黒夜行 2010年01月 (original) (raw)

天地明察(冲方丁)

アカネちゃんはカナちゃんとは対照的に、実に男の子っぽい女の子だ。髪の毛も短いし、スカートを履いているのをあんまりみたことがない。外見にあんまり気をつかわないみたいで、化粧も最小限。目が大きいから、化粧をすればもっと映えると思うんだけど、そんなことには頓着しないみたい。目が小さい志保には羨ましい限りだ。性格もさっぱりしていて、本当に男の子と一緒にいるんじゃないかって思うことも時々ある。
「ベルは?とりあえず並ぶ?」
ベルというのが志保のあだ名だ。三人は同じガーデニングサークルに所属しているんだけど、そこではよくシャベルを使う。サークルの備品のシャベルもあるし、自前のシャベルを使いたいという人にはその保管場所も用意されているんだけど、志保は毎日必ずシャベルをバッグに入れて持ってきては、その都度家に持ち帰っている。それを知って驚いたアカネちゃんがつけたあだ名だ。
このシャベルは、小さい頃好きだった男の子にもらったものだった。

「失踪シャベル 3-3」

内容に入ろうと思います。
本書は本屋大賞のノミネート作になっている作品です。江戸時代実際に存在した渋川春海(作中ではほぼ安井春海という名前で出てくるけど)の生涯を描いた小説です。
春海が行ったことは、新たな暦を生み出し、それを正式な暦として認めさせる『改暦』です。
御城で碁を教える、というのが元々の春海の役職でした。身分の高い人に稽古をつけたり、将軍の前で碁を打ったりするのが本来の仕事です。
しかし一方で春海は、算術にも大いなる興味を持っていました。算盤片手にあらゆる問題を解くことを趣味とする男は、ある時とある神社の絵馬に算術の問題が書かれているという噂を耳にします。
実際に行ってみると、確かにある。そして春海はそこで、『関』という名の算術に関して異常な才能を持った男の存在を知ることになります。『関』というのは、和算の創始者として名高い関孝和のことです。とはいえその頃はまだ、趣味であらゆる問題を解きまくっているだけの、春海と同年代の若者でした。
春海は関という数学者の才能に惚れ込み、会いたいと望みながらも気持ちの踏ん切りがつかず、迂遠にも関に問題を出して挑戦するなどというやり方で己の存在を示そうとします。春海にとって関は、純粋に趣味として興味を持つ存在でしたが、改暦に際して関は春海に重要な示唆を与えることになります。
一方で、春海の身辺はどうにも慌ただしくなります。意味も分からず武士のように帯刀されられるようになったかと思えば、何を考えているのかわからない大老酒井の謎めいた問いかけがあり、また水戸光国(後の水戸黄門)との面会ありと、どんな思惑がなされようとしているのか春海にはさっぱりわからない状況が続きます。
その延長線上に、改暦がありました。
しかしそこに至るまでも長い道のりがあり、また改暦に挑戦し始めてからも長い道のりがあり…。
というような話です。
いやはや、これはまあ傑作でした!もうべらぼうに面白かったです!一応時代小説という括りになるのかもしれませんが、舞台が江戸時代というだけで、文章なんかは現代小説と同じです。いろいろと覚えにくい(と感じるのは、僕が歴史が苦手だからでしょうか)固有名詞が出ては来ますけど、会話も古臭いわけでもないし、文章も読みやすいので、時代小説ってちょっと…、みたいな風に思って読まないのはちょっともったいなさ過ぎる作品だと思います。
まずこの作品、登場人物たちがとにかく素晴らしい!
主人公の春海は言うまでもなく素晴らしいキャラクターをしています。武士のような格好をしているけど武士ではなく、一応長男ではあるけど長男のようではなく、碁を仕事にしてはいるけど既に飽きていて、算術にのめりこんでいる。これだけでも充分にいいキャラですけど、読めば読むほど親しみも湧くし親近感も覚えるしで、実にいいですね。なんとなくですけど、時代小説の主人公って武士とか町人みたいなイメージがあって、どっちもシャキッとしているような感じがあるんだけど、春海は基本的に全然シャキッとはしていません。うだつの上がらない、という表現をしてもいいくらいなんだけど、そこがまあ憎めないわけですね。
関孝和もいいです。ほとんど後半にしか出てこないんだけど、なかなか強烈な印象を残します。しかし名前だけは知ってましたけど、関孝和って凄い人だったんですね。今では当たり前の方程式(2X+3=5みたいなやつ)を欧米や中国の数学者の成果を知らずに独自に編み出したらしいし、恐らく世界で初めて行列式というものを考え出したみたいですよ。すげーな、ほんと。関孝和は、ありとあらゆる問題に一瞬で答えを出すことから、「解答さん」あるいは「解盗さん」と呼ばれているんだけど、そう呼ばれるのも当然か、という感じがしました。
あとはいろいろ思いつくままに挙げてみるけど、まずえん。えんは春海がとあるきっかけで出会う武家の娘なんだけど、男勝りというかまさに武家の娘という感じの女で、こういうチャキチャキした女性が好きなんでよかったです。対照的に、春海の最初の奥さんであることも、ほとんど作品には出てきませんけど、「ことは、幸せ者でございます」と常に言っていた病弱な女は、なかなか印象深かったです。
道策という、碁打ち一家の仲間でありライバルである年下の男もよかったですね。この道策は、とにかく碁の申し子みたいな男で滅法強いんだけど、何かにつけて春海との勝負をしたがるんですね。これ、わかんないけど、腐女子とかには結構ウケるような関係なんじゃないかなと思います。
安藤という、どういう理由でかは忘れたけど春海と同じ家に住んでいる男がいて、春海と同じく算術が得意で、後に春海と共に改暦を目指すことになるんだけど、この礼儀正しい男もよかったです。特に安藤が一番初めに出てきた時、持ち慣れない刀を腰に差した春海にきちんとした帯刀の仕方を教える場面なんか最高だなと思いました。
星の観測のために日本中を旅する際に、隊長と副隊長であった建部と伊藤もよかったです。二人とも子どもみたいで無邪気な感じがよかったです。
春海が残した功績に表面切って悔しがる水戸光国とか、ほとんど何を考えてるのか分からない大老酒井なんかもいいキャラでした。特に酒井が最後春海を呼んでしたことはじんときました。
あと印象的なのは、保科正之でしょうか。たぶん実在の人物なんでしょうけど、読めば読むほどとんでもない人間だなと思います。ほとんど一人で、江戸という街を、そして脱・武士という理想を成し遂げたような男で、この男は凄まじいなと思いました。
まあそんなわけで、他にも魅力的なキャラクターはたくさん出てくるだろうけど、とにかく一人ひとりが活き活きしていて、実に魅力的です。このキャラクターの強さみたいなものが、本作の大きな魅力の一つだろうと思います。
ストーリーも実にいいですね。どこまでが史実でどこまでが創作なのか分からないけど、おおよそ史実に沿って話が進んで行くんだろうと思います。にしてはちょっと出来すぎてますけどね。改暦にまつわる展開は、これほんとに史実なのか?と思いたくなるほど魅力的な展開で、なかなか信じがたいものがあります。
改暦にまつわるあれこれを読んでいると、ソニーのことを思い出しました。ベータの雪辱をブルーレイで取り返したみたいな、なんとなくそんな印象があります。
春海は一旦とんでもな窮地に陥るわけなんですけど、でも結果的にそれが吉と出たわけです。しかも、とんでもない偉業をほとんど一人で成し遂げてしまっているんだから、やはりとんでもない男です。ケプラーの法則がまだ日本に入ってきていない頃、惑星が楕円軌道を描いているというのを恐らく日本で初めて突き止めた人じゃないでしょうか。すげーよ、ホント。
いやしかしまあこの春海、挫折ばっかりなんですね。挫折の連続です。よくもまあこれだけ打ちのめされて、それでも前に進めたものだな、と思います。この作品を読んでいると、もし春海がいなければ、日本にはまともな暦は生まれることはなかったんじゃないかん、なんて思ったりもします。凄いものだなと思います。
改暦に関わる部分だけではなくて、碁や算術を通じた人々との関わりや、あるいはちょっとした恋など、いろんな要素が盛りだくさんの作品です。バカの一つ覚えのように繰り返しますけど、まあこれは滅法面白いです。この作品は、もしかしたらもしかすると本屋大賞取るかもしれません。とにかく傑作です。是非読んでみてください。

冲方丁「天地明察」

単純な脳、複雑な「私」 または、自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義(池谷裕二)

カナちゃんは、全体的に今風という表現がぴったりな女の子だ。服装も、あの雑誌を参考にしてるのかな、と想像できるようなまとめ方だし、髪型もどことなく人気の女性ミュージシャンっぽい雰囲気がする。大学に入ったのも、とりあえずもう四年間遊ぶため、というような感じで、どこの大学にもたくさんいそうな類の女の子だ。高校時代カナちゃんとはほとんど関わったことがないはずだからちゃんとは憶えていないけど、こんな女の子じゃなかったような気がする。どことなく雰囲気に微妙な違和感を覚えてしまうのも、大学デビューだからだろうか。よく言えば、発展途上という言い方も出来る。
「ベアはスープパスタかぁ。何にしようかなぁ」
ベアというのはカナちゃんのこと。アカネちゃんはカナちゃんをそう呼ぶのだ。カナちゃんがいつも使っているお気に入りのバッグに、大きなクマのぬいぐるみがついているからそう呼ぶようにとなった。初めは「プー」ってあだ名だったんだけど、カナちゃんが「さすがにそれは勘弁」と言ったので、ベアに落ち着いたのだ。

「失踪シャベル 3-2」

内容に入ろうと思います。
本書は、脳科学者として第一線で活躍している研究者である著者が、自身の母校である高校で高校生向けに行った講演を書籍化したものです。全校生徒を対象にした講義一遍と、その後強い関心を持ってくれた人9人を対象にした講義3編が収録されています。
内容としては、最新の実験結果をふんだんに織り込みながら、脳がどれほど奇妙な存在なのか、そして、脳によって生み出されるように思える「心」とは一体なんなのか、というようなことについて書かれています。
内容については後で具体的にいろいろ抜き出して書こうと思いますが、まあとにかく素晴らしい作品でした。素晴らしい!前に同じ著者の「進化しすぎた脳」という新書を読んだことがあって、それも素晴らしかったですけど、こちらももう大絶賛ですね。素晴らしすぎました。
科学とか数学とかを扱った作品というのは、大きく二種類に分けられると思うんです。『興味を持たせる作品』と『興味を深める作品』です。
歴史とか経済についての本だと、『興味を持たせる作品』というのは結構出ている印象があります。これは僕の勝手な印象ですけど、歴史とか経済とかっていうのは、いわゆる専門家でなくてもある程度知識を深めることが出来るし、歴史なんかだと在野での研究も出来たりするからかな、と思うんです。
でも理系分野の場合、そうはいきません。第一線の研究結果を知りたければ、研究者かサイエンスライターになるか、あるいは彼らが書いた本を読むしかありません。しかし研究者にしてもサイエンスライターにしてもそうですけど、なかなか一般向けの本、つまり『興味を持たせる作品』というのは書いてくれないんですね。たぶん、出してもあんまり売れない、みたいなところが根底にあるんだと思うんですけど。
だから科学とか数学に関する本は、『興味を深める作品』が実に多いというのが僕の印象です。
でも本書は、『興味を持たせる作品』なんですね。科学的な知識がほとんどなくても、脳科学にもともと興味がなくても、本書を読めばかなり多くの人が『面白そう!』と感じるのではないかな、と思います。しかもそれを書いているのが、サイエンスライターとかではなくて、第一線で活躍している研究者なわけです。なかなか第一線で活躍している研究者が一般向けに本を書いてくれることはないし、しかも大抵の場合そういう専門家が書く本というのは難しくなってしまう傾向がある中で、本書の分かりやすさ読みやすさは驚異的なものがあります。最近では、脳科学というと胡散臭い本ばっかり出ていますけど、本書はそういうものとはまったく違う、きちんとしたサイエンスの本です。それでいて、文系の人でも充分読めて、しかも脳科学にさらに興味をもつのではないかな、という内容です。
ちなみにですが、第一線の研究者が一般向けの本を書く(本を書いたり講演をしたりという活動を「アウトリーチ活動」というらしいです)ことに批判を受けたりすることがあるそうです。本書のあとがきに書かれているんですけど、そこでの著者の姿勢は素晴らしいなと思いました。
批判にはこういうものがあるようです。

『科学とは難解なもの。もし簡単なものだったら専門家は必要ない。それを一般向けにかみ砕く行為は真実の歪曲。嘘を並べ立てて啓蒙とはおこがましい』

『研究者ならば科学の土俵で社会に貢献すべき。アウトリーチ活動は実のところ社会還元にはなっていない。餅は餅屋。一般書はプロのサイエンスライターに任せるべきだ』

『科学者は誰もがなれるわけではない。選ばれしエリートである。だからこそ税金から多額の研究費が注ぎ込まれている。個人の趣味に時間を費やすのは無責任な造反である』

著者はこれらについて、『なかには科学者視点に偏った意見もあるように感じられますが、しかし厳密な意味で、私にはこれに反論することができません』と書いています。謙虚ですね。
僕はムカツクんで反論しましょう。一番初めのは論外でしょう。反論する価値もないけど、じゃあ『あなたが理解している科学的知識』は、『あなたが理解出きている』という理由で『間違っている』んですか、と聞きたいですね。
二つ目は、アウトリーチ活動ほど後進を育てることに有効なものはないと思います。特に今日本は理系離れと言われています。サイエンスライターにまかせろと言うけど、日本のサイエンスライターにしたって数が知れてるだろうし、自分の研究分野について書いてくれるとも限らない。結局第一線にいる研究者が自分の言葉で語ることが、もっとも後進を育てることに有意義なのではないでしょうか。
三つ目は、確かに『間違ってはいない』意見なんですけど、穿った反論をすれば、じゃあ政治家はいいわけ?と言いたいですね。他の人間だって間違ってるんだからいいじゃん、という反論は反論としては弱いですけど、税金から多額のお金が流れているのに、という文句を言いたいなら、まず政治家に文句をいいなさい、と言いたいですね。
まあそんなわけでちょっとムカついたんで反論してみましたけど、とにかく本書は素晴らしい本だということを言いたいわけなんですね。
さて前置きが長くなりましたけど、ここからは本書の内容をいろいろかいつまんで抜書きしてみようと思います。
まず、科学的姿勢について注意をした話で面白い例が二つありました。実際の研究論文であるようですが、『理系の人は人差し指が短い』というデータと、『天然パーマの人は知能が低い』というデータがあるらしいんです。
でもこれらのデータは、データ自体は間違っていませんが、背景がきちんとあります。まず人差し指の方は、遺伝的な理由により、『男性の方が人差し指が短い』というデータがあります。で、理系には男性が多い。だからこそ、『理系の人は人差し指が短い』となるわけです。
また天然パーマの方は、全世界的にデータをとった場合の結果なんですけど、アフリカがかなり影響を与える。アフリカ人が頭が悪いというわけではなくて、でもどうしても教育や環境のために知能指数は低くなる。アフリカの人は天然パーマが多い。だから『天然パーマの人は知能が低い』となるわけです。
この二つから著者は、サイエンス、とくに実験科学が証明出来ることは「相関関係」のみであり、「因果関係」は絶対に証明できない、という話をまずします。これはなかなか面白い話だなと思いました。
面白い実験が紹介されています。恋愛に関する話題の時に出てきたものなんだけど、実験はあるマジシャンが二枚の写真を見せる、というものです。その二枚の写真から好みの女性(あるいは男性)を選んでもらう、という実験です。
たとえばある人が左側を好みの女性として選んだとしましょう。するとマジシャンはカードを伏せてから、その人に手渡します。ところが実際には、カードはマジシャンによってすり替えられ、もう一人の右側の女性の写真が手渡されるんです。つまり、好みでない方の女性の写真が手元に来る。
さてこれで、さっき選んだ写真と違うと気づくか、という実験らしいんですけど、これが気づかないらしいんです。「変化盲」という名前がついている現象らしいんですけど、凄いですよね。
しかもその後、どうして左側の女性を選んだんですか、と聞かれると、「イヤリングが似合ってるから」とか「金髪がいいから」とか言うらしいんです。元々自分が選んだ写真はまったくそういう特徴がなかったにも関わらずです。人間の脳ってアホみたいですよ。
これまた恋愛の話ですけど、相手に自分を好きにさせるにはどうしたらいいか、という話で、『相手からプレゼントをもらう』『相手に何か手伝ってもらう』のがいいらしいですね。
人間の脳というのはアホなんで、自分がしている行動から感情を決定しようとするらしいんですね。つまり、『好きでもないのに手伝っている』というのはおかしい。でも実際自分は今手伝っている。ということはつまり、自分はその人のことは実は好きなんだ、というような思考をするんだそうですよ。みなさん覚えておきましょうね。
脳科学が進展したために、「直感」というものも科学として扱えるようになったようなんです。この直感に関する実験とかを紹介するのはなかなか難しいんで(ブーバ・キキ試験とかだったら、その名前で調べれば出てくると思うんで調べてみてください。面白いですよ)、「直感」と「ひらめき」がサイエンスの土俵ではどんな風に定義されているかだけ書きます。
「ひらめき」というのは、思いついた後に理由が言えるんです。「これこれこうで、こうだったんだ。さっきまでは分からなかったけど、今は分かるよ」というのがひらめき。
一方で「直感」というのは、自分でも理由が分からない。「ただなんとなくこう思う」というのが直感なんですね。
実際に「直感」と「ひらめき」では担当している脳の部位が違うみたいです。しかし直感に関する実験はほんとに面白い。
人間は思い出しやすいものを多いと感じる。たとえば、パで始まる単語とパで終わる単語、どっちの方が多そうかと聞かれれば、パで始まる方が多そうな気がする。何故ならたくさん思いつくから。実際どっちが多いかは分からないけど、でも感覚として僕らはそう思う。
あるいは、「自分は自主的な人間だと思いますか」と質問する実験がある。その時、「過去に自主的に行動した例を6つ挙げてください」と言われてから思い出したグループは、そうでないグループに比べて、自分を自主的な人間だと判断する人が多かった。
しかし面白いことに、12個挙げてくださいと言われると、逆に自分が自主的だと判断する人は減る。何故なら、12個も思いつかないから。12個思いつかないということは、自分はそんなに自主的な人間ではないのかもしれない、と判断してしまうみたいですね。面白いものです。
好みについての実験。被験者にヘッドフォンの使用感を評価してアンケート用紙に記入してもらう実験をした。その後、日を改めて被験者に集まってもらい、今度は二本のペンを渡してそのペンの評価をしてもらう。
この実験の意図は実はペンの好き嫌いを調べることで、渡される二本のペンの内、一本はヘッドフォンを評価した時に使ったペン、そしてもう一方は初めて使うペン。
回答者の傾向として、素晴らしいヘッドフォンですね、とポジティブな回答をした人はその時に使っていたペンまで好きになるみたいです。好き嫌いというのは、そういう意識にはっきりのぼる理由がないままに決まって行くものみたいです。
脳には、幽体離脱を起こす部位というのが存在するらしくて、そこを刺激すると幽体離脱をしているような感覚になるみたいです。幽体離脱というのは現実に存在する物理的な現象みたいです。
『自由意志』についての最も有名な実験。被験者に椅子に座ってもらって、テーブルに手を置く。目の前の時計を見ながら、好きなときに手を動かす、ということを試してみた。その時の脳の活動を測った。
ここで測れることは四つある。まず自分がどう感じるかという認知の問題。「手を動かそう」という自分の意志と、「手が動いたな」とわかる知覚。あと、脳の活動が二つ。手を動かすための「準備」をする脳活動と、実際に動くように出す「指令」の脳活動。
この四つ、「手を動かそう」「動いた」「準備」「指令」がどういう順番で起こるかということを測定してみた。
普通に考えれば、
「動かそう」(まず自分が動かそうと思う)→「準備」(それを受けて脳が準備する)→「指令」(動かせという指令を出す)→「動いた」(動いたと感じる)
という流れになるはずでしょう。
しかし実際はこうだったようです。
「準備」(僕らが手を動かそうと思う前からもう脳は準備をしている)→「動かそう」(脳が準備をしてから動かそうという意志が現れる)→「動いた」(脳が指令を出す前に動いたという感覚がやってくる)→「指令」(僕らが動いたと感じた後で脳から指令がやってくる)
これは凄いと思いませんか?ここから高校生たちは、人間に「自由意志」はあるのか、という議論になり、最終的に人間にあるのは「自由否定」なのだ、という結論に達することになります。
まあここに書いたのは本当に一部ですけど、そういうような様々な驚くべき実験と知見が載っていて、本当に知的興奮が味わえる作品です。
本書を読んでいて一つ自分の仕事に関わるかもということがありました。僕は本屋で働いていて、POPなんかも作る(というか、僕が文章を考えて、絵とか字はいろんなスタッフに書いてもらうんだけど)んだけど、僕はなるべくPOPの文章には、『内容を紹介しすぎない』ということと『褒めすぎない』ということを重視しています。そしてとにかく『目立つこと』が重要で、『手にとってもらえること』が重要だと思っています。
『内容を紹介しすぎない』とか『褒めすぎない』というのは、たとえばPOPを見ただけで興味ないやと思われて手に取ってもらえなかったりするのは困るし、すごい褒めたりすると、もしそれを読んだお客さんがつまらないと思った時、僕が作るPOPの信頼度が下がるよな、というようなことを考えていたわけなんですけど、脳科学的に見ても僕のやり方は悪くないかも、と思ったりしました。
『内容を紹介しすぎない』ことで、手に取って裏表紙の内容紹介を読もう、という気になるかもしれませんよね。そうすると脳としては、『わざわざ自分が手を伸ばして取ったのだから、もしかしたらこの作品は面白いのかもしれない』と思ってくれるかもしれません。さらに『褒めすぎない』ことで、スタッフが褒めているから買うのではなくて自分の意志で買うのだということを強く認識させることが出来るのかもしれない、と思いました。まあ分かりませんけどね。
まあそんなわけで最後ちょっとよく分からない話をしましたけど、そんなわけでとにかくべらぼうに面白い作品です。本書は、理系の作品にしては珍しく、科学とかにまったく興味のない人間に『興味を持たせる作品』なので、文系の人とか、別に脳科学とか興味ないなぁみたいな人にもオススメです。また、脳科学って最近胡散臭くねぇ、とか思っている人にもオススメです。是非是非読んでみてください。

追記)amazonのコメントはほとんどが大絶賛だけど、少数がかなり厳しいコメントをしている。大雑把に要約すると、『心ってこの作品に書かれてるほど単純じゃないよ』ということなんだと思う。うまく反論できないんだけど、本書は『高校生を啓蒙したり興味を持ってもらう』ことを前提とした講演がベースになっているんだから、別にいいんじゃないかな、と思うんだけど、反論として適切じゃないかな。どうなんだろう。

池谷裕二「単純な脳、複雑な「私」 または、自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義」

後藤さんのこと(円城塔)

昼時の食堂は、いつだって混んでいる。このキャンパスには何箇所にも、カフェテリアやレストランといった名前の食堂があるし、コンビニや生協だってある。それでも、すべての学生が余裕をもってお昼ご飯を食べるには充分ではないらしい。二限の講義が終わって急いできたにも関わらず、もうかなり席が埋まっている。慌てて空席を探していると、カナちゃんの姿が目に入った。先に来て、席を取ってくれていたみたいだ。なかなか席が取れなくて、別の食堂に行かなくてはいけないこともあるから、助かった。ここは、パスタが美味しいからという理由で三人のお気に入りなのだ。
「おはよう」カナちゃんはスープパスタにしたようで、もぐもぐと食べている。口が開けない、というジェスチャーをしてから、ひょこっと頭を下げて挨拶代わりにした。

「失踪シャベル 3-1」

内容に入ろうと思います。
と思ったんですけど、この作品は僕みたいな凡人にはまず内容紹介なんて不可能な作品なんで、6つの短編+αのタイトルだけ書いて内容紹介はしないことにします。

「後藤さんのこと」
「さかしま」
「考速」
「The History of the Decline and Fall of the Galactic Empire」
「ガベージコレクション」
「墓標天球」
「INDEX」

いやー、しかしまあ、ぶっとんだ作品でした。円城塔というのはまあ意味不明な作品を書く作家ですけど、本書はこれまでのどの作品よりも意味不明だったなぁと思います。いやホント、これだけ意味不明な話を書けるのって、凄すぎると思います。たぶんホントに、異常に頭がいいんだろうな、という感じがします。
本書を一言で表現するなら、こういう感じになります。

『物理や数学で文学を書いている』

物理とか数学の知識をふんだんに使いながら、一方でものすごく文学チックなことを書いているんですね。僕にはまあストーリーはほとんど理解出来ませんでしたけど、本書の内容紹介にも、
『難しくてためにならない、でもなぜか心地いい言語遊戯』
なんて風に書かれているので、まあストーリーが分からなくても別にいいんじゃないかなと思います。
「後藤さんのこと」は、物理における様々な物質や現象に、一貫して「後藤さん」という名前をつけていろいろ遊んでいる、という感じの作品です。まあこういう説明じゃ意味不明でしょうけど、他の作品に比べたらまだこの作品はわかりやすいな、と思いました。「分後藤さん」とか「偏後藤さん」とかも何を言っているのか大体わかるし、3等分にしか出来ない後藤さんをどうやって三つに分けるかという、有名なラクダの問題を踏まえた話もあったし、面白いなと思いました。ちょっとバカリズムっぽい感じがあります。バカリズムっていう芸人は、昔話に「小野」だの「竹内」だのという名前をつけて現代っぽくしちゃうみたいなネタがあるんだけど、この短編も、物理のいろんな対象に「後藤さん」っていう名前をつけて遊んじゃおうという感じの作品でした。
「さかしま」は何かの注意書きみたいな話なんですね。ウル中心部とかいう、もしかしたらそこが人類の起源なのではないかという変わった場所から帰還した人間向けの注意事項の文書、みたいな感じの設定だと思います。よくわかりませんでしたけど、ウル中心部というのがどういう空間なのかという説明の部分は結構好きです。
「考速」は、全体のストーリーはイマイチ分からないんですけど、とにかく言葉遊びが凄いです。具体例なしで説明出来る自信がないんで一つ抜き出すと、

『うしおいてつきこえはしりぬく
牛追いて月越え走り抜く
潮凍てつき声は知りぬく』

みたいな文章が山ほどあるんですね。こういう形式ではない言葉遊びもあって、それがストーリー全体に絡んでくるらしいんですけど、その辺りのことはよくわかりませんでした。しかしここで書かれている言葉遊びはホント凄かったです。
「The History of the Decline and Fall of the Galactic Empire」は、もしかしたら本書の中で一番好きかもしれません。何よりも素晴らしいのは、これを「小説」だと言い切ってしまう円城塔が素晴らしいですね。これこそまさに内容の紹介が不可能な作品ですけど、とにかく凡人にはまずこんな作品は書けないだろうと思います。凄いと思いました。
「ガベージコレクション」もまあよく分からないんですけど、友人と賭けをするとか、チェス盤がどうとか、可逆な計算とか、過去に遡るとか、そういう感じの話のようです。
「墓標天球」もまあよく分からない話でしたけど、溝を掘りながら過去に遡っている男とか、少女を追いかける少年とか、よく分からない少女とか、そんな感じの人達が出てきます。
「INDEX」は、これまた斬新でして、帯に書かれているんですね。本書の帯は、表紙の3/4を覆うくらい幅が広いんですけど、そこに5×8のグリッドがあって、そのマスの一つ一つに少しずつ文章が書いてあるんですね。これもまあまた意味不明ですけど、なんか凄い気がします。
円城塔の作品の凄いと思う点は、ストーリーも分からないし、難しい言葉もバンバン出てくるんだけど、それでもなんとなく読めるというところです。もちろんストーリーを理解出来るわけでもないし、難しい言葉の意味も分かるわけではないんだけど、それでも文章を追うのを諦める気にはさせないと思うんです。まあ人によるかもしれませんけど、僕は意味不明でも読み進めようと思える文章なんですね。なんかそこが凄いかなと思いました。
まあそんなわけでして、作品は完全に意味不明なんですけど、超絶的な作家だと思います。近いうちに、円城塔の長編デビュー作である「Self-Reference ENGINE」が文庫化されるんですけど、僕はこれを売ろうと思っていまして、POPも作ってもらってあります。僕が考えた文章はこんな感じ。

『正直、意味不明。
でも、この作品、クラクラする。
この作家、ハマる。』

売れてくれればいいな、と思います。
本書は何にしても人に勧めるのが実に難しい作品ですけど、怖いもの見たさみたいな感じで興味がある人は読んでみてください。「Self-Reference ENGINE」の方が、円城塔入門としてはおすすめです。

円城塔「後藤さんのこと」

増大派に告ぐ(小田雅久仁)

講義が終わり、質問することなくノートをバッグに仕舞うと、志保は大教室の後ろの方に座っているはずのアカネちゃんを探した。アカネちゃんは大学に入ってから知り合った友達の一人で、時間が合う時は必ず、志保と高校が同じだったカナちゃんと三人でお昼ご飯を食べることにしている。カナちゃんは学部が違うから時々お昼ご飯を一緒に食べられないこともあるんだけど、アカネちゃんは学部が同じだし、一二年のうちは取っている講義も大体同じだから、大抵いつも同じ教室にいることになる。並んで講義を受けないのは、ノートを取るために最前席に近い位置に座る志保と違って、講義の時間は寝たり友達と喋ったりするためにあると言っているアカネちゃんは、大体後ろの方の席に座ることになるからだ。アカネちゃんにも、いつもノートを貸している。去年は、きちんと授業に出ているなら、ノートもちゃんと自分で取ればいいのに、と思っていたのだけど、今はなんとなくアカネちゃんのあり方も理解出来るようになってきた。志保自身も、後ろの席でダラダラ講義を受けたい、という欲求が湧いてくることはよくある。自分のその大きな変化が、今朝感じた変化と一瞬重なりあって、哀しみが増幅したように感じられた。後ろの方で座っているアカネちゃんを見つけ、そちらに向かって歩く間に、志保は気持ちを切り替えた。

「失踪シャベル 2-6」

内容に入ろうと思います。
本書は最新の日本ファンタジーノベル大賞受賞作です。誇大妄想にとりつかれたホームレス・大熊と、どうしようもなく狂気に惹かれる中学生・舜也の二人が主人公です。
大熊は、リアカーを引きながら、かつて住んでいたことのある団地の傍にある公園にやってきた。増大派の連中から姿を隠しつつ、団地に囚われているはずの母親を助けるためだ。ヒロシマという男が遺した赤いキャップを被り、アルバートと名付けた犬を連れて、大熊は公園での生活を始める。
大熊にとって世界は、増大派と減少派に分かれている。ほとんどの人間が増大派であり、しかもその数はどんどんと増えていっている。ありとあらゆる組織や集団の中にはびこり、取り返しのつかないことになっている。世界は増大派に乗っとられようとしている。大熊は数少ない減少派であり、増大派と減少派を見分ける特殊な能力を磨いてきたがゆえに、なんとかここまで生き延びることが出来たのだ。
大熊は、船長との思い出や自分の出自なんかを振り返りながら、自らの妄想の世界の中でもがいていく。
舜也は団地に住み、団地の中学校に通っている。今ではなりを潜めたものの、かつては理解できない理由で母親や自分たち兄弟を殴ってきた父親とは、もう二年ほど話をしていない。家の中の空気はギスギスしている。それは主に、舜也と父親が作り出している。それを取りなそうとする母親と弟のあれこれさえも、より空気を寒々しくするだけだ。
舜也の弟がある時、公園に男が家を作っていると言ってきた。赤いキャップを被った男だ。何をしているのか分からない。遠目で見る限りでも、ちょっと頭がおかしいように思える。しかし舜也はその男に何故か興味を惹かれてしまう。舜也は幾度となく男の姿を見に行き、やがて接触を持つようになる。
舜也も、行き詰まっている家族や、ままならない友人関係なんかを抱えながら、窮屈な世の中を生きていく。
というような話なんですけど、なんていうかこういう内容紹介じゃ伝わらないものが本書にはあるんですね。
いやはや、凄い作品でした。ちょっと前に、同じく日本ファンタジーノベル大賞受賞作である「ラス・マンチャス通信」という作品を読んでこれは凄いと思いましたけど、それを上回る作品だなと思いました。ホント、日本ファンタジーノベル大賞はレベルが高すぎますね。
本書は単行本で260ページぐらいの作品で、普段の僕なら3時間もあれば読める本なんですけど、本書はたぶん読むのに6時間は掛かったと思います。とにかく文章が濃密で、スラスラとは読み進められないんですね。これほど濃密な文章を読んだのは久しぶりではないかなと思います。
本書は、ストーリーはほんと特にこれと言ったところのない何でもない話ではあるんです。ごく狭い地域を舞台にして、ごく限られた登場人物を、ごく限られた会話で関わらせるという感じで、正直ストーリーだけみればほとんど何も起こっていないと言ってもいいかもしれません。ホームレスは公園に住み始めるだけだし、中学生はそのホームレスを見ているだけ、後半でその二人がちょっと関わる、ぐらいの展開でしかありません。
じゃあ本書は何が凄いのかというと、ホームレスと中学生の内面描写というか思考というか感情というか、そういう部分がもうとてつもないんです。
ホームレスの方は、とにかく妄想が凄い。どうしてそうなったのかはよく分からないけど、男はとにかくとんでもないレベルの妄想を抱えて生きています。どんな妄想なのかは是非呼んでみてほしいんだけど、よくこんなこと考えたもんだよなと思うくらいです。男はその妄想が現実であると捉えて生きていて、それこそが彼にとっての真実なわけです。その生き方は窮屈極まりないですけど、ある意味で男に生きがいを与えているのだろうし、公園に勝手に家を建てちゃう以外に誰かに迷惑を掛けたりするようなこともないんで、本人がよければいいんじゃないかなと思います。
徐々にわかっていくんですけど、男はどうやら秘密を抱えているようで、それに対して何かしなくては、という方向性の行動もします。妄想の世界や、ホームレスとしての現実、そして過去の秘密に対する行動なんかが男の行動原理みたいなものになっています。
また、船長と名付けている男との関わりについても面白いと思います。船長というのは、男が子どもの頃かかわり合いのあった男なんだけど、男が抱えている秘密というのも船長と絡んだものになっていきます。男がどんな過去を生きて来たのかという部分もなかなかに興味深いです。
一方の舜也も、中学生としてはかなり歪んでいます。学校にいる間はそういう部分をあまり表に出さないようにという感じにしているのだけど、一人でいる時には様々なことを頭の中で考えます。その大半が、父親に関することになります。
舜也はとにかく父親と折り合いが悪い。というか、父親が理不尽な理由で家族に当り散らすのが悪いんだけど、しかし母親と弟はそんな父親には表立って反抗は出来ない。舜也も、昔は出来なかったけど、今では冷戦状態みたいな感じを保ちながら、常に父親との関係に気を張っていきているんです。
そんな父親と過去に何があったのか、父親が舜也に散々話して聞かせたある妄想、父親の人間としての弱さ、そういったことを舜也は常に考えていきます。
一方で舜也は、公園に住み着いたホームレスにかなり興味を持つことになります。初め弟から話を聞いたときはさほど興味があったわけではないのだけど、徐々に興味が湧いてきます。そのホームレスが頭がおかしいのではないか、と感じるようになったためで、それは父親が幼い頃から舜也に吹き込み続けたとある妄想が関わってきます。ホームレスの男と何らかの関わりあいを持つことで、その妄想に何らかの結論を出せたりするのではないか、というような淡い期待を抱くわけです。
そんな狂った二人は、しばらくはほとんど接点のないままで話が進んでいきます。終り頃になってようやく関わりを持つことになります。
とにかくこの作品は、文章に力があります。本書は新人のデビュー作ですけど、とにかく新人とは思えないほど文章が手練ています。僕は、舞城王太郎や古川日出男なんかは、もはや文章によって自らの世界観を確立出きている作家だと思っているんですけど、この著者もそんな雰囲気を漂わせています。もう既に、文章によって自らの世界観を確立しているという感じがするんです。新人でそんなことが出来る作家というのはまずいないでしょう。文章自体は落ち着き払っているのに荒々しい感情表現になっていたり、どうやってこんなの思いつくんだというような比喩表現もたくさんあったりして、文章がうまいとかどうとかじゃなくて、もう自分の世界が確立しているんだなという感じでした。濃密な文章で、とにかくスラスラと読める作品ではありませんけど、この濃密さはなかなかベテランの作家でも醸し出すことは出来ないんじゃないかなと思えるレベルだと思いました。
一つだけ欠点を挙げるとすれば、ホームレスと中学生の性格とか生き方みたいなものが似すぎていて、時々文章を読んでて、これはどっちの話だっけ?となってしまうというところでしょうか。もう少しホームレスと中学生で対比出来る部分があればよかったのかな、とも思うけど、本書のレベルの高さを考えれば、重箱の隅をつつくような指摘でしかないかもしれません。
とにかく、この作品の魅力を文章で表現するのは実に難しいので、とにかく読んでくださいとしか言いようがありません。文章は濃密でスラスラと読めるわけではありませんけど、決して難しい作品というわけではありません。タイトルや装丁も秀逸だと思うし、とにかく全体として新人のデビュー作とは思えない作品です。また凄い才能が出てきたものだなと思います。この作家はホントこれからも大期待だと思います。ただずっとこういう感じの作風で行くとしたら、ちょっと飽きられちゃうかもしれない、と思ったりもします。こういう雰囲気を残しつつ、新しい世界観を生み出してほしいなと思いました。是非読んでみてください。

小田雅久仁「増大派に告ぐ」

乱鴉の島(有栖川有栖)

それから志保は、講義に対して完全にやる気を失ってしまった。年始にあったテストも散々な結果だったし、今年に入ってからの講義に対する態度は酷いものだった。進級出来ればいいか、と今は思っているし、それ以前に、そもそもこのまま大学にい続けることに意味があるのだろうか、と考えることが増えた。身体中に満ち溢れていたやる気が、風船を割ったように一気にはじけ飛んでしまった。自分が空気人形になったようで、しばらく朝起きると、歩き方や喋り方を忘れていないか不安になった。
それでもノートだけはきちんと取っているのには理由がある。一年の頃からずっと、志保のノートは大人気だった。講義に出ないでテストだけで乗り切ろうというやる気のない学生は、志保のノートを見るだけで単位が取れると言っていた。講義をきちんと受ける意欲は失ってしまったけれど、自分のノートを待っている人がいると思うと、ノートを取ることを簡単に止めることは出来なかった。そのうち止めよう、といつも思っているのだけど、それでも手が動いてしまうのは、頼られると嬉しい性格のせいだろうと思う。いや、そうではなくて、頼られなくなった時のことを考えると怖いからだろう。自分の元から誰かが離れていってしまうのは、とても恐ろしいことだ。

「失踪シャベル 2-5」

内容に入ろうと思います。
本書は、有栖川有栖の二つあるシリーズ作品の内、犯罪学者である火村が登場する方の長編作品です。
大学で助教授として教鞭を執る一方で、犯罪学者として実際の殺人事件に関わりいくつもの難事件を解決してきた火村は、とある事情で友人であり作家である有栖川有栖と共に、三重県の沖合にある孤島に行き着くことになった。当初の予定とは大分違ってしまい、島に着くなりいろいろとトラブルが起こるのだけど、二人はどうにかその島に留まれることになった。
しかしその島には、奇妙な人々が集まっていた。
元々ほとんど無人島であり、現在は詩人であり翻訳家であり作家でもある海老原舜の別荘があるのみである。そして火村と有栖川が赴いた日は、ちょうど海老原を囲んだ親睦会みたいな集まりが開かれていたようである。
しかし、どうも様子がおかしい。島に集まっている面々が何かを隠しているように思えて仕方がない。しかし、いろいろあって居候状態であった二人にはあまり強いことも言えず、変な雰囲気のまま島に厄介になることになった。
さらなる闖入者がやってきて、島が落ち着きをなくした頃、凶事が発生する。死体が見つかったのだ。一体この島で、何が起こっているのだろうか…。
というような話です。
僕は昔は結構本格ミステリを読んでましたけど、最近はそうでもないんですね。なんというか、小説を読み始めの頃っていうのは、本格ミステリのようなわかりやすい構造の作品というのは読みやすくていいんです。でもしばらく本を読んでいくと、どうも物足りなくなっていって、本格ミステリからどんどん離れていっていきます。まあそれでも、時々気まぐれのように本格ミステリを読んでみますけどね。
その中で、有栖川有栖だけは結構注目しているんです。他の本格ミステリ作家の作品にはちょっと飽きを感じる部分があっても、有栖川有栖の作品は結構いいなと思えるんですね。
それは、有栖川有栖が描く本格ミステリが、あまり本格ミステリっぽくないという部分があるんだろう、と思います。
普通の本格ミステリというのは、もちろんいろんなジャンルはありますけど、大雑把に言うと、
『容疑者が限られている状況であるのに、誰にも犯行は不可能だった』
という形で謎が提示されることが多いんですね。みんなにアリバイがあるとか、密室なんか作れるわけないからこれは自殺かもとか、そういう不可能状況みたいなものがまず描かれて、その後で実はこんなトリックがあってそれが覆るんだよ、というような展開になります。
ただこれは、結構不自然な展開にならざるおえないんですね。例えば容疑者全員にアリバイがあるなんていう状況はそもそも不自然極まりないし、他の状況にしたって、『それが不可能な状況であった』ということが成立するためには、実に不可解で不自然な状況が提示されなくてはならないということになるんです。それが本格ミステリだと言われればそうなんですけど、どうしてもそういう部分が結構本を読むようになるにつれてどうもなぁという感じになっていったんだと思います。
でも有栖川有栖の作品の場合、もちろん上記のような展開の作品もあるでしょうけど、僕がこれまで読んできた作品の多くは、
『誰にでも犯行は可能だった、という状況の中から、たった一人の犯人を絞り込む』
という展開が多いんですね。容疑者にアリバイがあることはほぼないし、密室とかが出てきても、それが必ずしも不可能的な状況ではなかったということが示唆されたりします。なので、小説的にもそこまで不自然な感じにならずに済むので、有栖川有栖の本格ミステリは今でもまだ僕は読めるなぁと思うんですね。
でも本書はちょっとあんまりという感じでした。
一番残念だったのは、犯人の動機ですね。これが実に本格ミステリっぽくなかった。本格ミステリの文脈とかルールからすると、反則ではないかもしれないけどちょっとそれはどうなのと言われてしまうような、そういう動機じゃないかなと思います。確かに、現実の事件においてはそういうことはあるかもしれないけど、やっぱり本格ミステリというのはある程度本格ミステリのルールの中で語られないといけないと思ったりするので、犯人が最後に明かした動機はちょっといかんのではないかなと思いました。
それ以外の部分は、特にここというほど指摘したい箇所があるわけでもないけど、でも全体的になんとなく面白くないな、という雰囲気でした。ちょっとあまりにも動きが少なかったのかもしれない、とも思います。孤島を舞台にしているのだからある程度は仕方ないのかもしれないけど、でも有栖川有栖はこれまでにも閉鎖状況におけるミステリで傑作を書いています。本書はそういう作品と比べてしまうと、全体的に動きが少なくて、退屈だったのかもしれない、と思います。
事件の背景になっている出来事は、なかなか面白い設定だなとは思います。ただ、その設定にさらに説得力を持たせるためには、もう少しあの人物(一応名前を出すとネタバレになるかもしれないんで伏せますが)について掘り下げて描かなくてはいけなかったのではないかな、という感じもしました。あの島で行われている狂気が成立するだけの雰囲気をあまり感じられなかったという印象はありました。
まあそんなわけで、ちょっと今回は残念だったかなという感じもします。まあ有栖川有栖の作品は僕は結構好きなんで、これからもちょくちょく読むと思いますけど。やっぱり「孤島パズル」「双頭の悪魔」「女王国の城」は素晴らしい作品だったと思います。

有栖川有栖「乱鴉の島」

すべては「裸になる」から始まって(森下くるみ)


不幸な出来事は年末に起こった。とある学会に出席するために乗ったフランス行きの飛行機が墜落し、教授は帰らぬ人となってしまった。その事実を知った志保は、自分の人生がリセットされた、と思った。頭の中が真っ白になって、しばらく何も考えることが出来なかった。徐々に気持ちが回復してきた志保は、自分がこれほどまでショックを受けているという事実に驚いた。教授の存在は志保にとって、それほど大きなものになっていたのだった。それを改めて噛みしめて、ようやく志保は涙を流した。マルイさんを失った時とは違う、穏やかな涙だった。もうあんなに全力で泣くことは出来ないのだなと思い、その哀しみを、教授を失った哀しみの傍にそっと寄り沿わせた。大きな哀しみの傍で、その小さな哀しみはいつまで経っても色を失うことがなかった。

「失踪シャベル 2-4」

本日、というかもう日付は変わっていますけど、二度目の更新です。
内容に入ろうと思います。
本書は、著者名から分かる人は分かるでしょうが、少し前まで現役のAV女優だった人が書いた自伝みたいな作品です。
AV女優になる人には色んな人がいる、というのは聞いたことがあります。お金のためと割りきってとか、そのパターンの一種でしょうけど借金のためにとか、そういう人もたくさんいるんでしょうけど、そうじゃない人もたくさんいるようです。
森下くるみも、そんな後者のタイプだったようです。
秋田に住んでいた頃、とにかく父親に怯えながら弟と母親と暮らしていた日々。理解できない原因でキレる父親と、毎晩のように繰り返される狂気のような夫婦喧嘩。狂言自殺をするために母親が玄関で灯油を被るとか、森下くるみ自身もボットン便所に落とされそうになったとか、なかなか壮絶な家庭だったようです。
工業高校卒業後、とにかく家を出たかった森下くるみは、いろいろあって東京の食品会社でレジ打ちをすることになった。
状況してしばらくして、変なオッサンから声を掛けられた。簡単に稼げるとかいろいろ言っていたけど、正直興味はなかった。その当時、月10万円の月収で生活していた。物欲がほとんどなかったから、簡単にお金が稼げるとか言われても興味がなかったのだ。
しかし森下くるみは数日後、とある事務所に行っていて、そしてソフト・オン・デマンドというインディーズの会社の専属のAV女優になる。
すべてをリセットするために、一度脱ぐことが必要だった、と森下くるみは語っている。
森下くるみは、自身が唯一自信を持っているものを挙げるとすれば、「感覚」だ、と言っています。嗅覚や直感。恐らくその時も、その「感覚」が働いたのでしょう。レジ打ちをして一生を終える自分と、新しい世界に飛び込んでいく自分と。
セックスの経験もあまりなく、というかセックスを気持ちいと思ったことがあまりなかった森下くるみは、そんな感じでAVの世界に入り、まったくのど素人からプロフェッショナルへと、そしてやがてAVクイーンと呼ばれるまでになっていく。
辛いこともあったし、哀しいこともあった。
それでも、この世界と出会えたことを森下くるみは良かったと思っている。
そんな感じの内容です。
本書は、大きな括りをしてしまえば、芸能人本みたいな感じに扱われるでしょう。僕は芸能人本もそこそこ読んだことがありますけど、やっぱり文章的にはなかなか厳しいものがありますね(ゴーストライターが書いていることもあるんだろうけど)。
でも本書は、そんな芸能人本とは一線を画す作品だと思います。そもそも森下くるみは、「小説現代」に短編を一作(今の時点ではもっとかもしれないけど)発表しているようで、それを読んだ花村萬月が、森下くるみには才能があると感じ、本書の解説を引き受けているほどです。僕も読んでいて、荒削りだなとは思いますけど、文章がかなりきっちりしていると思いました。僕が荒削りだなと感じた部分は、言葉をまだうまく選びきれていないような気がするという点なんですけど(もっと適切な言葉を選べるんじゃないかと思える部分が結構あるように僕には思えました)、でも、難しくない言葉で深い内容を表現するとか、全体の構成とか、独特の雰囲気とか、結構いいなと思いました。落ち着いた筆致で淡々と書き進めっているのが僕の好みともあっていて、なるほどこの文章で小説を書いたらちょっと面白いものが出来るかもしれないな、と思ったりしました。もし小説作品が出るようなことがあったら、気にしてみようと思います。
僕がこの作品でもっとも共感できた部分はこの部分です。

『あたしは何も考えていないのに、「何を考えているのかわからない」などとよく人に言われた。
言いたいことなんて何もない。ずっと一緒にいてほしいと思うと同時に、放っておいてもらいたい。その矛盾に、あたし自信も随分と苦しめられた。
変化など望んでいない。悲しくて泣くとか、うれしくて笑うとか、いちいち感情を出すのが、とてもおっくう。
それじゃなくともそんな感情、だいぶ前に無意識の下の下のほうに堕ちていってしまっていたはずだ。
うれしいと思っても、そんな簡単に笑えるもんなんだろうか。みんなは、本当におかしくて笑っているんだろうか。泣くこともそうだ。あたしは、感情と涙がうまく繋がらない。』

この部分、僕まるっきり同じだな、と思いました。
小説とか読んでてもよく、自分と似てるなぁとか思う登場人物とかいますよね。大抵そういうのって、読んでいる側がいろいろ補完してしまっていて、つまり読む方が勝手にそう思っているだけ、ということも多いと思うけど、何にしたって似てると思ってしまったんだからしかたない。
特に、『ずっと一緒にいてほしいと思うと同時に、放っておいてもらいたい。』っていうのは凄くわかる気がする。
まあ僕の場合、ずっと一緒にいてほしい、なんてのはあんまりないんだけど、一人でいたいわけじゃないんだけど、でも放っておいてほしくもあるというのは凄くよく分かる。森下くるみが感じているのとはまた違うものかもしれないですけどね。
あと、『変化など望んでいない。悲しくて泣くとか、うれしくて笑うとか、いちいち感情を出すのが、とてもおっくう。』も、その通りだよな、と思います。僕も、変化が大嫌いで、とにかく変わらない日常が過ぎて言ってくれるのが一番楽でいい。それに、哀しいから泣くとか、嬉しいから笑うというのが、僕もよく分からない。笑う方は、処世術として意識的に身につけた部分はあるんだけど、泣く方はホントによくわからない。映画見て泣くとか、小説読んで泣くとかいうことはよくあるけど、哀しいから泣くというのはたぶん人生振り返ってみてもほとんどないと思う。片手で数えられるくらいかなぁ。覚えてないだけかもしれないけど。
まあそんな風に、凄く似てるなと思えたからこそ、作品全体や文章についても共感出来たのかもしれない、と思ったりします。まあ文章とかは普通の水準だと思うし、それまで文章とかを発表したりしたことがない人にしてはかなり上手いと思いますけど。
あと、自分がAV女優だと人に告げた時の相手の反応がいろいろで興味深いみたいなことを書いていました。「すぐヤラせてくれるんでしょ」みたいな人から、「AV女優には見えないくらい話し方もしっかりしてるし普通だし」と変な褒め方をされたりまで。
でも、AV女優だと言われる側も結構大変だよな、と思っちゃいました、この作品を読んで。
喩えは悪いけど、例えばそれってカツラと同じようなものじゃないかな、と思うんです。
例えば、僕はハゲてもカツラとかつけたくないし、ハゲを隠したりしたくはないと今は思ってるんだけど、例えばまあ僕がカツラをつけるとしましょう。で、時々「私はカツラなんですよ」と告白する。
「私AV女優なんです」という告白は、それに近くないか?
「うん知ってるよ、バレバレじゃん」みたいなものから、「へぇ、カツラなんですか、全然見えないですね」というものまでいろんな反応が考えられるだろうけど、でも「カツラだ」と告白された時の反応のしずらさは、された経験はないけど想像するだけでもなかなか難しいだろうなと思います。
「AV女優なんです」という告白も、それに似て反応に困るだろうな、と思います。
僕は別にAV女優が賎しい職業だとは思っていません。プロ意識のないAV女優はともかくとして、森下くるみのような、プロ意識がきっちりあって、しかもその業界でトップにまで上り詰めたような人は、僕なんかよりずっと凄いと思うし、普通にサラリーマンなんかやってる人より全然素晴らしいと思います。
だから僕としては「AV女優なんです」という告白をされたら、そういう考えを伝えたいんだけど、でもそれってなかなか伝えるの難しいと思うんだよなぁ。相手がその言葉を素直には受け取ってくれないだろうしね。だから反応に困るだろうな、と思います。まあそんなことを考えました。
あととにかく印象的だったのは、白いウンコの話しです。AVの企画物の中には、精液を100人分ぐらい飲むみたいなものもあるんだけど、精液に当たって腹を壊したりするらしいし、排泄される時は白蛇みたいに真っ白なウンコになるそうです。すごい話ですね。
まあそんなわけで、なかなか面白い作品だと思います。文章もきっちりしていると思います。価値観みたいなものも結構普通の人とは違っていて面白いんじゃないかなと思います。読んでみてください。

森下くるみ「すべては「裸になる」から始まって」

トゥイーの日記(ダン・トゥイー・チャム)

やがて進路を決めなくてはならなくなると、志保は迷わずその著者が教授として在籍している大学に進路を絞った。高校の先生からは、お前の実力ならもっと高いレベルの大学を狙える、と何度も言われた。進学校だったから、学校全体の実績に関わるような話だったのだろう。当時もそういった事情はもちろん理解出来たけれど、他の大学はまったく選択肢になかった。既に離婚していたお母さんも、家から電車で通える距離にある大学だという理由で喜んでいた。
念願かなって入学した大学で、志保はこれ以上ない、というぐらい真面目に講義を受けた。初めの二年間は教授が受け持つ講義を受けることは出来ないと知って一旦は落胆したけれど、教授が担当しているゼミが農学部一人気のあるゼミだと知って、志保は真面目さをとり戻した。授業はすべて最前列で受け、講師の声を聞き漏らさないようにしながら、同時にノートもきっちり取った。分からないことがあれば講義終了後に質問に行き、様々な理由をつけて教授の元へと通った。

「失踪シャベル 2-3」

内容に入ろうと思います。
まず本書がどういう経緯を経て出版されたどんな本なのかということを書きましょう。
本書は、ベトナム戦争に医師として志願したとある女性の、戦場で綴った日記です。
さて、そんなものがどうやって表に出てきて、しかも最近出版されることになったのか、という話がまずなかなかドラマチックなので、その話を書きましょう。
フレッド・ホワイトハーストというアメリカ人が、この日記を保管し、最終的にトゥイーの家族に届けました。フレッドは、9・11のテロ事件におけるFBIの捜査の無能っぷりに憤慨し、内部告発者として有名になったようですが、そんな経緯もこの日記と多少関わっていきます。
フレッドはベトナム戦争当時、軍の情報部に所属していました。彼の仕事は、収集した資料を調査し、軍事的に価値のないものについては処分することでした。
ある日いつものように処分をしていると、通訳をしている軍曹が、
「フレッドそれは焼くな。それ自体が炎を出している」
と、あるノートを差していいました。そこでフレッドはそのノートを保管することにしました。
通訳である軍曹は、そのノートの内容をフレッドに話して聞かせました。それはベトナム戦争に医師として志願した一人の女性が遺した日記でした。フレッドは、
「人間対人間として、私は彼女と恋に落ちた」と後に述べたようで、その日記に心を奪われてしまいました。
軍の任務を終え、1972年にベトナムを去る時、フレッドは軍の規則に反し、日記を家に持ち帰りました。その後フレッドはFBIに入ることになるのですけど、日記はフレッドの家にあり続けました。家族の元に返したいと思っていたのだけど、FBIとしての立場から、身動きが取れなかったのです。
しかし、先述した9・11の捜査の内部告発によってFBIを退職したフレッドは、改めて日記について考えることになり、そしてついに家族を見つけ、日記を家族の元に返すことが出来たんだそうです。
この日記は2005年にハノイで出版されたようですが、とんでもなく売れたようです。5000部以上売れる本がほとんどない国で、この日記は43万部も売れたんだそうです。人々が何よりも共感したのは、その日記がごく普通の女性の日記だった、ということです。これまでも戦争中に書かれた日記が出版されることはあったようですけど、教科書のように祖国を救った英雄として描かれているものばかりだったようですが、トゥイーの日記はそれらとはまったく違い、恋に悩み、任務に奮起し、革命に燃え、現状に悲観しつつも前向きに進もうとする、一人のごく普通の女性の日記だったわけです。
そんななかなかドラマティックな過程を経て出版された日記です。
内容としては、戦時中ということを除けば、日記によく書かれることが扱われています。戦争のことはもちろん、家族のこと、診療のこと、党のこと、革命のこと、そして何よりも恋のことなどが書かれています。
トゥイーは、戦闘のかなり最前線に近いところにいたようですけど、何故そこで医師として働くことを志願したのかというと、もちろん愛国心もあるのだけど、それ以上に、Mの存在が大きかった。Mというのは、同じハノイ出身の6歳年上の男で、トゥイーはこのMという男に恋をしていたのだった。Mはいろいろな過程を経てベトナム中部でゲリラ部隊に参加することになったようで、それを追うようにしてトゥイーは医師として最前線に行くことを決意したわけです。
実際にトゥイーの日記はもっと前から綴られていたようですけど、その前の日記はどうやら紛失しているようなので、日記はクアンガイという場所についてから1年後という日付から始まっている。
その時点では、もうMとの関係は何らかの形で終わりを迎えていたようです。人に読ませることを前提として書いている文章ではないので何が起こったのか正確にはよく分からないのだけど、Mとトゥイーの心にすれ違いというかズレみたいなものがあったようで、それでトゥイーはMのことを諦めているというようなところから始まるわけです。
トゥイーは、周りの兵士に可愛がってもらいながら、一方で悲惨な現実に何度も直面し、心を痛める。その一方で、周囲の男性への友達以上の感情が少しずついろんな方向に伸びていって、トゥイー自身にも収集がつかなくなっていく。党に入って指導者としてこの身を捧げたいと考えているのだけど、まずなかなか党に入れてもらえない。手術がうまくいかず命を落としてしまう患者さんもいる。そういう中でトゥイーは、落ち込みそうになる気持ちを、日記の中で自分を叱咤することで立ち直らせようとしている。
大体そんな感じの日記です。
本書は、その存在意義は実に大きいと思うわけです。戦争時、ごく普通の女の子が書いていた日記なんて、僕は読んだことないですけど「アンネの日記」並に貴重だと思うんです。こういうものが存在し、世の中に広まっていくというのはいいことだと思います。
しかしその一方で、残念ながら読み物としてはさほど面白くはありません。もちろん、人に読まれることを想定していない日記なわけで、面白いもつまらないも本来はないんですけどね。僕だって、例えば誰にも見せるつもりがなく書いている日記があったとして、それを誰かに勝手に読まれて「つまんねー」とか言われたらムカツキますもんね。だから、読み物としてつまらないことを責めたりするつもりは特にはないんです。ただ事実として、読み物としてはあんまり面白くはないな、と思いました。
何せ日記なわけで、自分さえわかればいいわけです。起こった出来事を伏せたまま自分の感情だけ書いてみたり、誰だかわからない人が突然出てきたりと、そういう部分は結構ありますね。どうしても読んでいて、退屈だなぁという感じがしてしまいました。
ただ、文章を書きながら自分を鼓舞したりする場面が結構多くて、そういう部分を読んでいると、なんとなく共感出来ることがあります。
僕もこうしていろいろと文章を書いていますけど、何かを頭の中で考えることと、考えたことを文章にすることって、やっぱり決定的に違うんですね。
頭の中だけで考えている場合、うまく表現できないけどこういうこと、みたいなすごく漠然としたままで終わってしまうことが多いんですね。別に誰かに説明したりする必要がないので、頭の中できちんと言葉にする必要がないんです。でもやっぱりそれだと、考えたことをすぐ忘れちゃうし、自分の中の蓄積としてもあんまり残らないと思うんです。
一方で、頭の中で考えていることを文章にすると、なるほど自分はこんな風なことを考えていたんだな、と思ったりすることが結構あります。このブログの文章も、あらかじめ先のことを考えて書いているわけではなくて、その時その時で思いついたことをただ書きなぐっているだけなんですけど、そうやって自分の頭の中にあるものを、無理矢理にでも言葉に置き換えてみると、なるほどそんな風に感じていたんだな、と改めて思ったりすることがあります。たぶんトゥイーも、そんな風な効果を狙って、自分を鼓舞するような文章を書いていたんじゃないかな、と思ったりしました。
まあそんなわけで、読み物としてはさほど面白くはないので、読むのをオススメするのはなかなか難しいです。でもこういう本があるんだということを覚えておいてくれるといいんじゃないかな、と思ったりしました。

ダン・トゥイー・チャム「トゥイーの日記」

ラス・マンチャス通信(平山瑞穂)

農学部に通う志保は、小さい頃から植物や花などに興味を持っていた。近くに山や畑などいくらでもある環境で育ったため、外に出てちょっと歩くだけで興味の惹かれるなにかを見つけることが出来た。野菜の収穫を手伝わせてもらったり、男の子のように山でカブトムシを捕まえたりと、自然への興味は尽きることがなかった。
中学生の頃、担任の先生が志保に一冊の本を勧めてくれた。休み時間も校庭の隅に咲いている花ばかり見ているような子どもだったからだろう。その本は、中学生が読むには少し難しい本だったけれど、志保にとってその後の人生の方向を決定づける一冊になった。
著者は、土壌の専門家のようだった。土がいかに植物の生育にとって大事であるか、といった基本的なことから、世界中のありとあらゆる土に触れて回ったという話まで、すべてが志保と捉えて離さなかった。初めは図書館で借りたのだけれど、お母さんにねだって一冊買ってもらい、それからは何度も読み返した。図書館に行けば、同じ著者の作品を探しては片っ端から読んでいった。土壌の話の何がそんなに自分の心を捉えたのか、それは今もって志保には分からないでいるけれど、自分の気持ちが本物だということにははっきりとした自信があった。

「失踪シャベル 2-2」

内容に入ろうと思います。
本書は、日本ファンタジーノベル大賞を受賞した、著者のデビュー作です。
本書は形式としては長編作品なんですが、5つある章を独立の短編として読むことも可能な作品になっています。ただ、あまり深く内容に踏み込んで内容紹介をしたくない作品なので(あんまり内容についての情報がない状態で読み始めた方がいいかなと思うので)、第一章の話を中心にして内容紹介をしようと思います。
僕は両親と姉と、そして「アレ」と一緒に住んでいる。アレは家の中で傍若無人に振舞っていた。障子を破っても怒られず、糞尿をまき散らしても誰も何も言わない。森に通じる裏口から自由に出這入りし、陸魚というとてつもなく臭い生き物をおもちゃ代わりにして遊んでいる。そして時々、姉に対して変態的な行為をしようとするのだ。
家族はみな、アレの存在を黙認していた。アレ自体も垢だらけの身体であり臭いを発する上に、さらに陸魚を使って遊んでいるため、アレがいる時の臭いはそれは凄まじいものがあったのだけど、それでも家族は、アレの存在をないものとして扱うしかなかった。
しかしある時僕は、どうしても我慢することが出来なくて、アレを始末してしまった。
それから僕は、様々な土地を点々としながら生きていく羽目になってしまう。家族とも別れ、施設出だという理由できちんとした仕事にも就けず、社会の底辺に近いあたりでひっそりと暮らしていくことになる。その中で、様々な異形の存在と出会い、関わることになっていくのだが…。
というような話です。
いやー、これはメチャクチャ傑作でしたね。日本ファンタジーノベル大賞のレベルの高さはもちろん知っていましたけど、まさかこれほどすげー作品だとは思ってもみませんでした。まだ1月ですけど、恐らくこの作品は僕が今年読んだ本の中でもかなり上位にランクインされるだろうと思います。
しかし、この良さを伝えるのはなかなか難しいなぁ。読んでいる途中から、これは売ろうと思って、POPの文面を考えたんだけど、そこで思いついたのが、
『違和感と理不尽の狂乱。
ヤベェ、傑作見つけた』
という文章です。大体そんな方向でPOPを作ろうと思っています。
正直、ストーリーは意味不明だったりすることが多いんです。違和感と理不尽が様々に散りばめられていて、しかも、違和感は伏線とかでもなんでもなく最後まで解消されないまま違和感のままであり続けるし、理不尽は生身の人間と異形の存在が醸し出す奇妙な雰囲気と相まって、より一層の理不尽を生み出していくことになります。全編でとにかく、そんな違和感と理不尽が全力疾走しているような作品で、ちょっとついていけない部分も正直ありました。それでも、その違和感と理不尽の持つ力に、吸い込まれていくようにして読まされてしまいます。
それに、世界観が実に素晴らしいなと思います。本作は、独立した短編としても読むことが出来る5つの章に分かれているわけですけど、それぞれの章でかなりいろいろと設定が変わります。その設定が素晴らしい。一番初めはアレと家族との共同生活ですけど、二番目はとある施設と狂ったレストランについて、三番目は灰の降る街、四番目は奇妙な共同生活、五番目は山荘という舞台設定なんですけど、それぞれの設定が実に細かく描かれていきます。特に素晴らしかったのは、三番目の灰の降る街です。この街主人公はある特殊な仕事に従事することになるのだけど、灰が降る街だからこそ存在しうる実に特殊な仕事で、その設定の妙に感心してしまいました。他の設定についても同様で、実に奇妙な設定を、さも現実であるかのように描く力は凄いなと思いました。
しかも何よりも凄いのが、その5つの設定が共通の世界観によって統一されているという点です。5つの話は、もちろん同じ世界を描いているわけだけど、設定がかなり違うわけです。しかしそれを、なるほど同じ世界の出来事だなと思わせる雰囲気が全体としてあるんですね。そういう独特の世界観が素晴らしいなと思いました。
本書の独特の雰囲気は、会話文がまったくない、という特殊な点によっても生み出されているのかもしれません。本書は、文庫本で300ページぐらいある作品なんですけど、カギ括弧に入った会話文が一つもないんです。もちろん会話がゼロということはないんですけど、それは地の文と一緒に処理されている感じで、全体としても会話自体が凄く少ない作品です。ほとんどが主人公の独白というか思考というかそういうもので占められています。会話がないと読みにくそうに思えるかもしれませんけど、全然そんなことはないです。裏表紙に、「カフカ的世界」とか「マジックリアリズム」とか「ビルドゥングスロマン」とかいう言葉が書いてあって、凄く取っつきにくそうなイメージがあるかもしれないけど、全然そんなことはありません。
いやー、しかしこの作品の凄さを言葉で表現するのはほんと難しいなぁ。この著者は、自身が糖尿病になった話を元に小説を書いたりしているらしいんで、いろいろと作品によって作風が違うんだろうけど、でも他の作品も読んでみたくなりました。僕の中では、舞城王太郎や古川日出男並に、とんでもない才能を持っている人なんじゃないかなと思ったりしています。凄い作品に出会ったものです。
というわけで、もしかしたら合わない人にはまったく合わない作品かもしれませんけど、僕は素晴らしく傑作だと思いました。是非読んでみてください。やっぱり日本ファンタジーノベル大賞はすごいな。

平山瑞穂「ラス・マンチャス通信」

わかったつもり 読解力がつかない本当の原因(西林克彦)

どうにか間に合った一限の講義を終え、志保は二限の講義を最前列に近い席で聞いていた。午前中の授業はいつも眠気との闘いなのだけれど、それでも黒板に書かれた文字を必死でノートに書き写す。講師の声が小さいこともあるけれど、講師の言っていることはほとんど耳に入ってこない。去年の今頃、一言も聞き漏らすまいと耳に意識を集中させていたのとは大違いだ、と志保は苦笑した。
志保の通う大学は、県内では一二を争う偏差値の高いところだけど、全国的な知名度はさほどでもない、という大学だった。高校時代の志保の成績はかなりよく、実際もっといい大学を狙うことも出来たのだけれど、志保はあえてこの大学に絞って受験した。
その理由は、かつて読んで感銘を受けた本の著者がこの大学にいるからだ。

「失踪シャベル 2-1」

さて本日二つ目の感想。内容に入ろうと思います。
本書は、文章を読む際に障害となる「わかったつもり」という状態について、何故そうなるのか、それをどう回避すればいいのか、というようなことについて書かれている本です。
まず「わかったつもり」という状態がどんな状態であるのかというと、
『後から考えて不十分だという分かり方』
と本書では定めています。つまり、一読後は、特にわからなかったところもなければ、これ以上深く読もうと思えるような箇所も特にない、という状態です。
この状態こそ、読解力における最大の障壁だと著者は言います。
例えば、何かよく分からない文章があったとしましょう。例えば、「相対性理論」をヤフーの辞書で調べるとこんな文章が出てきます。
『光速度がすべての観測者に対して不変であることと相対性原理に基づいて、互いに等速運動する観測者どうし(慣性系)に対して、電磁気学を含むすべての物理法則が同じ形で成立することを定式化したもの。』
さてこの文章の意味が分かるでしょうか?物理をやっていない人にはなかなか難しい文章だと思います。つまり、「わからない」状態だと言えます。
この「わからない」状態の場合は、「わかる」状態になるための道筋がわかりやすいです。例えば、文中の意味の分からない語句を調べるとか、あるいは物理に詳しい人間に聞くとかです。
その一方で、何か文章を読んだ時、「わかった(実際はわかったつもりなのだけど)」と思った場合、そこからさらに深く読むことはなかなか難しいものがあります。文章中に難しい語句があったわけでもないし、内容的に理解出来なかった部分があるわけでもない。そんな文章を読むと、大抵の人は「わかった」と思うのではないかと思います。
しかしそれは、実際には「わかったつもり」という状態なわけです。文章を細かく見ていったり、あるいは新たな文脈を設定して読み直したりすることによって、読み飛ばしていた部分、間違って解釈していた部分、文章全体の印象に引きずられていた部分、などに気づくことが出来るわけです。
本書はそんな、文章を読む上で最大の障壁になる「わかったつもり」という状態の存在を明らかにして、いかにそれを打ち破っていくのか、というようなことについて書かれている本です。
この新書は今ものすごく売れてるんですけど、なるほど確かにかなり面白い内容だなと思いました。生きている限り、文章を読んだり(メールや契約書)書いたり(報告書)といったことを避けることが出来ない以上、本を読む読まないに関係なく、あらゆる人が読むべき本だなと思いました。
特に僕は高校生以下の人達に読んで欲しいですね。本書の巻末に、日本の国語の授業やテストについての章があります。そこでは、多くの人が日本の国語教育に疑問を違和感を覚えていながら、その違和感の正体をはっきりとは掴めていないという現状が触れられ、またそこで、本書で示唆してきた内容を使うことで、現状行われている国語教育とはどういう立ち位置のものなのかというのが解説されます。僕はそれを読んで、なるほど国語の試験というのはこういう風に作られていて、こういう風に解けばいいのか、と目からウロコが落ちるようでした。僕はホント国語の授業とか意味不明だったし、国語のテストとか全然解けなかった人間でして、国語って意味わかんねえなぁとずっと思っていました。僕は、「小説なんか読む人間それぞれの解釈でいいじゃん」という風に思っていて、その一方で「小説は作者が意図したことが唯一の解釈」と思っている人もいるみたいなんですけど、本書の著者は、そのどちらについても否定します。文章というのは、整合性が取れる範囲で解釈の余地のあるもので、整合性の取れていない解釈は破棄されるべきだ、と考えているわけです。なるほど、高校時代にこういうことが分かっていたら、もう少し国語のテストでいい点取れていたような気がします。
本書では、実際に様々な文章を引用して、それを例として使うことで話を進めて行くわけなんですけど、やっぱり一番衝撃的だったのは、「正倉院とシルクロード」という、小学六年生の教科書に載っていたちょっと長い文章についてのあれこれです。小学六年生用の文章なので、もちろん言葉の意味や文章の構造と言った点で理解できない部分があるわけではありません。でもこの文章を読んだ後で、本書の著者が設定した問に答える時に、自分がいかに「わかったつもり」という状態に陥っているのかということが理解出来るんです。これは大学生に対しての実験だったようですけど、きちんと読めている人も二人ほどですがいたようです。僕もそういう、一読できちんと読める人間になりたいものですけど、難しいでしょうね。ほんとに、読む力がないなと思いました。
たぶん悪いのは、小説をたくさん読もうと思って、つい1冊を早く読んでしまおうと思ってしまうところにあるんだと思います。それに、同じくたくさん読みたいために、同じ本を繰り返し読むということもほとんどしません。だから、読みが深まらないんだろうなと思います。まあでも、やっぱりたくさん本を読みたいことには変りないんで、読書のスタイルを変えるつもりはないんですけどね。
ちょっとセンター試験の国語の問題とかやってみたくなりました。あるいは、一度読んだ本を10回くらい読み直してどこまで深く読み取れるのかやってみたくもなりました。たぶん僕のように、1冊の本をさらっと読んで再読しないような人間には、読解力はあんまり身につかないんだろうなと思います。まあそれはそれで仕方ないかなとも思いますけど、一読できっちりと文章を理解出来る人が羨ましいなとも思いました。
とにかく本を読む読まないに関わらず、読んだ方がいい作品だと思います。「わかったつもり」を脱するのはかなり難しいですけど、ただ、自分が「わかったつもり」という状態にいるのだということを認識するだけでも充分に意味はあると思います。是非読んでみてください。

西林克彦「わかったつもり 読解力がつかない本当の原因」

23分間の奇跡(ジェームズ・クラベル)

リビングに戻り、冷め切ってしまったご飯にラップをかけて冷凍庫に入れた。新しくよそったご飯を食べ、歯を磨き、着替え、軽く化粧をした。そうやっていつもの朝の動作を繰り返すことで、自分の中のリズムをとり戻そうとした。完全にとはいかないけれど、走った後の心臓が徐々に落ち着くようにして、志保は自分の生活をとり戻しつつあった。志保はもう、マルイさんを失って泣いていた子どもの頃の自分とは違う。大人になって純真さを失ったことが、自分を守ってくれているように感じられた。
家を出る前にもう一度バッグの中にシャベルが入っているかどうか確認して、志保は玄関を出た。出てしまってからそういえば今日は土取りの日だったと再度思い出して、鍵を閉めようとしていた手でドアノブを掴んだ。スカートをジーンズに替えて、クローゼットの奥からジャージの上着と軍手を取り出して、玄関に向かった。いつもの電車には間に合わないけれど、なんとかぎりぎり一限には間に合うだろう。朝の空気を思い切り吸い込みながら、志保は何かに闘いを挑むかのような気持ちで、駅までの一歩を踏み出した。まるで鎧を着ているかのように、その足取りは重かった。

「失踪シャベル 1-11」

内容に入ろうと思います。
本書は1冊の文庫本という形態で出版されていますけど、内容としては短編が一つしか収録されていません。英語の原文を一緒に載せていたり、字組をいろいろと膨らませるように構成しているので1冊の文庫本という体裁になっていますが、普通の文庫と同じような体裁にした場合、40ページくらいの短編ではないかなと思います。
舞台は、敗戦国であり他国に占領されてしまった国の学校(たぶん小学校)における、午前9時から9時23分までの出来事を描いた作品です。
その日教室には、新しい先生がやってきました。これまでの先生は泣きながら追い出されてしまいます。生徒の一部は、新しい先生を信じまいと決めるのだけど、新しい先生はたった23分間で生徒の心を掴み、考えを変え、新たな価値観を植えつけることに成功してしまいます。
さて新しい先生は、一体何を教え、生徒達は何故23分間で変わってしまったのだろうか…。
というような話です。
話としては実に単純ですけど、実に奥が深い話だなと思いました。
本書の著者が本書の構想を思いついたのは、娘が学校で習ってきたあることがきっかけだったようです。
ある時娘が、国旗に忠誠を誓うのよ、と言ってなにやらもごもごと言い、その後手を出してきます。10セントくれ、というのです。なんでも先生が、この国旗への忠誠を間違えることなく言えれば、親が10セントくれるでしょう、と言ったのだそうです。
そこで著者は、娘に10セントあげるわけですけど、同時にこう聞きます。
「忠誠を誓う、という言葉の意味を知っているかい?」
娘は答えられませんでした。こんな難しい言葉を、先生は意味も教えずに暗記させているのか。
その想いが生まれた瞬間、この作品は誕生したようです。
その国旗についての問題は、作中でも扱われています。国旗に忠誠を誓う言葉を口に出す生徒は、しかし国旗に忠誠を誓うことの意味を知りません。新しい先生はそこを突いて、生徒にある形で国旗を扱わせることになります。
また、神に祈る、という話も出てきます。これもなかなか示唆に富んでいます。新しい価値観を打ち破ることは、かようにも容易なのかと驚かされます。
本書を読むと、教育というものに対して不安を感じる親は多いかもしれません。教わる内容が正しいかどうか、あるいはそれまで教わってきたことと整合性があるかどうかに関わらず、教師から教わったことをそのまま吸収してしまう子どもに対しては、もっと教育というものを見つめ直さなくてはいけないのかもしれません。
もちろん、現代の日本の子どもに、本書と同じやり方で同じような効果を生み出すことが出来るとは思えません。でもそれは、本書のやり方が通用しないというだけであって、現代に適したやり方でやれば、本書と同じような効果を生み出すことはさほど難しくないのだろうなと思います。
僕は読んでいて、この新しい先生が良い先生なのか悪い先生なのかよくわからないなという感じがするんです。他の人はどう思うのでしょうか。分からないことがあったら聞いてほしいと言うとか、生徒の名前を覚えてきたりだとかというような点では実に良い教師です。しかしその一方で、戦勝国の都合の良いように洗脳するために、いろんな手を打って子どもたちの価値観を変えようとするし、これまでの先生を追い出す時も冷酷です。良い先生の部分も、洗脳をうまく実行に移すための演技なのかなと思えたりしてしまいます。難しいものです。
まあそんなわけでして、深読みしようと思えばいくらでも深く読むことが出来る、そんな作品だと思います。すごく勧めるわけではないですけど、すぐ読めるんで、機会があったら読んでみてください。

ジェームズ・クラベル「23分間の奇跡」

メイン・ディッシュ(北森鴻)

「そういえば今日は土取りの日だった。案外ラッキーだったかも」
そういって志保は、マルイさんの隣に置かれているシャベルを手にとり、シャベル専用の袋にしまってバッグに入れた。元々真っ赤だったそのシャベルも、今では塗装が剥げ、錆が浮いた、ところどころまだらに赤くなっているだけの代物になっていた。大人になった志保の手には小さすぎるそのシャベルは、子どもの頃からずっと使い続けているものだ。自分の手ばかりがどんどん大きくなるのに戸惑いを感じながら、ずっと使い続けてきた。時々、自分の身体の一部なのではないか、とも思えてくる。もしこのシャベルを失うようなことがあったら、片手を失ったような気持ちになるのではないかと思う。
昨日までとあらゆることが変わってしまった朝を、志保は乗り切らなくてはいけなかった。志保までが、その変化に囚われて灰色になってしまうわけにはいかない。志保には志保の生活があるし、志保には志保の朝がある。マニュアルを見ながら機械を操作するようなもどかしさはあるけれど、志保はなんとかして自分の朝を取り戻すことにした。

「失踪シャベル 1-10」

内容に入ろうと思います。
本書は、プロローグやエピローグを除いて、9編の短編が収録された連作短編集です。
大枠の設定をざっと書いておきます。
小杉隆一という座付き作家とともに小さな劇団を運営している看板女優・紅林ユリエ(ねこ先輩と呼ばれている)は、奇妙な同居人と一緒に暮らしている。みんなからミケさんと呼ばれている三津池修というその男は、なんでもない食材を使って奇跡的な料理を生み出す一方で、周りで起こるちょっとした謎を解決する奇妙な才能も持っていた。しかしその三津池修も、どうやらワケありの男なようで、その素性は謎めいたままなのだ。ミケさんの作る料理を堪能しながら、身近で起こる不思議な事件を解決し、その一方でミケさんの過去が少しずつほどかれていく…。

「ストレンジテイスト」
小杉隆一は原稿を書くのが遅いことで有名なのだけど、その時も劇団は大変な事態に陥っていた。初日を10日後に控えた今、小杉は原稿をまったく書けなくなってしまっているのだ。ミステリ自立てに仕上げた作品なのだが、最後が書き上がらない。ラストが気に入らないから進まないというのだ。
そこでユリエの家にメンバーを呼ぶことにしたのだ。ミケさんの料理は魔法のような力がある。そこでミケさんが小杉に台本のどこがまずいのか聞いていき、なんとミケさんは小杉が考えてもいなかった『真相』を見出してしまう…。

「アリバイレシピ」
大学時代、ほとんど一緒につるんでいた五人の一人である泉谷伸吾からちょっと集まれないかという手紙をもらった滝沢良平。なんでも、大学時代に起こった事件の解決をしたい、というのだ。
それは、ワンコインディナーに関わる事件だった。金がなくなると五人のメンバーは、メンバーの一人であった恩田徹也に500円を渡し、恩田が作る特製のカレーを食べたのだった。
ある時そのワンコインディナーに、紅一点だった伊能由佳里が来なかったことがある。そこから、五人の仲間がその後集まらなくなるきっかけになった出来事が発覚するのだが…。

「キッチンマジック」
ユリエが、街で頻発しているバイクでのひったくりの被害者になってしまった。その時警察の厄介になったのだが、後日また警察がユリエの家までやってきた。
どうやら劇団の面々とミケさんの料理を食べている日、ユリエのマンションの下で殺人事件が起きていたようで、何か物音を聞かなかったか、というのだ。その日は何故か、ミケさんがちょっとしたミスをした日でもあり、それは違和感があったのだけど、事件についてはまったく…。

「バッドテイストトレイン」
滝沢良平は開けてもいない駅弁を前にして、電車の座席に座っていた。そこに、三津池修と名乗る、駅弁好きの男が声を掛けてきた。
駅弁についてのうんちくをあれこれ語ってくる奇妙な男で、別に不快ではなかったが違和感は拭えなかった。
しかししばらくすると滝沢は、別の違和感に気づくことになる。滝沢がいる車両の前後で、明らかに乗っている人の数が違うのだ。滝沢がいる座席周辺はがらがらなのに、もう半分はかなり埋まっている。これはどういうことだろう…。

「マイオールドビターズ」
小杉隆一が怪しい話を持ち込んできた。ビア樽をモチーフに使ったミステリ自立ての劇が好評だったのだけど、それを信州の資産家が自分ひとりで鑑賞したい、報酬は200万円出す、というのだ。完全に怪しい、と思いながらも、ユリエら一行は信州くんだりまで行くことになったのだ。
講演終了後、小杉がとんでもない推理を披露して、メンバーは慌てて指紋を拭きとって帰ろうとするのだが…。

「バレンタインチャーハン」
ユリエがミケさんから教わったチャーハンを作って雑誌に載った後、その担当編集者がユリエのところに泣きついてきた。どうやら謎めいた脅迫文みたいなものが来ているというのだ。それは、そのチャーハンの撮影をした日の日付のみが書かれている手紙で、それがもう何通も送られてきているという。
撮影したチャーハンは、別撮りしたらしい付け合せのスープなんかと一緒に写っていたのだけど、なんだか微妙に違和感のある写真で、それは気になっていたのだけど、撮影自体は問題はなかった。一体この嫌がらせは何なのか…。

「ボトル”ダミー”」
ミケさんが漬けていた梅酒をみんなで飲んでいる時、劇団の一部の人間は、以前あったとある出来事の真相に思い至った。
それは、夏毅組というアングラ劇団で相当注目を集めていた劇団に起こった出来事だった。
座付き作家である松浦の遅筆ぶりは有名で、その日も公演初日だというのに、まだ最後のシーンの脚本が上がっていなかった。さすがに遅いということで人をやり呼びに行かせると、松浦は自殺していたという。
松浦とともに劇団を立ち上げた看板女優でもある夏樹裕美は、松浦の死を隠して初日の公演をやる決断をした。
梅酒を飲みながら、当時その出来事に関わっていたメンバーは、真相に思い至ることになる…。

「サプライジングエッグ」
この作品は、まあ諸事情により内容紹介を省きます。

「特別料理」
小杉がとんでもない顔をしてユリエの部屋までやってきた。ミステリ作家としてデビューした小杉であるが、今とんでもない状況に置かれているというのだ。
それは、解決編を考えないままでミステリの問題編を雑誌に掲載してしまった、というのだ。
どうしたらいいのか分からず、謎解きに奇妙な才能を持つミケさんの元にやってきたのだった…。

というような話です。
正直そこまで期待しないで読み始めたんですけど、なかなかよく出来た面白い作品だなと思いました。
本作は連作短編集でして、正直なところ一つ一つの短編だけを取り出せば、さほどどうということのない作品です。短編それぞれだけで見れば、本書よりもレベルの高い短編はいくらでもあるし、一応それぞれミステリ仕立てになっているんだけど、ミステリ的にそこまで斬新かというとそういうわけでもありません。
ただ、連作短編集として全体を見た時に、非常に完成度の高い作品だなと思うんです。
一つ一つの短編が、少しずつ繋がっていくんですね。本書では、どういう風に繋がっていくのかという部分を敢えて書かないで内容紹介をしているんで(やっぱりそこに触れたらダメでしょうね)、僕の書いた内容紹介を読んでもその辺りのことはよく分からないでしょうけど、全体としてのまとまりがかなり秀逸だと思いました。独立した短編としてもきちんと成立させる一方で、全体としても一つの大きな流れを作って長編のような仕立てにしていて、そういう技巧的な面で本書はなかなか秀逸だと思います。
どの作品も、謎解きの部分に必ず何らかの形で料理が関わっていくんです。その設定も凄いなと思いました。謎解きのメインの部分に関わらない形で料理を作品に組み込むだけならなんてことはないですけど、本書の場合、料理が謎解きの中で非常に重要な役割を果たすんですね。そういう作品をいくつも考えるのは大変だろうし、しかもそれを全体で一つにつなげなくちゃいけないんだから、より高度な技術を必要とするだろうなと思いました。
本書でかなり重要な役割を果たすのが、小杉隆一という座付き作家ですね。この小杉は、毎回毎回勘違いの推理を展開して状況を引っ掻き回すみたいな役回りなんです。ちょうど京極堂シリーズの榎津みたいなキャラですね。小杉の珍推理に振り回されながら解決に向かっていくという流れがかなり踏襲されていて、ここまで形を統一させるのは難しかったのではないかなと思います。
あとミケさんのキャラが実にいいですね。経歴とかはかなり謎めいた感じなんですけど、まず料理がうまい、そして天然というかどうでもいい部分で鈍感というかそういう抜けている部分もいいし、でも推理の時には異常な冴えを見せるところもなかなかいいなと思いました。小杉とミケさんのキャラがかなり面白いと思います。
話としては、一番初めの「ストレンジテイスト」が印象的でした。これは、台本に行き詰まった小杉に対して、ミケさんがその台本に新たな解釈を付け加え小杉の停滞を解消するという話なんですけど、設定が面白いなと思いました。小杉自身が考えてもいなかった『真相』をミケさんが暴いてしまうわけで、面白いですよね。しかももちろんその『真相』を見抜く過程で料理が大きな役割を果たすわけです。これは秀逸だなと思いました。
あと「バッドテイストトレイン」で触れられる、池波正太郎のエッセイについての新解釈(もしかしたら著者独自の新解釈なのではなくて、どこかでもう既に指摘されていることなのかもしれないけど)が面白いなと思いました。店を取られた洋食屋の店主が、なぜどんどん焼きの屋台を始めたのか、という謎解きが出てくるんだけど、なるほどもしかしたらそういうことだったのかもしれないな、と思わせる解釈で面白いなと思いました。
まあそんなわけで、なかなかレベルの高い作品だと思いました。しかもライトなミステリなんで、軽く読める作品です。読んでみてください。

北森鴻「メイン・ディッシュ」

魚舟・獣舟(上田早夕里)

「お母さん、いなくんなっちゃったんだけど、どうしたらいいかな」
子どものときに作った、決してうまいとはいえないマルイさんの表情だけど、話しかける度に微妙に変わっていくような気がした。気のせいだろうけど、こんな小さな変化しか見せられなくてごめんね、とマルイさんが言っているようにも感じられるのだった。
「そういえば今月、マルイさんの供養だね」
猫のマルイさんがいなくなってから毎年、その時期に供養をするようにしている。頭の中では様々な姿を見せてくれるマルイさんだけど、もう生きてはいないだろうという現実はきちんと受け止めている。人は、現実ばかりでは生きていけない。志保も、現実を包み込むオブラートを探しながら毎日生きている。

「失踪シャベル 1-9」

内容に入ろうと思います。
本書は、5つの短編と、1つの中編が収録された作品集です。

「魚舟・獣舟」
ほとんどの地上が水没してしまった地球では、海上民と呼ばれる種族が生まれていた。魚舟と呼ばれる巨大な魚の背で生活する民族で、主人公も海上民だったが、わけあって地上での生活を選び、今は獣舟を駆除する仕事についている。
獣舟というのは、いろんな事情によって魚舟が変化したものだ。地上を荒らすため、害獣として駆除されている。
主人公が担当している区域に、かつて海上民として一緒に暮らしていた美緒がやってきた。獣舟を殺すのを止めてくれと…。

「くさびらの道」
九州地方で突如発生したオーリ症という奇病が、日本を危機に陥れつつあった。身体中を茸に乗っとられてしまうその病気は、感染すれば100%死ぬ。しかも、オーリ症によって死んだ後はさらに特殊な事態が待ち受けているのだ。
主人公の家族がオーリ症に掛かって死んだ後、いろいろ伝手を辿って主人公はなんとか立ち入り禁止区域内にある実家へと戻ることが出来たのだが…。

「饗応」
出張で泊まろうと思っていたホテルが予約のミスでうまっていて、同じ系列のグレードの高いホテルに泊まることになった。そこの部屋の外にある、庭園と言っていいところにある露天風呂に入るのだけど…。

「真朱の街」
妖怪が現れるようになった街で、主人公は子どもを連れ去られてしまう。取り返すべく、主人公は百目と呼ばれる妖怪の力を借りることになった。主人公は、かつて自分が行っていた実験を思い出し、後悔するが…。

「ブルーグラス」
音に反応して観葉植物のように成長するオブジェ、ブルーブラス。かつて主人公は、付き合っていた女性との思い出の詰まっていたそのブルーグラスを、ある海の海底に沈めた。
その海域が保護ドームで覆われてしまうと知った主人公は、なんとなしにその思い出のブルーグラスを回収しようと海に潜るのだけど…。

「小鳥の墓」
死にたいと心の底では思っている女性を敏感に見つけては、殺す手助けをしてあげている主人公。かつてダブルEと呼ばれる実験都市に居住していた。
そこは、危険なものを排除し、子どもを健全に育てるために作られた都市だった。主人公はそんな街のあり方に違和感を覚えながら、仮面を被ることで毎日をやり過ごしていた。
ある時、ほとんど話たことのないクラスメート・勝原から、ダブルEの外に出ないか、と話を持ちかけられる。なんとなく話に乗った主人公だったが…。

というような作品です。
本書は、SFというモチーフを使った文学作品、という感じがします。僕のイメージでは、文学作品というのは、今僕らがいる世界における人生や価値観など様々なものを描き出すものだと思うんだけど、本書は、SF的な未来世界における、その世界の中での人生や価値観など様々なものを描き出した文学作品だなと思いました。普通SFというと、タイムトラベルがどうとか量子力学がどうとか宇宙船がどうとかっていうものを出してきて、それで壮大な世界観を描くというものが多いけど、本書はそういう感じとは全然違います。世界観の設定の中にSF的な要素を組み込み、その世界の中で人間がどう生き何を考えどう感じるのかを描いた作品だという感じがします。そういう意味で、SF作品と呼ぶと語弊がありそうな気がします。
本書は、たぶん世間的には(というかSFの世界では)すごく評価が高い作品なんだと思うんだけど、僕にはあんまりという感じがしました。たぶんこれは、僕に合わなかった、というだけだと思います。作品のレベルや作者の力量は感じられました。僕の趣味に合わないんだろうなという感じです。
たぶんその理由は、どれも短編で短いからだと思うんです。
SF的な作品の場合、まずその世界観を描くのに枚数が必要です。僕らの生きてる現代を描くなら、省略出来る部分はたくさんあるけど、SF的な設定の作品だと、書かないと分からない部分がたくさん出てきてしまいます。その制約の中で、短編としてまとめようとすると、どうしてもストーリーの部分が弱くなってしまうのではないか、というのが僕の分析です。
「魚舟・獣舟」という表題作にしても、世界観の設定は実に面白いと思いました。何故魚舟なんて存在があって、それが獣舟に変化してどうなってしまうのかという設定が、人類の存在みたいなものを密接に結びついていて、よくこんなこと考えたな、と思いました。ただやっぱり、その世界観には強く惹かれたのだけど、肝心のストーリーが僕には弱いと感じられてしまいました。同じ世界観でもう少し長い作品であれば、もしかしたらよかったのかもしれません。ただ解説によれば、この「魚舟・獣舟」の世界観を踏襲した長編が出るとかで、ちょっと注目してみようかなと思います。
短編だから云々という理由を踏まえると、本書で最後に収録されている中編「小鳥の墓」なんかは割とよかったなと思います。SF的な要素は結構薄いけど(どうやら、デビュー作である「火星ダークバラッド」と繋がりのある作品のようですけど)、何故主人公がそういう生き方を選択しなくてはならなかったのかという部分がよく描けていると思うし、ダブルEという実験都市の奇妙さやそこに隠された真意なんかもうまく出きているなと思いました。
というわけで、本書は確かに作品としてのレベルは高いと思いましたけど、短編だったために僕にはあんまり合わなかったようです。この著者の長編(たぶんデビュー作の「火星ダークバラッド」だけだと思うけど)を読んでみようかなとちょっと思っています。
まあそんなわけで、僕としては強くオススメは出来ないですけど、作品としてのレベルは結構高いと思います。気が向いたら読んでみてください。

上田早夕里「魚舟・獣舟」

タイム屋文庫(朝倉かすみ)

ベランダを出て自分の部屋に戻り、ベッドの脇の机に座った。机の上には、いつもマルイさんとシャベルを並べて置いてある。机の上のマルイさんは、志保が自分で作った猫のぬいぐるみだ。猫のマルイさんがいなくなってから、生き物を飼うことが怖くなった志保は、お母さんに教えてもらいながら、このマルイさんを作った。ぬいぐるみは、体温はなかったけど、決して死なないという安心感が嬉しかった。今だったら、もっとちゃんとしたぬいぐるみを作れるだろうけど、猫のぬいぐるみはマルイさん以外作らなかった。これからもきっと作ることはないだろう。
「お母さんは、何か大事な約束を思い出しちゃったんだって」
志保はよくそうやって、マルイさんに話しかける。もちろん返事は返ってこないのだけど、それでも志保はマルイさんと会話をしているような気になれた。不安だったり、困っていたり、焦っていたりする時は、いつだってマルイさんに相談したし、嬉しいことや楽しいことは大抵マルイさんに報告した。お母さんがスナックで働くようになってから会話の途絶えたこの家の中で、マルイさんは志保の唯一の話し相手だった。

「失踪シャベル 1-8」

内容に入ろうと思います。
市居柊子は、祖母の死を契機として、仕事を辞めた。祖母が死んで誰も住む者がいなくなった家に移り住み、そこで貸本屋を開くことを思いつく。
時間旅行に関する小説しか置いていない貸本屋である。
高校生の頃柊子は、吉成くんという男の子と一度だけデートをしたことがある。純情だった柊子は、デートの最後に「ケッコンとかしてくれませんか」と言って引かれてしまう。その吉成くんが、「タイムトラベルの本しか置いていない本屋があったらいいな」と言っていたのを唐突に思い出したのだ。
柊子は、自宅を少し改築し、喫茶店を始める許可を保健所からもらい、近くのレストランでコーヒーの入れ方を習ったりしながら、開店に備えた。
そして柊子は「タイム屋文庫」という名の貸本屋を開くことになる。たった一人の客、吉成くんを待つために。
というような話です。
この作品は、どうしても僕には合わなかったです。読み始めからずっと、どうしても文章とか世界観に入り込めなくて、その感じが結局最後まで続きました。設定とか登場人物のキャラとか、それなりに面白いと思うんだけど、どうしてでしょう。
「武士道シックスティーン」という作品を読んだからというわけでもないけど、時々、読書というのは剣道に似てるなと思うことがあります。
剣道というのは、詳しくはしらないけど、心技体が一体になっていないと一本とは認められないわけです。技が入っていたとしても、心と体がダメなら一本ではないんですね。
読書も似てるのかもしれないと思います。
読書の場合、技に当たるのが作品そのものでしょうか。作品そのものがよくても、読んでいる側のその時の心や体がその技と一体化していなければ、面白いと感じられないのかもしれない、とか思います。
別に今悩みがあるとか気持ちが落ち込んでるとか、そんなことは全然なくて、いつもの感じなんだけど、でもなんだろう、言葉にはうまく表現できないような微妙な機嫌とか気の持ちようみたいなものが、作品を読む姿勢みたいなものに影響を与えていて、それで良い作品を読んでも面白いと感じられないということはあるかもしれないと思ったりします。
僕は朝倉かすみの作品は「田村はまだか」しか読んだことがないんですけど、割といい作家だと思っているんです。世間的な評価も高いはずだし。本作の世間的な評価を僕は知らないけど、たぶん割と評価高いんじゃないかなと思うんです。なんていうか、たまたま僕に合わない作品だったか、あるいは僕の方の心や体がたまたまこの作品向きじゃなかったか、どっちかだと思います。
そんなわけで僕としては、ほとんど何も感じることのない本でした。作品自体がマズイのか、僕に合わなかっただけなのかは分かりませんけど、とりあえずあんまりオススメは出来ません。でもこういう作品が好きだという人はたぶんいると思うんで、気が向いたら読んでみてください。

追記)amazonのレビューを見ると、そこまで評価が高いというほどでもないみたいですね。

朝倉かすみ「タイム屋文庫」

ざまぁみろ!(立嶋篤史)

今では、どこか遠くの異国で、食べ慣れないキャットフードを食べているマルイさんを思い浮かべることも出来る。どこかの駅で駅長として人気者になっているマルイさんを思い浮かべることも出来る。もう一度マルイさんに会うことが出来るなら、大事な約束がなんだったのか聞くだろう。そんな光景さえも、ありありと思い浮かべることが出来る。
まだ暖まっていないコンクリートの冷たさを足裏に感じながら、お母さんも何か大事な約束を思い出したのだろうか、と想像した。それは、志保を置いていかざるおえないほど大事な約束だったのだろうか。今はまだ、お母さんがどこかで何かをしている姿を思い浮かべることは出来ない。もう一度お母さんに会えたとして、その時大事な約束がなんだったのか聞く光景も思い浮かべることが出来ない。いつか、お母さんが誰かのぬくもりを感じながら眠りに落ちる姿を、あるいは、ラクダに乗りながら砂漠を旅する姿を、思い浮かべることが出来るだろうか。

「失踪シャベル 1-7」

内容に入ろうと思います。
本書は、キックボクシングの日本チャンピオンにも輝いたことのある、カリスマ的人気を誇ったキックボクサーである著者の、子どもの頃からいかにしてキックボクサーになっていったのかという自伝です。
いやはや、なかなか壮絶な人生を歩んできた人です。
まず、小中学校時代はずっといじめられていたそうです。それで、次第に強くなりたいと思うようになった立嶋さんは、書店で雑誌を読んでキックボクシングと出会います。それから親の反対を押し切ってすぐジムに通い練習を始めます。
高校に行かないでタイ修行に行き、キックボクシングの本場でデビューすることになります。その後同じ年に日本でもデビュー。プロとして活躍するようになって生活が安定したかというと、まったくそんなことがないんですね。
立嶋さんは、とにかくずっと、ファイトマネーの不払いに悩まされることになります。キックボクシング以外の仕事を何もしていない立嶋さんは、試合がないと収入がない。それなのに、試合が終わってもファイトマネーをくれない。ジムの会長がまあとにかく酷くて、たぶん相当搾取してたんでしょうね。立嶋さんは、プロになって、後に全日本のチャンピオンにもなるんだけど、でもとにかくずっとお金がなくて、お金には困る生活を続けていました。お金がなさすぎて、生活費の掛からないタイに逃げることもよくあったようです。
格闘系のプロなわけで、当然怪我とも無縁ではないんだけど、キックボクシングとは無関係の怪我にも見舞われることになります。二度も交通事故に遭うなんて、不幸以外のなにものでもありません。
一度引退みたいな感じになって普通に働くようになったり、離婚して息子を育てていたり、空き巣に入られそうになったりと、まあとにかくいろんな点で散々な目に遭っているんですけど、それでも立嶋さんは常に前向きなんですね。倒れるなら前に倒れたい、とも書いていました。キックボクシングがそもそもメジャーじゃなくて、プロになっても生活していくのが大変だということはもちろん知っていたけど、じゃあ自分がそれを変えていけばいい、と前向きに考えていたみたいです。どんな時でも諦めないし、折れない。この人は本当に強い人なんだな、と僕は思いました。
僕はいつも不思議に思っているんですけど、どうして世間の人というのはまっとうに、あるいはまっとう以上に生きていけるんでしょうか。たとえば僕は、就活は絶対無理だと思っていました。周りでもそんな風に言っている人間はそれなりにはいましたけど、でも結局そういう連中は、いやいやながらも就活を始めるんですね。僕は、始める前から絶対無理だと思っていたので、すぐさま諦めて逃げました。
だから僕なんかは、ごく普通に生きてる人でさえ、よくそんなに前に進んで生きていけるな、と思ってしまうようなヘタレなんですけど、立嶋さんの場合そのレベルが半端ないんで、もう凄すぎてよくわかりません。僕だったら、そもそもいじめられてる段階でもういろいろめんどくさくなってるだろうし、高校に行かずにタイに行くなんて決断は無理だし、死ぬほど辛い減量なんて絶対出来ないし、交通事故に遭ったらキックボクシングやるような気持ちが折れるし、そもそもファイトマネーくれなかったら腹立って辞めるしで、とにかく後向きにしか進めないんですけど、立嶋さんはそういうあらゆる逆境をはねのけて前に進むんですね。すごいなと思いました。
あと、本書で結構長く扱われているのが、減量です。ボクサーにしても何にしてもそうですけど、減量が辛いって言いますよね。僕は本書を読むまで、減量の辛さみたいなものは小説でしか読んだことがなかったと思うんで、実際に減量をやっている人の言葉は重いなと思いました。減量のために立嶋さんが自分自身で編み出したいろんなやり方は、いろいろと凄いです。うんこを見て、どれぐらい出たかグラムで分かるようになるらしいですよ。凄いですよね。
あと本書で印象的なのは、立嶋さんが出会ってきた学校の先生の酷さです。タイに行ったってどうせプロなんかになれやしないんだからと言った先生や、せっかく入った定時制の高校を無理矢理辞めさせた先生まで、まあとにかくいろんな先生がいましたけど、どれも酷いですね。まああんまり書いていないだけで、もしかしたらいい先生との出会いもあったのかもしれないけど、それにしても酷過ぎるなと思いました。立嶋さんは、そういう先生に出会って、ナニクソ!と思えたからこそ奮起出来たわけで、ある意味で結果オーラーだった部分もゼロではないのかもしれないけど、やっぱり普通は子どもの頃にどんな先生に出会うかというのは相当大事なんだなと思いました。
まあそんなわけで、僕は別にボクシングにもキックボクシングにもさほど興味はありませんけど、一人の壮絶な生き方を経験した男の生きざまはなかなか面白かったなと思います。転んでもいいから前を向いて進み続けるその強さが凄いなと思わされます。読んでみてください。

立嶋篤史「ざまぁみろ!」

武士道セブンティーン(誉田哲也)

ひと月経っても、マルイさんは戻ってこなかった。お母さんもさすがに諦めたようだった。ある日お母さんは、マルイさんがいなくなって以来元気のない志保を抱きしめ、こう言った。
「マルイさんはきっと、何か大事な約束を思い出したのよ」
志保の頭を撫でるその手は、いつもより大きくて、そしていつもよりあったかく感じられた。
「今すぐにでも駆けつけなくちゃいけない、大事な大事な約束だったんだよ。志保ちゃんのことが嫌いになったなんてことない。マルイさんのこと、応援してあげなくっちゃ」
そんなわけない、ということは分かっていた。お母さん自身がそのことを信じていないこともはっきりと分かっていた。でも、自分は子どもだし、お母さんはそんな子どもを慰めようとしてくれている。今感じている暖かさをほんの僅かでも失いたくなくて、志保はお母さんの話を心の底から信じた。信じるように努力した。

「失踪シャベル 1-6」

内容に入ろうと思います。
本書は、「武士道シックスティーン」に続く、シリーズ第二弾です。「武士道シックスティーン」からの流れも含めて内容を紹介しようと思います。
新免武蔵を心の師とし、武士道を極めようとする中学生だった磯山香織は、とある剣道の大会で西荻早苗という相手に負けてしまう。自分が何故負けたのか分からない磯山は、西荻を追って東松高校に入り、そこの剣道部で西荻と再会する。
西荻は子どもの頃日本舞踊をやっていて、そこから中学の時に剣道に転身した。動きが剣道の常識からかけ離れていて、どうにも掴みにくく、センスも抜群なのでどんどんと強くなっていく。
「剛」の磯山と「柔」の西荻は、初めこそお互い理解し合えないでいたものの、次第にお互いを高め合っていく存在になる(この辺りまでは「武士道シックスティーン」の内容)。
しかし西荻は親の仕事の都合で福岡に移ることになった。福岡南という、剣道の大会では常勝の学校に移ることになった西荻は、それを言ったら磯山に絶交されそうで、磯山との別れの際には、もう剣道を止めるとまで言ってしまう。
磯山は二年になり、チームの主体となって、主に後輩の育成に取り組むのだけど、やはり西荻の抜けた穴は大きくて、東松は団体戦ではなかなか苦戦を強いられることになる。
一方の西荻は、徐々に福岡南の剣道スタイルに疑問を抱くようになっていく。とにかく、「試合で勝つ事」だけが最終目標である福岡南の剣道には、「武士道」の精神がない。西荻の中でどんどん違和感が膨らんでいき…。
というような話です。
相変わらず素晴らしい作品です。これだけ読みやすくて面白いスポーツエンターテイメントはなかなかないと思います。しかも剣道!なかなか剣道がモチーフになっている作品というのは多くないと思うんで、新鮮ですね。
前作「武士道シックスティーン」では、磯山と西荻は同じ学校にいたわけですけど、今回は離れてしまっているんですね。だから、前作で結構楽しかった磯山と西荻の掛け合いみたいなのは今回はあんまりない。というか、磯山が大分丸くなってるんで、もし一緒にいる設定でも前のような掛け合いにはなっていないだろうなと思うんだけど。
磯山の変わりっぷりはいいですね。成長と言えば成長なんだろうけど、丸くなったという表現の方がぴったりきます。昔は、とにかく相手をぶった斬ることが第一で、チームの和なんてしったこっちゃない。自分が勝つかどうかが重要で、他のことは知らん、というような感じでした。
でも本作では、そういう部分がかなりなくなっているんですね。相変わらず不器用なのは不器用なんだけど、でもチーム全体のことも考えるし、後輩のことも考えるし、武士道とは何なのかということをさらに冷静に考えたりもする。ある試合のチーム編成を決める時の磯山の態度には泣きそうになりましたよ。しかもそういう落ち着きが、剣道のスタイルにも反映されているようで、それまでの「動」のスタイルから、段々「静」のスタイルに変わっています。磯山の変化はなかなか良いです。
さて一方の西荻なんだけど、こっちは結構大変だったりするんですね。西荻が直面する問題が、本作の大きなテーマみたいなものだと言ってもいいでしょうか。
つまりそれは、剣道とはスポーツなのか、という点です。
このシリーズを読んでて思うのが、剣道という競技を扱うことでキャラクターの個性をここまで色分け出来るんだな、ということです。磯山は武士道を背景に剣道に臨むし、西荻は勝ち負けではない形での剣道を目指している。田原という磯山の後輩が出てくるんだけど、その田原は言われたことをはいはい言って聞いて、それをすぐ取り入れてしまうんだけど、そうすると「理」が育たなくなると言われる。福岡南で西荻と一緒に剣道をする黒岩レナは、勝つ事がすべてであり、ルールの範囲ギリギリまでを活かして勝負に挑む。
で、剣道を描くことでこれだけ個性を描き出せるというのは、剣道というのが特殊な形で競技として発展していったからだなと本書を読んで思ったんです。
普通のスポーツというのは、遊びから発展していきました。サッカーにしても野球にしてもなんにしても、大抵のスポーツは余暇として楽しまれていたものが、次第にルールが統一され、スポーツとして競技化されていったのだろうと思います。
でも剣道は違います。元々武士がやっていた斬り合いみたいなものから派生しているわけなんです。本物の真剣を使って行われていた実践から、様々な変遷を経て剣道に行きついた。
福岡南の黒岩レナは、剣道を高度競技化すべきだ、と考えている。ルールをもっと明確にし、一本の基準をもっとはっきりさせれば、これまで出来なかったことも出来るようになる、と考えているし、何故か二年ながら練習を率先して率いている黒岩は、自身のその考えに沿って練習メニューを組んだりしている。
しかし西荻はその考え方には馴染めない。西荻にとって剣道というのは、勝ち負けではない。自分の思っていた通りに身体を動かすことが出来るようになったとか、思っていた通りの形で技が入ったとか、そういう勝ち負け以外の部分に重点を置いている。磯山と出会ったことで、武士道という考え方も少しは入っていると思う。そういう西荻にとって、とにかく勝つ事だけが剣道のすべてだとする黒岩の考え方には賛同できない。
本書では、この剣道をどんな風に捉えるのか、という部分が一つ大きなテーマとして扱われています。もちろんそんなこと考えなくたって普通に面白く読める作品なんですけど、なるほど奥深い話だなと思ったりしました。
相変わらずですけど、誉田哲也は女性を描くのがうまいですね。しかも本書の場合主人公が女子高生ですからね。もちろん、剣道を相当真剣にやってる女子高生なんで、普通の現代っぽい感じの女子高生を描くわけではないから多少は楽かもしれないけど、それにしたってオッサンが女子高生視点で小説を書くのは大変ですよね。本書を女性が読んだらどう感じるのか分かりませんけど、かなり女性的な部分もきっちり描写されていると思いました。
個人的には田原っていうキャラがかなり好きですね。磯山の一個下で、磯山に名前で呼ぶなと言われ続けるのに香織先輩と言い続けて磯山を諦めさせるような豪胆な女っていうのがいいですね。飄々としていて何を考えてるんだかわかんないし、掴みどころのない感じがいいなぁと思いました。
まあそんなわけで、このシリーズはホントに面白いです。スポーツ物は得意じゃないみたいな人でも全然楽しめる作品だと思います。是非是非読んでみてください。

誉田哲也「武士道セブンティーン」

漆黒の王子(初野晴)

そんなマルイさんがある日いなくなってしまった。ふらっと家から出たりということはよくあって、いつでも家にいたわけじゃないけど、朝になっても戻って来なかったことはそれまで一度もなかった。マルイさんが帰ってこなかった朝、私は大泣きに泣いた。赤ん坊の頃を除けば、それまでこんなに涙を流したことはない、というくらい泣いた。お母さんは、まだたった一日だし、帰ってくるかもしれないよ、と言って慰めようとしてくれたけど、志保にはわかっていた。マルイさんはもう二度と戻ってくることはない、と。
マルイさんがいなくなる前の日、学校から帰ってくる途中で、志保はマルイさんを見かけた。マルイさんはよその家からのそのそと巨体を揺らしながら出てきた。口の周りには、キャットフードの食べかすらしいものがくっついていた。減量に気をつかってあげていたのに、よその家でご飯をもらってきたことが、志保には哀しかった。いなくなっちゃえ。志保はその時、はっきりとそう感じた。だからきっと、マルイさんは戻ってこない。けどお母さんには言いたくなかったから、志保はそのことを黙っていた。

「失踪シャベル 1-5」

内容に入ろうと思います。
本書は「上側の世界」と「下側の世界」という二つの章が交互に描かれる形で進んで行きます。
まず「上側の世界」。こちらでは、藍原組という暴力団が舞台の中心になっています。
藍原組では最近、異常な死が頻発していた。組員が原因不明の理由によって次々と死んでいくのだ。死の直前睡眠障害を訴えることの多かった被害者たちは、まるで眠るようにして死んでいった。
その組員の死に合わせて、組長代行である紺野と、紺野の右腕である高遠の元に脅迫状とも取れる謎のメールが送られてきていた。組員の睡眠を差し出せ、という謎の脅迫文だった。「ガネーシャ」を名乗る犯人が、この異状死を生み出しているというのは間違いないようだった。
紺野と高遠は、この異状死を探ることにした。藍原組がかつて無茶をして他の暴力団を駆逐した際に、相当怨恨が残っている対立組織・極東浅間会や、藍原組の上部組織でありながら、藍原組の暴走に手を焼いている沖連合などが入り交じり、組同士の抗争にまで発展していく。紺野の手下として動く秋庭や、高遠の手下として動く水樹は、紺野と高遠の深い闇を徐々に知りながら、次第に危険な状況に追い込まれていくことになり…。
一方「下側の世界」は、奇妙なホームレス達の物語です。
女は、目を覚ますと奇妙な空間にいた。光の差さない地下の空間だ。そこで<時計師>と呼ばれる男に助けられ、<王子>と呼ばれる少年に引き合わされた。
どうやらこの地下の空間は、行き場をなくしたホームレスがお互いに寄り添いながら生活をしている場であるようだ。他にも、<ブラシ職人><墓掘り><坑夫><楽器職人><画家>と呼ばれる人達がいるようだ。
女にも名前が必要だということだったが、記憶が曖昧にしかない女は自分のことをあまり思い出せない。その中で唯一思い出した名前が、<ガネーシャ>だった。女は地下の世界で、<ガネーシャ>と呼ばれることになる。
<ガネーシャ>は、地下に住まう奇妙な人々と様々に関わりながら、一方で彼らが抱えている秘密を知ることにもなった。それは、<ガネーシャ>の人生にも関わりのあることで…。
というような話です。
初野晴は、今僕が結構注目している作家です。これまで呼んだ作品は、「1/2の騎士」と「退出ゲーム」と本作ですけど、どの作品も実にレベルの高い作品だと思いました。初野晴は、ファンタジックミステリを書く作家として認知されているようですけど、「1/2の騎士」は被害者は無差別という特殊な事件ばかりを扱った本格ミステリ風の作品、「退出ゲーム」は高校を舞台にした人が死なない日常の謎系、そして本書は暴力団というノアールっぽい設定の中で描くミステリと言った感じで、一作ごとに作風を結構違えていて、しかもどれも実に出来のいい作品に仕上がっています。この作家はブレイクして欲しい作家ですね。確か近いうちに「1/2の騎士」が文庫になるはずなんで、まずはそれをバリバリ売ってみようと思います。
さて本書ですけど、表紙やタイトルから想像する雰囲気とはかなり違ったことに初め戸惑いましたけど(表紙のイメージとかは、暴力団とか出てきそうにない雰囲気なんです)、でもすぐに話に入り込みました。「上側の世界」は、藍原組の組員はどうやって殺されているのかという謎がメインになっていくし、「下側の世界」は、「上側の世界」とどう関わっていくのかというのがメインになっていくのだけど、そういう本筋以外の部分での細かな描写や伏線が実に見事だなと思います。
細かな描写の方については、あんまりうまく説明は出きないんだけど、例えば警察が犯人を追う際に、市井の防犯マニアみたいな人達の助けを借りているだとか、日本の大学が中国人留学生を受け入れる理由とか、舌にどうしてピアスをつけるのかとか、そういう別に本筋にはさほど関係のない部分で、へぇというような知識を入れてくるんですね。ほんとにこの著者の知識の範囲の広さはちょっと凄いものがあって、いろいろ調べてるんだか元々知ってるんだか知らないんだけど、凄いものだなと思います。
またそういう細かな描写が、後々伏線だということに気づいたりするようなこともあります。後半でいろいろな謎が明かされるんだけど、その中で、なるほどこれも伏線だったのかと思わせる描写がたくさんあることに気づいて、うまいなと思いました。
僕は馳星周が書くようなノアール作品もそこそこ読んでいますけど、暴力団とか中国マフィアとかそういうものを扱った作品って、どうも入り込めないみたいなことってあるんです。最近ノアールとかあんまり読んでないのもそんな理由だろうと思います。
でも本書は、そういうノアールっぽい設定でありながら、入り込みにくいという印象がそこまでないんですね。暴力団の組員の考え方にはあまり賛同出来ないし、アンダーグラウンドな世界の論理とか難しいなとか思うんだけど、それでも、一般のノアール作品に比べて入り込みにくいという感覚がほとんどありませんでした。
たぶんそれは、著者が描くべきポイントをきっちりと意識しながら書いているからだろうと思います。ノアール作品の場合、アンダーグラウンドの世界のディープさみたいなものを掘り下げないと作品として完成度が低くなってしまうけど、本書の場合、そういうアンダーグラウンド的な部分をさほど掘り下げなくても、ストーリーとして成立するんですね。だからかもしれないなと思います。
それでも、ところどころ残虐的だったり暴力的だったりする場面があったりするんで、メリハリはきちんとあるんですけどね。その辺りのバランスもうまいと思いました。
地下の世界の話も、なかなかに興味深いものがありました。地上に居場所をなくし、追われてしまった人々が、<王子>を中心にしてなんとか生活をしているんだけど、それぞれの人々の人生の有り様みたいなものが丹念に描かれていて、「上側の世界」とはまた違った雰囲気を醸し出しています。「下側の世界」だけでも、もう少しいろいろ付け加えれば一つの作品になりそうなくらい、世界観がきっちりとしています。
僕の印象に残ったのは、<楽器職人>です。楽器職人は地下で楽器を弾いているんだけど、どうして弾いているのかという理屈みたいなものがなかなか物悲しいなと思いました。
「下側の世界」がどんな風に「上側の世界」と関わっていくのかというのも読みどころですけど、「下側の世界」の奇妙さみたいなものも合わせて読んでいくと面白いと思います。
まあそんなわけで、初野晴は僕の中で結構注目の作家です。まだ読んでいない作品もたくさんありますけど、たぶんどの作品を読んでもかなりレベルが高いんじゃないかなと思います。初野晴、ちょっと注目してみてください。

初野晴「漆黒の王子」

ソウルケイジ(誉田哲也)

志保は子どもの頃、猫を飼っていた。捨てられているのを見つけて、お母さんにねだって飼うことを許してもらったのだ。猫の名前は、マルイさんに決めた。ぶくぶく、と表現しても失礼ではないほどまん丸に太った猫で、みんなが丸いねぇ、と言っていたからだ。さん付けしたくなるほど、貫禄のある猫だった。
志保はマルイさんを可愛がった。あまりに太っていると病気になりやすいと言われてエサやりに気をつけたり、動きたがらないマルイさんを時々引っ張るようにして無理やり散歩させたりもした。手の掛かる妹が出来たみたいで、志保はあらゆる世話を焼いたし、そう出来ることが嬉しかった。初めは興味なさそうだったお母さんも、段々可愛く感じられるようになってきたようで、猫じゃらしで遊んだり、抱っこして昼寝したりしていた。拾って一周年記念の時には、お母さんと二人で豪華ディナーを作って、その日だけは減量のことは気にせず、好きなだけご飯を食べさせたりもした。減量には最後までうまくいかなかったけれど、可愛くて可愛くて仕方のない猫だった。

「失踪シャベル 1-4」

内容に入ろうと思います。
本書は、「ストロベリーナイト」に続く、姫川玲子シリーズ第二弾です。
姫川玲子警視庁捜査一課の班長として、年上も含めて四人の部下を率いている。直感に基づいた大胆な行動によって手柄を上げてきた敏腕であり、その能力は多くの者に認められてはいるのだけど、その一方で女だからという理由だったり、あるいは独断専行ばかりするからという理由だったりで疎まれていたりもする。玲子が所属する第十係はくせ者揃いなんだけど、その中にあっても玲子の存在感はなかなか突出している。
多摩川の土手に放置されていた車両から、血まみれの左手首が発見されたことから事件は始まる。玲子は、同じ第十係の班長であり、天敵だと認識している日下と一緒に捜査をすることになった。玲子は直感を重視しているのだけど、日下は一切の余談を許さない男で、まったく反りが合わないのだ。
被害者は、指紋や手首に残っていた特徴的な傷から、高岡賢一という建設現場での仕事を請け負っている男だと断定されるのだが、左手首以外の部位が上がらず死因も分からないし、他に具体的なこともなかなか上がってこないので捜査は難航する。
高岡賢一が昔いたとある建設会社では、保険金にまつわる何か悪どいことをやっていたようだ。その辺りから、様々な人間関係や複雑な事情などが浮かんでくるのだけど、しかしそれがどう事件と繋がっていくのか分からない。
玲子や日下は、それぞれが独自のルートで事件を追っていき、やがて驚くべき真実にたどり着く…。
というような話です。
姫川玲子シリーズ一作目である「ストロベリーナイト」は、なかなか残虐なストーリーで、読んでて気持ち悪いという感想もあったようですけど、本書はそれとは一転して、派手だったり残虐だったりという事件ではありません。もちろん、事件の背景として悪どいことが出てきはするけど、それでも「ストロベリーナイト」の残虐さとは比べ物にならないほど落ち着いています。「ストロベリーナイト」を読んで、なるほどこのシリーズはこういう気持ち悪い感じなんだなと思って読むのを止めてしまった人は、もう一回ぐらいチャンスを与えてあげてほしいかなと思います。
本書もなかなか面白い作品でした。「ストロベリーナイト」は、扱っている事件が相当ぶっとんでいた印象があって、それで普通の警察小説ぽくない感じもありましたけど、本書の場合、扱っている事件は普通の警察小説っぽい感じなんです。東京の片隅で慎ましやかに暮らしていたある一人の男の過去をほじくり返していくというような、割と地味な捜査が続くんですけど、それでも普通の警察小説っぽくはないんですね。
その理由は、文章とキャラクターにあるのだろうなと思います。
文章は、硬質なイメージのある普通の警察小説の文章とは違って、かなりライトなイメージがあります。もちろん、悪い意味じゃありません。普通の警察小説っていうのは、男社会である警察組織を重厚感を出しながら描きたいのか、結構暗くて重くてギスギスしているみたいな印象が結構全面にあったりします。でも本書の場合、そういった雰囲気って全然ないんですね。ギスギスした人間関係はあるけど重苦しく扱われないし、会話もユーモアに溢れています。玲子視点、つまり女性視点の文章が多いからか、警察小説にしてはまろやかなタッチの文章になっているんですね。まずそこが、普通の警察小説っぽくないイメージを出しているんだろうと思います。
そしてもう一つはキャラクターです。僕もそこまでたくさん警察小説を読んでるわけではないんですけど、それでも普通の警察小説のイメージというのは、実直で靴の底をいかにすり減らすかという刑事か、あるいは刑事という役得を最大限に利用する刑事のどちらかばっかりという感じなんです。あるいは、こんな刑事いねーだろというような突拍子もないキャラクターかという感じでしょうか。
でも本書の場合、なるほどこういう刑事はいそうな気もするなという範囲内で、かなり変わった刑事がバンバン出てきます。日下は、予断を一切許さず、自分が調べてきた事実を解釈なしですべて報告するという男だし、井岡という、常に玲子とペアを組むことになる所轄の刑事は、関西弁丸出しで玲子とデート気分で捜査を続けるという変な刑事です。他にも、ダメ上司の典型である管理官の橋爪や、玲子と相思相愛だろうのに一歩を踏み出せない菊田とか、玲子に対してかつてのあるイメージが重なってしまう葉山とか、玲子の直属の上司である今泉とか、一応まっとうなんだけどどこかクセのある刑事ばっかりで、そういうキャラクター造形が実にうまいところが、普通の警察小説っぽくないなという感じがしました。
著者は小説を書く際、実際の俳優を当てはめて小説を書くらしいです。そういうやり方が、キャラクターの厚みを生み出しているのかもですね。
「ストロベリーナイト」の方のストーリーは正直あんまり憶えていないんですけど、本書では作品の根底になかなか深いテーマが織り込まれています。犯罪に走ってしまうことになったある男の悲哀とそのテーマの対比みたいなものがなかなか絶妙だと思いました。日下や玲子にしても、加害者に対する複雑な思いを抱えることになるし、読者としてもなかなか考えさせられる作品ではないかなと思います。人生というのは、自分にはどうにもならないことによって絶望的な状況に追い込まれてしまうのだなと思う一方で、家族というのは一体何なんだろうという思いを抱くのではないでしょうか。
ニュース何かで事件の報道を見ると、何でそんなアホみたいなことしたわけという事件と、それ以外にもう選択肢はなかったんだろうなという事件とあります。前者については同情の余地はまったくないわけなんですけど、後者については、自分にも同じ状況がやってきたらと思うとなかなか辛いですね。人生というのは、自分が望んでもいない袋小路みたいなものにどんどん嵌り込んでしまうもので、ホントバクチみたいなもんだよなと思ったりしました。
まあそんなわけで、相変わらず面白いシリーズだと思います。誉田哲也は女性を描くのが実にうまいと思いますけど(まあ女性の目から見てどう映るのかは分かりませんけど)、本書も女性を主人公にした珍しい警察小説シリーズです。普段警察小説を読まないという人にも結構いけるんじゃないかなと思います。シリーズ作ですけど、気持ち悪いのは得意じゃないという方は本書から読んでもいいんじゃないかと思います。ただ、どうして姫川玲子が刑事を目指すようになったのかという話は「ストロベリーナイト」で触れられているので、出来ればそっちにも手を出して欲しいものですけど。是非読んでみてください。

誉田哲也「ソウルケイジ」

SOSの猿(伊坂幸太郎)

志保は、リビングから玄関に向かう廊下へと進み、自分の部屋を通り越してお母さんの部屋の前に立った。ドアの向こうが真っ暗闇であるかのような錯覚に囚われた。開けたら身体ごと飲み込まれていってしまうような深く恐ろしい闇。考えれば考えるほどその闇が大きくなるような気がして、志保は思い切ってドアを開けた。
ブランド物のバッグや化粧品で溢れかえった部屋には、しかし生命の気配は微塵も感じられなかった。その部屋のすべてが、自らの意志では動かないものばかりで占められていた。呼吸するものも、言葉を発するものも、私の頭を撫でてくれるものも、何もなかった。その部屋は、たくさんの重さで満たされているけれど、特殊なカメラで覗いたら何も映らないのではないかと思うほど、空虚な空間だった。
私は、疑っていたわけでは決してなかったのだけど、ようやくお母さんがいなくなったのだ、という事実をしっかりと握りしめることが出来た。置き手紙を見つけた時から落ち着きどころをなくしていた気持ちが、すとんとどこかにはまり込んだかのようだった。何をすればいいのか、咄嗟には思いつかなくて、ドアノブを握りしめたまま、とりあえず深呼吸をした。大丈夫、取り乱してなんかない。志保は、リビングに戻ると、少し前にビルが建ったために日当たりの悪くなったベランダに出た。昼ごろには暑くなるだろうと予感させるような朝陽が、町中を明るく照らしていた。志保は、見飽きた光景をぼんやりと眺めながら、マルイさんのことを思い返していた。

「失踪シャベル 1-3」

内容に入ろうと思います。
本書は、伊坂幸太郎の最新作です。「私の話」と「猿の話」という二つのパートに分かれて話が進んで行きます。
「私の話」の主人公は遠藤二郎。家電量販店でエアコンの担当をしている男だ。
さてその遠藤二郎が、「辺見のお姉さん」に相談を受けるとところから物語は始まっていく。遠藤二郎が子どもの頃憧れだった「辺見のお姉さん」は、すっかりおばさんになっていた。息子がいて、その息子のことで相談を受けたのだ。
「辺見のお姉さん」の息子である眞人君は引きこもりになってしまって、それをなんとかして欲しいと遠藤二郎に頼んでいるのだ。
ただの家電量販店の店員である遠藤二郎にどうして、と思うところであるが、遠藤二郎には奇妙な副業がある。「悪魔祓い」である。イタリアに留学していた頃付き合いのあった友人といろいろあって、悪魔祓いをなんとなく学んだのだ。それで帰国後、悪魔祓いの依頼をいくつか受けることになった。遠藤二郎の母親がその辺りのことを誤って「辺見のお姉さん」に伝えたようで、そんな相談がやってきたのだ。
遠藤二郎は「辺見のお姉さん」の依頼を受けたくない。遠藤二郎は、困っている人を見るとなんとかしたくなってしまう性格なのだけど、自分が何も出来ない無力な人間であることに打ちのめされることになるだけだと知っている。だからこそ、出来るだけ困っている人には関わりたくないのだ。それでも中途半端に関わっている内に、眞人君が時々行っていたらしいコンビニで知り合った奇妙な人達からいろいろ話を聞いたりするようになる。
一方「猿の話」の方の主人公は五十嵐真という男である。とあるシステム会社の品質管理をやっている五十嵐真は、とにかく因果関係を追求する男である。どうしてそういうことが起こったのか気になって仕方のない男なのだ。
その五十嵐真は、なかなか大きな仕事を振られることになる。ある証券会社の社員が、入力ミスによりとんでもない誤発注をしてしまい、多額の損害を被ったらしい。その原因を調べるように命じられる。
因果関係を追求するのが人生みたいな五十嵐真は、「うっかりミスだから」という曖昧な原因では納得できない。じゃあどうしてうっかりミスをしたのか、その原因まで追求したくなる。そうやって誤発注の調査を続けていた五十嵐真は、とある奇妙な事態に巻き込まれていくことになるのだけど…。
というような話です。
さすが伊坂幸太郎だなと思いました。面白かったなぁ。でも、伊坂幸太郎のファンで、本書がダメという人がいてもおかしくないなと思いました。
というのも、最近の伊坂幸太郎の作品は、どうもメッセージ性が強いと思うんです。別にそれ自体は良いことだと思うんですけど、昔からのファンの中には受け入れがたい人もいるかもしれないな、と思いました。初期の頃の作品は、メッセージ性もそんなに強くなくて、純粋に物語として面白いという感じでしたけど、「魔王」辺りからかなぁ、結構いろんなメッセージを織り込むようになってきたなという気がします。そういうのがちょっと…と思う人もいるんじゃないかなと思いました。僕も、「魔王」で扱われたテーマが僕には難しすぎてあんまりダメでしたけど、本書のメッセージは奥は深いけど決して難しいものではないんで面白かったと思います。
相変わらずですけど、さりげなく描写した伏線がいろんな風に繋がっていくのは素晴らしいものがありますね。僕もまあ年末年始で拙い小説を書いたわけなんですけど、その経験を踏まえるとさらに伊坂幸太郎の凄さが分かる気がします。本書のような、いろんな場面があちこちで絡まり合っていくようなストーリーを、一体どこからどんな風に組み上げていくのか、僕にはさっぱりわかりません。
会話も伊坂幸太郎節がよく出ていて、懐かしい感じがしました。懐かしいと書いたのは、ちょっと前に出た「あるキング」という作品が、ちょっと伊坂幸太郎っぽい雰囲気じゃないかなと感じたせいで、久々に伊坂幸太郎っぽい感じの会話だったなと思いました。また僕が小説を書いた話ですけど、ホント僕は会話文を書くのがダメだなと思いました。それに比べて伊坂幸太郎はどうしてこんなに面白い会話文を書けるんでしょうか。コンビニのコーラス隊が歌っている理由とか、孔子孟子とかいう漫才コンビを組んでいる母親の会話とか、そういうストーリーの本筋には直接的には関係のない、でも読んでると印象に残ってしまうような、そういう会話ってすごいなと思います。ストーリーを展開させるための会話ではなくて、小説全体の雰囲気を作り出す会話っていうのは、どういう風に思いつくんだろうなぁ。僕にはさっぱり分かりません。
「猿の話」の方の文体が結構変わっていて、読み始めはちょっと面食らいましたけど、でもこれもしばらくすると理由が分かるんです。「私の話」と「猿の話」がどんな風に繋がるんだか読んでて全然分からなかったわけなんですけど、さすがだなと思いました。
本書では、善悪とは何か、みたいなことが背景として描かれています。僕がメッセージ性とか言っている部分です。何が悪くて、何が悪くなくて、何が善いのか。そういったことを結構考えさせられる物語だと思います。
僕なんかは個人的には、その人の中で一貫していればいいんじゃないかとか思ってしまいます。例えばある人がある行為をする。それは世間的な常識から考えると悪だとされることだとしましょう。でもその人のこれまでの生き方や価値観から考えて、その行為が一貫した流れの中にあれば、それはその人の価値観の中では善だと言えるのではないか、少なくとも他人がその「善」を否定することは難しいのではないか、と考えています。もちろん、人間が社会で生きていく中では、そういう世間的な常識から考えて悪いことをする人間は排除したいものですけど、それでも、善悪の判断というのは一貫性でしか判断できないんじゃないかな、と個人的には思っていたりします。
もう少しこの話をすると、例えばこういうのは善なのか。二つの戦争している国がある。ある大金持ちが、その戦争している両国に同じように寄付をしたとしましょう。国に寄付をするというのは善の行為でしょうけど、寄付をした二つの国が戦争で対立しているとすれば、その行為は善と言えるでしょうか?それは、どちらの国に加担するかという点で一貫性がないわけで、悪なのではないか、と思ったりするわけです。たとえがよくないかもですけど。
まあ、そんな善悪のことを少し考えてしまいたくなるような作品ではないかなと思います。
これまでの伊坂幸太郎の作品でも、非日常的な描写というのはそれなりにあったのだけど(喋るカカシとか)、でも本書はその中でも結構飛び抜けて非日常的な描写の多い作品だと思います。そのせいで、ストーリーがいまいちはっきりしない(敢えてはっきりさせていないんだと思いますけど)部分もそこそこあって、なんとなくモヤモヤする作品でもあります。ただそのモヤモヤが不快かというとそうでもなくて、こういう雰囲気も結構いいなという感じが僕はしています。
最後に。もう一点本書のいいところを挙げるなら、それは装丁でしょうね。この装丁は素晴らしいと思います。ネタバレにもならない些細なことなんでいいと思いますけど、本書は西遊記の孫悟空の話が結構出てくるんです。だからありきたりの人が装丁をしたら、やっぱり孫悟空に絡めたくなるでしょう。僕は、本書の内容からこの表紙のアイデアをひらめいた人は素晴らしいなと思いました。そういう部分でも恵まれている作品かなと思いました。
というわけで、もしかしたらダメという人もいるかもしれませんけど、僕はかなり楽しめた作品です。是非読んでみてください。

伊坂幸太郎「SOSの猿」

追記)やっぱりamazonの評価ではみんな結構厳しいなぁ。たぶん作家の作風が変わるのが嫌ということなんだろうけど、そういうのは受け入れていかないといけないと思うんです。作品のレベルの低下と作風の変化を混同してはいけないと個人的には思うんですけど、どうなんでしょう。

サバイバー・ミッション(小笠原慧)

志保は、私は取り残されたのだ、と思った。いつもと変わらないリビングの光景が、いきなり灰色に塗りたくられたかのようにくすんで見えた。
スナックの雇われママをしているお母さんは、朝起きてくることはめったになかった。たぶん昼過ぎまで寝ていて、だから朝お母さんの姿がないことは日常的だ。今だって、目に見える範囲には何も損なわれたものはない。いつもと変わらないはずの、穏やかなはずの朝だ。
それでも志保には、すべてが決定的に変わってしまったように感じられた。人ひとり分の重量がこの家からなくなってしまったというだけでは決してない。大事な歯車の一つがなくなって全体が機能しなくなってしまった機械のようなものだ、と思った。カーテンの向こうから漏れ出る朝陽も、時折聞こえる鳥のさえずりも、フローリングの床から伝わるひんやりとした感触まで、すべてが少しずつねじれてしまったのではないかと感じられた。

「失踪シャベル 1-2」

そろそろ内容に入ろうと思います。
舞台は20XX年の東京。大震災と金融破綻、あるいは富士山の噴火などによって荒廃し、深刻な食糧危機が起こったり、あちこちスラムになったりと言った都市が舞台となります。
主人公は、警視庁刑事部犯罪捜査支援室の女性捜査官である麻生利津。麻生は、全女性捜査官の憧れであった先輩捜査官・荻野の死体を発見してしまったことから、妙な特命を仰せつかることになる。
科学技術による捜査が進んでいく一方で、士気の低下により検挙率が大幅に落ちていた警察の中にあって、荻野は善悪によってのみ物事を判断するまっとうな捜査官だった。その荻野は、ヘッドハンターと呼ばれる連続殺人犯の捜査を続けていた。首が持ち去られ、死体とともに心理テストで使われるソンディカードと呼ばれる特殊なカードを残していく異常殺人鬼だ。そして荻野は、そのヘッドハンターの魔の手に掛かって殺されてしまったようなのだ。
麻生は、荻野の事件を調べるよう命じられるが、奇妙な条件がついていた。大量の捜査官を投入する従来の捜査は継続する一方で、麻生はたった一人で事件を追うことを命じられたのだ。その麻生の補佐として与えられたのが、史上最強の人工知能と言われるドクター・キシモトだった。対話型の捜査エージェントで、パソコンの画面の中に3Dの映像として存在するだけのプログラムだ。麻生は捜査を続けていく中で、荻野が追いかけていたらしい事件の断片をいくつも見つけることになるのだが…。
というような話です。
もし面白かったら平積みしてみようと思って読んでいたんですけど、まあまあという感じでした。
たぶんですけど、2・3年ぐらい前の僕だったら、結構面白いじゃん、と思っていた作品ではないかなと思います。昔と比べて結構読書の趣味みたいなものが変わっているので、今の僕にはさほどでもないなという感じの作品でした。
未来世界の設定とか、ドクター・キシモトとのやりとりとか、そういうあんまり本筋ではないような部分は結構面白いと思ったりしたんです。本書の設定では、日本という国は相当荒廃していて、話のところどころにそういう描写が出てくる。なるほど、大地震が起こって富士山が噴火して円が暴落すればこうなるのかもしれないなと思わせる感じで興味深い部分はありました。ドクター・キシモトとの会話も、人工知能には感情だの思い出だのと言ったものはないはずなので(まあ本書の場合、その辺りのことはいろいろあるんですけど)、普通の人間との会話とはかなり違ったものになります。その、普通とはかなりずれた会話も結構面白いなと思いました。
でもストーリーの本筋が、ちょっと散漫すぎたかなという気がしました。最近乙一がホームページで書いている文章にちょっと今から書こうとしていることにぴったりの文章があるんで、勝手に抜き出してみます。一応こちらのホームページです。
http://blog.shueisha.net/otsuichi/

『小説を書くときにいつも、
数学のグラフみたいなものを想像するのですが、
この作業は、
ちいさなピークが無数にならんでいるグラフに、
様々な操作をくわえて、ピークの位置をよせあつめて、
コサイン曲線みたいな大きくて印象的な曲線を導き出すような、
そういうイメージでやっています。
X軸がページ数です。』

本書も、作中のいろんなところに小さなピークが散乱していて、どれが重要でどれが重要でないのか、どれが本筋に近いもので、どれが本筋とは関係ないのかというのが実にわかりにくいんですね。確かに、もし本書のような設定の世界観の中で本書のような主人公が本書のような捜査をしたら、こういう流れになるのかもしれないとは思うんで、そういう意味ではリアリティはあるんですけど、でもそれだけじゃ小説としてはなかなか厳しいかなと思ったりします。乙一が書いているように、もう少しピークをまとめて、印象的な大きなカーブを描くようにしたら、もう少しまとまりのある作品になったような気がします。
作品とはまったく関係ありませんが、著者の経歴がちょっとありえないんで載せてみます。

『東京大学文学部哲学科中退、京都大学医学部卒業』

どういうことですか、これは。東大の文学部というバリバリの文系から、京大の医学部というバリバリの理系への転身。しかもですよ、普通の医学部に入るのだってとんでもなく難しいのに、それが京大の医学部ですからね。なんていうか、頭が良すぎるんでしょうね。僕も生まれ変わったら、こんなアホみたいな経歴になれるような天才に生まれ変わりたいなぁ。
まあそんなわけで、そこまでオススメはしませんが、こういう作品が好きという人はきっといるはずので、気が向いたら読んでみてください。

小笠原慧「サバイバー・ミッション」

カレーライフ(竹内真)

志保は、リビングのテーブルに残されたその一枚の紙を、その日の朝をそれまでのどの朝とも決定的に隔ててしまう分厚い壁のように記憶に刻んだ。何度も目を通す必要はなかった。お母さんは、この家から出て行ったのだ。
いつものように起き、いつものように部屋の真正面にある洗面台で顔を洗った。リビングに行き、昨日寝る前にセットしたご飯をよそい、リビングにあるテーブルについた時、その紙が視界に入った。テーブルの真ん中にはいつも箸立てが置かれていて、なんの配慮か、その紙は箸立てで押さえられていた。文字が書かれているのは分かったけど、コンタクトの入っていない今はきちんと読むのは難しかった。一度部屋に戻り、眼鏡を掛けてからリビングに戻った。

『志保、ごめんね。
お母さん、ちょっとやりたいことが出来ちゃった。
最後までダメな母親だったね。
ごめんね。
池上涼子』

「失踪シャベル 1-1」

というわけで明けましておめでとうございます。
年明けの更新が大分遅れましたが、今日からまたこれまで通り、割とほぼ毎日更新していければと思っております。
去年書いた通り、今年は一応小説の連載みたいなことをする、という形でやっていこうと思っています。年末年始ひたすら書いていた小説がまあとりあえず完成しまして(推敲はまだなんですけど、とりあえずこっちの更新は始めちゃいます)、それをチビチビと切り貼りして一年間やっていこうかと思っています。
ただ読んでくれる方には迷惑な話なんですが、自分が書いた小説が案外短くて(推敲前の段階で83516文字。文庫本が大体1ページ700字ぐらいだとすると、約120ページぐらいしかありません)、それを切り貼りするとどうしても一回分の量が400字程度になってしまいます。新聞連載でも1000字から1500字ぐらいはあるはずなんで相当読みにくい連載になると思います。すいません。
なので、パソコンから見てくれている方は、毎回更新される分をワードか何かに貼りつけて保存しておいて、後でまとめて読むという方がいいかもしれません。携帯から見てくれている方は、なんとか頑張ってください。
タイトルは「失踪シャベル」で、その横の数字は、第何章の何回目の更新かを示しています。今回は、第一章の一回目の更新なので「1-1」となっています。
それでは、ど素人が書いた小説を一年間よろしくお願いいたします。期待値は、大分低めでお願いします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
ケンスケは、成り行きからカレー屋を目指すことになってしまった。
元々その伏線はあった。洋食屋を営んでいた祖父が亡くなった時、いとこ達で集まって、将来カレー屋を継ごう、という約束をしたのだ。どうやらその約束をケンスケの父親が聞いていたようで、人手に渡っていた祖父が洋食屋を開いていた土地を、退職金で買い戻したというのだ。
その父は、癌を宣告され、定年前に仕事を辞め、死ぬための準備をしていた。そして父は、ケンスケがちょっとしたことで家を離れていた時、あっさりと死んだ。
それからケンスケの大冒険が始まることになる。カレー屋を始めるにしても何からどうしていいか分からないケンスケは、まずいとこのワタルと連絡を取ろうとするのだけど、これがうまく行かない。何故かケンスケは、ワタルがキャンプをしているらしい富士五湖まで自転車で行くことになり、ヘトヘトになりながらワタルと再会する。
しかしそこからさらに妙なことになっていき、元々沖縄に行こうと思っていたのが、何故かアメリカ行きに変わり、アメリカから沖縄に行こうと思っていたら、何故かインドにたどり着いていたのである。そうやってケンスケとワタルは、将来カレー屋を開くためという名目であちこちを旅することになる。そこで出会う様々な人との関わりから新たなことを学ぶ一方、祖父に関しての謎もどんどん深まっていくことになり、やがてすべての線が沖縄で繋がることになるのだけど…。
というような感じの話です。
全篇に渡ってカレーの話が満載で、それなりには面白い話だと思ったんですけど、今ひとつという感じもありました。僕は竹内真という作家の力量を結構買っているので、それまで読んできた竹内真の作品と比べると、ちょっと弱いかなという印象がありました。
ちょっと話は変わりますけど、僕の友達がブログで、この間のM-1についての感想を書いていました。その中にこんな文章がありました。
『意外性が重要である笑いには、台本があることが分かるのが、最も天敵。』
人それぞれお笑いに対する考え方はあるでしょうけど、その友人は、決めてきた言葉を喋っているのではないという点を結構重視しているみたいなんですね。
で、これ、小説でも同じようなことが言えるんじゃないかと思ったんです。
本書も、まず著者の中にこういう感じでストーリーが進んで欲しいなというのがあって、それに合わせるように登場人物を動かしているんだな、ということが分かるような作品なんです。読んでいてそこまで不自然だとか違和感があると感じるほどでもないんですけど、でもやっぱりケンスケ達がアメリカに行ったりインドに行ったり、あるいはケンスケがあるちょっとした大きな決断をしたりという場面で、あらかじめあった筋書き通りに登場人物を動かしているんだなと思ってしまうような、そういう小説だったんです。そこが僕としては、ちょっと残念だったなという感じがしました。
その点を除けば、まあ割と楽しめる作品ではないかなと思います。いろんなところに旅に出掛ける動機が、祖父のカレーの味を追い求めるというところがちょっと弱いかなと思ったり、次第に浮かび上がってくる祖父についての謎が全体のスケールからすればちょっと薄いなと思ったりもしましたけど、それなりに楽しめる作品ではあるなと思いました。お調子者のワタルのキャラクターが結構面白いと思ったし、いとこのヒカリとかサトルとかもかなりいい味を出しています。個人的には、インドで出会った旅行者であるチナツさんなんかが結構お気に入りですけど。
またカレーの話だけじゃなくて、家族の話にも結構踏み込んでいて、そういう方面でもなかなか面白いと思います。特にサトルの考え方は、僕は結構共感出きたりします。サトルは親の会社を継ぐことを求められていい大学を目指せと言われていたんだけど、大学受験に失敗すると、誰にも相談せずにイギリスに行き、放浪の旅を始めてしまったりします。僕には外国を放浪するみたいな行動力はないですけど、次第にわかってくるサトルの考え方みたいなものは、結構似てるかもなと思ったりしました。個人的には、ワタルみたいに適当にのほほんと生きていけるような性格だったらよかったんだけどなぁとか思ったりしますけど。
あと、全然どうでもいい話ですけど、祖父の洋食屋があった土地で、ケンスケがカレー屋を開こうとしている土地って、静岡県の富士市ってところにあるんだけど、これ僕の生まれたところの隣の市なんですね。しかも最近合併したせいで、僕の生まれた町の名前はなくなっちゃって、僕も本籍が富士市に変わりました。なんていうか、知っている地名が出てきたりすると、ちょっと興奮しますね。吉祥寺とか歌舞伎町みたいな、小説によく出てくる地名ならともかく、富士市なんて普通出てきませんからね。なんとなく嬉しい気持ちになりました。
まあそんなわけで、そこまでオススメはしませんが、それなりには楽しめる作品だと思います。竹内真は、世間的な知名度はそこまで高くないですけど、実にレベルの高い良い作品を書く作家なので、気が向いたらどれか読んでみてください。

竹内真「カレーライフ」

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