黒夜行 2019年12月 (original) (raw)

【『デザイン』っていうのは『拵える』なんですよ】

非常に印象に残った言葉だ。

通常「デザイン」というのは、「設計」などと訳される。要するに「作る」ということだが、「作る」というのは、基本的には、自分の動機から始まる。しかし「拵える」というのは、「他者のために」というのが入ってくる。誰かのために作るのが「デザイン」だ、と彼は言う。

装幀家・菊地信義。
挑戦者だと思った。

菊地信義の弟子である水戸部功は、既に齢70歳を超えている師匠の仕事に対して、「全部やられちゃってますよね」と呟いていた。この映画の中でもいくつか、菊地信義が手掛けた装幀が登場するが、確かに、斬新さという意味で驚かされた。よくもまあ、「本の表紙」という、相当に制約の限られた世界の中で、これほどまでの独創性を生み出し続けられるものだな、と。

菊地信義自身は、こんな風に語っている。

【(ISBNやバーコードなどをカバーに印刷しなければならなくなったことは)悪いことじゃないんですよ。悪くないっていうか、色んな条件をクリアする中で作り上げていくのがデザインだから】

この発言は、ISBNやバーコードなどに関する言及だが、「本」というフィールドについても同じことが言えると感じた。デザインというのは、もちろんそれぞれに専門分野があるだろうけど、世の中に存在するありとあらゆるものに関わってくる。手がけようと思えば、いくらでも方向性はある。その中で「本」という、何千年も形態が変化せず、流通や販売上の制約もある世界を選び、その中で誰もやったことのないことを次々とやり続けるというのは、やはり凄いことだと思う。

しかも菊地信義は、基本的に装幀に絵やデザインを使用しない。シンプルに文字、つまりタイポグラフィのみで勝負している。ここでも「絵やデザインを使う」という自由度を、自ら手放しているのだ。

色についても、こんな風に語っていた。

【僕は基本的にタイポグラフィのみでやってるから、白と黒で成立しないデザインは弱いんですよ】

つまり、文字の配置さえ決めれば、あとは墨一色の印刷でも成り立つ、そういう強さを出さなければ、タイポグラフィのみのデザインというのは成立しにくい、ということだ。

しかし、彼も色を使わないわけではない。先程のセリフに続けて、こんなことを言っていた。

【ただ、テキストがそれ(=白黒のみのデザインで行くこと)を拒絶するんですよ。その格闘をどこまでやるか、という勝負ですね】

「テキストが拒絶する」というのは、なかなか一般的には理解しにくいだろう。ただ、菊地信義の発言の節々に、やはりテキスト(=本文)をいかに重視するか、という信念が伺える。一番そのことが如実に現れていた場面が、弟子である水戸部功が手掛けたある装幀へのコメントだ。ここでは具体的にどう発言したのかは書かないが、「確かにな」と言わざるを得ないものだったし、逆に言えば、そう指摘できるということは、自身は常にそのことと向き合って、その状態に陥らないようにしている、ということだ。しかしそれは、相当にハードルの高いことだと言わざるを得ない。

だから、と繋げるのは、映画の展開にそぐわないかもしれないが、彼はある場面で「空っぽになった」という表現をしていた。

【文芸書の装幀を色々と手掛けてきたけども、自分自身はどんどん空っぽになってきている。1万点を超える文芸書を手掛けてきたから、だんだんイメージを結べなくなってきた。それはその通りで、小説を読むというのは、たくさんの人間の心の有り様とか動きを知ることで、それらを知れば知るほど分からなくなっていっちゃうんだよ】

なるほどな、とも思うが、そもそも文芸書だけで1万点もデザインをしてきたら、そりゃあ空っぽにもなるでしょう、と思った。むしろ、1万点以上もデザインしながら、まだなお新たな挑戦をしようとしている(しかしそれが出来そうにないことを嘆いている)という点に凄まじさを感じる。

水戸部功が、面白い発言をしていた。菊地信義が彼の装幀を、「上の世代のデザインに対する死装束だ」と言ったという。つまり、自分たちの世代が作ってきたデザインを、自分の弟子に殺される(これは悪い意味ではなく、乗り越えていく、というようなニュアンスだ)。そのすべてをひっくるめて「菊地信義の物語だった、ということになるんだろう」というようなことを言っていて、菊地信義の真意はともかく、弟子にそう思わせてしまう偉大さみたいなものは強く感じた。

菊地信義が装幀家を意識したのは、モーリス・ブランショの「文学空間」という本に出会ったことがきっかけだった。高校生の頃だったはずだ。そのデザインに惹かれ、代理店や制作会社などで12年間サラリーマンを続けながら、31歳の時に、装幀だけで食べていくと決め独立した。

このモーリス・ブランショ、映画の中で再び登場する。菊地信義は自身の人生を振り返って「運がいい」と言っていたが、なんというのか本当に、お膳立てをしたかのような展開になる。ラストの方で、印刷所にまで密着しながらその仕事ぶりを追いかけるシーンになるが、「言葉は、人間のことなんか相手にしてくれないんですよ」などと言う菊地信義だが、なんというのか、それでも、言葉に振り向いてもらおうと思って全力でもがいているような姿に圧倒された。

最後に、弟子の水戸部功のこんな嘆きで終わりにしよう。

【シンプルなデザインが一番良いって思ってても、それを推せないのが僕らの世代なんですよ。「もっと何かやってよ」って言われてしまうから。何か施したものがデザインだって思っている人もいるし、だから、一番良いって思ってるものを提案しにくいこともある。その闘いをどこまで出来るかでしょうね】

菊地信義のデザインは、独創的で奇抜でありながら、基本的にはシンプルなのだ。そのシンプルさは、装幀家への「信頼」みたいなものが生み出させていたのかもしれない。「デザイン=拵える」という意識を、依頼側も依頼される側もきちんと共有出来ていれば、シンプルなデザインは通る。しかし、「他者のためにデザインは存在する」ということが、お互いに共有出来ていなければ、シンプルさは「何もしていない」という意味を帯びてしまう。

そういう意味で、ちゃんとした意味での「デザイン」が、もう成り立たない時代になりつつあるのかなぁ、なんていうことも感じた。

「つつんで、ひらいて」を観に行ってきました

いやはや、ぶっ飛んだ映画だったなぁ。

まずはざっと内容を。
地下アイドルグループの一員である優花は、絶望的に歌が下手だった。アイドルとしては人気があり、人気投票で1位になったのを機にソロデビューの話が進んでいるが、しかしやはり歌がネックになる。そこで、同じグループの里奈が紹介したボイストレーナー・みほ(みぽりん)の元で特訓をすることになった。場所は六甲山の山奥にある別荘。優花は始めに、よく分からないまま契約書にサインさせられ、翌日から、効果があるのかよく分からないレッスンが始まる。みぽりんは、時々よく分からないところでキレたりして、優花はその姿に怯える。しかし、歌が上手くなりたいという気持ちで、疑念を押し殺しつつレッスンに取り組む。
一方、ソロデビューのお膳立てを整えなければならない、プロデューサーの秋山と、マネージャーの相川は、プロモーションビデオの撮影をどうするか悩んでいた。単純に、費用が高いのだ。そこで、優花ファンの中でも一番熱心な加藤(かとぱん)に撮影を頼むことにした。里奈を代役に立てて撮影の練習をしている最中、秋山とかとぱんが口論になる。その仲裁も兼ねて、4人で飲みに行くことになったのだが、そこでかとぱんは…。
六甲山の別荘に軟禁状態の優花は、次第に狂気が増していくみぽりんに耐えきれず、どうにか脱出を図ろうとするが…。
というような話です。

とにかく、何がどうなるんだかさっぱり想像出来ない物語です。展開が読めないし、なんなら状況も理解できなかったりする。

ただ、なんというのか、物語そのものとか、設定がどうとかいう個別の要素がどうというよりも、作品全体として、「見させられてしまう力」があるなぁ、と思う。その力強さみたいなものがとにかく最初から最後までぶっ飛んでた。

その力が何によって生み出されているのかは、正直よく分からなかったのだけど、やはり「みぽりん」の存在感は大きい。

みぽりんは、とにかく”狂気”なんだけど、”ギリギリ”という感じが絶妙だった。正常と狂気のギリギリのところを歩いているような感じ。実際には完全にアウト側なんだけど、でも、みぽりんを「正常」の枠にはめ込む理屈は、考えようと思えば考えられなくはない、という感じがする。感覚的には「みぽりんは狂ってる」って思うんだけど、理性の部分では、「言ってることは確かにな」とか思ってしまう。

もう少し考えてみると、結局のところ、みぽりんの狂気の発露というのは、その大部分が「行動」に出る。もちろん、価値観とか考え方の部分でもヤバいところはあるんだけど、ただ、そっちは比較的まともな部分もある。ただ、行動がヤバい。だから、みぽりんに”ギリギリ感”みたいなものが生まれる。

そのギリギリ感が、作品が持つ力の源泉のような感じはしました。

非常にステレオタイプ的な描写が、作中に随時挟み込まれていくというのも、みぽりんの狂気性を際立たせる良い背景だったような感じもします。「よくあるよなぁ、こういうシーン」と感じるような、ありきたりと思える場面が結構あるんだけど、でもそれが挟み込まれることで、対比としてみぽりんの狂気は際立つ。

で、さらにですよ、あの「某」ですよ。これについては説明しませんが、ありゃ一体なんなんだ?ストーリー的に、ミステリっぽく作られてないから、「某」が謎めいたままでも消化不良感はないんだけど、でもなんなんだよ!とずっと思ってはいた。あれを最後まで説明せずに作中に出し続ける監督の狂気みたいなのも感じたなぁ。マジで意味が分からんかった。この「某」も、狂気側に引っ張る存在として機能しているなと思いました。

つまり映画全体として、ステレオタイプ的な描写が正常側に、「某」が狂気側に引っ張っていくから、その境界にいるみぽりんがやっぱり目立ってくる、という感じに僕には感じられました。

そんな感じで、映画全体の構造として、正常と狂気の引っ張り合いみたいなことをしていて、その揺らぎが凄いなって思いました。こういう部分が作品の根底にあるから、物語そのものがまっとうに展開しなくても作品を見させられちゃうなぁ、という感じがしました。

さて、こんな説明では何も伝わらないでしょうけど、とりあえず映画そのものの話はここで終わりましょう。次は「応援上映」の話。

僕はこの映画、初めて見たんですけど、その初めて見た日が、「応援上映」の日でした。初めての方も大丈夫、と書いてあったんで行ったんですけど、この映画、「応援上映」で見るって選択肢、結構アリだな、と思いました。これは若干ディスるような感じになっちゃうかもだけど、応援上映なしで普通に見てたら、今日受け取ったみたいな面白さを感じてないかもなぁ、と思ったりもします。

応援上映は、キャストが劇場内にいて率先してツッコミを入れたり、自分の役のセリフを言ったりしていました。もちろん、お客さんも色々言ってました。歌ったり、掛け声を掛けたりと、色んな場面でわーわー言ってて、応援上映ってのが初めてだった僕は、おっこれは面白いかもしれない、と思ったりしました。

特に、キャストや監督たちが、自分たちの映画に随時ツッコんでいく、というのは、映画の見方として面白いなぁ、と思いましたね。撮影中の裏話なんかも挟みこんできたり、役柄になりきって真っ暗な劇場内で場外乱闘のような演技をしたりしていて、なるほどなぁ、と思いました。応援上映って、観客が叫んだりするっていうのはよくあると思うんだけど、キャストや監督が出てくるってのも普通にあるんですかね?僕は、今日が応援上映デビューだったんで一般的な感じを知らないんですけど。この「キャストや監督が上映している映画にツッコんでいく」っていう映画館での上映スタイル、特にインディーズの映画とかでは面白そうだなぁって思いました。まあでも、そんなのとっくに広まってるやり方なのかもしれませんけど。

あと、正直、演技的な部分で言えば、そんなに上手くないよなって人も結構出てくるんだけど、でも、こういう形の応援上映で、キャストたちが凄く楽しそうにしてるのを見ると、まあいっか、って気持ちになったりもします(笑)。そういう、マイナスの部分も補える、という意味で、いいやり方かもしれないな、と思います。

応援上映抜きで、映画単体で評価するとどうなるのか、ちょっと分からないけど、ただ、ぶっ飛んでる映画が好きな人は見た方がいいと思います。

「みぽりん」を観に行ってきました

冒頭で「原案 『人間失格』」って表示されたけど、人物名とキャラクターの設定ぐらいだろう、参考にしてるのは。いや、「人間失格」をちゃんと読めてない僕的には、物語全体に通底する哲学的な部分まで同じなのかどうかについては、判断出来ないけども。

それにしても、アニメというのは、哲学を語るのに非常に良い器だなぁ、と思う。元々は、SFというジャンルそのものが、哲学と相性が良いのだろうけど、SFがアニメという器と結びつくことで、若い人にも見てもらえる。「哲学」として打ち出すと敬遠されるようなことであっても、「アニメ」として提示すれば受け入れられる、という意味で、アニメというのは非常にうまく使われているな、と思う。この作品で描かれていることも、結局のところは、大昔から議論されている「管理社会」の話だ。テクノロジーが進化することで、それまで人類には不可能だったことまで、選択肢に入ってくるようになった。今まで、「幸福」や「自由」というのは、「元々存在するもの」という扱いだったはずだ。今自分がそれを手に入れられていないとしたら、それは、それらが存在する場所にたどり着けていないからだ、という発想だった。しかし、テクノロジーの進化によって、「幸福」や「自由」は「人間が作り出すもの」になりつつある。

これまでは「元々存在するもの」だったから、「幸福」や「自由」の定義が人それぞれ違っていても問題はなかった。社会全体として目指すべき方向性が規定されることもあるが、そこから逸れることも出来るし、他人とは違う「幸福」や「自由」を追い求めることはいくらでもできた。

しかし、「人間が作り出すもの」になってしまえば、そうはいかない。時間や資源は有限だから、人間は「幸福」や「自由」をきちんと定義し、その定義された一種類を生み出すことに専念するようになる。

これが、「管理社会」という発想を生む。何が管理されるのか、ということは大した問題ではない。少数の人類が規定し、生み出した何かを押し付けられること。それが管理だ。

そして、管理は選別を生む。誰かが生み出した「幸福」や「自由」を否定したければ、「幸福」や「自由」を諦めるしかない。受け入れられる者だけが選ばれ、そうでない者は排除される。

SFなどで描かれる、未来社会の対立は、大体このような構造を持っているように思う。

僕は確実に、誰かに押し付けられる価値観を否定する側に立つだろう。誰かが決めてくれる「幸福」や、誰かが決めてくれる「自由」なんてクソ喰らえだ。だから僕は、「管理社会」を否定するし、そういう世の中になってしまったとすれば、選ばれない側を自ら選択するだろう。

ただ。今の世の中を見ていると、「管理社会」への可能性は益々高まっているなぁ、と感じる。僕がそう感じる理由は2つある。

1つは、これは多くの人が感じていることではあるだろうが、GoogleやFacebookなどの一部の巨大企業がプラットフォームとして世界中を牛耳る体制が出来ている、ということだ。かつては、国営企業でもない限り、企業活動が生活インフラとして扱われることなどなかったはずだ。しかし今は、LINEやamazonなど、民間企業の企業活動が生活インフラとして機能している。そしてこの状況に、多くの人が慣れている。ある意味で、「管理されている状態」への嫌悪感が少ない、ということだ。この感じだと、この映画で登場するような「シェル」が現れても、多くの人はそこまで違和感なく受け入れるのかもしれない、と思えてしまう。

もう1つは、価値観があまりにも分散しすぎている、ということだ。インターネットが登場するまでは、ある種の「大きな物語」をみんなが信じていられた。例えば、「新卒で就職して結婚して子どもをもうけて家を建てる」「みんなが同じテレビを見ていて、次の日その話をする」みたいなことが当たり前の時代もあった。しかし今は、個々人の価値観が多様になりすぎていて、「大きな物語」がまったく意味をなさなくなっていく。この傾向は、益々加速するだろう。

そうなった時、国はどうするか?極端な発想をすれば、方向性は2つある。

1つは、国という概念を諦める、ということ。恐らくこの方向は難しいだろうが、国という制約を取り払い、「地球人類」というような括りが成り立てば、いくら価値観が分散しても困らないだろう。国ではなく、価値観が合う者同士でコミュニティを作り、その中で通用するルールを制定出来るような仕組みがもし出来るなら良いだろう。

もう1つは、国という単位を維持するために、強制的に「大きな物語」に従わせるという方向だ。そしてこれは、まさに「管理社会」そのものだと言える。価値観の分散を食い止めるために、「幸福とはこうである」「自由とはこうである」と定め、それに従えるに人間のみを選別していく、ということを考える人間は、間違いなく出てくるだろう。

価値観が分散すればするほど、「1つにまとめよう」という力学も働きやすくなる。震災やラグビーワールドカップのような、国全体での一体感を共有出来るような経験があると、そのような「大きな物語」を提示しやすくもなるし、そういう「みんなで1つのまとまりを作ろう」というような動きはちょくちょく感じるようになったなぁ、と思う。これはまさに、価値観が分散しているからこそ成り立つ動きだ。みんなが同じ方向を向いている時には、言う必要がない。

この映画では、「幸福」を「死なないこと」と定義する者が登場する。その価値観によって社会が構築され、そして、それに反発する者が登場する、という図式だ。上の世代の人のことは分からないが、僕は、同世代や僕よりも下の世代に話を聞くと、「長く生きたくはない」「五体満足なら長生きしてもいいけど」というような意見を聞くことが多い。だから恐らく、僕らが住んでいるこの現実では、この映画のようなことは起こらないだろう、と思う。長生きしたい、と思う世代が生きている内に、この映画で描かれるようなシステムが作り出せるとは思えないからだ。

とはいえ、まったく別の価値観に基づいた管理や選別が、人知れず行われる、ということは十分にあり得る。それがなんなのか僕には分からないが、なんにせよ、管理社会が到来するんであれば、僕が死んでからにしてほしいと思う。

内容に入ろうと思います。
昭和111年。グランプと呼ばれる四大医療革命によって、人類は医者を必要としない生活を手に入れた。怪我をしてもナノマシンが修復してくれ、病気になっても万能医療薬が治してくれる。人類は、120歳を超えると「合格式」を迎え、合格者となる。合格者は、「健康基準」に組み入れられ、その健康基準を元に、全国民の健康が管理される、という仕組みだ。人類は、死を克服することが出来たのだ。人類の健康は、「シェル」という組織が一括で管理しており、また、「シェル」と共に研究開発を行う「澁田機関」というものが存在する。
しかし、生活は容易ではない。社会は、恵まれた文明を享受できる「環状七号線内(インサイド)」と、そこからあぶれた「環状七号線外(アウトサイド)」に分断され、特にアウトサイドでの生活は厳しい。死なない身体になったとはいえ、一日19時間も働かなければ
ならなかったりするのだ。
一方、インサイドでは、「ロスト現象」と呼ばれる謎の現象が起こっている。まだ頻度は多くないものの、「ロスト現象」は国民には極秘なので、秘密裏に処理しなければならない。人類は死を克服したはずなのだが、何らかの理由によって身体が怪物のように変異してしまうのだ。その原因を作り出しているのが、堀木正雄だと考えられているのだが、ロスト状態になった者を駆除するために特殊部隊が日々待機しており、また、ロスト状態になるかもしれない者をサーチするための役割を、柊美子という女性が担っている。
アウトサイドで一人暮らしをする大庭葉蔵は、日がな一日絵を描いている。友人は、竹一のみだ。ある日竹一が、何度目かになる、インサイドへの突入計画に葉蔵を誘う。爆弾を搭載した霊柩車を護送して、レインボーブリッジの封鎖を突破しよう、というのだ。気乗りしない葉蔵だったが、ついていくことにする。その直前、堀木から薬を渡された竹一と葉蔵。竹一はこれで、本来の姿を取り戻せると意気込んでいたが…。
というような話です。

観ながらずっと感じていたことは、「よくもまあこんな物語を思いつくものだなぁ」ということでした。

管理社会の到来した近未来が舞台で、冒頭からしばらくは、世界観を把握するのが結構難しかったです。未だに、「文明曲線って何がどうなってるんだっけ?」とか「結局アプリカントってなんなんだっけ?」など、きちんと理解できていない部分はあります。ただ、物語を追っていけばちゃんと設定は理解できるように作られているし、理解できればある程度はついていけます。

ただ、結局何と何が対立してるんだっけ?というのが時々ついていけなくなります。

いや、考え方としてはちゃんとわかります。柊美子は、「シェルによって健康が管理され、死を克服できた人類による素晴らしい未来」を追っているし、堀木正雄は「死を奪われたことで生を奪われてしまった人類をやり直す」ことを目指します。ただ、それらを目指すための行動として彼らがやっていることが、なんというのか高度すぎて、この行動が彼らの理想のためになるんだっけ?あれ?と悩んだりしちゃう場面は結構ありました。

そういう意味では、簡単に理解できる物語ではない、という感じはします。

ただまあ、それでいいんだよな、とも思うわけです。この作品のベースになっている価値観は、「文明を維持すべきか否か」ということでもあります。そしてこの問いは、まさに今僕らが直面している問いでもありますよね。温暖化や環境破壊など、僕らは今、自分たちが住む地球を破壊する存在でもあります。文明を維持しようとすれば自然を破壊してしまう、しかし、文明を手に入れてしまった人類がそれを手放すことは難しい、というジレンマは、僕らも今持っているものです。そしてこの作品では、そのための解決として、「文明を延命する」というとりあえずの結論を出します。そして、そのために導入されるのが、四大医療革命であるグランプなわけです。

僕らは今、自然との共生をどうすべきかという部分について、結論が出せていないどころか、そもそも問題を共有することすらままならない、という状態にいます。このように、非常に大きな問題というのはそもそも、容易に結論が出せる類のものではないわけです。この映画では、僕らが生きる現代よりも遥かにテクノロジーが進化している世界を描いているので、同列に比較することは出来ないけれども、僕らが置かれている問題の困難さを映画を通じて理解する、というような見方も出来るだろうな、という気はしました。

登場人物たちのセリフでやはり気になったのは「死」に関係するものですね。

【人間が人間であるためには、死が必要なんだよ】

というのは、本当にその通りだな、と感じます。僕は昔から、長生きに興味がなかったし、むしろ死にたいと思っていた人間です。「いつか死ぬ」とか「何かあったら死ねばいい」というような感覚が、自分を支えてくれていた時期もありました。だから、「死」というものが奪われることの怖さというのは、昔から感じていたと思います。

人間であることを奪われたくないものだな、と思いました。

「HUMAN LOST 人間失格」を観に行ってきました

なんとなく、思っていた映画と違った。
というか、特に何か想定していたわけではなかったんだけど、全体的に、あんまりおもしろくないなぁ、と感じられてしまう映画だった。

エッシャーや、エッシャーの作品には興味がある。あんな作品をどうして生み出せたのか、何を考えていたのか、ということには。

ただこの映画は、「エッシャーのひとり語り」という体裁で、エッシャーが自身の生涯を紹介していくような構成になっている。その語りは、エッシャーの手紙やメモなどから構成したという。「エッシャーが山を歩いている」「エッシャーがコンサートを聴いている」という、主観ベースの映像も挟み込まれたりする。そんな風にして、エッシャーの生涯を再現しようとするのだけど、僕としてはもう少し、エッシャーの作品そのものに食い込んでいくような内容だと良かったなと思う。

何度か登場する、エッシャーについて語る人物が出てくる(名前などは忘れてしまった)。その彼が、「エッシャーの作品は、芸術の世界で再び評価される日が来るだろう」と言っていた。エッシャーの作品は、全体を見ても驚きなのだが、細部を観察してもその凄さが伝わり、研究に値する、と。僕としては、そういう「研究」的な話がメインだと良かったなぁ、と思う。

同じ人物が映画の冒頭で、こんなエピソードを話していた。エッシャーの作品を初めて見た彼は、その感動を直接伝えようとエッシャーに電話をする。その中で、「素晴らしい芸術家だ」と伝えると、エッシャーは、「自分は芸術家ではない」と言ったという。そこで「じゃあ何なんです?」と聞くと「数学者です」と返ってきたそうだ。

エッシャーの語りの中にも、「自分は、芸術家と数学者の狭間を彷徨っている」というような表現が出てきた。自分としては、「無限を有限の内側に閉じ込めることが出来た」と感動しているのに、その美しさみたいなものを周囲がまったく理解してくれない、と嘆くのだ。とにかく、時代が早すぎたということなのだろう。

個人的には、ちょっと掘り下げ方が合わなかったけど、普段そこまで目にすることがないエッシャーの作品をたくさん見られたのは良かったです。

「エッシャー 視覚の魔術師」を観に行ってきました

僕は村西とおるという人物を、この映画を通してしか知らないが、この映画を見た印象としては、「全体的には、ちゃんと理屈の通る、まともな仕事人だな」と感じた。正直それは、意外な印象だった。

この映画は、その8割ほどを、1996年の映像で構成されている。1980年代に、アダルトビデオの黄金期を築きながら、バブル崩壊と共に50億にも上る借金を抱えることになった彼が、一発逆転の再起を賭けて撮影に挑んだVシネマ。その撮影現場に、ドキュメンタリーのカメラが入っていたのだ。この映画の8割は、その時の映像で出来ている。

その映像の、かなり冒頭の方に、非常に印象的な場面があった。

【確かに金を儲けたいのは山々なんだけどよぉ、騙していいのかっていうね】

前後の状況が詳しく描かれるわけではないが、想像するにこうだ。このVシネマは、4時間16分にも及ぶ長尺であり、かつ、このVシネマの撮影と同時に、35本のヘアヌードビデオも撮る、というものだった。もちろん、女優も数十人単位でいる。集めてくるスタッフも大変だ。だから、こういうことがあったんじゃないだろうか。SEXするとかいう話をせずに、割の良いバイトがあるから来ない、というような呼び方をしている、と。モデル担当は別にいるので、どういう女優を集めるかについて村西とおるは携わっていない。しかし、撮影が始まってから、色々問題が起き、恐らくその中で、こんな仕事だって聞いてない、みたいな不満も出たのだろう。そういう事情を踏まえた上での、上の村西とおるの発言だと思うのだ。

村西とおるの何を知っていたわけでもないのだけど、非常に意外なセリフだった。正直、もっと悪い人間だと思っていた。もちろん、ドキュメンタリーのカメラがあるからソフトに見せている、という可能性はある。しかしこの撮影、撮影前夜の時点で脚本は1/5も完成しておらず、しかも撮影中トラブルが続出。村西とおるを始め、スタッフは何日もまともに寝られていない、という状況だった。そういう中で、ドキュメンタリーのカメラがあるから普段よりソフトに、なんていう頭が働くだろうか?なんとなくだけど、普段通りの振る舞いなんだろうな、と感じる。とすれば、村西とおるは、非常にまっとうな感覚を持っていると言える。

そもそも冒頭で、村西とおるに見いだされた伝説的なAV女優(伝説的な、と書いたけど、僕は知らない)である黒木香が、何かのインタビューでこんな風に語っている。

【これほどの才能を前にしたら、絶対服従するしかない。自分にそう言い聞かせているんじゃなくて、自然とそう思う。偉大なる才能の前には、屈服するしかないと思います】

彼女は、横浜国立大学在学中にAVデビューしたそうだ。それだけで頭の良し悪しを判断するのもどうかと思うが、しかし、決して頭が悪いということはないだろう。そんな彼女が、村西とおるをそう評するのだ。多少の欠点はあったかもしれないが、目を瞑っていられれるほどの圧倒的な才能があった、ということだろう。

その才能について、2017年の村西とおるは、こんな風に語っていた。

【その女優が、一生涯誰にも見せなかったかもしれない性の部分を見させることにかけて、私の右に出る者はいないと思う】

1996年のメイキング映像には、SEXをしている撮影シーンはほとんど出てこなかったから、上記の発言を具体的には検証できないが、しかし、なるほどなと感じさせる場面はあった。そのVシネマの主演を務めるKに対して、こんなことを言っていた。

【私は脱げますなんて、そんなことだけで仕事をしてちゃダメなんだよ。僕はあなたを、女優だと思ってるんだ。脱いでSEXする人だとか思ってない。あなたをどう美しく撮るか、そういうことを考えてるんだ。AVの女優は素晴らしいよ。だって、脱いでいいんだもん。ヤッていいんだもん。だけどそれだけじゃダメ。脱がなくても良い演技が出来るってことが、脱げることの価値を生むんだよ。】

実際に話してる内容を正確には覚えてないから、あくまでも雰囲気の再現だけど、要するにこんな風に、女優たちの気持ちを盛り上げるようなことをきちんと言葉にして伝えるのだ。実際に裸になってSEXをするんだから、その部分はしょうがない。でも、それをどう解釈するかで、これからのあなたの女優としての生き方が変わるんだよ、というような言い方は、確かに詭弁っちゃ詭弁だ。けど、結局SEXはするんだから、その解釈次第で取り組み方に変化が出るっていうなら、口八丁でも何でもやった方がいい。女優の方だって、詭弁だと思いつつも、「こんな風に自分のために時間を割いてくれていること」そのものに情熱を感じるかもしれない。まあ、女性側の心理はあくまでも想像だけど、ただ、黒木香の証言もあるし、他のトップAV女優たちも次々育ててきた実績のことを考えると、言葉の力で彼女たちを”気持ちよく”脱がせてきたのだろうな、という片鱗を伺える場面だなと感じた。

しかし、女優の前とスタッフの前とで、村西とおるの態度が激変する様は、非常に面白い。女優たちには「可愛いね」「素敵だね」なんて声を掛ける一方で、モデル担当のスタッフには、「なんだあんなブサイクばっかり集めて。どう責任を取るんだ」と詰め寄る。しかし、そういう姿を、女優たちには見せない。スタッフに対する叱責は多々あるものの、トラブル続きの中、与えられた条件下でいかに成果を出すか、という部分に、相当注力していることが伝わるので、仕事に対する本気度みたいなものが垣間見えた。

しかしまあ、1996年の撮影現場では、トラブルがまあ続出する。体調を崩す女優とか、不満を言う女優が出てくるのは全然マシで、かなり大事に発展するようなトラブルもある。中でも、主演のKに関するドタバタは、ホントにドキュメンタリーなんかなぁ、と感じるほどだ。一つ、あまり具体的過ぎずに例を出すと、彼女がある行動を取り、そのことに対して、「自己管理がなってない」と村西とおるは叱責するのだけど、彼女は自分の非を認めない、ということがあった。僕はこの話、そこで終わるんだと思ってたんだけど、実は続きがあった。マジ!?というような展開で、ホントに物語みたいだった。他にも、展開だけ取り出したら、すげぇ物語っぽいようなものはあるんだけど、でも、映像のリアル感が凄く強いから、全然フィクションには思えない。

世間的には、村西とおるを主人公にした「全裸監督」という映像が話題になってるだろうけど、僕は観ていない。観ていないが、なんとなく、村西とおるのリアル感には勝てないだろうな、と思う。この映画の冒頭で、宮台真司・西原理恵子・玉袋筋太郎・片岡鶴太郎などの面々が、村西とおるについて語るシーンがあるのだけど、それらの評価をひっくるめると、やはり「怪物」という感じになる。アダルトビデオという業界にいる人物だから、どうしても色眼鏡を外して見ることが難しい人物ではあるけども、「こんな人間は二度と出てこないだろう」と思わせるほどのインパクトを兼ね備えた人間だということは間違いないだろうと思う。

映画として他人に勧められるかと言われると、なかなか難しいところではあるけど、僕自身は、観てよかったなと思う。

「M 村西とおる 狂熱の日々」を観に行ってきました

YouTuberと呼ばれる人たちをあまり好きになれない理由の一つは、目的が「有名になること」に見える、という点にある。もちろん、そうではない人もたくさんいるだろうが、同じくらい(あるいはそれ以上の割合で)「有名になること」が目的の人もいるだろうと思う。

僕の個人的な価値観では、「有名になること」は目的ではなく結果だ。何かをした結果、有名になる、というのは、僕には自然に感じられる。もちろんそういう人たちも、「有名になること」をまったく意識しないわけではないだろう。「有名になれたらいいな」とか「これをやったら有名になるかも」ぐらいの感覚はあるだろうし、それは別にいい。

ただ、YouTuberの場合は、映像を配信する目的が「有名になること」にあるように思える。最近では、YouTube側が違法・危険な動画を削除しているようだが、そうなる前は、再生回数を稼ぐためにチェーンソーを使って脅す、なんてことをやる人間もいた。もちろんYouTuberからすれば、そんなのは全体のごく一部だと言うだろう。僕もそれは理解している。しかし、そこまでの「明らかな過激さ」「明らかな違法性」がなかったとしても、結局のところ、YouTuberたちがやろうとしていることは同じように見えてしまう。

歌でもう少し説明してみよう。一人でもバンドでもいいが、「歌いたい曲」「届けたい曲」があって歌手を目指すならいい。それは当たり前の衝動だ。けど、「有名になるために一番の近道はバンドだ。だからバンドをやろう」というのは、なんかしっくりこない。「歌いたい曲」「届けたい曲」を届けた結果、有名になる、というのはいいと思うんだけど、有名になるために歌を歌う、というのは逆な気がしてしまう。

もちろんこれは、歌に限らず、どんな業界でも、一定数そういう人間はいるだろう。お笑い芸人なんかは、「技術を磨いて笑いを届ける!」と思っている人より、「モテたいから芸人になる」という人の方が多い気がする。ただ、どんな業界であれ、「モテたい」「有名になりたい」という動機だけで通用する世界ではない。長い歴史があり、多くの先人がいて、あらゆる年代の人達が同じ土俵で切磋琢磨している。そういう環境ではやはり、「有名になること」が目的の人間が上に行ける可能性は低い。たまにそういう人が上に行けることはあっても、それはあくまで運の問題であって、そう簡単にはいかないだろう。

つまり、「有名になること」を目的にしていても、多くの業界では、その業界内の力学によって、そういう人物は排除されていき、結果的に、その業界の本質的な部分にストイックに取り組む者が上に行ったり残ったりする、というシステムに、今のところはなっていると思う。

ただ、YouTuberは違う。YouTuberは、歴史もまだそこまでなく、先人も多くない。つまり、先程書いたような、業界内の力学が、まだ働きにくい世界だ、と言える。だからこそ、「有名になること」が、まだ目的として成立してしまう世界なのだ。それが目的として通用する世界なのであれば、「有名になること」を目的に始める人間も多くいるだろうし、実際に有名になる人間も出てくるだろう。そんな風にして、まだしばらくの間は、「有名になること」が目的として機能し、そのままそれが実現する世界に、僕には感じられる。

一応書いておくが、別に僕はYouTuberを、チャラチャラした目的で入っても簡単にのしあがれるチョロい世界だ、などと言いたいわけではない。トップの人たちであればあるほど、やはり死ぬほど努力しているだろうし、人一倍苦労を重ねているだろう。YouTuberとして人気を得るためには、「世間のそこはかとない需要」を感じ取って、それに見合うコンテンツを出し続けなければならないだろう。この「世間のそこはかとない需要」を感じ取り、それを満たしていくというのは非常に難しいことだと思うし、本来の目的がどうあれ、それが出来るということの凄さはいつも感じている。

ただやはり、業界の仕組みとして、「有名になること」が目的として成立してしまう世界は、なんとなく好きになれないなぁ、と思うのだ。

「有名になる」という目的は、あまり人の心に響かない。本人以外の人には、関係ないからだ。そういう意味で、YouTuberというのはある意味で凄い需要を見出したとも言える。誰とも知らない人の「有名になりたい」という気持ちを消費するという需要を見つけ出した、とも言えるからだ。

しかし、そこに一定の需要があるとしても、僕はそちら側には行きたくないなぁ、と思う。

僕は、一応気持ちとしては常に、何かを生み出す側の人間でいたい、と思っている。実際僕が生み出せるものには限りがあるが、しかしそれでも、「伝えたいことがある」「届けたいものがある」という目的を忘れないように、とは意識している。

個人が何かを生み出し、簡単に世の中に発信できるようになった。YouTuberに限らず、あらゆる人間が発信側のスタートラインに立てるようになった。そういう世の中であればあるほど、「有名になること」が目的化されていく。時代は恐らくこれから、さらにそういう傾向を強くしていくことだろう。そういう世の中の雰囲気を感じ取る度に、この映画の主人公のことを思い出そう。「有名になること」など一瞬も考えないまま、たった一人で度肝を抜くような宮殿を作り出した男のことを。

内容に入ろうと思います。
これは、19世紀末、フランスに実在した男をモチーフにした物語だ。
シュヴァルは、村から村へと郵便を届ける郵便配達員だ。毎日10時間、30キロ以上もの距離を歩くほどだ。歩くことが好きだという彼は、あまり人と喋らなくていい配達員という仕事を気に入っている。というのも彼は、人付き合いが苦手で、亡くなった妻の葬儀の際も、上司に促されて人前に出てきたほどだ。村人の一人は、妻の葬儀で涙一つ流さなかったシュヴァルのことを「気持ち悪い」と言って遠ざけるほどだ。実際シュヴァルは、他人とほとんど喋ることはない。
ある時。配達ルートが変わった彼は、フィロメーヌという女性と出会う。彼女は夫を亡くした未亡人であり、配達途中のシュヴァルを気遣って水をあげたことから距離が縮まった。そしてやがて二人は結婚。娘も授かり、アリスと名付けた。
配達途中、土に埋まっていた大きな石に躓いた彼は、石で宮殿を作り上げることを思いつく。それは、生まれたばかりの娘・アリスのための宮殿だった。子どもとどう接していいのか分からず戸惑っていた彼なりの、娘に対する愛情表現だった。普段喋らない彼が、宮殿建設を強硬に反対する妻に、有無を言わさない宣言をする。宮殿は作る、と。
そこから33年、9万時間以上もの時間を使って作られた宮殿は、建築途中から世間の知るところとなり、シュヴァルは有名になっていくが…。
というような話です。

映画を見る前にこの文章を読んでくれている方は、「シュヴァルの理想宮」で画像検索してみてください。実際にフランスに存在する、シュヴァルが作り上げた宮殿の画像を見ることが出来ます。建築の知識も経験もまったくなかった人間がたった一人で作り上げたなんて想像も出来ないスケールの建造物で、圧倒されるでしょう。

僕は、この建築物のことは、知識としては知っていました。郵便配達員が作り上げた宮殿がある、という程度の知識ですが。それで、この映画にもちょっと興味を持ちました。

ストーリーは非常にシンプルで、シュヴァルの身辺の変化はいろいろとあるものの、とにかくひたすら宮殿を作るだけです。この映画の凄さは、そのシュヴァルの意思の強さが、最初から最後まで貫かれていることが伝わる、ということです。

シュヴァルは毎日、10時間郵便配達員として働き、そのあとで、10時間宮殿を作り続けます。正直、常軌を逸しているとしか言えないでしょう。村人たちも、妻でさえも、おかしくなってしまったのだ、と言います。しかし、シュヴァルの宮殿の噂が外へと広がっていくに従って、シュヴァルの評価はどんどんと上がっていくことになります。その、周囲の変わりようも面白いんですけど、この映画ではその部分はさほど描かれません。それよりは、シュヴァルが、自身の信念を一切曲げずに、徹頭徹尾宮殿の建設に注力する姿が印象的です。

正直に言えば、シュヴァルのその衝動みたいなものが、どこから湧き出ているのか分かりません。恐らくそれは、シュヴァル以外の誰も理解できなかったんだろうと思います。もちろん映画の中で、シュヴァルは、娘のために宮殿を作る、と言っています。しかし、「娘のため」という理由で、あれだけ壮大な建造物を作り出せるものでしょうか?もちろん、シュヴァルの身に起こった様々な出来事の結果、時間経過と共に、宮殿を作る理由が変化している、ということはあるでしょう。しかしそうだとしても、やはり、あれだけ壮大なものを作り上げる動機としては見合わないような感じがしてしまいます。

しかし、その明確な理由がどうあれ、一つだけ明らかなことは、シュヴァルの動機が「有名になること」ではなかった、ということです。そして大事なことは、そのことが周囲に(観客にも)伝わる、ということです。仮に、まったく同じ建造物を、シュヴァルと同じような手法で、同じように時間を掛けて作り上げたとしましょう。その動機が「有名になること」だったとしたら、果たしてその建造物を見る人は感動するでしょうか?もちろん、感動はするでしょう。「個人であれだけのものを作り上げた」という衝撃は、同じようにあるわけですから。しかし、「有名になること」が目的だと知った時、どこか冷めてしまう部分が出てくるようにも思います。

シュヴァルの場合、有名になるかどうかはどうでもいいことでした。いや、最後の方の描写から察するに、「結果的に有名になったこと」を喜んでいるというような描写がされていたようにも思います。ただ少なくとも、「有名になること」を目指してやったわけではなかった。それが分かるからこそ、より感動が伝わる、という感じがする。

シュヴァル自身、宮殿を作る目的を明確に言語化出来なかったかもしれないけど、見ていて感じることは、あの宮殿と、それを作るのに費やした時間は、彼にとって、誰かへの想いだ、ということだ。そしてその大きさを表現したい、という衝動が、彼を突き動かしていたのだろうと思う。

映画の後半の出来事なので、ここで詳しくは触れないが、シュヴァルが妻へ感謝を伝える場面は、非常に良い。彼が直接伝える言葉は非常に少ないが、しかし、その言葉の背後に、あの宮殿の重みが乗っかってくる。言葉だけではうまく伝えきれないものも、彼がその人生を費やして生み出した宮殿の存在と合わせてだったら、いくらでも通じることだろう。

アリスが、この宮殿の存在をプラスに捉えていたことが、何よりも救いだ。

「シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢」を観に行ってきました

面白かった!

僕は、原作の小説を読んでいる(感想はこちら→http://blacknightgo.blog.fc2.com/blog-entry-3417.html)。だから、トリックはなんとなく覚えていたし、犯人もなんとなく覚えていた(ただし、ちゃんと覚えてたわけではない)。

そういう状態で観ても、非常に面白かった。

設定やストーリーは、原作とほぼほぼ同じだと感じたので(もちろん省略されている部分もあるが)、その辺りのことは原作の感想を読んでもらうとして、映画の面白かった部分を重点的に書こう。

やはりそのキーとなるのは、浜辺美波だ。剣崎比留子という主役の一人を演じているのだけど、この浜辺美波がやはり面白さのキーだなぁ、と思う。

僕は、浜辺美波を、「君の膵臓をたべたい」で初めて観た。でもそれから、映像作品で浜辺美波を観ることは、僕はあまりなかった。色んな作品に出ていることは知っているけど、僕は観る機会がなかったのだ。

しかし、「役柄を喰う」というような評価を、ネットニュースで見かけたことがある。「怪演」というような表現も。可愛らしい感じの女の子でありながら、ぶっ飛んだ役柄をナチュラルにこなす様を、そう評価されているようだ。

ぶっ飛んだ、という意味では、本作の剣崎比留子もなかなかのキャラクターだ。原作で剣崎がどんな風に描かれていたか、ちゃんとは覚えていないのだけど、確かに変なキャラクターとして登場していたような記憶はある。しかし、原作を読んだ時には、剣崎に対して強い印象を抱かなかったのだと思う。

映画の中の剣崎は、強烈なキャラクターだ。冒頭から、「なんかズレた感じの子」という登場の仕方をするのだけど、物語を追うに従って、その印象は益々強くなっていく。

そしてその振る舞いが、あの可愛らしい感じの見た目と絶妙なギャップとなって、個人的には凄く好みの佇まいになる。浜辺美波が、完全に振り切って剣崎を演じているということも、凄くプラスに働いていると思う。白目とか、寝姿とか、躊躇せずに「変な感じ」を曝け出し、些細な振る舞いにも、小さすぎて誰も突っ込まないが、明らかな違和感を残す。でもそれを、当たり前のことだが、剣崎は笑いを取ろうとしてやっているわけでもなく、彼女にとってはごくごく自然な、当たり前の振る舞いである、ということが伝わるように、浜辺美波は演じている。

ストーリーの大枠を知っていた僕としては、最初から最後まで剣崎比留子という異形の存在の振る舞いを見続けていたようなものだ。で、それでも十分に楽しめてしまう、というのが、この映画の凄いところだ。

とはいえ、この事実は裏を返せば、剣崎(と、その相棒のような存在である葉村)以外のメンバーについては、そこまで深く描かれない、ということでもある。これは、映画という、ある程度の時間制約のあるエンタメ作品である以上仕方のないことではあるが、やはりその点だけ切り取ってみれば、原作に軍配が上がる。

どうしても、映画という枠内では、剣崎と葉村以外の面々は、「状況に右往左往する人たち」という以上の描かれ方がなされない。それに彼らは、クローズドサークル内における「容疑者」である。映画内での描かれ方に差異があると、それだけで「容疑者」である可能性は高まってしまう(少なくとも観客はそう感じるだろう)。だから、彼らについて描写するとすれば、その扱いはある程度均等にする必要がある。そうなると、登場人物が多ければ多いほど、描くのが難しくなるのは道理だ。

だから、映画では、剣崎と葉村に焦点を当てて物語を展開させたのは成功だと思う。そういう意味でも、剣崎の面白さで観客を引っ張っていく、というのは、正しい方向だ。

とはいえ。これが男性視点だということも分かっている。浜辺美波はたぶん、女性からの人気も低くはないはず(というか、高いんじゃないか?)と思うけど、だとしても、女性も僕と同じように、剣崎のキャラクターの面白さでこの映画を観るだろうか?

もちろん、原作を読んでいない人であれば、そもそも設定やストーリーの展開で十分に楽しめる作品だと思うので、剣崎が面白いかどうかなんてのはプラスアルファに過ぎないだろうが。やはり女性的には、葉村を演じた神木隆之介にキュンキュンするんだろうか?

原作の方の感想でも書いたことではあるが、この物語の、ミステリ的な部分での凄さについて改めて書いてみたい。

この作品は、いわゆる「クローズドサークル」ものだ。これは「雪山の山荘」や「絶海の孤島」など、警察が介入できず、外部との連絡も取れない状況で殺人事件が起こる、というものだ。その場にいる人間しか容疑者ではありえず、かつ、警察が介入しないので探偵(または探偵役)が大手を振って事件に介入できる、という、物語的に非常に都合のいい状況を与えてくれるので、ミステリの世界ではよく出てくるモチーフだ。

しかし、この作品の「クローズドサークル」は、他のミステリ作品とは一線を画する。

何が違うのか。

たぶんこれぐらいの記述であればネタバレにはならないと思うが、この作品では、「クローズドサークルであることがトリックにも関わってくる」のである。この物語の設定を知れば、ある程度このことは予測出来るはずだ。館に閉じ込められる、という状況を作るだけなら、「雪山の山荘」でいいのだ。わざわざあんな常軌を逸した状況を持ち込む必要はない。つまり、彼らが閉じ込められてしまっているとある事情そのものが、トリックになんらかの関係がある、ということは、ある程度想像の範囲内と言える。

そしてこの点が、このミステリを稀有なものにしている。

普通、「クローズドサークル」というのは、「容疑者が絞れる」「警察の介入を防げる」と言った、ある意味では「作者に都合のいい状況」を生み出すツールだった。もちろん、物語の中で、そうなってしまう必然性はきちんと与えられるし、「作者の都合」という要素はうまく隠されるのだが、結局のところは「作者の都合」である。

しかしこの作品では、「クローズドサークルであることそのもの」がトリックに関わってくる。つまり、この物語の設定は「犯人に都合のいい状況」と言えるのだ。僕は、ミステリをそこまで多く読んでいるわけではないが、僕がこれまで触れてきたミステリ作品の中で、そんな大それたことをやったものはなかったと思う。原作を読んだ時、そのことに、本当に驚いた。そして、よくもまあこんなことを思いついたもんだよなぁ、と作者に感心した。

映画では、解決に至るまでに、視覚的に様々な伏線を張っている。原作をなんとなく覚えていた僕も、解決のシーンで、「あれがああだった」「あの時こうだった」という説明を聞いて、なるほど、と何度も思ったものだ。この点はやはり、映画ならではだと思う。小説では、どんな描写も意図を持つものと捉えられるが、映像の場合、画面の中の主となる動き以外の部分は、背景として意識の外に出てしまう。だからこそ、そういう背景として忘れ去られてしまう部分に伏線を隠しておくことが、小説よりも容易になるのだ。

僕は、原作の感想の方でも、映画の感想でも、館の外部で一体何が起こるのかについて一切触れていない。まだ、原作も映画も観ていないという人は、具体的な情報を仕入れないままの方がいい。確か、映画の予告編でも、それについては触れられていなかったはずだ。この物語が仕掛ける、究極の「クローズドサークル」を、是非体感してほしい。

「屍人荘の殺人」を観に行ってきました

なかなかムチャクチャな映画だったなぁ。

物語は、最初の段階ではまったく繋がらないいくつかの断章が細切れに提示される。MVみたいな感じで、登場人物たちがほぼ喋らず、視覚的な映像の展開がしばらく続く。正直、なんのことだかさっぱり分からない。そういう時間を15分か20分ぐらい過ごした後、ようやく物語のメインの舞台であるオフィスのシーンが始まる。
しかしここでも、明確にはストーリーは展開されない。しばらく時間が経過しても、「状況の提示」しか行われない。主人公である澤田は、オフィスで働いているが、彼自身はほぼ喋らないし、特に何かしているわけではない。そこで描かれるのは、「オフィス内での悪口や、厄介な人間関係」である。この状況の説明も、後の方まで観ればどういう意図なのか分かるのだけど、最初はさっぱり理解できない。なぜ延々と、オフィス内の愚痴を聞かされているのか、見当もつかないのだ。
そんな感じで結構経った頃に、ようやく主人公を取り巻く状況が理解できるようになる。そこから、ようやく「物語」が始まる、という感じだった。だからとにかく、物語の始動が遅い。その点は、この映画の最大の欠点だと思う。

そこから、主人公を中心とした、幾人かの日常の苦悩が描かれるのだけど、この辺りは映画として割と良い感じだったと思う。特に、主人公の妻のあり方は、非常にリアルな感じがするし、この女性だけ、演技がずば抜けて上手かった気がする。

そんなこんなで後半に入ると、なんというのか、超展開になる。いや、まあ、伏線はないではないんだけど、さすがに色々無理あるだろ、という感じで、ちょっといただけない。やるなら、もう少し上手くやってほしかったなぁ、という感じだ。この後半の展開に持ち込むには、ちょっと色んなものが足りない気がしたし、主人公が途中で言うセリフになぞらえれば、「自分がこれまで見てきたものが、どこまでが現実でどこまでが虚構なのかわからない」という感じがする。個人的な好みの問題でもあるとは思うけど、後半の展開はちょっとどうかなぁ、という感じだった。

あと、この映画は、血がビシャビシャ飛び散る系の映画なんだけど、ちょっとその辺りも不満がある。撮影上の制約がきっとあったんだろうなとは思うんだけど、血まみれのシーンなのに、壁とかシャツとかに血が飛んでないんだよなぁ。あれは凄く不自然だった。これももう少し上手くやってほしかったなぁ、という感じがする。

全体的には、ちょっと不満の残る映画だったなぁ、という感じです。

「幸福な囚人」を観に行ってきました

タイトルからイメージする映画とは、少し違っていた。
だからダメだったわけでも、だから良かったわけでも別にないんだけど。
全体的には、凄く面白かった。

僕が、あぁいいなぁ、と強く思ったシーンがある。具体的には書かないが、主人公が、「知らなかったんだよぉ」と泣きじゃくる場面がある。あの場面で、そこまでに至る、すべての物語が繋がった、という感じがした。

つまりそれは、彼女が”隠れビッチ”だったことには、意味があった、ということだ。もちろん、彼女にとって。

観客は、しばらくずっと理解できない。なぜ彼女が、”隠れビッチ”を続けているのか、ということが。もちろん、男を弄ぶのが単純に楽しいから、なんていう可能性は常にある。しかし、観ていると、どうもそうではなさそうだぞ、と感じてくる。何かあるな、と。でも、それが何なのか、よく分からない。いや、もしかしたら、普通は分かるのかもしれない。そういえばかなり早い段階で、主人公の姉だか妹だかも言っていた。でも、それが具体的にどう繋がっていくのか、僕には分からなかったのだ。

彼女が「知らなかったんだよぉ」と言ったことは、人生のどこかで何らかの形で気づくことかもしれない。それは、自分自身の体験としてでなくても、何か物語に触れるとか、他人のそれを見てとか、そういうことから実感できることだってあるだろう。

しかし、彼女には、その機会はなかった。そして、「無かった」ということが説得力を持つような過去があるのだ。

なんとなく、昔の自分に似ているかも、と思う部分もあった。

僕は子どもの頃からずっと、「サラリーマンにはなれないだろうなぁ」と思ってきた。今でも確かにそう思っている。ただ、大人になってみて、サラリーマンとして働く人々を見ていると、「あれ、こんなんでもいいんだ」と感じる機会は結構あった。こんな感じでも、サラリーマンやってていいんだ、と。

子どもの頃の僕は、何から影響を受けたのか分からないが、サラリーマンになることをちゃんと捉えすぎていたのだと思う。ある基準みたいなものを勝手に設定して、自分はそこには到達出来ないからきっとサラリーマンは無理だろう、という判断をしていた。大人になって理解したことは、子どもの頃に設定した基準は、どうも間違っていたということだ。いや、今でも、サラリーマンは無理だと相変わらず思っているのだけど、子どもの頃ほど恐れているわけではない。

彼女も場合、「愛」というものの基準を、大きく捉えすぎていた。そして、それがあまりにも大きなものだったから、「私はそこに到達できない」と思って、「男から愛情をもらってチヤホヤされるだけ」という立場を自ら望んだのだ。気持ちは、分からないではない。子どもの頃の僕の判断と、構図的には同じだからだ。

自分に何が欠けていたのか、自分の何がダメだったのかを理解する過程で、再び過去が彼女を苦しめることになる、という構成も、非常に上手かった。彼女の人生が丸ごと、一点に集約されていく展開は見事だ。冒頭の振る舞いだけ見ていたら、誰も主人公に共感することは出来ないだろう。しかし最後まで見れば、”隠れビッチ”の時期も必要だったんだよね、という風に受け取ることが出来る。

【私も成りたかったな。誇りと信念を持った大人に】

欠落を認識出来ていないところから、その欠落を自分の弱さとして受け入れるところまでの激動を体験する女性を描き出す物語だ。思っていた以上にシリアスな展開で、予想を裏切られた。

内容に入ろうと思います。
荒井ひろみは、男に「好き」と言わせることを生きがいにしている女だ。服装やメイクなどを清楚系にまとめて、男のタイプ別に責め方を変える。ただし、セックスはしない。男に「好き」と言わせれば満足で、「付き合おう」と言われると、振ってしまう。そうやって、「男にチヤホヤされている自分」を感じることで、自信をチャージする。彼女は、それで満足している。同居している姉(だか妹だか)と、関係性が不明な男(なのか男じゃないのか)の3人暮らしで、他の2人からは、いい加減そんなやり方を止めた方がいいといつも諭されている。
ある日、職場で知り合った男性に、いつになく興味を持ち、いつものやり方でアプローチする。安藤くんは、頭は悪いけど夢に向かって頑張ってるし、ひろみと一緒にいると楽しいと言ってくれる。いつもみたいに「好き」って言わせて終わりにするのはちょっと…。ひろみの中で何かが変わりつつあって、安藤くんに触発されるようにして、昔からの夢だったイラストレーターの道へと邁進する…はずだったのだが…。
というような話です。

冒頭からしばらくは、ひろみのなかなかのクズっぷりが描かれていきます。ある種、爽快さも漂うようなクズっぷりで、嫌悪感は特にないんだけど、ただ、振り回されている男のことを考えると、可愛そうだなぁ、さすがに酷いなぁ、という感じです。しかも、男の前ではおしとやかに振る舞うひろみは、家では、鼻をほじり、ぽりぽりと足をかき、がらっぱちな喋り方をするという、男の前では見せない振る舞いをします。

さて、そんななかなか酷いところから、物語は段々と変わっていきます。映画の中での”隠れビッチ”時期は非常に短くて、割と早い段階で安藤くんと出会い、それまでと違う関わり方をするようになります。とはいえ、そこからまた色々あるわけです。その辺りの展開については触れないけど、冒頭でも色々書いたように、ひろみの人生がすべて集約したような展開は上手いと思います。

ひろみの姉(ということにしよう)も、そこまで深くは描かれないのだけど、ひろみ同様、恋愛的にはちょっと厄介さを抱えています。かなり最初の方で、ひろみは姉のことを「ヤリマン」と呼びます。ひろみは、セックスはしないけど男を弄ぶ。姉は、セックスはするんだけど男から大切に扱われない。どちらもなかなかに難しさを抱えていて、しかもお互いが自分のことを正しいと、そして相手のことを間違っていると考えています。ここに謎の男が加わって、どういう関係性なのか不明な3人の共同生活が行われているわけですが、その3人のやり取りもなかなか面白いです。

あと、この映画、男が観たら結構怖いだろうなぁ、と思います。まあ僕も男なんですけど、僕は女子の中に混じって、女子から男扱いされないのが上手いので、まあまだ大丈夫かなと思っています。普通の男だったら、たぶん、ひろみのような女性の振る舞いを見抜けないだろうな、と。女性が見れば明らかなんだけど、男には分からないんですよね。でも男って、謎に「自分は大丈夫」っていう自信を持っている人が結構いるから(だからセクハラとかパワハラとか問題になるんだけど)、この映画を観ても、俺は大丈夫って思うかもですけどね。

最近ニュースで、未成年の少女を大人が家に泊める(そしてそれが誘拐として扱われる)というケースがよく報道されます。個人的には、男に下心があるとしても(っていうかあるだろうけど)、少女の側が、「ここだったら安心」と自分で思える逃げ場があることの方が大事だと思っているから、そういうニュースを見る度に難しいな、と感じています。法律上「誘拐」という扱いになってしまうし、実際に本人の意志に反して監禁しているケースだってあるだろうから、実情はともかく、形式的にひっくるめて男の側を罰する、という仕組みは仕方ないと思います。ただ、それによって少女の側の逃げ場がなくなったら、それはそれでまた別の問題として表面化するだけだろうなぁ、と思います。

なんでこんな話を書いたかと言えば、結局のところこれらの問題は、自己評価の高さが関係してくるからです。自己評価が低いからこそ起こってしまう問題はたくさんあります。僕自身もそこまで自己評価が高いわけではないし、自己評価が低い人にもたくさん会ってきたので、自己評価を高くすることの難しさは理解できているつもりですけど、自己評価が低ければ低いほど、損したり危険に晒されたりする世の中だから、勘違いでもいいから、自己評価を高く持ってほしいなぁ、と思ったりします。

「”隠れビッチ”やってました。」を観に行ってきました

これは面白かったなぁ!

まず、映画そのものとはまったく関係のない話から始めたいと思う。「働く」ってどうなっていくだろうか、という話だ。

映画を観ながら考えていたことは、「『情熱』を突き詰めることでしか、『仕事』は成り立たなくなるんだろうなぁ」ということだ。

AIが仕事を奪う論が世間をざわつかせてからもう何年も経つ。どの程度人間のしごとが奪われるか、正確に予測することは難しいだろうが、しかし、確実にある程度奪われはするだろう。人間が、「退屈だ」「面倒だ」と感じている作業であればあるほど、AIによって自動化する動機は強くなるし、実際に機械に入れ替わっていくだろう。

そう考えていくと、人間が関われる領域というのは、「私はこれがやりたい!」と強く思うものしか無くなるだろう。もちろん、「やりたい!」と感じることが、機械化によって人間が関わるづらくなる可能性はあるが、しかし、人間の「やりたい!」という情熱は、ファジーな形で人間の心を揺さぶるし、ある意味でそれは、AIには不可能なことだと言える。現象としては機械で再現できることであっても、「やりたい!」という情熱がこもったものに触れたい、というニーズは、おそらく、社会にAIが組み込まれた世の中であっても生き残るんじゃないかと思っている。

そうなると、考えておかなければいけないことは、「仕事と趣味の境界はどこにあるのか?」ということだ。もはや、お金が発生するかどうか、というようなレベルで、その境界線を引くのは難しくなるだろう。お金が発生しなくても「仕事」と呼べるものは、既に様々な領域で存在しているように思うし、その可能性は益々拡大していくだろうと思う。

ではその境界をどこに置くか。やはりそれは、「自分以外の誰かのためになる」という部分しかないだろう、と思うのだ。

そういう意味で、この映画の主人公である望月衣塑子は、未来においても生き残るだろう「仕事」をしているなぁ、と感じる。情熱があり、自分以外の誰かのためになっているからだ。

僕は彼女について、名前は聞いたことはあったが、具体的にどういう人であるのか、明確には理解していなかった。映画を観始めてしばらく経っても、まだ分からなかった。しかし映画を観ていく中でようやく、新聞記者として望月衣塑子の特異性が理解できるようになってきた。

彼女を有名にしているものは、菅官房長官の記者会見における質問である。質問の内容そのものも、足で取材をした事実を元にした、国民側に立った視点からのものであり見事なのだが、彼女の凄さは、質問の内容そのもので判断されているわけではない(語弊がないように書いておくが、質問内容が貧弱だと言いたいわけではない)。

では何故彼女は評価されているのか。それは「菅官房長官の記者会見で質問していることそのもの」である。

どういうことだろうか?

その説明のためには、「政治部記者」と「記者クラブ」について説明しなければならない。どちらも、この映画で詳しく説明されるわけではないので、僕がこれまで色んな本を読んできた知識を元に書くので、間違っている部分もあるかもしれない。

まず新聞社やテレビ局には、「政治部」というものがある(地方では無いところも多いらしい)。一般的に、事件・事故などの取材は社会部の記者が行うが、政治は政治部の記者が担当するのだ。

そして、官邸や警察など公的機関の取材においては、昔からの慣習で「記者クラブ」というものが置かれている。これは要するに、記者たちの集団である。官邸や警察としては、色んな会社の、あるいはフリーランスの記者に個別に対応するのは大変だ。だから、記者の集団である「記者クラブ」というものを作ってもらって、官邸や警察はその記者クラブの代表、あるいは記者クラブの集団の場に対して交渉なり発表なりをする。日本の政治取材においては、この記者クラブに入っているかどうかというのは非常に大きく、記者クラブに入っていなければ、そもそも記者会見の場に入れない(入れても質問できない)のだ。

この「記者クラブ」という仕組みは、日本独特のものだ。この映画の中で、外国人記者が多数望月と話す場面があるが、そこで、日本の政治取材に対する疑問が多数出される。

日本で外国人記者が政治取材をすることは、ほぼ不可能だ。現在、菅官房長官の記者会見に外国人記者が入るためには、何らかの要件を満たした推薦者2人の署名入りの申請書が必要だそうで、さらに、会場に入れても質問は出来ない。欧米では、職能集団のまとまりとして「ギルド」というものが発達しており、ジャーナリストは、取材の許可証を、会社ではなくギルドから発行してもらうのだという。また日本の政治における記者会見では、記者から事前に質問を提出させることが慣習として存在するが、それについても外国人記者は一笑に付す。ある外国人記者は、「日本のメディアは、誠実さについては後退した」というような発言をしている。まあ、そうだろう。政治部の記者は、記者クラブから追い出されたり、政治家との仲が悪くなることを恐れて、斬り込むような質問が出来ない。それをいいことに、官邸は、国民の知る権利を無視したようなやり方を平然と行う。

そういう状況にあって、望月衣塑子は、正面切って菅官房長官に質問するのだ。だからこそ、その特異性が際立つ。

何故そんなことが出来るのかと言うと、理由の一つは、彼女は政治部ではなく社会部の記者だということと関係している。政治部の「なあなあ」のような取材方法は、社会部には存在しない。真正面から斬り込んでいくのが社会部のスタイルだ。彼女は、同じ手法を、官邸の場でやっているだけなのだが、政治の世界ではそのやり方があまりにも異質すぎて目立ってしまうのだ。

とはいえ、政治部の記者が正面切って質問しないのには、政治取材ならではの理由もあるのだという。映画の中で誰かが発言していたが、「記者たるもの、自分が得た情報を、記者会見で質問するみたいな形で面に出すバカはいない」ということらしい。つまり、質問する中で自分が得た情報をオープンにしなければいけないわけだから、それを他社の記者がいるような場で出すのは愚の骨頂だ、ということだ。しかし、そんな風に言われても、彼女は自分のスタイルを崩そうとはしない。

彼女は、菅官房長官への質問の度に、妨害を受ける。官邸の報道室長である上村氏が、望月衣塑子の質問中に何度も、「質問に入ってください」と声を上げるのだ。望月氏は、何故その質問をするのかという経緯を含めて説明しているのに、「質問に入ってください」と露骨に急かされる。また、暗黙の了解として、望月氏は2つまでしか質問をさせてもらえなくなった。望月氏が1つ質問を終えると、毎回、「この後の予定がありますので、質問は次で最後にしていただきます」と上村氏が言うのだ。この点についても改めて菅官房長官に質問をすると、「それは記者クラブの方で調整してください」というような返答が返ってくる。この映画で使われている、菅官房長官の望月氏への反応だけ見ると、とにかく菅官房長官は、望月氏への質問にまともに返答する気がないな、ということがよく分かる。一度など、「あなたにその返答をする必要はありません」と答えている場面もあった。すげぇな。

映画の中で指摘されるのは、「官邸の記者会見の主催者は誰か?」ということだ。なるほど、この問いかけは面白い。本来的には、官邸の記者会見は、記者クラブが主催のはずなのだ。しかし、司会や質問制限などは、官邸側が行う。この、「官邸の記者会見の主催者は誰か?」という点を明確に出来なかったことが、記者クラブのがうまく機能しない理由の一つではないか、と誰かが語っていた。

望月氏の質問に我慢がならなくなったのか、官邸側は異例の発表をする。実名こそ出さなかったが、「特定の記者」と名指し(明らかに望月氏を指している)した上で、「事実に基づかない質問に苦言を呈す」という発表をしたのだ。これはネットも含めて大きくニュースで取り上げられた。この問題は国会でも取り上げられ、野党議員からの質問に、菅氏は自らの言葉で、「事実に基づかない質問を平然と言い放つ。そうしたことは絶対に許されないと思います」と語っている。

しかし、「事実に基づかない質問」ってなんだ?と、映画の中でも疑問が突きつけられる。そもそも記者側は、「これは事実ですか?」や、「これが事実だとしたら責任はどうなりますか?」ということを質問するのだ。当たり前だろう。事実かどうか分からないから質問するのだ。それを、「事実に基づかない質問」と切り捨ててしまっては、記者は何も質問できなくなるし、政治の監視など不可能だ。

この映画を観ていて、その点における、政治家と国民の温度差みたいなものを大きく感じた。

この映画には、元文科省の事務次官だった前川氏も少し登場する。加計学園問題において、圧力となるような文書は存在しないとした官邸に反旗を翻す形で、自らこの資料の共有に携わっているから間違いなく存在する、と資料を公表した人物だ。その公表の数日前に、出会い系バーに通っていることを新聞に書かれたが、その少し前に、この記事を差し止めるから、圧力文書の公表を控えるよう話があった(と明言していたかどうかは覚えていない。そういう話があるんだろうな、という前川氏の想像の話だったかもしれない)という話も興味深かったけど、その前川氏が今の安倍政権について、「安倍政権は基本的に、国民をバカだと思っていると思う」という発言も印象的だった。まあそうだろうな、と僕も感じる。最近も、桜を見る会の名簿のシュレッダー問題の説明があまりにもお粗末すぎて、こんなんで納得する国民がいると思ってるんだろうか、という感じだったが、とにかく、「国民はすぐ忘れるから大丈夫」と思っているんだろうな、と僕も感じる。

菅官房長官の「事実に基づかない質問云々」からも、そういう雰囲気を感じる。過程はともかく、結果さえ整えておけば、過程の部分はみんな忘れてくれるから大丈夫、というような感覚があるんじゃないかなぁ、と思えてしまう。

そういう中で、望月氏は、全力で闘っていく。その姿を、ドキュメンタリー作家である森達也氏が追う、という映画だ。

この映画の撮影時に話題になっていたのは、「辺野古への基地移設」「加計学園問題」「森友学園問題」などである。またこの映画には、伊藤詩織氏も登場する。彼女は、昏睡中に性的暴行を受けたと、防犯カメラの映像やタクシー運転手などの証言を集めた上で被害を訴えた。そして、それを行った男性への逮捕状が請求され、いよいよ逮捕、という直前に、証拠不十分として逮捕が取りやめになったのだ。その背景には、安倍首相への配慮があるのではないか、と考えられている。加害男性(とここでは表記する)はその後、「総理」というタイトルの本を出版した。総理に最も食い込んだ男、という触れ込みだ。そしてそういう本を出す予定の人物が逮捕されたらマズい、という判断から逮捕が取りやめになったのではないか、と憶測されているのだ。

この伊藤氏は、実は、望月氏が官邸に乗り込むきっかけになった人物でもある。伊藤氏の事件を知った望月氏は、明らかにこの状況はおかしいと考え、その疑問を突きつけようと、社会部の記者でありながら、官邸に向かうことにしたのだ。

望月氏のやり方は凄いと思うし、応援したいと思う。その気持ちはちゃんとある。ただ、映画を観ながらやっぱり思ってしまうのは、「政治的な主張をすることの、そこはかとない気持ち悪さ」みたいなものだ。これがどこから湧いてくるのか、僕には良く分からない。頭の中では、「本来的には、政治的な発言をして自らの立ち位置を明確にする方が良い」と思っている。欧米などでは、政治の話が出来ない人は教養がないと判断される、なんていう話もある。欧米では、俳優などの著名人も政治的な発言や活動を良くするし、そのことがそこまで本業に悪影響を与えることはない。

だからこれは日本の特殊性なんだと思う。日本の中では、どうしてか、政治的な発言や活動が「かっこ悪く見えてしまう」なと思う。これは、望月氏のことを言っているのではなく、映画の中に登場する、多くの名もなき市民たちだ。こういう発言が良くないことも頭では分かっている。彼らは、自らの意志で行動しているという意味で、行動しないで遠目に見て文章であーだこーだ言っているだけの僕より全然素晴らしい。素晴らしいんだけど、同時に、あんな風にはなりたくないんだよなぁ、と思ってしまう部分もある。

その感覚は、たぶん、森達也も持っていて、映画の最後で、そうだよなぁ、と思うことをナレーションで言っていた。正確には覚えていないが、「どんな集団に属しているかではなく、一人称単数としての意見が大事なんだ」というような話だった。それがどんなイデオロギーであっても、集団になれば暴走するし、その暴走が社会を後退させることは歴史が証明している。もちろん、政治的な要求を通すためには、ある程度のまとまりが必要なのは確かだし、集団という規模を持たなければ動かない現実はたくさんある。けれど、「集団」というものに取り込まれることで、一人ひとりちょっとずつ違うはずの「主張のトゲ」みたいなものが剥がされて丸まってしまうような印象もある。

望月氏を見ていて感じることは、もちろん彼女も、「東京新聞」という組織に所属しているからこそ出来ることがたくさんあると自覚しているが、しかしそれでも、「個」として戦おうとしている印象を強く感じた。彼女は、自分を支持してくれる人が多数いる場に出向くことがあるが、しかしそこで、徒党を組むようなことはしない。あくまでも彼女にとっては取材対象者であり、現実を知るための存在だ。そして、様々な場に出向き、様々な人に出会うことによって現実を知り、それらを武器として「個」として闘っている。その姿に、凄く良い印象を抱いた。

【社内の闘いが一番キツイですよね】

組織の中で働く以上、なかなか超えられない壁はある。それでも彼女には、ジャーナリストとして、出来る限りのことをしてもらいたいと思う。

さて、撮る側の森達也についても少し触れておこう。森達也のドキュメンタリーらしく、森達也自身も登場する。

彼がこの映画の中でチャレンジしようとしていることの一つは、「官邸で質問する望月氏を撮影する」ということだ。しかしそのハードルは非常に高い。森達也は、あらゆる可能性を考えて官邸に入ろうと努力するが、なかなか難しい。

そして、映画の中で森達也は、何度も官邸周辺に足を運ぶが、その中で警備員から、「警備上の理由で官邸を映すな」と言われたり、駅に向かいたいだけなのに歩道の通行を阻止されたりする(他の通行人は普通に歩いているのに、である)。

こういう対応からも、感覚の乖離を感じる。

普通、ごく一般的な感覚を持っている人であれば、官邸を映すなとか、この歩道を通るなと言ったり、その言ったことが映像で記録されてしまえば、自分だけではなく、官邸サイドにもマイナスに働く、と感じるのではないかと思う。これは、ある種の公権力の拡大利用だからだ。そのことが、プラスに受け取られるはずがない。特に、歩道の通行を阻止するなんていうのは、その周囲を歩いている他の歩行者(阻止されずに普通に歩いている)がいるのだから、明らかに違和感を与える行為だろう。

しかしそういうことを平気でやってしまう。それは、上から指示されているのか、あるいは現場の判断としてやっているのか分からないが、どちらにしても、感覚としてズレていると思う。これもある種の「忖度」なのだと思うが、これらの行動から伝わってしまうのは、「忖度しなければならないほど絶対的な権力を持っていて、それを行使する用意もある」ということと、「激しい忖度は逆に悪影響を及ぼすだけ」ということだ。

僕自身、そこまで政治に強く関心を持っている人間ではないから決して偉そうなことは言えないが、政治が国民感情から乖離しすぎているということへの危惧は、日々ニュースを見ながら感じることだし、このまま行くと、「緩やかな独裁」とでも言うような国になっていくんだろうな、という感じがする。全共闘の闘いや、香港のデモのような、暴力によって現状を変えていくことが正しいのかという議論はあるだろうし、僕としてもそれを是とはしたくないが、しかし、政治家以外で最も政治に近づけるだろう記者でさえ、ナチュラルに排除されつつある現状においては、緊急避難的に、暴力的なやり方でもいいから、この状況を打破する行動を起こすべきなのかなぁ、と思ったりもする。

「i―新聞記者ドキュメント―」を観に行ってきました

「好き」という感情は、やっぱり強いよなぁ、と思う。

映画の後半で、印象的な言葉があった。
70歳を超えた、この映画の主人公であるジャック・マイヨールの元を、25歳のフリーダイバーが訪れた時のこと。25歳のダイバーは、伝説的な人物であるジャックに対抗するように、より深くより深く潜ろうとしたという。

海からあがった青年がジャックに、「僕の実力はどう?」と聞くと、こんなことを言われたという。

【君はまだ、フリーダイビングの魅力が分かってない。君にとってフリーダイビングは、他人と競うための手段でしかない】

ジャック・マイヨールは、人類史上初めて、水深100メートルへの素潜りを成功させた。しかし、この映画を通じて語られるジャックは、競技や記録としてのフリーダイバーではなく、「海と一体になりたくて仕方なかった人物」として描かれる。

上海で生まれ育ったジャックは、フランスへと戻る船の上で初めてイルカを見た。長期休みを日本で過ごすことも多く、日本の子どもたちと水遊びをしていたが、その子どもたちは、海女さんの子どもが多かった。そんな風にして、海へ潜ることへの関心が高まっていく。
それが決定的になったのは、水族館で勤務している際の出会いだった。クラウンという、水族館の中で最も賢いイルカが、彼を目覚めさせた。水族館の中で、「イルカの中で最も人間に近い存在」と言われていたクラウンに触発されるようにして、ジャックは、より長い時間素潜り出来るようにと訓練を始めることになる。彼はそれから、素潜り世界記録へのチャレンジをするようになり、記録を延ばすために、ヨガや禅など、様々なものを取り入れたが、何よりも彼のベースにあったのは、「海にいたい」という思いだった。娘の一人は、父親の記憶を聞かれて、「いつも水着姿だった。スーツやジーンズ姿は、見たことがない」と言っているほどだ。素潜りの記録更新と、身体一つで海と関わるスタイルから、彼は「グラン・ブルー」という映画のモデルとなり、世界的に知られる存在となった。

この映画では、ジャックの私生活の部分も描かれていく。そちらはあまり詳しくは触れないが、離婚した後の彼の恋人との顛末には驚かされた。いろいろと毀誉褒貶もあり、特に、晩年は孤独だったようだが、今でも、ジャックの生き様やスタイルを敬愛し、自らの人生に取り込んでいる人がたくさんいて、そういう人たちが、ジャックについて様々に語る映画だった。

いつも僕は、「そこまで没頭出来るものを見つけられる人生は羨ましい」と思ってしまう。もちろん、良い面ばかりではない。特に、知名度が上がることによるメリット・デメリットは様々にあって、その狭間で苦しむ人も世の中には多くいるだろう。英雄は、英雄として語られるのが良いのかもしれないが、英雄の英雄ではない部分もまた、人を惹きつける。外から眺めているだけでは分からない苦悩が誰にでもあるのだ、ということが実感できるし、それは、逆説的すぎるかもしれないが、「なんでもない自分」を肯定することにも繋がるかもしれない。

大事なことは、「好き」に出会えるかどうか、そして「好き」を貫ける環境を維持できるかどうか。フリーダイバーとして名を馳せた一人の人物の生き様を見ながら、そんなことを考えました。

「ドルフィンマン ジャック・マイヨール、蒼く深い海へ」を観に行ってきました

もちろん、理解には遠く及ばない。
でも。
理解できたような気になれる映画でした。
…なんて言ったら、女性に怒られるだろうか???

この映画の面白さは、「生理」という現象に、殊更に焦点が当たっていない、という点だ。

いや、ンなわけないだろう、と思うかもしれないが、僕はそう感じた。その理由は2つある。

一つは、「生理ちゃん」という、明らかに映像の中にそぐわないキャラクターの存在だ。ブサイクな着ぐるみである生理ちゃんは、明らかに違和感のある存在だ。そして、その違和感があまりにも強いからこそ、「生理」という現象そのものにはあまり目線がいかない。

生理ちゃんという、明らかにリアルさを欠く存在を当たり前のように配することで、生理ちゃんという存在への違和感を高め、そのことで、「生理」という現象に焦点が当たりすぎることを回避出来ているように僕には感じられた。

これはつまり、「生理」という現象が劇中でどんな風に登場しようと、どんな扱われ方をしようと、それは、「生理ちゃん」というキャラクターへの違和感に吸収されてしまう、ということだ。この点は、観ていて、非常に面白い工夫だな、と感じた。

もう一つの理由は、これは勝手な邪推でしかないが、制作側の意図として、「生理」という現象に焦点を当てすぎないようにしているような雰囲気を感じたことだ。

これは、僕が男だからかもしれないが、「生理」と聞いてステレオタイプ的にイメージするものはある。「初潮」だったり「プールを休む」だったり「赤飯」だったりと、やはり思春期に絡むものが多い。もちろんこの映画にも、そういう場面は出てくる。しかし、この映画では、「生理というものは、男がステレオタイプ的に想像する、ある時期の特殊な事例ではなく、日常そのものなのだ」ということをハッキリ打ち出そうとしている、という風に僕には感じられた。

だから、女性からすればもしかしたら随所に共感ポイントはあるのかもしれないが、男の僕からすれば、生理ちゃんが画面上に存在しているのに、生理そのものとはあまり関係ないような場面だな、と感じることが結構あった。そして、そう感じる経験を何度かすることで、「あぁなるほど、これが女性の日常なのか」と、なんとなく理解できた気になれた、ということである。

男からすると、女性の「生理」というのは、どこまで触れていいものか、なかなか難しい。

かなり前の話だが、職場でこんなことがあった。勤務中の女性スタッフが、体調が悪くて、グタっとしてしまっていた。正直僕は、その女性から、自分は生理が重い、という話を聞いていたので、たぶん生理なんだろうな、と思った。けど、そう思ったところで、どう行動するのが正解なのか?

ということを考える時に、思い出す話がある。テレビや雑誌などで、「男にされて気持ち悪かった行為」などが話題になることがあるが、その際に、「ストッキングが破れていることを男に指摘されること」というのが挙がる。もちろん、「そんなこと男の人に指摘されたくない」という気持ちは分かる。けど、たとえばその破れている箇所が、女性の視界には入らない場所だとしたら、「気づいてないかもしれないな」と思ってしまう。ただやはり、女性としては、「ンなことわざわざ言ってくれるな男たちよ」ということなのだろう。

と考えると、生理も同じだろう、と思ってしまう。というか、生理ならなおさらだろう。男は黙っとけ、という話である。ただ、生理じゃないかもしれないのだ。生理以外の体調不良かもしれない。それを外野が判断する術はないんだからほっとけ、というのが正解なのかもしれないが、個人的には難しいなぁ、と感じる。

というようなことを、その当時感じた。

最近、そんなことを思うことはない。というのも、「生理だろうな」と感じることが日常でないからだ。良い薬が出来ているのか、あるいは、女性が踏ん張って我慢しているのかは分からないが、女性たちは日々、そんなことを感じさせないような振る舞いである。

劇中では、特に二階堂ふみが、生理の重さを様々な表現で表す。生理ちゃんをおんぶしたり、リアカーで引っ張ったりといった形で、生理のしんどさを視覚的に伝えてくれる。男の僕からすれば、周りにいる女性たちが、毎月ああいうしんどさを乗り越えているんだとするなら、いやホント凄いよ、という感じだ。女性からすれば嬉しくないかもしれないが、やはり、身体的なハンデがある以上、女性はもっと優遇されてもいいんじゃないか、と思うんだけどな。

内容に入ろうと思います。
この物語では、「生理ちゃん」に捕まってしまう3人の女性を中心に、物語が進んでいく。

米田青子は、女性ファッション誌の編集部で働くバリキャリ女子だ。日々仕事に追われ、恋人との予定もキャンセルしがち。しかも、生理がなかなか重く、その期間は、自分の意志ではどうにもならないぐらい気力が奪われてしまう。それでも、仕事に恋にと毎日を全力で生きている。恋人である久保は、妻を亡くしており、一人娘・かりんと2人暮らし。かりんとの距離を詰められず、悩む日々である。
山本りほは、青子が働く編集部で清掃のバイトをしている。実家ぐらし、彼氏がいたことはない、自室で一人レトロゲームをプレイするのが趣味である。自分のことを「サブカルクソ女」と言ってしまうくらいには、こじらせている。彼女もなかなか生理が重いが、自分は一生一人だし、私のところになんて来たってマジで意味ないよと、生理ちゃんを諭す場面もある。しかし、あるひょんなことから、なれると思ってなかった人生の「主役」に躍り出る感じになったが…。
米田ひかるは、青子の妹で受験生。彼氏がいて、自室で一緒に勉強する仲だが、その彼氏の方に「性欲くん」がやってきたりして、「生理ちゃん」vs「性欲くん」みたいになったりする。
この3人の物語を中心にして、「生理ちゃん」が日常に存在する世界を描き出す物語です。

個人的には、すげぇ面白かったです。冒頭で書いた、「生理という現象に焦点が当たっていない」という、映画全体の構造みたいなものも凄く良かったんだけど、僕が何よりも一番好きなのは、掃除婦である山本だなぁ。自分でも自覚してるけど、割と、サブカルクソ女が好きなので(笑)、山本の話はすげぇ好きでした。いいなぁ、ああいう感じ。まあこういうことを言うと、色々反感を買うのは分かってて言うんだけど。別に全然バカにしてるつもりはなくて、ホントに、山本みたいな感じ、結構好きなんです。

山本の存在は、「生理」という現象に焦点が当たりすぎないこの映画において、非常に重要な役割を担っているとも言えます。青子やひかるは、「仕事」や「恋愛」という局面において、生理が邪魔をしてくる、というような描かれ方をする存在として登場します。仕事や恋愛という日常の場面において、生理というものがどう絡んでくるか、ということが描かれるんで、ある意味でストレートな描写を担っていると言えるでしょう。

しかし一方で、山本にとって「生理」は2人とちょっと違った意味合いを持ちます。青子やひかるは、明確には描かれませんが、「いずれ結婚して子どもを産む」という未来の可能性を保持しているからこそ、「生理ちゃん」を殊更に邪険に出来ない。しんどい、とは感じていても、仕方ないと諦めてもいる。自分が女性としてこれから生きていく以上、付き合っていくしかない、という感覚は持っているだろうと感じる。

しかし、山本は違う。彼女は、恋愛や結婚といったものを未来に想定していない。「望んでいるのに諦めている」のか「そもそも望んでいない」のか、あるいは「嫌悪しているのか」ということは、はっきりとは分からないにせよ、とにかく、そういう選択肢が自分の未来に存在するということを想定していない。

そして、そうであればあるほど、「生理」の存在は、憎悪の対象でしかないだろう。彼女は心底、自分には「準備」する必要などない、と感じているのだ。それなのに、「準備に必要なんで」と毎月痛みと共にやってくる「生理ちゃん」には、怒りしかないだろう。

そういう、山本と生理ちゃんの関係性、という意味でも、山本の物語を面白いと感じた。山本の物語がどう展開していくかはここでは触れないが、いや、ホントにいいぞ。

しかしこの映画、役者の感情が大きく発露されるシリアスな場面であっても、「生理ちゃん」という、リアルさをなぎ倒す違和感を備えた存在が画面に映ることで、一気にシュールさを伴うことになる。このアンバランスさも、僕は結構好きだな、と思う。役者が、感情を大きく揺さぶられれば揺さぶられるほど、「生理ちゃん」の存在感と相まって、どういう感情で場面を見届ければいいのか分からない複雑な気分になる。ある種、観客を置いてけぼりにするかのような演出だけど、なんか奇妙な心地よさみたいなものがあるんだよなぁ。評価が分かれる表現かもだけど、僕は面白いと思いました。

あと、「生理」という現象に、「生理ちゃん」という人格を与えたことで生まれた、「あぁなるほど、そんなこと考えたこともなかった」と感じるセリフがあったので書いておこう。

【生理ちゃんも辛くない?来るたびみんなに嫌な顔されて。それって、辛くない?】

これは、「生理ちゃん」という形で人格を与えることでしか生まれなかった見方なんじゃないか、と感じました。もちろん、女性からすれば、そんな”生理側”のことなんて考えてる場合じゃないわ、って感じかもしれないけど、僕はこのセリフを聞いた時、おぉなるほどなぁ、と感じました。

賛否色々出そうな映画ですが、僕は結構好きでした。僕は男一人で見に行きましたけど、やっぱり映画館は、女性かカップルばっかりでしたね。でも、男性も観た方がいいと思いますよ。

「生理ちゃん」を観に行ってきました

僕は、あまり謝らないようにしている。

自分が、何かマズいなと思うことをした場合、謝るのは簡単だ。でも、僕は一瞬立ち止まる。そして、その時々の判断で、「謝らない」という選択をすることもある。

その方が、相手が僕に対して怒りを持ち続けやすいだろう、と思ってしまうからだ。

「謝る」という行為は僕にとって、その大半が自分のためにする行為だと感じられてしまう。謝ることで、「謝ったから許してね」と、相手に主導権を渡している。謝られた側は、それを受けて、「相手を許すかどうか」という選択をしなければならないし、時には、その選択に対して正当性を証明しなければならない事態に陥ることだってあるかもしれない。一方、謝った側は、「謝った」ということである種の大義名分を手に入れる。日本人特有の感覚かもしれないが、「謝ったのだから、許してあげるべきだ」という無意識の感覚を持っている人は多いと思う(個人的な印象だが、欧米ではそんなことないんじゃないかと思う)。そして、そういう社会においては、「謝った」のに「許さない」という選択をする側が、逆に責められてしまうことさえある。

僕は、自分が「謝る」という行為をしなければならない事態に直面する時、いつもこういうことを考えてしまう。そして、「自分が謝らない方が、相手のためになるのではないか」と考えてしまう。

もちろん、謝罪を要求する人というのはいるし、本当に、謝ることで相手の気が済むのであれば、謝ってもいい。しかし僕は、その辺りの感覚を信じていない。「謝ったから、はい、じゃあ今このタイミングからチャラね」と考えられるのは、双方に元々何らかの信頼関係がある場合に限られるだろう。信頼関係がない場合には、「謝る」という行為が、直接的に何かを解決する、という感覚を僕は持てないでいる。もちろん、殺人を犯した場合のような、どう対処しようが不可逆的な状況において、「謝る」という行為が、贖罪の第一歩として理解される、という感覚まで否定するつもりはない。しかし、結局その場合でも、「謝る」という行為が、直接的に何かの解決になっているわけではない。

さて、同じようなことを、「責める」場合にも考えてしまう。

自分が何か被害を受けた場合、加害者を「責める」方がいいのだろうか、と考えてしまうことがある。僕は、被害の中身や、相手との関係性によるが、終わってしまったことに対しては仕方がないと考えることが多いので、「なんでこんなことになったんだ」とか「これからどうしてくれるんだ」という、相手を責めるような気持ちは、そこまで強く湧き上がってこない。もちろんそこには、「なんかめんどくさいな」という気持ちも混じっていて、だから、僕は聖人君子だなんていう話では全然ないんだけど、とにかく、僕自身の感情の推移の仕方はともかくとして、「まあ別にいっか」という結論に達してしまうことが多い。

しかしその一方で、悪いことをしてしまった側は、「責められる」ことで区切りをつけたいと思うのではないか、と感じてしまう。優しい人であればあるほど、自分がしてしまった行為に自責の念を抱き、自滅してしまうかもしれない。それよりは、被害者側が「責める」という行為をすることで、相手の気持ちに一旦ピリオドを打ってあげる方が適切なんじゃないか、と思ってしまう。

つまりこれは、僕自身が相手の行為に対して怒りを感じていなければいないほど、むしろ相手を責める方がいいのではないか、ということだ。「責めない」という選択をすることによって、相手が気持ちの区切りをうまくつけられず、そのせいで自分を責めてしまうくらいなら、被害者である僕が「責める」という行為をすることで、自分で自分を責めすぎてしまうという悪循環を回避出来るんじゃないか、と思ってしまうのだ。

何より、自分が加害者の立場だったら、「責められた方が楽だ」と感じてしまうだろう。「気にしなくていいよ」と優しくされたり、「むしろあなたが悪いんじゃない」と擁護されたりしたら、自分の中の感情の処理が難しくなりそうな気がする。もちろんこれは、「自分が悪いことをした」と自覚している場合であって、そうでない場合はまた話が別なので難しい。

こんなことを考えてしまうので、僕は、被害者にも加害者にもなりたくないな、と思う。謝ったり、謝られたりするような立場には、なるべく身を置きたくないな、と思う。とはいえ、それはなかなか自分でコントロール出来ることではない。

そう、彼らのように。

裕太・葉子夫妻には、長女の知恵と、次女のいつきという2人の娘がいる。いつきは、障害を持って生まれてきた。家族は仲良く暮らしているが、そこに、精神病院から退院したばかりの裕太の兄・光雄がやってくる。裕太は兄を優しく迎え入れ、葉子も、若干の戸惑いを含みながら、光雄の存在を受け入れようとする。知恵は何故か光雄にすぐ懐き、同じ部屋で一緒に寝たりしている。
夏祭りの日。葉子の母親がいつきの面倒を見る予定だったが急遽来られなくなり、裕太も葉子も仕事だったため、光雄と知恵にいつきの面倒を託すこととなった。夏祭りの時間まで、近くの公園で遊ぶ3人。しかし、光雄がトイレに行っている隙に、悲劇が起こる…。

というような話です。

とにかく、メチャクチャシンプルな映画です。そして、シンプルだからこそ、非常強く訴えかけるものがあり、突き刺さるものがありました。

公園での出来事以降、家族の様相は様変わりします。知恵は、学校でも家庭でもほとんど喋らなくなった。葉子は悲しみにくれ、一方で、悲しみを表に出さない夫に対して怒りや感情のすれ違いを感じている。夫婦仲は急速に悪化していく。光雄は、彼らの元から去り、どこにいるのか分からない状態になるが、時々姿を現す。

主人公と言っていい、光雄と知恵が、劇中ほとんど喋らないという、かなり異色の作品とい言えるでしょうが、それぞれの振る舞いなどから、何かを感じていたり、何かを考えたりしていることは伝わるし、あまりにも重い現実を前にしてどうしたらいいか分からないという困惑も、強く伝わってきます。また知恵は、周りにいる他のどんな人も拒絶しているように見えますが、光雄に対しては明らかに別の感情を抱いていることが伝わります。言葉では説明されないので、正確には分かりませんが、知恵が光雄に対してプラスの感情を抱いている、ということだけは事実だと思います。

そして、だからこそ余計、知恵は辛い立場に立たされることになる。自分の決断が、光雄の未来を左右することになると、彼女は明白に理解しているからです。ある意味で、知恵に生殺与奪の権が握られている状態と言える光雄ですが、しかし光雄は、その状況に対して自分に都合の良いアクションをしない。それどころか、自分なりに考えて、知恵に有利になるような行動をしているようにも見える。

この辺りの、無言の交流みたいなものが絶妙だ。

そして、その感覚をまったく汲み取れない存在として登場するのが、母・葉子だ。葉子に、知恵に対する愛がないわけではない。そういうことではない。しかし、知恵のことを思うがあまり、葉子は、「正しくない」と言ってしまっていいだろう判断をすることになる。これは、親になった経験のない僕には、なかなか判断しにくい領域だ。親であればあの場面、どう行動するかは、それこそ人によって様々に違うだろう。葉子の決断を「悪」と捉えない人もきっといるだろうし、その判断も決して間違っているわけではない。

しかし僕が、葉子の決断を「正しくない」というのは、葉子の決断が、知恵自身の感情を置き去りにしているからだ。重い現実を背負っていくことになるのは家族も確かに同じだろうし、母親は、娘の重荷を肩代わりできると信じているかもしれない。しかし、そんなこと、あるはずがない。最も重い現実を生きなければならないのは、どうしたって知恵自身であり、だからこそ、知恵自身の感情が置き去りにされてしまうのが一番の悪手だと僕は感じる。

一方で、父親である裕太はまた違う判断をする。彼の内面については、全編を通じて非常に分かりにくい。しかし、別の側面から見れば、それはステレオタイプではない、ということであり、その分、リアルに近い印象がある。母親は物語の都合上、非常にステレオタイプ的に描かれている(その母親も、輪をかけてステレオタイプ的に描かれている)。彼女の言動がすべて間違いだとは言わないが、しかしこの映画においては、知恵自身の決断として、明白に母親を選んでいない。知恵は、父親を選んでいる。この映画を受け取る際には、この点は重要だ。

父親は、何を考えているか非常に分かりにくいが、それは、状況を把握し、それに合わせて自らの行動を決めようとしているからだろう、と僕は感じる。だから彼が行動するためには、まず状況を把握する必要があるのだ。その態度を、妻はきっと、冷たいものと見るのだろう。「親であればこう行動すべき」という考えが恐らく強いだろう妻からすれば、夫の振る舞いは、不誠実なものに見えるに違いない。

父親は、知恵との関わりの中で、知恵を理解しようとする。それは、なかなかうまくはいかない。何故なら、知恵が何も言わないからだ(しかし、直接的には描かれないが、知恵が喋ったと思しきシーンが挿入される)。しかし、父親は、じっと待つ。それは、知恵が自ら喋る気になることが大事だ、と考えているからだろう。

少なくとも、作中で描かれる「知恵」という少女が立ち直っていくには、父親のようなアプローチが不可欠だっただろう。

セリフも最小限、説明的な描写も極力排された、見るものの感覚で余白を埋める映画で、恐らく、解釈の仕方は様々にあるだろう。また、色んな場面で、自分だったらどうするだろうか、と考えてしまうだろう。問い続けても決して答えは出ず、こういう問いに直面せざるを得ない事態を回避したいと祈りたくなるような状況だが、しかし、似たようなことは、日常のどこでも起こりうる。自分には関係ないと、無視しているわけにはいかない。

さて、映画終了後、監督・主演、そして牧師の3人でのトークショーがあった。牧師が出ていたのは、この映画のテーマと関係がある。そこまで明白に打ち出されているわけではないが(というか、僕はトークショーを聞くまで気づかなかった)、この映画は、キリスト教的な要素が下敷きとして存在するからだ。パウロやペトロと言った、キリストを裏切ったものたちへの「赦し」の話を交えながら、撮影のエピソードなどを語っていた。

その中で印象的だったのが、劇中に登場した向日葵だ。この映画で出てくる向日葵は、「向日葵畑」と聞いてイメージするような明るくダイナミックなものではない。当初は、そういう向日葵畑で撮影する構想だったようだが、それではこの映画の雰囲気には合わないだろうということになり、映画関係者が自ら向日葵を植えたのだという。場所は、宮城県仙台市の荒浜地区。東日本大震災で多くの犠牲者を出した地域だ。その土手に向日葵を植え、撮影に臨んだという。

そしてその向日葵について、こんなトラブルがあったという。植え始めたのは撮影の半年前である3月頃。この時点で既に、その土手は、盛土がなされ埋め立てられる計画が進行していたが、映画関係者は誰も知らなかったという。その年の8月にはすべて埋められてしまうという話を聞き、すぐに林野庁などに工事の中止をお願いしたが、当然止まるはずもない。しかし、そんな話を聞きつけた、荒浜地区に今も唯一住む夫妻が、工事現場に直接出向き、工事関係者を説得してくれたのだという。その結果、彼らが向日葵を植えた場所だけは、埋め立てられずにそのまま残されるということになった。

そういう側面からも、人の想いが詰まった映画なのだな、と感じました。

「種をまく人」を観に行ってきました

つい先日、草間彌生美術館に行ってきた。“生理的に”訴えかけてくる作品だった。

ここ最近、急激に美術館に行く機会が増えたが(というか、それまでほとんど行かなかった)、基本的に美術品を見ても、「よく分からない」と感じることが多い。「なんとなく好きだな」と感じるものも時々あって、そういうのを見つけられると嬉しいが、しかし、じゃあなんでこの美術品が良いと感じるのか、ということはほとんど言語化できない。

そもそも美術品というのは、ある程度知識を持っていることを前提に鑑賞する、という側面もある。そういう本を読んだことがある。「分からない」理由の一部は、「知識がないから」だ、という話だ。宗教画を見るためにはキリスト教の知識があった方がいいだろうし、現代美術の鑑賞には、その時代時代でどんな価値観が美術界にはびこっていて、その価値観を打ち破ったことに価値がある、というような捉え方をしなければ価値が伝わらないものも多い。

だから、「基本的にはよく分からないものだよなぁ」「知識をちゃんと持ってないし仕方ないよなぁ」という感覚を常に持ちながら、美術館に足を運ぶようにしている。

草間彌生美術館で感じたことは、それまで美術品に触れた経験とはまた違ったものだった。

草間彌生の絵を見ていて一番強く感じたことは、「生理的な嫌悪感」だ。「うわっ、なんか気持ち悪いな」という感覚が一番強くやってきた。それは、それまで美術品を見て感じたことのないものだった。

それが「嫌悪感」であるとしても、「生理的に」届くものは、凄く強い。あぁ、なるほど、美術品を見てこういう感覚があるんだと思ったし、恐らく、美術に関心を持つ多くの人は、僕が何も感じられない美術品からも、こういう「生理的な」感覚を得ているのかもしれない、と思った。

僕は絵を見ながら、「嫌悪感」の正体を知ろうとした。僕の感じ取り方は、「原初」を感じさせるモチーフが多いからではないか、ということだった。

僕が草間彌生美術館で見た絵には、「顔」「目」「細胞組織のような形」などが多用されていた。そもそも水玉模様も、「カエルの卵」や「細胞分裂した胚」などを連想させ得るだろう。そしてそれらは、生命の「原初」を感じさせるものだ、と僕は思う。

普段僕らは、生命の「原初」などというものについてあまり考えない。生や死など、生命の根幹を司るものは、日常の中でリアルさを失いつつある。出産は病院内で行われ、技術の進歩により、出産による死亡リスクも昔よりは大幅に減ったから、出産が死と隣り合わせであるというヒリヒリした感覚は減っているだろう。また、社会の中で死は巧妙に隠されるようになってしまい、そのことによって、ある種のタブー感さえまとうようになる。

そういう、「原初」に触れる機会が圧倒的に減った世の中で、芸術作品としてドーンと「原初」を見せつけられることで、「生理的な嫌悪感」が生まれるんじゃないか。

僕は草間彌生の絵を見ながら、そんなことを考えた。

さて、映画を見る前僕は、草間彌生についてほとんど知っている情報なかった。「世界的にも評価されている芸術家」という程度である。だから、勝手ななんとなくのイメージとして、「草間彌生は昔から世界的に高い評価を得ていたのだ」と勝手に思っていた。

しかしまったく違った。

なんと草間彌生は、1990年代頃まで、日本でも世界でもほぼ誰も評価しておらず、その当時既に「忘れ去られた芸術家」になっていた、というのだ。そのことに、僕は衝撃を受けた。なにしろ、戦後かなり早い段階でアメリカに渡り、様々に奮闘した挙げ句、性差別や人種差別のせいで成功できず、1970年代前半、失意の内に帰国した時、既に40代後半。この時点で、日本での活動は、まったくのゼロからのスタートだった、というのだ。よくもまあそんな状態から世界的な芸術家として評価されたものだし、そもそも、よくもまあ描き続けられたものだ、と感じる。

草間彌生は、長野県松本市に生まれた。種苗を行う旧家で生まれ育ったが、両親の仲が悪かった。婿養子だった父親は、そのストレスから女遊びが激しく、母親は草間彌生に、父親を尾行させていたという。草間彌生は「セックスが苦手だ」と公言しているのだが、その原点は、この子供時代の経験にあるのだろう、と語る者もいた。

またこの幼少期に、草間彌生の創作スタイルを決定づけた出来事がある。草間彌生は子供の頃から水玉の絵を書き続けていたが、母親はそれが気に入らず、度々絵を破り捨てたという。だから草間彌生は、「絵を早く描き上げなければまた破られてしまう」と考えたのだろう、という。草間彌生は、3日で一枚書き上げるペースである、「キャンバスの方が追いつかないぐらい」と本人が語っていた。

戦争を経て、草間彌生は、戦後相当早い時期にアメリカに渡った。芸術家に限らず、日本人としてはかなり珍しかった。彼女は、成功してやる、という明確な目標を持ってアメリカに渡ったが、しかし現実は相当厳しかった。当時のニューヨークでは、芸術家と言えば男性であり、女性が単独で古典を開くなど不可能だった。女性画廊でさえ、草間彌生に協力しようとはしなかったという。

そんな中でも、草間彌生は溢れる創作意欲でもって絵を描き続けた。それは、一部で大きな話題を生み出すが、やはり女性であること、そして日本人であることが邪魔をして、大きく評価されない。さらに、草間彌生が発表した独創的なスタイルを模倣したかのような男性芸術家の作品が世界的に高く評価されていく。それは本当に、屈辱的な経験だっただろう。彼女は、アトリエの窓を塞ぎ、アイデアが流出しないようにして創作を続けた。

それから彼女は、絵から離れ、「1500個のミラーボールをゲリラ的に美術館の前庭に置く」「裸のまま町でパフォーマンスをする」といった形で、自らの創作衝動を表に出すようになっていく。しかし、これはある意味で逆効果といえるものだった。アメリカでの彼女の“奇行”が、逆輸入の形で日本まで届き、「長野県の恥」「叩き殺せ」と言った激しい反応を引き起こすことになる。

こんな風にして、渡米してすぐに60年代に一部から受けていた「尊敬」は、70年代後半から80年代にかけては失われてしまっていた。40代後半で日本に帰国した彼女は、まったくのゼロから(というか、マイナスから)創作活動を再開する。

そこから彼女は、いくつかのきっかけを得て、世界的に評価されるようになっていく。そんな激動の人生を描き出す作品だ。

冒頭でも少し触れたが、やはり凄いと感じるのは、「それでもずっと描き続けている」ということだ。純粋に「描ければ幸せ」という人物なんだとすれば、当たり前かもしれないが、草間彌生は、描き続けたいという衝動と共に、成功するという強い野心も持っていた。彼女にとっての「成功」が、正確に何を意味するのか分からなかったが、ニューヨークで彼女は、画廊に飛び入りで絵を売りに行ったり、経済的に支えてくれるパトロンを探そうと必死になったりと、「成功」のために不断の努力をした。しかしそれは、彼女自身にはどうにもできない要素、つまり「女性であること」「日本人であること」によって叶うことがなかった。

その状態で、よく創作活動を続けられたものだ、と感じる。彼女の芸術家としての凄さについては、ちゃんと理解できている自信はない。しかし、「結局諦めなかった」という部分の、人間的な凄さについては、十分に理解できたと思う。

「諦めなければ夢は叶う」という言葉を、僕はまったく信用していない。「諦めないこと」と「夢が叶うこと」には、特に関係はない。しかし、「諦めれば夢は叶わない」は正しいし、「夢が叶ったのなら、諦めなかったということだ」というのも正しい。そして草間彌生はまさに、そういう人物なのだなぁ、と感じた。

草間彌生は長いこと、故郷である松本市を良く思っていなかった。そりゃあ、「迫害された」と感じても仕方ない扱いを幼少期からずっと受けていただろうから、仕方ないだろう。しかし、松本市に美術館が出来ることになり、そこに草間彌生の常設展が出来ることが決まると、草間彌生は、「やっと故郷に錦を飾ることができた」と語ったという。現在草間彌生は、世界で最も成功している女性芸術家だという。凄いものだ。

映画の中に登場する学芸員の一人が、草間彌生のある展示を見て、「ずっと見ていられる」と言っていたのが印象的だった。

僕もまったく同じことを、草間彌生美術館で感じたからだ。

「VIA AIR MAIL」と書かれたシールを、キャンバスいっぱいに貼り付けただけの作品がある。何故か僕は、この作品に囚われてしまった。自分でも、非常に不思議な感覚だった。一度その作品から離れ、別の作品を見るのだけど、どうしてもまた「VIA AIR MAIL」に戻ってしまう。別の階の作品を見た後も、また「VIA AIR MAIL」を見たくなる。芸術作品で、こんな感覚になるのは初めてだった。未だに、どうしてそんな感覚が生まれたのか、自分の中で説明ができない。

もうひとつ、面白かったことがある。草間彌生美術館の売店に図録が売られていて、その中に「VIA AIR MAIL」の作品もあった。しかし、それを見ても、先程作品を見た時のような衝動は現れなかったのだ。それまで僕は、美術作品なんか、別に写真とかで見て知識を得ればいい、と思っている部分もあったのだけど、その経験で考えを変えた。やはり、現物の前に立たないと感じ取れないものがあるのだなぁ、と思った。

そういう意味で、草間彌生は、僕の芸術に対する考え方・感じ方を変えさせてくれた人でもある。そんなタイムリーな時期に見たのもあって、自分の感覚に色々と突き刺さってくる、印象的な映画だった。

「草間彌生∞INFINITY」を見に行ってきました

ちょっと思っているのとは違う作品でした。

バウハウスについて、詳しいことは知らないんですけど、よく名前を見かけると思っていました。デザインの世界で有名だ、という話程度のことぐらいしか知らないですが。

いつも映画見る時には、内容についてあまり調べないで見るんですが、バウハウスの映画だから、バウハウスについてなのかな、と思っていました。

ただこの映画では、バウハウスそのものについてはあまり触れられません。この映画では、「ミース」という人物が建築したバルセロナ・パビリオンについて、そして、グロピウスという人物が建築した「ファグス」という靴型工場についての映画です。この、ミースとグロピウスが、バウハウスの著名な人物だった、ということです。

色んな人物が、彼らの建築について語るんですが、それらが非常に観念的なものでした。建築に興味がある人が見れば、面白く見れるかもしれませんが、デザインというものに全般的な興味を持っている人には、ちょっとマニアックすぎるのかな、という感じがしました。

「ミース・オン・シーン」「ファグス」(バウハウス100年映画祭)を観に行ってきました

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