黒夜行 2017年12月 (original) (raw)

内容に入ろうと思います。
黒人のクリスは、白人の彼女・ローズと付き合って5ヶ月、ローズの実家であるアーミテージ家に行くことになった。彼氏が黒人であることを両親に伝えていない、と言うローズに、クリスは不安を吐露するが、両親は差別主義者じゃない、とローズは優しく諌める。
ローズの運転で実家へと向かう途中、鹿を撥ね飛ばすというアクシデントがありつつも、笑顔の両親に迎えられ、クリスは屋敷の中を案内される。
クリスはその過程で、アーミテージ家に雇われている黒人の管理人や家政婦に、言いようのない違和感を覚える。
翌日、ローズも知らされていなかったようだが、白人のお偉いさんを集めた「親睦会」という名のパーティーが開かれた。そこでもクリスは居心地の悪い思いをすることになる。
何かがおかしい…。そう思うクリスだったが…。
というような話です。

前半は、かなり面白かったです。とにかく、この設定、この展開で、このあとどうなっていくんだろう、という興味が凄く駆り立てられました。

とにかく、なんだかよく分からないけど凄く不穏な感じが漂っていて、なんだなんだ、どうなるんだ感が凄かったです。ところどころ、ホラー映画か!っていうぐらいびっくりさせられるシーンもあって、座席から飛び上がりそうになることがありました。

ただ後半、アーミテージ家の不穏さの背景が明らかになってからは、うーん…と思ってしまいました。僕が感じたことをそのまま書くと、「こんな展開がアリなら、なんでもアリじゃね?」ということでした。

後半の展開が、悪いとは言いません。ただ、全体の構成として、あまりに唐突でよく分からない、というのが正直なところでした。前半では、「アーミテージ家には何かあるぞ」という不穏さはひたすら強調されますが、でも、後半の展開に繋がるような、いわゆる伏線めいたものはほとんど感じられませんでした。

前半で、後半の展開に繋がるような伏線がもう少し出てくれば、納得感はあったかもしれません。ただ、前半でほぼ何も描かず、後半でいきなりあれを出されたら、いやーちょっとそれは急展開過ぎでしょ、と思いました。

下手な喩えですけど、こんなのを考えてみました。例えばよく行くデパートが、「◯日から何かやるよ。何するかは当日まで秘密だけどね」的な宣伝をこれでもかとしているとしましょう。普通なら買い物客は、バーゲンでもやるのかな、あるいは大物芸能人でも呼んでイベントでもやるのかな、と思うでしょう。で、◯日当日デパートに行ったら、いきなりデパートの建物が取り壊されてた…。みたいな肩透かし感がありました。えー、それはちょっと違うっしょ、と。

とはいえ、やはりそういう僕のような受け取り方は、浅いようです。あまり映画の評判をネットで調べたりはしませんが、この映画について調べてみると、序盤から伏線のオンパレードだったという分析を書いているサイトを見つけました。
http://www.club-typhoon.com/archives/18823993.html
(サイトの中でも注意喚起されていますが、映画を観る前には読まない方がいいと思います)

これを読むと、なるほど言われてみれば確かにそういう部分が伏線だったかー、と思えるんですけど、いや、ちょっとこれ、一回観ただけどころか、何回観ても僕は気づかないだろうなぁ…。

というわけで、物語の細部まで含めて色々汲み取れる人には、とても面白い映画だと思います。ちょっと僕には、レベルが高すぎたなぁ

「ゲット・アウト」を観に行ってきました

本書を読むまで、知らなかった。
ナチス・ドイツが強制収容所でユダヤ人を殺害した、いわゆる「ホロコースト」が、実際に起こったのか否かがイギリスの裁判所で争われたことがあるらしい。

僕はどうも「歴史」というものに懐疑的な目を向けてしまう。
それは、「歴史」は必然的に、厳密性に欠ける学問だ、と感じてしまうからだ。

歴史の正しさというのは、一体どのように判定されるのだろうか。僕には、イマイチよく分からない。
不思議なのは、本書で扱われるホロコーストや、あるいは南京事件など、比較的最近の出来事についても、そもそもそんなことが起こったのかどうかという根本的なレベルから議論が起こる、ということだ。

僕は、ホロコーストも南京事件も、起こったのだろうと思っている。思っているが、それはそう教わったり、そういう状況を本で読んだりしたからだ。本当に起こったと言えるのか?と問い詰められれば、分からないと答えるしかないだろう。

ここが、歴史の限界だと僕には感じられる。

もちろん、様々な証拠が存在する。本書では、ホロコーストに関して、それが起こった出来事であることを示すために、様々な形で証拠が提示される。僕はホロコーストが起こらなかったなどと主張したいわけではないが、それでも、歴史学者に出来ることは、様々な証拠を「いかに解釈するか」でしかない、と僕には感じられるのだ。

もちろん、それが無意味だとは言わない。しかし、歴史は解釈に過ぎないと思っている僕としては、解釈の正しさを闘わせることに、本質的な意味はない、と感じられてしまう。

いや、こんな風に書くと、僕の言いたいことが伝わらないなぁ。結局僕が言いたいことは、映像や写真があればほぼ確実だと言えるが、そうではない場合、歴史は様々な証拠を解釈するだけになる。もちろん、「経験した」という人もいるだろう。ただ、僕はこんな風に考えてしまう。例えば今僕の目の前に、「9.11のテロの際、ツインタワーの中にいたんだ」と喋りだす男がいて、自身の経験を滔々と語るとしよう。僕はその人の証言を、「正しい」と判断できるだろうか?9.11は、誰もが「起こったことだ」と知っているからいいが、例えば目の前に、「太平洋に浮かぶ小さな島で生物兵器が使われ島民のほとんどが死んだ」と主張する人がいたとして、その人のことを信じられるだろうか?

みたいなことを考えてしまう。

だからこそ、本書の裁判を担当したリーガルチームが、「ホロコーストが起こったかどうか」ではなく、「原告が嘘つきかどうか」を争点にしたことは正しいことだと思う。起こったかどうかは、究極的には解釈の問題だ、という感覚を、僕は捨てられないからだ。

「科学」という学問は、ちょっとタイプが違う。

科学のことが好きなのは、科学には厳密さがあるからだ。

科学であるためには、最低限クリアしなければならない2つの条件がある。一つは「再現可能性」。これは、ある人が行った成果を、別の人がやっても同じ状況を再現できる、ということだ。つまり、透視やハンドパワーなど、別の人が再現できない状況は、科学では扱わない。そしてもう一つが、「反証可能性」だ。これは、「ある理論が、どうだったら間違いだと言えるか」というものだ。そう、科学というのは常に、「もしこうだったらこの理論は誤りである」と示せなければならないのだ。だから、「Aさんは透視が出来るが、この部屋の中にAさんの透視能力を疑う者がいればその能力は発揮されない」などと主張する場合、それは科学ではない。こう主張しておけば、透視が成功しなくても「この部屋に透視能力を疑う者がいたのだ」と主張すれば間違いにはならない。どう転んでも誤りであると示せないので、科学ではない。

歴史には、こういう厳密さがないように感じられる。もちろん、歴史学者は皆厳密に研究をしているのだろうが、しかし客観的に見て、歴史が科学と同程度の厳密さを獲得できる可能性は低いだろう。

そんな風に考えてしまうから、歴史というものをどうにも苦手だと感じてしまうのだ。

内容に入ろうと思います。
2000年1月、驚くべき裁判がイギリスで行われた。なんと、ホロコーストが起こったか否かが焦点となる裁判が開かれたのだ。
経緯はこうだ。アメリカで歴史研究を続けていた、さほど名を知られていたわけではない女性歴史家であるリップシュタット(本書の著者)の元に、1995年のある日速達が届いた。差出人は、彼女が執筆した「ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ」のイギリスの版元であるペンギン・ブックス。そこには、歴史家デイヴィッド・アーヴィングが、「ホロコーストの真実」の記載は名誉毀損だと訴えを起こすつもりだ、と記されていた。リップシュタットはその本の中で、「アーヴィングはホロコースト否定者だ」と書いた。アーヴィング自身、自らそう主張しているので名誉毀損に当たるはずがないと思い、当初リップシュタットはこの知らせを大したことではないと放っておいたが、アーヴィングが本当に訴えを起こすと分かって、厄介なことに巻き込まれたと感じた。
というのも、アメリカの法律であれば、訴えた側に立証責任があるのに対し、イギリスの法律では訴えられた側に立証責任があるからだ。つまり、イギリスの法律の元で名誉毀損で訴えられたリップシュタットは、自分の主張、つまりアーヴィングがホロコースト否定者であり、それがユダヤ人差別主義から生み出されている考えだということを証明しなければならなくなったのだ。
リップシュタットは、最高のリーガルチームの協力を得られることになった。また、150万ドルにも上る裁判費用は、ユダヤ人コミュニティが様々な形で援助してくれることになった。リーガルチームは、アーヴィングのこれまでの著作や書簡など膨大な量の資料を精査し、一流の歴史学者などの協力も得ながら、アーヴィングがいかに証拠を歪曲し、自説に都合のいいように捻じ曲げていたのかを、様々な形で暴き立てることとなった。
そして2000年1月、ついに世界中が注目する裁判が始まった…。
というような話です。

なんだか小説みたいな展開ですが、実話です。しかし、ホントに凄いことが起こるものですね。まさか法廷で、歴史論争が行われるとは、という感じです。

ただ、この裁判に臨むリップシュタットとアーヴィングの思惑は、それぞれにちょっと違います。

リップシュタット側は、先程も少し触れたように、「ホロコーストが起こったか否か」を焦点にしません。そうではなく、「アーヴィングがいかに資料を歪曲し捏造するか、そしてそれが極度のユダヤ人差別主義から生まれているか」ということを立証しようとします。一方でアーヴィング側は(というか、アーヴィングは弁護士を立てずに自己弁護しているので、「アーヴィングは」、ですが)、「捏造や歪曲などはしていない」と主張ももちろんしつつ、この裁判の場で「ホロコーストなど起こらなかった」と主張するのに労力を費やします。

また、リップシュタット自身もなかなか難しい立場にいます。リップシュタットは、アーヴィングが裁判の場で、間違った歴史認識や事実誤認を開陳し続けることに我慢がなりません。しかし彼女はリーガルチームから、「喋るな」と言われてしまいます。この法廷の趣旨は、ホロコーストが起こったかどうかという歴史論争にはない。リップシュタットに口を開かせてしまえば、アーヴィングの挑発に乗って歴史論争に引きずり込まれてしまう可能性がある。だからリップシュタットは、どれだけ言いたいことがあっても自分の口では言えず、法廷弁護士に任せるしかないのです。

こういう、かなり複雑な状況の中で、しかも「ホロコースト」という歴史上の出来事がメインとなる裁判が行われる、というのは相当異例でしょう。実際に、裁判が始まった時や判決が出た時などは、多くの報道陣に囲まれることになります。

本書を読むと、嘘つきの凄まじさみたいなものを感じます。

身近にもいるので、実感として分かりますが、極度の嘘つきというのは、自分が嘘をついているという自覚がありません。誰がどう聞いても理屈に合わない意見でも平然と口に出来てしまうし、自分にとって都合の良いように現実を捻じ曲げる能力には凄まじいものがあります。

本書で描かれるアーヴィングも、ちょっと凄まじいものがあります。短い引用で、その傲岸さが伝わる箇所をいくつか抜き出してみます。

『ランプトンはアーヴィングに、ヒムラーが<狼の巣>に呼び出されたという記述の裏付けとなる証拠を示すよう求めた。アーヴィングは即座に、「それに関するわたしのすぐれた専門的意見がその証拠です」と答えた。手元の書類を見ていたランプトンが驚いて顔を上げた。「えっ?」アーヴィングはもう一度言った。「それに関するわたしのすぐれた専門的意見がその証拠なのです。詳しい説明をお望みですか?」グレイ裁判官もアーヴィングの返事にいささか困惑の様子で、意味がよくわからないので詳しく説明してもらえないかと言った。』

『ランプトンは“あの女はとんでもない嘘つきだ”と、ビドル裁判官(※ニュルンベルクの国際軍事法廷で裁判官を務めたアメリカ人)が実際に言ったのかどうかを訪ねた。アーヴィングは彼自身の“脚色”であることを認めたが、ビドル裁判官はあの女の“荒唐無稽な”証言に“呆れはてて”いたのだからこれは正当な脚色だ、と主張した。』

『ランプトンはアーヴィングに、ゲーリングがその場にいたとか、目を丸くしていたとか、どうしてわかるのか、と訪ねた。アーヴィングは「著者の特権です」ときっぱり言った。「作り事だというのですか…フィクションだと?」アーヴィングはランプトンに講義をするような口調で言った。「人に読んでもらう本を書くときは…読みやすくするために工夫するものです…」』

『ランプトンは疑問を呈した。「司法制度を捻じ曲げたこの言語道断なやり方に、アーヴィング氏が著書のなかでひと言も触れていないのはなぜでしょう?」アーヴィングはそれに答えて、その件をとりあげれば“八ページ分のごみを本に加えることになる”と主張した。ランプトンの意見は違っていた。「真実を書くスペースが見つからないなら、執筆そのものをやめるべきです」自分の解釈こそが真実だ、とアーヴィングが抗議を続けたが、ランプトンは次の項目へ移った』

短い引用で伝わりやすい部分を選んだので、内容的には瑣末なものが多いが(本書を通して読むと、アーヴィングが著作やスピーチの中でしてきた歪曲や捏造の凄まじい程度が理解できる)、それでも十分理解不能というか、歴史家を名乗るべきではないと感じるレベルだと伝わるのではないか、という感じがします。

ある主張の根拠が「自分のすぐれた専門的意見」だと言ってみたり、執筆した歴史書の中の記述について脚色であることを認めたり、自分の主張にとって都合の悪い(しかし状況判断に非常に重要な)事実を“ごみ”と断言して著作に含めないとか、やっていることはメチャクチャなのだ。

しかし、アーヴィングの存在の危険さは、捏造したり歪曲したりしている、という点だけにはない。そういう歴史家は恐らく他にも多く存在するだろうが、アーヴィングは、この裁判の前までは、歴史家として一定以上の評価を受けているのだ。

「学者としてのアーヴィングの不撓不屈の努力はいくら褒めても褒め足りない」
「リサーチの巨人」
「アーヴィングが不当に無視されてきた」
「『ヒトラーの戦争(※アーヴィング著)』は第二次世界大戦について書かれた本の中で一、二を争うすぐれた著作である」

これらは、様々な歴史家によるアーヴィングへの評価だ。もちろん悪い評価も多々あるのだが、良い評価をする者もいる。アーヴィングはただのホロコースト否定者ではなく、一定以上の評価を受けた歴史家でもあり、だからこそアーヴィングの捏造や歪曲による主張は危険なのだ。

それ故に、リップシュタットが受けて立ったこの裁判が非常に注目され、大きな影響を与えたのだ。

『わたしは自分を守るために、表現の自由を信じる心を保つために、そして、歴史に関して嘘をつき、ユダヤ人やその他の少数民族に対するひどい軽蔑を口にした男を打ち負かすために戦ったのだ』

リップシュタットは本書で、この裁判の本質がきちんと理解されていないこともある、と嘆いているが、イギリスやユダヤ人社会を中心に、リップシュタットの奮闘は正しく評価され、一方アーヴィングを始めとするホロコースト否定者は非常に苦しくなった。ホロコーストに限らず、歴史認識に対する誠実さや、表現の自由の大事だ、正義を貫く勇気などを与えたこの裁判は、「ホロコーストの実在を証明した」という以上の大きな成果を生み出したのだと思う。

しかし本書を読んで、情報を取り込む際にはより注意しなければならないなと感じるようになった。

例えば僕は、元々理系の人間で、科学や数学が好きなので、そういう方面の情報であれば、ある程度は胡散臭い話かどうかの匂いは分かると思う(とはいえ、STAP細胞の情報が出始めた時、本当の話であって欲しいと無意識に思ってしまったので、あまりアテにはならないけど)。ただ、自分が関心のある分野以外の情報については、そういう匂いはきっと分からない。経済・政治・歴史・国際情勢・文化・社会問題…などなど、そういう事柄に関して、アーヴィングのように悪意を持って嘘を垂れ流そうという意志で情報を拡散しようとする人間がいる場合、その情報を素直に受け取ってしまいそうな自分がいて怖い。

本に書いてあるから、というだけの理由で信じるというような愚かなことはしないが、自分が触れている情報は常に誤りである可能性があるのだ、ということを意識しながら、これからも様々な情報を取り入れたいと思う。

デボラ・E・リップシュタット「否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い」

先日、「Nogizaka Journal」というサイトに、「自己不信なプロデューサー・松村沙友理」という記事を書いた。その冒頭で僕は、こんなことを書いている。

【僕がグラビアやライブにあまり興味が持てない理由の一つは、外側から見るだけでは「ホントウ」に辿り着けないと思っているからだ。もちろん、言葉も嘘をつくし、「ホントウ」を正確に表現できないことだってある。それでも、少なくとも僕にとっては、本人の口から出る言葉の方が、より「ホントウ」に近いと感じられる。だから僕は、彼女たちの言葉を見聞きして「ホントウ」を知りたいと思ってしまうし、その過程で、外側から見たイメージを覆される瞬間を楽しいと感じる。】

同じようなことがこのエッセイの中に書かれていた。

『どれほど言葉をやり取りしても、傍で長い時間を過ごしても、その人が書いたエッセイを読む以上に、その人の本当に触れることは難しいような気がする。
少なくとも、私は知っている人が書いたエッセイを読んで、1から10まで思った通りだと思ったことはない。
もちろん、日記ではなく、人に読まれることを前提にして書いている文章なのだから、虚飾やサービスもあるだろう。
でも、見抜けるでしょう?そういうの、わかった上で読んでいるでしょう。
言葉通りでなくても、その人がどんな人で、何を考え、何に本人ですら気づいていないのか、エッセイを読む人は触れることができるのだ』

分かるわぁー、と思う。

僕は乃木坂46のファンだが、ファン活動の中心は、雑誌のインタビューを読むことである。握手会にもライブにも行かないし、雑誌のグラビアにもさほど興味はない。とにかく、彼女たちの発した言葉に関心がある。

もちろんエッセイとインタビューは別物だろうが、言わんとしていることは共通するはずだと思っている。頭の中の世界を文字にするのでの、問われて答えるのでも同じだが、結局のところ、「言葉」というものを使っていかに自分を表すか、ということだ。「目は口ほどに物を言う」とか「百聞は一見にしかず」みたいなことわざもあるし、「インスタ映え」って言葉が流行語大賞になってしまう時代だったりするから、視覚的な情報の強さみたいなものをみんな信じているような気がするんだけど、僕はそこまで信頼していない。言葉ももちろん絶対じゃないけど、言葉を取り込み言葉を吐き出すことを続けてきた人間の、言葉で切り取ることが出来る自己認識の方を、僕はより信頼している。

言葉を必要とする人間は、世界に馴染めない人間だ。

考えてもみてほしい。日常の生活や周囲の人間関係に違和感を覚えることがなければ、言葉なんか必要としなくたって全然生きていける。「カワイイー」「ヤバイ」みたいな、何かを言っているようで何も言っていない言葉だけで仲間内の会話は済んでしまうし、価値観が合う者同士なら、写真やスタンプなんかを使えばコミュニケーションは取れてしまう。だから、世界に馴染めていればいるほど、言葉なんか要らなくなるのだ。

でも、世界にどうしても馴染めない人間というのも、もちろんいる。僕もそうだ。だから、考えるしかない。自分の何がダメなのか、周囲に溶け込むためにはどうすればいいのか、目の前のこの状況は何故生まれたのか、他人から求められていることは何なのか、そしてそれは本当に自分がしたいことなのか――世界に馴染めなければ馴染めないほど、こういうことを考えずには生きていられないし、そうであればあるほど、思考のための言葉を切実に必要とする。

基本的にこのエッセイには、アホみたいなことがアホみたいな文章で綴られている。そのアホさ加減には、驚かされるほどだ。

『シャワーの〆に手鼻をかむ』

『私はブラジャーを1枚も持っていない』

『イカを捌くときは、全裸に限る』

『また絶望感に心が支配されそうになったので、ハンディブレンダーできなこバナナミルクを作る、一服した。健やかなる甘みよ、豊富な繊維質よ。我が心と腸を救っておくれ。
なんて、どんなに大地の神に感謝の祈りを捧げても、健康に暮らしても、ウイルス兵器をぶち込まれたら我々ひとたまりもないのですけどね。ハハッ。』

いや、正直、何を書いているんだお主は、というような話のオンパレードだ。

いや、本書を貶したくてこんなことを書いているのではない。これからダラダラと、本書の面白さについて書いていくのだが、まず僕が書いておきたかったのが「言葉」の話であり、「世界に馴染めない」話なのだ。

全体的にアホみたいな本なのだが、全部かというとそうではない。たとえば、不意にこんな文章が出て来る。

『私も同じようなことに悩んでいた中高時代、学校へ行かず、LIVEに足を運んでいた。私がいてもいなくても全く影響のない場所で、感情の動きを全てライブハウスの空気に委ねる時間が、切実に必要だったのだと思う』

こういう文章が出てくるから侮れないし、本書で醸し出される「アホさ」が、計算によって作り出されたものなのだ、ということが伝わってくるのだ。

エッセイを最初から最後まで読むと、きっと皆分かるだろう。著者は言葉を持っている人なのだ、と。そして、言葉を獲得した背景には、世界への馴染めなさが潜んでいるのだ、と。

『人生のうち、どうしても衝動を抑えられず、何度か積み上げたものを全てぶっ壊すということをしてきた。その都度人を傷付け、期待を裏切り、自分自身への信用を失くしていった』

この文章は、僕が書いたんじゃないか、と思うほど、最初の「人」から最後の「た」まで余す所なく僕の話でもある。疑問なく世界に馴染める人は、こんなことにはならない。そう、必死で生きているだけなのに、いつの間にか世界の淵から滑り落ちてしまう人間にしか分からない葛藤や絶望が、著者の人間性を作り出す土台となっている。

そしてだからこそ、このエッセイが面白いものになっている。テーマや文章やエピソードがどれだけアホらしくても、著者が「滑り落ちてしまう人間」であり、「でも滑り落ちすぎないようにと努力した人間」であり、「その過程で言葉を取り込んでは吐き出してきた人間」である以上、そこには何かが宿る。「言葉」というのは、価値観や概念を通す「ざる」の網目のようなものだ。蓄積すればするほど網目が細かくなり、価値観や概念をより繊細に漉すことが出来る。

『共感せずとも、人の気持ちがわからない人間ではない。本当はわかっていないのかもしれないが、そんなのはみんな一緒だ。
悪口はいくらでも言えるし、瞬間湯沸かし器ではあるが、それをSNSで世界に発信しないのは、埋もれるほど小説を読んできたおかげだと思っている』

言葉を蓄積し続けてきた著者は、世界をより細かな網目を通して見ることが出来る。著者が世界をどう見ているのか、という点にこそこのエッセイの主眼があるのであって、それをアホみたいな文章で表現しているという点は、書く時のテンションや売る戦略など、本の内容そのものとは違うステージにあるものだ。

立ち読みでパラパラページをめくった人が、アホみたいな文章だなぁ、という理解でストップしてしまわないことを祈る。

『大人になったらできるだろうと思っていたことが、何もできていません。
会社員に向いていない。
結婚に向いていない。
大人に向いていない。
エッセイを書いてみて、改めて自覚しました。』

本書を読んでると、似てるなぁ、と思う部分がたくさんある。僕も、会社員に向いてないし、結婚に向いてないし、大人にも向いてない。

『私はこれでも人間なのだろうか』

これも昔思ったことがある。祖父が亡くなった時だ。それまでにも身近な人の死を経験していたのだけど、祖父が死んだ時も、悲しいと思わなかった。今に至るまで、人が死んで悲しいと思ったことが一度もない。あぁ、これは人間ではないんじゃないだろうか、と思ってちょっと悩んだこともある。今では、まあ別にいいか、悲しくないもんはしょうがない、と開き直っているのだけど。

著者はエッセイの中で、自分がサイコパス扱いされているのではないか、と不安を抱く場面があるのだけど、まあきっと著者はサイコパスだろうし、僕もたぶんサイコパスなんだろうな、と思う。まあ、たぶん犯罪なんかには手を染めないと思うので、害のないサイコパスだと思って放置しておいていただけるとありがたい。

他にも共感できるポイントが多すぎる。

『私は私を世界一信用していない』

『基本的に人間が好きではないのだ』

『寂しいという気持ちがどういうものなのかはなんとなくわかるのだが、実感したことはない。
人に恋することはあるが、ただ人が恋しいと思ったことはないし、ただ寂しいから人に会いたいと思ったこともない』

『自分の努力が及ばないところで褒められてもピンとこないし、自分を信じていないから他人が言うことも信じられない』

あれ、これ僕が書いたエッセイだっけ?と錯覚するぐらい、書いてあることが僕のことで、なんというか驚く。

しかし、もっと驚かされるのは、内側の核の部分はたぶん結構近いはずなのに、外側の見えている部分はこんなにも違うのか、ということだ。

先程僕は、「著者が世界をどう見ているのか、という点にこそこのエッセイの主眼がある」と書いた。いや、その表現に偽りはないのだけど、しかしだな、著者が経てきた世界そのものも、やっぱりちょっとおかしいとは思うのだ。普通に生きてて(しかも、僕のようなメンタリティの人間が、である)、そんなシチュエーションに遭遇することなんかないだろ、というようなエピソードも出て来る。「おなくら」の話とか、「女マリリン・マンソン」の話とかである。自分で突っ込んでいっている場合もあるし、引き寄せられている場合もあるだろうが、なんというか、何故そんなことが起こる???と思いたくなる。おかしい。僕も、頭のネジの配置がちょっと違えば、著者のように非日常的なシチュエーションに遭遇できる人生だっただろうか?

また、人としても、著者と僕とでは同じメンタリティを持っているようには見られないだろう。いや、どうだろう。自分ではなんとも言えないが、広く括れば同じ方向にはいるけど(サイコパスだし)、でも別物、みたいな見方になるのではないか、という気はする。そのこともまた、なんというか、不思議だなぁ、と感じながら読んでいた。

著者が世界をどう見ているのか、という話に戻ると、個人的には、トイレットペーパーを買う時の「テープでよろしいですか?」への疑問なんかは秀逸だと思う。僕も、エッセイに書かれていることとまったく同じことを思うが、これが秀逸だと感じるのは、わざわざメモするほどのエピソードでもないから、エッセイに書こうとした時に思い出せる可能性が低いと感じられる点だ。いや、もしかしたら著者にとっては大問題なのかもしれないからその辺りのことは断言は出来ないのだけど、そういう日常の中の、そんな些細なことをよく覚えていて、かつ、エッセイの中で適切なタイミングで登場させられるものだな、と感心した。

さて、ここでちょっと変なことを書こう。
僕は本書を読み始める前、もしかしたら本書は面白くないかもしれないぞ、と思っていた、という話だ。

僕は本書を読む前に、浅田次郎の「壬生義士伝」という、上下巻合わせて900ページを超えるような長い小説を読んでいた。だから、「壬生義士伝」の途中途中で、本書「探してるものは~」の適当なページ数を開いて拾い読みしていたのだ。

ただその時は、正直、あまり面白いとは思えなかった。2~3個エッセイを拾い読みしてみたのだけど、つまらなくはないけど言うほど面白くもないぞ、という感じだった。

だから、「壬生義士伝」を読み終えて、さぁ頭からちゃんと読みますか、という時には、あまり期待していなかった。

けど、頭から終わりまで通しで読んでみると、2~3個拾い読みした時とはまったく違う印象で、実に面白かった。

この不可思議な現象を、自分なりに分析してみた。

恐らくそれは、「こいつマジ何書くか分からねぇ」という謎の緊張感の中に取り込まれていった、ということなのだと思う。

本書を読むと、5ページに1回ぐらい、「おいおいそんなこと書いていいのか?」と感じる。書店員として、仕事人として、女性として、人として、そんなこと書いちゃってホントに大丈夫?と思うような描写がバンバン出てくるのだ。

僕自身も、何か文章を書く時は、自分が恥ずかしいと思うこと、出来れば書きたくないと思うことを書かないと面白くならない、と思っているので、比較的普通の人なら書きにくいと感じるだろうことも書くようにしている。でも、そんなレベルではない。読んでる側は別に問題ないけど、書いてるあなたには色々支障あるんじゃないでしょうか?と思うようなことが一杯書かれているのだ。

だから読み進めているとだんだん、「こいつ次は何言うんだ?」というような気分になってくる。

話は突然変わるが、ちょっと前に「素晴らしき映画たち」という映画を観た。「スターウォーズ」や「インディー・ジョーンズ」「ET」と言った誰もが知っている劇中曲を、誰がどんな風に生み出していったのかを描くドキュメンタリー映画だ。

その中で、「JAWS」のあの「ドゥードゥン」という、サメが登場する時の音楽を作ったエピソードも出てくる。映画の中で誰かが、「「JAWS」はあの効果音がなければ、何がなんだか分からない映画」と語っていたことを覚えている。

で、本書の著者に対しての「こいつ次は何言うんだ?」という感覚は、まさに「JAWS」の「ドゥードゥン」という効果音のようなものなのだと思う。あ、なんか来るぞ、という感覚に囚われるのだ。頭の中で「ドゥードゥン」と鳴るのだ。で、やっぱりなんか来るのだ。うわ、来たよ、という感じになる。拾い読みしている時には「ドゥードゥン」は鳴らなかったのだ。だから、頭から通して読む時と、印象が変わるのである。

『しかし、(エッセイを書くことで)失ったものならある。
深刻さだ。
過去に感じた怒りや悲しみが人生から消えることはないが、文章にした途端、深刻さを失い、それはもう、元には戻らなかった。全然笑えない話だったはずなのに』

言葉を蓄積すればするほど、世界を細かく見ることは出来る。しかし、どれだけ言葉を蓄えたところで、言葉というものが近似値であるという事実に変わりはない。感情や価値観や思考を、一片も漏らさず言語化することなど出来ない。それらは、言語化する過程で、どうしても何かが欠落してしまうのだ。著者の場合、欠落したものが深刻さだったのだろう。

ただ、言語化することで、「自分はこんなことを考えていたんだ」と感じる機会もある。少なくとも僕は、文章を書いていて時々そういう状態に陥る。頭の中にある概念や価値観について書いているはずなのに、出力された言葉を目で認識することで、自分の頭の中の概念や価値観を理解する、という瞬間がままあるのだ。

「探しているもの」が、言語化することでしか見えてこない自分の頭の中にあるのだとすれば、「そう遠くはないのかもしれない」という認識は、エッセイを書いた今だからこそ、より正しさに近づいたと言えるだろう。

新井見枝香「探してるものはそう遠くはないのかもしれない」

『太一とは、「恋人」じゃダメだった。なら「友達」に戻れば、またうまくいくのだろうか。俺と太一は、どんな名前だったらうまくいくんだろう』

あぁ、すげぇ分かるなぁ、と思う。

僕は、数少ない恋愛経験から、「恋人」という名前だとうまく行かないことが分かった。相手のことがどれだけ好きでも、「恋人」になるとダメ。僕はそのことに、色んな理屈をつけて自分を納得させようとしてるんだけど、どうしてそうなってしまうのか、本当のところはよく分からない。

そういう人は、男女限らず結構いるだろう。例えばちょっと話はズレるかもしれないが、「好きな人なのに、相手に好きになられると、気持ち悪いと感じてしまう現象」には「蛙化現象」という名前がついており、論文も存在する。論文が存在することと、論文の内容が正しいことは、決してイコールではないけど、「蛙化現象」と呼ばれる現象に近いことは、僕にも理解できる。僕も、その人のことが好きなはずなのに、相手が自分のことを好きになってくれると、相手への関心を失ってしまう。自分でも、どうしてそうなるんだかイマイチ分からないのだけど、どうしてもそうなってしまうんだからしょうがない。

でも、男女の恋愛をテーマに、この「蛙化現象」を描くのは、ちょっと困難だろう。論文になんて書かれているのかは知らないが、少なくとも「蛙化現象」はまだ一般的な概念ではないだろうし、であればその現象を理解してもらうために様々な説明や状況設定が必要になる。決して少なくない人間が「蛙化現象」を感じているはずだろうに、それを表現するのにはなかなか困難だろう。

そして、もう少し話を拡大して、「蛙化現象」に限らず、「恋人になるとうまくいかなくなってしまう」というのを男女の恋愛で描き出すのは、結構難しいように思う。男女の恋愛の場合は、恋人になったことそのものではなくて、何らかの外的要因とか、お互いの内面の変化など、そうだよねそれなら恋人としてうまくやっていけないよね、と思ってもらえるような何かを用意しないと、なかなか描きにくい。

でも、男同士の恋愛であれば、それをうまく描ける。

『女の子は友達、恋人、それから結婚して家族になる。でも俺と太一は恋人がゴールで最後だった』

男女ではうまく説明できない「恋人になったらうまくいかない理由」を、この作品では、「男同士だと家族になれないから、恋人が関係性の執着だ」という描き方をすることで提示する。そこに、この作品がBLである必然性があって、そういう作品は好きだ。

『どうなったらゴールなのかも分かんねえ』

「好きだ」ということを描くだけなら簡単だ。喧嘩して、仲直りして、トラブルを乗り越えて、セックスして、そういう二人のやり取りを眺めるだけで楽しい、という人もいるだろう。でもこの作品のように、男同士の関係性をリアルに突き詰めてみるのも面白い。

「家族」なんて概念は、時代によって変わる。時代の都合に合わせて、特に為政者にとって分かりやすい価値観に押し込められるだけのことだ。そんな押し付けられた「家族」って概念なんて、さっさと捨てればいい。

『男2人ってやっぱり、ご近所の目とか物騒だと思われたりするんですよ。何より偏見がありますからねぇ…大家さんにもよるんですけど』

社会は、簡単には新しいものを受け入れない。いや、別に男同士の関係は、新しいもの、というわけではないか。やはりこう言うべきだな。多数派は、簡単には少数派を受け入れない。だから、多数派の論理についていけないと思ったら、多数派の論理なんか捨てるしかない。

『こえーんだよ。なんか…なんでもいい。名前がつかないと。友達とか恋人とか…家族とかさ』

名前が付けられたって、そこに自分たちの関係を押し込めているだけなら意味がない。2巻目は、彼らにその自覚を促す展開だった。

僕は、なるべく名前の付かない関係性を目指している。窮屈に生きるより、全然マシだ。

内容に入ろうと思います。
高校時代付き合っていた太一と直人は、酷い別れ方をして、疎遠になった。驚異のコミュ力で大学入学早々男女ともにすぐに仲良くなってしまう直人は、あちこち声を掛けている時に驚いた。
同じ大学に、太一がいたのだ。高校時代、文系だった直人と理系だった太一。大学が被るはずないと思っていたけど、まさかここで会うとはね。
直人は、気まずさを抱えながら太一と一緒にいるが、次第に分かってくる。
太一とは「恋人」ではいられなかっただけで、「友達」としては凄く楽しい、と。好きになりさえしなければ大丈夫、余裕だ。
そう思っていたのに、やっぱりダメだった。結局また太一と関係を持ち、付き合うことになってしまった…。
というところから物語が始まっていきます。

本書の核となる部分については冒頭で触れたので、あと僕が書きたいことは2つ。

一つは、本書には珍しく「女子」が登場する、ということです。もちろん、モブ的な感じで女子が登場するBLはあるでしょうけど、本書では、恋愛対象者として女子が登場します。これは、水城せとな「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる」でも同様でしたけど、物語の展開のさせ方としては、恋愛対象者として女子が登場すると圧倒的に難しくなります。だって、「男」と「女」を比較させて、「男」を選ばせなければいけないわけですから。それを、ごく自然にやるのは凄く難しいと思うので、そういう意味でも本書はなかなか凄いなと思います。

あともう一つ。本書は、直人が超チャラ男で、作品全体の雰囲気はその直人の雰囲気に引きずられる形で超チャラい感じになっています。でも、作品全体のテーマとしては、「男同士でも家族になり得るか」というかなり真剣なもので、そのギャップが結構良い効果を出していると思います。あとがきで著者が、「今時の若者言葉の難解さにも苦しみましたが」と書いているように、学内で展開される会話にたまについていけないこともあるぐらい、「今時の若者感」全開って感じでしたけど、それでも真剣な場面ではびっくりするぐらい真剣で、その緩急が凄くいいなぁ、と思いました。

2巻では、仁科京っていう新キャラが登場して物語をかき回しますが、さてさてこの後太一と直人がどうなっていくのか、楽しみでございますね!

おげれつたなか「エスケープジャーニー 1・2」

僕は、今は「乃木坂46のファン」だと自分で思っているが、そうなる前は、それがどんな対象であれ、何かの「ファン」になるという経験がなかった。芸能人の誰かを好きになる、という程度のことはあっただろうけど、僕の中では「ファン」というのは、「その人・そのグループのことをもっと知りたいと思う人」だと思っていたから、テレビでちょっと見て良いなぁと思うぐらいのことは、「ファン」とは違うなと思っていた。

今では僕は、ライブや握手会にこそ行かないが、乃木坂46のシングルやアルバムは買うし、齋藤飛鳥を中心に乃木坂46が載っている雑誌があれば買う。「乃木坂工事中」も見るし、こんな風に彼女たちについて勝手に文章を書いてみたりする。こういう行動を今までしたことがなかったので、今では自分のことを「ファン」だなと感じるのだ。

でも、「ファンであるということ」について考えさせられる、齋藤飛鳥のこんな言葉を読んで、僕は驚いた。

【―アイドルって難しいですね
難しいですよ。みんな「センターになってほしい」と言うのに、なった瞬間に「さよなら」と言う方もいるから、どっちなんだろうって】「EX大衆 2018年1月号」

この発言は慎重に捉えなければならない。そもそも雑誌のインタビューなので、この発言も、齋藤飛鳥が言った通りそのままということはないだろう。その上で書くが、「センターになってほしいと言うファン」と「なった瞬間にさよならと言うファン」が重なっていない可能性もあるだろう。「センターになってほしいと言うファン」は齋藤飛鳥がセンターになったことを喜び、「なった瞬間にさよならと言うファン」は、齋藤飛鳥がセンターになることを望んでいなかった、という状況は十分に想像出来る。

しかし、仮にそうだとしても僕には、「なった瞬間にさよならと言うファン」のことはうまく理解できない。
彼女は同じインタビューの中で、こう答えている。

【「センターになったからもう応援する必要ないよね」と言うファンの方もいて。ただ応援する気がなくなったことを「センターになったから」にこじつけてらっしゃるなら、それは嫌だなと思ったんです。】「EX大衆 2018年1月号」

いやぁ、そりゃあそうだろう。僕は齋藤飛鳥ではないから僕が怒るのは筋違いにもほどがあるが、そんなことを言われたらどうしたらいいか分からなくなってしまうだろう。

大人数アイドルグループの宿命として、「センター」というのは非常に大きな存在だ(余談だが、ちょっと前に見たニュースでは、新しい「広辞苑」の「センター」の項目には、「アイドルグループの中心の人」というような意味が掲載されるようだ)。全員ではないにせよ、アイドルである以上、センターになることは大きな目標の一つにはなる。齋藤飛鳥自身は、センターを特別目指していたわけではないという発言をしていたが、それでもファンからそう言われることはあっただろうし、センターというものに対してまったく無関心でいられたはずもないだろう。

それなのに、センターになった途端、応援しなくてもいいよねと言われる、というのはあまりにも理不尽だなぁと、乃木坂46で初めてアイドルファンになった僕には感じられるのだ。どうなのだろう。こういう考え方は、アイドルファンの中ではよく見られるものなのだろうか?

そもそも僕は、「センターになった=ファンを辞める」という図式に納得がいっていない、というわけではない。そもそも僕は、外側の変化だけで人の好き嫌いが変化する、ということの意味がよく分からないのだ。

似たようなことは、齋藤飛鳥自身も言っている。

【そもそも、顔面だけで「かわいい」って判断って、できなくないですか?
―どういうことですか
人類がみんな勘違いをしていると思うんですよ。その人の雰囲気、しぐさとか込みで「かわいい」と思うわけで、顔面だけ見て「かわいい」って言うのがよく分からない。それこそしーさん(白石麻衣)の顔は「整っている」と思うし、しーさんにはしーさんの雰囲気があるからきれいでかわいいな、と思うけど。個人的には、顔面の画像だけを見て「かわいい」とか「かっこいい」とか思うことはないですね。もちろん乃木坂のメンバーをテレビや雑誌で見るとかわいいと思うけど、それって愛とか感情が入っているから、純粋な判断ではないので…】「2017東京ドーム講演記念 乃木坂46新聞」

これは「容姿」に限定した話ではあるのだけど、言いたいことは同じはずだ。外側の情報だけで何かを判断することの無意味さみたいなものを、彼女自身も感じているのだと思う。

「センターになった」というのは、齋藤飛鳥にとっては外側の情報でしかないだろう。もちろん、齋藤飛鳥は様々なインタビューで、センターになったことで考え方や価値観が変わった、という発言をしている。だから、「センターになったから応援しなくなる」と言う時の「センターになった」が、「センターになったことによる変化」まで含んでいるんだったら、理解できなくもない。

しかし、たぶんそういうことではないのだろう。齋藤飛鳥が見聞きした「センターになったから応援しなくなる」という発言は、「センターになった」という外側の変化だけについて言及しているのだと僕には感じられる。

そして僕は、そんな外側の情報の変化だけで好き嫌いを判断してしまうことに、キツイ言い方をすれば嫌悪感すら抱いてしまう。

僕は齋藤飛鳥が好きだ。でも、もし齋藤飛鳥が乃木坂46に所属していなくても、何かの形で彼女の存在を知り、その考え方を知る機会があれば好きになっていただろう。センターであろうがなかろうが、恋愛や不倫や結婚をしようが、齋藤飛鳥である限り僕は彼女のことを好きでいるだろうと思う。

齋藤飛鳥はもちろん可愛いと思うし、彼女を好きになる要素として彼女の容姿がまったく無関係だなどと言うとやはりそれは嘘になるだろう。とはいえ、じゃあ齋藤飛鳥の容姿だけで彼女のことを好きになるかというと、僕の中ではそれはない。「乃木坂46の齋藤飛鳥が好きな理由」という記事に中で書いたが、僕はある雑誌のインタビューを読んで彼女を好きになった。それよりも前に彼女の顔は知っていたが、インタビューを読むまで齋藤飛鳥には興味がなかったのだ。

人を好きになる理由なんてなんだって構わないし、人それぞれ自由だ。僕は別に、容姿や外側の情報だけで人を好きになることを非難しているわけでは決してない。それも、別に自由だし、何の問題もない。けど、「センターになったから応援しなくていい」などという理不尽はさすがに許容できないと感じてしまう。

彼女は、こうも語っている。

【応援する理由を渡さなきゃいけないのかなと考えてしまうんですよ。「自分に非がある」と思うタイプなので、どうしようかなって。】「EX大衆 2018年1月号」

あぁ、こんな風に齋藤飛鳥を歪めないで欲しいなぁ、と思う。仮に「センターになったから応援しなくてもいい」と思ったのだとしても、それを彼女に伝える必然性がどこにもないはずだ。黙って彼女の前から去ればいい。あるいは、自分に関心を惹かせるための発言なのだとすれば、なんというか最悪だ。

【運だけでここまで来てますから】「乃木坂46×プレイボーイ2017」

【「自分のここがいいな」って思う瞬間が、19年間生きてきて1度もないですから。そんな人を、他人がいいって思うわけがないですから】「2017東京ドーム講演記念 乃木坂46新聞」

【ふだん、大人数グループで活動していると、いろんなところで『自分にしかないものは何ですか?あなたの強みは何ですか?』って聞かれることが多くて。そのたびに、自分には何もない、強みがないって思ってしまうことも。】「装苑 2017年10月号」

齋藤飛鳥という女の子は、あれだけの容姿で、10代の若さで大人気グループとなった乃木坂46のセンターを務め、雑誌やラジオやテレビなどで活躍の場を広げているにも関わらず、それでもこれほど自信を持てないでいる。自信のなさは昔からだが、乃木坂46というグループや自分自身の存在感がどれほど大きくなろうとも、それに驕ることも偉ぶることもない。

そんな人間を捕まえて、「センターになったから応援しなくていい」と発言する意味が分からないし、そういう人は別に彼女自身にはさほど関心がなかったのだろう、とさえ思ってしまう。

齋藤飛鳥としては、インタビューで何の気なしに発言したことかもしれないし、自分の中でさほど大きなことだとも思っていないかもしれない。もしそうだとしたら、そんな発言一つを拾って殊更に怒りを発しようとする僕の今回の記事は迷惑以外の何物でもないかもしれないが、あまりにも僕が考える「ファン」という概念とかけ離れた発言だったので、素通りすることが出来なかった。

【『まわりの人や環境に期待はするけど、アテにはしない!』って気持ちは大事ですね。期待って、すればするほど裏切られたとき落ち込んじゃうじゃないですか。私、それが怖いんですよ。なので、期待するんだけどしすぎないように、セーブをかけている感じです。そうしたら感情の浮き沈みが減って、些細な幸せにも気づけるようになりました。はじめての挑戦は、やっぱり不安。でも、日々の積み重ねの中で自信をつけたり幸せや楽しさを見つけられたら、不安ってわりとすぐに消え去るものなんですよね。私は、それを早く見つけるためにも、落ち込まないようにしています】「留学ジャーナル 2017年11月号」

昔から齋藤飛鳥はこういう発言を随所でしている。これは僕自身の中にもある考え方だし、非常に共感できる。そして、こういう考え方を持っているからこそ、彼女は自信がない中でも自分を保つことが出来ている。

ファンからの「センターになって欲しい」という期待をアテにしていたら、「センターになったから応援しなくていい」という発言に立ち直れなくなっていたかもしれない。乃木坂46というグループは、彼女が「居場所」と呼ぶほど居心地の良い場所だろうが、芸能界というのはやはりどうしても殺伐とした雰囲気の拭えない環境だろう。そういう中で、外側の情報はどう変わってくれてもいいから、「齋藤飛鳥」が死なないで欲しいなと思う。少なくとも僕は、齋藤飛鳥が齋藤飛鳥である限り、ずっと好きでい続けたいなと思っている。

そんな彼女は、最近また新しい考え方を取り入れたようだ。

【そういう「変だな」ってことをやってみたいって思うようになりました。昔は、「みんなと一緒がいい」とまでは思っていなかったけど、「人と違いすぎること」は怖いと思ってたので。でも今は恐怖じゃなくなりました】「Weekly プレイボーイno.39・40」

【なんか今、「自分がイヤなことをしよう」って思っていて。今、自分が嫌いなことを吸収しようと思う時期なんです】「Weekly プレイボーイno.39・40」

これも、僕の中にもある感覚で、共感できる。彼女もどんどん変化する。変化する過程で当然、僕が好きになれない考え方を取り込むかもしれない。そうなった時でさえ彼女のことを好きでい続けられるか、それはその時になってみないと分からないが、とはいえ、彼女には変化を恐れずにどんどん新しい考え方を取り込んでいって欲しいと思う。読書家であり、かつ、普通の人が体験できないようなアイドルという経験を日々出来ている齋藤飛鳥であれば、普通の人生を生きるよりもより多様な価値観と触れる機会が多くあるだろう。そういう中で、何かに流されるのではなく、自分で様々な考え方を掴み取って熟成させる人であって欲しいなと思う。僕は、それが出来ている齋藤飛鳥が好きだし、その部分が無くならない限り、彼女のことを好きでいられるような気がする。

「齋藤飛鳥の発言から、「ファン」について考える」

一人でいることが、好きだ。
別に、誰かといることが嫌い、というわけではない。でも、ずっと誰かと一緒にいるのは、無理だと思う。ずっと一人でいることはどうか。なんとなく、出来るような気がする。少なくとも、ずっと誰かと一緒にいるよりは、抵抗なく出来そうだ。そういう意味で、僕は一人でいることが好きなんだと思う。

ただ、「一人でいる」というのは、幻想なんだとも思う。捉え方次第ではあるが、人は一人では生きられない。

単純な話で言えば、例えばコンビニで何かを買うにしても、それを作る人、売る人がいなければ生きてはいけない。本当に「一人でいる」ということなど、現実には不可能だろう。

僕らは生きている以上、無数の「誰か」の支えと共にいる。もちろん、自分の存在も、直接的にせよ間接的にせよ、誰かの支えになっている。なっているはずだ。

でも、そういうことを、うっかり忘れてしまいがちだ。どれだけ孤独が好きだといきがっていても、それは本当に一人なわけではない。

僕も、一人でいることは好きだ。でも結局それは、誰かの存在なしには成り立たない状況だ。そういうことを忘れてはいけないと、これはちゃんと意識しておかなければ、するっと忘れてしまうことだ。

なんというのか、そういうことを改めて感じさせてくれる作品だった。

内容に入ろうと思います。
すずらん園という、恵まれない子供たちを引き取る施設の園長が亡くなり、葬儀が行われた。しかしそこに、絶対に来いと呼んだ男が来ない。かつて彼と同じ店で料理人をやっていた仲間は、電話越しにその男を罵倒するが、男は意にも介さない。
最後の料理人。
佐々木充は、そう呼ばれている。一度食べた料理は絶対に忘れない舌を持ち、思い出の味を再現しては100万円を請求する、孤高の料理人となっていた。かつて経営していた料理店は、彼の料理に対するこだわりが強すぎて、それ故に閉店、多額の借金が残った。充は、15歳の時に飛び出してから一度もすずらん園に戻ることもなく、仲間も信頼せずに、一人で生きている。
そんな充の元に、奇妙な依頼が飛び込んできた。待ち合わせは北京だという。北京ではその名を知らぬ者はいないと言われる料理人・楊清明から、手付金300万円、成功報酬5000万円で奇っ怪な依頼をされることになる。
かつて満州軍が作り上げた「大日本帝国食菜全席」という宝物のようなレシピを探し出し、その味を再現して欲しい、というのだ。楊清明は、かつて天皇の料理番だったという山形直太朗と共にそのレシピを作り上げたというのだが、今そのレシピは手元にないのだ、という。
わけのわからん胡散臭い依頼だと思いながら、充は山形直太朗の足跡を辿るようにしてレシピ探しを開始することになる。それは、満州建国を世界に宣言するために陸軍から依頼された、途方もないプロジェクトだった…。
というような話です。

なかなか面白かったです。思っていた以上によく出来たストーリーで、なるほどなぁ、という感じがしました。満州で、世界を仰天させるようなレシピ作りが行われていた、というのは、恐らく史実ではないんでしょうけど(分かりませんが)、こんなことがあってもおかしくはないのかもしれない、と思わせるぐらい全体的に物語がうまく構成されていて、料理やレシピ探しがこんな展開になるんだ、とちょっとびっくりさせられました。

もちろん、人によっては物語の展開が分かるかもしれませんが、僕はあまり物語の先を予想しないタイプなので、ほぉなるほど、そんな風になるのね、という感じで見てました。面白かったです。

物語の性質上、詳しい内容にはなかなか触れにくいのだけど、戦時中という、何をするにも純粋な気持ちが踏みにじられがちな時代にあって、意志を貫き通そうとする男の姿と、己の力だけを頼みにした結果借金ばかり背負ってしまう現状の中で生きている男の姿とが、様々な場面で重なり合っていく構成は、なかなか良かったと思います。

映画を見ながら、理想が見えてしまう人間の不幸みたいなものを感じました。目指すべき場所が見えてしまっているからこそ、今自分がいる場所がまだまだだと思う。それだけならいいけど、他の人も同じ理想が見えているはずだと勘違いして、無理矢理にでもみんなをそこに行かせようとしてしまう。恐らく本人に、悪気はないだろう。理想へと進んでいくその道を、どうやって登っていくのかを考えているに過ぎないだろう。しかし、だからこそ厄介なのだ。

山形直太朗と佐々木充は、共にその宿命の中で生きている。それにどう向き合い、どう立ち向かっていくのかという姿が、重なる部分もあり、対照的な部分もあり面白い。

佐々木充の印象的なセリフがある。充は、山形直太朗の話を聞いて、「結局、料理は愛情ってやつに逃げちゃったんですよ」と吐き捨てる。

『ホンモノって、孤独の中で自分を追い詰めてこそ、初めて出来るものだと、僕は思いますけどね』

もちろん、その意見にも一理あるだろう。しかし充は、そういうやり方をした結果、どこにもたどり着くことが出来なかった。それ故に、たった一人で思い出の味を再現する料理人になった。一人ならば、いくらでも追い詰めることが出来るからだ。

しかし充は、山形直太朗を追いかけていく中で、そうではないベクトルも知っていくことになる。そうやってようやくたどり着いた先にあったレシピが、一体何を彼に伝えることになったのか。その辺りの展開は非常に面白い。

あと、映画の序盤では結構謎だった色んな人の言動が、最終的には、あぁなるほどそういうことか、と解きほぐされていく感じも面白いと思いました。

「ラストレシピ 麒麟の舌の記憶」を観に行ってきました

死ぬ理由がある、というのは、羨ましいことなんだと思う。
それは、生きる理由がある、ということと同じだと思うからだ。

大体の日本人にとって、「死」というものには特別な意味はない。いや、「特別な意味はない」というのは、決して「死」が普通でありきたりのものだと言いたいのではない。僕が言いたいことは、「死」というものに特別な意味を付随出来ない世の中に生きている、ということだ。つまり、「どう死ぬべきか」という問いが成り立たない時代だ、ということだ。

今の世の中で、「死」というものが意識されるのは、年齢を重ねて死が近づいて来ている老人か、あるいは死ぬことでしか現実の問題を解消出来ない人だろう。前者にとって「死」とは、やがてやってくる当たり前のものであり、「どう死ぬべきか」という問いは、仮に成り立ったとしても、「周囲に迷惑を掛けないように」程度のものでしかない。

後者の場合、「どう死ぬべきか」などという問いはそもそも成り立ちようがない。「死」というものが、現実から逃避するための手段として意識されているだけなので、「どう死ぬべきか」などと問うても仕方がない。

そういう世の中も、良いんだろうと思う。別に、悪いと思いたいわけではない。誰もが「死」というものを殊更に日常的に意識することはなく、「どう死ぬべきか」など考えなくても前に進んでいける世の中というのも、もちろん、それはそれで素晴らしい。命というのは、一度喪われてしまえば取り返しがつかないものなので、それを喪わせる状態である「死」というものに対して、「どうあるべきか」などと問うことは、愚問であるのかもしれない。

ただ、「どう死ぬべきか」が問われない世の中であるということは、同時に、「どう生きるべきか」がぼやけてしまうことにもなる、と僕は感じる。

それがどんな生き方であっても構わない。僕自身は、他人に迷惑を掛ける生き方は良しとはしないが、とりあえず今はそれも措いておこう。とりあえず、どんなそれがどんな生き方であっても、「自分はこの生き方を貫くことが出来ないのなら死ぬ」という何かがあることは、生き方として僕は素晴らしいことだと思う。

『あの人はね、まちがいだらけの世の中に向かって、いつもきっかりと正眼に構えていたんです。その構えだけが、正しい姿勢だと信じてね。
曲がっていたのは世の中のほうです。むろん、あたしも含めて。』

時代の大きな流れに逆らうことは、とても難しい。世の中の当たり前に歯向かって生きていくことは難しい。多くの人が、そういう大きなものに流され、そういう自分を良しとして前に進んでいくしかない。もちろんそういう生き方を否定するつもりはない。生きていく、というのは、単純なものではないからだ。ただ、自分の正しさを信じて、貫いて、貫き通せなかった時に死を選ぶ、という潔さは、「生きる」ということを積極的に選び取っていることだと僕には感じられる。無闇矢鱈に死を望めばいいわけではないけど、こうあるべき自分を曲げずに貫いて、それで死んでしまうのであれば、それは良いんじゃないかと僕は思う。

もちろん、こんな意見にも賛成だ。

『だから私ァ、今でもあの人のことを男の中の男だと思う。男の責任てえやつをね、とことん果たしたんだから、誰も文句は言えねえはずでがしょう。
そんならひとつお訊ねいたしやすが、そういう立派な男を殺さにゃならなかった武士道ってのは何なんです。そこまであの人を追い詰めちまった世の中は、どこか間違ってやしませんでしたかい』

そう、確かに、武士道「なんか」に殺されるのはアホらしい。でも、それは、後世の人間が判断してはいけないことなのだ、と僕は感じる。その時代を生きた人が、あまねく背景を知った上でそう言うのであれば、それは意見の一つとして正しい。でも、僕らの時代にはもう、武士道なんてものは存在しない。彼らが生きてきた世の中とは、全然価値観が違っている。そんな僕らが、「武士道なんかに殺されるのはアホらしい」などと言ってはいけないんじゃないか、と僕は感じる。

『わしは脱藩者にてござんす。生きんがために主家を捨て、妻子に背を向け、あげくには狼となり果てて錦旗にすら弓引く不埒者にござんす。したどもわしは、おのれの道が不実であるとは、どうしても思えねがった。不義であるとも、不倫であるとも思うことができねがったのす。
わしが立ち向かったのは、人の踏むべき道を不実となす、大いなる不実に対してでござんした。
わしらを賊と決めたすべての方々に物申す。勤皇も佐幕も、士道も忠君も、そんたなつまらぬことはどうでもよい。
石をば割って割かんとする花を、なにゆえ仇となさるるのか。北風に向かって咲かんとする花を、なにゆえ不実と申さるるのか。』

彼は、時代が「正しい」と要請する様々な価値観に背を向けた。多くの人は、「正しい」価値観に沿って生きていた。理由は様々だろう。それが当然で疑問など感じなかった人もいるだろうし、疑問を感じつつも背を背けることなど出来ないと思っていた人もいるだろう。

そういう中にあって彼は、自分が正しいと信じる道を貫き通した。

『能力だけを認められて、藩校の助教や藩道場の指南役を仰せつかり、内職をする暇もない。奥様は労がたたって病に伏し、子供らは飢えるとなれば、いっそ飼い殺しになるよりは脱藩をして、江戸や京からひそかに送金をしようというのは、一家の主としてはむしろ当然の選択であったのではなかろうか。すべては、幕末という暗い時代のもたらした、理不尽のせいであります』

彼は、どう生きるかを考え続けた。考えて考えて、時に人を傷つけながら、時に人を裏切りながら、それでも、自分が正しいと思う生き方を真っ直ぐに進んだ。

彼には、「時代に抗う」という意識などなかった。彼にあったのは、正しく生きたい、という想いだけだった。しかし、彼が思う正しさは、彼が生きた世ではほとんど実現出来ない。ならば、何がなんでも貫き通さねばならぬ正しさのみを追い求め、そのためにあまねく間違いを引き受ける生き方を選んだのだ。

『武士はその出自がすべてじゃった。いや、あの時代には、生きとし生くる人間の一生が、すべてその出自によって定められていた。
そうした時代にあっても、武術なり学問なりの教育が行き届けば、突然に身分不相応な才というものが出現する。武に秀で学に長じ、しかも貧しさの分だけ情のこまやかな人物がの。
才を持ちながら、もしくは才を持ったがゆえに世の中の仕組に押し潰され、抗うべくもない世の流れに押し流される。吉村貫一郎はそうした矛盾の雛形じゃった』

時代は大きく変わった。価値観も大きく変わった。しかし、彼のように理不尽・矛盾に絡め取られながら生きている人は、今の時代にもたくさんいるはずだ。時代さえ違えば、英雄とは言わないまでも何か成し遂げることが出来ていたかもしれない人が、時代が違うが故に押し潰されようとしている。そんな人は、今の時代にだってあらゆるところにいるだろう。

そういう時、そう生きるべきか。その判断は、とてつもなく難しいだろう。

『たしかに強情っぱりには違えねえ。でもね、私にァはっきりとわかりやした。なぜ吉村さんがその握り飯を食おうとはしなかったのかが。
御蔵屋敷の米は、南部の米でござんす。そりゃあ、あの人にとっちゃあ南部の御殿様からいただくお代物だ。父祖代々、ずっと頂戴してきた南部の米でござんす。
あの人はそれを、どうしても口にすることができなかったに違えねえ。脱藩者であるかぎり、それを食っちゃならねえと思ったのか、さもなけりゃあ、脱藩せずばならなかった貧乏足軽の意地にかけて、その米だけは食いたくねえと思ったんでがしょう』

傍から見れば、彼の行為の多くは、馬鹿馬鹿しく見えたことだろう。そんな意地を張る必要がどこにある。まして、まさに今から時代が変わろうという、まさにその瞬間に生きているのだ。旧来の価値観で物事を判断することに意味などなくなる―多くの人がそう考えるようになってもそれは自然なことのはずだ。

それでも彼は、自分の生き方・考え方を貫いた。

それを曲げてしまっては自分ではなくなってしまう、という感覚は、彼ほどではないけれどもたぶん僕の中にもほんのちょっとはある。そういう自分は、ほとんど表に顔を出してはこないけど、たまに出てくることがある。自分でも、めんどくせぇな、と思う。でも、その自分を無視してしまえば、後で後悔することは分かっている。自分が自分でなくなってしまう。命は継続していても、生きていることの意味が減じてしまう。

そういう自分は、確かに僕の中にもいる。

だから僕も、無駄な意地を張りながらこれからも生きていく。たまにそういう自分について人に話す機会があると、そんなに背負う必要はない、そんなに重く考えることはない、と言われる。もちろん、僕だって、そんなことは分かっている。分かっているんだけど、でもそうせざるを得ない。

窮屈だな、とは思う。でも、だからこそ、彼が貫きたかった生き方のことが強く理解できてしまう部分もあるんだろうな、と思う。

内容に入ろうと思います。
『慶應四年旧暦一月七日の夜更け、大坂北浜過書町の盛岡南部藩蔵屋敷に、満身創痍の侍がただひとりたどり着いた。』
本書は、そんな一文から始まる。
ここにたどり着いた侍が、南部藩を脱藩し新撰組に入隊、後に「鬼貫」とまで呼ばれるほど人を斬りまくった吉村貫一郎だった。
三日に戦端を開いた鳥羽伏見の戦いは既に大勢が決しているという状況の中、命からがら戦いを潜り抜け、故郷の家紋の入った提灯を目にしてやってきたボロボロの侍を、蔵屋敷の面々は持て余した。
というのも、塀を隔てて隣り合う彦根藩が、薩長長州の軍に加わっているからである。ここで、薩長の敵である新撰組の残党を手助けしたと彦根藩に知られれば、厄介なことになる。
当時、蔵屋敷を預かっていたのは、かつて同じ寺子屋で勉学に励んだ幼馴染である大野次郎右衛門である。しかし彼は、土下座しながら命乞いをする吉村に向かって、「腹ば切れ」と冷たく言い放つ。
そんな吉村貫一郎のことを、誰とも知れぬ聞き手が、御一新から50年後の時代に聞き歩いている。かつて新撰組の隊員だった者、大野次郎右衛門の周囲にいた者、吉村貫一郎の親族などなど。
話を聞かれる側は、一様に驚く。なんだって吉村貫一郎なんざの話を聞きたいんだ、と。講談なんかで話の主役になるような人物ではないし、歴史に名を残すような男でもない。なんでそんな男の話を聞きたいのか、と。
それでも話し手は、時には重い口を開きながら、それでも皆吉村貫一郎について話をする。

『本当のことを言うとな、俺ァ吉村貫一郎ってやつは、好きじゃなかった。
なぜかって、いじ汚ねえやつだったからよ。そりゃあ剣は立つ、学問もある、とりわけ筆は達者だった。だが何てったって、銭に汚かったんだ』

そんな風に嫌悪されながらも、しかし一方で、多くの人間が吉村貫一郎を一角の人物として語る。

『こいつだけは殺しちゃならねえって、土方歳三は考えていたんだと思います』

『一見して矛盾だらけのようでありながら、奴はどう考えても、能うかぎりの完全な侍じゃった』

『誰が死んでもよい。侍など死に絶えてもかまわぬ。だが、この日本一国と引き替えてでも、あの男だけは殺してはならぬと思うた』

何が彼らにそう言わせるのか。南部藩の蔵屋敷で、無残な姿を晒しながら、それでも命乞いをし続けた侍らしからぬこの男のどこに、修羅場を潜り抜けた男たちは惹かれていたのか。

『人の器を大小で評するならば、奴は小人じゃよ。侍の中では最もちっぽけな、それこそ足軽雑兵の権化のごとき小人じゃ。しかしそのちっぽけな器は、あまりに硬く、あまりに確かであった。おのれの分というものを徹頭徹尾わきまえた、あれはあまりに硬く美しい器の持ち主じゃった』

激動の時代を、その生き様を以って多くの人の記憶に鮮明に残り続ける、一人の高潔な男の生涯を、様々な人物の口を借りながら描き出す作品。

凄い作品だったなぁ。凄かった。とにかく凄かった。

正直に言えば、読み始めはよく分からなかった。まあ、これはしょうがない。何故なら、最初の方は、「いかに吉村貫一郎がダメな人間だったか」が描かれるからだ。もちろん、良い側面も描かれる。しかし、本書での吉村貫一郎の描かれ方は、最初の方は悪い印象が募るものが多かった。

とかくそれは、金にまつわる話が多かった。とにかく吉村は、金の亡者のような男だった。もちろん、新撰組などそもそも寄せ集めのような集団だったのだから、食い詰めてどうにもしようがなくなって流れ着いた者も多い。だから、金のために新撰組にいる、という人間ももちろんいただろう。

しかし、当時の感覚は、新撰組の隊士の一人の口を借りればこうだった。

『こいつはいってえ、何のために生きてるんだ。誰のために人殺しなんぞするんだ。こんなことを続けていたら、早晩叩っ斬られるか切腹させられるかして命がなくなるってえのに、そりゃあお天道様が東から昇るぐれえわかりきったことなのに、何でまたお命代の給金をいちいち国に送ったりするんだ。
当たり前だよ、亭主が女房子供を養うのは。だがよ、あの日あのときのあいつが、真正直にそんなことをしてるってのがな、俺にはどうともやりきれなかった。
その気持ちばかりァ、同じ暮らしをしていたやつにしかわかりゃしねえ。俺ァまったくやりきれなかった』

もちろん、言っている内容を見れば、むしろ吉村の良さが浮かび上がってくるような話なのだけど、最初の内は色んな話が、「吉村は悪く見られていた」という方向から描かれるので、物語に入るのに時間が掛かった。冒頭の、大野次郎右衛門に「腹ば切れ」と言われた話も、そんな印象を補強する。吉村が「竹馬の友」と呼ぶ大野次郎右衛門に「腹ば切れ」と言われるこの男の印象が良くなろうはずがない。

しかし読み進めていく内に、吉村貫一郎という男の印象がどんどん変わっていく。吉村が何をして何をしなかったのか、ということが徐々に明らかになっていくに連れて、どんどんと吉村貫一郎像が変質していくのだ。そして、そういう話の展開を理解することで、冒頭で何故吉村が悪し様に描かれていたのかも理解できた。要は前フリなのだ。吉村貫一郎を悪く見せることで、変化が劇的に感じられるようになる。

彼の人生は、追えば追うほど真っ直ぐだ。多くの人間が、時代や時代の変化に合わせて、自分自身の姿形や考え方まで変えてしまうのに、吉村貫一郎はそれを良しとしなかった。自分が何をしているのか、それがどんな罪であるのか、その罪と引き換えに何を得ているのか、そうするだけの価値がどこにあるのか―彼は、常にそういうことを考えていた。時代がどうとか、周りからどう見られるとか、そういうことは考えなかった。

その潔さに、多くの人が惹かれるのだ。

誰もが、こんな風に生きられれば素晴らしいだろうな、と感じる生き方を、吉村貫一郎はしていた。多くの人にとって、彼は理想だったし、希望だった。しかし、理想であり希望であるにも関わらず、彼の人生は、時代にそぐわなかったというだけの理由で苦しいものとなった。

そんな背負って余りある理不尽に気丈に立ち向かって、一人の男として真っ直ぐ生き続けた男の生き様は、読み進める毎に凄みを増していって、読み始めた頃の印象など吹き飛んでしまうほどだ。

こうありたい、こう生きたい、という理想を貫くことは本当に難しい。守るものがあったり、手放せない状況があったりすれば余計にそうだろう。時には妥協も必要だし、いずれにしても死ぬより生きる方がずっとマシ、というのも確かだとは思う。

しかし、多くの人間が、これだけ吉村貫一郎という人物について語りたくなってしまう、その背景には、やはり彼に対する憧れがあるだろうし、自分にはそんな風には生きられなかったという悔恨みたいなものがあるのだろうと思う。って、なんだかノンフィクション作品を評するような書き方になってしまったけど、なんだかそう感じてしまうぐらい、彼らの語りは生々しいし、「そこ」にいるような感じがするのだ。

彼が正しいか正しくないか、などという問いは無意味だし、問う価値もない。吉村貫一郎という男がこういう風に生きたのだ、ということそのものに価値があるのだと思う。そう思いたい。

人生全部を吉村貫一郎のようには生きられないかもしれない。でも、人生の内のどこか一時、あるいは一瞬でもいい、彼のような潔さで以って世の中と対峙することが出来ればいいな―そんなささやかな希望を胸に抱きながら、この作品を読み終わった。

浅田次郎「壬生義士伝」

【俺、これ以上ひどい奴になりたくない。なのにダメだ。このままじゃお前にもっと酷いことしちまう。俺達そのうち、楽しかった頃もきっともう思い出せなくなる。でも、今ならまだ間に合うんだ。
助けてくれ】

恋愛になると、どうもうまく行かなくなる。そうしたいなんて思っていないのに、相手に嫌なことをしてしまう。相手を傷つけなくちゃ、自分を守れないと思ってしまう。相手との距離が縮まれば縮まるほど、僕は嫌な自分になる。

【俺は…追いつめられりゃ、何するか分かんねぇような奴だ。だから大事だって思う人もつくりたくない。傷付けるのも離れることになるのも分かってる】

自分は悪くないって思い込むために、ずっと相手のせいだと思っていたんだけど、あぁそうじゃないんだなって途中で気づいた。僕の問題なんだなぁ、って。だから、「大事だって思う人もつくりたくない」ってのは、凄く分かる。自分が大切にしたいと思えば思うほど、その人には近づかない方がいいんだろうな、と感じてしまう。

【あの人といると「理想」でいられなくなる】

距離が縮まれば縮まるほど、「こんな風には振る舞いたくない」という自分に近づいてしまう。その度に、嫌だなと思う。またここにたどり着いてしまうのか、と思う。うんざりする。そういう自分に気づきたくないから、もういいや、と思う。恋愛も家族も、僕には向いてない。

それに、大事な人が出来ると、自分が弱くなる。

【真山さえいなければ、僕は自分の思った通り立っていられるのに、真山といるとひとりじゃ立っていられなくなりそうになる。】

誰かの存在を希求することは、そう、一人では立っていられなくなることだ。それは怖い。

【全て見せてしまったとして、真山がいなくなったらどうする?】

一人で立っていられない自分にはなりたくない。

【真山のことがこわい。ひとりで立っていたい】

一人で立っていられないことは、寄りかかっている存在がいなくなった時の自分へのダメージも怖いけど、それ以上に、相手への負担が気になる。自分が一人で立っていられないということは、相手に支えてもらっている、ということだ。

支えたいと望む人も、世の中にはいるのだろう。でも、僕自身がそういう人間ではないから、そういう気持ちをうまく想像できない。想像できないから、なかなか信じることが出来ない。信じることが出来ないから、相手への負担になっているのではないかという懸念を捨てきれない。

だから、遠ざけたくなるし、傷つけたくなる。

【俺はただ、惨めでいたくない。都合よく扱われても、酷くされても、俺は自分をかわいそうだと思いたくない。だから俺は、自分がかわいそうにならないために、泣かなかったし、誰にも頼らなかったんだ。自分のために笑ってただけ。それで良かった。なのに、お前がただひとり、俺をかわいそうな奴にする。お前が一番、俺を傷つけんだよ】

弱くなりたくなくて、虚勢を張る。一度弱くなってしまったら、二度と一人では立ち上がれないと知っているから、差し伸べられた手をはねのける。一度優しさを受け入れてしまったら、その優しさを当然のものとして扱いたくなる自分が嫌で、優しさを拒絶したくなる。

【この手を取っちゃだめだ。この手を取ったら、全部終わる】

すべては、自分のことを信用できない弱さが生み出している。

【傷つけることしかしてこなかったから、今も…分からなくなる。お前のこと、大事にできてんのかどうかって】

「怪物」が、自分の中にいる。目を覚まさせてはいけない。起きてしまえば、自分ではもう制御出来なくなってしまう。だから、自分の感情をコントロールする。

誰も傷つけないために。

内容をそれぞれ紹介するのではなくて、全体の設定をざざっと書いておきましょう。
弓とかんちゃん(かんのすけ)は、高校の同級生。かんのすけは高校を卒業して働きに出る。妹の学費を稼ぐためだ。でも、そこは壮絶なブラック企業だった。でもかんのすけはそこから離れられない。学歴のない男に、行き先などないからだ。そんな鬱憤を晴らすかのように、かんのすけは弓を殴るようになる。その衝動を抑えきれない。
弓はアルバイト先で、中学時代の同級生・真山と再会する。卒業後ケータイを水没させて、ずっと連絡を取れないでいた相手だ。弓は、真山に近づいてはいけないと思う。思うのだけど、なんとか会う理由を探している。弓は時々、殴られた姿でバイト先に顔を出す。真山はそれを見て、弓を心配するが、真山が差し伸べる手を、弓は素直に掴むことが出来ない。
林田は、強面の顔で社内で恐れられているが、イケメンの後輩である秀那をセフレにしている。飲み会の後、酔いつぶれた林田を介抱しつつ、先に手を出してきたのは秀那の方だ。これまで女性からモテまくってきた秀那だが、男も悪くないと、林田とヤッてみて思う。林田は、秀那とセックスが出来ればいいと思っているが、秀那は次第に林田にのめり込んでいく。林田の部屋に貼られた写真のせいもある。高校時代、付き合っていた彼氏だそうだ。
付き合って欲しいと言った秀那に対し、林田は、かつて付き合っていた相手を殴っていたと告白するが…。
というような話です。

「恋愛ルビの正しいふりかた」だけ単体で読んでいたのだけど、正直その時は、あまり良い作品だとは思いませんでした。でも今回、一連の作品を読んで林田の背景を知ったことで、印象がガラッと変わりました。

今回読んだ一連の作品は、僕が好きなタイプのBLとはちょっと違います。僕が好きなBLは、「ゲイがノンケを好きになって、そのノンケとどう恋愛関係に持っていくのかゲイが葛藤する」というものです。今回の作品は、元々ゲイなのかどうかはともかく、男同士が付き合ったりセックスしたりすることに抵抗のない者同士の話で、僕がBLに求める葛藤が描かれているわけではありません。

ただ、彼らは別の形で葛藤を抱えていて、それが自分が抱える葛藤に近いと感じられました。

「怪物」という表現が本当に適切だと思うんだけど、自分の内側に「怪物」を抱えている者が、自分の振る舞いに自信が持てずに怯える。それは、凄くよく分かる。自分ではどうにも出来ない「怪物」が出て来るかもしれないと怯えながら生きていくのは、正直めんどくさい。めんどくさいから、その可能性を断ち切っちゃえばいい、と思うんだけど、まあなかなかそうもいかない。その辺りの葛藤は、すげぇ分かるなぁ、と思った。

もう一つ、これも冒頭で書いたけど、大事な存在が出来ることで自分が弱くなってしまうことの怖さみたいなものも、分かるなぁ、って感じでした。弓は、殴られている自分の状況に対して苦痛を感じない。僕も、殴られたことはないから正確には分からないけど、気持ちは分かるはず。誰かの悪意や衝動が、自分だけに向けられているなら、たぶん耐えられるんじゃないかなって思う。自分で立っていられているような感じがするから。

でも、自分で立っていられないような感じがするのは怖い。

この作品ではそれを、自分の弱さを理解しようとする男への恐怖として描かれている。それも分かる。僕は他にも、悪意や衝動が、自分の大事な人に向けられる怖さ、みたいなのもあると思う。自分の大事な人が傷つけられる様を見せられるのは、自分で立っていられないような感じに近いような気がする。

「怪物」と「弱さ」、抱えている葛藤の質は違うのだけど、どちらの葛藤も、あぁ分かるなぁ、という感じだった。

そして、これはこれで、BLの方が描きやすいものなんだろう、と感じた。

「殴る」というのは、男女間ではあまりにもバランスが取れなさすぎる。男が女を殴るのは、葛藤として描くにはあまりにもアンバランスだ。その点、男同士なら、「喧嘩の延長だよ」なんてごまかしたり出来る程度にはバランスが取れる。しようと思えば抵抗だって出来るはずなんだから、暴力を続けるのも受け入れるのも、見方次第では本人の選択とも取れる。これはBLならではだな、と思う。

また、相手の弱さを理解しようとする、というのも、男女間だと「哀れみ」が際立ちそうだ。真山が男だからこそ、弓を心配する気持ちは純粋なものとして受け取りやすいけど、もし真山が女で同じことをしていたら、「哀れみ」が先に立って心配する気持ちを素直に受け取れない可能性もあるかもしれない。そういう意味でこれも、男同士だからこそ描きやすいのかもしれない、と思う。

こういう、BLであることに必然性を感じさせてくれる作品は良いと思う。

おげれつたなか「薊/錆びた夜でも恋は囁く/恋愛ルビの正しいふりかた/はだける怪物 上」

生駒里奈は最初から、「乃木坂46」を背負わされていた。

今、名実ともに乃木坂46を背負っていると誰もが感じるのは、白石麻衣と西野七瀬だろう。しかしこの二人は、結成時からそんな存在だったわけではない。どちらも、乃木坂46としての活動を積み上げていく中で、自信や決意を持てるようになり、その延長線上に今がある。

しかし生駒里奈は違う。センターに選ばれることで、最初から、問答無用で、乃木坂46を背負わされたのだ。

彼女自身の自覚がどうなのかは分からない。「背負わされた」なのか「背負った」なのか、あるいは「背負っているつもりなどなかった」なのか。時と共に変化もするだろうし、外側から見ているだけでは分からない。しかし、外から見る限り、乃木坂46を背負っている格好に見えてしまう生駒里奈には、多くの人が様々な問いをしてきた。

「乃木坂46はどこを目指すのか?」
「AKB48との関係は?」
「乃木坂46の次の目標は?」
「乃木坂46は今どの辺りにいると思うか?」
「乃木坂46は何故◯◯が出来たか?」
…などなど。

センターに選ばれ、代表者として様々な問いかけをされ続けることで、生駒里奈は、乃木坂46について思考し、どうあるべきか志向し、様々なことを試行し続けた。その姿は、今でも変わらない。

【―3年連続の紅白、そして東京ドーム。「乃木坂46も来るとこまで来たな」みたいな実感があるんじゃないですか?
ここまで来たってよりも、私たち6年間やってきたんだなっていう方が大きいです。東京ドームに立つことよりも、東京ドームに立った時に恥ずかしくないものを作ることを考えてやって来たので、この6年間でここまで成長できたんだなっていう方が、大事なことだと思います
―なるほど。ということは、東京ドームのパフォーマンスには満足している?
足りないところもあったかもしれないですけど、ちゃんといまの自分たちができるものが、しっかり全部出せたなっていう時間でした。】「BUBUKA 2018年1月号」

これを読んで、さすが生駒里奈だな、と感じた。「東京ドームのパフォーマンスには満足している?」と問われたら、普通のメンバーなら「まだまだです」「手応えはありましたけど反省すべき点もありました」というような返答をするだろう。しかし生駒里奈は違う。100点満点をつけた、という回答ではもちろんないだろうが、自分たちがしてきたことを総合的に捉え、客観的に見て及第点をつけられる、という判断をしている。生駒だからこそ出来る発言とも言える。

【―東京ドームを良い意味で特別なものとして扱いすぎないのは、乃木坂46らしくて良かったと思います。生駒さん自身も東京ドームを特別なものとして捉えなかった?
私は感じなかったです。なぜなら、私たちにとっては神宮が特別だから。(中略)そういう神宮でみんながやってきた経験があるから東京ドームに立てているので。神宮のおかげで東京ドームが全く怖くなかった】「BUBUKA 2018年1月号」

これも生駒らしい返答だ。「東京ドームを特別だと感じなかった」という発言は、他のメンバーもインタビューで口にしていたが、その理由を「神宮」に求める意見は初めてだ。普段から、自らに様々なことを問いかけ答え続ける習慣を持っていなければ、こういう返し方は出来ないだろう。

【―そうしてたどり着いた東京ドーム。生駒さんはここを「到達点」だと思いますか?それとも「通過点」?
どちらでもないと思います。ここを目指してやってきたわけでもないし、そもそも武道館で何人埋めましたとか、さいたまスーパーアリーナで何人動員しましたとかが目録になってしまいがちですけど、私はそれが大事だとは思わないので。それよりもそういう勲章に恥じないグループになっていることが大事だと考えています。】「BUBUKA 2018年1月号」

これは、問いそのものが良くないと僕は感じる。生駒が「到達点」と返すわけがないと分かっていて、「通過点」という返答をさせようとする誘導的な質問にしか感じられないからだ。しかし、さすが生駒である。「通過点」という返答をせずに、どちらでもないと返しながら自分の意見を言う。問いかけられて初めて答えを考えるのではなく、予め考えている事柄だからこそこういうことが出来るのだと思う。

こんな風に生駒は、宿命的に乃木坂46というものについて考え続けている。正直に言えば彼女は、以前ほど注目される存在ではなくなっているはずだ。白石麻衣・西野七瀬という二大巨頭が乃木坂46を牽引し、齋藤飛鳥や衛藤美彩など、アンダーから這い上がって人気を獲得するメンバーも出てきた。秋元真夏、松村沙友理、高山一実と言った安定的に人気を得続けているメンバーもいるし、そういう中にあって、どうしても生駒里奈の存在感は、センターをやり続け乃木坂46をその小さな身体全体で背負っていた頃と比べれば、小さくなってしまっていると感じる。

恐らくそれは、彼女自身も理解していることだろう。かつて雑誌のインタビューで、もう一度センターに立ちたいと宣言したことがあった。そこで、【私はいまの乃木坂46を取り巻く状況、乃木坂46の中で起きていること、全部じゃないかもしれないけど、理解してるつもりだし、いまの私がそこにいけない理由、センターになれない理由もわかっています。】「BRODY 2017年6月号」と発言している。直接的な言及ではないにせよ、彼女が、今の乃木坂46の中で、自分がセンターにいる必然性がないと感じていることが、自身の立ち位置を認識しているのではないかと僕が考える理由だ。

そういう現状をどう感じているのか、それが分かるような発言は僕の視界には入ってこないが、彼女の決意が伝わるこんな発言はある。

【安定も名誉もいらない。私は常に崖を登っていたい】「BUBUKA 2018年1月号」

乃木坂46における「安定」や「名誉」が何を指すものなのか、僕にははっきりとは分からないが、「常に崖を登っていたい」という意志は、生駒らしいと感じる。アイドルとしての彼女の在り方は、常に「崖を登る」ようなものだった。何も分からない状態からのセンター、センターなのに「プリンシパル」で選ばれない辛さ、AKB48との兼任など、常に生駒里奈は乃木坂46において、道なき道を進んできた。「生駒の生来の性格」と「アイドル」というのは対極にあるもので、だからこそアイドルであり続けることは彼女にとっては常に挑戦だった。挑戦する意志が、彼女をここまで連れてきたのだ。

そんな生駒里奈は今、ステージ上に自分の居場所を見出そうとしている。

【アイドルは向いてなくて本当に申し訳ないって思っているけど、ダンスをやっている時は楽しかったし、キラキラできる自分を見つけられて、これからもそれでお金をもらいたいって思ったから。きっとステージ上の自分は誰かを幸せにできると信じて、そこは自信を持ってやってきたし、これからもやっていきたいです。それを見つけられた人生で本当に良かった】「BUBUKA 2018年1月号」

僕は乃木坂46のライブを見たことがないので、ステージ上で彼女がどんな風でいるのか知らない。しかし僕にとってこの発言は、ホッとさせるものだった。何故なら冒頭で書いたように、生駒里奈は乃木坂46を背負わされた人だったからだ。

これまでは、自分の身を削るようにして、乃木坂46のためにどうすべきかを考え行動してきたはずだ。もちろん、今だってその気持ちを捨ててはいないだろう。しかし、乃木坂46が大きくなり、比較的広く認知されたことで、彼女が身を削ってまで乃木坂46に奉仕しなければならない状態は終わったのかもしれない。個々に力がついてきて、一人一人が乃木坂46を代表できるような存在になってきているし、その循環がうまく行っている。それ故に、生駒里奈の負担が減った、というか、彼女自身がそう思えるようになった、ということなのではないかと思うのだ。

そうなってみてようやく彼女は、アイドルとして自分がどうありたいかを考えられるようになったのではないだろうか。だからこそ、前述したような「センター宣言」も飛び出したのだろう。もちろん、自分がセンターになることが乃木坂46のためになると考える部分もあるだろうが、「今まではなりたいと思ってセンターになったわけじゃないけど、今度はなりたいと思ってセンターをやりたい」という、自分の希望もそこには含まれているのだろうと思う。

とはいえ、生駒里奈にとって「アイドル」とはなかなか複雑な存在だ。

【アイドルをしている瞬間は最高に楽しいんですよ。そこに自分の素を求められたりすると、あたふたしちゃうんですけど】「anan No.2066」

そう言ったかと思えば、

【―アイドルって難しいですか?
はい。アイドルって矛盾だと思っています。私はそこが理解できないから難しい。芸能人は人気商売なところもあるので、その人を好きになってもらわないといけない部分はあるけど、私は私自身ではなくて、私が何かやってる時のその時間が好き、空間が好きって思ってもらいたいんです】「BUBUKA 2018年1月号」

と言ったりもする。これも僕は、解放から来る戸惑いなのだと思っている。今までは、「アイドルとして自分がどうありたいか」という問いなど、自分の内側に存在しなかったのだろう。「乃木坂46の生駒里奈としてどうあるべきか」という問いと奮闘し続けてきたはずだ。だから、少し肩の荷が下り、一人のアイドルとして振る舞えるようになった今、「アイドルとしてどうありたいか」という、多くの1期生が既に通り抜けただろう問いに囚われているということだろう。それはある意味で、彼女にとっては幸せなことなんだと思う。

アイドルとしてどうありたいかと悩む彼女も、やりたいことは明確だ。

【別に私のことを好きになってもらわなくても構わないから、私を見たその時間だけは「うわっ!」と思ってもらいたいんです】「BUBUKA 2018年1月号」

彼女は、自分のパフォーマンスで観客を驚かせたい。乃木坂46を一身に背負っていた少女が、自分の願望を口に出し、ステージ上で生きようと決意する。生駒里奈がそんな決断が出来るくらいに乃木坂46は大きくなったのだな、としみじみしてしまった。

東京ドームのステージで、彼女はこんな風に語った。

【今、こうして乃木坂46で東京ドームのステージの上に立って、昨日と今日、ここまでやってきて、すごく実感したことがあるんです。それは、「自信を持つということはこういうことなんだな」っていうことです。「自信は、ステージの上に立つ人間は必ず持たなきゃいけないもの」と初期のころに言われて、メンバーにも、スタッフさんにも、ファンの皆さんにも、「自信を持って頑張って」って言われてきました。それがずっと自分には持てなくて、その言葉が一番キライだった時期もありました。
でも今、分かったような気がします。ここでみんなで笑顔で歌って踊ること。そのことが、「自信を持つ」ということなんじゃないかなと思いました。それを気づかせてくれたメンバーのみんなと、そしてファンの皆さんに感謝を伝えたいなと思います。本当にありがとうございます。】「月刊AKB新聞 2017年11月号 東京ドームコンサート特集」

スクールカーストの最底辺にいていじめられており、自信がなく、オーディションに猫背で登場した田舎の少女が、東京ドームのステージで「自信」について語る。小さな身体で乃木坂46を支え続けてきた少女が、ステージ上でパフォーマンスする喜びを語る。人気者がゴロゴロ育った乃木坂46の中で、少しずつ存在感が後退してしまっている現状を彼女自身がどう捉えているのかは推し量りようがないが、ここでなら生きられるという場所を見定められた人間は強いはずだ。すぐにとは言わないから、生駒里奈がまたセンターに返り咲く日が来るといいと切に願う。

「乃木坂46の背骨から、一人のアイドルへ・生駒里奈」

正義とルールは相性が悪い。
ルールだけで正義が実現できるなら、例えば弁護士は要らないだろう。
きっと、名探偵も。

『誰がなんと言おうと、この世界には善と悪しかない。その中間はない』

エルキュール・ポアロの言葉だ。そう簡単に行けば世の中難しくはないんだけど、なかなかそうも行かない。善も悪も、そしてその中間もある。

ルールはルールである以上、善か悪かをはっきりさせる。そうでなければ、ルールが存在する意味がないからだ。しかし、ルールはすべてを明示することは出来ない。善か悪かははっきりするが、記述されない事柄が残る。その正義は、一体誰が判断するのか。

正義は、結局のところ、人の数だけ存在する。そして、それが正義であると他者に認めさせる、その意志と行動にこそ、正義は宿るのだろう。

だから、正義を主張する者は、意志を持ち行動しなければならない。

『ここで言う正義とは?』

そう、常にそう問い続けねばならないのだ。

内容に入ろうと思います。
1934年、エルサレムで事件を解決したエルキュール・ポアロは、そのまま休暇に入るはずだったが、ロンドンでの事件に駆り出されることになった。そこで急遽、オリエント急行に乗ることを決め、ロンドンに戻るまでの間を休暇とすることに決めた。古くからの友人であり、オリエント急行の社員でもあるブークに空きを探してもらったが、冬の寒い中なのになんと満車。相部屋となった。
オリエント急行の中でポアロは様々な人物と出会うが、その中の一人、骨董商であるラチェットという男からある依頼を受ける。なんでも、売買した商品が偽物ではないかと疑われ返金を要求されており、ついには脅迫状まで届いたという。ついては護衛をしてもらえないか、という依頼だったが、ポアロは、悪人を手助けすることは出来ないと言って断った。
夜、冬の山岳地帯を通り抜ける最中雪崩に遭遇し、オリエント急行は線路の途中で立ち往生してしまう。すぐに応援が来る手はずになってはいるが、しばらく動けない状態だ。
そんな折、ラチェットの部屋をノックする車掌が、反応がないのを不審に思う。ポアロも手助けしドアをこじ開けると、ラチェットの死体がそこにあった。ブークはポアロに事件解決を依頼するが、休暇中だと言って断る。しかし、「正義を導けるのはあなたしかいない」と言われ、ポアロは事件の謎を解くことに決める。
夜、客室同士のドアは施錠されており、容疑者はラチェットと同じコンパートメントにいた者たちに絞られる。乗客全員から話を聞くが、推理がうまくまとまらない。
やがてこの殺人の背景に、一つの事件が関わっているのではないかとポアロは推測する。アームストロング事件。アメリカで大佐の娘が誘拐され、身代金を払ったにも関わらず遺体となって発見。身籠っていた妻はお腹の中の子どもと共に亡くなり、アームストロング大佐も自殺してしまったという、悲劇的な事件だった。
しかし、一体誰が犯行を犯したのだろうか…。
というような話です。

なかなか面白い映画でした。
僕はそもそも原作を読んでいません。こういう観客は、なかなか珍しいかもしれません。原作小説はあまりにも有名ですが、とはいえ、原作を読んでいない人間が観ようと感じるような映画ではないと思うからです。

原作を読んでいない僕は、謎解きの部分も含めて楽しむことが出来ました。原作を読んでいる人的には、どの辺りに注目しながら観るのかちょっと分からないけど、映像は綺麗だったし、僕はあんまり知らないけど、みんな有名な俳優らしいので、そういう部分を楽しむのかもしれません。

物語にはほとんど触れられないので、書けることが極端に少ないですが、映画を観終わった後で感じたのは、「この物語をどうやって小説として成立させているんだろう?」ということです。

映画としては、十分成立していると思います。というのも、「事件の捜査」と「人物紹介」がほぼ同時だからです(何故それが同時だと、映画としては成立するのか、という説明は、ネタバレに繋がるので避けますが)。ただ、勝手な予想ですが、原作小説の場合、もっと「事件の捜査」のボリュームが多いだろうと思います。その場合、物語を成立させるのが難しくなりそうだなという印象を受けました。

事件そのものは、現実世界でも成立し得るでしょう。そういうことではなくて、この事件を「ミステリー小説」として成立させるのは難しいだろうなぁ、ということです。「事件の捜査」の描写が多ければ多いほど、最終的にそれを「ミステリー小説」として成立させるのが難しくなりそうな気がしました。どうやってるんだろう、ホント。

容疑者が多くて、顔と名前を覚えるのがなかなか大変でしたけど、その点以外はなかなか楽しめたと思います。

「オリエント急行殺人事件」を観に行ってきました

大園桃子は僕にとって、かなり謎めいた存在だった。3期生の暫定センターに選ばれたということで注目を集めていたはずだが、話を振られてもなかなか言葉が出てこないし、何かあればすぐ泣くし、他のメンバーとのやり取りでも独特の間を持っていて、他の3期生と比べても異端に見えた。他の3期生にしても、内面や価値観が徐々に理解できるようになっていって、なるほどちょっと人とは違っているんだなと個々に感じられるようになった。しかし大園桃子の場合は、どこにいても、何をしていても、その立ち居振る舞いから、ちょっとまともではないような印象を与える存在だったと思う。

しかし彼女は自身のことを「普通」と語る。

【めっちゃ普通の高校生でした。一番普通。一番正常。乃木坂のことも、周りは知っていたけど自分は知りませんでした】「BRODY 2017年6月号」

この「普通」という言葉が、大園桃子にとっての一番のキーワードだと僕は感じた。しかしそれは、大園桃子が自身を指して「普通」と言っている使い方とは違う。先の引用では、彼女は自分のことを「人として平凡・多数派」というような意味で使っているだろうと思う。しかし、僕はちょっと違った捉え方をしている。大園桃子は、「自分はアイドルではない」という意味で「普通」という言葉を使っているのだ、と思っている。

実際彼女自身も、そういう発言をしている。

【うーん。桃子はアイドルじゃなくて人なんですよ
―どう違うんでしょうか?
たぶんですけど、アイドルは自分が描いてるキラキラした理想像に自分を寄せていくことだと思うんですよ
―なるほど。大園さんは寄せていないと。
だって、桃子には理想像がないから。桃子は乃木坂46で一番一般人に近いと思うんですよ】「Top Yell 2018年1月号」

この発言は面白いと思った。

これまでも、メンバーの様々なインタビューを読んでいて、「アイドルとしての理想像」が言及されることがあった。秋元真夏は、自分とは対極にある「アイドルとしての理想像」を追及するためにアイドル道を突き進んでいるし、齋藤飛鳥や西野七瀬は、「アイドルとしての理想像」は持っているが、自分はそれに近づけないと断念した。

しかし大園桃子の主張は、そういう他のメンバーのものとはちょっと違う。彼女は、自分には「アイドルとしての理想像」はない、と言っているのだ。確かにそれは、彼女のオーディション応募から合格に至るまでの流れを聞いていても理解できる。先輩に頼まれ、乃木坂46のことも知らずに3期生オーディションに応募し、1次2次と突破していく度に、「鹿児島市内に行けるね!」「東京に行けるね!」という具合に乗せられて、あれよあれよという間に3期生としてデビューすることになったのだという。アイドルや乃木坂46に憧れを持たずに3期生としてデビューした大園桃子だからこその発言だろう。

しかし、そもそも大園桃子は「憧れ」というものを持たない人間なのだそうだ。

【―大園さんは学校の先輩に憧れることはなかったですか?
全然なかったです。人として大好きだけど、自分もそうなりたいと思ったことはなくて。だから、乃木坂46のオーディションを受けた時、まわりの子が言う「憧れ」が不思議だったんですよ。「憧れ」って自分が近づきたいということですよね。…桃子は人としての感情が足りないのかな。】「Top Yell 2018年1月号」

【―ファンの方の存在は大きいですか?
めちゃくちゃうれしいけど、桃子は何かのファンだったことがないからすごく不思議です】「Top Yell 2018年1月号」

益々面白いと思う。そしてここにこそ、大園桃子の武器があるのだと改めて感じさせられた。

彼女には、「憧れ」がない。それは、別の言い方をすれば「制約」がないのと同じだ。2期生でも3期生でも同じだが、乃木坂46に憧れて加入したメンバーは、やはりどうしても「乃木坂らしさ」という呪縛から自由にはなれない。「乃木坂らしさ」を追及する方向も、「乃木坂らしさ」を無視する方向も、結局は「乃木坂らしさ」という呪縛に囚われていることには変わりはない。自分が憧れている「乃木坂46」を汚すようなことになってしまわないだろうかという葛藤は、「乃木坂らしさ」を気にしないと決めたとしても常に胸に過ぎるだろうし、「乃木坂らしさ」という制約が客観性を奪うことにもなるだろう。

しかし、大園桃子にはそれがない。「アイドルとしてこうあるべき」「乃木坂46としてこうあるべき」という感覚がないからこそ、アイドルという場にいながら、アイドル然りとしない振る舞いが出来る。

これだけアイドルが乱立し、アイドルに成りたい者が世の中に山ほどいる状況では、「アイドルになりたい!」という強い意志を持たなければなかなかアイドルになどなれない。しかし、そうであればあるほど、アイドルという枠組みからは逸脱出来ない人間が集まることになってしまう。そういう中にあって、「こうあるべき」という呪縛をそもそも持たずに振る舞える大園桃子は、アイドルとして非常に大きな武器を持っていると言えるだろう。そういう意味で僕は、彼女が「アイドルではない」という意味で「普通」という言葉を使っているのだと感じたのだ。

また彼女のそんな振る舞いは、1期生や2期生との関係性にも大きく関わってくる。

【(初めて3期生として乃木坂46のメンバーに会う時のこと)すごいとか、そういう感情はなくて。ただ並んで自己紹介しなくちゃいけない。みんなは憧れの先輩に会うからって感じで緊張していたけど、私は憧れとかもわからずに、ただ緊張って感じでした】「BRODY 2017年6月号」

最初の時点からそういう感じだった彼女は、「憧れ」を持っていないが故に、先輩ともフラットに接することが出来ているようだ。「乃木坂工事中」やインタビューによると、大園桃子は先輩にすぐに懐いて可愛がってもらうのだという。「憧れ」というものがあるが故に、簡単に距離を縮められない他の3期生とは違って、大園桃子はするりと先輩の間に入り込んでいく。これもまた彼女の強みの一つだろう。

そして、そんな彼女の振る舞いから、彼女のキーワードとして選んだ「普通」に込めたもう一つの意味が浮かび上がってくる。それは、「普通に流されない」ということだ。

先程僕は、大園桃子は「アイドルとしてこうあるべき」「乃木坂46としてこうあるべき」という呪縛を持たないと書いた。しかしそれは、そんな狭い範囲のことではないのだと僕は思う。彼女は、「普通」「当たり前」とされることに、自然と疑問を抱いて立ち止まることが出来る人なのだと思う。

例えば大園桃子は、目標を持たない。

【目標があって「これがしたい」と言える人がうらやましいんです。(中略)でも、乃木坂46では自分が描く目標を目指さないと上には行けないと思うんです
―同期には目標を持っているメンバーが多いですよね
ブログを読むと「こうなりたい」とか「こうなるために頑張る」と書いてあって。「桃子と違うことを考えてるんだな」と思うんです。お仕事があれば喜んで頑張るんですけど、目標はないんですよ
―今は目標を探しているんですか?
うーん。見つかるとは思えないんですよねぇ】「Top Yell 2018年1月号」

彼女はちゃんと、「乃木坂46では自分が描く目標を目指さないと上には行けないと思うんです」ということを理解している。また、【こんなに恵まれた環境にいて、向上心のあるメンバーに囲まれているのに、やりたいことが見つからないのは申し訳ない】「Top Yell 2018年1月号」とも語っている。つまりこれは、「アイドルとして目標を持って前に進んでいくことが当たり前だ」という感覚はきちんと持っているということだ。

しかし、だからといって、その「当たり前」に流されることもしない。「目標を持つべき」という「当たり前」に流されて、とりあえず目標を設定してそこに向かう方が、楽と言えば楽だろう。少なくとも、インタビューなどで「目標は◯◯です」と言う方が、アイドルとしては分かりやすいし、余計な言葉を費やさなくても良くなる。しかし彼女はそうはしない。自分の中で、きちんと立ち止まる。立ち止まって考えて、それで「やっぱり自分には目標なんてないな」と思ったら、それを受け入れる。

そう、彼女は、嘘をついたりごまかしたりしないのだ。

【嘘はつきたくないって思うんですよ。思ってないことを言ってるとイライラしてしまうし、「それで丸く収まるなら」という考え方は好きじゃないんですよ。
―変にカッコつけようともしないですよね。
自分が気持ち悪いと思っちゃうんですよ。「私は何してるんだ」って】「Top Yell 2018年1月号」

「自分が気持ち悪いと思っちゃうんですよ」という感覚は、僕にもよく分かる。僕も、自分の気持ちとズレるようなことを言ったりやったりしたくないと思ってしまう人間なので、共感できる。

もちろん、他のメンバーにしたって、嘘をついたりごまかしたりはしていないだろう。しかしなんというのか、大園桃子は、かなり厳密なのだ。それは、次の発言を読んでもらえばなんとなく伝わると思う。

【みんなは『私は本気です。命を賭けて演じます』っていうけど…命を賭けるって、どうやって賭けるの?って。じゃあ受からなかったら命なくなるの?と思っちゃうんです。そういう強い意志があるんだなっていうのはわかるんだけど…命を賭けますって、嘘になるじゃんって。もちろん全力でやってるんですけど、私にはそこまで強いことが言えない】「BRODY 2017年6月号」

彼女のインタビューを読んでいて、今までで一番好きだったのがこの言葉だ。うん、そうだよな、と思う。僕も、「命賭けます」とは言えない。嘘じゃん、って思う。相撲の行司は、いつも土俵の上では短刀を携帯しているという。「間違った審判をしたら腹を切る」という覚悟を示すためのものらしいが、僕はそれを聞いて、「でも間違っても腹は切らないんでしょ?」と思ってしまう。なんかそういう部分に、無闇に引っかかってしまうのだ。

冒頭で僕は、『大園桃子は「普通」という言葉を「人として平凡・多数派」という意味で使っているだろうけど、そうじゃないと思う』というようなことを書いた。僕は、まさに先程の「命賭けます」の話から、改めてそう思うのだ。彼女は「平凡」でも「多数派」でもない。「平凡」で「多数派」なら、「命賭けます」という言葉に違和感を覚えたりはしないだろう。ただ彼女は、「人として真っ当・正直」なのだとは思う。

大園桃子の発言を追っていると、「思っていることを素直に口に出してしまう正直者なんだな」と誰もが感じるだろう。僕も、単純にそういう風に見ていた。しかし、考えてみれば、ただそれだけのことなら、あれだけ人を惹き付けるような雰囲気は醸し出せないだろう。その雰囲気の本質はどこにあるのか?

彼女は、確かに正直者だ。しかし、何を正直に口に出しているのかというと、「普通の人が当たり前に通り過ぎてしまうが、改めて指摘されるとハッとさせられるようなこと」なのだと思う。つまり、彼女の「正直者」としての本質は、「正直に口に出す」という部分ではなく、「人をハッとさせるようなことに気づく」という部分にあるのだろうと、様々なインタビューを読んでいて感じたのだ。

インタビューを読んで感じたもう一つのことは、大園桃子が意外に考えているのだな、ということだ。「意外に」などというと失礼かもしれないが、正直そういう印象をずっと持っていた。18thシングル「逃げ水」で、与田祐希とWセンターとなった大園桃子は、メディアに露出する機会も多く、雑誌のインタビューでもよく登場した。しかし、そういうインタビューを読んでいても、これといった発言を拾うことは出来なかった。3期生同士で話している時は、合いの手みたいな発言をするか、イジられているかという感じでしかない。また、単独インタビューでも、センターとして下手なことは言ってはいけないというような気持ちもあったのかもしれないが、よくある受け答えに終始しているイメージだった。「Top Yell 2018年1月号」のインタビューを読んで初めて、そうか彼女は実はこんなに色んなことを考えている子だったのか、と再認識したのだ。

現状の認識についても、彼女はこんな風に語っている。

【まだ珍しいかもしれないけど、人って同じ場所にいれば慣れるわけだし、嫌でも同じようになるんですよ。その間に、他の子はアイドルとして力をつけていくわけですよ。新鮮味のなくなった桃子と比べたら、実力をつけた子のほうが魅力的に感じるはず】「Top Yell 2018年1月号」

「目標がない」という話の流れから、目標を持っている子にいずれ追い抜かれるのだ、と悲観した発言だ。しかし、前述したような「憧れを持たない」という強みを持っている以上、大園桃子はアイドルとして他の人が真似出来ない方向へと進めるはずだと僕は感じている。

それに彼女は、目標はないが、やる気がないわけではない。

【―目標がないのに頑張るほうが大変だと思いますよ
いい未来のために仕事は全力で頑張りたいです】「Top Yell 2018年1月号」

そんな彼女にしか出来ない、アイドルとしての新しい形を見せて欲しいと思う。

「憧れを持たない正直者・大園桃子」

雑誌の記事を読んでいると、北野日奈子は様々な機会に、ブログで自分の熱い想いを書き綴っているようだ。選抜発表や、ライブでのことなど、その時その時で自分が感じたことを、ブログを通じて書いている。現状や未来に対しての自分の考えを明らかにしたり、自分の意思を明確にしたりすることで自分を奮起させている。そんな記述を時折雑誌の記事の中で見かけることがある。

とはいえ、僕は北野日奈子のブログを読んだことがない。あくまでも僕が追っているのは、雑誌の記事だけだ。そして、僕に見える範囲での彼女の印象は、「呪縛の人」というものだ。

【(2017年の明治神宮野球場でのライブについて)3期生の歌声とお客さんのコールを聞いていたら、2期生が入ってから4年半の思いがよみがえってきました。私たちにとって重い時間だったなと思って…。2期生が経験していないことを3期生は経験しているんだなとか、もっと2期生としていろんなことを経験したかったなとか。2期生という括りに縛られたいわけじゃないけど、もう時間は巻き戻らないんだよなぁと思ったら、待っている間、すごく苦しかったです】「BRODY 2017年10月号」

北野日奈子は、「2期生」という呪縛に囚われていた。

僕は正直、2期生がどんな苦労を経て現在に至っているのか、詳しいことは知らない。僕がそのことを僅かなりにも理解するようになったのは、神宮で「期別ライブ」が行われた、そのレポを雑誌上で読むことによってだ。2期生は、研究生時代も含め、2期生全体で何かをするという機会に恵まれなかった。そのことを、「期別ライブ」のレポをいくつか読むことでやっと僕は理解した。神宮での「期別ライブ」が、活動4年半にして初めて、2期生全体で何かやることだったという。

そうだったのか、と思った。どんなアイドルグループで同じかもしれないが、確かに乃木坂46は、1期生のイメージが鮮烈だ。1人でも華のあるメンバーがゴロゴロいるし、乃木坂46の外での活動も多い。また3期生は、乃木坂46が世間に広く認知されるようになってからの加入だったこともあって、元々注目度が高かった。乃木坂46が載っている雑誌を買って読むことがファン活動の中心である僕は、乃木坂46を好きになって以降の雑誌上での乃木坂46の露出のされ方をずっと見てきているが、3期生加入以降の彼女たちの取り上げられ方はやはり凄まじいものがあった。2期生加入時点での彼女たちの取り上げられ方を直接的には知らないが、雲泥の差であることは分かる。

時期的に注目されにくいタイミングでの乃木坂46への加入、そして2期生として全体でも個人でもなかなか活動がままならない、という境遇は、2期生全体の雰囲気を決して良くはしなかった。

北野日奈子は8枚目シングル「気づいたら片想い」で初めて選抜に選ばれた。その頃のことを、【いつからか、どこかよそよそしい空気になることがあって。私は受け入れてもらえなくなったんです。あー、そうか、わかり合えないんだと思って、つらかったですね】「BRODY 2017年10月号」と語っている。選び選ばれる、というのは、乃木坂46に限らずアイドルグループの宿命のようなものだろうが、1期生と比べてあまりにも不遇の環境にいた彼女たちが、選抜に選ばれたメンバーを素直に祝福出来ないでいたことも分からないではない。堀未央奈も、いきなりセンターに抜擢されて以降しばらくの間、2期生とうまく関われなかったとインタビューで語っていたことがある。1期生も3期生も、それぞれの辛さがあるだろうが、2期生であるという呪縛は非常に大きなものだろうと思う。

しかし、乃木坂46として活動を続け、彼女なりに様々な苦労や喜びを経験した結果、彼女は「2期生」という括りからの脱却を目指す。

【でも、どうしても足並みが揃わないんだなと感じてしまったんです。だから、『ハルジオン』の時期は、私は一人でいるようにしました。ゆっくり考える時間がほしかったんです。その結果、2期生という括りから自由になろうと思ったんです。2期生がもっと先輩の刺激にならないといけないのに、そう思っている同期が意外に少ないことに気づいたからです。自分はもっと前に出たい。だったら、一人でやるしかない。そう思うようになりました】「BRODY 2017年10月号」

そう決意して彼女は、次第に選抜の常連となり、選抜を落ちた18枚目シングルでも、アンダーのセンターとなった。今では、【やってる年数も経験してることも違うけど、もう同じ目線に立たせてもらってもいいのかなとは思ってます】「BUBKA 2017年6月号」とも思えるようになっている。僕の認識では、2期生の中で、明確に上を目指すことを宣言しているのは、北野日奈子と寺田蘭世の二人。2期生というなかなか厳しい境遇にあって、それでもなお前を目指し続ける気迫こそが、彼女の魅力だし力なのだろうと思う。

そんな北野日奈子は、アイドルとしてどうあるべきか悩んでいる。

【たぶん求められていることを全部言ってもらえたら、無心でできるんですけど。自分の気持ちを押し隠してアイドルになれるんですよ。ただ、みんなが「変えなくていいと思う」とか「それが日奈子の個性だから」って言ってくれるから、どうしたらいいんだろう…って】「BRODY 2017年2月号」

この発言は、僕にはちょっと意外だった。

北野日奈子から僕は、意志の強さを感じていた。もちろん、アイドルを続けてる、という時点で皆意志は強いのだろうと思う。しかし、西野七瀬や星野みなみのような、あまり意志の強そうに見えないメンバーがいる一方で、生駒里奈や生田絵梨花のような意志が強そうに見えるメンバーもいる。北野日奈子からもそういう、外側から伝わるような意志の強さを僕は感じていた。それが外側に出るくらいだからメンバー内でも意志が強い方のメンバーなのだろう、と僕は思っていたのだ。

しかしこの発言は、僕が彼女に対して感じていた意志の強さとはまあちょっとベクトルが違っていた。彼女は、自分がどうありたいかが優先される人だと思っていた。もちろんそれは、乃木坂46全体のことを考えない、という意味ではない。1期生には北野日奈子のような、元気でパワフルで明るさ全開のようなメンバーはあまりいない。だから、自分が自分らしくあることで乃木坂46にとっても意味がある、そんな風な意識で彼女は自分がどうありたいかを優先していたのだと僕は解釈していた。

しかしこの発言からは、それとは違う印象を受ける。北野日奈子は、自分がどうありたいかではなく、自分がどうあるべきかを意識しているようだ。そのことが僕には意外だった。失礼かもしれないが、そういうことを考えているキャラクターには見えなかったのだ。

乃木坂46のメンバーとしてどうあるべきか。それは、アイドルとしてどうあるべきか、ということでもある。「アイドルという呪縛」に、北野日奈子は囚われている。

そしてそれは、「北野日奈子という呪縛」にも繋がっていく。

【今も思うことは多くて。色を出しすぎてガチャガチャするのはよくないけど、色がないのも目立たない。最近もスタッフさんと話したんですけど、「自分がやりたいこと」と「まわりが求めていること」が違ってどうしようと悩んでいるんです。自分らしくまっすぐ進むか、求められていることに挑戦していくか】「EX大衆 2017年1月号」

北野日奈子には、先程の発言から、アイドルとしてあるべき姿を追及するために「北野日奈子」を捨てる覚悟があると分かる。その一方で、「北野日奈子であることを貫く」という道筋にも可能性を感じている。問題は、彼女にはそれが両立出来ない、ということだ。

【私は本当に人間過ぎるんですよ。何に対しても。「アイドル」と「人間」をわけられないし、他人をわけて見ることもできない。だって、その人は一人じゃないですか?そういう考え方だから不器用なんですけど。だから、未央奈の作っていないのに何色にも見える感じがいいな、って思うんです。どれも未央奈なんですよ。何色にも染まれるというか】「BRODY 2017年2月号」

彼女は、アイドルとして「まわりが求めていること」に全力を注ぐか、北野日奈子として「自分がやりたいこと」を貫くか、どちらかしか選ぶことが出来ない。その両者があまりにも食い違うが故に、共存させることが出来ないのだ。

何故か。

彼女は、5thのバースデーライブのナレーションで、「ずっとポジティブにいるのは難しい」と明かしていたという。

【―乃木坂に入って想像以上にネガティブになることが多かった?
ずっと自分には暗い部分がないと思ってたんです。でも、乃木坂に入って3年目くらいに根暗だなって気がつきました。乃木坂に入る前はどんなにいじめられても笑顔でいたのに、なんで顔を見たこともない人の意見を気にしてしまうんだろうって。】「Top Yell 2014年5月号」

これもまた、僕にとっては意外な発言だった。外側から見ている限りにおいては、北野日奈子は元気で明るくてパワフルな、陳腐な表現をすれば向日葵や太陽のような存在であるように見える。もちろん苦悩がないはずはないと思っていたが、とはいえ「根暗」という彼女自身の自覚はあまりにもイメージから遠い。

アイドルとしては、元気いっぱいの女の子。そして、北野日奈子としては、根暗な女の子。確かに、この両者はなかなか両立しないだろう。齋藤飛鳥も、乃木坂46加入当初は、いわゆる「THEアイドル」を目指して明るく可愛らしく振る舞っていたと言うが、あまりにも自分に合わなくて早い段階で断念したと言う。そして齋藤飛鳥は、アイドルらしいアイドルを目指さなくても許容される存在として、アイドルの呪縛から抜け出した。西野七瀬も似たような発言をしていた。

そういううまい流れを作り出せれば、北野日奈子も楽になれるのだろう。しかし彼女にとって、それはなかなか難しい選択だ。というのも、北野日奈子を熱心に追っていない僕でさえ、彼女のイメージは「元気で明るくてパワフルな女の子」なのだ。そのイメージを手放すことは簡単ではない。とはいえ、「北野日奈子」を捨ててアイドルとしての自分に邁進することもなかなか出来ない。誰かにそう命令されれば、彼女はそうするだろう。しかし、誰も彼女にそんな命令はしない。彼女もバカではない。やれと言われない以上、その道が正しくない可能性についても考慮しているだろう。だからこそ、「北野日奈子」も捨てることが出来ないでいる。

【だから未央奈みたいに芯を持った、なにを言われても揺るがないような人はすごいと思う。アイドル向きというか。(西野)七瀬さんとかも。私は左右されて波があるんですけど、でも、変われない自分がいて。この変われない自分がいいのか、悪いのか…】「BRODY 2017年2月号」

「2期生という呪縛」「アイドルという呪縛」「北野日奈子という呪縛」に囚われる彼女は、自分がどうあるべきかを定めることが出来ない。変わることが良いのか悪いのかさえ悩んでしまう状態は、とても苦しいだろう。命令されればその通りに出来る、と語る彼女だが、やはり自分で決断しなければなかなか前には進んでいけない。今、この葛藤から逃げないことが、きっと彼女を大きくしていくだろう。そう信じて、これからも悩みながら活動を続けていって欲しいと思う。

「2期生という呪縛、アイドルという呪縛、北野日奈子という呪縛」

僕は、自分の頭が死ぬのが怖い。

自分の頭から、何かを出せなくなることが怖い。
何でもいい。それが「表現」などと呼べるようなものである必要などまったくない。何かを考えようと思って、実際に考えて、それを誰かに伝わるような形で自分の外側に出していく。どういうことを続けていきたい。

それがどんな風に評価されるかは、重要な問題じゃない。
というか、そんなことに自分の思考が左右されないような自分でありたい。

『ウケてても漫才じゃないから』

そんなアホみたいな意見に、壊されたくない。常識を拠り所にした、意味なんかカスッカスの価値観に、翻弄されたくない。

自分の内側から何かを出すことは、怖いことだ。それは、ずっと思っている。評価されることが怖いのではない。そういう気持ちがまったくないと言ったら嘘になるけど、でも大事なのはそこじゃない。自分がちゃんと、自分の頭で考えたことが出せているのかどうか。それが出来ているのかどうか、という怖さがある。

自分の内側から出したはずのものが、自分のものではない可能性はいつだってあり得る。誰かに影響を受けていたり、オマージュを捧げるみたいなことは良い。けど、誰かの真似をしたり、無意識の内に流されているものが、そうと気づかずに自分の内側から出て来ることは、いつだってあり得る。

それが怖い。

『常識を覆すことに全力を尽くせる者だけが、漫才師になることができる』

常識を錨にしたような生き方は、したくない。自分の内側から出したものが、結果的に常識と似たり寄ったりであることは、なんの問題もない。けれど、常識を出発点にして自分の思考を生み出すことは、僕にとっては死んでるも同然だ。

そんな生き方に、どんな意味があるんだろうか?

『僕たちは、完全には世間を無視出来ないんですよ』

徳永が放ったこの言葉に、彼はどんな意味を込めていただろうか。彼がこの発言をした状況、言い方、それらすべてを総合すると、当たり前のことだが、「世間に100%迎合しろ」という意味ではないことは分かる。

じゃあ徳永は、どの程度まで世間に合わせるべきだと考えていただろうか。

『芸人はみんな、自分たちが絶対に面白いって思うものがちゃんとあるんですよ。でも、それは伝えなアカンやろ。その努力を怠ったら、自分が面白いと思ったことがないことになっちゃうやろ』

徳永はそう叫ぶ。

そう。漫才は、誰かに向けてするものだ。自分が面白いと思っているだけではダメだ。伝えなくては。自分の内側から外に外に出していかなくては。

別の場面で神谷はこう言う。

『この世界に漫才師が1組しかおらんかったら、こんなに頑張れてたかなぁ。この世界は、勝ち負けがハッキリ決まる、だからおもろい。けど、1位のやつら以外みんなやる必要なかったかいうと、そんなことないやろ?淘汰されてくやつらの存在も、絶対に必要なんや』

これは、思考も同じだと思う。

良いものだけを自分の外側に出したい、という気持ちは、理解できる。でもそれは、1位の漫才師以外は全員出る必要がなかった、と言ってるのと同じようなものだと思う。そうじゃない。良いわけじゃないものも自分の外側に出していくことにも、ちゃんと意味がある。

だから僕は、自分の内側から何かを出すことを恐れない人でいたいと思う。
そんな風に生きられないんだとしたら、生きている意味なんて、たぶんない。

内容に入ろうと思います。
中学の同級生である山下から漫才をやろうと誘われた徳永。彼らは「スパークス」というコンビ名で活動を始める。熱海のお祭りでの仕事で、徳永は「あほんだら」というコンビの神谷から飲みに誘われる。神谷は、上京して小さな事務所でよく分からないまま漫才師を目指している徳永にとって、大きな存在に見えた。徳永はその場で、神谷に弟子入りを志願した。神谷から出された条件は、一つ。「お前、俺のことちゃんと覚えててくれよな。俺がしたこと、言ったことをその場で記録して、伝記を書いてくれ。そしたら、免許皆伝だ」
大阪を拠点に活動する神谷とは、なかなか会う機会もなかったが、連絡だけは絶やさなかった。その間スパークスは、薄暗いライブハウスでオーディションを受け、劇場で漫才をし、学園祭に出たりした。
神谷が東京に拠点を移すことになった。毎晩のように飲み歩く二人。ある日、酔いつぶれた徳永を神谷が自宅へと連れ帰った。そこには、マキさんという可愛らしい女性がいた。徳永は、二人の関係を聞き出せないまま、マキさんとも仲良くなっていく。
スパークスもあほんだらも、なかなか目が出ない。決して悪くはないが、ブレイクもしない。同じコンテストに出ていた濃い顔のピン芸人が、すぐさま売れてテレビで見かけるようになった。風呂なしアパート、バイト生活から抜け出せないスパークスの二人は、うまく行かない時期もあり…。
というような話です。

良い映画だったなぁ。原作はまだ読んでない。原作は原作できっと良いだろうと思う。ただ映像の場合は、漫才をしているシーンを実際に見られるというのが大きく違うだろう。スパークスの漫才もあほんだらの漫才も、なかなか面白かった。あれは一体誰が考えてるんだろうなぁ。菅田将暉も桐谷健太も、ホントの漫才師みたいに上手かった。

物語は、なかなか一筋縄ではいかない。様々な想いが交錯して、複雑に絡み合う。

とはいえ、やはりメインとなるのは、菅田将暉演じるスパークスの「徳永」と、桐谷健太演じるあほんだらの「神谷」だ。この二人の関わりが、物語の要となっていく。

二人の関係も、なかなか複雑だ。

いや、最初は分かりやすかった。徳永が神谷を慕うという、分かりやすい先輩後輩、あるいは師匠弟子の関係だった。徳永は、神谷の破天荒さ、常識から逸脱する感じに惹かれていく。徳永は、漫才師を目指しているし、自分でネタも書いているが、神谷のような破天荒さはない。そのことに対して徳永がどう感じているのかを明確に描写する場面はなかったが、自分にないものを持っている神谷への憧れみたいなものがその答えなんだろうと思う。

しかし、彼らの関係は少しずつ変化していく。一つは、人間として。そしてもう一つは、芸人として。

徳永は、あることを知って、神谷の人間としてのあり方に疑問を抱くようになってしまう。ここでは詳しくは触れないが、マキさんに関わることだ。彼ら三人の関係は、なかなかに捩れている。神谷を許容していいのか、という葛藤が、時折徳永の心情に見え隠れする。

さらに、比較の問題ではあるが、スパークスは少し売れるようになる。テレビにも、時々出る。一方、あほんだらの方は活動の様子も聞こえなくなってくる。そうなってからの、徳永の神谷に対する葛藤は、僕には完全には想像しきれない。

徳永には、神谷さんはもっと面白いはず、という想いがある。しかし、どんな事情があるにせよ、神谷は漫才から遠ざかっている。そのことに、徳永は忸怩たる思いを隠せない。さらに、芸人として尊敬していた部分さえ、徳永の思い込みだったのかと失望させられるような状況もやってくる。

『お前に神谷さんの何が分かるんだ!』

かつて相方の山下にそうキレたこともある徳永だったが、そういう神谷の様子を見ることで、かつてのようには神谷を見ることが出来なくなっていく。

この物語は、師匠だと思っていた男への失望を抱えながら、それでもその男を自分の中でどうにか受け入れようとする葛藤を描いているように僕には感じられた。

また、スパークスの二人の関係性も描かれていく。売れない現実、それでも夢を見て踏ん張る日々、お互いの人生の変化、漫才に対する気持ちの変化、そういう様々なことが入り混じって、にっちもさっちもいかなくなっていく。

漫才師を目指すということは、ほとんどの人にとって破綻の約束された人生なのだと思う。皆、そのことが分かっていて飛び込んでいく。だから、辛い日常は、ある程度織り込み済みのはずだ。しかしそれでも、耐えられなくなっていく。環境も変わる。昔のままの自分ではいられない。

確証のない未来を掴むためにしんどい日常を生きているすべての人が、きっと彼らの共感できるだろう。

そしてこの映画では、「世間」も切り取られていく。そのことを、観客は意識した方が良いような気がする。僕ら観客は、夢を追って厳しい現実を突き進んでいく芸人の姿を見て、きっと様々なことを感じることだろう。しかし同時にこの映画は、「世間」を切り取っている。そしてそれは、「世間」の一部である僕たちのことでもあるのだ。

芸人の目から見る「世間」は、アホの集団に見えるのだろう。自分たちの方が絶対に面白い、と思いながら、何が面白いのか分からない芸人を見て笑っている「世間」に憤りを覚える。僕たちは映画を見ながら、徳永や神谷や山下に共感しているから、彼らが「世間」を見る視線に違和感を覚えないかもしれない。しかし客観的に見てその描写は、まさに僕たちに向けられたナイフのようなものだと僕は思う。

お前は本当に面白いものが分かっていて笑っているのか?
こいつらがテレビに出ている人気者でなくても、お前たちはこいつらが好きなのか?
俺の漫才で笑わなかった奴、俺がもしテレビに出る人気者だったら、同じ漫才をやってても笑うんだろう?

直接的にそんな描写はなかったが、この映画の描写によって「世間」に突きつけていることは、そういうことなんだと思う。

だから僕たちは、徳永や神谷や山下の視点に立って、「世間」のことを笑っている場合ではないのだ。向けられた刃にどう答えるのかを考えなければならない。

『僕たちは、完全には世間を無視出来ないんですよ』

徳永のこの言葉は、芸人としての妥協と執念の叫びだ。しかし同時に、「この映画を見ているお前らはどうなんだ?」という問いかけでもあると僕は感じた。

評価する者が、実は評価されている。そういう意識を忘れてはいけない、と思いながら映画を見ていた。

「火花」を観に行ってきました

僕は、グループとしては乃木坂46の方が圧倒的に好きだ。齋藤飛鳥を始め、考え方や価値観に共感できたり、その特異さに惹かれたりするメンバーがとても多いからだ。ただ、楽曲だけに限ってみると、欅坂46の方が好きだ。大人への反抗だったり、自分の中の抑えがたい衝動だったりを、パフォーマンスまで含めて見事に歌い上げる欅坂46は素敵だと思う。特に僕は「エキセントリック」が好きで、自分のテーマ曲だとさえ思っている。乃木坂46の楽曲にも共感できるものはたくさんあるけど、「エキセントリック」ほど心を掴まれた曲はない。

その欅坂46の背骨として、結成当時から不動のセンターとして牽引しているのが平手友梨奈だ。

平手は凄い、という話は、様々なインタビューを読んでいて知っていた。欅坂46のメンバーのみならず、乃木坂46のメンバーからもそういう話が出る。また雑誌には、アイドルという枠を越えて、様々なアーティストたちが欅坂46を支持する記事があり、そういう記事の中でも、平手友梨奈の凄さに驚く反応が載っていたりする。

しかし僕自身は、自分の感覚として、平手友梨奈のどこが凄いのか、きちんとは理解できていなかった。

もちろん、外側の情報だけからでも、平手友梨奈は十分に凄いと感じる。デビューは弱冠15歳。最年少メンバーにしてセンターに抜擢された。憑依型とも呼ばれる圧倒的なパフォーマンスで度肝を抜き、不動のセンターとして欅坂46を支えている―。しかし、そういう情報では捉えきれない何かが、彼女にはあるはずだと思っていた。

僕は、乃木坂46のライヴに行ったことがない。欅坂46にしても同様だ。欅坂46のMVを見る機会はある。しかし僕自身は、欅坂46全体、あるいは平手友梨奈単体のパフォーマンスを見ても、自分の言葉で凄さの本質を捉えられないでいた。MVを見て、「凄い」とは思う。思うのだけど、その凄さが何から来ているのか、ずっと分からないでいた。

また、欅坂46をきちんと追いかけていたわけでもないので、乃木坂46のインタビューが載っている雑誌に平手友梨奈のインタビューが載っていれば読む、という感じでしか彼女の考え方を知る機会はなかった。平手友梨奈の凄さについて、気にはなっていたのだけど、自分の中であまり掘り下げることはしなかった。

そんな状態で、「ロッキンオンジャパン 2017年12月号」の付録を読んだ。平手友梨奈を特集するブックレットのような中身で、そこに長大なインタビューが掲載されていた。ビビった。そうか、平手友梨奈はこんなレベルで物事を考え、行動をしていたのかと驚愕した。そして、彼女の凄さの一端を理解できたような気がした。

平手友梨奈は「表現者」だ。

【―いただいた曲を覚えて、振り付けを覚えて歌う―今やっていることは言ってみればそういうことなんだろうけども、曲の魅力や曲で伝えようとしたことや、あるいは曲に懸けた自分たちのエネルギーを全力で伝える手段ありきで考えないと、平手さんはパフォーマンスできないんですね。
そうですね。曲順にストーリー性がなかったり、ちょっとしたことでも『だったらやめよう』『出たくない』っていう人間なんで、スタッフさんにはすごい迷惑かけてるなと思うんですけど。でも立つなら思いっきりやりたいからっていう感じです。
―大げさな言い方になるけど、背負っているなあと。「欅坂とはこういうものなんです」という一番重要な本質の部分を。自分はそこから目をそむけずに行きたいという。単に「自分のわがままや理想を叶えたいんです」という自分本位ではない話をしてくれていると思うんだけども。
『これを伝えたいんだ』っていうのはあります、『このライヴを通して』とか。そういうものがないとできないです、逆に。私はストーリーがないとできない。私の切り替えもあるんですけど、逆にそのストーリーがあるから、そっちの波に乗れば行けることもあるから、そこは(振り付けの)TAKAHIRO先生とも相談しつつ今後もやっていかなきゃと】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

乃木坂46にも、「表現者」だと感じるメンバーはいる。生田絵梨花や若月佑美、卒業を発表した伊藤万理華などが代表的だろう。しかし乃木坂46の場合、「表現者」としての表現の場は、乃木坂46としての活動以外の場所であることが多いように感じる。生田絵梨花はピアノやミュージカル、若月佑美は絵画やデザイン、伊藤万理華は映像作品やファッション、あるいは女性誌のモデルなども乃木坂46以外の表現の場と言えるだろうか。

繰り返すが、僕は乃木坂46のライヴにも行ったことがないので、どんな感じなのか分からない。しかし、メンバーのインタビューを読んでいる限りは、先程引用した平手友梨奈の発言ほどに、ライヴの演出などに自分の考え方を投影させようとするメンバーはいないように思う。生駒里奈は、いかにライヴで自分を表現するか、そして乃木坂46全体を輝かせるかを考えていると感じるが、しかし「私はストーリーがないとできない」というほどの決然とした意思までは持っていないように思う。

乃木坂46は、アンダーライブも有名で、パフォーマンスとしてはアンダーライブの方が圧倒的にレベルが高いという話も聞く。しかしこちらにしても、「こうしたい」「この方がいい」と主張するメンバーはもちろんたくさんいるだろうけど、「こうじゃなきゃ出来ない」とまで言いそうなのは寺田蘭世ぐらいだろうか。うん、寺田蘭世からは確かに、平手友梨奈に近いものを感じる。寺田蘭世も、平手友梨奈と近い境遇に立たされれば、近い雰囲気を醸し出したかもしれない。

しかし、平手友梨奈の「表現者」としての資質は、努力や実力や才能ではない部分にも及ぶ。

彼女は前述した通り、「憑依型」とも呼ばれる。楽曲やパフォーマンスの世界に憑依して圧倒的な表現を見せるのだ。しかしインタビューの中で彼女は、こんな発言をしている。

【―(4月にリリースされた)“不協和音”は平手さんにとってとても大きい曲だと思っていて。
ほんとに大変だった(笑)
―大きいという以上に、「大変だった」という感じなんだ?
全然わからないし、あまり憶えてないんですよね。周りのみんなからの視線をすごく感じる時もあったし、いつも何かを言われているような気もしたし、誰ともしゃべりたくなかったし。そんな時期に“不協和音”っていう曲が来たので『え?』とは思わなかったですよね。普通に『うんうんうん』『これ、私の気持ちじゃん』みたいな感じになって歌いました
―時には曲の世界に自分を近づけていく作業が必要だと思うんだけど、“不協和音”に関しては「今の私のままだ」という感じだったんですか?
“サイマジョ(サイレントマジョリティ)”から、自分が思ってることがそのまま曲になってたので、あまり自分から成りきろうみたいな感じではなかったです。】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

彼女の感覚では、その時々で目の前にやってくる歌うべき曲は、その時々の自分の感覚にピッタリはまってしまうのだ、という。もちろんこれは、色んな説明をつけることが出来るだろう。作詞の秋元康が彼女の状態を見極めて当て書きのように歌詞を書いているのかもしれない。あるいは、自分の気持ちに合った楽曲が目の前に現れるというのは彼女の勘違いで、楽曲で描かれていることに無意識の内に自分を合わせているということだってありえるだろう。しかしいずれにしても、彼女の感覚の中では、楽曲が自分の気持ちにピッタリとハマってしまうのだという。

【ちょうどそう思っていた時にいただいた曲がまさにそういうことを歌った曲だったり、だからこそ表現しやすかったり。『成りきる』とか、最近だと『憑依型』って言われるけど、成りきってるわけじゃなくて楽曲が合ってきちゃってるので、そのままの自分っていう感じでもあります。】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

運命論者ではないので、こういうことは言いたくはないが、平手友梨奈のこういう発言から僕は、彼女は「表現者」として選ばれているのだな、と感じてしまう。この点が、平手友梨奈が、乃木坂46のメンバーの表現と決定的に違う点なのかもしれない、と思う。彼女には、「楽曲に自分を合わせていく」という作業が不要だった。今の自分そのものが、その時出すべきものに合致していた。だからこそ彼女は、その時々で迷いのない全力のパフォーマンスをすることが出来た。表現に関しては「これが正しいのだろうか?」という葛藤などとは無縁で、1ミリの躊躇もなく動くことが出来た。この強みは計り知れないだろう。

表現すべきものに自分を寄せていくのではなく、表現すべきものを自ら引き寄せる。それが神の配剤なのか、あるいは欅坂46の戦略の結果なのかは僕にとってはどうでもいいことだが、彼女のこの「表現者」としてのあり方が、欅坂46の支柱であることは間違いないだろう。

今の自分に表現すべきものが合ってくる、というのは、そう表現してしまえば楽にも思えるかもしれない。何も考えずに、その時その時の自分の「今」を出せばいいのだから、難しくないと感じる向きもあるかもしれない。しかし、それは違う。

【逆に言えば“不協和音”は気持ちが入ったり、その世界に行かないとできないです。だから、できる時とできない時がだいたいわかるので、(ライブで)『今日はできないな』と思ったらできないし、やれるとしても自信はないですし、もうあの時とはモードが変わってるので、その点については大変だったりはしますね】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

平手友梨奈は現在16歳。アイドルであろうがなかろうが、変化の激しい時期だろう。欅坂46のセンターとして、あり得ないほど過酷な環境にいる彼女なら、その変化はなおのこと激しいだろう。だからこそ、シングルCDの収録のために楽曲が目の前にやってくる時と、その後ライブをする時では、もう「今の自分」は変化してしまっている。だから、CDの収録の時に出来ていたことが、ライブでは出来ない。出来ない、という感覚に支配される。「今の自分」を全力で表現することで圧倒的なパフォーマンスを生み出す彼女は、それ故に、変化する「今の自分」をその都度その都度で思い出すような作業をしなければ、楽曲の世界を表現できなくなってしまう。

【―“不協和音”という曲は本当にすごい曲だと思うんだけども。というのも、ただ歌詞を追って歌うだけでは成立しない曲ですよね。自分の何かを削らないと成立させられないという。
どうだろう、今の自分ではわからないです。その人にならないと何考えてるのかわからない
―曲のなかの「その人にならないと」という感じなんだ、“不協和音”を歌う時は。
はい。『あの子』っていう表現のほうが合ってるのかもしれない。『あの子、すごいなあ』とか思います。だからライヴが大変です
―ロック・イン・ジャパンの時も最後まで“不協和音”をやるかやらないか悩んでくれてたもんね。
自分のなかで勝負に行かなきゃいけない場っていうことはわかってたし、だからできるだけ今までのツアーのなかでやってこなかったんです。スタッフさんも理解してくださったので。で、ここでやってしまったら、できたらすごくいい気分になるけど、できなかったら心が折れるから、そうなった時にどうなるかが自分でもわからないから、ほんとにギリギリまでスタッフさんと相談しました】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

日々変化する「今の自分」を、彼女は「その人」「あの子」と表現する。かつては自分自身だった存在を、「その人」「あの子」と呼ばなければならない程遠く感じられる中で、自分が納得できるパフォーマンスを成立させることは非常に難しいだろう。

また、こんな難しさもある。

【いつも重めに考えちゃうから、こんな軽やかに考えるのは難しい。でも、ほんとに楽しまなきゃ損だし、高校生活も高校生という時代も今しかないから、『絶対楽しんだもん勝ちだ』と思って、そういう気分で(“風に吹かれても”を)歌ってるところもあります。
―平手さんはそう思えるようになったよね。
この曲を歌えるようになった平手を褒めてほしい(笑)。監督と話した時に『どう?気分こんな感じ?』って訊かれたから『いや、まだ大人嫌いです』って言ったら『そうだよね』って(笑)。めっちゃわかってくれるんですよ、監督さん。『大人はほんとヤダよね』とか『平手はそこから抜け出せないと思ってるから』って(笑)。でも『人生は楽しんだほうがいいんだよ』って。】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

欅坂46の歌は、表題曲は特に、「反抗」「抵抗」「反逆」と言ったことがテーマになっているものが多い。「大人が嫌い」だと思っている平手友梨奈には、そういう世界観が合っていると、彼女自身も周りの大人も考えている。しかし、アイドルグループとしては当然、そういう曲ばっかり歌っているわけにもいかないのだろう。欅坂46もどんどんとファン層が広がっており、「反抗」なんかを中心に据えない曲ももちろん必要とされる。しかし彼女は、恐らくそういう曲が必要だということを理解しながら、どう歌ったらいいか分からず戸惑っている。

【でもやっぱり、すごい強いメッセージ性がないと落ち着かない自分もいます。“不協和音”はカメラに向かって『嫌だ』とか『もっと反抗していいんだよ』っていうメッセージを伝えてたけど、『今は何を伝えたらいいんだろうなあ』ってちょっと思いますね】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

歌は彼女にとって、「何かメッセージを伝える手段・表現」だ。だから、「メッセージ」を感じ取れない楽曲では、彼女はどこに焦点を合わせてパフォーマンスしていいのか捉えきれずに悩む。楽曲が自分に合うことで圧巻のパフォーマンスを生み出すことが出来る彼女は、それ故に、自分の合ってこない楽曲をどう消化すればいいのか、まだ捉えきれていない。

もちろん、彼女はまだ若い。若すぎると言っていいくらいだ。だから焦ることはないのだが、欅坂46を結果的に背負ってしまっている格好になっている彼女には、焦る気持ちもきっとあるだろう。デビューから鮮烈なインパクトを与えてしまった宿命として、毎回最高以上のパフォーマンスを求められるという重圧の中で、どう表現すべきなのかという問いは、常に彼女を追い詰めるだろう。

そんな平手友梨奈を救ったのは、メンバーだった。

【とりあえずメンバーとアイコンタクトをとって、笑顔で踊るしかないなと思ってます(笑)。確かに命削ってる感はないですよね、この曲(“風に吹かれても”)は
―でも命を削ってきた自分がアリにしてくれる曲なんじゃないのかな。
ああ、1コ言えるのは、メンバーという存在が大きいかもしれない。メンバーを見られるようになったというか、しゃべれるようになったというか、受け入れてもらえるようになったというか。うまく説明できないけど、メンバーが話しかけてくれるようになったので、ツアーを通じて。メンバーに心を開けるようになったのかなあ…。今までは私はちゃんと見てなかったんだなっていう。たぶん“不協和音”と“月曜の朝、スカートを切られた”がつながっていて、その期間にいろいろ起きて、本当に長く感じられて。今はメンバーといて楽しいなって思いますね。】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

彼女は元々人見知りで自分から行動出来ない性格だったという。そんな自分を変えたくて欅坂46のオーディションを受けた。欅坂46としてデビューして、デビュー曲の「サイレントマジョリティ」で一気にブレイク、センターとして最年少ながら絶大な注目を集めることになった平手友梨奈は、恐らく孤独の中にいた。

【私に直接言う子はいないけど、メンバーによっては「私、(MVに)映ってないから…」と漏らしている子もいるみたいで、そういうのを聞くと、それはまあそうだよなぁ、と思うし。だから、悩みとかも、人には言わないようにしてるんです】「AKB新聞 2016年12月号」

【(大丈夫と周りに言われないように距離を置くという話の中で)わかります!だって「大丈夫?」って聞かれたら、「大丈夫、大丈夫」って言うしかないわけで、もう自分のこの思いは消されてるじゃないですか。例えばパフォーマンスが終わったあとに、「わぁ~、終わった~!」ってなってる時に、自分では納得いかないことがあって一人でいたいなって時は、一人でいようと思っています。その方が考え方がいろんな方向にいかない気がするんです】「BRODY 2017年6月号」

想像でしかないが、彼女には忸怩たる思いがあったことだろう。欅坂46を大きくしていくために、彼女は全力を出し尽くす覚悟があったはずだ。しかし、楽曲が自分に合って来てしまう、というほどのパフォーマンスを見せる彼女は、「憑依型の天才」として、個人として注目を集め続けることになる。【センターばかりが注目されるのが怖いときもあって。(中略)全員を見てほしいっていう思いがあります】「BRODY 2016年10月号」とも発言しているが、欅坂46全体ではなく、自分一人に注目が集まっている現状に危機感を抱いてもいたはずだ。

しかし、その状況は彼女自身にはどうにもしようがない。欅坂46を大きくしていくためには、その時その時で出来る人間が最大限の努力を出し尽くすしかない。デビューからずっと、それを担わざるを得なかったのが平手友梨奈だ。状況としては、生駒里奈も同じだ。生駒里奈がデビューからしばらくセンターという重責を担っていたその頃の話は、インタビューなどで様々に読んだことがある。そのプレッシャーは半端なものではなかったそうだし、「メンバーに理解してもらえない」という気持ちもずっと抱いていたという。平手友梨奈も同じ状況にいた。しかし、頑張れば頑張るほど自分に注目が集まる現状であっても、頑張らないという選択などあり得ない。欅坂46のためには、平手友梨奈の全力は不可欠だからだ。だから彼女は、そういうことを全部理解した上で、欅坂46の中で孤立するしかなかったのだ、と思う。

しかし、ライブを通じて変化が生まれた。

【“エキセントリック”は意外と大変です。ツアー期間、表現ができなくなっちゃっていろいろ悩んでたんですけど、“エキセントリック”とか“不協和音”とか、私の得意な、気持ちを放出する曲なんですけど、そういう曲が逆にできなくなっちゃって。内側にこもるタイプの曲しかできなくなっちゃったんですよ】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

声が出なくなったこともあったようで、様々な形で彼女は「表現が出来ない」という苦しみにさいなまれるようになった。

そうなってみてようやく彼女は、メンバーに頼ることが出来るようになった。

【(メンバーに心を開けるようになった、メンバーといて楽しいと言えるようになったのは)また“不協和音”みたいな曲が来るかもしれないけど、みんな“不協和音”の頃の私を知ってくれてるから、きっとわかってくれるなというか、わかってほしいなと思うから。初めてメンバーに本音を言いました。『表現ができない』って。『だから助けてほしい』って。すごい勇気がいったけど。そしたらすごいみんなが助けてくれた。初めて本音を言ったツアーでした。何回かメンバーが楽屋に来て『平手と話したい』って言ってくれて、そこで正直に話したし、『できない』って。みんながほんとに支えてくれたので助かりました、このツアーは。】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

「出来ない」と口にするのは、勇気が要ることだ。特に欅坂46は、平手友梨奈の存在感がある種グループのベースになっているような部分がある。彼女にしても、そのことは自覚していただろう。そんな自分が「表現できない」と言うことには、非常に勇気が要ったことだろう。それでも、そういう弱さを見せることで、ようやく彼女は孤独を抜け出せる光を感じることが出来た。背負いすぎていたものをメンバーに分けられるようになった彼女が、それでも続くだろう重圧の中でどんなパフォーマンスを見せていくのかは楽しみだ。

そんな平手友梨奈を、メンバーはどんな風に見ているのか。原田葵がインタビューの中でこんな風に言っていた。

【―2人も自分さえよければいいという考え方じゃないですよね
でも、その空気を作ったのは平手だと思うんです。先頭を切ってる子がそういう気持ちだから、他の子も「私もメンバーの役に立ちたい」と思える。最初の頃は他のメンバーに「負けたくない」という気持ちが強い子もいたと思うけど、平手の行動を見てると、誰も「自分さえよければ」とはならないはず】「Top Yell 2018年1月号」

この発言を読んで僕は、あぁ良かった、と感じた。平手友梨奈の想いは、きちんと伝わっている。彼女が、自分に向けられる注目に胡座をかくような人間だったとしたら、あるいは、自分が表現したいものだけをただ追及するような人間だったとしたら、彼女がメンバーに頼ってもメンバーは受け入れられなかったかもしれない。平手友梨奈は、自分ではなく、欅坂46のために全力を出している。そのことが、彼女の一つ一つの振る舞いからきちんと伝わっていたからこそ、メンバーも平手友梨奈の窮地にすぐに手を差し伸べることが出来た。

【今の時点で、自分がどうなりたいっていうのは全然ないんです…。「私は何のためにがんばっているんだろ?」って考えてしまって。今、欅坂46は注目していただいているのですが、これから私たちはどうなっていくのか不安な気持ちもすごくあります】「BRODY 2016年10月号」

2016年の時点ではこう発言していた平手友梨奈だったが、メンバーとの関係が大きく変化した2017年は、気持ちがまた変わったことだろう。今まではメンバーに頼れなかったことで「出来ない」と感じられていたことに、これからはどんどんチャレンジしていくことが出来る。楽曲の世界観を表現するパフォーマンスのベースも、「メンバーの役に立ちたい」という雰囲気も、自らの手で切り拓き作り出してきた彼女の意識は、やはりライブに向いている。

【―複雑だなあと思うんですね。「あれは夢だった」と平手さんは話してくれるんだけども、でも客観的に見ると明らかに自分を削ることで成立させているという。つまり自分を削り続けることが自分のなかの夢になっているという、そういうパーソナリティなんだよね。
自分を削ることに対してそういう気持ちはないですね。たぶんすごいものをやろうやろうとしてるんだと思います。『すごいものをやらないなら、もう出たくない』って言います】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

「パフォーマンスに満足したことがない」と語る彼女は、常に「すごいもの」を提示したいと言う。「びっくりさせたい」「鳥肌を立たせたい」「ファンの期待を裏切っていきたい」と彼女が思い続けていく限り、欅坂46のパフォーマンスは進化していくことだろう。

正直今まで僕は、「乃木坂46のライヴを見に行きたい」と思ったことがない。僕は乃木坂46のファンだけど、動いている姿を見ることよりも、思考や価値観を知ることに重きを置いているからだ。アンダーライブにはちょっと食指が動いたけど、凄く強い衝動ではなかった。でも、平手友梨奈のインタビューを読んで、「欅坂46のライヴは見てみたい」と思った。そう思わせるだけの言葉の強さが、平手友梨奈にはある。

【―そんな1年間、何が平手さんを走らせていたんですか?
大っ嫌いなものと戦おうとしたからかな。
―負けられなかった、ということ?諦められなかった、ということ?
仕返ししてやりたかった(笑)】「ロッキンオンジャパン 2017年12月号特別付録」

欅坂46という注目を集めるアイドルグループのセンターとして、常に視線を浴び続けてきた平手友梨奈だからこそ、「仕返し」という言葉がビビッドに響く。恵まれている、と言っていいはずの環境にいて、それでも「仕返し」という意識を持ち続けることが出来る、そのメンタリティこそが、平手友梨奈を、そして欅坂46を作り出しているのだろうと感じた。

「表現者・平手友梨奈」

いやはや、ナメてました。すいません。
「何を」の答えは、二つある。
一つは、作詞という行為を、もう一つは本書を。

本書についてまず書こう。

本書は、どう見てもラノベだ。ラノベをそこまで低く見ているつもりはなかったけど(多少はそういう気持ちもあるけど)、やっぱりラノベだからなと思って油断してたんだろう。実に素晴らしい作品だった。

僕は、楽器が弾けるわけでも、よくカラオケに行くわけでもない。30歳を超えてから乃木坂46にハマり、その流れで欅坂46の曲も聞くが、子どもの頃から音楽はほとんど聞かなかった。ライブと呼べるものには、ほとんど行ったことがない。iPodも持ってないし、もちろん作曲も作詞も出来ない。する予定もない。

そんな人間が何で本書を手に取ったのか、うまく説明は出来ないが、なんとなく面白そうだなと思ったからだ。もう少し突き詰めると、「作詞」に「技術」がある、ということがどういうことなのか、という興味があったということだ(この発言自体、「作詞」をナメていることになるのだけど)。作詞をするつもりもない僕だけど、でも本書は実に面白かったし、作詞に限らず、何かを表現する人には汎用性のある話がたくさん盛り込まれていると感じた。確かに「作詞」に特化した技術や経験値の積み方などが多く書かれているのだけど、その合間合間に、「自分の内側から何か表現すべきものを出すこと」の本質的な部分に触れていると感じられる描写が多数あった。そういう意味で本書は、決して「作詞を志す人」だけに向いている本ではない。

そして「作詞」である。すいません、僕も思ってました。作詞ぐらい、自分にもきっと出来るだろう、ぐらいには。

『はーははは。いるんだよな、お前みたいなやつ。作詞くらい誰でもできるとか思ってるタイプのさ。笑っちゃうよな』

『…お前に限った話でもなくてな、作詞ってのは、なめられたんだよ。素人が趣味でやる分にはまだいいとして、プロの世界ですらな』

『だって作詞は、文字だもんな。文字なら扱えそうな気がするよな。センスでやれそうっていうかさ。メロディ作るよりはよっぽど簡単そうだ。そりゃそうだよな、だって日本人なら誰でも、読み書きくらいできるもんな。
正直に白状しろよ。別に責めてるわけじゃねぇんだ。みんなそうだよ。特に、素人のお前がその気持ちで入ってくるのはフツーのことだ』

『…今までいろんな作曲家と仕事してきたけどな、みんな愚痴るんだよ。クソみたいな作詞家をあてがわれたときの話をな。「こんな曲になるはずじゃなかった」って、そりゃあもう寂しそうに言うんだぜ。作曲家がとりあえずつけた仮歌詞の段階では良い曲になるって全員が思ってたのに、本チャンの歌詞がついたら急に台無し。よくある話なんだよ、これは』

いやー、ホントに、なんかゴメンナサイって感じでした。僕も、割とそんな風に思ってました。だって、メロディがあるんでしょ?で、そこに言葉を当てはめていけばいいんでしょ?あとは、センスとか語彙力の問題でしょ?…みたいに思ってました!すいません!

と土下座したくなるような本でした。

本書を読めば分かる。なるほど、作詞というのは確かに技術が必要なことなのだ、ということが。

著者自身、作曲も作詞も手がける人ですが、著者のあとがきに、こんな一文があります。

『音楽をやっている人はかなりの割合で「作詞は難しい」と言い、音楽をやっていない人はかなりの割合で「作詞くらいはできそう」と言う。』

作詞が簡単そうに見えるのは、作詞というのがどういう行為であり、何を目指しているのかが、全然分かっていないからなのです。音楽をきちんとやっている人には、作詞が難しく感じられる―正直、そんな風に考えたことは一瞬もないので、そのことを知れただけでも本書を読んだ価値がありました。

さてそれでは、「作詞」とは一体なんでしょうか?

『どいつもこいつもハッキリ言わねぇんだ。こんなに大事なことをさ。作詞ができるようになるには、作曲の意味がわからなきゃ話になんねぇんだよ。』

作詞とは、言葉だけの問題ではなく、作曲と関わりがあるようです。この一文を読んだ時には、まだ僕にはうまくイメージ出来ませんでした。でもその後、なるほどと納得させられる説明が登場します。

『作曲は「言いたいことや伝えたい情景を作る」“主体性そのもの”だ。編曲は「作曲の言いたいことをさらに盛り立てる」演出家。演奏家や歌手は、そうやって作り上げられた言いたいことや情景を「聴衆に語り伝える」語り部だ。さて、じゃあ作詞っていうのは、なんだ?』

そう問いかけた後、こんな答えを提示します。

『―「音楽語の日本語吹き替え」だ』

まさにこの点にこそ、作詞は作曲の意味が理解できなければ出来ないと断定される部分なわけです。

この表現は、僕には非常にしっくりきました。元々音楽というのは、クラシック音楽なんか典型的ですが、歌詞なんかなかったわけです。つまり、音楽というのは、歌詞のない状態で「音楽語」を伝えることが出来るわけです。で、それをより伝わりやすくしたり補完したりするのが作詞であり、つまり日本語吹き替えというわけです。そりゃあ、作曲の意味が理解できなかったら作詞なんか出来るわけありませんね。

この大前提を叩き込んだ上で、作詞というものに必要な技術や作業を伝える、という内容になっています。個々の技術や作業なんかはここでは触れないけど、非常に合理的で納得感のあるものでした。作詞について書かれた一般的な本の記述を知らないので分からないけど、恐らくそういう本には本書に書かれているようなことはさほど書かれていないのではないかという感じがします。というか、書いてあっても捉え方が違うかもしれません。本書は、物語という形で作詞技術を伝えようとしているからこそ伝わるものがあると感じられる作品で、そういう意味で、「作詞のやり方をラノベにしてみました」という単純な物語ではありません。

それがより理解できるようになるのが、後半です。

本書では、全体の2/3ぐらいの時点で、「お前にはもう教えることはない」と言って作詞講座が終了してしまいます。しかし、もちろんそこで終わりなはずがありません。というか、そこからが本当のスタートなんですけど、これがなかなかハードです。「私が知りたくなかった作詞の話」という章題があるんですが、まさにその通りで、作詞というのは技術だけではどうにもならない部分があるということが示されるわけです。

で、まさにこの部分こそ、作詞に限らず、自分の内側から何か表現すべきものを引っ張り出してくるすべての人に関わる箇所だと感じました。それは、文字に関わらなくても同じです。写真でも絵でも映像でもなんでも、とにかくそれが表現に関わっている以上、本書で書かれていることは役立つでしょう。もちろん、作詞の話をベースにしてはいるので、「文字を介して伝えること」に主眼は置かれますが、そうではない人にも有益だろうと思います。もちろん、賛否両論あるだろうけど、『アタシの言ってることなんて全部デマカセだと思っちまえ!』なんてセリフがある通り、受け入れるも受け入れないも自分次第でしょう。僕自身は、取り入れられそうな部分は積極的に取り入れていこうと思います。

さて、内容に入ろうと思います。作詞についてではなく、ラノベの物語の基本設定や展開などについてです。

高校二年生の江戸川悠は、クラスメイトで軽音部所属の友人から、学園祭で披露する曲の歌詞を考えてくれないか、と頼まれた。頭が良さそうに見えるのか、本を読んでいるイメージなのか、とにかく作詞の役回りが自分に回ってきた悠は、作詞くらいヨユー!と思って取り掛かるも、出来上がったものは友人にやんわり拒絶されてしまう。
落ち込んでいると、白髪に赤いメッシュの入った、制服をダラっと着てスカートの裾をかなり短く折った背の低い女が話しかけてきた。その女は、作詞くらい誰でも出来ると思っているテキトー作詞家を嫌悪しているようで、たまたま見られた悠の歌詞を見てボロクソに言ってきた。反論する悠だったが、しかし相手があのSiEだと知って驚愕する。月9ドラマの主題歌を始め、ヒット曲の歌詞を担当しているあのSiEだ。信じられない。しかもこの女、悠と同じ高校の三年生だという。伊佐坂詩文、それがこの女の名前だった。
結果的に悠は、詩文に作詞を習うことになる。しかし詩文はぶっ飛んでいる。何せ、転校してきたばかりの頃、クラスで行われていたイジメを目撃して、激ギレしながら消化器をぶっ放したという噂のある女だ。ヤバイ。ヤバすぎる。口も悪いし、行動が突飛でついていけない。しかし、詩文が語る作詞の話は実に魅力的で…。

というような話です。

繰り返すけど、凄く面白かった。作詞技術の話ももちろん面白かったんだけど、物語としても面白かった。ただ漫然と、作詞技術を悠に伝授する、というような話では全然ない。悠が抱える問題、そして詩文が抱える問題などが徐々に明らかになっていき、その展開と共に悠と詩文の関係性も揺れ動いていく。支離滅裂にしか思えない詩文の言動にはきちんと意味があって、しかしその意味を理解するまではまったく謎の行動でしかない。特に後半、「私が知りたくなかった作詞の話」の部分なんか、正直ここから物語はどうなるんだ!?と思っちゃうくらいだった。

そして、そんな二人のやり取りを読んでいく内に、瞬間的に涙腺が刺激されるような場面が出て来るんだよなぁ。これは、キャラクターの造詣が非常に見事だからだと思う。悠のキャラクター、そして詩文のキャラクターだからこそのやり取りが、読者の感情を揺さぶる。

特に、詩文の背景については、色々と考えさせられてしまった。もちろん、一般人が陥ることがないような特殊な状況だから、全然気にする必要はないんだけど、詩文のような人生って一体どんなだろう、と考えさせられてしまった。その圧倒的な孤独に、自らの意思で近づこうと決意する悠の決断も良い。

恐らく、作詞技術だけを解説するのであれば、ラノベにする必要はなかったでしょう。でも、本書の後半1/3の部分を描こうとしたら、物語として描く方がより効果的だろう、と感じました。これは、教本という形で描かれても、ちょっとうまくイメージ出来ないだろうなと思いました。物語という形で、伊佐坂詩文というぶっ飛んだ少女が繰り出すからこそ伝わる何かが、確実にこの物語の中にはある、と感じました。

あと、これはamazonのレビューを見て知ったけど、本書で紹介される「母音検索法」は、恐らく本書オリジナルの方法なんだそうです。読んで、なるほど作詞家ってのはこうやって歌い心地の良い詞を書く準備をするのか、と感心したので、これが本書のオリジナルだというのはちょっと驚きでした。

最後にまた繰り返すけど、決して作詞に限らず、何かを表現しようとする人は読んでおいて損はないでしょう。自分の内側から何かをひねり出すことの意味や心構えみたいなものって、なかなか言語化することが難しいけど、本書はそれを物語という形でうまく提示出来ていると思いました。オススメです。

仰木日向「作詞少女 詞をなめてた私が知った8つの技術と勇気の話」

嘘を吐くなら、バレてはいけないと思う。
だから、僕が嘘を吐くのは、すぐに嘘だと明かすか、あるいは絶対にバレないように状況をコントロール出来ると判断できる場合に限られる。
自分にそういうハードルを設けているので、僕はあまり嘘は吐かない(まったく吐かないとは言わないけど)。

そう意味で僕は、嘘を吐くこと自体悪いことだとは思っていない。吐いた嘘がバレてしまうことが悪いことだと思っている。状況によって「必要な嘘」というのは存在すると思うし、嘘をまったく吐かないことが誰かを傷つけることだってある。

だから、息を吸う様に嘘を吐く人間のことは許容できない。そういう人間は、大体嘘がすぐにバレるからだ。すぐバレる嘘を吐く人間の思考は、一体どうなっているのだろうか?イマイチ僕には理解できない。

僕は、他人の内面は永久に理解できない、と思っている。どれだ言葉や仕草を観察したって、相手がこう思っている、こういう気持ちでいる、などということが確実に分かるわけがない、と思っている。だったら、考えるだけ無駄だ。相手が僕に嘘を吐いていようと、別にどうでもいい。ただ願うのは、その嘘を吐き通し続けて欲しい、ということだけだ。

内容に入ろうと思います。
スマイル法務事務所で働く伊東公洋は、大学時代の親友・森尾に「何故彼女を作らないのだ」と詰問される。司法書士の資格の勉強をしている公洋は、今は別に彼女はほしくないと考えているのだが、森尾はしつこい。社内に誰かいないのか、と言われて、峰岸佑子の名前を出してしまった。さらに森尾は、居酒屋の店長にも、こいつ彼女いないんですよなどと声を掛けた。すると、店内にいた女子大生二人組の片方・ナナちゃんが彼氏がいないという話になる。変な流れになってきたと思いながら流していると、ナナちゃんから「デートしてみよっか」と声を掛けられた。
会社では、公洋は何故か社長の目の敵にされている。ミスを叱責されるのだけど、そのミスの大半は峰岸さんのものだ。公洋は何も言わずに、黙って叱責を受ける。そういうことがよくあった。公洋が峰岸さんに仕事を頼むことも多く、そのために峰岸さんが事務所に戻ってくるまで公洋も待つような流れが出来ていた。
ある日、いつものようにケーキを買って事務所に戻ってきた峰岸さんとひとしきり話をしていると、妙な具合になった。そしてその日から、公洋は峰岸さんから下の名前で呼ばれるようになり、さらには仲の良さを事務所内でアピールするようになった。
公洋は、ナナちゃんと映画を観る約束をしていた。そして何の因果か、まったく同じ映画を峰岸さんとも観に行くことになっていた。ナナちゃんとの予定が先で、そのデートの後、真面目な公洋は、自分がナナちゃんを好きだとはっきり自覚したことで、峰岸さんとの映画の約束を断る決心をしたのだが…。
というような話です。

まあまあ面白かったかな、という感じです。第一章は三角関係になりかけみたいな男女のラブストーリーみたいな話ですが、二章からガラッと物語のテイストが変わっていきます。誰もが日常の中で、悪意なくポロッと口にしてしまうような嘘(とも言えないようなもの)が発端となって、状況がどんどんおかしなことになっていきます。

三人の背景が徐々に明らかになっていくに連れて、状況が二転三転していくんですが、色んな人が色んなことを考えながら行動することで、不可思議な状況が生まれることになります。罪悪感、復讐心、嫉妬心、狂気なんかが入り混じりながら、彼らの間に何が起こったのかを明らかにしていく物語です。

本書は、なかなか珍しいタイプの小説です。少なくとも僕は、前例を知りません。というのは、本書はある書店員が原案を担当しているのです。その書店員が作家に原案を提示、作家がそれを元に小説を書き、後から出版社が決まる、というような流れだったそうです。そういう意味でも、ちょっと斬新な作品ではあります。

佐藤青南「たぶん、出会わなければよかった嘘つきな君に」

内容に入ろうと思います。
盛岡駅から徒歩15分のところにある「花木荘」というアパートが舞台。大家であるトミというばあさんが一階に住んでいて、残り3部屋を店子に貸している。
一階に住むこはくは、ネットショッピングを止められないでいる。欲しいものがあるわけでもないのに。「父親」であるノリオとの関係はなかなか微妙で、その父がこはくを訪ねてやってくるという。久々に会う。
二階に住む時計屋の浅野は、寡黙な技術者だ。休日でも工房に足を運んで、趣味で時計を修理している。施設に入っている祖母が、自分のことをどんどん忘れてしまっている。そのことが、無性に悲しい。
もう一人の二階の住人である昇平は、植木屋である父の反対を押し切って美容師になった。とはいえ、まだまだ見習いだ。小学校時代の同級生の葵と偶然再会し、また関わるようになっていく。葵は、昇平が美容師を目指すきっかけになった人だ。
というような話です。

うーん、実にぼんやりした小説だなぁ、という感じがしました。「花木荘」に住んでいる、以外の共通項がストーリー上存在しないので、どこに焦点を当てて物語を追っていけばいいのかイマイチ掴めない。個人的には、昇平と葵の話はなかなか面白いと思ったけど、ただ、何故彼らの話が一冊の本としてまとまっているのか、という点がよく分からない。

例えば、もう少し大家のトミの関わりが強ければ、全体のバランスは取れるかもしれない。トミが問題を持ち込んでくるとか、あるいはトミが問題を解消させるとか、なんでもいいんだけどそういう要素がもう少し強ければ、作品としてのまとまりはあるような気がします。けど、本作では、あくまでもトミは「よく出て来る登場人物の一人」に過ぎなくて、まとまりはなかなか感じられない。

こはくの話、そして浅野の話は、正直何がなんだかよく分からなかった。さっきも書いた通り、どこに焦点を当てて読めばいいのか全然分からないから、こはくの話も浅野の話も、ただそこに物語がポンと浮かんでいるだけな感じで、よく分からなかった。こはくの話でも浅野の話でも、親と子の関係性みたいなものを描きたいんだろうけど、決して親子の話がメインなわけでもなく色んな話が同列に展開されていく感じがするし、イマイチ何を強く描きたかったのか分からない感じがした。

昇平と葵の話は、これまで書いた全体のまとまりとかそういうことはとりあえず放っておいて、それ単体で見れば悪くない作品だと思う。特に葵のキャラクターがなかなか良いと思うので、結構読ませると思う。昇平が美容師である、という設定も、ちゃんとストーリーの中で意味のあるものとして組み込まれるし。

とはいえ、じゃあ昇平と葵の話が「花木荘」で展開されなきゃいけなかったのか、と言うと、その必然性はやはり感じられない。こはくも浅野もトミも、昇平と葵の話にそこまで強く関わるわけではない(トミは若干介入するけど)。

長編の中の一部ではなく、昇平と葵の話を独立した中編のような捉え方をすれば、悪くはないと思います。

髙森美由紀「花木荘のひとびと」

「紙」に対する印象が大きく変わった。

僕は、なんとなくこんな想像をしていた。例えば、何でもいいけど、例えばカップラーメンの工場のように、機械に材料をセットして流し込んでしまえば、機会がすべてやってくれて製品にしてくれる。紙もそんな風に出来ているのだ、と思っていた。もちろん、工場にセットされている機械には様々な工夫がされているわけで、それは技術の結晶なわけだが、機械化が進むということは人の手が排除されていくというわけで、紙もそういうよくある工業製品の一つだという捉え方しか出来ていなかった。

しかし、どうやら違うようだ。

『製紙会社には、紙の作り方を記した門外不出の「レシピ」と言われるものがある。表面の仕上げに使う薬品など、それぞれの紙の仕上げ方は、長年の研究の上に積み上げたものである。それらもまた、知的財産としてそれぞれの工場内で伝えられている。しかし、「レシピ」だけでは完璧に仕上げることができない。最後の微妙な塩加減が料理人の腕にかかっているように、技術者たちの微調整が完璧な紙を作り上げているのである』

『(中略)石巻工場の8号抄紙機、通称「8マシン」で作られているのである。
8マシンのリーダー、佐藤憲昭(46)は、「うちのはクセがあるからね。本屋に並んでいても見りゃわかりますよ」と言葉に紙への愛情をのぞかせる。』

なるほど、紙というのは機械で作られているものではあるが、工業製品というよりもむしろ職人の手によるものと言った方がいいのかもしれない。何せ、作った本人であれば、自分たちの工場で作った紙かどうか、書店で並んでいる本の状態から分かる、というのだ。これは、工業製品ではなかなかないことだろう。

8マシンには、こんな話さえある。

『日ごろ憲昭は上司から、「8号の『姫』がご機嫌を損ねるから、遠くへ出張しないでくれ」と言われている。彼がいない日に限って、8号が「すべて」調子が悪くなるからだ。彼が戻ってくると途端に調子がよくなるのを見て、「やっぱノリさんがいないとダメだ」と同僚たちが笑った。まるでだだっ子だった』

ホントかよ、と眉に唾をつけて聞きたくなるような話ではあるが、まあさすがに嘘はつかないだろう。機械を使っているとはいえ、紙作りとは職人工芸であり、だからこそ他では代替が利かない。

『8号抄紙機、8号、8マシンなどと呼ばれるこの抄紙機は、1970年に稼働した古いマシンである。この抄紙機は単行本や、各出版社の文庫本の本文用紙、そしてコミック用紙を製造していた。
高度な専門性をもったこのマシンで作る紙は、ほかの工場では作れないものが多かった』

日本製紙がどれだけの数の工場を保有しているのかは知らないが、「8号にしか作れない」というのは本当なんだろうか?と思うだろう。僕も思った。『現に、日本の出版用紙の約四割を日本製紙が供給してきたのだ』とも書かれており、これらを突き合わせれば、石巻工場の8号が、日本の出版用紙の4割に近い数を供給していた、ということになるのだろう。

だからこそ、東日本大震災によって石巻工場が被災したことで、出版が大混乱に陥った。

『「今、大変ですよ。社内で紙がないって大騒ぎしてます。石巻に大きな製紙工場があってね。そこが壊滅状態らしいの。うちの雑誌もページを減らさないといけないかも。佐々さんは東北で紙が作られてるって知ってましたか?」
私は首を振った。ライターの私も、ベテラン編集者の彼女も、出版物を印刷するための紙が、どこで作られているのかまったく知らなかったのだ』

確かにそうだ、と思う。どこで紙が作られているのかなど、普通は気にしないだろう。紙はたぶん誰にとっても、あって当たり前のものだからだ。自分の家の水道の水がどこからやってくるのか知らないのと同じだろう。

石巻工場が壊滅状態に陥ったことは、僕たちの予想を遥かに超える事態だった。8号の責任者である佐藤憲昭はこう断言する。

『8号が止まるときは、この国の出版が倒れる時です』

日本製紙は、誰もが想像し得なかったスピードで復興を果たした。それは、現場の作業員でさえ信じられないほどのスピードだった。そして、まず最初に稼働させたのが、8号なのだ。そこには、こんな強い想いがあった。

『日本製紙のDNAは出版用紙にあります。我々には、出版社とともに戦前からやって来たという自負がある。出版社と我々には固い絆がある。ここで立ち上げる順番は、どうしても出版社を中心としたものでなければならなかったのです』

『大きな傷を負った日本製紙は、なおも出版を支えようとした。この決断は、人々の家の本棚に、何年も何十年も所蔵される紙を作っているという誇りから来るものだ』

さてそんな、日本の出版を支えている石巻工場は、どのように立ち直ったのだろうか。

被災した石巻工場を見て、多くの人は同じような感想を抱いた。

『おしまいだ、きっと日本製紙は石巻を見捨てる』

『あれを見て、工場が復興できると思った人は誰もいない』

『最も楽観的な者でさえ、復旧には数年かかると踏んでいた』

『果たしてこんな工場が生き返ると、誰が思うだろう。池内はこの時、工場の閉鎖を覚悟した。
<これなら、最初から新しく工場を作ったほうが早いんじゃないのか?>』

ほとんど、絶望的な状況である。ありとあらゆるものが水に浸かり、東京ドーム約23個分という敷地内に、家屋や車の残骸が大量に流入していた。

『(可燃性の薬品もある中で)工場が燃えなかったのは、奇跡みたいなものです。あの時、火事になっていたら石巻工場の再建はなかった』

そんな不幸中の幸いはあったものの、誰がどう見ても、立て直せるとは思えない状態だった。

しかし、工場長である倉田は、驚くべき決断をする。

『ところが次の瞬間、倉田は表情を変えることもなく、課長たちが耳を疑うようなことを言い始めた。
「そこで期限を切る。半年。期限は半年だ」』

工場長が倉田であったことは僥倖だった。

通常であれば大卒のキャリア組は三交代の現場に配属されることはない。しかし倉田は、体力がありそうだという理由で現場に回された。また、北海道の複数の工場の立て直しに関わったこともあった。だから、現場にどこまでのことが出来て、どこに限界があって、何が無理なのか、自身の経験から判断することが出来た。

そんな倉田が工場長だったからこそ出来た「半年」という決断だった。

『いったん現場が「やり遂げる」と腹をくくって覚悟を決めれば、どんなに困難であろうと、絶対に乗り越えて仕事を仕上げてくることを知っていた。彼らはいつも想定外の出来事に対応している。マニュアルでは解決できないトラブルへの耐性が備わっていた。そして何より、倉田はどん底に落ちた時の人間の底力を知っている』

彼らが、どんな困難の果てに石巻工場の再建を果たしたのか、その詳細は是非本書を読んで欲しい。東日本大震災に関わる話はどれも悲惨で困難極まるものばかりだが、被災地での奮闘が、日本の出版が崩壊することを防いだという本書の描き方は、悲惨さや困難さだけではない何かを伝えてくれると思う。本書には、日本製紙石巻硬式野球部の記述もある。お荷物とも呼ばれがちな企業運動部をいかに存続させるのかの決断もまた、石巻工場の再建に負けず劣らず見事だと思う。

最後に。印象的だった数字を二つ紹介して終わろうと思う。

まず、8号よりも前に復旧を目指していたN6というマシンがある。このマシンは、1台で小さな製紙工場の生産量を上回るほどの力を持っているのだが、驚くべきはその値段。一台なんと630億円だという。イメージしにくいだろうが、東京スカイツリーの総工費650億円と比較すると、その凄さが分かるだろう。

また日本製紙は、東日本大震災において会社全体で1000億円の被害を被ったという。その大半が石巻工場の再建費用であり、私企業では東京電力に次ぐ巨額の費用をつぎ込んでの立て直しだったという。

たかが紙、されど紙。普段紙と関わる仕事をしている身として、新たな発見もあったし、また、当たり前にあるからと言って疎かにしてはいけないなと実感できる作品だった。

佐々涼子「紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場」

「どうして生きているのか?」という問いは、愚問だと思っている。
そこに、意味のある答えなどないからだ。

問い自体は少し違うが、大学時代の友人と、「何故人間は生まれたか?」という問いについて考えることが時々ある。その時僕は決まって、多世界解釈の話をする。物理学で実際に提唱されているもので、僕らが生きている世界は、少しずつ違う条件の並行世界が無数に存在している、という仮説だ。それは、例えばこんな妄想さえ許容する。その並行世界には、生命体のいる惑星が生まれなかった世界もあるし、宇宙が水素で満たされた世界もあるし、太陽が10個ある世界だってある。僕らはその世界の中でたまたま、人間が生まれた世界で生きている、というだけの話だ。この解釈の話をすると、「それじゃあ話が終わっちゃうから」と、大学時代の友人からは不評だが。

「どうして生きているのか?」という問いは愚問だと思っている。
とはいえ、圧倒的に理不尽な現実に直面せざるを得なかった人たちが、「どうして生きているのか?」と問いたくなる気持ちまで、否定するつもりはない。

僕は、何が何でも生きていたいという気持ちがない。
生きる気力が昔から乏しいと感じていた。
だから、圧倒的に理不尽な現実を前にして、それでも生きてやろうと思えるか、自信はない。
たぶん、無理だろう。
その時、自分がどういう決断をするのか、うまくは想像が出来ない。

そういうことを考えてしまうからだろう。
僕は「守るべきもの」を持ちたいとは思えない。
それは、人でもモノでも信念でもいい。「守るべきもの」を持ってしまえば、どうにか生きていくしかない。でも、生きていく気力の乏しい僕には、未来永劫「生きよう」と思っていられる自信がない。

平日は福島の市役所で働き、週末は東京でデリヘル嬢として働くみゆきにとって、「守るべきもの」は何だったのか。
それを僕は明確には捉えきれなかった。

この問いは、みゆきがデリヘル嬢として働いている、という事実から生まれる。みゆきは震災によって農業が出来なくなった父親と二人暮らし。仮設住宅に住み、結婚はしていない。みゆき自身は市役所で働く身だ。震災以降働くなった父親が、補償金をパチンコにつぎ込んではいるが、それでもまだ使い果たしたわけではない。震災から5年、福島県の現状を詳しく知っているわけではないが、そういう状態であれば、東京でデリヘル嬢として働かなくても、金銭的には特に問題ないのではないか―。

だからこそ僕はこう考えた。みゆきには、何か「守るべきもの」があるのだ、と。

しかし、それが何であるのか分からない。未来の安心だろうか。仮設住宅を出るための資金だろうか。もしかしたら、そもそも市役所の給料だけでは足りない事情があるのかもしれない。被災した自宅の返済が終わっていない、とか。

何かあるはずなのだ。みゆきは、当然だが、自分の快楽のためにデリヘル嬢をしているのではない。自分の中に、鬱屈を押し込めて、それでも必死で踏ん張ってデリヘルの仕事をまっとうしようとしている。その努力の背景には、何かあるはずなのだけど、それが何かは分からなかった。

分からなかったが、ラストの展開を見て、問い自体が間違っていたのかもしれない、とも考えた。もしかしたらみゆきは、「守るべきもの」を探すためにデリヘル嬢として働いていたのかもしれない。震災によって、ありとあらゆるものを奪われた。みゆきの震災前の生活についてはほとんど知る由もないが(元カレが接触してくるのが、唯一みゆきの過去を連想させるぐらいだ)、震災前には何か「守るべきもの」が普通に日常の中にあったのかもしれない。震災後、当たり前にあったその「守るべきもの」が日常から消えた。だからといって、震災で壊滅してしまった福島の地で、すぐに「守るべきもの」が見つかるとも思えない。

その虚無感が、彼女を東京に向かわせたのかもしれない。ここではないどこかなら、「守るべきもの」が見つかるかもしれないと信じて。そして「守るべきもの」が見つかった時に、確実に守ってあげられるようにお金を貯めるために。

正解は分からないが、いずれにしても僕は、「彼女の人生は間違いじゃない」と言ってあげたい。

内容に入ろうと思います。
仮設住宅に父親と二人で住み、市役所で働くみゆき。週末になると高速バスで東京を目指す。車内で、あるいは東京駅のトイレで着替えや化粧をし、渋谷のデリヘルの待機場所へと向かう。そこでみゆきは「ユキ」という名前で呼ばれる。三浦が彼女を送迎し、危なくなった時には彼女の身を守る。三浦は、デリヘル嬢の送迎という自分の仕事を、「生きてる感じするよ」と肯定している。
震災から5年が経ち、それでも働こうとしない父親は、パチンコばかりして補償金を食いつぶそうとしている。震災で死んだ母の話、そして近所の野球少年の話を繰り返し、現実を見ようとしない父親にみゆきは時々憤りを隠せなくなる。
みゆきと同じく市役所で働く新田もまた、もがいている。家族は全員無事だったが、津波で流されてしまった水産加工場で働いていた父親は仕事をしなくなり、母親は祖母と共に変な宗教に肩入れし、今は年の離れた弟と二人で暮らしている。県内外の人間を被災地に案内したり、震災に関わる地元の人間の相談に乗るのが主な仕事だ。料理の出来ない新田は、弟のために近くのスナックで料理を作ってもらうが、そこに新しく入った女の子が東京の学生だという。市役所に勤めている新田に関心を持ち、震災をテーマに卒論を書きたいから色々と教えて欲しいと言われるが…。
というような話です。

個人的には、凄く好きな映画でした。ただ、ほとんどの描写で、結論は見ている者に想像させるような形を取るので、分かりやすい展開・物語を望んでいる人には向かない作品だと思います。

とにかく、この映画では説明も結論もほとんど描写されない。何故みゆきはデリヘル嬢として働いているのか、何故新田は東京の女子大生の質問に答えられないのか、みゆきの父親は働いていない現状をどう思っているのか―そういう説明は、ほとんどない。背景が予想出来るものもあれば、うまく想像出来ないものもある。とはいえいずれにしても、説明を出来る限り排除しているというのが、この映画の良さだと僕は感じる。

まだ6年、もう6年…人や状況によって色んな捉え方があるだろうが、放射能で汚染されてしまった土地で生きる現実に関して言えば、6年という期間はあまりにも短いと言うべきだろう。そこには、様々な問いが存在するし、その問いを発する様々な背景を持つ人が生きている。答えなど、当然一つに決まるはずもない。だからこそ福島に関して言えば、問い続けることに意味があるのだろうと僕は感じた。

それを強く感じた場面がある。老夫婦が新田の案内で墓地を見に行った時のことだ。「骨をここに移せるのか?」という問いに、新田は「汚染されているので移せない」と答えるしかなかった。

僕は、「骨をここに移せるのか?」という問いが存在するということをこの映画を観て初めて知った。骨が汚染されていて墓に移せない可能性など、考えたこともなかった。

映画の中で、そんな風に明確に言語化される問いもある。しかし、決してそれだけではない。この映画は、問いのカタマリだと僕は感じた。どんな問いが存在しうるのかを描写し、それを知ること―映画を撮る者、そして観る者に出来ることは、そういうことなのだと思う。

この映画においては、主人公の女性が絶妙だったと思う。たぶん今から書くことは良い表現の仕方ではないだろうが、この映画にとってはとても重要な点だと思ったので書きます。

主人公の女性は、場面場面で本当に印象が変わる。福島の市役所の職員として働いている時、あるいは仮設住宅にいる時は、本当に地味だ。こういう言い方は本当に失礼だと思うが、女性としてのオーラが全然ない。しかし、東京でデリヘル嬢として働くみゆきは一変する。福島にいるみゆきとは比べ物にならないほど、美しく可憐な女性だ。

美しさが際立つ女優には、同じような雰囲気は醸し出せないだろう。デリヘル嬢としては見栄えがするだろうが、地味な女性になりきろうとしてもなかなかうまくいかないだろうと思う。この映画の主役の女優は、そこが本当に絶妙だったと思う。地味なみゆきも、可憐なみゆきも、どちらもまったく違和感がなかった。見た目は別人のようだが、全体像としては繋がっている。この女優の醸し出す雰囲気は、この映画を成立させる上で非常に重要な要素だったと僕は感じた。

最後に一つ。今度は違和感の覚えた点について書こうと思う。

この映画では、「カメラマン」の存在が凄く意識された。手持ちのカメラで撮っているのだろう、画面が動かないシーンでも手ブレが凄かったし、渋谷の雑踏をみゆきが歩くシーンでは、後ろからカメラマンが歩いてついていってるなぁ、と感じさせるような撮り方だった。普段映画を観ていてそんなこと意識することがないので、最初は「カメラマン」の存在を意識させることに何か意味があるのか、とも思ったのだけど、たぶんそういうわけではないのだと思う。この点は、最後の最後まで不思議だった。撮り方的にはもの凄く違和感を覚えたので、そこはちょっと残念だった。

「彼女の人生は間違いじゃない」を観に行ってきました

乃木坂46に加入する前の彼女のことを知っているわけでもないのに、僕はこう思う。乃木坂46に入って、一番変わったのは、西野七瀬だろう、と。

僕は初期の頃から乃木坂46を追いかけていたわけではないから、最初の頃の西野七瀬のことは、「悲しみの忘れ方」の中で描かれていたものか、あるいは時々「乃木坂工事中」で流れる過去の映像ぐらいでしか知らない。しかし、その断片的な情報だけからも、彼女の弱さが伝わってくる。本当に、アイドルとして立っていることが限界なのではないか、僕らが見ている今まさに目の前で、糸が切れて崩れ落ちてしまうのではないか。そんな雰囲気を感じさせるような人に僕には感じられた。

今でも彼女は、儚さを身にまとった形で佇んでいる。あるインタビューの中で若月佑美が、「西野七瀬は骨格からして儚い」と言っていたが、確かに西野七瀬という存在全体から、どことなく壊れてしまいそうな儚さが漂う。しかし今は、そんな儚さの中にも強さも感じられる。その変化は、僕には劇的なものに感じられる。

自身の変化は、本人も自覚しているようだ。

【うん。自分でも変わったと思う。5年前の私に、「そんなにビビらなくていいんだよ」って言ってあげたい(笑)。挑戦することが嫌いだったけど、結果を知りたいなら挑戦するしかない。そう思えるようになったかな。経験しないと成長できないから】「FLASHスペシャル グラビアBEST 2017年早春特大号」

【確かに、6年前にグループに入ってから鍛えられた部分はあるかもしれません。今のメンタルで昔に戻ったら楽勝やんなって(笑)。最近になって、やっと『まずは楽しもう』と思えるようになってきたんです】「ダ・ヴィンチ 2017年10月号」

かつて僕は、「アイドルとは、臆病な人間を変革させる装置である」という記事を書いたことがある。まさに、その装置としてのアイドルというものの機能が、西野七瀬を激変させたのだろうと思う。

うまく想像は出来ないが、もし彼女がアイドルではなく、歌手やモデルを目指して活動していたとしたら、ここまでの変化はあり得ただろうか、と考えてしまう。アイドルという、過酷でしんどくて、それでいて様々なことにチャレンジ出来て、メンバー同士で足りないことを補い合いながらファンに希望を与えることが出来る存在だったからこそ、西野七瀬は今のような形でいられるのだろうと思う。

先日行われた東京ドームのライブで、西野七瀬はセンター経験者の一人として、こんなスピーチをした。

【私はもともと自分のことが全然好きじゃなくて、自信も持てないし、おもしろいことも言えないし、アイドルらしくないし、そういうところが嫌で、必死に頑張ってたころもあったんです。
自分らしくもないけど、「こうした方がいいかな」とやっていた時期もあったんです。でも、6年やってきて、無理に自分らしくないことをしなくても、それでも好きだと言ってくれる方がいるから、素のままの自分でいいんだなと思わせてくれて…。そこから気が楽になって、そのままの自分で楽しんで活動できています】「月刊AKB新聞 2017年11月号 東京ドームコンサート特集」

【自分で嫌だなと思っていたり、コンプレックスに感じているところを好きと言ってくれたんです。】「2017東京ドーム公演記念 乃木坂46新聞」と言ってもいるが、彼女にとってはそういう経験が変化のきっかけだったのだろうと思う。僕も基本的にはネガティブな人間なので分かるが、自分の言動を悪く捉えたり、周囲の誰かを傷つけてしまっているのではないかという不安は絶え間なくある。アイドルであれば余計にそうだろう。さらに、「きっとこんな振る舞いが望まれているんだろう」という思考と、「でもそんな風には振る舞いたくない」という思考とがぶつかり合って、うまく制御出来なくなってしまうに違いない。

けれど、アイドルとして人前に立つ以上、常に何かを表に出していかなければならない。時には、本人としては不本意な言動も出てしまうだろう。しかし、それらを受け容れてくれる人がいる。そのことが、自信に繋がっていく。

アイドルという存在として立っているからこそ、それらの不本意な言動はうっかり表に出てしまう。アイドルになる前の西野七瀬であれば、そんな言動を人前ですることはなかっただろう。だからこそ、受け入れられるかどうかは彼女の頭の中の判断でしかなかった。アイドルとして、否応なしにそういう言動を晒さざるを得なくなったことで、彼女は自分を認められるきっかけを得られた。

とはいえ、彼女は、自分の本質は変わっていないと語る。

【根っこは超ネガティブです。自信を持って根暗だと言えるくらい(笑)
―センターを何回も経験して、応援してくれるファンも多いけど、自信を持つことはできないと。
そうですね。だけど、その部分を年々見せないようにはなってます。口角を上げて笑顔でいると楽しくなることに気がついたんです】「EX大衆 2017年7月号」

【―ちなみに先ほど自分の変化した部分について伺いましたが、逆に変わってないところは?
ジメッとした、根底にあるもの(笑)。ネクラなのは変わってないですね。昔はネクラなのをむき出しにしてて、周りの人がウザいって思うくらいにネガティブでした。でも自分のことを否定的に言い過ぎるのは周りが気を遣っちゃうし、困っちゃうなって反省して、気をつけるようにしたんです。笑顔でいたほうがいいなって。それから徐々に根っこにあるネクラな部分を周りを覆っていって、むき出しのままでいることはなくなりました】「OVERTURE 2017年7月号」

根暗な部分を隠すのがうまくなった、ということのようだ。まあそうだろう。そして、西野七瀬がこんな風に振る舞うことが出来るということが、乃木坂46というグループの特殊さを表しているようにも感じられる。

例えばアイドルグループには、メンバー同士のライバル心や競争心が激しいところもあるだろう。そういうグループではそもそも、西野七瀬のような前へ前へと出ていかないメンバーの言動が拾われることは少なくなると思う。否応なしに人前に晒され、不本意な言動がうっかり表に出てしまうことで、こんな自分でも大丈夫なんだと彼女は認識出来るようになったのだから、言動が拾われる機会が少ないグループだったら彼女は輝けなかっただろう。

また、競争心が強いグループの場合、メンバー同士がそこまで仲良くない可能性も高まるから、彼女がメンバーに対して「自分のことを否定的に言い過ぎるのは周りが気を遣っちゃうし、困っちゃうなって反省」するようなことも少なかったかもしれない。乃木坂46は、少なくとも外から見ている限りにおいては、メンバー同士の仲が本当に良さそうに見える。そういうグループだからこそ、西野七瀬は、自分のネガティブを表に出さない方がいい、と判断できるようになったのではないかと思う。この点もまた、乃木坂46だったからこそ、という感じがする。

本質は変わらないまま、乃木坂46という特殊な雰囲気を持つグループだからこそその存在が受け容れられた西野七瀬は、主演を務めた映画「あさひなぐ」で演じた東島旭と近い部分を問われて、こう答えている。

【自信がないところですね。常に劣等感を感じているし、みんなよりもできないっていうことを当たり前に受け止めている。そして、旭ちゃんと同じように“強くなりたい”と思っています】「7ぴあ 2017年9月号」

「“強くなりたい”と思っています」という発言に、西野七瀬の強さを感じる。「強さとは?」と問われて、彼女はこんな風に答えている。

【私が思う強い人は、何事にも動じずに逃げない人。私自身、強くなりたいって思っていた頃より、今の方が強くなれたと思うんです。そう言えること自体、成長できたのかなって思うし、強くなったんだと思います】「7ぴあ 2017年9月号」

なんというのか、西野七瀬からこんな発言が出てくるということ自体、なんだか感慨深ささえ感じさせられる。きっと彼女にも昔から、内に秘めた強さはあったのだろう。秋元真夏の加入で福神から落ちてしまった際のエピソードなどはそんな強さを感じさせるし、自身でも「負けず嫌いだと気づいた」というような発言を過去にしている。とはいえその強さは、彼女を覆い尽くすような圧倒的な弱さによって見えないままになっていた。

乃木坂46として活動していく中で、色んな理屈や感情から、自分を覆っていた弱さを少しずつ剥がしていって、内に秘めた強さが表からも見えるようになってきたのだろう。その認識が、先の発言に繋がった。初期から追いかけていたわけでもないのに、その変化には感慨深い気持ちを抱いてしまう。

しかし西野七瀬の変化は、あくまでも「アイドル・西野七瀬」に限られるようだ。

【私も9割は通販だよ(笑)。店員さんとうまいことコミュニケーションがとれないから】「EX大衆 2017年7月号」

【だから、3期の子に対してそんなに存在感を出さずにいて、無理やり距離を縮めようとも思わない。そもそも自分から何を言えばいいのか分からないので、自分がやるべきことをやるだけなのかなって。自然な時間の流れの中で少しずつ話せるようになればいいかなと思ってます】「EX大衆 2017年7月号」

ファンの前に立つ場から離れてしまうと、やはりまだまだ自信のないネガティブな自分が強く出てしまうようだ。まあ、個人的には、その方が安心な気はする。そもそも人間は、そう簡単には変われないと思っている。無理にすべてを「アイドル・西野七瀬」に寄せすぎてしまえば、全体のバランスが取れなくなってしまうだろう。西野七瀬は、乃木坂46をあまり知らない人や、ファンになったばかりの人にも知名度が高い。そういう意味で、「アイドル・西野七瀬」としてはネガティブな部分を表に出しすぎない方がいいとは思うが、そうでない場なら、いくらでも緩めてあげるのがいいだろう。

その点において、僕が好きなのが、西野七瀬の「スイカ(乃木坂46のグループ)」メンバーとの関わり方だ。

例えばこんな感じ。

【荷物番はしますよ(笑)。沖縄でも荷物に囲まれてました。誰かがプールに行ってるあいだとか。
―それも嫌じゃない?
むしろ、「いいのかな?」って。最初は「ノリ悪いって思われてないかな?」って考えたこともあったけど、それをスイカのみんなは気にしないし、私も「全然見とくよ~」って言えるんです。普段だったら「わたしも一緒に行った方がいいのかな?」って思うけど、そういうことを考える必要がなくて、お互いのしたいことをすんなり受け止め合えるんです。
―バランスがいいんですね。
みんなのほうから「待っとく?」って聞いてくれるから、わたしも「じゃあ待ってる」って。そう言えるから、一緒にいて楽しいんだと思います】「OVERTURE 2017年7月号」

このエピソードを読んだ時、あぁ良かったな、と思えた。西野七瀬は乃木坂46に入って正解だったな、と。今西野七瀬は、アイドル界でも最強に近いぐらいの人気を得ていると僕は思う。そんな彼女に対して、「待っとく?」と言える人はまあいないだろう。西野七瀬をよく知らない人だけじゃなく、ファンや周囲の人間も、「荷物なら私が見とくから一緒に楽しんできな」みたいなことを言ってしまうだろう。

しかしそれは、彼女にとってはありがたいことではない。

【ただ、「なーちゃんを外に連れ出してくれて、かりんちゃんに感謝しなきゃ」と言うファンの方もいるんですけど、私は別にそういうキャラじゃないというか、好んでひとりでいるんですよ。群れるのがそんなに好きじゃない(笑)。そのことを分かってないファンの方もいるんだなぁ~って思いました。ひとりでいるのが好きで楽しめてるから、そんなに可哀想だと思わなくても大丈夫なのに】「EX大衆 2017年3月号」

メンバーは、そんな西野七瀬のことを分かっているからこそ、彼女にとって最善の選択肢だと分かっていて「待っとく?」と言えるのだし、彼女もそれを素直に受け取ることが出来る。彼女にとっては本当に、理想的と言える環境だろう。

さて、そんな西野七瀬はこれからどうなっていくだろうか。「これからここを変えていきたい、と思うところは?」と聞かれて、彼女はこんな風に答える。

【うーん…今はそんなにないんです。あえて変えようとは思わずに、流れに身を任せようと思ってます(笑)】「OVERTURE 2017年7月号」

西野七瀬らしい返答だし、彼女の振る舞いとしてはそれが正解だろう。その時々の状況次第で、必要だと思う変化をしていけばいい。

そんな彼女は最近、ファン心理が分かってきたという。

【ゲーム実況もハマッたりすると数年前の動画も見るんです。おかげでファン心理が分かってきました。握手会で「遡って最初のブログから読みました」という方がいて、「あれだけの量を読んでくれたんだ!」と驚いて「キャラが迷走していた時期もあるのに」と思ったけど(笑)、いざ自分がファンになると見てないモノはないようにしたい気持ちが出てくるんですよ。ファンの方が「アイドルをやっててくれてありがとう」「やめないで」と言う気持ちがよく分かります】「EX大衆 2017年3月号」

自分自身の実感としてこういう感覚を持つことが出来るようになった彼女は、益々アイドルとして輝きを増していくのではないかと思っている。

「西野七瀬の変わった部分、変わらない部分」

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