黒夜行 2016年08月 (original) (raw)

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本気で何かに向き合う、ということを、人生の中で経験することはほとんどない。
受験勉強を死ぬほど頑張った人、甲子園を目指して猛練習をした人、会社のセールスでとんでもない数字を叩きだした人など、世の中には凄い人間がたくさんいるだろう。結果は伴わないにせよ、自分の精一杯を突き詰めた、と感じた経験がある人もいるのかもしれない。

しかし本書を読むと、そんな感覚は吹き飛ぶだろう。
「本気」というのはこういうことなのか、と打ちのめされるような思いだ。

『懸垂のMAXとは「できる限り回数をやる」ことになる。例えば懸垂を十五回できるのなら、それをできなくなるまで何セットでもやり続ける。間に休憩を入れても良いが、五分以上、休むことはあまりない。初めは反動なしでの懸垂だ。
この懸垂ができなくなった初めて、反動を使っても良い。それでもできなくなったら、足を地面に着けて斜め懸垂をやる。
ここまでくると指先に力が入らなくなり、鉄棒を握ることすらできなくなっている。ベンチをやっている時から、シャフトを強く握っているからだ。
しかしここで止めては、100%とはいえない。
そこで今度は、紐で手を鉄棒に括りつけて、さらに懸垂をおこなう。さすがに学生ったいは本当に泣いていたが、ここまでやらないと、外国人のパワーと対等には闘えないのだから、無理は承知の上だ。』

一事が万事、こんな感じである。通常は日本のトップ選手の5倍のウェイトを行い、大会後や調整時期などには「軽め」ということで日本のトップ選手の3倍ぐらいのウェイトをやっていた。一日二十四時間練習していた、というのが大げさではないくらいの練習量である。

その圧倒的な練習量にも驚かされる。彼の本気を感じる部分ではある。
しかし、ただ量が凄いだけではない。彼は、質においても究極を目指した。

『精神と身体は不可分であり、そのため両方の素質が必要となる。
精神面の才能とは、やる気があるとか、そんな基本的な話ではない。スポーツ選手にも、考える感性やセンスといったものが必要になる。それは簡単にいえば、「自分で考える力」があるかどうか、その考える方向は合っているのか、ということだ。』

彼の「自分で考える力」は、圧倒的だ。

『私に信条というものがあるとしたら、「世の中の常識を徹底的に疑え」に尽きるだろう』

『世の常識というのは、ただの非常識だと思った方が良い』

著者のこの価値観は、本書を読めば分かるが、実に説得力がある。何故なら、誰もがやらなかった技術を編み出し、そしてそれがその後その競技の世界において広まっているからだ。

『とにかく、考えられることは何でも試して、自分のものにしてくのだ。さすがに日本人はもとより、外国人でもここまで考えて徹底している者はいなかったが、後々、私の真似をすることで彼らの記録も伸びていくことになる』

どんなものがあるのか、いくつか挙げてみる。

『現在、やり投げ選手の多くは、この左右の長さが違うスパイクを履いているが、これは私が世界で初めて使ってから広まった。海外でこの左右非対称のミズノ製スパイクは「ミゾグチ」と呼ばれている』

『早く走ろうと思うのなら、上半身は猫背のように前かがみ気味になって、腿を体の前の方で回す感じにするといい。こうすれば、誰でも早く走れる。
私は何でも女装練習していて、この猫背の姿勢で腿を前で回転させれば、早く走れることを知った。というより、速く走ろうとすれば、それしか方法がないのだ。
これは1990年代に入るまで、世界の舞台でもほとんど見られなかった。短距離界でもまだ気づいていなかった記述だ。現在では多くの選手がスタートしてから前半は前かがみになって走っているが、私はこれに1989年の段階ですでに気づいていた。なぜ短距離選手がこの動きをしないのか、不思議でならなかった』

『このクロスのフォームは、助走のときの猫背より驚かれた。
なにしろクロスのときに跳ばない選手は、今まで世界で誰もいなかったからだ。ガニ股だったのも、面白かったのだろう。「まるでロボットだ」とも言われた。まあ、言いたい奴には言わせておけばいい』

彼は、常識を疑い、自ら仮説を立て、自ら実験することで、正しい答えを導き出していった。それはまさに、「自ら考える力」なしには不可能だっただろう。

また、彼の練習はウェイト中心だったようだが、ウェイトというものそのものに対しても、こんな考え方を持っていた。

『私にとってウェイトは、繊細にして最大の注意を払うべきトレーニングだ。ここでウェイトの話をすることは、私自身を説明することに他ならない。
ウェイトこそ、私の哲学の実践だといっても過言ではない。
ウェイトをすると「身体が硬くなる」、または「重くなる」という人がいる。
しかし、私から言わせると、それはウェイトを「単に筋肉を付ける」という目的でやっているからだ。短距離なら「速く走るたんのウェイト」をしなくてはならない。これをしていないから、体が重く感じるのだ。

では、その種目に合ったウェイトとは一体、どういうことなのか。
一言で言えば、ウェイトは筋肉を付けると同時に、神経回路の開発トレーニングでなければならない。筋肉を動かすのは、筋肉ではない。脳からつながっている神経が動かすのだ。
この神経がつながっていないとせっかく付けた筋肉が使えない。結果、体が重く感じてしまう。物理的にも重くなっているのだからそう感じて当然だ。』

彼はこのとんでもない「本気」を貫くことで、世界記録まであと一歩という驚異的な記録を叩きだした。
いや、実際にはその記録は、世界記録と呼ばれるべきものだったのだ。

『冷静に考えると、いくら安物のメジャーを引っ張ったとして、それで8cmも縮むわけがない。おそらく芝生にいた計測員が、再計測のとき、故意に着地点をわずか手前にずらしたのだ』

生まれ持っての身体能力に頼らず、たゆまぬ努力と自ら見出した理論によって強靭な肉体を作り上げる。さらに、常識を疑い、自ら考え続けることによって、誰も見出したことがない新たな技術を次々と開発する。その連続によって彼は、体格では圧倒的に欧米人に劣りながらも、世界と匹敵するほどの結果を残すに至ったのだ。

これこそ、まさに「本気」である。

彼の本気は、相次ぐ故障や怪我によって、もはや自己ベストを出すことは不可能だと分かった後も続く。

『致命的な故障で体が動かなくなって初めて、私は一般の選手のことがわかるようになっていた。
一般選手に教えていても、全くできないことがある。それがなぜかわからなかったのだが、「ああ、こういうことなのか」と納得できたのだ。
では、これまでの自分は才能だけでやってきたのか、それとも努力でやってきたのだろうか。
相変わらず1日10時間以上のトレーニングを続けながら、私はその点を確認、実験することにした。
90mを目指したために、ここまで破壊され動かなくなった体が、一般選手と同じ状態にあたる。この体で、果たして努力だけで80mが投げられるものかどうか。
そのためにもう一度、初めからトレーニングを見直すことにした。私は、自分が何を積み上げてきたのかを明らかにしたかったのだ。』

『最近の競技スポーツはみな、三歳頃からの英才教育で伸びると思われている。しかしこの試合で私は、ある程度の身体的・精神的素質があれば、誰でも努力次第で80mは投げられるという結論に至ることができた』

ここまでの努力が出来る人間を、人は「天才」と呼ぶのだろう。
そういう意味で彼は、圧倒的な「天才」である。

溝口和洋は、伝説の多いスポーツ選手だ。

『中学時代は特活の将棋部。高校のインターハイにはアフロパーマで出場。いつもタバコをふかし、酒も毎晩ボトル一本は軽い。朝方まで女を抱いた後、日本選手権に出て優勝。幻の世界新を投げたことがある。陸上投擲界で初めて、全国テレビCMに出演。根っからのマスコミ嫌いで、気に入らない新聞記者をグラウンドで見つけると追い回して袋叩きにしたことがある…。
それらの噂の真偽は、取材当時はわからなかったが、溝口和洋が日本陸上界で誰もが認めるスターだったのは間違いない』

本書は、そんな溝口和洋の評伝である。マスコミ嫌いであり、『知り合いの記者からは「絶対にインタビューなんかできませんよ」と忠告されていた』著者は、しかしその後18年にわたり溝口和洋から話を聞き、そして溝口和洋のアスリートとしての生涯を一冊にまとめあげた。

一人称ノンフィクションという、異例の形態によって。

本書は、上原善広が書いたノンフィクションでありながら、溝口和洋の一人称視点で進んでいく。「自伝風」とでも言うのだろうか。僕はそれなりにノンフィクションを読んできているが、このような一人称ノンフィクションというのはなかなかない(もちろん、「自伝」として出版されていても、実は別にちゃんと作家がいる、という場合もあるだろう。そういう作品も「一人称ノンフィクション」と呼ぶべきなのかもしれないが)。読んでいると、溝口和洋という人物のパーソナリティなどまるで知らないのに、溝口和洋本人が本当に語っているかのように感じる。読んでいると、ふとした瞬間に、そうだそうだこの本の著者は溝口和洋ではなかった、と思う。上原善広という作家が、まさに溝口和洋というアスリートに乗り移ったかのような作品は、臨場感に溢れていて、「自伝」ともまた違った読み味を感じさせる。

本書の中には、「アスリートとして自らの能力を高めるために真摯に練習に向き合う内向きの溝口和洋」と、「常識や組織を毛嫌いし無頼を通し続けた外向きの溝口和洋」の二人の溝口和洋がいる。前者については冒頭で書いた。ここからは後者について書いてみよう。

彼は、日本人選手同士仲良くやっていこうというような風潮、特に何もしてくれないのに賞金だけ奪っていくJAAF、トレーニングの苦労も知らないで好き勝手書いては、他人の話でメシを食うマスコミなど、自分を取り巻く様々なものを嫌悪していた。その気持ちは、分かるような気がする。

何故なら、彼のベースを作っていたものは、彼自身による「考える力」なのであり、根性や気合と言ったような曖昧なものではなかったからだ。

『私は学生のとき以来、やり投げをやめるまでは恋愛も結婚もしないと決めていたので、特定の女がいても、決して感情移入しないように気をつけていた。』

『タバコを吸うと持久力が落ちるというが、タバコは体を酸欠状態にするので、体にはトレーニングしているような負荷がかかるから事実は逆だ。タバコを吸うと階段が苦しくなるというのは、単にトレーニングしていない体を酸欠状態にしているからだ。』

彼の中には常に、どんな些細なことであっても、それがやり投げにとってどう役立つか、という思考があった。『私はやり投げを始めたときから、正確には大学生になってやり投げのために生きることを決意したときから、日常生活も含め、全てをやり投げに結び付けてきた。箸の上げ下ろしから歩き方まで、極端にいえばセックスをしている最中でも、この動きをやり投げに応用できないかと考え続けてきた』とも書いている。

そんな著者からすれば、周りが言っていることは、「考える力のない無能ども」による戯れ言でしかなかっただろう。そこに、彼にとって価値ある何かをもたらすようなものは何もない。誰ら彼は、他人の言うことを聞かず、スポーツマンらしくない振る舞いをしただけだ。そこに、やり投げを改良するための何かがあると思えば、彼はそれを取り入れたはずだ。彼以上にやり投げについて考えていた者がいなかった以上、彼が自分の判断で様々なことを決め行動するのは当然だと僕には感じられる。彼は傍若無人に映ったかもしれないが、溝口和洋というアスリートは、やり投げに不利になることは一切せず、やり投げに有利になることは何でもやる男なのだから、彼の努力が結果に結びついている以上、彼の記録だけではなく、彼の生き様ごと丸々受け入れなければ嘘ではないか、という気分になった。

『しかしいま、私の手元には、やり投げに関するものが何もない。
トロフィーも表彰状も、何もない』

『何年の何月何日、どの試合の、何投目が何m何cmで何位だったのか、今でも瞬時にそれを思いだすことができる。
それ以上の勲章があるだろうか。』

圧倒的な努力をし続けることが出来る溝口和洋は、今トルコキキョウという栽培の難しい花を育てる農家である。独自のやり方で、トルコキキョウを安定的に市場に出荷できる仕組みを作り上げた。

『農業には農業の難しさがあるが、しかしやり投げに比べたら楽なものだ。私は幼い頃から農業を手伝ってきたので勘もいい。やり投げで87mを投げることに比べたら楽なものだ。』

圧倒的な努力をし続けることが出来る人はいるかもしれない。しかし、どんな努力をすればいいかまで自ら考え、自ら軌道修正を加えながら正しい道を突き進み続けられる人はそうそういないだろう。どんな世界であっても、世界トップレベルにいられる人にはどこかしら常人を超えた部分があるのだろうが、溝口和洋というアスリートのそれは規格外であり、こんな男がいたのかと驚かされた。

上原善広「一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート」

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先日、「母親やめてもいいですか」という本を読んだ。「普通」の家族というものを昔から希求しながら、発達障害のある子どもを授かってしまった母親の経験を元にしたコミックエッセイである。

その感想の中で、「普通の家族」なぞ存在しない、という話を書いた。

「母親やめてもいいですか」の著者は、「娘が発達障害児であった」という点をとって、「普通ではない」と判断していた。その気持ちは、まったく分からないわけではない。確かに、普通か普通でないかで言えば、普通でないかもしれない。

しかし、じゃあどうだったら普通だと言えるのか?と僕は感じてしまう。

「学校でいじめられて自殺するかもしれない。通り魔に殺されるかもしれない。不慮の事故で命を失うかもしれない。誰かを傷つけて警察に捕まるかもしれない。痴漢の冤罪で逮捕されるかもしれないし、若くしてガンになるかもしれない。誰かを助けようとして命を落とすかもしれないし、性同一性障害だと後々分かるかもしれない。会社のお金を横領するかもしれないし、騙されてAVに出演させられるかもしれないし、病院で子どもが取り違えられていたことが発覚するかもしれない。」

「母親やめてもいいですか」の感想で、僕はそんな風に書いた。子どもに何が起こるか、という以外にも色んなことが起こりうる。夫と離婚する、夫がリストラされる、義母が認知症になる、子どもの友達の母親とモメる…。子どもや子育てを取り巻く環境は、いつ何時だって変わり得る。

そういう、悪い影響すべて起こらないことが「普通」なのだろうか?それはむしろ、「普通」ではないのではないか?「普通の家族」というものに囚われすぎた著者(「母親やめてもいいですか」の著者)に対して僕は、そんなことを強く感じてしまった(一応書いておくが、「だから、発達障害を持つその子を受け入れるべきだ」という結論に達したわけではない。その著者が、子どもを愛せないことそのものは、僕は間違ったことではないと思っている)。

「普通の家族」とは、なんだろう?

隣の芝は常に青く見えるものだ。自分のところと比較して、相手の良い部分だけが視界に入ってしまう。しかし、家族の数だけ、親子の数だけ、そこには様々な関係性がある。外からでは窺い知れないような苦労は、どんな家庭にだって存在するはずだ。「幸せそうに見える家族」はたくさんあるだろうし、「幸せな家族」というのも実際にそこそこあるだろうが、「普通の家族」は存在しない、と僕は考えている。みな、普通ではない中で、その中で自分なりの幸せを見つけて行っているのだろうと思っている。その「普通ではないこと」がどんな風に現れてくるか、結局はその差でしかない。

僕の両親も、まさか僕がこんな風になるとは思ってもみなかっただろう。

僕は子どもの頃、良い子を演じていた。それは、僕なりの処世術だった。他人(僕にとって家族も他人に含まれる)と争ったり、喧嘩したり、自分の意見を通したりすることがめんどくさかった僕は、常に譲り、相手を受け入れ、自分の意見を言わない子どもになった。小学生ぐらいの頃から意識的にそうしていたので、親からすれば実に良い子に見えていたことだろう。

僕が反旗を翻したのは、大学二年の頃だ。両親に初めて、ずっと嫌いだったということをぶちまけたのだった。それから10年近くほぼ疎遠となり、最近は、時々連絡したり、たまーに会ったりする。

僕が高校生の頃、両親は僕の将来をどんな風に考えていただろうか。僕は、勉強だけは出来たし、結果的に良い大学に合格したので、両親としても多少の期待はあっただろう。それでも、結局僕は大学を中退し、長いことフラフラとフリーターを続けていた。僕自身は特にそれで困ったことはなかったが、親としては、思っていたのと全然違う、という感じだったかもしれない。

僕自身は、未だに、親に対して「育ててもらった感謝」みたいなものを感じたことがない。基本的に人間としてのまともな感覚が死んでいるので、まあ仕方ないよな、と思っている。

少し前、弟と電話で話をした。弟は既に結婚し、子どもがいる。弟は子どもが生まれた時、「それまで親のことは嫌いだったけど、初めて、育ててもらった感謝みたいなものを持てるようになった」という話をしていた。子どもの頃は“優等生”だった僕と比べなくても酷い奴だったが、今となっては弟の方が立派に優等生である。それを聞いて、子どもが出来るというのはそういうものなんだな、と感じたものだ。

僕自身は結婚願望もないし子どもも欲しくないので、この感覚が変わらなければ、一生“父親”というものを体感することはないのだろう。それでいいと思っている。“家族”というのは、僕にはイマイチよくわからない関係性だが、みな、“家族”というものに、過大な幻想を抱き過ぎなのではないか。子育てや家族の様々な話を見聞きすると、どうしてもそんな風に考えてしまう。

内容に入ろうと思います。
本書では、三つの家族が描かれていく。

専業主婦であるあすみとサラリーマンである太一の一人息子である優。小学三年生。優は優しく勉強熱心だ。募金箱があると募金をし、足し算も引き算も学校で習う前に出来ていた。あすみは習字を習っており、そこで出会ったママ友と情報交換をする。私立中学に入れようと思っているのだ。
優のクラスには、宇野光一君という、発達障害だと思われる子がいる。あすみはその子のことが気になっている。優になんらかの悪影響があるのではないか?子どもを守れるのは、親しかいない。あすみは、そんな気持ちで、優に最良の環境を与えてあげたいと考えている。

留美子は、いつも叫んでいる。長男の悠宇と次男の巧巳。小学三年生と小学一年生のこのコンビは、一人ずつなら大人しいのに、二人揃うと怪獣になる。二倍になるのではなく三乗になるような印象だ。スーパーで走り回る二人に注意をし、リビングを荒らしまくる二人を注意する。毎日これだ。留美子は空いた時間で、毎日の子育てで起こった出来事を面白おかしくブログに書いている。ちょっと息抜きが出来るような気がする。カメラマンの夫・豊は、子育てにはほとんど関わらないが、ライターである自分もカメラマンである夫も不安定な職なので、稼げる時に稼ぎたいと思っているから大きな不満はない。
しかし、その状況が一変するような出来事が起こる…。

加奈はシングルマザーとして、一人息子の勇を育てている。勇は我慢強い。我が家にお金がないことをちゃんと知っていて、欲しいものなど自分から言わない。学校で必要なものはすぐに言ってといっても言わない。無理させてしまっていることは心苦しいが、コンビニと化粧品会社でのライン作業では、どれだけ朝から晩まで働いても、余裕のある生活は出来ない。しかし加奈は、勇のためなら何でも出来る。勇に無理させないように、やりたいことをやらせてあげられるように、頑張って働くだけだ。

三人の「ユウ」の物語である。

子育てを描いた作品を読む度に感じることは、母親(あくまでこれは、メインで子育てをしている方、という意味での母親だ)は凄い、ということだ。小説で読んでも、ノンフィクションで読んでも、誰かの話を実際に聞いていても、凄いなと感じる。

本書の中では、特に留美子が、分かりやすい形で大変だ。

『自分の時間が、ほんのひとときもない生活は、精神的にも肉体的にも苦痛だった』

『食事をさせるのも、風呂に入れるのも、おそろしく体力を消耗した。あの頃、自分の洗髪やら洗顔やらをまともにやっていたのかさえ、留美子は思い出せない。椅子に座ってお茶を飲む時間なんて、どこを探しても見つからなかった。美容院に行く時間さえなく、半年に一度、区のサポートセンターに頼んで、たまった用事を済ませていた』

『反対に、どんなことがあろうとも、絶対に手を上げてはいけないという意見もあった。もちろんその通りだと、留美子も思う。よくわかる。ちゃんとわかっているつもりだ。
けれど、そういう意見の人の子どもは、決して怪獣ではないのだ』

どんな子どもが生まれてくるのか、選ぶことは出来ない。留美子がもしあすみと優の親子と面識があれば、優しくて落ち着きがあって頭のいい優を羨ましく思ったことだろう。自分の二人の息子は、一瞬足りとも落ち着くことがない怪獣だ。大人しく本を読んでくれている優は神様みたいに見えるだろう。

まさに、隣の芝は青く見える、ということなのだが。

本書を読むと、ひと言で「子育ての難しさ」と言っても、そこには様々なグラデーションが存在することを改めて認識させられる。どんな種類の困難さがあって、そしてそれがどの程度なのか。家族ごとに、親子ごとに違う。あすみ・留美子・加奈それぞれが抱える問題は、すべて違う。そして何よりも大変なのは、子どもを生む前にその困難さを予測することが出来ないということだ。

母親になれば自動的に「完璧な母親」になれるわけではない。どの母親にも得意不得意があり、自分の得意とする部分に困難さがある場合ならさほど問題にはならないかもしれない。しかし、自分の不得意とする部分に困難さがある場合は、大きな問題となる。子どもを生んだ後どんな困難さに見舞われるのか分かってるなら、自分が不得意とする部分を予め補う努力をすることも可能かもしれないが、そんなこと不可能に近い。

子どもは可愛いが、母親として上手くやっていくことが出来ない。子どもが持つ困難さと、母親自身の得意不得意の組み合わせ次第では、そういう状況などいくらでも起こりうるだろう。

『ゆったりと音着いて、心地よく理想通りに過ごすなんて、子どもたちがいたら無理だ。けれど、子どもたちがいない生活は考えられない。悠宇と巧巳がいてくれるからこそ、自分はこうして生きているのだと留美子は思う。
子どもを実際に持ったあとでは、子どもがいなかった頃の自分には戻れない。最初からいないのと、存在したものをなくすのとでは、当たり前だがまったく違うのだ。だから、子どもがいなかったら?子どもを生まずにいれば?などの「たられば」はありえない。
子どもがいて、楽しかったことと大変だったこと、これまでどちらが多かっただろうかと留美子は考える。大変だったことのほうが断然多かった。命を預かるというのは、並大抵のことではない。けれども、それでも、悠宇と巧巳がいてくれてよかったと思うのだ。やんちゃで愛おしい二人の子どもたち』

留美子がそう実感する場面がある。凄いな、と思う。僕は、自分が親になることがあったら、こんな風に感じられる自信は微塵もない。僕は、「我が子でも愛せないことがある」というのは当たり前だと思うし、それを大前提として色んな仕組みが出来ればいいと思っている。我が子を愛することは当たり前だ、という価値観や空気は、そうしたくても出来ない母親を追い詰めるだけではないかな、と思う。

少し話は変わって、本書を読んで強く感じたことは、男の無能さである。

先日、「逆襲、にっぽんの明るい奥さま」という本を読んだ。その感想の中で僕は、「男は、家庭というものを共同でつくり上げるには極めて無能である。」と書いた。本書を読んで、ますますその思いを強くした。

加奈の夫は、「好きな人が出来たから離婚してくれ」と言っていなくなったろくでなしだから置いておくとして、あすみの夫である太一も、留美子の夫である豊も、当初はちゃんとしていた。「社会の中で、男がすべきとされている役割」、つまり「働いて金を稼ぐ役割」に従事している分には、男はまだ頑張れるのだ。しかし残念ながら、男はそこでしか頑張れない生き物であるらしい。

『毎日家にいるくせに、なんで子どものこと、ちゃんと見てないんだよ!あんなになっちまって、いったいどうすんだよ!お前のせいだろ!』

『子どもたちを視覚的に「見てる」だけで、特になにをするわけでもないのだ。「見てる」だけなら、五歳児になってできる。「見る」という意味もわからないのだろうか』

『文句があるなら自分でやれば?』

『はんっ。仕事をしてるほうが、家のことやったら、子どもの面倒見たりするより楽だよなあ。いいよなあ』

僕は、自分が結婚して子どもが出来ることがあれば、いつかこういう人間になってしまう、という確信がある。だから、結婚にも子どもにも興味がない。世の中の男の大半は、自分がこんなろくでもない大人になるなんて思わずに、結婚して夫となり、子どもが出来て父親になるのだろう。自分は大丈夫だと思っているから、自分は他の男とは違うと思うから、夫になり父親になるのだろう。

男のこういう姿を見ると、僕は、甘いなー、と思ってしまう。自己認識が甘すぎるのではないか、と思ってしまう。僕みたいに、やる前からすべてを諦めているような生き方もどうかと思うが、夫になった自分、父親になった自分をリアルに想像しないまま結婚に踏み切る男が多いような気がしてならない。

女性の側にもそういう人はいるだろうが、男と比べれば圧倒的に少ないだろう。女性の方が現実的で、さらに変化への対処能力が高い。自分の想定と違っていても、なんとかする力に優れているように僕には感じられる。本書に登場する男は、とにかく、変化に弱すぎる。自分で自分の役割であると思っていること以外の事柄については、あまりにも適応能力が低すぎる。だから本書でも、男はとにかく醜態をさらす。「男は、家庭というものを共同でつくり上げるには極めて無能である。」と、益々実感させられるのである。

昔の方が、「子どもを育てる」ということの意味はシンプルだったはずだ。しかしそれは、家というものを重んじたり、女性の地位が虐げられていたことと関係しているので、良い時代だったなどと言うつもりはない。現代は、家という縛りが薄れ、女性の地位が昔よりは上がってきた。それゆえ「子どもを育てる」ということの意味は拡散し、共通項が見いだせなくなるくらい多様性を持つようになった。そんな時代にあって、家族ごとに、親子ごとに「普通でないもの」に囚われてしまう、現代の家族のあり方を切り取った作品だ。

椰月美智子「明日の食卓」

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何かを変えるものは結局、行動しかない。
たとえそれが、自らの意志によるものではなかったとしても。

彼は、行動に移した。

彼はその時、失われたものがなんだったのか、理解できていなかった。
喪失感だけが、彼の内側に残っていた。
ただの夢だったのだ、と思うことも、彼には出来た。
ただの妄想だったのだ、と片付けることも、彼には出来た。

しかし彼は、動いた。

初めは、風景だった。
彼の内側に、確かに残っていたものは。
そして、彼を強く惹きつけたものは。
輪郭だけ残った喪失感の狭間に、ひっそりと残っていたその風景が、彼を突き動かした。

しかし彼は、気付いていたのかもしれない。
その風景の奥にあるものに。
東京に住む自分には、ついぞ感じられなかったものに。
東京では、意識しなければ出会えないものに。

それは、線だ。
無数の点が、意志を持っているかのように整列することで生まれる、線だ。

東京は、散漫な点の集まりだ。
星を見て星座を見つけるように、人々はその散漫な点を無意識の内に結びながら、そこに何かを見る。
だから、皆が違うものを見ている。
東京では、人は、同じものを見ることが出来ない。

糸守は、整列した点の集まりだ。
普段は散漫に散っている点も、瞬間瞬間でその線に引き寄せられる。
彗星のようにくっついたり離れたりを繰り返しながら、長い長い尾を引いて、過去から現在に、そして未来に至る長い長い線だ。
そしてその線は、「伝統」と呼ばれている。
人々はその伝統に沿って、同じものを見る。

彼は、その伝統を見た。
糸守が受け継ぐ伝統行事の中に。
その伝統に触れた。
遠く離れたご神体の中で。

そして、時間の流れそのものである組紐が、すべてを繋ぐ。

彼は、伝統という、組紐という、彗星という線に囚われながら、あの一瞬を生きた。
それぞれの線が、日常を作り、非日常を作り、何かを生み、何かを壊し、何かを繋ぎ、何かを引き裂く世界を生きながら、彼は、東京にいる点である自分の存在を、その小ささを、その儚さを自覚する。

彼女も、行動に移した。

彼女は、東京に憧れていた。
東京に生まれ、東京に暮らしたいと思っていた。
伝統と狭すぎる人間関係に押し込められた日常にうんざりしていた。

東京での暮らしを思い、彼女は涙する。
結局囚われたままである自分の境遇に、彼女は涙する。

線にぐるぐる巻きにされていた彼女は、点になりたかった。

誰も、他人の人生を生きることは出来ない。
与えられた場所で、なんでもないことの連続である日常を生きるしかない。

でも、何かを変えるために行動することは出来る。

彼女は、時間の流れを守るために行動に移す。
自分の未来を変えるために行動を起こす。

それは、自分のことを信じてくれた誰かがいたから出来たことだ。

一本の組紐が、時間の流れそのものとなって二人を繋ぐ。
二人にしか出来ないやり方で、新しい時間の流れを生み出そうとする。
二人が出会った点から、線が生まれる。
そんな風に人生が繋がっていくことが、小さな歴史となっていく。
やがてそれが、伝統と呼ばれる悠久の時間の堆積になるかもしれないし、
彗星と呼ばれる大きな自然となっていくのかもしれない。

立花瀧は、東京の高校に通い、夜はイタリアンレストランでアルバイトをする高校生。美術や建築に興味がある、どこにでもいるような男だ。
ある日瀧は目覚めると、女性の身体になっていた。
冷静に状況を考えてみると、どうやら誰か別の女の子の身体の中に意識が入り込んでいるみたいだ。
瀧はその日、宮水三葉という女子高生として過ごした。
宮水三葉はその日朝から、色んな人に「今日は普通だね」と声を掛けられた。三葉には、なんのことか分からない。友人に聞いてみるとどうも、昨日の三葉はまるで記憶喪失みたいに変だったという。
そういえば三葉自身も、長い夢を見ていたような気がする。詳しく覚えていないけど、東京の高校生の男の子になった夢だったように思う。
糸守に代々続く神社の娘である三葉は、母の死後家を出た現町長である父とは今も良好な関係とは言いがたい。祖母から、組紐の編み方を学ばされたり、伝統行事に従事させられたりしており、三葉は、この狭い糸守という町をあまり好きにはなれない。本屋も歯医者もなく、コンビニが9時で閉まるような町はさっさと抜け出したいと思っていたし、神社の娘であり、町長の娘でもあるという自分のしがらみに嫌気も差している。
瀧と三葉は、しばらくの入れ替わりのあと事態を認識し、入れ替わっている間のダメージが最小限になるように協定を結ぶ。お互いにその日の出来事をメモに残し、禁止事項を伝え合い、どうにかこの入れ替わりの生活を乗り切ろうとしていた。
1200年に一度地球にやってくるというティアマト彗星が地球にやってくる日が迫っていることが度々ニュースで繰り返される。その当日、三葉は祭りに誘われて、友人と一緒にその彗星を見ることにするが…。
というような話です。

物凄く良い映画でした。
冒頭は、身体が入れ替わっちゃう、みたいなよくある話から始まります。前半は、ストーリーだけ抜き出せば、かなりよくある話として展開していきます。身体が入れ替わっちゃったらこんなことになるよね、というあるあるを入れ込み、それと同時に主人公二人のキャラクターを描いていく、という形です。よくある展開ではありますが、東京と田舎というギャップ、男女というギャップをとても巧く描いていくし、東京に憧れ続けた三葉の高揚や、伝統が色濃く残る日常を生きる瀧の動揺など、心の動きも繊細に描き取っていきます。

そしてある瞬間から、まったく違う物語に変貌します。そして後半の展開を知れば知る程、ありきたりな物語として展開していた前半部分に、後半に繋がる様々な伏線が隠れていたことに驚かされます。

後半で物語がどんな風に展開されていくのか、ここでは当然触れないのであまり詳しいことは書けないのだけど、運命のイタズラに翻弄された前半とは違い、自らの行動によって状況を動かしていこうとする彼らの姿がとても印象的だ。二人は、微かな記憶と淡い希望だけを携えて、不可能とも思える闘いに挑んでいく。二人が出会ったことの意味が、そこにすべて集約していく。二人が入れ替わる謎めいた現象の背後にある絡まりが徐々に解けていき、一つの時間の流れの中に着地させる手腕は実に見事だ。

瀧が風景に囚われたことで動き出さなければ何も起こらなかったし、三葉が瀧の言葉を信じなければ何も起こらなかった。崩壊がもたらす絶望と、頑張れば掴み取れそうな未来への希望が入り混じり、東京という散漫な点の集まりでしかない土地で育った瀧が、糸守という伝統の地で、形あるものを、そして形のないものを残すために奮闘する姿は、実に感動的だ。

あの彼は誰時の場面。実に印象的だった。本当の意味で初めて出会った二人は、その僅かな時間で想いを通じ合う。名前を忘れてもなお残る想いが、手のひらに温もりとして存在することを確認する場面も、とても好きだ。

物語は、身体の入れ替わりという、実際にはありえないだろう要素を含む。しかし、それでもなおこの物語が圧倒的なリアルさを兼ね備えるのは、身体の入れ替わり以外の細部から徹底的に違和感を排除しているからだろう。生活スタイル、会話、相手によって変わる反応、街の景色、美しい自然の風景、彗星の設定、大事件の後の反応。そういった、この映画を構成するありとあらゆる要素が、とてもリアルに構築されている。物語を支える土台が、細部まで徹底したリアリティを備えているが故に、唯一組み込まれている身体の入れ替わりという違和感が物語をグッと締め付けているような印象を受ける。身体の入れ替わりという要素が、この映画がアニメであるということの意味でもあるように見える。実写でもやれる物語だろうが、ここまで美しい仕上がりにはならないだろう。

映画を見ながら僕は、「レヴェナント」という映画の美しさを思い出した。「レヴェナント」は自然光のみで撮影された、大自然を舞台にした映画で、その映像はとても美しい。「君の名は。」も、東京の街並み、湖の風景、紅葉、林の中、彗星の描写、篝火、電車からの風景など、背景描写のすべてが美しい。「レヴェナント」は全編自然を舞台にした物語だったからこそ、実写も可能だったに違いない。「君の名は。」は、東京の街並みも登場する。糸守の描写だけであれば、実写でも美しい映像に出来るかもしれない。しかし、東京の街並みも含めてあれだけの美しさを作り出すのは、実写ではきっと出来ないだろう。

アニメは、絶望的な光景でさえも、美しさをまず観客に届けることが出来る。絶望の瞬間や、絶望に襲われた跡地でさえも、美しい風景として切り取ることが出来る。悲壮感は、セリフや声のトーンや音楽などで感じさせることが出来る。
まず絵が美しい。
そのことが、この映画が持つ可能性そのものなのだろうと感じた。
あれほど美しい絵でなければ、まったく同じ物語であっても、ここまでの感動はなかったかもしれない、とさえ思えるのだ。

伝統、というものに対して生理的な拒否感がある僕でも、この映画で描かれた伝統には強く関心を抱けた。言葉は失われても形だけは残す、という伝統。継続していくことこそに意味を見出すという行為は、現代では失われつつある。伝統というものを、時間の流れそのものと捉え、大きな時間の流れの中に組み込んだ少年少女に伝統というものの存在を意識させる。そういう意味でも、この映画はとても興味深かった。

「君の名は。」を観に行ってきました

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内容に入ろうと思います。
久保田輝之は、妻を殺して山に埋めて、それから逃げた。
マツダ・デミオに乗って、パーキングエリアで出会った男を新潟に送り届けた。それから北へ逃げた。北海道に渡る船の中で知り合った女としばらく暮らした。震災後、被災地である石巻で復興の作業現場で働いた。大阪の釜ヶ谷で体力の限界まで働いた。四国でお遍路をし、そこで出会った女性としばらく過ごした。小倉で…。
男は逃げ続けた。逃げて逃げて逃げた。僅かでも身の危険を感じるような気配を感じれば、つかの間の安定を捨てて逃げた。どうして生きているのかわからず死に場所を求めることもあった。自分が犯した罪の重さに押しつぶされそうになることもあった。他人の好意を散々無下にしてきた。それでも、先のまるで見えない人生をなんとか先延ばしするために、彼は逃げ続けた…。
というような話です。

ちょっとなんとも言えない作品だなぁ、と感じました。
面白くない、というわけでは決してないのだけど、なんとなく受け入れがたい、という感じの作品です。

個人的に一番最初に引っかかった部分は、作中に登場する様々な比喩です。
それらが、恐ろしく下手だな、と僕は感じてしまいました。
比喩の上手い下手は客観的な指標があるわけではないだろうから、あくまでも個人的な主観での判断なんだけど、本書の中に様々に出てくる比喩は、ちょっと不自然に感じました。

で、何故そう感じるのかということを考えてみた時に、それらの比喩が、独白の中に登場するからだろう、と思ったわけです。
本書は、主人公の久保田目線で物語が進む部分とは別に、久保田が逃亡中に関わった人たちの独白みたいな部分が結構あります。そしてその独白の中で、違和感のある比喩が結構使われるんですね。というかこれは言い方が適切ではなくて、独白の中で比喩を使うから不自然なんだろう、と思うんです。

地の文に比喩が出てくる分には、上手い下手の判断はそこでも当然出てくるけど、違和感を覚えるほどではないだろうと思います。でも、誰かがそれを語っている、という設定である独白の中に、なんだそりゃ?というような比喩が出てくると、ちょっとなぁ、という気分になってしまったのでした。具体的には引用しないけど、「この比喩を、誰かが口に出して喋ってるんだよな」と思ってしまうと、違和感でしかないような表現が結構あって、まずそこに引っかかってしまいました。

で、比喩に違和感を覚えたということが引き金になったのか、久保田に都合の良すぎる展開そのものにもどうも目が行ってしまいました。

僕は、物語を展開させる上で、ある程度都合のいいストーリー展開は仕方ない、と思う人間です。必ずしもリアリティが追求されていなくても、物語として面白ければ良し、という風に思います。
本書の場合も、そういう風に受け取ろうと思えば受け取れる作品かもしれません。ただ、比喩の部分でどうしても引っかかりを覚えてしまったが故に、それに引きずられるようにして、物語の展開にも違和感を覚えてしまいました。

本書では、久保田が逃げる先逃げる先で、なんだか久保田を助けてくれる人間が都合よく登場します。そうしなければ物語として成立しなくなるから仕方ない、という考え方は当然出来るんですけど、それにしてもなぁ、と思ってしまいました。もちろん、久保田を助ける側もそれなりの理由がある人ばかりなわけで、久保田と出会った場合に久保田を助けるという判断をする、ということに強い違和感を覚えているわけではありません。ただ、「それなりの理由がある人」と久保田が出会い過ぎではないか、という気がするわけです。釜ヶ谷や風俗のボーイなど、久保田自身がいる環境そのものがそういう人たちが集まってくる場所であるなら分かるんだけど、そうではない場所でも久保田は、結果的に久保田を救ってくれる人と出会うわけで、ちょっとなぁ、と思ってしまいました。

まあ、こういう部分は些細なことだと気にしないで読める人もいるでしょう。また、抑制の利いた筆致で一人の男の580日間にも及ぶ逃走劇を描くそのスタイルを好きになる人もいることでしょう。久保田がその時々で感じたことや囚われたことなどに惹かれるみたいな人もいると思います。ただ僕はどうしても、先に挙げたような2点が気になってしまって、うまく物語を消化することが出来なかったなぁ、と思います。

桜井鈴茂「どうしてこんなところに」

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本書は、生物学者である福岡伸一と、絵本作家であり、科学絵本の第一人者でもあるかこさとしが、子供の頃どんな風に過ごしたのか、どんな風に本を読むのか、どんな風に学んだのか、現在の教育についてどう思うかなどを語った作品である。

とはいえ、本書のための書きおろしというのはほとんどない。既に何かの本や映像に収録されているものを色々集めて構成している部分が多い。

そして、だからこそ本書は、ちょっと欠陥があると僕は感じる。

本書は、どんな人を読者として想定しているのかがちょっとうまくイメージできない。

本書は、内容を考えると、子ども自身が自分で読める本になっているといいな、と思う。本書は、福岡伸一とかこさとしが、子どもの頃の経験や、どんな風に物事を学ぶのかを平易な文章で書いている部分がある。そういう部分は、子どもでも読めるだろう。

しかし本書には、子どもが読むにはちょっと難しいだろうというかこさとしの文章があるかと思えば、教育者に向けてのかこさとしからの提言もある。これらは、子ども自身が読んでもまるで面白くないだろう。

もちろん、子どもが自分からこの本を買うわけではないと思う。大体は親が買うだろう。そして、必要な部分だけ読ませればいい。まあそういう考え方もある。

でも本書の中で二人は、様々な形で、「子ども自身が好奇心を持たなければ何も学べない」という話をしている。

『ここで示されたのは①自分たちに関係することで、②やり方や順序が理解できることで、③興味がわくことの三条件がそろうと、子どもたちはそれを自分のものとして愛し、努力し、工夫し、そのことに喜びをもち、結果として成長の力をもたらすという遊びの法則であった(かこさとし)』

『大人が、子どもにセンス・オブ・ワンダーを植えつけることはできないと思っています。センス・オブ・ワンダーは自分自身で自発的に気づかないとほんとうに驚く(ワンダー)ことになりませんし、そこに喜びも湧き上がってきません(福岡伸一)』

僕には本書が、二人がそうであって欲しいと言っているような形になっていないような気がするんです。そこがちょっと残念かな、という感じがしました。

まあ、親が読むことを想定して造られているというのであれば、悪くはありません。そうであったとしても、例えばかこさとしの四半世紀以上前に書かれた文章は要らないような気はしますが、子どもとどう接するべきか、子どもにどう教育するべきかということを親に伝えるという意味では悪く無いような気がします。

でも個人的には、子ども自身でも全ページ読める本、という体裁になってて欲しかったなぁ、と思ってしまったのでした。

本書全体を貫く考え方は、「子どもに好奇心を持たせることは出来ないが、その入口までは連れて行くことは出来る」という発想です。福岡伸一は中国の「馬を海辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない」ということわざを挙げてこれを端的に説明しています。

それは本当にそうだな、と思っています。子どもに限りませんが、特に子どもは、興味のあることであればもの凄い能力を発揮する。でも、興味のないことに対してはいくら時間を費やしたところでそこそこのことしか出来ない。
ただ、子どもが何に興味を抱くか、それは色々触れさせてみるしかない。その「触れさせる」というのが教育なのであって、子どもに対して大人が関われる部分なのだ、というようなことを様々な形で書いている。僕はそんな風に受けとりました。

そして、様々なことに触れさせる、という意味で「本」というのは有用性が高い、ということを改めて感じました。もちろん今後は、インターネットやパソコン的なもので様々なことに触れるというような時代になるでしょう。本の有用性は劣って見られるかもしれません。とはいえ、インターネットやパソコン的なもので子どもを啓蒙するという歴史は、まだまだ浅いです。将来的にはそちらの方がより啓蒙する力を持つようになるかもしれないけど、まだまだ、長い歴史を持つ本というメディアには敵わないように思います。

また、インターネット上に存在する有用な情報は、すぐに拡散されて、みんなが知るところとなります。これは僕の持論ですが、僕は、みんなが知っている情報をいくら持っていても戦えない、と考えています。本の場合は、どれだけ有用な情報が書かれていても、それが本というメディアの中に収まっている限り、みんなに瞬時に広まることはありません。これは、本から得た情報は、みんなが知っている情報ではない、ということを意味するのではないかと思います。そして、みんなが知らない情報をどれだけ蓄えられるかで未来が変わってくるのではないか、と感じることがあります。そういう意味でも、本の方が利点があるといえるかもしれません。

学ぶ、学ばせる、ということについて改めて考えさせる一冊です。

福岡伸一+かこさとし「ちっちゃな科学 好奇心がおおきくなる読書&教育論」

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内容に入ろうと思います。
本書は、7編の短編が収録された作品です。長編のようでも短編集のようでも連作短編集のようでもある作品です。

「針がとぶ」
ユイは叔母のことが忘れられない。叔母は日記を書き、詩を書き、「グッドバイ」が口癖だった。ユイは叔母のようになりたかった。その叔母が亡くなり、遺品を整理することに。ユイは、何も整理しないまま、ただ叔母の部屋で過ごした。

「金曜日の本―『クロークルームからの報告』より」
主人公は街で三番目に大きなホテルのクローク係。預かるのはほとんど外套ばかり。ある日、彼が「ジャネット」と名付けたお客さんのコートが残っていた。彼は、その日読み始めた小説と合わせて、そのコートのことが忘れられない。

「月と6月と観覧車」
客の来ない遊園地の駐車場でアルバイトをしている5人。リーダーのバリカンが、この荒涼とした駐車場を「月面」を名づけた。私たちは、ただ雑談をし、紙袋みたいな猫を見つけ、私はバリカンの、何かあったら手にメモをする癖をチェックする。

「パスパルトゥ」
ローング・スリーヴスという名の村へと向かった私は、風呂場だけ屋根のない一軒家を借り、そこで絵を描き始める。なんでも売っているという万物雑貨の主人・パスパルトゥと出会い、私は絵に対する考え方が変わる。

「少しだけ海の見えるところ 1990-1995」
ユイの叔母が書く日記で構成されている。

「路地裏の小さな猿」
ショート・スリーヴ半島にやってきて二ヶ月。あらゆる「作者」には良く知られたこの知には、様々なものを生み出そうとする「作者」たちの「合宿所」みたいなものだ。私はこの地で、ワダ・ブンシロウという画家のことを耳にする

「最後から二番目の晩餐」
写真を撮っている女が、どこにいるか分からない場所で彷徨っている。偽ルビーの入ったアイスクリームを食べ、自転車修理店兼獣医と出会い、宿の女主人に占ってもらう。そして喋らない青年と出会う。

「水曜日の帽子―クロークルームからのもうひとつの報告」
ショートショートみたいな感じのおまけ。

というような話です。

吉田篤弘は本当に、世界観を売る小説家だなと感じます。ストーリーがどうのこうのというタイプの作家ではなく、ちょっと変わった世界観を丸ごと創りだし、それを小説として提示している、という感じがします。

どの作品でも比較的そうですが、現実のモチーフからうまく繋げて、著者はちょっとした異世界を生み出していく。ホテルのクローク係、遊園地の駐車場、そういう僕らの日常にもあるなんでもない状況や場面を、ちょっとした非日常と接続させてしまうのがとても巧いです。

これは書くかどうかちょっと迷ったんですが、本書は、それぞれの話同士がなんとも言えない形で繋がっていきます。僕はこういう繋がりをうまく掴み取れる方ではないので、どんな風に繋がっているのかきちんと捉えきれていないのだけど、全然バラバラな物語だと思っていた短編が、なんかあの話と繋がってるぞ、というような感じになっていきます。その不思議な繋がり方も本書の魅力だと思います。

しかしまあ、よくもこんなこと思い浮かぶものだ、と感心するような設定や小道具で溢れています。ストーリーらしいストーリーがない分、こういう細かな奇想で読者を惹きつける形になるわけですけど、創りだした世界観から外れすぎず、でも読者をオッと思わせるような、そういう不可思議さに溢れています。そういう奇想に出会いたくて、吉田篤弘の小説を読んでいる、という感じがします。

吉田篤弘の小説は、ストーリーらしいストーリーがない分、感想をとても書きにくい。読むというより感じるというタイプの小説で、読んで感じてみてください、と言いたくなるような小説です。読む側の捉え方でどんな風にでも受け取れそうな世界観は、読む度に新しい受けとり方が出来る小説でもあるかもしれません。

吉田篤弘「針がとぶ」

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内容に入ろうと思います。
1949年の12月10日に事件は発覚した。汐留駅の保管室から交番に電話があり、妙な荷物があるから立ち会って欲しい、という。妙な荷物と指摘されたのは黒い衣装トランクで、吐き気を催すような異臭がする。果たして、中から死体が現れ出たのである。
差出人名には「近松千鶴夫」と書かれており、警察はその行方を追うが、やがて近松も死体で発見される。事件は、被害者を殺害した近松が自殺したとして終結しそうだった。しかし、近松の妻である由美子が、かつて同窓であった鬼貫警部に捜査を依頼したところから、事件はまた違った様相を見せるのだが…。
というような話です。

すいません、ほぼ内容について説明していないも同然なんですけど、仕方ないんです。
というのも、僕は本書で描かれている事件自体を、うまく理解できなかったからです。

本格ミステリを読み慣れた人にはそうではないのかもしれないけど、僕には本書は、なんだか恐ろしく複雑だな、とかんじられました。それも、事件の解答編が難しい、みたいなことではないんです。事件と事件後の展開が正直僕にはうまく飲み込めませんでした。

そもそも時刻表が出てきたり緻密なアリバイトリックみたいなものが出てくると、めんどくさくなって読み飛ばしてしまう性分ではあります。割と最近読んだ、青崎有吾の「水族館の殺人」も、緻密なアリバイトリックモノだったんですけど、結構めんどくさくて読み飛ばしました。キャラクターや、アリバイトリック以外の部分が面白かったのでまだ読めたんだけど、本書の場合そうもいかず、という感じでした。さらに、タイトルにもある黒いトランクが、あっちに行ったりこっちに行ったりみたいなことになるんだけど、これもその状況を理解するのがそもそも難しかったなぁ、と思います。いつどこに誰がいて、その時黒いトランクがどうなっていたのか、みたいなことがスッと頭に入らないと、この作品はちょっと楽しめないんじゃないか、という気がするんだけど、僕には無理だったなぁ。割と早い段階で、この事件を理解するのは無理だな、と結構諦めました。

まあそれでも読み進めまして、解答編にたどり着くわけですけど、ここでもやっぱり、アリバイトリックを崩す部分は特に興味が持てなかったです。なんか複雑だなぁ、と思いながらザザッと読み飛ばしちゃいました。どの電車が何時にどこのホームにやってきてうんたらかんたら、という話は僕にはちと無理だな、と思ってしまうわけです。

最後の最後まで解明されないトランクの謎は、なかなか面白いと思いました。ただこれも、事件時におけるトランクの移動をきちんと理解できていないために、なるほどー、ぐらいのテンションでしか捉えられなかったのが残念でした。

時代設定が今から60年以上前で、古典と呼ばれる作品や一昔前の作家の作品を読むのが苦手な僕には、読むのがちょっと辛かった、ということもあります。どうも昔の人の文章は頭に入ってこないんだよなぁ。これはもう昔っからそうなのでどうにもしようがない。

そんなわけで、本格ミステリ好きには素晴らしい作品なのかもしれないけど、僕にはちょっと辛かったかなぁ。

鮎川哲也「黒いトランク」

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本書の冒頭には、著者によるまえがきがある。そこには、アメリカ公民権運動が始まったきっかけはとある黒人女性の逮捕によるものだが、当然その女性は、公民権運動を盛り上げようとして逮捕されたわけではない、というようなことが書かれている。
まあ、そりゃあそうだろう。

なんでそんなまえがきが書いてあるんだろう、と読み始めは不思議に思ったものだが、本編を読んで納得した。なるほどである。

本書の主人公は、あらゆる場面で「俺は何もやってません」と言い続ける。これは実は、主人公が開設したブログの名前で、当初それは「逮捕されるようなことは何もやってません」という意味でしかなかったが、その後の主人公の人生においては次第に、「褒めていただけるようなことは何もやってません」という意味に変わっていく。

この感覚は、僕もいつも持っている。

僕は、何か他人から褒めてもらえる時、比較的いつも「たまたまですよ」というような返しをする。口に出さなくても、心の中ではそう思っている。

確かに、なんらかのきっかけになるようなことはしたかもしれない。でも、それ自体は大したことではないし、それを広めてくれているのは別の人だ。何かあった時、たまたまそこにいただけなんだけど、と思うこともある。僕でなければならない必然性は特になく、ただ運が良かったからそれに関われていた、なんていうことだってあった。

周りはなんとなく、僕のことを褒めてくれる。しかし、僕の感覚としては、褒められすぎている気がする、という感じになる。この主人公もきっと、まったく同じ感覚だろう。凄くよく分かる。確かにこの主人公は、特別何かしているわけではない。結果的に色んなものを引き寄せている、というだけであって、そこに自ら結果を引き寄せるような意志があるわけではない。それはある種の運であり、運の良さを褒めてもらうならまだしも、努力や意志みたいなものを褒めてもらえると、なんだか違うような気がする、という気分になる。

もちろん、褒めてもらえることはありがたいことだ。別に褒められたくないと言っているわけではない。ただ、なんとなくモヤモヤするというだけだ。この主人公が抱いているだろうモヤモヤに、なんだか凄く共感できてしまうのだ。

内容に入ろうと思います。

名井等はある日、下着泥棒をしたとして、窃盗や迷惑防止条例違反の容疑で緊急逮捕された。
当然、名井には身に覚えがない。
しかし、被害者が名井に盗られたと証言しているらしく、名井は留置場に入れられてしまう。あくまでも否認する名井に対して留置場の“仲間”は、『否認しとる限り、釈放してもらえんよ。お巡りちゅうのは、否認する奴が大嫌いで、絶対に許さんから』『下着泥棒で初犯だったら、素直に認めてごめんなさいって言っときゃ、すぐに釈放だろうがよ。何考えてんだよお前。馬鹿か』と言われながらも、やってもいない罪を認めることなど出来ない名井は、長期戦を覚悟して闘う決意をする。
しかししばらくして名井は釈放される。「処分保留の釈放です」と言われたきり碌な説明もされないままだったが、とりあえず釈放されたことで名井は一安心した。
しかし、名井の人生が狂うのはここからだ。
名井が勤めるワタナベタオルの渡辺社長は、従業員が逮捕された、という事実が取引先に知られてしまった、と名井に伝えた。そして、それとは別件なのだが、利益がなかなか伸びずリストラしなくてはならないと思っていたのだ、と切り出される。
結局名井は、ワタナベタオルをクビになった。誤認逮捕で留置場にまでいれられた挙句、職も失ってしまった。なんで俺がこんなことに…。
その後接触のあった地元新聞の記者である本山氏との絡みで、名井は、「警察を見守る市民の会」というグループと接触することになる。そこで、就職を斡旋してもらう見返りみたいな形で、これまでの経緯をブログに書いてみないかと言われて実行した名井だったが…。

というような話です。

なかなか面白い作品でした。著者は「巻き込まれ型小説」と呼ばれるタイプの作品をいくつか物していて、何か大きな状況に巻き込まれることで人生が激動していく一般市民を描き出すのがとても巧い。本書もまさにそのタイプの作品で、逮捕され数時間拘束されただけで、何も罪を犯していないのに人生を狂わされてしまった主人公のなかなかに激動の人生を描き出していきます。激動の物語であるからには、それなりに都合のいい展開もあります。それはうまく行き過ぎだな、と思う箇所もあります。とはいえ、こういうことも起こりうるんじゃないか、と思わせる妙なリアリティもあって、全体的には良く出来た小説だなと感じます。

本書の一番面白いなと思う点は、冒頭でも少し触れましたけど、主人公の名井は本当に特に何もしていない、ということなんです。「誤認逮捕された」というのは名井がしたこと、ではないですし、それ以降も名井は、自らの意志で何かをしていることはほとんどありません。仕事は紹介してもらい、ブログを書くように勧められ、出来るだけ目立たないように努めます。主人公は、その後起こる激動の展開を自ら引き寄せたわけではなく、本当に特に何もしていないのに状況が勝手に転がっていった、という感じになっていきます。この感じがまさに「巻き込まれ型」と言えます。主人公にここまで意志がない小説というのもなかなか珍しいのではないでしょうか。

そういう物語を成立させるために、先程も触れたけど、そりゃあ多少無理もあります。でも、エンタメ小説としては全然許容範囲でしょう。冒頭からラストに至るまでの落差の激しさがかなりのもので、よくこんなラストまで辿り着いたなと思えるような展開を見せます。

主人公は常に、「余計なことはしない」と言い聞かせます。それは主人公の信条みたいなもので、昔から余計なことばかりして墓穴を掘り続けてきた反省から生まれたものです。

本書はエンタメ小説ですが、現実の悲惨さや矛盾みたいなものもうまく織り交ぜていきます。

『「(真犯人が捕まったと伝える記者の話の続き)いずれの事件も素直に認めたので、留置場に入ることなく釈放になったそうですよ」
「ええーっ」等はしばらく口をあんぐり開けていた。「やっていない俺が留置場に入れられたのに、真犯人はすんなり釈放されたんですか」
「初犯ではなかったそうですけど、素直に容疑を認めましたからね。その一方、否認した人間はたいがい勾留するんです。警察というのはそういうところですよ」』

これは恐らく事実なんだろうが、そうだとするならば、善良に生きるのではなく、ちょっと悪いことをしながら見つかったら罪を認める生き方の方がいいのではないか、と思えてしまう。軽微な罪なら、やっちゃっても罪を認めさえすれば拘束されたり留置場に入れられたりすることがない、というのであれば、真っ当に生きていく方が馬鹿らしいということにならないだろうか。確かに、否認した人間は逃亡の恐れがあるから拘束する、という理屈がまるで理解できないとは言わない。しかしそうだとしても、主人公が言うように、やった人間が留置場に入れられずに、やらなかった人間が留置場に入れられてしまう現実はやっぱり異常だしおかしいと思う。

『あんたの言いたいことは判るんだ。でもさ、我々は真実とか正義とか、そういう物差しで商売をしてるわけじゃない。取引先が駄目だと言えば駄目という世界なんだ。それは判ってもらわないと』

これは主人公を解雇しようとしている社長の言葉だ。確かにこの社長の言葉も、まったく理解できないとは言わない。しかしそれでも、なんなんだこの理不尽は、と思ってしまう。これとまったく同内容ではないにせよ、警察の不手際によって同じような経験をした人は世の中に数多存在するのだろうと思う。警察が悪いのか経営者が悪いのか社会が悪いのか…。もちろん、ほとんどの責任は警察にあるはずだが、物事の表面だけを見て本質を見ようとしない社会にも問題があるのだろう。怖い世の中だ、と感じる。

情報が一瞬で拡散し、一度拡散した情報が訂正されないまま残り続ける世の中にあって、それが事実であれ嘘であれ、一度悪い評判が広まると挽回することは相当難しい世の中になっている。どんな時代でも冤罪はあってはならないことだが、現代はより冤罪による被害が甚大になる世の中ではないかと感じる。僕ら市民は、ただただ巻き込まれないように祈るしかない。こういう物語を読むと、自分がこういう状況に巻き込まれたらどうすればいいのだろう?と考えて、不安になる。自分には降りかかってこない、なんてとてもじゃないけど言えない。

山本甲士「俺は駄目じゃない」

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大分昔になるが、「ソニー自叙伝」という本を読んだことがある。SONY創業50周年を記念してソニー広報室が「GENRYU源流」という本がある。関係者だけに配られた非売品だ。それを底本として編集されたのが「ソニー自叙伝」だ。

読んだのは大分昔なので内容はほとんど覚えていないが、革新的な製品を生み出すのに相応しい、革新的な会社の姿が描かれていた、という記憶は鮮明だ。家電製品の歴史を作り、誰も見たことがないもの、誰にも実現できなかったことを次々と成し遂げてきた。ソニーの設立趣意書には、『真面目なる技術者の技能を、最高度に発揮せしむべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設』と書かれており、共に技術者だった井深大と盛田昭夫の手によって、ソニーという圧倒的なブランドが作り上げられていった。

しかし今、ソニーは、往時の見る影もない。革新的な製品を生み出せていない。社内にアイデアはあってもトップが決断出来ない。創業者たちが求めていた「生意気な奴」や「出る杭」が社内で排除されるようになっていく。

そして、それが原因なのか、あるいは結果なのかはまだ分からないが、ソニーでは17年間で計8万人という、とてつもないリストラが繰り返されてきた。

『もう一人の創業者である盛田昭夫氏は「ソニーはレイオフをしない」と国内外で宣言をし、著書にも記した』

『社員の子供が小学校に入る時に、ランドセルの一つも贈れないような会社でどうするんだ!』

『「会社で事業をやるからには、それに関係するすべての人が幸せでなければいけない。それが自分の経営理念だ』と言っていましたよ』

創業者に連なるトップがいた頃とはかけ離れたソニーになってしまった今、ソニーには、「能力開発室」「セカンドキャリア支援室」「キャリアデザイン室」「キャリア開発室」など、様々な呼ばれ方をしてきた場所がある。社員たちはそこを、「追い出し部屋」や「ガス室」と呼んだ。

この物語は、そんな「追い出し部屋」の実態をベースに、ソニーの凋落を描き出す作品だ。

『ソニーのキャリア開発室の源流をたどると、中高年社員対策として1985年にスタートした「能力開発センター」に行き着く。当時の言葉で言えば、「窓際族」対策である。職場で持て余し気味の中高年―人事担当者は「職場にフィットしない人々」と表現するが―そんな社員を集め、雑用を与えながら転職支援を行っていた』

ソニーは家電業界で一人勝ちの様相を呈し、毎年1000人規模の採用を行っていた時代があった。そうして、社員15万人という巨大企業に成長したのだ。しかし、不景気やモノが売れない時代などを背景に、創業者が絶対しないと言ってきたリストラに手をつけるようになる。

『それでも簡単に解雇するわけにいかない。整理解雇するには、人員削減の必要性と合理性が存在しなくてはならないのだ。それに、解雇を避けるための努力義務が尽くされていて、なおかつ解雇手続きも適正であることが求められる。その上に、ソニーには「We are family」の言葉に象徴される家族主義と、創業者たちが唱えた「リストラ不要論」があったからだ』

時代の変化などによって、たとえソニーであってもある程度のリストラは仕方ないかもしれないと語る者もいる。しかしそういう人であっても、ソニーのリストラには異議を唱える。

『問題なのは、このリストラの間も有効な成長戦略は立てられなかったことだ』

『管理職の役職定年制度は、元副社長や役員たちでさえ、「一番やってはならなかった」と口を揃えるリストラ策である』

『企業である以上、リストラが必要な時はあるでしょうよ。しかし、2回、3回、4回とやるなんて何を考えているんだ。それはリストラクチャリング(再構築)とは言わないんだ。ただの首切りですよ』

何故こうなってしまったのか。やはりそれは、マネジメント、そしてトップの責任だ。

『出井、ストリンガー、そして現在のトップである平井一夫の系譜で語られる、「ソニー構造改革」。その特徴は、短期的な決算対策を重視し、膨大な資産と人材、そしてリストラ資金を失ったことだ』

最後の技術畑出身の社長と言える大賀典雄は、「(社長は)エンジニアでなければ」という盛田の意志を知っていたにも関わらず、次期社長に技術畑出身ではない出井伸之を選んだ。そのことに対し大賀は後に、こんな風に語っていたという。

『大賀さんは数人の社長候補リストの中から、燦々と輝く人物と見込んで、出井さんを選んだのですが、後々、「あの指名は僕の大失敗だった」と悔やみ、泣かれていました』

ソニーの「井深会館」と呼ばれる建物は、天才技術者でもあった井深大を記念し、元役員のサロンとして設けられた。訪問者はロビーからサロンに導かれるが、そこに27人の、「ソニーの功労者」と認められたメンバーの写真が飾られている。
そこに、出井やストリンガーの写真はない。

『井深会館の(真の)メンバーは、SONYの名を高らしめた人だけに限定されているからね。額に飾られるのは本当の功労者だけなんだ。だから、出井やハワードの写真はない』

ソニーOBの一人がそう答えている。

そんな井深やストリンガーらによって、ソニーのリストラ体制は生み出されていくのだ。

『そこに送り込まれた社員は自らのコネで社内の受け入れ先を探すか、早期退職して転職先をみつけるか、あるいは何と言われても居座り続けるかの3つの道しかない』

『だが、キャリアデザインと呼ぼうが、人材開発と言おうが、実際のところは社内失業に追い込まれた社員が集められるところだ。人事部員自身がそれを認めている』

『大半が終日、語学を勉強したり、ネットサーフィンをしたり、新聞や雑誌を読んだりしていた。』

多くの社員が送り込まれることになる「リストラ部屋」は、社員を疲弊させ、弱らせ、退職に追い込む。そして周囲からは、「リストラ部屋に行ったということは無能なんだ」「何もしないで給料をもらっている正社員がいるらしい」という風に見られることになる。

では、「リストラ部屋」にはどんな人間が送り込まれたのか。
もちろん様々な人間がいるだろうが、本書で取り上げられているのは、まさにソニーらしさを体現しているような人たちだ。

『ソニーは奇人変人を抱えることのできた、自信満々の企業だった』

『ソニーにはアウトローをかくまうという成功ストーリーがありました。ワンマン社長だった大賀典雄が傍若無人と言われた久夛良木健さん(のちに副社長)を囲って、プレイステーションをやらせて成功に導いています。あんな風に、組織の中で「なんだこいつ」という人にチャンスを与え続けてきた。それで新たなビジネスを創ってきた面白さがあるから、出井さんも近藤さんを支えていた』

昔読んだ「ソニー自叙伝」の中にも、数々の変人が登場したような記憶がある。普通の会社では存在が許されないだろうが、ソニーだからこそ抱えることが出来る稀有な人材。そういう人間が、社会を変えるイノベーションを生み出してきた。

しかし、そういう独創的な技術者がどんどんと「リストラ部屋」へと送られる。奇人変人は、当然だが、上司からすれば扱いづらい存在だ。かつては、そんな社員を扱えるかどうかが有能な管理職の証だった。

『エンジニアはこっそりと研究したり、施策したりしている「ブツ」を隠し持っていた。現場に来る井深か盛田に見せようと狙っている。上司たちも鷹揚で、そのブツが面白いものだったりすると、どこからか開発費を調達してきたり、あらかじめ隠し持っていた予算を与えたりした。それが有能な管理職の証だった』

しかし、かつては求められた「生意気な奴」「出る杭」が、鬱陶しい社員としてただ疎まれる存在になっていく。ソニーは、そういう人材を抱えることで成長してきた企業であるはずなのに、その資産を自ら手放そうと躍起になっている。

『後述するが、リストラ部屋に在籍した社員はのべ数千人に上る。それだけの人々が無能ぞろいだったわけがない。部下の個性と能力を知り、その業を生かすのが管理職や会社の仕事だ。リストラ部屋行きを通告することで、その務め自体を放棄しているのだ』

ソニーは、このリストラで、評価の高い部員たちが進んで辞めようとしたことが大きな誤算だ、としているようだが、評価が高い部員ほど辞めるのは当然だろう。かつてやれていたことが、まったく出来ない職場になってしまったのだから。『ソニーの自由な気風は、今や出向先だけにひっそりと息づいているのだ』と著者は書いている。

『みんなソニーが好きで好きで、辞めても好きな人ばっかりですよ』

そんな彼らが、止むなくソニーを去る。『チャレンジさせてくれない職場だと、苦しくなかった仕事が苦しくなってくるんだ』と言って、ソニーを諦める。技術畑の人間がトップだったら、このリストラによって何が失われているのか、その本質がきちんと掴めたかもしれない。しかし、出井から始まる技術畑出身ではない社長たちには、きっとソニーが失った損失の本質は理解できていないのだろう。それは、『特許の価値がなくなったというならともかく、会社は、年間わずか1万6700円を削減するために、品田の特許を放棄するというのである。品田の特許は100件以上もあったから、こうした「特許放棄」のメールがその後も彼のもとに次々と届いた』という部分からも理解できる。『特許は技術者の命だぞ!とうとう本社はそれもわからなくなったのか』と品田は驚く。ソニーは、技術者集団だったかつての姿とはまったく違ってしまったと言えるだろう。

本書には、様々な形で「リストラ部屋」と関わった人物が多数登場する。リストラ部屋から生還した者。リストラ部屋に自ら志願して行った者。人事部員であり、多くにリストラを勧告しながら、自らは早期退職の恩恵を受けずに会社を去った者。反旗を翻し研究所に立て籠もった者。部下にリストラを勧告した9ヶ月後に自らもリストラされた者。リストラを実行しながら、「こんなことをして罰あたらねえのか」と言って辞めた役員。定年までリストラ部屋に居座り続けた者。どの人にもソニーの中での歴史があり、家族や仲間があり、ソニーを愛する気持ちがある。著者はそれらを丁寧に掬い上げる。ソニーを愛するが故に苦言を呈し、ソニーの復活を信じて厳しいことを言う人がいる。ソニーというブランドを蹂躙し、赤字を垂れ流しながら高額の報酬をもらっているトップたちには絶対に理解できない痛みを背負った者たちが、実名でその体験を語る。世界的企業であり、一時は家電業界を制覇したと言ってもいいほど隆盛した企業が、たった10数年で凋落していく。その悪夢のような光景は、日本中、いや世界中どんな企業でも起こりうるものだろう。いつか自分の身にも降りかかるかもしれない。そう思いながら読むべき一冊だと思う。

清武英利「奪われざるもの SONY「リストラ部屋」で見た夢」

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『何人ものお客さんから「おいしかったよ」という声をかけられた。明日実はうれしいというより、少し居心地が悪かった。「こんなんで、いいんですかあ?」とか、「本当は、私、もっといろいろできるんです」とか思いながら頭を下げていた。でも、お客さんは次から次へと来て、みんなおいしそうに食べている。』

フランス菓子を作りたいと切望しているのに、町のパン屋さんでそこそこの材料を使って作ったフランス菓子とは程遠いお菓子を提供している主人公の少女の内心を表した文章だ。

この感覚は、僕の中にもあった。正確に言えば、未だに少し残ってはいる。「こんなんで、いいんですかあ?」と思ってしまう自分が、どこかにいる。これでいいんだ、と心の底から思い込むことは、なかなか難しい。

僕は今、モノを売る仕事をしていて、自分で売り場の一角を任されて、発注やら売場づくりやらなんやら全部やっている。その中で、「自分が良いと思うモノ」と「お客さんが良いと思うモノ」が食い違っていることに気づくようになる。

もちろん、「お客さんが良いと思うモノ」を提供するのが仕事だ。頭ではそれは理解できる。でもその一方で、「こんなんで、いいんですかあ?」と思ってしまう自分がいる。何も、「自分が良いと思うモノ」だけが買われるべきだ、なんてことを考えているわけではない。人の価値観は人の数だけあって、違うことの方がむしろ当然だ。しかしそれにしても、「僕が良いと思うモノ」と「お客さんが良いと思うモノ」の乖離が激しい。自分の気持ちを「お客さんが良いと思うモノ」に寄せようという努力はしているつもりだ。以前よりはずっと、「お客さんが良いと思うモノ」を売ることが仕事なんだ、と思えるようにはなっている。しかし、自分の中で、完全にスッキリ割り切れているかというと、まだまだ難しい。

『だってお客さんが食べたいっていうんだから、しょうがないじゃない。僕、気がついたんだよね。お客さんが求めているのは、本物のパリの味じゃないの。だって、パリで売っているケーキなんてすごく甘くて、脂肪分も高くてこってりしてて、日本人の口に合わないよ。そうじゃなくてさ、みんなの心の中にある、憧れのパリの味、一口食べるとシャンソンが聞こえてきて、エッフェル塔や凱旋門が目に浮かぶようなケーキをつくるのが僕の仕事』

テレビにも出るような有名パティシエで、みんながその店に行きたいと思うような菓子店のオーナーシェフの言葉だ。彼の店は「東京で一番パリに近い店」と呼ばれているが、しかし彼は、自分が提供しているものが正統なフランス菓子とは程遠いことを知っている。「本物のフランス」を提供するのではなく、「みんなが憧れているフランス」を提供する。まさに「お客さんが良いと思うモノ」を提供するという割り切りに満ちた言葉だ。僕は、やっぱりちょっと、このシェフの言葉に違和感を覚えてしまう感覚が自分の中にある。しかし、「それが僕の仕事」と言い切れるこのシェフが、仕事人としては正しい行動を取っていることも理解できる。

日々仕事をする中で、よく思い出す小説がある。宮下奈都「羊と鋼の森」だ。調律師の成長を描いた作品だが、その中で、こんな葛藤が描かれる。お客さんが望む通りに調律するか、本当に良いと思える音に調律すべきか、という問題だ。

『(お客さんが求めた通りに調律することについての話の後で)だけどそれは。だけど、それは、可能性を潰すことにならないか。ほんとうに素晴らしい音、心が震えるような音と出会う可能性。僕が高校の体育館で出会ったように』

作中で主人公は、そう悩む。この葛藤は、非常によく理解できる。しかし、調律師の先輩の一人は、この問題を、ハーレーと50ccのバイクに喩えて反論する。

『(ハーレ-も練習すれば乗れる、という主人公の反論に)乗るつもりがあるかどうか。少なくとも、今はまだ乗れない。乗る気も見せない。それなら50ccを出来るだけ整備してあげるほうが親切だと僕は思うよ』

確かにピアノを調律すれば、ハーレー並の能力を引き出すことは出来る。しかし、そうしたところでその持ち主はハーレーを乗りこなせない。ものすごく反応よく調整したら、技術のない人にはかえって扱いづらい。だから、50cc並の調律にするのだ、と。
確かに、そう説明されると、その通りだな、と思えてしまう。

求められていることを提供することが「価値」なのか。あるいは、相手がその存在すら知らないでいた地平にたどり着けるようにしてあげることが「価値」なのか。この問いはきっと、僕の中にずっとつきまとうことだろう。きっと永遠に答えが出ないまま悩み続けることだろう。敢えて答えを出す必要はないと思う。どちらかだけが正しい、ということはないはずだ。あらゆることがうまくいけば、この二つが共存する形でモノを提供することだって、できる可能性がある(実にタイムリーなことに、つい最近、そういう形でモノを提供することに成功したと思える企画を実現させた)。悩み続けながら、自分なりの着地点を見出したいと思う。

どちら側に立つにせよ、忘れてはならないことがある。

『菓子はパンや肉とは違って日々の食事にはなりえません。その味は虹のようにはかなく消えて、記憶の中にしまわれます。けれど、菓子は人を幸せにすることができます。もし世の中に菓子がなかったら、世界はどんなに単調でつまらないことでしょう。菓子は美しい音楽や詩や絵画と同じように、人々に感動を与えます』

『そうだ。お菓子は人を喜ばせるものだ。誰にどんな風に食べてもらうかを考えることが大切だ。だから、めずらしい素材を使う必要もないし、背伸びすることもない。まして、人と競争するものでもない。お菓子は勝ち負けじゃない。』

『大切なのは、どういうシーンで誰が食べるのかだよ。そこを突き詰めていくと、自然に形が決まってくる。ケーキって愛だからね。小さな子供の誕生日に、お酒をたっぷり使ったケーキなんてありえないだろう。結婚記念日なら、ロマンチックな方がいい。そうやってケーキを食べる人をイメージしながら考えていくと、心に響くケーキになるんじゃないのかな』

それが誰を幸せにするのか、誰にどんな風に楽しんでもらえるのか。そこがブレなければ、きっといいのだろうと思う。僕も、そこを見失わないように前に進んでいこう。そんな風に思える作品だった。

内容に入ろうと思います。

青山明日実と白川未来は、1964年、東京オリンピックで女子バレーチームがソ連を破って金メダルを獲った夜に菓子職人になることを決めた。明日実の父が菓子職人として働くフレンチ・レストラン「ドビュッシー」に、フランスの有名な女性菓子職人であるソフィがやってくることになり、世紀の試合があるその日、5歳だった明日実は父の働くレストランに連れて行ってもらった。白川未来の父親がオーナーを務めるドビュッシーには、彼の二人の娘である瑠海と未来がいた。二人は、フランスからやってきたソフィにバイオリンを聴かせるが、未来はそこでソフィが作ったお菓子を食べ虜になるのだった。
それから年月を経て、明日実も未来も共に高校生になった。
明日実は、あの日以来真面目に菓子職人を目指し、裕福ではない店に生まれながらも、出来る範囲で菓子職人としての技量を身につけてきた。今は、テレビにも出る有名菓子職人である藤堂茂の「パティスリー・リモージュ」でアルバイトもしている。
一方の未来は、世界的演奏者を目指す瑠海とは道を違えてバイオリンを辞め、今は特に何にも情熱を持てないまま日々を過ごしている。子供の頃菓子職人になりたい、と言ったことさえも忘れたまま。しかし、ひょんなことから明日実と未来が出会うことで、物語が動き始める。菓子職人としての基本は習得しつつあるが、フランス菓子に執着しすぎ、かち自分の作りたい菓子を明確に持てないでる明日実。一方、菓子職人のしての基本はまったく知らないが、既成概念に囚われず、誰かのために菓子を作るというイメージをはっきり持っている未来。二人はコンクールの出場を目指し切磋琢磨するが、考え方の相違やお互いに持っている才能への憧憬から仲違いしてしまい…。
というような話です。

思った以上に良い作品でした。物語の冒頭を1964年の東京オリンピックに据えることで、物語のメインの時代設定を現代から幾分古くし、それをうまく活かして物語をうまく成立させているように思います。現代を舞台にした場合、本書のような比較的純粋な物語はなかなか成立しにくいかもしれませんし、明日実の「フランス菓子への執着」みたいなものも、もしかしたら現代ではそこまで通用しないかもしれません。明日実が頑固にフランス菓子を追い求め、対称的に未来は既成概念に囚われずに菓子を作る、という二つの柱をきちんと描き出すのにうまい時代設定だったように思います。ド素人がコンクールで好成績を残したり、技量はあるけど金がない明日実と技量はないけど金はある未来というコンビなど、そりゃあ挙げれば都合のいい部分は色々出てきますけど、「夢を追うこと」と「それを仕事にすること」の両方の難しさみたいなものをうまく描き出していると感じました。

僕は、明日実と未来どっちのタイプかと言えば、たぶん未来のタイプだと思います。「こうすることになっている」という、「基本」とか「伝統」とか名前がついていることは基本的に嫌いで、でも明日実が未来に対してそうしたように、明確な理由と共に教えてくれれば納得して実行できる。「こうすることになっている」みたいな「常識」も嫌いで、出来るだけ既成概念に囚われないまま物事を見たり行動したりしたいと思っている。

だからだろう。僕には明日実の「フランス菓子に執着する姿」がおかしく見える。これは逆に感じる人もいることだろう。伝統や基本を重んじる人であれば、未来のように、先人が積み上げてきた経験や知識を重んじることなく自由に動きまわる様を見て眉をひそめることだろう。夢を追う形には様々なものがあるが、しかし大体、明日実タイプか未来タイプに大別出来るのではないか。読者は恐らくどちらか一方には共感できるだろうし、その共感できる側が相手を受け入れる過程で、自分の考えも変わっていくかもしれない。

明日実と未来の反りの合わなさをパッと理解できる箇所がある。

『「おいしいからって、何をやってもいいいって訳じゃない」
明日実は何度も未来にそう言ったはずだ。フランス菓子はフランスの土地と歴史と人が育てたものだ。それを学ばずに、上っ面だけをなぞっても本物にはならない。どうして、それを聞き入れてくれなかったのだ。
「ケーキはもっと自由で楽しい物よ。喜んでもらえたんなら、それでいいじゃない。他に何があるっていうの。こうあるべきとか、これが正しいとか、そんなことばっかり言っているから、明日実ちゃんのケーキは窮屈でつまらなくなるのよ」
未来が低い声で言った。
窮屈でつまらない。
明日実は言葉を失った。気を落ち着けようと窓の外を眺めた。
おいしくないと言われるほうがまだましだ。』

こんな二人が、どんな経験を経て前へと突き進んでいくのか。この二人の人生はどこでどんな風に再度交わるのか。物語としての読みどころは多々あるが、ここが一番の核だろう。とても面白いと思う。

明日実と未来の周りには、様々な大人が登場する。大体の人が何らかの形で夢を叶えているか夢を追っている途中だ。明日実も未来も、そういう様々な大人に教えを乞うことで少しずつ成長していく。大人の考え方も様々で、読者は彼ら大人に対しても、自分の考えと合う合わないみたいなものを如実に感じることだろう。

その中でも、僕が一番違和感を覚えてしまうのは、瑠海と未来の母親である遙子だ。

『大事なのはあなたの意志よ。自分の人生なんだから、自分で決断しなさい。
遙子の瞳はそう語っている。白か黒か。一度決めたら迷わない。諦めない。中途半端は許さない。それが遙子だ。
決断しなさいと問うこと自体が、遙子の望む生き方を押し付けているとどうして気づかないのだろう』

『遙子のいう成功は形のあるものだ。有名になったり、お金持ちになったり、ほかの人が見ても成功しているとはっきり分かるものだ。だが、未来が思い描く成功は、自分らしく生きること。誰かに喜ばれること。やりたいことを思いっきりすること。ほかの人からどう見えるかは、関係ない。
けれど、それをうまく言葉で説明できない』

遙子は、瑠海に付きっきりでバイオリンを弾かせる。遙子には、「バイオリンで世界を目指す」か「趣味でバイオリンを弾くか」の二択しかなく、瑠海は前者を選び、壮絶な練習の毎日に途中する。その二択は、未来自身にも突きつけられる。しかし未来がやりたいことは、その二択のどちらにも収まらない。しかし、物事との関わり方はそういう二択しか存在し得ないと頑なに信じている母親は、未来の気持ちを理解しない。

今まさにリオオリンピックの期間中であり、だからこそオリンピック選手たちの子供時代からのエピソードがテレビで流れることもある。トップ選手ともなれば、物心付く前から親によってその競技をやらされていて、本人の意志とは無関係なところで人生がスタートしている。これはスポーツの世界だけではなく、芸術や料理など様々な分野で同じことが言えるのだろう。一流になるためには、氏育ちとは別に、どんな親に生まれるかにもよるのだ。

結果的に親からやらされたことが本人のやりたいことと一致していけばいい。しかし、どんな場合もそうであるとは限らない。親に強要された挙句、特に結果が出るわけでも、自分が打ち込んできたものを好きになれるわけでもなく、諦めてしまった人だって山程いることだろう。僕は、オリンピック選手の子供時代のエピソードを見る度に、そういう、諦めてしまった人たちの存在が頭を過ぎる。

遙子のあり方は、まさにこういう違和感をもたらすものであって、僕としてはちょっと受け入れがたい。

同じように、有名菓子職人である藤堂茂に対しても違和感を覚える。詳しくは書かないが、僕も未来と同じように、藤堂茂が用意した新幹線には乗りたくないな、と思えてしまう。

先程、「夢を追うこと」と「それを仕事にすること」の両方の難しさ、と書いたが、「夢を追うこと」の難しさには、子供を取り巻く大人の存在も大きく影響するわけで、余計に難しい。割と軽いタッチで描かれる物語ではあるが、人間が人生を選択する上での難しさみたいなものがうまく描かれていて、なかなか読み応えがある。

中島久枝「金メダルのケーキ」

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内容に入ろうと思います。
本書は、北国最強の(とは言い過ぎかもしれないけど)酔っぱらいである著者が、ネット上につらつら書いていた日記を書籍化した作品です。

日記とは言うが、嘘ばかりである。それは著者自身も、冒頭でちゃんと書いている。3日嘘をつかないと死ぬ体質なんだそうだ。それは大変だ。何が嘘で何が本当かよく分からない。この著者が凄いのは、「さすがにそれは嘘だろ」と一般常識で考えればそう思える事柄も本当である可能性があり、また、「これは明らかに嘘である」とすぐに分かる話も、なんだかしみじみとした童話であるかのように読ませる、ということです。

と、先に嘘のことを書いてみましたけど、本当は先に酒のことを書かねばなりません。とにかくこの著者は、ずっと飲んでおります。実家ぐらしでフリーライターであるからこそ可能であろうこのだらだらグダグダした生活は、一部の人を羨ましがらせるかもしれませんが、大抵の人は自分はこんな風じゃなくて良かった、と思うことでしょう。しかし、こんな風じゃなくても良かった、と思いながらも、著者のこの自由さ、何にも縛られ無さみたいな部分には多くの人が惹かれることでしょう。しかし、ごく一般的な人間にはなかなかここまでだらだらグダグダした生活を貫き通すのは難しいことでしょう。暇さえあれば酒を飲み、仕事に追いまくられていても酒を飲み、読んでいたはずの文庫本をなくし、友人と愚にもつかない電話を長々とし、猫の斎藤さんをからかい、父親の言い間違いを見事変換し、両親から「お前の方が貰われ子だったら良かったのに」と言われ、周囲に大酒飲みの変人を集めに集め、薄い関係の彼氏と意味不明な会話をし、健康食品を売りつけようとする友人とバトルし、勧誘の電話に意味のない嘘をつき、そんな風にしながらも一応なんとか生活らしきものが成り立っている、なんていうわけのわからない生活は、なかなか普通の人は出来ないものなのです。だから著者は、多くの人が実現出来ないその生活を実践することで、無意識に皆が夢見ているもう一つの人生を体現するという崇高な使命と共に日々を送っているわけです。嘘です。

こんな風に、最後に「嘘です」とつくと、もはやどこからどこまでが嘘なのか分からなくなりますよね。このエッセイも、そんな感じがします。もしかしたら著者は、本当はお酒など一滴も嗜まれず、実感ぐらしでもフリーターでもなく、10人くらいの子供を育てながらヤクルトを配っていて、その合間にちょろっと嘘の日記を書いているだけかもしれません。いや、でもたぶんそうではありません。解説を書いているのが山本文緒なのだけど、彼女は著者と会い、まさに日記通りの人であるということを目の前で確認した、というようなことを解説で書いているのでした。まだ一応、山本文緒が共犯である説と、著者が逆猫かぶりである説などが存在しえますが、まあ大抵の人の興味はもう尽きているでしょうからこのお話はおしまいです。

著者自身の「どうせなら面白くなるように行動しよう」という発想、時に著者をも凌駕するほどの変態性を持つこともある周囲の人間、謎の家族関係や彼氏関係、そしてどれだけ失敗を繰り返しても酒を飲むことにかけては一切の躊躇がないその貪欲さなど、あらゆる要素が渾然と交じり合うことで著者自身の生活が成り立っていきます。さらにそこに、どんな些細なテーマであっても壮大な展開に広げることが出来る著者のホラ吹き能力が加わることで、この謎のエッセイが出来上がっているわけです。昔読んだエッセイでは、乙一の「小生物語」というのが抜群に面白かった。こちらも、著者の卓越したホラ吹き能力が発揮され、日常と嘘とを絶妙に織り交ぜながら展開される日記だったのだが、いかんせん乙一の場合は交友関係が狭かった。妄想や嘘は面白いのだけど、外的要因による変化に乏しかった記憶がある。北大路公子の場合は、外的要因による変化も多彩であり、日常の中で余人が想像さえしないようなことが起こったり、あるいは著者の頭の中で妄想されたりする。公平に判断すれば、乙一の「小生物語」の方が面白いように思うが、本書は、仕事として書かれたわけではない、著者のナチュラルな日常の発露(嘘だらけだけど)で構成されているという点がプロ作家のエッセイとはまた違ったおかしみを生み出しているのだと感じる。

「春洗い」「影日和」「夜まつり」「夏送り」など、明らかに嘘だと分かる話も出てくるんですけど、でも最初僕は結構信じてました。北海道にはなるほどこんなイベントが随時行われているのだな、と思わせる確かな筆力があるのです。「影日和」はともかく、他はどれも、なるほど北海道らしい、こんなイベントが実在していてもおかしくないかもしれない、と思わせるものであって、妙な説得力がある。日記といいながら、恐らく元ネタすらないだろう法螺話を延々と書き続ける凄さもあるが、教科書に載っているような短い読み物でも読んでいるかのような世界観が構築されている嘘で、ちょっと感心しました。

また、「新しいれいぞうこ」と題して、子供が先生に提出する日記に書いたような文面で新しい冷蔵庫が家にやってきた時の話を書いているのだけど、よくもまあ、ただ「家に冷蔵庫がきた」というだけのことで、嘘を織り交ぜながらこれだけの文章が書けるものだな、と感心しました。解説で山本文緒が、『取るに足らないことを洗練された技術で書くこと、それが延々繰り返されることで生じる異様な可笑しみ』というのが本書の説明としてまさに的確であって、あまりにもくだらない日常なのだけど、例えばそれを小津安二郎が映画にした、みたいな意味不明な文章のレベルの高さがあって、その落差が笑いを誘う作品だと感じます。

別に積極的に「読んで読んで!」と勧めるような作品ではないなぁ、と思うわけですが、読めば誰もが面白いと感じるでしょうし、このグダグダした日常を愛したくなるに違いありません。不思議な魅力を持つエッセイです。

北大路公子「枕もとに靴 ああ無常の泥酔日記」

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人が死んで悲しいと思ったことがない。
と、僕は昔からずっと言ってきた。
それは、今でも変わらずに正しい感覚だ。
でも、少しだけ不正確でもある。
実際には、その人が死んでも悲しいと思わない程度に関係性を調整する、というのが正しい。
だから、悲しむのが当然の状況に置かれたくない、といつも思っている。

『理不尽な殺人などが起こるたびに、それまで他者に殺意など抱いたためしもなさおうな可憐な主婦が、テレビカメラの前で「極刑以外望みません」と強い口調で語ったりするのを見るにつけ、巨大な喪失がもたらす激しい動力を見たような気がして幸夫は圧倒され、被害そのものを恐れる以上に、被害者になるのは怖いと感じてきた。何かひどい目に遭った時、自分は彼らをはるかにしのぐ、桁違いの憎悪に狂う可能性を秘めているし、あるいは全くその逆もあるかもしれない。もし彼らのように迷いなく、真っ直ぐに怒りや悲しみの情動に浸れなかった場合、その先には何があるのだろうと考えると、それもまた恐ろしかった。』

凄くよく分かる、と思う。僕は、何かひどい目に遭った時、迷いなく真っ直ぐに怒りや悲しみの情動に浸れない自信がある。そういうことを求められると困る、と思うのだが、それを求められる状況に巻き込まれるかもしれない。それは嫌だな、と僕は思う。そういうことには、巻き込まれたくないな、と。

この作品では、対照的な二人の男が描かれる。一人は、作家であり、妻との関係はほとんど破綻しており、そしてその妻を亡くした男。もう一人は、長距離トラックのドライバーであり、二人の子どもを持ち、四人家族良好に暮らしていた男。この二人の男が共に、バス事故によって妻を喪う。

長距離トラックのドライバーは、妻を失った悲しみに暮れ、怒りや悲しみを全身から発し、支離滅裂ながらも聞いているものの心を動かさざるを得ない言葉で感情を露わにする。彼のあり方は、誰にとっても分かりやすいし、受け入れやすいし、当然だと思われる。普通の状況であれば許されないような言動であっても、怒りや悲しみの表出であると受け取れるものであれば、周囲はそれに対して理解を示す。

一方で作家の方は、長距離トラックのドライバーとは対照的な反応を示す。表向きは、「悲しみを押し隠しながらも気丈に振舞っている」という体を作りながら、その実作家には喪失感は何もない。悲しみが押し寄せてくるでも、怒りに溢れるでもなく、妻を喪う前とさして変わらぬ姿で日常を過ごす。

『火葬炉の扉が開かれて、中から焼かれたばかりの遺骨が出てくると、ぼくは自分でも予想外の同様をしてしまうのではないかとそわそわした。けれど、実際に平たい台の上に散らばったそれを目にすると、何だか急によく分からなくなってしまった』

多くの人は、この作家の態度を冷たい、異常だと捉えることだろう。いくら夫婦生活が破綻していたとはいえ(実際にそのことを知っている人間はごく僅かであり、つまり「いくら」という副詞は読者目線で書いている)、長年一緒に暮らした相手が亡くなったのだ。それなのに、涙も流さず、動揺することもなく、妻を喪う前と変わらない生活を続けられるのはおかしい、と感じることだろう。

世間がそう感じることは、僕にはとてもよく理解できる。しかしそれでも、僕はその作家の態度がむしろ自然なのではないか、と感じてしまう。

何故なら、人は、失った大事さの分しか、大事さを理解できない生き物だと思うからだ。

10の大事さを失えば、上限10までの大事さを理解できる。100の大事さを失えば、上限100までの大事さを理解できる。僕はそんな風に考えている。人生のどこかで100の大事さを失う経験をしていれば、その後100までの大事さが失われた時は、悲しみを感じることが出来るかもしれない。しかし、人生のどこかで10の大事さを失う経験しかしていなければ、100の大事さが失われた時、自分が一体何を失ったのか、正確には理解できないのではないか。僕はそんな風に考えている。

僕は、誰かが死んで悲しがったり泣いたりしている人は、「人が死んだら悲しい」という条件反射でそうしていると思ってしまう。転んだ時に咄嗟に手が前に出るみたいな感じで、「人が死ぬ=悲しい」という条件反射が発動しているだけなのではないかと思ってしまう。何が失われたのかきちんと把握できないまま、悲しいと思うべきだ、泣くべきだ、という無意識の選択によってそうしているように思えてしまう。

こういう考えは冷たく映るだろうし、そんなわけないと反論したくなる人もいるだろう。それが普通だと思うし、僕が少数派であることは理解している。でも、理屈で考えれば、失ったものが何なのかきちんと把握できていないだろう人間による「悲しみの発露」は、僕には違和感をもたらす。

この物語は、一人の男が、自分が何を失ったのかを永い時間を掛けて捉え直していく物語だ。彼はその喪失に、同じ喪失を味わった家族と関わることで気づくようになっていく。

長距離トラックのドライバー一家に、作家が関わるようになっていく。そこで作家は、自分がそれまでの人生で感じることのなかった感覚を抱くようになる。

『陽一にとってそうである以上に、この小さな友人たちにとっても自分の存在が命綱であるということが、何よりも幸夫を勇気づけた。他人からの毀誉褒貶ばかりを気にかけてきたこの十数年には手にしたことのない感覚だった。』

作家は、妻との関係の中で、自分自身の存在が求められるという経験をすることがなかった。いや、そう感じてもいい経験はあったかもしれないが、作家はそう捉えなかった。作家は作家としてデビューする前、10年近くも妻に食わせてもらっていた。自分にとってこそ、妻の存在は必要だった。しかし作家がデビューを果たし、人気作家になったことで、妻にとっての作家も、作家にとっての妻も、共に必然的な存在ではなくなっていった。お互いを必要としなくても生きていけるようになった。妻は、もともと必要とされていたはずの自分の存在が意味をなさなくなるという変化を悲しいと思った。しかし、作家の方には、そういう感覚さえなかった。作家には、妻から自分が求められていたという自覚がなかったのだから。

『もしも彼女が生きている間に、「夏子の人生にとって自分は不可欠だ」と盲目的にであれ幸夫自信が信じていたならば、そこには子供らに対して今抱いているのと同じ、甘美な充足があったのだろうか―。』

作家はそんな思考を巡らす。

作家は妻を亡くした時、自分が何を失ったのか理解できないでいた。実際、作家は、その時に手にしていた何かを失ったわけではなかった。作家が失ったものは、手に入るかもしれなかったという可能性だ。彼は、長距離トラックのドライバー一家と関わることで、自分にもあったかもしれない人生の可能性を知った。それは、亡くなった妻との間にはついぞ生まれることのなかったものだった。そのまま妻が事故で命を落とさなければ、作家はその可能性に永遠に気づかなかったかもしれない。

作家は妻を失うことで、自分がそれまでに手にしていたかもしれない可能性を失ったことを知った。しかし同時に、自分にそんな可能性があり得たのだという気づきを得た。恐らくその気づきは、妻を喪うことでしか得られなかった。結果的に妻の死は、作家にとってどんな意味を持っていたのか…。

様々な可能性を多層的に描き出しながら、何らかの結論に導こうとするでもなく、妻の死によって失ったものと得たものを確認する作家の姿が描かれていく。その姿は、条件反射で悲しんでしまう人間よりも遥かに誠実であるように僕には感じられるのだけど、みなさんはいかがだろうか?

内容に入ろうと思います。

衣笠幸夫は、あの有名な野球選手と同じ響きを持つ名前を子供の頃から恨み続け、ついに作家としてデビューして以降は「津村啓」というペンネームを得て、本名はごく親しい人にしか明かされなかった。出版社勤務を突然辞め作家を目指すという決断を快く受け入れ、美容師として働いて夫を支える妻・夏子は、夫である作家・津村啓がどんどん有名になるにつれて、自らの存在意義が失われていくような感覚を抱くようになる。夫婦の生活は、人知れず、しかし着実に破綻しており、しかしその現実から絶妙に目を逸らしながら、夫婦は夫婦としての形をかろうじて保っていた。
そんなある日のこと。妻は友人である橘ゆきとスキー旅行に向かい、その途中バス事故に遭い二人共命を落とす。妻が死んだ、という事実をどんな風に捉えていいのか分からない幸夫は、自分がちっとも悲しくないことに気づき、しかしだからどうということもなく過ごした。遺族会とバス会社との話し合いの場で、突然感情を高ぶらせた男を冷ややかな目で見て、自分の内側にはあんな感情はないと確認した後、幸夫はまさにその男から話しかけられる。
大宮陽一。妻の友人である橘ゆきの夫である。幸夫は陽一のことなどまるで知らなかったが、妻は大宮家で事あるごとに“幸夫ちゃん”の話をしていたようで、それから彼らの奇妙な関係が始まっていくことになる。
『ぼくは自ら夏子の世界を拒絶したのもかかわらず、夏子の世界の明るさに打ちのめされた。』
生前、もはやなんの興味も持たないでいた妻の姿を様々な形で知るにつけ、幸夫は、自分にとって妻というのがどんな存在であったのか益々掴めなくなっていく。環境が大きく変わってしまった中で、“被害者”や“悲劇の人”として見られつつ生活することへの違和感を転がしながら、幸夫は、やはり湧き上がってくる喪失感など感じ取れないまま毎日を過ごしていた。
彼の人生が大きく変わったのは、とある事情から大宮家で子供の世話をするようになってからだ。彼はその経験を通じて、妻を亡くしたことで自分が一体何を失ったのか、少しずつ掴みとることが出来るようになる…。
というような話です。

良い話だったなぁ。久々に、体中に染み渡る物語を読んだ、という感じがします。

本書は、単行本で出版された際、直木賞候補となり、本屋大賞でも4位になったようだ。それだけ評価されたということだ。しかし、どの点が評価されたのか、というとちょっと考えるのが難しくなる。

というのも、本書でメインに描かれる作家・津村啓(衣笠幸夫)の感覚は、世間の大多数を決して代弁しないはずだ、と思うからだ。

もちろん、幸夫が変化していく過程は読み応えがあるし、幸夫が最終的に辿り着く場所は多くの人を共感させるのかもしれない。しかし、幸夫の基本的な価値観は、とても多くの人に受け入れられるものではないと僕は感じる。僕自身は、身近な人間を喪ってなお悲しめない幸夫や、他者との関係性に格別意味や興味を見出だせない感じなど、凄く共感できる部分がある。僕の場合は、幸夫に対する共感に引きずられるようにしながら最後まで読んでしまった、という感じだ。しかし、こういう読み方は決してメジャーではないはずだ。だとしたら多くの人は一体本書のどこに惹かれて読み進めたのだろうか?そこが僕にはイマイチ掴みきれない。

幸夫に共感できる人間であれば、本書の様々な場面で見え隠れする、幸夫が物事を捉えるそのあり方に強く関心を抱くはずだ。

『時折頭皮に触れてくる夏子の指の腹は、二十年以上前とすこしも変わらず温かく、とろけるようだが、その温もりも柔らかさも、夏子の実際の心情とは全く別ものだということを、幸夫はすでに良く理解している。とにかく彼女は見上げたプロだ。家庭においてもそれは崩れなかった。一体いつから、こんなに気詰まりな関係になったんだろう。何においても、お互いの言うことは全て色あせて聞こえ、どんなに新しいニュースを持ち帰っても、とうの昔に聞き飽きた話にも劣るほど、退屈させてしまうのは、なぜなのか。わずかでもお互いの関心を持続できるような、さりげない会話の糸口が一つも見つからない。』

『自分がこれから先ずっと、「可哀想な目に遭った方」というレッテルを張られて生きて行かねばならないのかと思うと、自分の書くものの語り口にも制約がかかりそうで、それこそ被害甚大のような気がした』

『男の様子が真に迫れば迫るほど、彼は自分の中にあるものとの大きな隔たりを感じ、他の遺族たちのように、男と一体になって大声を上げたり、泣き出したりする気にはとてもなれなかった。』

『ぼくは人の親になれるような人間じゃない。「なんとかなるものさ」という他人の言葉は信用ならない。なんとかならなかったやつらがこんなにぞろぞろ居る世の中で、ぼくが「なんとかなる組」に入れる保証はどこにある?なんともならなかった時、「なんとかなるさ」と言った連中は、何をしてくれる?ぼくは子供が嫌いなんじゃない。そう信じている。ただ、「不幸な子供」の親にだけはなりたくなかったんだ』

すべて幸夫の価値観だが、僕はこれらすべてにかなり共感できる。特に最後の子供の話は、僕の感覚とまるきり同じと言ってもいいくらいドンピシャだ。しかしこれらは、どう考えても、世間的には受け入れがたい感覚ではないか。最初の「一体いつから、こんなに気詰まりな関係になったんだろう。」に共感できる人は多いかもしれないが、それ以外はどうだろうか。

もし幸夫に共感しているわけではなく本書を読み進めているのだとすれば、一体それを牽引する要素はなんだろう?読後そんなことを考えてしまったのだが、僕にはそれはうまく掴めなかった。

幸夫が大宮家と関わるようになって以降の物語は、それまでのトーンとはまた大分変わる。幸夫が少しずつ、しかし着実に変わっていく。自分がそれまでの人生で関わることのなかった「子供」という対象と関わることで、幸夫自身も驚くほどの変化がもたらされる過程は非常に面白いし、幸夫にとっての「あったかもしれない未来」を擬似的に経験する展開を違和感なく物語として提示する著者の力量はさすがのものがあると感じる。

しかし、当たり前と言えば当たり前のことを言うが、じゃあ幸夫と夏子の間に子供がいれば何か違ったのかと言われれば、もちろん何かは違っただろうが、必ずしも良い変化だったとは限らないだろう、ということは押さえておかなければならないだろう。

幸夫にとって大宮家の子供は、「最終的に責任を持つ必要のない対象」だ。幸夫はその子供たちをとても可愛がり、自分でも信じられないほど感情が揺さぶられもするが、しかしそれは他人だからでもある。たまに会う孫を可愛がる祖父母と同じような立ち位置であり、親としての責任を持たない場所から、自分が快適と思えることだけを子供に施すことが出来る幸夫の立ち位置は、子供との関わり方において一つの理想だと言えるだろう。

しかしそんな理想は、実際の子育ての現場ではなかなか姿を現さない。

『しかしそんなの通用しない。子供は母親のアイデンティティや、順調だった人生や、正当性なんて、ハリケーンのように横暴になぎ倒す。子供のいる生活に対して抱いていた明るい夢もろともに。』

これは幸夫の実感ではない。幸夫は、きっとこのことには気づいていない。幸夫がしているのは「子育て“風”」なのであって、決して「子育て」ではないのだ、ということに、幸夫は恐らく気づいていない。最終責任は回避したまま、子供たちにとって自分の存在が“命綱”であるような状況は、幸夫自身の言葉を借りればまさに「甘美な充足」と言えるだろう。だからこそ彼は、すべての終わりをもたらすあの日を迎えてしまうことになる。「甘美な充足」が失われかけた時、それを支える土台が不安定であることに気づかないまま突き進んでしまった結果だ。

『大宮一家には気の毒だが、幸夫にとって、この二日の灯や真平や陽一との久々の邂逅は、振り返るのも怖いほど甘いひとときだった。しかし甘い時間の過剰摂取は、人生を蝕んでいく。甘いものなど、食べなければ良かったと思うようになる。』

ようやく、幸夫の人生はスタートした、と言っていいかもしれない。自分が何を喪ったのか、そしてそもそも何を持っていなかったのかを理解した彼は、大宮家との一連の関わり方を経て、それまでとは違う人生を踏み出した。その紆余曲折が、人間の愚かさと共に見事に描かれている小説だと感じた。

西川美和「永い言い訳」

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内容に入ろうと思います。
本書は、第七明和銀行高田通り支店の「庶務職」を務める多加賀主水が主人公の物語だ。「庶務職」とは、店の掃除・設備のメンテナンス・案内などの雑務をこなす、いわば裏方だ。
主水が銀行の庶務行員となったのには、ちょっとしたいきさつがある。様々な仕事を転々としてきた主水は、その時配送の請負業をしていたが、馴染みの店で飲んでいる時に昵懇の女将からある男を紹介された。第七明和銀行の総務部所属だというその男は、かつてその店で起こったトラブルを見事に解決した主水の姿を見て、その手腕を借りたいと頼んできたのだ。そうやって主水は、庶務行員として銀行に潜り込み、ある意味でスパイのような活動をするようになる。
しかし同時に主水は、高田通り支店の面々に対して良い感情を持っていた。仕事をちゃんとしない者もいるが、概ね良い人たちばかりで、主水は庶務行員としての職務を逸脱し、かつスパイ活動とも関係なく、彼ら高田通り支店の面々とそのお客さんを助けるべく、日々暗躍することになる…・。

「たかが一介の銀行員」
明らかに振り込め詐欺に騙されている最中だろうと思われるお客様を見つけた主水は、行員に耳打ちをしてその被害を阻止しようと動く。しかし責任を取りたくない上司がごねたりしてめんどくさい。主水は自分の責任で対処を考え、スマートに実行していく…。

「セクハラに喝」
高田通り支店で、頻繁に過剰金が発生するようになった。閉店後お金をチェックするのだが、千円や一万円多い日が頻発しているのだ。その日は行員総出で原因を探るべく遅くまで居残りとなるが、原因はまるで分からない。その中で、主水の目の前で煙草を投げ捨てるいけ好かない大門課長と、今年入稿したばかりの大久保杏子の関係が気になり始める主水は…。

「退職勧奨の闇」
斎藤小枝子は、振り込みが実行されていないとクレームをつけてきたお客さんの振り込みの事実を確認する書類を運んでいる間に倒れた。その後行内に、小枝子が妊娠しているという噂が流れ始め、さらにそれは支店長の新田との間の子どもだという話まで飛び交うようになる。妊娠によって小枝子は暗に退職を迫られるようになり…。

「地獄からの使者」
旧明和銀行出身の柿沢は、旧第七銀行出身の行員が多数の高田通り支店に異動となり、そしてそこで直属の上司からパワハラとしか思えない扱いを受けるようになる。直属の上司である堀本課長の叱責に心が病んでいく柿沢。同じくして、支店長の新田も日増しに顔色が悪くなっていく。三雲不動産社長と以前から頻繁に会っていたが、恐らくその絡みで何か心労を抱えているのだろう…。

「あの男との決着」
支店長の新田が追い詰められている事実に、第七明和銀行の有志が立ち上がる。出身母体の銀行同士の派閥争いに明け暮れているこの銀行の未来はどうなっていくのか…。

というような話です。

まあまあかなぁ、という感じの作品でした。全体的に、物語に都合の良いように人や状況が動いていく、という感じがあって、むむむと思う場面が多かったかなという感じですけど、雑用係が陰で暗躍してトラブルを解決するという設定はまあまあ面白かったかな、と。

ラノベの設定なんかでよくありますけど、「最弱」とか「劣等生」みたいな設定だったけど、実は能力者の血筋とかなんとかみたいな、実は凄いやつだった的な設定ってありますけど、本書も割とそれに近いです。これまでに色んな職業を経験したために、人脈は幅広く、技能もそこそこあり、そして力も強い。はっきり言って、主水が雑用係をやっていること自体がおかしい、という設定なので、裏方が状況をひっくり返す、みたいな爽快感はさほどない。まあとはいえ、銀行という巨大で固着化した組織を切り崩すほどの活躍をさせるためには、これぐらいの設定は必要だったということなんだろうなあと思っています。

物語のリアルさとかそういうことはともかく、主水みたいな人がいたら助かるなぁ、とは凄く思います。多方面に渡る能力がありながら普段はそれを見せびらかすこともなく、偉ぶることもなく、いざトラブルが発生した時には陰ながらその状況を打破するために動ける。この人のために、と思った相手のためであれば苦労を厭わないタイプで、とても頼りになる。現実にはなかなかこんな人はいないからこそ、主水のような存在を求めてしまう。主水がいてくれたらいいのになぁ、という思いで読んでしまうのではないかと思います。

江上剛「庶務行員 多加賀主水が許さない」

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テキサスから、メキシコの秘境のビーチまでやってきたナンシー。母親がナンシーを妊娠中にやってきたビーチで、妹も来たがっていたが置いてきた。ナンシーは、闘病生活を続けながら命を落とした母親を見て、救えない命もあると実感。医学校に通う自分の姿に疑問を抱いてしまい、このビーチにやってきたのは、ある意味では逃避でもある。
現地のサーファー二人とやり取りを交わしながら一人でサーフィンを楽しむナンシー。日が暮れるからと言って先に上がった二人に、あと一本乗ってから上がると声を掛けたナンシーは、その後、近くでカモメが群がっていることに気づく。
そこには、クジラの死骸が浮かんでいた。
危険を感じたナンシーだったが、僅かに遅かった。ナンシーは、脚に激痛を覚え、咄嗟にクジラの死骸まで泳いでいき、その上に乗った。
サメだ。
左大腿部を鋭く傷つけられたナンシーは、クジラの死骸の上が安泰ではないことを知り、近くにある岩礁までなんとか泳ぎ着いた。
干潮時に姿を現すその岩礁は、いずれまた海に沈んでしまう。ピアスやネックレスなどの装身具と上半身だけのライフジャケットという装備で、ナンシーは傷ついた大腿部を応急処置し、そして岸まで帰り着く手段を模索するが…。
というような話です。

非常にスリリングで面白い映画でした。ストーリー自体は「迫りくるサメと対峙し生き残りを掛けた闘いをする」という要約で済んでしまうぐらいシンプルです。メインで描かれるのは主人公のナンシー一人で、後は同じ岩礁に留まる羽が傷ついた一匹のカモメと、時折姿を見せるサメ。映画は1時間半程度と短いながらも、ほぼこれだけの要素だけで一本の映画を成立させるのは見事だと感じました。

物語の技法としてはありがちなんだろうけど、ナンシーには、何度か助かるチャンスがあったものの、様々な不運からそれらはナンシーを救わない。具体的にどんなことがあるのかは書かないけど、普通あの場面で助かるでしょう、と思うんだけど、全然そうはならない。

非常に難しいのは、ここが秘境のビーチであるということで、待っていても誰かがやってくる可能性はとても低い。冒頭で、ナンシーが恐らくヒッチハイクみたいな感じで拾ったドライバーにこのビーチに連れてきてもらうシーンが描かれるのだけど、道がないような林の中を四輪駆動だろう車で突き進んだ先にあるビーチで、おいそれとやってこれる場所ではないことが示唆される。サーフィン中に襲われたので当然通信機器はなく、水も食料もない。いられるのは、満潮になれば沈んでしまう岩礁だけ。岸までは200メートル程度だが、傷ついた脚で、サメに追いつかれずに泳ぎ着ける距離ではない。

この状況で一体何が出来るというのか。

ほとんど選択肢がない中で、途中で手に入ったものも含めて数少ない物を駆使して、ナンシーは可能な限りあらゆる方策を試す。途中で手に入れたある物がナンシーにちょっとした可能性を切り開くことになるが、しかしそれもある意味では運任せでしかない。一体この物語はどう着地するんだろう、と思っていた。

ナンシーにとっての極限状況のラストは、ちょっと驚くような展開になる。そんな風にしてサメとの激闘に終止符が打たれるのかとかなり驚いた。凄かったなぁ。

物語の展開も面白かったが、映像的にも相当にスリリングだった。別に自分がサメに襲われているわけでもないのに、何度も座席の上で悶絶して、自分がサメに襲われそうになっているかのように脚をジタバタさせたりした。ナンシーはサメに何度も襲われるが、そのシーンは圧巻で、ハッキリ言ってメチャクチャ怖かった。

ストーリーがどうの、というようなタイプの映画ではないが、エンタメとしてスリル溢れる映画で、たまにはこういう映画もいいなと思いました。

「ロストバケーション」を観に行ってきました

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乃木坂46の中で、西野七瀬は確かに元から気になる存在ではあった。
「悲しみの忘れ方」というドキュメンタリー映画を見た時から(それは僕が、乃木坂46のファンになった時、という意味だが)、西野七瀬というのは存在感に溢れていた。映画の中でメインで取り上げられていたということもあるが、そこか儚げで静かで、前に出たいという意欲を見せず、何故この子がアイドルなのだろう?という違和感を与えながら、同時に、存在しているだけで「THE アイドル」と呼びたくなるような、不思議な存在感だった。

しかしその後僕は、西野七瀬にあまり注目しなくなった。
齋藤飛鳥の存在を知り、齋藤飛鳥のファンを自覚したことで、西野七瀬に限らず乃木坂46の他のメンバーにさほど興味を持たなくなった、ということもあるかもしれない。

しかし、原因はそれだけではない。

僕が乃木坂46に触れるのは、「乃木坂工事中」という番組か、雑誌の記事が主だ。
そして、そのどちらであっても、西野七瀬は存在感が薄い。

西野七瀬は、喋るのがさほど得意ではない。それは、テレビでも雑誌でも変わらない。エレビでも雑誌でも、振られた問いに対して考えこむ素振りを見せ(雑誌でも、西野七瀬のインタビューの場合、「ここでしばらく沈黙」みたいな表記がある)、そしてポロッと短い言葉を放つ。確かにその言葉には、よく考えられた鋭さみたいなことを感じることもあるのだけど、それよりもむしろ、言葉で自分のことを表現するのは苦手なのだ、という印象を強く受ける。言葉に惹かれる傾向のある僕には、西野七瀬の内面には深い何かあるのだろうな、ということは感じつつも、どうも西野七瀬に特別関心を抱けないでいた。

しかし最近、西野七瀬に強く関心を抱くようになった。そのきっかけが、乃木坂46のMVを集めた「乃木坂46 ALL MV COLLECTION~あの時の彼女たち~」を見たことだ。

西野七瀬は凄いな、と思った。

他のアーティストのMVをほぼ見たことがないので比較は出来ないのだけど、乃木坂46のMVにはドラマ仕立てのものが多い。他のアイドルのように、リップシンク(という言葉も最近知ったが)とダンスで構成されているMVもあるのだが、曲の歌詞とリンクしているわけではないドラマ仕立てのMVも多い。

そして西野七瀬は、そのドラマ仕立てのMVで主人公になることが結構ある。主人公が決まっていない、選抜メンバー全員がメインあるいはアンダーメンバー全員がメイン、みたいなMVもある中で、西野七瀬が主役を務める割合はとても高いと感じる。

乃木坂46のドラマ仕立てのMVは、もちろんMVの背景であるのでセリフがほぼない中で、心情を伝え見る者の心を動かすものが多くて好きだ。しかしその中でも、西野七瀬が主役であるMVは格別にいい。

西野七瀬が主役のMVを見ると、何故だか泣きそうになってしまう。

「ロマンスのスタート」という、西野七瀬が主役の他のMVとはちょっと違うテイストのものもあるが、基本的に西野七瀬が主役のMVは、西野七瀬自身がちょっと切ない状況置かれている。あともう少しで死んでしまう少女、転校が嫌で家出してしまう少女、耳が聞こえないけどダンスに参加する少女。どれも、その瞬間しか存在し得ない儚さを身にまとった少女であり、その少女の姿を西野七瀬は見事に演じている。

「MdN EXTRA Vol.3 乃木坂46映像の世界」の中で、「気づいたら片想い」のMVを撮った柳沢翔氏は、西野七瀬についてこんな風に語っている。

『でも、いざカメラを回してみたら「これはいける!何分でも観ていられる!」って。撮っててビジコンを見たら、間が持つ人、持たない人、すぐに分かりますからね』

これは、すごくよく分かる。

先程も書いたが、MVなので、基本的にセリフがないままドラマが展開されていく。喋っている内容が文字で表示されることもあるが、そうではないこともある。なので、ドラマを成立させるものは基本的には表情しかない。

そして西野七瀬は、その表情で圧倒的に魅せる。

柳沢翔氏が言うように、西野七瀬は、喋らずに画面に写っているだけで、観ているものを惹きつける力がある。切ない表情は、観ている者にも涙を誘いかけるような力を持つ。そして楽しそうな表情であっても、どことなくバラバラになりそうな不安定感が滲む。泣き顔が似合うが、しかし泣いているから惹きつけられるというのとは違う。「西野七瀬が泣いている」ということに、もっと強い意味を感じてしまうのだ。先に挙げた雑誌の中で、同じく西野七瀬のMVを担当した山戸結希氏は、『一度目が合うと逸らせない方だなぁ、と西野さんを見ていました』と言っている。まさにその通りだなと、画面越しでもそう感じる。

僕が判断できないのは、こう感じるのは、「西野七瀬というパーソナリティを知っているから」なのかどうか、ということだ。
西野七瀬についてまるで知らない人が同じMVを観て、僕と同じように感じるのか。それとも、一人や孤独が似合う西野七瀬というパーソナリティを知っている人間だからこそ、西野七瀬の表情から感じ取れるものがあるのか。

西野七瀬は、インタビューなどで圧倒的な孤独感を漂わせる。東京に友達はおらず、休みの日は家にいて、家にいると不安になるからずっと仕事をしていたくて、メンバーに対しても申し訳無さを感じて自分からは距離を縮めることが難しい。僕は西野七瀬に対してそんなイメージを持っている。

そしてそんな西野七瀬に対するイメージと、西野七瀬がMVの中で演じる少女が見事にオーバーラップするのだ。MVの中で描かれる少女が、どれも「西野七瀬自身」に見えてくる。もうすぐ死んでしまう少女や、耳の聞こえない少女など、「西野七瀬自身」とはかけ離れた設定であっても、それが「西野七瀬自身」に見せてしまうだけの力があるのだ。

今となっては僕はそんな風に、西野七瀬と作中の少女をオーバーラップさせるような見方しか出来ないが、西野七瀬を知らない人があのMVを観てどう感じるのか、とても興味がある。

今まで正直、西野七瀬の魅力がイマイチ分からなかった。もちろん、容姿は可愛いし、守りたくなるみたいな雰囲気も感じるのだろう。しかし、綺麗でかつお笑い方面のポテンシャルも高い白石麻衣や、綺麗でかつ知的で哲学を感じさせる橋本奈々未などと比べて、乃木坂46の第一線で活躍するほどの魅力が分からなかった。でも、MVを観ることでようやく西野七瀬の魅力が分かったような気がする。なるほど、これは人気が出るわけだな、と感じました。

MVと西野七瀬との関係で言えば、非常に印象的だった言葉がある。同じく、先の雑誌で山戸結希氏がこんな風に語っている。

『西野さんは、どんなに大変でも、首を縦にしか振らない方でした。今でもよく撮影時の西野さんを思い出します。本当に、尊敬に値する方でした。』

「首を縦にしか振らない人」というのは、非常に西野七瀬らしいと感じた。自分の意志がないわけではない。しかしその意志というのは、良い物を作りたいというものであって、そのために首を縦に振り続けるという選択をする西野七瀬。西野七瀬の底力を感じさせる話だなと思いました。

改めて乃木坂46は、様々なポテンシャルを持つ稀有なメンバーで構成されているのだな、と感じました。

「乃木坂46 MVの中の西野七瀬」

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『でも今は騙してるみたいで辛い』

僕は女性と恋愛すると、途中で必ずこの感覚に襲われる。
この人のことを、騙してる気がするな、と。
それが辛くて、恋愛を諦めてしまう。

相手のことが好きだな、という気持ちは、自分の中にはちゃんと残っている。
少なくとも、一緒にいたいな、とは思っている。
それは、今まで付き合った人とは全員、別れた後も会ったり出かけたりしていることからも証明できる。
別に、嫌いになっているわけではない。
けど、相手を騙しているような感覚に襲われる。

僕が真面目過ぎるのか、考えすぎるのか、たぶん両方なんだろうけど、相手と同じぐらい自分も何かを返さないといけない、と考えてしまうのだろうと思う。
僕は、自分から告白して付き合ったことしかないので、最初のうちは僕の方が相手のことを好きなんだと思う。でも次第に、相手がより僕のことを好きになってくれる。そうなった時、自分が、相手が僕に向けてくれるのと同じだけど何かを返せていないんじゃないか、という気持ちになる。

たぶんそれが、騙しているという感覚に繋がるんだろうなぁ、という気がする。

相手は別に、同じだけの何かが返ってくることを望んでいないかもしれない。それでも、一旦「騙している」という感覚になると、自分の中からそれを消し去ることが出来ない。会っていても喋っていても、「騙している」という感覚がつきまとう。それが、しんどくなっていく。

そうやって僕は、恋愛を終わらせてきた。

自分のこういう感覚のことがよく分かっているから、ある時から僕は、女性との関係を恋愛にしないように意識するようになった。恋愛になっちゃえば、またあの「騙している」という感覚に絡め取られる。それなら別に、わざわざ恋愛にすることもない。今でも僕はそう思っている。

もう一つ、グサッとくる言葉があった。

『いい人なんだろ、あんた。恋人の前でも、きっと他の人の前でも。
でもそれじゃ、一番大切な人、傷つけかねませんよ』

これも、なんだか凄くよく分かる。
僕の場合、特に恋愛になるとそうなんだけど、「いい人でいなきゃいけない」みたいな強迫観念みたいなものがつきまとう。恋愛にならなければあんまりそういう意識にはならないのだけど、恋愛になると、自分のダメな部分を見せてはいけないような気分に襲われる。

これは家族でも同じだ。関係性が近くなればなるほど、自分の悪い部分を見せられなくなっていく。それで、窮屈になっていくというのも、恋愛を長く続けていくことが出来ない要因だ。

こういうことを実感できるようになったのも、僕と恋愛してくれた人がいたからで、こういうことを考えるとき、いつもありがたいなぁ、と思う。これまで付き合った人と、恋愛じゃない関係にしておけば、今でもちゃんと関われたのかな、と後悔することもあるんだけど、でも今までの経験があったから、僕は考え方をシフトすることが出来るようになった。僕の認識では、散々迷惑を掛けたり傷つけたりしたはずなので、申し訳ないなぁ、と思いつつ、感謝の気持ちしかない。

なんていうことを考えさせるほど、秀緒と智沙の恋愛は純粋で美しいのである。

菊地秀緒は大学生で、塾講師の仕事をしている。大学時代の男友達と会った際、今付き合ってる人と言って紹介されたのが、秀緒が担当するクラスにいる赤星智沙だ。彼は一匹狼で無口で無表情。接触がなくて印象も持てないくらいだったのだが、その男友達と連絡が取れなくなったと言ってちょくちょく智沙が相談にやってくるようになり、塾内でも秀緒にだけ智沙は笑顔を見せるようになっていく。
ある日秀緒は、相手にベタ惚れだった智沙が失恋する場面に出くわしてしまい、放心する彼を自宅へと連れ帰った。前から美しい少年だなと思っていた秀緒だったが、智沙の無防備な姿に、ゲイではないのにときめきを感じてしまう。
その後、辛い時期を支えてくれた先生に何か恩返しを、と考えた智沙は、徹夜で勉強し模試で満点を取る。自分のために勉強してくれたのだという事実を知った秀緒は、それでもうタガが外れ、智沙へ自分の気持ちを伝えていた。
遠距離恋愛を挟みながら、なんとか関係を続けていた二人。しかし秀緒も30歳を超え、決断しなければならない年齢に差し掛かってきた。ずっとこのままの関係が続く。そう思っていたのだけど…。
というような話です。

いい作品でした。正確に言うと、「君とパレード」の方はそうでもなかったんだけど、「パラダイス・ビュー」の方は凄く良かったです。

「君とパレード」は、ベタ甘という感じです。秀緒と智沙が出会い、恋に落ち、付き合い、いちゃいちゃしている、という過程が描かれます。遠距離恋愛がちょっと大変そうだったけど、でも特別葛藤もなく、とにかくお互いがお互いのことを大好きで、甘々な関係を築いている、という感じです。

そんな感じだったので、正直僕は、「君とパレード」の方はあんまりという感じでした。僕的には、BLの面白さは葛藤にあると思っているので、「君とパレード」にはその要素がなくてちょっと面白くないな、と。

ただ、「恋とパレード」では、秀緒の真面目さ、智沙の良い子さが前面に描き出されます。そしてそれが、次の「パラダイス・ビュー」で重要になってくるわけです。「恋とパレード」での二人の描写がなければ、「パラダイス・ビュー」での葛藤があまり活きてこない、という意味で、「恋とパレード」も重要な作品なわけです。ただ、それ単体で読んだ場合、僕はあんまり好きじゃない、という話です。

「パラダイス・ビュー」の方は凄く良かったです。

秀緒が抱える葛藤は「家族」です。旧来的な家族のようで、新しい価値観をなかなか受け入れない。だから、自分が男と付き合っているなんてことになったら大変なことになる、ということが充分に分かっている。それもあって、ずっと逃げ回っている。しかし、智沙との関係をきちんとするんであれば、「家族」の存在は避けては通れない。その葛藤に絡め取られます。

そして秀緒は、「家族」と向き合うことで、智沙との関係についても考え直すことになります。
作中ではあまり描かれないので分からないけど、彼はこれまで、男と付き合っているということについて、周囲の「世間」と何らかの摩擦を経験したことがないようです。うまく隠していたのか、あるいは周囲がそういうことを気にしない人間だったのか、その辺りは描かれていないので分からないのだけど、とにかく秀緒は「家族」と向き合う時、始めて「世間」と向き合うことにもなるわけです。

そして「世間」と向き合った秀緒は、智沙に対して自分がどんな風に感じていたのかを認識し直すことになった。一緒にいて幸せだということは変わらない。しかし、自分が智沙という存在をどう捉えていたのかというのは、これまできちんと掘り下げて考えなかった。考える必要がなかったからだ。その必要に迫られた秀緒は、自分の考えに失望する。

ここに、秀緒の真面目さが関係してくるのだ。
秀緒がそこまで真面目な人間でなければ、何の問題もなく通り抜けた部分だろう。しかし秀緒は、自分が智沙をどう捉えているかについて無視することが出来なかった。そしてそれは秀緒自身を追い詰めることになっていく。

智沙の葛藤は、そんな秀緒の葛藤をどう捨てさせるか、だ。智沙は、真面目な秀緒がどんな風に考えているのか理解できてしまう。しかし、秀緒の葛藤は、智沙には正直どうでもいいことだ。秀緒が自分のために悩んでくれていることは知っているが、しかしその悩みは、智沙的にはどうでもいい、取るに足らないことだ。しかし秀緒はそうは思えない。自分が智沙に対して酷いことしているのだし、そんな自分が最低の人間だとしか思えない。

秀緒にはそんな風に思ってほしくない。そんな風に悩んでもらうことで得られることなんか何もない。それでも智沙は、自分の力では秀緒のその葛藤を消し去ることが出来ないことも分かってしまっている。それが智沙の葛藤だ。

二人の気持ちがすれ違うようになっていき、さらにそんなタイミングで外的な変化までやってくる。その時二人がどんな決断をするのか…。真っ当で優しくてきちんとしている二人だからこそ無視できない葛藤を丁寧に描き出していく。

主人公二人以外だと、久住っていう医者のキャラがとてもいい。彼は、大学で智沙の上を行く優等生であり、智沙と同じ病院で研修をしている。陽気でおちゃらけた性格だけど、締めるところはきちんと締める。智沙が心を開ける数少ない人間で、物語でもなかなかいい場面で関わってくる。なかなかのキャラクターである。

最後の最後のエピローグ的な場面も良かった。時間の重みみたいなものも感じるし、残った者の覚悟みたいなものもとてもいい。

全体的に好きな感じの作品でした。

小嶋ララ子「君とパレード/パラダイス・ビュー」

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内容に入ろうと思います。
風ヶ丘高校新聞部の面々は、夏休みに、地元・横浜では誰もが知っている穴場スポット・丸美水族館へと取材にやってきた。新聞部部長である向坂香織を始め、個性的な面々がワイワイはしゃぎながら水族館の裏側へと入り込んでいく。
ちょうど同じ頃。数日前、香織から水族館に行こうと誘われていた袴田柚乃は高校の体育館にいた。近隣にある四校合同での卓球の練習試合が行われるのだ。最強の名を欲しいままにする関東屈指の名門・私立緋天学園も混じっているが、風ヶ丘高校の面々は楽観していた。こちらには佐川部長がいるし、緋天学園のエースたちは遠征中であり、この練習試合には参加しないという。今年こそ緋天学園に勝つと、風ヶ丘高校の面々は燃えているのだ。
しかし、予想に反して、緋天学園の中でも最強と謳われる忍切蝶子が練習試合に飛び込みで参加することになってしまった。マジ…?
さて、新聞部の面々はと言うと、こちらも大変な状況に陥っていた。取材は順調に進んでいたが、その最中、イルカの飼育員の一人がサメに喰われて死亡する、という事態が発生した。明らかに殺人事件であると判断され、新聞部の副部長である倉町剣人のファインプレーもあって、犯行時刻はかなり狭められ、さらに容疑者も11人に絞られることになった。
しかし、まさに犯行時刻と思われるその瞬間、容疑者11人全員にアリバイが存在することが判明してしまう。丸美水族館に赴いた刑事の一人である袴田優作は、妹である柚乃に連絡を取り、裏染天馬を招集する。
裏染天馬。彼は、風ヶ丘高校の部室に住み着く男だ。天才的な推理力を誇り、その推理力により、少し前に風ヶ丘高校の体育館で発生した殺人事件を見事解き明かしたのであるが、生活力が皆無なダメ男でもある。しかし、警察としても背に腹は変えられない。天馬に協力を依頼することになった。
アリバイを破る手伝いだけ、という条件で現場に通された天馬は、アリバイの謎をあっさりと解き明かす。しかし、この水族館での殺人事件の謎は天馬を惹きつけ、天馬は警察が天馬に望む以上に事件に関わろうとする。不本意ながら天馬に振り回される形となった柚乃は、奇行を繰り返す天馬のお守りをさせられることになるが…。
というような話です。

相変わらずこの著者、凄いなと思います。まだ25歳。デビューは21歳の時です。年齢が若いから凄い、というわけでは決してないのだけど、年齢の低さにも驚かされます。確かに本格ミステリというのは、人生経験みたいなもので描くような小説ではないかもしれないけど、ここまで論理によって事件と解決を構築し、さらにそれを魅力的なキャラクター小説で包んでしまうというのは、なかなか出来ることではないと思います。

しかしこのシリーズ作の感想を書くのは難しい。というのも、前作「体育館の殺人」と同じようなことしか書けないからです。「推理が凄い!」という話を書いても、ミステリであるが故にその凄い部分については深入り出来ないし、キャラクターが魅力的、という話も結局被ってしまうんですよね。

でも、似たような感想になってしまっても、あれこれ書いてみようと思います。

まずやっぱり本書は、論理展開が凄すぎる。前作「体育館の殺人」では、たった一本の傘から、これでもかこれでもかというぐらい様々な結論が導き出されたわけだけど、今回は、バケツとモップだけから、これだけのことが分かるのかというぐらい、超絶的な論理展開によって真相が明らかにされていきます。まさにそれは、数学でも解いているような雰囲気です。誰もが納得できる大前提からスタートし、そこに論理によって様々な事実を積み上げていくことで、犯人をたった一人に絞り込んでいく。その過程が素晴らしい。

前作もそうだったけど、この作品には間に「読者への挑戦状」が挟まっている。これは、読者も、与えられた条件を元に、探偵と同じ用に犯人を絞り込んでいくことが出来る、ということだ。
これは、なかなか難しい。推理が出来るようにフェアに手がかりを作中に組み込まなければいけないけど、でもそれによって物語が不自然になったり違和感が残ったりしてはいけない。本書はその問題もクリアしている。僕がただ本格ミステリを読み慣れていない鈍感な読者というだけかもしれないけど、物語的に不自然に感じる部分はほとんどない(あってもそれは、天馬の奇行として処理される。この部分で、天馬のキャラクターはかなり計算して作られているな、と感じる)。作中の様々な箇所に重要なヒントを散りばめながら、物語として自然になるように巧く描き出していく。これもまた、物凄くハイレベルな手腕だと思うのだ。

また、先程少し触れたが、天馬の奇行という面から考えても本書は面白い。天馬は、推理の過程で、素っ頓狂な質問をしたり、理解不能な行動をしたりする。周りは、呆れながらも、またかという感じで許容している(というかせざるを得ないというだけか)んだけど、謎が解き明かされると、それらの奇行に大体説明がつく(大体、というのも面白い。天馬の奇行の中には当然、天馬が変態だからそうしている、というだけの奇行も存在する)。天馬の思考についていけない人間にはただ天馬を奇妙な眼差しで眺めるしかないが、それらにきちんと理由付けされるというのも面白い。

さて、しかしマイナスな面も書いておこう。これは単に僕が苦手だ、というだけの話なのかもしれないけど、本書がアリバイ崩しがメインになっている、というのは僕にはちょっと辛かった。
11人の容疑者すべての行動を、たった20分弱の出来事とはいえ、頭の中に突っ込むのは相当難しいと僕は思う。誰々はこの時間からこの時間までここにいて、誰それはここからここまでこうしていて…みたいなことが書かれていくんだけど、僕はどうしてもそれを理解するのを放棄してしまう。もちろん、本書の謎解きのメインの部分では、それらのタイムスケジュールを理解していなくても理解できるし驚ける。しかしやはり、細かな部分まで知ろうとすると、どうしても11人の容疑者の動きを理解する必要がある。それはなかなか難しいなぁ、と思ってしまうのだ。

また、アリバイ崩しを扱うとリアリティ的にちょっと苦しくなる、というのがある。とにかく、時間が正確に分からないといけないわけなんだけど、「トイレから出たのが10時3分で事務所には少なくとも10分には戻ってた」みたいな感じの証言が山程存在するんです。でも、普通ですよ、そんなこと覚えてますか?もちろん本書では、時間を覚えている理由について最もらしい理由付けがされているから、気にしなければ気にしないまま読める。けど、多くの人間が時間を正確に覚えていた、という偶然を前提しなければその状況を生み出せない、というのはちょっと弱いのなぁ、と思ってしまいました。

まあ、そういう部分を差っ引いいても、メチャクチャ面白いですけどね。

本書は、本格ミステリとしての側面だけではなく、キャラクター小説としても面白い。
解説によれば、前作でありデビュー作でもある「体育館の殺人」は、新人賞の応募作だったので、シリーズ化するつもりで書いたわけではない、と著者は話してるという。本作で、主要メンバーの造型がより深くなり、また天馬を軸にした物語も展開されそうな感じで、キャラクターも重視していくんだということが強く意識されているなという感じがしました。

探偵役の天馬を筆頭に、どうにもこうにもおかしいというかズレた人間がわらわら登場する。風ヶ丘高校の面々と刑事が主要メンバーと考えていいが、彼らの会話のやり取りは軽妙でかなり面白い。殺人事件に関わっているとは思えないような軽いノリで、そういう意味でライトノベル的と言えるかもしれないが、そこに「平成のエラリー・クイーン」と評される超絶的な論理を組み込んだ謎と謎解きを組み込むことで、ライトノベルには見えない。とっつきやすいキャラクターで敷居を下げ、ゴリゴリのミステリを読ませる、というやり方はとても成功しているように思う。

400ページを超える作品ですが、一気に読ませるだけの力があります。ライトノベルっぽく見える部分もありますが、ライトノベルとは一線を画す力を秘めた作品です。問題編では、天馬が一人で動き回っているだけで周りも読者も全然真相の欠片すら掴めないんだけど(掴める読者もいるかもしれないけど)、それでも面白く読んでしまうし、解答編の論理展開は圧巻のひと言です。是非読んでみてください。

青崎有吾「水族館の殺人」

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内容に入ろうと思います。
物語は、主人公らがある恐ろしい事実に気づくところから始まる。
なんと死んでいるはずの同級生が写った写真が存在するのだ。彼らは目を疑った。しかしそれは、どう見ても彼らが知っているあの子にしか見えない。鵜久森を震度七強の地震が襲ったまさにその日に撮られた写真に、写っているのだ。
風祭飛鳥。<私立尾曽越学園>高等部の文芸部にいた彼女。顧問の白州正和に心酔している様を見せ、白州に批評してもらいながら熱心に作品を仕上げる姿を誰もが覚えている少女。彼女は、不幸な形で若くして命を落とすことになってしまったのだ。
飛鳥と同学年であり、当時唯一の男子部員だった矢渡利悠人は、SFやミステリを読み漁る学生だったが、周りにそういう話が出来る者がおらず、同志を見つける目的で文芸部への入部を決める。そこで彼は、顧問の白州が、矢渡利の母を知っているということを知る。なんと母はかつて小説を書いていたようで、大学時代に白州らとともに同人誌を作っていたのだという。母は既に亡くなり、父からもそんな話を聞いたことがなかった矢渡利は驚いた。
そしてこの母の存在が、結果的に、入部以来気になっていた飛鳥と喋るきっかけになったのだった。
飛鳥と普通に会話をする仲になったのだったが、次第に飛鳥を取り巻く環境が大きく変わり、二人の関係も変化していく。
そして、文芸部の機関誌である<ぴこミュウズ>への投稿作に思い悩んでいた矢渡利が、禁忌に手を染めた時から、物語は大きく、しかし静かに動き始める…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。
写真に、撮影時点から4年前に死んでいたはずの少女が写っている、という謎から始まるこの物語は、当然ミステリとしてなかなか面白い展開を見せます。本書の解答には、個人的にはちょっと気になる部分もなくはないですが、それは論理の展開とか動機の部分ではなく、そんな偶然(偶然、という表現はちょっとおかしいけど)あるかな、というような部分です。謎があまりにも解き明かすのに困難なので、多少はそういう部分が入り込まないと無理だろうと思うので、そこまで気にすることでもないか、とも思っています。

本書の解説には、「西澤ミステリの真骨頂は、実は動機にある」と書かれていて、他の西澤ミステリについてはなんとも言えないけど、本書の場合、確かに動機の部分がなかなかうまく作りこまれているな、という印象でした。

この「心霊写真」(と呼ぶことにします)が生まれるまでには、様々な人間の様々な行動が関わってくるわけなんだけど、それら一つ一つの行動が何故なされたのか、という部分が、結構よく出来ている。普通に考えればどんなことするはずがない、という行動がいくつか積み重なることであの「心霊写真」が生まれるわけなんだけど、その行動の理由があまり無理がないように描かれていく。いや、もちろん無理があると感じる人もいるだろうけど、「心霊写真」を合理的に説明しようという試みの中で、なかなかうまい状況設定を作ったものだな、と感じたのでした。

そして本書は、ミステリとしてだけではなく、青春小説としてもなかなか良く出来ていると思う。
飛鳥というなかなか奥の深いキャラクター、主人公の淡い恋心、教師である白州と飛鳥との関係など、その時代特有の人間関係もなかなか読ませるし、飛鳥にしても矢渡利にしても、創作の苦しみみたいなものが描かれるのも、また青春っぽくていいなと思う。

創作の苦しみが結局後の悲劇を引き起こしたわけだけど、そこに、既に亡くなっている矢渡利の母が関係してくるというのも面白い。もちろんこの、矢渡利の母の原稿を巡るあれこれは、都合が良すぎるなぁ、と感じる部分もあるのだけど、目先の重圧をちょっと先延ばしにするという、罪悪感はありながらもそこまで気負ってやったわけではない行動の積み重ねが、最終的に不幸を呼び寄せてしまうことになる、という流れは、なかなか良く出来ていたなと感じました。

合理的に解き明かすのが困難だろうと思われる謎を、多少無理はありながらもなかなか絶妙な形で説明するだけの、違和感の少ない状況設定と、謎を解き明かす論理展開がなかなか見事な作品だと思います。西澤保彦らしい一冊だと思います。

西澤保彦「幻視時代」

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なかなか面白い設定の物語である。

主人公の一人は、元プロ野球選手である小尾竜也だ。彼は東京オリオンズの投手だったが、ドーピング疑惑により引退。小尾は無実を訴えたが誰にも信じてもらえないままの引退だった。その後は、高校時代の担任の教師の伝手を辿って、とある私立高校の臨時教員として体育の授業を受け持つようになった。
かつての担任の教師の弟で、小尾が勤める新栄館高校の現在の校長である新川正秋に呼びだされたのは十月一日。新川は小尾に、とんでもない課題を与える。
元相撲部員で野球部を作り、来年の夏甲子園を目指せ。
野球経験者である小尾でなくても、まず不可能だと思う無謀なミッションだ。しかし新川は、やらなければ即クビだ、という。仕方なく小尾は、元相撲部のメンバーをあの手この手で懐柔し、野球部を創立する。
相撲部は、具志堅星矢による暴行事件により無期限の活動停止となっていた。具志堅は、高校の相撲界で注目を集める逸材だったので、具志堅が突然事件を起こしたことに周囲は戸惑いを隠せないでいる。元々格闘技系に強い新栄館高校には、具志堅以外にも、二階堂康介や嵯峨省平、服部翔大といった面々も、すでに注目を集めているのだった。
そんな彼らに、畑違いの野球をやらせる。高校の知名度を上げるための戦略だそうだが、こいつらに野球が出来るはずもない、と小尾は思う。
練習をスタートさせても、状況は散々だった。走れない、捕れない、打てない。まともに試合を成立させることも困難なレベルだ。
しかし、元妻でスポーツジャーナリストの岩佐真由子と一緒に暮らしていた茜が、何故か新栄館高校に転校してきたことで、状況は変わり始める。茜は小尾の右腕として、このハチャメチャなチームを変革するだけのプランを用意しているのだった。
一方、プロ野球の世界では、とんでもない状況が次々と起こり始める。ある時から警察から連絡をもらった小尾は、そこでとあるプロ野球選手の死という衝撃的な事実を知る。さらに…。
というような話です。

なかなか面白い作品だったと思います。元相撲部員が野球をやる、という設定で物語が成立する気がしなかったんだけど、これがなんとかなります。もちろん、野球経験者が本書を読んだ場合どんな感想になるかは分かりません。ただ、特に野球に興味はなく、一応ルールぐらいは分かる、みたいな人間からすれば、面白い設定と展開だな、と感じられました。

彼らが、まるでダメダメだった状態からどんな風に試合が成り立つように、あまつさえ勝てるようになっていくのか、という流れはなかなか面白い。元相撲部、という設定をうまく活かしたやり方で、彼らは勝ち進んでいく。本当にこんなやり方で勝てるのかどうか、素人の僕にはよくわからないけど、勝てたら面白いなぁ、という感じはします。

9人いる元相撲部の面々を全員うまく描けているかと言われればちょっとそこは苦しいところで、メインの具志堅と二階堂以外は、特段エピソードが盛り込まれるわけでもなく、印象は薄いような気がしました。ミステリ的な部分を削って、元相撲部の面々を魅力的に描いて、ミステリじゃない感じの作品にしてもよかったかな、と思いました。

ミステリ的な部分は、別に悪くはないんだけど、なんかちょっと消化不良な感じがしてしまいました。別にあってもなくてもどっちでもいいような、そういう印象です。主人公の小尾が、事件の方に積極的に関わるわけではなく、基本的に警察の捜査の報告を聞いている、というスタンスで物語が進んでいくので、物語全体に対するウェイトが低い風に感じてしまいました。確かに最後まで読めば、一連の事件と、小尾の来歴、そして元相撲部の面々の物語が上手く交錯していく流れになっていくんだけど、物語の途中の展開で、事件部分があまり魅力的に思えなかったのが残念だったかなと思います。さっきも書きましたけど、事件の部分をばっさり削って、元相撲部のキャラクターやエピソードを前面に出す、スポーツ青春小説みたいな作品に仕上げた方が面白かったような気もします。

相撲しかやってこなかった面々が、いかに野球部員として覚醒していくか。設定の妙をうまく活かして面白い野球小説を生み出したなと思いました。

横関大「マシュマロ・ナイン」

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僕は昔から、家族というものへの幻想は、特になかった。

昔から、家族というものが苦手だった。そこまで言語化できていたかは分からないけど、血が繋がっているというだけで価値観のまるで違う人が一緒に暮らしているのって変だな、と思っていたと思う。今でも僕は、家族というものに対して、そういう感覚しか持てない。血が繋がってるからって、それがどうした?と。

血が繋がっていようがいまいが、価値観が合うなら一緒にいればいいし、価値観が合わないなら離れればいい。僕はそれが自然だと思うのだけど、しかし「家族」という括りは、どうもそれを許さない。血が繋がっている、という点が何よりも大事であって、それがどれほど自分と合わない人間であっても、関係を切ることは基本的には許されていない。

おかしいなぁ、と思う。

こういうことに特に疑問を抱かない人、あるいは、積極的に家族って素敵だよねっていう価値観を受け入れている人。そういう人を、僕は、ちょっと怖いな、と感じてしまう。

あなたは、たまたまラッキーな環境にいるだけなんですよ、と思ってしまう。

家族というのは良いものだ、という考えは、ある意味で国家の基盤を成す。結婚し子どもを生む、というサイクルを連綿と続けてくれないと、人は後世に繋がっていかないし、それは国家の衰退をも意味する。だから国家は、家族というのは良いものだ、というプロパガンダを提供しようとするし、長い間そういう価値観の中で育ってきた人は、それに疑問を抱かないまま、家族って良いよねという価値観を継承していくことになる。

でも、家族が最悪を引き連れることだって、頻繁にある。

家族が事故を起こすかもしれない。引きこもって部屋から出なくなるかもしれない。誰かを殴るかもしれない。何かを盗むかもしれない。テロを起こすかもしれない。子どもを捨てるかもしれない。認知症になって重い介護の負担を強いるかもしれない。詐欺に騙されるかもしれない。

人を殺すかもしれない。

「家族という幻想」の中に生きている人は、そういうことは対岸の火事だと思うだろう。私のところは大丈夫だ、と。どこに根拠があると思えるのか僕には理解し難いのだけど、「家族という幻想」は、そういう最悪が我が家には起こらないのだという思い込みを作り出すことが出来る。

ニュースで流れる様々な悲惨なニュースは、どこか酷い家族で起こったこと。うちは大丈夫。だって、こんなに素敵な家族なんだから。

そういう環境の中で死ぬまで暮らすことが出来たとすれば、それはもうラッキーなのだ。あらゆるものに感謝した方がいい。

葛城家も、最初から最悪が約束されていたわけではない。美しい妻、若くして建てた家、二人の子ども、子どもの成長を託すようにして庭に植えたミカンの木。葛城家も、未来永劫の幸せな未来を夢見ることが出来る、そういう家族だった時期があった。

しかし葛城家は崩壊した。
そしてこの崩壊は、どんな家族にだって起こりうる。
そう思えない人がいたら、それは、想像力の欠如した人間なのだと僕は思う。

家族が幸せを運ぶか不幸をもたらすか。それはもう運でしかない。
僕は昔からそう思っているし、これからもそう思うだろう。
だから僕は、家族が欲しいとは思えない。

葛城清は、左足を庇うようにして杖をつきながら、家の外壁に白いペンキを塗る。「死ね」だの「出て行け」だの書かれた文字を消すために。庭付きの一軒家に、清は一人で住んでいる。妻も、息子二人も、もう戻ってくることはないだろう。
そんな葛城家に出入りする人間は、もはや一人。星野順子と名乗る女性だ。この女性は、私は人間に絶望したくない、死刑制度は絶望の証だと言って、とある死刑囚と獄中結婚し、彼の心を開こうとしている。
葛城稔。葛城清の次男。彼は駅構内でナイフを振り回し、多数の死傷者を出す無差別殺人を引き起こす。死刑の判決が下ると笑みを浮かべ、順子に対して、わがままな理屈を振りかざす。
稔が事件を犯す前から、葛城家は崩壊の予感で満ちていた。
清は、何事に対しても自分の正しさを主張し曲げない男だ。清が思う正しさが良い方向に働く時はよいのだが、常にそうとは限らない。清が思う正しさは、時として、いや頻繁に、妻・伸子や稔を追い詰める。
長男の保は、学業は優秀だったが、営業マンとしてはパッとしない。本人としてはそれなりにやっていたつもりだったが、クビを宣告されてしまう。
妻と子どもがいながら、保は、リストラされた事実を言えないまま日々を過ごす。
稔は、働きもせず、コンビニと家を往復するような生活を続けている。仕事も長続きせず、一発逆転を狙っていると言ってはばからないが、しかしだからと言って何をするわけでもない。そんな稔を、清は容赦なく扱う。しかし伸子は、そんな稔の味方になってあげたいと思っている。
伸子は、高圧的な夫・清の元で長年暮らしたせいか、自分で何かを考える力を失ってしまっているように見える。夫に従順で、何をするわけでもなく無気力。稔の盾になろうという意志は常にあるが、清の力にいつも屈してしまう。
あちこちに火種を抱えたまま、騙し騙し家族の形を維持し続けてきた葛城家だったが、崩壊の足音はどんどんと大きくなっていく。伸子と稔が、保が、そして稔が…。
「俺が何をした!」
清は、家族が崩壊したという現実を認めないかのように一人で一軒家に住み続け、自分も被害者なのだと声を荒げる。
というような話です。

一切の救いなく、家族という地獄を描き出していく。また繰り返すが、これが「特殊な家族」に見えるのだとすれば、想像力が欠如していると僕は感じる。確かに、清の存在は葛城家崩壊に大きく寄与している。清の性格がもう少し違ったものだったら、葛城家はあんな風に崩壊しなかったかもしれない、とも思う。我が家に清のような人はいないから大丈夫だ、と思う人もいるかもしれない。

しかしそうではないと僕は思うのだ。

清のあのあり方は、自分や家族の幸せを願った部分から来ている。もちろん、その発露の仕方には大いに問題はある。しかし、清の言動が、理想を求める気持ちから生み出されていることは否定出来ないと僕は思う。

そして、自分や家族の幸せを望む人は、どの家族にもいることだろう。

鶏と卵の話に近くて、例えば清がああだったから稔がああなったのか、あるいは稔がああだったから清がああなったのか。それは、誰にも断言できないはずだ。というか、葛城家の人全員が葛城家崩壊に関係している。誰が歯車を狂わせたかではなく、全員で歯車を狂わせたのだ。そしてそれはある意味で、避けられない不幸だったのだと僕は思う。

葛城家の面々がモンスターに見えるとすれば、誰の内側にもモンスターはいる。たまたまそれが表に現れでない環境にいられているだけで、環境次第ではあなたのモンスターも表に出てくる。別にそれは、稔のように無差別殺人を引き起こすモンスターだけではない。思考停止するモンスターもいれば、死の誘惑から逃れられなくなるモンスターもいる。

この物語は、決して他人事ではない。

全編を通じて非常に惹きつけられる物語だったが、その中でも特に印象的だったシーンが三つある。

一つは、稔がこんな風に言う場面だ。

『まだ生きなきゃなんないのかよ』

この感覚は、昔の僕も持っていた。今でも、ふとした瞬間にそう思うことはある。

生きていることは、とてもしんどい。そんな風に思ったことがない、という人は、幸せな人だ。僕は人生を、長い長い暇つぶしだと捉えていて、なんで毎日こんな暇つぶしをしないといけないのかなぁ、と思うことがある。めんどくさいなぁとか、やってらんねぇなぁとか、昔はよく思っていた。

稔は、合法的に死ぬために無差別殺人を引き起こす。この理屈を否定し、稔の行動を抑止することはほぼ不可能だと僕は感じる。死にたいなら自殺すればいいと思う人もいるだろう。僕も確かにそう思う。しかし稔には、自殺だけは出来なかった。自殺が出来ない理由が生まれてしまった。そもそも稔の中では、自殺は“負け”なのだろう。稔にとって、“勝って死を選びとる”手段は、死刑になることしかなかったのだ。

もちろん、死刑になるために人を殺す、という行動は異常だと思うし、理解できるわけではない。しかし、死刑になりたいと思っている人間が人を殺すことを、僕らの社会は防ぐことは出来ない。僕は、死刑制度に対して強い意見は持たない。賛成反対、どちらの言い分もまあそうだよな、と思ってしまう。しかし、ことこの点、つまり「死刑制度が存在するせいで、死刑になりたい人間が殺人を犯す可能性が存在する」という点においては、死刑制度はなくなった方がいいと感じる。

稔の、「まだ生きなきゃなんないのかよ」を掬い取る余地が、今の社会にはたぶんない。稔のその感覚が、僕には理解できてしまうために、稔のことを他人事だとは思えないのだ。僕だって、人生のどこかでもう少し何かがあれば、稔のようになっていたかもしれない。

二つ目は、妻・伸子のカナブンの話だ。これは、状況を詳しく説明するわけにはいかないので伏せるが、伸子がある場面で、ひたすらカナブンの話をし続ける。

これは物凄く怖かった。伸子は、どこかの段階で確実に壊れていた。葛城家では、伸子が作ったと思しき料理は一度も登場しなかった。出前やコンビニ弁当ばかり食べている。伸子は専業主婦だ。家族の中で何らかの取り決めがあるのかもしれないが、専業主婦であるのに料理をしないのは、そこに何らかの想像を組み込みたくなる。

そういう意味で、カナブンの話をするずっと以前から、伸子は壊れ始めていたのだろうとは思う。しかし、観客には、その崩壊は明確な形では見えていなかったと思う。一度、伸子が保にカップラーメンを勧める場面があるが、崩壊の予兆が見えた場面と言えばそのぐらいだろう。

だから、カナブンの話をし続ける伸子の恐ろしさが際立った。清は、自分の正しさを自覚しながら、周囲を翻弄する男だ。それはそれで恐ろしいが、しかし伸子の、ずっと壊れていたのかもしれないと思わせる言動も、一方でとても恐ろしかった。

最後は、とあるスナックでの清の言動だ。隣のテーブルに座っていた老人三人が清に対して、「どの面下げてここにいられるんだ」「早くこの町から出て行け」みたいなことを呟き喧嘩になる。

そこで清が打った高圧的な演説は、とても印象深い。自らもまた被害者であると語り、稔の血や肉や内臓を病気の人に提供する、脳を研究に使ってもらう、そういうことで貢献するからそんなところでご容赦願えないだろうか、というようなことを、とても高圧的に滔々とまくしたてるのだ。

色んな見方はあるだろうが、清の意見にも一理あると僕は感じる。
「稔を裁けるのは国だけだ。国だけが稔を殺せる。そしてそんな制度を容認しているお前たちが稔を殺すんだ」
僕は常々、犯罪者の家族にどこまで責任があるのかということを、報道を見ながら考えてしまう。正直、清には、上記のようなセリフを吐く資格はないと思う。どちらの変調が先立ったのかはともかく、結果的に稔を追い詰めたのは清だ。清が、何の関係もない被害者意識でいるのは、ちょっと納得はいかない。

しかし世の中のすべての加害者家族がそうなわけではないだろう。加害者の家族だ、というだけの理由で足蹴にされる謂れはまったくないと僕は感じる。そういう意味で、清が打つ演説の中身には賛同できなくもない。

この映画の中で、最も違和感をもたらすのが、星野順子だろう。正直彼女の存在は、理解不能と言っていい。

星野は稔と獄中結婚する。それは、獄中にいる稔と面会できる権利を獲得するだけの便宜的なものである、という側面と同時に、星野はどうも心から稔と家族になろうとしていると感じられる。

星野は、稔と結婚するという行動のせいで、本来の家族を失ったという。星野は、そうまでして稔と獄中結婚をする。

面会に足繁く通う星野だが、稔とはまともな会話が成立しない。しかしそれでも星野は、稔を愛すると言い、稔と本当の家族になりたいと語る。

星野の言動がすべて言葉通りであると捉えると、星野という女性がまるで理解できなくなる。確かに彼女は死刑に反対する立場の人間ではあるが、だからと言って稔と獄中結婚して話を聞くぐらいでどうこう出来るわけがないと、普通は思うだろう。星野が本気でそう思っているのだとすれば、星野はある意味で頭がイカれているのだと思う。

そして星野の言動に何か裏があるのだと考えても、まったく分からない。星野にはそうするメリットは一つもないように思えるのだ。自己満足のためだと考えても、失ったものとの釣り合いが取れなさすぎる。

だから僕には、星野という存在がまったく理解不能に映る。

あらゆる家族の形を重ねあわせて、家族という地獄を描き出した映画は、ラストで衝撃の展開を見せる。最後の最後、清が星野に発した言葉は、家族と幸せを追い求めた一人の真っ当な男の悲哀の発露と言えるだろう。自分がちゃんとは手にすることが出来なかったものを、もう一度手にするチャンスが欲しい。その一心が彼に、あの言葉を吐かせたのだろう。だからといって、清の発言が許されるものだとはまったく思わないが。

最後の最後までざわつかせる映画だった。

「葛城事件」を観に行ってきました

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