黒夜行 2005年03月 (original) (raw)

語られることのなかった天才の理屈。表現する、という概念は持つものの、その行為に意味を見出せない少女。すべてが始まり事件。天才の引き起こした怪事。その背景が明かされる。
そう、天才でも恋をする。それは、プログラムに僅かに残留したバグのようなものとして認識されていたのかもしれないが、次第に、理屈ではない何か別のものに突き動かされ、四季は行動する。
不合理なものを受け入れることが成長。13歳の可憐な少女はこの年、自分の外を流れる鈍重な時間を押し上げるかのように、一息に成長したのかもしれない。
「すべてがFになる」。森博嗣のデビュー作にして、真賀田四季という天才を生み出した作品。孤島の研究所で起こった事件に犀川と萌絵が巻き込まれる。真賀田四季は、ある事情によりその研究所に隔離されるようにして生活している。
ある事情。彼女は、自らの両親を殺害した罪を背負っている。いや、そう認識するのは周囲だけで、本人自身にはその自覚はないだろう。彼女に背負うものなど必要ない。
犯行当時13歳。未成年の彼女は、どのような経緯を経たのかはわからないが、その果てしのない才能や援助する人々の力などもあったのだろう。孤島の研究所で隔離されたまま研究を続けることとなった。
「有限と微小のパン」の中に、真賀田四季を表したこんな言葉がある。

<完璧だ。
完璧な人間なのだ。
地球上の全ての人間の生命が、彼女一人と釣り合う。
だから、たとえ彼女が誰かの生命を消し去っても、それは、微小だ。客観的に見て、ゼロに近い。
しかしながら、そんな釣り合わない微小な生命を、彼女が消そうとすること自体が不自然である。>

そんな彼女が、何故両親を殺害するに至ったか。もちろん(というのは普通のミステリでは言わないが、森ミステリでは動機は曖昧で不確定であること多いし、そうであるべきだと僕は思う)それは語られることはない。
本作「夏」では、その事件に至る天才の姿を追っている。
四季は、叔父に恋をした。相手は36歳。彼女は13歳。しかも叔父と姪という関係。彼女にとっては不必要な概念だが、社会的に道義的に道徳的に見て、抱いていい感情ではないだろう。
彼女の一部はことあるごとに叔父のことを考える。しかし、答えが出ない。そもそも問題がなんであるかすら把握できない。それが彼女にとっての不合理。その矛盾を彼女は受け入れる。そう、彼女をもってしても処理しきれない問題があるということ。
四季は折を見て、周囲の目を盗み、叔父と二人きりで会う。連絡を取る。遊園地に連れて行ってもらったのもその一環だ。
そこで彼女は誘拐される。
彼女は無事開放される。まさか祖父江七夏までもが出てくるとは思わなかった。
孤島に研究所の建設も、彼女自身の研究も順調に進む。スポンサー関連も順調。周囲との協調、ということも少しは考える。そういう無駄を受け入れながら彼女は成長し、鈍重な時間に体を預けながら思考は時間を飛翔する。全てが順調。そう、叔父とのこと以外は…。
そう、そしてあの日。研究所がほぼ完成し、四季がそこへ移った日。家族揃ってお祝いが行われる。そこで彼女は、自らの思考により選び取った未来を実現に移す。
両親を殺害した。
そこまでが描かれる。
ある意味驚異的なことは、密室が出てこないこと。犀川・萌絵・紅子・四季。この四人のいずれかが登場する作品の中で、密室が扱われなかった作品を僕は初めて知ったかもしれない。そう、そういう点で異質。
それに前作「春」同様、S&M・Vシリーズへのリンクが顕著で、驚きの連続だった。いろいろなことがわかるし、いろいろなことがわからなくなる。きっとそれが混沌の定義だろう。
まだまだ真賀田四季の物語は終わらない。続きを知りたくてうずうずしている僕の隣には、Vシリーズを全部読まないうちに四季シリーズを読み始めてしまったことを後悔している僕がいる。そう、四季だって後悔する。プールに入りたいと思う自分の存在を思い浮かべられなかったのだから。
広がる一方で閉じない。果てはあるけど終わりはない。歩き続ければ同じ地点に戻る。そんな空間を僕は歩いているかもしれない。
天才の青い瞳は、これから一体何を映すのだろうか?
それではいつものを。

(前略)
「このお話のために、いらっしゃったの?」
「はい」四季は頷いた。「それが、貴女の価値です」
(後略)

(前略)経過時間の存在は、彼女にとって致命的だった。不可能がもしあるとすれば、それはすべて時間の短さによるものだといっても過言ではない。
(後略)

「(前略)生きることが最善だという概念があるために、人は最良の方法を見失っているのです。」
(後略)

(前略)
まだ十三年しか生きていない。
もう十三年生きた。
吸収できるものはすべて取り入れ、そして、何も失っていない。
今自分に必要なことは、自分の何かを失うこと。
何かを切り捨て、消し去ることだ。
どうすれば、それが可能だろうか?
一度記憶したものを、忘れるということが、できない。
そのコントロールだけが、どうしてもできないのだった。
(後略)

(前略)自分の内にあるものが絶対すぎる。そのために、失うという行為が遠くなる。自分の外にあるもので
、自分の中に取り込めないものの存在が、ときどき彼女の前に立ちはだかる。
(後略)

(前略)子供も、若者も、中年も、老人も、一様に家の中で暮らしている。持ちものの全てが持ち歩けないからだろうか。
(後略)

(前略)
「人間だけだよ、大人になるのにこんなに時間がかかるのは」
(後略)

(前略)
ピストルがあったら、
時計を撃ち殺していただろう。
(後略)

(前略)
「窓がない建物だなんて、信じられないわ」(中略)
「カーテンだけでも、かけておけば良いのでは?」新藤がいう。「窓があるって錯覚できる」
(後略)

(前略)
「私がしようとしていることは、私が決めたこと。私は、しようと思ったことを、しなかったことは一度もないわ」
(後略)

(前略)
「大丈夫、叔父様はもう、私に殺されたのよ」
(後略)

森博嗣「四季 夏」

天才という存在は、どうしても突然現れた、という印象を残す。それは、対象が天才であることを認識できないでいた状況と、そうだと認識できた時の驚愕がギャップとして現れるのだろうと思う。
天才にも過去がある。歴史がある。
唯一天才と称されてしかるべき存在、真賀田四季。「すべてがFになる」で衝撃的にその存在を示し、「有限と微小のパン」で世界から姿を消した孤高の天才。「F」の段階で既に数奇だった運命は、時と空間を超え、そう、まだ幼い、子供と呼ばれてしかるべき時期の真賀田四季。その姿が本作にはある。
僕は、この作品を読んで感じたことを言葉に表す自信があまりない。僕は既にもう、この作品から取り残されている。誰しもが四季を理解し追いつくことができないように。
体の強くなかった四季は、幼い頃叔父の経営していた病院で生活していた時期がある。周囲には認識されない友人を持ち、時折会話を交わす。同世代の他の子供たちとは既に話が合わない。
既に四季は天才だった。6歳前後という、まだ立派な子供の段階から、既に時間も空間もその肉体を遥かに超越した世界にいた四季。ようやく周囲もそれに気づき始めた頃のこと。
透明人間であり、顔に包帯を巻かないと人に認識されない僕。四季と同じ病院で生活している。外には出られず、体力もなく、書き終ることのない絵を書きながら日々を過ごしている。
病院内のある部屋で殺人事件が起きる。現場は外から鍵が掛けられた密室状態だった。四季は事件直後に解答に行き着くが、それを口にすることはない。そもそも四季は、誰かに対して何かを表現する、などほとんどしない。
四季はその後、自らの環境を整えるため、周囲の人間をうまく利用していく。あらゆる場面で四季の天才性が示され、それは既に世間に対して、押さえが利くようなレベルではなくなった。四季は、あっという間に有名人となった。
一方で、透明人間の僕の生活もどんどんと変わっていく。僕は一体何者なのだろうか?
交わるいくつもの線。四季は、幼い日々を駆け抜けるように過ごしていく…。
僕は、この四季シリーズが、まさかVシリーズとも関わってくるとは思ってなくて、Vシリーズを全部読み終わっていない今、夏以降の作品を読もうか悩んでいる。でも僕はきっと読むだろう。読むことを止められるような作品ではない。既に、この作品に引き込まれている。
ただ、一体この物語がなんなのか、僕にはわからない。けれど、S&MシリーズやVシリーズとの関わりが随所に現れ、さらに真賀田四季という天才の歴史をトレースできる。それだけでこの作品の存在価値はある。
6歳にはありえない言動。誰にもついていくことのできない思考。ずれた価値観。どうして天才として生まれたのか、そのことに対する説明は当然ない。天才として生まれた四季が、どう生き、どう周囲との摩擦を無視し、何を求めているのか。きっと、森博嗣自身が真賀田四季に魅せられているのだろう。そんな気がする。
そう、まだ序盤。この後夏秋冬と続く全四部作。物語がどう展開し、前のシリーズ作と如何にリンクし、そしてどこに収束するのか。早く読みたくて仕方がない。
たぶん、四季シリーズを全部読み、読んでいないVシリーズを全て読み、さらにS&M・Vシリーズを全て一気に読み直してから再度この作品を読んでみないと、僕にはこの作品を理解することは到底できないだろうと思う。それをするだけの価値がある、と僕は思う。
そう、だから今、こうして作品に対して大したことが掛けていない自分が少し嫌だ。もちろんいつもだってそんなに大したことを書いているわけではないけれど。この作品の感想を書くのに、僕の言葉は不足している。
衝撃をあなたにもたらすことでしょう。是非お読みください。
それではいつものを。

(前略)
「それじゃあ、今の僕なんかも、取り残されてるよ、きっと」
「どこに?」彼女は僅かに首を傾げる。
「空間でも、時間でもないところに」僕は答える。それは、いつも何かの拍子に思いつくこと、あるいは、どういうわけか、躰が感じている、とでも表現できることだった。
「もう少しわかりやすく言うと、もしかしたら、君のいないところに」
(後略)

(前略)
人間はまず見る。次にそれに触れる。それが見えて、そして触れることが、それが存在することの確証、必要で充分な証明だと信じて疑わない。
ところが、最も身近な存在、たとえば、自分の存在はどうだろうか。自分の躰は、自分の手でいつでも触れることができる。しかし、自分という存在は、自分の躰だけではない。躰だけならば死体と同じだ。死体には、既にその個人の人格は存在しない。自分という人格は、本当のところ、見ることも触れることもできないのだ。これが、他人の人格ともなれば、さらに遠くなる。本当に存在するものなのか、疑わしい。それなのに、それらがそこにあると、どうして人は簡単に認識するのだろうか。
(後略)

(前略)
「「その子が殺したの?」少女が横から尋ねた。
「たぶんね」僕は頷く。
「どうして殺したのかしら?」
「彼女しか、殺せる人がいなかったからじゃないかな」
「その世界には、二人しかいないってこと?」
「そうだね」僕は頷いた。「悲しい?」
「いいえ、自然の摂理に近いわ」
(後略)

(前略)
「僕は君のことが好きだよ」
「それが答え?」
「うん」
「ありがとう」
(後略)

(前略)
「どうして、それくらいの準備ができなかったのかしら」四季は言った。「人は。、いつかは必ず死ぬのに」
(後略)

(前略)
「神様の仕事は、人を騙すことです」四季は言った。「お金を稼がれますように。そして、今度お会いするときには、私に新しい靴を買っていらしてね」
(後略)

「(前略)明日の約束を信じないのに、何故人間は、ずっと未来の約束ならば信じるのでしょうね?」
「はい、それは、私が思いますには、ひとえに、死に対する距離かと」
「なるほど、面白い」四季はくすっと笑った。
(後略)

(前略)
抱き締めたい、と思った。
けれど、
僕の手は、
そういう手ではない、
それに相応しい手ではない、と思い出して、諦めた。
(後略)

(前略)
「世の中、どうしてこんな善意に満ちているのだろう」僕は囁いた。
「そう見える、そう見ようとする善意があるからじゃないかしら」四季は答えた。「排気ガスや煙突から立ち上る蒸気が、勢いのあるものに見えた時代もあったでしょう」
(後略)

(前略)
「どうして人間って、すぐに使えなくなってしまうのかしら」
「使われたくないからだよ」
(後略)

(前略)「生きていることが、どれだけ、私たちの重荷になっているか、どれだけ、自由を束縛しているか、わかっている?」
「生きていることが、自由を束縛している?それは、逆なんじゃない?」
「いいえ。生きなければならない、という思い込みが、人間の自由を奪っている根元です」
「でも、死んでしまったら、何もない。自由も何もないじゃないか」
「そう思う?」四季は微笑んだ。
「だって、それは常識だろう?」
「常識だと思う?」
(後略)

森博嗣「四季 春」

仮想現実。バーチャルリアリティとも呼ばれる世界。現実の定義が先にあり、そうではない、仮想の空間である、と定義された世界。それでは一体、現実とはどのように定義されているのだろうか。
僕たちは、五感によって認識された情報を元に、頭の中で現実を再構成している。つまり、手の届く範囲、見える範囲、聞ける範囲、その中に現実は存在しない。常にそれは僕たちの頭の中にひっそりと、それでいて悠然と存在していて、切り離せすことができないし、共有することができない。
つまり、全てが仮想。現実の要素に既にその言葉は組み込まれている。コンピューターで作り上げられていようが、僕たちが生きているという幻想を抱いているこの空間だろうが違いはない。あったとしてもそれは、フランスパンと食パンぐらいの違いしかないだろう。
そう、現実なんていつだって冷たくて笑えない。封印された詩的な幻惑が今はもうなくて、模型のレプリカみたいだ。そしてすべては有限で微小なんだ!意味不明ですね。
萌絵は、友人の洋子と愛と、長崎のテーマパークへ行くことに。そこは、日本最大のソフトメーカー「ナノクラフト」の経営しており、そこの社長の塙理生哉は、両家の親が冗談のように決めた萌絵の婚約者だった。一度も会った事のない彼から招待されたのだ。
中世ヨーロッパを模し、テーマパークにホテル、ペンションなどがあり、川もある。一つの王国のようなテーマパークは、信じがたいことに、萌絵を招待するために作られたのだという。
一般には公開されていない教会で事件は始まる。悲鳴を聞きつけた萌絵ら三人が中に入ると、一人の男性が血まみれで倒れており、一人の女性がうずくまっている。医学部である愛は男の死亡を確認し、一旦外に出て、事件とは別の理由により、それはあの驚愕の天才真賀田四季に関することだが、警察に電話していたので、到着していた警官に話をしている時、再度悲鳴が。中に入ると男の死体は消失していて、彼の腕時計をした腕だけが残っていた…
犀川は、妹の儀同の話を聞いて、真賀田四季が自分と接触しようとしていることを知る。いくつかの条件により彼は萌絵のいる長崎へ、できる限りそれを知られないようにしながら行くことに決める。真賀田四季。その恐るべき天才が犀川を導こうとしている…
事件はその後も続発する。出口の一切ない密室で、つい先ほど姿を現した第一発見者の女性。バスローブから服に着替えると言ってドアを閉めた直後悲鳴が聞こえ、ドアを開けるとバスローブを血まみれにした女性が横たわっている。同行していた警官によって死亡が確認され、その時にはまだ中にいたはずの犯人を探すも発見できない。
さらに、これまでにない特異な条件下で、ありえない世界に身を置きながら萌絵は第三の事件に遭遇する。
あの天才真賀田四季を匿っていると噂されるナノクラフト。全てのシナリオは、彼女によって描かれたのか?ソフトメーカーとして、仮想現実の技術でもトップを行くナノクラフト。どこからが現実で、どこからが仮想現実なのか。あるいは全てがバーチャルなのか…。
という話です。
天才という呼称は、日常的によく耳にするけれども、真賀田四季ほどの天才はやはりいないだろうと思う。普通は能力に対しての敬意である「天才」という呼称は、真賀田四季の場合人格に対して与えられる。その思想、概念。全てを超越し、何にも変えがたい、何とも釣り合わない存在。本当に、できることならば一度会って話したい。自分がいかに無能であるか、それを確認できるだけでも会う価値はある。
まさにシリーズの集大成と言える作品。森博嗣の作品(S$Mシリーズ)は、どれも収束することなく基本的に拡散する。だから、彼の作品に完結という言葉はふさわしくないけれども、でもシリーズを通じての思想が全て盛り込まれていると実感できる。特に後半四作の思想が見事に融合されていて、シリーズを時期をおかずに一気読みしたからこそ気づけたこともいっぱいあったと思う。
「THE PERFECT OUTSIDER」という副題も、シリーズ第一作の「すべてがFになる」の副題「THE PERFECT INSIDER」と呼応していて、もちろん全てわかっているなんて言うつもりはないけど、シリーズを通じてやりたかったことの一部はなんとなくわかったような気がする。
つまり、事件だとか犯人だとか、そういったことはすべて些細なことであり、このシリーズは、INから始まった萌絵・犀川・四季がOUTする物語、と言ってしまってもいいような気がします。もちろん、正確にわかっている自信はありませんが。
とにかく、真賀田四季がいるというだけで存在する緊張感。犀川の思考の志向。萌絵の崩壊と再生。全ての作品がこのためにあった、と言ってもいいぐらいの集大成。あらゆる才能の結集。シリーズを通して、是非ここまでたどり着いてほしいです。
こうやって文章を書いている僕が現実でない可能性だって、ちぎられたパンのどっちが1なのか、というのと同じぐらい不定なのかもしれない…。
それではいつものを。

(前略)
手に取る必要のないもの、見る必要のないものは、すべて意味がない。存在する価値がない。したがって、存在しない。
(後略)

(前略)
「失礼ですが、博士の夢は何でしょうか?」(中略)
「貴方と同じですわ」
(中略)「ある意味では、貴方の夢よりも、ずっと小さなことかもしれません。けれど、私には、ずっと難しいことなのです」
(中略)
「真賀田四季と握手をすることです」彼女は答えた。
「ご自分と、ですか?」
「ええ…、未だに、その夢は叶いません」
(後略)

(前略)
「母は欲望より強しって言うでしょう?」
「言わないね」真面目な顔で犀川は答えた。「空母と空海の誤植ならみたことがあるけど」
「え、なんの話?クーボ?」
「海にいるの、空の母」
(後略)

(前略)
人間だけが本能を乗り越える。本能を封じ込める。本能に逆らえる。それを犀川は「人間性」あるいは「人間的」と呼んでいる。人を愛したり、子供を慈しんだり、群れを成し社会を作ることは人間性ではない。むしろ、我が子を殺す意志こそが人間性だ。あらゆる芸術は、この反逆に端を発しているのである。
(後略)

「(前略)善と悪、正と偽、明と暗。人は普通、こっらの両極の概念の狭間にあって、自分の位置を探そうとします。自分の居場所は一つだと信じ、中庸を求め、妥協する。だけど、彼ら天才はそれをしない。両極に同時に存在することが可能だからです。」
(後略)

「(前略)計算をして、処理をして、格納して、参照して、消去して、結局は、答えを一つにする。この単純化を伴う統合に、自らの能力を抑制する。ところが、彼らはそれをしない。それが不合理で不自由だと、子供の時から知っているのです。天才は計算をしても答えを出さない。彼らは、計算式そのものを常に持っている。我々は答えしか持たない。これが、凡人と天才の違いです。(後略)」

(前略)
「目的?」ふっと息をついて、四季は顎を僅かに上げる。「それは、言葉?行動の目的を一つに限定して、それを言葉に還元することで、精神の安定が得られるのね?」
「得られます」彼女は答える。
「次元の低い精神をお持ちね」
(後略)

(前略)
「誰が作った常識かしら?恋人がいとおしい。子供が可愛い。命は大切。昔は懐かしい。いったい、誰が決めたの?」
(後略)

(前略)「人を恨むなんて、そんな常識的な感情が、真賀田博士にあるとは思えません」
(後略)

(前略)
「冷酷?」四季はそこでくすくすと笑い出した。
「それは興味深い概念だわ。私の認識では、冷酷とは外部からの観察事象に過ぎません。自己を管理し評価する概念ではありません。貴女が言おうとしているのは、人から冷酷と言われてもかまわない、そんな人間になっても良い、という予防動機の意味ですね?しかし、そもそも、そんな観点から発想すること自体が、冷酷から程遠いと思うわ。違いますか?」
(後略)

(前略)
もしかしたら、理解したという感覚が本質であり、それをバックアップする論理こそ、究極の装飾ではないのか。
(後略)

(前略)無理をしないで生きている人間なんていない。生きていることと、無理をすることは、ほとんど同義なのだから。
(後略)

(前略)「欠けているのは僕らの方ですよ。欠けているからこそ、人間性なんてものを意識して、子供に教えて、やっきになって守ろうとする。愛情とか道徳とか博愛みたいなルールを作って、補おうとしているんです。欠けているのが人間だ、なんて言う人がいますけどね、それも違う。多いもの、大多数のものが正しいというエゴに過ぎません。真賀田博士は、最も人間性の豊かな人です。あれが、本来の人間でしょう」
(後略)

(前略)「全ての問題は、現実と理論のギャップに帰着する」犀川は淡々と言った。「したがって、問題の解決には、通常、二通りのアプローチが存在する。現実を変更するか、あるいは、理論を変更するか、そのいずれかだ」
(後略)

(前略)
完璧だ。
完璧な人間なのだ。
地球上の全ての人間の生命が、彼女一人と釣り合う。
だから、たとえ彼女が誰かの生命を消し去っても、それは、微小だ。客観的に見て、ゼロに近い。
しかしながら、そんな釣り合わない微小な生命を、彼女が消そうとすること自体が不自然である。
(後略)

(前略)
「そう、現実というのは、観察事項から推測された理論の中に存在する」犀川は答える。「白い犬を見たとしても、向こう側は見えない。その瞬間、向こう側は白くないかもしれない。しかし、犬の毛の色が瞬時に変化する機構を有していないとする実測結果と、躰の左右でちょうど色分けされている犬はあまりいない、という過去情報からの統計的推測によって、それを白い犬だと単純化する」
(後略)

(前略)
こうしてみると、人間だって、環境要因だ。つまり、個人にとって、自分以外の人間は、装飾と言える。
(後略)

「(前略)いつもいっているけどね、人間の能力とは、現象を把握すること、そして、それをモデル化することだ。現象と現象の関係を結ぶことだよ。それはつまり、問題を組み立てる、何が問題なのかを明らかにすることだ。それができれば、もう仕事は終わり」
(後略)

(前略)
「僕が考えて僕が動く。君が考えて君が動く。それも、博士の思考の一部なんだ。博士の頭脳は、博士の躰にあるんじゃない。現に、僕らだってコンピュータをつかうことによって、思考作業の一部は既に躰の外に出ているだろう?コンピュータも、他の人間の頭脳も、さらに偉大なる頭脳の、有限かつ微小な細胞に過ぎない」
「それが、真賀田博士の目的なのですか?」
「そうだ」犀川は頷いた。「自分の頭脳を拡大し増強する。それ以外に、生きている目的はないだろうね」
(後略)

(前略)
「まさか…」彼女は口もとを緩ませる。「パートナが必要な人間に見えます?それは、欠陥がある証拠ではありませんか?」
(中略)
「私には、誰も必要ありません」
(後略)

(前略)
「そう、全部、それと同じなの。外へ外へと向かえば、最後は中心に戻ってしまう。だからといって、諦めて、動くことをやめてしまうと、その瞬間に消えてしまうのです。それが生命の定義。本当に、なんて退屈なのでしょう、生きているって」
(後略)

(前略)
「あなたと一緒に歩きたかった。たったそれだけのために、このシステムを作らせたの。馬鹿馬鹿しいと思われたでしょう?」
(後略)

森博嗣「有限と微小のパン」

本物であることと、本物でないことは、一体どう違うのだろうか、と考える。ある存在に対して「模する」という行為で作り上げられる模型という造型。模されるものが本物、という定義は成り立つだろうか?そうなると、模されるまで存在は本物になりえない、という逆説も成り立つのだが…
自分でも何を書きたいのか整理できていないけど、この作品で度々現れる「模する」という行為の意味について考えている。作中である人物は、模するのは形ではなく、それが作られた精神や過程を模するのだ、というような表現を使っている。形にこだわるのは未熟だ、と。
そう、形にこだわることで、この物語は複雑になっている、といっていい。僕らが持っている、無意識のうちに当てはめようと思っている形、あるいは型。先入観や前提と言う言葉で表されるそれは、意識しなければ存在すら認識しずらいが、意識しなければその形に合わない世界を見ることはできない。
正常と異常の違いは一体何か。つまりそれは、自分の持っている型に収まるかいなか、でしかない。社会や集団としての型、というのは実際には存在せず、常識と名づけられたその幻想は、個人によって規定されている。
カメラは、ファインダーの四角い範囲でしか空間を切り取ることができないように、一人一人が様々な形のファインダーを持っている。それがその個人における型であり常識であり価値観であり、それに合わないものがその人にとって異常なものである。個人のファインダーの形の比較的重なる部分が社会的なモラルや常識といったもので、その範囲を持たないものは社会から孤立していく。
さて、よくわからなくなったところで、物語の説明を。
ほぼ同時刻に起こったと断定された二つの事件が物語の幕開けだ。M工大の実験室で首を絞められて殺された上倉裕子。現場は密室で鍵は事務室にあるものを除けば二つ。一つは発見者である担当教授。そしてもう一人は、社会人にして院生である寺林高司という男。遺体発見後すぐに連絡を取ろうとするも発見できず、筆頭容疑者として疑われることになる。これが発覚した第一の事件。
那古野市の公会堂で開催されていた模型マニア達による展示会に、犀川や喜多の同級生で、萌絵の親族という大御坊安朋という男が接点で、犀川・喜多・萌絵らがその公会堂にいた。会場となる展示室の一つが朝になっても開かず、その鍵を持っているのがあの寺林であった。警備室から鍵を借り開けてみると、そこには後頭部を殴られ横になっている寺林(幸い死んではいなかった)と、首が切られた女性の遺体があった。
当然、二つの事件の現場の鍵を所持し、一つの現場で朝まで横たわっていた寺林が、両方の事件の容疑者と目され捜査は開始されるが、これという物証もなく、また納得できない部分も多すぎ、寺林は、入院中警察により監視されるが、しかし拘束されるわけではないという微妙な立場であった。
萌絵はいつものように事件の謎を解き明かそうとする。モデラーという模型マニアに接触していくうち、首を切られた被害者の兄である芸術家と知り合う。掴み所のないその青年に例えようもない違和感を感じているところに、彼女宛に彼から手紙が渡される。それを読み、さらに寺林にも届いたという彼からの伝言を知り、病院を抜け出した寺林とともに彼のアトリエへ向かうと、偶然集まった喜多・大御坊・犀川などと共に、彼の最後の芸術を目にすることになる。そう、その日かれは、バスタブで感電死してしまったのだ。火事になった現場からほうほうの体で逃げ出す彼ら。珍しく犀川が自ら事件に思考を割く。誰が何のために殺人を犯したのか…
という感じです。
前作「今はもうない」の中で、「仮説を持たない者は何も見ていない」みたいなセリフがありました。つまり、人が何かを見るときは必ず枠あるいは型が必要だ、ということです。本作では、こんな例が出されました。「りんごを剥いている途中でそれを止め、また別のりんごの皮を剥き始める人」の話です。僕たちはそういう人のことを「異常だ」と、あるいはそこまでいかなくても、「何かおかしい」ぐらいには認識してしまいます。
しかしその判断は、「りんごの皮は食べるために剥く」という僕ら側の枠がまずあって、その枠を通して見るから変に見えるだけなのです。この枠や型の存在に、もちろんなかなか認識するのは難しいけれど、気づかない人が多いと思います。もちろん僕だってその一人ですが。
恐らく普通は、物語の作者というものは、これなら納得いくだろう、ミステリーで言えば、こういう動機で殺人を犯したのならば読者は納得するだろう、という発想で物語を発展させていくのではないかと思います。マンガだけど、名探偵コナンなんかはまさにその好例ですね。
でも、森博嗣は、敢えてそこを外してきます。そこが今までのミステリーと違うような気がします。既存のミステリーならば、例え異常な理由で犯罪を犯したのだとしても、その異常さを納得させるような過去や背景を設定します。しかし、特にこの作品では顕著だけど、森博嗣の作品に出てくる犯罪者の動機にはなかなか納得しがたいです。でも、納得できないからといって未消化になるかというとそうではなく、その点が森博嗣の作品を深くさせているんだろうと思います。
型を追い求め、そうすることで型から脱却しようとしたこの犯人の思想は、なかなか難しいけれど、模型というものの深さを知ることができて面白いです。
森博嗣は、その方面では結構有名な人らしく、同人誌計の編集長をやっていたり、コミケなどでも顔を知られた存在だったようです。模型を買う資金を得るために小説を書き始めた、というのはいくつか語った彼の執筆の動機だけれど、それぐらい模型が好きで、模型に関する書籍も出版しています。
女は子供の頃の遊びを大人になってからはしないけど、男は違う、というような話を金子・洋子・萌絵の三人でしていた場面があって。まあそれはどうでもいいんだけど、確かにそうだな、と思います。きっと森博嗣も、少年の心を持ち続けているのでしょう。よくわかりませんが、そんな感じです。
それではいつものを。

(前略)
これまで、彼が作り上げたどのフィギュアよりも、完璧な美を有する対象。
それが、たまたま、実物大の生きた人間だった、というだけのことである。
(後略)

(前略)その種の単純さは、犀川ぐらいの年齢になると、もう身近からすっかり姿を消していて、引き出しの奥に仕舞いこんだ昔の年賀状みたいに、捨てた覚えはないのに二度と見つからない代物だからである。
(後略)

(前略)
地震学者は、大地震が発生すると喜んで出かけていく。医者は珍しい病気の患者に群がる。核分裂の研究が何に利用されようと、科学者の興奮は冷めない。自分の子供をモルモットにしたのは誰だった?最初にグライダで空を飛んで墜落死したのは誰?
決して他人の不幸を無視するつもりはない。
けれど、勉強して成績を上げることも、スポーツの試合で勝つことも、商売で成功してお金を儲けることも、会社で出世することも、すべて、誰かから搾取した幸せなのだ。どこかで誰かが不幸になっているのである。
(後略)

(前略)
「犠牲にするものが多いほど、デザインは当然、洗練されるんだ。削られるほどにシャープになる。それが、デザインの本来の意味だし、シャープっていう形容の定義だろ?そんなの、自明のことだ」
(後略)

(前略)
「ふ…。どんなお金持ちでも、靴は二つしか履けない」
(後略)

(前略)
自分は一つだろうか、と思った。
自分はどこまでで一つだろう?
生きていれば一つなのか?
生きているうちは、どうにか一つなのか?
(後略)

(前略)
「貴女、相変わらず数字に強いわね」大御坊は笑う。
「ええ、人間みたいに複雑じゃないもの」
(後略)

「(前略)そして次は、感情にも、同じような種別のものが、同じように観察される種別のものが、仕切られて名付けられるようになる。あれは、笑っている、楽しい。起こっている、憎らしい。泣いている、悲しい。でもね…、そもそも、そんな分類がなされる以前から、みんな笑っていたし、泣いていたんだ。これをついつい忘れちゃうんだよ。鳥類も哺乳類も、植物も動物も、生物学で区別される以前から、何の不自由もなく存在していた。それと同じ。(後略)」

(前略)「鳥類と哺乳類の分類から漏れたカモノハシとか、植物と動物の境目にいるミドリムシとか、彼らは、人間の考え出した分類を知らないわけだよ。だから、全然影響がない。カモノハシが、自分の位置するところが中途半端で気持ちが悪いから、もうちょっと鳥っぽくなろうなんて思わないでしょう?でもね、人間は、自分たちが作った分類システムを知っているわけ。そもそも、そのシステムこそが文化とか社会のバックグラウンドなんだから、笑う、怒る、泣くとかいうパターンは、子供が成長する過程で教え込まれるし、本来の複雑さは、成長とともに、必然的にコントロールされて単純化へ向かう。赤ちゃんのときには、泣くと笑うの中間とか、笑うと怒るの中間の感情があったのに、いつの間にか、別々の物に離散化されて個別化される。わかる?大人になるほど、どんどん単純へ向かうんだよ」
(後略)

(前略)
「道徳なんてものが、そもそも単純化の最たるものでしょう?つまり、知識のない子供や頭の悪い大人にルールを教えるための記号なんだから。世の中のものを全部、一応マルかバツに分類した方が、マニュアルとして書きやすいし、馬鹿な教育者でも教えられるからね」
(後略)

(前略)炎が揺らめくのは、気体が酸化し、熱膨張による比重の変化が、期待を流動させているからだ。それはきっと、個人の感情が不変であっても、その人間によって影響される周囲が変動し、外部からは、その個人が揺らいで観察されることに類似しているだろう。
(後略)

(前略)
「危なかったわよう。二階の床が落ちたら、どうするつもりだったの?もう、今にも燃え落ちそうだったじゃない」大御坊が高い声で話す。「萌絵ちゃんまで上がっていっちゃうんだもの、どうしようかと思った」
「あの床は、難燃材だったからね」犀川は溜息とともに煙を吐く。「だから、二階に上がったんだよ」
(後略)

(前略)
「人間の作ったものだけが、模型になるんだ。動物も植物も、模型にはならん」
「何故です?」犀川はすぐに尋ねる。
「そりゃああんた…、自明のことだ」長谷川はまた不機嫌な表情に戻った。「動物とか植物を小さく作っても、それは単なるミニチュアだ。モデルではない。いいかね。模型が模するのは、形ではない。ものを作り出す精神と行為だ。人が生産する意欲と労力を模するのだ。それによって、その原型を作り出した人間の精神を汲み取る。しかしだ、まったく同じ肯定を踏めば、それはレプリカになる。また、多くの精神に触れるには、製作時間をできるだけ縮小しなくてはならん。だから、型を模することになる。型とは、製作システムの象徴だ。単に縮尺して模するのではない。型を模する。それがモデル、すなわち模型だ。(後略)」

(前略)「理屈とは、そもそも二とおりの機能を持っている。一つは、行為自体か選択や判断を正当化するための機能だ。この場合は通常、行為や決断が先にあって、その存在を補強するために、あとから理屈が構築される」
(中略)
「それじゃあ、先生のおっしゃった、理屈のもう一つの機能って、何です?」
「他の理屈を撃退する機能だよ」
(後略)

(前略)
「数字だけが歴史に残る」犀川は言った。「残らないのは、その数字の意味、すなわち、数字と実体の関係」
(後略)

「(前略)けれど、形のコピィに何を見るのか、という点に、その時代と、その人物の技量が影響する。(後略)」

(前略)
「やめてねm譲り合いは」国枝が無表情で言った。「仲直りなんてしない方が得だよ。もう二度と喧嘩しないですむんだからさ」
(後略)

(前略)こうしてみると、人生の後ろ三分の二は、死ぬための準備で生きているようなものだ。
(後略)

森博嗣「数奇にして模型」


この作品で最も残念な部分と言えば、と冒頭から作品を貶すようなことを書くのは忍びないけれど、この物語の大部分が、ある人物の一人称による構成になっている、という点だ。この作品は、より高いレベルで完結しているので、主要部分のレベルにおける人称などまあ無視できるし、物語としての完成度は寧ろシリーズ1かもしれないのだが、しかしやはり残念だ。一人称による物語というのはつまり、その視点人物の思考や観察や心情を中心にして描かれるわけであり、つまるところその視点人物の質が文章の質になる(そういう設定が出来ることは作者の能力ではあるが)のである。
この視点人物である「笹木」という男は、やはり犀川と比べてしまうのだが、短絡的で思考のスピードが遅く、ホームズよりワトソンに近い存在に描かれている。そのため、いつもなら犀川の思考に現れる、煌くような発想や転換が今回は少なくて、それが残念だ、という論理である。
もちろん、犀川がまったくでないわけではなく、事件についてディスカッションする場面ではやはりいつものキレを見せてくれているので、まあいいだろうとは思う。
さて、前置きが長くなったけど、物語の説明を。
まずは、この作品の構成から。珍しく作中作という形が取られていて、「笹木」という男が書いたミステリーのような小説が大半を占め、その間に犀川と萌絵のディスカッションが描かれる。
犀川と萌絵は、事件の舞台となった屋敷のすぐ側にある萌絵の別荘に行く途中であり、その車中、萌絵は犀川に、この事件の話をしている、という趣向である。
それでは事件部分を。
ファッションデザイナである橋爪氏の別宅に、フィアンセが知り合いだということで招かれた笹木。息の詰まるような屋敷から抜け出し、破棄された鉄道跡を見ようと山に分け入ると、そこで偶然一人の少女と出会った。西之園と名乗るその少女は、自分の家には戻りたくないといい、行きがかり上橋爪氏の屋敷に案内することになった。西之園嬢、呼ばれることになる彼女の名前をお察しかもしれないが、彼女の名前を当てる、というちょっとした趣向を笹木が思いつくし、作品上ずっと西之園嬢と呼ばれるので、その表記に従おうと思う。
嵐に見舞われた屋敷では、めいめいがゆったりとした時間を過ごしていたが、西之園嬢が深夜に笹木の部屋を訪れたことで事件は展開する。彼女は、3階から悲鳴が聞こえたというのである。
3階に行ってみると、二つある部屋のどちらも鍵が掛かっている。邪魔されたくはないのだろう、と邪推しそのままにしておいたのだが、中にいるのだろうと思っていた人々が顔を揃えるにいたり、やはり開けてみようということになる。
二つの部屋からそれぞれ、首吊り自殺したと思わせる双子の死体が発見される。現場は密室。二つの部屋は隣り合っていて、出入り口はないが、小さな穴が空いていて小柄な人間なら通れる。皆が自殺だと思っているなか、西之園嬢は早々他殺だと断定し、笹木に相談を持ちかけ捜査を開始する。
嵐による倒木で道が不通となり、警察の介入が遅れる中、様々な人間がそれとなく様々な仮説を導き出していく。いくつも出されていく仮説たちは、破棄されたり蘇ったりしていくことになる。警察の介入により、少なくとも一方は完全な他殺体であり、それが完全な密室にあることが判明する。一体誰がどういう手段でこの状況を作り上げたのか・・・。
この、実際に立ち会ったわけでもない、まして現在進行形ではないこの事件を、解決するというよりも、いつものように、解釈するという方向でディスカッションする犀川と萌絵。萌絵が、そして犀川が解釈した真相とは・・・
という感じです。
シリーズ中でもかなりの異色作。伝聞に次ぐ伝聞、仮説に次ぐ仮説、推測に次ぐ推測。そうした輪郭のない、境界条件の未定な、曖昧な条件のもと、別に誰かを守るわけでも、あるいは助けるわけでもなく、ただ純粋に楽しみだめだけに(その表現は一方的に萌絵の側に立っているけど)行われる事件に対するディスカッション。いつもなら警察やらなんやらに説明しなくてはいけない犀川も、今回はその必要がなく、哲学的に思考し、純粋に思ったことを思ったように表現し、今までになく機嫌よく事件を解釈しているように見える。
また、この作品は、つまるところ主要部分以外に仕掛けが満載で、もちろん主要部分を一括りにして仕掛けだということもできるけど、そういう楽しさがある。なるほど、そうなのか、という感想すら手に出来るだろうと思う。
事件自体は、こんなこというとあれだけど、どこかのミステリ作家が書いてみました的なトリックや舞台で、いつものような壮大で美しい誰かの思想、とやらに触れられるようなものではないけど、でも作品としての面白さは他の作品に負けないと思います。
ただ、友達に一人実例がいるんだけど、この作品から読む、というのは避けた方がいいかな、という余計な忠告をして終わろうと思います。
それではいつものを。

(前略)
過去の不連続性は決まって忘却される。
(後略)

(前略)切ることによって不連続だった破線は連続となる。物理的な境界となり、実線となる。
切ることによって、つながる・・・?
切り放されることが、すなわち道筋・・・?
(後略)

(前略)
「どこまで行っても、人が住んでいるね」(中略)「まあ、人が住んでいるから道があるんだけど」
(後略)

(前略)
「丸くなった」おいう日本語の定義が萌絵にはよくわからないが、自分で何度もその表現を使った。角ばった岩が転がって、角が取れるという意味なのだろうが、元来弱い部分だから取れるのであって、丸いことは、つまり強い部分が残った形だ。「人間が丸くなる」というのもそれと同じことだろうか?
(後略)

(前略)
「私、先生のことが好き」
「そうみたいだね」彼は足もとを見て、無表情で答える。
「ご存じでした?」
犀川は顔を上げて萌絵を一瞥する。
「君よりはね」
(後略)

(前略)いつだって、より効率の良いものが、どんなに親しまれ、どんなに美しく伝統的な手法にも、必ず勝る。それがシステムというものだ。要するに楽であること・・・、それ以外に人間を魅了するものはない、といっても過言ではない。
(後略)

(前略)何が上品かといって、量が少ないことが上品だ。この法則は、女性についても同様である。
(後略)

(前略)
けれど、彼女にひっぱたかれた右の頬は、しばらくの間とても温かかった。左の頬が嫉妬するくらいに・・・。
(後略)

(前略)こういったものは、ピッチャーの投げる球を待つバッターか、あるいは、お見合い写真を見たときと同様で、選択しようと思う途端に、そのあとの未来の選択肢は潔く消失するし、一方では、それ以前の選択肢が、何故か燦然と輝き始めるのである。
(後略)

(前略)「言葉がまったくなくても、複雑なことが考えられるかしら・・・」
「言葉とか、理論というのは、基本的に他人への伝達の手段だからね。言葉で思考していると錯覚するのは、個人の中の複数の人格が、情報や意見を交換し、議論しているような状態か、もしくは、明日の自分のために言葉で思考しておく場合だね」
(後略)

(前略)
「小指と小指が、目に見えない糸で結ばれているとか、いいますよね」萌絵はわざと言ってみた。
「目に見えない、という日本語は重複している。見えない、だけで十分だ。それに、見えないのに赤いというのも、矛盾している」
「顕微鏡で見れば赤いけど、細すぎて肉眼では見えない、という意味です。矛盾はしていません」
(後略)

(前略)もともと仕事とは、多かれ少なかれ人を騙して金を取る行為なのである。(後略)

(前略)
私が投げ捨てたタオルは、もし生きていたとしても、打撲傷で虫の息だったろう。
(後略)

(前略)
仮説を持たない者は、何も見ていない。
(後略)

(前略)
人は時間と空間において、何の自由もない。
(後略)

(前略)
人間が世界を支配している?
誰がそんなことを言ったのだろう?
もちろん、人間以外に言わない。
(後略)

(前略)
終わりなどというものは、誰かが勝手に終わりだときめたときが、そうであって、それ以外に区切りなどない。
(後略)

「(前略)何故か表面には、真理は決して存在しない」
(後略)

「(前略)しかし、間違えちゃいけない。大勢の人間の協力が必要だ、なんて馬鹿な意味じゃないからね。子供にはみんな、力を合わせることが大切だ、なんて幻想を教えているゆだけど、歴史的な偉業は、すべて個人の仕事だし、そのほとんどは、協力ではなく、争いから生まれている。いいかい、重要な点は・・・、ただ・・・、人は、自分以外の多数の他人を意識しないと、個人とはなりえない、個人を作りえない、ということなんだ。まあ、専門的にいえば、要素、つまりエレメントというんだけどね。(後略)」

(前略)
「どう違うんですか?洗練と最適は」
「最適でないものを許すことが洗練だ」
(後略)

「(前略)たとえば、現象は並列でも、言葉は直列に並ぶ。その並び換えのプロセスに、発信母体の意図が介在するだろう。(後略)」

(前略)
「しかしね、そもそも思考そのものが、コミュニケーションの産物なんだよ」犀川は萌絵の言葉を無視して続ける。「つまりは、伝達するために思考する、といっても良い。伝達する、ゆえに我あり、ってこと。伝達することを想定しない思考、というものは、たぶん、ありえない」
「伝達できない思考なら、あるんじゃないですか?」
「ある」犀川は頷いた。「しかし、その場合でも、伝達を期待してはいるんだ。違うかな?いうか現れる受け手、つまり、未来の理解者を想定するか、あるいは、自分の中に、その人格を将来的に創造するか」
(後略)

(前略)
「そう、僕はね、なかなかずるい。矛盾を含まないものは、無だけだ。矛盾を含んで洗練される。ちょうど、微量の炭素を含んで鉄が強くなるみたいにね」
(後略)

(前略)
地球上に、人類よりも機敏に立ち上がることのできる動物がいるだろうか、と犀川は思った。その思考の立ち上がりの素早さと、感情操作の素早さ、それが人間の特徴だ。人間以外の動物たちは、喜怒哀楽を知ることはあっても、それを隠したり、保存したり、仲間に分け与えることはできない。すべては伝達に起因している。人間だけが、悲しいのに笑える。嬉しいのに泣けるのだ。
(後略)

(前略)空気の美味しさを、煙草を吸って感じることができるのは、美味しい酒が良い水で作られるのに似ている。濁ったものでしか、人間は純粋さを測れないのだ。本当に純粋なものには、基準も尺度もないからである。
(後略)

森博嗣「今はもうない」

どこから見るか、自分がいる場所がどこなのか、対象に対してどれだけ客観でいられるか。僕たちが何かを認識する過程で問題になるのは、常にそういう、「自分」と「対象」との距離、あるいは関係だけである、と思う。
僕たちに認識できるものは、常に自分以外の何かに影響されてから自分の認識へとやってくる。ニュースはテレビや新聞といったフィルタを、一般の事象は常識というフィルタを通って僕たちに認識される。そういう「何か」からいかに自分を切り離して対象を観察できるか。それが「客観」ということだ。
結構自分でも何を書いているかわからなくなってきた。
萌絵の友人簑沢杜萌は久々に故郷に戻ってきた。萌絵とマジックショーを見、そして実家へ戻るが、お手伝いさんを残して家族の姿はない。不審に思うも寝ることにする。
あくる朝。部屋に仮面をつけた男が現れ、杜萌に銃を向ける。家族を誘拐したと告げ、大人しくするよう言われる。その頃家族は、彼らの別荘へと連れて行かれ、金を調達するよう命じられていた。
鳴り響く銃声。
別荘に停められていた車の中から男女の死体が発見される。ほぼ同時刻に殺害され、相撃ちかと思われたが、死体には動かされた形跡が・・・
杜萌の兄素生は、生まれつき目が見えない。血のつながりのないその兄を杜萌は慕っていた。しかしその兄は、どうやらその誘拐事件のその日依頼行方不明らしい。
同時期に起きた誘拐事件と失踪事件。説明を付けられなくもないが、どうもチグハグな事件。萌絵は、同時期に起きていたもう一つのマジシャンの事件に掛かりきりで、こっちの物語にはあまり登場しない。そういう、シリーズ中でも二番目に異色の作品と言える。犀川い至ってはほとんど登場しないが、結局この二人は事件を解釈する・・・
客観を保つことがいかに難しいか。テーマは別として、この物語が教えてくれる教訓です。観察するという行為が対象に影響を与える、というのは量子力学の考え方ですが、量子の世界ではなく、生身の人間サイズでもそれは当てはまるようです。何かを見ようとすれば、そこには必ず何か不純物が混じる。取り除こうと思えば見ようとしていたものまで変化させてしまう。でも、そのままにしておけば見えない。
萌絵はいつでも事件に対して強い関心を持ってる。その状態で、なお客観を保つ、つまりできるだけ不純物を取り除こうとするには、高度な思考力が必要になる。
普段の萌絵なら、それぐらいのことはできなくはない。常に犀川に遅れをとるが、それなりの道筋で確度の高い解釈を導き出すからだ。
しかし今回、親友である杜萌が関わってくる。両親を失って、萌絵の防御機構は強化されたとはいえ、親しい人の関わる事件に対して客観を保つことは難しかったのかもしれない。
そう、やはりいつでも無関心を決め込む犀川だからこそ見えるもの、というのがある。関心と理解には、辞書の掲載ページ以上の隔たりがきっとある。
今回の物語、シリーズ中恐らく最も解決部分が素晴らしいと思う。なんというか綺麗だ。論理というものを超越した、ピカソのような芸術性があるといったらいいか。萌絵らしくないし、それが異色だし、そのために美しい。劣ることと成長することは同じかもしれない。少なくとも今の社会においてはそうかもしれない。そう、萌絵の存在が教えてくれるような気さえする。
そう考えると、生まれてこの方、光を通じてものを見ることの叶わなかった素生という存在が、つまり「見る」という行為から本質的に解放されることこそが、現象や対象の本質に迫る唯一のシステムではないか、その象徴なのではないか、と思えてくる。つまり、犀川は本質的に盲目だ、ということだ。
今回の文章は、書いている本人にも結構意味がわからなくなっている。読んで理解できなくても、それが普通だと思います。たぶん、意味なんて特にないと思います。よくわかりません。
それではいつものを。

(前略)
たとえば、「子供に夢を与える」といいながら、本当に夢を見る者を徹底的に排除しようとする社会。集団はいったい何を恐れているのだろう。(中略)自分たちにはとうてい消化できないものを子供に与えている。こんな動物が他にいるだろうか?
(後略)

(前略)目を閉じると、昇華する二酸化炭素のように、無意識が膨張して彼女の全身を包み込んだ。
(後略)

(前略)
「水が動いている」素生は驚いた表情で囁いた。
「浅いから大丈夫」と手を引こうとした杜萌に、素生は、こういった。
「どうして、浅いってわかるの?」
「見えるもの」
「水の中が?」
「透明なんだって」
「ああ、透明なんだね」素生は頷く。
(後略)

(前略)この情報化社会にあっても、やはり危機からの絶対的な距離は、人を安心させるもののようだ。
(後略)

「(前略)そうね、イニシャライズしていないハードディスクみたいな子なの」
(後略)

(前略)
「情報自体を取り上げてしまうというのは、少々、低俗な防衛手段ですけどね」
「低俗?」睦子は首を傾げる。
「ええ、つまり動物並です。人間相手に、餌を取りあげるというのは、低俗な発想です。人権を無視しているといって良い。銃が規制されているのと同じですね」
「まあ・・・、銃を規制するのも、低俗・・・なんですか?」
「低俗です。もっとも、低俗じゃなかったら、犯罪は起きません。銃が存在するから人が殺されるわけではありません。それを使うのは人間です。たとえ銃がなくても人は殺せます(後略)」

(前略)どんなに精魂を尽くしても、人間の一生で築き上げられる地位や権力など、必ず歪んでいるのだ。
(後略)

(前略)
現実派、常に複雑を装った単純なのだ。
(後略)

(前略)
杜萌とチェスの対戦をして、いつも感じることがあった。杜萌は駒を大切にし過ぎる。たぶん、その僅かな執着こそが、彼女が自分に一度も勝てない理由だ、と萌絵は思っていた。
萌絵には、その執着がない。
きっと、家族がいないからだ。
(後略)

(前略)
人の名前に刻まれたものは、簡単には消えない。
(後略)

(前略)
若者は皆、好きなものを求めるのと同じだけのエネルギィを使って、嫌いなものを一所懸命探している。そうすることで、自分が明確になると信じている。
(後略)

(前略)
しかし、心配してもしかたがないことは明らかだ。力を貸すことは不可能である。犀川は一瞬で諦めた。
(後略)

(前略)単細胞であれば、いつまでも生きられるのに、意志を持つために、自らの寿命を縮めるのである。いや、寿命があることが、意思を作るのかもしれない。
(後略)

「(前略)私、説明がしたくて、もう死にそうなんですよ。このまま説明できなかったら、口の中にフィヨルドができてしまうわ。(後略)」

森博嗣「夏のレプリカ」

この世に存在するもの、ちゃんと言えば存在することがわかっているものには、全て名前が付けられている。言い換えれば、名前を持たないものは存在しないと言ってもいい。
それは、地位だとか性格だとか役割だとか、そういう様ざまな種類の別の名詞で表されるものでもあって、そうしたものを僕たち人間も少なからず持っている。
問題は、名前と、その名前を付けられた存在そのものとが、同一のものではない、ということだ。
さて、まずはあらすじを。
久しぶりに会った友人とマジックショーを見た萌絵。有里匠幻の愛弟子達によるショーであり、そこで、近日とある公園で、匠幻自らが脱出ショーを行う、と予告され、興味を持った萌絵は、無理矢理犀川を連れて見物に出かける。
そこで、マジシャン有里匠幻の死体が、衝撃や謎とともに出現する。脱出しているはずの箱の中から見事に現れるはずだった匠幻はしかし、胸に刃物を差し込まれ、深紅の衣装をさらに濃く染めて現れた。
テレビ局の撮影を兼ねたその公開ショーの模様は、何台ものカメラに映像として収められたが、誰がどう殺害したのかまるでわからない。誰も箱に近づいていないのだ。
事件が解決しないまま、匠幻の葬儀が執り行われた。しかし、そこで匠幻は、死後なお脱出ショーを演じて見せた。霊柩車に載せられた棺から忽然といなくなった匠幻の死体。会場内からも一切出てこず、警察関係者はおろか、萌絵も困惑する。
さらに、愛弟子の一人が、同じく脱出ショーの最中に殺害されてしまう。
一体誰がどうやって何のために人を殺し、死体を消失させたのか・・・
という感じです。
大分前に僕が書いたことを覚えているかわかりませんが、この作品もまさにワッツダニット(何故そうやったのか)の典型とも言えるものです。どうして匠幻を殺し、どうしてその死体を消失させたか。この「何故」に対する物語だ、ということができます。
そして、それを理解するために、「名前」についての考察が必要なわけです。
これはもう、読んでくれないとなかなか理解出来ない考え方であって、もちろん読んでもわからないんだけど、そうした雰囲気に是非触れて欲しいと思います。
いつだって犀川は、謎を解決することに興味を持たないし、確度の高い仮説を持っていてもわざわざ言うことをしない。
しかし、今回の犀川は、この犯罪者に対して何か感じるところがあったのではないか、と思えた。美しい生き方ではないか、とまで言っている。そして、犀川のその感想を、否定する自分はどこにも存在しない。
どこまでも美しく、どこまでも潔癖な思想。理解されることよりも、貫くことに全てを捧げた人生。そうしたものを感じてみてください。
ちなみに、この物語の構成はなかなか面白くて、奇数章しかありません。偶数章は次作の「夏のレプリカ」にあります。つまり、二つの物語が対になっている、ということです。それぞれを、交互に読んだ読者がいるようですが、頭がおかしくなりそうだったそうです。やってみるのもいいでしょう。
それでは、いつものを。

(前略)おそらく、三角関数を組み合わせて再現できる曲面を、「人間の狂気」あるいは「経済的な妥協」という不等号で切り取った断面だろう。この手法以外によって作られた人工物は、いまだかつてないからである。
(後略)

「(前略)一般論だけどね、マスコミの報道のほぼ半分は嘘だといって良い。全部が嘘ではない、というのが救いだ」
(後略)

(前略)
「日曜日に何か思いつかれるご予定は?」
(後略)

(前略)前者に決まって登場する和服の古風な美人も、後者に不可欠な無口な美少女や美少年も、いずれも博物館の蝋人形みたいに、現代社会を生きているとは思えない。昨夜、彼女が読み終えたミステリィは後者のタイプだった。あんな不気味な少年がいたら、小学校で苛められるのに違いない、と思った。
(後略)

(前略)
「ふうん」彼はフォークを持ちながら唸った。
「何ですか?ふうんって」萌絵が顔を二十度ほど斜めにしていく。
「感嘆詞」
萌絵は犀川の言葉を無視して、食事に手をつけた。
「美味しい!」彼女は一口目で目を大きくする。
「それは形容詞」
(後略)

(前略)
「諸君・・・。私は、この危機から諸君の期待どおり生還しよう。私は、最悪の条件、最大の難関から脱出する。諸君が私の名を心の中で呼べば、どんな就縛からも逃れてみせよう。一度でも、私の名を叫べば、どんな密室からも抜け出してみせよう。私は、必ずや脱出する。それが、私の名前だからだ」
(後略)

(前略)
「先生には、この事件よりも優先しなくちゃいけない問題があるんですか?」
「あるよ。いつだって、最優先の問題がある。世界で僕しか考えていない謎があるからね」
(後略)

(前略)「間違っているのは、観察している人間の認識だ。したがって、人間さえ見ていなければ、何も不思議は起こらない。すべて自然現象だ」
「そんなの屁理屈です」萌絵は反論する。「物理も科学も、そもそも人間の認識の仕方じゃあないですか?自然現象を理解するためのプロトコルでしかありません」
(後略)

(前略)
「目的は何でしょう?」
「何かを得るためだ。殺人も、つまり交換だ」
(中略)
「何と何を交換したんです?」
「リスクとプロフィット」犀川は煙草を片手で回している。「当たり前の一般論だけど、子供の悪戯だって、大人の仕事だって、政治だって、戦争だって、宇宙開発だって、みんな同じだ。危険と利益を交換する。(後略)」

(前略)
「カメラで狙われているときは、もっと余裕のある上品な表情を作りなさい。なんです、あれは?はしたない。今にも貧血で倒れそうな顔だったじゃないの?」
「本当に、倒れそうだったんですもの」萌絵は弁解する。
「本当に倒れるまで、微笑んでいなさい。まったく、子供なんだから、貴女は」
(後略)

(前略)
「犀川先生は、どんな特技がありますの?」ミカルはきいた。
「そうですね、僕は、ミルクとコーラを半々でカクテルにしてよく飲みますけど、それだって、特技かもしれないし、あるいは、マジックだと思う人がいるかもしれませんね」
(後略)

(前略)
「先生が浦島太郎だったら、きっと、玉手箱を開けなかったでしょうね」
「うん、僕は開けないね」犀川は真面目な顔で答えた。
(後略)

「(前略)でも・・・、西之園君。物理の難しい法則を理解したとき、森の中を散歩したくなる。そうすると、もう、いつもの森とは違うんだよ。それが、学問の本当の目的なんだ。人間だけにそれができる。ニューラルネットだからね」
(後略)

「(前略)記号を覚え、数式を組み立てることによって、僕らは大好きだった不思議を排除する。何故だろう?そうしないと、新しい不思議が見付からないからさ。探し回って、たまに少し素敵な不思議を見つけては、また、そいつらを一つずつ消していくんだ。もっともっとすごい不思議に出会えると信じてね・・・。でも、記号なんて、金魚すくいの紙の網みたいにさ、きっと、いつかは破れてしまうだろう。たぶん、それを心のどこかで期待している。金魚すくいをする子供だって、最初から網が破れることを知っているんだよ」
「金魚すくいって、何です?」
(中略)
「君、小さいときに、何か呪文をかけられたんじゃないの?」
(後略)

(前略)しかし、世の中には追及しない方が素敵な不思議もある。それは、三十歳を越えて気がついた法則の一つであった。
(後略)

(前略)
場所は、栄町の東急ハンズ。いわゆる、普通で、一般的で、常識的な、ありきたりの、当たり障りのない、平凡な初歩コースといえよう。(後略)

(前略)
「ものには、すべて名前がある」(後略)

(前略)
同様に、人はアウトプットするときだけ、個たる「人」であり、それ以外は、「人々」でしかない。
そのアウトプットの目的が何であれ、他者(多くの場合、自分自身を含むが)に何かを伝えないかぎり、「人」となりえない。それが、名前のために人が生きている、という意味なのである。
(後略)

(前略)
こうしてみると、ある個人の思考が、別の人間に伝達する一瞬こそ「奇跡の脱出」、ミラクル・エスケープに他ならない。
(後略)

(前略)
「そう、人間はシンボルによって思考する」犀川は微笑んだ。「言葉や文字で思考するのではない。言葉も文字も、シンボルの一部でしかない」
(後略)

「(前略)もの心つく以前から盲目で耳も聞こえなかった人が、何を最初に理解したと思う?そういう人に言葉を教えるには、何が必要だろう?」
(中略)
「それ以前に、重要なことがあるんだ。それは、ものには名前がある、という概念なんだよ。すべてのものには名前がある、ということにさえ気づけば、あとは簡単なんだ。(後略)」

(前略)
「最高に綺麗なスイッチだね」
(後略)

(前略)「綺麗という形容詞は、たぶん、人間の生き方を形容するための言葉だ。服装とかじゃなくてね」
(後略)

森博嗣「幻惑の死と使途」

市川拓司の小説のタイトル、と言ってもおかしくないこの作品はしかし、発表された年のミステリ界の話題を完全に独占した作品です。各種ランキングでは軒並みトップ、賞も二つほど受賞するという感じです。著者の歌野晶午はそれまで、ランキングにも賞にも縁のない作家で、文字通り出世作になった作品です。
さてしかしまあ、どう紹介すればいいやら・・・
警備員や講師の仕事をし、休みの日には体を鍛え、女性ともうまいことやっている成瀬将虎。後輩である高校生のキヨシに泣きつかれ、キヨシの惚れた女性の相談を受けることに。なんと言っても成瀬は昔、探偵修行をしていたのだ。
100万円の布団や2万の水を、集団催眠のようなやり方で売りつける怪しい集団蓬莱倶楽部。その毒牙に掛かった祖父が、しこたま借金をこさえた上に交通事故で死亡した。掛けた覚えのない保険金の話に、保険金詐欺を疑った、という話だ。要するに、蓬莱倶楽部と交通事故を繋ぐ証拠を見つけてくれ、っていう話。成瀬はしぶしぶ引き受ける。
一方で、駅のホームから飛び降り自殺を図った麻宮さくら。偶然居合わせ成り行きで助けた成瀬は、それからさくらと交際を始めることになる。えっちらおっちらいろんな障害やら誤解やらを乗り越えていくんだけども・・・
というような二つの話を軸に、過去の話としていろんなエピソードが語られる。成瀬の探偵修行中の話、安藤士郎との話、また蓬莱倶楽部の手先の古屋節子の話。
そうした話が絡み合い、結びつき、そして驚愕の真相へ・・・という感じの話です。
この作品、読んだ人間はかならず圧倒的な衝撃を受ける。これは間違いない。もちろんそれに関わる話はネタばれになるので書けないが、もうとにかく、よくやった歌野晶午、という感じです。よくぞ書ききった、と。
しかもそれだけでなく、(まあ「それ」の内容もわからないわけだけど)、絡み合う物語が収束し、その先に見える終結は、本当に見事なものがある。
再読してわかる伏線の見事さ。なるほど、とつい頷いてしまう記述がそこここにある。一度読んだ人も、是非再読してみることをお勧めします。
ああ、何を書いてもネタばれになりかねないこの作品、書評家泣かせだし、俺のような素人読書感想人みたいな人間をも困らせてくれる。
ミステリーらしくないタイトルも、読み終えた後はなるほど、という感じになります。
さて、こんなことを書くと見たくなってしまう人がいるかもしれないけど、この作品の後ろの方を決して見てはいけません。本屋でちらっと見るのもなしです。こんなことを書かれて気になって眠れない人は、是非本作を読みましょう。未体験の衝撃を味わえることでしょう。

歌野晶午「葉桜の季節に君を想うということ」

体がくっ付いて生まれてきてしまう双子、という存在がいる。体の一部をお互いに共有していて、切り離そうとするとどちらか一方が死んでしまう、とそういう存在。不自由を抱えつつ、一体となって生きていかなくてはいけない運命を背負った存在。この小説を読んでそんな連想が浮かんだ。
唯一原爆を落とされた国でもあり、エネルギー資源に乏しく、他国が開発を断念する中、原子力発電に頼らざるおえない日本という国。危険性を認識しつつも、安全だと声高に主張し続けるしかない国。頼らざるおえないものに対する国民の非難や不安。誘致先でのデモと、そこで発電された電気を使う都会人の無関心。そうした、「原発」という名の矛盾を抱え、消化できないまま飲み込むしかない日本という国の現状を、この作品では見事に描き出している。
発端は、防衛庁の管轄の元民間企業が作る、新たな航行システムを搭載した新型ヘリコプター、通称「ビッグB」が盗まれたことだ。パイロットなしで航行できるシステムを搭載した「ビッグB」は、遠隔操作の末、なんと原発の真上に陣取った。
「日本中の原発を破壊せよ。さもなくばヘリを原発の上に落とす」
FAXでそう宣言した「天空の蜂」と名乗る犯人。関係者は騒然となる。
さらに驚愕の知らせが舞い込んでくる。なんとその無人のはずのヘリには、開発者の子供が乗っているというのだ。一人上空に取り残された少年と共に原発を人質にとった犯人。喉元に突きつけられたナイフに、政府を始め各関係機関は途方に暮れる。
犯人は一体誰なのか、子供は救助できるのか、原発への落下は防げるのか?事件発生からのわずか10時間あまりを克明に緻密に描きあげ、日本の抱える「原発」というものの現実を見せ付けた傑作である。
とにかく、わずか10時間の時間経過しか描いていないとは思えないほど内容が濃い。分量もかなりある。それでいて圧倒的なスピード感で読ませる。サスペンス物の著作がそれまでなかったから、かなり新鮮な作品だ。
普段僕は、「原発」というものを意識することはない。それは、「原発」というものが身近にない人なら同じだろうと思う。今こうして使っているパソコンを動かしている電気が、どこでどうやって作られていようが、使っている人には関係ないからだ。
だが、誘致先ではそうもいかない。資金が入るからといって原発を誘致する。雇用の確保もできる。自治体としては、目先のにんじんに釣られる形で誘致を決めるのだろうが、そこに住む人間には納得できない。本当に安全なのか、事故は本当に起こらないのか、原発があるというイメージはマイナスではないのか、そこで働いて被災しないのか、田舎で作った電気を都会で使うのはいただけない。そういう、そこに住んでいる者だからこそ抱く不満というものを抱えながら住み続けるしかない。
ある登場人物がこういっていた。正確な引用ではないが、「放射能があるかもしれない、という思いが消えないことが問題だ。原発のある地で白血病になったら、やっぱり原発があるからか、と思う。そういう気持ちが少しずつ人をだめにしていくんだ」というような感じのことだ。
その通りだろうと思う。科学的な根拠なんかなくても、原発と放射能、そして放射能と病気は結びついてしまう。そういった、人の気の持ちようすらも原発は変えてしまう。
著者は、どちらがいいのかということは伝えない。反対派、賛成派、両方の意見を細部に渡って描き、それで読者に判断させようとしている。原発、というものに対する問題提起。逸らしているという意識もないまま視界に入れない「原発」という問題を、改めて自分の問題として考えてみるのもいいのではないかと思います。
もちろん、そんな難しいことを考えなくたって面白く読めます。さすがの筆力だな、と思います。子供が乗ってしまった、という設定が、より一層サスペンス色を強めていて、お勧めです。
何かで読んだんだけど、著者の中で思い入れの深い作品であるらしく、それというのも、取材に3年、執筆に1年掛かった(正確ではないかもしれない)からだそうだ。そうだろう。原発といえば、実際のテロなどを警戒して、結構情報が機密扱いだろうし、また「ビッグB」という、著者が考えたヘリのアイデアを形にするにも様々な知識が必要だっただろう。
とにかく、長さに抵抗を感じずに、スラスラ読めるので、是非読んでみてください。

東野圭吾「天空の蜂」

「あなたの目の前に川が流れています。深さはどれくらいあるでしょう?1、足首まで。2、膝まで。3、腰まで。4、肩まで」

僕たちは、ある部屋の中に生きている。それはもはや「箱」と呼んでもいいような密閉された空間だ。僕たちはその中に生きている。
僕たちはその空間から外に出ることは出来ない。出入り口はなく、唯一一つだけある「窓」からは、しかし外の景色そのものが映るわけではなく、テレビのように、虚構と合成された「真実」、大多数が納得できる形に加工された「真実」、偽りという別名を持つ「真実」が映るだけである。
ただ、その生活に「不自由」の文字はない。壁や床を始めとする内装は豪華で、生活に必要なものは何でも揃っている。どこからともなく食事が現れ、暇があれば「潰す」ための娯楽が用意され、ふかふかのベッドで寝る。そんな、自由がありすぎる、という意味でしか「不自由」を感じることのない生活。僕たち日本人は、こうした、何も考えず、何も知らず、生きるためだけに生き、自分のためだけに生きる、という生き方をしている。そう、それしか知らないのだ。
福井晴敏がこの作品を通じてしようとしたこと。一つは、その部屋の壁全面を鏡張りにしたことだ。自分の姿を見ろ、とばかりに映し出されるその「醜い」自らの姿は、自分という同位置の視点に晒され、その「醜さ」を実感する。無駄なものばかり蓄え、何一つ魅力的に映らない、もはや人間の形すらしていないかもしれないその姿に、僕たちは驚くことになる。
そしてもう一つ。床をガラス張りにしたことだ。自分の下に流れる川がどのくらい深いのか。そして、その深さの先にある底に、どれだけの汚濁が澱んでいるのか。それを僕たちは知らされることになる。
あるいは、床そのものを、底なしの川に変えたのかもしれない。努力をしなければ、見てしまった自らの姿を変えようと努めなければ、そのまま底なしの川に引きずり込まれ、そう、底に溜まる汚濁と同化するしかない。僕たちに選択を迫っている。
マル暴刑事からしがない警備員になった桃山。管理ビル周辺の、ささやかとは言いがたいいざこざに巻き込まれたその日、あっけなく管理ビル内に侵入しきた男女。応急処置ではどうにもなるはずのない傷を抱えた男と寄り添うようにして健気に支える女。刑事を辞めてからというもの、腑抜けたような生活を続けていた桃山は、二人の、特に男の在り方に何かを感じ、外のいざこざとの関連を察しながら通報することなく、二人を匿うことに決めた。
「おれは、葵を守る。それがおれの任務だ」そう言い切って憚らない男、増村保。ただそれだけのために、己の論理も感情も行動も全て構築できてしまう保は、心を通わせ初めた桃山の元を突然去ってしまう。空虚さを埋めるために始めた行動で桃山は、抜け出すことの出来ない、深い深い川の中に足を踏み入れることになっていく・・・
オウム真理教の地下鉄サリン事件を元にした地下鉄爆破事件。その奥に、テレビを覗いても見えてこない闇を見出し、活字の行間にすら隠されていない真実を炙り出す。「真実」が作られていく過程をまざまざと見せ付ける福井。今もどこかで行われているかもしれない、特定の誰かのためだけに行われていること。日本という、何かを失い続け、もはや初めから持っていたのかすら疑わしくなっているこの脆弱な国を、小説という形で尻を叩こうとしている福井の思想には、考えさせられるものがある。
その中にあって、一人の女性を「守る」ためだけに全てを費やす男。世界を拒絶し、愛する者だけを抱えた世界そのものを守るために、男は戦い続ける。その純粋さが、それを持たない僕には悲しく突き刺さるようでもある。
鏡に変えられた壁に映された自らの姿。努力すれば彼のように生まれ変われるかもしれない。それが希望になる。
デビュー作は「Twelve Y.O.」だが、実質上の処女作であるこの作品は、執筆順で言えば後の「Twelve Y.O.」や「亡国のイージス」に繋がるある設定の登場という位置付けでもある。鏡に映る自らの姿を見るほんのわずかな勇気が、あなたをきっと変えることでしょう。

「これはね、あなたの情熱度を表しているの。足首までって答えた人は、あんまり情熱のない人。膝までは、あるにはあるけどいつも理性の方が先に立つ人。腰までは、なんにでも精力的で、いちばんバランスの取れている人」
「肩まではどんな人だい?」
「情熱過多。暴走注意、だって」

福井晴敏「川の深さは」

アメリカのことを「人種のルツボ」と呼ぶのはもはや時代遅れになった、と言ってもいいほど国際化が進んできましたが、この作品を「死のルツボ」と呼ぶことには異論はない、と思います。
死んだ人間が蘇る、という設定は、それなりによくある設定でしょう。僕の知っている範囲で最近の例だと、「黄泉がえり」や「いま、会いに行きます」などの映画もそういう設定だったような気がします。もちろん過去に遡ってみてもそういう作品はあることでしょう。
しかし、その設定が、「純粋な」ミステリに与えられた場合、こうまで物語が特殊になるんだな、と驚かされる作品です。
とりあえず、内容を紹介しましょう。
トゥームズヴィル(墓の町)と名付けられた、ニューイングランド郊外の町。そこはバーリーコーン家が営む「スマイル霊園」という葬儀屋で成り立っている町であり、その名前と共に「死」に彩られた町である。
その一帯で、奇妙な話が持ち上がることになる。一度死んだ人間が蘇るというのだ。ニュースでも取りあげられるほどで、次第に世界は、「死者の蘇り」という事実を受け入れなければならなくなってくる。
そんな状況の中、バーリーコーン家の当主スマイリーの遺産分配の関係で集められた一族。その中には、バーリーコーン家から飛び出してきた父を持つ、日本人の血も持つグリンもいた。キリスト教を一心に信じる者、エンバーミングという、アメリカの葬式ならではの技術のプロ、愛人やらその娘、演出家を目指す者、「死」を研究する博士、そうした極めて変わった人間達がバーリーコーン家に集まっていた。
そんな中、当主スマイリーの死を待たずして、なんとグリンが毒殺されてしまう。「生ける屍」として蘇ったグリンは、自らの死の真相を暴くべく、自分が死んでしまっていることを隠しながら調査に乗り出すが、スマイリーの死と前後して霊園内で死者が相次ぐ。
死者が蘇る、という世界の中で、人を殺すということにどんな意味があるのか?蘇ったはいいが、肉体の腐乱を防ぐことの出来ないゾンビ探偵グリンは、自らの肉体が朽ち果てるまでに真相を掴むことはできるのか・・・
という感じです。
「死」というものに真正面から向き合った作品です。あらゆる宗教・文学・歴史・医学などの知識をふんだんに織り交ぜながら、独特の「死生観」を築き上げていく。変わった人間達がドタバタを繰り広げていくことで物語りは進んでいくけど、常に意識されているのは「死」というものの存在です。
「死」とは一体なんでしょうか?今までも、あらゆる人々が「死」を恐れたからこそ、宗教を創造し、文学を物し、医学を発展させてきたわけです。避けがたいもの、恐れられているもの。常にそうした「悪しきもの」として捉えられているでしょう。
この作品のスタンスがどう、だとかはよくわかりません。常に中立で、様々な意見を織り交ぜることで、重層的な死生観を描き出しているように思います。
この作品の、他の作品にはまずありえない点としては、「死者の心理」というものが非常によく反映されている、ということです。死んでしまって、しかし蘇ってしまったものが、一体何を考え行動するのか、そうした点はかなり興味深いです。
この作品は、とにかく設定が緻密です。もちろん「トゥームズヴィル」という町は存在しないだろうけど、その町の名前の由来や町の歴史なども、かなり遡って設定されているし、またあらゆるジャンル(解説あらそのまま抜き出せば、「ロック、映画、哲学、宗教、精神分析、サイエンス、オカルト、アメリカ史、現代風俗、その他もろもろのありとあらゆる境界領域にまたがる百科全書的ペダントリー」だそうです)の知識があちこちにちりばめられ、「死者が蘇る」という世界とは違う、とてもリアルな「世界」を作り上げています。
しかも、「ミステリーのルツボ」と呼んでもいいほど、ミステリのあらゆるネタが詰め込まれています。それこそ選り取りみどりで、僕は詳しく知らないけど、古典ミステリへのオマージュにもなっているようです。
山口雅也氏は、ワセダミステリクラブ在籍中からミステリの評論で有名で、その氏がデビュー作で越えてみせたハードルがこの「生ける屍の死」です。最近、「デビュー作とは思えない云々」という言葉をよく使っているような気がするけど、本当にデビュー作とは思えない出来です。
昔からミステリが好きで、自宅の書庫が一杯になるぐらいの蒐集家でもあるようですが、その氏だからこそ描けた作品だと言えるでしょう。
「何故、死者が蘇る世界で殺人という行為を繰り返すのか?」
これに対する論理の見事さが、そのまま作品の質になっていると思います。この謎だけでも長編はきっと書けてしまうのに、それ以上にありとあらゆるものを詰めに詰め込んだ作品。多少長いけど、読んでみる価値はあると思います。

山口雅也「生ける屍の死」

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