雨ニ対ヒテ月ヲ恋フ (original) (raw)

この広告は、90日以上更新していないブログに表示しています。

1.観音信仰と補陀落渡海

沖縄の聖地巡礼のひとつに、「琉球七観音めぐり」というものがある・・・らしい。

なぜだか気まぐれに、巡礼の対象となる「琉球七観音」についていろいろと調べてみたくなった。

ただ、これまでもいろんなことを調べても「なるほど」と納得すれば、調べたことは次から次へと忘れてしまうので、手控えとして記しておこうと思う。

というわけで、まずは観音の説明から。観音は、観世音菩薩の略称である。この菩薩は、観世音菩薩とも、観自在菩薩とも漢訳されているが、どちらが正しいのかとかいう話は、岩波『仏教辞典』や『観音信仰』(下記、参考文献)に書かれているし、サンスクリットでの表記の問題が出てきたりとややこしいので、詳しくは書かない。

とにかく、この観音に帰依するという観音信仰は、紀元1世紀頃のインドではじまったらしい。6世紀にはヒンドゥー教の影響のもと、多面多臂の観音もあらわれ、密教の隆盛とともに東・北インドでも観音への信仰が広がる。

やがて観音信仰は、チベット、中国へと拡大してゆく。中国では、六朝時代に観音経が広まると、唐代にはヒンドゥ―的世界観を取り込んだ仏教である密教が流行、密教の影響を受けてさまざまな形態をとる変化観音も現れ、中国独自の観音(白衣観音魚籃観音など)が誕生、さらに現世利益を重んじる道教信仰と習合し、より信仰を集めるようになった。

脱線:この文章を書き進めているときに出会った本の紹介

ところで、宗教は、究極的には世界と実存(=簡単に言えば、自己)の意味を、世界外から与えられるとするか、世界の内にしか見いだせないとするかの立場の違いとして理解することができる。一神教の神は、絶対的な超越者として「世界の外」に、あるいは「世界の根拠」として存在する。仏教を「『超越』抜きの実存」という観点から理解しているのは、曹洞宗僧侶・南直哉氏であるが、氏はそこで日本の社会を基本的に「現状の社会の維持を目的とする「ありのまま」肯定主義」であると説明する。氏神や土着の神がみが登場し、基本的に支配者の存立条件としてくみ上げられる『記紀』神話は「ありのまま」肯定主義」である。私の言葉で氏の考えをいえば、個と社会が対峙して捉えられるとき、あるいは個と世界が対峙するとき、「実存の自覚」が見出される。このとき、宗教との関係では超越的な存在者(絶対者)が見出されれば、一神教になるし、そのようなものについては言及できないとするのが仏教である(超越者について語れるのならば超越的ではないし、しかしわれわれが語れないのであれば超越者などを持ち出す意味がなくなってしまう)。この難問に直面したのは親鸞であり、それに対して仏教的解決を見いだしたのは道元であるというのが、南氏の見解であるが、これは直接読んで検討してもらいたい。ともかく、仏教が伝来する頃の沖縄においては、「実存の自覚」による世界説明の危機的状況は見受けられず、「ありのまま」肯定主義的な社会体制であったということを覚えておきたい。

**福寿院の魚籃観音**(京丹後市・夕日ヶ浦)

日本には、飛鳥時代に信仰が伝わり、奈良時代には多面多臂の観音の仏像が造形され、現世利益と結びつき、浄土教の広まりとともに来世的な信仰も加わることとなったようである。

来世的な信仰は、**補陀落渡海**[ふだらくとかい]と結びつくものであったろうと思われる。補陀落渡海とは、観音信仰を背景に「観音浄土への往生を目指した船出」(『仏教辞典』岩波書店)をする、捨身行のひとつである。

**補陀落**[ふだらく(”ほだらく”とも)]は、観音菩薩の住む、あるいは観音菩薩の降りたつ山の名「ポータラカPotalaka」の音写語で、さらに観音の浄土のことを指す言葉となった。ちなみにインドの信仰においては、インド南部にポータラカがあったとされている。

都から南にある熊野の**那智山**は補陀落と見立てられた地のひとつで、そのふもとの浜付近にある、那智山青岸渡寺の別院である補陀落山寺は、隣接する浜の宮王寺社(熊野三所大神社[くまのさんしょおおみわやしろ])とともに補陀落渡海出発の地である(補陀落渡海した地は茨城や鹿児島などにもあるようだ)。

渡海僧の一部は琉球に流れ着いている。もっとも有名なのは、金武の福蔵[フックヮ]に漂着した日秀上人であり、琉球に一説には3年(30年という説も)ほど滞在し、布教活動を行ったと伝えられている。

2.金武・嘉手苅・喜納の3つの観音堂

日秀は、観音浄土を目指して那智勝浦の海岸を出発し、琉球にたどり着き、金武のあたりを補陀落と考え、観音堂を建立した(日秀の詳しい話は、下記に示した根井浄氏の両著作を参照のこと)。

琉球の観音信仰に影響を与えた人物に、日秀を挙げることができるだろう。先にも述べたように、日秀は金武に現在の金峰山観音寺の前身となる観音堂を建立した。本尊は聖観音菩薩である。観音浄土を目指した日秀だから自身で観音堂を建立するのはもちろんだが、その活動に影響を受けたからか、五世伊波按司が日秀に勧進して建立したと伝わる観音堂も存在している。それが、うるま市にある嘉手苅観音堂である。

金武・観音寺(1934年の焼失から1942年に再建され、唯一戦火を免れた堂宇)

(余談:観音寺は、真言宗の僧であった日秀によって建立されたが、その後、臨済宗の管轄となり、1662(尚質15:康煕1)年に真言宗に改宗し、1700(尚貞32:康煕39)年に寺院としての体裁が整えられた(知名 2021: 149))。

**嘉手苅観音堂**は、もともと伊波グスクの近くに建立されていたが、2度の火災を経て、現在地に移動し祀られ、現在も人びとの信仰を集めている。1919(大正8)年の改修により平地に立てられたお堂は石の台座の上に安置されたこと、また、戦前まで堂内には、沖縄をひろく救うという意味の「邦海済宏[ほうかいさいこう]」の額が掲げられていたという。

嘉手刈観音堂

嘉手刈観音堂・内部

嘉手苅観音堂に安置されている仏像は、如来形式のものと、菩薩形式のもののようだ(日秀によって勧請されたのだから聖観音だろうか)。観音堂と言いつつ、他の仏像が脇侍としてよりは、対等に並列されており、一見すると観音が中心となるお堂のようには見えない。このことについての推測は、最後に記すが、ここでは、「日秀が関係している」ということだけを覚えておきたい。

(余談:うるま市の広報誌『広報うるま』に掲載されてた名嘉山兼宏氏による「地名散歩㉒」には、「嘉手苅[かでぃかる]」の地名の語源が紹介されている。

https://www.city.uruma.lg.jp/userfiles/files/page/kouhou/23/14uruma8p5.pdf

興味深かったので、備忘録として残しておく。県内にいくつかある嘉手苅の名は、丘陵地帯付近に多く見れるようだ。というのも、「かでぃかる」は、丘陵地をさす「カデ/カディ」や「カル/カリ」の同義反復の表現であると考えられ、丘陵のある地域を指す言葉として固有名詞化したと類推されるとのことである。)

**喜納観音堂**(読谷村

喜納観音堂・案内板

読谷にも観音像が祀られていた。**喜納観音堂**である。残念ながら、戦火で失われてしまったが、再建されて小さな千手観音菩薩像が祀られている。少し離れたところには、中国発祥の土地神信仰に由来すると考えらえる土帝君[とぅーてぃーくー]の廟が立てられている。

読谷村史編集室があげている、土地の古老に聞き取りした由来譚によれば、この観音は金武から勧請したもので、聞き取りの内容からすると、村の役人が中心になって勧請する土地を決めたようである。ともかく、この観音は「女神[ゐなぐかみ]」とされていたようで、子どもの健康、家内安全、繁盛、学問上達などが祈願されたようだ。女子はとくに織物ができる子になることが祈願されたということである。

土帝君は「男神[ゐきがかみ]」とされ、農業や食べ物に困らず裕福になれることが願われていたという。

勧請の年は、1841年(尚育王7年)の旧暦9月18日と伝わっているが、上記の古老の話では首里観音堂よりも早くに創建されていると認識されているようだ。建立の年の異同はともかく、ここでは、金武から勧請された観音であること(つまり間接的に日秀に関連する観音であること)、また、男神である農耕神とともに、女神として地域の信仰を集めたことを記しておこう。少しばかり気になる点で言えば、金武からの勧請なら当初は聖観音だったのではないだろうかと思われる。とはいえ、臨済宗の頃の金武観音寺は、千手院とも呼ばれているので、千手観音に関係していると思われる。さらにいうと、戦禍で失われてしまった護国寺の、日秀が自刻した弥陀・薬師・観音の熊野権現本地三尊像の観音の写真を見ると、千手観音であるように見える。那智本地仏は千手観音であり、神道では女神・伊弉冉である。それならば女神とされたこともわかる。瀧や水に関連する女神と観音が同一視されるという話は、確か西郷信綱氏の著作で読んだことがある。ともかく、現在は千手観音が安置されている。

3.首里・奥武・久志・屋部の観音堂

日秀に直接、間接的に関係しない観音堂は、琉球七観音のうち、首里、奥武、久志、屋部の四か所である。

**首里観音堂**(慈眼院)

萬歳嶺と**観音堂・案内板**

「いくつか知っている観音堂をあげよ」と言われれば、**首里観音堂**は上位にあげられる観音堂のひとつだろう(「いちばんだろう」と書けなかったのは、同じ質問をしたら、沖縄育ちのつれあい様が「え? 分からん。ふつうは知らんと思うけど」とすっかり身についてしまった関西弁でのたまひ、私の打鍵を惑わしたのである)。この堂のはじまりは、佐敷王子(後の尚豊王)の父である尚久の誓願による。佐敷王子が薩摩の人質として連行される際、尚久は息子が無事に帰ってくれば、首里の地に観音堂を建立すると誓願、そして無事に帰ってきたことから、1618(尚寧王30;元和4)年に万歳嶺の地に観音堂が建立されたものだ。本尊は千手観音菩薩であるが、この堂は慈眼院として、現在もその地に存在している。

首里観音堂 [琉球交易港図屏風/浦添市美術館蔵]
(琉球王国交流史・近代沖縄史料デジタルアーカイブ)

薩摩への人質という関連で述べておくと、1609(尚寧王21;慶長14)年の薩摩侵攻後の仏教は、掟十五条により制限され、基本的には寺院は自由に建てられないことになっていた。僧侶たちは説教も禁止されており、布教もままならなかったとみられる。

**奥武観音堂**(南城市玉城)

奥武観音堂・内部

南城市玉城にある**奥武観音堂**の明確な創建年は不明なようだが、『観音堂三興之記』によれば、中国船が難破し、奥武島島民に救助されたことにはじまると記されている。

救助された中国の漂流民が、感謝の意味を込めて、大士尊号を記した木札と経とまじないを納めた尊堂を建て、中国に無事に帰れた際には観音像を送ることを約束したという。帰国した人びとは、中国から帰化した人たちが集住する久米村[くにんだ]を通じて観音像を送って来たが、当初は奥武島で安置することがかなわなかった。それから30有余年、臨済宗東禅寺に仮安置されていた観音像は、特叟[とくそう]和尚によって移され、尊堂も再興された。1812(尚灝9;文化9)年に荒廃していた観音堂が修繕されたが、第二次世界大戦によって破壊され、観音像も失われたが、戦後復興したものが現在の観音堂となっている。

**久志観音堂**(名護市久志、修復中の観音堂。撮影:2022年7月)

久志観音堂・内部

名護市東海岸側にある**久志観音堂**は、1688年(尚貞王20年、元禄元年)に、もらい受けた観音石像をおさめるために、久志間切総地頭であった豊見城王子[とみぐすくおうじ]と久志親方[くしうぇーかた]によって建立された。案内板によると、地元では、このお堂のことを「てぃら」、観音を「てぃらぬたんめー」と呼んでいるという。「てぃらぬたんめー」は”寺のお爺さん”という意味だろうが、この親しみのこもった響きからは、久志の村の好々爺としての観音の姿や、あるいは柳田國男が遠野で採取した馬頭観音の話などが思い起こされる。

とはいえ、観音石像の由来は、名護市史などは見られていないが、ネットで調べてみたがわからない(調べている途中で名護博物館が今年リニューアルオープンしていることを知った。生活と自然メインのようだが、考古資料もあればぜひ行きたい)。

ここでは、観音が男(お爺さん)として認識されいることを確認しておきたい。

屋部寺(名護市屋部)

屋部寺の堂内には本尊の薬師如来を中心に7体の仏が安置されている

屋部寺(凌雲院)は、1692年(尚貞王24年、元禄5年)に天界寺の僧・凌雲和尚が草庵を結んだことにはじまるようである。開基の凌雲和尚は大蛇を退治したり、雨を降らせたり、人びとの尊敬を集め、後には病気にも利益ある寺とされたようだ。そのためか、無住寺であるにもかかわらず、境内はきれいに清められている(凌雲和尚は大蛇や天災を解決したのちに帰院している)。

堂内には7体の仏像が祀られている。本尊は薬師如来なこともあり、如来を中心に諸仏が祀られている。なかには聖観音もいる。とはいえ、琉球七観音のひとつに数えられるには、少し違和感が残る。薬師如来は観音ではないし、たくさんいる脇侍仏のひとつに観音があるだけである。

4. まとめ

琉球仏教は、日本仏教の在り方とは大きく異なっている。人口に膾炙することはほとんどなかったし、日本仏教で執り行われるような法要も、通夜と葬式以外ではほぼ皆無である。さらに、琉球仏教は王府とその周辺のための仏教であって、日本における庶民仏教(五来 [1985]2020)とは大きく様相を異にしている。いくらか垣間見られるのが、この観音信仰ではないかと思う。ひとつは、日秀上人にゆかりのある観音たちである。こちらの観音は、日秀が直接建立したもの、そう伝えられている者、建立した寺院から勧請したものに分けられる。次第に日秀上人じしんの手から離れていくように建立された観音堂である。

もう一つの観音堂建立の流れは、日秀とは関係なく建てられた観音堂だということである。首里観音堂は、現世利益的な観音信仰や、王子が無事に帰ってくることを渡海にかけて祈願したとするなら補陀落信仰の形跡を見ることもできるかもしれない。こちらは熊野信仰との関係があるかもしれないが、そこまでは調べきれなかった。残りの久志・奥武・屋部はなぜ観音であったのかがあまりはっきりしない。むしろこちらは、観音信仰や仏教とは離れて、ありがたい神として地域の人びとに受け入れられているようにも思える。久志の観音がおじいちゃんと呼ばれるように、もとはマレビトとしてやってきた神がすっかり土着の神のごとく受け入れられているように思える。この点では、読谷の女神とされている観音も同じである。こちらはもはや日秀には間接的にしか関係しないために、(語義矛盾であるが)土着した来訪神の観がある。

金武観音寺首里観音堂は、王国史の寺院縁起などの史料にも見える「由緒正しい」ものと捉えることもできる。そのほかの観音たちはどちらかと言えば、仏教的というよりも庶民の信仰の対象として尊重されてきたともいえる。どちらにしても、誰が言ったのか知らないが「琉球七観音」と言われ、現在に残るほどの信仰を集めていることは間違いはない。このことが意味すること、具体的には沖縄の庶民信仰としての仏教はどのようになっているのか?ということについては、今後の楽しみとして取っておきたいと思う(終わりの唐突感が否めないが、ちょっと急いでいるので、とりあえず公開します)。

参考文献

五来重、[1985]2020、『日本の庶民仏教』講談社

速水侑編、1983、『民衆宗教史叢書第7巻 観音信仰』雄山閣出版

南直哉、2018、『超越と実存——「無常」をめぐる仏教史』新潮社。

宮家準編、1990、『民衆宗教史叢書第21巻 熊野信仰』雄山閣出版

中村元ほか編、2002、『仏教辞典 第二版』岩波書店

根井浄、2008a、『観音浄土に船出した人びと——熊野と補陀落渡海』吉川弘文館

————、2008b、『改訂 補陀落渡海史』法蔵館

沖縄県の歴史散歩編集委員会編、2014、『沖縄県の歴史散歩』山川出版社

知名定寛、2008、『琉球弧叢書17 琉球仏教史の研究』榕樹書林。

————、2022、『琉球弧叢書35 琉球沖縄仏教史』榕樹書林。

鳥越憲三郎、1965、『沖縄宗教史の研究』角川書店

5. 日本への仏教の伝来から平安時代まで②

最澄――すべての者は悟ることができる

南都を中心に発展した仏教が、次の段階へと移るのは、最澄空海の活躍する平安期である。この頃の政治的課題のひとつは、道鏡(?-772)によって混乱したそれまでの政治体制を立て直すことであった。「光仁桓武朝の課題は人心を一新し、政治を立て直すことにあ」り、「とくに仏教界の腐敗に対しては厳しく取り締ま」り、仏教の制度を見直して、優れた僧侶を育成することにあった(末木 1992: 89)。そのような政治状況のなかで、まず最澄が頭角を現し、続いて空海が平安初期の仏教界に新風を巻き起こしたのであった。

最澄

ふたりは、804年の第16次遣唐使の船団に乗り合わせた還学生(げんがくしょう)と留学生(るがくしょう)[1]であった。還学生の最澄は、1年間の滞在で天台教学の修得を桓武天皇に託されて唐に渡り、一方、空海は、留学生として滞在20年の予定で船団の一員として入唐している(空海の入唐までの24歳から31歳までの活動については明らかではない。この入唐は20年の予定を大幅に短縮して2年で帰国している)。最澄は、天台山で天台教学を学び、仏典を収集して帰国した。しかし、最澄が不幸であったのは、帰国後に求められた仏教が、天台教学のような大乗仏教の理論的教えであるよりは、鎮護国家に資するような「密教的な呪法の力」であったことであろう。さらに、最大の庇護者であった桓武天皇もなくなったことで、最新の仏教である密教を修めた空海に注目が集まり、その活躍に押されていったことは、時代の要請とはいえ、最澄の望むところではなかっただろう。

最澄が中国で学んだ仏教教学は、天台大師・智(ち)顗(ぎ)(538-97)によってつくられた「『法華経』と空思想にもとづいて『天台一念三千』と呼ばれる教学」(立川 1995: 57)であった。それは、「もろもろのもののすがたかたちはそのままで真実そのものであ」(立川 1995: 27)り、「全面的な現実肯定」(立川 1995: 28)としての「諸法実相の哲学の理論的基礎」(立川 1995: 57)であった。この教学は、その後の「日本仏教の柱」(立川 1995: 57)となっている。

最澄の功績はいくつもあるが、なかでも新たに大乗戒壇の設置に尽力したことと、法相宗の学僧・徳一(とくいつ)(生没年不詳)との論争を挙げることができる。この論争は、三乗一乗論争[2]として今日まで知られている論争であり、この論争で最澄は天台の根本的な立場を主張している。簡単に言えば、それは『法華経』の解釈をめぐる論争であり、「すべての者は悟ることができるか、否か」という問題であった。その問いに対して、最澄は「すべての者は悟ることができる」と考え、徳一は「悟ることができない者もいる」という立場をとったために、起こった対立であった。

延暦寺戒壇院(筆者撮影)

法華経』のなかには、ブッダを目指す三者(三乗)があるとされていた。「一切衆生を救済しようという利他の精神こそ根本であ」り、「このような大乗の修行を行う者が菩薩である」(末木 1992: 100)。これを「菩薩乗」という。これに対して、出家して修行する「声聞乗」と一人で修行して悟る「独覚乗」は、ともに自分の悟りにのみ関心を向ける者とされ、「小乗[3]」であると考えられていた。最澄の学んだ中国天台では、これらは排他的なものではなく、止揚されて統一されるものであると考えられていた。すべての者は平等に悟ることができるという考えから、すべての者を救いの対象にするという考え方が『法華経』の根本的な考え方であるとされ、最澄はこの立場に立って徳一と論争を行ったのであった。

この考えは、大乗戒壇の設置を朝廷に願い出るきっかけともなっている。さらに、世俗世界で活躍する出家者は、世俗者と同じ戒律、つまり「真俗一貫」の戒律が授けられねばならない、という最澄の思想から望まれたものであった。「真俗一貫」の戒律という思想は、その後の鎌倉新仏教の各宗派が世俗社会へと実際に浸透していたことを見れば、深い関係があるとみなされるべきであり、このことからも最澄の成したことの重要性が理解されよう。

空海――自己と宇宙の統一的探究と実践

立川武蔵(1995)が、空海が唐からもたらした密教についてコンパクトにまとめているので、ここではそれにより空海の成したことについて見ていくこととする。

唐に渡った空海は、当時の最新の仏教である密教を、『大日経』を学ぶことで修めていった。『大日経』は、儀礼や礼拝に重点を置いた初期密教と「密教的瞑想法(ヨーガ)」とを組み合わせて成仏を目指すことが説かれたものであった。つまり、「密教は、インドの古代からのテーマである宇宙(世界)と自己との本来的同一性を、さまざまな装置とそれに付された象徴意味によって助けられつつ体験し、その体験を悟りの実質的内容として仏になることを目指す」(立川 1995: 61)仏教であった。空海は、この密教を唐の青龍寺の恵(けい)果(か)(746-805)から伝授されている。

空海

両界曼荼羅〔(佐々木 2019: 186)より転載〕

一般的に仏教の世界観は、「世界を整然とした構造をもつ一つのまとまりとしてとらえて」いたが、密教ではさらに「その整然とした構造をもつ全世界が実は仏のすがたであり、また自分自身にほかならないと考え」(立川 1995: 61)るようになった。空海がもたらしたふたつの曼陀羅はこの考えを端的に表現したものであった。つまり、世界は大日如来から生まれたということを表現した胎(たい)蔵(ぞう)曼(まん)荼(だ)羅(ら)と、すべては大日如来智慧の働きであることを表した金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)は、密教の世界観を端的に表したものである。

それまでの仏教では、修行を続けて数え切れぬほどの輪廻転生を繰り返してやっと成仏できるとされていたが、密教の世界観は、世界も自分も仏なのだからそのままで成仏することができると考えた。いわゆる「即(そく)身(しん)成(じょう)仏(ぶつ)」である。この思想を中心にして、構成要素(地・水・火・風・空・識の六大無礙(ろくだいむげ))から世界を説き、それが仏のすがたとなって現れること、仏と自らとは人間の活動全般を通して仏と力を与え合うことによって成仏することができる(三密加持(さんみつかじ))と考えたのであった。空海密教は、世界の構造と実践を説いた「完結した世界理論」(立川 1995: 72)をもっており、この点が日本仏教のなかで異彩を放つものであったことは間違いないだろう。

最澄空海」後の平安仏教

ふたりの偉大な天台・真言の祖師のあとにも、「唐から密教を学び続け、従来の天台教学との総合」が目指された(立川 1995: 92)。10世紀の平安中期には、「天台宗において仏性思想(本覚思想)が発達」、11世紀から12世紀の平安末期には、「密教がますます盛んになる一方、浄土教が広がり、密教浄土教との統一が目指された時代であった」(立川 1995: 92)。

天台宗では、円仁(794-864)、円珍(814-91)らの留学生によって密教の知識が取り入れられるとともに、法華・華厳などの従来仏教思想との総合がなされていった。本覚(ほんがく)思想も発展していくが、この思想は草木成仏論と関連するものであった。中国では「衆生と草木の相互関連性、あるいは『空』の絶対的立場からみた両者の同質性」(末木 1992: 170)のうちに根拠が求められ、「衆生が成仏するならば草木も成仏する」(末木 1992: 170)といういくつかのパターンが考えられた。

日本では、「空」や「仏」の絶対的立場からみた衆生と草木の存在の平等性から離れて、草木の存在の独自性が説かれるようになる。つまり、「個別的具体的なこの現象世界のいちいちの事物のあり方がそのまま悟りを実現しているという面が強くな」(末木 1992: 171)り、あるがままの自然が肯定される。さらに、自然の「移り変わり=無常性」も肯定するに至り、日本の本覚思想は展開されていく。この考え方は、人間存在の悟りへの距離の問題へと波及する。このような考え方に影響を与えたのが、仏性論(ぶっしょうろん)や如来蔵(にょらいぞう)思想である。

〔(末木 1992: 180)より引用〕

本来、仏と凡夫には、悟りに対して距離があると考えられており、凡夫はなかなか悟ることができず、六道[4]を輪廻する存在であり、仏の悟りへの距離は遠いものだとされていた。しかし、仏性論や如来蔵思想では、凡夫のうちにも仏の性質があり、仏との距離が縮められる。「仏の性質」が仏性や如来蔵と呼ばれるものである。「本覚は迷いの心のなかにある内在的な悟りであると同時に、目標としての悟り」(末木 1992: 180) のことである。この思想が発展することで、修行を不要とする「本覚門」という立場も生まれることとなった。修行を必要とするのは「始覚門」と呼ばれ、本覚門の立場から低級であるとされていた(末木 1992: 181)。また、「現象世界の具体的事実がそのまま永遠の真理」(末木 1992: 184)であるとされることにもつながっていき、上述したように、「あるがままの自然」が肯定されていくこととなる。

社会不安と末法

仏滅後の千年は、「仏の教え(教)と修行(行)と悟り(証)が具わっている」(末木 1992: 133)とされる正(しょう)法(ぼう)であり、その次の千年は、それから悟りが失われる像法(ぞうぼう)と呼ばれる時代とされていた。像法の次の1万年は末法(まっぽう)と呼ばれ、仏の教えだけが残り、修行も悟りもない時代が到来すると考えられていた。さまざまな計算法があるが、日本では永承7(1052)年がその初年、すなわち仏滅後2000年の末法初年であるとされた[5]末法が来るということが信じられたのは、末法初年の前後に立て続けに社会不安を引き起こす災害や騒乱が生じたことによる。例えば、度重なる疫病旱害(1028年・1044年)が起こり、園城寺延暦寺の僧兵が争い(1035年)、興福寺の僧徒が東大寺を襲撃し(1037年)、東北では前九年の役(1051)など各地で争いごとが頻発ししたことによる。災害が起こり、僧侶が事件を起こすこのような社会不安は、行証を失った末法そのものであった。この状況が、浄土に対する渇望を湧き立たせ、浄土教が流行していく。

極楽浄土――菩薩時代の誓願

浄土思想は、奈良時代には伝わっていた。上述したように、浄土への信仰が広がったのは、社会が混乱したことに対する人びとの不安の高まりであった。ところで大乗仏教の運動は、ブッダ如来には、それぞれ異なった世界があると考えられるようになっていた。

浄土は、元来の意味では、如来のいる仏国土のことで、よく知られる極楽浄土もそのひとつである。そして、極楽浄土は、衆生を救うという阿弥陀如来仏国土であった。阿弥陀如来は、法蔵菩薩と呼ばれていた菩薩時代に、48の誓願を立てたとされている。その大まかな内容は、「自分がブッダになることを誓っただけでなく、他者の菩薩行に役立つ世界を構築することまで誓った」(佐々木 2019: 144)。そして、第十八願で「たとい、われ仏となるをえんとき、十方の衆生、至心(ししん)に信楽(しんぎょう)して、わが国に生まれんと欲して、乃至(ないし)十念(じゅうねん)せん。もし、生まれずんば、正覚を取らじ。ただ五逆(ごぎゃく)と正法を誹謗するものを除かん」[6](『無量寿経』)という、最も有名かつ重要な誓いを立てた。つまり、「阿弥陀仏を信じ、その国に生まれようと願って、十回念仏するだけでも生まれることができる」という意味で、「念仏信仰の大きな拠りどころとなった」(末木 1992: 148)誓願である。

浄土教の流行によって、これまでの自分で修行して輪廻から抜け出すことを目指す自力救済から、阿弥陀如来の慈悲に救いを求める他力救済へと転換することになっていった。浄土教の念仏という方法は、難しい修行をすることなく成仏へと近づく方法としても、また、この地獄のような現実から極楽浄土へと生まれ変わりたいという信仰としても多くの人びとの心に届くこととなった。

日本では、法然が「正行(しょうぎょう)のなかでも口に阿弥陀仏の名をとなえる称名念仏こそ唯一の正業で、他はそれを助ける助業であるとして、最終的に称名念仏を唯一絶対」(末木 1992: 147)とした。「弟子の親鸞は、阿弥陀仏を信じることこそ絶対であるとして、重点を行から信へと移し」(末木 1992: 147)、日本における浄土教を完成させていった。そして、このことは、ある意味では大乗教運動の目的、つまり「悟りをすべての人に」という目的の達成でもあったといえるだろう。

大乗仏教の来し方行く末

上記のように考えるのは、定方晟(さだかたあきら)である。少し長いが引用しておこう。

「『法華経』は声聞や縁覚の成仏を説き、『涅槃経』は悪人の成仏を説いた。『無量寿経』は念仏という易行を提供して、成仏をさらに多くのひとのものにした。大乗仏教はこうして一段、一段とその名にふさわしいものになった。親鸞はその最後のステップであった。それまで大乗の祖師はみな独身生活を送っていた。これでは、彼らが一切成仏を宣伝しても、在家者は信じることができない。祖師たちはああいっているが、本当は独身でなければ成仏できないのではないか。そうでなければ、かれらが独身でいるはずがない、と。この疑念を完全にうち払ってくれたのが、親鸞である。かれは妻帯した。かれはこの勇気ある行動によって、仏教を真にすべてのひとのものにしたのである」(定方 1992: 239-40)。

この点は、日本仏教の特徴からみても重要であるように思われる。

立川は、日本仏教の特徴を①「諸法」、②「空(空性(くうしょう))」、③「実相」、④「仏性」の4つのインド的概念で説明している(立川 1995: 16)。詳しくは述べないが、簡単には次のようなことである。①は、この世界はどのような要素からなり、どのような構造になっているのかと問うことであり、②では、いかなる法も不変の実体ではないという教えのことをいう。③は「すべてはあるがままにある」ことを、④はすべての人には「仏の性質」があることを説明する概念である。これらが重視されて、日本の仏教は成立してきた。これらのことについては、ここまでの説明でも十分に理解されることだと思われる。しかし、これは日本における仏教の特徴で、たとえば、上座部仏教のタイなどでは異なるだろうと、立川は述べている。「タイの仏教の考察のためには、戒律という概念が不可欠である一方、『仏性』は削除されることになろう」(立川 1995: 17)。

独身者でいることは、戒律によって決められたことであり、タイの仏教の立場からすれば、当たり前のことであろう。そこから見れば、日本の仏教者は堕落していると映るであろう。しかし、先に述べたように、大乗仏教の運動は、「すべての人に悟りを広める」ということである。そうであるならば、上述の定方の引用に述べられていることは納得のいくものであり、日本仏教のひとつの結論であるといえるだろう。あくまで、ひとつの結論である(ここでは宗教的・宗派的な正しさはひとまずおく)。

とはいえ、この先の日本での仏教については、われわれはまだ解答をもっておらず、これからの課題と言えるものだろう。

[1] 還学生は遣唐使に同行する短期間の滞在で学問・仏教を修め、留学生は20年から30年の長期間滞在して学問・仏教を学ぶ者を指す。

[2] 「3つの乗物の意。乗物とは衆生を悟りに導いて行く教えをたとえたものである。〈声聞(しょうもん)乗〉〈縁覚(えんがく)乗〉〈菩薩乗〉の三つをいう。縁覚乗を〈独覚(どっかく)乗〉、菩薩乗を〈仏乗〉と称することもある。仏は衆生の素質に応じてこの三種の教えを説いた。前二者は小乗に属し、後者は大乗である」(『岩波 仏教辞典 第二版』より)。

[3]サンスクリット語は、劣った乗り物の意。〈下劣乗〉と訳すこともある。自利よりも利他を標榜し強調する菩薩行の仏教徒が自分たちの教えを〈大乗〉(すぐれた乗り物)と称し、声聞と縁覚の二乗に対して、声聞と縁覚は自利を図ることしかないとして名付けた眨(へん)称(しょう)」(『岩波 仏教辞典 第二版』より)。

[4]衆生が自ら作った業によって生死を繰り返す六つの世界。六趣ともいう。地獄・餓鬼・畜生・修羅(阿修羅)・人(にん)・天の六つ」(『岩波 仏教辞典 第二版』より)。

[5] 「正法・像法というのもあくまで正しい仏法、正しい仏法に似たものということで、直接には時代を意味する概念ではない。中国において、はじめてそれらが時代を表す概念に転ずるとともに、末法が加わって三時説が成立」(末木 1992: 134) した。また、「永承7年末法到来説はおもに天台宗でいわれた」(末木 1992: 136)もので、末法という言葉は出てこないが、最澄にも源信(942-1017)にもその時代認識が存在した。

[6] この引用は、『浄土三部経(上)』(岩波書店、1963年)の157頁の漢文書き下し文。

引用・参考文献

橋爪大三郎、1986、『仏教の言説戦略』勁草書房

末木文美士、1992、『日本仏教史——思想史としてのアプローチ』新潮社。

松尾剛次、1995、『鎌倉新仏教の誕生——勧進・穢れ・破戒の中世』講談社

――――、2011、『葬式仏教の誕生――中世の仏教革命』平凡社

西田長男、1956、『日本宗教思想史の研究』理想社

定方晟、1992、『大乗経典を読む』講談社

佐々木閑、2019、『大乗仏教——ブッダの教えはどこへ向かうのか』NHK出版。

立川武蔵、1995、『日本仏教の思想——需要と変容の千五百年史』講談社

高取正男、[1979]1993、『神道の成立』平凡社

高取正男・橋本峰雄、[1968]2010、『宗教以前』筑摩書房

高谷好一、2017、『世界単位日本――列島の文明生態史』京都大学学術出版会。

5. 日本への仏教の伝来から平安時代まで①

仏教の公伝と信仰の対立

仏教の日本への伝来は6世紀中頃、朝鮮半島からもたらされたものであるが、本格的な導入は6世紀末から7世紀初頭にかけて仏法を興隆した聖徳太子(厩戸王)[1]の活動が大きな役割を果たしているとされている。

聖徳太子(厩戸王)を庇護していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の対立は、この間に起こった出来事として、日本の仏教受容の歴史のなかでは有名なものである。しかし、この崇仏派と排仏派の争いは、単に権力争いに付随するものとしてみるよりも、日本の信仰の形態が関係していると見なすほうがよい。末木文美士の指摘では、「仏は海の向こうからやってきた神」[2]、つまり「マレビト神(客人神、客神)」(末木 1992: 302)であるという。だから、崇仏と排仏の対立は、この仏=客人神が、災厄をもたらす神として理解されていたか否かではなかったか、との見解を紹介している。「神道史の研究家西田長男は、崇仏側が客人神を迎える役目であったのに対し、排仏側がそれを送り出す役目を分担したとみているが、あながち荒唐無稽な説ともいえないように思われる」(末木 1992: 303-4)[3]。であるならば、神の依代(よりしろ)として人間の形をしていることに疑問を感じながらも、無闇に「仏像を壊したり、破壊したりはできないはずである。その場合には丁重に歓待したうえでもとの地に帰っていただくのが神に対する礼である。依代を焼いたり水に流すのもこうした儀礼の一環であり、仏像の廃棄もこうしてみるとそれなりの意味が納得できる」(末木 1992: 303)[4]。この説に従えば、従来の対立が、政治的な対立のみでなく、外来神をめぐる信仰の対立であったと解することもできるものと思われる[5]。歴史的な事件は、文字化されていなければ、はっきりとはわかるものではない。そうであるからこそ、慎重に考えねばならないことだろうが、この崇仏・排仏の対立のように政治的対立のみに帰されることもないだろうとも思われる。それらはかならず複合的な要因を持っており、考えられる要因を吟味することで理解されるものだからだ。われわれはつねに多くの要因から、合理的な説明をしなくてはならないということを、この対立からもいうことができる。

ともかく、この時期の仏教興隆は、聖徳太子(厩戸王)の遺徳として、あるいは聖徳太子(厩戸王)ゆかりの人びとによって、今日まで仏教寺院やさまざまな仏教美術が伝えられており、仏教の拡大に大きな影響力をもったことは間違いない。

仏と神を信仰する

先にも述べたように、日本という地域の土着の信仰について理解しておくことは重要である。なぜなら、ひとつの信仰形態では理解できない山岳信仰修験道神仏習合本地垂迹(ほんじすいじゃく)などの信仰は、仏教と土着の神概念とのかかわりにおいて理解されねばならないからである。本地垂迹の考え方によれば、本来の仏というあり方から神の姿を借りて日本の地に救済のために顕現したとされる。しかし、これは仏教優位の、「仏本神迹」「仏主神従」の論理として神道側からの反発もあり、神道優位の神仏習合のあり方も論じられるようになる。鎌倉時代の伊勢外宮神官・渡会(わたらい)氏による「神道五部書」、室町時代天台宗の僧から神道へと回心した慈遍(じへん)(生没年未詳)の『旧事本記玄義(くじほんぎげんぎ)』、南北朝南朝側指導者であった北畠親房(きたばたけちかふさ)(1293-1354)による『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』(1339)などによって「伊勢神道の理論を天皇中心の神国論の政治的イデオロギーと結びつけて大きな影響を与えた」(末木 1992: 315)。これらを受けて、吉田兼倶(かねとも)(1435-1511)の『唯一神道名法要集』によって神道は理論的に発展し、大成していった。

しかし、これらの神と仏の関係性についての古来の神に対する見解は、「仏教的世界観のもと、道理にもとづく歴史の展開をあとづけた史論」(高取・橋本[1968]2010: 118)である『愚管抄』のなかで、慈円(1155-1225)が述べている。それによれば、天皇の祖先である天照大神(伊勢)、藤原摂関家氏神である春日明神、将軍家の源氏の氏神である八幡大菩薩の協調が必要であり、この「三神の霊託のなかにも存在している国土の宗教的神聖視の協調」(高取・橋本[1968]2010: 121)がなされている。さらに、「神仏習合のもと、神は仏の統摂をうけながら、目にみえないけれどもこの世にあって人の営みを照覧しているといい、伝来の信仰にもとづ」(高取・橋本[1968]2010: 121)く見解を示している。

高取・橋本は、「こうして中世を通じて高められたこの世における神の働きに対する関心は、やがて武家社会の完成につれて儒教の影響もうけいれて定着し、この世のことは神に、あの世のことは仏にという、神と仏のあいだの一種の分業ともいえる形態を用意することになった」(高取・橋本[1968]2010: 121)という考えを述べている。ここで注目しておくべき事柄は、神仏がどちらかの優位を保ちながら単に習合されていたのではなく、さまざまな変化を伴いながら、ある種の「棲み分け」もなされていくという点である。それが、「生」に関することは神に、「死」に関することは仏にといった区分にもつながって行った。

古来の信仰と仏教が結びついたかたちは、山岳信仰修験道についてもいうことができる。この後にも述べる空海は、唐に渡る前には山に籠り厳しい修行をしたことが伝えられているが、山岳信仰修験道は、奈良時代に仏教や道教などと山そのものに対する信仰が合わさり生み出されていった。

山岳信仰修験道については、7世紀後半から8世紀にかけて活動した役小角(えんのおづぬ)に関係づけられて語られ、ある意味での手本としての存在として鎌倉時代初期には修験道の始祖とされるようになった。役小角は、平安時代に呪術や鬼神を使役し、最後には仙人となったなどと伝説化されているが、超人的な「異端的宗教者」(末木 1992: 323)のイメージで語られている。そのような異端の信仰だけで山岳修行が重視されたのではなく、「正統派の仏教者にとっても重要な意味をもっていた」(末木 1992: 323-4)。たとえば、真言宗醍醐寺開山の聖宝(しょうぼう)(832-909)や比叡山で回峰行(千日回峰行)を行った相応(そうおう)(831-918)に見られるように、近世までには修験道は、醍醐三宝院を本寺とする真言系の当山派と聖護院を本寺とする天台系の本山派の二派にわかれて修行がなされていく。このように、仏教をはじめとしたさまざまな外来の信仰が、日本古来の信仰である山岳信仰となって現在にまで至っていることは、十分に配慮されなくてはならないだろう。

奈良時代鎮護国家の仏教

その後、奈良を中心に仏教の拠点が築かれて、国家鎮護のための仏教として、いわゆる南都六宗が成立していく。聖武天皇の発願により建立された大仏・廬舎那仏(るしゃなぶつ)は、752(天平勝宝4)年に開眼供養がなされ、その翌年には、戒律に精通する鑑真(がんじん)(688-763)が度重なる苦難を乗り越えて来日する。この来日が日本仏教史のひとつの転機となっているのは、日本渡航の最大の目的が「部派仏教以来の出家者の戒」を授けることにあり、日本の仏教にとって本格的な戒律制度を確立する(末木 1992: 103)ことになるからである。このことを契機に、戒律を授けることのできる寺院として奈良東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺が選ばれ、天下三戒壇の体制が成立する。後述するように、この三寺院のみに許された受戒の体制は、822年に比叡山伝教大師最澄の悲願であった大乗戒壇が設けられたことによって変化していく。

南都の教学は、法相宗などのように「宗」と呼ばれているものの、現在のように異なる教理や信仰によって独立して組織されるようなものではなく、「一時院内に諸宗が同居して研鑽にはげむ」(末木 1992: 52)形態をとっており、この場合の「宗」は、「仏教研究の科目」であり、「一人の僧侶が二つ以上の宗(科目)を研究することもあった」(立川 1995: 41)。このような形態の「宗」が「宗派」へと発展していく礎は、次のふたりの日本仏教界の巨人によってつくられていくこととなる。

[1] 聖徳太子(厩戸王)という表記について。最近の歴史研究では、聖徳太子が歴史上の実在人物であるというよりは、伝説的創作の可能性が高いとされている。つまり、ひとりの人物ではないのではないかという説がある。この説を次のように考えれば、矛盾はないように思われる。超人的な伝説をもつ聖徳太子はひとりの人物であるというより、「聖徳太子(X)」という構造になっており、さまざまな人びとの行いが聖徳太子という人物に結実していると見るほうがいいのではないかというものだ。Xの部分に有名無名を問わず、さまざまに事を成した人物が入るのだが、それらは伝説化されてしまい、すべてが聖徳太子という名のもとに収斂されているのではないだろうか。伝説的な過去の偉人たちによくあることだが、「このため池は“○○大師”が作った」、「この堤は鬼の力を借りて修験者が作った」などのように伝えられているものの多くは、聖徳太子と同様の「○○(X)」の構造が成り立っており、数々の名もなき者たちの伝説が歴史上のひとりの人物に帰されているのだと考えられる(実際には名前があったのかもしれない)。鬼の仕業や異形の者の仕業といわれる伝承も、そのような構造で成り立った話ではないだろうか。

[2] 高谷好一(2017)は、日本の信仰にはふたつの傾向、つまり「汎神論」と「外来神歓待」があり、前者は北の森の文化に属し、後者は南の海の民の文化に属すると考えられると述べている。高谷は、さらにこれらが時間をかけて混合されて、さまざまな信仰の形を生み出しているとする。この高谷説を採用すると、排仏と崇仏の話はより大きな広がりをもつものであるといえるし、考察すべき点が多くあり、本稿では手に余る代物である。

[3] 西田長男は自説を (西田1956: 496-534)で展開している。次の引用からも分かるように、西田は、崇仏派と排仏派の対立そのものがなかったのではないかとする。「蘇我氏が仏神を崇敬するに至ったのは、その迎える方の立場からしたものであり、物部・中臣二氏が之を排斥したのは送る方の立場からしたものといい得られる。それは仏教対神道の抗諍などでは決してないのである。ともに仏神への篤い信仰から、かくしたものといい得られる」(西田 1956: 534)。西田の引用については、歴史的仮名づかいと旧漢字を変更している。以下同様。

[4] 西田は、「神は常在したまうものでなく、遠き海の彼方より或は遥か山高きところより、その時々に訪れられ、かくして又去り行かれるのが古往今来の最もありふれた姿であろうと考えられる。言い換えればそれは常世神である。しかし仏教の伝来は、仏像という永遠安置の新たなる形式を齎(もたら)し、此に寺院が建立せられると共に、神社建築も亦はじめて起こされるに至った」(西田 1956: 23)と述べ、神像も造られ、そのはじまりは僧形の八幡神像ではないかと考えている。

[5] 仏を神とすることに疑義が呈されるかもしれない。しかし、西田が述べるように、「もともと仏は、諸々の古典に、仏神・他神・蕃神・大唐神・唐神・他国神・父神などとある如く、神として祭られ、仏寺をも他国神宮というたのであって」(西田 1956: 91)、さまざまな神のひとつであった。

引用・参考文献

橋爪大三郎、1986、『仏教の言説戦略』勁草書房

末木文美士、1992、『日本仏教史——思想史としてのアプローチ』新潮社。

松尾剛次、1995、『鎌倉新仏教の誕生——勧進・穢れ・破戒の中世』講談社

――――、2011、『葬式仏教の誕生――中世の仏教革命』平凡社

西田長男、1956、『日本宗教思想史の研究』理想社

定方晟、1992、『大乗経典を読む』講談社

佐々木閑、2019、『大乗仏教——ブッダの教えはどこへ向かうのか』NHK出版。

立川武蔵、1995、『日本仏教の思想——需要と変容の千五百年史』講談社

高取正男、[1979]1993、『神道の成立』平凡社

高取正男・橋本峰雄、[1968]2010、『宗教以前』筑摩書房

高谷好一、2017、『世界単位日本――列島の文明生態史』京都大学学術出版会。

4. 大乗仏教とは何か

「釈迦の仏教」から釈迦入滅後の仏教

今日、われわれが知っている日本の仏教は、「釈迦の仏教」そのものではなく、インドでさまざまに発展し、中国・朝鮮半島を経て伝来した大乗仏教である。「釈迦の仏教」といういい方は、佐々木閑(2019)による便宜的な定義で、「お釈迦様時代のオリジナルの仏教」のことであるが、大乗仏教はその「オリジナルの教えとは別のものとして、日本や中国に伝わった」(佐々木 2019: 16)仏教である。

仏教の伝播〔(佐々木 2019: 99)より転載〕

「釈迦の仏教」では、基本的に「出家してひたすら修行に励み、苦しみの源である煩悩を消し去ることでしか、人は真の安楽に達することができない」(佐々木 2019: 18)という釈迦の考えに基づく、出家修行が重視されている。そして、それは一人ひとりが個別に行うことで救われるというものであり、その意味で修行も救いも個人に与えられるものだと考えらえていた。これは、一般的に理解されるような共同体的な宗教としての仏教ではないということである。つまり、われわれが知っているような共同体やイエの宗教としての仏教は、江戸時代の幕府の下位組織として制度化されたことによる結果として日本で確立していったものであり、仏教の信仰は、最初から個人主義的であるということである。

佐々木によれば、「釈迦の仏教」と呼ぶブッダの教えが大乗仏教へと発展していくにあたり、「釈迦の仏教」から変化をうながした条件があった[1]。佐々木は、その条件をまとめて列挙しているわけではないが、本章の関心に即して単純化したうえで列挙してみると、次の4点にまとめることができる。第一に「破僧の定義変更」(佐々木 2019: 34-8)、第二に「ブッダへの道が万人に開かれているとする考え方が広まったこと」(佐々木 2019: 43-51)、第三に「他者に対する善行が修行の一種とされるようになったこと」(佐々木 2019: 64-78)があげられる。そして最後に、「経典をブッダそのものと考える」(佐々木 2019: 79-82)というものである。これらの4つの契機を順に説明しておこう。

それまでは、「これが正しいブッダの教えの解釈である」と主張することは、サンガを乱すものとされていたため、釈迦の教えの解釈という考え方を許容するものではなかったからだ。ところが、「破僧の定義変更」によって、釈迦の教えがさまざまに解釈されることを可能にした。

第二の変化は、ブッダになれるのは、この世界において釈迦ひとりだけであったものが、誰でもブッダになれると考えられるようになったことだ。それまでは、釈迦は唯一無二のブッダであると考えられていた。それゆえ、釈迦以外の者が修行をして悟りを得たとしても、「阿(あ)羅(ら)漢(かん)」と呼ばれるブッダの下位のステージの存在になるだけだとされていた。ところが、その考え方が変化し、ブッダを手本とすることによって、誰でもブッダになれると信じられるようになった。ブッダになる可能性のある者を「菩(ぼ)薩(さつ)」といい、ごくわずかの者がそう呼ばれていたが、誰でもブッダになれるという考え方が広まり、ブッダを目指す者も菩薩と呼ばれるようになった。そして、それはブッダとなった釈迦にも、お手本となるべきブッダがいたという想定を可能にする(そう理解しなければ、釈迦がブッダになったことをうまく説明できない)。輪廻を繰り返した釈迦は、過去にブッダに接することで、菩薩の資格を得て、ブッダになったという考え方である。そして、それらを時間軸上で延長して「未来仏[2]」の概念を生み出す。理論的には、さまざまな考え方を生み出していくことになるが、ともかく、「誰であってもブッダになることができる」という思想が新たに生み出されたことが、大乗仏教への転換点のひとつとなった。

「釈迦の仏教」では、輪廻を断ち切るためには、自意識に基づいた行いである「業」を避けることが重要であった。それゆえ、「善行」も「悪行」も自意識にかかわる行ないとして、輪廻解脱をするためには避けられるべき行為であった。しかし、現世で善行を積むことは、ブッダになるためのものとして振り向けることができると考えられるようになった。それは、佐々木によれば、『般若経』の思想が生み出したものである。そして、これが3番目の「他者への善行(=廻向(えこう)・回向(えこう))の励行」につながることとなった(だから、葬儀は死者に対する廻向である)。

般若経』の思想は、経典をブッダそのものとしてとらえることも可能にした。『般若経』は、廻向に向けるための修行(六波羅蜜)のほかに、「『般若経』を讃えること」(佐々木 2019: 80)を説いている。「教えそのもの」をブッダであるとして(これを法身(ほっしん)という)讃えること、「つまり、お経を讃えるという行為が、ブッダ自身を崇め、供養していることになる」(佐々木 2019: 80)と考えているのだ。経典をブッダとする効果は、いつでもブッダに会えるということである。経典がブッダそのものであれば、輪廻を繰り返して、いつかの輪廻転生によってブッダに会うということを期待する必要はなくなる。このようにして、これらの条件が徐々に整うことによって、大乗仏教は成立していくのである。

釈迦入滅後の「身体」と「教え」の分離とその抽象化

「経典をブッダそのものとする」思想は、社会学的にも重要な点を含んでいる。橋爪大三郎(1986)の社会学的分析をもとに、そのことを明らかにしておこう。橋爪は言語ゲーム[3]論によって仏教を解明する理論的仕事を行った。そこでは、大乗仏教を平川彰の説に、つまり、出家と在家の非対称な関係を、いわば調停する発想として在家の信者たちが中心的に生み出した大乗仏教の諸思想が登場するという説に立っている。しかし、最近の説によれば、出家者は経済活動を行うことができず、在家に依存することが必要となり、在家の発想を取り入れざるを得なかったという点は、否定されている[4]。そのため、橋爪説は古いと考えられるかもしれない。

しかし、以下で説明するように橋爪説には見るべき点がある。それが「経典をブッダそのものとみなす思想」にある、ブッダの二重性である。悟りを得た釈迦(=ブッダ)は、遊行して各地で説法を行い、サンガ内ではさらに戒律などについても説いたことだろう。これを「ブッダの言説」(橋爪 1986: 134)と呼ぶことにする。また遊行する釈迦は、さまざまな人びとに会い、語り、触れ合うことができた。これは「ブッダの身体」(橋爪 1986: 134)に注目した釈迦のあり方であり、入滅後は「舎利」となって「仏塔信仰」をもたらす、ある意味ではモノとしての身体(聖なる身体・聖なる遺物・聖なるモノ)である。ブッダ純化された身体性をモノとしての身体であるとするならば、究極的には「舎利(骨)」において実現するものである。釈迦の存命中は、言説と身体性は「人格のうえで交叉し、調停されていた」(橋爪 1986: 134)と考えられる。

この二重性は、釈迦の存命中にもありえたことだが、釈迦入滅後に決定的に分離しただろうと思われる。釈迦存命中から、ブッダの言説を維持し、それを手本に悟りへの修行を行う出家者たちと、ブッダの身体に接触し崇めることによって信仰を保つ在家信者者たちの態度を生み出しただろう(聖者を敬う大衆の信仰は、バラモン教による信仰の形態である)。どちらも「ブッダが悟りを得ていた」ということを信じる者たちであるが、このふたつの集団によって極限的に現れたものと思われる。橋爪は、宗教の実質を、「信じること」であると述べ、「“信じる”とは、ふるまいである。あることがらを事実と前提してふるまうことである」(橋爪 1986: 112)と定義しているが、この意味において、ブッダの言説とブッダの身体を信じる両者はまさに「釈迦の仏教」の信者であった。もちろん、ふたつの教団が明確に存在していたということではない。それは理念型として、ブッダの二重性のうちのどちらを重視していたかによって、ふたつの集団がありえただろうということである。

とはいえ、このことから帰結することとは何か。入滅することによって釈迦の人格から分離した「言説」と「身体」は、教えに純化される方向と(釈迦の身体を求める)仏塔の信仰へと突き詰められたということである。注意しておくべき点としては、釈迦の入滅後に、身体性を純化していけば、やがてブッダは人間・釈迦に限定されなくなるということだ。それは、教えとモノとしての身体を抽象したうえで合一していく運動でもあるということだ。佐々木(2019)は、部派仏教のなかから大乗の流れが出てきたであろうと述べている。この佐々木の推測に従えば、サンガの内部に濃厚に残り続けたであろう「教えの純化」は、そのことにより開かれていく教えの集成である経典をブッダそのものとすることで、その身体性を取り戻しながら大乗の諸思想へと結実していったものと考えられる。そこには、モノとしての身体を信仰し続ける集団の影響もあったことだろう。そこに至りつくことによって、大乗仏教はさまざまな思想の内的な進展と、ときには土着思想を取り込みながら進展していくことになったと考えられる。

このようにして経典も、このふたつの抽象化から理解することができると思われる。『法華経』は、ブッダの身体性を永遠の存在であるとし(久遠実成(くおんじつじょう)[5])、ブッダの言説を「誰であってもブッダになることができる」(衆生成仏(しゅじょうじょうぶつ))とみなしている。『浄土三部教』は、空間的に異なる次元にいる阿弥陀如来のうちにブッダの身体性を見出し、その救いに絶対の信頼をおくこと(絶対他力)を説いている。『華厳経』は、ブッダの身体性を宇宙大にまで拡張し(毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、宇宙の原理と教えを合一させていった。密教の経典は、ブッダ大日如来であるとするが、これは華厳の教理をさらに純化していったものと見なすことができる。このように、経典をブッダそのものであるとする大乗仏教の信仰のあり方からは、さまざまな宗派が生まれてくる理由を垣間見ることができるのではないだろうか。

ところで、日本にも統一王権が成立した初期のころから、経典は伝来している。正式なものとしては、百済聖明王によって仏像とともに欽明大王に贈られたもので、西暦538年頃といわれている。また、735年には、奈良時代法相宗の僧・玄昉(げんぼう)が経論五千余巻をともなって帰朝しており、主要な経典の多くはこの頃までに伝わっていた。大乗仏教を理解する基本的な要素は伝来していたのだ。

このように日本へ伝来した仏教は、どのような経緯をたどったのだろうか。鎌倉新仏教以後の展開はすでに見てきたので、次に公伝から中世・鎌倉期までの日本仏教について見ていくことにしよう。

[1] 佐々木も述べるように、大乗仏教は、一つの部派仏教から出てきたものではなく、さまざまな地域で、多様な考え方が少しずつ生み出されて出来上がったものだろう(佐々木 2019: 42-3)。

[2]仏陀信仰に源流があり、過去仏に端を発して、未来にも仏が現れ、救いの手をさしのべるはずとの教理の永遠性の観点から、釈迦滅後に釈迦に代わる仏の出現が必要とされた」(『岩波 仏教辞典 第二版』「未来仏」の項より)。

[3] 「哲学者ヴィトゲンシュタイン晩年の中心思想」。「哲学を含む人間の営みがどれも言語ゲームにほかならないという洞察」に基づいている哲学的思想。「言語ゲームは遂行的に人間をとらえるので、別の言語ゲームによらない限り客観化できない。ここから、(1)言語ゲーム相対に対する言明はありえない、(2)個々の言語ゲームの記述(論理学)ならありうるが、それは元の言語ゲームを拘束しない、などの帰結が生じる」(弘文堂『社会学事典 縮刷版』より。)

[4] グレゴリー・ショペン『インドの僧院生活――大乗仏教興起時代』(小谷信千代訳、春秋社、2000)を参照。

[5]法華経』のなかで、菩薩たちの問いに対して、はるか昔から成仏していたと説いていたとする考え方。天台宗日蓮宗ではこの考え方が重要視された。

引用・参考文献

橋爪大三郎、1986、『仏教の言説戦略』勁草書房

末木文美士、1992、『日本仏教史——思想史としてのアプローチ』新潮社。

松尾剛次、1995、『鎌倉新仏教の誕生——勧進・穢れ・破戒の中世』講談社

――――、2011、『葬式仏教の誕生――中世の仏教革命』平凡社

西田長男、1956、『日本宗教思想史の研究』理想社

定方晟、1992、『大乗経典を読む』講談社

佐々木閑、2019、『大乗仏教——ブッダの教えはどこへ向かうのか』NHK出版。

立川武蔵、1995、『日本仏教の思想——需要と変容の千五百年史』講談社

高取正男、[1979]1993、『神道の成立』平凡社

高取正男・橋本峰雄、[1968]2010、『宗教以前』筑摩書房

高谷好一、2017、『世界単位日本――列島の文明生態史』京都大学学術出版会。

3.近世の日本仏教の制度化

近世幕藩体制のなかの仏教

「日本の仏教について②」でも述べたように、遁世僧たちは新たな教団を作り、積極的に穢れに関わることによって、神道に組み込まれることのなかった葬送の場面において、力を発揮することとなった。それは、誕生や結婚などの生と結びついた神道と、葬送儀礼に関わる死と結びついた仏教との宗教上、信仰上の棲み分けが行われ、「安定した生活構造が確立しえた」(末木 1992: 236)と見なすことも可能だろう[1]。それゆえ、近世の仏教の第一の特徴は、「葬式仏教」の確立をあげることができる。

そして、さらに近世の特徴としては、教団の拡大によって生じた権力との拮抗とその後の懐柔、さらに制度として確立していったことを挙げることができる。まず、仏教組織が大きな集団となり、しばしば時の権力者や地方の戦国大名と拮抗し始めた。比叡山高野山・根来、本願寺の大寺院や大教団は、近世初期までは権力者に対抗していた。また、一向一揆の拡大や京を舞台とした法華一揆などが台頭していた。織田信長豊臣秀吉は、それらの抵抗運動を実力行使によって平定していったことによって、次第に戦国領主をしのぐほどの力をもつことはなくなって行った。その後の徳川政権は、1601(慶長6)から1615(元和元)年までに諸宗派ごとに出した諸宗諸本山法度[2]・寺院法度を嚆矢として、それまで朝廷にあった僧侶への影響力を排除し、幕藩体制のうちに取り込んでいった。そのような政治的に行われていった仏教界の改変なかで、現代日本にまで関係する制度としては、このとき作られた本末制度と寺檀制度(檀家制度)がある。

徳川幕府は、中世までに宗派ごとに成立していた本山-末寺の関係を制度化するために、各宗の本末関係を提出させ、すべての寺院を「本山―本寺―中本寺―直末寺―孫末寺」のように系列化してしまい、寺院間の関係性を固定化することを目指した。この本末制度は、寺院の力関係を明確にすることになり、「諸種の上納金をとるとともに、人事権をはじめ強大な権力をもって末寺を支配すること」(末木 1992: 238)を可能とした。さらに寺檀制度は、キリスト教の禁教の貫徹(「宗門改帳」の作成)と寺院と檀家の結びつきを固定化させ、寺院を幕藩体制のうちに取り込み、思想面でも行政面でも幕藩体制の安定化に寄与することとなった。そして、それが今日まで、寺院と信者との関係の基礎となっている。

とはいえ、そのような檀家制度の形態も、現代では崩壊しつつある。その事例としては、檀家の減少による無住寺や過疎化による廃寺などの社会問題として語られるようになっている。檀家制度の崩壊は、地域の崩壊とそれに拍車をかける個人主義の結果であり、現代社会に特有のものであるとされるが、この見解は、一方においては正しいが、すべてであるとは言えない。

たとえば、緩やかな個人主義は幕府によって整備された檀家制度にもみることができる。この制度は、単に寺院と家とを結びつけたのではなく、家単位で墓碑を立て、個人を記憶し、供養するという副産物を生み出したのであり、この時から個人の供養は意識されるようになったからである。そして、これが現代にまで一般化したのだ。つまり、現代になって個人主義的になり、檀家制度が崩壊しているというよりは、もともと個人を記憶するという形態がこの時できあがったと考えるべきである。それでもなお、檀家制度が可能であったのは、家制度があったと見るべきだろう。確かに、個人を供養することが仏教伝来以来なかったわけではない。高取・橋本が述べるように、法隆寺の「玉虫厨子」のような個人の念持仏を安置する厨子に見られるように、個人供養がなかったわけではない(高取・橋本 [1968]2010: 173)。しかし、伝統的な先祖祭祀のあり方としては、個人というよりは没個性の「御先祖さん」というような霊格をまつることであり、積極的に個人を記憶し供養することではなかった。家の構成員すべてが同等に供養されたというわけではないとしても、亡くなった個人を記憶する供養塔としての墓が作られるに至った点をみると、個人主義の萌芽のようなものがあることが分かる。檀家制度は、日本の近代化によって地理的・社会的な移動が自由になり、個人主義が完全なものへと展開し、家制度の維持が困難となって解体したのだと考えられる。そして、われわれが見ている仏教の現在は、この地点にあるのだ。

現代の仏教が抱える問題

多くの僧侶が葬式や法事のみで仏教に関わるのではなく、日ごろから関わることを望んでおられるようである(この節は、社会調査報告書の一部であり、聞き取りから記したものである)。「よく生きるためには、死について不安に思うことなく生きること、そのために仏教の成すことはある」と述べられる方や、あるご住職は、「仏教にはまって面白さを知ってもらうためには、裾野を広げることだ」と語り、仏教を広めていくことについて考えを聞かせてくださった。

なかでも印象的な語りは、「一般的に宗教は社会貢献すべきという考えがあるが、どのように考えるか」というわれわれの質問に対して、「都市と地方で抱えている問題が異なる」という対象者の回答であった。われわれの調査は、大学から公共交通機関を使って訪ねやすい地域にお住いの対象者に絞ったために、多くは都市部の寺院のご住職にお伺いすることになった。だが、その方がたのなかには、過疎化が進む地域の住職も兼ねる方がたもおられ、「都市と地方にある相違点」について考えを述べられたのであった。その方がたによれば、地方では寺院の経済活動だけでは生活はできず、公務員などの兼業の方がたが多く、平日は別の仕事を行い、土曜・日曜は法事にあてられるため、「地域の中心になること」や「社会貢献活動に積極的に参加すること」などの時間を取ることが困難であると話しておられた。

確かに、「お寺はかつて地域の拠点だったのだから、地域に根差して活動していけばいいのではないか」というような意見も聞かれるが、江戸期のように国民皆仏教徒だった時代であれば、地域のお寺の公共的機能に期待もできただろうが、現在ではそれを望むのは難しい。とはいえ、信仰の自由が謳歌される現代にあって、地域全体や家族単位での信者を得ることは期待できないのであれば、個人への布教をすすめるしかないだろう。しかし、仏教は、そもそも共同体の宗教であったのだろうか。この連続の論考では、このことを次回以降で確認していくが、その前に仏教がどのように広まっていったのか、つまりどのような手段で布教がなされていったのかについて、概観しておこう。

仏の教えを乗せてゆくもの

仏教が、釈迦牟尼の教えに基づくものであるならば、その教えがいかなるものであるかを伝えるすべがなくてはならないが、どのようになされていったのだろうか。真っ先に思いつくのは、仏像であろう。仏教公伝として知られる、百済聖明王[3]から大和の大王に送られた経典とともに贈られた仏像の例もある。仏像は人型をした仏神[4]、あるいは永続的に崇拝できる「神」として、仏教の教えを伝える聖なるものとして人びとのうちへと浸透していくこととなった。また、寺院にある木造や乾漆像や金銅像だけではなく、地蔵信仰によって広まった路傍の石地蔵菩薩は、地獄にまで救いを差し伸べる庶民や子どもの仏としての性格を、日常的に人びとに対して伝えたことと思う。今でも京都市内には、多くの地蔵菩薩が安置され、夏には子どもたちの祭りとしての地蔵盆[5]などもあり、身近な存在となっている。

絵画もまた、仏教の教えを伝えるものである。世界的には、釈迦の生涯や前世の物語が描かれたもの、経典の内容が図示されたもの、浄土が描かれたものなどがある。しかし、日本においては、上記のような種類のものが少なく、密教画として描かれた曼荼羅浄土教の流行によって描かれた来迎図、禅画の多くが残されている。『岩波 仏教辞典 第二版』の「仏画」の項には、「平安末期から鎌倉時代にかけては仏教の大衆化が進み、教化布教の対象としての仏教説話画が流行する一方、中国渡来の禅宗絵画などが興隆し、仏画の展開は事実上終焉を迎えた」とあり、布教活動にも用いられたことがわかる。縁起絵巻のように寺院の由緒・起源を伝える絵巻物や、祖師たちを描写した「絵伝」は、その偉業と仏の教えの要点をわかりやすく伝える方法となった。それ以外にも、地獄図などによって絵解きを行い、死と死後の世界との関係で、仏教の教えをもとに「今なすべきこと」について語られてきた。

さらに、僧侶そのものが仏法の乗り物となって、各地を行脚(あんぎゃ)・遊行(ゆぎょう)して各地に教えを広めていった(先述の「勧進」もまたそのひとつである)。彼らにとっては、「托鉢を糊口(ここう)の資としてひたすら解脱を求めるのが本意」(「遊行」『岩波 仏教辞典 第二版』)であったとしても、僧侶たちを迎え入れる者からすれば、それは仏法を運ぶ者であったことだろう。現代より、移動が容易ではなかった時代には、村と村、共同体と共同体を結び行く者は、世間を知るための一つの手がかりであっただろうし、時代によっては、技術を伝えるものであったと思われる。勧進を行う者も仏教を伝えて歩いただろうし、同様に念仏踊[6]は各地に広がり、今も盆踊りなどのようなかたちで残っている。また、現在では、落語や講談のようなものにとってかわられているけれども、話芸の伝統ももともと説教を行うためのものであった。

ここまで仏像や仏画、僧侶を仏の教え/仏法の「乗り物」という言葉で表現してきたが、これを「メディア」ということができる。メディアには、情報を伝達する仲介者としての意味があるから、このように考えることは問題ではないだろう。それぞれのメディアが、仏の教えを伝え、それらに触れた者はその教えを受け取っていたと思われる。現代の寺院でも、門前の掲示板の言葉や、定期に発行されている寺院の広報、ときどきに更新されるホームページなどによって寺院の情報や仏教について発信され、人びとに教えを伝えている。SNS時代の現在では、組織のアカウントや個人のアカウントをもって情報が発信されている。このように仏の教えは、時代によってさまざまな乗り物で伝えられてきた。立命館大学社会学実習の報告書『寺院・僧侶のSNS利用について—―16名の僧侶・寺院関係者へのインタビュー調査から』では、そのなかでも仏教関係者はSNSをどのように利用しているのかということに焦点が絞られ、それぞれの章で論じられている[7]

[1] 日本の伝統的な信仰のかたちのうちに「死の観念」「死後の世界観」が脆弱であるか欠けているというのは、これまで多く指摘されるところである。

[2] 江戸時代の初期から本山格の有力寺院(比叡山、東寺など)や宗派に対して出された。寺院内での案を提出させたこと、また本山の影響力の強化にもつながったことなどにより受容されたという側面もあるが、幕府による管理・統制に与することとなった。しかし、民衆に幅広い支持をもつ、浄土真宗日蓮宗には当初法度を出すことができなかった。

[3] 「正しくは〈聖王〉。〔百済を立て直した父・武寧王の後を継ぎ:引用者〕日本と修好し、仏像・経論を大和の朝廷に献じた」(『岩波 仏教辞典 第二版』「聖明王」の項より)。

[4] 日本古来の神は人の形をしていなかったため、かなり奇妙なものとして映ったようだ。

[5] 地蔵盆は、近畿地方を中心として、8月23日ごろに行われる。

[6] 「僧衆の〈踊念仏〉に対して在家信者の踊りを〈念仏踊〉と言って区別する。中・近世の一般的用語としては両語を同義に用い、特に区別しないことも多い」(『岩波 仏教辞典 第二版』「念仏踊」の項より)。

[7] 本来、今回書いていることは1章を構成するものであったが、担当する学生の個人的事情により残念ながら調査に最後まで参加ができなくなり、執筆することができなくなってしまった。そのため、筆者の責任において内容も当初の計画とは大幅に変更して書かれたものである。当初の計画では、宗教は新しいメディアに親和的であり、仏教においてもそれが確認できるのではないかというものであった。当初の担当者によって、このテーマがいずれかの機会に発表されることを切に希望する。

引用・参考文献

橋爪大三郎、1986、『仏教の言説戦略』勁草書房

末木文美士、1992、『日本仏教史——思想史としてのアプローチ』新潮社。

松尾剛次、1995、『鎌倉新仏教の誕生——勧進・穢れ・破戒の中世』講談社

――――、2011、『葬式仏教の誕生――中世の仏教革命』平凡社

西田長男、1956、『日本宗教思想史の研究』理想社

定方晟、1992、『大乗経典を読む』講談社

佐々木閑、2019、『大乗仏教——ブッダの教えはどこへ向かうのか』NHK出版。

立川武蔵、1995、『日本仏教の思想——需要と変容の千五百年史』講談社

高取正男、[1979]1993、『神道の成立』平凡社

高取正男・橋本峰雄、[1968]2010、『宗教以前』筑摩書房

高谷好一、2017、『世界単位日本――列島の文明生態史』京都大学学術出版会。

2. ケガレの意味、穢れに積極的にかかわる仏教

官僧たちがケガレを避けなければならなかったことを理解するためには、日本の信仰にとってのケガレの意味を知ることが重要であると思われる。なぜなら、どのような文化も発祥の地を離れて伝播するとき、あらゆる変容を伴うものであり、その変容は伝播先の土地の文化を取り込みながら行われていくものであるからだ。とすれば、インドを発って日本に至りついた仏教もさまざまな経由地の文化を取り入れながら、伝播の最終地点である極東の日本においても、この地の文化を取り入れて変容しているはずである。

高取正男・橋本峰雄は、原始神道の「イミ」にはふたつの面があると指摘している(高取・橋本[1968]2010: 56-8)。それは、辞書的な漢字の使い分けにも見てとれる。「斎み」と「忌み」である。「斎み」は「ポジティブな行動原理としての戒慎」、すなわち「神事に慎むこと」であり、「忌み」は「ネガティブな行動原理としての禁制」、すなわち「嫌い避けること」である(高取・橋本[1968]2010: 57)。前者は「みずからの穢れを去って聖に近づこうとすること」であり、後者は「穢れを避けてみずからの聖性を維持しようとする」(高取・橋本[1968]2010: 49)ことであったため、聖なる存在である天皇に使える貴族や官僧たちは、穢れを避ける「忌み」を重視するようになったと思われる。

たとえば、民間習俗においても「斎み」を見ることができる。高取は、その例として京都府福知山市三和町(旧・天田郡三和町大原町垣内(まちがいち)の産屋をあげている(高取 [1979]1993: 29-34)。大原の集落を流れる川合川の対岸には、産屋が立てられていた。産気づいた妊婦は、家族から離れて出産を産屋で行い、七日七夜をその場所で過ごす。産屋の立つ場所は川の氾濫でも水につかることもない場所で、産屋はその場所に流れ着いた木材によって建てられていたという。氾濫の被害を受けないその場所も、神のいる山から流れてくる木材も、神意によるものであり、その小屋で出産することは、生命を神から授かるということであった。それは、神=聖性へと近づくことであり、本来の「イミ」のあり方を、高取は説得的に論じている。

大原の産屋(「大原うぶやの里」HPより転載)

天皇の即位に伴う大嘗祭がとり行われる大嘗宮も、平安時代の中頃までは、この産屋と同様の構造をもっていたと、さまざまな資料をもとに高取は推察している(高取 [1979]1993: 91)。高取によれば、大嘗宮の悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)ももとは「地面に束草を敷き、簀(す)をのせ、蓆(むしろ)を敷い」(高取 [1979]1993: 91)た簡素なもので、「いずれも原始時代の俤(おもかげ)をとどめているような、古風で質素なたたずまいというだけではすまない厳粛な宗教的意味合いが共通して存在している」(高取 [1979]1993: 91)[1]

さらに、出雲の新任の国造がイミゴモリする際の「厳の真屋(いつのまや)」も、大原の産屋、大嘗宮の悠紀殿・主基殿と同じ構造をもっており、土間には、人に踏まれていない山野に自生する「麁草(あらくさ)」(「あら」は「生まれながらの」の意)が敷き詰められていた。そしてこの場で、潔斎してイミゴモリをする。イミゴモリは、聖性へと近づくことを目的として行われ(斎み)、それゆえ、聖性を身にまとおうとする者と、その者を周辺で世話をする者は、二次的に穢れを遠ざける(忌み)ということが重要になったのであろう。やがて、「斎み」よりも「忌み」の意識が優位になると、イミの堕落形態としてタブーを避けることだけが独り歩きすることになる。つまり、イミに対する意識を、「穢れを忌み避ける意識に局限すると、そのための禁忌だけがつぎつぎに架上され、それを守りさえすればよいとする堕落がはじま」(高取・橋本[1968]2010: 53)ったのだと考えられる。

平安の貴族たちが、自身の肉親を荼毘(だび)に付して埋葬するまでを見届けず、また祖父の墓の場所さえ知ることはなかった(高取・橋本[1968]2010: 31-2)という、「死穢」をできる限り避けようとした傾向の意味も、先の事例から次のように理解できる。つまり、平安貴族にとってのイミとは、天皇という聖なる存在を汚すことのないように、自らも穢れを避けることを意味しており、中央の政府要人に見られる傾向であった。そして、それは個別の人びとの救済という目的ではなく、天皇に奉仕して全体としての国家の鎮護に関係する官僧にも同じようにケガレを忌避することが求められたのだった(松尾 1995: 57-60)。今では想像しがたいことだが、官僧は組織的に葬送儀礼を行うことはなかったこと、これが鎌倉新仏教との大きな違いである。このような官僧に対して、葬式や非人救済・女人救済に積極的にかかわったのは、遁世僧(とんせいそう)[2]とされる僧侶たちであった。

松尾(1995)(2011)は、「穢れは基本的に伝染すると考えられて」おり、例えば、「甲なる人物が死体のある場所に留まり、その後で乙なる人物の家に行くと、乙の家の人々はみな死穢に触れたことになる」と見なされたことを紹介している。さらに、甲と乙の死穢の重さに差はなく、甲も乙も(乙の家の住人も)甲と同様に死穢に触れたものとされたという。人間の死穢は、神社に関わる規定を定めた『延喜式』によれば、もっとも強いものであり、穢れが消滅するという期間は30日と定められた。それは、ケガレのなかで最も長い期間が設定されていた。

さらに、人間の遺体の一部に触れることでも死穢を受けるとされていたので、「五体不俱の穢れ」というものがあり、古代の貴族の日記にはたびたびこのことへの言及があると松尾は指摘している。この穢れは、例えば、犬などが遺体の一部を咥えて邸宅内に持ち運んでくるといったようなことで生じるもので、死体の遺存状況によっても異なるが、完全な遺体でない場合は、7日が死穢を忌む期間と定められていた。そして、これは道路や橋、河原などの開放的な空間にある死体では穢れることはないと考えられており、邸宅などのプライベートな閉じた空間にもち込まれることで発生し、伝染するものであった。

貴族の日記にたびたび見られるこの穢れに対する言及から推測することができるのは、庶民の間では遺体を遺棄する、あるいは風葬することが一般的であったということである。そのため、この「五体不俱の穢れ」に注目することが、本節の課題である「死穢」の問題、さらには「葬送」を考えるうえで重要である。当時は道路や橋、河原が死体遺棄の場所になることも多くあり、現代の発掘調査でも平安から鎌倉時代の京都の道路の側溝や河原からは人骨などが発見されており、牛馬の骨とともに発見される例もあることから、葬送意識がない遺棄の状態であったことが分かっている。

このように死体は遺棄され、さらに死期の迫った病人や老人などは、みずから河原などに赴いて死を迎えることもあった(貴族に使える下男・下女も死期が迫ると遺棄された)。それは高位の僧侶以外の支援者をもたない僧侶にとっても同様であったという。986(寛和2)年には、そうした僧侶たちの間で互いに葬送を行うという結社「二十五三昧会(にじゅうござんまいえ)」が源信僧都(942-1017)によって組織された。この結社は、念仏三昧を修することを柱とするものであったが、そこに参集する僧侶の葬送協力についても取り決められており、葬送結社という意味合いをもつものであった[3]

念仏結社の僧侶たちによって葬送儀礼は確立されていき、僧侶が葬式に関わるきっかけとなっていった。そして、このような結社が、武士や有力者の間に広まっていくこととなったが、それは人びとが「仏教式の葬送を望む」ようになったからであった。とくに「怨霊に対処するには仏教が最上の法」(高取 [1979]2010: 186)であったと高取は指摘しているように、「後生善処を祈る法会は死者の冥路に資し、護国の法会はこの世を害する霊魂の力を空無化し、その妄執から解脱させる力をもつからである」(高取 [1979]2010: 186)。どのような死者に対しても有効な力を発揮できるものとしての仏教という考え方が、奈良時代の後期から平安初期にかけて存在していた[4]

明恵房高弁

鎌倉新仏教の源流の僧侶たちが、死穢を超越する論理を必要に駆られて確立していき、そのなかから遁世僧となって新たな宗派を成立させ、いわゆる鎌倉新仏教をつくっていくのだが、旧仏教の側からも死穢を含む「穢れ」に挑む改革派僧侶たちが輩出されていく。つまり、官僧の遁世僧化ともいうべき事態があらわれる。松尾の指摘によれば、「遁世」の本来の意味は、俗界を離れて僧侶の世界に入ることを意味していたが、僧侶の世界が俗界の影響を受ける、端的にいえば、僧侶の世界が乱れてしまったがために、そこからの離脱のことも遁世というようになった。具体的には、天皇や有力者の子弟が僧侶となって官僧世界へと入ってくることで、俗世界の力関係が官僧世界に影響するようになったこと、または、妻帯が戒律で厳しく禁じられていた僧侶たちが、稚児や童子のような男児を周囲に置き、男色文化が蔓延し、官僧の世界が乱れたものとなってしまっていた。それを嫌った僧侶たちは、そこから離れて(つまり遁世して)、一部は新たな遁世僧の教団を作り出し、それが今日でいう鎌倉新仏教の宗派にもなっていったのである。

官僧の宗派に属しながら、戒律を重視し、遁世僧化していく僧侶としては、厳密とも称される華厳宗中興の祖である明恵房高弁(みょうえぼうこうべん)(1173-1232)、真言律宗の祖師で戒律護持・ハンセン病者救済などを行った思円房叡尊(しえんぼうえいそん)(1201-90)、その高弟で良観房忍性(1217-1303)や、京都岡崎の法勝寺の大勧進などをつとめた円観房慧鎮(えんかんぼうえちん)(1281-1356)などがいる。彼らは、改革派であるとする場合もあり、松尾のように遁世教団を作り組織化したとすることもあるが、どちらにせよ、官僧の世界から一定程度距離をもっていた人たちであると考えられる。このような遁世僧は、日本仏教におけるメルクマールであるといえるだろう。

それ以前の僧侶と遁世僧の相違点は内的なものだけでなく、外見的な特徴も見逃すべきではないだろう。松尾が指摘するように、それ以前の官僧が白色の袈裟・法衣を着用することとは対照的に、遁世僧のそれは「黒色」であったという点にある(松尾 1995: 50-60)。黒衣の僧侶は、「異形」の姿であり、「穢色」の衣をまとった「乞食法師」であった[5]。遁世僧たちは、官僧たちによってラベリングされた黒衣によって、むしろ自分たちのアイデンティティを確立させたといえるだろう。

[1] 高取の推察は、われわれに豊かな想像力を与えてくれる。折口信夫の「天皇霊」についての考察を措くとしても、大原の産屋と大嘗宮が建築物としてだけでなく精神構造としても同様の形態をもっているとするならば、大嘗祭は新しい天皇として生まれることを意味するだろうし、さらにそれは神から賜るものであることをも同時に表した儀式ということになるだろう。これらの営みが行われた建物が、人為的なものではなく、自然の部材によって建築されたとするならば、あるがままのものがそのまま神意に適うものとする発想をもっていただろうことを推し量ることもできる。それはそのまま、日本のアニミズム的な自然観を背景にしたものではないかと考えることもできる。

[2] 「とんせ」「とんぜい(中世的な読み方)」とも。「世間から遁れ、仏門に入ること」。「すでに出家している者でも、その帰属する教団の組織からふたたび脱出し、求道生活に入ることをいう場合がある」(『岩波 仏教辞典 第二版』より)。

[3] 臨終作法については『往生要集』に、僧侶の結社の葬送方法については『横川首楞厳院二十五三昧起請』八か条本に記されている(松尾 2014: 60-1)。

[4] この時代には、神の祟りを読経や仏教的手段によって鎮めていた (高取 [1979]2010: 185)。

[5] 松尾の引く資料によれば、本願寺三代住持・覚如の『改邪抄』では遁世僧が「異形を好む」と書かれ(松尾 1995: 53-4)、戦国末期の史料「素(そ)絹(けん)記(き)」では、白が「天子本命(天皇にふさわしい清い色)」で、黒は「穢色」であると述べられている(松尾 1995: 54-5)。洞院公賢が1359(延文4)年に浄土宗の僧侶として出家する際に「乞食法師」の着る黒衣を着用する旨を日記『園太暦』に記したという(松尾 1995: 55)。このことからも、「黒衣」の僧としての異形性についてうかがうことができる。

引用・参考文献

橋爪大三郎、1986、『仏教の言説戦略』勁草書房

末木文美士、1992、『日本仏教史——思想史としてのアプローチ』新潮社。

松尾剛次、1995、『鎌倉新仏教の誕生——勧進・穢れ・破戒の中世』講談社

――――、2011、『葬式仏教の誕生――中世の仏教革命』平凡社

西田長男、1956、『日本宗教思想史の研究』理想社

定方晟、1992、『大乗経典を読む』講談社

佐々木閑、2019、『大乗仏教——ブッダの教えはどこへ向かうのか』NHK出版。

立川武蔵、1995、『日本仏教の思想——需要と変容の千五百年史』講談社

高取正男、[1979]1993、『神道の成立』平凡社

高取正男・橋本峰雄、[1968]2010、『宗教以前』筑摩書房

高谷好一、2017、『世界単位日本――列島の文明生態史』京都大学学術出版会。

はじめに

この論考の課題は、日本仏教についてひとつの見方を提供することで、仏教についての理解を深めるとともに、巷に散見される仏教用語や仏教の知識について補足する点にある(有態に言えば、私の手控えである)。とはいえ、仏教教義の正しい解釈ということに主眼があるのではなく[1]、あくまでも「社会史」「社会思想史」として(宗教)社会学的な観点から、日本のなかで仏教がどのような社会背景をもとに思想的に分化・発展してきたのかということに主眼が置かれている。それゆえ、本章における記述は、特定の宗派に対して予断をもって書かれたものではなく、さまざまな文献から得られた知識をひとつのモデルとしてまとめ(理念型)、主観的な価値判断を避けて客観的な知識として記したもの(価値自由)である、ということをここでお断りしておく。

1.転換点としての鎌倉新仏教――救済の対象を拡大する

よく知られているように、われわれに馴染みの多い仏教宗派の多くは、12世紀末から16世紀末頃の中世に起源をもち、発展してきたものである。それゆえ、本稿では、日本仏教史としての記述を中世・鎌倉期からはじめることにしたい。仏教伝来から順番に考察するよりも、一般的に知られている事柄を中心に前後に見渡して比較しながら押さえて考察するほうが理解に資すると思われるからである。

法然源空

この時期に成立した宗派は、法然源空(ほうねんぼうげんくう)[2](1133-1212)の浄土宗、親鸞(しんらん)(1173-1262)の浄土真宗、一遍房智真(いっぺんぼうちしん)(1239-89)の時宗浄土教[3]系3宗派、明菴栄西(みょうあんえいさい)(1141-1215)の臨済宗道元(希玄)(1200-53)の曹洞宗禅宗[4]2宗派、日蓮(1222-82)の日蓮宗(法華宗)である。たんに新しい宗派が誕生したというだけでなく、忘れてはならないのは、これらの鎌倉新仏教の諸宗派以前の仏教、いわゆる旧仏教の復興運動もこの時期に展開されており、この時期は日本の仏教の転換点であったということである。

親鸞

この当時の仏教の特徴を端的にまとめるならば、「個人」の救済に注目が集まり、寺院の担い手が「個人」単位へと拡がっていったということである。このことを宗教社会学者の松尾剛次(1995)は、「勧進(かんじん)[5]」「穢れ」「破戒[6]」について検討しながら指摘している。

明庵栄西

道元

松尾によれば、中世以前の仏教寺院の建造・修理・運営を経済的に担っていたのは、国家や有力な氏族であったが、中世に活発化した「勧進」活動は、寺院の担い手が個人単位へと拡がったことを示しているという。また、勧進活動が全国的に盛んに行われたのは、仏教への信仰が個人単位となり、拡大していたことをも示している。さらに、救済の対象も貴賤を問うことなく、むしろ「穢れている」とされている人びとへと対象を積極的に拡大していくのも中世の特徴であった。それ以前の救済の対象は、天皇や権力者を中心とし、国家を鎮護するためのものであり、それと比べれば、対象としても個人を前提にするものへと変化していたことがこの時期に現れているといえる[7]

では、「穢れ」を持つものとされたのは、誰であったか。それは、身体障碍者を含む「非人[8]」、死穢の象徴としての「死者」、五(ご)障(しょう)・三(さん)従(じゅう)[9]の存在としての「女性」の三者であった(松尾 1995)。当時、非人とされていたのは、ハンセン病[10]患者や病人、身体障碍者や乞食とされた人びとであった。確かに、そのような人びとが救済の対象にならなかったわけではないが、積極的に救済されたのは、中世の仏教者によるところが大きいようである。また、先にも述べたように、女性は、五障・三従の穢れた存在として、僧侶の修行の場からは遠ざけられており、また、「死者に触れたり、葬送、改葬、墓の発掘などに携わったために生ずる穢れ」である死穢を避けることは、天皇という聖なる存在に仕える国家公務員的な立場としての官僧にとって重要なことであった。

日蓮

松尾の定義に従えば、「官僧」とは、「天皇から得度を許可され、国立戒壇のいずれかで授戒を受けて一人前となった国家公務員的な僧侶、いわば国家的な入門儀礼システム下にあった僧侶(集団)」(松尾 1995: 28)のことである。また、官僧とされるのは、鎌倉新仏教以前の南都六宗(俱舎(ぐしゃ)・成実(じょうじつ)・律(りつ)・三論(さんろん)・法相(ほっそう)・華厳(けごん))と平安二宗(天台・真言)であり、基本的にこれらの寺院は、国家からの給付を受けており、お布施をするような信者集団を必要としなかった。それゆえ、天皇を中心とする政治システムのなかで主に鎮護国家を祈ることを期待された官僧たちは、穢れを遠ざける必要があった。

[1] 言うまでもないことだが、「“正しい解釈”などない」ということではない。どの宗派にも、それぞれの解釈があり、それぞれに「正しさ」というものがあるだろう。それゆえ、正しい解釈というものを一義的に定めることは困難である。このような事情から、本章でのさまざまな仏教的用語は一般的な解釈にとどまっている。重ねてお断りしておく。この論考は、以前、非常勤で受け持った社会学の調査実習の報告書で書いた文章を一部変更したものである。

[2] 文献によっては、坊号を「法然房」とする場合もあるが、ここでは『岩波 仏教辞典 第二版』「法然」の項目の表記に従った。また、この連続論考で使用している祖師たちの画像は、Wikipediaから取得した画像を加工したものである。

[3]浄土教」とは、「阿弥陀如来の極楽浄土に往生し成仏することを説く教え」(『岩波 仏教辞典 第二版』「浄土教」より)のこと。

[4] 「禅は、インドではなく中国発祥の思想」。「道教などをベースとした出家者コミュニティがまず中国に存在し、それが『釈迦の仏教』の修行の一つである『禅定』(瞑想によって心を集中する修行)と結びついて、仏教集団となっていったのが起源とされ」る。「禅宗には特定の根本経典がなく、教えよりも生活スタイル(実践)がベースとなっている」(佐々木 2019: 209)。

[5]勧進」とは、「本来は、人びとを教化して仏道に入らせることを意味したが、後には社寺堂塔の造営・修復・造像・写経・鋳鐘など、種々の作(さ)善(ぜん)に結(けち)縁(えん)〔善行へと関係づけること:引用者〕して善根を積むことを勧め、金品を募集することを意味するようになった」(『岩波 仏教辞典 第二版』「勧進」より)。

[6] 「戒を破ること、また戒を破った人のこと」(『岩波 仏教辞典 第二版』「破戒」より)。

[7] たしかに、これ以前にも僧侶や信仰者によって、現代で言うところの福祉施設が設けられ、活動が行われている。聖徳太子四天王寺に作ったとされる四箇院(しかいん)や光明皇后悲田院(ひでんいん)、行基布施屋などがある。

[8] 「非人」という表現は問題を含んでいるけれども、当時の穢れの認識を強調するために、ここではこの表現に従った。また、松尾も指摘しているように、ここでの非人は、「近世(江戸時代)の制度化された身分としての非人とは異な」り、「癩病患者(ハンセン病患者)を中核として、乞食・墓堀などに従事した人々のこと」(松尾 2011: 52)である。

[9] 五障とは、「インド初期の仏教に出てきた思想で、女性は梵天帝釈天、魔王、輪廻王、仏という五つになれないというもの」で、三従は、「結婚前には父親に、結婚後は夫に、夫の死後は息子に従う存在」のことを言い、「独立人格を認められていない」存在として、女性は仏教的な能力に欠けるとされていた(松尾 1995: 122)。それゆえ、女性が成仏するためには、男性に転生する必要があると考えられていた。

[10] (松尾による伝聞情報ではあるけれども)らい菌が発見されるまでの皮膚科学は、重篤な皮膚疾患をハンセン病と区別する点に重点がおかれていたという医学部教員の発言が紹介されている。そのために、栄養状態を戻し、清潔にすることによって完治する皮膚病との違いが理解されていなかったため、ハンセン病を直すというような奇跡が起こる現象の原因となっていたようだ(松尾 1995: 83)。

引用・参考文献

橋爪大三郎、1986、『仏教の言説戦略』勁草書房

末木文美士、1992、『日本仏教史——思想史としてのアプローチ』新潮社。

松尾剛次、1995、『鎌倉新仏教の誕生——勧進・穢れ・破戒の中世』講談社

――――、2011、『葬式仏教の誕生――中世の仏教革命』平凡社

西田長男、1956、『日本宗教思想史の研究』理想社

定方晟、1992、『大乗経典を読む』講談社

佐々木閑、2019、『大乗仏教——ブッダの教えはどこへ向かうのか』NHK出版。

立川武蔵、1995、『日本仏教の思想——需要と変容の千五百年史』講談社

高取正男、[1979]1993、『神道の成立』平凡社

高取正男・橋本峰雄、[1968]2010、『宗教以前』筑摩書房

高谷好一、2017、『世界単位日本――列島の文明生態史』京都大学学術出版会。