、しゃあしゃあとして、高慢面に喋りつづける。
「その一国一城てのが、当今はみんな心細いものでしてな、お台所をうかがいますてえと、大大名といえども内実は、みんな大町人に頭が上らないんでげすからな、借金だらけでげすよ、勤王方も佐幕方も、台所方は似たりよったりでげす、表はお家柄の格式で威張っていても、蔭へ廻ると、大町人のお金の光にはかないません、みじめなもんでげすよ――将来は金でげすな、もう槍先の功名こうみょうの時代じゃあがあせん」
そこで大きく金を儲もうけるためには、どうしても、いやな毛唐と取組まなければならない。毛唐と取組むには、女に限る――
要するに一つの軍法だ。
それともう一つ、いま築地の異人館へボーイに住込ませて置く忠作という小僧が、あれがまたなかなかのちゃっかり者で、ボーイに身をやつして、毛唐の趣味趣向から、その長所弱点をことごとく研究中である。そこで、マダム・シルクを先鋒として、忠作を中堅に、我々が後援で、異人館を濡手で乗取ってしまうのも間近いうち――まずそれまでは、しばしの御辛抱――というようなことを、鐚助が口に任せてベラベラとまくし立てるのは例の通りで、神尾といえども、こいつらの軽口にそのまま乗ってしまうほどの男ではないが、そういう話を聞かされるうちに、またまた癇癪かんしゃくが多少緩和されてきて、頭の中は雨時のように、曇ったり晴れたりするが、そのむしゃくしゃの原因がきれいに拭い去られたわけではない。
「鐚公、貴様の能書と講釈ばかりを、いい気になって聴いているおれではない――おれにはおれで野心があるのだ、いいか、今日はひとつ、いやが応でもそれを切出すから、貴様ひとつ手配をしてみろよ」
「もとより、殿の御馬前に討死を覚悟の鐚助めにござります」
「ほかではない、今時はラシャメンが流行はやる、なるほど、貴様の言う通り、ラシャメンで国を富ます方法もあるかも知れない、そんなことがいいの悪いのと、貴様を相手に討論するおれではない、ラシャメンをするような腐れ女に、金を出したい毛唐は出せ、ラシャメンになってまで金が欲しい女はなれ、おりゃ、かれこれと子しのたまわくは言わねえ――だが、毛唐めが日本の女を弄もてあそんでみたいのも人情というやつなら、日本の男も毛唐の女をおもちゃにしてみてえというのも人情だろう――おれは万事、むしゃくしゃする胸の中を、相身互いとして納めてみたいんだ。いいか、おれも今まで、遊びという遊びはおおかたやったよ、人間のする道楽という道楽も、一通りや二通りはやってやり尽したが、まだ毛唐の女を相手にしてみたことはないんだ。いいかい、お絹という女は、おれの見る前で、いい気で毛唐をおもちゃにしていやがる、おれも、毛唐の女と遊んでみたいというのは無理かい。貴様ひとつ取持て――」
「えッ?」
「誰彼といおうより、築地の異人館のあの支配人てえやつの女房を、おれに取持て」
「えッ?」
百四
「えッ」と金公は、主膳の一文句ごとに仰山らしくクギリをつける。神尾は物凄い顔をしてつづける。
「日本へ来ている毛唐の奴は、見ゆる限りの日本の女を択り取りだ、こっちの人間は毛唐の女に対してそうはいかぬ、相手にしたくとも、こっちへ来ている毛唐の女の数は知れている、択り好みするわけにはいかねえのだから、見たとこ勝負だ、一昨日おととい異人館で見た、あの支配人のかかあというのがよろしい、いいも悪いもない、あれに決めた、貴様、あの毛唐の女房とひとつ、水入らずで一杯飲めるように取持ちをしろ」
「これは奇抜でげす、ズバ抜けた御註文でげす、さすがの鐚びた公、すっかり毒気を抜かれやしてげす」
「どうだ、いやとは言えまい、こっちからお為ごかしにお絹を連れ出して、異人館へハメ込んで置くのを大目に見てやっている以上は、あっちから相当の奴を、こっちへ廻させる、それが交易こうえきというものだ――交易の講釈は貴様がお師匠で、飽きるほど聞かされている、いやとは言えまい」
「いやどうも、敵すべからずでげす、何とあいさつを致していいか、鐚助、このところ返答に窮す」
「窮することはない」
「弱りましたな」
「弱ることはない」
「とにかく――その、殿様、殿様のおっしゃるところにも、そりゃ一理あるにはありますが、どうもはや……とにかく、女房はいけませんよ、主ある女はいけません、何でしたら、そのうちいいのを物色いたしまして、殿様のお望みを叶えることに致しやしょう、そう短兵急におっしゃられては困ります」
「逃げ口上は許さぬ、おれがいったん口に出した以上は、横にでも、縦にでも、車を押切るのだ」
「でも、人の女房はいけません、主ある女はいけません――ほかに」
「なぜ、いけない」
「なぜとおっしゃりましても、売り物買い物なら、それは差支えございません、素人しろうとでございましても、色の恋のというまでもなく、得心ずくでしたら、そりゃ横恋慕よこれんぼもかなうことがございましょう、毛唐とはいえ、れっきとした商館の女房を取持て――こりゃ御無理でござんしょう」
「無理でない」
「無理でないとおっしゃるのが、無理の証拠でござんしょう」
「無理でない――なるほど、こっちの倫理道徳から言えば無理かも知れないが、毛唐の奴には無理でない」
「毛唐と申しましても、人間の道に二つはございますまい」
「ある、二つも三つもある、毛唐は即ち外道げどうなんだ、聞け、鐚公、こっちでは、娘のうちももとより、女の貞操というものを重んずるが、女房になってからは絶対的だ、娘のうちは多少ふしだらをしても、どうやら女房に納まった後は不義をしない、また売女遊女の上りでも、人の女房となれば、日本の女は貞操を守るというのが習わしだ、ところが、毛唐の女は違う、娘のうちは存外品行が正しいが、女房になってからかえって貞操を解放する習わしだと聞いている、もちろん、みんながみんなそうではあるまいが、毛唐の方では、比較的自由であると聞いている、だから、人の女房でも、存外たやすくものになると聞いている――おれが知っているそのくらいの風俗を、貴様が知らないはずはあるまい、どうだ、真剣に返事をしろ」
主膳の三ツ眼が青い炎を吹いている。
百五
金助改めびた助は、こういう場合に、主膳の意に逆らうような文句を以て応酬することの、かえって火に油を注ぐようなものであることだけはよく知っている。
そこで、忽たちまちに論法を一変してしまって、ことごとく神尾の言い分に同じてしまいました。そうして、毛唐なんていうものは、要するに獣の部類に属するもので、お体裁ばかりは作っているが、その実、人倫なんぞは蹂躙じゅうりんしてかまわない、その証拠としては、衣冠束帯などの儀式を知っているものは一人もなく、男はみんな仕事師同様の筒っぽを着ている。
女は鳥の毛や毛皮を好んで着たがるが、それは今いうところのお体裁ばかりだから、室内にいる時は裸になりたがる。ごらんなさい、毛唐の女の絵といえば、八分通りはみんな裸でげすからな。裸になれと言えば、どんな高尚な奥様でも裸になるばかりか、その裸姿を絵に描きたいからと言えば、どんな高尚な奥様でも二つ返事で、その裸を描かせてくれる。そればかりじゃがあせん、その裸の姿を、大勢の見るところの書画会かなにかへ持って来てさらしものにすると、どんな高尚な奥様でも、御当人嬉しがること、嬉しがること。
そこへ行くと日本の国の女なんぞは、肌を人に見られると舌を噛かんで死んでしまう。たいした違いでげす。日本の女は肌をさらしものにされることを恥辱と心得ているが、あちらの方は、素裸を社会公衆の前にさらしものにして、それが御自慢なんでげす。つまり、人間のこしらえた衣裳なんぞを引っかけたのでは天真の美を損ずる――わが女房の一糸もかけぬ肉体をごろうじろ、この通り天の成せる艶麗なる美貌――テナわけでがあしてな。
でげすから、なあに、商館の番頭の女房といえども、支配人の細君といえども、話の持ちかけようによっては、どうにかならない限りはがんすまい。びた一代の知恵を搾しぼって、腕によりをかけてごらんに入れますから、少々お気を長くお待ち下さい。そもそも兼好けんこうほどの剛の者がついておりながら、高武蔵守師直こうのむさしのかみもろなおが塩谷えんやの妻でしくじったのも、短気から――すべて色事には短気がいちばんの損気。
というようなおべんちゃらを、びた助が繰返して、またともかくも神尾主膳を一応まるめ込んでしまいました。
さて、それからようやく、金助改めびた公が、今日ここへ神尾をそそのかしに来た来意のほどを申し出る段取りになりましたが、その問答は、
「時に、今日は例の悪食あくじきの御報告を兼ねて推参、ぜっぴおともが仰せつけられたい――ところは三輪みのわ町の金座――時間は正七ツ――」
ということの誘いでした。
「行こう」
神尾が一議に及ばず賛成したものですから、
「有難え――」
と仰山ぎょうさんらしく、びた助が自分の頭を叩いて、そうして、駕籠かごを、乗物をというのを断わって、神尾が、
「三輪までは一足だ、ブラブラ歩こうではないか」
「結構でげす、金座へ向けてブラブラ歩き、これが当時はやりの金ブラでげす」
神尾主膳は、縮緬ちりめんの頭巾を被かぶって三ツ眼の一つにすだれをおろして、一刀を提げて立ち上ると、びたはころころしながらその後について、外へ出かけたのですが、その目的地は今もびた公が言った通り、三輪町の金座――というところであり、その目的は悪食――にある。けだし、相当のものであろうと思われる。
百六
金助改めびた公が、神尾主膳をそそのかして外へ引っぱり出しました。びた公がそそのかした建前たてまえを聞いてみると、今日の正七ツ時――悪食の会、ところは三輪の金座――というところになっていて、神尾もそれを先刻御承知のもののように、一議に及ばず出動ということになったのだが、悪食の会は悪食の会でよろしいとして、三輪の金座とはどこだ。
金座といえば、一昨年焼ける前まで、日本橋の金吹かねふき町に在あったはずだが、それが、三輪方面へ移転したという話は聞かない。では、銀座の間違いではないか。銀ブラ――道庵先生でさえハイキングをやる世の中だから、この両デカダンが銀ブラを企てることもありそうなことではあるが、当時にあっても銀座といえば、やっぱり京橋から二丁目あたりの地名ではあるが、電車も、バスも、円タクもない時代に、根岸からではブラブラの区域にならない。
果してこの二人は、江戸の中心地を目指して進んで行くのではなく、根岸から東北へそれて行くのは、当然、びたが先刻言明した通りの、三輪あたりを志すものに相違ない。根岸から三輪ならば、相当のブラブラ区域です。
神尾主膳も一議に及ばず、びたの勧誘に応じて出動したくらいですから、最初のほどはかなり気をよくして、ブラブラ歩き出したものですが、そのうちに、またも気色きしょくを悪くしてしまいました。
それは、あの辺には、寺と、広い武家屋敷とのほかに、百姓地が多くある。それからまた、千住せんじゅから三輪街道のあたりは、かなりの百姓街道になっている。
もとより、往来するものは百姓だけではないが、あいにく、この日に限ったことではないが、近在の百姓連が多く、それも、神尾の姿を見て、多少の畏憚おそれを以て行き違うものもあるが、どうかすると、あぶなく突き当りかけて、かえってこっちの間抜けを罵ののしり顔に過ぎて行くものもある。
その百姓を見る時に、神尾の気色がまた悪くなりました。
神尾は生れながら、百姓というものは人間でない――ものの如く感じている。
それは、当然、階級制度の教えるところの優越性も原因することには相違ないが、それほど神尾というものが、百姓を、忌み、嫌い、呪うというのは、別にまた一つの歴史もあるのです。
それは、神尾の先祖が、百姓を搾しぼろうとして、かえって百姓からウンと苦しめられ、いじめられている。神尾の祖先のうちの一人が、自分の放蕩費の尻を知行所の百姓に拭わせようとしたために、百姓一揆いっきを起されて、家を危うくしたことがある。
体面の上からは勝ったが、事実に於ては負けた。領主としての面目は辛かろうじて立ったが、内実は百姓の言い分が通ってしまったのだ。だから、心ある人は、それから神尾の家風を卑しむようになっている。
その歴史が今も神尾を憤らせている。百姓というやつは、厳しくすれば反抗する、甘くすればつけ上る――表面は土下座しながら、内心ではこっちを侮っている、最も卑しむべき動物は百姓だ――これには強圧を加えるよりほかに道はないと、それ以来の神尾家は、代々そう心得て百姓を抑えて来ていた。今の神尾主膳も、百姓を見ると胸を悪くすること、その歴史から来ている。
百七
この点に於て、神尾主膳は徳川家康の農民政策を支持している。
「権現様の収納の致し様」といって、百姓は生かしもせず、殺しもせざるようにして搾しぼれ、ということが、すなわち徳川家康の農民政策であったと、今日まで伝えられているのだ。
毎年の秋、幕府直轄の「天領」を支配する代官が、その任地に帰ろうとする時、家康はこれらを面前に呼びつけて、郷村の百姓共をば、
「死なぬように、生きぬようにと合点がてんいたし、収納申付くべし」
と申しつけたということである。
その伝統を承って、これは家康の落胤らくいんだといわれた土井大炊頭どいおおいのかみの如きは、ある年、その居城、下総の古河に帰った時、前年までは見る影もなかった農民の家が、今は目に立つようになって来たとあって、
「百姓、生き過ぎはしないか」
と、部下の役人に詰問的の問いをかけたということになっている。
その当時の一村の名主の家には、必ず水牢、木馬の類が備えてあったのだ。百姓共が年貢を滞納する時は、水牢に入れ、木馬に乗せて、これを苦しめたものだ。
それだけを聞いていると、いかにも農民に対して、血も涙もない遣やり方のように聞える。徳川家は、農民を見ること牛馬以下であって、農民にとって徳川家は仇敵きゅうてきででもあるかのように聞えるが――事実、天下を政治するものが、好んで農民を苦しめたがる奴があるものか、苦しめるには苦しめるだけの理由があるからだ、苦しめられる方は、苦しめられるだけの因縁があるからなのだ。
いったい、発祥時代の徳川家の地位を考えてみるがいい。天下は麻の如く乱れて四隣みな強敵だ。その間から千辛万苦して、日本を平らかにする――勢い兵馬を強からしめねばならない。兵馬を強からしめるには、後顧こうこの憂うれいを断たなければならない。兵馬を強からしめるには、兵馬を練ればよろしいが、後顧の憂いなからしむるためには、百姓を柔順にして置かなければならぬ。百姓は、矢玉の間に命がけで立働くには及ばない代り、柔順に物を生産して、軍隊の兵站へいたんを補充しなければならない。万一、百姓を強くして、これに反抗の気を蓄えしめた暁には、強い戦争ができるはずはない。そこで百姓を骨抜きにしておかなければ、軍隊を強くして、天下を平定することはできないのだ。だによって、家康が百姓をおさえたのは、武力を伸ばさんため。武力を伸ばすのは、天下を平定せんがためなのだ。そうして、家康はそれに成功したのだ。天下の平和のために、百姓を犠牲にしたのだ。百姓をいじめたいから、自分が栄華をしたいから、そこで百姓を虐待したわけではないのだ。現に百姓共が、安穏あんのんに百姓をしていられるのも、この徳川の武力あればこそではないか。強い武力がなければ、国は取られ、田は荒され、百姓は稼かせぐところを失うどころか、稼ぐべき田地をさえ持つことはできない。
だから、百姓は百姓として、分を知って服従していさえすればいいのに、ややもすれば反抗したがる。表面服従して、少し目をはなせば一揆いっきを起したがるのが百姓だ――ことに近来は、一揆の無頼漢の音頭を取るものを称して「義民」だのなんのと祭り上げる輩やからが多いから、百姓がいよいよ増長する。そもそも、百姓をかく増長せしめた近来での大親玉は、水戸の光圀みつくにだ――
百八
神尾主膳の頭の中にまたしても、真黒い雲がうず巻いて来ました。
そもそも、この徳川の宗家にとって害物であるところのものは、水戸以上のものはない。
水戸は徳川の一家でありながら、最初から徳川の根を枯らすことばかりやっている。そうして大向うからは人気を取っている。
神尾主膳が水戸を毛嫌いをしていることは、今に始まったことではないのです。
何か機会があると、まず光圀を槍玉に挙げる。あの光圀を天下の名君の如く騒ぐ奴の気が知れない。あれは謀叛人むほんにんだ、徳川にとって獅子身中の虫なのだ。あれは最初から宗家に平らかならざることがあって、池田光政あたりと通謀して、天下を乗取ろうとした腹黒い奴である。大日本史を編んだり、楠公なんこうの碑をたてたり、また、いやに農民におべっかをつかって、下に親しむように見せかけるのが水戸の家風だ。その実、家中は党を立てて血で血を洗っている。あの斉昭なりあきの行状を見るがいい、烈公が何だ――その血筋を引く一橋が本丸に乗込んだ。思い通り天下を乗取って水戸万歳のようなものだが、いまに見ていろ、徳川を売るのは水戸だ――
神尾は、やみくもにこういうふうに邪推して、水戸を憎がっている。しかし、この男としては公然とそれを唱えて、同志を作って、その売られんとする宗家のために戦うというような気概があるわけではない。ただ、むしゃくしゃと、そう感憤激昂して、水戸を毛嫌いしている――
こういうむしゃくしゃ腹で、薬王寺前あたりへ来た時に、どんと無遠慮に神尾の前半にぶつかったものがありました。
それは、わざとぶつかったものではない、脇見をしながら歩いていたのが、はからず神尾にぶつかってしまったので、それがちょうど、百姓を呪い、水戸を憎んで、悪気が全身に充満していた神尾のことですから、たまりませんでした。
「無礼者! 貴様は水戸の百姓か」
勃然として神尾主膳は脇差を抜いてしまったのです。抜いてただ威おどすだけならまだしも、百姓を呪い、水戸を憎む一念が、つい知らず、その抜いた脇差の切先まで感電してしまったので、
「人殺し!」
ぶっつかった人間は、怖ろしい絶叫をしながら、もと来た方向、つまり千住大橋の方へ向って無二無三に逃げ出したのです。
「そうれ、人殺しだ!」
白昼、四宿ししゅくの中の往還のことですからたまりません。
殺気がみるみるその街道に充溢して、忽たちまち往来止めの有様でした。
主膳は眼を吊つるし上げて、脇差の抜身を持っている。その地面にはたしかに血の滴したたりがあり、脇差の切先にも血がついている。道行く人は逆転横倒する。
「無礼者! 貴様は水戸の百姓か」
今日は酒乱とは言えない昂奮ですが、昂奮の程度が、もはや酒乱以上に達している。
再び脇差を振りかぶった神尾主膳は、そのまま群集の中に殺到しました。
それは、当るを幸いに斬るつもりはなかったのでしょう。自分ながら、思わぬ昂奮からやや醒さめてみると、あたりの光景がもう許さないものになっている。理不尽りふじんに人を斬った狼藉ろうぜき武士――袋叩きにしろ、やっつけてしまえ、という空気がわき立っている。
百九
その時に、目の色を変えた鐚びたが、周章あわてふためいて神尾主膳にとりつき、
「殿様、な、なんとあそばします」
それを突き放した神尾主膳が、
「逃げろ! 鐚」
と言って、一ふりその脇差を振り廻したところが、それがほんの糸を引いたほど、鐚の頬をかすったものですから、真甲から断ち割られでもしたもののように、鐚が後ろへひっくり返ると共に、頬を抑えて起き上り、脱兎の如く逃げ出しました。
群集の中へ殺入した神尾主膳の姿も、いつしか見えなくなって、町の巷ちまたが恐ろしい空気の動揺を残しているだけです。
「斬った!」
「斬られた!」
と、千住三輪街道は、往ゆくさ来るさの人が眼の色を変えて騒ぐけれども、斬った当人の姿はいつしか見えず、斬られた本人は、どこへどう逃げたか行方知れず、斬った当人は相当身分のありそうな姿をしていたが、それも一目散に逃げてしまって行方がわからない。
これによって見ると、神尾主膳は一旦むらむらとして、例の病気から、前後を忘れて脇差を抜いて、通りがかりの者をひとたち斬ったには相違ないが、血を見た瞬間に自分も醒めたものらしい。酒乱の時は知らぬこと、今日は乱れるほど酒を飲んでいない。むかっとやっつけたが、血を見た瞬間、これはやり過ぎた! と覚ったものと見える。そうして自分は群集の中へ殺到するように見せて、実はその中を突抜けて、早くも身を隠してしまったのだ。その行きがけに鐚をも振り飛ばして、何でもかまわず早く逃げろと言った。
この要領で、加害者側の二人は姿を消してしまったのだが、気の知れないのは斬られた方の被害者です。
理不尽に斬りつけられたのだから、驚くのは当然であり、驚いて一時は前後不覚に逃げ出すのも当然であるが、それも程度問題で、後顧の憂えがなくなってしまいさえすれば、改めて訴えて出るか、身辺の人に、その危急を物語るとか、そうでなければお医者へ駈込むとか、担かつぎ込まれるとか、何とかしなければならないのに、こいつがまた全く行方不明でありました。
だから、この騒動は、動揺だけはずいぶん烈しく、いまだに附近の人心は恟々きょうきょうとしているのですが――当事者は、加害被害ともに跡かたもなくなっている。騒動は騒動だが、狐につままれたようになっている。
「斬ったのは、身分ありげな侍だ」
「斬られたのは、水戸の百姓だ」
「斬ったやつには、お供が一人ついていた」
「そいつはたぬきのような奴だった」
「斬ったおさむらいは、旗本のおしのびらしい」
「斬られたのは、水戸の百姓」
どちらも根拠のある説ではないが、斬られた方を、水戸の百姓ときめてしまったのがおかしい。
かくて、神尾の行方はわからないが、鐚は鐚であれから一目散に、横っ飛びに飛んだけれども、本来、転んでも只は起きないふうに出来ている男だから、横っ飛びにも一定の軌道があって、まもなく同じ三輪の町の、とある非常に大きな構えの門内へ飛び込むと、雪駄せったを片足だけ玄関の上に穿はき込んで、
「た、た、たいへんでござります」
と言って、頬っぺたを抑えたままその玄関に倒れると共に、息が絶えてしまったのはかわいそうです。