黒夜行 2015年05月 (original) (raw)

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内容に入ろうと思います。
キャサリン・レーヴンズクロフトは、眠れぬ夜を過ごしている。一冊の本が、彼女をそうさせた。E・J・プレストン『行きずりの人』。著者名で調べてもタイトルで調べても、何もヒットしない。著者の性別すら分からない。その『行きずりの人』が、キャサリンの人生をまさに脅かそうとしている。
『行きずりの人』の主人公は、その名前は”シャーロット”というが、彼女は、まさにキャサリンだった。キャサリンがモデルの小説だった。20年前のあの夏。誰にも話さなかったあの夏の出来事が、誰にも話すまいと決めたあの出来事が、20年の月日を経て、今まさに亡霊のように、キャサリンを苦しめる。
夫のロバートは、キャサリンの異変に気付いている。しかし、キャサリンは、ロバートに何も話さない。話せない。20年前に、話さないと決めたことなのだ。しかし、このままではまずい。何とかしなければ…。
スティーヴン・ブリグストックは、息子と妻のことを考えている。遠き日に、勇敢な行動の末に命を落とした息子・ジョナサン。そして、ジョナサンの死を受け入れられず、その後の生涯をジョナサンの死に囚われ続けながら行きた妻・ナンシー。独り身となったスティーヴンに、ナンシーの死後初めて知ったことがいくつもある。ナンシーは、自身の命が果てるその時まで、スティーヴンにこのことを秘していたのだ。
スティーヴンは思う。この事実を明らかにしていくことが、ジョナサンとナンシーの供養に繋がるのではないだろうか、と。自分には、それが出来る。老いぼれではあるが、材料はすべて揃っており、気力は息子と妻がくれる。あとは、行動するだけだ。
スティーヴンは、少しずつ必要な行動を取る。蜘蛛の巣に掛かった獲物を少しずついたぶるようにして。彼らには、そうされるだけの理由がある。ジョナサンとナンシーが、その”証拠”を残してくれている。スティーヴンは、自分の行動の正しさに、そして順調な計画の推移に酔いしれる。
というような話です。
読後の一番の感想は、「もう少し何かあるような気がしたんだけど…」という感じでした。
作品としてはよくまとまっていると思うし、短く視点を入れ替えていく構成が、物語全体のテンポを上げているようで、読みやすかったです。基本的に外国人作家の作品を読むのは苦手なのですが、この作品については読みにくいと感じることがありませんでした。
この作品は、冒頭から、かなり謎めいた形で物語が始まっていく。なにせ、自分が主人公として描かれている小説が突然送られてくるのだ。これはなかなかに期待が高まる。視点を頻繁に入れ替える構成や、『行きずりの人』の内容がなかなか作中で描かれないことなんかも、全体的に期待感を煽るような構成になっている。(なんか凄いことが起こるのではないか?)という期待をひしひしと感じさせるような、そんな導入・構成になっているのだ。
ただ、これは僕が期待しすぎただけなのかもしれないけど、期待ほどには物事は展開しなかったな、という感じがしました。読み進めていく中で、もっと凄いことが起こりそうな感じがしたのだけど、そうではなかった。これは、うーん、勝手に期待しすぎただけだと言われればそれまでだけど、そう感じさせる雰囲気を著者自身が作っていると僕は感じる。確かに物語を読ませるために、冒頭で惹きつけることは大事だと思う。しかし、それが全体の物語と上手く調和しない場合、それは却ってマイナスになってしまうこともあるよな、と感じた。
ミステリ的にはさほどでもない、という前提の上で読むのであれば、人間的な物語はなかなか読ませる。特に、スティーヴンが行動を起こしたその背景の作り込みはなかなか巧い。かなり絶妙な条件が揃わなければ、スティーヴンが自然な形で行動を起こす条件は満たせなかっただろう。しかし、この作品では、それを上手く描き出す。スティーヴンは彼自身の良識に従って行動する。キャサリンにも、ロバートにも、それぞれの良識があり、そして、それらの絶望的なまでの差異と、いくつかのすれ違いが、物事を非常に複雑で大きなものにしていく。
読者は一体、誰に共感しながら読んでいくだろう?
恐らく読者は皆、自分がこの登場人物だったらどう振る舞うだろうか、と考えてしまうのではないか。自分がキャサリンなら、ロバートなら、スティーヴンなら、一体どんな風に行動するだろうか。
この、答えのない問いかけこそが、本書の核心だろうと思う。誰しもが、良心に基づいて行動する。その行動のいくつかは絶望的な間違いを生み出し、そのいくつかは決定的なスレ違いを生み出し、そのいくつかは新たな関係性を生み出す。
そういう中で、誰に一番共感するかと言えば、やはりスティーヴンだろうか。ある場面での、スティーヴンの行動は、賞賛に値すると感じる。自分だったら、そういう風に行動できるだろうか。それはある意味で、これまでの全自分を否定されるようなものであって、その状況下でスティーヴンは、ある人物にとって最善と思われる行動を取る。自分には、その行動は取れないだろう。否定された自分を守るための行動を取ってしまうだろう。見事だった。
出版前に頂いたプルーフ本で読ませていただいているので、書籍として発売される際に、どのような表紙や帯になるのか、現時点では分からない。ただ個人的には、「謎!謎!謎!」という形の押し方がされなければ良いな、と思う。もちろん、作品の構成自体がミステリ的な期待を高めるように作られているので、ある意味防ぎようはないと思うのだけど、もう少し穏やかな(起伏が激しいわけではない)物語として手にとってもらうと良いのではないか、という感じがします。

ルネ・ナイト「夏の沈黙」

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僕はもう長いこと本屋で働いているのだけど、売場を作っていく中で、「自分が売っているのは『本という物質』ではないな」ということに徐々に気づいていった。
何故『本という物質』を売っているのではないかと言えば、本は本質的に「買う前に中身が分からない商品」だからだ(もちろんこういう商品は、世の中に他にもたくさんある)。
買う前に、そのものの中身を知った上で買うのではないとすれば、僕らは本を買う時、一体何を買っているのか。それは大体、「タイトルの響き」とか「帯のコメント」とか「表紙の綺麗さ」とか「誰かから薦められたという事実」や「その本を読んだらなれるかもしれない未来の自分」などである。その時々で、お客さんが何だと思ってそれを買っているのかは様々だろうが、ほとんどの場合、『本という物質』を売っているわけではない。
そしてここ最近僕は、ある傾向が強くなっているように感じる。それは「本の『参加券』としての価値」だ。これは本に限らず、世の中のありとあらゆる「商品」がそうなりつつあるように感じる。

『参加券』というのは、「あるグループ・集団に入っていくためのチケット」のようなものだ。例えば、テレビでジブリ映画が放送されると、Twitterなどでみんなが感想を言い合ったりする。あれは、「テレビ」と「Twitterのアカウント」が『参加券』の役割を果たしていると見ることができる。人と人が、あるいは人と場が繋がったりするような、そういう証明書のような価値を、様々な商品がまとい始めているように思う。
とにかく、「それを消費する(本であれば「読む」)」ためではなく、「買ったという事実・持っているという事実」が一種の『参加券』の役割を果たす。そしてその役割を求めて買われていると感じることがある。それをはっきりと前面に押し出しているのがAKBなどが出す「投票権付CD」だが、それに限らず世の中の多くの「商品」がこの『参加券』としての存在価値を持ち始めているような気がする。

もちろん売り上げを取らなければならないので、どんな形で売れてくれようとそれは売るしかないのだけど、個人的には『参加券』として売るという行為は、非常に危険だと感じている。何故ならそれは、「世の中のありとあらゆる商品をライバルになるから」だ。本が独自に持っている価値を無視して『参加券』としての側面ばかり押し出すと、スマホやゲーム、テレビやインターネットなど、『参加券』としての価値を持つ世の中のありとあらゆるものがライバルになる。そんな混雑した土俵での販売に力を注ぎ込むのは怖い。それよりは、「本にしかない価値」をもっと引き出せるような売り場作りをしなければ、余計に本が売れて行かなくなるだろう、と考えている。

僕はそういうことを考えて、どうやって『参加券』としてではなく本を売れるだろうか、という試行錯誤をしているつもりだ。たとえば、「何かを始めたい人用の棚」というのがある。陶芸とかピアノとか、哲学や歴史や英語の勉強などなんでもいいのだけど、「何か新しいことを始めたい」と考えている人に向けて本を集めている。本には一冊一冊様々な側面があるが、それを「何かを始めたい人向け」という括りを設けることで一つの大きな価値として提供しているつもりだ。またこの売り方は、「売り場を見ることで初めて購買動機を喚起できる」という意味でも悪くないと思っている。『参加券』として売る場合、お客さんは大体来店前から購買動機を持っている。すると、店を選ぶポイントは、「家から近いか」「ポイントがつくか」など、売り場や本とは関係ない側面に依存してしまう。しかし、店内で購買動機を喚起できるとすれば、ウチの店で買ってもらえる可能性は高まるのではないか。そんな思惑もある。僕が作る売り場には色んな枠組みがあるのだけど、今頭の中にあってまだ実現していないアイデアは、「スキマ時間で読める本」を集めた棚。基本的に見開き1ページで一つの項目が完結する本だけを集める、というコンセプトだ。

本書にも、「本のような多品種の商品は、『選んでもらうこと』に価値がある」という話が出てくる。書店は、「本を売る」のではなく、「選んであげること」を売るべきなのだ、と。僕が作っている売り場には、「何かを始めたい人用の棚」のような「選択肢を限定した棚」が様々にある。これはある意味で「選んであげること」を売っていると言っていいのではないかと思う。随分昔から、「どうやったら選択肢を狭められるか」
本が何として売れているかという別の話をしてみよう。まず傘の話をしよう。雨が降っている時に売れる傘と、雨が降りそうな時に売れる傘は、まったく同じものを売っていてもその性質は異なる。前者は「現在のトラブルに対処するためのもの」として、そして後者は「起こりうるかもしれないトラブルに対処するためのもの」として売られていく。同じ商品が、違う性質を伴って売られていくのだ。

同じような話を僕は本屋で考える。例えば、「あるテレビ番組で紹介されたことで、Aという著者のaという作品が爆発的に売れた」という事実があるとする。この場合大抵の書店員は、「Aの他の著作であるbやcやdも一緒に並べよう」という発想をする。しかし僕は、このやり方にずっと疑問を抱き続けてきた。
ここでお客さんがこのAという本を何だと思って買っているのかを考えてみる。「あるテレビ番組で紹介された後に爆発的に売れた」という事実から、大抵のお客さんはこのAという本を、「その番組で紹介された本」として買うはずだ。であれば、論理的に考えて一緒に並べるべき作品は、「過去にその番組で紹介された本」であるべきではないだろうか?もちろん、多くの書店員が別の著作を並べるというやり方を採用している以上、一定の売り上げは見込めるのだろうし、僕もまったくやらないわけではない。その番組で過去に紹介された本を調べるのもなかなか大変だし、Aを読んだお客さんの一定数がAの他の著作に関心を持つ可能性があることも分かっている。だから僕がここで言いたいことは、「実際の売り場づくりへの反映のさせ方」というよりは、「本がどう捉えられて売れているのかという視点が欠けている書店員が多いのではないか」という指摘だ。「Aの他の著作を並べること」だけが唯一の正解ではない、ということだ。

本屋で働いていてもう一つ強く感じることは、売り場づくりについてだ。僕はこの違和感を、

『本屋は、指輪とドーナツとマンホールを一緒に売っている店だ』

と表現している。つまり、形が同じだというだけでまったく性質が異なるものを、その性質に気づかないまま売っている、という意味だ。
例えば文庫・新書の売り場は、基本的に「出版社別」の売り場になっている。これには、作業効率など様々な側面があるので一概に批難は出来ないのだけど、僕には非常に不自然な売り場に思える。何故なら、時代小説も恋愛小説も雑学本も、「出版社が同じだ」というだけの理由で一緒に並んでいるのだ。僕は昔からこのやり方に大きな違和感を抱き続けていたのだけど、あまり共感してもらえたことはない。たぶんここには、ノスタルジーもある。本屋で働く人に本好きが多いとすれば、「昔から自分が通っていたあの本屋」を作りたいという気持ちがそうさせているのではないか、と僕は感じている。

僕には、ごく一般的な本屋の売り場は、「指輪とドーナツとマンホールを一緒にして売っている」ように見える。その不自然さを解消するために僕は長い時間を掛けて、「(僕にとって)同じように見える本を出来るだけ近くに並べる売場」に変えてきたつもりだ。指輪は指輪と、ドーナツはドーナツと、マンホールはマンホールと一緒に売ることにしたのだ。
他にも、書店で働いていて、常識とされることに疑問を抱くことは多い。それらをいちいち書いていくとどんどん長くなるのでこの辺りで止めるが、こういう「自分が売っているものが、どんな価値を持つものとして売られているのか」という視点の大事さを、僕は現場の仕事を長い事やり続けながら身に着けてきたつもりだ。
それが本書で言うところの「マーケット感覚」に、少し近いものなのではないかと思っている。本書で語られているようなレベルの「マーケット感覚」にはまだまだ程遠いだろうけど、自分が続けてきた仕事のフィールドに関していえば、「マーケット感覚」の入り口ぐらいにはいるのではないか、とそんな風に思えた。

本書は、ちきりん氏が「マーケット感覚」と名づけた、これからの世の中を生きていくのに必要とされる能力について、「それは一体どんな能力なのか?」「どうやって身につければ良いのか」について書かれた本です。
本書で「マーケット感覚」とは、こんな風に定義されている。

【商品やサービスが売買されている現場の、リアルな状況を想像できる能力】
【顧客が、市場で価値を取引する場面を、直感的に思い浮かべられる能力】

この文字列だと少し伝わりにくいと思うのだけど、そのためにちきりん氏は冒頭で、「ANAのライバルは?」という問いを読者に投げかける。この事例は、非常に面白い。本書ではこの問いに答えるために、「論理的思考」だけでなく、「マーケット感覚」からのアプローチもするべきだとしているのだけど、その「マーケット感覚」側のアプローチが「なるほど!」というものなのだ。確かにこれは、「論理的思考」からはかなり導くのが難しい答えだと思う。しかし、説明されれば、それは明らかに「ANAのライバル」であると実感できる。このANAのライバルの話、丸ごと書くには長すぎるので本書を読んでもらいたいのだけど、本書でもそう示唆があるように、まず自分の頭で考えてみるといいと思う。本書で「マーケット感覚」側から導き出された答えを自力で導ける人は、相当素晴らしい能力を持っていると感じる。

「マーケット感覚」そのものの定義ではないのだけど、本書の中で「マーケット感覚」の発露の一側面として描かれている能力が、【誰にとってどんな価値があるのか、見極める能力】である。本書では、【「自分は何を売っているのか」「何を勝っているのか」について、意識的になること】という表現もされている。「マーケット感覚」を身につけることで、この「表面に現れていない、そのものの本質的な価値に気づく能力」を手に入れることが出来る。
これは僕が冒頭で書いた、「本屋である僕は、何を売っているのかという気付き」と同じ話だと思う。僕はまだ自分に「マーケット感覚」があるとはまったく思えないけど、少しはかすっているのだろうなと思えるので、本書を読んでそこは少しホッとした部分だ。

以前、「シブヤ大学」という勉強会みたいなのに参加したことがある。その時の登壇者が、「OCICA」という鹿の角で作られたペンダントを生み出した方だった。震災で被災した石巻市牡鹿半島で、養殖などの職を喪った地元の人達に、「一緒に集まって作業をするコミュニティ」と「仕事」を生み出した事例だ。地元では余って捨てられるばかりであった鹿の角を、素人でも加工可能な、それでいて洗練されたデザインに仕上げ、作り手のおばちゃんの名前と共に売って、ニューヨークなどでも売られている、というものだった。
これなどまさに、「価値に気づく能力」の発露だろうと思う。地元で余っていた「鹿の角」に、「デザイン」と「物語」をプラスすることで生み出せる価値がある、と気づいた人間がいたのだ。

このOCICAの事例は、本として出版されたりするような特殊な事例だが、この「価値に気づく能力」を持つ人間の活躍は、僕らは日々目にすることが出来る。キャラ弁、LINEのスタンプ、ニコニコ動画のコメントなど、今までそこに価値があると誰も考えていなかったものに注目し、それを最終的にマネタイズする仕組みまで作り上げた事例は、僕らの身近に溢れている。Yotubeで自分がゲームをしている姿を流す「ゲーム実況」など、僕にはまったく理解できないが(そもそもゲームをやらないし、人がゲームをやってる姿を見て何が面白いんだ、と思ってしまう)、しかしそれで人気を博し、現実にそれで生活しているという人もいる。

それらにしたって、ある分野で突出した能力を持っているからでしょう?と思う人も多いと思う。でも本書は、そうではないと書く。例えば、こんな風に書かれている。

『日本のファミレスでのバイトが普通にこなせる人であれば(語学やビザの問題を除けば)、誰でも明日から、欧米やアジアのカジュアルレストランでフロアマネージャーが務まります。そういう人はみな、「グローバルに通用するスキル」を持っているのです』

(本当だろうか?)と思ってしまう話ではあるのだけど、でもきっとそうなのだろう。日本は、アルバイトであっても非常にレベルが高いという話はよく聞く。外国では、従業員が時間通りに集まらないので会議を開けない、なんていうのが日常茶飯事であるようだ。その点日本は、数分電車が遅れるだけで謝るような国。僕らが「当たり前だ」「普通だ」「こんなことできたって仕方ない」と思っているようなことでさえ、外国から見ればそれは驚嘆すべきスキルである、ということがあるわけです。

『どんな分野であれ10年も働いたら、「自分には売れるモノなど何もない」なんてことはありえません。もしそう感じるのだとしたら、その人に足りないのは「価値ある能力」ではなく、「価値ある能力に、気がつく能力」です』

もちろん、この能力でお金を稼ぎ、生計を立てていくレベルにまで持っていくのは物凄く大変でしょう。しかし、初めからそこを目指すこともないのです。

『ですが私は、マネタイズにはあまりこだわらないほうがよいと思っています。重要なのは儲かるかどうかではなく、「価値があるかどうか」なのです』

僕はこの本の感想のブログ(最近本の感想はあんまり書いていませんが)をもう10年以上続けています。

ちきりん「マーケット感覚を身につけよう 「これから何が売れるのか?」わかる人になる5つの方法」

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1814年。葛飾北斎は既に名声を轟かせ、その娘お栄も父の仕事を手伝っている。そんな時代。
江戸の片隅で、「料理をしない」「掃除をしない」「汚れたら引っ越せばいい」という父と、女だてらに勝ち気に生きていくお栄。そんな二人の日常が描かれていく物語。
というぐらいしか内容紹介の書きようがありません。内容がないわけではありませんが、全編を貫くような芯のある物語はありません。「絵を描くことしかしたくない父」と「描けないとは言いたくない勝ち気な娘」が、日々を生きていく。そういう物語です。
個人的には、面白い映画だと思いました。芯になるような物語は確かにないのだけど、観ていて「飽きる瞬間」というのはありませんでした。最後まで、画面に惹きつけられた感じがします。どこにその魅力があるのか、きっちりと捉えられているわけではありません。才能の物語であり、歪んだ家族の物語であり、江戸の価値観の物語であり、それらがうまく融合されているのだけど、それだけではない何かがあるような気がします。観ながら何に惹かれているのか考えていたのだけど、うまく捉えきれませんでした。
芯のある物語はないのだけど、僕が観ていて感じた「全体を貫く感覚」があります。それが、「かつての日本人の身体感覚」です。
お栄と鉄蔵は、絵を描いて生計を立てますが、その過程で様々な経験をする。例えば、龍が天から降りてくるのを感じたり、お栄が描いた地獄絵から妖怪が出てきたり、首が伸びる花魁と会ったりと、不可思議なことが様々に起こる。
これらは、ただのファンタジーとして捉えることも出来るのだけど、僕は映画を観ながら、現代人との身体感覚の差に起因するのではないか、と考えるようになりました。
僕たちは、日々様々な情報にさらされています。それらはある意味「ノイズ」のようなもので、僕らは生まれた時からそのノイズの中で暮らしているから、それがない世界のことを想像しにくい。特に現代では、地球上のありとあらゆる場所がインターネットで繋がってしまうために、常にどんな場所にもノイズが転がっている状態だ。
そんな僕らは、「情報というノイズ」を感知する身体感覚は発達させてきたけど、その一方でそれ以外の身体感覚を失っていったのではないかと思う。
今よりもっと「ノイズ」が少なかった時代。その時代には、今の僕たちには感じ取れなかったものが感じ取れたのではないか。この映画を観ながら、僕はそんな風に感じました。
それはもしかしたら、「絵を描く」ことを生業にしている家族であるからの感覚だったのかもしれません(ある場面で、鉄蔵の弟子には見えないものが、お栄と鉄蔵にだけは見える、という場面がある)。才能の問題であって、時代の問題ではないのかもしれないけれども、この映画を観ながら僕は、その当時の(あるいは、この父娘の特殊な)身体感覚が描かれているように感じました。そう考えると、舟に乗っている時に有名な北斎の絵のシーンが踏襲されているシーンも、なんとなくそういうものとして描かれているようにも感じます。
お栄と鉄蔵は基本的に、「同じ絵師」として関わる。作中で、父娘を感じさせる場面は多くない。鉄蔵はお栄を、まだまだ未熟な絵描きと捉え、お栄は鉄蔵のことを、悔しいけど一枚も二枚も上手の絵描きとして捉えている。絵描きとしてのお栄の葛藤もまた随所で描かれていて、職人として邁進していくような力強さを感じる。
お栄は、どうも殻を破れないでいる。何を描かせてもうまく描く。それは誰しも認めることなのだけど、しかしそこで留まってしまう。お栄には、そこを突破するのにどうしたらいいのかわからない。なにせまだ、世の中に対する経験も足りない女の子である。仕方ない部分もあるのだけど、しかしお栄が「下手善」と呼んでいる、鉄蔵の弟子である善次郎と比べられた時には取り乱す。お栄には、善次郎の下手な絵は許せない。しかし世間はその絵に、何かを感じ取るのだという。前に出る力、迫力、艶かしさ。そういう何かを。鉄蔵もある場面で、善次郎の下手さを認めた上で、お前の絵には何かあるんだと言っている。
その「何か」が、お栄にはない。この「何か」を手に入れられるのではないかとお栄が行動する場面がある。しかし、お栄がそれを手に入れられたのか。それは描かれない。
それにしても、絵のことはわからない僕だけど、作中で描かれる「墨による絵」の繊細さというか巧さというか、それはちょっと凄いなと思った。アニメーションという器の中で、あれだけの「筆の質感」を表現できるんだな、と。エンドロールを観ていたら「筆作画」という役割の人がいたので、やはりそれ専門の特殊な作画能力を持った人がいるのだろう。
さて、基本的に「同じ絵師」として描かれるお栄と鉄蔵だけど、この二人が「父娘」として描かれる瞬間がある。それがお栄の娘であるお猶の存在だ。
お猶は、生まれつき目が見えない。そのため一緒には暮らしておらず、お寺のようなところに預けられている。お栄は時々お猶の元を訪れ、外の世界を感じさせてあげる。橋の上で、様々な売り物屋が通る音を聞いたり、雪の積もる海岸沿いを歩いたり。お栄にとってお猶は愛しい妹であり、事ある毎に関り合いを持つ。
しかし、父親である鉄蔵は違う。鉄蔵は基本的に、お猶に近づこうとしない。
普段この対立は、この父娘の間でも表面化することはない。お栄は、鉄蔵の父親としての(というか人間としての)能力を諦めているし、鉄蔵は柳に風と受け流すからだ。
作中で、鉄蔵はお猶に「三度」会う。
これは、何をどうカウントするかで人によって違うだろうが、僕は三度と捉える。「ちゃんと一人で来れたじゃないか」という言葉に、なんとなく救いを感じてしまうのは、ちょっとダメかもしれないけど、いいシーンだったと思う。
お猶はお猶で、父親である鉄蔵に対して遠慮がある。このお猶の感情は切ない。作中で最初に鉄蔵とお猶が「会う」シーンでお猶が言った言葉にはグッと来るし、「目が見えない」という設定を絶妙に活かした印象的なシーンだった。
物語に芯がない、という点をどう評価するかで作品全体の評価が決まりそうな作品です。ハリウッド的な映画が好きだという人にはちょっと合わないと思うけど、物語的な展開にさほど重きを置かずに作品を鑑賞できる人なら面白く観れると思います。少なくとも僕は、最後まで飽きることなく見続けました。当時のことは全然知らないけど、「江戸」という街の雰囲気が、絵や音なんかでうまく表現されていたように感じるのも良かったと思います。

「百日紅~Miss HOKUSAI~」を観に行ってきました

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内容に入ろうと思います。
1984年.葉秋生はは初めて、生まれ故郷である台湾とは政治的な対立が続いている中国の地に降り立った。そこで、10年間彼の脳裏に居座り続けたある疑問が解けるはずだった。
1975年.台湾の英雄である蒋介石が亡くなった。国を上げて悲しみにくれる中、17歳だった秋生は、もう一つの悲しみに見舞われることになる。
葉尊麟。敬愛すべき祖父が、何者かに殺されたのだ。あの祖父が、だ。
祖父は、先の戦争で人を殺しまくり、戦争が終わってからも、良くない話の絶えない人だった。家族と兄弟の契りを結んだ者以外には、非常に横暴で冷淡だったという。しかし、家族に対しては滅法情が熱く、秋生はそんな祖父のことが気に入っていた。丸ごと褒められる存在ではないかもしれないが、秋生にとって祖父は、とても大切な存在だった。
そんな祖父が、何者かに殺された。台湾の警察は、どうもやる気がないようだ。祖父の死は、秋生の内側にポッカリと大きな穴を空け、年を重ねる毎に訪れる様々な場面で、その空洞が秋生の人生に陰を落とすことになる。
中国との政治的に安定しない状況の中、秋生は転落人生を送っていた。非常に秀才だったのだが、あと出来事をきっかけに底辺の高校に通う羽目になり、挙句軍隊に押し込まれることになる。悪い仲間とつるみ、喧嘩をし、仲間を守り、虚勢を張り、恋をし、そんな風にして秋生の人生は続いていく。祖父の存在が、そして祖父の不在が、秋生の人生を形作り、そしてまた壊していく。前に進むために、秋生は、祖父の死から10年後、中国の地を踏みしめる。
というような話です。
雰囲気は好きな小説でした。著者の作品はほとんど読んだことがないのだけど、「現代を舞台にしたノアール寄りのエンタメ作品」を書く作家という認識だったので、恐らく今回の作品は著者のこれまでの作風とは大きく変わっているのだろうとおもいます。馳星周的なノアールの雰囲気の作品には、合うものと合わないものがあるんですが、雰囲気だけで言えばこの作品のノアール的な感じは結構好きです。たぶんそれは、酷すぎないからかな、という気もします。色んなことが起こるのだけど、暴力も殺伐も対立も、どれもやりすぎていないという感じがする。血みどろというような雰囲気ではなく、全体の雰囲気をその少し手前で抑えているような感じはしました。ノアールが好き、という人にはもしかしたら物足りなく感じられる作品かもしれないけど、普通の人が読む分には、これぐらいの雰囲気の方がとっつきやすいだろうと思いました。
暴力の雰囲気は絶えない物語であるのだけど、あくまでも「通暁する雰囲気を醸し出す」という部分に留めていて、実際に暴力が行使される場面はそう多くはない。青年が大人になる過程の様々な通過儀礼のようなものを、時代の変節と織り交ぜつつ描き出していて、そういう「時代が醸し出す雰囲気」みたいなものがよく出ている作品だと感じました。もちろん、僕自身はこの作品の時代の雰囲気は知らないのだけど、知らないものにそれを体感させるような力強さを感じる作品です。
さて、とはいえ、ストーリーを抜き出してみると、あまり好きとは言えない作品でした。ストーリーに、作品全体を引っ張る力がなかったように思います。器(雰囲気)はとても豪華だったけど、料理(ストーリー)がちょっと物足りなかった、という感じです。
僕が難しいと感じた理由の一つは、ストーリーを引っ張る核が「祖父の死」以外にない、ということです。もちろん、時代背景の描写とか、魅力的な登場人物とか、ストーリーではない部分でのプラスアルファは色々見つけられるだろうけど、ストーリーに関して言えば、全体を貫く核は「祖父の死」だけだったように感じました。これが、謎解きを主体にする本格ミステリであれば別にいいのだけど、本書のような物語の場合、それだけではストーリーを駆動させるのに少し馬力が足りないのではないか、と思ってしまいました。
もちろん、本書をどんな物語だと捉えるかによって、ストーリーの捉え方も変わってきます。本書を、「秋生の成長物語」と読めば、秋生自身には人生における様々な場面で色んなことが起こるので、面白い読み方が出来ると思います。ただどうしても僕には、本書をそういう風に捉えることが出来ませんでした。恐らくそれは、「葉尊麟並の存在感を抱かせる登場人物」が、少なくとも僕にはいないように感じられたからだろうと思います。
秋生は、人生の様々な節目で、色んな人間に関わったり、その人について考えたりする。古くからの友人であったり、幼なじみであったり、叔父さんや敵対していた相手だったりする。しかしその誰もが、僕の感覚では、「葉尊麟」ほどの存在感を持ち得ない。畢竟、秋生が祖父についてのことで思考を奪われる度に僕は、「秋生はずっと祖父のこと”だけ”に囚われている」と思ってしまうのです。
秋生は、祖父の死後、様々なことに首を突っ込んだり巻き込まれたりするのだが、それらの中にも、「秋生が祖父の死に囚われていたからこそ起こったこと」というのが結構ある。大げさに言えば、秋生の身に降りかかる様々な出来事が、結局は「祖父の死」に端を発している、そんな感じさえするのだ。
だからこそ僕は、この物語を「秋生の成長物語」としては受け取れなかったし、物語の核になる部分が「祖父の死」にしかなかったように感じられてしまったので、ストーリーをそこまで楽しむことが出来ませんでした。
またもう一つ感じたことが、物語がどこを目指して進んでいるのか見えにくかった、という点だ。
僕が本書を、「祖父の死をメインにしている」とはっきりと感じられるようになったのは、全体の半分以上を過ぎてからだったと思う。それまでは正直、物語が何を目指して進んでいるのか分からなかった。冒頭は、祖父の死から10年後の時系列から始まるのだけど、その冒頭に置かれた序章では、物語の目的地は見えにくいと感じました。半分ぐらいまでの感じでは、「物語全体」にとって「祖父の死」がどれぐらいのウェイトを占めているのかイマイチ理解できなかったし、登場人物のどの辺の人達に着目しいて物語を読み進めていけばいいのかもあまりわからない感じがしました。
面白くなりそうな予感を抱かせる雰囲気の醸し出し方はとても巧いなと思うし、作品全体を取り巻く腐ったトマトのような雰囲気も好きなのだけど、物語としてはそこまで好きにはなれませんでした。アジアの歴史に興味があったり、台湾に行ったことがあったり、アジア諸国との戦争に関わったことがある人が読めば、また違った感想になるのかもしれません。

東山彰良「流」

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内容に入ろうと思います。
21歳の姉が、かなり年上の人と結婚するらしい。かなり唐突だと高校生の真菜には感じられた。私と一緒にパリに行く約束も、これまでの家族との時間も全部捨てちゃって、そんなにまで一緒にいたい人がいるなんて、真菜にはよく理解出来ない。
真菜は、高校で恐らく一番人気だろう男の子と付き合っている。真治が自分のどこを気に入ってくれたのか、それはよくわからないのだけど、バレンタインデーにいくつもチョコをもらうような男の子が、自分のことを好きだと言ってくれた。自分が、真治のことが好きなのかは、よく分からない。少なくとも、姉のように全部投げ捨てられるほど好きかと言われたら、たぶん違う。
姉の未来の旦那さん家族と食事をすることになった。歳の差のあるカップルなので、相手家族はやっぱりみんな年上なのだ。高校生の真菜は、それだけで居場所がないような気がしてしまう。口数の多い相手家族の話についていけなかった真菜は、たまたま隣に座った、姉の婚約者の兄・小林蓮と少し会話を交わした。どうみても大学生ぐらいにしか見えないのだけど、34歳なのだ。画廊で働いているという彼から、展覧会のチケットをもらう。
どの瞬間からだろうか。真菜は蓮に惚れ込んでしまう。でもそれは、願ってはいけない恋だ。だって真菜は、蓮からすれば義理の妹だし、それに、画廊のオーナーである物凄い美人の女性と、どうやら複雑な関係のようなのだ。
ただの17歳の小娘に、付け入る隙なんて、ない。
負け戦になるだろうと、そんなことは分かっている。けど、真菜は、真治のことも放って、蓮のことばかり考える日々を過ごすことになる…。
というような話です。
あまりピンと来ない作品だったりします。
僕は女性向けの作品も結構読める男なんだけど、この作品はどうもスッとは入ってきません。恋なんてそういうものだと言われればそれまでだけど、真菜が蓮に恋する過程がちょっとあっさり過ぎる気がします。瞬間的に恋しちゃう人もいるだろうけど、描かれ方的に真菜はそういう感じじゃない。そういう感じじゃない真菜が瞬間的に恋に落ちたから凄いんだ、的なことを打ち出したいのかもしれないけど、もう少し真菜が蓮に気持ちが向く過程が丁寧な方がいい気がしました。その後の行動を考えると、真菜の蓮に対する感情は相当強いものなので(真治に向けるものとは比べ物にならないくらい)、それに対する納得感みたいなものがもう少し欲しい感じはしました。
あと、これは僕が男だから仕方ないのかもだけど、蓮の一挙手一投足に対して真菜が感じる様々な感情が、ちょっと分かりにくいです。蓮のある行動に対して、「自分は義理の妹程度にしか見られていない」とか「負けた」とか、そういう判断を次々に繰り出していくんですけど、正直どうしてそういう判断になるんだか、よく分からない部分もあるんですね。恐らくこれは、女性には伝わるんだと思います(本書は、いいですよという女性からのススメで読んだので)。
例えば、有川浩の恋愛の描写だと、男も結構理解できるんだと思うんです(たぶん意識して著者がそう書いてるんだと思います)。それは著者の意思だろうし、恐らく本書の著者は、「女性にはきっちり伝わるように」ということを意識しているんだろうと思うので、まあ僕が理解できなくても想定の範囲内かもしれません。確かに、「蓮の優しさが残酷である」という描写のいくつかは、僕も理解できます。でも、全部は分からなかったなぁ。どうして今の挙動が、女性に(少なくとも真菜に)残酷に響くのか、よく分からないものもありました。この辺りの感覚の問題は、まあ仕方ないかなと思います。
あと思ったのは、比喩表現がちょっとしっくりこないものが多かったような感じがします。真菜が、周囲の色んなもの(主に蓮)を評する時に、「◯◯のような」という感じの比喩で表現するんだけど、これがちょっとしっくり来ないものが目立った気がします。
「しっくり来ない」には、僕の感触では二種類あって、一つは「その比喩が何を言いたいのかよく分からない場合」です。相手の何かを表現しようとしているんだろうけど、その比喩では、みんなが共通のイメージを浮かべるのはちょっと難しくないか?と感じるものがいくつかありました。そしてもう一つは、「その比喩を真菜が使うことが不自然ではないかと感じられる場合」です。キャラクターの性格と比喩表現の使い方がべらぼうにうまいのは荻原浩ですが、そこまで行かなくても、「◯◯のような」と何かを表現する時に、その表現する人の個性に沿った表現である方がいいと僕は思っています。でも、なんというか、あんまりそう感じられるものがなくて、残念だなと思いました。
物語そのものにあまり起伏がなくて、起伏がないこと自体は決して悪いことではないのだけど、でもだとすれば他の何かが欲しいと思ってしまうのだけど、それもあまり感じられない作品でした。蓮は、その「残酷な優しさ」をもっと鋭敏に描ければもっと魅力的なキャラクターになりそうな気がしますし、女のバトルももっとある方が面白いのかなって気もしました。全体の雰囲気は悪くないと思うんですけど、あまりグッと来る感じではありませんでした。
ちなみにこの作品、読むの二度目だったりします(一回目の感想→http://blacknightgo.blog.fc2.com/blog-entry-1880.html)。読んだことを忘れてたとかではないのだけど、時が経てば違った受け取り方をすることもあるし、また読んでみました。

楡井亜木子「はじまりの空」

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