黒夜行 2007年12月 (original) (raw)

さてというわけで、今年の読書を振り返ってみようかと思います。
何で唐突にそうなるかといえば、今年恐らくこれで読む本が最後になるだろうからです。
でさらに、この一冊で、僕としてはある記念に達するわけで、まあそういう意味でも1年を振り返ってみようかと。
その記念というのは、この感想で僕がブログに書いてきた感想がちょうど1000になるわけです。いやはや頑張ってきたものだなぁ、とまあ思います。
このブログを始めて4年になりますが、4年で1000冊というのはなかなか頑張ったかな、と。記録を見ると、2004年は8月から始まってるわけですけど、そこから62冊、2005年は1年で243冊、2006年は1年で311冊読み、そして今年2007年はこの作品をもって382冊という数字になります。
年々読む冊数が増えていますが、しかし今年の382冊というのはちょっと以上だなと思います。1年は365日しかないわけで、1日1冊以上という無茶ぶりです。特に今年は、あと少し頑張れば感想が1000に届くというわけで、12月はそうとう無理をしました。12月で37冊です。さすがに無理がありすぎました…。
一応年々読書数は増えてますが、さすがに来年はそれは無理でしょう。というより、来年はちょっと意識的に読む冊数を減らそうかと。ちょっと人間的な生活じゃないなぁ、と思うので、まあせめて1年で300冊ぐらいに抑えようかと考えています。
あと今年1年常々思っていたことは、感想の前書きで書いていることが同じようなものばっかりだな、ということです。始めのうちはそれなりにいろんなことを書けていたとは思うのだけど(まあ内容はつまらないとしても)、最近は昔書いたようなことを何回も繰り返しているだけで、ちょっと自分でもダメだなぁ、と思っているのだけど、何か書かないとなぁ、というわけのわからない強迫観念みたいなものもあって(笑)、同じようなことを書いたなと思いながらも繰り返してしまいました。森博嗣という作家が毎日ブログを更新していますが、比較的毎日違ったことを書いています。やっぱすごいものだなぁ、と思います。
というわけで来年はどうしようかと思っているんですけど、今漠然と考えているのは、今まで前書きを書いていたところに小説もどきでも書いてみようかな、というものです。いや、無謀なのは正直百も承知なんですけど、これまでと同じことをしててもしょうがないわけで、まあ無謀でも何か新しいことでもやってみようかなと思っているわけです。
小説と言っても長いものではなく、ショートショートみたいなものを考えています。文字数にして1000文字から2000文字ぐらい、文庫のページ数でいえば11ページ強から3ページ弱ぐらいの短いやつという感じです。もちろん小説らしくなるわけもなく、適当に文章を重ねただけの無茶苦茶なものになるでしょうけど、とりあえず最低でも一ヶ月ぐらいはなんとか頑張ってみようかと思ったりしています。
なんてここに宣言しちゃうとやらないわけにはいかないですね。まあそうやってちょっと自分を追い込んでみようかなと思うわけですけど。何故追い込まなくてはいけないのか、というのはよくわからないんですけどね。
しかし、ショートショートのアイデアがあるわけでは全然ないんですよね。いつもノープランのところから無理矢理書こうと考えてるんですけど…、やっぱ無謀でしょうか。まあなんとか頑張ってみますけど。
たぶん非常に読み苦しいものになると思いますので、読み飛ばすあるいは読まないなどいろいろ対策を立てていただければと思います。
さてそんなわけで来年の無謀な決意を書いてみましたが、感想1000というのはなかなかすごいわけです。前にも書きましたけど、1回の感想に大体3000字から4000字書いてるんですよね。計算しやすいように4000字ということにすると、感想1000個で400万字になって、原稿用紙換算で1万字。小説1冊が大体原稿用紙で500枚とすると、20冊ぐらいの分量になります。
だからどうってことはないんですけど、小説20冊分ぐらいの文章を無駄に書き続けてるってなかなかすごいな、と。そんだけ無駄な文章書いてるくらいならちゃんと小説でも書いたらいいんでしょうけどね。
さてさて、まあ今年はこれで読み納めと言った感じになるでしょうけど、これからも本はバリバリ読んでいきたいものですね。年間で382冊と言うとすごい読んでるようですけど、これでも読みたい本がまだまだ山ほどあるわけです。まあ結局どれだけ読んでも読みたい本ってなくならないんだと思うけど、キリがないよなぁ、とも思います。
来年の目標としては、まあいつも思っていることだけど、苦手なジャンルに手を出したいものだなと思います。外国人作家とか時代小説とか、あとは長い巻数もののやつとか。まあいろいろチャレンジしてみたいなと思います。本屋の仕事の方も、まあまだまだやれていなことがたくさんあるので、なんとかいろいろ手をつけて楽しい感じに出来ればなと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「配達あかずきん」で鮮烈なデビューを果たした著者のデビュー二作目であり、初の長編作品となります。
舞台は「配達あかずきん」と同じく成風堂書店。とはいえ、今回はその書店そのものが舞台ではありません。その書店に勤める杏子と多絵が、信州にある書店にある騒動を解決にし行くという話です。
元成風堂書店のスタッフで、現在は信州にある老舗書店に勤める美保から杏子は手紙を受け取った。それは、今彼女が勤めている書店でちょっとした騒動が持ち上がっているからそれを是非解決してほしい、というものだった。
その騒動というのが、本屋に幽霊が出るというものだった。何人ものスタッフがそれを目撃しており、さらにそれには噂がついていた。27年前に起きたある作家の殺人事件の犯人の霊であるという噂で持ちきりなのである。書店の店主もその幽霊には何か思うところがあるらしく、何やら塞ぎこんでいるらしい。このままでは本当に書店の存続にも関わるということで、杏子と多絵には大いに期待が掛けられているという。
杏子としては事件の解決はなかなか難しいだろうと思いつつ、期待がかけられている状況にちょっと気が重い。しかし多絵はと言えば、自分が必ずこの謎を解くと言い切るのだが…。
というような話です。
この作品はこの作品でまあそれなりに面白い作品だと思いました。ただやっぱり前作の「配達あかずきん」の方が遥かに面白かったです。やっぱり、もっと書店にまつわるミステリを読みたいなぁ、と思ってしまいますね。
ストーリーはなかなか悪くないです。幽霊騒動から27年前の殺人事件が関わって来て、既に時効を迎えている殺人事件の謎も一緒に解いてしまおうという話です。途中ストーリーがあまり進まず停滞するようなところもありますけど、まあ概ね悪くなかったかなという感じです。
作中で書店の描写が出てきて、やっぱりその部分は気になったいましたね。老舗書店の濃密な棚構成なんかが羨ましいなぁ、と思ったりしました。
というわけで全体的に悪くない作品なんですけど、やっぱり何度も言いますが、「配達あかずきん」の方がいいですね。是非また、書店ミステリを書いてほしいものです。

というわけで今年も黒夜行をありがとうございました。
いつも無駄に長くてつまらない文章を読んでいただいて嬉しく思っております。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

大崎梢「晩夏に捧ぐ 成風堂書店事件メモ(出張編)」

まあなんというか、特に書くこともないようなというか。
なんともいえないんでさっさと内容紹介に入ろうかなと思います。
草壁桜は中学生で、彼の元にある日突然、天使と名乗るドクロちゃんという超可愛い女の子がやってきた。あの某アニメのキャラクターみたに、机の引き出しから出てきて、未来からやってきたと言う。頭の上には天使の輪っか。
で、そのドクロちゃんに彼は何度も殺されてしまう。エスカリボルグというそのバットみたいな凶器は、それで相手を殺しても何度でも生き返らせてしまう、まあそんな凶器なんです。
彼の生活はドクロちゃんがやってきてからもう大変。ありとあらゆることがてんやわんやになって…。
というような話です。
まあなんというか、なんとも言えないような作品でしたね。萌え系ギャグマンガをノベライズしてみました、みたいな話のような気がします。まあ読んでて笑っちゃったりすることもあるし楽しくないわけでもないんですけど、小説としてはやっぱダメでしょうね。
しかし、昨日読んだ「狼と香辛料」とは全然違う出来ですね。同じレーベルでここまで差が出るか、と思うくらいの違いです。僕はやっぱ、「狼と香辛料」みたいなストーリーのちゃんとしたライトノベルならいいけど、本作みたいにテンションだけで乗り切ろうとしてる作品はあんまり好きにはなれないですね。
もちろん二巻目以降を読むことはないでしょう。僕はオススメはしません。

おかゆまさき「撲殺天使ドクロちゃん」

神は細部に宿る、らしい。誰の言葉だか忘れたけど。
本当にいるなら会ってみたいよな、と思う。どんな姿をしているのか、何を考えているのか、本当にこの世の中を作ったのか、普段何をしているのか。聞いてみたいものである。
まあそんな機会が来ることはないだろう。
神が実在するかどうか議論をするつもりは特にない。僕は特定の宗教を信仰しているわけでもないし、神というもののついて普段から考えていたりするわけでもない。何か困った状況になったら、神様になんとなくお願いでもしてみたりするけど、それだって特定の誰かを思い描いているわけではない。
だから神が実在するかどうかということは僕にとってどうでもいい問題なのだけど、神の姿を目にすることはありえないだろうな、ということぐらいは確信出来る。
古来、神というのはありとあらゆる形で語られてきたのだろう。何を考えているのかは分からないし、こちらの願いを常に叶えてくれるというわけでもないけど、でも信じなくてはいけない対象だったわけで、そこに様々な理屈をつけて神の存在を示していたのだろうと思う。つまり、神が不在であるということ、神が目に見えないことこそが、神の実在である、というような理屈である。
まあよく分からないが、僕からすれば、目に見えないのに存在すると信じることはなかなか難しい。人生のうち一回でもいいし、何なら写真に写っているのを見るだけでもいいけど、とにかく何らかの形で神を目にする機会があれば、まあ信じてみてもいいかもしれないとは思う。でも、神はどうしたって人前には現れない。誰かの妄想が結実して、その人にだけ見える神というのはありえるかもしれないけど、万人の前に、これこそ神であるという形で神が現れたことはかつてないだろう。
いや別に、宗教を信じている人をバカにしたいわけではない。そもそも神を信じるという形態ではない宗教もあるのだろうけど、とにかく神の不在を主張することと宗教を貶すことは僕の中ではイコールではない。神の実在は、哲学や科学の世界でも時折耳にする話である。僕は一応、そういう系統の話をしているつもりである。
かつて物理学では、「エーテル」というものの存在を信じていたことがあった。
エーテルというのは何かといえば、宇宙空間を充填している物質であると考えられていた。当時、と言ってもまだほんの少し前のことだが(このエーテルの存在を完全に打ち崩したのが、あのアインシュタインである。確か)、光というのが何を通って伝わってくるのかが問題になり、その説明として生み出されたのがエーテルである。
音や光や電波などは、すべて波として扱われるものであるが、通常波というのは何か媒介するものがなければ伝わることはない。例えば音波は、空気や水などの媒介するもののないところでは伝わらない。だから、例えば真空中に人間が生身の状態で存在できるとして、しかしその中では会話を交わすことが出来ないのである。それは電波にしても同じで、何か媒介するものが必要となる。
光も同じく波であり、であれば同じく何か媒介するものがなくては伝播しないと考えられた。光というのは宇宙空間でさえも伝播する。宇宙空間は真空であると考えられていたが、しかし真空であれば光が伝播するはずがない。そうして考えられたのが、エーテルという物質である。
要するに物理学は、宇宙空間にはエーテルという物質で充たされていると考えることで、この矛盾を解消しようとしたのだ。これは当時の一部の物理学者が唱えていたわけではなく、物理学での常識と言ってもいい考え方であった。
しかしその後、宇宙空間にエーテルが充填しているとしたら都合の悪い実験結果がたくさん出てくるようになる。しかし、物理学はそのエーテルという考えをなかなか放棄することが出来ない。そしてようやく、アインシュタインという天才物理学者が、宇宙空間というのはそもそも光を伝播する性質を持つのだ、という考え方を披露し、このエーテル問題は決着を見ることになった。
僕にとって、神というのはこのエーテルに似たようなものでしかない。観測することも出来ないし、現実のデータと矛盾することも多々あるのだけど、しかしその存在を多くの人に認められているもの。そういう意味で、神とエーテルは非常に近いものがある。
結局エーテルは存在しなかった。エーテルが存在していないことは100%間違いなく、疑いようがない。科学というのは、こうして何かを決定付けることが出来るから僕は好きだ。
神も、まず間違いなく存在しないだろう。まさにエーテルと同じである。しかし問題は、その不在を証明することは絶対に出来ないということだ。同時にその存在の証明も決して出来ないのだけど、このどちらの証明も決して出来ないという点が、神の実在がここまで信じられるようになった要因だろうと思う。
別に誰が何を信じようが僕には関係ないが、しかし少なくとも、神は存在しないというところからスタートした方がいいんじゃないかな、と僕なんかは思ったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
行商人であるロレンスは、山の奥地での取引を終え、麦の産地である村を通り過ぎ、また別の取引に向かおうとしていた。川に差し掛かり、今日はここで一休みしようと思ったところで、荷馬車に人の気配を感じた。
素っ裸の美しい少女だった。
彼女は自らを、ホロと名乗った。ホロと言えばロレンスには一つしか思い浮かばない。麦の産地である村で信仰されている、豊作を司るとされる神の名前だ。実際彼女が豊作の神であるのかロレンスは半信半疑であったのだが、北に帰りたい、その前に諸国を旅したい、というホロと一緒に旅をすることになったのだ。
ロレンスはそれからしばらくして、ある奇妙な話を耳にする。近い内にある銀貨が値上がりするという話で、それに乗れば大金を得られるような儲け話だった。しかし、そううまい話があるはずもない。ロレンスは、これまた半信半疑ながらも、とりあえずその話に乗ってみることにするのだが…。
というような話です。
僕は時々ライトノベルを読んでみたりするんですけど、これは結構いいなと思いました。近々アニメ化するようで、なかなか人気のあるシリーズなんですけど、結構面白い作品です。
とにかくホロのキャラクターがかなりいいですね。まさにロレンスを手玉に取ると言った感じで、緩急自在という印象です。ツンデレというのとはまた違って、時々姉キャラなんだけど、時々妹キャラみたいな、そんな不思議なキャラクターでした。僕もホロには結構振り回されてしまいました。
話もきちんとしていて、僕はそこまでライトノベルを読んでいるわけではないんですけど、ライトノベルっぽくない話だと思いました。普通のファンタジー小説と言われても充分通用するくらいで、面白く読めました。ライトノベルらしくなく挿絵もそこまで多くはなくて、やっぱり電撃文庫はジャンルも豊富でレベルも高いのかなとか思ったりしました。
しかしまあ、とにかくホロのキャラクターが全開に楽しい作品です。ホロとだったらちょっと旅に出てみてもいいなぁ、とか思ったりします。まあロレンスのように頭が切れる男ではないんで、すぐ愛想をつかされてしまうかもしれませんけどね(笑)
僕はライトノベルを読むと、二巻目はもういいかなと思うようなことが結構多いんですけど、これはシリーズで読んでみてもいいかなと思える作品でした。なかなか面白いです。機会があったら二巻目を読んでみようと思います。
そういえば全然関係ないですけど、この作品はちょっと記念すべき作品で、それは、これまで読んだ作家数がこの作品でちょうど500人になりました。なかなかたくさん読んでるものです。これからも、まあ頑張ります。

支倉凍砂「狼と香辛料」

森博嗣の小説は、何だか小説らしくないという印象を受ける。
これは決して悪い評価ではない。むしろいい評価であると言える。その辺りのことをちょっと説明してみたいと思うのだ。
小説というのは、まあ様々なジャンルがあるものだけど、何だかんだと言ってストーリーを伝えるための器だと僕は思っているのだ。小説の中には、人間もいれば自然もある。感情もあれば論理もある。そういった様々なものが含まれて小説と呼ばれるようになるのだけど、しかし常に求められることは、それがストーリーを伝えているということだと僕は思う。それが、小説の本質とは言えないかもしれないけど、少なくとも骨格にはなりえる。
もともと小説というのは、いつの間にか小説として存在していた、それを発表してみた、というような形態だったはずだと僕は思うのだ。もっと昔、まだ小説家なんていう存在が全然なかったような頃を想像してみると、どこかに発表したりそれでお金を儲けたりといったような意思なく小説が生み出され、それが人に読まれたりするようなのが始まりだったのではないかと思うのだ。始まりという言い方はおかしいけど。
だからこそ、まず小説という器があって、そこにストーリーを盛るという流れで小説というものを生み出せたのだと思う。少なくとも、ちょっと前まではそうだったはず。
しかし最近は違うように思える。最近では、とにかく小説というのは一つの道具になった。表現ではなく道具だ。書きたいことがあるから小説を書くのではなく、作家になりたいから小説を書いたり、あるいは小説を書き続けなくてはいけないから小説を書いたりといったような状況になっている。
そんな状況の中では、まずストーリーが優先されるのだ。ストーリーがあり、その後で器である小説の形にする。そんな小説が多いような気がする。
さてその場合小説というのはどうなるかと言えば、ありとあらゆる要素がそのストーリーのために存在するようになってしまうのだ。僕が言っていることが分かるだろうか?
イメージとしては、中心がある、ということになる。円みたいなイメージだ。人間も自然も感情も論理も、小説の中に含まれるありとあらゆる要素が、ストーリーという中心に向かって注ぎ込まれていく。もっと言えば、ストーリーに関係のある要素だけが残され、ストーリーに無関係な要素はどんどんと殺ぎ落とされていく。そんな感じである。
だから最近の小説というのはすごくすっきりしている。分かりやすい。それは当然で、ストーリーに関係のない余分なものは省かれてしまっているからだ。まさにそれはデザインそのものであり、車になんとなく近い。昔の車は、余分なものが多くすっきりとしていなく効率なんかも悪かったけど、しかしそれがいいという人もいる。最近の車は余分なものはないしすっきりしているし効率もいい。それがいいという人もいる。まさに小説も、車のようなデザインのされ方をしているように思える。
ただ、そういう小説の難点は、やはりどうしても現実からは遊離するということだ。ぼんやりと小説を読んでいる時は気づかないのだが、ストーリーに余分なものを削っている分、小説の中にノイズがなくなってくる。僕らは普段生きている中で、まさにノイズとしか呼べないような行動や感情を有している。理由もなく行動したり、理不尽な感情を抱いたりといったような積み重ねで日常というものが成り立っていく。そのことはあまり意識されないので、ノイズを取り払った小説を読んでも違和感を感じなくなっているのだけど、よくよく考えてみると、そのノイズのなさが小説を現実から遊離させているように思えてくる。
森博嗣の小説には、最近省かれてしまっているノイズが意識的に残されているように僕には思う。ストーリー全体からしたら余分で、まるで不要なピースの紛れ込んだジグソーパズルでもしているような感じなのだけど、それが逆に現実っぽさをかもし出しているように思う。特に会話にそれが現れているように思う。小説の中の会話は、読者に情報を伝達する手段として存在することが多い。特にミステリではそうだ。しかし僕らが日常にする会話のほとんどは伝達を意図したものではない。お互いの隙間を埋めるような、そんな目的で喋っていることが多い。そういう雰囲気を、森博嗣の小説を読むと感じることが出来るのだ。
ノイズが多い小説は、中心を生み出しにくい。それは小説全体の分かり難さを高めるということにもなるだろうと思う。誰だって、パッと見で名前を思いつけないような複雑な図形より、円とか平行四辺形みたいな単純な図形を見たいものだろう。
それは、本を読むということがどんどん受身になってきたその歴史を物語ってるのだと思う。たぶん昔は、本を読むという行為はもっと能動的なものだったはずだ。既に僕には、能動的な読書というのがどういうものかイメージできないのだけど、そんな気がする。だからこそ、名前のつけようもない複雑な図形を見せられても大丈夫だったのだ。
僕らは、本を読むという行為に受動性を求めているために、目の前に現れるものがより単純で美しくあればいい、と考えてしまう。恐らく忙しすぎるのだろうと思うのだけど、じっくりと一冊の本を読むような余裕がないのだろう。だからこそ、円や平行四辺形みたいな雰囲気の小説ばかり求めるし、読者がそれを求めるから、作家もなるべくノイズのない作品を書こうとする。そうして今のような状況になったのだろうなと漠然と想像する。
別にノイズがあればいいというわけでもないだろう。僕だって、やはりどちらかと言えばノイズのない小説の方が読みやすいと感じてしまうだろう。しかし、時々こうしてノイズの残っている作品を読むと新鮮に感じられていい。そんなことを思った。
そろそろ内容に入ろうと思います。
特に親しかったわけでもないクラスメートの杉山が死んだ。なんとなく葬儀にも出た。退屈だった。皆出るものだと思ったけど、葬儀に参加したのは僕を含めて数人だった。
親友の姫野と話している内に、去年だったか杉山からもらった手紙のことを思い出した。封を開けた記憶がなかった。家に帰って探してみると、やはり未開封のままで見つかった。そこには、なんとも奇妙なことが書かれていた。
「友人の姫野に、山岸小夜子という女と関わらないように伝えてほしい」
結局杉山は死んでしまったわけで、その真意は分からない。
学校に杉山の父親がやってきた。僕の名前が掘り込まれたプレートを持っていた。棺に何冊か本を入れていたのだけど、恐らくそこに挟まっていたのだろう、とその父親は言った。僕にはまったく見覚えはなかった。結局そのプレートはもらうことになった。
それから、なんだかぼんやりと日々を過ごした。杉山のことが気になっているのかというと、そうではない気がする。何だか分からない。分からないけど、何かがどうしても気になるのだ…。
というような話です。
まあ全体的には普通ぐらいの作品ですね。森博嗣の作品は新刊が出るたびすぐ買って読むんですけど、最近そこまで当たりと感じられる作品には出会わないですね。ここ最近では、「ZOKUDAM」は傑作だったなと感じたのだけど。
本作のような雰囲気は結構好きですね。森博嗣の作品らしい、静謐というかクールというか、そんな感じの雰囲気の作品です。「記憶と殺人をめぐるビルドゥングスロマン」と書いてあって、ビルドゥングスロマンってのが何かさっぱり分からないのだけど。
タイトルは恐らく、「萌えない」と「燃えない」を掛けてるんだろうな、と思います。「萌えない」の方は「萌え~」とかの萌えるじゃなくて、植物が生えるという意味の萌えるです。森博嗣はタイトルを考えるのに半年以上掛かるという話を日記に書いていますけど、確かに森博嗣の小説のタイトルはかなりセンスのいいものばかりだなと思います。
まあ、オススメするほどの作品ではないけど、読んで損することもないだろうと思います。まあそんな感じの作品です。

PS:この感想を書いている途中で、もう後から考えれば考えるほど面白いような出来事があって、さすがにブログに書いたらまずそうなんで書かないですけど、いやぁ、年の瀬に大いに笑わせてもらいました。

森博嗣「もえない」

結末って何やねん、という感じである。
いや、ちょっと考えてみましょうよ。
『小説の結末』
『映画の結末』
『ドラマの結末』
こういう言葉は別に不自然ではないですよね。でもこれはどうでしょう。
『人生の結末』
ほら、これって、結局『死』と同じですよね?『人生の結末』=『死』。ですよね?
そう、『人生』という言葉には、『結末』という言葉は合わないんです。そもそも比べることがおかしいという意見もあるかもしれないけど、そもそもその点が、物語と人生の大きな違いだろうなと思うわけです。
物語というのは、何らかの始まりから始まって、何らかの結末で終わります。そりゃあ当たり前ですけど、じゃあ人生はどうかっていうと、誕生という決まった始まりから始まって、死という決まった結末で終わるわけです。物語には始まりも結末も多様性があるのに、人生の場合、それがどんな人であっても、始まりと結末は変わることがありません。
人間の人生を描いたもの、あるいはその縮図が物語であるはずなのだし、僕らもそう思って読んでいるはずなのだけど、でもやっぱり根本的には大きく違うわけです。
物語の場合、結末の続きが気になるということがよくあります。物語には、それがどんな終わり方であれ、必ずどこかに結末があります。未完のまま作者が死んだりしない限り、物語には必ず結末があります。
しかし、その先というのはどこにもないのだろうか、と思ってしまうわけですよね。まあこれは誰しもが考えるんではないかと思いますけど。
要するに物語というのは、それが存在する世界の一部だけを切り取ったものであるのか、あるいはそれで全部なのかということです。
前者であれば、物語の前後にも話が存在することになります。物語の都合上、どこかで区切らざる終えなかったというだけの話であり、その前後にもきちんと物語が存在することになります。
しかし、もしそうでないなら、即ち物語というのはそれが書かれた部分の世界しか存在しないというのであれば、結末の終わりはないことになってしまいます。
例えばよくミステリなんかでは、最後に犯人が指摘されたりします。で、犯人が動機やら言い訳やらをあれこれ吐き出して、はいそこでおしまい、ということになります。じゃあこの犯人はその後どうなったのか、捕まって刑務所にいるのか、精神鑑定の結果罪には問われなかったのか、ひっそりと死んでたりするのか。その犯人の家族はどうなっているのか。などなど。ちゃんと想像するようなことはないですけど、そういう結末の向こう側というのが気になることはたまにあったりします。
だから考えてみると、ハッピーエンドとかアンハッピーエンドとかっていうのは、結局のところ物語にしか使えないよな、ということです。あれ、ちょっと飛躍しすぎたか。
人生の各場面でも、ハッピーエンドとかアンハッピーエンドとかって言葉を使うことがあります。それは、人生の中のいくつかの区切りで見た時に、その終わり方がよかったかどうかを評価しているわけだけど、しかし人生というのは結局死ぬまで終わらないわけで、いい終わり方だったのかどうかというのは分からないものです。
物語というのは、結末の向こう側の世界があろうがなかろうが、結局そこで終わっているわけです。その時点で、良かったかどうかという判断が出来る。なんか僕も、物語のような世界での生き方ができればいいのにな、とか思ったりしますね。
というわけですいません。寝起きなんで(いつの間にか寝ていて、ついさっき起きました)、何を書いているんだか自分でもよくわかりません。そんなのいつものことじゃん、とか突っ込まれそうですけど。はい、それは正解です。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はいくつかのショートショートといくつかの短編が収録された短編集となっています。

「おねえちゃん」
親はあたしにだけ厳しい。お姉ちゃんにはすごく甘いくせに、あたしにだけはとにかく厳しい。ねえ、どうして?あたし、いろいろ考えたんだよね。わたしが悪いんだとか、わたしの反応の仕方が気に障るんだとか、わたしは拾われっ子なんだとか。でもでも、全部違ったんだね。なるほどなるほど、そういうことだったのかぁ。そこで、ちょっと一発相談があるんだけど…。
高校生の理奈が叔母である美保子に相談を持ちかける話。

「サクラチル」
真向かいの家に常盤さんが越してきたのは、桜の終わりの春のことでした。
常盤さんの奥さんというのは出来た人で、とにかくよくお顔を拝見します。それは様々な仕事場にいる姿を見かけるということなんですけど、足を引きずりながらいろんな仕事を掛け持ちしているのは大変だろうと思います。
それもこれも、ご主人がすべていけないんでしょう。年がら年中家にいて、働くわけでもなく、奥さんに怒鳴り散らす日々。その中で、まさかあんなことになるなんて…。

「天国の兄に一筆啓上」
兄の死から15年。それを偲んでちょっとした手紙を書いてみるショートショート。

「消された15番」
沼田紀美恵は、それはそれは大変な人生を歩んでまいりました。顔は綺麗でしたけどちょっと暗かったせいかいじめられたりしていたのですが、ある時恋に落ちまして、そのまま駆け落ちをしてしまったわけです。
しかし、世の中うまく行きません。
すぐ旦那が事故で死んでしまいました。それからというもの、紀美恵は一人息子と二人でそれはもう一生懸命生きてきたわけですけど…。
そうです。息子が甲子園にベンチ入りする。そんな夏のことでした…。

「死面」
夏休みの度に母の実家へと遊びにいった。毎年それが楽しみだったのだけど、その実家には入ってはいけない部屋というのがあった。特に疑問を持つこともなくこれまで入ったことなどなかったのだけど、反抗的だったある時期、その部屋に入ってしまった。特にどうということもない部屋だったのだけど、その部屋にはちょっとリアルすぎる人面があるのでした…。

「防疫」
水内真知子は、世間一般にいう教育ママというやつだった。一人娘である由佳里をとにかく日々鍛えている。
当初は教育ママになる要素なんて全然なかったのだ。それが、子育てで関わったいろんな関係により、真知子はれっきとした教育ママになった。娘のためと思い込みながら、到底教育とは言いがたい感じで娘に接する真知子。もはやそれは教育でもなんでもなく、躾のレベルも大きく超えていた…。

「玉川上死」
玉川上水を死体が流れてる…、という通報があり警官が駆けつけて見るが、しかしそれは死体ではなくれっきとした人間だった。
ちょっとした賭けだったのだそうだ。
玉川上水約4キロを、酸素ボンベを巧妙に隠しつけた状態で流れていき、警察に通報されたらアウト、されなかったらセーフ、という遊びである。まったく人騒がせな。
しかし、計画を進めていた仲間二人と連絡が取れなくなり、まもなくその二人の死体が発見される…。

「殺人休暇」
合コンで知り合ったある男と、特に理由はないのだけど関係を持ってしまったわたし。しかしそれは大きな間違いだった。
その男は、私を美しくするためと言って様々な要求を出してきた。ブランド物のプレゼントをくれるのはありがたいのだけど、あれこれうるさい。とうとうある時、もうあんたなんかとは会えないと啖呵を切るのだけど…。

「永遠の契り」
好きだったあの子がうちに来る!さてさて、どうなるどうなる…、というショートショート。

「in the lap of mother」
パチンコをしている間車に子どもを放置して死亡させる。そんなニュースが後を断たない。世の母親は何をしてるんだ、と思う。バカなんじゃないのか、と。
わたしは違う。とにかく完璧だ。あれこれ対策を立てて、子どもを連れてパチンコをしているのだ。子どもからは絶対に目を離してはいけないのだ…。

「尊厳、死」
ムラノは、いわゆるホームレスだった。仕事がないというのでもなかったが、とにかく働く気力がなかった。かといって死ぬこともできなかった。生きていく積極的な理由があるわけでもない。というわけでホームレスだった。
つい最近まで駅の地下通路にいたのだが、安全と引き換えに人間関係が煩わしくなりそこを出た。今では一人で公園に住んでいるが、しかしこんどは危険と隣り合わせである。中学生が襲撃しに来たり、親切そうなおばさんがお節介を焼きに来たり…。

というような話です。
これはかなり面白い短編集でした。タイトル通り、全部ハッピーエンドじゃない話ばっかりで、とにかく救われないんですけど、歌野晶午らしくどんでん返しのうまく利いた作品が多くて、読み応えがあります。
個人的にこれは傑作だと思ったのが、「おねえちゃん」「サクラチル」「防疫」「玉川上死」「殺人休暇」「in the lap of mother」「尊厳、死」です。って結構多いですね。
「おねえちゃん」は最後にうまくひっくり返した作品で、しかも完全に救いのない話です。これは本作中の中でもトップクラスの出来栄えだと思います。理奈の語る状況がすべて正しいように思えるのだけど、実は真相は他にあったわけで、いや~救われないっすねぇ。
「サクラチル」も、まあよくあるパターンと言えばそうかもしれないけど、結構うまく出来ています。しかしとにかく、常盤さんの奥さんというのは大変です。あぁいう苦労を背負わせるくらいなら、結婚なんかしちゃいけないですね。
「防疫」はかなり怖い話だと思いました。世の中の教育ママというのはこうしてできあがるのか、と。僕は、作中ちょっとだけ登場するご主人に全面的に賛成です。子どもの内から勉強だ教育だなんてすることはないと思います。しかし、本作の真知子のように受験なんかに取り憑かれている人は結構いるんでしょうね。いやはや、これはホント恐ろしいです。
「玉川上死」も作中のレベルとしては結構トップレベルだと思いました。玉川上水を死体のフリをして流れるイベント、という始まりから、まさかあんな風に終わるとは思いませんでした。これもいろんなことが一気にひっくり返る、どんでん返しの鮮やかな作品です。
「殺人休暇」は、とにかく狂気に取り付かれた男の描写が面白かったです。世に言うストーカーというのとは微妙に違うスタンスで、しかも想像すればするほど怖い。実害がある方がまだ安心できるというような、なるほど新しいパターンのストーカーなのかもしれません。妙に律儀ですけどね。
「in the lap of mother」はちょっと笑ってしまいました。短い話なんですけどよく出来てます。アホはどっちじゃ!と突っ込みたくなります。
「尊厳、死」も、まあよくあるパターンではありますが、やっぱり巧く出来ています。最後一瞬でどんでん返しが決まる作品です。
どれもこれもかなりレベルの高い作品だと思います。かなり面白いですよ。もし立ち読みするなら「おねえちゃん」「玉川上死」「in the lap of mother」辺りがいいですね。その辺を読んで買うかどうか決めるのはアリだと思います。歌野晶午は「葉桜」だけじゃないぞ、と思わせる作品でした。

歌野晶午「ハッピーエンドにさよならを」

逃げることにかけては結構得意である。僕の人生をひと言で言い表すとすれば「逃避」とか「逃亡」とか、あるいは「逃」って1文字でもいいけど、とにかくそんな言葉になると思う。今でも現在進行形で逃げ続けているのだ。逃げて逃げて逃げて。
何から逃げているかと言われると、まあそれはひと言ではいえないんだけど、現実とか社会とか常識とかリアルとかまっとうとか正しさとかイメージとか、まあそういういろんなものの集合体みたいなものから必死で僕は逃げているのだ。幸い今では、そういうものは後ろを振り返っても視界に入らないくらい引き離したと自分では思っているので、まあ比較的安定していると言えば安定している。しかしその安定というのも、ちょっと揺れたらすぐ崩れてしまうようなやわなもので、だか安心は決して出来ない。ドラマのセットのようなもので、その安定は、リアルな現実と、あるいはリアルな恐怖と陸続きになっているので、俳優がセットの中にいることを自覚しないように、今自分が逃げているということを自覚しないようにして、何とかその安定を保っているように僕は思う。
でも、最近思うのだ。
逃げるって、そういうことじゃないんじゃなかろうか、と。
僕はずっと、逃げるというのは、前進するのではなく、後ろ向きに走っていくことだ、と思っていた。つまり、前進を否定し、後退を許容したところに逃避というものが生まれるのだと思っていたのだ。
でも違うのかもしれない。
逃げるということは、留まり続けることを言うのではないか、と思うようになってきた。
何故そう思うようになったのかということに理由はないのだけど、漠然と、後退しているという状態も、即ち足を動かして動いていることには変わりないのだよな、とふと思ったのではないかと思う。つまりその動的なイメージは、逃避という言葉のイメージからはちょっと外れてるような、そんな感じがしたのではないかと思う。
しかし、また別にこうも思う。留まり続けるというのもまた動いていることになるのではないか、と。
何故なら、世界というのは静止してはいないからだ。世界というのは、絶えずどこかの方向へ向かって動いている。その世界の中である場所に留まり続けているということは、即ち世界の歩みに合わせて動いているということになると僕は思う。
何だかよくわからなくなってきた。
逃げるというのは、世界に対してどう接することを言うのだろう。僕はずっと自分が逃避し続けてきたのだと思ってきたけど、それは違っていたのかもしれないのだろうか。僕がしてきたのは、逃避とはまた別の何かだったりするのかもしれない。
まあだとしても、僕の意思は特に変わらない。要するに、これが逃避であろうがなかろうが、これまで通りに僕は逃げ続けるだけだ。目の前に立ちはだかる障壁から逃げ、目の前の目標から逃げ、将来から逃げる。アキレスと亀のパラドックスのように、いつまでも追いつかれなければいいのだけど。
僕が見る限り、多くの人は逃げられない世界の中で逃げられないくらいグルグル巻きにされているように見える。自由とか不自由の話ではないんだけど、すごく窮屈そうに見える。いろんなものがまとわりついている感じで、さらにそれを振り払うことがなかなか難しいように思える。服を着たまま泳いでいるみたいに。
さらに僕には不思議なことに、皆その束縛を、自らの意思で進んで求めているように見えることだ。何だろうか、皆なにかに囚われたいという願望でも持っているのかと不思議に思うくらいだ。
だから僕は逃げる。それはある種、宗教団体との距離感にも似ている。宗教というのは、外から見ればおかしいことがすぐに分かるのに、中にいるとそれが見えなくなってしまうことがある。僕には、僕だけが外にいて、周りの人間が皆そういう宗教団体みたいなものに囚われているように見えてしまう。周りがどれだけその信者になろうとも、僕は取り込まれない。逃げる。逃げる。逃げる。そうやって、いろんなものとの距離を取ってきた。
まあ実際は、僕の方が閉じ込められているのだろう。僕の方がすごく狭いところにいて、でもそこで自分がいるところは広いぞって虚勢を張っているんだろう。少なくとも、周囲にはそう見えているんだろう。なんか悔しい。でも、まあしょうがないか。
取り込まれないように、僕は逃げるよ。その内世界を見失うだろうけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
革命家として、闘争と潜伏に明け暮れた20年。おれは20年を軽々とドブに捨ててしまっていた。時代は革命を求めていなかったし、革命は自分を求めていなかった。そうして革命家だったおれは終わった。
でも、革命家を辞めたおれは何をすればいいのだろう。まだ40歳。まだまだ生きる時間は残ってたりするわけだ。でも若くない。って、どうしろっていうわけさ。
とりあえず、進む方向は決まっている。妹と、そして託児所だ。妹が、ついに念願かなって託児所を開くことに。んで、おれはそこで働く、と。分かりやすい。向かうべき道は分かりやすいよ。
ってなわけでとりあえずどっか行くか。旅っていうんでもないんだけどね。ってそこでさ、京都なんだな。何でかって、そこにはかつておれの亡霊がいたからさ。なんちて。
ってなわけで京都に降り立ったおれ。バンジャマンとかいう胡散臭い西洋坊主と出会って、京都をブラブラする。もう一回言うぞ。京都をブラブラしてるんだ…。
というような内容です。
絲山秋子って結構すごい作家だなと僕は思っているんですけど、この作品もそんな凄さを感じさせる内容でした。
正直、ストーリーがどうこうというような話ではないです。ストーリー自体に物語はない、って言う言い方はおかしいけど、そんな感じなんです。ホント、ただ革命家だったおれが京都をブラブラするだけの話で、ストーリー展開上何か起きるというわけでも決してなく、だからストーリーじゃないんです。
じゃあ何なんだっていうと、これがうまく説明できないんですね。確かに文章は独特で、絲山秋子の世界観を生み出すのに大いに役立っているのだけど、しかし文章だけかというとそうでもないのだ。
なんだろう。これはホントうまいこと説明できないんだなぁ。
例えば糊で紙と紙を接着させるみたいなことを考えてみましょう。この場合、どれだけきっちりと紙同士をくっつけても、それが二枚の紙を貼り合わせたものだというのはやっぱり分かりますよね。手触りでちょっと厚いなとか、見た目的にちょっと違うぞとか。
でも本作を読んで感じたのは、二枚の紙を糊で貼り合わせたはずなのに、その貼り合わせた紙はもともと一枚だったようにしか感じられない、みたいなそんな感じです。意味分かりますか?自分でもちゃんと分かってて言っているわけじゃないんですけど、読んでてそういう感覚があります。
だからうまく説明できないんですけど、なんか普通の小説にはない突き抜けた感じがするんですよね。頭では紙が二枚貼り付いていることを知ってても、感覚が一枚だと告げたら、やっぱりビックリしますよね。そんなビックリなんです。実際と感覚がかみ合ってないぞ、みたいな。
やっぱりうまく説明できなくてもどかしいですけど、要するになんかすごいってことです。
全体的にすごくザラザラした感じがあって、でもすごくあっさりしてる部分もあったりで、すっごい濃厚に見えるスープなんだけど飲んでみるとあっさり味のラーメンみたいな、また意味不明なこと言ってますけど、そんな作品だなと思います。重さと軽さのバランスが絶妙なんでしょうね、きっと。
結局うまく説明できなかったですけど、作品全体を理解することが出来たかと言われると自信がないですけど、読んでるとなんかすごいと感じられるような作品です。短いしテンポのいい文章なのですごく読みやすいと思います。是非読んでみてください。
絲山秋子の作品は結構読んできましたけど、芥川賞を取った「沖で待つ」以外のどの作品も素晴らしいと思いました。何故「沖で待つ」で芥川賞だったのか…。謎です。

絲山秋子「エスケイプ/アブセント」

古典で名作と言われているものは、長い間残り続ける。
これが文学作品であれば問題はない。文学作品にしても、時代背景をしっていなければ、あるいはその当時の言葉遣いをしっていなければ読むのに苦労する作品というのはたくさんあるが、しかし文学の古典作品というのは普遍性を持ちうる。それは、人間を描いているからであり、人間の本質を描いているからだろうと僕は思う。
人間の本質というのは、時代が変わっても変わらない部分というのは必ずある。あるいは、その時代背景とセットで受け入れることの出来る場合もあるだろう。そうやって、文学の古典作品というのは、その作品に普遍性さえあれば、いつまでも残り続け、いつまで新鮮なまま読み継がれて行くだろうと思う。
しかし、これがミステリとなるとなかなか難しくなってくる。
ミステリにももちろん、古典的な名作と呼ばれるものはたくさんある。大抵海外の作家の作品になるが、日本でも江戸川乱歩や横溝正史と言ったような大家がいる。そういう作家の作品は今でも古典的な名作として残っているし、今でもミステリベストなんて企画をやると上位に来るものもあったりする。
しかし、ミステリの古典作品というのは普遍性を獲得するのがどうしても難しいと僕は思っている。その理由が、ミステリというのは人よりもまずトリックを描くジャンルであるからである。
ミステリというのは基本的に、トリックやあるいは意外な犯人といったような部分がメインになる。古典的な名作と言われる作品も、そういうトリックが優れていたり、あるいはこれまでにない手法で読者を騙したりといったようなことが話題になり、今も読み継がれているのである。
しかし、トリックというのは残念ながら古びてしまうのだ。
ミステリというジャンルは、先人の仕事をいかに乗り越えるか、という重圧を必然的に背負ってしまったジャンルである。先人が生み出したトリックと同じものを出しても仕方がない。読者を驚かせるためには、先人の仕事以上のことをやらなくてはいけない。そういう宿命にあるジャンルであるから、どうしても先人の仕事というのは古びて見えてしまうものだ。
忍者が大木を飛び越す、という話がある。まず忍者は、木の苗木を買って来てそれを植える。そして、その苗木の状態の木を毎日欠かさず飛び越すようにするのだ。木の生長というのは早いものではない。即ち、昨日と今日ではほとんど差がないということになる。昨日飛べたのであれば、今日も飛べるはずである。一方で木は着実にその高さを増していくことになる。それを続けていけば、いずれ忍者は大木でさえも飛び越せるようになる、という話である。
ミステリというジャンルは、まさにこの話に似ていると思う。ミステリというジャンルが生まれた時は、まだほんの小さな苗木の状態だった。それを、時代を超え多くの人が飛び越してきた。もちろん、ミステリという苗木はどんどんと成長しその背を伸ばしていく。今では自分の背の高さ以上の木を飛び越せる忍者が、かつて自分が飛び越したことのある背の低い状態の木を見て、昔はこんな高さの木でも必死だったのだなぁ、と回想するようなものである。
分かりづらい話をしたが、要するにそういうことだ。ミステリの古典作品というのは、やはりどう比べても現代のミステリよりは驚きに劣る。それは、先人の仕事が劣っていたということでは決してない。その時育っていたミステリという名の木の最も高い部分を飛び越した作品であることは間違いないのだ。しかし、今ではその木はもっと生長し高さを増してしまっている。現代の読者は、その高さの木を飛び越えるだけの素養を既に見に付けてしまっている。とすれば、かつての高さの木を飛び越すような作品を読んでも、やはり新鮮さに欠けるというのは否めないだろうと僕は思うのだ。
ミステリの古典作品を読むことはあまりないのだが、時々気まぐれに読んでみたりするといつも同じことを思う。それは、なるほどこれが当時驚きをもって迎えられた作品なのだな、ということだ。確かに、かつての読者を驚かせることは出来たかもしれない。しかし、より複雑なミステリを読みなれた現代の読者には、なかなかその驚きを再現することは難しいだろうなと思うのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ディクスン・カーという、不可能犯罪の作家、そして密室の大家と言われたミステリ界の大物の作品である。割と有名な作品だと思うのだけど、どれぐらい有名なのかは僕はよく知らない。
イヴ・ニールは夫であるネッド・アトウッドと離婚し、一人身になった。それからしばらくして、真向かいの家に住む、トビイ・ロウズという青年に惹かれ、またその家族にも受け入れられ、婚約するところまで話が進んだ。
そんなある日のこと。
突然前夫であるネッドがイヴの家に忍び込んできた。帰るように言うのだがなかなか立ち去らない。そんな時、ネッドが驚くようなことを口にする。なんと、真向かいに住むトビイの父親が死んでいるというのである。それによってさらに焦った彼女は、ネッドを無理矢理追い出すようにして立ち去らせた。
これでようやく一安心と思ったが、しかし事態はとんでもない方向に進んでいるのだった。なんと、様々な状況証拠から、イヴが殺人の容疑者と考えられていたのである!前夫が部屋に来ていたとはなかなか言いづらい彼女は、身の証を立てることが出来ない。絶体絶命だが、そこへ心理学者だというダーモット・キンロス博士がやってきて…。
というような話です。
まあ現代のミステリを読みなれている人からすればありがちな話だろうなと思います。当時としては驚きの作品だったのかもだけど、まあ今の読者を驚かすことはなかなか難しいのではないかと思います。
まあでも、外国人作家でかつ古典作品という僕の苦手な二つの要素があったにしては、それなりにスラスラ読めた作品だったなと思います。会話が古臭かったり、あるいは時代の背景的なことがよく分からなかったりしましたけど、まあ普通に読めました。
本作みたいに、気になっているミステリの古典作品というのは結構あるんですよね。「アクロイド殺人事件」とか「黄色い部屋の謎」とか「Xの悲劇」とか「モルグ街の殺人」とかですけど、でもどうなんだろうなとか思ってしまいます。やっぱりこういうミステリの古典作品を読むと、やっぱ現代ミステリの方が驚きがたくさんあって面白いな、とか思ってしまうわけです。そりゃあ歴史的には価値のある作品なのかもしれないけど、だからと言って面白いとは限らないだろうな、なんて。だからいつも二の足を踏んでしまうんですよね。
まあそれでもたまには読んでみようかなと思ったりしますけど。とりあえず「黄色い部屋の謎」を読んでみたいかな。

ディクスン・カー「皇帝のかぎ煙草入れ」

時代が人を作るのか、人が時代を作るのか。
人々のありようというのは時代によって大きく変わるものなのだろう。僕は世代論というものをよく知らないし、僕が生まれる以前の世代にどんな特徴があるのかちゃんとは知らないのだけど、どの時代に生まれたかによって人々の生き方や考え方みたいなものに大きな違いが出てくるのだろうと思う。
本作の主人公である樋口顕は、団塊の世代と呼ばれるような全共闘時代を生きた人々のちょっと後の生まれで、全共闘時代の人々の尻拭いをしながら生きてきた、という感覚を持っている。全共闘にのめり込むことが出来たわけでも、その後すぐにやってくる新しい文化的なものを取り入れることが出来たわけでもない、何とも中途半端な時代に生まれたのだ、と述懐している。
別にそのことに対して特に不満がっているというのでもないが、しかしその少し上の全共闘時代の人々には、複雑な感情を持っている。特に、その世代の人々が自由というものを主張しすぎて抑制が利かなくなり、そのために親の世代になって離婚なんかを繰り返したために、子供に悪影響を与えている、と考えているようである。その話がどこまで的を射ているのか僕には分からないけど、なるほどそういう見方もあるのか、という風に思ったりもした。全共闘というのは、僕には機動隊と学生がワラワラやってる映像というイメージでしか認識できないけど、確かにその世代とそうでない世代だったら、価値観や生き方に大きな差が生まれるかもしれないなぁ、とは思う。
さらに時代は進み、どんどんと価値観も変遷していく。女性が社会に進出していくようになり、それまでも存在はしていたけど表面化しなかったいじめや不登校と言ったものが大きく取り上げられるようになった。性に関してはどんどん解放されていき、晩婚化や未婚の選択など、結婚というスタイルにも多様性が出てきた。集団よりも個人を優先するようになり、若者は未来に希望を託さなくなり、経済的な格差がどんどん広がり、政治にはどんどん無関心になっていった。
僕が気になるのは、こうした変化は時代という風潮が生み出すものなのか、あるいはその時代を生きている人々の変化の積み重ねなのか、ということだ。
僕が不思議に思うのは、誰かが扇動したり先導したりしているわけでもないのに、何故一つの時代は一つのある大きな方向へ向かって進んでいくのだろう、ということだ。それが、個人の価値観の積分によって生み出されているとはどうも考え難いのだ。それよりも、時代というのが潮の流れみたいな存在であり、その時代の流れに沿って僕らが流されているだけなのではないか、と思うのだ。
その場合、時代というのはそこに生きる人の有り様とは無関係に存在するということになる。あたかも、時代というものが一つの意思を持った生き物であるかのように。
これは都市伝説みたいなものだと僕は思っているのだけど、昔こんなことを聞いたことがある。ファッションの世界には流行色と呼ばれるものが毎年言われるけれども、あれは世界のどこかの誰か(あるいは集団)が毎年決めているのだ、という噂である。そこかそういうファッションのトップ機関(?)みたいなところがあって、そこが毎年、今年の流行色は何色にしよう、というような感じで決めている、というのだ。
時代というのもその流行色のようなものであるように思えてくる。本当に世界を牛耳っているような存在(あるいは集団)がいて、その集団が、これからはこういう時代にしよう、と考えているのではないか、と。これはただの妄想に過ぎないけど、でもそういえばそんな話が松岡圭祐の小説にあったなぁ、なんて思ったり。確か、心理学やコンサルティングの手法を複雑に組み合わせることで、世界の流れをコントロールする組織があって、歴史的な重大事件(パッとは思いつかないけど、天安門事件とか)も、彼らがそれを引き起こさせるように人々を動かしたからこそ起こりえたのだ、とかなんとかそういうような設定の話だった気がします。まあなんとも壮大な話ですが、でも実際にないとは言い切れないと思います。少なくとも、まったく別々の価値観を持っているはずの人々が、何故一つの特徴ある時代を生み出してしまうのか、という説明にはなるのではないかと思います。
鶏が先か卵が先かという話みたいなもので、時代が人を生み出すのか人が時代を生み出すのかというのは何とも言えない問題だろうとは思います。しかし、そこに明確な方向を持った時代というものが存在し、その中に人々が生きているということだけは確かです。僕は時代の流れに追従するような生き方はしたくないと思っていますが、しかしそれでもその大きな流れから逃れることは不可能でしょう。何故かどんな人であってもその時代を構成する要素に含まれてしまう。まあ不思議なものです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
警視庁捜査一課強行犯第三係の班長を務める樋口顕は、警察組織の中では非常に珍しい謙虚で控えめな男である。普通警察組織の中では、押し出しに欠ける男はなめられてしまう。しかし樋口の場合、その謙虚さn救われた。実直に組織のために力を尽くす彼は、いつしか周囲の信頼を勝ち取るようになり、樋口に任せておけば大丈夫だ、という評価を得るまでになった。
しかし当の本人としては、それは過剰な評価であると思っている。常に人の目が気になる彼は、自分が評価されすぎているのではないか、と思い不安になる。捜査においても刑事同士との人間関係ばかりが気になってしまう。どうにも自分に自信が持てないのである。
さてそんな樋口が関わることになった事件がある。第一の事件は、あるアパートで起こった。新聞配達員とマンションの住人が死体を発見するのだが、現場から立ち去る美少女が目撃される。当初そのリオと呼ばれる美少女は参考人として行方を追われるだけだったが、第二第三の事件が起こり、そのどちらの現場でも同じ少女が目撃されるに至って、彼女の扱いは容疑者に切り替わった。
しかし、樋口はどうも違和感を感じる。リオが犯人であるようには思えないのだ。彼にしては珍しく、捜査本部の方針に逆らって自分で捜査をすることになるが…。
というような話です。
最近今野敏の作品を結構読んでいますが、この作家はなかなかいいですね。何でこれまでこの作家の作品を全然読んでこなかったのだろう、と思うくらいです。なんとなく多作の作家(赤川次郎、西村京太郎、内田康夫、梓林太郎、と言ったような作家)はどうも手を出しづらくて、今野敏も既に著作が130作を超えるようで、だから避けていたんだと思います。
本作は、STシリーズと同じく警察小説ですが、雰囲気としては結構違います。STシリーズの方は、マンガのようなキャラクターの魅力をふんだんに出しながら割と面白い感じで進んでいく話ですけど、このシリーズは結構真面目な感じの警察小説になっています。
面白いのが、これは解説氏も書いていますが、主人公である樋口顕の設定ですね。警察小説と言えば通常、自分の仕事にプライドを持った自信たっぷりなやり手の刑事が主人公になることが多いですけど、本作の主人公はそんなイメージからは程遠い感じです。自分に自信がなく、周囲の目が気になる。そんな気弱と言ってもいい主人公を中心にした警察小説というのは、結構新鮮で面白いなと思いました。
今野敏の警察小説というのは、割と事件自体は平凡であることが多いです。事件やストーリーそのものに何か特色があるわけではありません。ともすれば退屈といわれかねないそんなストーリーを、今野敏は面白く読ませます。それはやはり、キャラクターの造型の巧さ・面白さによるのだろうなと思いました。
本作では世代論というのも結構なウェイトを占めます。自分の生き方、先輩刑事のあり方、また社会の問題まで、樋口顕は結構そういうものを世代論で括って話をすることが多いです。だから、樋口顕が言っているような全共闘時代やそのちょっと後の時代のことを知っているという人はより面白く読めるんではないかなと思ったりします。
僕の中で割と評価が高くなりつつある作家です。重厚さはないですけど、スラスラと軽く読ませて、かつ面白いという感じの作風です。とりあえずいろいろ読んでみようと思っています。皆さんも、とりあえず何か一作読んでみることをオススメします。

今野敏「リオ 警視庁強行犯係・樋口顕」

外国について考える時、不思議なことが二つある。いや、これから書く話は全然不思議でも何でもない話なんだけど、なんとなく不思議な気分になるというか、そういうような漠然とした話である。
一つは時間である。
僕が行ったことのある外国というのはエジプトだけだけど、やはり外国というのは日本とは何もかもが違う。人も雰囲気も、言葉も文化も、背景も空気も、常識も社会も、そこにあるすべてのものが日本とは違っている。似ている部分があってもそれはまるで違うもので、親しみを感じてもそこには大きな断絶があったりする。
しかし、流れる時間だけは同じなのだ。
僕は普段から腕時計をしているのだけど、この時計の進み方はどこへ行っても変わることはない。もちろん、主観的な時間の流れ方みたいなものは変化するだろうと思う。インドに行けば時間の流れは遅く感じられるだろうし、ニューヨークに行けば逆に早く感じられることだろう。
しかしそれでも、客観的な時間の進み方はどこへ行っても変わることはない。まあ物理学的な正確さを期すならば、厳密には地面からの高さによって時間の進み方が変わったりするのだけど、まあそれは時計の進み方に大きく影響を与えるものではないから無視していいだろう。
外国というのは何もかもすべてが違うと言っても言い過ぎではないのに、そこを流れる時間だけが常に一定であるというのが何だか不思議な気がするのだ。もちろん、時間なんていうのは先進国が一方的に基準を定めただけのもので、そういう意味ではどこでも一定であることは当然であるのだけど、ありとあらゆるものが異なる中で唯一同じものがあるというのは何だか不思議である気がする。
もう一つは、世界中のどこにでも人が住んでいる、ということである。
一枚の世界地図が目の前にあったとして、そこに向かってダーツの矢を投げるとしよう(確かそんなことをやっているテレビ番組があったなぁ)。ダーツの矢が海に刺さったのでない限り、その矢の刺さったところのほぼすべてに人が住んでいると言っていいだろう。
考えてみれば普通のことなのだけど、それってちょっとすごいなと僕は思ったりするのだ。確かに局所的に見れば人が住んでいない地域というのは存在するかもしれないが、大雑把な視点で見ればありとあらゆる場所に人が住んでいると言える。どんなに極寒の地でも、どんなに灼熱の地でも、あるいはどんな環境であろうとも、そこに適応した人間がそこに適したやり方で生活を営んでいる。日本という狭い国にいてはなかなかうまく想像することは出来ないが、世界というのはあまりにも広いのだなと思ったりするのである。
とはいえ、こんなことを書いてはいるが、僕はやはりそこまで外国というものに興味がない。まあいろんなことに興味がない僕なので外国に興味がなくてもどうということはないと思うけど、外国というのは僕の中で、比較的積極的に興味がないことだったりする。
うまく説明できないのだけど、要するに日本にいても引きこもっているばかりの人間が、海外に出たぐらいで開放的になれるかよ、という感じがするのである。なんとなく分かってもらえるだろうか?
これは日本における英語教育の問題点にもある種似ていると思う。
日本では最近、早期英語教育に踏み切るべきかというような議論が存在する(あるいはその論争にはもう終止符が打たれているかもだけど、よく知らない)。いろんな意見があるのだろうが、僕は早期の英語教育はやらない方がいいのではないか、という意見に賛成だ。それは、藤原正彦著「国家の品格」の中に書かれていた文章に納得したからである。
「国家の品格」の中で著者は、「英語が喋れても、喋る中身のない人間だったら意味がない。それよりもまず国語教育に力を入れ、また日本の歴史なんかにも理解を深めるようにし、きちんと外国人に話せる内容を持つことが先決だ」というようなことを書いていた。確かにその通りだと思う。
最近の日本人は、英語の発音だけは滅法いいが、内容のない話しか出来ないということで外国人から相手にされない、というような話を聞いたことがある。英語は話せるけど、自国の歴史や文化や政治についてまったく知らないのでは話すことがない、というわけである。それよりは、発音や語彙などはどれだけ適当でもいいから、自国の歴史や文化や政治について話せる方がよっぽどいい、というわけである。なるほど、それは当然だ、と思った。
ちょっと牽強付会に過ぎるが、僕が外国というものに積極的な無関心を持っているのも、これに近いとは言えないだろうか。そもそも日本という国において外に向けての関心が薄いのである。それなのに、外国に出た途端外への関心が急激に増すということはやはりありえないのだ。
外国というのは、確かに漠然とイメージするだけなら面白そうであると思う。しかし僕の中でのそのイメージは、京都という街が漠然と面白そうであると思うのと似ている。僕は京都という街は好きだけど、やはり僕一人ではその街をちゃんと楽しむことは出来ない。何故なら、外側に関心がなかなか持てない人間だからだ。であれば、外国に行っても似たようなものだろう。これが、僕が外国に対して積極的な無関心を持っている理由である。
まあそれでもエジプトはなかなか面白かったと思う。一生に一度は入ってもいい場所かなと思ったものだ。かといってそれで他の地域への関心が湧いてくるというようなことにはならないわけで、ほとほと自分の無関心さには呆れるばかりである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、著者が19歳から20代の後半に掛けて旅して歩いた各地での話をまとめた作品になっています。どこか特定の地域についてではなく、いろんな場所のいろんな話を載せているという点で、短編集みたいなものだと思ってもらえればいいと思います。
場所としては、インド・アフリカ・東南アジア・中国・南米と多岐に渡り、また内容も、騙されて無一文になった話、人間の胎盤を食べる話、幻の幻覚剤を求めて超危険な南米の奥地へと入り込む話、ウンコの話、野人探しの話と多岐に渡っており、とにかく著者の興味の赴くままにあちこち放浪してはそこで出会い見聞きしたものについて書くという感じです。
相変わらず無茶苦茶なことをしている人で、よく生きてるよなぁ、と思います。また、人の懐に入り込んでいくのが異常に巧く、現地の言葉をなるべく習得してから行くようにしているというのもあるかもしれないけど、物怖じせずに誰とでも関わることが出来るその人間性が、半分羨ましかったりするけど、半分ちょっとなぁと思ったりもします。
いつも思うけどこの人の文章というのはどことなくユーモアがあって面白いです。面白い体験をしてたり面白い人に出会っているというのもあるかもしれないけど、それをさらりと面白いタッチで表現できてしまうその文章もなかなか洗練されているように僕には思えます。特別すごいことが起こっているわけではない話でも、なんとなくスイスイ読んでしまうような文章で、しかも言ってしまえばいつも同じようなことをしているとも言えなくもないのに、どの作品もいつも新鮮に面白く読めるわけで、なかなか不思議な作家だなぁ、と思ったりします。
個人的にはやっぱり中国の話が面白かったですね。中国というのはやっぱり変な国だなぁ、と改めて思いました。最近では中国がいろんなものを勝手にコピーしているという問題が取り上げられたりしていますが、そんなの屁でもないようなことが日常的に起こっているわけで、ちょっと中国では生きていけないだろうな、と思ったりしました。
まあそんなわけで、相変わらずこの著者の作品は面白いです。どの作品も、誰もが憧れない(?)ぶっとんだ青春を味あわせてくれると思います。本作も、自由で羨ましいなぁ、と思う一方で、こんな生き方はちょっと無理だよなぁ、と思わせる作品で、ただ読者として読んでいる立場であればすごく楽しい、そんな感じです。是非読んでみてください。

高野秀行「怪しいシンドバッド」

怪しいシンドバッド文庫

怪しいシンドバッド文庫

仮面を被って生きていかなくてはいけない人がいる。
僕もその一人である。普段周囲に見せている僕の姿はほとんど偽りであると言ってもいいすぎではないと思う。僕には、表には出てこないもう一人の自分というのが内側にあって、それを隠しながら生きているのである。
何故内側に別の自分を隠しているかと言えば、それは内側の自分が周囲とは馴染まないことを知っているからである。僕の本性はかなり酷い人間で、冷酷で無慈悲な人間味のない男である。しかし、その性格のまま社会の中で生きていくことはなかなか難しい。人付き合いや仕事をする上でも、その性格は損にこそなれ、得になるようなことは決してない。だからこそ僕は、その本当の自分というものを内側に押し込め、表面上にもう一人別の自分を作り出しているのである。
これは昔からそうだった。
僕は子供の頃からずっと、優等生を演じ続けてきた。親に対しても学校の先生に対しても、常にというわけではなかったがほとんどの場面で優等生としての自分を見せてきた。
それは、優等生でいる方が自分としては生きやすいということに気づいたからだ。家でも学校でも、優等生であることを全面に押し出して生活をしていた。それは、確かに窮屈でめんどくさい生き方だったけれども、しかし本当の自分を表に出した場合に比べたら穏やかに生きることが出来るだろうということは間違いないと思ったのだ。少なくとも、内側の自分をそのまま出してしまえば、周囲との軋轢が常に起こり、よりめんどくさい状況に陥っていたことだろう。それを回避するためには、優等生であり続けるしかなかった。
しかし、優等生である自分というのは、本来の自分とは大きくかけ離れていた。僕は全然真面目でもないしきちんとしてもいないし正しくもないのだけど、常にどんな場面でも優等生的な判断を求められた。自分でそうなるように仕向けていたのだから文句を言っても仕方ないのだけど、やっぱりその生き方は結構めんどくさいなと思うようになった。
ある時期から、親に対しては優等生としての自分の仮面を脱ぐことにした。これまでの自分が偽りであったことを伝え、親に対しては本来的な自分をメインに出すことにした。少しだけ気が楽になった。まあ親としては辛いものを押し付けられたようなものだろうけど、まあ僕としては関係ないかなと思う。
今でも僕は、それなりに真面目な人間の仮面を被って生きている。やっぱり、そうやっている方が生きやすい。本来の自分を全面に出せば、恐らく社会でまともにやっていくことは不可能だろうと思う。まあ今でもまともじゃないけど、まあ自分の中で許容できる範囲には収まっているかなと思う。
世の中には、仮面を被らないでも生きていける人がいるのだと思う。そういう人を羨ましく思うこともあるけど、一方でちょっとおかしくないかなと思うこともある。
仮面を被らずに生きていける人は、集団の中でも強い立場にいることが多い。自分の意見や思ってることをそのまま伝えても、周囲から反発や不満が出ないような、そんな人望を持っていたりする。そういう人は自分を偽る必要がない。
しかし、そうでないような人の方が圧倒的ではないかと僕は思う。
日本人は空気を読むということが求められる人種だと思う。周囲と和を持って合わせることこそが美徳とされ、集団の中からはみ出さないことこそが大事であるとされる。
集団の中で強い意見を持つことが出来る人はいい。しかしそうでない人は、その集団の総意みたいなものに合わせていかなくてはいけない。自分の主張よりも、集団としての意見を優先しなくてはいけないのだ。そこで、自分を抑えることになる。そうやって、徐々に仮面の形を明確にしていって、また仮面の数がどんどん多くなっていったりする。
正直仮面をつけたまま生きていくのはめんどくさい。めんどくさいことから逃れるために仮面をつけているのに、その仮面をつけていること自体が今度はめんどくさくなっていく。結局、楽に生きる方法などないということか。
人と関われば関わるほど、仮面の数は増えて行く。増えていけばいくほどどんどん窮屈になっていく。本当の自分を見失ってしまうことにもなりかねない。だけど、いつまでも僕は仮面を外すことはないだろう。周囲の求める<僕>像に合わせた自分を、見事に演じて見せようではないか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、四編の短編が収録された短編集になっています。

「団欒」
ちゃぶ台を囲んだ家族の団欒。それが僕の恐怖だ。婿養子という立場が、家庭の中での安寧を許さない。義母も義父も、義弟も義妹も、妻や息子や猫でさえ、僕をくつろがせてはくれない。家族の誰もが笑顔を咲かせ、笑い声を響かせるあの団欒が、今日もやってくる…。

「賢母」
夫は私のことなど考えてくれたこともないだろう。いつも自分勝手で我がままな夫を、影ながらずっと支えてきたのだ。他の家族も、私のことをちゃんとした「日本の母親」という目で見ている。もちろんそうだろう。だって私は、そういう役割を完璧に演じているのだから。
今日も私は、母親という役割を完璧にこなしきった。そんな私の最近の楽しみは…、出会い系。隠し持っている携帯電話で、若い男の子とメールをしているのだ…。

「邪」
取引先で年下の部長と面白くもない話をした後で、社長からの電話。相変わらず、根性が足りない、気合が足りないと精神論ばかり振りかざす筋肉バカ。何故だか知らないが、さっきの取引先の年下の部長に謝りに行けという。今夜は楽しみにしているドラマがあるのに…。そのドラマを予約して欲しいと妻に頼もうとすると、妻の勝手な都合を振りかざし、今日は早く帰ってきてという。くそ、何だと思ってるんだ!
とにかく次の取引先へ急ぐことに。その途中、屋上からまさに飛び降りようとしているサラリーマンが騒動になっている。どうもその光景から目を離すことができない…。

「嫉」
妻は美人だし一人娘は反抗期もなく学校のことを包み隠さず話してくれる。私も、とにかく理想の父親というものを日々演じている。完璧な家庭だ。申し分ない。この素晴らしい家庭がこのまま続いてくれるはず…だったのに。
一人の男の登場で、それが崩れようとしている。
娘の家庭教師としてやってきた大学生だ。ラグビーをやってるとかでかなりいい体格をしている。それはいい。問題は…。
妻がその家庭教師に惹かれているのではないか、ということだ。
どうしてもその妄想が頭から離れない。ほんの些細なことでも、すぐそのことと結びつけて考えてしまう。本当のこところはどうなんだ。妻は、あの家庭教師の男と関係を持っているのか…。

というような話です。
いやはや、面白い話でした。直接ネタバレになることはここには書かないつもりですけど、とにかく「団欒」と「賢母」が最高でしたね。日本人ならば誰もが知っているある家族がモチーフになっていて(ってこれはネタバレですかね 笑)、いやもしかしたらこんなことを思っているのかもしれない、と笑えてしまいました。この本を読んだ今、改めてその家族を見たらかなり印象が変わってしまうかもしれないな、と思います。
「団欒」では婿養子が、「賢母」では一家の母がそれぞれ主人公なのだけど、あっちでは描かれていない裏側ではこんなことになっていたら…と思うとぞっとしますね。本当に、ストーリー自体はなんでもない日常なのに、ホント怖いと思わせる作品です。
後半では、「嫉」が秀逸ですね。妻の不倫を夫が疑ってあれこれ気を回す話なんですけど、恐らくそういう展開になるんだろうなと思っていても充分楽しめる作品でした。とにかく、妄想に囚われた夫の常軌を逸した行動がなかなか読み応えがあります。
「邪」の方はちょっとあんまり面白くないかなと思いました。でも、とにかくサラリーマンは大変だぞ、ということがよく伝わる作品です。サラリーマンの呪詛みたいなものが作品から溢れ出そうになっている、そんな作品です。
黒新堂っぷりがなかなか発揮された作品だと思います。とにかく、「団欒」と「賢母」は是非読んで欲しいですね。あまりのくだらなさに笑うしかないと思います。同じ感じでいろんな話を書いて欲しいなぁ、と思います。

新堂冬樹「ホームドラマ」

世界とは、どうも相容れない。
なんてことばっかり言っているのだ。それが言い訳だっていうことを僕はもう知っているけど、それでもそういい続けたい。
世界とは、どうも相容れない。
世界が僕を拒絶しているのか、あるいは僕が世界を拒絶しているのか。恐らく、世界が個人を拒絶するようなことなどないのだろう。そう感じられたとしたらそれは錯覚で、あくまでも僕が世界を拒絶しているというのが正しい見方なんだろうと僕は思う。
思うけど、それはあんまり自分では認めたくない。
世界というのは僕にはどうしても窮屈に思える。それは洋服みたいなもので、サイズがきちんと決まっているんだと思う。その世界のサイズにすっぽりと収まる人にとっては、世界というのは窮屈でも何でもなく、逆に楽しめる場所なんだと思う。ぶかぶかだったりするようなことはあるかもしれないけど、でもそれでも窮屈よりはマシだと思う。
たぶん僕は、その世界のサイズに適さない大きさなんだと思う。別に僕の存在が大きいとかそんなことを言いたいわけじゃない。世界の形と僕の形が合わないぐらいの意味である。僕が世界を着ようとすると、どこかキツイ。完全に着ることができない。でも、裸で歩くわけにはいかない。僕は世界を着るしかない。でもやっぱり窮屈だから、出来れば着ていたくない。
だから、なるべく世界を着なくていい場所に引きこもって、どうしても着なくちゃいけない時だけ着ることにしよう。そう決めた。
頑張って世界を着続ければ、いつか自分に合うようになるかもしれない。あるいは、世界を着こなせるように、自分の体型を変化させたりすればいいのかもしれない。
でも、そうやって努力することに、やっぱり意味を感じることが出来ない。どうしてだろう。世界をちゃんと着て外を歩く方が正しいことである気がするのに。
世界を着こなして、アクセサリーなんかをつけて着飾って、そうやって正しく歩ける人が羨ましい。世界に認められていて、世界を着て歩くことが不自然じゃなくて、世界に受け入れられている人というのは羨ましい。
それは本当に服みたいなものだと思う。僕はファッションには興味はないけど、自分にどんなファッションが似合わないかぐらいはわかっていると思う。知識がないのでどういうブランドという形で名前を挙げることは出来ないけど、そもそも僕が着ることを「認められていない」ブランドというのが山のように存在するように思う。
世界との対峙も似たようなもので、世界に認められている人とそうでない人がいる。認められている人はそれを着ても構わないのだけど、認められていない人が着ると不自然だったり違和感があったりする。もちろん、世界に生きている限り世界を着ないわけにはいかないので、そうやって不自然さや違和感を自覚しながらそれでも着続けるしかないのだけど、やっぱりおかしいと自分では思っている。思っているからこそ、すぐに脱ぎたくなるし、そこから離れていたいと思う。そうやって、世界からどんどんと離れていくことになる。
世界は広い。確かに広い。それは、様々な価値観に満ち溢れているということである。価値観の多様性は、多くの人を寛容に受け入れるように思えるけど、でも僕は逆だと思う。価値観が多様にありすぎるが故に、何かを選ぶことが出来なくなっている人がたくさんいるのだ。そういう人が、世界からどんどんとあぶれていく。選択肢が少なければ自分の意思でいろいろと選べたかもしれないのに、選択肢が無限にありすぎるが故に、逆に選べなくなってしまう。世界が広いということを知ってしまっているからこそ、逆にその世界の窮屈さを自覚することになってしまう。大は小を兼ねるかもしれない。しかし、世界は広ければ広い方がいいということには決してならない。
居場所という言葉がある。世界には、僕の居場所はないように思える。それだって、ただ逃げているだけの、ただ逃げたいだけの言葉だけど、でも実感としてそれは正しい。世界には僕の居場所があるようには思えないし、僕の存在が許容される場所があるとも思えない。世界は僕を否定し、僕は世界を否定し、そうやって僕らは、互いに離れ合っていく。
それでもこうして、醜くも僕は世界の片隅で生きている。正しいことではないと自覚しながら、それでも世界の一部を占めている。間違っているのなら正せばいい。それなのに、言い訳ばかり繰り返して、正しさから目を逸らしている。正しいものを見ると、自分の醜さをより実感する。世界からあぶれた自分の存在を一層悲しくさせる。だから僕は逃げ続けるし、逃げ続けるために世界を否定する。
世界とは、どうも相容れない。これまでも、恐らくこれからもずっと。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、1編のショートショートと2編の短編を収録した短編集になっています。

「レディメイド」
クールでミステリアスな男性に惚れてしまった女性の話。レディメイドという、芸術と呼んでいいのか悩ましい作品を作り続けた芸術家をこよなく愛するその男性を。

「コルセット」
僕は死のうと思った。細々とイラストレーターの仕事を続けているだけで他には何もない僕は、生きている理由も特にない。それに、昔知り合ったある女性が自殺したというのも理由になるだろう。
その女性の自殺を知ってから、僕の体調はおかしくなり、神経科に通うことにしました。薬をもらうことももちろんですが、その神経科に通い続けた第一の目的は、受付に座っていた君に逢うためでした。
挨拶程度の会話しかしないのだけど、僕は君を遠くから見ているだけで幸せだった。そんな状態が三年ほど続いた頃、突然仕事が打ち切りになった。僕は、今こそ死ぬチャンスだと思った。身辺を整理し、やりたいと思っていたことをやり、最後に、あの受付に座っている女性をデートに誘ってみようか、と思った。どうせ死ぬのだから、断られたってどうということはない。
果たして僕は、彼女とデートをすることになったのだけど…。

「エミリー」
私にはどこにも居場所がありませんでした。唯一私の居場所といえば、原宿ラフォーレの植え込みだけでした。学校が終わるとロリータファッションに身を包み、閉店時刻までその植え込みでボーっとしているのが私の日課でした。
そんなある日、貴方が話し掛けてきました。男性と分かれば常に逃げていた私が、貴方だけは大丈夫でした。同じ学校に通っているということ、そして学校では共にいじめられたり無視されたりする存在であることが分かり、親近感を抱くようになりました。
私も貴方も、お互いに抱えているものが大きすぎました。二人でそれを抱えあおうとしても、お互いの有り様は酷く歪なものでした。それでも、私には貴方が必要なのです…。

というような話です。
嶽本野ばらのかなりオーソドックスな感じの作品だなと思いました。大抵、世間と馴染めなかったり世界から爪弾きにされているような登場人物が、運命的なあるいは偶発的な出会いを経て、お互いを大切な存在であると認識するようになる、というような感じの話です。嶽本野ばらの作品は僕の中でかなり当たり外れがあるんですけど、この作品は結構当たりかなと思います。
作品全体に流れる退廃的というか虚無的な雰囲気は結構好きだし、ストーリーも嶽本野ばらの作品としてはよくありがちなものだけど、まあ結構いいかなと思いました。相変わらず洋服に関しての講釈がいろいろあって、洋服に関心のない僕としては退屈な部分なんですけど、まあ全体的には悪くないと思いました。
三島由紀夫賞候補にもなったという「エミリー」がやっぱり一番いいでしょうか。少女と少年が受ける辛い仕打ちの描写もなかなかのものだし、それを受けてなお前に進もうとする二人はなかなか健気であるようにも思えます。純粋に、生きるということの美しさを結晶化したみたいな、そんな作品であるように思いました。
「コルセット」もいいですね。死のうとしたという始まり方がベタかなという風に思いましたけど、受付の女性がなかなかいいキャラクターで、儚げという言葉がよく似合う感じでした。しかしラストは一転、これまで見えなかった一面が垣間見える感じで、その落差みたいなものが結構面白いですね。
「レディメイド」はショートショートなんですけど、これは正直よく分かりませんでしたね。芸術の話がほとんどで、よくわからない感じでした。
なかなかいい作品だと思います。解説で綿矢りさが、自分もロリータファッションを着てみたかったと書いているのが非常に印象的でした。

嶽本野ばら「エミリー」

答えのない問題を前にすると、結構途方に暮れてしまう。これは現代人の一般的な傾向ではないかと僕は思う。
そもそも学校が悪いのだ、とすべて学校のせいにしてみる。何故なら学校では、常に答えのある問題しか扱われなかったからである。
例えば数学。数学という学問は、ちょっとしたイメージからだと、すべて答えが一つに決まるようなそんなイメージがある。しかし、数学にしてもそうではない。一流の数学者が扱うような難問を別にしても、答えが一つに決まらない、あるいは答えがそもそも存在しない問題というのもある。確かに学校の試験なんかでは、答えが「不定」であるような問題も出てくるのだけど、しかしそれは、「不定」という答えを持つかもしれないと予測できる問題であるのだ。
公文式だかのCMで、前にこんなのがあったような気がする。
日本の算数の教科書には、
6+4=□
4×6=□
と言ったような問題ばかりが載っている。しかし、どこだか忘れたけどある国の教科書には、
□+□=8
□×□=9
というような問題がたくさん載っているのだそうだ。前者の日本のやり方では、一つに決まる答えだけを求めさせる問題であるのに対して、後者の場合だとその答えになるようなたくさんの問題を導き出させるようになっている。なるほど、これは面白いなと思ったし、外国では算数や数学と言った扱いがそもそも全然違うのかもしれないとも思った。
まあそれでも、数学や物理や化学など理系科目といわれるような教科であれば、まだ答えが決まってしまうことは仕方がないとは思う。大学なんかにいけば、自らテーマを見つけそのテーマについて研究するようなことになるだろうけど、それには設備やなんかが充実していなくては難しい。高校までの勉強では、答えの決まった問題をいかに解かせるかに収束してしまうのは分からないでもない。
しかし、やっぱり僕には納得がいかなかったのが国語である。
僕の中では国語というのは、一人一人の解釈を伸ばす教科だと思っている。ある文章があり、それに対して何をどう感じるのか、その個性を伸ばしていく場であるべきだという風に思う。
しかし、実際はそうはなっていない。教師は、教科書の手引きに書かれた通りの解釈を生徒に求める。この文章はこういうことを言っているのだ、この背景にはこんなことがあったのだ、ということを押し付ける。僕らは、とりあえず考えることなしにそれを覚える。国語という、答えが一つに決まるはずのないものさえ、学校教育は答えを一つに決めてしまうのだ。
僕らはこうした、答えが決まった問題を解くという訓練しかしてこなかった。勉強の場というのが基本的に学校だけであり、その学校が答えの決まった問題しか提示しないのだから仕方ないことである。例えば、宇宙の始まりはどうなっているのかというようなことは学校では扱われることがない。それはまだ答えが決まっていないからだ。そうやって、答えの決まっていないものを生徒の前からどんどん隠していく。
答えの決まった問題しか扱わないことは二つの大きな弊害を生む。
一つは、好奇心が育たなくなってしまうということだ。学生は皆、その決まった一つの答えに向かって進むことを余儀なくされる。もちろん、若干の幅はある。例えばある数学の問題があったとして、その答えに至る道筋は何通りかあったりする。そのどれを選択しても構わないが、しかし最終的には一つの答えに向かわされる。数学ならまだいいが、歴史や国語など個人の解釈でいかようにでもなる分野であっても、学校というのは一つのある答えに向かって向かわせる。別の解釈を提示しても、それは答えと合わないからと言って切り捨てられる。
そうなると、好奇心は育たない。学生は、求められた答えにいち早く辿り着くことだけを考え、自分の価値観で学問というものを見なくなってしまう。もちろん、そうした教育の中でも好奇心を持つ者は出てくるだろう。しかし、決して多くはない。答えを一つに向かわせる教育は、好奇心を奪う。
そしてもう一つの弊害が、問題解決能力を失わせることである。僕らは学生時代ずっと、答えが決まっている問題と向かい合っていた。するとその内、世の中のすべての問題には決まった答えがあるはずだ、という錯覚に囚われてしまう。
実際はそんなことはない。世の中に転がっているほとんどの問題は、決まりきった答えなどないと言っていい。どうしたら営業成績を伸ばすことが出来るか、どうしたら売れる絵を描くことができるか、どうしたら人望を得ることが出来るか。とにかくそういう、答えのない問題に常にさらされ続けることになる。
そうなった時、僕らは弱い。僕らはずっと、答えがあると分かっている問題ばかりを解き続けていたので、答えがないかもしれない問題に対峙した時にどうしたらいいのかわからないのだ。そして結局、自分には解けそうにないと思って諦めてしまう。
そう考えてみると、例えば試験問題なんかにも解けない問題を出してみたらいいのではないかと思う。時々大学入試の問題やセンター試験なんかで、例えば数学の問題である条件が不足していたために解けない問題になっていた、というような訂正が出ることがある。そしてそれは、批判されることが多い。
しかしどうだろう。それは、「これこれこういう条件が不足しているために答えは一つに定まらない」というような解答を提示すればいいのではないだろうか。そして、そういう答えを導くことが出来ない試験問題というのを意図的に組み込んでしまうというのもいいのではないかと思う。
僕らは試験問題を見ると、無意識の内にその問題には必ず正解があると信じ込む。正解が存在するという前提の元で試行錯誤をし問題を解くようなことがある。
しかし、試験問題として提示されているけど正解がないかもしれないとなったらどうだろうか。それは問題解決能力を高める一つの方法になるのではないか、と僕は思ったりします。
僕は本屋でバイトをしているのだけど、いつもこの答えの出ない問題に直面します。最終的には、「どうしたら売上を上げることが出来るか」というところに収束するわけだけど、どんな本を置くべきか、どう並べるべきか、棚の配置はこれでいいのか、POPはつけるべきかどうか、などなど答えが確定的ではない様々な問題が上がってくる。それらについて、時には経験的に、時には山勘で判断している。自分のした判断が正しかったのかどうかを検証することは大事だが、なかなかそれも難しい。やった場合とやらなかった場合というのはどうしても比較できないからだ。
今僕が見ている書店員ブログで、コミックのシュリンクをしたほうがいいかしないほうがいいかという論争がある。これについては長いこと議論があったようだけど、結局のところ答えは未だにない。その最たる要因は、シュリンクをした場合としなかった場合を同じ店の中で比較することが困難だからである。現状ではシュリンクをする方が主流だが、僕はしない方が売上は上がるのではないかと思っていたりする。やっぱり中を確認出来ない状態でコミックを買うというのはハードルが高い気がするからだ。しかしだからと言ってどちらが正しいか検証することは難しい。
こうやって答えのない問題に囲まれていると、やっぱり学校教育というのは間違っているんだろうなぁ、と思ったりするものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、御茶ノ水大学の名誉教授である著者が、思考というものに的を絞って書いたエッセイと言った感じです。著者は、専攻である英文学だけでなく、レトリックや読書論、エディターシップと言った様々な分野について独創的な仕事をしている人だそうです。
本作は、6Pぐらいの短いページ数で一つのテーマについて話すというようなスタイルになっています。それぞれのテーマが重なっていたり、同じことを何度も繰り返したりはしてますが、決して冗長と言った感じにはなっていないと思います。
まあ思考の整理に関していろんなことが書いてあるわけですけど、割とページ数が割かれていて、内容的に僕が気になったものが三つあります。それが、「朝思考すること」「メモを取ること」「忘れること」の三つです。三つともまあ比較的当たり前のことを書いてるんですけど、著者自身の具体的な例も一緒に載っているので分かりやすいです。
「朝思考する」というのはそのままで、要するにずっと考え続けているよりも一旦寝たほうがいいよ、ということです。寝ている間に考えていることが整理されて、起きた時から考える方が物事がすっきりする、と。またこの寝かせておくというのは別の意味もあって、ある疑問やテーマがあった時にすぐにそれについて考えるのではなく、一旦寝かせて熟成させておきましょうというようなことも言っています。お酒を造るように、その内醗酵剤となるようなものが見つかって、うまい具合に思考が発展していく、とのことです。
「メモを取ること」もまあそのまんまですけど、その具体的なやり方も書いてあります。まず思いついたことを何でもいいから書くメモ帳。それから、その何でも書くメモ帳から後々読み返してみてこれはと思えるようなものを書き写すメモ帳。さらにそのメモ帳の内容をいろいろくっつけたりして有機的に情報を結びつけるために書くメモ帳。この習慣を著者は既に20数年やっているようで、それはそれは膨大なメモ帳が出来上がっているのだそうです。わが思考、このメモ帳にあり、だそうです。
「忘れること」については結構なページ数を割いていろいろと書いています。とにかく、忘れることは重要だ、と。学校教育では、忘れることは悪いことだと教え、それを受けて僕らも物事を忘れないように意識してしまうが、意識して忘れる努力をしないといけない、と言います。そのためにどうしたらいいか、ということがいろいろ書いてありますが、それは本書を読んでください。
他にもまあいろんなことが書いてあるんですけど、比較的どれもすぐに実行できそうなことが載っています。僕も、ここに書かれていることを本屋で実行するにはどうしたらいいかななんてことを考えながら読んでみました。やっぱりメモを取るというのが一番大事かなぁ、という気がしましたが。
本作は、
「”もっと若いときに読んでいれば…”そう思わずにはいられませんでした」
という帯でものすごく売れるようになった本です。僕も今結構売っています。確かに内容的には、大学生とか高校生辺りが読んだりすると、すぐ実践に移せるのかな、というようなものが多いですね。特に論文を書かなくてはいけないような学生にはなかなか実用的なことがあれこれ載っているのではないかなと思います。とりあえず、実行に移せるかどうかは置いておいて、まず読んでみたらいいんじゃないかなと思うような本でした。

外山滋比古「思考の整理学」

自分が特別な人間だと思ったことなど、たぶん一度もないだろうと思う。もちろん僕は生まれてこのかたずっと平凡な人間で、何か特別なことができたなんていうことはない。自分に自信が持てるようなことも全然ない。
自分はもしかしたら結構勉強が出来るんじゃないだろうか、と勘違いした時期は少しだけあったかもしれない。それもただ井の中の蛙だったというだけのはなしで、全然そんなことはなかった。生まれ持った才能や、人を惹き付けるような何かや、突出した能力なんていうものは全然持っていないし、またそれを持っていると錯覚したことだってまあなかっただろうなと思う。
もちろん、世の中には僕のような人間もたくさんいることだろう。自分が平凡であることをきちんと自覚していて、特に何が出来るわけでもなく、普通のことを普通にこなしていこうと考えるような人間が。
しかし中には、自分がすごい人間であると確信を持っているような人もたくさんいるのだろうと思う。
世の中で羨ましがられる地位にいるような人というのは大抵そうなのではないか、と僕は勝手に思っている。自分に何が出来るのか、人より何が優れているのかを自覚していて、そしてそれを元に行動することが出来る。会社の社長や芸能人みたいな人達は、まず自分に自信を持つというようなところから始めないと恐らくなれないのだろうな、と思う。
うろ覚えなのだけど、前にソフトバンクの孫社長の話をどこかで耳にしたことがある。孫社長は、会社が軌道に乗る遥か前から、10年で1000億円の企業にする(数字は全然違うかもだけどそんな感じ)というようなかなり具体的な目標を持っていたようだ。僕からすれば、何をどうすればそんな具体的な目標を思い描けるのかそもそもそこが分からないのだけど、実際その目標通りに進んでいって今に至るというのだからすごいものだと思う。
芸能人にしても、自分は才能があるのだ!という思い込みがまずなければ恐らくやっていけない世界だろうと思う。どんどん新しい才能が入ってきて、次々に人が入れ替わっていく世界の中で、自分の確たる位置を守り抜くには、自分は出来る人間だとプラスに考えていくしかないだろう。それだけで、僕には絶対向かない世界だなぁ、と思うのだけど。
それで、僕が気になるのは、そういう人が羨ましがるような世界を目指して努力していたけどそれを諦めなくてはいけなくなった人たちのことである。何も社長や芸能人に限らず、漫画家やカメラマンなんかでもいいのだけど、とにかく何か目指していたものを諦めなくてはいけなくなった人というのは一体どこに行くのだろうか。
そういう世界を目指している人というのは、恐らく実際そういう世界にいる人と同じくらい自分に自信があるのだろうと思う。絶対にその世界で有名になってやる、自分にはそうなれるだけの才能がある、と心の底から信じることが出来なければ、夢なんか追っかけていることは出来ないと思う。
しかし、結局その夢を実現することが出来なかった時、その人の自信はどこに行くのだろう。恐らく世の中には、夢を叶える人より、叶えられなかった人の方が遥かに多いのだろうと思う。そういう夢を失った人達の自信というのはどうなるのだろう。
消えてしまうのが一番健全なんだろうなとは思う。自分にはやっぱり才能がなかったんだ、と思って諦めることが出来れば一番いい。自分の持っていた自信は幻想だったのだと思えれば、それが一番安全であるように思う。
しかし、自分には本当は才能があったはずなのに、と思うようになったら目も当てられない。才能があったはずなのにそれを発揮することが出来なかった、才能があったはずなのにそれを見抜く人がいなかった、というように、自分に才能があったということをいつまで経っても肯定し続けるようになってしまえば、ちょっと怖いなと思う。
僕は別に何か夢を追いかけているというわけでもないので、正直そういう人の気持ちはよく分からない。恐らくそういう人々は、自分が夢を叶えられないかもしれない、などと一瞬も考えたりしないのだろう。そういう風に考えてしまうような人は夢を追いかけることなどきっと出来ないのだ。
しかし、夢を叶えられないかもしれない可能性についてまったく考えないが故に、夢を追いかけ続けている間、自分自身への才能への過信というのはどんどん強まっていくかもしれない。自分に才能がないから認められないという現実を見たくないがために、自分には才能があるはずだという妄想がどんどん強くなってしまうかもしれない。夢を追うというのは本当にリスキーだなぁ、と思う。
僕のバイト先にも昔、歌手を目指している女性がいた。既に過去形で喋っているのは、もう彼女は夢を諦め地元に帰っていったからである。彼女の場合、割と潔かったなという感じがある。もちろん、内心ではどうだったか全然知らないのだけど、少なくとも表面上はあっさりしていたように思う。僕は個人的には、諦めるというのは一つの才能だと思っているので、去り際は悪くなかったなぁ、と感じたのだ。
夢を追いかけるのは辛い。しかし、夢を追いかける人がいなくなれば世の中はつまらなくなってしまうだろう。たくさんの犠牲の上に華やかな世界が成り立っている。自信の数と成功者の数は、決して一致することはない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
両親が交通事故で死に、その葬式のために兄弟三人が久々に集まった。姉の澄伽は女優になるために上京し、劇団に所属して稽古する毎日を過ごしていた。自分は女優になるべく才能があるという絶対的な自信を持っているのだが、その才能を発揮できない原因を妹のせいにしている。久々に妹に会った澄伽は、彼女にかつての恨みを晴らすべく復讐をするのだが…。
妹の清深は、両親の死に打ちひしがれていた。日がな一日ボーっとして、何もかもやる気がない。高校時代のことを思い出す。あの、姉の生活を盗み見ていたあの時期のことを…。
宍道は後妻の連れ子だった。だから澄伽や清深とは血は繋がっていないが、本当の兄弟のように接していたつもりだった。
しかしある時期からそれは大きく変わった。宍道と澄伽の関係がである。よかれと思ってやってことが、恐ろしく間違った方向へと進んでしまった。今では待子という妻を持つ立場だが、しかし…。
というような話です。
なかなかブラックなストーリーです。本谷有希子の小説を読んだのは二作目ですけど、こういうグチャグチャとした人間関係を描くのが巧いなぁ、と思いました。
なんとなく、羽田圭介の「黒冷水」という作品を思い出しました。まあもちろん本作の方が出来はいいですけど。姉妹間(「黒冷水」では兄弟間)で嫌がらせをするという部分だけですが、まあ雰囲気的にも少し近いかな、と。本作ではそれにまたいろいろくっついてくるんですけど。
とにかく僕が気になったのは待子という女の存在ですね。小説のキャラクターとしてなら笑って読めるけど、もし近くにこんな人がいたらちょっとイラっとするんではないかと思わせるような女性でした。とにかく、どんな理不尽なことにも耐え忍び、反抗しない。また、よかれと思ってしたことで墓穴を掘る。なんというか、決して悪い人ではないのだけど一緒にはいたくないというようなキャラクターでした。
この待子が夫の宍道からとんでもない命令をされるのだけど、それを実行してしまうんですね。ちょっと信じがたいです。まあもちろん小説なんですけど、現実にもいそうだから怖いです。まあここまで突き抜けていると逆に愛しくなったりしますけどね。
澄伽もなかなか強烈でした。とにかく、自分は才能があるという自信に満ち溢れていて、自分が女優になれないのは過去にあんな出来事を引き起こした妹のせいだという考えに支配されています。とにかく自分は絶対的に正しく、自分が女優になれないのはすべて周りのせいだという風に考えます。ここまで自分に自信が持てるのも羨ましい限りですけど、でもそれはある意味でバブルみたいなもので、いつか弾けてしまうものでもあるわけです。だからやっぱりこの澄伽のような人とも関わりたくないなと思いました。
妹の清深もある意味で怖い存在で、執拗で粘着質という感じがします。しかしその本質的な部分はどうも掴み所がなくて、暗い底の見えない穴の中をのぞきこんでいるようなそんな感じです。
一番まともと言えるのは宍道かもしれないけど、しかしその宍道も待子に無茶苦茶なことを言ったり、あるいはある状況を避け切れなかったりとなかなかまともではいられません。
とにかく本作に出てくるメインのキャラクターはみな壊れていて、その壊れ方がそれぞれに違っているというのが特長ですね。僕は、こういう関係というのは家族だからこそありえる形であると思うし、だからこそ家族というのは怖いなと思ったりもします。
なかなかダークな作品です。桐野夏生なんかが好きだったら結構合いそうですね。映画にもなったみたいです。僕は見てないですけど、興味のある方はそっちもどうぞ。

本谷有希子「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」

なるべく所有したくない、といつも思っている。これももう何度も書いたことだけどまた書くことにしよう。
僕にはとにかく、所有欲というものがまったくと言っていいほどない。何かを熱烈に欲しいと思うことがほとんどないのである。
それは、プラズマテレビやデジタルカメラや高価な装飾品といったような形あるモノだけではない。地位や名誉と言った形のないものまで含めて、僕はなるべくならば所有したくないと考えているのである。
普通の人は、いつも何か欲しい欲しいと言っているように思える。DSが欲しい、新しいソフトが欲しい、携帯を変えたい、冬物の服が欲しい、彼氏彼女が欲しい、有名になりたい、旅行に行きたい、お金持ちになりたい。普段からそんなことばかり考えながら生活をしているように思う。僕の周りにも、まあそういう人間が多いような気がする。
それはそれで楽しい生活であるとは思う。つまり、自分が望むモノがちゃんと世の中に存在し、努力すればそれを手にすることが出来るわけで、ある意味でシンプルであると言える。モノをたくさん持ちすぎた生活というのは決してシンプルであるとは言えないが、しかしその欲求そのものはシンプルであると思う。
しかし僕は、そうした生き方には全然興味が持てないのだ。
確かに、部屋中を高価な家具で飾り立てたり、華やかな世界に身を置いたり、有名になってチヤホヤされたりと言った生活は、想像するだけなら楽しいように思える。短絡的ではあるけれども、所有することによって満足感を得ることが出来る生活というのは、単純な想像だけなら悪くないのだろう。
しかし、やはり僕にはそうした生き方によって満たされることはないように思えるのだ。
僕は束縛というのがとにかく苦手だ。僕の苦手とする束縛は多方面に渡り、人間関係に限らない。それを突き詰めれば、結局何かを所有することそのものが束縛であるという風に気づいたのである。
何かを所有するということは、それとの関係性が規定されるということだ。例えばDSを所有するということにしても、DSをやる時間が奪われたり、あるいはDSをやっている人との会話が発生したりというようなことになる。僕にはそれが束縛に感じられる。華やかな生活というのはとかく所有が付きもので、それは即ち束縛によって成り立っていると言える。
だったら、僕は何も持ちたくないと思ってしまう。もちろん、何もかも手放すということは出来ない。最低限の生活をするために必要なものは存在するし、必要な人間関係というのもある。だからこそ、所有を、そして束縛をゼロにすることは不可能なのだけど、しかしそれを減らしていくことは出来るのだ。
究極的には、ホームレスの生活は素晴らしいと思う。
確かに、環境的にはなかなか厳しいと思う。定期的な収入がなく、まともなものを食べることが出来ない。屋外で生活するしかなく、雨を防ぐのがやっとという感じ。人付き合いもほとんどなくなることだろう。
しかしホームレスというのは、社会という最大のお荷物と関わらなくて済む。社会と関わるということは、それだけでいくつかの所有を余儀なくされるものだ。社会との関係性をゼロにすることが出来れば、どれほどシンプルな生き方が出来るだろうか、と思う。
もちろん、僕にはホームレスの生活に突入するだけの勇気はない。まあ恐らく将来的にはそうなるだろうけど、少なくとも今は無理だろうなと思う。彼らのような生活をすることは出来ないと頭では分かっていても、時々少しだけ羨ましいと思えてしまうことがある。
人は、自分が持っているものを失うことを恐れる生き物ではないかと思う。一度獲得したものを手放すことに本質的に恐怖を感じるのかもしれない。だから僕は、人間の本質に逆行しているのかもしれないと考えることがある。僕は、なるべくいろんなものを失いたいと思っている。最低限必要なものだけ所有して、後はすべて失ってしまいたい、と。まあそんな都合のいい風にはいかないので、もちろん余分なものを所有することになるのだけど。あぁでも、彼女ぐらいいてもいいんじゃないかな、とは思うのだけど。なんて言っても、僕のようないろんなものを捨ててる人間にはそうそう彼女なんかは出来ないのだけど…。トホホ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、今野敏のSTシリーズの、第一期の二作目です。
都内の公園で死体が見つかった。当初心臓麻痺による事故死であるように思われていたが、死体からフグ毒が見つかり、殺人での捜査に切り替わった。その捜査にSTのメンバーが借り出されることになった。
しばらくして、同じくフグ毒による中毒死の死体が見つかった。連続殺人の様相を呈してきたが、そこで細い繋がりとして浮かび上がってきたのが、人気女子アナである八神秋子の存在である。捜査本部としてはメインの筋はあるものの、STメンバーは山吹の直観に従ってその八神の線を追うことにするのだが…。STの存続のためにもなんとしてでも手柄を挙げなくてはならない。彼らをまとめる百合根も苦労するのだが…。
というような話です。
相変わらずなかなか面白い作品です。ずば抜けて面白いということはないのだけど、ついつい読んでしまう面白さがあります。事件自体も、普段ミステリを読んでても何が真相なのか全然分からない僕でも何となくストーリーが読めるような構造になっているんですけど、それでも充分楽しめる作品だと思います。ミステリをあんまり読みなれていない人なんかにはさらにオススメ出来るシリーズだなと思います。
今回は毒殺です。STメンバーが捜査をする過程の合間合間に、アナウンサーである八神の描写が描かれるのだけど、まあ最終的にその話が繋がっていきます。読んでいると途中で大体の話が読めるとは思いますが、まあそれでもいつも通りの奇妙なメンバーたちがワイワイやっているのを読んでいるとついついページを捲ってしまいますね。
今回STメンバーで中心になるのは、僧侶でもある山吹です。ゾンビ、フグ毒、SMと言ったいくつかの関連性のなさそうなキーワードに引っかかった山吹は、とにかく事件とは関係のなさそうな方向にどんどん進んでいって百合根を困らせます。百合根としてはどう考えても関係のなさそうな方向に考えが進んでいくのでブレーキを掛けたいのだけど、STをあんまり快く思っていないはずの刑事の菊川がSTの読みに賛同するに至って、まあ仕方なく山吹の言う通りにすると言った感じです。今回も、百合根がSTメンバーのことを全然理解し掌握することが出来ていないのが面白いですね。
軽めの警察小説と言った感じなんですけど、でもその警察の描き方は結構ちゃんとしているように思います。これまでも警察小説はちょくちょく読んでましたが、二週間を一期と数えるなんていうのは初めて聞きました。もともと多方面に渡る知識を持っているようで、そういう部分も楽しめるように思います。
警察小説とか読んだことがない、あるいは警察小説は読んだことがあるけど好きじゃないという人には読んで欲しいですね。既存の警察小説とはいろんな意味でかなり違った作品です。読んでみてください。

今野敏「ST 警視庁科学特捜班 毒物殺人」

だから僕はミステリというのは面白いと思うのだ。
小説というのは基本的に、物語を伝えるためのパッケージである。だからそこには、物語が詰まってさえいればいい。それはどんなストーリーでもいい。恋愛だろうが冒険だろうがSFだろうがなんでもいい。物語であれば、それは小説足りえるのだ。
しかし、ある意味でそこが一つの限界になってしまう。つまり、物語を伝えるだけが小説である、という限界である。もちろん、それで充分だという意見もあるだろうと思う。確かに、物語さえ面白ければ、特に問題はない。小説という枠の中で物語の質を競い合っていればいいというのも分かる。
しかし、ミステリというのはその限界を突破することが出来るのだ。唯一、その限界を突破することが出来るのはミステリだけだろうと思う。そういう意味で、僕はミステリというのは面白いと思う。
ミステリというのは、大雑把に括ってしまえば、いかにして読者を騙すかというところに焦点が当てられる。もちろん最近では、エンターテイメント全般にミステリという言葉が使われるようになって久しいので、純粋にそういうわけではない作品も増えているのだけど、しかし基本的にミステリと言えばいかに読者を騙すかという部分がメインだろうと思う。それはマジシャンの立ち位置のようなもので、不思議な謎を提示し、さらにご丁寧にその解決まで示してくれるというのがミステリだろうと僕は思う。
これまで多くの先人達がありとあらゆる形でミステリというものを生み出してきた。とにかく、読んでいる人を驚かせよう、ビックリしてもらおう、ということを考えたジャンルであるので、読者の盲点となるようなトリックを次々と生み出してきたのだ。
しかし、やっぱり限界はある。普通にやっていては、先人と似たようなトリックしか生み出せなくなってしまう。後はそれらをいかに組み合わせるかという問題になってくる。
しかしミステリというのは面白いもので、小説というパッケージそのものをトリックとして使うことを考え始めたのだ。物語の入れ物でしかなかったはずの小説のパッケージそのものを、読者を騙す要素の一つとして使うようになったのだ。これが、ミステリが唯一小説の限界を突破することが出来る理由だと僕は思うのだ。
小説のパッケージを要素として使う作品は、大抵メタ的な作品であると言われる。メタというのが何の略なのか僕は知らないけど、要するに物語の外側の世界まで物語に含めてしまおうというような、階層的な構造になっているような、そんな作品のことである。小説という存在を俯瞰した時に現れる視点を物語に組み込んでしまうことで、より複雑に物語を構築することが出来るのである。
ミステリを読んでいると、小説というものに限界なんかないような錯覚を感じることが出来る。ミステリというのは、エドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」から生まれたと言われているけれども、そこから世界中の先人達が知恵を絞りに絞って、それでもまだ続いているのである。マジックとは違って、ミステリというのは種明かしが必須とされる。即ち、一度使われたトリックは基本的には同じ形で使うことが出来ないということだ。そんなかなり厳しい条件がついていながら、ミステリというのは未だ廃れることなく、どころか確実に進化して今に至っている。
どうやって読者を騙すかに終わりはないだろう。恐らく、今はまだ誰も気づいていない、新しい騙しの手法に誰かが気づいたりするかもしれない。アガサクリスティーが「アクロイド殺人事件」で初めてあのトリックを生み出したように、今後も誰かが、これまで誰も気づかなかったようなやり方で読者を驚かせてくれるようになるかもしれない。ただの物語ではない、物語の枠を超えた小説というのを生み出してくれるかもしれない。ミステリ作家のその挑戦を影ながら応援しながら、僕はこれからもミステリを読んでいくだろうなと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
ワンダー・ランドは、恐らくアメリカの片田舎にあるのだろうパラドックス学園パラレル研究会、通称パラパラ研究会に入ることにした。入ってみて驚いたのは、なんと先輩達が著名なミステリ作家達だったことだ!コナン・ドイルにエドガー・アラン・ポー・アガサクリスティーに、同じく新入生にディクスン・カーもいる。年代もバラバラなはずの彼らが、何故か同じ時代に同じ大学生として存在しているのだ。しかも、彼らは自分達がミステリ作家であるということは知らないようなのだ。
どうやらいろいろ考えるに、彼はパラレルワールドに迷い込んでしまったとしか思えない。どうしてそうなったのかよくわからないが、ともかくそうなのだから仕方ない。この世界は、なんとミステリ小説がない代わりに、ミステリの世界で起きるような密室殺人がほぼ毎日のように起こっているようなそんな世界なのである。
そんな中、とある理由からシェルターの中で瞑想することになった彼と同じ新入生であるディクスン・カーが、シェルターという密室の中で殺された!誰も出入りすることの出来ない完全な密室の中で起きた殺人事件。一体犯人は誰なのだろうか…。
というような話です。
僕は普段ミステリ小説の感想を書く時なんかは、なんとかネタバレにならないように頑張って書くようにしています。ただ今回は、何を書いてもまずトリックは分からないだろうと思って、冒頭でメタとかなんとかっていう話を書いてみました。まあネタバレといえばネタバレですけど、でも最終的なトリックはまず分からないと思います。僕はその真相を知って本当に爆笑してしまいました。なんつーアホらしいことを考えるんだろうか、と思いました。鯨統一郎というのはバカミスを書く作家として有名ですけど、しかしこれはとにかくバカミスもバカミス、よくこんなくだらないこと考えたものだなぁ、という感想です。
冒頭からしてとにかくふざけています。小説に入る前の序文のところにこんな文章があります。

「作品内で、この作品自体の犯人、トリックなどに言及していますので、本作を読了されたかただけこの作品をお読みください。」

まさにパラドックスですね。また各章のタイトルも、

「密室が生じると人が殺される」
「最も怪しい人物は犯人ではない」
「アリバイのある者が犯人である」
「名探偵は事件を防げない」
「だませばだますほど喜ばれる」

という感じで、ミステリを皮肉った感じになっています。さらに登場人物として著名なミステリ作家が出てくるわけで、まあある意味で豪華な作品だなぁ、という感じですね。
とにかく読むと脱力するような作品ですけど、まあ僕はそこそこ面白いと思いました。とにかく、度量の広い人に読んで欲しい作品ですね。読んだ後に、「なんだこりゃぁぁぁー!」と叫んで本を壁に投げつける可能性のある方は、読まない方がいいかと思います(笑)

追記:ずっとM-1を見てました。サンドウィッチマン、面白かったですねぇ。事務所の社長じゃない方の顔が何だか印象に残りました。優しいんだか怖いんだかなんとも言えない顔でしたね。

鯨統一郎「パラドックス学園」

人と出会うということは、肩の上に何かを載せられていくのに似ている。少なくとも、僕にとっては。
人と出会うことで僕が感じるのは、常に重さである。誰かの人生を引き受けてしまった、なんていうことはまさか考えないけど、誰かの人生と交わってしまうことに負担を感じることの方が多い。
人は何故出会うのかといえば、お互いを必要としているような出会いだってもちろんあるだろうけど、大抵はただ何となく出会うのだと思う。同じ学校、同じクラス、同じ塾、同じ職場、同じ趣味を持ってる。あるいは、街中で道を聞かれた、落とした財布を拾ってもらった、息子が車で轢かれた。とにかくいろんな形で人と出会うことになるのだけど、それらは大抵事故のようなもので、初めからお互いを必要としていたわけではない。
そうやって出会った相手と、じゃあどうやってうまくやっていこうかと思うと、これが結構難しい。だって、例えば学校のクラスとかだったら、年齢が同じというまとまりしか初めはないのだ。その中で、誰とも関わらずにやっていけるというならそれでもいいけど、まさかそんなことはありえない。全然知らない相手と、全然理由もなく出会った相手と、とりあえず関わらなくてはいけない。これは、負担に感じて当然だと僕は思う。
だから、人と出会うことが全然負担にならない人というのが僕には羨ましく思える。
友人にもそういう人がいる。とにかく、知らない誰かと知り合うことが楽しいし、知らない人同士を知り合わせることが楽しいのだという。僕にはその感覚は全然理解できない。
人と出会うことが楽しいというのはどこからやってくる感情なんだろう。僕には負担にしか感じられないものを、いとも容易く楽しいことに変えてしまえるその力は、一体どこで生まれるんだろう。僕はこれからもずっと、人と出会うこと、そしてかかわり続けることに負担を感じ続けることだろう。その重さをいつだって理解しながら、僕はこれからも生きていくことになるだろう。
なんという理不尽さだろうなと思う。人は人と関わらずには生きていけないというのに、その人と関わることそのものが一つの負担であるというのはどういう冗談だろう。
最近は、人との繋がりもかなりの多様性が出てきた。その代表がインターネットで、とにかくインターネットでは様々な繋がりを演出してくれるものだ。インターネットでの出会いのいいところは、場所や時間などの制限なく、自分の望む相手と繋がれるということだ。リアルの世界で人と関わる場合は、時間や場所の制限があり、自分の近くにいる人としか関わることが出来ない。しかしインターネットを使えば、自分の近くにいない誰かとも繋がることが出来るようになる。恐らくそんな理由から、インターネットでの出会いは広がっていくのだろう。
たぶんだからそう考えると、リアルな世界での人との関わりというのはこれからどんどん弱まっていくのではないかと思う。これまでは、我慢してでも自分の近くにいる人と関係を持つしかなかったし、そこでの繋がりを断たれてしまうと新しい関係性はなかなか持つことが出来なかったと思う。しかしこれからは、リアルの世界での繋がりを無視しても、インターネットで誰かと繋がることが出来る。しかも、その対象は無限に広い。取替えだっていくらでも利くかもしれない。そうなってくれば、リアルの世界での人付き合いに無理に我慢をする理由がなくなってしまうことだろう。
そうなった時、人と出会うということそのものの意味は変わってしまうだろうか。人と出会うことで今僕が感じている負担も、まさかなくなったりする未来がありえるだろうか。
この世の中に山ほど人がいる。その全員と出会えるわけがない。出会えるのはほんの僅か、世界の人口と比べれば些細なものでしかない。そのほんの僅かな人の波の中で、僕はすぐに溺れてしまう。溺れないように泳ぐ練習をするでもなく、また浮き輪を買うでもなく、その海に近づかないという選択を僕はした。それでいいと今でも思う。
人と出会うということは、人が生きている限りなくなることはない。これからも、騙し騙しなんとかやっていくしかないだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、二つのパートが交互に語られる構成になっています。
結婚を機に退職し専業主婦になった小夜子は、一人娘であるあかりと共に日々を過ごしていた。なかなか人と打ち解けない娘を見て、やっぱり自分の娘だなと思ったりする。
ふとしたきっかけで小夜子は働きに出ようと思った。何社も面接を受けるが落ち続けるも、とある旅行のベンチャー会社で採用が決まった。同じ大学だったという女社長の葵に気に入られたようだった。旅行関係の会社なのに掃除の仕事だというのが奇妙だったが、新しい仕事の立ち上げに関わることになった小夜子ははりきって仕事をするようになる。夫や義母に働くことそのものについて意味があるのかと言われるような中、小夜子は働くことで得られるはずの何かを求めて、人と関わることを避けてきた自分をリセットするように努力するのだが…。
一方、葵の高校時代が描かれる。
小学校時代からどうも、周りと打ち解けることが出来なかった。何故だか疎まれ、無視されるようになっていた。自分のどこが悪いのかよくわからず、だから一向に改善することも出来ない。高校に入ってからは、なんとなく一緒にいるようになったメンバーがいるけど、近からず遠からずと言った距離を保っていた。
でもナナコだけは違った。
ナナコとは学校での付き合いはほとんどなかったけど、放課後や休みの日に会ってはいつもくだらない話をした。ナナコとは何でも話せたし、沈黙さえ気にならなかった。ナナコは学校ではどのグループにも属さず、ある意味でちょっと浮いた存在だった。
夏休み、ナナコと一緒に民宿のバイトに行くことにした。何とか親を説き伏せてのことだった。目の回るような忙しいバイトだったけど、なんとか充実感と共にやり終えて帰ろうとした二人だったけど…。
というような話です。
角田光代の作品は初めて読んだけど、なかなかいいですね。文章がすごく読みやすくて、水が染み込むみたいにしてスーッと入ってくるようなそんな文章だなと思いました。
ストーリーは、特別何が起こるわけでもない淡々とした雰囲気の作品だけど、読んでいてすいすいと引き込まれていくような感じでした。前からずっと思っていることだけど、女性というのはホント人間関係が大変なんだろうなという感じで、それがすごくわかるような作品でした。だから正直、男が読んでもなかなか共感するというところまではいかない感じの作品だと思うけど、それでも読んでてグイグイ引き込まれる感じでした。小夜子が抱える些細なイライラであるとか、周囲への冷めた目線であるとか、不連続にも感じられる感情の流れであるとか、あるいは高校生である葵が感じる不満や憧憬、あるいはナナコという友人に対する複雑な接し方など、とにかく物の見方とか感情とかが面白くて、やっぱり女ってのは大変だなぁ、とか思ったりしました。特に何も起こらないのだけど、その何も起こらなさが逆に、なるほどこれが女性の日常なのだなと思わせるものがあって、女じゃなくてよかった、と思ったりします。
誰もが同じようなものを抱えているわけではないだろうとは思うけど、でも小夜子や葵が抱えているようなものに近いものは恐らく誰もが持っているのではないかなと思います。どこにも辿り着けない自分、逃げることしか出来ない自分、虚勢を張るしかない自分、分かったフリをするしかない自分。何か自分と重ね合わせてしまう部分が本作にはあるのではないかなと思います。
基本的には女性が読む方が共感できる作品だろうなと思います。でも男が読んでも面白い作品だと思います。本作には小夜子の夫とか葵の父親と言った形で男がちょっとだけ出てくるんですけど、それぞれに一癖ある感じで、そういう部分を楽しむという読み方も出来るかもしれません。確か直木賞受賞作だったと思います。なかなかいい作品だと思います。女性には特に読んで欲しい作品です。読んでみてください。

角田光代「対岸の彼女」

争いは絶えない。
日々どこかで争いが起きている。国家同士の、あるいは国内での戦争というのはもっとも大きな争いだろうと思うけど、日々テレビの向こうからやってくる争いはそれだけじゃない。政治家がある発言を巡って争い、ゴキブリを油で揚げたと言ってはネットで争い、強盗犯と店員が争い、盗作を巡ってアーティストが争う。
僕らの世界は日々争いに満ち溢れている。
肩がぶつかったと言って争い、電車の中で足を踏んだと言っては争い、敬語がなっていないと争い、騒音がうるさいと言っては争い、給料が少ないと言って争う。
争いは何が作るのだろう。
正当だと思える争いもある。法律というルールに乗っ取って行われる裁判という争い、あるいは春闘(なんて言い方はもうしないのかもだけど)みたいに正当な賃金を受け取ろうとする争いもある。そういう争いは、まだマシだなと思う。もちろん争うこと自体は疲れることなのだけど、しかしどこかに終わりが明確に存在するし、その終わりに辿り着いた時に以前よりよくなっているという予測が若干高いと思う。
しかし、やっぱり正当とは思えない争いの方が多い。
僕は基本的に争いというのは好きじゃない。誰かと、あるいは何かと対立することが嫌ということはないのだけど、対立し続けるというのは嫌いである。とにかく疲れる。争い続け、対立し続けることほどめんどくさいものはない。
だから僕は、なるべく争いを避けるようにして生きている。古本屋で明らかに会計が間違っていても怒らなかったし、携帯ショップで電池の取り寄せをしたのにいつまで経っても入荷の連絡がなかったことも何も言わなかった。もちろんムカツキはするし、おいおいとも思うのだけど、でもここで敢えて何か言って争いになって対立し始めると、それはめんどくさいなと考えてしまってなかなかそうは出来ないのだ。
しかし不思議なもので、世の中には争いを好んでいるようにしか見えない人とというのがいる。
僕は本屋で働いているのだけど、スタッフに喧嘩を売ってるのだろうか?と思うようなお客さんとかたまにいたりする。具体的にはあんまり思い出せないのだけど、印象としてそういうものがある。要するに、さもそれが当然の権利であるかのように何かを要求するような人や、あるいは重箱の隅をつつくような言いがかりをつけてくるような人である。
僕の考えでは、そういうものは自分の中で抑えていて欲しいと思う。何でそんなこと言われなきゃいけないんだと思うようなこともある。それでももちろんこっちは強い感じではいえないので相手の気がおさまるのを気長に待つしかないのだけど、何だか理不尽に思える。
そういう人は、争うことが面倒だという風に思わないのだろうか?
恐らく、絶対に勝てると思っているからなんだろうな、と思う。争いというのは割と、ギャンブルみたいなところがある。勝てばある程度の利益は見込めるけど、負ければ逆に損するというような。だから、争う労力のことを考えると、割に合わないかもと思って争うことを止めたりするはずである。
しかし、絶対に勝てると思っていれば違うだろう。勝って当然だと思っているような人が、そうやって理不尽な争いを仕掛けてくるのだろうと思う。
僕は社会のことについてほとんど知らないのでこの言い方は全然的外れかもしれないけど、それはすごくアメリカ的な感じがする。絶対に勝てると思っているから強気でなんでもする。まあいいけど、厄介ごとに日本を巻き込まないで欲しいとは思う。
争いの嫌いな僕だけど、バイト先ではしょっちゅう争っている。これは要するにどういう原因で起こるかといえば、僕が正しいと思っていることと社員が正しいと思っていることが一致しないことで起こるのである。
そう考えると、世の中の争いというのは大抵そうだよなと思う。
戦争にしたって、やっている双方はそれぞれお互いに自分の正当性を主張して闘っているはずだ(日本の戦国時代なんかは違ったのかもだけど)。宗教戦争なんかかなりそんな感じで、お互いに信じている神(あるいはそれに類する存在)のために正しいと思って戦っているわけで、価値観の違いがそうして争いを引き起こすことになる。
価値観の違いは、一面では人間の多様性を生み出す。その多様性は人類の進化には不可欠なものだったのだろうと思う。
しかしもう一面では人間同士の争いを生み出す。食い違った価値観という風船を間に挟みこみながら、お互いがお互いにそれを割ろうと必死になって戦う。何だか哀しいなと思う。
争いは何を生み出すか。
案外、争いというのは多くのものを生み出す。というか、争いを維持するためにあらゆるものが生まれるという方が正しいか。争いというのは本来不合理なものなので、それを維持し続けるには莫大なエネルギィが必要になる。そのエネルギィを生み出すために様々なものが必要とされ生み出されていくのである。
技術の進化は戦争とエロによって進むとはよく言うけど、確かに戦争というものが存在したからこそ生み出されたテクノロジーもあるだろう。また争いが存在するからこそ存在しうるものというのがある。それがメディアで、ワイドショーや週刊誌というのはとにかく争いのネタをいつも探している。なければ自分達で火をつけるぐらいのことはしかねない。
僕は、争いを前提として存在するものというのは哀しいと思う。しかしあるいはこうも考えうる。人間という存在は、争いを維持し続けるための駒としての存在なのだ、と。人間の存在そのものが、争いの維持という前提の元にあるいとしたら…。
争いは、まるで道端に転がっている石ころのようにそこらじゅうに落ちている。歩けば棒に当たるくらいである。それを僕は日々避けるか、あるいは当たったことに気づかないフリをしてやりすごす。争いなんてなくなればいいのにとか言ってみるけど、僕は争いが永遠になくならないことを知っている。
そろそろ内容に入ろうと思います。
少し先の未来のお話。
9.11のテロ以降激化する一方だったテロとの戦いは、ある転機を得て変質する。社会は超管理社会に突入し、ありとあらゆるものが認証なしにはどうにもならなくなった。ピザ一つ受け取るのにも指紋や虹彩による認証が必要な、そんな時代になった。
そんな時代のアメリカの秘密部隊で、暗殺を目的としたチームに所属しているクラヴィスは、日々あちこちの紛争に出かけて言っては要人の暗殺を繰り返してきた。チームの成功率は高く、仲間内での死者もほとんどない。人を殺し続けるということにはなんともいえないモヤモヤ感がつねに付きまとうが、任務に支障をきたすほどではない。
しかし、ジョン・ポールという男の暗殺命令が下ってからはどうもおかしい。
ジョン・ポールは不思議な男だった。とにかく、彼が行く国では常に紛争が起こるのである。彼は何らかの手段で紛争を誘導していると見なされており暗殺の対象になるが、しかし一向にその尻尾を掴むことが出来ない。ジョン・ポールという男は、一体何が目的なのだろうか…。
というような話です。
まずこの本を読むことになった経緯から。
ちょっと前に、いろんな経緯がありまして、作家の円城塔さんにお店に来てもらって、サイン本とサイン色紙をお店用に書いていただきました(サイン会をしたというようなことではありません)。その際僕も個人的に色紙を書いてもらったのですけど、そこに書いてもらった文字が「虐殺器官」、つまり本書のタイトルです。まあ何でそれを書いてもらったかというのは本筋ではないので置いておきましょう。
まあそんなわけで気になっていた本ではあったわけです。円城氏と同じく早川書房で今年デビューした新人で、日本SF対象の候補にもなり、最近では第一回プレイボーイミステリー第一位なんていうのももらったみたいで、このミスでもちょっと取り上げられてたし、まあそれなりに注目されている作品だったというのもあって読んでみようかなと思いました。
とにかくまず書きたいことは、読むのに時間が掛かったなぁ、ということです。まあ間にいろいろあったわけですけど、読むのに3日ぐらい掛かった気がします。270Pぐらいの本なんで普段なら1日で読める本なんですけど、何ででしょう。
たまにそういう作家がいて、僕の中では古川日出男がそうです。古川日出男の本はいつも読むのに異常に時間が掛かって、普段1時間で100P読めるところを1時間で50Pぐらいしか読めなかったりします。本書もそんな感じで、スイスイとは読み進められなかった本です。
内容的にはそれなりに面白いかなという感じです。とにかくいろいろと興味深い考え方がたくさん出てきてそういう部分は読んでてなるほどと思ったりすることもありました。言語の話や争うこと人を殺すことについての話だったり、あるいは遺伝子やミームの話になったりするんだけど、それぞれについてかなりきちっとした考え方を持っている人みたいで、なかなかエッジの利いた(あんまり意味わかんないで使ってますが)文章になっているような気がしました。
ただ逆に、いろいろ考え方を詰め込みすぎたために、結局僕の頭では何が言いたかったのかよく分からない感じにはなってしまいました。
ストーリー的には、なんて言えばいいんでしょうね。マンハント物と紹介されることが多いようですけど、近未来SFサスペンスみたいなそんな雰囲気の作品です。ミステリの要素はあんまりないと思います。僕は、現代よりテクノロジー的に進化した世界を描いたSFというのは結構苦手分野で(じゃあSFなんか読むなよといわれそうですけど)、本作でもいろんなテクノロジー的なものが出てくるんですけど、やっぱりどうにもイメージできないものがあったりしますね。まあそれでも本作は全体的には分かりやすい方だとは思いますが、人口筋肉で覆われた乗り物だとか、身体の状態を感知して適切な設定にするスーツであるとか、やっぱりなかなかイメージしがたいですね。
でも面白いと思ったのが、「痛み」についての話です。これは現実的に本当の話なのか、あるいは本書での設定なのかよく分からないんですけど、人間というのは、ある感覚を「知覚する」場所とその感覚を「感じる」場所というのが違うのだそうです。それを利用して、本作に出てくる兵士は、痛みは自覚できるけど痛さは感じないという状態に設定されたりします。
これは面白いと思いましたね。「痛い」ということは自覚できるのだけど、その「痛み」そのものは感じることが出来ない状態というのはどんな状態なんだろうな、と気になりました。ちょっとでいいから実感してみたいなと思います。まあ今の技術じゃ無理ですけど。
なかなか評価するのが難しい作品ですけど、なかなか一般受けはしなそうな作品だろうなと思ったりします。「Self-Reference ENGINE」の方が僕は好きですね。どんなジャンルが好きな人に勧めたらいいか悩むところですが、SFというよりハードボイルド的なクールな感じの雰囲気の作品が好きな人ならいいかもです。

伊藤計劃「虐殺器官」

他の国のことは知らないけど、日本人は日本という国にあまりにも興味がないんだろうという風に思う。
あくまで僕のイメージだけど、他の国の人というのは自分が住んでいる国について、なんて言えばいいか、愛着のようなものを持っているのではないかと思う。その国の習慣、文化、人、社会、政治、経済、そういったことすべてについて関心があり、それらについて知識を得たり、あるいは誰かと話をしたりするものなのだろうと思う。ちょっと前に読んだ「お金がなくても平気なフランス人お金があっても不安な日本人」にも、フランス人はパーティなんかで自分の国の政治なんかの話をすると書いてあったし、欧米人はそもそも日常的に政治だの経済だのと言った話をしているという話を聞いたことがある。
それに比べて日本人というのは自分達が住んでいる日本という国にあまりにも関心がなさすぎるだろうと思う。僕の場合はありとあらゆることに関心がないのであまりサンプルとしては適切ではないのだけど、僕も当然興味がない。日本の歴史も全然知らないし、政治家や政治の状況についてもさっぱり話せないし、経済がどうなっているのかも全然知らない。
他の人も、割と同じようなものだと思う。歴史について詳しい人はいるかもしれないけど、それはただ単に個人的な趣味として、一つの大きな物語として楽しんでいるだけで、自分の国が好きだからということでは恐らくないだろうと思う。政治についての無関心っぷりはなかなかのもので、投票率の話がよくニュースになったりするけど、僕ももちろん投票には一回も行ったことがないし、そもそも誰も自分達が政治家を選んでいるんだという発想がない。橋本弁護士が府知事選に出るらしいけど、僕はまあ橋本弁護士は好きだけど、でも問題はそういうことじゃない。政治家としてどんなビジョンを持っているかよりも、一般的な知名度みたいなもので政治家が選ばれていく。上が決定したことについて文句は言うけど、でもちゃんと反対したりはしない。まあ上が決めたのだから仕方ない、まあしょうがない、とそんなことを思ってしまう。
日本の文化にしてもそうで、日本というのはかなり独特な文化を持った国だと思うけど、しかし国民はその文化をあまり顧みることはない。京都や奈良や鎌倉に行って古都の雰囲気を楽しんだりすることはあっても、その奥深さを理解しようというところまではなかなかいかない。ワビサビみたいな日本にしかない感覚というのも発達させてきたのだけど、しかし今ではもうその感覚も廃れつつあるだろうと思う。
もちろん日本の文化や歴史や政治なんかに興味を持っている人というのはいるだろうと思う。しかしそれは決して大多数ではない。少数派である。大多数の人間は、日本という国をどんどん「知らなく」なっている。もちろん僕もその一人だけど、この流れは変わることはないだろうと思う。日本人はどんどんと個へと収束していっている。個人の趣味や個人の感覚をまず第一に優先し、組織や集団としてのあり方、また伝統や歴史と言ったものの重みみたいなものをどんどん忘れようとしている。自分が日本という国に住んでいるのだという自覚もどんどん薄れていき、あるいはそれを意図的に忘れようとして、そうやって僕らは生きているのだと思う。
恐らくそれじゃあダメだろうとは思う。もっと自分の住んでいる国に関心を持ち、過去そして現在がどうなっているのか、そして未来をどうしていけばいいのかを考えなくてはいけないのだろう。しかし、もうそっちの流れへ引き戻すのは恐らく無理なのではないかと思う。人々は国がどうとかよりも興味のあることが多すぎるのだ。自分の興味を満たすために国のことなど考えている余裕はないのである。
まあ僕もそういう人間なんで大きなことは言えないのだけど、しかしホント、日本って国は早晩立ち行かなくなりそうな気がするなぁ、と他人事のように思ったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は今野敏のSTシリーズの第一期の一作目になります。要するにSTシリーズに一番初めということですね。
これからの犯罪に対応していくために、警視庁に科学特捜班(通称ST)という新たなチームが組まれることになった。STのメンバーは身分としては刑事ではなくただの研究員で、科学的な分析を通じて捜査に貢献することが求められる。
さてそのSTが出動することになる初めての事件が起こる。中国人のホステスが何者かに殺されるという事件だ。部屋は荒され、強姦の跡があった。
またすぐ後に、同じく中国人ホステスが殺される事件が起こる。拷問を加えた跡があり、また同じく強姦の跡があったが、先の事件とは血液型が違った。しかし、連続殺人事件の可能性がないでもないということになり一緒に捜査をすることになる。
捜査本部は集まった情報からある構図を描き出すも、STメンバーでプロファイリングが専門の青山はそれに意義を唱える。そんなに簡単な事件じゃないよと青山は言うが、しかし一向にプロファイリングをしたがらない。のらりくらりとしたSTメンバーのやり方に捜査本部は苛立ちを隠せないが…。
というような話です。
このシリーズは面白いですね。本作はミステリとしてどうかと言われるとまあ多少レベルは低いと言わざるおえないですけど、キャラクター小説(と言っていいのか)としての面白さは抜群ですね。相変わらず面白いです。
STメンバーの紹介については、「青の調査ファイル」の感想に書いたのでそっちを見てもらうとして、相変わらず濃いキャラクターたちが縦横無尽に暴れ回るという感じです。今回も「青の調査ファイル」と同様青山翔がなかなか活躍する話で、この青山の飄々とした感じはいいなぁ、と思います。
事件自体は割と平凡なものを扱っているんですけど、特殊な能力を持ったSTメンバーがかなり特殊なやり方で事件を解くというのがこのシリーズの面白いところですね。まだ2作しか読んでないですけど、警察小説とは思えないハチャメチャ感がいいです。
またこれも前に書きましたが、とにかく読みやすいです。この読みやすさはちょっと異常ではないかと思えるくらいです。スラスラ読めます。読みやすい小説を書けるというのは才能だなと思います。
まあそんなわけで、このStシリーズについてはちょっと読んでいこうと思っています。なかなか面白いシリーズです。軽く本でも読みたいという時にはぴったりの作品でしょう。読んでみてください。

今野敏「ST 警視庁科学特捜班」

身近な人が死んでしまうというのはどういう感覚だろうか。
僕は死というものをあまり経験していない方だと思う。身近な人が死んでしまうという経験があまりない。これまで葬式には2度しか出たことがない(これが多いのか少ないのかはなんとも判断出来ないのだけど)。友人に話すといつも驚かれるが、自分の親族の墓がどこにあるのかも知らないし(一つだけ知ってるけど)、だから墓参りに行ったような経験も全然ない。
だから僕は、その2度の身近な人間の死からあれこれ類推するしかないのだけど、どうも僕は人の死というものに比較的渇いた感情しか沸き起こらないようである。
1度目は大学時代の先輩の死だった。あまりにも突然で唐突でとにかくよく分からなかったというのが実感だったと思う。葬式には出たけど、それでも誰かが死んだという実感が持てなかった。もちろん、残念だとか哀しいと言った名前の感情が自分の中に起こらなかったかと言えばもちろんそんなことはないのだけど、しかし周りの人と比べるとやっぱりその度合いが薄いような気が自分ではした。
2度目は祖父の死だ。僕の祖父母は結構元気で4人とも健在だったのだけど、1年くらい前に祖父が死んだ。あぁ、そういえば一昨日ぐらいに1周忌をやるとかだったけど、結局行かなかったなぁ。
この祖父の死の時には、本当になんの感情も湧かなかった。もともと僕は親族というのはどうも苦手で、正月とかそういう機会に少し会うだけなんだけど、それでも何だか気疲れするような人間だった。その死んだ祖父ともそこまで深い関わりがあったわけでもない。
しかしそれにしても、何とも思わなかったというのは自分でもちょっとヤバイなと思った。批判を承知で言えば、葬式のために実家に戻らなくてはいけないことがめんどくさいとさえ思ったくらいである。人としてこれはちょっとマズイと思ったのだけど、仕方ない。実際そうだったのだから。
葬式に出ても結局それは変わらなかった。祖父の亡骸を見ても特にどうということもなかった。それよりも、決して仲がいいとは言えない両親との気詰まりな時間に気を取られていたぐらいである。
ちょっとこれではいかんな、と僕は思っているわけです。身近な人が死んでいるのに、人並みの感情が湧かないというのはちょっと酷いのではないかと。祖父が死んだというのを聞いて、自分の中でほとんど何の感情も沸き起こらなかった時は、正直悩みましたね。これで僕は大丈夫なんだろうか、と。
僕は割とそういう部分があって、結構感情的に欠けている部分があるんじゃないかと思っています。というか、全体的に感情の揺れみたいなものに乏しいのだろうと。すごく嬉しいことがあっても、すごく楽しいことがあっても、すごく辛いことがあっても、すごく哀しいことがあっても、それによって発生する感情の揺れみたいなものがかなり抑えられていて、その振れ幅が小さいために、表面上なんともないように見えるということが結構あるように思います。
例えば僕に奥さんがいるとして(まあいないんですけど)、子供もいるとしましょうか(まあいないんですけどね)。で、その奥さんと子供を両方失うというようなことを考えてみましょうか。まあ自分が結婚しているという状態を想像するのがなかなか難しいのでリアルな想像にはならないんですけど、でも奥さんと子供の死でさえ、僕はあっさりと受け入れてしまいそうな気がしてしまうのです。もちろん、哀しいとは思うだろうし、泣くこともあるかもしれませんが、しかし、自暴自棄になって暴れたり、憔悴して動けなかったり、嗚咽を漏らすようにして号泣するようなそんな自分をどうしても想像することが出来ません。ただ静かに目の前の死を受け止め、それを消化していくような気がしてしまいます。自分でもちょっと酷いとは思うんですけど、でも感情なんてのは無理矢理表に出すものでもないわけで、今のところまあ仕方ないかなと思ったりしているんですけど。
まだまだ先の話でしょうが、年を重ねていけば身近な人間がどんどん死んでいったりするのでしょう。そうなった時、僕は人としてまともな感情が出てくるのかどうか非常に不安です。周りに冷たい人間だと思われることは別にいいんですけど、自分で自分のことを理解できなくなるのはちょっと嫌だなと思ったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
福島県の白峠村というところにある小さな民宿に泊まりにやってきた作家の道尾は、静かなところだと聞いてそこでのんびりするつもりでいた。その白峠村では児童の失踪事件が相次いでおり、天狗の神隠しかと言われているようなのだが、もちろん今ではそんな騒ぎは収まっている。
しかし道尾はその村で、幽霊のものとしか思えない不気味な声を耳にする。恐ろしくなって予定を切り上げてさっさと帰ることにした道尾は、大学時代の友人で、今では本も書きテレビなんかにも出るような真備の元を訪れる。真備は霊現象探求所を経営している男で、世の中の不可思議なことに精通しているのだ。
そこで道尾は、背中に眼が移りこんだ四枚の心霊写真を目にすることになる。奇妙なのは、その四人全員が、その写真が撮影されて数日以内に自殺しているということだ。しかもその写真はどうも道尾が聞いた幽霊の声の件と関わっていなくもないようなのだ。
そこで道尾と真備と、真備の事務所の事務員である北見という美女の三人で白峠村を訪れることにする。天狗の神隠しと背中の眼、そして道尾が聞いた幽霊の声。一体どのように関係するというのだろうか…。
というような話です。
去年から今年にかけて、まあかなり狭い範囲ではあるけど大ブレークした道尾秀介のデビュー作になります。僕はなかなかいい作品だと思いました。
道尾秀介という作家は、周到に張り巡らされた伏線と、あっと驚くようなミステリ的な結末を武器に作品を量産している作家です。これまで僕は「シャドウ」「向日葵の咲かない夏」「片眼の猿」の三作を読みましたが、どの話もミステリ的な仕掛けが随所に施された作品で、なかなか野心的な作品が多いです。ただ問題は、ストーリー的にかなり無理があるものが多くて、まあそこだけが難点と言えば難点ですけど、伏線の処理のうまさは抜群で、これだけ周到に伏線を張り巡らすことの出来る作家はなかなかいないと思うし、しかもそれをうまいこと回収できる作家もなかなかいないのではないかと思います。
本作は、伏線の張り方は相変わらずうまいままで、ストーリーとしてもなかなか無理のない感じで、割といいなと思いました。他の作品と比べると、あっと驚くようなポイントはないんですけど、その代わりストーリーがなかなかしっかりしていて、デビュー作でこのレベルはなかなかのものだなと思いました。まあストーリーがしっかりしていると言っても、話自体は人が失踪したり死んだりするような話で、幽霊とか天狗とかが出てくるのがちょっと普通じゃないですけど、まあありきたりと言えばありきたりの話ではあります。でもそこうまいこといろんなエピソードや伏線を絡めていって、少しずつ謎が明らかになっていくという感じで、やるなぁという感じですね。
本筋の話以外にもいろんなところに小さなエピソードを盛り込んでいて、そこに張った伏線を回収していくので、なんか厚みがある感じがしました。謎を解いていく過程も丁寧な感じでいいと思います。
とまあここまで褒めてきましたが、この道尾秀介という作家は好き嫌いがはっきり分かれる作家だと思うので、まず一作読んでみてどうかというところですね。僕は割と読めるし面白いなとも思うけど、こういう作品がダメという人は結構いると思います。でも本作はその中でも割と普通に読める作品ではないかなと思います。褒めてるのか貶しているのかよくわからない感想ですけど、僕はなかなかいいと思いました。興味があれば読んでみてください。

道尾秀介「背の眼」

子供の頃に戻りたいと言っているような人が時々いる。僕にはあれがどうも理解できない。
子供って、僕からしたらすごい大変な時代だったな、と思うのだ。
子供の頃って、後から振り返ってみれば結構楽しかった記憶で溢れていたりするかもしれない。勉強は嫌だったけど毎日サッカーをして遊んで楽しかったとか、好きな子とかといろいろあったり、あるいはあの頃は自由だったなぁ、なんて思ったりするかもしれない。
でも本当にそうだろうか?
僕は、子供というのはとにかく不自由な存在だなといつも思っていた。自分が子供であるというのがとにかく嫌で仕方がなかった。
もちろん楽しいことがなかったとは言いません。いろいろと楽しいことはあったし、その楽しいことだけ出来るのならもちろん子供時代に戻ってもいいかなとは思ったりします。
ただ、その時々ある楽しいことのために、子供時代の日常をもう一度やり直す気力は、やっぱり僕にはないなと思います。
子供時代の日常というのは、とにかく様々な制約に満ちていたように僕には思える。子供らしさとか社会とか、まあいろいろあるのだけど、その最たるものが、学校と家庭だったなと思う。僕は、ホントどっちもとにかく嫌だなと思っていました。
学校というのは、とにかくいろんな種類の人間が集団生活をしなくてはいけないという場でした。もちろん働くようになって、職場というのも似たような場所だなとは思います。同じように人間関係がいろいろあって、自分の思い通りにいかなかったりする。
でも子供にとっての学校というものが最も制約的である点は、自分でそれを選ぶことが出来ない、ということですね。
例えば職場であれば、どうしても嫌なら辞めればいいです。ずっとそこに縛り付けられているわけではありません。そこには自分の意思を反映する余地があります。
でも学校の場合、一回入ってしまったら、大抵の場合卒業するまではそこから抜け出せません。親の都合で学校が変わることはあっても、子供の都合で学校が変わるというのはそうはないでしょう。子供にとって学校というのは、そこがどんな場所であれ行かなくてはいけないことになっている場所なわけです。
だからこそそこでの人間関係というのは非常に難しくなってきます。僕は別にいじめられていたりしたわけではないし、友達がいなかったというわけでもないのだけど、でも本当に学校での自分の立ち位置を失わないように必死だったような気がします。人間的にちょっとダメだということは自覚していたので、なんとかオプション的なものを身につけて(まあそれが勉強だったわけですけど)、なんとか学校という場を乗り切ったなという感じです。小中高のような学校という環境にはちょっともう頑張れないと思います。
学校というのに付随して、勉強も結構苦痛だったなと思います。まあ僕はいろんな防衛策としてとにかく勉強しまくるという学生生活を選択したのだけど、そのせいでとにかくずっと勉強していました。あれはホント疲れましたね。勉強は、決して嫌いではなかったけど、でもあの当時の努力を理由もなくしたいと思えるほどの熱意があったわけではありません。それも、子供時代をなんとか乗り切るための自分なりの方策だったわけで、結構辛かったですね。
家庭というのも自分の中では結構厳しい場所でしたね。まあこれまでにもいろんなところで書いた記憶があるのであんまり書きませんが、どうしても僕にとって家族というのは『不自然』な集団に思えてしまうんですね。もちろん、自分の両親と兄弟での家族しか経験していないので一般的にどうなのかというのは分からないのだけど、僕には家族というまとまりが不自然に思えて仕方ありませんでした。反りが合わないといつも感じていたし、一緒にいることが常に苦痛でした。とにかくただ、一人では生きていけないから仕方なく家族の中にいたというぐらいで、常に家族とは離れたいとそんなことばかり考えていました。大学に入って実家を出てからは、本当に今まで感じていた窮屈さから解放されて清々しい気分になりました。今ではたまに父親からメールが来るぐらいで、それ以外の音信はほぼありません。非常に楽でいいですね。僕だけかもしれませんが、どうにも僕には家族という形は合わないようです。
まあそんなわけで、子供の頃は本当に辛かったなと思います。今の生活の方がよっぽどいいです。何があってもどんな状況になろうとも、すべて自分の選択であるし自分の責任だというのがやっぱり自由だなという気がします。誰かに制限を加えられたり、あるいは何かを奪われたりしながら生きていくのはやっぱり嫌です。
子供というのはいつの世もそこまで大きく変わるものではないと僕は思います。まあ僕はちょっとおかしかったかもしれないけど、でも子供というのは大抵いろいろと辛かったり不満に思っていたりすることを抱えているものだと思います。大人になるとそんなことは忘れて、子供時代に戻りたいなんて言ってしまうのかもしれないのだけど、はっきり言って僕は、やっぱり子供というのは大変だよなぁ、と思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は二つの短編を収録した短編集になっています。

「卵の緒」
僕はたぶん捨て子なんだと思う。じいちゃんばあちゃんの反応もおかしかったし、母さんは僕のことをいろいろ知らなかったりする。本人は、「本人がいつも近くにいるんだから、わからないことがあれば聞けばいいじゃん。覚えるだけ無駄だよ」なんていうのだけど。
学校の先生に、へその緒っていうものを教えてもらった。どの家にもへその緒っていうのが必ずあって、それが親子の絆なんだ、と。なるほどこれはいいことを聞いた。そこで母さんにへその緒を見せてもらおうと思ったのだけど、母さんが出してきたのは卵の殻だった。母さんは、「育夫のことは卵で産んだのよ」なんていうのだ。どこまで本気なんだか全然わかんない。
母さんはそのうち、朝ちゃんという会社の同僚を家に連れてくるようになった。母さんと二人で過ごす日常か、あるいは朝ちゃんを入れた三人で過ごす日常がいつもさりげなく過ぎていって…。

「7's blood」
私の名前は七子で、弟が七生。人からはよく似てるねなんて言われる姉弟だったりする。でも私と七生はちゃんとした姉弟ではない。七生は、父さんの愛人の子供なんだ。父さんはもう死んじゃって、でその愛人だった女が人を刺したとかで刑務所に行くことになった。それで母さんが七生を引き取ることに決めたんだ。
でもその母さんはすぐ病院に入院してしまった。大丈夫なんて言ってるし、実際元気そうなんだけど、でも全然退院できないのだ。
だから今では私と七生の二人暮らし。七生はよく気がついて家事も料理も得意だから助かるんだけど、でもどうも好きになれないんだ。どうしてなんだろう。何がダメなんだろう…。

というような話です。
次々いい作品を出す瀬尾まいこのデビュー作になりますが、これはかなりいいですね。デビュー作でこの出来っていうのはなかなかレベルが高いと思いました。何よりも不思議なのは、この「卵の緒」という短編で坊ちゃん文学賞という新人賞を受賞しデビューしているところですね。瀬尾まいこが出るまでこの坊ちゃん文学賞というのはまったくメジャーではなかった新人賞だったのでちょっとびっくりしました。
どちらの話も、その後瀬尾まいこが紡ぐことになるなんとも言えない不思議な世界観とキャラクターが出てくるという点で共通していて、まさに瀬尾まいこの原点なんだなという感じがします。
瀬尾まいこは、常識とか既成の枠組みみたいなものをあっさりと無視できる人だという印象があります。というかまあ本人がどんな人かは知りませんけど、少なくとも作品を読む限りそんな気がします。本作でも、普通とはかなり違った家族のあり方が描かれるのだけど、それが全然どうでもいいっていうか、そんなこと特別じゃないみたいな描かれ方をします。そんな普通が何かとか世間とは外れてるとかそういうことはどうでもよくて、もっと大事なことがあるでしょう、というようなメッセージが込められているように僕には思います。
「卵の緒」の方は母親の描き方がもう秀逸ですね。こんな母親だったら僕も家族として一緒にいてもいいかなとか思ったりします。ちょっと普通じゃなくて、世間的な評価からしたらちょっと落第点的な母親かもしれないけど、でも子供を愛するというその一点の強さがはっきりしていて素晴らしいなと思いました。もちろん育夫のキャラクターもすごくいいし、朝ちゃんの立ち位置も好きで、ストーリー自体には特に何かすごいことが起きたりするわけじゃなくて、本当に何でもない日常を積み重ねているだけなんだけど、それでも本当に面白いと思える作品でした。お見事という感じですね。
「7's blood」の方もいいです。とにかく七生がすごくよくて、こんな弟がいたらちょっと可愛がってしまうかもしれないと僕らしくもないことを思ったりしました。ただ同時に、子供なのに子供らしくない(この子供らしくないって言葉は僕はあんまり好きじゃないんですけど)七生を見ていると、その背景にあるものが想像されてちょっと哀しくなったりしますね。
こちらもストーリー自体は何が起こるというわけでもなく、淡々と七子と七生の生活が描かれるだけなんだけど、それでも本当に読ませる作品ですね。最後まで読むと、確かにこれは七子にとっては辛いよなぁ、と共感できるようになります。
どちらの話もすごくいいですね。家族というもののあり方について、そして子供との接し方についていろいろ考える人もいるかもしれないし、子供の持つ打算や残酷さについて共感したりするかもしれません。また、愛するというのはどういうことなのかと考える人もいたりするかもしれません。それぞれの人がそれぞれの立場でいろんなことを考えることの出来る作品ではないでしょうか。かなりオススメです。是非読んでみてください。

瀬尾まいこ「卵の緒」

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