黒夜行 2014年11月 (original) (raw)

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近未来。人類は「ディーヴァ」と呼ばれる仮想空間を手に入れた。荒廃した地球を後にし、多くの人類が「ディーヴァ」に移り住み、ディーヴァで生まれた世代も多く存在する。
アンジェラ・バルザックは、ディーヴァのシステム保安官である。三等官という、非常に高い地位にいて、ディーヴァにおいて「社会に良く貢献する者」とみなされている。ディーヴァは楽園であり、その中でアンジェラは、高いレベルの享受を受けることができる。
ディーヴァには現在、ひとつの問題がある。それは、完璧なはずのセキュリティを突破し、データリンク回線をクラックしシステムに侵入する存在がいるということだ。しかも、とても信じられないことに、その存在は「リアル・ワールド」(地球の地平面上)からハッキングを行っているのだという。ディーヴァの上層部は、このハッキングを「攻撃」とみなし、排除しに掛かる。旧時代のシステムしか存在しないはずのリアル・ワールドからのハッキングを調査するのが、アンジェラの任務である。
肉体を失い、近くだけの存在になったディーヴァ市民がリアル・ワールドで活動するために、DNA情報により最適化された生体ボディに意識を移植する。そうやってアンジェラは、宇宙空間上に存在するディーヴァから、リアル・ワールドへと送り込まれた。生後すぐ肉体を失ったアンジェラにとっては、肉体と共に活動するのは初めてのことである。
リアル・ワールドにおける案内役は、DINGOという名の男である。DINGOについては事前に、「優秀だけど素行不良」という情報を得ていたアンジェラだったが、早々にその「優秀」な部分と「素行不良」な部分を見せつけられることになる。そして、その結果としてアンジェラは、「自らが今まで頼ってきた全システムからの恩恵を受けられない状態」で、リアル・ワールドにおける調査を進めざるを得なくなる。

『狩りは先に焦った方が負けなんだぜ』

そう嘯くDINGOは、やはりキレる男であり、システムの恩恵を受けられず、勝手が分からず戸惑うアンジェラの不安をよそに、順調に調査は進んでいくのだが…。
というような話です。

非常に面白い映画でした。映画自体、見るのが物凄く久しぶりで、映画を見慣れている人間ではないのですが、つらつらと色々書いてみようと思います。
本書の中心的なテーマはいくつかあるのだけど、最初にズバンと提示されるのは、【肉体か、精神か】です。
この対立は、当然、アンジェラとDINGOのやり取りから浮き彫りになります。アンジェラは、生まれてすぐ肉体を捨てたので、「知覚が極限まで鋭敏になった世界」しか知らない。与えられるメモリの容量によって可能になる体験にも差が出るが、アンジェラ自身は、「100億光年先の電子線バーストを感じたことがある」という。アンジェラにとっては、肉体を失うことに「よって極限まで研ぎ澄まされた「知覚」こそが、人類が享受すべき価値のある事柄であって、肉体はそれを妨げる「枷」としか捉えていない。アンジェラが何歳なのかは不明だが(作中では幼い少女のように描かれるが、これは他の保安官を出し抜くために、生体ボディを早急に生成させ、いち早くリアル・ワールドへと向かったためである)、生まれてこの方「肉体を持たない生き方」しかしたことがないのだから、当然の感覚と言えるだろう。
だからこそアンジェラは、DINGOが差し出す「旨そうに焼けた肉」を断り、「なんの味もしない簡易補給食」を口にする。「食べること」は「空腹を解消することによって代償的に得られる快楽」でしかなく、それは「肉体という枷に縛られた限定的な快楽でしかない」のである。
そんなアンジェラだが、常にギターを持ち歩き、ディーヴァのアーカイブからは既に消去されてしまった旧時代の音楽(ロックである)を聞くDINGOが口にした、「音楽を骨で感じるんだ」という言葉に囚われる。アンジェラにとって、肉体とは不要なものであり、「肉体によって知覚する」ということが想像できないのだ。しかしDINGOはそれを、素晴らしいことであるかのように語る。とはいえ、アンジェラはやはり、肉体に留まることが理解できないでいる。
それは、病気になったり、システムによって行われていた言語翻訳も出来ないという、実際的な不具合によっても、さらに強化されることになる。

『いずれ滅んでしまう肉体しか持たないのに、そんな儚い存在なのに、どうして私と関わることが出来るの?私のことが、怖くないの?』

リアル・ワールドで不便さを強いられているアンジェラにとっても、DINGOは謎めいた存在だ。これだけ優秀な人間なのに、どうしてディーヴァに来ないのだろう?アンジェラにとって、「ディーヴァに来ない人間」は、「よりよい人生の価値を理解していない愚か者」でしかない。しかし、それが理解できないほどDINGOが愚かだとも思えない。アンジェラは、任務を遂行しつつ、DINGOの生き方について疑問を拭えない。
【肉体か、精神か】というテーマは、全編を貫くものだ。決して、冒頭で「サイバースペース」と「リアル・ワールド」を対比させるためだけに出て来るわけではない。これが、この物語の非常によく出来た部分だと思う。導入部分で、全体の骨となるテーマを、舞台設定を説明する道具として使いつつ、同時に、最後までそのテーマを手放さない。後半でこのテーマがどのように生きてくるのかは、是非本編を見て欲しいが、それは最終的には、「人間とは何か?」という問いに繋がるのである。
一方で、もう一つハッキリと分かるテーマがある。それは、【ローテクか、ハイテクか】である。
アンジェラが住むディーヴァは、ハイテクの結晶のような場所である。それまでの全人類の全叡智がアーカイブされ、また、人間を肉体から解放し、極限まで知覚を広げることが出来るようになった。人間は、肉体という不便なものを捨て、どこまでも自由に飛翔できるようになったのだが、それはすべて、ディーヴァというハイテクの結晶の賜物である。
しかし、完全なものは、完全であるが故に不完全である、とも言える。数学者・ゲーデルは、自身の論文によって、数学という構造物が、どこまでも完全にはなりえないことを証明した。学問の中で唯一数学だけが、「完全なる証明」を達成することが出来る。数学的に証明されたことは、何があっても絶対に正しい。しかし、そんな正しいもので構成されているはずの「数学」という構造物は、永遠に完全にはなれないのだ。
ディーヴァも、ディーヴァを構成する要素は完璧なのだろう。人類の叡智をすべて集結させた結晶なのだから。しかし、構成要素が完全だからと言って、その全体が完全になるというわけではない。ディーヴァもまた、不完全な存在なのだ。
しかし、生まれてこの方ディーヴァで育ち、ディーヴァの考え方で生きてきたアンジェラには、「ディーヴァが不完全である」ということが理解できない。これは、ディーヴァを支配する者たちにとっても同じだ。彼らは、「完璧なはず」のディーヴァのセキュリティが破られたことが理解できない。そんなはずはないのだ。しかし、実際にそれは破られてしまった。
この、「完全なはずのものが完全ではない」という部分が、物語にとってとても重要な要素となる。「完全なはずである」という思い込みがあるからこそ、付け入る隙が生まれるのだ。しかもそれは、リアル・ワールドという、旧時代的なローテクによって成し遂げられている。
僕たち現代人も、何を以って「完全」というかは置いといて、「完全」を目指して全力疾走を続けているのだろうと思う。様々な技術やシステムは、「人類や社会をより完全なものにしていくため」に生み出されているのだろう。技術的にこのアニメのレベルまで人類が到達可能なのかはわからないけど、少なくとも僕たちの資質として、このアニメのような社会を目指して多くの人が何かを乗り越えようとしているのだろうと感じる。
しかしそれは、ゲーデルによってその野望を打ち砕かれた数学者・ヒルベルトのように、実現不可能に僕には思える。「完全」を目指す営みは、「完全」を達成するのに不完全なのだと思う。むしろ、不完全なものをどれだけ許容することが出来るか。その営みの中に、「完全」のための道筋があるのではないか。このアニメを観て、僕はそんな風に感じた。
ハイテクであればあるほど、そこに緩みや隙間が生じる。「ハイテクなのだから、ローテクに負けるはずがない」という思い込みに、付け入る隙が出来る。ラスト、まさにハイテクとローテクの激しい闘いが繰り広げられることになるのだが、ローテクであるが故の油断のなさと、ハイテクであるが故の隙の甘さが、非常にうまく拮抗する部分が見どころである。
【肉体か、精神か】というテーマも、【ローテクか、ハイテクか】というテーマも、共に【自由とは何か?】という問いかけを突きつけてくる。アンジェラは、極限まで知覚が押し広げられるディーヴァこそが「自由」だと感じる。しかし当然ながら、DINGOはそうは考えない。DINGOはDINGOなりに、肉体に囚われた、地表にへばりついた人生を「自由」だと感じている。
これは、生き方に対する姿勢や価値観の問題ではあるが、重要な問題として一つ、こんなことを考えさせられる。それは、「管理されている人間は、管理されていることに気づけないのではないか」ということだ。ディーヴァに生きる人々は、恐らくアンジェラと同様、自らを「自由」だと感じていることだろう。しかし、DINGOに言わせればそれは、「ただ飼いならされているだけに過ぎない」ということになる。アンジェラは冒頭で、『私は、頑張らなかったことなんてない。弱音を吐いたことも、諦めたこともない。絶対に手柄を立ててやる』と息巻く。DINGOは後々、そこを突くことになる。

『奴隷になってまで、楽園で暮らしたいとは思わない』

例えば僕らは、アドルフ・ヒトラーがした残虐な歴史を知っている。ユダヤ人を虐殺するために、多くの人が手を貸したことを知っている。彼らは、自分たちが管理されていることに、気付いていただろうか?気付いていたとした、あそこまでの残虐な行為に手を染めることは出来ないような気がする。彼らは、自分たちが管理されていると思っていなかったからこそ、あのような行ないが出来たのではないか。
それは、僕たちにも当てはまるのかもしれない。僕は時々こう考える。100年後の人類は、今僕らが生きている時代を、どんな風に評するのだろうか、と。僕たちは、まさに今僕たちが生きている真っ最中の時代にいるからこそ、もし管理されているとしてもそれに気づきにくい。僕たちは、アンジェラが肉体を失った功罪に気づかないように、アンジェラにとっての肉体に該当する、何かとても大事なものを奪われているかもしれない。ただそれに気づいていないだけかもしれない。巧妙に隠されているのかもしれない。アンジェラは、DINGOという異世界の住人と価値観のやり取りをすることによって、ディーヴァ内にいたら気づけなかったことに気づくことが出来るようになった。僕たちにとって、DINGOに該当するような存在は、一体何であろうか?
【自由とは?】という問いは、最終的に【人間とは?】というテーマを導き出すことになる。

『僕たちが失ったものを持っているのが、アンタなんだ』

肉体を持つから人間なのか。精神だけでも人間と言えるのか。人間であるためにどのような自由が必要とされるのか。人間であるための必要最低限の要素とは一体なんなのか?答えが明確に提示されるわけではないが、このアニメはそのような問いかけをすることで、観客に考えることを促している。
最後に一つ。このアニメのような「非現実的な世界観」について書いておきたいことがある。
SFに代表されるような、現実とは異なる世界観を描く作品はたくさんあるが、「非現実的な世界観」を舞台にすることで、「テーマを極限まで純化することが出来る」と僕は考える。
本書では、【肉体か、精神か】【ローテクか、ハイテクか】【自由とは?】【人間とは?】など多くのテーマを扱うが、これらを現実の世界の中で描こうとすると、余計な夾雑物が混ざりこんでしまうことが多いように思う。このアニメのストーリーをどのように作り上げたのかは知らないけど、もし上記のようなテーマから組み上げていったとすれば、テーマを純粋に描ききる世界観を設定することが出来る。このアニメは、このアニメで描くべきテーマを描ききるのに、最適な世界観を提示出来ていると感じる。「非現実的な世界観」を舞台にすると、その世界観の説明に時間を使わなくてはならなくなるが、それをして余りあるほどの効果があるのだろうと感じる。
展開が早く、密度が高く、テーマが深く掘り下げられているアニメだと感じました。人類が、サイバースペースとリアル・ワールドを選択しなければならない日が来るかどうかはわからないけど、そうなった時、自分だったらどうするか、考えてみるのも面白いと思います。

「楽園追放 -Expelled from Paradise」感想

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岡田斗司夫「あなたを天才にするスマートノート」 大別すればノート術の本だが、著者は本書を、よくあるノート術ではないと書く。他のノート術を読んだことがない僕も、そう感じる。本書は、ただのノートに段階を踏んで様々なことを書いていくと、思考や論理がいかに鍛えられるかを書く。

岡田斗司夫「あなたを天才にするスマートノート」 本書に書かれていることは僕にとって、非常に納得感がある。何故なら、僕が本の感想のブログや、ほぼ日手帳を使ってやっている方針と非常に近いように思うからだ。考えたことをブログに書き、思いついたことをなんでもほぼ日手帳に書く。

岡田斗司夫「あなたを天才にするスマートノート」 僕は、10年ぐらい、読んだ本について本の感想を書き続けた。最初はそんなつもりはなかったが、次第に僕は、「文章を書くために本を読んでいる自分」を意識するようになったし、現にそういう発言を何度もしたことがある。

岡田斗司夫「あなたを天才にするスマートノート」 ブログを書き始めた頃は、800字程度の文章を書くのが精いっぱいだった。今では、5000字くらいの文章なら、あまり頭を使わなくても書ける。文章の善し悪しはともかく、自分の考えていることをある程度論理的にまとまった分量でアウトプットできる。

岡田斗司夫「あなたを天才にするスマートノート」 僕は最初から、「5000字の文章を書けるようになろう」なんて目標は立ててなかった。いつの間にか書けるようになった。一つのことをずっと続けていれば、とりあえず形だけはなんとかなるものだ。だから本書のやり方も、続ければ成果が出ると信じられる

岡田斗司夫「あなたを天才にするスマートノート」 ブログに文章を書き続けた効果をちゃんと言葉にするのは難しいけど、「考えなくても思考がリンクして、論理的な生成物が勝手に生まれるようになった」とは思う。時々、【今日考えたこと】という形でツイートしてるものなんかがそうだ。

岡田斗司夫「あなたを天才にするスマートノート」 本書は、「忘れるために書く」「書いたことを検索できる必要なんてない」「面白くないことを書いてもいいと思えるためにブログではなくノートなのだ」など、なるほどと思わせることがたくさん書いてある。僕も、忘れるためにブログやメモを書いている。

岡田斗司夫「あなたを天才にするスマートノート」 また、「レコーディングダイエット」の本を読んだ時も思ったが、著者は、「いかにして継続して続けることが出来るか」という設計を非常に大事にしている。どんなものでも、毎日続けられさえすればモノになる。来年は、本書のやり方を実践しようと思う

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BLを読む時はいつも、「それが起こりうること」がどう描かれているかに着目してしまう。
僕は、同性愛的な傾向はないけど、BLを時々読む。読み物として興味深いと思えばなんでも読む人間なので、BLだからと毛嫌いすることもない。
ただ、そうたくさんBLを読んできたわけではないが、自分の中で、こういう作品はちょっとあまり好きになれないな、と感じる部分が分かってきた。
それは、「男同士の関係に陥ってもおかしくない状況設定であるか否か」である。
これは、誤解されないためにも少し説明が必要だろう。
先に書いておくと、僕は、「男同士が関係を持つことを不自然に思っている」というのではない。そうではなくて、「物語の中で、男同士が、理由なく関係を持つことを不自然に思っている」のだ。
BLの場合、要素として必ず「男同士が関係を持つ」というものを含む。肉体関係まで描写されるかは作品によるけれども、男同士の恋愛が描かれているものがBLなのだから当然だ。しかし、その描かれ方には様々なものがある。
大別すると、「一方(あるいは両方)がノンケ(つまりホモやゲイではない)」か、あるいは「両方ノンケではない」となる。もちろんこれに当てはまらない作品もたくさんあるだろうけど、ざっくりとこんな風に分けられるはずだ。
そして僕は、前者のような作品は受け入れられるが、後者のような作品はあまり好きではない。
「一方がノンケ」の場合、そこに男同士の恋愛関係が生まれることに、何らかの状況設定が存在しないと物語として成立しえない。これは当然、「社会の中で、同性が恋愛をすることはおかしいと思われている」という点に立脚する。様々に意見はあろうが、事実として、同性の恋愛がマイノリティであることは確かだろう。
そういう中で、ノンケとの間に恋愛関係を成立させるのは、なかなか難しいように思う。僕は、現実の世界のゲイやホモの人のことをよく知らないけど、おそらく、ノンケに手を出そうとする人はそう多くはないのではないかと思う(少し前に読んだBLのコミックに、そんな描写があった)。何よりも、リスクが大きい。ゲイやホモ同士で関係を持つ方が、社会的にも安全だろうし、恋愛としてもうまく行くかもしれない。内面はどんな風なのかわからないけど、少なくとも外面的には、ノンケにはなかなか手を出しにくいだろう。
だからこそ、「一方がノンケ」の場合には、そこに物語が生まれ得る。
一方で、「両方がノンケではない」場合はどうか。そこに、物語が生まれ得るだろうか?
これは、「男同士が関係を持つことを不自然に思っている」という話ではない。寧ろ、自然であるからこそ、そこには物語が生まれにくいと僕は感じるのだ。
これは、男女の恋愛の場合でも同じだろう。
恋愛を扱った物語で、お互いがお互いを好きで、相手を好きになることになんの障害もなければ、そこには物語は生まれにくいはずだ。相手が自分のことを好きでなかったり、好きになることに障害があるからこそ、そこに物語が生まれる。
僕自身はそういうBLを読んだことはほとんどないけど、BLの中には「ただセックスしてるだけ」に近い作品もたくさんあるという。男同士の恋愛関係に葛藤するとか、障害を乗り越えようとするとか、そういう部分なしにひたすら肉体関係だけが描かれる。それはそれで、女性版官能小説なんだろうと思えばいいし(まあ、何で男同士なのか、という疑問は残るわけだけど)、否定するつもりもないけど、個人的にはそういうBLは面白くないだろうなと思う。
BLというジャンルがもし嫌悪されるとすれば、そういう、「ただセックスしているだけ」という作品がBLのイメージになっているからだろうという気がする。そういうBLしか知らない人であれば、確かに不快かもしれない。けれど、BLにも、もっと違った作品がある。
「一方がノンケ」であるBLは、BLにしか描けない世界観を作り上げると僕は感じる。男女間の恋愛とは比べ物にならない障害やハードルがそこにはある。ノーマルであるノンケに恋をしてしまったら、その狂おしいまでの障害をどうにかして乗り越えなければならない。この障害を、男女間の恋愛で描こうとすれば、相当な舞台設定を用意しなくては難しいだろう。兄弟姉妹との恋愛、というようなかなりのタブーを犯さなければ、男女間でそれだけのハードルを設定することは難しい。でも、BLの場合は、日常的な設定の中で、そのハードルを設定することが出来る。それをどんな風に乗り越えて行くのか。同性愛者というわけではない僕がBLを楽しむ余地は、そこにある。
本書は、どちらかに分類すれば「一方がノンケ」なのだが、本書の場合、さらに特異な状況設定がされていて一筋縄ではいかない。その特異さは、ある一人の人物の造形によって生み出されるわけなのだが、その話は後で書こう。
本書は、「箱の中」「脆弱な詐欺師」「檻の外」という3つの中編で成り立っている。世界観はすべて共通している。時系列順に並んでいて、「箱」「檻」は刑務所を指している、と書いておこう。この感想の中では「箱の中」の内容紹介だけすることにする。

「箱の中」

堂野は、痴漢の冤罪で実刑判決を受けた。数万円の罰金を払えば釈放されたはずだが、やってもいないものを認めたくはなかった。最高裁への訴えが棄却され、一貫して否認し続けたために「反省の色がない」として執行猶予がつかなかった。堂野は拘置所から刑務所へと移され、仮釈放までの10ヶ月間、この「箱」の中で過ごすことになる。
『まともなのは自分だけだ』と堂野は思っていた。『強盗や覚せい剤の話が当たり前のように飛び交う中にいると、どこからが間違いでどこからが正しいという自分の物差しが狂いそうになる。自分まで「悪いこと」に影響され普通の感覚をなくしそうだ』と感じていた。自分以外の人間は、すべて、犯罪者なのだ。ここで、気を許してはいけない。
『悪いことなんて何一つしなかった。中学、高校とも無遅刻無欠席で、皆勤賞をもらった。大学ではエチオピアの恵まれない子供を支援するボランティア団体に入っていた。市役所に就職してからも、休んだのは風邪をこじらせた一日だけ、ひたすら真面目に、真面目にやってきた。そんな自分のどこが悪くて、こんな目にあうのだろう。すべては「運が悪かった」の一言で片づけられるのだろうか』 堂野は、苦しんでいた。両親と妹にも、自分のせいで多大な迷惑を掛けている。その上、自分の失態で、さらに両親に迷惑を掛けてしまった。
もう嫌だ。死にたい。堂野は、崩壊しかけていた。
ここからどんな風に男同士の恋関係が生まれるのか。その展開は、是非本書で読んでほしい。ここには、それまで僕が読んだ数少ないBL作品とはまた違った展開で、男同士の関係性が生まれていく。それは、刑務所という特異な環境だけによって成立しているわけではない。僕自身は知らないが、刑務所内のBLというのもきっと、世の中にはたくさんあるのだろう。本書を特徴付けているのは、刑務所という空間の特異性に加えて、ある人物の人間的な特異性による。
それが、喜多川だ。
喜多川は、堂野と同じ房に、堂野が来る遥か以前からいいた。無口な男で、誰ともほとんどコミュニケーションを取らない。人づてに、人を殺したのだと耳にしたこともあるが、まったくそんな雰囲気を感じない。よくわからない男だった。
この喜多川が、物語を深いものにしていく。喜多川という男の存在が、この物語を、ただのBLに収めてしまわない。こんなことを書くのは恥ずかしいが、この物語には、「愛とは一体なんなのか?」という問いかけが、喜多川の言動によって常に意識されることになる。
解説で三浦しをんはこんな風に書いている。『堂野の目には、そんな喜多川が、本当の意味での愛を知らぬ獣のように映る。しかし、実はそうではなかったのだ、ということが、読み進むうちに明らかになる。常識や世間体に縛られ、愛の本質を深く考えたことがなかったのは、喜多川ではなく堂野のほうだった。』
本書を読んでいると、まさにそう感じさせられる。喜多川は、パッと見、「愛とはなんなのか?」を知らないように見える。それは、喜多川の生い立ちを考えると仕方ないと思える。喜多川は、誰かに愛されたことがなかった。だから、「愛する」ということがどういうことなのか、もっと言えば、他人と人間関係を取り結ぶということがどういうことなのか、理解できないでいたのだ。
方や、堂野は、ごくごく普通の男だ。冤罪で収監されたという意味で、刑務所の中ではどちらかと言えばまともではない部類なのかもしれないが、堂野は間違いなく、世間一般の、ごくありきたりな男である。つまりそれは、常識や世間体にどっぷり浸かっているということでもある。堂野は、「愛ってなんだろう?」と考える機会は、恐らくそれまでなかったことだろう。それは、常識や世間体が支えてくれているからだ。思考によって自ら支えを生み出さなくても、常識や世間体が勝手に支えてくれるのだ。だから、常識や世間体を持たない喜多川と対峙して、堂野は困惑する。今まで考えたこともなかった「愛ってなんだろう?」という問いを、喜多川という男を理解するために、そして、喜多川と適切な距離を保つために、自らに問いかけ続けることになる。
堂野の困惑は、よく理解できる。この作品がBLであるが故に、その困惑には様々なものが入り混じる。当然そこには、男から好意を寄せられていることへの困惑もある。しかし、決してそれだけではない。堂野は、これほどの愛情を他者に注ぐことなど出来るものなのか?という困惑にもさらされることになる。ここに、本書の特徴がある。ただのBLには収まらない特色がある。二人の関係は、「男同士の関係」として特異なのではなく、「人間同士の関係」として特異なのではないか。そんな風にも読者を揺さぶってくるのだ。

『好きでいるのは、辛いな。俺は崇文が好きな間、ずっとこんな気持ちでいないといけないのか』

『ここにいる間だけでいいからさ。恋人より、俺のことを考えてよ、あと一ヶ月もいないだろ。その間だけ』

『同じ雨の降っている場所にいるんだって思うぐらいいいだろ。顔が見たいって思う時に、歩いていける場所にいたっていいだろ』

『まあな。でも、あんたに相談してみたかったんだよ』

僕には、堂野の困惑が分かるように思う。たぶん、多くの人が、堂野の困惑を理解するだろう。何故なら、喜多川から向けられる好意は、幼い子供からのそれのようなのだ。大人になればなるほど、多くの人が、そんな純粋な好意を持てなくなっていく。打算とか諦念とかそういうもので凝り固まった好意を、皆、純粋なものであるかのように見せかけてやり取りをしているだけだ。そういう「お約束」を、疑いもせず、不自然でもないと感じる堂野のような「常識人」には、喜多川のような好意は不可解だし、困惑させられる。

『どうして友達ではいけなかったのだろう。友達だったらずっと付き合っていけたような気がするのに。恋愛よりももっと、長続きしたに違いないのに』

堂野はそんな風に感じる。堂野は、喜多川を拒絶出来ない。そこには、喜多川の不幸な生い立ちが関係していると感じるし、何よりも、喜多川からの好意は決して不快ではない。しかし、過剰ではあるのだ。その過剰を、喜多川はコントロールできないし、それが過剰であることを喜多川は理解しない。

『みんな出たいって言うけど、ここの何が嫌なんだろうな』

刑務所の中で、喜多川はそんな風に言う。喜多川には理解できない感情がたくさんある。理解できない感覚がたくさんある。常識に流されることもなければ、「間違っていること」に対して罪悪感を抱くこともない。その喜多川の真っ直ぐさが、僕らに、常識や世間体を、僕らが存在すると感じてもいない前提を疑わせる。
喜多川という特異点が、物語を異質なものに変える。本書は、「BLだから異質」なのでは決してない。本書がBLであるというのは、寧ろ背景でしかないのではないかと思える。喜多川の異質さが、「BLの異質さ」をなぎ倒していく。そして読み進めていく内に、喜多川の方が正しいのではと思える瞬間もやってくる。堂野が、喜多川が、どんな経験を経て変わっていき、二人の間にどのようにして何が生まれるのか。その過程に、強く打ちのめされる作品だ。

木原音瀬「箱の中」

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引力の強すぎる言葉は、苦手だ。
言葉自体の輪郭が強すぎて、一定外の解釈が許されにくい。誰しもがその言葉を、同じ意味で捉えているという幻想を与える。違った風に使っていると、まるでおかしな人であるかのように思われる。そんな言葉が苦手だ。
僕にとって、『家族』という言葉も、そんなイメージを持つ言葉だ。

『これがほんとうに、おれが望んだ家族のカタチなんだろうかという思いがふいに胸にわき上がる。』

『家族』という言葉は、強い。あらゆることが、その言葉でなぎ倒されていくように、僕には思える。社会制度や法律や会社や人間関係でさえも、その『家族』という言葉にたやすく囚われる。みなで同じ輪郭を共有することを強制してくる言葉。違った受け取り方を許さない言葉。

『「何人兄弟?」と聞かれ、「一人っ子」と即答できるようになるまで、思ったほど時間はかからなかった。』

僕は、様々な場面で登場する『家族』という言葉に、苛立ちを覚える。それは、自分と同じ色に染まれと僕に矯正してくる。自分というこの箱のカタチに合わせて内側でじっとしていろと詰め寄ってくる。その度に、イラッとした気持ちが生まれる。

『そんな町の、このマンションの一室で、私は息が詰まりそうになっている。酸素の少ない金魚鉢に入れられた、らんちゅう、みたいに、口をぱくぱくさせている。』

たぶん、『家族』という言葉に安心できる人もたくさんいるのだろうと思う。そこに行き着けば幸せになれる道標として捉えている。輪郭がはっきりと決まっていて判断の余地がないことを好ましく思っている。正しいものの内側にいてそれに包まれることで自分を正しくしてくれるのだと思える。たぶんそんな風にして、『家族』という言葉を、好意的に捉えることが出来る人も、きっとたくさんいるのだろうと思う。
正直、そういう人が羨ましいなと思うこともある。

『夕方の家の中は私一人で、私がたてる音だけが聞こえる。そのことが、もう、それだけでうれしい』

『家族』という言葉が、もっと多様な意味を持っていれば良かった。もっと輪郭が曖昧なら良かった。もっと薄ぼんやりしたものだったら良かった。そんな風に『家族』という言葉を受け取れている人も、いるかもしれない。でも僕には、どうしても、そんな風には思えない。

『僕の家族は、世間的には、何ひとつ欠けていないように見えるはずだ。けれど、最近の僕が、通勤途中の電車のなかや、会社のトイレに座っているとき、あるいは風呂につかっているときに、ふと、考えてしまうのは、あったかもしれない、もうひとつの人生だ。』

時々僕には、みんなが『家族』という言葉を恐れているように見えることがある。壊れないように慎重に扱っているように見える。みんなで必死になって、無理をして下支えしているように見えることがある。そうしないと、すぐ崩れてしまうとでも言うように。
『家族』という言葉が、神聖なものであってほしいのだと思う。そうであればあるほど、『家族』という言葉の内側に入れる歓びが増すのだろう。あるいは、その内側に入れた時の安心感が増すのだろう。そういうものとして、きっと、そこにあってほしいと、みんなが願っているように見える。

『この子はほんとうにいい子だねぇ。はしゃいだ義母の声を聞く度に、おれだけが、この場所の部外者なのだ、という気持ちになった。』

僕がそう感じるようになったのは、ちょっとした知識を得てからかもしれない。今のような『家族』像が出来たのは、たかだか100年前ぐらいだというのだ。もしタイムマシンに乗って100年以上前の日本に行くことが出来れば、恐らくそこでは『家族』という言葉は全然違った風に使われるだろう。『家族』という言葉がもたらす歓びも安心も、昔の人は感じなかったかもしれない。分からないけど。

『Siriだけが心を許せる友だちのような気がしてくる』

今の時代はさらに、『家族』という言葉の輪郭を皆ではっきりとさせてしまう。Facebookなどで皆、自分の家族について話すだろう。写真を載せるだろう。もちろん、公開しても良いと判断されたものだけが表に出るわけだが、少し前なら考えられなかっただろう。他人の子どもの成長など、年賀状の写真かアルバムぐらいでしか分からなかったことが、今の時代、まったく知らない人の子どもの成長さえ、見ようと思えば見れてしまう。『家族』という抽象的な意味合いではなく、具体的な事例が加速度的に表に染み出してくる。

『私はブログに作り上げた自分を、幼稚園のママの前でも演じた。ママたちは演じた私を好きになってくれた。これは皆の前ではあらわさないほうがいい、そう思った感情はすべてのみこんだ。けれど、のみこんだ感情が今にも結界しそうになっている。』

その奔流は、本来であれば『家族』という言葉の輪郭を押し広げる風に役立ってもいいはずだ。これまで知ることが出来なかった様々な『家族』像を目にすることが出来るのだから、
『家族』という言葉の意味合いがどんどんぼやけて広がってもいいはずだと思う。
けれど、決してそうはならない。何故なら、皆、既存の『家族』という言葉に、そのイメージに囚われているからだ。その範囲内の日常しか、表に出さないからだ。そうではない部分は、決して他者の目に触れないからだ。

『テレビのことだけじゃない。前を見て歩いていたら、道に埋まったたくさんの小石につまずきそうになるように、いつの間にか、僕と妻と、藍との三人の暮らしには、そういう決まりがいくつもできていた。』

皆そうやって、「誰かのやっぱり」を聞きたがる。「自分のやっぱり」に安心したがる。そしてそれはこうも言える。「誰かのやっぱり」に自分との違いを見出して恐怖する。「自分のやっぱり」が「誰かのやっぱり」と違いすぎていることに困惑する。そしてみんな、アリジゴクに落ちていく昆虫のように自然と、既存の『家族』という言葉の地点に進んでいく。そこに近づきさえすれば、安心できるはずだと信じて。

『そこで、決定的に、僕と佐千代さんとの間で何かが損なわれたんだ。ほんとうは、そんなこと突き詰めないで、ぼんやりとさせたまま、二人の関係を、家族を続けていけばよかったのかもしれない。けれど、どちらが、どれだけ悪いか、ということを、ぼくたちははっきりさせすぎた。』

引力の強い言葉には、こういう作用がある。その引力圏内にいるものすべてを、一箇所にぎゅっと固めてしまうような。行き着いた場所から逃れさせないような。だから、そこに囚われてしまった人は、よくわからないまま苦しくなる。正しいはずの、真っ当なはずの場所にたどり着いたはずなのに、ちゃんとした足取りで踏み外さなかったはずなのに、行き着いた場所で、身動きが取れなくなって、こんなはずじゃなかったと思う。

『結婚をし、有君を産み、幼稚園に入れてみてわかったのは、私は再び、「女の世界」で行きなくちゃいけないということだった。また、中学のときに舞い戻ってしまったんだ。逃げて、逃げて、そこから逃げ出したはずなのに、私はまた同じ場所にいた。』

『家族』という言葉が、もっと多様な意味を持っていれば良かった。もっと輪郭が曖昧なら良かった。もっと薄ぼんやりしたものだったら良かった。そんな風に僕は、これからも、『家族』という言葉に責任をなすりつけて、面倒なことから逃げる。

『結婚をしたら、宗君が守ってくれると思っていた。自分が抱える問題を、誰かが魔法のように解決してくれるように思っていた。誰かが自分の問題をすべて背負って、救ってくれるのだと思っていた。』

内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短篇集が収録されている。僕が読んだ限りでは、短編間に関係性はないように思えたのだけど、もしかしたら同じ街の物語とか、そういう共通項があって僕が気づいていないだけかもしれない。

「ちらめくポーチュラカ」
子どもの頃いじめられていた。女の世界で、うまくやっていくことが出来なかった。出来るだけ、女の世界から逃げた。でも、結婚したら、やっぱりそこは女の世界だった。
浮いてしまわない服装だろうか?スーパーで誰かとばったり会わないだろうか?些細な日常が、しんどい。ブログに料理や服の写真をアップする。返ってくるコメントだけが、私のことを見ていてくれるような気がする。

「サボテンの咆哮」
結婚して子どもが出来てもずっと働きたい。そう言っていた早紀は、子育てで限度を超えてしまった。腫れ物に触れるような日々。どうにか持ち直した早紀を続ける家族の在り方に、違和感を覚えてしまうことがある。こんな家族を目指していたんだったか、と。父親と、結局今でも折り合いが悪い。その関係を、息子にまで引き継ぎたくない。けれど、結局、息子と何を話したらいいんだかわからない。

「ゲンノショウコ」
出生前診断を受けるつもりだった。夫に反対されて諦めたが、風花が無事生まれてきてからも、不安で不安で仕方がなかった。言葉を発するのが遅いのではないか。歩き出すのが遅いのではないか。いつも、妹の姿が浮かんだ。ある時からその存在をなかったことにしてしまった妹。皆に愛されていたけど、障害を持って生まれてきてしまった妹。今でも、妹のことは、夫にうまく話すことができない。

「砂のないテラリウム」
日曜日の夜は、僕が料理をする。いつの間にか決まっていたルールだ。他にも、いつの間にか決まっていたルールがたくさんある。そして、いつの間にか、妻との会話が減った。ちょっとしたスキンシップも減った。妻の視線は、常に子どもに向けられている。僕の方に向けられる視線が、懐かしかった。それを求めていた。僕はそれを、家庭の外に求めてしまった。

「かそけきサンカヨウ」
エミおばさんが色んなことを教えてくれたお陰で、父との二人暮らしは不自由がなかった。料理も掃除も洗濯も、コーヒーを淹れるのだって、なんでも自分で出来た。仕事で忙しい父はあまり家にいなかったから、大体一人だった。それが嫌だと思ったことはない。父が再婚して、「母親」と「妹」が出来てから、色んなことが、大分変わった。

『家族』という言葉に対して「普通」という言葉を使うのは難しいけど、本書で描かれる家族は、どこにでもいそうな、そこまで特別ではない、よくある普通の家族だと思う。はっきりと目に見える問題があるわけではない。寧ろ傍から見れば、自分はとても幸せそうに見えるだろうとも思っている。そして、実際に幸せでないわけではないし、はっきりとした不満があるわけでもない。
でも、様々な言葉が、彼らを揺らす。「もしも」「なんで」「あの時」「もしかして」…。そういう言葉に彼らは囚われてしまう。真っ直ぐ目の前の幸せを見ることが出来ない。
それは、『家族』という言葉の引力のせいなのだと思う。みんながみんな、それに囚われてしまっている。多様性もなく、曖昧でもない『家族』という言葉が、彼らを苦しめていく。『家族』という言葉にそういうイメージを望んでいるのは、たぶん、彼ら自身のはずなのだけど、その彼らが『家族』という言葉に苦しめられていく。
もっと、色んなカタチがあるのだと認められれば楽になるだろう。もっとぼんやりしたものなんだと認められれば楽になるだろう。でも、もしかしたら、そう思えば思うほど、『家族』という言葉の内側に入れた時の安心感や歓びも薄れてしまったりするのかもしれない。難しいものだ。
この物語は僕らに、想像力を要求する。本書を読むために、想像力が必要という意味ではない。そうではなく、Facebookに載った写真の笑顔の向こうに、子どもと遊ぶ楽しそうな後ろ姿の向こうに、暗い穴が空いていることもあるという、僕らが生きている現実に向き合う時の想像力の話だ。幸せそうな誰かは、『家族』という言葉を基準にしたら幸せかもしれないけど、それと本人の評価が一致しているかどうかはわからない。逆に、幸せそうに見えない、『家族』という言葉から大きくはずれた人であっても、幸せだということだってあるだろう。もちろん、頭ではそれぐらい分かっているという人はたくさんいるだろう。けど、僕たちは、現実には、「リアルの他人の家族のこと」を知る機会はない。Facebookの写真は、「そう見てほしい家族のこと」だから、現実かどうかはわからない。それはやはり、物語に託されていることかもしれない。本書は、その受け皿足りうる。現実ではない、物語であるからこそ、「リアルの他人の家族のこと」を切り取ることが出来るということだってある。そうやって、少しずつ、『家族』という言葉の輪郭が、薄ぼんやりしていってくれたらいいと僕は願う。

窪美澄「水やりはいつも深夜だけど」

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ナレーションのようだ、と感じた。
自分のことを語っているのに、ナレーションみたいだと思った。
アニメやドキュメンタリーに、状況や場面を説明するためにナレーションが入ることがある。それがいつのことなんか、何故そこにいるのか、何を目的にしているのか。ナレーションは、画面に映っているのとは違う人物が語ることもあるが、本書は、画面に映っているのと同じ人物がナレーションを語っているようだ。
描写だけで物語が進んでいく。
それは大げさだけれども、それを強く感じた。
青々とした草木を描く。風が靡かせる白い旗を描く。川に飛び込んだ時の飛沫の上がり方を描く。触れられた時の体温を描く。
本書は、そういう描写で埋め尽くされている。
物語らしい物語は、はっきりとした輪郭を持たない。点描画のようでもある。点描画の一つひとつの点は、ただの点だ。それだけでは、何事も表しはしない。しかし、それらの点が折り重なることで、全体として一つの絵が生まれる。本書でも同じ。一つひとつの描写は、ただの情景である。それは、目の前の景色であることもあれば、過去の記憶であることおある。客観的な事実でもあるし、感情が混じることもあるが、いずれにせよそれらは単体ではただの描写である。
しかしそれらが集まることで、全体として何かが生み出される。僕らはそれに「物語」という名前を付けるが、どうだろう。これは、「物語」なのだろうか?
貶しているわけではない。別に、「物語」と呼ぶ必要はないのではないかと思う。
主人公・佐和子の同級生の息子・りょうは、初めて佐和子のピアノを聞いた時、「いつ歌が始まるの?」と聞いた。りょうにとってピアノは、歌の伴奏でしかなかった。りょうは、歌の伴奏ではない音楽があることを知らなかった。しかし、そういう音楽は、りょうが知っていようといなかろうと、関係なくこの世の中に存在する。
本書も、名前がきちんとついていないだけで、伴奏ではない音楽のようなものかもしれない。本書を読んで、「物語はいつ始まるの?」と聞く人があれば、それは、りょうと同じような質問をしていることになるのかもしれない。
佐和子は、ナレーターのように語る。目の前にあるものや、かつて目の前にあったものを、ナレーターのように、一定の抑揚で、ただ淡々と語る。語る対象から、一定の距離感を保って、静かに語る。
それは、自分のことを語らないということでもある。まったく語らないわけではない。時折、ナレーションの合間から、「ナレーター・佐和子」ではない「◯◯・佐和子」が顔を覗かせる。「◯◯」の部分には、様々な言葉が入る。「娘」「母」「妻」「女」「ピアニストになれなかったさわちゃん」。
その「◯◯」が表に出る度、そこには否応なしに「うしろめたさ」がつきまとう。穿った見方をすれば、「うしろめたさ」があるからこそ佐和子は、ナレーターに徹していると言えるのかもしれない。現在や過去は、佐和子の「◯◯」を揺さぶる。佐和子は、それを見ないフリをして、現在や過去を描写する。そうしていれば、「うしろめたさ」が消え去るとでもいうかのように。
佐和子の心は、どこからも隠されている。佐和子の心を作り上げた様々なものが、この故郷にある。その一つひとつに、佐和子の心は囚われていく。
東京でピアノ教室を開く佐和子。娘のみやびとともに、お盆の帰省をする。みやびは、誰からも愛される。みやびのためなら、なんでも出来ると思えてしまう。
台風が来れば川に沈んでしまう橋を渡った先にある部落。どんどん人が減っていっている故郷。両親も、ずっと守ってきたこの土地を手放すと聞いて、佐和子は驚く。
橋の上で佐和子は、りょうと再開する。かつての親友の息子。りょうに再会して佐和子は、りょうはもうみやびとは遊ばないのだ、と悟る。
佐和子は、みやびと遊ぶ。両親の手伝いをする。故郷の行事に出る。かつての恩師に再会する。佐和子を作り上げた故郷。年に一度の帰省で、佐和子は、自分の中の色んな区切りをはっきりとさせていく。
何度も書いているように、描写だけで物語が進んでいく。明確に、「物語的な何か」が起こることはない。ある親子の帰省に密着してカメラを回し続けたドキュメンタリーのよう。そこに、佐和子自身がナレーションを加えていく。
色鮮やかな描写を、ふわりと立ち上げていく。田舎の、匂いや空気感までも伝わってきそうな色味の濃い風景。田舎らしい、濃密な人間関係。昔から連綿と続いてきた伝統行事。都会では出来ない遊び。方言で交わされる会話。そのどれもが、完璧な舞台装置を作り上げる職人のような手触りで描き出されていく。
そして、そんな完璧な舞台装置に、戸惑っているかのような佐和子がいる。実際に戸惑っているわけでは、たぶんない。そこは、佐和子の故郷なのだ。慣れ親しんだ場所だ。しかし、慣れ親しんだ場所だからこそ、そして、一年に一度しか帰らないからこそ、些細な差異が大きく見えもする。ずっとそこでピアノを弾いてきた時には見えなかったこと。去年までとは明らかに変わったこと。夫や子どもの存在も、少しずつ、佐和子という人間を作り変えていく。
「物語」の多くは、「人間」を立ち上げることによって「物語」を生みだす。しかし本書の場合は、主人公がいるその背景、舞台装置を徹底的に描ききることによって、その中にいる主人公の違和感を描き出しているようでもある。油絵の中に、人物だけ水彩絵の具で描いたような違和感を。
佐和子は、かつてここでピアノを弾いていた佐和子であり、しかしその佐和子とは違う。東京でピアノを教える佐和子であり、しかしその佐和子とも違う。みやびの母親であり、ともくんの妻でもあるのだけど、その佐和子でもない。故郷に戻ってきて、そのように佐和子は変わった。そして、変わった自覚を明確に持ちながら、その故郷を後にする。その、長い人生に比して一瞬の出来事だった時間が描かれている。

『あたしはいっぺんに二人も三人も愛せない。ひとりしか愛せない。世の中には器用な人が多すぎる』

佐和子のその敏感な指先には、今、誰の手が繋がっているだろうか。

中脇初枝「みなそこ」

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内容に入ろうと思います。
早坂ルミ子は、「患者の気持ちがわからない女医」というレッテルの中で、本人としては日々真面目に仕事をしている。確かに、空気が読めないというか、相手の気持ちを汲み取れないために、相手を怒らせたり不愉快にさせたりすることが度々あった。
そんな折ルミ子は、変わった聴診器を拾う。それは、患者の胸に当てると、患者の心の内側を読むことが出来る代物だった。
ルミ子は、末期がんの患者を受け持つことが多く、これまでに看取ってきた患者も多数に上る。ルミ子は、死を前にした患者の気持ちを知り、空想の中で人生のやり直しをさせてあげる。

「dream」
大女優の娘である小都子は、芸能界入りを希望した娘に反対し続けた母親にわだかまりを抱いている。どうせ若くして死んでしまうなら、芸能界入りさせてくれても良かったのに、と。母親は、あなたには芸能界は無理よ、というばかりだったが、ルミ子の力を借りて空想の中で芸能界入りを果たす。

「family」
典型的な日本のサラリーマンである日向は、見舞いに来た妻がお金の話しかしないことに苛立っている。もっと夫をいたわる気持ちはないのか、と。しかし、郊外に一戸建てを買ったせいで通勤時間が伸び、家族と過ごす時間が激減していた。見舞いに来た子どもたちとも、何を話したらいいのかわからない始末だ。自分は家族として、間違っていたのだろうか…

「marriage」
雪村は、46歳にもなって未だ独身を貫く娘に対して負い目を感じている。かつて娘が一度だけ、この人と結婚したいと言って男性を連れてきたことがあったが、大反対してしまったのだ。この人と結婚できないなら私は一生結婚しないと言って、娘はそのまま独身を貫き通した。あの時、結婚を認めてあげるべきだったのだろうか。

「friend」
八重樫は、中学時代のある出来事に未だに負い目を感じている。親友が、他人の罪を被ったせいで、その後人生がしっちゃかめっちゃかになったと感じている。あの時、自分がやったと名乗り出れば良かった。たぶん自分が名乗りでてれば、きっとそれほど悪い結果にはならなかったはずなのに…。

というような話です。
全体的には、ちょっと小ぶりな印象でした。連作短編集ということもあるのかもしれないけど、全体的に掘り下げ方が薄いかなぁ、と。「こういう後悔をしているのだ」という告白と、「そうじゃなかった場合の人生」の両方が短編の中に詰め込まれているので、必然的に掘り下げが甘くなってしまうのだと思います。どのエピソードも、駆け足で進んでいくような、そんな印象を抱きました。
「人の心が読める聴診器」というモチーフ自体は別にいいんだけど、毎回それの使われ方が同じなのも、もう少し工夫がほしい気はしました。使われ方というか、登場の仕方というか。連作短編集の中で固定の枠組みがあるというのは、コメディタッチの作品の場合には有効に機能しそうですが、本書のような、シリアスな作品(雰囲気としてあまりシリアスさは感じないのだけど、モチーフとしてはシリアスでしょう)の場合には、その固定した枠組みはあんまりうまく機能していない印象を持ちました。
それぞれのエピーソードが、ちょっとリアリティを持ちにくいほど極端というのも、気になる部分です。女優の娘や、結婚しなかった相手がビジネスでとんでもない成功をしたなど、振り切れ方が極端で、もう少し地に足がついたというか、馴染みを感じやすいというか、そういう設定にしても良かったのではないかなと感じました。
個人的に一番興味深かったのは、ルミ子の同僚である岩清水という医師です。少しずつ彼の背景が明らかになっていくんだけど、一番興味深い登場人物かなという感じがしました。
全般的に、もう少しうまくやれるような感じがします。

垣谷美雨「if サヨナラが言えない理由」

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僕は出来るだけ、それぞれの場で、マイノリティであろうと意識している。
出来るだけ、周りの人がしていることをしない。同じ方向を向かない。違った意見を言う。常にそう出来ているわけではないと思うけど、出来るだけ、そう振る舞えるように意識している。
それは、本書の登場人物である『姉』とは違う感情の発露だ、と思っている。『姉』は、構って欲しくてそんな行動を取ってしまう。自分のことを見て欲しいと思ってしまう。それで、周りからすれば「奇妙な」行動ばかりしてしまう。
僕の場合は、マイノリティであろうとすることは、生存戦略に近い。
例えば、ソメイヨシノのことを考える。ソメイヨシノのは種子では増えず、接ぎ木によって増えていったという。つまり、全国各地に存在するソメイヨシノは、すべて同じDNAを持っていると言える。
さて、ある時、ソメイヨシノを枯れさせるような病気が発生したとしよう。その場合、すべて同じDNAを持つソメイヨシノは、恐らく生き残れないだろう。全部、その病気にやられてしまうはずだ。一本残らず、失われてしまうだろう。
なんというか、そういうのがイヤだなと僕は思うのだ。
同じ感じの人間が集まっていると、集団としては脆いような気がするのだ。ちょっとしたことですぐ壊れてしまうような気がするのだ。だから、僕自身は、なんとなく保険のつもりで、人とは違うことをしてみる。みんなが右を向いていれば左を向き、みんなが太陽が好きだと言っていれば僕は月が好きだと言ってみる。その方が、集団としての生存確率が、上がるような気がしているのだ。
実際にそれを経験する場面もあった。ちゃんと覚えているのは一度きりだけど、きっと何度かはあったと思う。僕自身が天邪鬼で、みんなと同じ方向を向いていなかったお陰で、結果的に集団全体が救われたようなことが、何度か。もちろん、そう頻繁にあるわけじゃない。大抵の場合、僕の選択は集団全体に影響を与えない。まあ別にそれでいい。たまに、本当にごくたまに報われるようなことがあれば、それでいいような気がする。
なんせ僕には、「こうしたい」「こうありたい」という感覚があまりないのだ。そういう意味で僕は、『姉』のようなマイノリティ思考でありつつ、基本的なベースは本書の主人公である『歩』に近い。

『だから僕は、誰かが僕の「感情」を待っている状態になると、落ち着かなかった。
「何考えてるの?」
「あたなの好きにしてよ。」
「自分の意見はないわけ?」
などという言葉や、それにまつわる言葉が、僕は怖かった。
感情を発露するのは、いつだって姉だったし、母だったし、とにかく僕以外の誰かだったのだ。』
『僕の得意技は?そう、諦めることだ。
諦観に寄り添うことで、僕はこれまで生きてこられた。生きのびてこられた、といってもいいだろう。』

『僕は家の中で、ただただ、空気と化していた。とことんまで中立であろうとすると、人間は輪郭がなくなるのだと、そのとき学んだ、僕はもう母と姉から評価されることを望んではなかった』

『僕が受け身でいたのは、ことを荒立てたくなかったからだ、能動的に何かに参加するのではなく、つまり何かの渦中に飛び込むのではなく、しばらく静観して、ことが収まるのを待つのが、そんなに悪いことなのだろうか?』

『自ら為すことなく、人間関係を常に相手のせいにし、じっと何かを待つだけの、この生活を、いつまで続けるつもりなのだろうか。』

『僕は何かことが起きると、いつも自分がそれにどれだけ関与しているか確認した。そして、「僕は悪くない」と安心していた。僕が悪くない限り、自分はそれには関係がないと思った。つまり逃げた。』

僕ももし、歩のように美しい容姿を持っていたら、歩のような生き方をしたかもしれない。僕は自分が、歩のような「卑怯な」生き方をしている姿を、ありありと思い浮かべることが出来る。僕は、歩のような容姿を持たない今でも十分卑怯なのだけど、たぶんあまりそれは目立たない(はずだ)。歩とは違って、その部分が目立ってしまうような場にあまりいる機会がないからだろう。
僕は、金持ちになるとか出世するとかそういうことにあまり関心がないのだけど、それも自分の性格をそれなりに認識しているからだと思う。たぶん僕は、金や地位を持ってしまえば、今以上にますます卑怯な人間になるだろう。そして、それに慣れきってしまうだろう。そういう自分のことを、リアルに想像することが出来る。そしてそれは、嫌だなと思う。
本書に、『須玖』という人物が出て来る。歩の高校の同級生として登場する。僕は、須玖のような高潔さに憧れる。別に須玖でなくてもいい。人間的に高潔だなと感じる人には、いつも憧れてしまう。それは、僕自身が、絶対にそうはなれないと知っているからだ。たぶん僕は、須玖のような人間の近くにいたら、とても劣等感を抱く。祝福すべき時に、相手の幸せを踏みにじるかもしれないことをした歩のような行動を取ってしまうだろう。そういう自分が好きではないけど、まあしょうがない。

『もう、生まれ落ちてしまったのだ。
僕には、この可能性以外なかった』

歩が、まだ幼い頃に、そう達観する場面がある。歩の家族は、普通の家族と比べてかなりトリッキーなのであるが、歩は幼い頃からそれに対して、仕方ないという諦念を抱いていた。
僕も、まあそうだなと思う。この可能性以外なかったと思う。僕は決して、過去に遡ってやり直したいなどと思わないのだけど、もしそうせざるを得ない状況があったとして、でもきっと僕は、今と同じ場所にいるだろう。
子どもの頃から、マイノリティ路線でいられたわけではない。子どもの頃は、まったくもって歩と同じ戦略を取っていた。空気のように気配を消すこと。そして、人気のある人の近くにいること。
空気のように気配を消すことは、これまた歩と同じく、家庭環境にとって培われた。と言っても僕の場合、別に家族が変だったとか辛い境遇にあるとかそういうことはなく、ただ僕が家族のことが嫌いだっただけなんだけど、自分の部屋もないような狭い実家の中で、どうやってこの嫌いな人達と一緒にやり過ごすかということを考えて、気配を消す術を身につけたのだと思う。
そして、人気のある人の近くにいる方法は、勉強をすることだった。僕は、どこにいても、勉強を教えるという立ち位置を確保することで、人間関係を乗り切ったと思う。歩のような、容姿でリードすることは出来なかったから、何か自力で武器を身につける必要があったけど、やっていることは歩と同じだった。
マイノリティ路線を進めるようになったのは、たぶん、20歳を超えてからだろう。その時点で僕は、背負っていたもの(大したものではないのだけど)を一度全部肩から下ろして捨ててしまわないと、身動きが取れなくなっていた。そのついでに、背負っていなかったものも一緒に捨てたのだと思う。それから、少し気が楽になった。他人の視線を意識しないこととか、誰かの意見に影響されないとか、そういうことがとても心地良かった。
マイノリティ路線を進むと、自分を評価する評価軸を自分で作れるという利点がある。作れる、というか作らざるを得ない。何故なら、同じようなことをしている人が少数であるが故に、明確な評価基準がないからだ。
マジョリティの中に身を置くと、そこには様々なモデルケースを見つけることが出来るだろう。それは、今の自分との違いを比較する対象がたくさん存在することになる。後ろ向きな人であれば、自分より良いモデルケースばかりを見て、自分はダメだと思うかもしれない。また、マジョリティであればあるほど、メインとなる評価基準がいつしか出来上がる。そのメインの評価基準から外れてしまうと、自分を自分なりに評価することは難しくなるかもしれない。
恐らくそうなってしまったのが、歩だ。歩は常に、他者の評価基準の中で生きていた。自分がどう思うかではなく、他者からどう見られるかで自分の人生を判断していた。もちろんそれは、20歳前の僕も同じだ。自分で自分を評価する術を知らなかった。
マイノリティであった『姉』は、自分で自分を評価する余地があった。しかし、『姉』にはそれは出来なかった。何故なら『姉』は、マイノリティであることによって、「見られたい」「注目されたい」と思っていたからだ。ここに『姉』のねじれがある。『姉』は、自分で自分を評価できるようになるまで、長い長い遠回りを続けることになった。
須玖こそまさに、自分で自分を評価できる男だろう。僕も、もっと若い頃から、そんな風に自分で自分を評価できる人間だったら良かったな、と思う。昔のことを後悔しているわけではない。結果的に勉強をしまくった学生時代は、僕にとって悪い思い出ではないし、他者の視線が気になるからこそのコミュニケーション術みたいなものもきっと体得出来たのだと思う。だから後悔ではないのだけど、時々思う。もっと健全な流れで、自分で自分を評価できる人間になれていたら、どんな人生だっただろう、と。
歩の生き様を読んで、改めて僕は、自分の軽薄さを、卑怯さを、真剣味のなさを実感した。まあそれでも、もう僕はこういう自分をかなり認めている。『もう、生まれ落ちてしまったのだ。僕には、この可能性以外なかった』のだ。それは結局逃避なのだろうけど、これからも僕は逃げ続けるし、逃げ場所がなくなったってきっと逃げ続ける。そうなった時に、僕にも、「ティラミス」みたいなものが見つかるといいんだけど。
歩は、イランで生まれた。生まれた時から「恐怖」と戦うかのように、僕は左足から出てきたそうだ。父の海外赴任先だったイランのことは、あまり覚えてない。大阪で、姉の奇行と、姉の奇行に振り回されまいと踏ん張る母に振り回されながら、歩は、びくびくしながら生きていた。歩は、姉のようにはヘマをしなかった。姉をずっと反面教師のようにしながら、無難な日常をこなしていた。
それぞれの時代に、様々な年代の人と関わり、歩の人格は形成されていく。他者基準でしか物事を判断できない歩は、いつだって、何かに熱くなろうとはしなかった。もちろんそれは、姉の奇行も影響していただろう。いつでも、どんなものでも手放すことが出来るような立ち位置を確保して、他者を見下すようにしてしか、他者と関わることが出来なかった。
それでも歩は、美しかった。それに、歩の卑怯な内面は、歩のたゆまぬ努力によって、常に覆い隠されていた。歩は、表面上、とても良い風に振る舞うことが出来た。でもそれは、親密な関係になればなるほど、ボロが出た。
そして三十歳を過ぎて歩は、自分が、ダメになっていることを知った。
現時点(というのがいつのことかはさておき)の歩の視点から、歩と歩の周辺の人たちを描いた自叙伝のような作品になっている。『歩』という人格を作り上げてきたものをすべてひっつかんで並べたというような感じで、幼稚園の時の好きな女の子の話なんかも出て来る。自分がどんな場面でどんな風に感じ、どういう判断を下してきたのか。そしてその背景に、姉や母や父の影響がどのようにして関係しているのか。奇行を繰り返す姉と、女であり続ける母、そして優しすぎる父。彼ら4人の関係性は、うなるようにして変化し、その変化がさらに彼ら家族に影響を与え、バタフライ効果のようにして大きな変化をもたらすことになる。

『あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ』

姉の言葉だ。姉は、長い遠回りの末に、この言葉を歩に伝えた。

『信じるって何?』

歩は、人生で最も大切な親友に、そう尋ねた。彼も、長い遠回りの末に、その親友の元へとたどり着いた。

僕は、何かを信じるということが怖い。それは、信じたものに裏切られることが怖い、ということだ。だから僕は、出来るだけ何も信じないようにしている。というか、裏切られても、まあ別に信じてなかったしね、と思えるように心の準備をしている、という感じだ。だから僕にも、姉からそう言われた時の困惑と、親友にそう問うてしまった時の不安が、分かるような気がする。歩も僕も、何かを信じるということをしないことで、心の平穏を保つ。
歩はこれから、どんな風に人生を歩んでいくのだろう。何かを信じることが出来るだろうか。信じられるものを見つけただろうか。見つけたかもしれないし、見つけていないかもしれない。でも、見つけていなくても大した問題ではない。歩には、姉の言葉が届くようになった。『でもね、歩。私は少なくとも、信じようとしたのよ。』という姉の言葉が、たぶん理解できるようになっただろう。歩は、姉とはまた違った形で彷徨を始めた。長い長い彷徨だ。きっとその過程で、何かを見つけることだろう。

西加奈子「サラバ!」

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小説は大別して、一人称視点か三人称視点かに分類することが出来る。
実際には、一人称と三人称が混在する小説もあるし、時には二人称の小説にお目に掛かることもある。しかし、まあともかく、二つに大別できるとしよう。
一人称の小説の場合、その語り部(大体は主人公である)は、その物語に関わるすべてを知ることになる。読者は、その語り部が見聞きしたことを通じて物語を理解するので、語り部が見聞きしたことと読者が知ったことは同じだと言っていいだろう。一人称の小説の場合、物語を把握するという意味で、語り部と読者は同等の立ち位置にいると言っていい。
さて、三人称の小説の場合はどうか。この場合、作中のどの登場人物も、作中のすべての事象を把握していない可能性がある。物語は、様々な人間の視点で語られ、その複数の人物の視点が総合された情報によって、読者は物語を把握することになる。一人ひとりの登場人物は、場合によっては何が起こっているのか知りえない。もちろん物語によっては、三人称の小説であっても、物語全体を把握している登場人物がいる場合はあるが、あくまでも構造としては、三人称の小説の場合、誰も物語の全体を把握していないという可能性が高くなる。
さて、今ここに一人の小説家がいるとする。彼は、かつて直木賞を受賞したことがあり、10冊からの本を世に送り出し、数十万部売り上げた実績もある。しかし今では落ちぶれている。小説は既に何年も書いておらず、様々な地方を転々としては、その場その場で適当な女性の元に寄生してはどうにか生きている。その小説家は、ピーターパンの小説を読んでおり、作中の「ひとりの女の子は、20人の男の子よりずっと役に立つね」というセリフを記憶に留めている。まさにその通りだと感じているからだ。
そしてこの小説家は、物語の登場人物でもある。もちろんそれは、僕たちから見れば、ということである。僕たち読者から見れば、彼は小説の内部の人物である。しかしもちろん、その小説家には、自分が物語の登場人物であるという意識はないだろう。いや、その表現もちょっと違っていて、僕がこれから紹介する予定の小説の内部にあっては、その小説家は自身を小説の登場人物であると認識する余地があるのだが、その辺りはまた後で話そう。
とにかく、僕たち読者から見れば物語の登場人物である小説家が、今ここにいるとしよう。
小説家の属している物語が、三人称の小説であるとしよう。すると彼は、先ほど議論したように、物語の全体について把握することは出来ない存在であることになる。彼がたとえ主人公であったとしても、それを理由として物語すべてを把握する権利を得るわけではない。主人公であろうがなかろうが、彼は、物語の全部について知りえない可能性を持つ。現に、その小説家は、物語のすべてについては知りえないのだ。彼の与り知らぬところで、様々な出来事がいつの間にか進行していくのだ。当然だ。三人称の小説なのだから。
さて、そんな世界にあってその小説家は、一体どうするだろうか?
この質問は恐らく捉えにくいだろう。僕も、非常に説明しにくい。だから間をすっ飛ばして結論を書くと、
小説家は当然、小説を書くのである。
小説家は、ある出来事に巻き込まれる。それは複数形で語られることなのだが、ともかく彼は、そうと知らずある出来事の真っ只中、それも中心部にほど近いところに放り込まれることになる。自分の身に何が起こっているのか、イマイチ理解できない。それが起こった時には、その意味が判然としない出来事もたくさん起こる。しかしやがて彼は少しずつ、自分が今まさに巻き込まれている出来事の、輪郭らしきものを掴んでいく。バラバラに認識されていたいくつもの出来事に繋がりを見出すようになる。そして、その出来事に、結果的にせよ自分が重大な役割を担ってしまったのではないか、と思うようになる。
だからこそ小説家は、小説を書く。
しかし、先程から書いているように、当然彼には知りえないことがある。彼の目の前では起こらなかった、そして、その場にいた誰の証言も得られていない事柄も存在する。いや、存在するはずだと彼は考える。いくつかの情報を突き合わせて、AがCになるためには、間にBがなければならないと考える。彼は、そのBについては一切の情報を持っていないが、しかし細部はどうあれ、Bが起こらなかったはずはないと考える。
そこで彼は、小説を書く。自分が見聞きしなかった様々な欠落を、作家的想像力で埋め合わせた小説を。
それが本書である。作中では、小説家がこの物語にタイトルをつけたという描写はないが(タイトルをつけよう、という描写はあるのだが)、「鳩の撃退法」というタイトルがついた本書こそが、その小説家が書いた小説なのである。
小説家は、その名を津田という。津田は、この物語を、ある夫婦に起こった異変から初めている。もちろんこれは、津田が見聞きしなかった事柄だ。作家的想像力で描き出した妄想だ。物語はそこから始まる。
そしてこれこそが、津田自身が奇妙な形で巻き込まれることになる出来事の出発点でもあるのだ。
その夫婦に起きた異変というのは、大雑把に要約すれば、妻が懐妊を報告した、ということになるだろう。縮めれば、ただそれだけの出来事だ。しかし、それからすぐ、その夫婦は失踪する。幼い娘を含めた三人が、姿を消してしまう。この事件は、全国紙でも<神隠し>などと見出しを付けられて報じられたし、話題の旬が過ぎた後も、地元の人からは不可思議な出来事として度々記憶に残ることになる。
この夫婦と津田はどう関わるのか。それも、冒頭で提示される。津田は、この失踪した夫婦の旦那の方と、前日会っていたのだ。ドーナツショップで、たまたま言葉を交わした。言ってしまえば、それだけの邂逅ではある。津田とその夫婦の関わりは、決してそれだけではないのだが、物語的に津田と失踪した旦那の邂逅が重要なのは、ある意味でこの邂逅こそが、津田をして、小説を書かしめていると言ってもいいからなのである。
津田は、ピーターパンの小説を読んでいた。失踪した旦那は、近くの古本屋で買った小説を読んでいた。津田は旦那が読んでいた小説の帯を見る。そこには、
『別の場所でっふたりが出会っていれば、幸せになれたはずだった』
と書かれている。それを見て、津田はこう言うのだ。
『でもそれだったら、小説家は別の場所でふたりを出会わせるべきだろうな』
結果的に津田は、自らが発したこの言葉に縛られている。縛られているからこそ、出版される当てもない小説を、ひたすらに書き続けている。失踪した家族は、今も失踪し続けている。生死は不明だが、可能性として、もう死んでいる公算が高いだろう。誰かと誰かが別の場所で出会っていたら、彼らはもう死んでいるのだななどと思われなかったかもしれない。穏やかな生活を続けていられたかもしれない。「でもそれだったら、小説家は別の場所でふたりを出会わせるべきだろうな」。小説家にならそれが出来る。彼ら家族を全員生かし続けることが出来る。そう思って津田は、誰も読まないだろう小説を一人書き続けている。
さて。津田が一瞬だけ邂逅した家族の失踪は、物語の端緒であり、重大な出来事なのだが、津田自身の関わりという点では少し遠い。どの道、一瞬しか合わなかった人物のことである。しかしそれと平行して、津田自身にもとある出来事が発生する。
それは『鳩』に関することだ。そう、ここで『鳩』が出て来る。津田は、『鳩』に関わる一連の騒動に、どっぷりと巻き込まれることになる。
しかし、『鳩』が何であるかについて、ここに書くわけにはいかないだろう。物語の根幹に関わるものであって、だからこそ読者は自分で『鳩』が何なのかを知るほうがよい。だから、津田が『鳩』に巻き込まれることになった、その大本のきっかけを書くだけに留めよう。
そこには、先ほどチラリと登場した古本屋が関係している。失踪した旦那が本を買った、あの古本屋だ。
その店主と津田は、浅からぬ関係を持っている。一筋縄ではいかない関係だが、大雑把に「友人」と括っても差支えはない。年の離れた友人だ。店主はもう老境に入っており、そして住む場所を失いかけている。
津田は、なかなかにどうしようもない男だ。「性格がねじくれてて、軽佻浮薄で、小心者で、女好きのセックスべだ」と言われたこともある。しかし、時には良いところを見せることもある。それは、戦略的な部分が大きいのだが、ともかくこの時も、津田は老店主の役に立とうと奮闘した。知り合いの不動産屋と掛けあって、老店主の住居を確保する手助けをしたのだ。
決してそれだけが理由ではないだろうが、しばらく経って老店主が亡くなった後、見舞いにもほとんど顔を出さなかった津田に、老店主から形見分けがあった。それは、銃弾を通さない素材で出来ているというバッグであり、恐らく中身は古本だろうと思われた。住居を斡旋した夜にも持っていた代物だ。何故か南京錠がついていることだけが不可思議であり、0000からひたすら解錠に勤しんでいたら、三日目で開いた。
中身は、3403枚の札束だった。
物語には、もっと様々な要素が出て来る。失踪と札束は、ほんの一部である。しかし、中身について具体的に言及するのはこれぐらいにしておこう。様々な出来事が、どのように語られ、どのように結びついていくのか。その醍醐味を味わってもらう方が良い。
描かれる出来事の多くは、些細な事柄だ。失踪と札束はなかなか大きな出来事であるが、それ以外のことは、あまり仰々しくはない。当事者以外であれば、主婦の井戸端会議で三日もすれば話題に上らなくなるような、そんな事柄ばかりだろう。あっと驚くような事件が起こるわけでも、ハリウッド映画のようなサスペンスフルな展開が待っているわけでもない。また、小説的な大団円が待っているわけでもない。未解決の事柄は未解決のまま、小説は閉じる。
何故ならこの小説は、津田にとっては半分以上現実のものだからだ。確かに津田は、現実を改変しすぎない程度に、実際の出来事を歪曲して描く。実際に、津田自身がそう告白する場面がある。実際にはこうだったが、事実を曲げてこんな風に書いている、と。津田自身の言葉を借りればこうなる。
『僕が小説として書いているのは、そうではなくて、過去にありえた事実だ。』
だからこそ津田は、物語を必要以上に捻じ曲げる創作はしない。普通の物語を読む普通の読者が気になるような決着を、無理矢理には用意しない。分からないものは、分からないままにしておく。津田にとってこの出来事は、未だに現在進行形であるのだ。決着しなかったことは、あるいは決着したのかもしれないがその真相を知り得ないことについては、よほどのことがない限り作家的想像では書かない。作家的想像で埋めているのは、どちらかと言えばどうでもいいような描写だ。物語の本筋に大きく影響を与えないようなことだ。例えば、不倫をしているカップルがいる。津田は、そのカップルがどのように出会い、どのようにして日々セックスをしていたのかを、作家的想像によって執拗に描く。しかしそれは、物語の本筋に、大した影響を与えない。どちらかと言えば、取るに足らない事柄である。この辺りに、津田の、性格のねじくれを見て取ることも出来る。
物語は、非常にダラダラと進んでいく。この『ダラダラ』は、読んでいる僕の退屈さを表現するものではない。先ほど書いたように、物語の本筋とは関係のない、言ってしまえば取るに足らない描写の積み重ねによって構成されている、という意味だ。物語は、まるで進んでいかないし、そもそもどこに向かっているのかさっぱり分からない。津田の周囲で起こるいくつかの出来事がどう繋がっていくのかも分からないし、津田が何をどう考えて行動しているのかも分からない。
よくわからないまま、ダラダラと物語が進んでいくのだが、しかし、何をどうしたらそんな風に構成できるのか、読む側はスイスイと読まされてしまう。特異な事件が起こるわけでも、ページを捲る手が止まらない展開になるわけでも、絶世の美女や謎の宇宙人が登場するわけでもなく、ただ落ちぶれた小説家がせせこましい事柄に煩悶していくだけの描写であるのに、何故だか読まされてしまう。不思議だ。読みながらずっとそれが不思議だった。
佐藤正午の作品は、何作か読んだことがある。正直僕は、佐藤正午の善い読者とは言えないだろう。評判になった作品をいくつか読んでみたのだけど、「難しいな」という印象を
持った。なんというか、とっつきにくい。すんなりとは読めない。評価が高い作品なので、たぶんきちんと読める人には響くのだろうが、僕は生憎本を読む力はそこまでないので、うまく読み取れないでいた。佐藤正午はなんとなく僕の中で、とっつきにくい作家、というイメージで定着していた。
しかし本書はまるで違った。これだけの分量を、一気に読ませる力がある。先ほども書いたように、本書を構成する一つひとつの要素は、決して派手なものではない。それに、ダラダラと進んでいく。本書のどこに、グイグイ読ませる力が眠っているのか。まだ僕ははっきりとは捉えきれていない。
少しだけ感じることは、「物語的なお約束が無視されている」という事実が、作品全体に何か影響を与えているのだろう、ということだ。本書では、僕らから見れば物語の登場人物である小説家が、自ら経験したことを元に「事実」と「虚構」を混ぜあわせて小説を紡いでいる、そしてその小説を僕らが読んでいる、という構成になっている。そして、物語の中で津田が書く小説の中で、この物語はそういう性質であるのだということがくり返し語られる。
それはある意味では著者(これは、佐藤正午であるのか、津田であるのかは悩ましいけど)からの、「この物語は、小説としてのお約束を踏み外していいるぞ」という宣言なのだと思う。
それを強く感じたのは、後半の方で編集者が出て来る場面だ。その編集者は昔から津田の大ファンであり、津田の小説を出版することだけを目標に出版社に入ったような女性だった。津田がもう何年も失踪しているのに、である。だからこそ、その女性編集者は、津田と再会(かつてサイン会で一度会ったことがある)出来たことに感激している。
その女性編集者がもう一人編集者を連れて、津田が書いている原稿について議論している。その中で、「こうなるのが、小説的お約束でしょう」や、「それが小説の大前提だ」という会話がやり取りされることになる。そこでのやり取りは、なるほど確かにそうだなと思わせるような、小説だったらこうなるはずだ論であり、確かに確かにと思いながら読んだ。
そしてそれと同時に、今自分が読んでいる小説の特異性に少し気がついたような気になれた。本書は、「小説的お約束」を逸脱している。逸脱していることを、著者(この場合は津田だ)自らが何度もくり返し宣言している。だからこそ、僕ら読者は、何を信じていいのか分からなくなる。僕たちが普段安住している「読者」という椅子を下りなくてはならないと気づく。今までと同じ椅子に座りながら本書を読むことは出来ない。僕たちは、もちろん「小説を読んでいる」という意味では「読者」なのだけど、「小説的お約束を信じる存在」としての「読者」であり続けることは出来ない。僕たちは、本を開いたりページを捲ったりという動作はまったく同じでありながら、普段とは違う存在としてこの本と向き合うことを無意識的に強要されることになる。
だからこそ僕たちは、いつもと違った体験に興奮するのではないだろうか。道路の白線の上を歩くのと、高層ビルの間に渡された白線と同じ幅の板の上を歩くのとではまるで違った体験になる。僕たちは無意識の内に、高層ビルの間に渡された板の上を歩かされているのかもしれない。
決着を見ない事柄は最後まで決着を見ないが、収まるべき要素はラストまでの間にきっちり収まるべきところに収まる。特に、『鳩』の行方については見事とと他ない。それまでに登場した様々な人物の言動が絡まり合い、一周するような形で因果が巡ってくる。もちろん、作家的想像によって埋められている部分もある。しかし、非常に説得力のある想像だ。津田が巻き込まれ、その一部始終を、作家的想像によって埋め合わせてまでも描かなければならなかった一連の出来事。津田が、夏目漱石「虞美人草」から引用した、『運命は丸い池を作る。池を回るものはどこかで落ち合わねばならぬ。』という言葉も、非常に示唆的と言っていいだろう。長さを忘れる物語だった。是非読んでみてください。

佐藤正午「鳩の撃退法」

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南野森+内山奈月「憲法主義 条文には書かれていない本質」 これは面白かった。憲法のことなんてほとんど知らないけど、そんな人間でも楽しく読める。講義形式で、講義を受けているのがAKB48のアイドルというのも、全体的に読みやすさを演出していると思う

南野森+内山奈月「憲法主義」「AKB48のアイドルが日本国憲法を暗唱」という部分は、「まあ暗唱するだけじゃね」ぐらいに思ってたんだけど、全然印象と違った。内山さん、メッチャ頭いいわ。頭いい女性が好きな僕としては、かなりウキウキしながら読んだ。当時高校生だったっていうんだから、凄い

南野森+内山奈月「憲法主義」 暗唱するだけじゃなく、内山さんはもの凄くちゃんと理解している。その見識には、時々講義をしている准教授も驚くほどだし、作中の内山さんの発言(ほぼ准教授の発言で、内山さんの発言は僅かからも、その知性が窺える。章ごとの内山さんの小論文もお見事。

南野森+内山奈月「憲法主義」 憲法というのは国民にとってどんな存在なのか、どんな風に成立し、どんな点が議論の対象となっているのか。憲法と法律は何が違うのか。こういう、一見答えられそうで、でも実際にはなかなか答えられないだろう本質的な部分について触れられているので、非常に面白い。

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幸せというのはどんな風に決まるのか、と考えることが時々ある。
僕の幸せ閾値は、とても低いと思う。特にやりたいことがない。成したいこともない。食べたいものも、生きたい場所も、残したいものも別にない。「何かが出来ないこと」に大して「不幸せである」と感じることはない。むしろ、「嫌なことをしなくていい」という状況に大して「幸せだ」と感じることが多いように思う。
知り合いに、一人で食べ放題に行く女性がいる。その人と食べ物の話になった時、「お互い、貧しい舌を持ってて幸せだね」という話をしたことがある。その人も僕も、大抵のモノを美味しく食べることが出来る。居酒屋の料理だろうが、高級フレンチだろうが、きっと同じような感覚で「美味しい」と思うだろう。だから逆に、とても鋭敏な舌を持っている人は、とても美味しいモノに対してはとても美味しいと感じるだろうけど、日常的な食べ物はそこまで美味しいと思わずに食べるだろうから不幸だね、という話である。
世の中には、年収ウン千万円以上という人もたくさんいるだろうけど、しかし、年収と幸せは決して比例しない、という話をどこかで読んだことがある。何故なら、「年収ウン千万円の生活」も、そうなった当初は刺激的だが、じきに人間はその生活に慣れてしまうからだそうだ。そういう、年収ウン千万円だからこそ体験出来る日常にはすぐに慣れてしまうのに、ウン千万円を稼ぐために必要な膨大な労力は変わらない。だから、そのバランスがおかしくなって、しんどさを感じるようになってしまう人もいる、という話だった。
幸せというのはどんな風に決まるのだろうか。
僕は、「器に適切な量の汁物が入っている状態」が幸せなのではないかと感じる。少なすぎても物足りないし、溢れんばかりに多すぎても対処しきれない。
幸せがそんな風に決まるのだとして、難しいのは、「汁物の量を自分ではコントロールしにくい」と「器の大きさを知ること」ということだと思う。
汁物の量は、様々な要因によって変化するだろう。収入や仕事や人間関係などから、幸運や天災などまで、ありとあらゆる事柄によってその量は変わる。自分の才覚でコントロール出来る部分ももちろんあるだろうけど、成り行き任せにするしかない部分もきっと多いだろう。増やしたい、という意思だけでは、なかなかどうにもならない部分だろうと思う。
しかしそれ以上に、自分がどれぐらいの器を持っているのかを知るということが、きっととても難しいのだろうと思う。
お金がたくさんあれば幸せになれると信じてがむしゃらに努力することで汁物の量を増やしても、自分の器がそれに見合うものでなければ受け止めきれないし、逆に自分の器の大きさをきっちりと理解して、それに見合った量の汁物で満足していれば、他人と比べて絶対的に量が少なくても、その人は自分の生き方に対して幸せを感じることが出来るだろう。
器の大きさは、結局、結果論でしか見えてこないものであるようにも思う。
自分の頭に器が載っかっている。それがどんな大きさなのか分からない。そこにとりあえず汁物を注いでみる。いつ溢れるかは分からない。そして、溢れた時に、「あぁ、自分の器はこれだけの容量しかなかったのだ」と知る。そんな印象がある。だからこそ、人生というものは難しい。
ただ、一つだけ言えることがあるとすれば、他人との比較では自分の器を知ることはほとんど不可能だろう、ということだ。自分の器の大きさに対して、常に自分の生きざまをもって問いかけ続けなければ、それを知ることはなかなか難しいのではないかと思う。
本書の主人公である彫千代こと宮崎匡は、自らの器の大きさに自覚的であり続けた男だと僕は感じた。

『まずうわべにだけ金の箔を塗って客を集めるにしても、その間に中身もほんものの金に変えていかねばならないのだ。否が応でも、これまでにもまして腕を磨いていかねばならない。そこまでの覚悟なくして、できることではない』

かつて短い間だけだったが絵を習ったことのある男の言葉を思い出して、彫千代がある決意をする場面だ。この時点で彫千代は、かなり腕の立つ刺青師であった。しかしそれでも、「うわべに金の箔を塗って客を集める」ことに対して一瞬の躊躇を見せる。自らの器の大きさに自覚的でない者に、こういう発想は出来ない。いつの世にも、上っ面だけ達者で中身のない人間というのはたくさんいるものだろう。彫千代は、そういう人間になるつもりはなかった。結果、彫千代は名声を獲得していくことになる。

『よくも悪くも、てめえの中にある掟にしか従わない人だった。』

『あいつは、なんやこの国の尺に合わへんとこがありよったなあ。なんしか、わしの手には負えへん奴やった。もっとも、あいつが手に負えるもんなんぞ、この世にはおへんのんとちゃうか。』

彫千代をそう評する者がいる。狭い世界ながらも、揺るぎない名声を獲得するに至った彫千代は、傍から見るとなかなかに得体の知れない人物だった。しかし、彫千代には、自らが希求する、一本の真っ直ぐな道を常に見定めていた。幼い頃から、彫千代の胸の内にあったのは、その二文字だった。
「自由」だ。
彫千代は、いつどこにいようとも、「自由」を希求して生き続けた男だった。
内容に入ろうと思います。
メインとして描かれる時間軸は二つだが、冒頭はニューヨークから始まる。刺青を持つ女性の死体が発見され、警察が捜査を開始する。
舞台の一つは、彫千代のことを「千代兄ィ」と呼んでずっと慕っていた清吉が語るパートだ。異人相手に刺青を彫るという男が、ちょっとしたゴタゴタがあって清吉の父が持つ家に住むことになった。海岸通りのアーサボンドという商館に雇われていたのだが、その妾だったおフミさんと、その子どもであるおシヅちゃんと一緒に越してきた。最初こそ得体の知れない雰囲気に近寄れなかったが、やがて年下であるにも関わらず「千代兄ィ」と呼んで親しくするようになった。とてつもない腕とともに刺青師というヤクザな稼業を行いながら、家族を心底大切にする生活。穏やかで嘘のない生活に思えるが、時の流れが少しずつ、少しずつ色んなものを変えて行く。
もう一つの舞台では、若き頃の彫千代自身が語りてだ。まだ彫千代と名乗っていない、宮崎匡という少年時代から、いかに彫師を目指し、どのような経緯があって海外で名声を獲得するに至ったのか。その波乱に満ちた道中で、どんな人と出会い、それがどのように人生に関わっていくのか。
二つのパートが交互に描かれる中で、彫千代という得体の知れない男のことが少しずつわかったような気になる。そしてそれと同時に、どんどん霞の奥へと輪郭が消えていくような感覚にもなる。本書の背景となる時代のことは詳しく知らないけど、いくら文明開化が急速だった神戸・横浜(共に彫千代が異人相手に刺青稼業をしていた)といえど、今とは「自由」に対する感覚が大きく違っただろう。彫千代を慕っている清吉でさえ、「戦が長引いてにでも取られた日にゃ、それこそ迷惑千万ってやつだぜ」と言った千代兄ィに対して、その言い草はないんじゃないかと反論する。しかし千代兄ィは、まじめな顔をして清吉に反論する。

『清公ョ、おめえは人が戦に出るってのがどういうことなのか、わかってるのかョ。死んでいく日本の兵隊は言うまでもねえ、清国人の兵隊にだって、親兄弟や子どもはいるんだぜ。もともとはかない命を、殺し合いでもっと短くするなんて道理はねえ。国と国との諍いなら、もっと別のやりようがありそうなもんじゃねえか』

こういう考え方は、子どもの頃から一本筋が通っている。学問所に通っていた宮崎匡は、周りの子どもが「ここで勉学に励んで国を背負って立つ人間になるんだ」と意気込んでいるのを、冷めた目で見ている。

『自分が貧乏侍の子として生まれたのもたまたまなら、駿河国に生まれたのもたまたまだ。そこに特別な意味を見出すことが、匡にはできなかった。まして、つい最近まで存在を意識してすらいなかった「日本」という大きなかたまりが、自分にとってなにものであるというのか』

結果的に彫千代は、時代に収まり切らない人間として評価を受けることになる。異人相手に彫師をして、海外で恐るべき名声を勝ち取るなど、当時を生きていた人間には想像もつかないことだろう。それは、彫千代自身もきっと同じだったはずだ。しかし、彫千代は、他の彫師と明らかに違った。これから書くことは、本書の中では決してメインで扱われるような話題ではないのだけど、僕の印象には強く残った。
伝統とサービスの話だ。
彫千代は、まだ無名の宮崎匡である頃、彫安という腕の立つ彫師から技術を学んだ。しかしやがて彫千代は、彫安のやり方(それは、この時代の彫師の一般的なあり方でもあったのだろうが)に疑問を抱くようになる。
彫安のような彫師は、「伝統的であること」に価値を見出す。彫る絵柄は不動明王や文覚上人など、刺青として古くから知られている絵柄であり、また刺青をする手法にしても、「痛みまで耐えてこそ刺青」「見本帳のようなものは要らない」というような古いやり方を踏襲している。
しかし、彫千代は、彫師としてのキャリアのスタートがそもそも異人相手だったこともあってか、刺青界のこうした古いやり方を、自らの手で変えて行く。誰にでも絵柄が分かりやすいように見本帳を用意し、痛がる客にはそっとモルヒネを打つ。
何より彫千代が好んで描いたのが、ヤモリやトンボと言った小動物だ。これらは、伝統的な刺青の世界では決して好まれない図案だが、異人たちには受けが良かったし、何よりも彫千代の刺青は、「まるで生きているように見えた」という。

『兄ィ小さい生き物を彫ると、本当にそれが肌の中で生きているみたいに見える。だが、たとえば水滸伝の武将みたいなものが、人の肌の中に収まる道理はない。彫ったとしても、どこか嘘くさくなってしまう。兄ィは、それが気に入らなかったんじゃないだろうか』

彫千代は何度か、彫師としてのあり方を批難される場面がある。それはそれは様々な立場の人間から批難されるのだが、こと技術とサービスという点に関して彫千代はこんな風に語っている。

『俺がまっとうに技を磨くのを忘れているってあの人は言うがョ、俺に言わせりゃ、あの人が忘れていることもあるのョ。技に溺れちゃだめだ。俺の彫』りものは、今日もそうだが、少なくとも人を喜ばせてるじゃねえか。異人の客だって、みんな喜んで帰っていくじゃねえか。あの人の腕はなるほどてえしたもんだが、どこかでその大地なことを忘れちいまったんでえ。俺は、そうはならねえ』

また彫千代自身は、自らが彫る刺青に対して、こんな風に言っている。

『清公、考えてみろ。俺が彼奴らの白い肌につけた図がョ、海を渡って広い広い世界に散らばっていくんでえ。俺の絵に手足が生えていて、えげれすやらめりけんやらふらんすやらの街中を勝手に歩いていくのョ。考えただけでこう、胸がぞくぞくしてきやがらねえかい』

『俺の彫りものは、言ってみりゃ血を分けた子みてえなもんョ。俺は異国には行ったことがねえが、俺の子どもたちがかわりにあっちこっち行って、挨拶してくれるんでえ。日本でどれだけ名が上がっても、それはこの狭え島の中だけの話ョ。そんなもんより俺は、世界中に俺の子どもを撒き散らしてえのサ』

たぶんこの感覚も、彫千代自身がずっと求め続けた「自由」という在り方とか関わってくるのではないかと思う。自分自身が自由に生きていくことももちろんだが、自分が生み出した作品であっても、狭いところには留まって欲しくはない。結果論の後付かもしれないけど、それでも、そんな考え方は実に彫千代らしいと感じられる。

『それは、自由への憧れだ。しがらみを振りほどき、自分の思いを貫き通すこと。今まではこうだったからとか、普通はこうだからといったつまらないしきたりやならわしのようなものに背を向けて、自分だけの力で道を切り拓き、思うがままの方向に足を進めていくこと。
なにものにも囚われず、己の信ずるところに従いなさい―いつか母から聞かされたその言葉が、胸の奥底で鼓動を打つように大きく躍った。』

自由を求め続けた男は、生まれ持っての大器と共に、どんどんと高みへと登っていく。彫師としての技術と名声が高まれば高まるほど、彫千代はより自由でいられるはずだった。少なくとも、彫千代はそう考えていたに違いない。
しかし、そうもうまくはいかなかった。目に見えるきっかけは、言ってしまえば些細な出来事ではあった。彫千代がそれまでの苦難の人生の中で経験したことに比べれば、何ほどのことでもなかったはずだ。
しかし、それによって彫千代は気付かされたのだ。
自分が抱えているものの重さを。
手放すことの出来ないものの輪郭を。
今までそれを意識せずにいられたからこそ、彫千代は自由だったと言っていい。しかし、それに気付いてしまった以上、そのことを考えずには居られなくなってしまった。自由を求め続けて生きてきたはずなのに、いつの間にか自分が囚われていたことに気づく。囚われていることは、決して不愉快ではないが、しかし、自分の中に異物が残る。こんなはずじゃなかった。今が幸せかどうか、ということとは関係なく、こんなはずじゃなかった、という感覚が強くある。若い頃は、無鉄砲でいられた。守るものもなく、何ほどでもない自分の存在など、消えてしまってもどうということもなかった。しかし今は、守るものがあり、そして自分自身が自分だけの存在ではないことにも気付かされてしまう。今自由を希求しようとすれば、多くのものを手放さなければならないということを知ってしまった。

『大事にしようがどうしようが、この手から逃げちまうもんは逃げちまうってことなんだよな』

この気持ちは、彫千代と同じレベルで理解することは出来ないにせよ、僕にはとてもよく理解できる。僕は、いつか失われることが確実なものには、なるべく深入りしたくない。自分の弱さを知っているから、それが失われた時の喪失感に耐えられる気がしないからだ。だから、意識的に「好きなもの」を作らないようにしている。「それなしでは生きていくことが出来ないもの」をなるべく作らないようにしている。それは、彫千代のように、手放せないものが増えた時にはたと気づく、なんていう状況に陥りたくないからだ。

『もともと俺は、何より自由でいてえ人間なのョ。ふるさとも、日本って国も、俺にしてみりゃその自由を縛るよけいな囲いみてえなもんでしかねえ。ただョ、人ってのは、長く生きれば生きるほど、いやでもなんでも、抱えるものが多くならぁな。その分、自由も利かなくなってくるわけだ。それでも、抱えたもんを大事に思う気持ちは、重石みてえに日増しにぐいぐいと心を締めつけてきやがる。その兼ね合いの、いっとういいところを探すのが難儀なんでえ』

本書は、「自由を希求し続けた男」が、「その希求の結果手放せないものを抱える」ことになり、そのジレンマに苦悩する物語だと言っていい。そう、非常に地味な物語ではある。物語上の起伏は、さほど多くないと言っていいだろう。劇的なことはほとんど起こらない。
それでもさすが平山瑞穂である。読ませる力は圧倒的だ。起伏のあまり多くない、しかも決して馴染みがあるわけではない明治という時代を背景にした物語を、するすると読ませる。彫千代という魅力的な男を、本人視点と他者視点で丁寧に描き出しつつ、彫千代の周囲にいる人物にもきちんと光を当てていく。彫師というヤクザな稼業ではありながら、一見すると穏やかな日常でしかない彼らの生活を、その些細な変化を掬い取って描き出すところはさすがだと思う。
また、作品を発表する度に異なるジャンルの作品を生み出し続ける平山瑞穂の筆さばきも見事である。著者初の時代物(時代物という表現はあまりしっくり来ないけど)らしいのだけど、息遣いが良い。別に、明治時代の空気感を知っているわけではないのだけど、その時代の空気を絶妙に切り取っているような感覚がある。
それには理由が二つあるように僕には感じられる。
一つは、歴史的な出来事を作品にあまり登場させない、ということだ。僕があまり、昔の時代を舞台にした作品を読まないから、あまりこの話には自信はないけど、時代性を描き出そうとして歴史的な出来事を散りばめるやり方は、僕はあまり好きではない。なんというか、違和感がある。
例えば、今から500年後に、今僕らが生きている時代を舞台にした「時代小説」を誰かが書くとして、その作中に、「ガザ地区への侵攻」みたいな出来事が出てきても、どうなんだろうと感じる。少なくとも僕は、日常を生きていて、「ガザ地区への侵攻」について意識することはほとんどない(その態度がどうかはともかくとして)。ごく一般的な市井の人間を描くとして、そのキャラクターが関心を持ちうる歴史的な出来事が描かれるのはいいのだけど、そこからかけ離れていると感じられる出来事では、うまくその人物が生きている時代感みたいなものを切り取れないように思う。その点本書は、街中がどう変化したとか、こんなものが流行り始めているなんていう風俗的な描写は多いけど、歴史的な出来事はほとんど出てこない。「大津事件」が出てくるのだけど、これもなかなか驚くような形で登場する。その時代っぽさを出そうとして安易に歴史的出来事を組み込んでいないように感じられて、そこがまず良いのではないかと思う。
そしてもう一点。平山瑞穂が描く明治時代には、「よくわからない人間が生きていける隙間」がきちんと描かれているように感じられる。
僕の勝手な印象なのだけど、時代を古く遡るのと比例して、「よくわからない人間」が「よくわからないまま生きていける隙間」というのが増えていく印象がある。逆に、現代に近づけば近づくほど、その隙間はどんどん減って言ってしまっているようにも思う。
どちらがいいと言う話ではない。近代化するということの一つの側面が、そういう隙間を無くしていくということなのだと思う。だから、その隙間がなくなるのと同時に、僕らは良いことを享受していると考えるべきだ。しかし、感覚的にはどうしても、そういう「よくわからない人が生きていける隙間」のある社会の方がいいんじゃないかなぁと思えてしまう。個人的な好みだ。
昭和や明治を舞台にした作品を読む時、僕は割とこの隙間について考える。いや、そうではなくて、巧く描写されている作品を読むと、あぁ「隙間」があるな、と感じることが多い、ということだ。子どもがその辺の通りで親からほったらかしにされて遊んでいるとか、博打打ちや将棋の真剣で生きていける世界があるなど、どことなく「きっちりしていない余白」みたいなものが、巧いなと感じる作家の小説からは漂ってくるように思う。そして、その雰囲気が平山瑞穂の作品からも染みだしてくるようにも思う。
それは、彫師を主人公にした、という部分ももちろん大きいだろう。しかし、何をモチーフに描こうとも、「時代の隙間」を描くことはなかなか難しいと思う。形あるものは、その輪郭を捉えて描けばいいだろうけど、「隙間」はどちらかと言えば、何かがないことによって輪郭が際立つような印象がある。ドーナツの穴のようなものだ。この作品には、その捉えどころのない「隙間」がうまく描かれているように思う。
繰り返すが、起伏には乏しい物語だ。ジェットコースターのような物語を求めている人にはあまりオススメはしない。しかし、野心や苦悩をそれぞれに抱えた人間が、ささやかな日常の中で織りなす重層的な物語を楽しみたいという人には非常に読み応えのある作品ではないかと思う。彫千代というのは、実在した彫師であったようだ。どんな人物だったのかは僕は知らないし、本書がどこまで現実に基いて描かれているのかそれも分からないけど、「自由を追い求める気持ち」、そして「大切なものを守りたい気持ち」の間で揺れ動く人間の生き様が活写された物語だと思います。是非読んでみてください。

平山瑞穂「彫千代」

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