黒夜行 2011年04月 (original) (raw)

ありとあらゆることに興味を持たない超無関心男である僕が、目下最大の関心を寄せているのが、腰痛です。
内容に入ろうと思います。
本書は、腰痛によりJリーグを引退し、その後色んな出会いと勉強を経て、代官山に腰痛に特化したクリニックを開設した著者の、腰痛を予防・改善するための本です。
そう、本書はタイトルからすると、『腰痛をいかに治すか』という本に思えますが、実は『いかにして腰痛を予防するか』という部分にもかなりページが割かれています。
というか、著者にとってその両者は、同じことの別の表現だったりするわけです。
現在でも日本の病院では、腰痛と言えば『痛みを取るための対処療法』か『構造的な問題を解決するための手術』のどちらかに焦点が絞られています。しかし最近欧米諸国では、腰痛というのは腰だけを見て解決できる問題ではなく、また手術によって改善可能な腰痛は全体の中でもごくわずかだ、という考え方が一般的になりつつあるんだそうです。
だからこそ、予防するための行動と治すための行動はある意味で同じものであり、そういう考え方で著者は本書を書いているように思います。
腰痛に関心のある僕には、なかなか面白いこと、興味を惹かれることがたくさん書いてありました。僕は非常にめんどくさがり屋で、かつ現状もの凄く腰痛というわけではないので、本書で書かれていること全部をやろうとは思いません。ただ、そこまで苦労せずとも実行出来そうなことなんかは取り入れていこうと思っています。
僕がどうして腰痛に関心を持ったかと言えば、ついちょっと前腰周辺を指圧してみたら、激痛が走ったからです。
普通に生活している分には、まったく自覚症状はありませんでした。でも、指で押すとメチャクチャ痛い。なんかこれはマズイんじゃないだろうか、と思って、その日以来、きちんとした姿勢(あくまでも僕のイメージのきちんとした姿勢、ですが)を取ろうと、とにかく背筋を伸ばすよう意識してきました。それが早速良かったのか、最近では指で押してもそこまで痛くない、という感じになっているんですね。
本書では、どんな姿勢が正しいのかや、腰痛にいいエクササイズなど、様々な話が載っているんですが、図入りで説明されているものも多く、また誤解なく紹介するためには本書の該当部分全部を引用しなくてはいけないことになると思うので、そういう具体的な予防法・体の動かし方・エクササイズなどについてはほとんど触れないことにします。是非本書を読んでください。
本書でとにかく繰り返し訴えていることは、腰痛の最大の原因は『悪い姿勢』にある、ということです。本書では三種類ほど悪い姿勢が紹介されていますが、一般的に多くの人がなっている悪い姿勢は、恐らく猫背でしょう。
僕もずっと猫背だった人間なんですが、最近では、あぐらをかいて座っている時でも背筋をまっすぐ伸ばせるようにクッションみたいなのを買ってみました(ただ、自分が今あぐらをかきながら取っている姿勢が正しいのかは、正直よくわからないんですが。あぐらをかいて前傾姿勢になるのは、とにかく最悪みたいですよ)。
僕は基本立ち仕事ですが、パソコンで仕事するデスクワークの人なんかはかなり酷いんじゃないかと思います。とにかく本書では繰り返し、悪い姿勢をやめて正しい姿勢をとることが、腰痛を回避するための、そして腰痛を改善させるための最大にして最強の方法だ、と繰り返し説かれます。
とはいえ、常に正しい姿勢でいなくてはいけない、ということでもないみたいです。正しい姿勢でもなんでも、同じ姿勢をずっと取っていることが体にはあまりよくない、と。肝心なことは、時々自分が正しい姿勢を取れているのか意識して、取れていないようなら正しい姿勢に戻す、ということです。常に正しい姿勢でいる必要はない、というのは僕には目からウロコだったんで、正しい姿勢じゃなきゃいけない、という意識をもう少し抑えようと思いました。
正しい姿勢を維持するために必要な二つの事柄が書かれています。
まず一つめは、ニュートラルポジションをきちんと習得すること。これは、後頭部・肩甲骨・腰の三点が一直線になる姿勢のことです(これは立っている時も座っている時も)。このニュートラルポジションから外れているかどうか時々チェックし、意識的に姿勢を正す。それが肝心です。本書には、ニュートラルポジションを習得するための方法が書かれています。ちょっとこれは僕もやってみようかなと思っています。まあそのためには、1m程度の長さの棒とか定規とかが必要なんですけど…。どこで手に入れりゃいいんだろう。
二つ目は、インナーコルセットを鍛えること。腰痛にコルセットというのは良い組み合わせのように思われているかもだけど、実はそこまででもない。それよりは、インナーコルセット、つまりコルセットの機能を果たす筋肉をきちんと強化することの方が大事なわけです。インナーコルセットを鍛えるやり方も書かれていて、こっちは結構実践が難しくない感じなんで、こっちもちょっと意識してやってみようかなぁ、と思っています。
また、トリガーポイントについての話も興味深かったです。トリガーポイントというのは、『痛みの震源地』とも呼ばれていて、腰周辺の痛みがある部分や違和感のある部分。トリガーポイント周辺に痛みが来ることもあれば、トリガーポイントから離れた場所に痛みが発生することもあるようで難しいんだけど、どこにあるトリガーポイントなのかによってどんな症状が出やすいか、そしてそれぞれのトリガーポイントにどう対処していったらいいのか、という話も書かれていて面白いと思います。
全体的に専門用語が結構多くて、読みづらい部分はあります。ただそれは、正確に伝えよう、という意識からだと思うので、悪い印象はありません。具体的にどうすればいいのか、という話が本当にたくさん載っていて、しかも実践するのにそこまで難しくないものが多い。また、一般的に正しいと思われている知識について警鐘を鳴らしている部分もあって(たとえば腰痛改善のためには腹筋と背筋を鍛えるのがいい、と言われているけど、これは半分当たっていて半分間違っているんだそうです)、非常にためになるんじゃないかと思います。
特に、デスクワークの人が読んだら参考になる部分は多々あると思います。特に、まだ腰痛になっていない人こそ読んで欲しいです。腰痛にならないためにどう生活すべきか、という話が本当にたくさん載っているんで、今自覚症状のない人もちょっとは危機意識を持って読んでみた方がいいと思います。
っていうか、この人がやってるクリニック、一回行ってみたいなぁ。んで、姿勢改善のアドバイスが欲しい。

伊藤和磨「腰痛はアタマで治す」

内容に入ろうと思います。
もし大事な話を―それもよくない話を―されるなら、食事の前がいいか、後がいいか。あすわは後、譲さんは前。そんな話をしたことがある。
それなのに、食事中にそんな話をするなんて、反則だ。
婚約を解消したい、と譲さんは言う。式場も決まっているし、友人にも話をしている。しかし、そんなことが些末なことに思えるくらい、譲さんは婚約を解消したいということなのだろう。
どうやって家まで帰ったのだったか。まるで覚えていない。家族や親友に心配されても、何も言うことが出来なかった。
あすわに筋道を与えてくれたのは、、ドリフターズ・リストだった。
叔母のロッカは、泣きはらしているあすわにも、脳天気な感じで関わってくる。ドリフターズ・リストを作りなさいよ、と。漂流する者たちの、指針になるリスト。明日へのリストだ。
あすわは、やりたいことを書きだした。

1、食べたいものを好きなだけ食べる
2、髪を切る
3、ひっこし
4、おみこし
5、たまのこし

リストは少しずつ増えたり減ったりを繰り返しながら、あすわの行動に関わっていった。自分の隣から婚約者がいなくなったというだけで、何もなくなってしまった。これほどまでに、何もなかったのだろうか…。
というような話です。
やっぱり素敵です、宮下奈都の作品は。じんわり暖まってくるような感じで、静かに満たされていくような、そんな小説でした。
しかし、いつものことだけど、宮下作品の良さを文章にするのは非常に難しい。
ドーナツの穴の話を書こうと思います。
宮下さんは、ドーナツの穴のようなものを必死で掴もうと言葉を紡いでいるんじゃないか、とふと思ったんです。
ドーナツの穴って、『あるのにない。ないのにある』ものだと思うんです。ドーナツの穴って、ただの空間であって、モノとしての存在はない。でも、ドーナツの穴と呼ばれている何かがそこにはある。
ドーナツの穴のように、輪郭を切り取ることでしか表現できないもの、名前のついていないもの、あるいは、名前はついているのだけどそれだけだと大事な何かがこぼれ落ちてしまいようなもの、そういう『何か』を必死で掴み取ろうとしている感じがします。
主人公のあすわは、冒頭からそういう『何か』でいっぱいいっぱいになっていきます。婚約破棄という衝撃を受け止めきれずに、輪郭があやふやな、名前のついていない感情や考えにどんどんと支配されていきます。
そういう部分を、本当にうまく掬い上げていくなぁと思うんです。それだけじゃなくて、あすわがそこからどんな風に歩き出していくのか、どの方向を目指して行こうと決意するのか、そういう複雑な心の動きも、輪郭をなんとか捉えて文章に置き換えることで、読者にその道筋を見せてくれる。細部のニュアンスを諦め、零れ落ちてしまう多くのものに目を瞑って、よく使われている単語や感情の名前なんかを使えば、もっと簡単に表現できてしまうだろう部分を、でも決してそんな風にはしない。円周率を、3.14じゃなく3にしてしまえば多くのものが零れ落ちるだろうけど、計算が簡単だという理由で3が選ばれる(今はもう3.14に戻ってるのかもですけど)。でも宮下さんは、計算の簡単さ(執筆の容易さ)を捨てて、3.14を使い続ける。そういう感じがします。
もちろん、作家というのはそういうものだ、何をそんな特別なことみたいに評しているんだ、なんて反論はあるかもだけど、でも、そういうことが出来る作家って、そう多くないと思うんですね、僕は。
あと宮下さんの描写は、外側からではなく内側から描いている、という感じがします。これもより説明しにくいんだけど、感情や心の動きなんかを描く時に、その人物の主観が非常に大事にされていると思うんですね。巧い例ではないけど、普通の作家が『哀しいから泣く』というような描写をするところを、『泣いていることに気づいて、自分が哀しかったんだと知る』というような描写をしている、というような感じです。心の動きを、より精密に分解している、なんていう表現はちょっとおかしいかもだけど、宮下さんの描き方を見ていると、人間の複雑な部分が明確に立ち上ってくるようで、そうだよなー人間ってそうだよなー、とか思います。人間って、凄く分かりにくい生き物だし、自分以外の他人はもっと分かりにくいわけで、そういう現実の分かりにくさ・複雑さみたいなものを小説の中できちんと表しているのはさすがだなぁ、という感じがします。
主人公のあすわについては、一挙手一投足が描かれていてもちろん凄く興味深い人物なのだけど、僕が一番気になるのは(そして、読んだ人はみな結構気になるんじゃないかと思うんだけど)、やっぱりロッカさんでしょう。
ロッカさんは、本当に掴みどころがない感じがする人で、段々なんとなく、なるほどこの人はこういう人なのかって分かってくるんだけど、初めの内は意味不明でしかない。落ち込んでるあすわの部屋に突然やってきて、でも何を話すわけでもなくジャンプを読んでるとか、言ってることがコロコロ変わっているように見えるとか、凄くマズイ料理を作るのに自信満々とか。確かに作中で、あすわに次いで登場回数の多い人物だと思うんだけど、それを抜きにしても、存在感が抜群だなと思います。
あすわを立ち直らせた環境というのは、もちろん色んな要素が組み合わさってのものだろうけど、ロッカさんの存在はかなり大きかっただろうと思います。そもそも、婚約破棄された女性とどんな風に接したらいいのか、まあ僕だったらまったく分からないし、ロッカさんの接し方がどんな場合でも正解なのかそれも分からないけど、少なくともあすわには的確だったのだろうなぁと思います。ロッカさんの場合は、絡まりあった糸を解くのを手伝ってくれる人では全然なくて、絡まりあった糸を必死で解いているその手を時々握ってくれるという感じの人。必死で糸を解いている手を握られると糸を解く邪魔になるんだけど、でもそのぬくもりは嫌なわけじゃない、というような、なかなか高度な(?)テクニックです。
それにしても、あすわの周りにいる人たちはなかなか素敵な人が多い。幼なじみの京はのブレないっぷりやお仕着せではない優しさはもの凄くカッコイイし、郁ちゃんはなんか色んなことがどうでもよくなるような一瞬を垣間見て面白い。あすわの兄にしたって、結構良いこと言ってたりするんだよなぁ。本書の中で幼なじみの京が、
『あすわ、自分がどれくらいかわいがられてきたか、考えたことある?』
って聞く場面があるんだけど、確かに、あすわは凄く良い環境で育ったんだろうなぁ、と思う。もちろん、それが当たり前として育ったあすわにその自覚が薄かったとしても責めるのはなかなか難しいだろうけど、京からすれば歯がゆかったんだろうなぁというのもなんとなく伝わる感じでした。
宮下さんの作品の主人公って、割とどの人も、漠然とした悩みを抱えていることが多い。本書にしても、婚約破棄は漠然とはしてないけど、でも、婚約破棄をされた自分の未来という漠然としたものに不安を抱えている。そういう、どちらかと言えば決して明るいとは言えない作品が多いのに、どの作品でも、文章はウキウキしているように僕には感じられます。哀しい描写のシーンでも、何故か文章は弾んでいるような感じがする。僕はそういう部分も好きです。希望がある感じがするのだ。悲しくて辛くて仕方ない場面でも、文章が弾んでいるように思えるのは、その人物が心のどこかで希望を抱いているからだ、と僕には感じられるんです。それが、読んでいる人にも、何らかの形で勇気を与えるんじゃないかな、と。
あすわが最後にたどり着く心境は、僕も紆余曲折を経てたどり着いた場所でした。そう、頑張らなくたっていい。頑張っていないことで、焦ることなんてない。もっと気楽でいい。頑張りたい、そう思える時がくれば頑張ればいい。日本人って、どうも頑張りすぎている人が多い気がするから(まあ、お前はもっと頑張れよっていう人もそりゃあいるけど)、そういう人には何か染み込むものがあるんじゃないかな、と思います。
今弱っているという人には特にオススメしたい作品です。本書は、決して特効薬にはならないだろうけど、湿布のようにじわりじわりと効いていく、そんな作品ではないかと思います。自分の生き方を見つめ直すきっかけになれる一冊かもしれません。是非読んでみてください。

宮下奈都「太陽のパスタ 豆のスープ」

内容に入ろうと思います。
本書は、「日本でいちばん大切にしたい会社」の著者で、6300社以上の会社に自らの足で訪問している人による、日本が誇る素晴らしい小さな会社8社を紹介している作品です。すべて、社員が30人以下という会社です。
それぞれどんな会社が紹介されているのか書きましょう。

「小ざさ」
東京・吉祥寺にある、ようかんともなかを売るたった1坪の会社。一般の菓子製造小売業の年間坪当り販売額が約231万円のところ、この小ざさは年間で3億円以上売り上げるという、恐らく坪当たりの売上日本一の店。ようかんは一日150本しか販売されず、しかもそれは店頭でしか買えないので、日本全国各地からお客さんが集まり、早い時は深夜1時からお客さんが並び始める(従業員さえ、欲しい時は行列に並ばなくてはならない)。
店は、小ざさの味を作った父の元で、なんと30年間も修行を続けた娘が切り盛りしています。今の味を維持するためには一日150本が限界だといい、それ以上作ることはしません。従業員の一割が障害者というのも素晴らしいです。

引用:
『(なぜ値段を高くしないのか、という質問に対して、父がこう言っていた、という話)銀行の預金通帳に数字をいっぱい並べるよりも、お客様に信頼を貯金しておくほうがいい。そうすれば、無一文になっても、地震や災害で店が潰れても、戸板一枚と材料があればすぐに次の日から商売が出来る』

「ハッピーおがわ」
広島・呉にある、身体障害者や高齢者向けの衣料や寝具を作っている、その業界のトップ企業です。社長自らがんに冒されているのだけれども、それでも困っている人のために、採算度外視でひとりひとりのために衣料・寝具を作り続ける。
普通の靴下の素材では履いているうちにかぶれたり出血したりしてしまう女の子のために、相当な開発コストを掛けて靴下を開発したり、片足だけゾウの足のように腫れ上がってしまったお年寄りのために一足だけ長靴のような靴下を作ったこともあるそうです。それで採算が取れるかは考えない。まず困っている人のためにものを作り続けるという姿勢が凄い。ここが作っている「ハッピーそよかぜ」というマットレスは本当に凄いようで、寝返りが打てたり、床ずれが出来なかったりするそうで、奇跡のマットと呼ばれているんだそうです。
売り方も凄くて、店まで来るのは難しい人が多いだろうから、注文が入ると、その人に合いそうなものをとりあえず一式送る。それで、要らないものは返品してもらう、というやり方なんだそうです。もちろん送料はすべて会社の負担。サイズ直しも無料だそうです。
何度も潰れかけ、今でも経営が安定しているとは言えない会社だけど、その代わり支援してくれる人も本当にたくさんいて、会社の入っている建物を出なくてはならなかった時、とある大学教授が私財をなげうって、その土地と建物を買い取ったなんてこともあったようです。

「丸吉日新堂印刷」
北海道・札幌のある、従業員6人の印刷会社。ここには、日本全国から名刺の注文依頼が舞い込みます。
別に印刷技術に優れているとは、販売の手法が斬新とか、そういうことは特にありません。ただ多くの人が、この会社の理念に惹かれ、この会社に名刺を発注したいと思うのです。著者も、大学に頼めば(著者は大学教授です)名刺はタダでもらえるんですが、自身の名刺はこの会社に注文しているそうです。
誰もやったことがなかったペットボトル再生名刺へ挑戦することになり、それが成功して以降、バナナの皮やトウモロコシの皮など、普通なら捨ててしまうものを再利用する「エコペーパー」を使った名刺を作り続けています。また、名刺1枚につき1円を募金する仕組みを考え、それを実行し続けています。
また、障害者にも仕事をと考え、名刺に点字を入れることを考えました。もの凄い集中力でその仕事をする障害者たちは、自分たちが作った名刺を丸吉日新堂印刷に届けるのが楽しくて仕方ないんだそうです。

引用:
『(エコ名刺を独占せず、真似している会社を気にしないでいる理由)環境によくて社会に役立つものが世の中に広がることがまず大切。自分がすべての市場をまかなうことは不可能なのだから、どんどん広がってくれればいい』

『(著者の言葉)「商圏」は会社が決めるのではなく、お客様が決めるのです』

「板室温泉大黒屋」

栃木県・。那須塩原にある老舗旅館。創業1551年で、栃木県で最古の老舗企業と認定された会社で、現在16代目。
その16代目の社長は、自身の代でとんでもない改革をしました。それが、現代アートとの融合です。
館内には、こんなプレートがある。
『「保養とアート」の宿でございます。
対象となるお客様
健康を目的にされる方
「文化」「知」「美」に興味のある方』
つまり、宿の側がお客さんを選ぶ、そんな旅館なのです。
旅行会社に価格を叩かれ、団体客をゴルフ客を入れ、冷蔵庫のビールを高く売ってそれでも赤字経営である多くの旅館とは違い、ここには女将もいないし、ビールは高くない。それでも多くの人に、死ぬ前に最後にまたあそこに泊まりたいと言わせるような、そんな環境づくりをしています。リピーター率は73%という驚異的な数字で、土日は常にほぼいっぱいなんだそうです。

引用:
『(近くの川を黙って掃除していることについて)人にほめられたいから、と思った瞬間に、そちらに神経が行ってしまって、自分の役割ができなくなってしまいます』

「あらき」
熊本・城南にある酒屋。借金を返すために店をたたむしかない、と税理士に言われてからたった5年で、日本中の超有名なシェフや漁師が集ってイベントを行ったり、基本的に評論家とかが受賞するはずのフランスの名誉ある賞を受賞したりと快進撃を続けている酒屋。
拡大路線を突き進んでいた時期、しかし静かに売上は下がっていった。13年ぶりに売り場に立ってみると、どのワインがどこにあるかさえわからなくなっていた。
そんなある日、一人のお客さんが来てワインを選んで欲しいと言う。そしてその翌日同じお客さんが、「昨日は10年ぶりに来ました。今日は10年来なかった理由を話しにきたんです」と。その話に衝撃を受け、ワインと向き合っていなかった自分を恥じ、それ以来一からやり直していった。
今では、ワインをどうやったら美味しく飲めるのかを事細かにお客さんに語り、次から次へと繋がっていった有名人とのイベントを開催する。

引用;
「儲けたいと思わなくなった。その幸せをいまは感じています」

「高齢社」
東京・秋葉原にある、その名の通り、高齢者を派遣する派遣会社。自身パーキンソン病におかされている社長は、これからは高齢者をうまく活用しなくては社会がうまく回っていかないと、日夜頑張っています。
東京ガスにでガスメーターの検針員として働き始め、最終的に理事にまで上り詰めた人で、東京ガス退職後も関連企業の立て直しに尽力。その後高齢社を立ち上げて、高齢者に生きがいを与えるべく、高齢者向けの仕事を確保しようと努力しています。
経常利益の三割を社員に還元するというオープンな経営を貫き、リストラはしない。社長は、個人的に社会貢献活動にお金を出したりするなど、多くの方面で活躍しています。

「辻谷工業」
埼玉・志木にある、世界でここでしか作ることが出来ないものを作り続けている会社。それは、砲丸です。
世界中のアスリートが辻谷工業の作る砲丸を愛しています。というのも、オリンピックの砲丸投げで、三大会連続金・銀・銅を独占するという快挙を成し遂げているからです。ある大会で4位になった、辻谷工業の砲丸を使わなかった選手が、「日本製の砲丸を使っていれば…」とインタビューで答えたんだそうです。
ある時から砲丸の規格が厳しくなり、それを機に国内メーカーは一斉に手を引いたのですが、下請けにはなるまいと思っていた社長は、その規格に合う砲丸を一から研究を始める。そうやって、神がかり的な職人技で、重心がピッタリと真ん中にある砲丸を作り出すのです。最新式のNC旋盤で作っても7割が不良品になるという超困難な作業を、手作業で削りとる音を聞き分けながら作り出す。まさに神業です。

「キシ・エンジニアリング」
島根・出雲にある、障害者向けの電動車椅子や歩行器などを作り続けている会社。
社長の娘が生後7ヶ月で脳障害となり、それ機に会社を辞めた社長は、自らの手で娘のためになる機器を生み出すために独立。その後娘は亡くなってしまうのですが、知り合った多くの障害を持つ人やその家族のためになる機器を今でも生み出し続けている。需要もそこまで多くなく、値段もそこまで高くは出来ないので、利益としてはなかなか大変なのだけど、「奉仕が先、利益は後」との考えを持って、今は車椅子用の電気自動車を開発すべくとりかかっているそうです。

「日本で一番大切にしたい会社」も良かったですけど、こっちも素晴らしかったですね。どの会社も、売上とかどんな賞を受賞しているのかというような分かりやすい部分以上に、理念とか考え方みたいなものが本当に素晴らしいと思う。こういう会社で働きたいな!と思う会社ばっかりで、素敵ですホント。
僕が本書を読んで一番強く感じたことは、『多くの人は、幸せのサイズを見極められているのだろうか?』ということです。
本書に出てくる人は、皆幸せだと思います。しかしそれは、お金がたくさんあるとか、もの凄く大きな会社を率いているとか、そういう部分ではありません。もっと、違うなにかです。
もちろん、お金がたくさんあるとかそういうサイズの幸せが合うという人もいることでしょう。それを否定するつもりはまったくありません。でも、実は自分はもっと違ったサイズの幸せの形がぴったり合うのに、世間に流されてお金儲けとかそういう方向に進んでいってしまっている人もたくさんいるんじゃないかな、と思うんですね。
僕は、昔から思い続けているんだけど、金持ちには絶対なりたくないし、出世したいとも思いません。結婚さえ、興味がないんですね。まだ、自分がぴったり来るような幸せの形をはっきりと見つけることが出来ているわけではないけど、少なくとも、お金とか出世とかそういう方向に向かっても幸せには出会えないだろうなぁということはよく分かっています。
本書に出てくる人々の中には、初めはそれが分かっていなかった人もいます。「あらき」の社長なんかは、拡大路線でイケイケな感じだったところを、冷水を浴びせられたという感じです。でも、そこから方向転換をして、今では儲けようと思わなくなったと言っている。そうやって、きちんと幸せのサイズを見つけることが出来た。
結局自分に合った幸せのサイズって、人の幸せを見ても分からないと思うんですね。自分で探すしかない。お金がないと幸せになれないという人のことを否定するつもりはまったくないんだけど、でもそれが本当にあなたにぴったり合った幸せのサイズなのか、という自問は一回してみる必要があるかもしれません。
本書で強く気になったのは、「小ざさ」と「ハッピーおがわ」です。
「小ざさ」は、ちょっと凄過ぎる。「1坪の奇跡」っていう本も出てるらしいんだけど、とにかくこだわりが徹底している。そもそも30年間修行するってだけで凄過ぎるし、従業員でさえ並ばないと買えないっていうのが驚きです。ようかんは一人5本までという行列ルールも、店側ではなく、お客さんの側から提案されたとのことで本当に愛されているんだなと思います。
「ハッピーおがわ」は、手を差し伸べたくなる会社、というのが凄く分かる感じがします。こういう、本当に必要なものを、採算を考えずに作り続ける会社というのは、本当に残って欲しいと思います。大手企業には絶対に手の届かない部分をカバーする、という発想では全然なく、その会社がなくては困る人が山ほどいる、というレベルの存在感は、ちょっと凄過ぎると思いました。
本屋で働いている僕的に気になったのが、「板室温泉大黒屋」と「あらき」です。どちらも、結構型破りで常識外れなことをしてお客さんを取り込み、熱心なリピーターを生み出しています。ものを売る、サービスを売る、という発想ではなく、店のファンになってもらう。これからはそういう発想こそがもっとも大事になっていくのかもしれないなぁ、と強く感じました。
こういう素晴らしい会社は本当に残ってほしいと思うけど、そういう会社に対して僕らが出来ることは多くない(もちろん、そこの製品を買ったりすればいいんだけど、砲丸は要らないし、障害者や高齢者向けの商品なんかも、今の僕にはまだ不要だし)。でも、そういう会社のことを『知ること』、ただそれだけでもささやかな支援になるのではないか。僕はそんな風に思っています。こういう素晴らしい会社がもっとたくさん出てきてくれればいいと思うし、もちろんこういう会社は、大資本がマスを対象に商売をしてくれているからこそ成り立っているのかもしれない、という側面だってあるのかもしれないけど、こういう志のある会社のことがもっと広まっていったらいいなぁ、と思います。是非読んでみてください。

坂本光司「ちっちゃいけど、世界一誇りにしたい会社」

内容に入ろうと思います。
本書はお笑いをモチーフにした作品です。
ピン芸人として、大阪の若手芸人を主体とした「FLAT劇場」で日々舞台をこなす戸田雄貴。F1・F2・F3と階級があって、三年掛けて上がったF2でずっとくすぶっている。
おとんも、芸人だった。
売れている芸人ではなかった。おかんはいつもおとんに、芸人を辞めて別の仕事をするよう言い続けていた。雄貴も、小さい頃はおとんの舞台を見に劇場まで足を運んだけど、しばらくしてそれも止めた。
おとんが死に、雄貴はお笑いのすべてが嫌になって、東京に引っ越すことになったのを機に、お笑いのすべてと縁を切った。
その雄貴は、今、おとんと同じように、芸人の底辺で奮闘している。
ある日家に帰ると、見知らぬ女の子がいた。小学生なのに利発そうな女の子だ。おかんが出てきて、妹だ、という。長いこと会っていなかったからわからなかったのだ。
おかんはしばらくアメリカに行くという。それで妹の楓を雄貴の元に預けにきたのだ。
楓は、大阪と笑いのすべてを否定している、勉強の出来る女の子だ。それで、学校でも馴染めずにいるらしい。共同生活は、初めはギクシャクとしたものだった。
FLAT劇場の方でも、とある大事件が持ち上がっていた。FLAT劇場出身で、笑いの神様と呼ばれるほどで、先ごろ公開された初監督作品が大評判となっている保坂が、次回作を撮るのに、FLAT劇場の芸人を起用するという。それで舞台を保坂が見に来るというのだ。保坂は実は、父が可愛がっていた後輩でもあった…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。ちょっと物語の立ち上がりが遅いかなぁと思ったんだけど、雄貴の妹の楓と、あと雄貴の幼なじみである沙紀の話がきちんと描かれるようになってくると、結構話が回りだしたなぁという感じがしました。
とにかく、楓と沙紀が非常に良いです。雄貴の話がもちろんメインだし、雄貴の話も全体として巧くまとまっているんで面白く読めるんですけど、個人的には、楓と沙紀の話の方が興味津々でした。
楓は、雄貴のおかんが再婚してから出来た子供で、基本的に東京で育ったんで、笑いというものを基本理解しない。というか、理解したくないんですね。大阪では、ボケた人間こそが偉いという、まあ関東の人間にはなかなか理解出来ない空気があるようで、楓はその空気にどうしても馴染むことが出来ないわけです。
この楓がどうなっていくのか、というのは、一つの読みどころだと思います。楓の変化も素晴らしいし、楓の才能も素晴らしいし、楓が雄貴の人生に介入するそのスタンスみたいなものも素晴らしいです。小学生にして、ここまで自分の立ち位置がブレないっていうのは凄いな、という気がします(まあ、価値観は180度変わるんですけども)。
沙紀は、人気キャバ嬢で、結婚を控えていてウキウキ。雄貴の家に無理矢理押しかけてくるのはいつものことで、うっとうしく思うこともあるんだけど、沙紀が雄貴の料理を食べる代わりに食費を出してくれるから、なし崩し的に沙紀に侵略を受け入れている。
その沙紀も、まあ色んな描写があるわけなんだけど、いいですね、沙紀。惚れますね、こういう女性には。なんだろう、強い、って言っちゃうとなんか色んなものがこぼれ落ちていくような気がするんだけど、大雑把な表現で言えば、強いなぁという感じです。でもそれは、しなやかさのない強さで、だからある日ぽっきり折れちゃうようなそういう脆さもあったりする。そういう部分を見せまい見せまいとしている部分が、またいいですなぁ。
さてメインの雄貴の話なんだけど、僕自身はお笑いというものに凄く強い関心があるわけではないから、本書で描かれるお笑いの内部の世界については、なるほどこんな風なのねー、という感じでした。あくまでも予想なんだけど、たぶんある程度『大阪の空気』みたいなものを肌で感じた経験があるかどうかで、本書の読み方って変わってくるんじゃないかなと思うんです。
本書には、雄貴が同期の芸人と飲み屋に行き、そこで意気投合した初対面のおっさんと楽しく飲む、という場面が出てくる。もちろん彼らの間を繋ぐのは、笑いだ。初対面の人間でも、笑いさえ間にあれば仲良くなれる。そういう認識を、多くの人が共有しているんだろうと思うんです。
僕は『大阪の空気』というのは全然分からないけど、そういう、文字や映像で理解するんじゃなくて、肌で感じる部分が、本書には結構多い気がします。僕が肌で感じたことのない『大阪の空気』に一度でも触れ共感したことがある人(あるいは生まれた時からその空気の中にいた人)には、僕が感じられなかった『何か』を感じられるのではないか。そんな気がしてしまうんですね。笑いという共通言語がある、という空気はなかなか想像しにくいので、それが理解できる人にはより楽しめるのかもしれない、と思ってしまいました。
個人的には、雄貴の父親の話の方が結構気になりました。才能と努力の関係とか、あるいは時の運とか、そういうことについて考えさせられました。
本書では、実際のネタの場面が描かれることは少ないんだけど、それでも端々で、『芸人らしい』ことを書かなくちゃいけない。特に本書には、笑いの神様である保坂という人間が出てくる。作者は、特にこの保坂には、つまらないことを喋らせるわけにはいかない。他にも、登場人物の誰かが「おもろいな」と評価するネタを作者自身が考えなくてはいけないのだ。大変だろうなぁ、と思います。著者は放送作家らしく、実際に日常的にそういうネタを考えるみたいなことをやっているんだろうけど、なかなか大変だっただろうなぁ、と思います。
あと最後に。本書に出てくる文章で、残酷だけどもの凄く納得させられてしまった部分があるんで、抜き出してみます。

『「ああいう夢見る若いやつらが何千人も芸人を目指す。その中から、才能のある芸人が出てくる。文化っていうのは、そういうもんだ。競争の中からしか、本物は生まれない。それが笑いの世界を発展させていくんだ。言い方は悪いが、あいつらは生贄だ」』

これは笑いに限らず、あらゆる分野でそうなんだろうなぁ、と思ってしまいました。
なかなか面白く読める作品だと思います。個人的には、主人公の雄貴の話より、妹の楓と幼なじみの沙紀の話が好きです。読んでみてください。

浜口倫太郎「アゲイン」

内容に入ろうと思います。
決してそう遠くはない未来に、世界の破滅が予測されている、そんな世界の中で。
中央高校に通う者たちは、相変わらず怠惰で空虚でありふれた毎日を送っている。
二年F組に所属する、中央高校のスタンダードから外れた者たちは、特にこれと言った共通項もないままで、なんとなくいつも同じメンツで過ごしている。
他人に関心が薄く、あらゆることを醒めた目で見る真南了。
時代遅れのリーゼントヘアを誇りとし、アホ丸出しな番場公威。
男を取っかえ引っかえし、真実の愛とやらを追い求めている紅一点の七瀬林檎。
2年F組を自身の支配下に置こうとあらゆる策を寝る西園寺幾美。
クソゲーとNBAが大好きで、何でものめり込むとどはまりし、女ったらしな暮林彦一郎。
いつもぼーっとしている倉田君。
彼らの毎日は、ただなんとなく過ぎていく。真南は、よからぬ男と付き合っている林檎をたしなめる。番場は周りに乗せられて玉砕必死の告白に出陣する。西園寺はクラスの覇権を狙う計画を粛々と練る。
月は、いつか落ちてくるだろう。
気にする者も、気にしない者もいる。
まとまりのないバラバラな六人が過ごす、ひと夏の青春。
内容紹介がなかなか難しい作品です。これ、というメインのストーリーがあるわけではなく、六人を中心とした青春群像劇みたいな感じの作品ですね。
なかなか読ませる作品だと思いました。いつか月が落下して世界が破滅することが予測されてる、という設定が背景にあるのだけど、それが表立って描かれることはない。特にその設定が、ストーリー上大きな役割を果たすということはない。
でも、その設定は、登場人物たちの生き方や心持ちに大きな影響を与えている。直接的に描かれることはないのだけど、全体的に誰もが空虚で無気力なのっぺりとした生き方を強いられてしまうのは、それが背景にあるからだろうと思う。
なかなか個性的な六人が描かれる。僕が最も共感できたのは、真南了かな。他人に関心が薄く、自分が動くわけではなく常に何かを待っている、というようなスタンスは、まさに僕とまったく同じでした。真南が、この破滅が確定的であるこの世界の中で、何をどう考え生きていくのか、というのはちょっと興味深いと思いました。
番場のキャラもいいですね。とにかく、ハチャメチャな男で、わけがわからない。たぶん長く付き合えば、純粋でまっすぐな男だということが分かるんだろうけど、リーゼントしかり数々の伝説しかりで、パッと見の印象がよろしくない。だから、色々誤解されるし、また本人もアホなわけで、益々状況を悪化させていくことになる。でもこの番場が、ある場面で自らの生い立ちみたいなのを告白するシーンはなかなかよかったし、憎めない奴なんですよね。
林檎の捉えどころのなさは、結構嫌いじゃない。割と好きかも。でも、割と好きなんだけど、林檎みたいな女性が近くにいたらちょっと面倒かもとも思う。なかなか難しいですなぁ。真南と林檎のシーンを読む時は、僕なら真南が林檎に接するのと同じように林檎に接することが出来るだろうか、とか考えてしまいました。
あと、倉田君の脱力っぷりはいいですね。最後のアレは、ちょっとやり過ぎじゃないか、って思うんですけどね。
っていうか、最後の展開はなんとなく唐突な気がしたのは僕だけかなぁ。番場や暮林はいいとしても、西園寺の行動原理がイマイチよくわからない。何か心変わりを促すような場面ってあったっけかしら。最後のシーンにあの形で西園寺が収まるっていうのは、なんとなく不連続な感じがしちゃうんだけどなぁ。
これと言って特別なことが起こるわけではない高校生の日常をこれだけ読ませるのはなかなかだと思います。もちろん、色々なことが起こるわけですが、一つ一つを抜き出してみれば、別にそんな大したことじゃない。でも、キャラクター達が非常に面白く動いてくれるんで、読まされてしまいます。
キャラクターについても、キャラクターそのものの面白さというのももちろんあるんだけど、個々の関係性が面白いと思いました。特に、真南と林檎、番場と西園寺、真南と番場辺りの関係性は、結構読みどころがあると思いました。特に、やっぱり自分と似ている部分があるからか、真南の不安定さみたいなのは結構気になって追ってしまうなぁと思いました。
本書は結構マンガ的な感じの作品なんだけど、実際にマンガにしちゃったらちょっと面白さが半減されるような気もします。マンガにした場合、キャラクターの濃さだけが強くなっちゃって、ストーリーや退廃的な世界観とのバランスが取りにくくなるかも、とか勝手に思いました(まあ、マンガ化する人の力量とかにもよるんだろうけど)。諦めというのが、生まれた時から染み込んでいるような、そういう重苦しい世界観って、実は今の日本の雰囲気なんかにもちょっと通じるところがある感じがするような気もします。なかなか面白く読める学園小説だと思います。読んでみてください。

十文字青「純潔ブルースプリング」

内容に入ろうと思います。
山を降りるゼン。
物心ついた時から、カシュウと共に山で暮らしていた。目の前にはカシュウだけがあり、カシュウだけを手本としてゼンは育ってきた。
そのカシュウが死んだ。
カシュウは、自分が死んだら山を降りるようにゼンに言い渡していた。里の長であるサナダ様を訪ねるように、と。
山以外で暮らしたことのないゼンには、里の生活は何もかもが新鮮に移った。そして里では、カシュウが尊敬の念を集めていたことも知る。
カシュウは比類ない武芸家であり、多くの者が弟子入りを志願するのに倦んで、山に籠ったのだという。
つまりゼンは、カシュウの最後の弟子ということになる。しかしゼンには、自身がカシュウの弟子であるという認識は薄い。
ゼンは、旅に出ようと決めていた。いや、カシュウにそう言われていたのだ。
サナダ様の屋敷で出会った、娘だというイオカ。イオカはゼンに、旅のお供をさせて欲しいと懇願する。断るのだが、イオカは理由を話そうとする。どうも面倒なことになった…。
というような話です。
「スカイクロラ」シリーズを出していた版元から出た新シリーズです。森博嗣は、作家としての活動を辞める(あるいは相当にセーブする)と認識していたんだけど、こうやってまだまだたくさん小説を書いてくれると嬉しいものですね。
さて、本書は、「スカイクロラ」シリーズに雰囲気はかなり近いです。まあ、まだシリーズ一作目だから判断は早過ぎるけど、どっちが好きかと聞かれれば、そりゃあやっぱり「スカイクロラ」シリーズの方が好きです。でも、本書もなかなかいい感じの雰囲気で話が進んでいきます。
「スカイクロラ」シリーズもそうでしたけど、本書はなんか詩的な感じがします。詩小説という感じでしょうか。僕は別にそもそも詩を解する男ではないし、俳句とか短歌とかそういう方面への情緒もまるでない人間だから、そんな僕が詩的だとか何だとか言っても説得力はないんだけど、そんな感じがします。
ストーリーはストーリーで展開されるわけなんだけど、それ以上に、詩的な鋭い思想がそこかしこに漂っているという感じです。
本書は、森博嗣版武士道、とでもいうような作品なんだけど、刀の鋭い一閃のような文章が散りばめられていて、やっぱり好きだなと思います。
気になった部分を抜き出してみます。

『いかに戦わずに生きるか。それがカシュウが教えてくれた最も基本的なことだった。強くなる理由は、戦いを避けることにある。戦う術をすべて学んだそのあとに、最後にその教えを受けた。初めは、驚いた。矛盾しているように感じた。今でも不思議なことだと思う。』

『「けっして同じではない。正しさとは、過去にあったものではない。常に新しい筋へ剣を向ける。今の正しさを探すのだ。似ていることを嫌い、慣れ親しんだものを捨てなければ、自分に囚われる。そうではない新しい自分を常に求めるのだ」』

『「戦もない。侍は刀を持ち歩いているが、使う機会などない。それこそ、試し切りさえしない。切らなければ、刀は善し悪しはわからない。だから、悪いものがいつまでも世に蔓延る」』

『「人と人との関係は、その場その場で必ず釣り合っている。貸し借りというものはない。世話になったと感じていても、世話をした方も満足して世話をしている。勝負でも同じこと。負けたと感じていても、勝った方も必ず同様に悔いている。だから、あとになって返そうなどと考えるものではない」』

『「不安な方が生きとる心地がする。こいつは、もしかしてわしを殺すかもしれん、とそう思うほどに、そいつのことをよく見るし、そいつの話もよく聞く。それでこそ人が理解できる。そういう殺気がない奴では駄目だ。いてもいなくても同じ。それでは意味がない。人として価値がない」』

森博嗣はやっぱり、作家としては異質だと感じられる。どう異質なのかは、うまく説明できないのだけど、僕は森博嗣という人をこう捉えている。森博嗣は、物事の本質の源泉にアクセス出来る人なのだろう、と。
物理の世界に、統一理論というものがある。物理には様々な分野があり、今はそれぞれが個別に研究されている。力についてもそうで、現在物理学的な力というのは、電磁気力・重力・弱い力・強い力という四種類があることが分かっていて、それぞれ基本的には別々に研究されている。
しかし統一理論というのは、四つの力は元々一つの力であり、それが派生して四つの力になったのではないか、と考える理論のことで、その理論自体はまだまったく見つかっていないのだけど、物理学者の大きな夢の一つは、その統一理論を見つけ出すことである。
森博嗣は、世の中を支配する理の統一理論(物事の本質の源泉)に容易にアクセス出来る人なのだろうと思うのだ。凡人には、まるで無関係な事象にしか思えない様々なものから関連性を見出し、抽象化し、その源泉へと近づいていく。そしてその源泉を自在に見渡すことが出来るからこそ、どんな物事に対しても本質的なアプローチが出来るのではないか、とそんな風に思うのだ。
そんな森博嗣が、武士道をテーマに据えたというのは、なんとなく面白い。まさにこれは、日本人の本質そのものではないか、という気がするのだ。今武士道的な生き方を実践しているという人はそう多くはないだろうけど、でも、感覚としてはなんとなく継承され続けているのではないか、という気がする。もちろん、僕らのような凡人にはなかなかその感覚を言語に置き換えることは出来ないのだけど、森博嗣の文章を読むと、なんとなく自分の中の武士道的な感覚が引き出されるような感じがする。生花は、花そのものではなく花と花の間の隙間や感覚を鑑賞するものなのだ、というような話をどこかで聞いたことがあるような気がするけど、そういう日本的な様式美を彷彿とさせる思想や文章は、なんだか読んでいて心地がいい。
もちろん、森博嗣が描く文章や感覚をすべて理解できるわけではない。というか、「スカイクロラ」シリーズの時もそうだったけど、ほとんど理解できてないかもしれない。でも、まあそれでもいいやという気になる。そんなにすぐ近づけるはずのないことを描いているはずなのだ、森博嗣は。自分とそれとの間の隔たりを感知することが出来る、それこそが森博嗣の小説を読む醍醐味であり、そこにこそ価値があるのかもしれない、と思っている。だから、理解出来ないことが普通。その遠さを垣間見せてくれることに感謝、という感じだろうか。
本書のもう一端の面白さは、価値観の相違に光を当てている、という点だと思う。これも、「スカイクロラ」シリーズや他の作品でもそうなのだけど、本書ではそれがなかなか際立っている。
主人公は、ずっと山奥でカシュウという男と二人きりで過ごしてきた。カシュウはゼンに様々なことを教えたが、しかしそれにも限界がある。ゼンの知識や価値観は、かなり狭い世界で醸造されたものなのだ。
そんなゼンが、里へと下り、それまで経験することのなかった多くの他人に囲まれた生活をすることになる。そこでゼンが抱く疑問の多くは、僕らが当然だと思っていることに別の角度から光を当てることになる。
そういう描写を幾度も読むと、僕らが当然だと思っていることがいかに『作られたもの』であるかということが理解できるようになる。僕らにとっての常識や慣習というのは、『そうせざるおえない』という空気の読み合いや、あるいは『そうすることになっている』という思考停止によって生み出されている。それが必然だ、という事柄は決して多くはない。いちいち、常識や慣習に疑問を抱いていると前に進めなくなってしまうから、僕らはそういうことを深く考えることはあまりない。しかし、ゼンの素朴な疑問に幾度も出くわすと、もっと違った必然の形があるのではないか、という気になってくる。そういう視点を与えてくれるという意味でも、やっぱり森博嗣の作品は面白し新鮮だと思う。
ストーリーだけ抜き出せば、庇護者を失ったゼンが山を下り、色んな人と関わり合いながら旅を続ける、というだけの話だ。ストーリーそのものに、何か強い引力があるわけではない。でもやはり、森博嗣の独特の思想や感性が垣間見える文章は読んでいて気持ちいいし、ストーリーの展開ではなく、主人公の思考の展開がどうなっていくのかという興味で読まされてしまう。話がどんな風に続いていくのか分からないけど、続きも楽しみです。
「スカイクロラ」シリーズが好きな人には、好きな世界観ではないかなと思います。詩的でたゆたうような文章に身を任せてフワフワとした世界観を漂ってください。是非読んでみてください。

森博嗣「ヴォイド・シェイパ」

内容に入ろうと思います。
弓が丘第一中学校の水泳部は、苦労を重ねている。
プールのない弓が丘第一中学校には、元々水泳部はなかった。愛好会だけが存在し、近くのプールを借りて水泳を楽しむ、そんな状況だった。
それを、タケルがたった二年で変えてしまった。
タケルは、内申書目当てや泳ぐことをただ単純に楽しもうとする部員たちを、一人前の選手に育て上げ、各種大会で記録を作り、そうやって、愛好会を部に変えてしまったのだ。
しかしそのタケルは、交通事故で死んでしまった。
元々個人競技としての水泳にしか興味がなく、タケルが後輩への指導に熱心だった頃も、一人でただひたすら泳いでいただけの龍一は、水泳部顧問の柳田から、水泳部を愛好会に戻すと宣告されてしまう。都大会に出場したかった龍一は、タケルがいなくなり後輩がどんどんと退部届を出しているという今の状況を、とりあえずなんとかしようと思った。
しかし、後輩の名前も覚えておらず、タケルのような求心力もない龍一の言葉は逆効果で、水泳部が廃部になるかもしれない、という話をしたことで、一層の退部希望者を生み出すことになってしまった。
残ったのは、二年間タケルと二人三脚で水泳部を指導してきた敦子と、それまで選手でさえなかった、とても戦力にはなりそうにない二年生三人だけだった。
初めは、自身が都大会に出るためだけに部そ存続させようとしていた龍一だったが、顧問の態度や、新たに関わることになる人物とのやり取りなどから、なんとしてでも水泳部を残してやろうと決意する。
売り言葉に買い言葉で顧問の柳田と約束してしまった、水泳部存続の条件。それは、市内で行われる水泳イベント・弓が丘杯のリレーで優勝すること…。
というような話です。
いやー、これはメチャクチャ面白かった!部員集めから話が始まるんで、全体の三分の二ぐらいまで全然水泳をしないんだけど、その過程が凄くいい。たぶん水泳をやってる人からすれば、初めあんなダメダメだった連中が、短期間でこんな強くなるわけないだろ!みたいなツッコミが入ったりするのかもだけど、僕はあんまりそういう部分は気にならないし、ストーリーもキャラクターも凄くいいんで、最後まで楽しんで読めました。中盤以降はほぼずっと、ウルウルしながら読んでましたよ。読んでいる途中で、加納朋子の「少年少女飛行倶楽部」を連想しました。
ネタバレになってしまうから書けないある人物の話が、やっぱり一番好きだなと思う。たぶんそいつの話がなければ、本書の魅力の半分は失われていたんじゃないかな、と思います。

『水中にいる時だけ、重力を忘れられる。
生きづらさという名の、重力を。』

読んでる時に思いついたフレーズなんだけど、そんな感じなんです。そいつは本当に、ただ生きていくということが茨の道というか苦しみの連続みたいな奴で、ホントに大変だと思う。しかもそいつは、無駄に○○だったりするわけで、普通だったら嬉しいはずのその事実が、そいつにとっては余計な足かせになっている。
僕は、そいつとは全然違う形だけど、やっぱりある種の生きづらさみたいなのをずっと抱えていて、しかもそれを、自分でもなかなかうまく言葉に出来ないし、だから周囲の人間にきちんと理由を分かってもらうことは難しいだろうしで、全然同じ境遇ではないんだけど、凄く分かる感じがした。自分が変わることが出来ないという事実を曲げないために、ありとあらゆる妥協をし、ありとあらゆる不都合に目をつぶるしかない生き方というのは、僕もまあ似たようなところがあって、そいつの生き方にはなんか凄く共感できてしまった。
そいつが、水泳部と関わることで得たものの大きさは、ちょっと計り知れない。そいつが、もう得ることが出来ないだろうと思ってた様々なものがどんどんと近づいてくる状況は、嬉しくもあるだろうし、ちょっと怖くもあるだろうと思う。そういうバランスが凄くよく描けていたと思うし、たぶんそいつと話す機会があったら、全然境遇は違うのに、ものすっごく話が合うんじゃないか、とか思ってしまいました。
あー、しかし、ここで書いている『そいつ』の話に真っ向から言及できないのは歯がゆいなぁ。もっと色々書きたいことはある気がするんだけど、さすがにそれをネタバレしちゃうのはマズすぎるだろうし。
そいつに関する部分で言うともう一つ、僕が勝手に受け取ったメッセージがある。それが、

『今を生きろ』

というものだ。
僕は学生時代、『未来の自分の生活を守るために、今を生きている』ような人間だった。そして今、本当にそういう人は多いと思う。本書でも、春日というのがそういう人間の代表として描かれている。
そういう生き方を、別に否定するつもりはまったくない。春日も言っていたけど、この格差社会を生き抜くには、もうこうするしかないんだ、というのは、その通りだと思う。若いうちにどれだけ頑張れるかで、将来は自ずと決まっていく。別にそれは格差社会じゃなくたってそうだろうけど、今の日本は余計にそういう傾向が強くあるんだと思う。
でも、僕は思ってしまうのだ。『未来の自分』には、いつ辿りつけるんだろう、って。
僕はもうそろそろ30歳になるんだけど、まだまだ自分には『未来の自分』があるな、と思う(別に肯定的な意味でというわけではないけども)。たぶんそれは、50歳になっても同じじゃないかと思う。たぶん人間は、そろそろ自分は死ぬな、という年齢まで生きないと、『未来の自分』の不在を認識できないと思うのだ。
でもそうだとすれば、いつまで『未来の自分』のために生き続ければいいのだろう?50歳になっても、まだ僕たちは『未来の自分』のために生きなくてはならないのだろうか?
そういう生き方を否定するつもりはまったくないけども、僕にはそういう生き方は性に合わなかった。だから僕は、大学時代に色んなものを全部放り投げて、『今の自分』のために生きることにした(まあ、その当時はこうやって言葉に出来るほど自分の行動をきちんと理解していたわけではないけども)。
今僕は、ふらふらと適当に生きている。正直、未来はあやふやだろう。でも、『未来の自分のために生きる』という足かせを取り去ることが出来た僕は、その分浮力を感じている。見せかけかもしれないけど、自由を感じている。傍から見れば、僕の生き方は決して褒められたものではないかもしれないけど、今僕は楽しく生きているし、それで十分だと思う。
本書に、シャールさんという人が出てくる。これまたこの人がどんな人物なのかはここでは書けないのだけど、このシャールさんの言葉は、僕のそういう考え方になんか近い気がして、そうだよなぁと頷いてしまう部分が多かった。僕は正直、こういう『まっとうな大人』になりたい、と思っている。
さらに、龍一にも、僕はかなり近いものを感じるのでした。龍一は、自分が大会に出れさえすれば、後のことはどうだっていい、という超自己中心的な人間で、正直僕も、あまり表面には出さないように努力はしているつもりなんだけど(とはいえ、バイト先ではそういう部分は結構出てるだろうなぁ)、かなり龍一に近い人間です。
その龍一が、水泳部を立て直していく過程でどんどんと変わっていくんだけど、なんかちょっと羨ましく思えてきました。龍一は、もし水泳部の立て直しというきっかけがなければ、ずっとあのままの性格だったことでしょう。僕は、自分の人生に、そういうきっかけみたいな何かはあっただろうか、とちょっと考えてしまいました。僕が気づかなかっただけで、僕の人生の中にも、そういう変われるきっかけみたいなものはどこかにあったのかもしれないよなぁ、とか思ってしまいました。まあ僕はもう、変わろうなんていう意思も気力もないわけで、このままで別にいいんですけどね。
龍一は、とある場面でこんなことを思います。

『瞬間、龍一は急激に逆らいたくなった。
自分を巻きにくる長いものに、力いっぱい逆らいたくなってきた。
そうしないと…。
本当に、息が詰まってしまいそうだった。』

こういう感覚も、なんか凄く分かるのだ。こういう場面なら、僕の人生には山ほどあった。その度に、衝突したり反発したりと、面倒なことになるのは分かってるんだけど、でもそうしないではいられないというような状況には何度も遭遇することになった。今振り返ってみて、その時々の判断(というか、激情か?)が正当だったかどうか、もはや自分の中ではよく分からなくなっているんだけど、それでも、その時の自分には、そうするしか選択肢がなかったはずだよな、とも思うのだ。そういう意味で、龍一にも親しみを覚えてしまうのだった。
というわけで、自分の話ばっかり書いて、本書についてはほとんど触れてませんね(笑)
ストーリーは、格別目新しいというわけではないと思うんですね。そもそもスポーツ小説で、ストーリーの骨格そのものを目新しくするなんてのは難問で、そういう意味では、広くスポーツ小説の王道的な展開だ、と言っていいかもです(あくまでも広い意味でであって、決して本書のストーリー展開は王道とは言えないと思うけども)。
しかし、とにかくキャラクターがみんな素晴らしすぎるんで、グイグイと読まされてしまいます。
水泳部に関わる面々を全員ここで書いてしまうと、消去法で上記の「そいつ」が誰なのか分かっちゃう感じがあるだろうから、ほどほどに紹介するとして、僕が一番好きなのは有人です。初めはとにかく、ただのおちゃらけ要員でしかなかった有人なんだけど、最終的には部になくてはならない存在になる。有人のどんな時でも失われることのない明るさの背景も描かれいて、余計に愛着が湧きます。
あと、ちょっと渋いところでは莉子も凄くいい。こんなに存在感の薄いキャラクターが、逆の意味でここまで存在感を放つというのは、ちょっと凄いなぁと思います(笑)。龍一が最後の方で、莉子のような人間こそラスボス的なキャラなんじゃないか、と言ってるのが、なんか凄く納得できました。
他にも、水泳部のメンバーに限らず、素敵なキャラクターが結構出てきます。個人的には、龍一の母親は結構ツボでした。龍一と龍一の母とのやり取りでは、結構笑わせてもらったなぁ。
そんなわけで、僕にとってはかなりジャストフィットする素晴らしい作品でした!全然水泳をしない水泳小説ですが(笑)、最後の弓が丘杯の描写は本当に感動させられるし、部員集めに関わるストーリーは本当に素敵です!加納朋子の「少年少女飛行倶楽部」とか、三浦しをんの「風が強く吹いている」なんかが好きな人なら結構ハマるんじゃないかなと思います。是非読んでみてください!

古内一絵「快晴フライング」

内容に入ろうと思います。
主人公の亮介は、ドッグラン付きの喫茶店を営んでいる。つい最近まで、何事もなく幸せに生活していたのだけど、ある日突然婚約者が失踪し、母が交通事故で亡くなり、父の癌が発覚した。本当に突然、何もかもがうまくいかなくなってしまった。
祖母も入院しており、かつては三世代が住んでいた家には、今や父が住んでいるだけで、亮介と弟は時々実家に帰るのみ。
ある日亮介は、父の留守中、ふと父の部屋に入ってみた。なんとなく開けて見てみた押入れから、母の名前が書かれた断髪と、4冊のノートが出てきた。
なんとなく、嫌な予感がした。なにせその髪は、黒々としていたのだ。亡くなった時すでに白髪のあった母のものだとすると、何かおかしい。
ノートを開いてみて、亮介は驚愕した。
それは、ある人物が書いた手記だった。誰が書いているのか、よくはわからない。しかしその手記で書き手は、自分は幾人もの人を殺してきた殺人者だ、と語っているのだ…。
というような話です。
なんとも評価しにくい作品なんだよなぁ。
僕がとにかく気になってしまった点が、亮介が感じている焦燥・恐怖・不安みたいなものが、僕にはイマイチ理解できなかった、ということ。たぶんこの部分をどう感じるかで、作品に対する評価が結構変わるような気がするんです。
亮介は、手記を読み始めてから、もの凄く不安に襲われるわけです。これを書いたのは身内の誰かではないか、その誰かは恐ろしい殺人犯なのかもしれない、と。確かにそういうことに不安を感じる人がいるだろうということは分からなくはないんだけど、残念ながら僕はそういう人間じゃないんですね。どっちかと言えば弟の洋平みたいに、「そんなの小説に決まってるじゃん。兄貴そんなのにビビっちゃってるわけ?(こんな喋り方はしないけど)」っていう感じなんです。亮介は手記を読んで、どんどん追い詰められたり、真実を探そうと色々と行動をするわけなんですけども、僕にはその行動原理となる焦燥・不安・恐怖みたいなものにぼんやりとしか寄り添えなかったんで、どうしても作品をそこまで楽しめなかったなぁ、という感じがしました。どう考えても、亮介はちょっと不安になりすぎだろうよ、と思ってしまうのだよなぁ。
手記はなかなか面白いと思いました。どうせなら、手記の部分がもっとあっても良かったかも、と思うくらい。書き手の狂気がうまく伝わってくる感じで、そういう狂気は結構好きだったりするんで、面白く読みました。手記以外の部分で描かれる展開には、それはリアリティ的にちょっと厳しくはなかろうか、と思うような点もチラホラあったんだけど、手記内部の話については、かなり異常で現実からかけ離れている世界を描いているはずなのに、結構すんなり受け入れられる感じがありました。やっぱり、手記の世界観はかなりうまく作られているんだろうなぁ、と思いました。
手記の部分だけ抜き出せばかなり質は高いと思うんですが、小説全体としては、僕はちょっとあんまり合わなかったです。手記を見つけた亮介の不安や焦燥感みたいなものをきっちり捉えられる人が読めば、きっと面白く読めるんだろうと思います。

沼田まほかる「ユリゴコロ」

内容に入ろうと思います。
本書は、「プロトコル」と世界を同じくする続編的な作品で、4編の短編が収録された連作短編集です。「プロトコル」では、ネット通販会社に勤める、放浪癖のある父を持つ有村ちさとを主人公にした物語が展開されるのだけど、本書では、そのプロトコルで描かれた人たちのそれぞれの物語が描かれます。

「青い草の国へ」
有村ちさとの父・騏一郎は、父にしか見えない幻影・ブラントン将軍とともに、世界各国を放浪していた時期がある。その父の放浪癖は、ちさとにもの凄く大きな負担を強いることになったが、そのことを強く恨んでいるかというとそこまででもない。
ここでは、騏一郎がアメリカでの8年に及ぶ放浪を終わらせたその物語が描かれていく。ブラントン将軍の故郷へと向かうことにした騏一郎は、フィルキンズボロという小さな町へ向かった。ブラントン将軍との関係が少しずつ変わっていくことを自覚しながら、騏一郎はそこで旅費を稼ぐため、外国人相手に奇妙な商売を始める…。

「オズのおまわりさん」
有村ちさとが勤めるネット通販会社で、ちさとが初めに配属されたのがカスタマーセンター。そこの上司であった村瀬瑛子は、バブルの狂熱時代に散々遊び倒した後、今の会社に就職、今では社内初の係長となり、一般職の女性社員としての先鞭をつけるべく奮闘してきたという自負がある。
そんな村瀬は、離婚し息子を育てる一方で、課内の13歳年下の男と先行きのない関係を続けている。そして何故か、その年下の男と一緒にいると、有村ちさとのことが意識されるのだ。
ある日家に帰ってみると、息子の姿が見えなくて…。

「おんれいの復讐」
有村ちさとの妹・ももかは、行き当たりばったりで物事を深く考えず、都合が悪くなると無理やり辻褄を合わせるような、姉の目から見てもちょっといかんともしがたい人間だ。今も、ミュージシャンを自称している碌に仕事もしていない男と、結婚のあてもないまま付き合っている。そしてこのももかは、ちさとにとんでもない迷惑を掛けたこともあるのだ。
子供の頃ももかは、何でもきちんと出来てしまう姉を疎ましく思うことが時々あった。でもある日、姉のクラスメートから、姉がいじめられているということを知り、ももかはなんとかしてあげたいと思った。友達からもらったおまじないの本に載っていた呪いを実行しようとして途中で飽きてしまったのだけど…。

「前世で逢えたら」
有村ちさとは、妹が関わったとあるとんでもない事件をきっかけに沖津誠と出会い、交際に至っている。誠との交際については、出会いが出会いであるので、どうも周囲にうまく説明できないでいる。そのせいで、誠に対してある違和感を覚えた時も、友人に相談することが出来ないでいた。
とあるひょんなきっかけからその違和感の謎は解け、ついでに『マリオ』と名乗る誠の友人と知り合うことになった。アルトサックスを吹いているというマリオのライブに行ってみたちさとは…。

というような話です。
「プロトコル」も良い作品でしたけど、こちらも良い作品だったなと思います。なんというか、物語が実に綺麗な形をしているような、そういう印象を受けました。
有村ちさと自身がちゃんと出てくる話は、三つ目の妹視点の話と最後のちさと視点のものしかないけど、やっぱり有村ちさといいなぁ、と思いますね。こういう女性は素敵だと思います。有村ちさとをどういう女性なのかと説明するのはあまり簡単ではないけど、窮屈そうなところが僕はいいなぁと思います。
有村ちさとはもの凄く真面目で、論理的。だからこそ、一貫性というのを結構大事にしていると感じられる(これは僕自身もそういう人間だから余計にそう思うのかもしれないけど)。筋が通れば自分の意に沿わないことで合っても仕方ないと言って受け入れることが出来るけど、筋が通らないことについては何がどうなっても納得できないという頑なな感じは、まあ正直言って近くにいたら色々面倒だろうけど(笑)、でも僕は結構好感が持てるんですね。
逆に、ももかみたいな女性はダメなんです。ももかはちょっと極端にダメ過ぎると思うけど、こういう人って少なくはないよなとも思うんです。とにかくももかの生き方で好きになれないのは、一貫性のなさ。意見がころころ変わったり(そりゃあ人間だから意見は変わるだろうけど、特に考えなしに意見が変わるのがどうも)、そもそも何も考えてなかったりという言動は、僕にはちょっと耐え難いなぁという感じがします。
だからこそ、妹視点で描かれた三つ目の話は、ちさととももかが実に対照的に描かれていることが分かって、凄く面白いなと思います。まあ、ももかだって可愛げのあるところはあるけども、やっぱりちょっと杓子定規でもちさとの方が遥かにいいなぁ、と思っちゃいますね。
本書では、矮小な人間が描かれている、という感じがしました。矮小って言葉は、普通あんまり良い意味では使われないだろうけど、僕はここでは、それを結構良い意味で使っています。なんだろう、人間ってそもそも矮小な生き物だろうし、ちゃんとしているように見える人にだってどこかしらそういう部分があるはず。本書の四つのそれぞれの話で、そういう人間の本質的な矮小さみたいなものにグッと迫るような感じになっていて、素敵だと思います。
どの話も、ストーリーだけ抜き出したら、別にどうってことはない話なんです。ホントに、それぞれの人たちにとっての日常を切り取っているという感じで、さしたる起伏はありません。でも、その些細な物語の過程で、人間ってしょうがないよね、なんて思えるような部分を切り取って提示して見せているところが凄く巧いなと感じました。些細な部分の積み重ねによって、彼らにとっての日常の輪郭をはっきりさせるのが凄く巧くて、やっぱ平山瑞穂は巧みな作家だなぁと改めて思います。
個人的にはやっぱり、一番最後のちさと視点の話が好きですね。ちさとは、言い訳する必要性のないことについて必要以上に言い訳をしているようなそんな印象の生き方をしていて、その不器用さがなんとも言えず愉快です。ちさとが友人に「もの凄く変わってる」と言われてちょっと憤慨しているというような場面があるんだけど、これは僕の経験上、変わっている人の特徴みたいなところがあって、そうだよなぁ、とか思いながら読んでました。僕は変人好きなんで、自分の周りに変人がいると嬉しくなっちゃうんですけど、そういう人は大抵、自分のことを「普通」だって思ってるんですよね。
「プロトコル」を読んでなくても特別不都合はないと思うけど、僕個人としては、やっぱり「プロトコル」を読んでからこっちを読んで欲しいですね。有村ちさとの不器用な生き方にかなり好感が持てるだろうし、有村ちさとの父・元上司・妹と、まあなかなかに変わった人間が描かれるんで(元上司はそんなに変わってないかもだけど)、楽しく読めると思います。特にこれと言った起伏があるわけでもない物語をここまで読ませるのは、やっぱり著者の力量だろうなぁと思います。是非読んでみてください。

平山瑞穂「有村ちさとによると世界は」

内容に入ろうと思います。
本書は、4編の短編が収録された連作短編集。表題作である「漂流巌流島」でミステリーズ!新人賞を受賞しデビューした作家です。
まず大まかな設定から。主人公は、シナリオライターの僕。低額の予算と短い日程で早く撮ることに掛けては職人気質の三津木監督に頼まれて、監督が担当するチャンバラモノのオムニバス作品の時代考証をさせられることになる。本当は監督が担当する作品はオムニバスの一編だけだったはずなのだけど、色々とゴタゴタがあって、結局オムニバス4編すべてを三津木監督が手がけることになり、僕の時代考証も大変なことになるのだけど…。
僕は、様々な資料に当たる。そのオムニバスは、一応『実録』ということになっていて、一般的なイメージとは異なる、本当の姿に光を当てよう、という趣旨だ。だから僕は、それぞれの事件の原典とでもいうべき資料に当たり続ける。それを僕がレポートにまとめて三津木監督とダベっている中で、三津木監督が、その事件に隠された真相を見抜く、という筋立てです。
以下、それぞれの内容を紹介しますが、僕は本当に歴史の知識がまったくと言っていいほどないので、何か間違ったことを書くかもしれませんが、その辺はご容赦くださいまし。というか、歴史の知識がなさすぎて、それぞれの事件について詳細を書けないと思いますが…。

「漂流巌流島」
宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島での戦いは有名だ。宮本武蔵が遅れてやってきて小次郎をイライラさせる戦法を取ったという話なんかは今でも伝わっている。しかし、巌流島での決戦の資料に当たると、様々に矛盾する記述が出てくる。宮本武蔵は遅れて来なかっただの、小次郎は殺されたいや殺されていないだの、様々な記述がある。
ここでの主眼は、『巌流島での決戦の真実は、いかなるものだったのか?』

「亡霊忠臣蔵」
赤穂浪士による討入りと、その47年後に起こった殿中でのある刃傷沙汰が描かれる。47年後に起こった刃傷沙汰は、不可思議な点が多くある(あぁ、その不可解さをうまく説明できない)。僕と三津木監督は、まず赤穂浪士の討入りについて検討する。そしてその検討の過程で、47年後に起こった刃傷沙汰の真実が浮かび上がるのだ。
ここでの主眼は、『赤穂浪士による討入りの本来の目的はなんだったのか?そして47年後に起こった刃傷沙汰の真実とは?』

「慟哭新選組」
新選組による池田屋事件。様々な形で物語として描かれるが、資料を検討していくと、広く世間に伝わっているイメージがどうもおかしいぞということに気づく。池田屋から逃げ延びた人間は何故こんなにも多いのか、近藤勇はどうしてたった4人で池田屋に乗り込んだのか。
三津木監督は、近藤勇の出生にまで遡って、池田屋事件の真実を探ろうとする。
ここでの主眼は、『池田屋を襲撃した近藤勇は、一体何を考えていたのか?』

「彷徨鍵屋ノ辻」
日本三大仇討ちに数えられる。鍵屋ノ辻の仇討ち。僕は様々な資料に当たる過程で、この事件の構図がなんとなく見えてきた。自分が抱いた違和感からどうその真相にたどり着いたのか、三津木監督に説明する僕だったが、しかし三津木監督は別のことを考えていた。僕にも、唯一の疑問として残った、討入り側のヒーローである荒木又右衛門が、仇討ちを成し遂げた直後どうしてすぐに死んでしまったのか、という点を、まったく別の観点から暴きだしたのだ。
ここでの主眼は、『仇討ちを成功に導いたヒーローは、何故その直後不審な死を遂げたのか?』

というような話です。
いやはや、いやはや、これはですね、すっげー面白かったですよ!
僕は、さっきも書きましたけど、歴史の知識はホントまったくないんです。高校とかでも、日本史・世界史とも授業を受けた記憶がない。地理とか政経ばっかりやってたんで、中学レベル程度の歴史の知識しかないんです。それに、元々歴史自体に興味も持てない人間なんで、巌流島での決戦も赤穂浪士の討入りも新選組による池田屋事件も鍵屋ノ辻の討入りも、基本的なことさえほとんど知らない状態で本書を読みました。まあそんな人間なんで、歴史的な事実に関する描写については、結構苦労したり、ついていけなかったりする部分は多々ありました。正直、歴史が苦手な僕のような人間には、ちょっと読むのに苦労する作品かもしれません。
それでも、三津木監督が解きほぐす『もしかしたらこうだったんじゃねーの』的な真相が仰天させられるものばかりで、滅茶苦茶楽しめました。僕のように、歴史的な事実をほとんど知らなくても(僕なんか、忠臣蔵の話とかマジ何も知りませんからね。大石内蔵助って名前がなんとなく出てくるぐらい。人数も、47人なんだか48人なんだか忘れるし)、作中で基本的なこと、一般的なイメージについてもきちんと説明してくれるんで、すんなり、とはいかないまでも(あくまでそれは、僕のように、歴史の知識が皆無な人間には、ということ。歴史の知識を普通程度に持ってる人なら、普通に読めると思います)、三津木監督が提示する驚愕の真相を楽しめる程度には概要を理解できるようになると思います。
僕がそもそも歴史を好きになれないのは、『どうやったって本当のことは分からないし、曖昧な解釈をするしかないんでしょ、歴史って』っていうような認識があるからです(これは、本書を読んだ今でもあります)。だって、所詮人が書いた文章を後から色々解釈して、こーだったあーだったって話をしてるわけですよね?文章に嘘があるかもしれないし、勘違いもあるかもしれないし、本人が書いてるからと言ってどこまで正確かなんて分からないと思うんです。結局答えの出ないことについて、あーだこーだ決め手のない議論をしている、というイメージがずっとあって、それで今でも歴史は好きになれません。
でも本書は、『歴史って、解釈の余地があるからこそ面白れーんじゃねーの』っていうことの一端を思い知らせてくれた、という感じがあります。本書では、それぞれの事件についての一般的なイメージは基本的に脇に置いて、あくまでも原典の記述を重視して、そこから論理的な帰結としてどういう解釈を得られるか、という知的な議論をしています。原典という与えられた条件を元に、最大限納得の行く仮説を導きだす、ということですね。これはまさに、解釈の余地があるからこそ出来ることなんだろうと思います。別に本書を読んだからと言って歴史が好きになったりはしませんが、こういう楽しみ方もあるんだな、と思いました。
僕が一番衝撃を受けた話は、「亡霊忠臣蔵」です。これは凄かった。もう最後に、色んなことがまさに反転するという感じなんです。ここの話では、赤穂浪士の討入りの話はあくまでも前フリで、メインとなるのは47年後に起こった刃傷沙汰の方なんですけど、これが赤穂浪士の討入りの話と見事に繋がる。刃傷沙汰だけを単独で見れば不可解でしかなかった部分が、赤穂浪士の討入りをきちんと捉え直した上で眺めると反転するんです。あの、壺にも二人の人が向かい合ってる風にも見える有名な絵がありますけど、まさにあんな感じで、今まで壺にしか見えなかったものが、突然向かい合ってる人が見えて、うぉっ!って感じになりました。
次に良かったのは、「漂流巌流島」です。これは、とにかく色んな描かれ方をする巌流島での決戦について、まったく新しい視点から解釈を試みたもので、ここで描かれる真相はなかなかに衝撃的で、しかし納得できてしまうものです。色々と矛盾する記述が、三津木監督が提示するある仮説を通して見ると、色んなことがスッキリする。宮本武蔵のイメージが自分の中で二転三転するのも、凄く面白いと思いました。
真相の衝撃度ナンバーワンで言えば、「彷徨鍵屋ノ辻」でしょうか。これは、歴史的な描写を理解するのが僕にはかなり厳しくて、作品全体として見た場合、「亡霊忠臣蔵」や「漂流巌流島」より僕の中では落ちるんですが、三津木監督が提示する仮説の衝撃度で言えばナンバーワンではないかという気がします。この話は珍しく、シナリオライターの僕がある程度真相を看破するんですが、三津木監督はその何重も上の真相を提示するんですね。滅茶苦茶アクロバティックに見えるんですが、もの凄く辻褄が合っているように見える。しかも、そこにたどり着くための論証が緻密で(他の話も緻密なんだけど、これが一番緻密かもしれないと思った)、議論として見事だよなぁ、と感じました。
「慟哭新選組」だけは、僕はあんまり面白さを感じられなかったです。そもそも攘夷だ尊皇だというような事柄についての知識さえほぼない僕としては、最後に提示される仮説の衝撃度があまり理解できなかったといいますか。これを読み終わった時は、あーもう少し歴史の知識があればなぁ、と思ったものでした。
一言で表現すれば、鯨統一郎の「邪馬台国はどこですか?」と同系統の作品です。「邪馬台国~」はもうかなり昔に読んだんでちゃんと比較は出来ませんが、「邪馬台国~」の方がもっと短い話がいくつもあった気がするんで、濃密さという点では本書の方が上かもしれません(別に、だから本書の方が優れている、なんて言いたいわけではないんですけど)。「邪馬台国~」を読んだ時にも思いましたけど、歴史にまったく興味のない僕にもこれだけ面白く読ませる作品を書くというのは凄いなと思います。たぶん、歴史の知識がそれなりにきちんとある人が読む方が、もっともっと面白いんだと思います。これは、新人のデビュー作としてはちょっと破格かもしれません。是非読んでみてください。

高井忍「漂流巌流島」

内容に入ろうと思います。
九州に住む高校生・向井広幸は、母を失い、そのために東京に移ることになった。九州で過ごす最後の日々を、公園でのトレーニングに費やしていた。そんなある日そこで、戸浦という男と出会う。やがて向井はとあるきっかけから、戸浦が指名手配犯であることを知るが、警察に通報するもすんでのところで逃げられてしまう。
向井は、九州を去るほんの少し前から仲良くなった一野瀬佳奈と東京で再開することになった。しかし佳奈は、向井の目の前で戸浦に殺されてしまう。失意の復讐者となった向井は、執念だけを胸に長い時間を掛けて色んな人間を追い詰めるのだが…。
というような話です。
ストーリーがかなり長く、登場人物も結構多いんで、内容の紹介が結構しにくい作品です。
なかなかよく出来た作品だという感じがしました。そこそこ読ませる作品であると思います。
九州で一人の高校生が指名手配犯に出会った、という出来事が、様々な人間の人生に少しずつ影響を及ぼしていきます。歌手になった人や、ノンフィクションライターを目指す人、その他色んな形で向井やその周辺の人間と関わることになる人たちの人生の断片が描かれていくことになります。
それぞれ皆、個別の必死さを抱えていて、大きな悩みだったり些細な悩みだったり色々だけど、皆自分の世界の中で苦労している。幻影に怯える人もいれば、勘違いから怒りを抱える人もいれば、実害を被る人もいる。ビリヤードの如く、白球が様々なボールにぶつかることで、ビリヤード台の上で色んなドラマが起こる。色んな思惑を秘めた人たちがそれぞれに行動をして、ぶつかり、大きな波を生み出していく。話が結構色んな方向に展開されるんで、個別に色々書くのがちょっとめんどくさいんで省略するけど、まあそれなりに読ませる作品だなという感じはします。
ただ、物語の展開がちょっと遅いのがもったいない気がしました。正直これだけの長さの作品なんで(文庫で600ページ)、冒頭から結構グイグイ引っ張っていかないと厳しい。僕のように、とりあえず最後まで読んでみることにしてみている人間ならともかく、初めのようで面白いかつまらないか判断して途中で読むのをやめちゃうような人には、ちょっと厳しいかもしれません。
特に冒頭、話が全然転がっていかない。向井と佳奈の日常的な描写から始まるわけなんだけど、ここの展開が遅いんだよなぁ。話が東京に移ってからも、それまでとは別の人物がメインで描かれるようになって、どういう方向に物語が進んでいくのがが読めない。半分ぐらいまで読むと、色んな登場人物の描写があらかた出揃って、ようやく色々転がっていく感じがするんだけど、そこまでがちょっと長いよなぁ、というのが正直な感想でした。
全体的には悪くないと思うんだけど、物語の展開がどうしても遅いんで、そこが読者を惹きつけるにはちょっと厳しいかなぁ、という気がしました。絶賛、というところまではちょっといかない感じです。新野剛志なら「あぽやん」の方が僕は好きだな。

新野剛志「FLY」

内容に入ろうと思います。
本書は、漫画家の山田玲司が、色んな『凄い人』に会いに行って対談し、それを漫画にした、対談漫画です。
何故いきなりVo.7なのか、というのは、僕がこれを人から借りて読んでるからで、それ以上の意味はありません。
先に書いておきましょう。こりゃあ凄いわ!こんな名言連発の漫画だとは思ってもみませんでした。「非属の才能」の著者なんだけど、どっちも凄い!
どんな人と対談してどんな話をしているのか、というのを書く前にまず、本書の精神を最も体現していると思われるつぶやきを著者本人がしている箇所があるんで、それを抜き出してみようと思います。

『やっぱり人は会ってみなきゃわからないよねぇ…』

これは、C・W・ニコル氏と対談している時に著者がつぶやいたことなんだけど、まさにその通りだと思います。とにかく本書の精神は、直に会って話を聞く。それに尽きる。本書では、僕がそれまでまったく知らなかった人もたくさん出てくるんだけど、みんなとにかく凄い。凄過ぎる。そして、話を聞くともっと凄い。そういう生き方をしてきた人だからこそ言える言葉、重みがまったく違う言葉が気負いなく放たれていて、シビれます、ホント。
まず、誰と対談したのか、ということを書きましょう。敬称は、まあ取材当時ということで。

千葉ロッテマリーンズ監督:ボビー・バレンタイン

作家・冒険家:C・W・ニコル

医師:レシャード・カレッド

脚本家(金八先生など):小山内美江子

ミュージシャン・作家:大槻ケンヂ

発明家:藤村靖之

NPOアサザ基金代表理事:飯島博

文部科学省大臣官房広報調整官:寺脇研

OPEN JAPAN代表:山田バウ

とにかく全編素晴らしいんだけど、以下ではとにかく、一般的には有名ではないだろう人(僕も全然知らなかった人)である、レシャード・カレッドさん、藤村靖之さん、飯島博さん、山田バウさんの四人を重点的に取り上げたいと思います。

まず、静岡で医師として働きつつ、日本全国の無医村へ出向き無料で診療、さらに老人ホームまで作ってしまう、アフガニスタン出身の医師・レイシャード・カレッドさんです。著者は、日本人のイスラム人に対する偏見を苦々しく思っていて、それもあってレイシャードさんに余計に素敵さを感じたようです。
素晴らしいことをいくつも言っています。

『日本の若者を追いつめているのは、「心の不景気」だと思いますね…』

『今の日本の子供は、「大人」を知らないですよ。見本になるような「大人」を見たことがない子が多い…』

『(アフガニスタンの学校では)ゴミだってえらい人から先に拾うんです』

『医者っていうのは本来病人の所に行くものであって、体の悪い病人がわざわざ来るのはおかしいでしょう…』

次は、一流大学の大学院を出て入った某大企業の研究室長の座を捨てて、子供のぜんそくを治すために発明家になり、非電化製品を発明し続けている、発明・藤村靖之さん。この人凄くて、電気を使わないで仕える掃除機・冷蔵庫・除湿機なんかを作り、モンゴルなど海外の人たちの暮らしをよくする活動をしているし(非電化冷蔵庫をモンゴルの会社に作ってもらい、それを羊二頭で売っているらしく、藤村さんの元にはお金は入らなかったり!)、イオン式空気清浄機「クリアベール」は、世界記録である250万台も売れたそうな。
この藤村さんの話は、まさに今喫緊の話題(喫緊って、使い方間違ってるかなぁ)だと思うんですね。まさか日本に住んでて、電気が足りない、なんていう事態に陥るなんて誰も思わなかったと思うんだけど、これから藤村さんの作っている非電化製品って話題になったりするのかもだなぁ。
電気について、こんな素敵なことを言ってます。

『私は「電気が悪い、非電化がいい」だから非電化を使いなさい…なんてことは、言いたくもないし、行ってもいないんです…「愉しいと思うほうを選んだらいい」という提案なんです。』

さて次は、かつて「瀕死の湖」と呼ばれていた霞ヶ浦を再生させる「アサザプロジェクト」を立ち上げ、絶対無理だという声をさんざん聞かされながら次々と成果を生み出し、飯島さんの立ち上げた「アサザ基金」は、日本で最も成功しているNPOの一つと言われている、その理事である、飯島博さん。
この人も凄かったなぁ。今は、40年後にコウノトリを野生復帰させ、100年後には霞ヶ浦にトキを呼び戻す、とか壮大な計画を進めているらしいんだけど、この人は、学校の管理教育に完全に馴染めずに、心の中に渦巻くモヤモヤと、指先がしびれるくらいの孤独を抱えながら生きていた時霞ヶ浦の現状を知り、それからは疾風怒濤の如く突き進んでいった人です。

『もし僕がその時、大人が喜ぶような生き方をしていたら、今の僕はなかったと思うんです』

そして最後に、山田バウさん。この人が一番凄いと思った。まさかこんな人が世の中にいるとは、という衝撃でしたね。
山田さんも飯島さんと同じく、学校では落ちこぼれというレッテルを貼られていた人。高校も辞めてしまった。外国を出てみたいと英語を勉強し、カナダでカヌーと出会う。山田さんは、日本にカヌーを初めて紹介した人であり、日本のカヌーコースのほとんどは山田さんが作ったらしいです。
その後、カヌーのお客さんだったある女性から、フロンガスの話を聞く。今ではフロンガスがオゾン層を破壊することは誰でも知ってるだろうけど、当時の日本はまだ、その深刻な問題に手をつけていなかった。
山田さんは即座に行動した。すぐに仕事を辞め、日本中の自治体を一人で回った。しかし、誰も話を聞いてくれず、山田さんを信頼してくれた人からの資金が底をついてしまった。
ここで、当時小学五年だった息子がとんでもないことを言う。
「父さん…この家、売ったら?」
それから山田さんはやり方を変え、それ以降本当にたった一人で1300もの自治体を動かしてしまったのだ!
しばらくのんびりするつもりだった山田さんに、神は次の仕事を与えていた。山田さんの故郷を、あの阪神大震災が襲ったのだ。すぐに被災地に飛び、行政がまとめることの出来なかったボランティアたちをまとめあげ、生きている人たちの支援を続けたのだった。
山田さんの言葉は、ちょっと凄過ぎる。

『「これをやる」と自分の中で宣言した時、本当はすでにできているものなんです。』

『僕はね…人生はレストランやと言うてるんです…レストランでカレーを注文したら、ちゃんとカレー出てきますでしょ?みんなそれを疑ってるんです。
「人生はレストラン」。注文したらそのとおりに出てくる!!みんな「注文」してないんですね』

この言葉は、ちょっと凄過ぎると思いましたね。本当に凄いことをしている人の言葉だから、素直に聞くことが出来るな、という感じがしました。
突然Vo.7から読み始めましたが、本書には「電気」と「地震」と関わる話があったりして、まさに今読むのがいい内容になっている感じがしました。「非属の才能」でも良いこと言うなぁ、という感じがしましたけど、本書では、対談自体を漫画にしているんで、本人自らがその言語を発しているということがより強く伝わってくるので、余計に強い言葉に感じられます。是非読んでみてください!特に今、モヤモヤしているすべての人へ!

山田玲司「絶望に効くクスリ Vo.7」

内容に入ろうと思います。
天文18年(1549年)、中信濃の豪族である遠藤吉弘の元へ、一人の男がやってきた。
石堂一徹。
元は、吉弘の娘・若菜が連れてきた男だった。当時の男としては異例なほどの巨躯を持つその男は、地面に伏して鳥の巣を見守っていた。その姿に打たれた若菜は、客人として一徹を招いたのだった。
石堂一徹は、全国にその名を轟かす豪勇の一人であった。
これまで関わってきた戦は数知れず、しかもそこで計り知れない功を成している。とてつもない男だという評判はここ中信濃まで聞こえていたのだ。
その一方で、石堂一徹という男は、2,3年で仕える主君が変わってしまう。何か性格的に問題でもあるのだろうか、と吉弘は思うのであるが、客人としてしばらく住まわせてみても、渋面を崩さないその有り様を除けば、特にこれと言った問題は見当たらない。
その後一徹は、吉弘に仕えることに決め、それでいて無禄を貫くのだった。
一徹への評価が大きく変わった出来事があった。
近隣の豪族である高橋広家が、遠藤家に奇襲を掛けるというのだ。しかもその時分、吉弘は自軍をあらかた引き連れ城を離れていた。一徹は軍略家として即断し、ほんの僅かな兵を使い、高橋勢の奇襲を防いだばかりか、逆に高橋広家の首を取ってしまった。
それからの一徹の活躍は恐ろしいものがあった。しかし一方で一徹は、周囲にまったく理解されない男であった。それまでの戦の価値観とはまったく異なる一徹の理には、一徹の功績を知っている者であっても容易には首肯しがたいものがあった。
一徹は孤独の中、秘めたる野心を胸に、自身の才能を解放させる。一徹の唯一の理解者である若菜は、一徹の孤独の中に入り込んでいき…。
というような話です。
いやはや、これはメチャクチャ面白かった!正直、まったく期待してなかったんです。期待してなかった理由は、別に本書の前評判がどうとかそういうことではまったくなくて、僕自身が時代小説があんまり得意ではないからです。
「のぼうの城」が出て以降、こういう新しいタイプの時代小説(エンタメ時代小説、というのかな)が結構出てくるようになったんだけど、僕は正直「のぼうの城」がそこまで素晴らしい作品だとは思えなかったのです。結構みんな絶賛してるんですけど、もちろん悪い作品ではないと思うけど、メチャクチャいいかというとそこまででもない。たぶんそれは、僕が時代小説をそこまでちゃんと理解出来ないからだろうなぁ、と思って、こういうタイプの作品を避けてたんです。
しかし!この作品はもの凄く良かった。何が良いってとにかく、一徹が素晴らしすぎるよホントに。
本書では、『価値観の相違』というのもが強く描かれることになります。それは言うまでもなく、一徹と一徹以外の人間との価値観の相違、ということです。
現代人からすれば、軍略なんかに知識がなくたって(僕はまったくないです)、一徹の言っていることが理にかなっている、と判断できると思います。例えばまだこの時代、功を成すというのは、名のある武将の首を取ることだ、というのが一般的でした。何をしようがとにかく、大将の首を取ったものが最も功績ある人間なのだ、と。
しかし一徹は、それを一笑する。例えば、吉弘がいない時に奇襲を受けた状況で、一徹が最も功績があると判断したのは、その奇襲の情報を伝えた間者でした。首を取ったかどうかはどうでもいい、戦の間それぞれの役割において最も重要な働きをしたのは誰なのか、それこそがもっとも重要である、と一徹は言います。
僕らからすれば、当たり前すぎるほどの当たり前だと思うでしょう。正直、首を取ったかどうかなんてのは、全体の貢献度から考えればどうということもない場合だってあるはず。一徹は、そういう当然の理屈を理解してもらおうとするのだけど、当時の常識とはあまりにも相容れないために、一徹は何かおかしなことを言っている、としか受け取られない。
それはなんと、一徹を使っている吉弘でさえそうなのだ。吉弘は、それでも他の者よりは一徹の理屈を理解するけども、それでも一徹に全幅の信頼を置くことが出来ない。吉弘の一徹への不安は、吉弘が当主であるという点にも関わっていてより色々複雑なものがあるんだけど、とにかく吉弘でさえ一徹を持て余してしまう。
そういう、価値観の相違が描かれるに連れて、一徹の不幸が理解できる。一徹は、自分の正しさを知っている。そしてそれを、ある程度理屈で説明することも出来る。しかしそもそもそういうものは、完全には理屈では説明しきれないし、なによりも一徹の理屈は当時の常識とはかけ離れすぎている。一徹が求めているものは、一徹に全幅の信頼を寄せ、戦のすべてを一徹に任せてくれる、そうした主君だ。しかし、なかなかそういう主君はいない。そういう主君に仕えさえすれば、自分の力を以てすれば主君に天下を取らせることなどそう難しいことではないはずなのだ。一徹の不幸は、そうした主君に出会うことが出来ないでいる、ということなのだ。
これは、結構多くの人が共感できてしまうことなんじゃないかとも思うんです。上司に自分の意見が通らないとか、正しいことを言っているのに周りを納得させられないとか。僕自身もまあそういうような経験があって、だからこそ、一徹の悲哀みたいなものは凄く理解できてしまうのでした。全編を通じて、一徹が抱える孤独が描かれていて、とにかくそれが素晴らしい。これほどの天賦の才が与えられながら、こんなに苦しい生き方を強いられなくてはならない一徹の人生に思いを馳せると、本当に切なくなる。
だからこそ、若菜の存在は本当に救いだ。吉弘に仕えるまではどうだったか知らないけど、吉弘に仕えて以降の一徹には、真の理解者は結局若菜しかいなかった。一徹の軍略家としての力量を慕ってくれる人間は少しいるものの、一徹の孤独や苦しさみたいなものを心底から理解できたのは結局若菜ただ一人だったわけです。
一徹と若菜のやり取りも素晴らしいのだけど(特に、言葉を介さずに互いの想いが伝わってしまう辺りは素敵)、若菜の場合一徹と関わっていない部分でも素晴らしいのだ。主君の吉弘は人心を掌握するのがうまく、戦よりも内政の方で評価されるべき人物であるのだけど、その吉弘以上に人心を把握しているのが若菜なのだ。そしてそれを、意識的にやっている。自分を、ある種辛い立ち位置に追い込んでいるという共通項が、若菜と一徹をより結びつけるのかもしれない、とも思います。
本書を読むと、色んな意味で『もどかしい』。一徹の正しさが理解されない生き方はもどかしいし、一徹と若菜の関係ももどかしい。常識とか慣習とか、そういう理屈と関係ない部分で正しさが打ち捨てられていくのが本当にやりきれないし切ない。物語の終わりは、本当に、なんとも言えない。もうなんというか、いいのかそれで、一徹!!!と言いたくなってしまう。もちろん、一徹の生き方からすれば、それはもう避けられなかったのだろう。まったく関係のない僕が、誰かを恨みたくなってしまうくらいです。でも、一徹は誰かを恨んだりしない。清々しい。こんな清冽な生き方はカッコイイぞちくしょー!
僕には正直、本書に出てくる人物の誰か実在の人物なのかまったく分からないぐらい時代オンチですが(武田ぐらいしか分からない)、それでもこれは凄く良かったです!普段時代小説を読まないという人にもオススメ出来ます(何故なら、僕がまさにそういう人間だからです)。これほど孤独で、しかし清冽な男が描かれた小説はなかなかないのではないかと思います。是非読んでみてください。

北沢秋「哄う合戦屋」

内容に入ろうと思います。
町田周吾は、食品会社に勤めるサラリーマン。パーキンソン病で母を亡くして以来、めっきりと老けこんでしまった父親の介護の問題に、頭を悩ませている。結婚した姉とは離れて暮らしており、現在は父親と二人暮らし。仕事で帰るのが遅くなるのが日常なのだが、そろそろ昼間父親を一人で家にいさせるのに危険な徴候が現れてきた。仕事中、父親が未知で転び病院に運ばれたという連絡をもらったことをきっかけに、父親のケアマネジャーとも相談し、近くにあるのぞみ苑という施設に預けることに決めた。のぞみ苑は介護老人保健施設であり、あくまでも短期入所が原則であって、のぞみ苑に預けるだけでは根本的な解決にはならないのだけども。
のぞみ苑で父親の担当をしてくれることになったのが、乾あかりという女性だ。妻と二人で必死になって建てた家を離れて暮らさなくてはいけなくなった父親は、のぞみ苑への入所を嫌がるが、あかりさんのことは信頼するようになっていく。あかりは、老人介護という激務を、『作業の繰り返し』にならないよう、入所者の気持ちになるべく寄り添ってやりたいと心を砕ける女性だ。そんなあかりのことを周吾も気になっていく。
あかりの娘・志保と関わるようになったのは、万引きがきっかけだった。のぞみ苑から帰るあかりを送る途中、娘が万引きしたとスーパーから連絡があった、とあかりに言われる。成り行きでスーパーまで付き添うことになった周吾は、志保という娘が人前ではなかなか喋ることが出来ない、場面緘黙症と呼ばれる情緒障害を抱えていたのだ。子供の頃、どうしてもどもってしまってうまく喋ることが出来なかった周吾は、そんな志保をなんとかしてあげたいと、自分に出来る範囲で志保と関わっていくことになる。
父親の介護をきっかけに出会ったあかり・志保の二人に、周吾は深く想いを寄せていくことになる。また父親の介護の方は、自身の仕事・姉の不在・社会の仕組み・父親の気持ちなどを考えると、にっちもさっちも行かないように思えてくる。父親の介護という、どうしても避けられない事をきっかけに、周吾は自らの生き方を問い直していき…。
というような話です。
盛田隆二の作品は初めて読みました。評価の高い作家だとは知っていたんですけどね。この作品は、静かに染み入ってくるような作品で、凄く良かったです。
正直、まだ20代の僕には、介護の話はメチャクチャ遠い。しかも僕は、まあ色々あって親と疎遠も疎遠、実家の方には弟(結婚してる)がいるから、まあ最悪弟に押し付けたろ、とか思ってる超薄情者なんで余計に遠いんですけども、でも、何らかの形で『避けられない事』として目の前に立ちはだかってくるんだろうなぁ、という予感はあります。たぶん、親と疎遠な僕以上に、普通の人にはもっと深刻な形で立ち現れるものなんだろうと思います。
『介護』というのは正直、あまり考えたくない事だと思うんです。本書の主人公である町田周吾も、基本的にはそういう人間だと思います。これから介護を取り巻く状況って、より厳しくなっていくと思うんです。若者の数は少ないのに、老人はメチャクチャ多い。しかも若者は、普通に生きていくだけでしんどいというような、そんな社会になってしまっています。今のお年寄りは、まだある程度お金を持っているだろうから、選択肢もまだあるやもしれません。でも、介護する側である子供の世代の方には、お金も時間も余裕がない。これからその格差は、どんどんと広がっていくのだろう、という感じがします。
本書でも、介護を取り巻く社会の仕組みのお粗末さみたいなものが指摘されていると思います。例えば、のぞみ苑は短期入所を前提とする施設であり、基本的には『終の棲家』を探すまでのつなぎなわけです。まあでも、それはいい。でも例えば、こんなシーンがある。父親が熱を出して、病院にいかなくてはいけない。のぞみ苑には、熱のある人は入所出来ないという決まりがあるから、周吾の父親は、入院するかどうかに関係なく、のぞみ苑を一時的に退所しなくてはいけない。病院で周吾は、2、3日様子を見ましょうと言われるが、仕事のために自宅で父親を見るのが不可能な周吾は、入院させてくれと医者に頼み込む。ようやく入院出来ることになったが、しかしその一方で、退院したらまたのぞみ苑に戻れるのかどうかは状況次第、ということになってしまう、というものだ。
これは、たぶんよくあることなんだろうと思うんです。病院だって施設だって、それぞれ利益を出さないと成り立っていかないし、そのために双方に言い分があるというのは分かる。でも、それによって、行き場を失ってしまう可能性が出てくる人というのが出てくることになる。もちろん、すべての人に平等な介護というのはそもそも難しいのだろうけども、こういうのをなんとか是正するのが国とか地方自治体の役割だろうと思うんですね。
そういう、周吾が直面する『介護の現実』というのが、実にリアルに描かれる。この本に訴求力があるのは、周吾の父親がそれほど大変な介護を必要とする状態ではない、という点だと思うんです。様々な状況から、ギリギリ家での介護が不可能なレベル、という辺りを描いているのが、自分にもこういうことがありうるのだな、と読者に思わせるのではないかと思います。これが、もの凄く大変な介護を要する設定であれば、人によっては、『ウチはこんな風にはならないはず』という根拠のない自信(現実逃避)から、作品に共感しにくい人もいるかもしれません。本書では、もっと軽いレベルの介護であっても、日常的にこれだけ大変なことがあり、色々と振り回されることになる、というそういう現実を切り取ってみせたという点が、介護なんて遠いなぁ、と思っている僕にも届くぐらいの力を持っているのだろうなぁ、という気がしました。
とはいえ、本書は確かに『介護』が主軸の一つになっている作品ではありますが、決してそれだけの話ではありません。個人的に一番好きなのは、志保の話です。
志保は、場面緘黙症という、なかなか聞きなれない情緒障害を持っている。志保は、家で母親と二人きりであれば普通に喋ることが出来る。でも、初めての人がいるとまったく喋れない。学校でもまったく喋れないし、スーパーのようなうるさくて人がたくさんいる場所も凄く苦手。そういう、なかなか外から察しにくい情緒障害を抱えている女の子です。
この志保が周吾と打ち解けていく過程は、凄くいい。僕は、名前のつくような障害とかそういうのは特にないんだけど、学校で友達を作るとか、自分の意見を言うとか、そういうのが本当に苦手な子供だったんで、なんかわかるなー、という感じもありました。もちろん、志保が抱えている世界の辛さは全然僕なんかには想像出来ないんでしょうけど、『はやくお婆さんになりたい』とか『50年も60年も我慢したくない』と言った志保の気持ちとか、結構寄り添えると思うんだよなぁ。また、志保と同じ目線で、志保がどうしたら喋れるようになるのか真剣に考えて向き合っていく周吾のあり方も、素敵だと思いました。なかなかあんな風に熱意を持って人と関わるって難しいと思うから、素晴らしいですね。
あかりも、凄くいいです。散々苦労してきて、今も情緒障害を持つ娘と二人で一生懸命生活しているあかりは、強いなと思います。なんというか、自分の弱さをきちんと知っているからこその強さみたいなものを凄く感じます。もの凄く多くのものを抱えてあっぷあっぷしているはずなのに、それでも前を向き続けている姿は素敵です。そんなあかりの話を辛抱強く聞き、受け入れ、色々あるけどそれでもあかりと寄り添っていきたい、そんな風に強く思う周吾もいいですね。
読んでいると、生きているってなんだろうなぁ、と強く感じさせられます。本書では、様々な人間の『生きていることとの奮闘』が描かれます。妻を亡くし生きる気力を失った周吾の父親、仕事で忙しいけど父親の介護もしなくてはならない境遇にある周吾、場面緘黙症で思うように言葉を発したり表情に出したり出来ない志保、生活を守るために逃げ続けなくてはならないあかり。彼らは皆、ささやかな日常を得たいあるいは守りたいと、それだけを希望に生きている。もの凄く大きなことを望んでいるわけではないし、彼らが望んでいることを難なく実現している人もたくさんいる。でも彼らには、境遇や状況や環境がそうさせない。ささやかな日常さえも、努力しなくては勝ち得ることが出来ない。そうした中で、時に諦めそうになったり、必死で無理をしたり、そんなことを繰り返しながら人生に立ち向かっていく姿をきちんと描いています。
個人的には、なんか大きく叫んでやりたい、という感じがします。生きていくって、どうしてこんなに辛いんだろうなぁ、って叫んでやりたいし、ささやかな日常さえも無理しなければ実現できない社会っておかしくないか、って叫んでやりたい。でも叫んでも、それはどこかに吸い込まれてしまって、どこにも届かないんだろうなぁ、という気もする。結局、諦めるしか覚悟を持つか、どっちかしかないんだろうなぁ、と思うのだなぁ。そんなことを思わせるくらい、なんというかリアルに色んなことを突きつけてくる物語だと思いました。
確かに、ちょっと重いテーマを扱った作品ではありますが、この作品はオススメです。もう直面している人も、これからの人も、恐らく避けることが出来ない『介護』という問題をメインに押し出しつつ、ささやかな日常を守るために必死に努力する人びとの姿が描かれている作品です。是非読んでみてください。

盛田隆二「二人静」

内容に入ろうと思います。
高校の合唱部で全力を出し切り、勉強の方でも優秀な民子は、小学生の頃母を亡くした。ずっと喘息だと言っていた母が肺がんだったということは全然知らなかった。
父と、母方の祖母の三人での苦しい生活。オロオロするばかりの父親と、優しさの発露だとは分かっているのだけど厳しい祖母。
ある日父が再婚相手を連れてきた。10歳以上も年下の若い義母。だしの取り方も知らない義母。やがて祖母が亡くなり、義母ともどうも馴染めないまま、民子は高校生になった。
若い後妻のことをからかってくる同級生、さりげなく傍に寄り添ってくれる幼なじみ、もどかしい義母との関わり。
これからどうなっていくのか、全然分からないなぁ。
というような話です。
上記で書いたのは一番初めの章の内容で、本書は全四章での構成。全部主人公が違って、民子の後は、民子の義母、民子の母親の親友、民子の父親がそれぞれ主人公となります。
本書を一言で表現すると、「地味だけど巧い」という感じです。
ホントに、話としてはもの凄く地味です。本書は新人のデビュー作なんですけど、デビュー作をこれだけ地味な作品で勝負するというのも、なかなか新鮮な感じもします。
本当に、母親と祖母を亡くした少女とその周辺の物語、という説明で済んでしまうような物語なんです。特別なことは特に起こらない。波打ち際にいて、足元に時々波が押し寄せてくるみたいな、そういうささやかな変化しかないような、こじんまりとした物語です。劇的に何か変わるということもなく、実は何も変わっていないというものもたくさん描かれてると思うんだけど、静かに静かに変化していくこともきちんと描かれていく。そのささやかな変化を楽しめる作品だと思います。
僕が一番巧いと思うのは、人物の造形です。どのキャラクターも、一言で説明できるようなはっきりとした特徴があるわけじゃない。まずそこが、凄く本物っぽい。細かなエピソードや細部を積み重ねることで、少しずつ輪郭をはっきりさせていく。それを、脇役たちにもきちんと施しているのが凄いと思う。本書で出てくる人たちは、みんな匂い立つような存在感を放っていて、でもそれが決してどぎつくない。
個人的に凄くいいなと思うのは、解説氏も書いていたけど、民子の祖母と、民子の義母の母親の二人。この二人は、決してメインで描かれる人たちではないんだけど、その存在感は重厚だと思う。長く生きた者の重みみたいなものを、さらりとした言葉で表現する。それが、重たいものを背負い現実にアップアップしている民子や義母や父親の荷を軽くしてくれたりする。本書に限らないけど、こういう年寄りの出てくる小説を読むと(っていうか、義母の母親は年寄りじゃないけども)、自分は果たしてこんなきちんとした年寄りになれるのだろうか、と思ったりしてしまうよ。
正直僕は、一番初めの章を読み終わった段階では、この作品への評価は微妙でした。作品が地味だという点を差し引いても、ちょっと力強さに欠けるよな、と思っていました。でも、二章に入って主人公が民子の義母に変わってから、徐々によくなっていきました。
一番の違いは、民子という登場人物が、誰によって描かれるかで結構変わって見えた、ということでしょうか。というか、一章の民子視点による民子の描写と、二章以降の別の人物による民子の描写の違いかもしれませんが。一章を読み終わった時点では、さほど民子というキャラクターに共感めいたものはなかったんですけど、別の人間によって描かれた民子の描写を読んで、民子のことが好きになりました。これは、民子の義母についても似たようなことが言えます。一章の民子視点で描かれる義母は正直そんなに好きではなかったんだけど、二章の義母自身による描写を読むと、義母のことが好きになってきました。
ただ残念だなと感じるのは、若干分量が少ないなと思う点。僕はこの作品は、『隙間の多さ』がいいと思っています。つまり、『描かれない部分が多いからこその良さ』みたいなものがうまく出ていると感じました。だからこそ、と繋げるのはちょっと強引かもですけど、もう少し全体の分量があって欲しかったなぁ、という気がします。『描かれないことによる良さ』を引き出すために、ベースとなる全体の分量はもう少し必要だったような気もします。正直、ちょっとだけ物足りなさがあります。
まあでも、新人のデビュー作でこれだけ地味な作品に挑み、それを巧く仕上げているという点はなかなか素晴らしいと思います。タイトルからの連想ですが、まさに月にように、静けさの中に凛とした強さがあるような、そんな作品だなと感じました。是非読んでみてください。

穂高明「月のうた」

内容に入ろうと思います。
とその前に。僕の感想の書き方としてはかなり珍しいですが、ここで読後の感想を先に書いておこうと思います。
メチャクチャ面白かったぞ!こんな面白い本は久しぶりに読んだかもしれない!この本は絶対売るぞ!
というわけで内容に入ろうと思います。
本書は、アメリカのメジャーリーグの話だ。しかし、野球の話かぁ興味ないなぁ、と思わないでもらいたい。本書は確かに野球の本だが、野球の本というだけの作品ではないのだ。
アスレチックという貧乏球団がある。選手全員の年俸はヤンキースの三分の一だ。しかし成績はほぼ同じ。何故アスレチックはそんなことが出来るのか。本書ではそれを解き明かしている。
本書の前半で主に描かれるのは二人の人物だ。一人は、アスレチックのゼネラルマネージャーであるビリー・ビーン。そしてもう一人は、無名(だった)一野球ファンであるビル・ジェイムズである。
ビーンはかつて、メジャーリーガーだった。スカウトたちから、『こいつはメジャーリーガーの中でも最高の選手になるだろう』と、誰もかれもビーンを絶賛する、そんな特別な選手だった。あらゆる点でずば抜けていて、恐ろしく評判になった。
しかし、結局ビーンは、選手としては成功できなかった。そして失意を抱えつつ、球団のフロントへと移ることにしたのだ。
そのビーンは、旧態依然とした慣習や伝統に縛られているメジャーリーグの世界に、新風を吹き込むことになった。それまでメジャーリーグの世界では、スカウトたちが見て良さそうだと判断した選手を獲る、それが当たり前だった。足が早い、スタイルがいい、そういう『メジャーリーグのスカウトはこういう部分を見て判断するべきだ』という過去の慣習に則って選手の選別が行われていた。
しかしビーンは、そのやり方に疑問を持った。そのきっかけとなったのがビル・ジェイムズという一野球ファンの存在なのだけど、まずビーンが何をしたのかを書こう。
ビーンは、それまで重要だとされていたあらゆるデータを無視し、データを独自に分析し始めた。そして、チームの勝利に最も重要なデータは『出塁率』である、と結論した。当時ビーン以外に、この『出塁率』に注目していた野球人はいなかった(後で書くけど、野球ファンの中にはたくさんいた)。
ビーンは、『出塁率』というデータに着目して、有望な新人を獲っていった。しかしそういう新人は、旧来のスカウト達が『即座に切り捨てる』レベルの選手ばかりだったのだ。当然ビーンは、古参のスカウトたちと対立した。しかしビーンは自身のやり方を貫き、アスレチックを生まれ変わらせてしまった。
さてもう一方の主人公であるジェイムズは、食品工場で夜間警備員をしていた男で、自費出版で「野球抄」という本を出版していたただの野球ファンだった。
ジェイムズは、野球のデータをあちこちから集めてきて、そのデータを分析してみることにした。すると、旧来重要だと思われていたデータに実は意味がなかったり、あるいは思わぬデータが関連してくるということを発見することになった。ジェイムズはそうして発見した知見を本にまとめ自費出版で出していたのだ。
初めはほとんど注目されなかった。しかし次第に、野球ファンの間ではジェイムズの存在は広く知れ渡るようになっていく。ジェイムズのように独自にデータを分析する者が現れ、さらに、野球のデータを専門に分析する会社まで設立されることになった。
しかし一方で、ジェイムズの存在は野球人の間では一顧だにされなかった。メジャーリーグの世界は閉じていて、野球ファンの間でどれだけジェイムズの存在が知られるようになろうとも、野球人はジェイムズのことを黙殺し続けたのだ。
しかしそんなジェイムズに着目したのがビーンだった。ビーンは、データを客観的に分析するというジェイムズのやり方に衝撃を受け、ジェイムズのやり方を踏襲しつつ、独自のデータ分析のやり方を開発していくことになる。
そうやってアスレチックというチームは、誰も注目しないような選手を安く獲る、バントや盗塁はさせない、ピッチャーに多く球を投げさせ疲弊させたり四球で塁に出るバッターは賞賛されるという、実に変わったチームになっていく。
本書の後半は、アスレチックに所属する様々な選手の話になっていく。ビーンが見出した選手が、それまでどれだけ不遇の扱いを受け、アスレチックに来てどれだけ変わったのか、あるいは、選手たちがビーンのやり方をどう感じているのか。また、前半では新人を獲るドラフトの話がよく出てくるけど、後半ではシーズン中に行う他球団とのトレードの話が結構メインで出てきます。
ざっと内容を書くとそんな感じです。
これはメチャクチャ面白かったです、ホントに。僕は正直、野球にはほとんど興味がないんです。日本人の選手もイチローとか野茂とかそういう有名な選手しか知らないし、メジャーリーグなんて言ったら余計に興味がない。野球のルールは一応知ってるけど、戦術とかテクニックとか、そういう突っ込んだ部分まで分かるわけではない。
そんな僕でもこの本はメチャクチャ面白く読めました。
前半では、スカウト達とビーンの考え方の違いが本当によく描かれていて面白い。本書には、データ分析の手腕を買われたハーバード卒のポールという秀才が出てくるんだけど、ビーンとポールは、選手がこれからどうなりそうかという主観的な評価よりも、現実にどんな成績を残したのかが重要だ、と考える。野球の知識のない僕でも(僕だから?)それは正しいように思える。
しかし伝統を守りたがるスカウトたちは、新人はあくまで『心の眼』で見るべきだ、と考えている。その将来性を見抜くのがスカウトの役割なのだ、と。
この新旧の対決は、ビーンとスカウト達のやり取りを見ても伝わってくる。

スカウト「たしかに、スイングに少し問題がある。フォームの改造が必要だろう。でも、打てる」
ビーン「プロ野球は、選手を改造する場所じゃないんだ」

スカウト「この選手はいいからだをしている。今回のドラフトで最高の肉体の持ち主だろう」
ビーン「われわれはジーンズを売ってるわけではない」

スカウト「ブラウンは太りすぎだ。大学では記録的な活躍だが、でぶには変りない」
ポール「SECリーグの史上初めて、300安打と200四球を記録しています」

また前半で、ジェイムズの話を中心に(アルダーソンという、ビーンの先駆者的な人間の話も出てくる)、野球のデータをどう分析しどう判断するか、という話が結構出てくるんだけど、これもまあ面白い。例えば『出塁率』についてはこんな風に書かれている。

『(もっとも重要な数字はアウト数だという話の後で)スリーアウトになってしまえばもう何も怒らない。したがって、アウト数を増やす可能性が高い攻撃はどれも、賢明ではない。逆に、その可能性が低い攻撃ほどよい。
ここで、出塁率というものに注目してほしい。出塁率とは、簡単に言えば、打者がアウトにならない確率である。よって、データのなかで最も重視すべき数字は出塁率であることがわかる。出塁率は、その打者がイニング終了を引き寄せない可能性を表している』

確かにその通りだと思いました。野球の超ド素人の僕が、合理的だなぁ、と感じる判断です。しかしそれを、野球のプロは一顧だにしない。不思議だなぁ、と思いました。
また本書には、野球にある『エラー』という記録がどれほどおかしいかというこんな文章がある。

『…バスケットボールのスコアラーもたしかにエラーを記録するが、このエラーは、敵にボールが渡ったことを表しており、客観的な事実の記録である。…。ところが野球のエラーは、実際には行われなかったプレーをスコアラーが思い浮かべて比較し、判断を下す。まったく異例な「参考意見の記録」なのである。』

またジェイムズが作り上げた、球団の年間の得点数を導きだす公式なんかも載っている。ホントかよ、と思うけど、実際にこの公式は相当正確らしいです。
他にも、データをどう採取し、そのデータをどう分析するのか、という話がもの凄く載っていて、これは間違いなく野球以外の分野でも相当に活かせるのではないか、と感じました。
僕は書店員なので、本書を読んでどうしてもこう感じてしまった。メジャーリーグにおいて最も重要なデータは『出塁率』だ。じゃあ、本を売るのに際して、最も重要なデータは一体なんだろうか?と。
本を売るというのは、想像以上に難しい。書店の現場で、文庫・新書の担当を長いことやってきた僕の実感では、『何が売れるんだかさっぱりわからん』というのが正直なところです。
もちろん、知名度の高い作家の作品・映画化される作品、そういう作品がよく売れるというのはいい。特には外れる場合もあるけど、大抵そういう作品は予想した通りに(あるいは予想を超えてたくさんということもあるけど)売れてくれる。
しかし本というのは、むしろそうでないものばかりだ。どう判断していいのか分からない、売れるんだか売れないんだかさっぱりわからない、そんなものばかりです。
書店員は、それぞれのやり方でこの問題に対処する。絶対に売れる、というものばかり売り場に並べ、売れるかどうかわからないものには見向きもしない人もいるだろうし、逆に僕みたいに、売れるかどうかわからないけどいっちょやってみるか、というような人もいる。売れるかもしれない、売れないかもしれない、という判断は本当に個々の書店員の判断次第で、時にはたった一人の書店員の販売行動が全体に大きな影響を及ぼすこともある。
一方で、大量に宣伝した作品やテレビで紹介された作品であっても、売れないものは売れない。少なくとも書店員には、『こういう作品は絶対に売れるはず!』というような、信頼すべき指標はデータは見えてこないし、もちろんそれは出版社の人であっても知らないだろう。
でも本書を読んで、本を売るということについても、野球における『出塁率』のようなデータがあるに違いない、と思うようになった。
出版・書店業界も、実に古い体質を引きずっている。どうしてそんなことがまかり通っているのかよく理解出来ないような様々な『慣習』に溢れている。しかも排他的だ。そういう意味で出版・書店業界も、古くかつ排他的なメジャーリーグの世界と似ていると思う。
さて、本を売ることにおける『出塁率』に該当するデータを見つけるには、一体どうしたらいいだろうか。しかしこれは、相当に難しいだろうと思う。
そこで僕は、かつて読んだ「なぜこの店で買ってしまうのか」という本を連想した。
この作品は、ショッピングに科学を持ち込んだ先駆者による作品だ。
アメリカで、ショッピングを科学する会社を立ち上げた著者は、こんな風にデータを収集している。自社の社員をあるスーパーに張り付かせ、そこである一人の客にターゲットを絞る。その客が店内に入った時点から記録を開始し、どこで何秒立ち止まったか、何を手に取って見たか、そういう些末としか思えないようなデータをすべて記録するということを永遠やり続けたのだ。
それによって判明した事柄を販売している会社なのだけど、恐らくそれぐらいのレベルで情報を収集しないと『出塁率』に当たるデータを探すことは不可能なのだろうと思う。どの本を手に取り、裏表紙だけ確認したのかあるいは初めの数ページ読んでみたのか、すぐに棚に向かったのか平台をぐるっと一回りしたのか、POPの文章をどれぐらい読んでいるのかなどなど、そういう細かな事柄をひたすら記録し続ければ『出塁率』に該当するデータを得られるのではないかと思う。
しかし、それは現実的には不可能だ。『お客さんがどんな風に売り場を見ているのか意識する』というのはもちろん当然やらなくてはいけないけど、でもそのすべてを精密に記録するというのは恐らく出来ないだろう。
でも、本書を読んで、そのデータを掴んだ人間は独り勝ち出来るのかもしれない、とも思う。マジで誰か計画して実行してみてくれないかなぁ。結果は教えてくれなくてもいいから。
書店員はやはりこれからも、『根拠はないけど、これはなんとなく売れそう』というような、酷く曖昧な判断基準で選書をするしかないだろう。もちろん、いやちゃんと根拠があってやっている、という人もいるだろう。店の客層を掴んで、これまでどんな本がどう売れたのかきちんと頭に入れていて、そういうところからきちんと判断しているという人もいると思う。でも、それでももちろん失敗はあるだろうし、もっと重要なことは『成功したかもしれない書目を見過ごしている可能性』は絶対にあると思うのですね。
僕は、他の書店が売っていない本を見付け出してきて売るのが好きでよくやるんだけど、時にはビーンのような感覚になることがある。つまり、『この本、ちゃんとやれば売れるのに、どうして誰も売ろうとしないんだろう』という感覚です。僕はみんなが、新刊や話題作の確保に苦しんでいる時に(もちろん、新刊や話題作もちゃんと売り場に置いてますが)、誰も注目していないような既刊を見付け出してきて、在庫を確保する苦労もせずにたくさん売るということをずっとやってきました。そういう意味で僕は、多少は業界の慣習からはみ出すことが出来ているんだろうな、という気はします。もちろんそれでも、『出塁率』に当たるデータが分かっているわけではないし、なんとなく売れそう以上の判断は出来ないし、失敗だってたくさんあります。
あと僕がよく思うのは、書店での多面展開は本当に効率的な手法なのだろうか、ということです。僕の感触では、『本をたくさん売るには多面展開にするしかない』というような慣習(認識)があるような気がします。もちろん、売り場がメチャンコ広い書店とか、あるいは多面展開が店に合っている書店とかもあるだろうから、全部おかしいなんていうつもりはないんだけど、でも、その多面展開は本当に必要なのか、という自問は必要ではないかと思うんですね。
例えば僕の考えでは、『12面展開で3ヶ月で500冊売る』(12×3=36)というのと、『1面展開で3年(36ヶ月)で500冊売る』(1×36=36)というのは同じだと思うんですね。で僕は『1面展開で3年(36ヶ月)で500冊売る』に近いことを実際にやったことがあります。確かに3ヶ月で500冊売れたら凄いけど、特に売り急ぐ必要のない本をわざわざ多面展開にする必要があるのかどうか、僕にはどうしても疑問だったりするのです。多面展開にしないと目立たない、ということなのかもしれないけど、それを補う方法は考えればいくらでもあるんじゃないか、という気はします。
あちこち話題が飛びますが、本書を読んで僕は、羽生善治が将棋の世界を一変させてしまったことを想像しました。実際、ビーンの手法は、メジャーリーグ全体を変えるまでには至っていません。アメリカで本書が出版された時、ビーンは何故かもの凄い批判にさらされたようで、未だにアンチビーンという人間は多いようです。しかし、将棋は終盤で決まるから序盤はそんなに研究しなくてもいい、という風潮のあった棋界に、序盤の研究も重視して臨んだ羽生善治が結果的に将棋の世界をすっかり様変わりさせてしまったように、ビーンのこの手法は、最終的にメジャーリーグの世界を一変させてしまうのではないか、という感じがしました。なんかもっと色々書きたいことがあったんですけど、うまくまとめることが出来なくて残念です。でもこの本は、野球に興味がある人だけではなく、もっと幅広い人に読んで欲しいです。実際、野球本として売るのが一番楽だろうし(でもほどほどにしか売れないでしょう)、ビジネス本として売るっていうのもちょっとまだ狭いなという感じがします。どう見ても野球の本でしかないんで、野球に興味のない人にも手に取ってもらえるようにちょっと色々考えようと思います。この本は売ります。正直、ここまで面白いノンフィクションは久々に読んだかもしれません。是非是非読んでみてください。

マイケル・ルイス「マネー・ボール」

内容に入ろうと思います。
本書は、物理学(や化学)の歴史を概略しつつ、その過程で、『神』がどんな風に影響を及ぼし、また扱われ、また追放されていったのか、という部分を主軸に物理学の歴史を編集している作品、という感じの内容です。
まだキリスト教の力が強かった時代、自然科学は『神の存在を証明するため』に生まれることになる。しかし、天動説が排除され、また宇宙が無限であるという可能性が出てくるにつれ、『地球という特別な場所に神が存在する』と主張することは難しくなっていった。
一方で物理学は、神に対抗し『悪魔』を生み出したりしてきた。『ラプラスの悪魔』や『マクスウェルの悪魔』などが有名だが、物理が『決定論』であることが分かってくるにつれ、神はただ傍観するしかない立場に追いやられていったのだ。
そんな中で、永久機関や錬金術が研究される。これらは、神が産み出した素晴らしい世界では実現可能だろうと信じられて研究されてきたのだけど、どちらも結局否定され、神の不在証明に貢献することになった。
パラドックスの話も出てくる。パラドックスの話が神とどう関係してくるのか、正直僕にはよく分からなかったのだけど、ゼノンのパラドックスやオルバースのパラドックスなど、有名なパラドックスの話が出てくる。
量子論では、神は『サイコロ遊び』をしているとされる。古典的物理学では、物質の位置や速度が『決定論的』であったのに対し、量子論ではそれらの確率が『決定論的』であるという点で、物理学は大きな転換点を迎えることになった。『神はサイコロ遊びをしない』と言って生涯量子論を否定し続けたアインシュタインの言葉は有名である。
量子論は微視的な世界の話にしか適応できないのだけども、巨視的な世界でも『神がサイコロ遊びをしている』かのような現象がある。それが、カオスや複雑系と呼ばれるものだ。初期条件の微細な差によって結果に大きな影響を与えてしまうというこの現象は、自己相似性という特徴故にどう手をつけていいのかわからない分野だったのだけど、最近ようやく研究が進んできている。
宇宙の始まりは、神の一撃から始まったのか。宇宙が膨張しているという事実から、宇宙には始まりがあるということになったのだが、未だに物理学では宇宙の始まりを論じることは出来ない。その一方で、『宇宙は人間が登場するように調整されて出来ているのだ』という、『人間原理』という考え方が出てきていたりもする。
物理学では、『対称性』という概念が非常に重要になる。ある変換をしても不変である、というような意味だ。物理学の理論では美しく対称性が見られることが多いが、一方で、『対称性の破れ』と呼ばれる現象が、物事の起源となっているということもある。対称性というキーワードで、神に近づくことが出来るのだろうか。
というような感じの流れですね。
僕は物理の本を結構読んでるんで、本書で書かれている内容については、基本的にほとんど知っています。扱われている物理学自体は、本当に色んな分野の基本的なものばかりなので、ざっくりとした形で物理学の遍歴みたいなものを追いたいという人には面白く読めると思います。
それに、物理学の歴史を神がどう扱われてきたのか、という点で編集しているというのも面白いと思いました。正直、神がどうとかっていうのとあんまり関係ないだろっていうような話題もありますけど(パラドックスの話は、神との関係性がイマイチよく分からなかった)、こういう編集の仕方だと、物理学には神という概念が切り離せないのだ、ということがよく分かります。
というのも、本書ではこんな文章がある。

『つまり、科学者は、「法則がなぜそのようになるのか」という問いに答えようとしているわけではなく、「そのようになっていることを証明しようとしている」だけである。』

つまり、例えば、科学者は『何故光の速度は秒速30万キロメートルなのか』という質問には答えられない。『そうなっている』としか言いようがないのだ。科学者に出来ることは、『光が秒速30万キロメートルであることを証明する(測定する)』ことだけである。『何故そうなっているのか』については、科学者それぞれで色んな個人的な見解があるだろうけども、人によっては、『それは神がそうしたからだ』と思っている人もいることでしょう。
これについては、人間原理という考え方が結構面白い。宇宙のあらゆる定数や、あるいは地球などの様々な環境は、『まるで人間の出現に適したように設定されている』ように見えるんだそうです。本書に書かれていることではありませんが、以前読んだ本に、何かの定数が確か0.006とかだったんだけど、それが0.005でも0.007でも人類は誕生しなかっただろう、というようなものまであるようです。
これを、『神(創造主)が微調整を行った結果だ』と思うか、あるいは『様々な宇宙が生まれたけど、結局残ったのはこういう宇宙だ』と考えるかは自由だけど、考え方として正しいかどうかは別として、人間原理という発想は面白いなぁ、と思いました。
最後に、本書で一番いいなと思った文章を抜き出して終わろうと思います。

『これまで「当たり前」と思ってきた事柄の理由を問い詰め、そこになんらの根拠も見いだせなかったとき、科学者という悪魔は常識を覆すことに躊躇しないのだ。』

これは科学者に限らず、あらゆる人がそうであるべきだ、と感じました。根拠なく、あるいは昔からそうしているというだけの理由で、『これは正しい』というやり方が色んなところでまかり通っているような感じがするけど、そこに根拠がない場合、それを覆せるだけの意思を持つことは、科学者に限らず大事だろうなぁ、という感じがします。
そんなわけで、物理に結構詳しい人にはちょっと退屈に感じられてしまうかもだけど、物理学の基本や歴史がうまくまとまっているし、また『神』というキーワードで編集している科学の本もなかなかないと思うんで、面白いと思います。是非読んでみてください。

池内了「物理学と神」

内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編が収録された短篇集です。タイトルの通り、父親が子供を育てる話、というのが基本的なコンセプトの作品です。

「ふにゅう」
家事や子育てなど、家庭での生活に関わる部分はすべて同じ負担で、妻とそう取り決めていた洋介は、半年間の育児休暇を終え仕事に戻った麻衣子に代わって、半年間の育児休暇を取ることにした。
子育ての大半は、男だってまあどうとでもなる。
しかし、洋介にはどうしても我慢ならんことがあった。
それが「おっぱい」の存在だ。おっぱいは、ずるい。おっぱいを吸う赤ちゃんというのは、なんというか凄い存在だ。自分と赤ちゃんの間では、そういう繋がりを持つことは出来ない。それは、ずるい。
それで洋介は、ちょっと危険な決意を抱くようになるのだが…。

「デリパニ」
ニューヨークでは、夫が妻の出産に立ち会うのは『当然のこと』であって、拒否しようものならソフィアがヒステリーになってしまうだろう。しかし、何よりも血を見るのが辛いハルキには、これほどの苦行もない。
陣痛がやってきたソフィアを病院に連れて行く。日本に帰ってこい、という父親の督促なんかもあって、考えることがぐるぐる。ベイビーよ、ツインタワーが崩壊して間もないこの世の中に生まれてきてしまうことは、本当に正解なのかな?

「ゆすきとくんとゆすあしちゃん」
匡志と志保は、結婚五年目の「木婚式」を迎えようとしている。裕斗と理香も可愛く育っている。
最近裕斗が、「ママと結婚するー」と言い出している。志保はそれを、特に訂正することもなくいなしているだけなのだが、匡志としては、このままで大丈夫なんだろうか、と思っている。
いや、たぶんそうじゃない。匡志は、嫉妬ではないけど、何かもっと深いところで、裕斗のその「ママと結婚するー」に脅かされているのだ…。

「桜川エピキュリアン」
父子家庭で息子の由紀夫を育てている僕は、由紀夫を連れ立って向かったプールで大学時代の友人である慎一郎と再開した。同性愛の傾向を持つ慎一郎は、なんだか嫌なことを指摘してきた。子供がホモになるのは、家庭環境に理由があることが多い。男と女の役割分担が崩れた社会はホモを生み出しやすいというのだ。そういえば、夜由紀夫と一緒に寝ている時、由紀夫がぼくの下半身に足を絡めたりしてくる。なんとなくマズイかもしれない。
そう思って、ちょっと脂肪の乗ったこの体を男らしく作り替えようと、久しぶりにウエイトトレーニングをしてみることにしたのだが…。

「ギンヤンマ、再配置プロジェクト」
博士は一ヶ月、子供二人を自分一人で面倒みることになった。妻の淳子がイギリスに一ヶ月の出張に決まったのだ。残業をしない宣言をして、保育園にも協力してもらって、とりあえずはオーケー。しかしもちろんそううまくもいかない。
一ヶ月、というのは子供にとって長い。まだ時間の概念がちゃんと分かっていない子供たちに、「あさってのあさってぐらい?」というぐらいの時間間隔しかない。
母親とずっと会えないでいる子供たちは、段々不安定になっていく。淳子はやりがいのある仕事に邁進しているようで、連絡もほとんどよこさない。自分だけではもはやどうにもならない閉塞感の中に押し込まれているような毎日が過ぎていく…。

というような話です。
正直、初めの三つは僕的にはあんまりでした。僕は基本的に『子供』とか『子育て』とか、もっと言えば『結婚』とかにほぼ興味を持てない人間なんで、ストーリーの中にそれらの要素が含まれている作品ならともかく、『子育て』がストーリーのメインである作品というのはどうしても遠い感じがして、あんまり面白いと感じられないのだろうなぁ、と思います。
ただ、後半の二つ「桜川エピキュリアン」と「ギンヤンマ、再配置プロジェクト」は凄くいいと思いました。
「桜川エピキュリアン」は、正直ほぼ子育ての話ではない、と感じたからこそ、僕的に面白いと感じられたんだろうと思います。もちろん、父親が一人で子供を育てる話なんですけど、そこで描かれているのは、『息子をいかにホモにしないか』というもので、これは傍から見ているとなんか凄く馬鹿馬鹿しく思える。でも、この話の主人公(どうも固有名詞が出てこなかった感じなんでこう書くしかないんだけど)も書いてるけど、他人の話であればホモの話もそんなに目くじら立てることなんてないと思ってきたけど、いざ自分の身に降りかかるとそんなことも言っていられない、みたいな感じが作品から凄く伝わってきて、その滑稽さが凄く面白いと思いました。子育てなんかしたことない僕には、もちろん子育てなんて未知も未知な存在ですけど、でも色々と予期せぬこと、これまでの常識が通じないこと、メチャクチャ大変なこと、そういうことで満載なんだろう、という想像はしています。でも、この話で描かれているような、「父子家庭の父親が、息子をいかにホモにしないようにするか腐心する」というのは僕の想像を超えていて、凄く面白かったです。この話は、物語の終わらせ方もなんか凄く面白かったですしね。
そして最後の「ギンヤンマ、、再配置プロジェクト」です。これは、結構直球の「子育て」物語なんです。だから、前半三つの話があんまり面白くないなぁ、と感じた僕が、どうして最後のこの話だけ凄く面白いと感じられたのか、それは正直うまく説明できません。
ただ、一つ言えることは、前半三つの作品が、基本的に『父親』の話であったのに対し、最後の話は、どちらかと言えば『子供』の話であった、という点に若干の違いがあるのかもしれない、と思いました。
前半三つは、子育てに放りこまれた父親の奮闘を父親視点で描く、という形式でした。もちろん最後の話もそれに代わりはないんですけど、でも前半三つの話よりは子供を描く比重が大きかったという感じがしました。まあそんなことを言ったって、『子供』にだってそもそも興味がないと僕は言ってるわけで、最後の話を気に入った理由にはまったくなっていないわけなんですけど、最後の話は凄く良かったですね。子供二人の描かれ方が良かったのかなぁ。自分でもちょっとうまく説明できないんですけども。
最後に、僕が本書で一番なるほどと思ってしまった部分を抜き出して終わろうと思います。

『「結婚が子育てのチームなのか、死ぬまで続く一対一で見つめ合う男と女の関係なのか、よく分からないままみんな結婚しているところに無理があるんだろうな。で、おれたちはそこんとこを明確に分けることにしたわけだ。住む家は別。子育ては一緒。子どもは二人のあいだを行き来して、育つ。子育てにかける労力は完全にイーヴン、ま、これもひとつのやり方だろ」』

このやり方が子育て的にアリかどうかは色んな意見があるんだろうけど、前半部分の意見はなるほどと感じさせられました。結婚というものに興味の持てない僕には特に。
僕は後半二つの話が凄く良かったんですけど、これは『子育て』というものにほぼまったく興味が持てない僕の感想で、子供が好きとか、実際に子育てをしたとか、そういう人が読んだらまた感じ方は違うのかもしれません。全作品を好きだとは言えないんで、この本をオススメするのはなかなか難しいんですけど、後半二つの「桜川エピキュリアン」と「ギンヤンマ、再配置プロジェクト」は僕的にかなりオススメなので、この二つだけでも読んで欲しいなぁ、と思ったりします。

川端裕人「おとうさんといっしょ」

内容に入ろうと思います。
本書は、レッサーパンダ帽を被った男が白昼包丁で女性を刺殺したというセンセーショナルな事件について、裁判を傍聴し、また多くの関係者に取材をした著者によるノンフィクションです。
タイトルの通り、本書の被告は「自閉症」です(ただ断言してしまうのも難しい。というのも裁判の中では、自閉傾向はあるが自閉症ではない、という形になっているから)。で、先に、著者の立ち位置を明確にしておこうと思うのですけど、著者は、『自閉症だからこそ凶悪犯罪が起きた』と言いたいわけでは決してない。著者の主張、そして本書を執筆する動機となったものは、『この事件の犯行の外形や動機といったものを考えるとき、障害の特徴への理解が欠かせないのだ』ということだ。
当時マスコミはこの事件を、「責任能力が争点」と報じていた。しかしそれはまったくの誤りだという。弁護人は、『自閉症の障害を主張し、心神喪失・心神耗弱を認めて欲しい、刑を軽くして欲しい』と求めているのでは決してなかった。そうではなく、現行の逮捕拘束・取り調べ・自白供述書の作成。鑑定のあり方、裁判での証言や処遇などについて、自閉症の障害を持つ人の刑事手続きについて考えなおして欲しい、そういう意図を持った裁判だったのだ。
この点については、本書でも繰り返し書かれている。
本書の意図するところを、著者は五つ挙げている。

1、知的障害や発達障害を持つ人たちが、どうすればこのような痛ましい事件の当事者になることを避けることが出来るか
2、障害を持つ人々がなんらかの形で加害者の側に立つことになった時、自己を守ることにおいて極めて弱い立場にいる彼らに、きちんとした法の裁きを受けて欲しい
3、何故浅草の事件を起こしたこの男が、殺人というところにまで追い込まれてしまったのか
4、何故突然凶行に及んでしまったのか
5、彼が自らのなしたことを振り返り、省みるということがどこまで出来るのか、あるいはその機会がきちんと与えられているのか

これらについてきちんと知りたいと取材に臨んだのだ。
著者は元々養護学校の教員であった。本書でも、自らの立ち位置を、公平になるように務めはするけども、やはり障害者側の立ち位置に多少は偏ってしまう部分もあるだろう、というようなことを書いています。
養護学校の教員だったという立場から、著者はこの事件・裁判を、少し異なった視点で見ている。警察や検察は、凶悪犯であり、また反省もしていない、という風に被告を見る。また被害者家族は、障害のあるからと言って刑が軽くなるというのはおかしい、というような趣旨の発言をする。それらは、それぞれの立場に立ってみれば間違ってはいないのだろうと思う(警察・検察の立場については、多くの疑問はあるにせよ、本書は冤罪というわけではない。被告が殺人を犯したことは明白だ。だからこそ警察・検察が、自閉症であるかどうかという点を弁護側が主張するほどに勘案する必要性を感じられない、という点は分からなくもない。僕自身は納得出来ないけども、彼らの立場に立ってみれば、ということ)。
しかし著者は、障害を持つ人たちと関わりのあった者として、被告の態度や言葉、あるいは来歴などを、また違った方向から見る。もちろん、被告が殺人を犯したことは間違いがないし、障害を持っているとはいえ責任を負うべきだというのは、僕も当然だと思う。しかしその一方で、自閉症の障害を持つ人たちにも『正統』な裁判を受ける権利はあるべきだ、という著者の主張にも、非常に賛同できる。
本書では、実際の裁判でのやり取りを多く採録しているのだけども、警察・検察側の主張には、非常に曖昧なものを感じた。どういうやり取りなのかというのは、一部だけ抜き出してここに書いても誤解の余地が残るだろうからしないけども、本書を読んで僕が感じた印象(そしてそれは、裁判を傍聴し続けた著者の感じた印象とも同じなのだけど)、警察・検察側が被告の言葉を都合よく作文して、犯行の状況や動機が作成されたのだろうな、というものだ。
これは、事件モノのノンフィクションをそれなりに読んできた僕の印象では、警察・検察のいつものやり方である。被告が自閉症の障害を持つかどうかという点に関係のない、警察・検察の持つ負の構造だと僕は思う。密室で自白が強要され、その自白が最大の証拠として裁判で扱われる。そこでどんなやり取りがあったかはわからない。表に出てくるのは、自白供述書だけだ。この事件は冤罪ではない、と先ほど書いた。実際冤罪ではないだろう。しかし、だからと言って、被告がどういう理由で女性に近づいたのか、何を思って刃物を突き立てたのか、そういうことを警察・検察が勝手に作文していい、ということにはならないだろう。
この警察・検察の負の構造は、冤罪を生み出す温床でもあるから、本書は障害者にだけ関わる話というわけではないのだけど、この負の構造が、自閉症の障害を持つ人たちにとって、適切な裁判を受けるための障害になっている、ということは考えたことがなかったので、なるほど現実ではそういうことが起こっているのだな、と感じました。
自閉症というのは、多くの特徴があるのだけど、この事件の被告の場合、10言われたことについて1か2ぐらいしか記憶していなかったり、抽象的な概念を説明することが得意ではなかったり、あるいは常に俯き加減で顔を上げることが出来なかったりということがある。裁判では、これらの特徴は自閉症であるという弁護側の主張と、自閉傾向はあるが自閉症ではなく知的障害だという検察側の主張は対立することになったのだけど、被告が自閉症であるかどうか実際のところどちらかわからないにせよ、自閉症の傾向があり、適切なやり方でないと取り調べも裁判も成立しないかもしれない、そういう風に考える向きがあってもいいのではないか、という感じがしました。
とここまで、自閉症の障害を持つ被告のことばかり書いてきたけど、著者はもちろん、被害者家族にも取材をしている。それは、多くの葛藤を伴うものだった。普通のノンフィクションライターであっても、被害者家族に取材をすることは多くの葛藤を生むだろうけど、著者の場合、障害を持つ人たち寄りであるという立ち位置を自らが認識していたことが、より大きな葛藤を生むことになる。こんな自分が、被害者家族に接触することは果たしていいのだろうか、というような懊悩も、本書では描かれていく。著者がこの事件に対して、あらゆる意味で誠実に対しているということが伝わってくると僕には感じられました。
本書では、もちろん自閉症に関する部分が一番深く考えさせられるし、問題としても大きいと感じたのだけど、正直に言って、障害を持つ人が身近にいない僕には、どうしても他人事であるという感覚が拭えないという部分はあります。こういう意識こそ変わるべきなんだろうとは思うのですが、なかなか実感としては難しいと思いました。
そんな僕が、これはちょっと怖いなと感じた裁判の一部分があります。それは、犯行を目撃した証人として裁判に出廷したあるタクシー運転手のくだりです。
このタクシー運転手は70代ですが、被告の服装やあるいは距離感などを実に正確に記憶していました。しかしその供述は、『被告の自白』と食い違う部分があったのです。特に大きく食い違っていたのが、被告が歩道のどちらからやってきてどちらへ行ったのか、という点。被告の自白とタクシー運転手の証言では、それがまったく逆になっていたのです。
タクシー運転手は、裁判の場で初めて自身の証言が『歪められて』いることを知ります。自分が言っていないことを言ったことにされていたり、あるいは言ったのに言ってないことにされていたりということが明らかになります。
それについて、弁護人が検察官に追及します。すると、『タクシー運転手は道の反対側から見ていたのだし、おそらくぼんやり見ていたのだろう。被告がこう主張しているのだから』というような趣旨(もう少し真面目な言い方ですけども)のことを言い、そのタクシー運転手の証言を斥けてしまうわけです。
本書のメインは、自閉症の障害を持つ人間が裁判で裁かれること、という点ですが、僕はこの点が一番恐ろしい、と感じられました。検察官は、『人の記憶は曖昧なものなのだから、被告の自白に合わないなら、その証言をした人間が勘違いをしている可能性がある』というような趣旨のことを堂々と(苦し紛れに、かもしれませんが、まあどっちでも大差はないかなと)主張しているわけです。
もはや問題は、自閉症の障害を持つ人間が正当な裁きを受けられないこと、ではないんだと思うんです。それももちろん重大な問題ですけど、もっと重大なのは、日本の警察・検察・司法が適切に機能していないというその点なんだろうと思います。密室での取り調べによる『自白』こそがすべての物証に勝る、というような現行の捜査・取り調べ・裁判のあり方を変えるというところを出発点にしなければ、本書で問題提起されている自閉症の障害を持つ人たちへの正当な刑事手続、というところまで辿り着けないだろうと思ってしまいました。
本書は、自閉症と裁判制度という部分だけでなく、より多くのことを考えさせてくれる作品だと思いました。障害を持っているのだから減刑を、という形ではない問題提起をしている作品を僕自身は初めて読んだのでそういう点はもちろん深く考えさせられたし、それ以上に、やはり現在の司法のあり方というのは、被告が自閉症であるかどうかに関係なく再考されるべきだよなぁ、とも強く思いました。是非読んでみてください。

佐藤幹夫「自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」

内容に入ろうと思います。
本書は、日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を受賞した作品です。
人里はなれた、密林の奥深くに、その学園は存在する。隔離されている、と言っていい。そこには、『月童子』と呼ばれる人々が生活をしている。
月童子は、生まれた時性別がない人たちのことだ。男でもなく、女でもない。18歳を過ぎる頃から、個人差はあれど皆男女どちらかの性別に分かれ、学園を卒業していく。月童子として生まれた子供は全員、家族の元から離されこの学園で生活をすることになる。
教歌の歌い手で、学園史上最高と誉れ高い空、空と同室で演劇部部長である薄荷、降夜際の演劇で薄荷の相手役を務める小麦。彼らは、6歳まで月童子専用の病院で育ち、その後この学園に送られてきた。皆18歳を間近にし、そろそろ自分の性別が決まり、外の世界に出て行く不安定な年頃だ。外の世界を怖がる小麦と、海を見てみたいという薄荷。そして、どんなものにも格段の感情を持つことのない空。
小麦も参加した、たわいもない占いの夕べ。そこで、清めの官女様の出現が予言され、学園中は騒然となった。
その些細な占いを発端として、空・薄荷・小麦の生活に、少しずつ異物が混じりこんでいき…。
というような話です。
基本的には悪くないと思う。新人のデビュー作としては、まあまあの出来ではないかと思う。設定はなかなか奇抜で面白いし、ラストの着地も割とうまく行ったと思う。色んな断片的な出来事が色々と繋がっていったり、登場人物たちの描写がなかなか良かったりするとも感じた。些細な描写なんかも結構うまいと思いますしね。
でも僕は本書において、どうしても欠けている部分があると感じてしまった。
それは、『性別のない子供たちの共同生活』というリアリティだ。僕はリアリティという言葉を使うのがあまり好きではないんだけど、本書には、そのリアリティが欠けていると感じたし、それこそが、作品において最も重要な点ではないかな、と思うのだ。
本書の肝は、まさに『月童子』という存在そのもので、そして月童子というのは『性別のない子供たち』のことなのだ。
本書では、彼らの共同生活は、結構普通な感じで描かれていく。普通とちょっと違うなと思うのは、それぞれにつけられた名前が男か女か判別しないようなものであることと、自身が男女どちらの性別になるのか悩むという二点ぐらいではないかと思う。それ以外は正直言って、性別がない子供たち特有の生活というのは描かれていない気がする。
しかし僕は、そんなわけがない、と思うんだよなぁ。この学園の歴史はもう数十年もあるし、その長い歴史の中で、『性別がない』という特殊な子供たちが10年以上も共同生活を行っているのだ。それが、ごく一般的な共同生活になるとは、僕にはちょっと思えないんだよなぁ。
いや、実際どうなるのかというのは、もちろんありえない設定だから考えられないわけだけど、本書では、読者の想像を上回るような『何か』がなかったなと思う。読者としては、『性別のない子供たちによる共同生活かぁ。どんな共同生活になるのか、自分ではちょっと想像できないけど、でも普通じゃない生活が描かれるんだろうな』という期待があるはずなんです。あるいはもっと踏み込んで、『性別のない子供たちの共同生活かぁ。じゃあこういう慣習とかあるだろうなぁ』という想像をする人もいるかもしれない。で、やっぱりこういう作品は、そういう読者の期待を多少は上回るものを提示しないと厳しいよなぁ、と思ってしまうのです。
僕がそういう風に感じてしまうのには、恐らく、カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」の存在も大きいんだろうと思います。世界的な傑作である「わたしを離さないで」と新人のデビュー作を比較するのは酷だけれども、それでも、「わたしを離さないで」を読んで感じたあの異質な共同生活の感覚は、なんとなく似たような設定である本書でも少しは感じられるべきだと僕は思うんですね。そこが残念な感じがしました。逆に、そこのリアリティがもっと重厚であれば、新人のデビュー作という枠を超えた傑作に仕上がったのではないか、という感じがしました。惜しいなぁ、という感じです。
『性別のない子供たちの共同生活』のリアリティという部分を除けば、新人のデビュー作としてはそれなりに読める作品ではないかと思います。うまく化けてくれたらいいなぁ、と思います。

石野晶「月のさなぎ」

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