黒夜行 2024年08月 (original) (raw)

いやー、これはメチャクチャ面白かったなぁ。いやもちろん、日本人である僕が「面白かった!」と書くのは憚られる部分もあるのだが。

本作の物語(というか実話)が生まれたのは、日本のせいだからだ。

物語は1946年に始まる。8月、国民の英雄ソン・ギジョンの名を冠したマラソン大会がソウルで開かれたのだ。ソン・ギジョンがベルリンオリンピックのマラソンで金メダルを獲得してから10周年を記念する大会だった。

しかし、ソン・ギジョンの金メダル獲得には、ある悲しい事実が存在していた。ベルリンオリンピック時には日本統治下にあった朝鮮の記録は、日本の記録として刻まれているのである。ソン・ギジョンは「孫基禎」、そして3位になったナム・スンニョンは「南昇竜」という日本名での記録となった。朝鮮ではもちろん、特にソン・ギジョンは英雄視されているが、彼は表彰式の際、月桂樹で胸の日章旗を隠したことが問題視され、日本の圧力を受けて引退を余儀なくされたのである。

朝鮮は、1945年の終戦を受け日本からは解放されたが、その後駐留しているアメリカ軍に良いようにされ、未だ「独立した」とは言えない状態になっている。そんな中でナム・スンニョンは、朝鮮から再び国際大会に選手を送り出そうと意気込んでいた。

一方のソン・ギジョンは、昼間から酒を飲み、自身の名を冠した大会を見ないどころか、メダル授与式に遅刻する始末。英雄の面影はない。しかし彼らは後に、「東洋の小国の奇跡」と評される快挙を成し遂げるのだ。

きっかけはやはり、ナム・スンニョンの情熱だった。彼はボストンマラソンに選手を送り込もうと考えていたのだが、最初の段階で躓いた。なんと朝鮮は、「国際大会への参加歴がない」という理由で、ボストンマラソンへの参加資格が存在しないというのだ。ソン・ギジョンとナム・スンニョンの記録は日本のものとなっているため、ベルリンオリンピックへの参加は「参加歴」とは認められないという。しかし、それを説明した米軍の担当者から、「一つ方法がある」と教えてもらった。

そのキーパーソンとなるのがジョン・ケリー。彼は実は、ソン・ギジョンからもらった靴を履いて大会に優勝した経験があるのだ。つまり、親交のあるソン・ギジョンが彼に手紙を書き、招請状をもらうことが出来れば参加は可能というわけだ。

そうして無事参加できることに決まったのだが、難題は山積みだった。アメリカは朝鮮の選手を入国される条件として、「現地での保証人」と「2000ドル(900万ウォン)」を用意するように伝えたのだ。ここには、朝鮮がまだ「独立国」ではなく「難民国」であったことに関係がある。「難民国」からの入国には、このような厳しい条件が課されるとアメリカのルールで決まっているそうなのだ。しかし900万ウォンは大金だ。なにせ、朝鮮の家1軒が30万ウォンの時代である。貧困に喘ぐ韓国で、この金額を用意するのは並大抵のことではない。

そしてこの貧困は、選手集めにも暗い影を落としていた。彼らは選手の育成を始めるのだが、これと言った才能を持つ者がいない。しかし、彼らは1人だけ、煌めくような才能を持つ人物を知っていた。ソ・ユンボク、先日のソン・ギジョンマラソン大会で優勝した青年である。しかし彼は、友人から「賞金が出る」と騙されて大会に出場したに過ぎなかった。朝から夜まで働き詰めで金を稼がなければならず、一銭にもならないマラソンのために時間を割く余裕がなかったのだ。ソン・ギジョンもナム・スンニョンも彼を説得しようとしたが、なかなか難しい。

しかし彼らは、様々な難題を乗り越え、ついにボストンの地に朝鮮の選手を送り出すことに成功したのである……。

というような話です。

物語は全体的に、「よくあるスポーツ物語」と考えていい。「様々な困難を乗り越えながら勝利を目指す」という感じで、正直なところ、「予想外のことはほとんど起こらない」と言っていいだろう。

ただ、やはりこれが「実話」の力だと思うが、そんな「予想外のことが起こらない物語」がとにかく面白かった。

まずは何よりも、「ボストンマラソンに出場するまでの困難をいかに乗り越えるか」という点が面白い。問題は山積みだが、やはりとにかくお金のハードルが高かった。家1軒が30万ウォンの時代に900万ウォン集めなければならないということは、現在の感覚で言えば、家1軒2000万円としても6億である。しかも時代は終戦直後、ソ・ユンボクが働き詰めにならなければならなかったように、韓国は全体的に貧しかった。そんな時代には、ちょっと現実的とは思えない金額だろう。

しかしまあ、とにかく彼らは色々頑張って、ボストンにはたどり着くわけだ。後は出場するだけ……とはならなかったのがこの物語の凄いところだ。正直この点は、本作における最も重要なシーンと言っていいと思うので、どんな「難題」に巻き込まれたのかには触れないが、まあこれは凄い。「そんな事態になるのか」という点も、「そんな風にして乗り越えたのか!」という点もどちらも驚きで、メチャクチャ良かった。特に、ソン・ギジョンがある場面で、「ボストンマラソンは、アメリカ独立をいち早く伝えたメッセンジャーにちなんで開かれるようになったはずだ」と、その起源から掘り下げて説得しようとしたスピーチはメチャクチャ良かった。そして、アメリカという国に思うことは色々あるけど、こういう場面におけるアメリカの「決断」というのはさすがだよなぁ、と思う。日本で同じことが起こっても、こういう展開にはならないだろう。

そして、何よりも驚いたのが、ラストのマラソンのシーンである。何に驚いたかというと、僕自身に驚いたのだ。

というのも僕は、基本的にスポーツにはまったく興味がなくて、マラソンや駅伝を観ないどころか、スポーツの試合を観ることがほぼない。以前、友人に誘われて東京ドームに野球を観に行ったのが1度あるくらいで、あとは映像で観ることもまずない。オリンピックも全然興味がなかったし、「結果だけ教えてくれたらいいよ」ぐらいの気分になってしまう。

にも拘らず、本作で描かれるマラソンシーンにはメチャクチャ興奮させられた。気づいたら、劇場に座っている自分の身体が縦揺れしていたぐらいで、そんな身体が思わず動いてしまうぐらいワクワクさせられた。

このマラソンシーンにも、「おいおいホントにこんなことが起こったのかよ」と言いたくなるような展開があり(実話なんだよね?ちょっと信じられんけど。ネットでちょっと調べたけどよく分からなかった)、そこからのさらなる展開もメチャクチャ良い。「まさか自分が、スポーツシーンで感動するとはなぁ」という感じで、その点にも驚かされた。まあ、ダイジェストだったから良かったというのももちろんあると思うけど。2時間観るのは無理だなぁ。

ちなみに、ベルリンオリンピックでソン・ギジョンは、当時の世界記録を樹立した。その記録が、2時間29分19秒2である。しかし、現在の世界記録は、あと少しで2時間を切るというところまで来ているわけで、その進化も凄いものだなと思う。

さて、これも印象的な場面だったが、ある場面でソン・ギジョンが「俺みたいになりたいか?」とソ・ユンボクに聞く場面がある(映画を観れば分かるが、このセリフは、恐らく今皆さんが受け取ったのとは違う意味を持つ言葉として発せられる)。そしてこれに対してソ・ユンボクが「はい、目標です」と答えるのだ。詳細に触れなければ、この受け答えは自然に感じられるかもしれないが、実際には「ソン・ギジョンにとって予想外の返答が返ってきた場面」であり、だからこそソ・ユンボクの返答がとても素敵に感じられた。そんな「目標」であるソン・ギジョンとの”闘い”も注目である。

ボストンマラソンは1897年に創設されたそうで、「近代オリンピックに次いで歴史の古いスポーツ大会の1つ」だそうだ。本作で描かれる1947年の大会時点で50年の歴史がある。そしてレースを終えた後、アメリカ人の実況は、「ボストンマラソン史上最もすばらしい大会」と評すのである。「朝鮮」がどこにあるのかも知られておらず、なんなら「敵国・日本」と同一視されているぐらいの知名度の無さの中で、ソ・ユンボクがどんな”快挙”を成し遂げたのかは、是非本作を観てほしいと思う。これは書いてもネタバレとは思われないと思うが、ソ・ユンボクは決して「優勝しただけ」ではないのだ。

この物語において日本は「朝鮮が難題を乗り越えなければならない土壌」を生み出した存在であり、だから日本人としては、正々堂々とした気分で「面白かった!」とは言いにくい作品ではある。ただやはり「面白かったなぁ!」と言いたくなる作品だ。物語としてはシンプルにメチャクチャ楽しめる作品だと思う。

さて、最後に気になったことを2つ。まず、ある場面で「正の字を書いて数を数える」というシーンが出てくるのだけど、朝鮮(韓国)も同じなのか、と思った。もちろんこれは、「日本統治下の影響」という可能性もあると思うが、映画の舞台は日本から解放された直後であり、だとしたら、「日本に教わったことなんか絶対にやりたくない」と思う人の方が多いんじゃないかと思う。だから、昔からそういうやり方だったのかなと思ったのだけど、どうなんだろう。

あと、朝鮮の国歌が、「蛍の光」の音楽でビックリした。いや、「別れのワルツ」かもしれないが(「蛍の光」は4拍子で、「別れのワルツ」は3拍子なのだけど、僕にはどちらか分からない)。調べてみると、歌詞だけが先に存在したが曲がなかったため、この曲に乗せて歌うようになったとか。「蛍の光」は元々スコットランドの民謡で、作曲者不祥だという。色んなところで使われているんだなぁ、とビックリした。

「ボストン1947」を観に行ってきました

まったくノーマークの作品で、映画の存在さえ知らなかったが、なかなか面白かった。「劇場版」というタイトルをあまり気にしていなかったが、どうやら元々はNHKのテレビ放送だったようだ。それが映画版として再編集されたということだろう。「役者がかなり豪華なのに、どうしてこの映画の存在を知らなかったんだろう」と思ったのだけど、そういうことならなんとなく理解できる。

東日本大震災の時だったと思うが、こんなエピソードを耳にしたことがある。地震発生直後、「津波の心配はない」という発表が恐らく気象庁からあり、もちろんテレビのアナウンサーもそれを伝えた。しかし実際には凄まじい津波がやってきて、大勢の命を奪っていった。

そして、「津波の心配はない」と伝えてしまったアナウンサーが、大きな後悔を背負っている、というのだ。

そのアナウンサーは、別に「嘘」を報じたわけではない。結果として誤りだったわけだが、報じた時点では「真実」だった。しかしそれでも、自分が「結果として誤りだった情報」を伝えてしまったがために、逃げ遅れて命を奪われた人もいるのではないか。そのように考えてしまったのだと思う。僕はこのエピソードを聞いてから、地震が起こる度に、アナウンサーの「津波の心配はありません」という言葉に意識が向くようになった。万が一これが間違った情報だったら、それを伝えている人は何を背負うことになるのだろうか、と。

そして、「結果として誤りだった情報」を伝えた者でさえ、大いに葛藤するのだ。であれば、「嘘だと分かっている情報」を伝えた者たちは、もちろん大いに葛藤したことだろう。

戦時中の日本放送協会(現・NHK)のラジオ放送を担ったアナウンサーたちの物語である。冒頭で、「事実を基にした物語」と表示されるし、登場する日本放送協会職員は全員、実在の人物のようである。

物語は、世の中がきな臭くなる前、1939年から始まる。愛宕山にあった日本放送協会が日比谷に引っ越し、ラジオを通じてニュースやスポーツを国民に届けていた。そして、本作の語り部であり、日本放送協会にアナウンサーとして入社した実枝子が初出勤したその日、日本放送協会内でテレビの受信実験が成功した。

その場には、日本放送協会を代表する名アナウンサーが揃っていた。「カラスが1羽」で有名な松内則三、二・二六事件で「兵に告ぐ」と発した中村茂。往年の名アナウンサーの中で、気鋭の新人と目されているのが和田信賢である。彼は「最強のアジテーター」と評される人物で、スポーツでは、その熱い実況によって一体感を作り上げていた。オリンピックで実況をするのが夢なのだが、1940年に開催が予定されていた東京オリンピックは返上となり、彼は、自身のアナウンスメントを遺憾なく発揮できる場を探しあぐねていた。

和田は弱いのに酒ばかり飲んで昼間は酔いつぶれていたり、新人研修でもほんの僅か喋って帰るなどやりたい放題だったが、「虫眼鏡で調べ、望遠鏡で喋る」という彼の信念は本物で、局内でも一目置かれていた。そんな彼が、日中戦争でなくなった英霊を靖国神社で鎮魂する「招魂祭」で行った実況には誰もが度肝を抜かれ、「我が道を行く」というスタイルを貫いていた。

そんな中、日本は「情報局」を設立、新聞・雑誌・ラジオの情報統制を強化することにした。もちろん、日本放送協会もその中に組み込まれた。「女性の声では指揮が上がらん」と言われ、実枝子は活躍の場を奪われてしまう。他の者たちも、「国民を高揚させるような読み方をしろ」「アメリカを敵と思わせる放送をしろ」という情報局の要請に、議論百出だった。

そうして、1941年12月8日を迎えた。日本放送協会は、アメリカへの宣戦布告(真珠湾攻撃)を伝えた。こうして一気に、戦局が激しくなっていく。日本放送協会は「大本営発表」を伝えるだけではなく、アジア各国に170名を超える職員を派遣、100を超える放送局を立ち上げ、「電波戦争」に従事したり、日本文化の普及に務めたりしたのである。

時には、「嘘」であることを知りながら、その情報を電波に載せたのだ……。

というような話です。

さて、まず1つこの点に触れておく必要があると思うが、NHKが日本放送協会について描いており、しかも戦時中とは言え「恥部」と呼べる事実を扱っているわけで、どこまで事実を正確に描いているかはなんとも判断しがたいと思う。この点に関しては、どこまで言っても留保はつきものだろうと思う。

ただ、あくまでも僕の感想だが、本作は「実在する人物を実名で描く物語」でありながら、人によってはどちらかと言えば「悪い印象」で描かれる。それは結構勇気の要る描き方ではないかと思う。なんとなくだが、子孫の承諾がなければなかなかそのような描き方は出来ない気がするし、とすれば、現実を可能な限りリアルに描き出すためにかなり奮闘したのではないか、と想像できるように思う。まあ、実際のところは分からないが。

さて、「戦争」を扱った作品はそれこそ山程あるだろうが、「アナウンサー視点」というのはなかなか珍しいように思う。当時は民間の放送局などなかっただろうし、テレビ放送もまだ広まっていない。つまり、活字メディアを除けば、「日本放送協会のラジオ」が唯一、「公式の情報源」として存在していたというわけだ。今の僕らには、それがどういうことなのかなかなか想像しにくい。現代はありとあらゆるメディアが氾濫しまくっているので、「誰もが同じ放送を聴く・観る」なんてことはほぼなくなったからだ。

そしてだからこそ、そんな時代にラジオアナウンサーとして活躍した者たちの影響力も、僕らにはなかなかイメージしにくい。例えば、ツイッターの日本一のフォロワーは前澤友作らしいけど、僕は彼のツイートを観ていないし、YouTube・Instagram・TikTokなどそれぞれに一番多いフォロワーの人がいるだろうが、その人たちの発信を僕は見ていない。僕はテレビを結構観ているけれども、テレビを観ない人は多くなったようだし、やはりどう考えても、「誰もがその人からの発信を受信している」みたいな人は、現代ではやはりあり得ないだろう。

そんな凄まじい影響力を持っており、自分たちがそのような大きな影響力を持つことを理解しているアナウンサーたちが、「戦争」という状況において様々な葛藤を繰り広げるのだ。

和田は結果として、開戦と終戦、どちらにもアナウンサーとして大きく関わった。

真珠湾攻撃の日、宣戦布告の事実を伝えたのは同僚の館野守男だったが、その日当直(なのか?)として和田も残っており、館野がマイクに向かって喋る中、「勢いが足りない」と、即興で「軍艦マーチ」のレコードを放送に乗せた。猛々しい雰囲気と共に、放送によって国民を鼓舞しようというわけだ。

そして終戦直前、前日本放送協会会長で情報局の局長になっていた下村宏は、和田にある頼み事をした。玉音放送を分かりやすく噛み砕いて、国民を鎮めてくれ、というのだ。それが出来るのは君しかいない、と。

終戦直前まで、日本放送協会の面々は「一億玉砕」を放送で伝え続けた。それを受け、「戦争が終わった」と伝えても、各地で軍人が反発し戦いを継続させようとするかもしれない。だから、それを君の声で抑え込んでほしい、というわけだ。

下村はそれを伝える際、和田に「私も君も、殺されるかもしれない」と言っていた。「お前たちが煽ったんだろう」と逆恨みされるかもしれないというわけだ。「それでも、引き受けてくれるか」と下村は言うしかなかった。

「覚悟」という意味では、1943年10月21日に行われた「出陣学徒壮行会」も凄まじかった。詳しくは触れないが、和田は「自らの信念」と「果たすべき役割」との間で凄まじい葛藤を繰り広げることになる。

僕はこういう作品や場面を観る度に、「同じような状況に立たされた時に『NO』と言える人間でありたい」と思う。しかし同時に、それはとてつもなく困難なことなのだろうとも思う。これまでにも、物語やドキュメンタリー、ノンフィクションなどで、「『信念』と『役割』が衝突する際の困難さに直面した人たち」のことを観たり読んだりしてきた。映画や本で取り上げられるのだから「凄い功績を持つ人物」であることが多いだろうが、そういう人たちであっても、そう簡単には状況に対処出来ずにいるのだ。

みたいなことを、多くの人はもっと認識した方がいいだろうな、と考えている。僕が漠然と頭の中で考えているように、「戦争になったら逃げる」「理不尽な状況に立たされても毅然とNOと言う」みたいに出来ると想像している人も多いかもしれないが、やはりそれは想像でしかない。たぶん無理だろう。そう簡単じゃないはずだ。そういうことを認識するためにも、こういう物語は定期的に摂取すべきだなと思う。

本作はとにかく、森田剛が圧巻だった。映画の最後に、和田信賢の享年を知った時、「森田剛が演じるには年齢が釣り合わないなぁ」と思ったのだけど、それ以外は言うことないという感じだった。「最強のアジテーター」と評されるほどのアナウンス能力を持っている役ということもあり、アナウンスの練習もかなり積んだのだろうと思う。声の力強さも印象的だったし、また、様々な場面で見せる「葛藤」には、染み渡るような辛さがにじみ出ていて、良い演技をするなぁ、という感じだった。

さて最後に。やはり忘れてはならないのは、「状況次第では、メディアは嘘をつく」ということを認識しておくということだ。ここで言う「状況」とは、決して「戦争」に限らないし、「メディア」も決して「大手メディア」に限らない。「情報量」も昔と比べたら莫大だ。私たちは益々、「情報の真偽」に注意しなければならない時代にいるというわけである。そういうことを常に意識しておく必要があるだろう。

「劇場版 アナウンサーたちの戦争」を観に行ってきました

なかなか面白い映画だった。ちなみに僕は『アンナチュラル』も『MIU404』も観ていない。いや、「観ていない」と書くと嘘になるか。年末年始に、人気ドラマを一気に放送したりする時間があるが、それでどちらの作品も何話かだけ観た記憶がある。だから、設定とか雰囲気とかはなんとなく知っているけど、詳しいことは分からない。そんな人間が観た感想である。

まずは内容の紹介から。

11/24、ブラックフライデーの初日に舟渡エレナはセンター長として配属された。国内の流通4割を担う15万平方メートルの巨大な物流センターだ。アメリカ資本のショッピングサイト『DAILY FAST』(デリファス)の物流倉庫であり、派遣社員700人が常時働く。ブラックフライデー期間は800人に増員される。

そして業量的にも売上的にも莫大になるブラックフライデーの初日に、その事件は起こった。アパートの一室で爆破事件が起こったのだ。状況から、デリファスが発送した荷物が爆発したと考えられた。

一体、どこで爆弾が入れられたのか?

デリファスの物流センターは、厳重なセキュリティが敷かれており、「ブルーパス」と呼ばれる派遣社員は、倉庫内にメガネとメモ帳とペン以外持ち込めない。また、発送する荷物はロットのまま倉庫内で開封する仕組みだ。荷物の中に爆弾を入れる余地などない。

となれば、デリファスの配送を一手に引き受けている羊急便だろうか? 警察も当初は彼らを事情聴取していた。しかし何も出てこない。出てくるのは、「1個運んで150円という配送料の安さ」「休憩もまともに取れない仕事」「再配達は1銭にもならない」という過酷な現実ばかり。さらにそこに、「発送するすべての荷物をチェックする」という仕事まで加わったものだから、羊急便の関東局局長である八木は疲弊しきっていた。

その後も、デリファスの荷物ばかりが爆発する。しばらくしてエレナは、ネット上である動画を見つけた。デリファスのブラックフライデーの告知動画のようだが、何かおかしい。調べてみると、デリファスが作った広告ではないという。そしてその流れでエレナは、「1ダースの爆弾」という、事件発生前に書かれたツイートを発見してしまった。

つまり、爆弾は12個あるということか……。事態を重く見た警察は、流通センター内のすべての荷物を差し押さえする決断を下すが……。

というような話です。

物語の本筋は「爆破事件の解明」にあるのだが、それはむしろ「補助輪」と呼んで良いかもしれない。本作の本質は、「日本の流通のリアル」と「その中で働く者たちの様々な葛藤」であり、それを爆破事件という「補助輪」と共にあぶり出していくという構成になっている。

僕はあまりネットでモノを買わない。別にそれは何か主義主張があるとかではなく、単に物欲があまり無いだけだ。本作に出てくる梨本に近いかもしれない。

まあそれでも、まったく使わないということはない。均せば、月に1回ぐらいは何かネットで買っている、ぐらいの頻度だろう。そして、ネットで買い物をする度に、「この値段で成り立っているのだろうか?」と感じる。「送料無料」が当たり前の世の中で、さらに商品の値段も異常に安く、「この売上で、関係する人の利益がちゃんと確保出来るものなのか?」と感じてしまうのだ。

いや、そう感じるからと言って、別にネットでモノを買うのを止めたりはしないのだが、ネットショッピングに限らず僕は、「『便利さ』に染まりたくない」という感覚を持っていて、そういう感覚が僕に、違和感を伝えるのだと思う。

「『便利さ』に染まりたくない」理由ははっきりしている。「依存」が好きではないのだ。僕は基本的に、「『これが無ければ生きられない』と感じるものが少なければ少ないほど幸せ」という感覚がある。そして、「便利さ」とはまさに「依存」を誘発するものなのだから、なるべく遠ざけておきたいのだ。「ちょっと不便」ぐらいの環境に慣れておくぐらいの方が、人生に対する満足度が割と高くなるんじゃないかと結構本気で信じている。

でも、こんな風に考える人間はほぼいないだろう。人類は基本的に「便利さ」を追い求めてきたわけだし、それが経済を成長させる原動力にもなってきたからだ。

だから、そんな世界が終わるわけも、止まるわけもない。そしてその事実は、「映画『ラストマイル』の世界を生きること」と同じである。

本作で提示される「爆破事件の真相」は、やろうと思えば実現可能であるように思う。もちろん「完全犯罪」は不可能だが、「捕まる覚悟」を持ってやるなら現実的には可能だろう。また、恐らくだが、もっと違うやり方だってきっと存在すると思う。というか今なら、メルカリなどで個人間のやり取りが可能なのだから、もっと様々な可能性が考えられると思う。

だから、「届いた荷物が爆発する」というのは、決して絵空事ではないのだ。

あるいは、昔僕はこんなことを想像したことがある。メルカリでもジモティーでも何でもいいのだが、他人に譲渡したものに「盗聴器」を仕込んでおく、というものだ。もちろん、盗聴器の電波は近い距離でしか受信できないだろうが、ジモティーのように「近場で譲渡する」と分かっているものであれば、街をうろうろと歩けば、自分が譲渡した「盗聴器付きの何か」に反応する可能性もあるだろう。日本の場合、「盗聴行為」自体は犯罪にはならないので、愉快犯的にやる人がいてもおかしくないし、というか、既にやっている人がいてもおかしくないだろう。

作中である人物が、「自分には当たらないと思ってる。正常性バイアスだよ」みたいなことを言う場面がある。確かにその通りだろう。エレナが働く物流センターには、品目だけで3億もの商品が存在する。商品数で言えばもっと莫大な数になるだろう。そして、その中の”たった”12個に爆弾が含まれているのだ。宝くじの1等が当たる確率はおよそ1000万分の1らしいので、「ブラックフライデー中に発送された商品が爆発する確率」は宝くじ1等が当たる確率より遥かに低い。

しかし人間には、「悪いことが起こる確率を高く見積もる」という性質がある。まあそうだろう。「宝くじ」は当たらなくても「残念!」ぐらいで済むが、「爆弾入りの荷物」を開けてしまったら、良くて重症、最悪死に至る。「ほとんど爆発しないんで大丈夫です」なんて話が通るはずもない。

そういう意味で、本作で取り上げられているテーマは、観る人の多くが「自分事」に感じられることという印象になるし、本当に絶妙だなと感じた。ちなみに、最近テレビで観たのだが、監督が「流通をテーマにする」と思いついたのは4年前だそうだ(そしてその話を脚本化にして、本作の物語が生まれた)。4年前と言えばコロナ禍が始まったぐらいで、「巣ごもり需要」はまだまだそこまで活発ではなかったはずだし、時間外労働規制による「物流の2024年問題」もまだそこまで顕在化していなかったはずである。2024年の公開はまさに絶妙という感じで、制作に時間が掛かるだろう映画でこんなタイミングで公開できたのは、もちろん偶然もあるだろうけど、かなり先見の明があったと言えるだろう。

さて、僕らにとって分かりやすいのは「配送ドライバーの苦労」だが、実は物流センターもかなりシビアである。派遣社員はゴリゴリに管理され、「遅刻・欠勤」「効率の悪さ」によってマイナスポイントが付けられる。また、巨大な物流センターなのに、センター長を含め社員は9人しかいない。物流などトラブル続出だろうし、ブラックフライデーともなればなおさらだろう。

しかも、明らかにAmazonをイメージしているだろうデリファスは、成果主義もえげつなく、「デリファスから出荷された荷物が爆発している」というトラブルが発生しても成果が求められる。この物流センターは、「稼働率が10%下がると1億円の損失」となるらしい。そりゃあ、警察の介入などもっての外だろう。

こういう現実を見るとやはり、「こんな負担を掛けてまで、注文したモノが明日届いてほしいか?」と思う。作中で配送ドライバーが、「昔は、家まで荷物が届くなんて奇跡だった。俺たちは奇跡を起こしてるんだ」と言っていたが、ホント、そんな「奇跡」が「当たり前」になっていることが異常なのだ。

ちなみに、エンドロールの最後に、普段映画ではあまり見ないような表記があった。「心の悩みは1人で抱えず、誰かに相談してほしい」みたいな文章が表示されるのだ。どうしてそんな表記がなされるのかは映画を観れば理解できると思うが、ホント、「心の悩み」なんかを”仕事なんか”のせいで抱えさせられる世の中は、おかしいと思う。

さて、あれこれ書いてみたが、もし『アンナチュラル』も『MIU404』も観たことない人が僕の文章だけ読んだら、「シリアスな物語なのか?」と感じるかもしれないが、そんなことはない。シリアスなテーマをリアルに扱いながら、全体の雰囲気としては軽やかでポップな感じがあるのだ。このバランスもまた凄いなと思う。

本作の場合、そのバランスを見事に取っているのが、舟渡エレナを演じた満島ひかりだろう。「メチャクチャ仕事が出来る人」という雰囲気を醸し出しつつ、トータルでは巫山戯たようなスタンスを取り続ける舟渡エレナという人物を絶妙に演じていたと思う。どんな危機的状況でも、彼女が発する「陽」の雰囲気が、作品全体を明るく保っている感じがあった。

そして、そんな人物だからこそ、時折見せるシリアスさにハッとさせられたりする。岡田将生演じる梨本孔と「カスタマーセントリック(すべてはお客様のために)」という企業理念について議論する場面や、彼女が誰か(最後に明らかになるが、ここでは触れない)とWEB上で話している時に口をついて出た「むしろ笑える」なんていうセリフは、「陽」の雰囲気と対極にあり、要所要所でこのような”引き締め”があることで、「浮ついているだけのキャラクター」みたいな印象にならずに済んでいる。

また、羊急便の関東局局長・八木竜平を演じた阿部サダヲもさすがだった。羊急便はデリファスの配送に依存しているため、舟渡エレナからの要求を断れない。しかしその要求は、あまりにもキツく、八木はどんどんと疲弊していく。ドライバーや配送センターなどの現場がギリギリで回っていることも理解している彼は、究極の「板挟み」状態にあり、観ているだけでもそのしんどさが想像できるような感じだ。

ただ凄いのは、「明らかにヤバい状況にいる」という深刻さが伝わりながらも、どこか「面白さ」みたいな要素も含まれていて、阿部サダヲが映るシーンは、シリアスになりすぎない感じがあるという点。彼は「配送の現場がいかに深刻か」というリアルを伝えなければならない立ち位置にいるので、それをこなしつつ、それが強く伝わり過ぎないようにブレーキを掛けるみたいなこともやっている感じがして、ちょっと凄いなと思う。

あと、誰のどのシーンなのか具体的には書かないが、容疑者の1人があることをする直前、「本当に死にそうな顔」をしていて、凄く印象的だった。無理やり言語化してみると、「悲壮感」よりも「諦め・解放感」みたいな雰囲気が強い表情で、「覚悟を終えた人の顔」という感じに見えたのである。そんなに多くは登場しないのだが、そのシーンが僕の中ではかなり印象的で、良い演技するなぁ、という感じだった。

さて、本作には「そんなに多くは登場しない人」がたくさんいる。『アンナチュラル』や『MIU404』のキャラクターが出てくるからという理由が大きいわけだが、「役者を豪華に使っているな」という印象だった。やはりそれは、監督と脚本家のタッグに信頼が篤いからなのだろう。三谷幸喜や宮藤官九郎などの作品も主役級の役者が端役で出ることが多い印象があるが、本作もそんな感じで、「贅沢感」が強い。

それはもちろん、主題歌を担当した米津玄師に対しても思う。もちろん『アンナチュラル』『MIU404』の主題歌も担当していたわけで、その繋がりで考えればとても自然なわけだが、『Lemon』や『感電』を発表した時とは「米津玄師」という存在の大きさが違う。これも偶然と言えば偶然だが、「物流」というテーマを最適なタイミングで劇場公開出来たように、先見の明という印象が強い。

ちなみに、本作『ラストマイル』の番宣も兼ねているのだろう、最近米津玄師が珍しくテレビ番組によく出るが、その中で話していて印象的だったエピソードがある。本作の主題歌『がらくた』には、「例えばあなたがずっと壊れていても 二度と戻りはしなくても 構わないから 僕のそばで生きていてよ」という歌詞があるが、これに関する話だ。

米津玄師は子どもの頃から、廃品回収車のアナウンスが気になっていたようで、その中でも、「壊れていても構いません」というフレーズが妙に耳に残っていたそうだ。それが歌詞に使われているわけだが、それが本作全体のテーマと上手く噛み合っている感じがあって、そういう点でも絶妙だなと思う。

撮影に関しては1つ、「物流センターの撮影はどこでやったんだろう?」と感じた。ベルトコンベアなど含めすべてセットなのかもしれないが、そうだとしたら相当な規模のセットを組んでいることになるように思う。ただ、実際の物流センターを借りるというのも難しいように思う。それこそ物流センターは、24時間稼働していたりもするだろうから、「稼働していない時間に使わせてもらう」みたいなことが難しい気がするのだ。

あと最後に1つ。「洗濯機」があんな風に絡んでくるとは思わず、細部に渡り様々な要素が絡み合うという点も面白いなと感じた。

単にエンタメ作品として観ても楽しめるし、社会問題を突きつける作品として観ても満足感があるだろうと思う。そして、「『奇跡』には理由がある」と改めて認識した上でポチろうではないか。

「ラストマイル」を観に行ってきました

さて、どうでもいいことではあるのだが、Filmarksの記録によると、この『箱男』が、僕がこれまでに観てきた映画の1000作目であるようだ。まあ、とりあえず記録として。

さて、本作『箱男』はやはり、よく分からなかった。「よく分からないだろうな」と想定して観に行ったので、それ自体は別に問題ではない。

さて、僕は原作の『箱男』を読んだことがあるようだ。「ようだ」と書いたのは、まったく記憶にないからである。映画と同様、読書記録もつけているのだが、それによると、今から20年ほど前に読んでいるらしい。全然覚えていない。

だから、映画を観ながら、「こんな話だっけ?」と思った。まあ、覚えていないのだから比較のしようもないのだが。

本作『箱男』は、途中まではなんとなく理解できたような気がする。「わたし」は、別の人物が担っていた「箱男」の座を奪い、自らが「箱男」となった。その生活は、「完璧な孤立」「完璧な匿名性」を有しており、また「私だけの暗室・洞窟」を支配できるもので、「わたし」は満足していた。執拗に追いかけてくるカメラマン(もしかしたらこいつも、自分の座を狙っているのかもしれない)や、よく分からない攻撃を仕掛けてくる乞食などに悩まされながらも、「わたし」は概ね、「箱男」として満足に生活していた。

しかしある日、「近くに病院があります」と言って、謎の女性がその地図を箱の中に入れてきた。罠だろうか。まあそう考えるのが自然だろう。しかしこの罠には乗っかってもいいかもしれない。そう「わたし」は考え、「箱」を脱ぎ捨てた姿で病院を訪れる。

一方、その病院で治療にあたるニセ医者は、白髪の男の世話をしつつ、葉子という看護師と共に病院を経営している。白髪の男は何か犯罪の計画を有しているようだが、よく分からない。そしてニセ医者は、その計画に協力するようでいてそうではなさそうである。

もちろん、「わたし」を病院へと呼び寄せたのは看護師の葉子であり、「わたし」はその存在に惹かれるが、ニセ医者と親しい関係であるらしい葉子は、「わたし」を窮地に追い詰める悪魔なのかもしれない。

そしてやがて、「本物の箱男」を巡る争いが始まることになり……。

というような話です。たぶん。

20年前、僕が原作小説を読んだ時にはまだ、今ほどスマホもSNSも広まっていなかったはずだ。もちろん、安部公房が本作を発表した時など、スマホの「ス」の字もなかったはずだ。しかしこの物語の中で執拗に提示される「匿名性」には、とても現代的な響きがある。僕らは「インターネット」を手に入れたことで「ほぼ完全な匿名性(情報開示請求などで身元は明らかになるので「ほぼ」と書いた)」を実現することになったが、安部公房が生きていた時代には「匿名性」が実現できる片鱗などほぼなかったはずだ。せいぜい、「覆面作家として活動する」ぐらいが関の山だっただろう。

そんな時代に「箱を被る」という形で「匿名性」を実現させ、それを物語として昇華させた安部公房にはちょっと驚きさえ感じさせられてしまう。

しかも、本作で描かれる「匿名性」には、「正体が分からない」というだけではない要素も含まれている。箱の中にいる「わたし」が、「箱男」として町中に潜んでいる時に、「仮に私の存在に気づいたとしても、見て見ぬふりする」みたいな実感を語る場面があるのだ。

そう、「箱男」というのは、「見られる側」である「わたし」がその正体を隠すという側面もあるわけだが、同時に「見る側」である世間が相手の正体を詮索しない、という要素も含むのである。この点で、「箱男」がもたらす「匿名性」は、ネット上の「匿名性」とはまた少し違ったものになると言えるだろう。

ネット上の「匿名性」はむしろ「詮索」を呼び覚ます。最近は、「GReeeeN(GRe4N BOYZ)」や「Ado」など、普通なら顔出しせずには行えない音楽活動を匿名のまま続ける人が出てきているが、やはりそういう人たちに対しては、「どんな人なんだろう」という興味は出てくるはずだし、それが過剰になれば「詮索」という形になっていくだろう。それは、ディズニーのキャラクターの「中の人」なんかに対しても向けられる視線と言えるだろう。

しかし「箱男」がもたらす「匿名性」はそうではない。世間は「箱男」を「そこにいないもの」として無視するし、また「箱男」に関心を抱く者であっても、「お前は誰だ?」という問いには意味を見出さない。「箱男」というのはそれで完結した存在であり、「中の人」が誰であるかなどどうでもいいのである。

そのような「匿名性」は、類似するものをパッとは思いつけないでいる。何かあるだろうか? まあ普通はあり得ないだろう。何故なら「箱男」というのは「普通誰からも憧れられない存在」であり、となれば「匿名である必然性」がまったくないということになるからだ。そして、「匿名である必然性」がないからこそ、「詮索」という行為が生まれないのである。

「『匿名である必然性』が無いのに『匿名』であるもの」は、世の中にはあまり存在しないだろう。だから、本作で描かれている「匿名性」は非常に特殊で、唯一無二であるように感じられた。

さて、本作でもう1つ問いかけられるのは、「本物とは何か?」である。この点に関しても、僕はよく考えることがある。

例えば「お札」。最近新紙幣が発行されたが、仮に誰かが、まったく同じ素材でまったく同じ技術で、まったく同じ印刷手法で「お札」を作ったとしても、それは「お札」とは認められない。ただの「偽札」である。「お札」の場合、「国(日銀)が発行した」という事実こそが「本物」の証なのであり、そうではないものは、たとえ材質や技術がすべて同じでも「本物」とは認められない。

同じようなことは、「ブランド物」に対しても感じる。例えばグッチのバッグとまったく同じ素材を使い、そしてかつてグッチに所属していた職人が作り上げたとしても、それはグッチのバッグではない。グッチが作るからグッチのバックなのであり、素材や製法が同じであることは、本質的には「本物」の証にはならないのだ。

では、翻って、本作で提示される「本物の箱男」とは、一体何を指すのだろうか? そう、作中では、その「本物さ」を巡って争いが続けられていたように思う。「本物の箱男である」という事実が一体何を指すのか誰も分かっていない。そもそもそんな問いは、「箱男」が1人しかいなければ成り立たないからだ。

そして「わたし」は、”前任”の「箱男」から奪い取る形で「箱男」になった。「わたし」にとっては、その事実を以って「本物の箱男である」と考えていただろう。”前任”がいなくなった時点で「本物の箱男」は存在しなくなった。であれば、「わたし」が新たに「箱男」になることで「本物の箱男」になれる、という理屈である。

では、「わたし」の存在が無くならない状況の中で、別の誰かが「本物の箱男」を名乗るためには、どうすべきだろうか?

本作の描写で興味深かったのは、「『箱男』の箱を買い取る」という話が出てくることだ。そそして一方で、「箱男になろうとする者」は、「箱男」が被っている箱の映像を観ながら目の前にある段ボールに汚しを入れている。

つまりこういうことだ。「わたし」から「箱」を奪うことで「本物の箱男」を不在にし、さらに「わたし」が被っていた箱そっくりの箱を新たに作ることで「本物の箱男」を名乗ろうというわけだ。

しかしここで不思議なことは、どうして「箱男になろうとする者」は、「買い取った『箱』を被る」という選択をしなかったのかということだ。「箱を買い取る」という話になっているのなら、その箱をそのまま被ればいい。そう考えるとここでは、先程僕が指摘したような、「素材や技術が同じでも『本物』とは言えない」みたいな話が関係しているような感じもあって、なかなか興味深い。

とまあ、この辺りまでは自分なりに色々解釈しながら観れたのだが、最後、「箱男」が改めて病院を訪ねてからの展開は「???」という感じでなんとも理解できなかった。

あと、謎の看護師が物語をかき乱すのだが、この看護師がエロさも生み出していて、ちょっとびっくりした。ますます「原作はこんな話だったっけ?」と感じたのである。

さて、個人的には、エンドロールの演出がよく出来ていると感じた。エンドロールは、恐らくすべて本人の直筆なのだろう、手書きの文字で構成されていた。そして作中では、「筆跡」もまた、「本物か否か」という要素として使われるのである(あの謎の器具がきっとそれに関係しているのだと思う)。

お札やバッグなどと同様、筆跡もまた「見た目が同じであっても『本物』ではない」という要素である。しかし、これもお札やバッグなどと同様、「結局のところ、見抜かれなければ『本物』と見なされる」のである。他にも「医師免許」「看護師資格」など、本作にはこのような「『本物』を巡る認識」が随所に登場するのだ。

そして作品全体のそんな主張を、エンドロールにも上手く反映させたということだろう。なかなか良くできた演出だったと思う。

さて最後に。公式HPを読んで知った、『箱男』映画化にまつわるエピソードに触れて終わろうと思う。

元々『箱男』という小説は、発表されて以降、ヨーロッパやハリウッドで映画化の企画が持ち上がったそうだが、その度に頓挫していたという。そしてそんな状況を繰り返す中、1986年、安部公房本人が最終的に映画化権を託したのが、本作監督石井岳龍だったのである。そして彼は1997年、ついに日独共同制作として正式に決定、スタッフ・キャストが撮影地であるドイツに渡ったのだが、クランクイン前日に日本側の資金不足により、なんと撮影自体が頓挫してしまったそうだ。

その後映画化権はハリウッドに渡るなどしており、制作の話も出たりしていたが結局上手く行かず。世界のマーケットでは「安部公房原作の映像化は不可能」と囁かれるまでになったそうだ。しかし石井岳龍監督は諦めていなかった。そして改めて企画を立ち上げ、企画頓挫の悲劇から27年、そして奇しくも安部公房生誕100周年にあたる2024年に公開にこぎつけたというわけだ。しかも、27年前に出演が決まっていた永瀬正敏、佐藤浩市を迎えて。

そんな風にして完成に至った作品なのである。この制作の裏話もまた、実に興味深いと言えるのではないかと思う。

まあそんなわけで、よく分からないと言えばよく分からないのだが、色々と思考が刺激される部分もあるし、また幻惑的な世界観もなかなか魅惑的で、全体的には観れて良かったなと思う。いやしかし、制作陣や役者はお疲れ様でしたという感じである。

「箱男」を観に行ってきました

いやー、これはホントに驚かされた。ただ、この「驚かされた」には少し説明が必要なので、まずは内容の紹介から始めよう。いやーしかし、これは凄いなぁ。公式HPによると、最終的には国民の4人に1人が劇場に足を運び、『パラサイト 半地下の家族』も上回る観客動員を記録したそうだ。まあそうだろう。本作の冒頭には、「実話をモチーフにし、フィクションを混じえた作品」と表記されたが、さらにその後で、「国民に秘されていた」とも記されたのだ。もちろん、その真相は書籍などで既に明らかにされていただろうが、こんな風にエンタメ映画に昇華されたことでより多くの人が知ることになったはずだ。まあホントに、凄い話である。

物語は、1979年10月26日の早朝から始まる。前線に配備されていた者も含め、軍人が一斉に集められたのだ。すわ戦争かと誰もが考えたが、そうではなかった。「独裁者」と評されたパク大統領が側近である中央情報部長に暗殺されたのである。国は戒厳令を発令、最大限の警戒に当たることとなった。

さて、この事件を受けて国民の間では「民主化」を求める声が高まった。そんな期待もあってのことだろう、大統領暗殺事件の捜査に国民の関心が集まっていた。しかし、暗殺事件の合同捜査本部長の就任した保安司令官チョン・ドゥグァンは、とんでもない野心を秘めた男だった。彼は陸軍内に「ハナ会」という秘密の組織を構築しており、彼に忠誠を誓う者が軍内に多くいた。そして彼は、大統領の死をきっかけに、さらなる権力を握ろうと画策するのである。

一方、イ・テシンは参謀総長であるチョン・サンホから首都警護司令官に任命された。多くの者がこのポストを狙っている中、当初イ・テシンはこの任命を断ろうとしていた。自分には相応しくないというのだ。しかし参謀総長は彼のことを「真の軍人」と考えており、「君のような無欲の人間に引き受けてほしい」と何度も説得する。そして最後には、半ば強引に首都警護司令官を引き受けることになったのだ。

そうしてイ・テシンが首都警護司令官に就任したのだが、彼と仲間には大きな懸念があった。それが「ハナ会」である。秘密組織のため実態が分からないが、陸軍内に相当のシンパがいると目されていた。またイ・テシンとチョン・ドゥグァンは軍人としてのあり方も含め対立していたため、状況次第では首都警護司令官であるイ・テシンの命令を聞かない者も出てくるのではないかと思われていた。

一方チョン・ドゥグァンは、様々な手を使って権力を手に入れようとする。主に参謀総長に取り入ることでどうにかしようと考えていたのだが、参謀総長もまた高潔な人物で、2億円の裏金を差し出された際も受け取らなかった。それどころか、チョン・ドゥグァンとその一派の動きが目に余るようになったため、参謀総長は彼らを”左遷”と言っていいような役職へと配置することに決めたのだ。

これで、チョン・ドゥグァンをトップとするハナ会は万事休すのはずだった。しかしチョンは諦めない。彼はあるとんでもない計画を立てていたのだ。

実は、パク大統領が暗殺された現場には参謀総長もいた。その後の捜査で、参謀総長は暗殺には関わっていないと判断されたのだが、チョン・ドゥグァンは捜査本部長の権限を使って「内乱幇助罪」で参謀総長を逮捕することにしたのだ。しかし、ただ逮捕しただけでは自分たちが危うい。だから、「大統領からの裁可」を得つつ、同時並行で「参謀総長の逮捕(実際には拉致)」を行おうと考えていたのである。参謀総長さえ排除できれば可能性は広がる。そう考えてのことだった。しかし一歩間違えば武力衝突となり、ハナ会の面々は反乱軍として逮捕されるだろう。一か八かの賭けだった。

実行は、組閣発表の前日、12月12日に決まった。彼らは当日、イ・テシンら3人を首席に呼んでおり、事が起こってもすぐに事態に対応できないようにしていた。そして自分たちの未来のために、すべてを賭けてチョン・ドゥグァンが大統領府へと向かい、参謀総長逮捕の裁可を得に行くのだが……。

というような話です。

さてそんなわけで、僕が一体何に驚いたのかの説明をしましょう。これは恐らく、多くの人にとって「ネタバレ」ではないはずですが、「ネタバレ」だと感じる人もいると思うので、何も知らずに映画を観たいという方はこれ以上読まないで下さい。

さて、僕が驚いたポイントは、「反乱軍が勝ってしまったこと」である。こう書くと、多くの人が「えっ?」と感じるのではないかと思う。「韓国が軍事政権下にあったことを知らないのか?」と。

いや、それはもちろん知っていた。いや、「もちろん」と言えるほどは知らなかったと書くべきだろうか。「韓国が軍事政権下にあったこと」は知っていたのだが、それがいつの時代の話なのかちゃんと知らなかったのだ。本作では冒頭で1979年の物語だと表記されるが、その頃にはもう軍事政権下ではなくなっているような気がしていたのだ。

僕が生まれたのが1983年なので、僕が生まれる少し前の出来事だ。そしてそんなタイミングでもまだ韓国が軍事政権下にあったというのは、ちょっと僕には信じられなかったのだ。というわけで、映画を観終えてちゃんと調べてみたところ、韓国では1961年から1993年まで軍事政権下にあったようだ。1993年って、かなり最近じゃないかと思う。そんな最近まで軍事政権下にあったとは思わなかった。

そしてだからこそ僕は、「最後にはイ・テシンが勝つ」と思いながら観ていたのだ。「反乱軍が勝つはずない。だからここから、何か逆転があるはずだ」みたいな感じで最後の最後まで観ていたのである。そして最終的に「反乱軍」が勝ってしまったことにメチャクチャ驚かされたのだ。

先ほど「このことを書くと『ネタバレ』になる人もいる」みたいな書き方をしたが、恐らく僕より若い世代には、「韓国が軍事政権下にあった」という事実をそもそも知らない人もいるんじゃないかと思う。だから、そういう人が本作を観たら、僕と同じように「反乱軍が勝っちゃうの? マジで?」みたいな感想になるんじゃないかなと。物語のセオリーから言ったら絶対にイ・テシンが勝つはずなんだけど、そうはならなかった。まさにこれは「実話を基にしているから」こその展開だし、だから、僕のように詳しい知識を持たずに本作を観た人は、同じように驚かされるんじゃないかと思う。

冒頭で記された通り、「フィクションも含まれている」ということなので、どこまでが事実かは分からない。密室で行われていることも多いので、そういう描写はフィクションとして描くしかなかったのではないかと思う(ただ、当時の騒動に関わったハナ会のメンバーが、後にノンフィクション作家の取材に応じて証言しているみたいなこともあるかもしれないから、そうだとしたらある程度事実ベースと言えるのかもしれない)。ただ、イ・テシンとチョン・ドゥグァンの人物描写は概ね事実に沿っているんじゃないかと思う。そしてこの2人は、凄まじく対照的だ。

イ・テシンはまさに「軍人の鑑」とでも言うべき人物で、いつどんな場面でも「圧倒的な正しさ」を放っている。それでいて「正しすぎて近づけない」みたいな感じでもなく、ちゃんと目の前にいる人間を見ながらやるべきことをやっていく。さらにその上で、ここぞという場面では自分の信念をどうやっても揺るがせにしないという押しの強さもあり、「こんな上司がいたら頑張って働くだろうなぁ」と感じさせる雰囲気がビンビンに出ていた。

一方でチョン・ドゥグァンはとにかく酷い。酷いなんてもんじゃなく酷い。己の権力のためにしか物事を考えておらず、状況を打破するためなら口八丁の嘘もつく。「手段に関係なく、勝った者こそが正義なんだ」という価値観しか持っておらず、勝つためならとにかく手段を選ばないえげつなさを常に放っている。

あまりに対照的な2人である。そして結局、チョン・ドゥグァンという「悪」が権力を手中にしてしまったという事実に絶望的な気分にさせられてしまう。本当に、嫌な世の中だ。

本作では、後半は丸々「12.12軍事反乱」の様子が描かれる。そして、どこまで事実かは分からない(映画的な演出が含まれているかもしれない)ものの、作中では随所に「あと一歩」という状況が描かれる。「あそこであいつがあんなことをしなければ」「あの時あいつがあんなことを言わなければ」みたいなことが本当に多かった。確かにチョン・ドゥグァンが勝ったのだが、本当にギリギリのところで、このクーデターが失敗に終わる可能性も十分にあったと思う。

ただ、イ・テシンにとって不利だったのが、「参謀総長が連れ去られてしまったため、指揮系統が混乱した」という点だろう。軍の組織のことはよく知らないが、「参謀総長の逮捕の裁可を大統領に求める」のだから、陸軍内において相当の地位にいることが分かるだろう。イ・テシンを首都警護司令官に任命したのも、チョン・ドゥグァンらを左遷させる人事を決めたのも、すべて参謀総長である。

だからそんな人物が逮捕(実際には拉致)されてしまったために、陸軍内では指揮系統が乱れに乱れる。特に、参謀総長が不在の場合に代理を務めるらしい参謀次長がとにかく酷かった。恐らく、この参謀次長が色んな場面で横槍を入れてこなければ、チョン・ドゥグァンらのクーデターは成功しなかっただろう。参謀次長はとにかくイカれているように見えた。もちろん、本作はイ・テシンを分かりやすく英雄的に描く構成になっているし、だからもしかしたら、史実とは違って参謀次長を悪く描いたという可能性もあるかもしれない。しかし、参謀次長のような訳のわからん指示をする人物がいなければチョン・ドゥグァンらの計画が成功しなかったことは間違いないので、やはりこの辺りの描写も割と事実に沿っていると考えるのが自然ではないかと思う。

さらに、本作には国防長官も登場するのが、こいつもまあ酷い。国防長官は国軍のトップなのだが、クーデターが起こってもその所在は知れないし(結果的にそれは悪くはなかったのだが)、姿を現したら現したで何もしないし、というかむしろ邪魔ばかりする。国防長官も参謀次長と同じく余計なことばっかりするし、それがなければチョン・ドゥグァンらの計画は成功しなかったはずだ。マジで酷かったなぁ、こいつら。

そんな中でもイ・テシンは、可能な範囲で最善を尽くし続けようとするのだが、結局正義は打ち砕かれてしまった。繰り返しになるが、普通の物語だったらイ・テシンのような人物は絶対に負けない。「必ず勝つ側の人間」的な描かれ方をしているのである。だからこそ余計に驚かされてしまった。こっち側が負けてしまうんだな、と。

映画全体の感想としては、まず冒頭からしばらくは状況を把握するのが難しい。軍人ばっかり出てくるし、その中で誰に注目すればいいか分からないからだ。ただ、イ・テシンとチョン・ドゥグァンに焦点が当てられるようになると、俄然物語は理解しやすくなる。

また、状況の把握の難しさは、「12.12軍事反乱」が始まってからもどうようだ。陸軍内で「イ・テシン派」と「チョン・ドゥグァン派」に分かれて争うわけだが、クーデターが始まるまでの物語内では登場しない者ばかりなので、誰が誰で誰とどういう関係にあるのか分からない。まあこの辺りはきっと、韓国の人でも正確には分からないだろう。そもそもが複雑な話なので、その辺りはある程度理解を諦める必要があると思う。

あとはとにかく、「ソウル市」を舞台にまさに戦争が勃発しそうな雰囲気になっていたことにも驚かされるし(夜中だが、もちろん市民も見ている)、何よりも、「とっくに覚悟なんか出来てる」と呟いたイ・テシンが用意していた飛び道具にも驚かされた。なるほど、だからあそこであのシーンがあったのかと納得したぐらいである。

さて最後に。ハリウッド映画でも韓国映画でも「自国の恥となるような史実を基にした映画」というのは結構あると思うのだが、日本映画ではあまり思い浮かばない。いや、もちろんあるんだろうし、僕が觀ていないだけだと思うのだが、ただ、本作『ソウルの春』が韓国で4人に1人が観るほどの大ヒットを飛ばしたことを考えれば、「日本国内で、恥部と呼ぶべき歴史を舞台にした映画が大ヒットするだろうか?」と感じてしまう。ドキュメンタリー映画ではそういうテーマの作品もあるとは思うが、エンタメ映画ではなかなかないだろう。例えばだが、「地下鉄サリン事件」や「オウム真理教」を真正面から扱ったエンタメ映画は無い気がするし、これからも生まれない気がする。

恐らくこれは、「何かに忖度してそういう映画を作らないようにしている」というわけではなく、シンプルに「日本国民が歴史に興味がない」ということなのだと思う。少なくとも映画の制作側は、「恥ずべき歴史を描いた映画なんかヒットしない」と考えているのだろう。そんな風に考えると、国民の民度の差を感じさせられて少し恥ずかしくなる。

「日本は素晴らしい国だ」みたいなナショナリズム的な発想もいいが、どんな国にだって「汚点」はあるはずで、そういう「恥部」に光を当てて改めて関心を促すみたいなことも、映画が持つ1つの力と言ってもいいんじゃないかと思う。

そういう作品が日本映画でパッと思い浮かばないことは残念に思えるし、それだけで判断できるものではないにせよ、アメリカや韓国との「大きな差」を感じさせられてしまった。

そんなわけで本作は、ちょっと凄まじすぎる作品だった。何にせよ、これが史実であることに驚かされるし、フィクションも混じっているだろうが、その中で描かれている人間ドラマもとても良かった。メチャクチャ男臭い、っていうかほぼ男しか出てこない映画だが、2時間半ずっと惹きつけられる、なかなかにとんでもない映画だった。

「ソウルの春」を観に行ってきました

公式HPによると、「デンマークの人々にとっても知られざる実話」なのだそうだ。冒頭で「実話に着想を得た物語」と表示されたので、事実そのものではないようだが、しかし、状況設定は事実と考えていいだろう。

そしてその状況はまさに、最低最悪としか言いようがないものだった。

映画を観ている時には理解していなかったのだが、本作は終戦1ヶ月前を舞台にしているようだ(登場人物たちが「戦争はもうすぐ終わる」とよく口にしていたが、まさか終戦1ヶ月前とは思っていなかった)。舞台はデンマーク。1945年当時、デンマークはナチス・ドイツの占領下にあった。

そんな中、リュスリンゲで市民大学の学長として働くヤコブは、学生たちの教育に非常に力を入れていた。息子のセアンは、そんな父の後ろ姿を見ながら日々を過ごしている。自慢の父親だ。妻・リスも大学の運営を手伝っており、彼らの生活は基本的に、大学運営に密接する形で行われている。

そんなある日、ドイツの将校から緊急の要請がやってくる。デンマーク国内の学校や大学で、ドイツ難民を受け入れろというのだ。デンマークはドイツと協定を結んでいるとかで、拒否は出来ない。ヤコブは、200人もやってくるというドイツ難民の扱いに悩むが、理事長から「体育館を開放しよう」と提案され、そのつもりで準備をしていた。

しかし、ドイツ難民受け入れ当日、駅に向かうと、なんと532人もの人でごった返していた。聞いていた話の2.5倍以上だ。とてもじゃないが体育館に収容できる人数ではないが、ドイツの将校は聞く耳を持たない。ヤコブは532人を受け入れざるを得なくなった。

しかし、ドイツとの協定では「場所だけ提供すれば良い」ということになっているらしく、ヤコブら大学側はドイツ難民の世話をするつもりはない。デンマークでも当然「ナチス・ドイツ」は毛嫌いされており、「ドイツに協力した」となれば自分たちに飛び火するという事情もあった。だからヤコブは、532人のドイツ難民を体育館に押し込め、それ以上何もするつもりがなかったのである。校舎は明け渡さないので、学生への授業はそのまま行われた。

しかししばらくして、体育館の中でジフテリアという感染症が広まり始めた。少しずつ、死者が増え始める。ヤコブは、難民の中に唯一いた医者と話をするが、「薬を打つか、隔離するかしなければどうにもならない」と言われた。しかし、薬の提供も隔離場所の提供も「ドイツへの協力」と見なされてしまう。念の為デンマークの医師会に連絡してみたのだが、「ドイツの収容所にいるデンマーク人を解放しない限り、デンマークの医師はドイツ人を診ない」という返答だった。ヤコブは静観するしかなかった。

しかしジフテリアは、主に老人と子どもの命を奪っていく。このまま何もしなければ、幼い子どもが命を落としていくことは確実だ。大学の地続きの敷地内で、”敵”であるドイツ難民が日々命を落としていく。ヤコブにも彼らを助けたい気持ちはあるが、しかし、理事長ら大学の重鎮との会合では常に「ドイツに協力するな」と釘を刺される。学長という地位と家族の生活を守るためには、ドイツ難民に手を差し伸べるわけにはいかない。

そんな中、彼らはどんな決断をするのだろうか……。

というような話です。

ヤコブが置かれた状況を想像すると、そのあまりの酷さに絶句させられる。彼は無理やり難民の受け入れを強制された。確かに協定を踏まえれば、場所さえ貸せば問題ない。だから、感染症が蔓延する体育館に難民を詰め込んだまま何もせず終戦を迎えればいい。

しかし、そんな風に主張する者たち(理事長ら会合に出席する重鎮)は恐らく、大学から離れた場所に住んでいるのだと思う。そしてたぶんだが、ヤコブ一家は大学の敷地内で生活しているはずだ。だから、理事長らにとっては「憎き敵」という記号でしかないドイツ難民が、ヤコブたちにとっては「近くで生活をする者たち」なのである。この差はとても大きかっただろうと思う。

理事長や町の住民にとっては、「憎き敵」という記号でしか見えていないのだから、ヤコブたちがドイツ難民を手助けしようとした理由が理解できなかっただろう。しかし、同じ敷地内で生活をしており、日々死体が積み上がっていく様を見ていれば、やはり感じ方も変わってくるだろう。作中では、まず妻のリスが手助けをしようとするのだが、次第にヤコブも考え方が変わっていくことになる。

しかし、本作にはもう少しややこしい状況が組み込まれている。息子のセアンと、セアンが仲良くしているビルクである。

ビルクは医者の息子で、恐らく大学運営を手伝っている(学生ではなく運営側の人物だと思う)。ピアノが弾けるため、そういう意味でも重宝される存在だ。しかしある日、彼の父親が突然射殺されてしまう。ドイツ兵の仕業だった。デンマーク国内では、ナチス・ドイツに反抗するレジデンス組織が台頭しており、彼らがドイツ兵らに危害を加えることもあるのだが、ドイツ兵はその報復に、無差別に(しかし大きなダメージを与えられる人物を選んで)報復を行っている。ビルクの父親が、そのターゲットにされてしまったというわけだ。

ヤコブにとってビルクは重要な存在で、そんな彼の父親がドイツ兵に殺されているという事実がヤコブを躊躇わせる。ドイツ難民を手助けするような行為を、ビルクが許すはずがないと分かっているからだ。まず1つ、ここに大きな葛藤がある。

さらに、ビルクとセアンの仲が良いという事実もまた、ヤコブを悩ませる。セアンは12歳と幼いながらも、「”敵”であるドイツ難民を助けるべきではない」という明確な考えを持っている(ちなみに、セアンの妹はまだ幼いため、その辺りの事情が理解できていない)。セアンは自身の気持ちや感覚をあまり言葉にすることがないが、しかし、「次第にドイツ難民に手助けをし始める母・父」に対して、曰く言い難い感情を抱いていることは理解できる。セアンははっきりと、「そんなことは間違っている」と考えているのである。

そのことはもちろん、ヤコブもリスも理解している。ヤコブがドイツ難民にもっと積極的に手助けすると決めたシーンで、「家族に危害が及ぶかもしれないから怖い」と考えを変えたように見えるリスが夫に、「子どもにはどう言うの?」と聞くのだが、それに対してヤコブは「我々は正しいと伝えるさ」と返している。これはもちろん、「そんな風に説得しなければならない」ということであり、両親もまたセアンがドイツ人に対してマイナスの感情を抱いていることを理解している。

ヤコブは次第に、町の住民からも白い目で見られるようになっていく。「売国奴」「ナチスの手先」「町の面汚し」と散々なことを言われてしまうのだ。しかし、恐らくそれらはまだ我慢できたのではないかと思う。一番キツかったのは、セアンからの視線だろう。彼ははっきりとは口にしないものの、「どうしてお父さんはドイツ人を助けるの?」と訴えかけていることは確かだ。そしてそこにはさらに、「僕が尊敬していたお父さんなのに」みたいな感情も含まれていると思う。ヤコブもそのことを正しく認識していただろうし、その事実が何よりも辛かったのではないかと思う。

さらにセアンが、ドイツ人を徹底的に敵視しレジスタンス活動も行っているビルクと仲良くしていることもあり、余計にその視線が辛く感じられるだろう。ホント、ヤコブにはまったく非がないのに、とんでもない状況に置かれてしまったものだなと思う。

観ていて、ヤコブやリスに気持ちも分かるし、でもセアンの気持ちも分かる。ビルクの立場にいたらやはり「許せない」という気持ちが強くなるだろうし、ヤコブに暴言を吐く町の人たちの気持ちも理解できなくはない。だから本当に辛いなと思う。どの登場人物の立場に立ったとしても、「そういう風に振る舞うしかないだろうな」と感じる。何が正解ということもないし、とにかく「ナチス・ドイツ」と「時代」が悪かったと思うしかないような、そんな状況が描かれていた。

映画の最後に、「デンマークで死亡したドイツ難民は10942人で、その内子どもが6540人だった」と表示された。個人的には、そこまで細かい数字がよくも残っているものだと思うが、それはともかく、死亡者の内の半数以上が子どもだったというのも残酷な話だ。

ある人物がある場面で、「でも子どもだよ」と口にする。確かにその通り。「ナチス・ドイツが憎い」という感覚は当然としても、やはり子どもに罪はないだろう。せめて子どもぐらいは、「敵」である以前に「子ども」であると認識すべきではないかと感じた。しかしこれは、リアルを知らない者が口にする机上の空論に過ぎない。日本にも「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉があるが、なかなか「子どもだから」という捉え方ができなくなってしまうのも仕方ないだろうなと思う。

しかし、特にヨーロッパで制作される戦争映画に対して感じることだが、ナチス・ドイツは本当に最悪だったんだなと思う。よくもまあこれだけ「ネタ」(という表現は適切ではないだろうが)が尽きないものだと感じるくらい、ナチス・ドイツの蛮行はあらゆる映画で描かれる。もちろん戦時中であれば、日本を含めどの国も酷い行為を山程行っているだろうが、それにしてもナチス・ドイツはちょっとずば抜けて異常だったと感じさせられる。

ナチス・ドイツに限らないが、戦争に付随する「異常さ」を多くの人が理解することが「抑止力」に繋がると思っているし、そういう意味でも多くの人に知られるべき事実だろう。世界全体が平和であってほしいと思っているが、しかしやはり、どうにか日本が戦争に巻き込まれないでほしいと思う。もちろん、主導もしないでくれ。

「ぼくの家族と祖国の戦争」を観に行ってきました

映画を観終わって、デジタルリマスター版の公式HPの記述を読んでようやく、本作が能登半島地震を受けて29年ぶりに劇場公開された理由が分かった。

公式HPには、プロデューサーの言葉として、こんな文章が載っている。

【「あれから29年になりますか…」スタッフの多くは感慨深げに言う。「『幻の光』の映画化権をください」と宮本輝邸を訪問したのは1992年、その訪問から映画公開までは4年近くの歳月を要した。監督も新人、主演俳優も新人、もとよりチームを牽引するプロデューサーである私も映画界ではズブの素人であった。その新人たちに、映画の扉は硬く閉ざされたままで、出資も配給も全く目途がたたずただ日々が過ぎていった。「この企画はあきらめるべきかもしれない」とひとり断念の旅をと、輪島に向かった。「こちらでやれることは応援しますよ」立ち寄った観光協会のHさんは軽々と言った。その瞬間から映画『幻の光』は、まぼろしでなく、現実に動き出したのだ。】

今でこそ世界的な映画監督となった是枝裕和だが、本作が初監督作品であり、まだ無名の存在。そして、「主演俳優も新人」というのはおそらく江角マキコのことなのだろう。本人曰く、プロデューサーも素人だったというわけで、普通なら完成しなくてもおかしくない映画だったのだろう。しかし、輪島の人たちの全面的な協力のお陰で作品を完成させることが出来た。そういう想いを抱いていれば当然、「何かしなければ」という考えに至るのも当然だろう。本作の再上映によって、「美しい輪島」を改めて観てもらうという意図もあるようだが、より実際的な話で言えば、これも公式HPの記述だが、「収益から諸経費を除いた全額を輪島市に届け、1日も早い復旧復興を祈念する」ということのようである。

まあ、本作を観る前の段階ではその辺りのことを詳しく理解していたわけではないのだが、そういう観点からも観て良かったかなと思う。

本作は、「生活」と「風景」を映像で繋いだような作品だった。冒頭からしばらく描かれる尼崎での場面ではセリフは多いものの、能登へと舞台を移してからは、セリフは極端に少なくなる。荒れた海が立てる波の音や美しい夕日、輪島朝市のガヤガヤした音、ゴトゴトと走る電車。画面は常時、そういったもので埋め尽くされていく。

物語的な「起伏」という意味では、大きく2つしか無いように思う。1つは、主人公・ゆみ子の夫の死。そしてもう1つは、ゆみ子が再婚のために能登へと嫁ぐこと。この2つ以外は本当に「日常生活」が描かれているだけという感じだ。だからなんというのか、感覚としては「映画を観ている」みたいな感じではなかった。じゃあなんなんだと言われても困るのだが、「生活」と「風景」を眺めているという意味でいうなら「旅」みたいなものと言えるかもしれない。客席に座りながら、観客は旅をしているというわけだ。

そんな中で、物語の中心を貫くのが、「夫は何故自ら死を選んだのか」である。

尼崎に住んでいた夫妻は、慎ましいが、穏やかでぬくもりのある生活をしていた。風呂は銭湯、盗んだ自転車に2人乗りし、爆音でラジオを聞く隣人の老人に思いを馳せる。そんな何でもないけど愛おしいような日々を過ごしていた。

さらにそれから2人は子どもが生まれる。まさにこれから人生が再び始まっていくというような、そんな日々だったのだ。

しかし夫は、生後3ヶ月の子どもを残して、自ら命を絶った。理由は、ゆみ子にもまったく想像が出来なかった。

そんな想いを抱えながら生きる女性を主人公にしている。荒れる日本海はゆみ子の心情を表しているようにも思うし、度々映し出される電車は、「幸せのレールの上を走っていると信じていたゆみ子」のことを象徴しているようにも思う。

ゆみ子は、子連れで能登へと嫁いでいく。表向き、その生活はとても平穏だ。息子は、再婚相手の娘と仲良くなり、夫婦仲も問題なし、地元にも受け入れられている。しかしその一方で、ゆみ子の心の内側は日本海のように荒れている。

それはもしかしたら、日常が平穏であればあるほど強まっていったのかもしれない。というのも、自殺した夫との生活も平穏そのものだったからだ。平凡で幸せな平穏が続くと思っていた人生が、なんの音沙汰もなく変わってしまった。だからこそ、日常が平凡で幸せな平穏を保っていればいるほど、不安が押し寄せてくるのかもしれない。

そしてそれは、誰にもどうにもしてあげることが出来ないものだ。唯一可能性があるとすれば自殺した夫だけだが、死人に出来ることはない。誰かの慰めは、内なる日本海の荒波にかき消される。いや、それが分かっているのか、特段ゆみ子を慰める者も出てこないのだが。

身近な人間が自殺したら、「どうして死を選んでしまったのか?」と僕もきっと感じるだろう。しかし同時に僕は、「誰だって、ふと死にたくなることがある」とも考えている。はっきりした理由などない。むしろ、はっきりした理由がある方が死ぬのは難しい。「死のうとしている自分」を常に意識しながら死に向かわなければならないからだ。想像しているほど、これは容易なことではない。

だから、ふとした瞬間に、「あ、今なら死ねそう」なんて思考が浮かんだりして、そのまますっと死んでしまうみたいなことは、いくらでも起こり得ると思う。「死ぬこと」はとても難しいからこそ、「世界が一瞬無音になる」みたいなタイミングを捉えてふっと死の方へと足を踏み出してしまうみたいなやり方じゃないと、人って案外死ねないだろうと思っているのだ。

だから、身も蓋もない話をすれば、「死んだ理由なんて考えても仕方ない」と僕は思っている。ただ、そんな風に思える人は、そう多くはないだろう。「自ら死を選ぶ」ということについて「何か理由があるはずだ」という思考に囚われてしまう気持ちも分かる。そしてそんな状態に陥ってしまえば、「自分が悪かったのかもしれない」という考えに行き着くのも時間の問題だろう。

ゆみ子はきっと、そんな想いを抱えながら生きているのだろうし、それはとてもしんどいことだろうと思う。しかし本作では、そのような「しんどさ」はあまり可視化されず、ゆみ子は平穏に生きているように描かれていく。そんな女性の葛藤が、後半からラストにかけてジワジワと染み出してきて、「残された者の難しさ」みたいなものを感じさせられた。

しかし、個人的に結構印象的だったのは、江角マキコが可愛かったこと。僕の中の江角マキコのイメージは四角くて固さを感じさせるようなものだったんだけど、本作の江角マキコは丸っこくて柔らかい印象で、ちょっと驚かされた。特に夫が自殺する前の尼崎での生活を描く場面は、江角マキコの柔らかい雰囲気がとても印象的で、とても意外な感じがした。

正直に言えば、物語的には特に何も起こらないので、退屈と言えば退屈なのだが、「映像の美しさ」は圧倒的で、しかも非常に残念なことに、「その美しい世界は、地震によって失われてしまっている」わけなので、余計に29年前に撮られたこの映像に意味が出てくると言えるだろう。「能登の応援のために」みたいなことを僕が言うと嘘くさくなるので言わないが、「美しい世界が閉じ込められた世界」を観てみるのも良いだろう。ついでに、あなたが支払った鑑賞料の一部が、輪島の寄付へと回るというわけだ。

「幻の光」を観に行ってきました

「どうやって撮ってるんだろう?」って、観ながらずっと思っていた。

元々僕は本作を、ドキュメンタリー映画だと思ってた。映画館で観た予告で本作の存在を知ったのだが、その雰囲気から「ドキュメンタリー」に感じられたのだ。しかし、映画が始まってすぐに、「あ、ドキュメンタリーじゃないんだな」と気付いた。別にドキュメンタリーじゃないから観る気が失せたとかそんな話ではないのだが、とにかく「これはフィクションなんだな」と冒頭ですぐに気づいたのだ。

そこまでは別に不思議でもなんでもない。

ただ、映画を観ていてとにかく驚かされたのは、「明らかに実際の出産の現場を撮影していること」だ。帝王切開で子どもを取り出していたり、子宮口から赤ちゃんの頭が出てくる場面だったりが、映画の中で普通に映し出されるのだ。CGなわけがないし、演技でどうこうなるものでもないので、この出産シーンは本物だと思う。鑑賞後に公式HPを確認したら、「実際の出産シーンを織り交ぜながら、」と書いてあったので、間違いない。

そしてそこに、役者たちの演技が組み込まれていくのだ。

「実際の出産シーンを織り交ぜている」ということは、実際に病院にカメラを入れて撮ってるはずだ。しかし、作中でも描かれていたように、フランスの産婦人科病棟は戦場のような有り様だ。助産師や医師たちが口々に、「30年も続けてたら死ぬ」「常に人手不足」「人を人として扱わない」など、あまりに酷い職場環境に文句を言っているのだ。

また、本作の最後は、助産師たちのデモの様子を映し出して終わる。本作に登場した役者たちが映っているので、このデモのシーンも映画用に撮影したのだとは思うが、しかし恐らく、「助産師たちのデモがあった」というのは事実なんじゃないかと思う。そのデモの中で助産師たちは、「助産師は絶滅」「重要な仕事なのに薄給」「過労死寸前」といったプラカードを掲げていた。相当深刻な状況にあるようだ。

そして、そんな現場に、撮影のためのカメラを入れるのだ。そんなこと出来るのだろうか? まあ実際にやったのだろうけど、そういう点から僕は、「本作は一体どんな風に撮られたんだろう?」と感じてしまった。

そんなわけで、明らかにフィクションだと分かる映像の造りではあるものの、随所に「ドキュメンタリー感」を感じさせる作品であり、そのリアリティに圧倒されてしまった。

僕は正直、子どもの頃からずっと「子どもなんかほしくない」と思っていたし、今も変わらずそう思い続けているので、結婚はともかくとしても、「父親になる」みたいな選択を自らするつもりはまったくない。ただその一方で、「子どもや子育てをしている家庭はもっと優遇されるべきだ」と思っている。どう考えたってそうだろう。「老人」や「未婚の人(僕もそうだ)」に金を使うより、「これから生まれてくる子ども」に金を使う方がどう考えても合理的である。

そしてだからこそ、命が生まれる現場を支える人たちも、優遇されてほしいと思う。

フランスは、僕の知識では、かなり大胆な少子化対策を行って、割と有意な成果が出た国だったはずだ。ちゃんと知っているのは「婚外子を法的に認めている」ぐらいだが、調べてみると、税金など様々な点で優遇措置があるのだそうだ。

しかしそんなフランスで、助産師たちが過酷な労働を強いられている。それはなんとも皮肉というか、理解しがたい状況であるように感じられる。

彼女たちが働く環境は、なかなか凄まじい。それは単に「助産師や医師がハードワークを強いられている」というだけに留まらない。もちろんそれも大問題だが、もっと重篤な問題がある。「人手不足のために、母子に危険が及ぶような状況が常に存在し続けている」のだ。

作中で主人公の1人として描かれている黒人のソフィアは、自身が担当する患者が子宮破裂を起こし、帝王切開に切り替わったという経験をする。この件でソフィアはメンタル的にかなりやられてしまうのだが、ここには実は様々な複合的な問題があった。そもそも分娩台が空いておらず、分娩台にいればチェックできたはずの変化に気付けなかった。またモニターが故障し、遠隔でのチェックも難しくなる。さらにその日は、スタッフに病欠があり通常よりも人数が少なかったのだ。だから、ソフィアを責めるような雰囲気に対して同僚の1人は、「ソフィアの問題じゃなくて、人手不足が問題なの」と訴える。

また、後半ではこんな状況が描かれていた。出産を控えて分娩台にいた2人の妊婦が、誰の手も借りずに出産したのだ。助産師たちは人手不足と業務過多のため、その2人がいる病室に行けなかったのである。一緒にいた夫は、「5時間も誰も来なかったんだぞ」と、助産師のリーダー的女性を責めていた。

とてもまともな状況とは言えないだろう。

そんな環境の中で、どうにか踏ん張る者たちが描かれる作品で、そのあまりの壮絶さに圧倒されてしまった。

さて、そんな「命が生まれる現場の凄まじい労働環境」をベースにしながら、主にソフィアと、彼女とルームシェアしているルイーズの2人がメインで描かれていく。公式HPの内容紹介を読んでようやく理解したのだが、この2人は5年間の研究を終えて助産師として働き始めたのだそうだ(なんとなく僕は、ソフィアは元々働いていて、そこにルイーズが新たにやってきたのだと思っていた)。初日、ルイーズは先輩から「こんな忙しい日に新人?」みたいに言われながら仕事を教えてもらう。しかししばらくの間、「何か出来ることはありますか?」と聞いても、「私の邪魔をしないで」ぐらいしか言われない日々を過ごす。

一方のソフィアは、自ら積極的に手を挙げ、チームの面々からも信頼されるようになっていく。しかし、先述した「ミス」があり、ソフィア自身もメンタルがおかしくなってしまったり、上司も配置換えを考えたりと、なかなか難しい状況に置かれてしまう。

そんな2人の家に、新人の医師(だと思う)のバランタンが間借りするという話になったことで、少し厄介な状況に陥ることになる。ただまあ、その話には触れないことにしよう。しかしなかなかハードな状況で、誰も悪くないと言えば悪くないが、悪いっちゃ悪いよなぁ、というなかなか難しい感じがした。確かに「善行」かもしれないが、しかしそれを「善行」と呼んで良いのか悩むような状況だった。

さて、これは助産師に限る話ではないが、大変だなぁと感じたのが「安心させなければならないが、死と隣り合わせでもある」という命の現場の辛さである。

冒頭でルイーズが上司に怒られる場面がある。上司がある妊婦に、「いくら手を尽くしても収縮が収まらないので、未熟児のまま双子が生まれてしまう」と告げた場にルイーズもいたのだが、病室から出るとルイーズは「感傷的になるんじゃない」と怒鳴られてしまう。ルイーズは「未熟児のまま双子が生まれる」という話を聞いてもらい泣きしてしまっていたのだ。

それの何が問題なのか。上司は「患者を不安にさせたいの?」と詰め寄る。助産師は妊婦を安心させなければならないのだ。そのため、「自分の感情はロッカーにでもしまっておくの!」と言われてしまうのである。

一方、ソフィアにもこんな場面があった。後にソフィアを罪悪感で苦しめることになるミスの前、その妊婦に「私たちがついているから安心です」と彼女は伝えていたのだ。もちろんソフィアは本心からそう思っていただろうし、そう出来るとも考えていたはずだ。しかし実際には色んな状況が重なり、とても「安心」とは言えるような状況ではなくなってしまった。

映画で描かれている病院は、とにかく深刻な人手不足に陥っており、そのせいでミスも起こりがちなわけだが、そうでないとしても、やはり今も「出産」というのは「死」と直結する営みであることは間違いないと思う。つまり「危険な状況に陥る可能性は常にある」というわけだ。

しかし同時に彼女たちは、妊婦を安心させるために「大丈夫です」と言わざるを得ない。もちろん彼女たちは嘘をついているつもりはないだろう。そのために全力を尽くす覚悟を持っての言葉であることは間違いないと思う。しかし、どれだけ努力しても予期せぬことは起こるし、結果として伝えた言葉が嘘になってしまうこともある。

僕は、本質的にはこの点が最も辛いんじゃないかと感じた。もちろん本作で描かれる「過酷な労働環境」も深刻なのだが、仮にそれが改善されたとして、「出産が危険な行為である」という事実が変わるわけではない。そしてそうだとすれば、どれだけ完璧に業務が行われたとしても、避けがたい危険が発生してしまうことはあるはずだ。

それが分かっていながら「大丈夫です」と言わなければならない世界。そのことが僕には一番大変であるように感じられた。

さて最後に。僕には上手く理解できなかったのがソフィアへの扱いだ。ソフィアが「ミス」の後で配置換えを提案されたことは既に書いたが、実は「ミス」以前にも配置換えの打診を受けている。産前教室という、出産前の妊婦に講習などを行う教室のことだろう。ソフィアはその申し出に対し、「分娩室が好きなので」と言って断っていたのだが、そもそも僕には、ソフィアがどうしてそんな打診を受けているのかが謎だった。なにせ、助産師は常に人手不足だからだ。

だから僕には、「ソフィアが黒人だから」としか思えなかったのだけど、それはさすがに曲解なのだろうか? そこまで人種差別を露骨に行うものなんだろうかとも思う、他に思い当たる理由がないので、僕としてはそう認識する他なかった。本当のところはどうなんだろう?

あと、公式HPを観て驚いたのは、本作は今日2024年8月17日時点で、「ヒューマントラストシネマ有楽町」でしか上映されていない。8月31日以降、他の地域でも順次公開されるようだが、しかし東京では「ヒューマントラストシネマ有楽町」1館のみのようだ。割とマイナーな映画のはずなのに、劇場が結構混んでいたのは、ここでしかやってなかったからなのかと納得。映画館の運営もなかなか大変だと思うので色々仕方ない部分はあるとは思うが、個人的には、もう少し広く公開されても良い映画じゃないかと思う。

「助産師たちの夜が明ける」を観に行ってきました

いやー、これはホント、なんとも言えない「ざらつき」をずっと感じさせられる作品だった。「自分は今、一体何を見ているんだ?」という感覚に何度も襲われたのだ。それぐらい、描かれているのは「不条理」に満ちた世界なのだが、しかし僕らは、これが「自分の人生の先にも待ち受けているかもしれない日常」であると理解できてしまう。その恐ろしさを、観ている間ずっと感じていたように思う。

本作は、僕の感触では、「物語」としては成立していないと思う。結局最後まで観ても「分からない部分」は残るし、まあそれ自体は別にいいのだが、「過去」と「現在」のあまりの結びつかなさが、「物語」という形にまとまることを拒んでいるような感じがした。

ただその一方で、「物語世界」としては成立していると思う。本作では「認知症」が描かれるが、「認知症」という圧倒的な「不条理」によって物語が展開されていき、それ故に「物語」としては成立していないのだが、しかし、描かれている「世界」は、まさに今も、この世の中のどこかに存在しているのではないか、と思わせるリアリティがある。

そしてこの、「『物語』としては成立していないが、『物語世界』としては成立している」という本作の特異さが、「ざらつき」となって観客に届くのではないかと感じた。

物語は冒頭から、異様な形で始まっていく。ある民家を、警察の特殊部隊のような集団が取り囲むのだ。緊迫した雰囲気が漂う中で彼らは突入を決めるのだが、しかしその直後、玄関から男性が出てきた。

それが、認知症になった遠山陽二である。そして「なぜ特殊部隊が集まっていたのか」は、映画の最後まで分からない。

さて、父親の逮捕を受けて、脇役ながら大河ドラマにも出演している役者である卓は、妻・夕希を連れて九州へとやってきた。行政とやり取りし、施設への入居が決まるが、しかし卓にはなかなか自分事には思えずにいる。というのもこの30年間、卓は父・陽二と数えるほどしか会っていないのだ。

卓が幼い頃に両親は離婚。そしてその離婚を機に、卓は陽二と疎遠になった。陽二はその後、直美という女性と結婚。卓は、結婚の報告などの折に何度か陽二を訪ね、直美さんとも関わりを持っていた。しかし結局、父・陽二のことなどほとんど関係ないような形で、卓は人生を歩んできたのである。

行政からの帰り、夫婦で父親の家へと向かったのだが、自分たちではどうにもならないと、直美さんの携帯に電話をすることにした。しかしその携帯は、家に置きっぱなしで直美さんとは連絡が取れない。それどころか、父親の逮捕を境に、直美さんの行方が分からなくなってしまったのだ。

一体何が起こっているのか? 卓は、家に残された手紙やメモ、写真などに目を通し、また「拉致されて外国に収容されている」と思い込んでいる、施設で暮らす陽二に話を聞いたりするのだが、何も見えてこない。それどころか、見知らぬ男性の訪問を受けたり、見知らぬ女性が陽二の家で食事の宅配を注文していたなど、謎は増えていくばかり。

一体、何があったのだろうか……?

とにかく圧倒的だったのは、遠山陽二を演じた藤竜也。演技のことを言語化するのは得意ではないが、とにかく細部まで含めた存在感が圧巻だった。認知症を患う前の「絶妙に嫌な雰囲気を醸し出す老人」の雰囲気も、認知症を患ってからの「狂気を狂気だと理解していない狂気」みたいな振る舞いも、ちょっと凄いなと思う。本作はとにかく、「遠山陽二」という人物のリアリティにすべてがかかっていると言っていいだろうし、それを藤竜也が完璧以上の演技で成立させたと感じた。

はっきり言って、「物語としては成立していない」というのは、遠山陽二があまりにもムチャクチャだからなのだが、しかしそれでも、「遠山陽二という存在」は実にリアルで、よくもまあこんな絶妙なバランスを成立させたものだと感じた。僕は映画を観る時、どうしても「物語」ばかりに目が行ってしまうので、あまり「役者の演技」に打ちのめされることはないのだが、本作の場合は、とにかく「藤竜也の演技」に驚かされたし、揺さぶられたし、感動させられた。

さて、本作のタイトルには「不在」という言葉が入っているが、では「存在する」とはどういうことだろうか? 本作の最も深い問いかけは、ここにあるのではないかと思う。

少しまで、今泉力哉のオールナイト上映のイベントに行き、そこで初めて映画『退屈な日々にさようならを』を観た。そして、合間のトークで今泉力哉が、この作品を作るきっかけみたいな話をしていたのだ。大学時代の友人が亡くなったという連絡をもらったのだが、もちろん彼はそんな想像などまったくしていなかった。つまり彼の中でその友人は「生きていた」のだ。そこまで親しい友人ではなかったのだろう、亡くなってから3ヶ月後にその連絡をもらったそうだが、実際に命を落としてから今泉力哉が連絡をもらうまでの3ヶ月間、今泉力哉の中では、その友人は「生きていた」のである。こんなエピソードを話していた。

これはつまり、「記憶の中に存在していれば、リアルに存在しているのと大差ない」みたいなまとめ方も出来るだろう。「もう存在しない」という情報によって記憶が更新されてしまえばそうもいかないわけだが、そんな「更新」がなされない内は、「記憶の中の存在」と「リアルでの存在」は大差ないのである。

さて、しかし本作では、「記憶が失われていく」という認知症が扱われている。先程の話を逆にそれは、「記憶の中の存在」が消えてしまえば、仮にリアルに存在していたとしても、「リアルでの存在」も消えてしまう、ということになるだろう。本作ではもちろん、このような難しさが描かれている。

しかしそれだけではない。本作の非常に興味深い点は、「記憶が物質として残っている」ということにある。

あまり具体的には書かないが、本作には「大量の手紙」が登場する。そしてそれは、「陽二と直美の記憶そのもの」と言ってもいいだろう。「記憶」が脳内に留まっているだけだと、認知症のようなきっかけで失われてしまいもするが、「手紙」という形で物質になっていると、また違った存在の仕方が可能になる。

良かれ悪しかれ。

さて、この点に関しては少し、僕自身の話を書いてみたいと思う。

僕は20歳ぐらいの頃から「本を読んでブログで感想を書く」ということを始め、その後映画でも同様のことをやるようになった。現在41歳。途中まったく本にも映画にも触れなかった数年間があるものの、概ね20年近く文章を書き続けていることになる。

また、僕の文章を定期的に読んでくれる方には理解してもらえると思うが、僕は割と「その時々の自分の思考・感覚・価値観」を「本・映画の感想」の中に織り交ぜていくというやり方をしてきた。

なので僕にとっては、「昔のブログ記事を読み返すこと」は「タイムカプセルを開ける」みたいな感覚がある。

正直、昔のブログ記事を読み返すを読み返すことはほとんどないのだが、たまにそういう機会があると、「そうか、昔の自分はこんな風に考えていたのか」なんて感じることも多い。正直、「20代の自分のことを、全然別人に感じられる」みたいな感覚さえある。僕自身はずっと連続した存在としてこの世に生き続けてきたわけだが、どの時代で切り取るかによって、僕自身の見え方が全然変わってくるのである。

そして同じことが、「手紙」に対しても言えるだろう。陽二と直美は、結婚して30年が経っている。そして、その「手紙」が書かれたのは、2人が結婚する以前なのだ。

30年前と今とでは、同じ自分だろうか? はっきりとそんな風に突きつけられることはないものの、本作にはそんな問いも含まれているように感じられた。

さて、本作はそんな「陽二と直美を巡る物語」が主軸の1つになっているのだが、もう1つ、「卓が状況を把握するために動く」という描写も主軸だと言える。そしてこちらも、実にややこしい。

こちらのややこしさは先程とは違い、「『記憶』に類するものがほぼ存在しない」という点にある。陽二と直美のややこしさは「存在したはずの『記憶』が失われる」ということによって浮き彫りになるわけだが、卓が直面したややこしさは「そもそも『記憶』なんてなかった」という点にあるというわけだ。

卓の視点からすれば、「父親が誰だか分からない人と再婚し、そうかと思えば突然警察に捕まった」みたいな感じだと思う。陽二と直美の夫婦関係も、他の人との関わりも、何も知らない。そんな「何もない」ところから彼の奮闘は始まっていくのである。

もちろん、「父親との『記憶』が何かあったら、状況に変化があったのか?」と言うと、なかっただろう。陽二と直美の問題は、そんな領域とは関係ない部分で深まっていくからである。しかし卓は、「あまりにも何も知らない」ことによって、どう動くべきか分からずに困惑することになる。

なにせ、父親は認知症になり警察に捕まり、父親の再婚相手は行方不明で連絡も取れないのだ。施設に収容された父親から話を聞くことは可能だが、意味不明な話ばかりするため、まともな会話は成立しない。日記、手紙、メモ、写真など、残された情報は膨大だが、しかしそれらを読み解くとっかかりさえ無いのだ。

観客は、「陽二と直美の過去のやり取り」を回想という形で知ることが出来るが、卓にはもちろんそんなことは不可能だ。そういう意味では、卓もまた「認知症的状態」にあったと言っていいかもしれない。

そしてそんな「認知症的状態」にある2人が、まったく交わらない世界線の中で、肉体的にのみ接触しているという状態を捉え続けるのが本作であり、まさにお互いにとってお互いが「不在」だったと言えるだろうと思う。

とまあ色々書いてはみたものの、本作を上手く捉えきれているのかどうかよく分からない。というか本作の場合、「正しい捉え方」など存在しないようにも思う。物語というのは大体、終盤に向けて収束していくものだが、本作はとにかくひたすら発散し続けている感じがあり、だから「全体像を的確に捉える」ことなど出来ないように思う。観た人が、琴線に触れた部分を切り取って、「これが私の捉え方だ」と表明していくしかないのだろう。

面白かったかどうかという質問には馴染まない作品だが、とにかく「圧倒された」ことは間違いないし、観て良かったなとも思う。久しぶりに、なんとも言えない「特異さ」を孕む作品を観たという感じで、個人的にはとても満足だった。

「大いなる不在」を観に行ってきました

ここ数年、毎年、藝祭に行っている。東京藝術大学から割と近いところに住んでいることもあり、金曜日にわざわざ有休を取り、学生たちの神輿合戦を見学、その後の土日で、藝大内の展示を色々と見て回る、みたいなことをしている。

だからと言って別に、「芸術・アートのことが分かる」などと言いたいわけではない。むしろ、全然分からない。というか、藝祭に限らず、美術展などにも足を運ぶのは、「あー、全然分かんない」という感覚を得るため、と言ってもいいだろう。

ただ、芸術・アートそのものはよく分からないものの、毎回感じることがある。それは、「これに人生を注ぎ込んでいるんだ」ということだ。

そしてそれは、とてもうらやましいことに感じられる。

『あの青い絵を描くまで、生きてる実感が持てなかった』

『今、俺の心臓は動き出した気がした』

本作『ブルーピリオド』の主人公・矢口八虎も、そんな風に考えるシーンがある。毎晩のように渋谷でオールし、まともに勉強していないのに学年で4位という好成績を保つ八虎は、「成績を上げることも、友人との会話も、『ノルマをクリアする』ぐらいの感覚しかない」と考えていた。そのあまりの「手応えの無さ」に、ある種絶望していたのだ。

その感覚は、僕もよく分かる。41歳になった今も、結局、「手応えの無さ」を感じ続けているのだ。いや、「もしかしたら」と思うこともあった。「これなのかもしれない」と感じることが。しかし、錯覚だったようだ。「生きてる実感」なんか、結局感じられない。

だから羨ましい。「そういう何か」に出会ったという事実に対して。それが、「食べていけないでしょ」と母親から言われるような「絵」だとしても。「自分より上手い奴はいくらでもいる」という実感と共に目指さざるを得ないものだとしても。「空っぽの自分」を突きつけられるようなしんどいものだとしても。

「そういう何か」に出会えることは羨ましいなと思う。

しかし、「そんな甘いものでもない」という描写が、一方で本作の中では描かれている。「『好きを突き詰めた』のに上手く行かなかった人物」が登場するのだ。

もちろん、本作はそんな人間ばかりが出てくると言える。東京芸術大学の絵画科は日本一受験倍率が高いと言われており、その倍率なんと200倍。毎年5人程度の合格者枠を1000人が争うというわけだ。となれば、毎年955人が「『好きを突き詰めた』のに上手く行かなかった人物」になると言えるかもしれない(これが「絵画科」だけの数字だということを忘れてはならない)。

しかし本作では、そういう人たちとはまた違った「『好きを突き詰めた』のに上手く行かなかった人物」を描き出している。鮎川龍二。高校に女性の制服を着て来る人物だ。学校では「ユカちゃん」と呼ばれている。そして冒頭、彼は教師から注意を受けるが、「私は自分のルールを守る」と口にするのだ。

最初こそ、「反抗的な態度」みたいな受け取り方になるかもしれないが、徐々にそうではないことが分かってくる。彼は「『好きを突き詰める』ことで自分を守っている」のである。

龍二についてはあまり詳しく描かれないが、「『美しいもの』が好きで、自分もそのような『美』を目指したいと考えている」ということは理解できる。そしてそれは、彼の家族にはまったく理解されていないようだ。学校でも教師には認められていないし(同級生には受け入れられている)、彼自身も「世間的に広く受け入れられる存在ではない」と自覚している。

そしてそんな自分の存在をどうにか守るために、彼は「好きを突き詰めざるを得ない」のだ。

本作ではそんな、「まったく違う形で好きを突き詰める人物」が描かれることになる。それはこの2人だけではない。八虎の美術部の先輩である森まるは、「私は好きなものしか描けないから、作品を持ち込める美大を選んだ」と言っているし、美大専門の予備校(だと思う)で出会った高橋世田介は、努力と戦略で藝大入試を突破しようとしている八虎に向かって、「芸術じゃなくても良かったくせに」と、自分の「好き」の強さを訴えようとする。

こんな風に「『好き』に囚われた人たち」を描き出す物語であり、そのややこしさが詰まった作品と言えるだろう。

だから、「『そういう何か』に出会えること」が本当に良いことなのかは分からない。出会ってしまったら最後、底なし沼のような人生を歩むしかなくなるのかもしれない。

今、そっち側にいない僕は、結局「隣の芝生は青く見えている」だけと言えるだろう。しかしそれでも、「『そういう何か』に出会えること」に羨ましさを抱いてしまう自分がいることは確かだ。

さて、そんな「『好き』に囚われた者たち」の中で、矢口八虎は一体何が違っていたのか。高校2年生の時、美術の時間にたまたま描いた「青い絵」によって絵の世界に惹き込まれた八虎は、藝大受験まで620日というところから努力を始めた。繰り返すが、倍率は200倍であり、3浪4浪は当たり前の世界だ。また、八虎の家庭の金銭事情から、国公立以外の大学には通わせられない。となれば、芸術系の大学で唯一の国公立である東京藝術大学しか選択肢はない。そういう状況で、「それまで絵なんて描いたことがない高校2年生」が、620日間の努力で藝大を目指そうというのだ。

では、そんな八虎には、一体何があったのか?

恐らく、彼が「藝大を目指す」と決めるきっかけとして大きかった要素の1つとして、「才能だけの世界じゃない」と言われたことが大きかったはずだ。先輩の森からも、美術教師の佐伯からも、そんな風に言われていた。もし「才能」で入学が決まるなら、八虎はそもそも藝大を目指さなかったはずだ。しかし、「才能だけじゃない」と知ったことで、「可能性はゼロではない」と思えたのだ。

さらにその上で、「ずっと手を動かし続けられる」という才能があった。これももちろん、「そうする以外になかった」というだけの話ではあるのだが、ただ、どんなに好きなことであったとしても、気力や体力やメンタルなど様々な理由から「手を動かし続ける」ことが出来ない状況もあるだろう。八虎自身も、本作ではポツリポツリと語られる程度だったが、620日間を走り抜ける中で、メンタル的にやられていたことが結構あったようだ。

まあ、そりゃあ当然だ。「私立には行かせられない」と言われているし、恐らく「浪人も避けてほしい」だろう家庭環境の中で、「倍率200倍の受験」に挑もうとしているのだし、また、「才能だけの世界じゃない」と分かっていても、やはり「圧倒的な才能を持つ者」と接すると気分も落ちる。また、「目の前にあるモノしか描いたことがない」という八虎には「縁」というお題は難しく、そんな時には自分の引き出しの無さ、底の浅さみたいなものに打ちのめされたりもする。

しかしそれでも、彼は「手を動かし続ける」ことだけは止めなかったのだ。龍二はある場面で、そんな八虎に対して「覚悟」という言葉を使っていた。「藝大は、お前のように覚悟を決めた人間が行くべき場所だ」と。逆に言えば、才能があっても覚悟が無ければ藝大の壁を突破するのは難しいのだろう。予告でも使われているが、「俺は天才じゃない。だから、天才と見分けがつかなくなるぐらいまでやるしかない」というわけだ。

そんな「才能には努力で打ち克てる余地がある」と、かなりリアルに信じさせてくれる物語でもあり、その辺りもグッと来るポイントだと思う。

とまあ色々書いたのだけど、作品としてはメチャクチャ良かったとは言い難いと感じた。その理由ははっきりしている。2時間じゃ足りない。本作は、勇気を持って前後編にすべきだったんじゃないかという気がする。前後編は興行的に色々と大変なのかもしれないけど、ちょっと2時間で描くのは厳しい物語だったと思う。せめて2時間半ぐらいの物語として描くべきだったんじゃないかなと。

主人公・矢口八虎の物語だけ見ても「もうちょっと深く掘り下げた方が良くない?」と感じるシーンはあった。さらに本作には、鮎川龍二、森まる、高橋世田介と、主役級の扱いと言っていい人物が出てくるのだけど、彼らの掘り下げはかなり浅い。鮎川龍二はそれでも描かれている方だと思うが、森まると高橋世田介はちょっと物足りなささえ感じるぐらいの描かれ方だったと思う。

僕は原作は読んでいないが、映画化されたのは一部だと思う(というかまだ連載は続いているみたいだ)。だとしたら、前後半の物語にしても、描くべき物語はいくらでも引っ張ってこれただろう。だから個人的には、あらゆる描写をもう少し深く描いた物語として観たかったという感じがした。

ただ、その点と表裏をなす話ではあるが、逆に言えば「原作を読みたいと思わせる映画」であるとも言える。映画だけでも十分、「『ブルーピリオド』という物語が持つ面白さのエッセンス」は伝わると思う。だから、後は原作漫画を読めばいい、ということになるだろう。原作未読の人が、映画を観て「原作を読もう!」ってなるパターンは、本作に関しては結構あるんじゃないかと思う。僕も、普段まったく漫画を読まないので「機会がない」という意味で読まなそうではあるが、「原作を読みたい」という気分にはさせられたし、「漫画喫茶に行くような機会があったら優先で手にとってみよう」と思う。

だから、「映画を観た人に『原作を読みたい』と思わせる」という意図で本作が作られたのであれば、それは正解と言えるだろう。だから、制作側の意図次第では評価が変わるという感じがする。

さて、本作を観る前から知っていたことではあるが、本作は「絵を描くシーンを吹き替え無しで行った」ことでも注目されている。主役級の人物を演じた眞栄田郷敦、高橋文哉、桜田ひより、板垣李光人は、超一流の指導者の元、「プロが見てもしっくりくる動き」を猛特訓したそうだ。僕自身は絵に詳しくないので、役者の演技を見ていても「本物っぽいか」など分からないわけだが、こういう外的な情報を知った上で観ることで「圧倒的なリアリティ」を感じられると言える。特に板垣李光人は、本人もアート作品を発表していることもあって、「天才役」がハマっていたなと思う。

あと、高橋文哉の脚が細くてマジでビビった。8kgも減量して撮影に臨んだそうだ。

「ブルーピリオド」を観に行ってきました

以前、三崎亜記『となり町戦争』を読んだ時のことを思い出した。かなり前に読んだのでちゃんとは覚えていないが、こんな感じの話だったと思う。ある町に住む男の元に、時々(あるいは毎日)町の広報紙が届く。そこには「となり町で行われている戦争」についての戦況が記されていた。被害状況や、死者数などである。しかし彼には、「戦争の雰囲気」は感じとれない。銃声も聞こえなければ、流血を目にすることもないのだ。完全に、普通の日常である。彼が「戦争」を意識するのは、町の広報紙の報告だけ。そんな「見えない戦争」を描いた物語だ。

本作『風が吹くとき』を観ながら、この『となり町戦争』のことを思い出していた。「戦争が起こるぞ」という政府からの案内に、夫はちゃんと準備を進めようとするのだが、妻がかなり楽観的に構えているのだ。そんな妻の姿を観て、「戦争」の遠さみたいなものを感じさせられたし、それが『となり町戦争』の雰囲気に近い気がした(ただ、本作で描かれる妻は、戦争を経験している人である)。

もう1作、こちらも大分昔に読んだのであまり覚えていないが、中島京子『小さいおうち』という小説のことも思い出した。この作品は、戦時中のことを描いているのだが、戦闘や貧困とは無縁の日々を送る家族を描き出す。「戦争」と聞くとどうしても、「国民全員が『火垂るの墓』のような世界に生きていたのだ」みたいなイメージをしてしまうが、もちろんそうではない人もいたのだということを思い起こさせてくれる作品だ。

そしてこの『小さいおうち』もまた、本作『風が吹くとき』の世界観に少し通ずるものがあると感じた。「戦争」というのは人によって異なる体験をもたらすものであり、それもあって、共通の認識を持つことが難しくなるとも言える。

さてそれでは、本作『風が吹くとき』の内容を紹介しようと思うが、その前に少し、本作にまつわる話に触れておこう。僕は鑑賞時点ではこれらのことを知らず、鑑賞後に公式HPを見て理解したことである。

本作はそもそも、1986年に英国で制作、翌1987年に日本で公開された作品だ。40年近く前の作品というわけだ。1987年に公開された日本語吹き替え版は、大島渚監督が担当。本作の主題歌である『When the Wind Blows』をデヴィッド・ボウイが歌っているのだが、1983年公開の映画『戦場のメリークリスマス』での関わりもあって、大島渚に声が掛かったのだという。そして、主人公である夫婦の声を担当したのが森繁久彌と加藤治子である。また本作には原作が存在し、その原作が発売されたのが1982年。作中ではいつの時代の物語なのか示されていないが(「戦後40年ですもの」というセリフは出てくる)、「冷戦時代の真っ只中で、核戦争の危機に満ちていた」1982年頃が舞台の物語と考えればいいだろう。

そしてそのような作品が、2024年に改めて劇場公開されているというわけだ。なかなか興味深い作品である。

というわけで内容の紹介をしよう。

仕事を引退したビルは、妻のヒルダと共に郊外の一軒家に引っ越し、穏やかな生活を過ごしていた。ビルは日々図書館で新聞を読み、ヒルダは様々な家事をこなしている。そんなある日のこと。いつものように図書館から戻ってきたビルは、「戦争が起こりそうだ」という話を妻にする。しかし、政治とスポーツのことにはまったく興味がない妻は、夫の話をまともに聞こうとしない。

しかし、ラジオをつけるとなんと、「あと3日以内に戦争が始まるでしょう」と告げていた。新聞を読んで知識を得ているビルは、これはまずいと考える。第二次世界大戦の記憶しかない妻は安穏としているが、核爆弾が落とされたらとんでもないことになるからだ。

そこでビルは、図書館でもらってきた政府発行のパンフレットを元に準備を進める。そこには、備蓄しておくもののリストは、窓ガラスに白いペンキを塗るように(放射能を防ぐためだそうだ)という指示など様々な対策が書かれているのだが、中でもビルが熱心に取り組んだのが「シェルターの制作」である。

しかしシェルターと言っても、現代を生きる我々からすれば「笑止」としか言えないようなものだった。なにせそのシェルターは、「家の中の扉から外したドア板を壁に60度の角度で立てかける」という、お粗末なものだからだ。そんなもので核爆弾や放射能が防げるはずがないが、ビルは政府のパンフレットを信じ、シェルター作りに勤しむ。

そしてどうやら、他の市民もこのシェルター作りを行っているようなのだ。作中では、この夫婦以外にはほぼ描写されないのだが、ビルが町まで買い出しに出かけた際に、「分度器が売り切れていた」と妻に報告する場面がある。そしてさらに続けて、「60度に切った板をくれたよ」と口にするのだ。文房具店の好意だという。この描写は明らかに、「多くの人が60度を測るために分度器を必要とし、その求めに応じて文具店の店主が即席の板を作ってくれた」という事実を描き出している。そしてそれはつまり、「他の市民も同じように、政府のパンフレットを見ながらシェルター作りをしていること」が示唆されるだろうと思う。

さて、そんな風に戦争への準備を始めるビルに対して、ヒルダは「ドア板で壁に傷をつけないで下さいね」「クッションを汚さないで下さい」と、あくまでも「今日と同じような日常が明日からも続いていく」という前提で自身の振る舞いを決めているのである。

そんな風に考え方が全然食い違う2人が「戦争が始まる」と言われてからの”日常”を過ごしていくのだが……。

というような話です。

本作は、ビルとヒルダの実に軽妙なやり取りが魅力的で、「老夫婦が住む家」だけで展開される物語にも拘らず、とても興味深く観れる。長く連れ添ったんだろうなということが分かる夫婦の軽妙なやり取りはとても素敵だし、そういう描写を背景に「戦争」を前景に押し出していく感じがとても面白い。

さらに、「戦争」に対する彼らの考え方も実に興味深かった。会話の中で、「スターリンは良い人だった」「前の戦争は良い思い出だった」みたいなことを口にするのである。スターリンは大体良くは扱われないだろうし、「戦争」が扱われる場合に「良い思い出だった」みたいな発言もなかなか出てこない。ただ、冒頭で少し書いた通り、「戦争」は人によって異なる体験を与えるものだ。むしろ「戦争を経験していない人(今日本に生きている人はほぼ全員そうだろう)」こそ「戦争」を一面的に捉えがちだと思う。だからこの描写は、この夫妻が戦争経験者であることを強く示すものであると僕には感じられた。

そしてその上で、本作では非常に特徴的な示唆がなされていく。特にビルの方が顕著だったが、「政府の言う通りにすれば何の問題もない」という感覚が全面に押し出されるのである。

もちろんこれは「皮肉」的な描写である。本作の制作陣は、「政府の言う通りにすれば何の問題もない」と考えているビルを描くことで、逆説的に「政府の言っている通りにするんじゃないぞ」というメッセージを発しているのである。

さて、これも公式HPを読んで知った知識だが、本作に登場する「政府のパンフレット」は実在したものだそうだ。「PROTECT AND SURVIVE(守り抜く)」という名前で、1974年から80年までの間、英国政府が配布していたのだという。つまり先述の「ドアを立てかけたシェルター」も、政府のお墨付きのやり方だったというわけだ。公式HPには、「こうした政府の姿勢に強い憤りを抱いたことも、ブリッグズが『風が吹くとき』を描いた理由の一つとなっている」と書かれている。

また、もう1つ印象的だったのが、映画のラスト付近で、ビルが「緊急サービス班が来るのを待とう。お上がわしらを助けてくれるはずだからな」と口にし、ヒルダもそれに賛同している場面だ。これがどのような状況で発された言葉なのかは触れないが、彼らにとってはかなり危機的状況の中でのものなのだ。にも拘らず、この期に及んでも「政府を信じる」というスタンスを崩さないのだ。この描写もまた、とても印象的だった。

さて、本作が2024年の現在改めて劇場公開されているのは、「世界的に核戦争の危機が高まっている」からだろう。ロシアはウクライナ侵攻を契機に、核の使用に言及するようになったし、北朝鮮は長距離弾道ミサイルの実験を頻繁に行うことで、日本やアメリカを挑発している。僕は1983年生まれなので、「冷戦時代」のことをリアルに記憶してはいない。恐らく、冷戦時代の方が遥かに「核戦争」への危機意識は高かっただろう。しかし現代も、一昔前と比べたらその危険性が遥かに高まっていると言えると思う。

また、「災害への準備姿勢」という捉え方をするなら、日本は別の意味でもリアリティを感じる作品ではないかと思う。つい先日、南海トラフ巨大地震への警戒が少し引き上げられたが、地震大国である日本にとって、「いつ起こるか分からない核戦争」は「いつ起こるか分からない巨大地震」に読み替えて受け取ることが可能ではないかと感じた。

そんな2つの理由から、本作は現代を生きる日本人が観るべき作品だと感じられた。公開当時に観てもなかなか恐ろしく感じられた映画ではないかと思うが、今観たらまた別の怖さも含んだ形で鑑賞出来るのではないかと思う。

「風が吹くとき」を観に行ってきました

4Kリマスター版が公開されると「観なきゃ!」と思ってしまう体質なので、「最近Part2が公開された」ぐらいの知識しかないまま本作を観に行った。普段SF作品も大作映画もあんまり観ないのでそこまでグッとは来なかったけど、1984年時点では相当頑張った作品なんだろうなと思う。

登場人物が多く、しかも4つの勢力が入り交じる物語なので、状況の把握がなかなか難しかったが、まあどうにかついていけたという感じ。というわけでざっくり内容を紹介しよう。

10191年、宇宙のある地域(宇宙全体?)はシャダム4世が治めていた。そして、その娘が冒頭で登場し、「香料」についての説明をする。メランジと呼ばれるその香料は、長寿をもたらし、人間の意識を拡大させ、さらに「移動せずともワープ航法が可能になる」という凄い物質で、メランジなしには彼らの生活は成り立たない。

そしてそんなメランジはなんと、アラキス(またの名を「デューン」)という惑星でしか手に入らないのだ。そしてアラキスにはフレメンと呼ばれるが住んでおり、「やがて救世主が現れる」という予言を信じて生きている。

さて、それまでこのメランジの採掘権はハルコンネン家が握っていたのだが、シャダム4世の命により、アトレイデス家に引き継がれることになった。アトレイデス家のレト公爵はこれが罠だと気づいていたが、対抗する手段を備えながらその罠へと飛び込んでいくことに決める。

物語の中心にいるのは、アトレイデス家のポールである。レト公爵と愛妾・ジェシカの間に生まれた子供なのだが、ジェシカの教母であるシャダム4世の側近「ベネ・ゲセリットの魔女」は、ジェシカに娘を産むように命じていた。ベネ・ゲセリットには「女には到達できない境地にも、クウィサッツ・ハデラックならたどり着ける」という考えがあり、ジェシカにクウィサッツ・ハデラックを産ませようと考えていたのだ。しかし彼女は、そんな命に背き、男児を産む決断をした。それがポールだったのだ。

ポールは非常に優秀で、その優秀さは周囲の人間も認めるところだった。そしてレト公爵は、息子・ポールと共に、罠の待つアラキスへと向かうのだ。

アラキスにはまだハルコンネン家の残党がおり、アトレイデス家は厳重な警備をしながらメランジの採掘の現場を確認に行く。するとその最中、ワームが現れた。巨大なものは450mにもなるという砂虫であり、震動に反応して襲ってくる。香料のある場所には必ずワームがいるのだそうだ。

そしてやがて、アトレイデス家とハルコンネン家の戦闘が始まるのだが……。

というような話です。

前半は、設定を理解するのに苦労しましたが、物語的にはさほど難しいとは感じませんでした。しかし後半は、あらかた設定は理解できているつもりなのだけど、ストーリーが難しかったです。ポールが頻繁に「第2の月」「目覚めなければならない」と言っていた理由はよく分からないし、ずっと夢に出続けていた女性と出会ったのも謎。ワームを飼いならしているように見えるところとか、「生命の水」何なのかもよく分からなかった。

また、この感想を書くのに調べててわかったことだけど、「ベネ・ゲセリット」とは人名じゃなくて集団名らしく、その集団が「救世主」と考えているのが「クウィサッツ・ハデラック」だとか。その辺りも、特に映画の中で説明されないので、全然分からない。

まあ元々、原作小説は「映像化不可能」と言われていたみたいなので、「これでも頑張って映画にした」のだと思うけど。あと、これも鑑賞後に調べて知ったことだけど、「監督の意向を無視してスタジオが編集した」という疑惑があるらしく、だとすれば、監督にとって本意の作品ではないということでしょう。その辺りの事情はなんとも分かりませんが、本作は色々紆余曲折あって制作にこぎつけた作品なようで、色々大変だったんでしょう。

というわけで、結局僕は、ドゥニ・ヴィルヌーヴ版の「砂の惑星」を観ていないわけですが、これで大雑把に設定・内容は理解できたので、いずれ観てみようかと思います。これも調べて知ったことですが、2部作の「ドゥニ・ヴィルヌーヴ版『砂の惑星』」が、本作では137分に詰め込まれているとかで、まあそりゃあ大変だっただろうなぁ、という感じです。

「デューン/砂の惑星 4Kリマスター版」を観に行ってきました

本作は実話を基にした物語だ。そのことは、冒頭で記される。それはこんな文章だった。

『本作は、ヴァネッサ・スプリンゴラの著書『同意』を基に、若干のフィクションを混じえて映画化された。
著者の想いを届けたい。それだけを願って制作された。』

そんな作品で描かれるのは、50歳の小説家と14歳の少女の”恋愛”である。原作のタイトルが「同意」となっているように、14歳の少女だったヴァネッサもまた、50歳の国民的小説家ガブリエル・マツネフを”愛していた”のだ。

最初は。

さて、そんな話は「キモっ!」の一言で両断すればいいと感じるかもしれない。まあ、それはその通りなのだが、しかし、決してそれだけで片付けられない作品である。

50歳の男と14歳の少女の恋愛と聞いて、どんなイメージを持つだろうか? もう少し具体的に言えば「どんなデートをしていると思うだろうか?」ということだ。ごく一般的に考えれば、「人目につかないようにこそこそと会う」という感じになるだろう。普通に考えて、そんな”恋愛”は許容されるはずがないからだ。

しかし本作では、2人は大っぴらに会い、ガブリエルの仕事仲間(編集者や評論家だろう)にも彼女を会わせている。実に大っぴらな関係なのである。ガブリエル・マツネフというのは熱狂的なファンを持つ作家で、本人曰く「ミッテラン大統領も私のファンだ」という。そして「そんな偉大な作家だから誰も指摘できなかった」みたいなことなのかもしれないのだが、しかしそれだけではない要素がある。

それが明らかになるのは、テレビ番組にガブリエルが出演している様子を、ヴァネッサとその母親がテレビで観ている場面のことだ。出演者の一人がこんな風に口にするのだ。

『この国は「文学」と名前が付けば、どんな悪徳でも許容される』

そう、本作で描かれる最大の問題点は、恐らくこれなのだ。もちろん「ガブリエルが生粋の小児性愛者である」という点も問題だ。しかし、それは個人に属する問題であり、他人がどうこう出来る領域にはない。もちろん、ガブリエルが「犯罪」を起こせば警察が動くことになるが(作中にも、若干そんな動きが描かれている)、本作のタイトルにもあるように、2人の関係は「同意」の下に始まっている(もちろん、この「同意」が問題なのだが、それは後で触れよう)。少なくとも外形的には「犯罪の要件」は満たされないだろうし、となれば、「ガブリエルが小児性愛者である」という事実には対処しようがない。

しかし、「『文学』ならすべてが許される」というのは違う。これは「システム」の問題であり、つまり社会の問題だ。「ガブリエルが小児性愛者である」という事実には何も出来ないが、「そんな男をのさばらせないようにする」ということぐらいは出来るはずだ。そしてそれが、「文学だから」という”だけ”の理由であっさりとスルーされてしまっているという現状にこそ問題があるのだ。

本作の公式HPには、「本国で異例の大ヒット。国家を動かした衝撃の告発。」と書かれている。それ以上具体的なことは記されていないので分からないが、2020年に発売された、本作の基になった告発本によって、法律が変わるなり、社会の雰囲気が変わるなりしたということだろう。そりゃあそうだ。こんな世の中が許容されていいはずがない。公式HPには、「特に若者たちの反応は凄まじく」とも書かれており、「そんな社会は許さない」という意見が、この作品によってより強く可視化されるようになったということかもしれない。

さてそれでは、本作のタイトルにもなっている「同意」について考えてみよう。とその前に、「そもそもなぜヴァネッサは、36歳も年上の男性に惹かれたのか?」という説明をしておきたいと思う。

ヴァネッサは、編集者である母親も驚くぐらいの読書家なのだ。本作では、ヴァネッサ14歳の誕生日パーティーの場面が描かれるが、その中で、文芸評論家として恐らく著名なのだろうJ=D・ヴォルフロムという人物がヴァネッサに「将来作家になる君へ」というメッセージを贈っているのだ。ヴァネッサ自身も作家になりたいという意思を持っており、当然、普通の中学生よりは「言葉」に対する感度は高いだろう。

だからこそヴァネッサは、「著名な作家」であり「熱烈なラブレター」を送ってくれるガブリエルを好きになっていくのである。

さて、確かに「最初の一歩を自らの意思で踏み出した」という意味で、「ヴァネッサは36歳年上の男性との関係に『同意』していた」と考えることは可能である。しかし、初めてガブリエルと待ち合わせ、彼の家に行った日、ヴァネッサは「帰った方がいいかも」と口にしている。それに対してガブリエルは「君が嫌がることはしないから」と言う。僕は、まずこの言葉が絶妙に上手いと感じた。

その後ガブリエルは、ヴァネッサにキスをしたり、服を脱がせたりする。もちろん、ヴァネッサとしては嫌だった(あるいは想定していなかった)だろう。ただ、「自分の意思でガブリエルに会いにきたこと」、そして「大作家と関わりを持てる機会を失う怖さ」みたいなものもあって、仕方なく受け入れたのだと思う。しかしここで、ガブリエルの「君が嫌がることはしないから」という言葉が効いてくる。つまり2人の間で、「拒否しなかったんだから、嫌じゃないんだよね」という「同意」が成立したような格好になったのだ。

さらにしばらくすると、こんなことも言ってくる。彼らは普段から手紙のやり取りをしているのだが、ある日ヴァネッサがSEXを拒むと、ガブリエルはかつてヴァネッサが送ってきた手紙を読み上げて、「ここにこう書いてあるが、これは嘘なのか? お前は嘘つきだ」みたいな責め方をするのである。つまりガブリエルは、「拒否しなかったんだから、嫌じゃないんだよね」という「同意」を、いつの間にか、「拒否したら、私のことが嫌いってことだよな」という「同意」へと巧みにスライドさせていくのである。

こんな風にガブリエルは、常に「ヴァネッサ主体で物事が進んでいる」という風に状況を提示していく。別の場面でも、「君のために◯◯をした」「君のせいで△△になった」という言い方をする。小説家だから言葉も巧みで、とにかく常に、何が起ころうとも、「今この現状は、お前が引き起こしていることなんだぞ」という提示の仕方をするのである。

これは「同意」ではなく、「同意させられた」と解釈すべきだろう。「同意させられた」だけなのに、ガブリエルの巧みな話術によって「自らの意思で同意した」と思い込まされているだけだ。

最近、「性的同意」に関する議論が日本でも少しは進み始めた気がするが、そこには大きな断絶がある。男はどうしても、「NOじゃないならYES」と考えがちだと思う。昔からよくある話は、「男の家に行ったら、SEXをOKしていることになる」みたいなことだろう。僕には正直、その理屈はよく分からないのだが、年齢が上がれば上がるほどこのような判断が「普通」とされているように思う。

しかし「同意」というのは、「YESと言ったらYES」「NOと言ったらNO」が鉄則である。「嫌よ嫌よも好きのうち」とか「手を出してみて拒否されなければOK」みたいなことは、少なくとも「同意があった」とはみなせないと思う。

本作で描かれているのも、まさにそのような「同意」だ。確かにヴァネッサは、母親に対してもガブリエルへの愛を語るなど、「進んでガブリエルとの恋路に進んだ」ように見える。確かに、一歩目はそうだったかもしれない。しかしそれ以降は「同意させられた」と判断するのが妥当だと僕は思う。

このような状況は、特にネット社会ではあっさりと起こり得る。いくらでも年齢を偽れるオンラインの世界では、本作で描かれているようなラブレターのやり取りが当たり前のように行われている可能性があるだろう。時々、女の子が全然面識のない遠方の男性に殺されてしまうみたいなニュースが報じられるが、本作で描かれているのとそう遠くない世界が存在しているということなのだと思う。

さて、ガブリエルはさらに巧みに物事を進めようとする。これは詐欺の手口でよく聞く話だが、「孤立を促す」というやり方が上手い。手紙の中でガブリエルは、「子どもの世界から離れることは辛いかもしれないが、勇気を出してほしい」みたいなことを書いている。要するに、「学校の友達なんかと遊んでないで、自分と会う時間を多くしろ」ということだろう。

あるいは、ガブリエルと交際している件で母親と喧嘩になった話をした際には、「君は私じゃなくて母親をとるのか?」と聞いたりもする。こんな風に、ヴァネッサが周囲に向ける関心を少しずつ剥ぎ取り、ガブリエルだけに向けさせ、世界がそこにしか存在しないかのように錯覚させるのだ。孤立すればするほど相談する相手もいなくなり、唯一の存在であるガブリエルの意思から逃れにくくなる。そんな風にして一層、「自らの意思で同意した」と思わせるような環境を作り出していくのである。

このようなやり方は概ね「グルーミング」と呼ばれているのだろうし、それに関しての言及は世の中にたくさんあると思うのでこれ以上書かないが、1つ明確に書いておきたいことは、「本作を観て『ガブリエルの何が悪いのか分からない』みたいに感じた人がいたらヤバいと自覚してほしい」ということだ。たぶん世の中にはいると思うのだ。「ヴァネッサは自らガブリエルとの恋愛を選択したのだし、その状況に対してガブリエルの一体何が悪いのか?」みたいに感じる人が。そういう人が、「最近の若い人には何をしても『セクハラ』って言われちゃうから困る」みたいな解像度の低い発言をしたりするのだと思う。マジで反省してほしい。

さて、本作を観て僕が最も理解できなかったのは、ヴァネッサの母親である。いや、最初は普通だった。14歳の娘が36歳も年上の男性と交際していると知った親として当然の振る舞いをしていた。しかししばらくすると、母親は2人の交際を受け入れたようだ。本作にはあまり母親は登場しないのだが、なんなら2人の交際を応援しているような雰囲気を感じさせる場面もあった。

確かに、フランスという国は個人の人権がかなり強く尊重される国だろうから、「娘の判断を尊重することにした」ということなのかもしれない。しかし当初母親は、ヴァネッサが「私の勝手でしょ」的な主旨の発言をしても、「親の私には責任がある」みたいな反論をしていた。だから「娘の判断を尊重することにした」のだとしたら、どのタイミングで切り替わったのかがよく分からない。

また本作では、「ガブリエルが警察から捜査される」という場面が映し出されるのだが、その事実を知った母親がヴァネッサに、「親権を取り上げられるかもしれない」と口にしていた。欧米の映画を観ていてよく感じることだが、公権力が親権を結構容易に奪える仕組みになっているようだ。日本とは大違いである。そして、「ロリコンとの交際を止めなかった母親」という点が問題視され、ヴァネッサの親権を失うかもしれないと考えていたのである。そんな結構深刻な状況を経験したにも拘らず、その後母親は2人の交際を認めている感じがした。これもまた不思議な話である。

もちろん、「母親の職業が編集者」ということも関係しているのかもしれない。ヴァネッサとガブリエルが出会ったのは、母親が編集者として出席していたあるパーティーであり、つまり母親は仕事でガブリエルと関わりがあるということなのだと思う。そしてガブリエルは人気作家であり、編集者としては機嫌を損ねるわけにはいかない。そういう事情もあって事を荒立てないことにしたのかもしれない。しかし仮にそうだとしても、一人娘がロリコンの餌食になっている状況を許容するだろうか?

というわけで、その辺りが僕にはちょっとなんとも受け取りづらい作品だった。

さて、色々書いたが、僕は個人的に、「本当にお互いが求めているのであれば、50歳と14歳が恋愛していてもいい」と思っている。他人がとやかく言うことではない。しかし「本当にお互いが求めている」という状態の判断はとても難しい。その難しさを本作は示していると言っていいだろう。「そこに『同意』が存在する」という判断は容易ではないのだ。というか、本作のように告発本が発売されたりすると、「かつてそこには『同意』が存在しなかった」と確定するという話であり、「そこに『同意』が存在する」という状態を示すことは不可能なのかもしれないとも思う。

そしてだとすれば、「50歳と14歳の間に恋愛が成り立つはずがない」という判断に押し切られてしまっても仕方ないだろう。

しかし、ガブリエルはシンプルにクズであることは間違いないが、「小児性愛者は一体どんな風に生きていくべきなのか?」については別途議論があってもいいように思う。これって別の話に喩えると、「毒キノコしか美味しいと感じない」みたいなものだと思う。毒キノコ以外のものを食べても全然美味しさを感じない。しかし、唯一美味しいと感じる毒キノコを食べると体調不良になるか最悪死に至ってしまう。そんな状況で生きなければならないのは大変だろうなぁ、と思う。ガブリエルを擁護するつもりは一切ないが、「小児性愛者の辛さ」についてはもう少し同情なり支援なりがあってもいいように思う。

まあ、ガブリエルはクズなのだが。

「コンセント/同意」を観に行ってきました

ムチャクチャ面白かった。これは観て良かった。和歌山毒物カレー事件の林眞須美が冤罪だなんてまったく考えたこともなかったが、本作を観れば「なるほど、それはあり得る話だな」と感じさせられるだろう。しかし、まさかSPing-8まで作中に登場するとは。ビックリ。

連日、シアター・イメージフォーラムが満員だ。8/3から再上映の映画『蟻の兵隊』も満員なら、同じ日に公開された本作『マミー』も満員。今日は、毎週月曜のサービスデーだったこともあるかもしれないが、『マミー』はたぶんすべての回が満員だったようだ。まあそれもそうだろう。東京で公開しているのが、シアター・イメージフォーラムしかないんだから。しかし、公式HPの劇場情報を観ると、関西の映画館では、「林眞須美さんの長男」も舞台挨拶に登壇するようだ。本作では顔にモザイクがかかっていたが、イベントではどうするのだろう。

さて本作は、先程も少し触れた通り、1998年7月25日に和歌山市園部で起こった事件が扱われている。「和歌山毒物カレー事件」と呼ばれている事件だ。本作でもざっと概要が説明されるので、まずその辺りから初めていくことにしよう。

7月25日、園部という住宅街で地域のお祭りが開かれていた。そして、そこで振る舞われたカレーを食べた者が、「食中毒」として病院に次々搬送されたのだ。結果として、小学生を含む4名が死亡、67名が体調不良を訴えるという大騒動となった。後に、カレーにヒ素(亜ヒ酸)が混入されていたことが判明した。

その後しばらく、捜査に進展はなかったのだが、同年8月25日、事件からちょうど1ヶ月後の朝日新聞の朝刊であるスクープ記事が出た。事件よりも前に、その地区の民家でヒ素中毒になった者が2名もいると報じたのだ。そしてその家こそ、カレーを作っていた敷地からほど近い林眞須美宅だったのだ。

その後、「林眞須美が保険金殺人を企てたのだ」とも報じられ、一気に林眞須美に容疑が固まっていくことになる。そして10月4日、林眞須美は逮捕された。その後、2009年5月19日に死刑が確定、今も拘置所に収容されている。

1998年は、僕が15歳。当時、相当騒がれたことを覚えている。「林眞須美」という名前や「報道陣にホースで水をかける様子」など、昔のことをほとんど忘れている僕の脳内にも結構印象的に刻まれている。

さて、本作では、そんな事件について「林眞須美は冤罪ではないか」という方面から描き出していく。もちろん、色んな要素が含まれる作品なのだが、全体の方向性としては、「様々な事実を明らかにすることによって、林眞須美の無罪を示す」という目的がある。

それでは、その辺りの理屈を見ていくことにしよう。

裁判において重視された証拠がいくつあるのか分からないが、本作ではその内の2つに絞って「おかしな点」を明らかにしようとする。その2つというのが「目撃証言」と「ヒ素の鑑定」である。それでは「目撃証言」の話から始めよう。

まず大前提として、「和歌山毒物カレー事件」において「林眞須美の犯行であることを示す直接的な証拠」は存在しない。そのことは、弁護を担当した弁護士が本作の中で話していた。「鍋にヒ素を入れた」という目撃証言があれば犯行の立証は完璧と言えるが、そのような証拠はない。

では、裁判ではどのような目撃証言が採用されたのか。それは、カレーを作っていた敷地の向かいの家に住む高校生のものだ。彼女は家の窓から、「林眞須美が1人で鍋の近くにいた」「林眞須美が周りをきょろきょろしながら鍋の蓋を開けていた」というものだ。まず、この証言について徹底的に事実を追究していく。

まず重要なポイントは、「高校生が住む家から、林眞須美がカレーを作っていた場所までは見通しが悪く、障害物なども多かった」という点だ。確かに、見えはする。しかし、視界はかなり狭い。林眞須美がいた場所のほんの一部しか見えなかった、と考えるのが妥当である。さらに、その高校生は、当初「1階から見ていた」と証言したのだが、後に「2階の自室から見ていた」と証言を変えている。これが単なる勘違いなのか、あるいは警察からの誘導があったのか、その辺りのことは分からないが、やはり「不自然さ」を感じさせるポイントだろう。

その上で、いくつか興味深い指摘がなされる。まず、本作には林眞須美の長男(仮名だが、本作では林浩次という名前で登場する)が出てくるのだが、彼は事件当日、カレーを作っている母が次女と一緒にいる場面を目撃している。この記憶については、後に次女と何度も話をしたが、やはり間違いないという。もちろんそれだけで、「林眞須美が1人でいた時間がなかった」ことの証明にはならない。ただそもそも裁判では、「母親と一緒にいた」という次女の証言や、「次女と母親が一緒にいるのを見た」という長男の証言は、「身内のもの」として採用されなかった。

そしてなんと、当時林眞須美も次女も、「次女が鍋の蓋を開けた」と証言していたそうなのだ。次女は味見をしてみたいと、母親の制止を振り切って鍋の蓋を開け、指を突っ込んで味見をしたという。この姿を、高校生は目撃したのではないかというわけだ。

しかし、母親と次女を見間違うだろうか? この点についても、実に興味深いエピソードが提示される。当時、写真週刊誌のフライデーが、室内にいる林眞須美を写した写真を誌面に載せたのだが、実はその写真は次女のものだと発売後に判明し、回収騒ぎになっていたそうだ。つまり、「事件現場で取材をしていたカメラマンさえ見間違うぐらい、2人は見た目が似ていた」というわけだ。

さらに、高校生は当初「林眞須美の髪の毛が鍋に入りそうだった」と証言したそうだが、当時林眞須美は短髪で、髪が長いのは次女の方だったのだ。さらに言えば、現場には当時カレー鍋は2つあったのだが、「林眞須美(次女)が蓋を開けたカレー鍋」の方にはヒ素は入っていなかったのである。つまり、「ヒ素が入っていないカレー鍋の蓋を開けた」というだけで「怪しい」ということにされてしまったのである。

このような傍証を積み重ねることで、「高校生が目撃した時、林眞須美は1人ではなく次女と一緒にいて、高校生が林眞須美だと思った人物は実は次女だった」と考えられることになるのである。

さて、この「目撃証言」の話が最初に扱われるのだが、この時点ではまだ僕は「林眞須美が冤罪とまでは言えないだろう」と考えていた。確かに、「高校生の目撃証言」は完全に崩れていると言えるだろう。しかしそれは、「警察・検察が提示したストーリーが崩れた」というだけの話であり、「林眞須美が犯人である可能性」を否定するものではない。「高校生が目的した『鍋の蓋を開けた人物』が実は次女だった」からといって、「林眞須美がヒ素を入れなかった」という話にはならない。だから、この時点ではまだ弱いと考えていた。

しかし次に取り上げられる「ヒ素の鑑定」は、かなり決定的と言えるように思う。これが事実だとしたら、「林眞須美が無罪である可能性」はかなり高いと言っていいだろう。

さて、冒頭で「Spring-8」という名前を出したが、これは素粒子物理学などで使われる加速器という実験装置だ。兵庫県にある巨大な施設で、直径約500mもの巨大な円形をしている。東京ドームの直径が約200mのようなので、その大きさが想像できるだろう。

しかし、このSpring-8が何なのか。実はこの施設で、「ヒ素の鑑定」が行われたのだ。実はこのことは、以前読んだ『すごい実験』という本に書かれていたので知っていた。高速で加速した物質にX線を当てることで、物質の組成が細かく分析できるそうで、これによって「2つの試料が同じものか否か」が判定できるというわけだ。

この鑑定を行ったのが東京理科大学の中井泉である。当時、別の方法でヒ素の鑑定を行ったところ「ビスマス」という成分が検出されたそうで、そのことを知った中井は、「それならSpring-8での分析が最適だ」と判断したそうだ。

さて、鑑定はどのように行われたのか。「2つの試料」が同じかどうかを検証するのだから、「事件で使われたヒ素」と「林眞須美が使用可能だったヒ素」を手に入れ、その2つを比べるしかない。

まずは後者「林眞須美が使用可能だったヒ素」の話からしよう。そもそも、林眞須美の夫がシロアリ駆除の仕事をしていたこともあり、林眞須美の自宅にもヒ素があった。また、「林眞須美の友人宅」「林眞須美の兄弟宅」からもヒ素を押収し、それらを「林眞須美が使用可能だったヒ素」としたのである。

一方「事件で使われたヒ素」はどうやって入手すればいいか。カレーの中に混入されたヒ素は単離が難しい。人体に入ったヒ素も同様だろう。しかし捜査の結果、どこかのゴミ箱から紙コップが発見され、それにヒ素が入れられていたと認定されたようだ(どうしてそのように認定されたのかは触れられなかった)。そのため、「この紙コップに残っているヒ素」が「事件で使われたヒ素」とされたというわけだ。

さて、後は加速器を使って鑑定するだけだ。そして、それらのヒ素の成分を細かく分析しグラフ状にしたところ、明らかに「同じ」だった。この点に関して中井泉は「同一起源」と表現していた。これは重要なポイントなので覚えておいてほしい。

そしてこの鑑定により、「事件で使われたヒ素」と「林眞須美が使用可能だったヒ素」は「同じ」だと判定されることになり、これが有力な証拠として採用されることになったのだ。なるほど、これはなかなか動かせない証拠だなと僕は感じながら観ていた。

しかしその後、京都大学の河合潤という教授が登場する。彼は2010年か2011年のどちらかに、林眞須美の弁護団から「会いたい」と連絡をもらったという。そして、裁判で提出された鑑定資料を読んでほしいとお願いされたのである。河合氏は、「中井さんがやっているならちゃんとした鑑定なんだろう」と思ったそうだが、資料を読んでみることにしたそうだ。

そしてすぐに「おかしな点」に気づく。この件に関して河合氏は、「ちょっと酷いな」と強い言葉で中井氏の鑑定を非難していた。

では一体どこに問題があるのか。中井氏は裁判の中で、「パターン分析を行った結果、同じだと判断した」と証言していた。しかし本来、「パターン分析」には厳密な手順があるようだ(それがどういうものかは作中では示されていないが)。なのに中井氏は「目視でパターンが同じだ」と判断したのである。河合氏はこれを「中井氏の主観」と一刀両断していた。

しかし、その一体何が問題なのか? 河合氏が言うパターン分析を「厳密なパターン分析」、そして中井氏が行ったパターン分析を「粗いパターン分析」と表現することにしよう。中井氏が行った「粗いパターン分析」では、「中国産」なのか「韓国産」なのか「メキシコ産」なのかと言ったざっくりした違いしか分からない。つまり中井氏の鑑定は、「『事件で使われたヒ素』も『林眞須美が使用可能だったヒ素』も共に『中国産』だった」という程度の認定しかできていないのだ。もちろん、「厳密なパターン分析」を行えば、もっと細かくその違いが分かる。

そして、「事件で使われたヒ素」も「林眞須美に使用可能だったヒ素」も岡山の会社が販売したものなのだが、1ヶ月にドラム缶5本~10本ぐらいは出ていたため、中井氏が行った「粗いパターン分析」では「事件で使われたヒ素」と「同じ」と判断されるヒ素は他にもたくさん存在したことになる。実際、本作の監督らによる取材により、事件当時、近隣の他の住民にもヒ素を持っていた人がいることが判明していた。しかし、それらのヒ素については科学的な鑑定が行われていない。

そもそも河合氏は、「1つのやり方だけで鑑定したら間違う」と言っており、「クロスチェックが必要だった」と言っていた。しかし、「Spring-8」以外の鑑定方法は、恐らく行われていない。1つの手法だけしか行われていないこの鑑定は、やはり認め難いというのが河合氏の判断のようである。

もちろん、中井氏にも反論がある。その主張は概ね2つに分けられる。1つは、「自分の鑑定が決定的な判断になるとは思っていない」というもの。つまり中井氏は「補助的な証拠能力」程度に認識していたため「粗いパターン分析」でも問題ないと判断していたようだが、実際にはそれが強力な証拠として採用されたというわけだ。彼はずっと「同一起源」という表現を使っていたが、これはつまり「同一なわけではない」という意味なのだろうし、そういうスタンスで自分は鑑定を行っていたんだ、という主張なのだと思う。

そしてもう1つは、「試料の量に違いがあり、鑑定に限界があった」というもの。よく分からないが、恐らく「厳密なパターン分析」を行うには「試料の量を揃える」必要がある、ということなんじゃないかと思う。しかし実際には、それは不可能だった。だから「粗いパターン分析」をするのが限界だったし、仕方なかったというわけだ。この主張が妥当なのかは僕には判断出来ないが、ただ、「限界がある鑑定なのから、参考程度に留めるべき」みたいな話はしておくべきだったのではないかという気がする。それを言わなかったのだとしたら、中井氏に落ち度があるように感じられてしまう。

また、その根拠についてはよく分からなかったが、河合潤がある場面(林眞須美の冤罪証明を支援するシンポジウムみたいな場だと思う)で、「『事件で使われたヒ素』と『林眞須美が使用可能だったヒ素』は、今手に入る情報から判断すると、明らかに違うんですよ」とも発言していた。だから検察に「再鑑定」を要求しているのだが、検察からは拒否されているそうだ。

もちろん、「2つのヒ素が違う」としても、それが「林眞須美の無実」を示すものとは言えないかもしれないが、その場合、「林眞須美は他人の家に保管してあったヒ素を盗み犯行に及んだ」ということになる。そしてそれはやはり、「林眞須美を犯人に仕立てるための我田引水の説」に感じられてしまう。確かにその可能性はゼロではないと思うが、「林眞須美ではない誰かがヒ素を混入した」と考える方が遥かに妥当だろう。

さて、本作では主にこの2点を中心に「林眞須美は冤罪ではないか」という主張がなされるのだが、実はもう1点ある。そして、個人的には、ある意味でこの話が最も興味深いものに感じられた。

「和歌山毒物カレー事件」の概要を説明した際、「朝日新聞の記事によって林眞須美に疑惑が向いた」と書いたことを覚えているだろうか。その記事は、「事件以前にもヒ素中毒になった者が2名いた」というもので、それが林眞須美宅で起こっていたというものだった。実はその1人が林眞須美の夫であり、もう1人は林宅に居候していた泉という男である。

さて、「和歌山毒物カレー事件」に関しては「動機」の解明が全然なされていない。林眞須美は一切語らなかった(冤罪だとしたら当然だが)し、捜査によっても明らかにはならなかった。しかし裁判では「動機」の説明がないと立証が弱くなる。そこで警察・検察はこのようなストーリーを仕立てあげた。「林眞須美は以前から、夫や居候男性にヒ素を飲ませていた。だから、軽い気持ちでカレー鍋にヒ素を入れ、大事件を起こしたのだ」。実際にこの主張が裁判でも採用されているのだそうだ。

この話の要点はこうである。「林眞須美は、夫と泉に内緒でヒ素を盛っており、快楽的に人を殺そうとした」。この話が認定されなければ、「軽い気持ちでカレー鍋にヒ素を入れ大事件を起こした」という話が成立しないことになる。動機らしい動機が見つからなかったのだから、警察・検察としては、死刑判決を勝ち取るためにはこのストーリーを貫く必要がある。

しかし本作では、そんな警察のストーリーを、林眞須美の夫・健治が粉砕するような発言をしていた。彼はなんと、「眞須美と一緒に保険金詐欺をやっていた」と堂々と告白しているのである。健治は自らヒ素を舐め、その症状によって「終身介護が必要」と認定、日本生命から1億5000万円の保険金を受け取ったというのだ。さらに同じことをもう一度行い、同じ金額の保険金を得ている。

さて、この証言は、警察・検察としては大変困るものだ。何故なら「カレー鍋にヒ素を入れる動機」が成立しなくなってしまうからである。そしてだからこそ、健治も堂々と保険金詐欺の話をカメラの前でしているのだと思う。もちろんそれは「妻の無実の証明のため」という側面もあるだろうが、同時に、「妻を犯人にしている限り、保険金詐欺で自分が捕まることはない」という判断もあるのだと思う。健治の保険金詐欺を認めるということは、林眞須美も保険金詐欺に加担していたことを示すことになり、となれば「無差別殺人を行う動機」に繋がらないからだ。

この「保険金詐欺を行っていたことをカメラの前でべらべら喋る」という要素が、法律論的にはなんの証拠にもならないだろうが、感情的には「ホントに林眞須美はやってない気がする」という感覚をもたらすものになっていて、個人的にはとても興味深かった。にしても、長男の話なんかも含め、それまで「良い家族」みたいな雰囲気で提示されていたのに、健治のこの証言によって一気に「イカれた一家」みたいな雰囲気になってしまった。まあ、子どもたちに罪はないが。

さて、これで「林眞須美が冤罪かもしれない」という説明は終わりである。以前観た、飯塚事件を扱った映画『正義の行方』も冤罪が扱われるドキュメンタリーだが、ホントに日本の司法は、「過ちがあったのなら認めたほうがいい」と思う。林眞須美についても再審請求を出しているが、通っていない。先述した通り、ヒ素再鑑定依頼も拒否されている。司法の信頼回復のためにも、真っ当な判断がなされるべきだと思う(真っ当な判断とは「無実の証明」というわけではなく、「再審や再鑑定を認めること」である)。

さて、『正義の行方』と本作を少し比較してみたいが、「客観性」という意味で結構違いがある。『正義の行方』は「飯塚事件は冤罪である」という決めつけはせず、あらゆる要素をかなり平等に盛り込みながら「冤罪の可能性」を示唆していたが、本作『マミー』は「林眞須美は冤罪だろう」という結論ありきで作られている感じがある。ちょっとその辺りは、あまり好きにはなれないポイントだった。

また、本作には監督が出てくる場面も多々あるのだが、それらを観ていると「監督のことはちょっと好きになれないなぁ」という感覚にもなってしまう。特に映画後半における監督の振る舞いは、「受け入れがたさ」の方が買ってしまうかなぁ。もちろんこれは見方次第であって、「冤罪の証明のためにもの凄く熱心に動いている」と肯定的に捉える人もいるとは思う。それはそれでいいだろう。確かに、そういう見方も可能だからだ。ただ、個人的には、ちょっと好きにはなれないなぁ、という感じだった。

ただ、それはそれとして、「監督がここまで強い主張を抱きつつ映画制作をしなければ、ここまでお客さんを劇場に足を運ばせることは出来なかったかもしれない」とも思う。この辺りの判断は難しいところだ。「林眞須美の無実を証明したい」という想いは本物だろうし、その情熱があるからこそここまで深く突っ込んだ取材が出来たのだろう。そしてそんな情熱を何かしらで感じ取った人たちが映画館に足を運んでいるのではないかと思う。そんな風に考えると、一概に否定も出来ないかという感じにもなる。難しいところだ。

さて最後に。林眞須美の長男のある言葉が印象的だった。

彼は、母親が逮捕されてから数年は、あまり事件に関心を抱いていなかったそうだが(当時まだ小学生とかそれぐらいだったようなので仕方ないだろう)、ある時点から興味を持って調べるようになり、裁判記録とかも読むようになったそうだ。そして、小学生が亡くなっている事件でもあるので、裁判でその遺族が悲しみを表明しているような記述にも触れてきた。

だから彼は、「軽々しく『母は無罪だと思う』とは言えない」という感覚を抱いている。そしてその上で、何年も調べ、考え続けた結果、やはり彼は「母は無実だと思う」という感覚を抱くようになったのだそうだ。「身内だから信じる」みたいな話ではなく、本作で描かれているような「おかしな点」を自分でも色々見つけ出し、「やはり間違っている」という考えにたどり着いたのだそうだ。

そんな風に考える彼のスタンスは、とても真摯に感じられたし、全体的に「母親が死刑囚」という”重り”を抱えて生きざるを得ない中でも、至極真っ当に生きていると思えたのが印象的だった。

「マミー」を観に行ってきました

上映後に、監督が登壇してトークイベントを行ったのだが、その中でこんな話をしていた。今回上映したのはシアター・イメージフォーラムで、本作『蟻の兵隊』は18年前に同じ映画館で公開された。そしてその時は、1階と地下1階の劇場を共に使い、1日8回上映したが、それでも立ち見が出るぐらいお客さんが押し寄せたそうだ。

そんな映画を僕は、今回初めて見た。相変わらず、基本的な情報をほぼ知らないままで観たため、「こんなことが起こっていたのか」と驚かされてしまった。

本作で映し出されるのは奥村和一。彼は第二次世界大戦時、中国の山西省へと送られ、そこで戦闘に参加した。さて、重要なのはその後だ。1945年8月15日、日本は終戦を迎えた。しかし奥村和一がいる部隊はその後も中国に残り、戦闘を続けたのである。

一体誰と? と感じるだろう。彼らは、中国の内戦に駆り出されたのだ。国民党軍の部隊として、共産党軍と闘ったのだ。その期間、なんと4年。2600名の兵士が残留し、550名が戦士した。その後、5年間の捕虜生活を経て、昭和29年(1954年)にようやく日本に帰還することが出来たのだ。

当然彼らは、「日本軍」として闘った。上官から、中国に残って闘ってくれと言われたからだ。当たり前だろう。中国にいた兵士も当然、ポツダム宣言が受諾されたことは知っていたし、戦争が終わったことも知っていた。当然、日本に帰りたかったはずだ。それでも、上官からの命令なら仕方ないと、彼らは仕方なく中国に残り、その後の9年間を過ごしたのである。

何故わざわざこんな当然のことを書いているのか。それは、彼らが戦後に受けた扱いに関係がある。なんと「残留日本軍部隊」の面々は、「自らの意思で中国に残り、傭兵として中国の内戦を闘った」と見なされ、戦後補償の対象外とされているのである。本作では、国を訴えた裁判の様子も映し出されるのだが、裁判所はまったく相手にしていないような、そんな判決が出されていた。

上映後のトークイベントでは、「この裁判に対する国民の関心が薄かったから、あんな判決が出たんだろうと、私は思っています」と監督が話をしていた。正直僕は、そんな裁判が行われていることなどまったく知らなかった。

しかし、国は何故「自らの意思で残った」などと「あり得ない説明」をしているのだろうか。そこにはもちろん理由がある。実は日本軍は、「侵略を継続させるために兵を残した」のである(この点に関しては、作中でもう少し正確な表現をしていたのだが、日本語の意味と感じがどうも分からず、メモ出来なかった。なのでニュアンスは微妙に違うかもしれない)。中国には、「残留日本軍部隊の設立の意図や総則」が書かれた文書が残っており、その中には「休日がいつになるのか」についての記載もある。それを記したのは、残留日本軍部隊のトップになった人物なのだが、奥村和一は「もっと上の階級の承認がなければ、こんな文書が存在するはずがない」と言っており、「このような文書が存在する」という事実こそが、「日本軍が残留を命じた証拠だ」と主張するのである。しかし、この資料も裁判で提出したそうだが、奥村和一は「まったく無視された」と話していた。

つまり日本は、「敗戦を受け入れるフリ」をしながら、「まだまだ戦争を継続させようとしていた」ことになる。そんな事実を認めるわけにはいかないだろう。

さらに問題なのは、ポツダム宣言との関係だ。ポツダム宣言については詳しくないが、本作で奥村和一が言及していたことを踏まえると、「敗戦国に武装解除を求める文言」が含まれているのだろう。しかし、残留日本軍部隊の存在は、「武装解除したはずなのに、日本軍がまだ存在していた」ことを示すことになる。これが明確になればポツダム宣言に違反したということになり、恐らく国家として何かマズいことになるのだろうと思う(どうマズいのかはよく分からないが)。

そのような事情が存在するために、国は死んでも「残留日本軍部隊」の存在を認めないのである。この件に関しては実は、重要な証言をする人物もいた。宮﨑舜市という人物で、終戦後中国からの引き揚げを担当していたそうだ。しかし、どうも遅々として進まない。そのため、自ら山西省へと向かい、現地にいた旧知の人物に話を聞いたのだそうだ。そこで彼は初めて「日本兵を一部残す」という計画を知り、実際に残留を命じる軍の命令書も目にしたそうだ。彼は、テレビ番組の中でもそのことをはっきりと証言していた。しかし国は、そんな話もまったく無視しているのである。

しかし本作は、それだけの物語ではない。ここからは、監督がトークイベントの中で話した内容も随時入れながら書いていこうと思う。

まず監督は、本作『蟻の兵隊』を完成させようと決意した出来事があったという話をしていた。

当時の日本軍には初年兵訓練として「刺突訓練」が行われていたという。監督によると、これは中国に送られた新兵のほぼ全員が経験したことだそうだ。何かと言うと、「銃剣で人を殺させる」のだ。日本軍はこれを「肝試し」と称し、初年兵にやらせていた。

既に奥村和一の取材をしていた監督は、この「肝試し」のことを知っており、彼にも「人を殺したことがあるか?」と聞いたそうだ。それで、銃剣で人を殺す訓練をやらされたと話したという。そしてそれを聞いた監督はすぐに、「現場に行きましょう」と言ったそうだ。

奥村和一は、『蟻の兵隊』の撮影が始まる以前から中国へ足を運んで資料など確認していたので、監督は、もしかしたら自身が人を殺した現場にも行ったことがあるかもしれない考えたそうだが、聞くと「ない」という。そして「現場に行きましょう」と言われた奥村和一は、「行かなければならない場所だと思ってます」と答えたそうだ。この時に監督は、この映画を絶対に完成させようと決意したという。

ここには奥村和一のどんな思いが隠されていたのか。

彼は、「国を訴えている立場」にいた。これはつまり、「自分は戦争の被害者だ」と訴えているのと同じである。なかなか広く注目を集められなかったが、世間にも同じように主張していたわけだ。しかし奥村和一は、自身が成した加害についてはそれまで沈黙していた。それ自体は責められることではないと僕は思うが、しかし「被害者」だと訴えている人間が「加害者」であることに沈黙していることは正しくないと彼は感じたのだろう。そこで彼は、自分が人を殺した場所を訪れ、そこで何をしたのかを語り、そんな風にして「加害者としての自分」に向き合うことにしたというわけだ。そしてそのような覚悟を目にしたことで、監督も、この映画は完成させなければならないと決意を新たにしたというわけだ。

これはとても凄いことだと僕は思う。多くの元日本兵が、「何をしたのか」について沈黙しているだろう。先程も書いた通り、僕はそのこと自体は決して悪くはないと思っている。自ら望んだことではないとはいえ、自分が過去に犯した大きな罪と向き合うことはとてもしんどいことだからだ。そしてだからこそ、自らの意思で「過去と向き合う」と決断した奥村和一には凄さを感じてしまう。そうそう出来ることではないだろう。

しかし、やはり人間というのはなかなか複雑だ。本作には、そんな「人を殺した場所で自らの罪を振り返った奥村和一」が「一介の日本軍人」に戻ってしまう場面があった。

その説明のために、奥村和一がやらされていた「肝試し」について説明する必要がある。初年兵は銃剣を持ち、縛られて中国人の前に立つ。兵士たちは、目の前にいるのが「罪の無い農民だ」と聞かされている。そんな人物に、銃剣を何度も突きつけて殺さなければならないのだ。

さて、中国を訪れた奥村和一は、ある人物と会うことになった。それは、「事前に情報を聞いていたために、初年兵の犠牲になる前に逃げ出した人物」の息子と孫である。そして息子から、父親(つまり、初年兵の犠牲になるはずだった人物)についての話を聞くことになった。

その中で、父親が「鉱山の警備兵」であり、共産党軍の襲撃を受けた際に「武器を置けば助けてやる」と言われて武器を置いた者であると知る。軍人だった奥村和一には、その状況が理解できなかった。何故戦わなかったのかと。戦わずに武器を置くなど、ただの敵前逃亡ではないかと。

正直僕は、奥村和一がその点にこだわって質問をしている理由がよく分かっていなかったのだが、監督の説明で理解できた。つまりこういうことだ。奥村和一は、自分が刺し殺したのが「農民」だと思っていた。しかし実際には「警備兵」であり、さらに「戦わずに武器を置いた者」だという。それは、奥村和一の理屈では「敵前逃亡」と同じだ。つまり奥村和一は、「自分が殺したのは『農民』ではなく『敵前逃亡兵』だったのか」と理解したのである。

このやり取りの後、奥村和一はホテルで監督から、「殺したのが農民ではないと知って、少し気が楽になりましたか?」と聞かれる。それに対して一旦は否定したものの、「気が楽にならなかったと言えば嘘になる」と、正直な気持ちを吐露していた。

監督によると、その後奥村和一は「自分はまだ、戦争のことを知らない」と言うようになったそうだ。そして、かつての軍の偉いさん(奥村和一とどのような関係なのかは不明)に連絡を取り、無理やり自宅を押しかけるみたいな行動を取ったりもするのである。

繰り返すが、奥村和一のようにしなかった人たちを非難したいとは思っていない。ただ、自分の過去の行いを反省し、「あの時一体何が起こったのか」を自ら知ろうと動き続ける奥村和一の行動はとにかく素晴らしいと感じさせられた。

そして、ここまでで書いてきたようなことは、すべて現代にも当てはまる。監督はトークイベントで、「本作が与える示唆は、公開した18年前よりも、今の方がより緊迫度が高い」と話していて、確かにその通りだと思う。僕は、特に安倍晋三が総理大臣だった頃に、「日本はこのまま戦争に突入しそうだな」という雰囲気を感じていたし、今もそんな危うさは社会全体に残っているように思う。「何か間違った方向に進んでいる」という感覚が、かなり強いのだ。

またトークイベントでは、森友問題にも言及していた。自殺した財務局職員の妻・雅子さんは、数年前に本作『蟻の兵隊』を観て、「同じだ」という感想を口にしたそうだ。起こった出来事を「無かったかのように」扱い、体裁を取り繕うために嘘をつき続けるという体質は、今も昔も変わりない。

奥村和一はしきりに、「自分だってそうしていたかもしれない」と口にしていた。戦争が長引けば、自分が新兵に「肝試し」をやらせていただろうし、本作には「日本兵に輪換された」と語る女性が登場したが、この点に関しても「その場にいたらやったかもしれない」と語っていた。

そして、この認識はとても大事だと思う。

僕も含めての話だが、恐らく多くの人が、「自分は戦争になっても人を殺さないし、酷い振る舞いはしない」と考えているのではないかと思う。戦時中に酷い振る舞いをした人に対しては、「そんなことが出来るなんてどうかしてるんじゃないか」みたいに感じているのではないかと思う。

しかし、やはりそれは想像力が欠如していると言わざるを得ないだろう。もちろん、第二次世界大戦の頃とは、社会常識もテクノロジーも何もかも違う。だから、まったく同じことは起こらないだろう。しかし、確実に言えることは、「戦争になれば、戦争前に『絶対にやらない』と考えていたことを、誰もがやるようになる」ということだろう。「自分だけは絶対に大丈夫」と考えている人間ほど、あっさりと変わると僕は思っている。

そして本作は、「戦争」というものとあまりにも距離を感じるようになってしまった現代人に、そのことを改めて思い出させてくれる作品ではないかと思う。そういう意味でも必見と言える作品だろう。

そしてそれとは別に、僕たちは「国は大嘘をつくことがある」ということを、日々肝に銘じながら生きていく必要があるとも感じる。国家は決して、国民全員を守りはしない。手のひらを返し、あっさりと裏切ってくる。そういうことを強く意識しておかなければ、思いがけずトラブルに巻き込まれてしまうこともあるだろう。そんな実感を強く抱かせてくれるという意味でも、本作は非常に重要と言えるだろう。

シアター・イメージフォーラムでは、確か8/16までやっている。昨日観ようと思っていたが、前日にチケットをチェックして売り切れだった。そのため今日観ることにしたのだが、今日も満員御礼。観ようと思っている方はお早めに。

「蟻の兵隊」を観に行ってきました

本作は、監督のインタビューによって、悪い意味で注目を集めた。まあ、その辺りのことについては色んな人が色々書いているだろうからここでは別に言及しないが、「監督がそんなことを言ってるのはダメだろ」という感じだった。

ただまあ、その騒動が無ければ僕が本作のタイトルを知ることもなかっただろうし、積極的に観るつもりはなかったものの結果こうして観に行ったので、その1点(つまり「観客が1人増えた」)だけを取り上げれば良かったと言えるかもしれない。

さて、本作では明確に「男性性の加害性」が描かれる。そして、それを軸にして「女性性の不平等さ」が浮き彫りにされるというわけだ。それを、かなりハードな性描写と共に描く作品というわけだ。

さて、ここから書く話は少し「自分を優位に捉えている」という話になるので、ちょっと書きにくいのだが、「本作のような形で直接的に『男性性の加害性』を描かなければ伝わらない人もいるのだろう」という感覚が強かった。

その話をするために、少し前に観た映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』(以下『ぬいしゃべ』)と比較しよう。『ぬいしゃべ』でも「男性性の加害性」が描かれるのだが、その描写は「気づかない人もいるかもしれない」という感じのものだった。登場人物の1人が。男であるということによる自身の「加害性」に対する葛藤を告白するシーンがあるのだが、そのシーンを観て「何が描かれているのか分からない」と感じる男も多いのではないかと感じた。その人物が「加害性」について悩む必然性など無いとまったくないし、っていうか何を悩んでいるか分からないみたいに思う男もいるんじゃないかと思った。

そして僕は、『ぬいしゃべ』で描かれるような「男が気づくか気づかないか分からないような『男性性の加害性』」に結構驚かされたし、そのような繊細な描写がなされる『ぬいしゃべ』にはかなり惹かれた。

さて、一方本作は、「誰がどう見たって『加害性』としか言いようがない状況」が描かれている。と僕は感じるのだが、その一方でこうも感じた。本作のような「明らかな加害性」をベースにして「男女の不平等」を描き出す作品が存在するということは、「この『明らかな加害性』さえ『明らか』とは感じられない男がいる」という事実を示唆しているのだろうか、と。

もしそうだとしたら、ちょっと驚かされる。

ただ、そうである可能性も無くはない。本作で「明らかな加害性」を体現するのは、風間俊介演じる早藤である。そして彼は随所で「イカれた理屈」を駆使して、「あたかも自分には非がないかのような主張」を繰り出す。僕は彼のその主張を「口先だけで相手を丸め込もうとするやり口」程度に感じていたのだが、ここまで書いてきたような思考を踏まえて、「もしかして本心からそんな風に感じている奴が世の中にいるのだろうか」とも考えた。それは、とても恐ろしい想像だ。

そして、「そんなクズが世の中にはいるのだ」という警告としてこの作品が存在するというのなら、「そんな社会にしてしまっている男の一人」として、この世の中に対して強く憤りを覚える。

さて、本作がそのような「女性に対する警告」の役割を担っているのであれば目的は果たせていると言えるかもしれないが、一方で少し難点もある。それは、「男の側に自省を促すことが難しい」という点だ。というわけでまた、『ぬいしゃべ』との比較で語ることにしよう。

『ぬいしゃべ』で描かれる「加害性」は、「男が普通に生きていたら気づかない可能性もある」というレベルのもので、しかし一方でそれは、「女性にはかなり大きなダメージを与えるもの」である。『ぬいしゃべ』では、そのような打ち出し方が明確になされていたと思うし、だからこそこの作品を観た男は、「もしかしたら自分も、自分が全然気づいていないところで女性に対して『加害性』を帯びてしまっているかもしれない」という思考を抱くことが出来ると思う。

しかし本作『先生の白い嘘』はそうはならない。何故なら、早藤があまりにもイカれているからである。「早藤のような人間がいる」ということは確かに事実だろうが、決してマジョリティではないはずだ。そしてだとすれば、本作を観た多くの男は、「俺はあんな奴とは違う」「あれほど酷い奴は批判されて当然だ」という感覚になると思う。それはつまり、「自省」の方向に思考や感情が向かないということだ。

もちろん、誰が何を言おうが変わらない人間は変わらないし、そんな人間に労力を費やす価値はない。ただ、『ぬいしゃべ』の場合は、「もしかしたら自分も……」という感覚を与えることによって、これまで考えもしなかった思考を展開する人もいるかもしれないし、実際にその後言動を変える人もいるかもしれない。本作が「あまりにゲスい男」を描く作品であるが故に、その辺りの難しさを孕んでしまっている点は、作品としてのちょっとした弱さとは言えるかもしれない。

さて、本作では「男性性の加害性」をベースに「女性性の不平等さ」が描かれるわけだが、それに付随してまったく逆のことも描かれる。それは、ある人物が「セックスはいつだって男のせいだって思ってますか?」と聞くことによって浮き彫りになる。

主人公の原美鈴は、「親友の婚約者から犯され続けている」という最低最悪な状況にいる。あらゆる意味の「暴力」を駆使して、早藤は美鈴をコントロールしようとし、あたかも「美鈴の自由意思によってこの状況が実現している」とでも言わんばかりの雰囲気を作り出す。美鈴は冒頭で、「私はいつも、少し取り分が少ない方にいる」と言っていたが、「女である」という自身の女性性故に「取り分は少なくても仕方ない」と思い込もうとして、この最悪な状況からずっと抜け出せないでいる。

そんな美鈴は、当然と言えば当然だが、「男である」というだけで拒絶反応を抱くようになる。そしてそれは、「異性同士に関わるあらゆる事柄は男が悪い」という、仕方ないものの極端な考えに行き着いているのである。

一方で、高校生の新妻は、ある事情から人妻と不倫してしまう。その際彼は、「やっぱり嫌だと思ってそう口にしたけど、その状況に呑まれて抜け出せなかった」みたいなことを言っていた。それに、担任の教師である美鈴が違和感を示すのだが、それに対して新妻が「セックスはいつだって男のせいだって思ってますか?」と問い返すのである。

美鈴は、「男の方が力が強いんだから、嫌だったら逃げられるはず」と口にするのだが、新妻は「力だけが暴力ですか?」と返す。力だったら確かに男は負けないかもしれないけど、そういう身体的なものでだけではない暴力も存在するはずだというわけだ。

この時のやり取りは不完全燃焼といった感じで終わる。ただ、ここで提示された「暴力」についての考え方は、早藤が美鈴に対して行っていることの一端でもあり、美鈴は一部納得させられたんじゃないかと思う。そして結果として、このような考えを持つ新妻との関わりによって、美鈴は違う闘い方が出来るようになっていくのだ。

さて、そのような「物語の中で必要な要素である」という部分を抜きにして、純粋にこの問いについて考えることも出来るだろう。つまり、「異性との関わりに関して『加害性』を帯びるのは男だけなのか?」ということだ。

この点については本作では深堀りされないのだが、やはり視点としては忘れてはいけないようにも思う。確かにほとんどの場合、「性加害」は男が女性に対して成すものだろうが、ジャニー喜多川のように男が男に成す性加害もあるし、あるいは女性が男に成す性加害だってあり得るだろう。この辺りも「性加害」について考える上で難しいポイントだと思うのだが、「『性加害』は男が女性に対してするものだ」という思い込みが強固になりすぎることが、別の「加害」を生む可能性もある。その辺りのことは別途気をつける必要があるだろう。

さて、個人的にどう捉えたらいいのか難しいと感じたのが、早藤と婚約した美奈子である。原作ではどういう存在として描かれているんだろうなぁ。本作において、少なくとも僕の中では、一番理解が困難なキャラクターだった。映画で描かれている限りにおいては、「美奈子がなぜ早藤を選んだのか」が分からない。本作を観れば分かると思うが、美奈子は「選べる側」の人間であり、だから早藤を選ぶ必然性がない。そのため、後半に行くほど、美奈子というキャラクターがちょっと現実離れしている感じがして、受け取り方がなかなか難しかった。

さて、映画とは関係ないが、公式HPに書かれている原作者・鳥飼茜のコメントがとてもいい。「書けるギリギリの範囲内」で、自身の漫画が実写化されることへの不安・葛藤・憤りを表明しているような感じがあって、この文章が公式HPに載っているという事実もとても良い。こんな風に、言葉をちゃんと紡ぐ人が僕は好きだ。

「先生の白い嘘」を観に行ってきました

たまたまシネクイントのHPを観ていたら、『下妻物語』がリバイバル上映されていることを知って、これは観なければと思い観に行った。今年で公開から20年だそうだ。20年前の僕はまだ、映画館に行ったことなかったんじゃないか、というぐらい映画を観ていなかったし(当時はTSUTAYAのレンタルが全盛だったけど、TSUTAYAで何かを借りたことは一度もない)、だから今回が初見である。

今回の上映をきっかけに初めて、本作が中島哲也監督作品だということも知った。『嫌われ松子の一生』とか『告白』とかすげぇなって思ってたから、そういう意味でも期待度抜群である。

そして、「さすが中島哲也だなぁ」的な感覚で最後まで観れた。

凄いなと思うのは、最初から最後まで割とふざけ倒しているし、遊び倒してるわけなんだけど、それが「面白い」という方にちゃんと触れていること。こういうふざけた感じって、ともすれば「スベってる」みたいな印象になることも往々にしてあると思うんだけど、『下妻物語』はメチャクチャ面白かった。

喫茶店で話を聞いている時に「長くてつまらないからアニメにして要約しますね」と竜ヶ崎桃子(深田恭子)が言って突然アニメが始まったり、駅の待合室で流れているテレビ番組の中で竜ヶ崎桃子の生い立ちが紹介されたり、唐突に「水野晴郎」が出てきたりと、まあやりたい放題である。そういう演出が、物語全体の独特さを邪魔しない、というか、むしろ増幅しているみたいな感じがあって、とても良かった。

ストーリーもムチャクチャだ。嶽本野ばらの原作にどの程度忠実なのか不明だが(未読)、「バッタモンを売る町で育ったけど、父親が売っていたバッタモンのせいで生まれた土地を追われ父親の母(桃子の祖母)の実家がある茨城県下妻市へ。ロリータ服に目覚めていた桃子は、父親を適当な嘘で騙しては金を得ていたが、自分でもどうにかお金を作らないと思い、父親が売っていたバッタモンを雑誌の通信欄で販売することにしたところ、レディースに所属する白百合イチゴ(土屋アンナ)と出会う」みたいな感じで始まっていく。自分で書いていても「なんだそりゃ」という感じの話である。そこからは「桃子とイチゴの友情」的な話になっていくのだけど、でも桃子は別に友達がほしいと思っていないし、イチゴは桃子をパチンコに連れ出そうとしたりする。合う合わないで言えば「全然合わない2人」であり、そんな2人がドタバタしていくという話である。

まあ、変な物語だ。でも面白い。凄いよなぁ、こんなに訳分かんないのに面白いんだから。

まあそんなふざけ倒した作品なのだが、たまにちょっと考えさせるようなセリフが出てきたりもする。一番印象的なのは、作中で2度登場する、「幸せを掴むことは、不幸に耐えることよりも難しいことがある」というものだろう。最初にこのセリフが出てきた時にはあまりピンと来なかったのだが、2度目に出てきた時には「なるほど」という感じになった。

そういう意味で言うと、龍ヶ崎桃子が好きなもの(ロリータ服)と関わる際のスタンスもなかなか考えさせられるだろう。「好きなことを仕事にした方がいいか、趣味に留めておくべきか」的な話なのだけど、良し悪しあるなと思う。ただやはり、個人的には、「好きなことを仕事にしない方が良さそうだなぁ」と思っている。好きなことが仕事になってしまうと、逃げ場がないよね。

個人的に一番驚いたのは、エンドロール。本作には、竜ヶ崎桃子が好きなロリータ服のブランドとして「BABY, THE STARS SHINE BRIGHT」が出てくるんだけど、これ実在するようだ。エンドロールに、そのまんまのブランド名で表記されてて驚いた。恐らく、元々超有名なブランドだったんだろうけど、『下妻物語』で取り上げられてさらに注目されるようになっただろうなぁ。

まあそんなわけで、感想として書くことはあまりないのだが、シンプルに楽しめる映画だった。しかしホント、こういう映画を作るのはめちゃくちゃセンスがいるだろうし、そんなセンスが爆発している作品に感じられた。

「下妻物語」を観に行ってきました

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