黒夜行 2009年11月 (original) (raw)

まずはこちら。

http://mainichi.jp/enta/mantan/news/20091127mog00m200013000c.html?link_id=REH03

漫画「ワンピース」の初回の刷り部数が過去最高となり、日本記録を更新したという記事。初回の刷り部数が285万部って、ちょっと尋常じゃないですよね。
本って、10万部売れればベストセラーだって言われるんです。コミックの場合もうちょっと違ったりするのかもしれないけど、それにしても何十万部っていう単位だろうなと思います。
今年ベストセラーになった、村上春樹の「1Q84」も、発売前に何度も重版したという話題が出ていたけど、それでも確か発売前に刷ってた部数って50万部とかそういうレベルだと思います。昔郷ひろみ(だっけかな、確か)が、離婚その話を書いた「ダディ」って本を出した時、発売元の幻冬舎が初回100万部(だったか50万部だったか)とかっていう数字で、業界としてはありえないような刷り部数だったと言って話題になったけど、本というのはそういうレベルですね。コミックについてはよく知らないけど、そこまで大差ないはずです。
それが、「ワンピース」の最新刊は初回の刷り部数が285万部ですからね。しかもそれが全部売れるんでしょうからちょっとありえないです。「ワンピース」が終わったら、出版社もかなり痛いでしょう。っていうか、やっぱり辞めさせないのかなぁ。そういう意味では、マンガっていう表現はいろいろしがらみがあって大変ですよね。
もう一つはこちら。

http://www.shinbunka.co.jp/news2009/11/091127-01.htm

紀伊国屋書店が減収増益っていうニュースなんだけど、これ経済についてイマイチよくわからない僕には謎めいた数字なんです。
だって、売上高は前年比4.4%減なのに、営業利益は前年比86.6%増なんです。経常利益も22.4%増、純利益も10.6%増らしいんです。
営業利益とか経常利益とか純利益とかの違いはよくわからないけど、でも売上高が4.4%の減でも、経常利益22.4%、純利益10.6%増というのはまだわからなくもない数字なんです。それぐらいの増であればありえるのかな、と。でも、売上高が4.4%減なのに、営業利益は86.6%増っていうのがまあ理解できないですね。どういうことですか、これ?どうしたらこんなことになるんでしょうか?
まあそんなわけで、ちょっと不思議だなぁ、と思った決算の話。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、来年ちょっと頑張って売ってみようかなと思う本の一冊として、POPを作ることを前提にして読んだ本です。
本書は、主人公である津川麻子が、中学から高校・大学を経て就職し、大人になっていく過程を描いた作品です。
麻子は、小道具屋の長女として生まれた。一つ下の妹・七葉はは自由奔放で容姿も可愛い女の子。一番下の妹は、可愛がられて育てられているお豆さん。そんな中で麻子は、自分は七葉のようには生きられない、というほのかな劣等感を抱えながら、一方ではどんな友達とも共有することのできない時間を過ごすことの出来る大事な関係として、妹とうまいことやってきた。
そんな麻子は、周囲の価値観に混じれないと感じたり、自分には大事な何かが欠けていると感じたりしながら、一方でそれぞれの時代で恋をしていく。しかしそれは、麻子の中の欠落を徐々に浮かび上がらせていくような、二人でいるのにまるで一人きりのような、そんな寂しさを麻子の与えるものだった。新しく出会う人々や新しい環境に馴染めないで不安だったり、自分自身の生き方に疑問を持ったりと回り道を続けながら、麻子はこれまでの人生や家族や自分自身のあり方について、正しいと思える場所に辿りつくことが出来る…。
というような作品です。
すごくいい作品でした。でもこの作品の良さを伝えるのはかなり難しいなぁ。
『スコーレ』というのは、スクールの語源になった言葉なんだそうです。麻子は、中学・高校・大学・就職という四つの学校(解説の北上次郎は、家族・恋愛・仕事・結婚の四つだと書いている)と出会い、その中で悩み・悲しみ・喜び・何かを学びながら、少しずつ大人になっていくというストーリーです。
でも正直なところ、これっていうようなストーリーはないんですね。話の流れは実に素晴らしいんだけど、でもそこには言葉で説明できるようなくっきりとした輪郭を持つようなストーリーがないのだ。本当に、中学の頃の話、高校の頃の話、大学の頃の話、就職してからの話、としか表現できないような、表現しようとすればどうしても漠然としたものになってしまう、そんなストーリーなんです。
強いて言えば、麻子にとって重要な転機になった出来事を中心に彼女の日常が描かれる、というのがストーリーの骨子でしょうか。まあそれでも漠然としていますけどね。
僕が凄いなと思うのは、そんな漠然としたストーリーで読者を引っ張れるという点です。例えばミステリなんかだとこの謎がどう解かれるんだという興味で引っ張れるし、恋愛小説ならこの二人はどうなるんだという興味で引っ張れる。他の一般的な小説でも、何か核とか芯になるようなものがあって、それを中心にして物語を構成していくんだと思うんです。
でも本書の場合、そういう核になりそうなものが漠然としていて、それが何なのか掴みきれないまま読者は読み続けることになるんですね。普通ならそれだけだと読者の興味を引っ張るのは難しいはずなんだけど、著者はそれをやっているんですね。
たぶんそれは、文章のうまさにあるんだろうと思います。とにかく一つ一つの描写が丁寧で、お皿をピカピカに磨いていくような感じがします。風景の描写も、関係性の描き方も、主人公の内面描写も、どれも丁寧に磨き上げられた銀食器みたいな輝きを放っていて、たぶんそういう文章の美しさみたいなものが読者を惹きつけて最後まで読ませる力になっているんだと思います。デビューしてまだ5年ほどの作家ですけど(新人だと言っていいでしょう)、そんな新人の作品とはとても思えないような綺麗な文章で、それがまず凄いなと思いました。
解説でも書いているけど、本書は文庫本で300ページ足らずの作品なのに、中学から社会人になるまでの長い期間を描いている作品です。そうなると、普通の作家だと駆け足で進んでしまうような小説になりがちです。でも本書は、どちらかというとものすごくゆっくりと流れていきます。描写が丁寧だということが大きいでしょうけど、しかしどうしてこれだけゆったりとしている作品なのに、これだけのページ数でこれだけ長い時間を描くことが出来るのかが不思議なんですね。たぶん、無駄を徹底的に削って、濃密な文章に仕上げているんだと思います。
文章がうまいと言っても、難しい言葉を使ったりするわけではありません。実に平易な言葉を組み合わせて深い表現を生み出しているという感じがします。赤・黄・青の三色だけですべてのいろを生み出す画家、みたいなイメージですね。これだけ単純な言葉の組み合わせで、これだけ深い表現が出来るものなのかと感心しました。
出てくる人々も実に面白いです。麻子の家族はみんな結構おかしいし(特に祖母のキャラクターはなかなかいいです。近くにあんな人がいたら僕は嫌だけど 笑)、学校や職場で出会う人々も、実際にいそうなんだけどどこかふわふわしているような、掴みどころのない感じのキャラクターだなと思いました。何となく、吉田篤弘の作品に出てくる登場人物みたいな雰囲気を感じたのは僕だけでしょうか。
あー、でもホント、こんなことをいくら書いても、どうしてもこの本の良さみたいなのを表現するのは難しいです。この本は、ストーリーとかキャラクターとか文章とか、そういう個々のパーツがどうとかっていうことではなくて、全体が醸し出す雰囲気みたいなものがものすごく強烈で、それに酔わされてしまう作品だと思うんです。例えば、あんまりいい例じゃないかもしれないけど、顔もそれほどでもなく、スタイルがいいというわけでもファッションセンスが素晴らしいわけでも何か飛びぬけて人目を惹くような何かがあるわけでもないのに、それでも何だかオーラがあるというか独特の存在感を醸し出す女性っているような気がするんです。そういう女性の場合、ここのパーツだけとりあげてどこがいい、なんていうことはできないと思うんです。その女性の全体の雰囲気やバランスみたいなものが完璧で、個々のパーツの組み合わせ以上の何かが生み出されているような、そんな感じです。本書もそういう感じで、いくら作品をバラバラにしていくつかのパーツに分けて、それぞれについて語ってみても、どうしても本書の本質的な部分には辿りつけないという感じがします。分解してミクロな視点で見てしまっては消えてしまう何かが、この作品の核になっている、そんな気がします。
はっきりとしたストーリー性がないので、たぶん読む人によって本書に対して感じることというのはかなり変わってくるんじゃないかなと思います。本書の核が何なのか掴みきれないからこそ、自分が持っている何かでそれを補いながら作品を読んでいくことになるんじゃないかなと思います。そうなると、同じ本を読んでいても一人一人違った作品を読んでいるような、そんな感じになりそうな気もします。まあそんなわけで、これは素晴らしい作品だなと思いました。派手さはないし、特に仕掛けがあるわけでもない作品なんだけど、読み終わって、あぁなんだかよかったな、いい本を読んだな、と思えるような作品だと思います。たぶん読み終わった後、この本誰かに勧めたいけど、どうやって勧めたらいいかわかんねぇー、とか思うと思います。是非読んでみてください。

追記)
いろいろあって、現在mixiのコミュニティで宮下奈都や「スコーレNo.4」のコメントを集めています。
コミュニティ名は『宮下奈都「スコーレNo.4」』です。
mixiをやっている人は是非コメントしてみてください。

宮下奈都「スコーレNo.4」

僕のいる店はとある書店グループに所属しているですけど、そのグループでは今年ある文庫を山ほど売らないといけない、という目標があったわけなんです。とにかく前年比を超えるのは最低条件で、売れば売るほどいい、ということのようでした。
まあそんなわけで、その文庫レーベルの本が一年間山ほど送られることになったわけなんですけど、まあこれはホントに大変でした。
書店にいると、いろんなしがらみから、『売らないといけない本』っていうのが時々出てきます。出版社との関係やなんやかんやで、作品の内容如何に関わらず、とにかくたくさん売ることを求められるものです。まあ他の小売店でもあるでしょうか。新製品とかで販売のノルマがあるとか。僕のいるグループではノルマというほど厳しい何かを課せられるということはないですけど、まあ僕は与えられた目標はなんとかクリアしようと努力するようにしています。
しかしその売らないといけない文庫レーベルはキツかったんです。そもそも僕は、前年その文庫レーベルをかなり売ってるんですね。前年は、その出版社の文庫を結構売らないといけないということで、じゃあその出版社の中で売りやすそうだったんで、その文庫レーベルの文庫を結構売ってたんです。で、その状態で、今年その文庫レーベルの作品をたくさん売れということだったんで、まあ相当厳しかったですね。
それでも、グループの中でもトップの売上で終われそうです(ウチの店は、グループの中では割と上位の売上ですけど、でも1位になれるほどの規模ではない)。これについてはよく頑張ったものだなと自分を誉めてあげたい感じがします。
で、その文庫レーベルを売らないといけないのが、今月までなんですね。12月になったらもう売らなくていいんです。これまで、その文庫レーベルの本を売るために売場から外せずに苦労していたんですけど、これで心おきなく外せるんで嬉しいです。
売らないといけない本、というのが出来てしまうのはまあ仕方ないし、売れと言われれば売りますけど、でもやっぱり自分がいいと思った本を売りたいという気持ちが結構強いんでなかなか複雑なものです。まあこれからも、売らないといけない本はバリバリ売りますけどね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
平太は、一松組という中堅どころのゼネコンの社員だ。入社四年目ながら、現場の若い作業員たちをまとめあげる立場であり、デカイ建物を作れる自分の仕事に誇りを感じるし、やりがいも感じていた。
そんな矢先、直属の上司から唐突な話を聞かされる。業務部という本社の部署が、お前を指名で欲しがっている、というのだ。平太は首を捻った。本社に知ってる人間はいないし、現場でやっていきたい平太としては納得しかねる人事だ。しかし命令は命令。平太は業務部に配属されることになった。
業務部は言わば営業の最前線だ。平太はそれまで、自分たちがやっている仕事を誰が取ってきているのかなんてことまで考えたことがなかったが、業務部に配属され、工事の受注をするというのがいかに大変なことなのか知ることになる。建築業界は旧弊な業界で、業務部は『談合部』と呼ばれることもある。各ゼネコンは脱談合を掲げながらも、裏では談合を続けていた。平太もそんな談合部に配属されたのだ。
そのせいで恋人とぎくしゃくすることになった。恋人の萌は銀行に勤めているのだけど、平太が談合に関わる可能性があると聞かされると、犯罪だから止めてほしいと言われた。しかし平太としては、会社の命令には従わないわけにはいかない。社会経験を経て、学生の時とは変わってしまった二人は、お互いに真逆の仕事環境の中、徐々にすれ違っていくことになる。
そんな平太に、とんでもない役割が与えられることになる。地下鉄工事に絡み、『天皇』と呼ばれる関東の公共事業の談合を取り仕切るフィクサーが出てくるだろうと読んだ一松組は、なんとそのフィクサー担当に平太をあてがったのだ。何でも平太とそのフィクサーは同郷らしく、そういう事情から平太が業務部に呼ばれたのではないかと憶測させられた。
生臭い談合という現場に放り込まれた平太は、正しいことが何なのかを考え続けながら、それでも会社の方針に従い続けることになるのだが…。
というような作品です。
実に面白い作品でした。池井戸潤はどんどん作家として伸びて行っている感じがします。やっぱり僕の中で池井戸潤の最高傑作は「空飛ぶタイヤ」なんですけど、本書もその次ぐらいにくるような素晴らしい作品でした。
まず『談合』というものがテーマというのが面白いですね。ニュースとかで時々談合で捕まったりしていますけど、正直その背景みたいなものってよく分からないと思います。もちろん僕もそうで、あらかじめ値段を決めておくんだろう、ぐらいのことしか知りませんでした。そういう、ニュースとかではよく見るけど実際よく知らない『談合』というものを扱っているというのがまず面白いですね。経済小説をあんまり読まないからかもしれないけど、『談合』がメインテーマという作品はそう多くないだろうし、それだけでも読んでみる価値はあるなぁと思います。
それに、まあこれは小説では常套手段ですけど、業務部についてほとんど知識のない現場上がりの男を主人公に据えることで、談合というものにまったく知識のない読者でも十分楽しめるような構成になっているのがうまいです。実際、現場から突然本社勤務に引っ張られるようなことがあるのかどうか僕は知りませんが、この設定はうまいと思いました。結局平太は、業務部の仕事についてはほとんど分からないまま、しかし役割だけはとんでもなく重要なものを背負うという、ストーリーを展開させる上で実に都合のいい役回りを演じることになります。
また、恋人の萌の存在もよかったなと思います。正直、恋愛に関する部分についての描写はさほどうまいとは思えなかったけど、でも平太の仕事について対称的な考え方を持っている萌という存在を出すことで、談合というものについて読者が両面から見れるようになるんです。本書では、談合は甘えだからなくさなくてはいけないという意見と、談合は必要悪としてなくてはならないんだという意見の二つが、様々な場面で繰り返し語られることになります。平太の考え方もその中でかなり揺れていて、初めは必要悪だと思っていたけど、最後の方では談合はいけないという考えになっていくんです。僕は本書を読み終えた今でも、談合がいいのかどうか正直良く分かりません。もちろん、法律でダメだということになっているんだからダメはダメなんですけど、そうではなくて、本当に必要悪としての存在価値がないのかどうかということですね。常に談合が必要なのかと言われればノーですけど、談合がどうしても必要になるケースがあるのではないかと聞かれれば答えに窮すると思います。談合という名前は知っているけど馴染みのない犯罪について、一面的な見方で終わらせないという辺りがいいなと思いました。
談合に関わるメインのストーリー以外にも、平太の母親が大変だったり、萌がフラフラしたり、あるいは警察の動きが描かれたりといろんな話が描かれます。そのために結構視点の移動が激しいところもあったけど、そんなに気にならなかったなぁ。書き方がうまいんだろうなと思います。
キャラクターでは、平太の直属の上司に当たる西田という男がよかったです。グータラ社員に初めは見えたけど実は熱い男である、という辺りがかっこよかったです。逆に、萌の銀行の上司みたいな感じの園田っていう男は嫌いでしたねぇ。あぁいう男は嫌いだなぁ。
かなり長い作品なんですけど、文章が読みやすくてホントにすいすい読めました。最後の最後まで息をつかせない展開で、実に面白い作品です。僕はそこまで経済小説が得意というわけではないんですけど、池井戸潤の経済小説はかなりエンターテインメント寄りに作られているんで、経済小説にあんまり馴染みがない人でも十分楽しめると思います。是非読んでみてください。僕は今年はこれを本屋大賞の1位に推そうかなぁと思っているんですけどね。正直、この作家に本屋大賞をあげなくてもいいだろ、という作家を除くと、今年本屋大賞に推せそうな作品がほとんどないんですよね。難しいものです。

池井戸潤「鉄の骨」

昨日とある営業さんが来てくれました。今僕は「優しい子よ」という本を頑張って売ろうと思っているんですけど、その売上報告みたいなメールを前日に送ったら来てくれたわけです。
そこでいろいろ話をしている時に、僕が『なるべく他の本屋で売ってない本を売ろうと頑張ってるんですよ』というと、営業さんもこんなことを言っていました。
『書店に行っても割とどこも似たような本ばっかり置いていて、一日一冊ぐらいのペースで読むんだけど、どうも読みたい本が見つからない』と。
まあそうだろうなぁと思います。
僕も本当によく思うんですけど、いろんな書店に行っても、平積みされている本がありきたりだなぁと思うことがかなりります。
僕の中で『ありきたりだ』と感じるのはこういう本です。
1、その月の新刊
2、ちょっと前の新刊で売れてるから残してるんだろうなというもの
3、出版社が組んだフェア
4、人気作家の既刊
大抵どこの書店に行っても、割とこういうラインナップばっかりなんです。
でも、上記の1~4って、かなり他の書店と品揃えが被るわけです。
その月の新刊はどの店にだってあるし、ちょっと前の新刊だって売れ続けているものは限られているだろうから同じような感じになります。出版社が組んだフェアは、入れていないところもあるだろうけど、入れている店が近くにあればラインナップは同じだし、人気作家の既刊も、宮部みゆきとか東野圭吾とか伊坂幸太郎とかベタな部分はかなり被ってくるものだと思います。
なので、1~4の品揃えでやっている書店は、どこもかなり似てきてしまうと思っています。
僕は、人気作家の既刊はあんまり置きませんが、1~3についてはきっちりとやっています。が、それ以上に僕が頑張っているのは、いかにして世間的に売れていない良い本を見つけてきて売るか、ということなんですね。
新刊は、売れるものはほっといても売れるし、売れないものは何したって売れないんでそんなに力は入れなくていいし、世間的に話題になっている本だって、ほっとけば勝手に売れていくんで別に力を入れる必要はありません。でも、世間的に売れていない誰も注目していないような作品を売るには、結構頑張らないといけないんです。だったら、出来る限りそこに時間を費やすというのがいいんじゃないかなぁと思っているわけなんです。
なので営業さんとかから、ちょっと試したい本があるんだけど、みたいなことを言われると、すぐに飛びつきますね。つまり、世間的にはまだ売れていないけど出版社的に押してもいいかなって思っている本なわけで、そういうのはまっさきに名乗りを挙げます。自分が読んで面白かった本とか、スタッフの誰かが読んで面白かった本とかも、売れるかどうか、そしてどこに置くのかみたいなことを考える前にまず発注してとにかく売場に置く。売れなかったらPOPを作る。それでも売れなかったら場所を変えたり他にもいろいろやってみる。そうやって、いかにして他の本屋が売っていない本を売るかということにかなり力を入れているわけです。
昨日営業さんはさっきの言葉に続けて、『だからこの店が近くにあったら嬉しい。かなりお客さんがついてるんじゃないですか?』と言ってもらえました。まあ営業さんの言葉なんで話半分に聞かなくてはいけないとは言え、嬉しかったですね。
今も徐々に、来年何を売ろうかということを考え始めています。多面展開をやらないんで、ウチの店発のベストセラーを作るというのはなかなか難しいわけなんですけど、何か一つくらいとんでもない大当たりを生み出してみたいものだなと思います。まあ今年売りまくった「凍りのくじら」なんかは相当大当たりだと思いますけどね。毎月コンスタントに最低40冊売れる本(しかも多面展開していない)なんて、ウチの店の規模にしてはかなり凄いんです。今年中に累計500冊というのが目標だけど、最終的には1000冊以上売ってみたいですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、人気のアニメである「東のエデン」を、そのアニメの原作・脚本・演出を務めた人みずからがノベライズした作品です。
森美咲(苗字は「森」ではなく「森美」)は、卒業旅行で行ったアメリカで、滝沢朗という男と出会う。滝沢はホワイトハウス前で全裸になっていて、警察に捕まりそうになっていた。しかも話を聞くに、どうも記憶を失っているとか。とにかく謎めいた人物だけど、何だか見捨ててもおけず、一緒に帰国しようという滝沢の勢いに押されて咲は日本に戻ってくる。
日本は『憂鬱な月曜日』と呼ばれるミサイル攻撃を受けたばかりで、地面に大きな穴が開いているような状態だった。しかも滝沢はそのことも覚えていないらしい。一体この人は何者なんだろう。
滝沢は、自分が何者なのかさっぱり分からないままだったが、何かよからぬことをしていたような雰囲気を感じるのだ。ワシントンの自分の部屋には銃器が山ほどあり、収容所かと見間違うほどの裸の男たちの前で写真を撮ったりしている。しかも謎の携帯。その携帯からジュイスという奴にいろいろ頼めば、何だってやってくれるのだ。
しばらくして、なんとなく状況が掴めてくる。滝沢は意味不明なゲームに無理矢理参加させられたらしい。ジュイスを通じて100億円のお金を自由に使うことが出来る。その携帯を与えられたセレソンと呼ばれる人間は計12人。彼らはその100億円を使って日本を立て直すことを求められている。12人のウチ最も早く日本を立て直すことが出来た一人のみがゲームを上がることが出来、残りの人間には死が訪れる。そういうルールらしい。
記憶のない神山は、咲7の助けを借りたりしながら、よくわからないゲームにケリをつけようと動きまわるのだけど…。
というような感じです。
本書は、ストーリーはまあ面白いだろうなと思うんですけど、小説としての体裁が整っていないなと感じさせる作品でした。
ストーリーはまあなかなかいいんじゃないかなと思います。100億円を自由に使えて、しかもジュイスって奴がなんでも叶えてくれるという設定は無茶苦茶だけど、そこさえ受け入れば結構現実的な部分の多い話なんですね。僕は、元々アニメだったというイメージから、もっとSFとかファンタジーとかそういう感じの作品かと思っていたんですけど、思ってた以上に現実的な話だったんで意外でした。
登場人物たちのキャラクターも面白いし、滝沢たちがやらされているゲームについては結局詳しいことは分からないものの全体のストーリーは割と面白いんじゃないかなと思います。このシーンはアニメで見た方が面白いんだろうな、というところが結構あったんで、やっぱり映像向きの作品なんだろうとは思いますけど。
さて問題は、小説としての体裁が整っていないという点ですね。
僕はアニメを見ていないんではっきりしたことは分かりませんが、本書は、アニメの展開をそのまま文章に置き換えた、という感じなんです。だから、視点の変化が激しい。
アニメを含めた映像の場合、場面転換や視点の転換がいくら激しくてもそこまで違和感がありません。そもそも映像の場合、視点というのがはっきり定まっていないという感じもします。だから視点が切り替わっているという印象もそんなに強くないんだろうと思います。
けど、小説の場合、視点というのは結構重要ですね。小説でも視点がコロコロ変わる小説というのはありますけど、それでもある視点人物による描写はそれなりにまとまっています。でも本書の場合、2ページで視点が変わるとか、10行で視点が変わるみたいなことがあるんですね。たぶん、アニメの展開をそのまま文章に置き換えているからそうなるんだと思うんだけど、でもそれじゃあ小説としてはちょっと成り立たないと思うんです。
どうせアニメの脚本を担当した人がノベライズをするんだったら、大胆な再構築をすればよかったのにな、とか思います。視点人物を3人ぐらいに固定して、視点人物を固定することで描けない部分についてはばっさり切って、その代わりアニメ版とは違う新しい要素を付け加える。それぐらいやらないと小説としてはなかなか成立しないと思います。
まあそんなわけで、「東のエデン」という作品のストーリーが面白いということは分かりました。でもそれを小説で読む必要はちょっとないでしょうね。アニメを見ればいいかと思います。

神山健治「小説 東のエデン」

そろそろ、来年売る本を考え始めています。
最近の書店の風潮として、本が売り場に置かれる期間がもの凄く短い、ということがあります。1日200点新刊が出ると言われている中、限られた売場面積の中でそれらを捌いていくためには、どうしても回転が早くなってしまう、つまり置いた本をすぐに返品して別の本を置かなくてはいけなくなるようになります。
一か所にどわっと本を並べて売る多面展開というやり方も最近かなり行われていると思いますが、これも一か月もする別の本に変わっている、なんていうことがよくあるんだそうです。
僕はそんな流れに逆行するかのような売り場作りをしています。
とにかく、売れてさえいればいつまででも売場に置き続ける、というやり方です。
以前とある出版社の営業の方に、「凍りのくじら」という本を1年弱ずっと置き続けて450冊ぐらい売っているんですよ、と言ったら驚かれました。累計で売った冊数についてではなく、1年間もずっと同じ本を置き続けるなんていうのは最近の書店ではないんで、珍しいですね、と言って驚かれたわけです。
長いこと置いている本ではまだいろんなものがあって、「思考の整理学」はもう2年以上一度も売場から外していないし、「子どもの心のコーチング」も2年近く置き続けています。東野圭吾の「時生」という文庫も、「ガリレオ」ってドラマがやってた時期があるじゃないですか?あの頃から売場から一度も外していません。一番凄いのは森博嗣の「スカイクロラ」という作品でして、文庫が出たのが2004年の10月なんですけど、それ以来一度も売場から外したことがありません。もう5年以上置き続けているということになりますね。
そんなわけで、売ろうと思っている本、あるいは売れている本はいつまででも置き続けるというやり方をしていますけど、これがどう来年売る本と関わってくるのか。
多くの書店が割と同じことをやっているのではないかと思いますけど、年末にその年に売れた本のランキングを出すと思います。ウチの店もHP上でそのランキングを発表しています。で、僕はその年間ランキングの中に、他の店のランキングにはまず入らないだろうマニアックな作品を入れたいんですね。他の店が絶対に売っていないだろうっていう本をたくさん売ると
すごく達成感があるわけなんです。今年で言えば、文庫ならトップ30内に「凍りのくじら」「0歳からの子育ての技術」「時生」「NOTHING」辺りが入ってくるでしょうか。他にもあるかもしれませんけど。
で、年間ランキングに他の店が売っていないような本をランクインさせるには、年頭から売り始めるのがいいんですね。とにかく一年間の累計なわけで、売りたい本あるいは売れている本は置き続けるという僕のやり方では、年の始めから売り始めた方が累計の売上冊数が増えていくことになります。
そんなわけで今、来年売る本を考え始めているんです。いろんな出版社の注文書を見ながら、amazonの評価とかも見つつ何点か選び、それを全部自分で読んで、よければPOPを作ってもらって来年からバリバリ売る、という流れです。
そんなわけでかなり大量の文庫を買わないといけないんですけど、自分が普通に読む本が溜まりに溜まっているんで結構キツイですね。まあなんとか頑張りますけどね。さて、来年はどんな掘り出し物を発掘することが出来るでしょうかね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、毎日新聞に月に一回連載されていた「毎月新聞」というタイトルのミニ新聞を本にまとめたものです。「バザールでござーる」っていうフレーズや、だんご三兄弟の作詞や(でも僕は本書を読むまで、「だんご三兄弟」の作詞が佐藤氏だとは知らなかった)、「ピタゴラスイッチ」なんかでお馴染みの佐藤雅彦氏が、自分の身の回りで起こったちょっとおかしなこと、気になること、ささやかに訴えたいことなんかを、独自の切り口で紹介するようなコラムが書かれています。「ケロパキ」という名前のカエルが主人公の3コマ漫画(著者自身が描いている)とか、その月に起こったニュースが箇条書きで書かれていたりといろいろ盛り込まれている作品です。
これはなかなか面白い作品でした。書かれている内容が大したことではないんだけど、でも僕らにも身近に感じられることで分かりやすい。それでいて、同じものを見ていても普通の人とは違った視点から物事を見ているので、凄く新鮮な気分になれます。
とまあ漠然としたことを書いてもなかなか伝わらないと思うんで、いろいろ具体的に抜き出してみようと思います。
本書の表紙にもなっている、「じゃないですか禁止令」というのは、現代の僕らにはもう割と聞きなれてしまった表現ですけど、これが書かれた1998年だったらなかなか衝撃的だったかもしれません。「私って、○○じゃないですか?」という形で使われるこの言葉は、自分の欲求を一般化してぼかしているズルイ表現で、これが広まると怖いなと著者は感じていたのだけど、実際に広まってしまった。アナウンサーまで同じような言葉を使っているのを聞いて残念に思う、という話。
「だんご三兄弟」の大ブームを受けて、ブームになったら危険という話を書いている。ブームになってしまうと、中身に関係なく、「手に入るかどうか」だけが価値基準になってしまうため、手に入れてしまえば愛着も興味も薄れてしまう、という話。これは書店でも当てはまるなと思いました。ブームになって一時売れた作品というのは、本当にその後まったく売れなくなります。しかも本の場合、これは僕の主観的な判断ですが、どう読んでも面白くないだろみたいな本がブームになったりするんで始末が悪いんですね。
友人のアートディレクターが家族と遊園地に行った時の話。写真を撮ってくれと言われてカメラを構えたが、その瞬間アートディレクターとしてのスイッチが入ってしまい、構図がよくない服装がよくないとあれこれいい、結局写真を一枚も撮らずに帰ってきたという話。これを著者は、人間はいとんなモードを持って生きている、という話に繋げるのだけど、僕はこれを読んで、そんな風にはなれないだろうなと思ったものでした。
でかける時に、靴を履き終わった後で忘れものに気づいた時どうするか、という話。これはとある企画会議中にいろんな人に意見を聞いたらしいんだけど、全員違う方法を採用しているらしい。すげーな。僕だったら、靴を脱いで取りにいきます。
著者はかつて慶応大学の教授だったわけですけど、そこで「垂直または水平な直線だけを使って何かを表現しなさい」という課題を出した。そこで学生が出してきた様々な表現にはユニークなものがあって、まずそれが紹介されます。
その後、「今度は、僕からは条件をつけません、個人個人で自分に対して何らかの条件を考えて、その上で表現してみてください」と言ったら、先ほど素晴らしい回答を出してきた学生がまったくどうしていいかわからず、結局課題を提出出来なかったとか。僕らはいろんな制約の中で生きているけど、制約があるからこそうまく行くという側面もあるのだな、という話。
かつて著者は、缶紅茶の商品開発を手がけたことがあるらしい。そこで、とにかく美しいパッケージを作り上げた。皆大絶賛だったのだが、いざ売りだしてみると消費者がストレスを感じているということが分かった。なんと缶のデザインが美しすぎて捨てられないというのだ。著者はすぐさまデザインの変更を申し出たとか。
事務所のスタッフの女性に、三角形の内角の和が180度であるという証明を数学っぽくやってみせたところまるで無関心。しかし、著者がやったとある強引な方法を見せると、「ほんとだ!平らになってる!180度!」と興味を示したとか。同じく数学の話で、実際に円周率を割りだしてみる、という話も出てきますけど、これは面白いなと思いました。
本書には、本文とは別に「ミニ余禄」として、一言メモみたいなコーナーがある。そこで書かれていたことが面白かったんで抜き出してみます。
『事務所の近くに築地市場がある。入口脇の掲示板に「本日の拾得物・ぶり1本、カツオ3本」と、さすが築地、落し物も威勢がいい。』
そんな感じの作品です。なかなか面白いと思います。そういう習慣がある人は、トイレとかに置いておいて、毎回ひとつずつ読むとかでも面白いかもしれません。結構厚そうな本ですけど、たぶん普通の本よりスムーズに読めるんじゃないでしょうか。字もかなり大きいですしね。なかなかオススメです。ぜひ読んでみてください。

佐藤雅彦「毎月新聞」

さて今日は図書カードの話を書こうと思います。一応元ネタはこちら。

http://blogs.yahoo.co.jp/wjjxy154/57063158.html/

現在は図書券は販売していないので(ただ書店では使えます)、話は図書カードに限定して書きます。
図書カードっていうのは、正直よくわからない存在ですね。書店的には、あれを売って利益になるのか?図書カードを使って本を売った場合はどういう風になるのか?とか、結構いろいろと知らなかったりします。僕も、昨日上記に挙げたサイトを見るまで、図書カードについては詳しいことは知りませんでした。
図書カードというのは、額面の95%で仕入れるんだそうです。つまり1000円の図書カードの場合、仕入れ値は950円。
だったら書店的には5&、つまり50円の利益があるということになります。なるほど、図書カードを売っても利益になるのね、と思いました。
しかし実際はそううまくはいかないようなんですね。この辺がややこしい。
なんとですね、お客さんが使った図書カード分を換金する際は、利用金額の95%しか支払われないんだそうです。つまり、お客さんが1000円の図書カードで買い物をした場合、その1000円の図書カードは日本図書普及というところで換金する際は950円にしかならないということなんですね。
以下で場合分けをして整理してみましょう。

①お客様XがA店で図書カードを買い、その図書カードをA店以外の店で使う場合(人にプレゼントする、みたいなケースですね)
この場合、書店は950円え仕入れた図書カードを1000円で販売出来るので50円の儲けになります。

②お客様XがA店で図書カードを買い、お客様Xはその図書カードをA店で使う場合(自分用の図書カードを買う場合です)
この場合、まずA店はXさんに950円で仕入れた図書カードを1000円で売るので50円の利益が出ます。しかしその後XさんがA店でその1000円分の図書カードを使うとすると、その図書カードは950円分にしか換金が出来ないので50円のマイナスになります。よってプラスマイナスゼロ。

③お客様XがA店以外で買った図書カードを持ってA店で買い物をする場合(誰かに図書カードをもらったみたいな場合です)
この場合、Xさんが1000円分の図書カードをA店で使うけど、その図書カードは950円にしか換金してもらえないので50円のマイナスとなります。

へぇー、って感じでしたね。全然知りませんでした。特に、お客さんが使った図書カードを換金する際95%にしかならないというのがビックリですね。そんな謎めいた仕組みがあるなんて知りませんでした。なかなか面白いですね。しかし、場合によっては図書カードを使った買い物の場合マイナスになる、というのは意外でしたね。まあそれでも、図書カードの金額以上に買い物をしてくれるケースの方が多いから、結果的に書店的にはプラスになるんですけどね。だから全然問題ないんですけど。
でも、例えば記念図書カードみたいなのってどうなるんだろうな?よく会社の創業何周年とか、学校の卒業記念みたいなので図書カードがあったりするじゃないですか?ああいうのは書店で買うわけじゃないからどこかに頼むんだろうけど、そういう場合卸値とかはどうなるんだろう?例えばそういう受注を引き受けている会社があるとしたら、その会社が5%得をして、最終的に図書カードを使う先である書店が5%損をする、というような感じだとちょっと悲しいですね。同じ図書カードでも、どこかの書店が5%得しているんだったらまだいいけど、書店でも何でもない会社が5%得してるんだったら、ちょっとあんまり嬉しくないなぁ。
まあそんなわけで、図書カードについての豆知識でした。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、とある事情からアメリカの女子刑務所に入ることになってしまった日本人女性の体験記です。
著者は、何となくニューヨークに住みたくなってアメリカに行った人。特別目的があるわけでもなく、ただ何となく日本に帰りたくなくてニューヨークに残っている、というような感じ。今は遠距離恋愛だけど、ニューヨークで知り合った日本人男性と付き合っていて、日本に帰ったら結婚しよう、という話もしているのだ。
そんな時に出会ったのがアレックス。ニューヨークでは真面目そうに見える日本人女性は結構モテるようで、これまでもいろいろ声を掛けられていたんだけど、それでも誘いに乗ることはなかった。アレックスも金髪イケメンで別に初めは興味があるわけでもなかったんだけど、次第に惹かれていってしまった。
しかしある時、何気なくアレックスの仕事を聞いてびっくりした。なんとアレックスはロシア・マフィアであり、ニューヨークでもトップクラスの麻薬の密売人だというのだ。
しかしそれでもアレックスを愛する気持ちは変わらない。彼氏にも別れて欲しいという話をした。それぐらいアレックスに惹かれてしまっていた。
しかしある日、その時がやってきてしまった。何日もアレックスから連絡が来ない時が続いたその日、部屋にFBIがやってきたのだ。アレックスが捕まったのだ、そう覚悟した著者は、家宅捜索ぐらいされるのだろうと考えていた。しかし実際はもっととんでもないことが起こったのだ。
著者は逮捕されてしまったのだ。
何でもアレックスの共犯だとみなされてしまっているらしい。著者のクレジットカードで麻薬の取引がされていることもあるし、中身が何か知らなかったにせよ一度アレックスの荷物を送るのを手伝ったことがある。それで共犯だということになってしまった。
著者は麻薬の取引になんかまったく関わっていない。しかしアレックスがマフィアであることを知った上で付き合っていたのも事実だし、それを否定したくもない。だから仕方ない。諦めて刑務所に入ろう。
そんな風に考えて、著者はFCIと呼ばれる組織犯罪者が多く収容されている女子刑務所に入ることになってしまったのだ。
そこはまさにもう一つのアメリカだった。様々な人種、そして様々な犯歴の人が集い、一つの社会が形成されている。トラブルは絶えないし、理不尽なことも多いし、我慢しなくてはいけないことも多いのだけど、一方で楽しいと思えることも結構あった。犯罪者とは思えないほど親切な人がたくさんいるし、著者と同じく罪もないのに収容されているような人も結構いた。刑務所という閉ざされた空間の中でいかにして楽しく生きていくのか。FCIというのはそういう場所だった。
そんな著者の、結構ポップで明るい獄中記です。
なかなか面白い作品でした。世の中には結構いろんなタイプの獄中記があって、僕も何冊かだけど読んだことがあるけど、ここまで明るい感じの獄中記はなかなか珍しいかなと思います。それに、アメリカの刑務所に日本人が入る、その獄中記となると相当珍しいでしょう。
驚くのは、アメリカの刑務所の緩さですね。これは日本の刑務所のことを知っている人間からすれば考えられないです。昔、全米一の料理人がかつて悪かった頃に刑務所に入っていた、みたいな感じのノンフィクションを読んだことがあるんだけど、そこで描かれる刑務所の姿も日本の刑務所のあり方とはまったく違います。
日本の場合、とにかくすべてが規律によって支配されています。ほんの僅かでも規律を破れば何かしらの罰則がある。歩き方やご飯の食べ方にまで規律があるというのが日本の刑務所です。
しかしアメリカの刑務所はまったく違います。もちろん規律はあるんだけど、オフィサーと呼ばれる刑務官がかなり適当で、規律を守らせるかどうかはオフィサー個人の裁量に任されている部分がある。一応ルール上はこうなってるけど基本的にオフィサーは見逃している、みたいなことが山ほどある。
しかも日本の刑務所の場合、労働や食事、風呂、運動などの決められた時間以外は常に決められた独房にいなくてはいけないけど、アメリカの場合ユニットと呼ばれる範囲内であればいつでも自由に移動していい。売店や電子レンジまであって買い物や食事も楽しめるし、頑張ればファッションにだってこだわることが出来る。毎日が運動会か?っていうくらい何かイベントがあるし(これは囚人がやりたいとオフィサーに許可をもらってやるものらしい)、クリスマスには刑務所公認のイベントまであるのだ。他にも日本の刑務所とはまるで違うようなところが多々あるんだけど、とにかく刑務所とは思えないですね。正直、日本の刑務所のことを知っている僕からすれば、アメリカの刑務所だったらなんとか耐えられそうな気がするなぁ、とか思ったりしますからね。
でも一方で、アメリカの刑務所は犯罪の抑止力にはなりそうにないなぁ、と思いました。環境が緩いというのももちろんあるんだけど、それ以上に、刑務所に入ることが日常であるような貧困層の存在があります。黒人やヒスパニックなどの人たちは、親類の誰かが必ず刑務所に入っているんだそうです。それぐらい、刑務所に入るというのが日常的なことになってしまっているんですね。そうなると、刑務所の緩さとかに関係なく、刑務所に入ることがそれほど大したことではないという認識になって犯罪に対するブレーキにはならないだろうと思うんです。
日本なら、例えば親族に犯罪者が出れば、周囲の人たちから冷たい目で見られたりというようなのが普通です。そういう視線の存在が、犯罪の抑止力になる、という向きもあると思います。でも、親族の誰かが刑務所にいる、というのが普通の環境では、そういった類の視線は期待できないでしょう。それに著者みたいに、ほとんど悪くもないのに刑務所に入れられたりする人が結構いたりするから余計始末に終えないですね。
また著者の実感としてもそういう感覚があるようです。著者はいろんな犯罪者と接したわけですけど、麻薬の密売人は「私は人を殺したわけじゃないし」と言うし、殺人者は「麻薬を売って金儲けするなんて最低な人間じゃないし」と言うらしい。つまり刑務所に入ったところで自分はさほど悪くはない、と感じている囚人が多いということなんですね。なんというか、いろいろ終わってるなぁアメリカは、と思いました。まあ外国から見たら、日本もいろいろ終わってるなぁ、とかなるのかもしれませんけどね。
いろいろと面白い話が出てきます。いくつか書いてみましょう。
刑務所の中では、自分で選択をしていろいろな仕事が出来る(著者はピアノのレッスンという、元々なかった仕事を正規の仕事にしてお金をもらったりしていた)のだけど、囚人の中には、刑務所にいる方が本国に多く仕送りが出来る、なんて人もいるらしい。刑務所での給料はさほど高くないけど、衣食住は基本的に無料だから、外で無駄にお金を浪費してしまうより多く仕送りが出来ることもあるんだとか。皮肉な話ですね。
囚人の中には、オフィサーにチクリをする奴が時々いる。しかし面白いのが、オフィサー的にもチクリをする奴は嫌いだということだ。卑怯な振る舞いが許せないんだとか。でもオフィサーとしては、チクリがあったら何らかの対処をせざる終えない。だからこそ、チクリ魔が何か問題をおかした時はかなり厳しく接することになるらしい。日本だったら考えられないでしょうね。
著者は逮捕された時にパスポートを取り上げられていたので、刑務所から出て国外退去となる際にはそれを返してもらわなくてはいけないのだけど、なんとFBIは著者のパスポートを紛失してしまったとのことだった!ありえないだろ、FBI!日本だったらそれだけのミスでどれだけ警察が叩かれるでしょうか。まあ警察はもみ消すだろうけどさ。刑務所の中のオフィサーもいろいろ適当だったけど(入所の際、本当は中に持ち込めるお金を著者には持ち込めないと言ったり、入ったばかりの囚人には行われるはずのオリエンテーションをやらなかったり)、アメリカっていうのは本当に全体的に適当に出来ているのかなぁ、と思いました。
あと最後にびっくりする話。ビビという囚人がいるのだけど、この囚人が逮捕された理由がもう驚きですね。自己申告だからどこまで真実かはわからないけど。
ビビは不動産会社で働いていたらしい。そこである不動産取引をした。とにかく、ごくごく普通の不動産取引だ。不動産を仲介し、小切手をもらっただけ。普通だったら罪にも何にもなるわけがない。しかしその相手が大物のドラック・ディーラーだったのだ。アメリカのマフィアやドラック・ディーラーは見た目は金持ち紳士風なので、外見からは絶対に見破れないという。しかしビビは、そのドラック・ディーラーに不動産取引をしたことで、ドラック・ディーラーから多額の裏金が流れていたと睨まれ逮捕されてしまったのだ。
アメリカって凄いですね。怖っ!とか思いました。日本に生まれてよかったかなという気がします。まあ似本もいろいろ問題ありますけどね。
まあそんなわけで、なかなか楽しめる作品だと思います。獄中記だからと言って堅いとか暗いとか難しいなんてことはありません。普通の女性が普通の視点で刑務所の中を見ている、という、読者と同じ目線で文章が書かれているんで面白いです。なかなか体験できない(したくもないけど)刑務所生活を読んでみるというのも面白いものですよ。興味があったら読んでみてください。

有村朋美「プリズン・ガール アメリカ女子刑務所での22か月」

かつて僕はとあるきっかけから、ビッグイシューという社会的企業と少しだけ関わることがあった。
僕は昔半年間だけ出版業界誌でコラムを書いていたことがあるんだけど、そこでビッグイシューについて取り上げたことがある。ビッグイシューについての本を読み、なるほどこれは凄い人がいたものだと思ったのだ。
ビッグイシューというのは知っている人もいるかもしれないけど、雑誌を作りその雑誌をホームレスに売ってもらうことでホームレスの自立を促すという問題解決型の社会的企業だ。僕はそのコラムの中で、書店の店内にホームレスの方に常駐してもらって、そこでビッグイシューという雑誌を売ってもらうのはどうか、というアイデアを書いたことがある。ビッグイシューという雑誌は、ホームレスの自立を促すためのツールなのだから、書店が仕入れて売っても仕方ない。だったらホームレスの方に店内にいてもらい、そこでビッグイシューを売ってもらえば双方にいろいろとメリットがあるのではないか、ということを書いたのだ。
ホームレスの方のメリットとしては、本を買おうと思っている人が集まる場所でビッグイシューを売ればより売れやすいかもしれないし、天候に関わらず売ることが出来る。書店側のメリットとしては、面白い試みだと言って話題になるだろうし、うまくすれば万引きに目を光らせてもらうような立ち位置になってもらえるかもしれない、という思惑もある。まあ僕はそんなようなことを考えていたのだ。
そしたら、実際にビッグイシューに関わる方から連絡があり、一度ビッグイシューの集まりに呼んでもらったことがある。そうやって僕は、社会的企業と関わりを持ったことがあるのだ。
ただ僕は正直なところ、ビッグイシューの活動に自分が飛び込んでいくというのは出来ないだろうな、と思いました。
僕はある部分では社会的企業に向いていると思うんです。僕は金儲けにはまったく興味がなくて、金持ちにはむしろなりたくないんで、利益を追求するという形ではない社会的企業でもやっていける。人とは違った角度からモノを見て変わったアイデアを出すことも多少は出来るし、規模は小さくても自分が直接問題を解決するという仕事にもやりがいを見出せるだろうなと思います。
ただ僕には人間として大きな欠陥があって、そのために社会にも社会的企業にもうまく適応できないだろうなと思うんです。
一つは、人間にさほど興味がないということ。もう一つは、やりたくないと思ったことは絶対にやらないことです。
本書の巻末には、社会起業家に必要なのは強い共感だと書かれています。僕も同感です。社会的な問題を自分で見出し、それに強く共感することで、問題を解決しようという視点に立てる。
ただ僕は人間に対して強い興味が持てないんですね。困っている人や辛い状況に置かれた人がいても、可哀そうだなとは思うけど、それ以上に関心が持てない。これは社会起業家としての適正にはほど遠いでしょう。
それに僕は、これは社会人としても失格なんだけど、やりたくないと思うことは絶対にやらないんです。
大学時代に入っていたサークルで、2年の時僕は役職についていました。役職に就いている人間は他のメンバーよりもよりやらなくてはいけないのは当然なんだけど、僕は新入生の勧誘の時期誰一人として声を掛けなかった、という経験があります。見知らぬ人に声を掛けるみたいなことはやりたくなかったんですね。僕は他の部分ではかなり頑張っていたんで全体としての評価はさほど悪くなかったと思いますけど、時々そうやって、『やりたくない』という理由だけで仕事をやらないということがあります。まあこれじゃあどうしようもないでしょうね。
社会的企業には、正直なところ興味はありますが、結局僕には出来ないだろうなと思っています。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書はタイトル通り、ありとあらゆる分野で活躍する21人の日本人社会起業家を取り上げた作品です。社会起業家というのは先ほども書きましたけど、利益を追求する形でのビジネスではなく、何か社会的な問題を解決するために新たなビジネスモデルを構築し、それを実行に移す起業家のことです。
最近この社会起業家が増えているようで。
日本はまだまだ社会的企業の後進国のようですけど、イギリスなんか凄いみたいですよ。イギリスは人口が日本の半分らしいですけど、日本の社会的企業の市場規模が2400億円、雇用者数3万2000人という推定なのに対して、イギリスは市場規模5兆7000億円、雇用規模77万5000人らしいです(これは2008年の統計データです)。
またアメリカでも社会的企業の存在価値が高まっているとか。ピースコープという海外ボランティアを行う会社が2007年の大学新卒者の人気就職先リストの5位になったとか、初任給730万円もらえるJPモルガンという世界的に有名な金融機関を蹴って、年収280万円のティーチ・フォー・アメリカに入社する者が出るというような状況が出始めているんだそうです。アメリカでは、『ベンツも億ションもいらない。生活できる程度に金が稼げれば、あとは困っている人を救うために自分の人生の時間を分け与えよう。その方が、自分がこの社会に生きているという意味を実感できる』ということに気づいたようなんです。
日本ではまだまだ社会起業家は少ない。でもそれは、ビジネスチャンスが多いということでもあるんですね。
生き方的にも、この社会起業家というのはなかなか面白いと思うんです。確かにお金は稼げないでしょう。でもその一方で、確かに自分の手で問題を解決したという実感をすることが出来る。募金をしたりボランティアをするだけじゃない、もっと主体的にシステムそのものを変えていくことが出来る。それはお金にしか価値を見いだせない生き方よりもずっと豊かなのかもしれないな、と思ったりします。
本書ではいろんな社会起業家が出てきますけど、かなり女性の割合が多いんですね。7割ぐらいは女性じゃないでしょうか。もちろん本書で取り上げられていない人もいろいろいるでしょうから全体の比率については知りようがありませんが、女性の社会起業家が多いとするとなんとなく納得できる気もします。
男というのはやっぱりどうしても、いかにお金を稼ぐか、という価値観から抜け出せないのではないかと思うんですね。社会に出て、たくさん稼いだ人間が勝ち、というのが男の生き方だという刷り込みがあります。その一方で女性にはそんな刷り込みは少ないのでしょう。女性の社会進出が叫ばれて長いけど、未だに女性の社会進出には様々な障害がある。わざわざ男と同じ土俵で闘う必要もないかもしれない。そんな風に女性が考えたとしても不思議ではないなと思いました。
本書では、エコや発展途上国支援、外国人支援、地域再生などいろんな形の問題を解決する企業が出てきますが、正直なところエコとかは形が見えにくいし、発展途上国とか外国人支援というのはどうも他人事という感じがしてしまいます。一方で、地域再生とか農業支援みたいなのは面白そうだなと思いました。若者離れが進んでいく地域に若者が誇って仕事が出来るような環境を作るとか、人手の欲しい農家と農業に興味のある若者を結びつける援農支援とか、そういうのは日本の問題だし、成果が直接的に見えるんで面白いだろうなと思いました。
凄いなと思ったのは、マザーハウスという会社を経営する山口絵理子さん。いろいろあってバングラディッシュの支援をするために、ジュートという麻を使ったバッグをバングラディッシュで作ってもらい日本で売るという仕事をしているんですけど、この人はちょっと凄い。子供の頃いじめられたり覚せい剤に手を出してドロップアウトしたりという経験を経ながら、偏差値40から猛勉強して慶応大学に入学。途上国支援に興味があり途上国への開発援助を行う国際機関で働くも、途上国に行ったことがない人が政策だけ考えるというやり方に疑問を抱き、実際に途上国に行くことにする。そこで目にした現状を何とかしようと、現地でバッグを作ってもらうことで雇用を生み出し、一方でそれをおしゃれバッグとして日本で売り出すことで経済支援をすることにしたのだ。
今でも裏切られたり仕上がりが遅れたりということがあったりする。それでも諦めない。『私が諦めたら、誰がこの国に光を灯すのか?』という強い信念を持って仕事をしている。凄い人だなと思いました。
またちょっと面白いなと思ったのが、音や振動を利用して発電する仕組みを開発しようとしている人。ちょっと前に東京駅の改札の床に『床発電』の出来るシートを置き実証実験を行った、みたいなニュースを見たことがあるけど、なるほどこれはこの会社のことだったのか、と思いました。エコを解決するために、普段放置されている音や振動を使って発電するという技術開発をしているんですけど、なかなか面白い発想だなと思いました。
僕もこの本を読んでて一個アイデアを思いつきました。前にこのブログのどこかで、いろんなところが出しているポイントを相互交換できる仕組みがあったら面白いんじゃないか、みたいなことを書いたことがあるんだけど、それを応用したものです。本書の中に、普通の買い物をするだけで募金が出来る仕組みを作った人が出てくるんだけど、それを読んで思いつきました。
つまり、ツタヤのポイントでも飛行機のマイルでも、あるいは商店街が出してるようなポイントでもいいんだけど、そういうポイントをそのまま募金に回せる仕組みがあったら面白いなと思いました。例えば、ツタヤでDVDをたくさん借りる。ポイントが貯まる。そのポイントを決められたレートによって変換し、それを募金に回す、という仕組みです。こうすれば、買いものをすればするほど募金が出来ることになって、自然と社会的責任を果たせるような仕組みが出来るんじゃないかなと思います。
まあそんなわけで、これからも社会起業家は日本で増えるのではないかと思います。本書を読んでいると、大抵の社会起業家は20代で、人によっては大学時代から起業しているという人もいました。生まれた時から豊かな状態で育って来た僕らのような世代には、お金によって得られる贅沢にはさほど興味がない、という人は結構いるんじゃないかなと思います。それに、将来何をしたらいいか分からない、という人もたくさんいることでしょう。そういう人は一度、社会起業家を目指すという方法を考えてみてもいいんじゃないでしょうか?僕は社会起業家にはまずなれないんで、とりあえず本書をたくさん売るというのを頑張ろうと思います。本書を読んだ中から社会起業家が出てくれば、少しは僕もそれに貢献したことになれるかな。それに本書は著者印税の内10%(本体価格の1%)が、社会起業家を育成する事業活動への寄付となるそうです。というわけで僕はこの本を頑張って売ることにします。

今一生「社会起業家に学べ!」

本を読むきっかけというのにはどういうものがあるんだろうか?
僕は今こうやって山ほど本を読むようになったけど、じゃあどうして本を読み始めるようになったのか、と言われるとまったく記憶にない。確かに母親は本好きだったけど、西村京太郎とか梓林太郎みたいな作家が好きなようで、子供が興味を持って読むような本が家にあったというわけでもない。僕は昔から何かを借りるというのが嫌いで、今もレンタルショップの会員カードをまったく持っていないくらいだけど、だから図書館で本を借りるなんていう経験もほとんどなかった。学校の図書館にだってほとんど通った記憶がない。図書館にまったく行かなかったなんてことはないけど、利用頻度はさほど多くなかったと思う。
それでも、小学生の時から割と本を読んでいたのだ。今みたいに、学校で朝読書の習慣があったなんていうこともないし、江戸川乱歩とかにハマったなんてこともない。僕が小学校の頃に読んでいたのは「ズッコケ三人組」シリーズだけど、どうしてあの本を読み始めたのかさっぱり覚えていないのだ。親とか親戚とかがくれたのかな?
大学に入って一旦本を読む習慣が途切れたものの、しばらくしてまた復活した。ある時ふと思い立ってブックオフに行き、大量に本を買い始めたのだ。その時僕は、東野圭吾も宮部みゆきも知らなかった。古本屋で、表紙や内容紹介を見て片っ端から面白そうな本を探しては読み始めたに過ぎない。
で、その大学時代にどうしてまた読書のスイッチが入ったのか、これがまったく記憶にないんですね。突然ブックオフに行った、というのは覚えてるんだけど、何がきっかけだったのかさっぱり覚えていない。
というわけで、結局僕は自分がどうしてこんなに本ばっかり読むようになったのか、そのきっかけをまったく覚えていないのだ。
話はちょっと飛ぶけど、結局のところ書店が生き残るには、本を読む人間を増やしていくしかないと思う。本を買っていくのは基本的にある程度の年齢以上の人が多い。もちろん若者はあんまりお金を持っていないから本を買えないということもあるだろう。若者が本を買わないからと言って読んでいないということにはならないと思うけど、いずれにしても若い世代にもっと本を読む習慣を持ってもらわないと、出版・書店業界というのは絶対に成り立っていかないのだ。
そこで、読書人口を増やすために書店が出来ることは何か、という発想が必要になる。書店は確かに本を売って利益を出すのがメインだけど、それだけやっていたのでは本を買ってくれる人がどんどん少なくなってしまうだけだ。今まであんまり本を読んでこなかった人に対して書店がどんなアプローチをすることが出来るのか。
しかしこれは難しい問題でしょうね。まず本に興味のない人はそもそも書店にこない。来ない人を啓蒙するのは難しいだろう。しかも、僕自身がどんなきっかけで本を読むようになったのかまったく覚えていない。どんなアプローチをすればいいのかイマイチよく分からないんですね。
文章を書いている内に解決策が思いつくかなと思っていたけど、やっぱりなかなかうまいアイデアは出てこないですね。やはり書店がやるにはなかなかハードルの高いことなのかもしれません。
書店がやることではないのかもしれないけど、出版社なんかと協力してミニ図書館みたいなものをいろんなところに設置する、みたいなことぐらいしか出来ないかなぁ。例えばマクドナルドとかスターバックスのような店の一角に、貸出なしの本がある。店内で読む分には自由にしていい、というような図書館だ。こういうものを、病院や塾や学校や駅のホームなどいろんなところに設置する。まあ難しいかな。
色んな娯楽が増えている中、どうやったら本に目を向けることが出来るか。難しい問題ですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、なかなか面白い構成の科学書です。どんな設定かと言えば、サイエンスライターとして有名な竹内薫と、竹内薫の叔父でコピーライターなどをやっている原田章夫が、居酒屋の一角で科学談義をしているのを、その店の常連客の一人が盗み聞きしている、という設定なんです。原田章夫は完全な文系人間で、理系的な知識はほとんどないみたいです。その原田さんに竹内薫がなるべく分かりやすく科学の話をする、という設定です。実際に本書は、夕食を食べながら竹内薫と原田章夫が科学について話しているのを録音したものを原稿に起こしたんだそうです。
テーマについてはほとんどないと言っていいでしょう。会話の流れの中で、様々なテーマへと話が飛んでいく。宇宙の話あり、数学の話あり、相対性理論や量子論の話もあれば、生物学の話もある。物理法則と文学の関連性や、原子力発電所の発電効率について、パラレルワールドやマルチバースなど、とにかく話題は様々な方向へと進んで行きます。
基本的に話の聴き手である原田章夫と居酒屋の客は、科学的な知識に乏しいという設定なので、本書は文系の人でも読める内容でしょう。というか、文系の人向けの本かもしれません。科学的なことについて結構いろいろと知っている人にすれば物足りない話ばっかりで結構つまらないかもしれません。僕もまあ知識だけはいろいろと持っている人間なんで、ちょっと面白くないかなと感じました。まあターゲットとしている対象ではないだろうから仕方ないんですけどね。
人間の祖先は元々夜行性だったから二原色だけど、その後進化して不完全な三原色になったとか、鳥人間コンテストの飛行機はどうして水面ギリギリを飛んでいるのかとか、相対性理論と芥川龍之介の「藪の中」は似ているなど、いろいろと知らない話もあったので、そういう部分はそれなりに面白かったです。一番よかったのは、最小作用の法則について知ったこと。ありとあらゆる物理法則は、この最小作用の法則によって導かれるという話でした。要するに、「オッカムの剃刀」みたいな話で、自然は無駄が一番少ない経緯を採用するという法則です。当たり前っちゃあ当たり前なんだけど、その当たり前のことにきちんと法則として名前がついていたんだなと知りました。
科学ってとっつきにくくて分からないと感じている文系の人にはいいかもしれません。もちろんよく分からない部分もあるだろうけど、科学って言うほど難しくないのかもしれないと思える部分もあるんじゃないかなと思います。元々理系だっていう人には入門すぎてちょっと面白くないかもしれません。

竹内薫+原田章夫「サイエンス夜話 不思議な科学の世界を語り明かす」

改めて考えると、本を売るというのは本当に難しい仕事だな、と思います。
先日、ちょっと毛布を買いに行ったんです。デパートの寝具売り場とかじゃなくて、商店街にあるような布団屋さんに行ったんですね。でそこでいろいろ店員さんと話をしながら毛布を買ったんですけど、やっぱり自分のところで扱っている商品についてはよく分かっていますね。聞いたことにはきちんと答えられるし、聞いてないことまで助言してくれる。こういう商売をしてると、若い人が来ないからねぇ、とか言って値下げしてくれたんだけど、確かに売上的にはなかなか厳しいでしょう。それでも、自分が扱っている商品についてきちんと理解し、それをアピール出来るというのが小売の理想だよな、とちょっと思ったりしました。
また、つい最近、ユニクロの社長が書いた「成功は一日で捨て去れ」という本を読みました。ユニクロは、SPAと呼ばれる、企画から製造、流通販売までをすべて自社で行うやり方を採用しています。著書の中で、SPAが素晴らしい手法だという点をいくつか挙げていたんだけど、その中でも最も重要だなと思う点は、製品の魅力を最も分かっている人間が売る、という点です。他の小売店は、自分のところで作っていないものを売っているわけで、やはり作り手側の思惑をすべて汲み取ることは難しいかもしれません。一方でユニクロの場合、企画から製造まで自分でやっているので、その商品のアピールする点はどこなのかということを販売する側が最も分かっているんだと思います。いろいろ利点はあるんでしょうけど、僕が理解できる範囲ではこれが一番大きなメリットなのではないかなと思いました。
また、SPAを採用していない普通の小売店でも、自分たちが扱っている商品についてまだ理解するだけの余裕はあると思うんです。書店と比較すれば、ということですけど。というのも、新商品の出るスピードに圧倒的な差があるからです。
服でも食品でも薬でも何でもいいですけど、そういう一般的な小売店で扱われる商品が、どれくらいのスピードで新商品が出るのか僕は知りません。でも、本ほど早いということはないでしょう。本の場合、1日に200点新刊が出ると言われています。200点の中には、ほとんど自費出版に近いような、普通の中小の書店には流通しないような本もたくさん含まれているでしょうけど、普通の書店にも入ってくる本でも少なく見積もって一日で50点程度にはなるでしょう。
毎日50点の新製品が発売される、ということを想像してみてください。服とか食品とか薬とかでは、そんなことはなかなかありえないんじゃないかなと思います。
もちろん、その50点の中で、さらに書店員としてきちんと情報を押さえておかなくてはいけな重要な本は20点とかそれぐらいになるでしょう。それでも、毎日20点ぐらいは重要な新刊が出るわけです。
このスピードに書店員はついていかなくてはいけないわけです。しかも、本というのは、中身をきちんと理解しようと思ったら読むしかない。食品であれば食べればいいし、服であれば着てみればいいけど、本は時間を掛けて読まないといけないんですね。
そう考えると、書店員というのは、自分がほとんど理解できていないものを売っている職業だ、ということになってしまうんですね。
僕は3日に2冊ぐらいのペースで本を読んでいるし、自分が読んでいない本についても、評判とか売れ行きみたいなものをチェックしているけど、それでもまあ追いつけるわけがない。お客さんに聞かれて初めて出ていることを知る本もあるし、ある分野ではとても有名な人のことをまったく知らなかったりということはよくあります。どれだけ追いつこうとしても、本が出るスピードには到底敵いません。
出版点数は、これからも増えていくことでしょう。それは、出版業界の特殊な仕組みのために、避けられないことなんです。そうなれば、さらに書店員の知らない本が増えていくということになります。
それは確かに仕方のない状況ではあります。それでもやっぱり、扱っている物の魅力を伝えられない小売店というのは悲しいですね。だからこそせめて、自分が分かる範囲の魅力は伝えようと努力しないといけないなと思っています。本を売るっていうのは、本当に難しいです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
生田は東京消防庁に所属する救急隊員だ。救急技術員という、要するに特殊車両を運転する役割だ。元暴走族上がりの生田は、顔こそ怖いけどその素晴らしい運転技術で多くの人から畏怖されている。
生田はつい二か月ほど前に渋谷消防署恵比寿出張所に移動した。それまでは消防車の運転のみだったが、ここでは救急車の運転もしている。そのために、救急医療のざっとした知識を突貫で仕入れているところだ。
いつものように出動を繰り返し、ガソリンを入れてから出張所に戻ろうかという時、道路脇で倒れて血を吐いている人の男が目に入った。慌てて救急車を停め、搬送準備を整える。
しかし救急車に乗せた途端、男はナイフを女性救命士の首に当て、命令を聞くように言った。救急車はジャックされてしまったのだ。悠木と名乗ったその男は、家族を人質に取られたらしく、携帯電話のテレビ機能を使って本当に犯人らしき男と連絡を取りながら何かをしようとしているらしかった。
何かあったら爆破させる。
救急車に爆弾を持ち込んだらしい。彼らの要求は、時間内に指定された病院まで辿りつけ、というものだった。一方で警察には計2億円のお金を要求する連絡が届くことになる。一体彼らの目的はなんなのか…。
というような話です。
まあそれなりに面白い作品だったかなと思います。
まず、救急車や出動の現場、出張所内の様子など、普段の救急救命士たちの日常的な部分がかなり細かく描かれていて、知らない世界を知るという点で面白かったです。救急車と消防車を両方運転する人がいるけど、どちらなのかによって求められる運転技術に大差があるとか、救急車で向かった現場でどういうことが起きるのかという話、救急車の内部がどうなっているのかや救急救命士に何が出来るのかということまで、実に詳しく書かれています。救急救命士たちのスタンスは素晴らしいなと思いました。最近タクシー代わりに救急車を呼ぶような輩がいるけど、それは結果的に問題がなかったというだけで、病院に搬送するまでは決して気を抜かない、というものです。
また、事件が発生してからも、なかなか緊迫感溢れる感じで良かったかなと思います。正直なところ、まあ犯人像の設定から考えれば仕方ないんだけど、爆弾を積んでいるとは言えやっていることは病院まで走るというだけなんで、もっとスリリングな展開の作品にも出来ただろうな、とも思います。まあでも、犯人側の目的を考えると、それがまあメインテーマなんだろうから仕方ないかなと。なるべくいろんな形で盛り上がるように話を組み込んでいるんで、頑張ったなという感じがします。
また、運転手である生田がなかなかいいキャラクターで、好感が持てました。同じ救急車に乗っている筒井という隊長や森という美人救命士もなかなかいいんだけど、やっぱり生田のキャラには勝てないですね。生田がいろんな形で空気を変えてくれるんで、作品の緩急がついたかなという感じがします。
またラストでは、メインのストーリーに関わっていない人たちのその後みたいな感じも描かれていて、それがまあ割とうまく収まっているんで、そんなうまくいかねぇだろとか思いながら、まあいい話かなとか思いました。
ただ、気になったところが二点。まず、犯人側の目的がちょっと分かりやすすぎるというか、まあきっとそういう感じなんだろうなと思った通りだったんで残念でした。僕は基本的にミステリとか読んでてもトリックとか全然理解できない人間なんだけど、本書は何となく全体の構図が分かりました。全部じゃないですけどね。だからミステリとしてはちょっと弱いですね。
あともう一つは、メインのストーリー以外にもサブのストーリーを組み込みすぎだなという感じがしました。メインはジャックされた救急車なんだけど、それ以外にも、テレビ局の新米社員とか、消防車は救急車の無線を聞くのが趣味の女の子、何人かの刑事の話など、ほんの僅かしか描かれない人がたくさん出てきます。もちろんメインの話以外にもいくつかストーリーがあってもいいですけど、ちょっとメイン以外のストーリーが多い気がしたし、書くなら書くでもう少しきちんと書いてほしかったなと思うところもありました。そういう部分がちょっと中途半端な気がしました。
まあでも、全体としてはそんなに悪くない作品かなと思いました。初期の頃の作品の方が好きですけどね。「それでも、警官は微笑う」とかメチャクチャ面白かったもんなぁ。やっぱりずっと面白い作品を書き続けるというのは難しいもんなんでしょうね。
というわけで、強くオススメすることはないですけど、軽く読める作品だと思います。それに、伝えたいメッセージがきちんとあるんで、そういう意味でも悪くない作品です。読んでみてください。

日明恩「ロード&ゴー」

明日新人が二人入ってくるらしい。つい二週間ぐらい前にも新人が一人入ったので、これで新人が3人になることになる。
新人が入ってくると結構キツいのだ。何故なら、レジの仕事を教えるのが僕ぐらいしかいないからである。
僕はまあ昔から、教えるのは割と得意な人間だったんですね。うぬぼれかもしれないけど。でも小中高とどの時でも、周囲の人間から勉強を教えてくれと言われて教えていたような、そんな立ち位置でした。
僕は基本的に天才というわけではなくて、勉強は努力して出来るようになった人間なんで、相手が分からないところが分かるんですね。誰かに何かを教えている時に、相手の反応から、なるほどこういう勘違いをしているのか、こういう解釈をしているのか、こういうことをそもそも知らないのか、ということが分かるんですね。だから人よりうまく教えられるみたいです。
僕としては別に普通だと思っていたんですけど、あんまりそうでもないみたいです。バイト先では、新人が入ってきた時に教育をする係というのは決まっていなくて、常にその時シフトに入っている誰かが教えられることを教える、という大雑把なスタイルなんです。で、他の人が教えているのを見ると、それじゃ分からんだろ、というような教え方の人が実に多いんです。
あることを教える前にまず知っておかなくてはいけない前提的なものがあるのにそれを説明しなかったり、普段使っているけど一般的な用語ではないものを説明なしで使ったり、あらかじめ何の説明もしていない状態で、実践を一回見せただけで教えた気になっている人とか、とにかくそういう教え方がイケてない人が実に多いんですね。バイト先には結構な数のスタッフが働いていますけど、まともに新人教育が出来るスタッフは朝番遅番合わせて5人ぐらいだと思います。ちなみに残念ながら、この5人の中に社員は一人も入っていません(笑)。社員も教えるの下手なんですよね。並のスタッフ以下かもしれません。
それに、下手でもまだ教えるスタッフはいいです。スタッフによっては、新人と一緒にペアでレジをしているにも関わらず、仕事を教えもしないし、何も会話すらしない、という人もいます。もうこんなのは言語道断ですね。仕事をうまく教えられないなら、せめてバイト先の環境に馴染めるようにいろいろ喋ったりしてあげないといけないのに、そういう発想が出来る人も少ないんですね。これは昔社員に何度か言ったことがありますけど、まあ変わってないですね。
まあそんなわけで、新人が入ってくると僕が教えないといけないんで大変なんです。僕は常に、レジにいる時間でさえもやることが満載なくらい、とにかくいつも時間がないんです。レジの時間も、出来る限り自分の仕事をしたいんですね。でも新人が入ってくると、新人を教えるのに時間を取られてしまう。他の、レジにいる時にカバーを折るぐらいしかやることがないスタッフが教えてくれればいいんだけど、なかなかそんな能力のあるスタッフがいないんですね。だから厳しい。
しかも明日は、二人同時に初日を迎えるというんです。今まで長いこと新人に教えてきましたけど、二人同時に入ってきたという経験はありません。結局僕が教えるしかないんで、二人同時に僕が教育をすることになるでしょう。たまらんですね。
まあ、来年の四月で辞めてしまうスタッフが結構たくさんいるんで、今のウチに使えるスタッフを育てておかないと厳しいは厳しいんです。そもそも常にスタッフが足りているとは言い難い状況ですからね。だから新人が入ってくるのはいいことなんだけど、でも新人が入ってくれば僕が教育で忙しくなる。仕方ないんだけど、いつもそれが悩みの種です。
新人を教育出来るスタッフの教育でもしようかなぁ。でも絶対自分で教える方が早いな。頑張ります。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、多くの人々が何故か深夜のデパートに入り込むことになった一夜のドタバタ劇を描いている作品です。
まず舞台となるデパートの説明をしましょう。
鈴膳百貨店は、戦前からある由緒ある百貨店だ。現社長の祖父が興した。東京大空襲で一度建物がなくなったものの、何とか現在に至っている。
しかしデパートの売上が全国的に下がり、経営は苦しくなっている。さらに追い打ちをかけるように、鈴膳デパートにとある不祥事が発覚し、そのせいでさらに客足が遠のいているのだ。今創業100周年祭をやっているのだけど、目を覆いたくなるような数字しか上がってこない。
そんな、ちょっとワケありのデパートが舞台です。
加治川英人は、財布に143円しかない。ちょっとしたことで怪我を負い、派遣会社をクビになったのだ。妻とも離婚し、一人娘も母親と一緒に出て行ってしまった。離婚後は、ひと月に一度娘をデパートにつれていくことが唯一の楽しみだったのだが、娘はデパートがダサいと言って連絡もくれなくなってしまった。今夜をやり過ごす場所を思案していた時、思いついた。大好きなデパートにいさせてもらおう…。
山添真穂は、鈴膳百貨店の社員。高級茶碗を売る売場で働いている。真穂は仕事へのモチベーションをかなりなくしてしまっていた。その原因となった男に復讐すべく、真穂はとある計画を練っているのだ。創業100周年祭の今なら、閉店後のデパートには金庫に入りきらないお宝がザクザク眠っているのだ…。
コージとユカは東京に家出をしてきた高校生。二人ともちょっとした事情を抱えていて、やりきれなさとお互いへの信頼感からちょっと家出してみることにしたのだ。しかしコージはお金をバンバン使っている。クレジットカードも使えない。結局帰りたいのかな?そう思っているとコージがある提案をしてきた。今日の夜はここで過ごそう。そこは、鈴膳デパートだった。
鈴膳百貨店の社長である矢野純太郎は、社員から軽く見られている。お飾りの社長なのだ。もうすぐとある大資本のデパートと合併するという話が出ている。そうなれば、創業家から誰か首を差し出すしかない。自分はそれだけの理由で社長にさせられたのだ。矢野は、ひょんなことから深夜のデパートで警備員と共に巡回をすることになった。拾った携帯電話の落とし主も探さなくてはいけないし、奇妙な落し物もどうにかしなくてはいけない…。
塚原仁士はヤクザから逃げていた。そして警察からも逃げなくてはいけないことになるだろう。ふと手を見ると血だらけだった。地面には血の跡が残っている。いずれにしてもどこかで手を洗わないと。トイレのありそうな場所を思いめぐらすが、ふと気づくとそこは鈴膳百貨店のすぐそばだった…。
赤羽信はいろいろな事情から、鈴膳百貨店の本店の警備員として働いている。警備の生き字引と言われる半田良作の元、デパートを守るため日夜頑張っている。最近付き合い始めた彼女と仕事中に連絡を取ろうとしてしまうのは愛嬌ということで…。
というような面々が、深夜のデパートを舞台にしてドタバタを繰り広げる、という話です。
ほどほどに面白かったですけど、そこまで言うほどでもないな、という感じでした。少なくとも、かつての真保裕一の作品の面白さを知っている人間には、物足りない作品ではないでしょうか?しかし酷いのは帯ウラの文句。『名作「ホワイトアウト」を超える、緊張感あふれる大展開!』って書いてあるんです。それが誇大広告だ、という点にはとりあえず目をつぶるとして、酷いのは比較対象として「ホワイトアウト」を出していること。だって本書は講談社が出していて、真保裕一は講談社の江戸川乱歩賞出身で、講談社でたくさん本を書いているのに、本書と比較するのに講談社の本ではなくて新潮社の「ホワイトアウト」を引き合いに出すのはどんなもんですかねぇ、という感じです。まあ知名度で言ったら「ホワイトアウト」は抜群だろうから仕方ないのかもですけど。
僕の印象では、「キサラギ」っていう映画に近いものを感じました。僕は映画自体はちゃんと見たことがないんですけど。「キサラギ」っていうのは、ある死んじゃったアイドルを追悼するということで集まった5人が、それぞれそのアイドルと実は深い関係だったということが徐々に明かされていく、という構造なんだけど、本書も、深夜のデパートに集まった人々が実はデパートに関わる事情を抱えている、というようなことが少しずつ明らかになっていくんですね。その過程はなかなかうまいと思いました。
また最後の方で、何故半田良作は鈴膳百貨店の本店勤務にこだわるのかということが明かされたり、携帯電話の落とし主に関わることで社長が決断したりすることなんかがなかなかいい話だったりするんで、そういう細かな部分もなかなかうまいなと思いました。
ストーリー全体としては、ちょっと無理があるだろ、みたいな展開もなくはなかったけど、それぞれの人間の思い込みをうまく利用して余計に混沌とさせていく流れは面白かったです。本書の主人公たちにはまず前提として、『深夜のデパートには警備員以外誰もいるはずがない』という思い込みがあるわけです。まあ当然ですけど。でも実際には相当の数の人間が蠢いているわけなんですね。その辺りの食い違いが余計混乱させる原因となっていて変な展開になっていくのがなかなか面白いなと思いました。
しかしやっぱり、それなりのエンターテイメントという感じの作品です。僕は真保裕一のかつての作品が結構好きで、社会的な問題みたいなものをとりあげつつきちんとエンターテイメントとして読ませる小役人シリーズや、僕が誘拐モノの傑作を選ぶとしたら三本の指には必ず入れたいと思う「誘拐の果実」とか、そういうレベルの高い作品を書いていたんですね。その印象がやっぱり強いんで、本書は確かにつまらないわけではないし、作品の出来としても悪くはないと思うんだけど、どうしてもあんまり高い評価は出来ないなという感じです。
真保裕一の昔の作品を読んだことがない人で、エンターテイメント系の作品が好きという人なら結構楽しめるのではないかなと思います。真保裕一の昔の作品を読んだことがあるという人には、あんまりオススメは出来ないですね。

真保裕一「デパートへ行こう!」

年の瀬も近づいてきましたけど、そろそろホントに書店の話も書くことがなくなってきました。なんていうか、何を書いても、これ昔似たようなこと書いたよなぁ、と思うようなことばっかりです。そもそも一年間書き続けるというのが無茶なんでしょうけどね。まあなんとか頑張ってみましょう。
さて今日はちょっと大きな話でも書いてみようかな。今後書店はどうなっていかなくてはいけないか。今この文章を打っている時点でこれといって大したアイデアがあるわけではないんですけど、キーボードを叩きながら何とか考えてみます。
今も徐々に売り上げが下がっていっています。この傾向は今後もどんどん進んでいくことでしょう。どう楽観的に考えてみても、出版・書店業界が急カーブで上向きになる、ということはありえないと思います。
壁となるのは、以下の三点でしょうか。

①本以外の娯楽が山ほどあること
②リアル新刊書店以外に本を手に入れる環境がたくさんあること
③不況のせいで本を買うお金を削られてしまうこと

どの業界だって似たようなものでしょうけど、結局この三つになんとか対処していかなくてはいけない、ということなんだろうと思います。
①についてはどうしようもない部分があります。最近は携帯にいろいろ出来る機能がついているし、携帯ゲーム機もいろいろあります。昔は電車の中では本を読むぐらいしかすることがなかっただろうけど、今では他にいくつも選択肢があります。そういう流れの中で、他の娯楽に行ってしまった人たちを本に引き戻すというのは相当難しいことでしょう。だからまあこの点については諦めるしかない。
②については、まだ何とかしようがあると思います。まずネット書店だけど、ネット書店の利点は、立ち読みされていない本を買えるということ、普通の書店に在庫がないようなものでもすぐ取り寄せることが可能なこと、ポイントが使えること、などいろいろあるでしょうけど、でもやっぱりまだ、これと決めた本を買うのに便利なツール、という感じだと思うんです。もちろん、この本を買った人はこんな本を買ってます、みたいな感じで履歴が出たりするし、この本を買った人にオススメですと言って案内が来たりもするけど、やはり機械に出来ることは限界があると思います。
目的買いのお客さんがネット書店に流れてしまうことはもういたしかたないと思っています。なのでリアル書店は何とかして、何か面白い本はないだろうか、というお客さんに来てもらわなくてはいけません。
僕はとにかく常に、いかにして他の書店が置いていなさそうな本、売っていなさそうな本を売るか、ということを考えています。もちろん、新刊・話題作はきっちり揃えます。しかしそれ以上に、普通の本屋では置いていないような本をあちこちにかなり置くようにしています。しかもそれをかなりの頻度で入れ替えていく。そうやって変化を持たせることで、何か面白い本がないだろうか、というお客さんを引き寄せたい、と思っています。
ブックオフなんかの中古書店もかなりいろいろとありますが、中古書店にしても、自分の思い通りに在庫を確保することが出来るわけではないんで、やはり何か面白い本がないかなと言ってやってくるお客さんを繋ぎとめるというのは困難だろうと思います。どうしても、新刊・話題作を探しに来るか、何か特定の本を探しに行くか、という使い方になるでしょう。であれば、新刊書店が何か面白い本はないだろうかと思ってやってくるお客さんをターゲットに出来れば、十分やっていけるのではないかなと思います。
③についてもなかなか難しい問題ではありますけど、これについては実用系の本を売るという転換でなんとかなるのではないかと思っています。本という娯楽にお金を使うのが削られるということは、小説がより売れなくなっていくということでしょうけど、でも知識や知恵を得るために本を買う、そのためのお金まではまだ削られないのではないかと思います。
僕はもう2年以上前から入口の台に子育て系の文庫・新書を、中身を入れ替えながら常設しています。子育てというのは、誰もが初めは初心者で知識や知恵を何らかの形で得るしかありません。昔のように、近所づきあいがあるような土地ならまだしも、都会であれば教えてくれるような人はなかなかいません。となれば、本を買って知識を得る、という風になりやすいのだろうと思います。実際子育て系の文庫・新書は相当売れます。1面平積みのみで300冊以上売っているものもあります(もちろん長い期間掛かっていますけど)。
他にも、痴呆や老後、自己啓発やお金、恋愛やダイエットなどのジャンルも、なかなか自力で答えを見つけ出すのが難しいので、本から知識を得るという流れはそこまで衰えないだろうと思っています。小説は確かに売れなくなりました。売れなくなったからと言って努力をしなくていい、ということにはならないけど、どうしたって娯楽として小説を読むという部分が削られていくわけだから、だったら知識や知恵を与えるような本を売り伸ばしていくしかないのではないかなと思います。
他にもやれることはいろいろとあるでしょう。ポイントをつけるとか、宅配を始めるとか。しかしそんな風にしてみたところで焼け石に水という感じがします。ポイントをつけたり宅配をしたりしたところで、今まで本を買っていた人が買う店を変える、という程度のことで、本を買う人が増えるわけではないと思うからです。もちろん、自分のところの店が生き残るということも大事ですけど、業界全体で考えた時、そういう小手先の手は効果が薄いのではないかなと思ってしまいます。
本が売れなくなった原因から考えると、やっぱりここで書いたような感じになっていくのではないか、と思っています。いかにして誰も知らないような本を売場に並べて売るのかということと、いかにして実用系の本を売るのかということ。難しいものですね。これからも頑張っていこうと思いますけど、相当頑張っていかなくてはいけいないでしょう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、シリーズ物を書かない東野圭吾の唯一のシリーズキャラクターである加賀恭一郎が、東京・日本橋を舞台にとある殺人事件の捜査をする、というのが大筋の流れです。しかし本書、長編ではなく連作短編集です。日本橋で働く人々が、何らかの形でその殺人事件に関わっていき、加賀がそれを解決していく、という展開です。
まず、メインとなる殺人事件について書きます。
日本橋にあるアパートの一室で、40代の女性が絞殺されていた。熟年離婚をし、一人で生きていこうと決めた矢先のことだった。警察が捜査を開始するも、容疑者が一人も浮かび上がってこない。周囲に話を聞けば、恨まれるような人だったと言われるのだ。捜査は一向に進展しない。それを加賀が独自の視点で捜査していく、という展開になります。
以下それぞれの短編の内容を紹介します。

「煎餅屋の娘」
煎餅屋に加賀が聞き込みにやってくる。煎餅屋の祖母の保険なんかを取り扱っている保険外交員がとある殺人事件で容疑者として疑われているらしい。保険外交員の供述によると、30分の空白がある。警察としてはその30分は見過ごすことはできない、ということらしい。
加賀は煎餅屋の一家に話を聞くことで、保険外交員が無関係であることを証明する…。

「料亭の小僧」
とある料亭で料理人見習いとして働く男は、店の主人に時々変なお使いを頼まれる。人形焼きを買ってきてくれ、しかもそれは妻には内緒だ、と言われるのだ。
ある日、その人形焼きについて刑事から聞き込みをされることになった。どうやらある殺人事件の現場で人形焼きが見つかった、ということらしい。まさか、店の主人が事件に関わっているのだろうか…。

「瀬戸物屋の嫁」
瀬戸物屋の主人は弱り切っている。よくある話と言われればその通りだが、嫁と姑の仲が悪すぎる。ちょっと口を開けば喧嘩だ。主人はとにかく事を荒立てないようにと考えるしかない。
事件現場で、キッチンバサミが見つかったとのことで刑事がやってきた。どうもそのキッチンバサミは妻と関係があるらしいのだが、一体どういうことだろうか…。

「時計屋の犬」
時計屋で見習いとして働く男の元に刑事が聞き込みにやってきた。飼っている犬の散歩コースを教えてほしい、ということだった。
何でも時計屋の主人が、とある事件の被害者と犬の散歩中に会っているはずだ、という。しかしどうも主人が言っているコースでは説明がつかないらしい。どうも主人は、誰にも内緒で別の散歩コースを使っているようなのだが…。

「洋菓子屋の店員」
とある洋菓子店で働く女性は、いつも特定のお客さんから見られているな、と感じることが多い。目もよく合う。しかし知っている人ではない。一体何なのだろう。
売れない劇団で役者を目指している男は、殺人事件の被害者の息子だった。もう2年近く会っていなかったという母親が、実にすぐ近くに住んでいたということを知り驚く。一体それは偶然なのだろうか…。

「翻訳家の友」
その翻訳家は、事件の被害者を一番に見つけ、警察に通報した張本人だ。被害者の昔からの友人であり、夫と離婚して一人でやっていくという被害者に、翻訳の仕事を回して助けてあげようということになっていた。
しかしその翻訳家は、ある時出会った彼と結婚することになった。問題は、その彼の生活の拠点がロンドンにあるということだった。つまり被害者に仕事を回すことが出来なくなる。
そのせいもあって少しぎくしゃくしていた折起こった事件だった。しかもその事件当日、翻訳家は被害者と待ち合わせをしていたのだけど、その待ち合わせ時間を1時間遅くしたのだ。もし待ち合わせの時間をズラさなかったら、と今でも後悔している。
そんな翻訳家の元に話を聞きたいと言って加賀がやってくるのだが…。

「清掃屋の社長」
清掃会社の社長は、殺人事件の被害者の元夫だった。彼は最近、秘書としてホステスだった女性を雇った。従業員は皆愛人ではないか、と噂をしていると、かねてからの友人で会社の会計も見てもらっている公認会計士に言われるが、社長は気にしていない。
一方、被害者の息子であり清掃会社の社長の息子でもある劇団員は、自分がいかに母親のことを知らなかったかということを悔い、せめて母親が何を考えていたのかということを知るために加賀を訪ねた。そこで劇団員は、父親の愛人かもしれない女性の話を聞かされるのだが…。

「民芸品店の客」
独楽などの昔ながらのおもちゃを売っている店に加賀がやってくる。なんでも、売場にある独楽を全部買っていく、という。その後、殺人事件の捜査のために来ているのではないかということを知る。まさか自分のところの商品が何らかの形で事件と関わっているのだろうか。しかし事件が起きたのは10日。独楽が売れたのは12日で計算が合わない。どういうことだろうか…。

「日本橋の刑事」
殺人事件の真相が加賀の推理によって明かされていく。

というような感じです。なかなか内容紹介が難しい作品ですね。
本書を読んだ感想は、異常に完成度の高い作品だな、ということです。
本書は、収録されている短編をどれか一つだけ抜き出して評価してみれば、さほどというほどのものはないでしょう。どの短編も、それ単体であれば、まあ並かそれよりもちょっと上というぐらいのレベルの短編です。特別優れているというほどでもないんですね。
でも連作短編集全体で見た時、その構成力の高さに評価はグンと上がるんですね。例えばそれぞれの短編を1点とした時、9編の短編があるんで総合では9点のはずなんだけど、でもそれが20点にも30点にもなるというような感じです。
まず、一つの殺人事件を様々な方向からベクトルを伸ばしてアプローチするというのがなかなか斬新ですね。発想としては結構誰でも思いつく構成だと思うんだけど(実際僕も、こういう短編集を書いたら面白いだろうな、というアイデアは考えたことがある)、でもそれを実際に作品にするというのは本当に難しいことだと思います。メインとなる殺人事件は殺人事件としてきっちりと真相は用意しつつ、それとは関係ない部分で関わりのある人々を描き、しかもその中で事件とは直接的に関係のない謎を解いていくという設定を生み出すのは並大抵ではないと思います。
しかもそれら個々の出来事が僅かながらお互いに関わっていくし、しかもその描写によって日本橋という町特有の雰囲気も浮かび上がらせている。下手な作家がやれば、斬新な構成だったけどそれをうまく生かしきれなかったね、と評価される作品になってしまうところでしょう。東野圭吾の類稀な構成力が、普通にやったらバラバラになってしまいかねない作品をまとめあげたなという感じがしました。
それに、警察小説としてもなかなか異質なんですね。本書は、その大半が、『事件とは無関係であること』を証明することが話の本筋になっていきます。普通ある殺人事件があった場合、作家としてはその事件と関わりのある出来事をいかに配置して最終的に事件解決に持っていくか、という流れになるはずです。でも本書は、そのほとんどが、事件に直接は関係ないということを証明するために加賀があちこち動いていく、という話になるんです。まずそれがすごい。
しかも、事件には直接的には関係のないそうした個々の出来事が、少しずつある方向を向いているんですね。事件と無関係であることはあるんだけど、無関係であるということを証明する過程で次の道筋が見えてくる。そうやって、事件とは無関係である出来事をいくつも解いていくことで、最終的に捜査本部の誰もが辿りつけなかった真相にたどり着く、という流れなんですね。このうまさ。さすが東野圭吾という感じがしました。
横山秀夫が出てきた時、警察小説の新たな書き手、みたいな風に言われました。普通警察小説というのは、刑事を主人公にするものだけど、横山秀夫は警察の事務系の人々を主人公に据えた作品を書いたんです。それはかなり新鮮でした。しかし本書で東野圭吾は、警察小説の新しい可能性を開いたな、という感じがします。本書は、刑事がメインで動いているし、殺人事件がメインの話なんで普通の警察小説風だけど、でも事件とは直接関わらない出来事を手掛けることで最終的に事件解決に導く、という流れはこれまで誰もやったことがないんじゃないかなと思います。東野圭吾の作家としての力量の高さが現れている作品だと思います。
あと、これは作品の内容とは若干関係ないんですけど、連載期間の長さも凄いと思います。一番初めの話を書いたのが2004年です。この作品はその性質上、一番初めの短編を書く段階で、おおよそでもいいから全体の構造について枠組みを決めておかないと作品としてまとまらなくなります。5年も掛けてたら設定とか作品の空気みたいなものとか忘れちゃわないのかな、みたいに思いましたね。しかしなんでこんなに連載に時間がかかったんだろう?
どれも結構いい話なんですけど、個人的に好きなのは「煎餅屋の娘」「時計屋の犬」「洋菓子屋の店員」「民芸品店の客」といった感じでしょうか。もちろん最後の解決編である「日本橋の刑事」もよかったですけどね。今まで想像したこともなかったけど、実際殺人事件とか起きた場合、本書で描かれているように、事件とはまったく無関係な場所でもいろんな波紋が広がるということになりかねません。そういう部分を本当にうまく描いていると思います。
しかし一つだけ文句を言わせてもらえば、タイトルがイケてないですね。僕は前々から言っていますけど、東野圭吾にはタイトルをつけるセンスがないんじゃないかと思うんです。これまでの著作を見ても、なるほどこれはいいタイトルだ、というようなものがほとんどありません。もちろん既に東野圭吾なんてネームバリューだけで十分売れるわけで(もちろん作品の質も高いですけど)、例えば「糞の降る夜」なんてタイトルでも売れるでしょうけど、それにしたってもう少しセンスのいいタイトルはつけられないものだろうか、と思ったりします。そこだけが、画竜点睛に欠く、という印象があります。まあ東野圭吾の作品のタイトルがいい、という人もいるでしょうけどね。個人的な好みの問題です。
まあそんなわけで、とにかく完成度の高い作品です。そこらの作家にはまず書けない作品でしょう。それぐらい構成力に優れている作品だと思います。ぜひ読んでみてください。

東野圭吾「新参者」

ここのところ雨が多くて、売上がもう低いのなんの。確かに以前も、雨が降れば売上はかなり落ち込んだものですけど、ここ最近はさらに輪をかけて落ち込みが酷くなっています。通常の日の売上がそもそも下がっているんで仕方ないのかもしれませんけど、もうヤバイんじゃないかなと思いますね。まあ社員がどうにかする気がないみたいなんでもう仕方ないんですけど、このままどんどんお客さんが減っていくんだろうなと思うと悲しいですね。
先日のことですけど、高校生のお客さんから、『人気のあるミステリ』を教えてほしい、みたいなことを言われました。初めの内は、当然そのお客さん自身が読む本を探しているんだろうと考えていろいろ勧めていたんですけど、話を聞いている内にどうもそうじゃない、ということが分かってきました。『何か読んで面白かった本とかありますか?』みたいなことを聞くと、『知識として知りたいんです』みたいなことを言うんですね。どうも、小論文を書くとかなんとかで、そのテーマが一般的に人気のあるミステリ作家、みたいな感じらしいんです。
初めてそんな問い合わせを受けたんできちんとした返答が出来たかどうか分からないけど、とりあえず東野圭吾・伊坂幸太郎・宮部みゆき・横山秀夫・海堂尊・森博嗣・綾辻行人なんかの名前を挙げておきましたけど、大丈夫かなぁ。一応、作品を結構たくさん出していて、どの作品も割と安定して面白く、かつミステリを書く作家、という基準で作家を選んでみたんだけど。作品数が少なくても印象の強い作家とか、今はもう作品をほとんど出してないけどかつては相当人気のあった作家とか、やろうと思えばいくらでも話は出来たと思うけど、どうも相手はメモを取ってる様子もなかったし、そんなにたくさん話しても覚えられないだろうと判断してそれくらいにしておきました。さてどんな小論文を書くんでしょうね。
こんな記事がありました。

http://www.shinbunka.co.jp/news2009/11/091119-01.htm

小学館が不正返品をチェックするために、返品された本すべてを一点一点すべて精査した、という記事です。
不正返品というのはどういうものかというと、お客さんから買い取った中古本を返品する行為のことです。最近では中古本を扱う新刊書店が増えてきているんで、故意にせよ故意じゃないにせよ、そういう不正返品が行われる可能性というのが出てきてしまいます。
この不正返品、書店にはメリットが大きいんですね。書店というのはいくらでも出版社に本を返品することが出来るんだけど、これはある値段で仕入れた本を同額で出版社が買い取ってくれる、と解釈しても同じですよね。
そこで、元値500円の文庫本をお客さんから50円で買い取って、出版社に不正返品すれば500円になるわけです。差額450円丸儲け、ということですね。そういうことが出来てしまうから、取次も出版社も新刊書店が中古本を扱うことには慎重なんです。
いずれにしても、10月の小学館の調査では、不正返品はゼロだった、という結果が出たようです。これからも定期的にやっていくということですけど、それはそれでやっぱり負担でしょうね。出版社とすれば、新刊書店が中古本を扱いさえしなければこんな手間掛からなくて済むのに、と思っていることでしょう。まあ書店の状況もどんどん変わっていきます。書店は体質の古い業界だと言われています。それがいいかどうか僕には判断できないですけど、さすがに時代の流れには逆らえず、変化は仕方ないのだろうなと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、「最悪」「邪魔」に続く系統の作品です。「最悪」や「邪魔」とは出版社が違いますけどね。シリーズというわけではないですけど、雰囲気の近い作品と考えていいでしょう。
本書は、北国にある合併で出来た『ゆめの』という地方都市を舞台にした物語です。時期は真冬。その年は暖冬傾向だった近年では異常とも思えるような寒さで、雪もバンバン降りしきるようなそんな環境です。
本書は群像劇で、5人の登場人物の人生が交互に描かれて行きます。以下内容紹介では、5人の登場人物毎に内容を書いていこうと思います。

相原友則
県庁の職員で、現在はゆめの市の市役所に勤務している。社会福祉事務所という、生活保護の申請や不正受給への対応などを担当する部署に所属している。
合併前は、生活保護の申請なんかザルのようなもので、相手がどんな状況であろうが適当に申請が通っていた。市民の側でもそんな事情を見抜いていて、暴走族や暴力団なんかが生活保護を食い物にしていた。しかし合併によって無駄を排除すべしという機運が高まり、生活保護の受給に適当ではないという案件に厳しく対処して生活保護を取り下げ、新たな申請に対しても厳しく対応するという方針になった。
相原はまるで自分を便利屋か何かのように勘違いしているケース(生活保護受給者)に嫌気が差し、またふとした気の緩みから、他人の不倫の現場を覗くのが趣味になっていった。パチンコ店の駐車場で待ち合わせているらしい不倫妻を見て一人興奮する…。

久保史恵
現在高校二年生。東京の大学に進学し、何とかこの町から抜け出してやると固く決意している。ディズニーランドに行った時に見た東京に憧れ、東京の女子高生を羨み、ゆめの市なんていう寂れた田舎に住んでいる自分を嘆き、どうやってもこんな状況から抜け出してみせると思っている。
史恵の通う高校は一応進学校だが、半分は就職する。高校二年も終わりに近づくと、学校の中が進学組と就職組で真っ二つに分かれる。史恵は、バカばっかりの学校の同級生を馬鹿にしきっている。塾で出会う他校の生徒の方こそ自分が付き合うべき相手だ。
何としてでも東京の大学に行く。そう決意して塾から帰ろうとする史恵だったが…。

加藤裕也
主に老人を相手に、電気メーターの漏電機が壊れていると嘘をつき、法外な値段で交換をするという詐欺まがいの仕事で荒稼ぎしているセールスマン。亀山という暴走族上がりの男が、同じく暴走族上がりの人間を集めてそういう仕事をさせている。もちろん裕也も暴走族上がりだ。暴走族をしていた頃とは想像もできないくらい落ち付いた。完全に詐欺だけど、それでも仕事はきっちりやってるし、充足感もある。やっぱり男は金を稼いでナンボだ。
しかし一方で、ゆめの市は最近どうも落ち着きがない。工場で働くブラジル人とかつて自分がいた暴走族のメンバーがどうやら揉めているらしい。また裕也自身の生活にもとんでもない変化がやってくる。ひょんなことから子供を育てなくてはならなくなったのだが…。

堀部妙子
スーパーの保安員として、日々万引き犯を捕まえる仕事をしている。離婚し一人暮らしで、子供も生まれた土地を離れてしまい、孤独な生活だ。
そんな妙子がすがっているのが、沙修会という宗教だ。不幸には総量があり、世ですべてを出し尽くせば来世は楽になれるという教えに惹かれた。今では妙子は、現世利益には興味がない。どんな不幸であっても、それを捌くことが出来れば来世では幸せが待っている、と信じることで日々をやり過ごしている。
ある日、別の新興宗教を信じているらしい若い女の万引き犯を捕まえた時、万引きを見逃す代わりに沙修会の会合に来ないかと誘った。それがまさかあんなことになるなんて…。

山本順一。
父親の代から続く市議会議員。父親は地元では相当に力のある政治家で、その地盤を受けついだ順一も安泰のはずだ。今は、もっと大きな仕事がしたいと県議会に打って出るつもりでいる。
しかし懸念事項がある。自身が社長を務める会社が一枚噛んでいる廃棄物処理場建設に反対運動が起こっているのだ。専業主婦が中心となって、産業廃棄物処理場は要らないと訴えているらしい。そっちの対応に追われている内に、藤原という既に引退した市議会議員が、フィクサーを気取っているのか、横からネチネチと嫌がらせのようなことをしてくる。順一の会社の下請けのような建設会社の社長兄弟が軽率なことをしでかしたりして、とにかく落ち着かない。その内とんでもないことに巻き込まれていくのだが…。

というような話です。
これは傑作えしたねぇ。凄い作品でした。「最悪」「邪魔」「無理」の中では一番いいかもしれません。といっても、もう「最悪」とか「邪魔」のことは覚えてないですけどね。
本書のもっと深い部分にあるテーマみたいなものを一言でいうなら、『閉塞感』です。とにかくゆめの市に住む5人の登場人物は、何らかの形で閉塞感を感じている。しかも、地方都市に住んでいるから、という理由はみな共通にしても、それぞれが個人的な事情を抱えていて、それによって余計に閉塞感が増す、という感じになっています。
とにかくゆめの市はなかなかに悲惨な町です。これがどこまで一般的な地方都市の姿を表しているのかは何とも分からないけど。仕事がないから若くてやる気のある大人でも時給1000円以下の仕事に就かないといけない。お洒落をしても出かけていく場所がない。唯一の観光スポットである観覧車は平日は動いていない。みんな顔見知りみたいなところがあるから噂話なんかが早い。狭い範囲で知り合って好きでもないのに結婚するから離婚率が高い。外国人もたくさん入ってきて治安も悪くなっている。大資本のスーパーなんかが入ってきて商店街はシャッター通りになっている。雪が凄くてちょっとした買い物も車がないとやっていけないし、居酒屋も駐車場がないとやっていけない。そんな土地柄だから、タクシーもスナックも流行らない。金持ちはすぐに田舎を出ていくから、地方では文化が育たない。高校は荒れている。暴走族が未だにはびこっている…。などなど、とにかくなかなかに悲惨に現実というのが描かれていくわけです。
しかし、そこに住む人々というのは、もうどうしようもないわけです。もちろん、史恵みたいに東京の大学に出てなんとかここを抜けだしてやる、なんていう風に考えられる人間もいるけど、大抵の人間はゆめので生まれ、ゆめので結婚し、ゆめので年を取っていく。そこに明るい未来や豊かな将来と行ったものはない。それでも、どこにも行くことが出来ない。格差社会は地方により厳しくのしかかっていく。一旦落ちると二度と這いあがれないような仕組みになっている。そんな中で、日々もがきながら、ほんの少しの光明を頼りになんとかその日その日を過ごしている普通の人々。そんな人たちを奥田英朗は描いていきます。
しかし、話が進むにつれてどんどんととんでもない感じになっていくんですね。5人全員が、何か面倒なこと、最悪なことに巻き込まれていきます。5人の人生が少しずつ折り重なりながら物語は進んでいく。そしてラストがなかなかいいなと思います。
僕も地方出身者で、今は都心に近い所に住んでいるんだけど、地元に戻ろうなんて気はまずないですね。元々親が嫌で地元を飛び出してきたような人間だけど、子供の頃は地元が嫌だみたいなことはさほど思ったことはないですね。今と比べたら情報が格段に少なかったのかもしれませんね。インターネットだってそこまで重要なツールではなかったし、携帯電話はやっと周りが持ち始めたというような感じ。そんな中では、都会の情報がそこまで入って来ず、自分たちの生活と比べるようなきっかけもそんなになかったのかもしれません。
しかし今では、情報は黙ってても飛び込んできます。都会と地方の差は開くばかりで、地方はますます厳しい状況になっていくでしょう。別に僕は都心に住んでいるというだけで立場的には全然何でもない社会の底辺ですけど、それでも地方よりは全然マシなんだろうなとか思ったりします。
地方にしたって、昔からずっと問題はあったわけです。でも、情報が瞬時に伝わるようになって、格差というものが目の前にはっきりと映るようになってしまった。たぶん根本的な問題自体に大きな変化はないはずなんだけど、見る目が変わってしまったために、それが大きな変化であるように映ってしまう、ということなんでしょう。それが閉塞感となって本書の登場人物を圧迫し、明るくない人生を歩まなくてはならないことになってしまうわけです。
僕は高校までしか地元にいなかったんで分かりませんが、地方できちんと暮らしている人には身につまされるような作品でしょう。たぶんですけど、ものすごく共感できるのではないかなと思います。都会に住む人だって、暮らしが楽じゃないっていう人はたくさんいるでしょうから、同じく共感できる人は多いんじゃないかなと思います。結局どこだって同じなんでしょうけどね。閉塞感を生みだしているのは、都会という幻想なのかもしれません。
まあそんなわけで、これは傑作だと思います。ちょっと長い作品ですけど、奥田英朗の文章は癖がなくて読みやすいんでスラスラと読めると思います。ぜひとも読んでみてください。

奥田英朗「無理」

まずこちらから。

http://www.shinbunka.co.jp/news2009/11/091116-01.htm

紀伊国屋書店がポイントサービスを始めるとのことです。
書店もホントにポイントが普通になってきましたね。ウチの店は残念ながらポイントはありません。本というのは正直なところどこで買ったって同じなんで、それならポイントがつく書店で、と考えてしまうのは当然でしょう。
ウチの店はどうしたってポイントがつくことはなさそうですけど(まあ可能性がないではないけど)、近くにやっぱりポイントがつく書店があったりします。しかも駅の中に。強敵です。ポイントがつく以上の付加価値を生み出さなくてはいけないんですけど、社員はそんなこと全然考えてないだろうな。まあいいんですけど。
ところで、いつも思うんですけど、書店でのポイントサービスっていうのはアリなんですかね?というのも、本というのは値引きして販売することが出来ないと法律で決まっている商品なんです。ポイントで本を買うというのは実質的な値引きじゃないのかなぁ。その辺りがいつも気になるんですね。まあ別にオッケーということになってるならいいんですけど。
全然関係ないですけど、こういうビジネスをやったら面白いと思うんです。今日本にはありとあらゆるポイントがありますけど、それを相互交換できるようなサービスがあったら良くないですか?例えば飛行機に乗りまくっててマイルが貯まっている人がいて、そのマイルをツタヤのポイントと交換できる、みたいな。交換レートを設定して、あとはシステム的な部分を整備すればいけそうな気がします。でも、お客さん的にはメリットがあっても、企業的にはメリットはないかもしれませんね。どうなんでしょう。
もう一つこちら。これは本の話ではないですけど。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20091117-00000001-president-bus_all

「人はなぜ衝動買いをしてしまうのか?」とタイトルのついた記事です。ここで紹介されている実験が実に面白かったんで書いてみようと思います。
被験者に、どこにでもあるようなハサミを見せて、「これはいくらでしょう?」と質問をする。でも質問に答える前に、200から2000まで200刻みの数字が書かれたルーレットを回してもらった。
すると、本来ハサミの値段とはまったく関係のないルーレットの数字に引きずられ、そのルーレットの数字に近い値段を答えてしまう、というのだ。ハサミの値段とルーレットの数字に何の関連性もない、ということは頭で分かっていても、その通り行動出来ないのだそうです。
まあでも実際の買い物にあてはめればわかるような気がします。例えば元々の値段が1万円のものがあって、それが50%オフで5000円になっていたら、元々の値段である1万円が適正な値段であるかどうかに関わらず、安い!と感じてしまいますからね。
また心理学の世界で「ドアインザフェイス」と呼ばれているものがあります。これは相手に何かを頼んだりやってもらったりする時に使えるテクニックです。まず相手に、到底受け入れられないだろうという頼みをします。相手は当然断るでしょうが、その後自分の本来の頼みを言う、というものです。相手としては、一旦初めの頼みを断ってしまったのだから、次の頼みは断れない、という心理になるんですね。たぶんこのハサミの話も、こういうのに近いんだろうと思います。
書店では値引きは出来ないし、テレビCMや大々的なキャンペーンみたいなものもあんまりなかったりするんで分かりやすい形で衝動買いを起こすというのは難しいです。書店の場合では、誰にも操作できないような「全体の雰囲気」みたいなものに流されて本が売れていくような傾向があるような気がします。去年売れに売れた「○型自分の説明書」なんていうのはまさにその典型例でしょう。日本全体が、あの本を「買う雰囲気」になっていた。他にもそういう「全体の雰囲気」によって売れたなという本はたくさんありますけど、しかしそれは誰にも操作することが出来ない要因によって引き起こされているケースが多いような気もするんで難しいなと思います。
書店でやれるとすれば、やっぱりPOPでしょうか。かつて「モルヒネ」という作品が、ほぼPOPの力のみで死ぬほど売れたことがあります。僕も思わず衝動買いを起こしてしまうようなPOPを作れればいいんですけど、POP作りのセンスはないんで、作れるスタッフに頑張ってもらおうと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、ユニクロの社長(という言い方は正確ではないですけど。正確には、ユニクロなどを子会社に持つファーストリテイリング社の会長兼社長です)の著作です。本書は、一旦会長に退いた柳井さんが、3年で社長に復帰して以降の奮闘を描いているようです。
一旦会長に退いた柳井さんは、3年後会社が「大企業病」に罹っていることに気付きます。「大企業病」というのは、まあいろんな要素があるでしょうが、一番大きいのは「安定志向」になっているということです。柳井さんの持論では、会社は安定志向を目指してはいけない、とのことです。かつてのベンチャースピリットを忘れた会社は、このままでは潰れてしまうのではないかと思ったのだそうです。そこで柳井さん自らまた社長に復帰し、「第二創業」をテーマに掲げ、社内のすべての現場を回り、ありとあらゆる手を尽くし、現在進行形で改革を行っているその過程で記した手記です。
柳井さんの本を読んだのは初めてですけど、いやこの人は凄いですね。もし僕が今大学生だったら、もしかしたらユニクロに入社すべく努力し始めているかもしれません。まあどっちにしても僕は人生に対してやる気がない(やる気がないということを発見し、それを認めたことで僕は随分生きやすくなったわけですけど)ので、ユニクロに入社したところでついていくことはでしょうけど、こんな素晴らしい経営者がやっている会社で働いてみたいな、とそんな風に思いました。
本書のスタンスで僕が一番いいなと思った点は、失敗を隠さない点と、そしてまだまだ途中だという姿勢が伝わってくるという点です。
僕は経営者や会社の自伝なんていうのを時々読むんですけど、そういう本にはなかなか失敗っていうのは載ってないんですね。今までどれだけ凄いことをしてきたか、どんな凄い成果を挙げてきたか、というような成功体験ばっかりが書かれていることが多いです。
しかし本書には、大きな失敗から小さな失敗まで、またある意味成功である意味失敗という事例まで、隠さずに書いています。そもそも柳井さんの中で、失敗することが悪いことだと思っていないのだろうという風に感じられます。安定志向を否定し、常に挑戦し続けなければならないのだから、失敗だって当然ある、というスタンスなんだと思います。失敗も包み隠さずに書いているからこそ、成功したもの、特に世間的に失敗だと思われているけど社内的には成功だったという事柄が言い訳に聞こえず、なるほど実際そういうことだったのかと素直に受け取れるなと思いました。
しかも、成功について書く時でも、それはまだ未完成で途中なんだというスタンスを常に持っています。まだまだやれることがある、と考えている。これだけ大成功をしているように見えるユニクロの社長が、まだまだ成功とはほど遠いと考えているというのがいいなと思いました。
以下、本書から具体的な文章を抜き出しながら内容について書いていこうと思います。

まず、毎年柳井さんが全社員に宛てて正月1日に送るメールからの抜粋。ちょっと長いですけど。

そこで、私から皆さんへの問いです。
毎日、誰よりも真剣に自分の商売をしていますか?
あなたの仕事の受益者はあなたの仕事を高く評価していますか?
現場を誰よりも熟知していますか?
問題点や回答を現場で見つけていますか?
現物を手に取って、自分の目の前で商売していますか?
現物をあらゆる角度から見ていますか?
最悪の現実を理解しながら、最適な解を考えていますか?
世界中のだれよりも自分の職務に忠実に仕事をしていますか?
お客様の要望について誰よりも熟知していますか?
お客様の為に今日何をしましたか?
今日の我が店舗でのお買い物に、すべてのお客様が満足されましたか?
現在の市場の状況と競合店の打ち手を、誰よりも本質的に理解していますか?
競合店の次の打ち手に勝てる戦略がありますか?
自分の仕事に理想を持っていますか?
理想を何よりも大事にしていますか?
あなたの仕事は、世界の誰よりも革新的ですか?
その仕事で本当に世界一になれますか?
そのスピードで目の前の先行企業を追い抜けますか?
あなたの仕事の基盤と発想の源は、現場、現物、現実ですか?
あなたは誰よりも世界一になるために努力をしていますか?

ここに書かれている問いの多くは、書店でも有効ですね。同じ小売業だから当然かもしれませんが。さすがにここまで理想を高く持つことは出来ませんが、この文章をウチの社員に読ませたいなと思いました。

かつて新聞の全国紙で、「ユニクロは、低価格をやめます」という広告を打ったことがあるそうです。真意としては、「まず高品質なものを作る。そしてそれを出来る限り価格を下げて売る」ということです。今後のユニクロの決意を表明するものだったのに、社内のほとんどの人間は反対し、柳井さんとコピーライターだけが賛成した、という。
確かにかつてユニクロは安い服を売っているというイメージがあった。「ユニバレ」(ユニクロの服を着ていることがバレて恥ずかしい、ということ)という言葉もあった。でも今ではそんな風に思う人はいないだろう。多くの人の意識が変わったのも、まず社内の人間が意識を変えて行ったからかもしれない。

柳井さんは、部下に命令することが仕事だと思っている上司を非難している。まっとうな人だなぁ、とそういう文章を読むと感じる。

はじめに仕事というものがあって、それを成し遂げ成果を上げるために組織をつくって分業しなければならないのに、あたかも組織というもののために仕事が存在するかのような現象を柳井さんは嘆く。組織が大きくなっていくと必然的にそうなっていくのだろうし、柳井さんが社長を退いた後三年間で起きたこともそういうことだったのだろう。柳井さんの凄いところは、大きな組織になったらある程度は仕方ない、と考えるのではなくて、それはなんとかしないと、と考えるところだと思う。

ユニクロはSPA(何の略かは分からないけど)というシステムを採用しています。これは、商品の企画から生産、発注、流通、販売まですべて自分たちで引き受けるという仕組みです。
一般的にはSPAというのは、発注した商品はすべて買い取らなくてはならないからリスクはあるが、大量にロット発注して買い取るからコストも下がるし、売値も下げられる。
でもSPAのメリットはそんなところにはない、と柳井さんは言う。SPAの場合、圧倒的な売れ筋商品を発見するまで何度でも実験が出来る。また、企画から販売までを一手に引き受けることで重要な売れ筋情報を逃すことがない。SPAは世界でも通用するやり方だと言います。

ユニクロは障害者の雇用率が8.06%と、全国の大企業でトップクラスだそうです。「1店舗1名以上」を目標にやっているようなんですけど、そのきっかけになったのが大阪のある店舗での話。
その店舗で障害者を雇ったところ、店舗内部の従業員のコミュニケーションが非常にうまく回りだしたらしい。彼らが一生懸命に仕事をしている姿を見て、ほかの販売員がその人に協力しなければいけないとか、その人に対して気遣いをし始めた。その結果、そのテンポは他の店舗よりもむしろ人的効率がよくなった、と言います。
何が凄いって、柳井さん自身がそういう各店舗の動向を把握して、しかも良いと思ったらすぐに全体で取り組むところだと思います。

最近ヤフーのニュースで、日本マクドナルド社は基本的に残業禁止だというような記事を読んだんですけど、ユニクロも火曜から金曜までは残業禁止らしいです。人間仕事の効率をよくすれば残業なんかしなくてもどうにでもなる、ということのようです。

まあという感じでちょくちょく抜き出しては見ましたが、全体的に興味深い話、良い話がたくさん載っている作品だと思います。ビジネスマンとか経営者なんかには結構ためになる作品なんではないかなと思います。僕はビジネスマンでも経営者でもないけどこういう企業の話を読むのが結構好きだったりしますが、本書はページ数もそんなに多くないし、そこまで難しいことが書かれているわけでもないんで(僕は経済っぽい話は基本的にまったく無知ですけど、それでもほとんど普通に読めました)、ビジネスマンとか経営者じゃなくても十分楽しめるんじゃないかなと思います。就職活動中の学生なんか、読んだらユニクロに入りたくなるかもしれませんよ。ぜひ読んでみてください。

柳井正「成功は一日で捨て去れ」

ちょっとした文章を書く依頼がありまして、まあそういうのは嬉しいものですね。別に対したものじゃないんだけど、ブログとかじゃない形で文章を読んでもらえるというのはまた面白い経験だったりします。まあその文章をざっと書きたいのと、本がつまらなかったのとで、今日は全体的に感想は短めで以降と思います。
最近ウチの店ではとにかく機械的なものがどんどんぶっ壊れて行って、不便極まりないです。パソコンもプリンターも、そして空調までイカレてしまうわけで、その度に不便さが増します。プリンターは復活しましたけど、現在パソコンと空調は故障中。特に僕にとってはパソコンがぶっ壊れたのが困りますね。同じ機能を有するパソコンがもう一台あるんでそっちで仕事は出来るんですけど、一台しかないからみんな使って混み合うし、それに一台しかないが故に閉店間際じゃないと出来ない仕事なんてのもあったりするわけで、もうたまらんですね。まあ機械の故障は仕方ないとは思いますけど、何もこんなに集中しなくたってとか思います。
まあそんなわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、短編と長編(中編?)が収録された作品です。

「アヴェ・マリア」
ミツルとコンビを組んでナンパに明け暮れている主人公。その日は横浜を舞台に選んだけどうまくいかない。ミツルの勘に従って入ったバーでイイ女を見つけ、イイ感じになる。さてこれからどうしようか、っていう時に女の一人が幽霊屋敷に行きたいという。もちろん四人でそこに向かう…。

「終わりまであとどれくらいだろう」
桜が咲く東京のある一日を舞台にした、六人の男女の群像劇。恋人との別れに怯えるレズビアン、小猫を隠れて飼うロッカー、セックス中毒の経営コンサルタント、仕事にも家庭にも疲れ果てた家電量販店販売員、手相観もやるスーパーのアルバイト、離婚して別れた娘を想う女性歯科医。誰もが問題を抱えながら、それぞれの人生が少しずつ交わりながら一日が過ぎていく…。

というような話です。
正直ちょっと期待してたんです。表紙の装丁とかタイトルとかの雰囲気が結構いいんですね。なんか期待させるんです。これは傑作なんじゃないか、って。
でも正直面白くなかったですねぇ。
僕はなるべく、どう面白くなかったのか、というのを分析するようにしているんです。大雑把に言えば二種類。一つは作品がダメだった場合。もう一つは、作品は悪くないのかもしれないけど僕に合わないという場合。本書はどっちだろうと考えた時、やっぱり後者だと思うんですね。ちょっと作品が面白くないんじゃないかと思う。
もちろん、本書を読んで面白いと感じる人もいるかもしれません。ただ正直なところ、あまり多くの人が賛同できるような作品ではないでしょう。ごく少数の人が、これは凄い、面白い、なんて風に感じる作品ではないかなと思います。
具体的な話をすれば、「終わりまであとどれくらいだろう」の方はなかなか斬新な文体なんですけど、でも正直才能はあんまり感じられないんですね。独創的な文体というのは本当に難しいと思うんです。本当に才能のある作家じゃないと、オリジナリティ溢れる文体というのは生み出せない。僕はこの作家は、なんとなくこんな感じの文体にしてみた、という感じがしてしまうんです。実際「アヴェ・マリア」の方は普通の文体でしたしね。ちょっと変わった文体にしてやろう、みたいなそんな理由でこういう文体にしてるんじゃないかって思うんですね。
例えば、比較するのは酷だけど、舞城王太郎なんかはホント凄い才能の持ち主だと思うんです。あの人の作品の文体からは、才能がバリバリ感じられる。でも本書の文体からは才能らしいものは感じられないんですよね。まあ僕のセンスがないだけかもしれないですけど。
まあそんなわけで、作品自体が面白くないのか、それは正確には判断できないけど、少なくとも僕には合わない作品でした。恐らく、多くの人には合わない作品ではないかなと思います。きっと本書を面白いと思える人は少数ながらいるとは思いますけどね。これでamazonの評価がメチャクチャ高かったらどうしようかなぁ(笑)

追記)今の時点で、amazonには誰もコメントを書いていませんでした。

桜井鈴茂「終わりまであとどれくらいだろう」

今日はこんなニュースから。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091112-00000628-san-ent

小学生が図書館から本を借りた冊数が、調査以来過去最高、というニュースです。年間の平均が約36冊だそうです。
このニュースが良いニュースなのか悪いニュースなのか、見方によって難しいなと思いますけどね。例えば、単純に小学生が読む本の冊数が増えた、ということであればそれは喜ばしいことだけど、例えば小学生が読んでる本の冊数は実際は増えてないという可能性もあります。つまり、書店で買う冊数が減っただけで、その分図書館から借りる冊数が増えたんだとすれば、小学生が読む冊数も増えず書店の売上も上がらずで大して良いニュースではありません。まあその辺りのことは記事からはなんとも判断できませんけど、でもいずれにしても小学生が結構本を読んでるぞというニュースには違いないんで、なかなかいいじゃないかと思ったりします。
こういうニュースを見ると、自分の売場のことを考えてしまいますね。書店の担当者というのは基本的に、その店の客層に合った品揃えをしよう、と思うことでしょう。主婦が多い、サラリーマンが多い、お年寄りが多い、いろんな店があるでしょうけど、そのメインのターゲットに合わせた売り場づくりをしているはずです。
で、どうしてもそのメインのターゲットというのは、ある程度自由にお金を使える大人、という部分に絞られてきてしまうと思うんです。あんまりお金を持ってないだろう子供をメインターゲットにするより、お金をある程度自由に使える大人をメインターゲットにする方が売上は上がりそうでしょう。もちろん、子供をメインターゲットにした売場を作り親を連れて来させる、みたいなことをやっているところもあるでしょうけど、僕の印象としては、なかなか子供をメインのターゲットにすることはないような気がします。
でも、書店としては、本を読む世代を育てる、みたいな役割もあったりすると思うんですよね。子供が本屋に来て本と接したり出会ったりして、そうやって本を読む世代を育てるみたいな。でも僕も時々いろんな本屋に寄りますけど、やっぱり子供目線の売り場というのはそんなに多くなくて、大体大人をターゲットにしているようなところばっかりです。児童書の売場なんかは子供目線でしょうけど、小中高生が来ても何を読んだらいいか分からないような、そういう本屋ばっかりでしょう。もちろんウチの店もですけど。
売上のことを考えれば、よりお金を使ってくれるだろう大人をいかに引き込むかということを考えなくてはいけないんですけど、でもそれじゃあ次の世代が育たない。子供が本を読まないみたいに言われることが多いですけど(実はそんなこともない、という話もありますが)、その責任の一端は書店にもあるんじゃなかろうかと思うことがあります。
僕は、まだ漠然と考えているだけなんですけど、年齢別の売場みたいなことが出来ないだろうか、と思っています。今僕の文庫の売場は、出版社別で並べるのではなく、なんとなくのジャンル別で並べているんですけど、それをさらに推し進めて年齢別の売場とか出来ないかなぁと。売り場すべてを年齢別にするのはいろいろ問題はあるとしても、例えば『小中高生に読んで欲しい本』みたいな売場を常設出来たらいいなぁとか思ったりしています。
出版業界はとにかくヤバイから、何とかして目先の利益でもいいから確保しないといけないような現状です。でも、今のままだと、本を読む世代の育成が出来ず、より出版業界は縮小していってしまうような気もします。小中高生により本に興味を持ってもらえるような売り場環境を整えるというのも大事なことなのかもしれません。まあ正直、そんな余裕はないですけどねぇ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は三編の短編が収録された連作短編集です。

「バケツ」
叔父の会社に就職した神島大悟は、あまりのストレスに帰宅途中脱糞してしまう。それをきっかけに仕事を辞めた神島は、養護施設への再就職を決める。
そこで出会ったのが、『バケツ』というあだ名の軽い知的障害のある少年だった。一週間以上風呂に入らないこともあり、また軽い盗癖もあるバケツにはスタッフも手を焼いていたが、神島は真摯に向き合ってあげることにした。
昔から障害者向けのボランティアをやっていた神島には素晴らしい仕事だと思えたのだが、養護施設の他のスタッフの子供たちへの態度、あるいは養護施設にいる子供たちの家族などへの不信感からまたストレスが溜まっていき…。

「噛む子」
養護施設を辞め、バケツと生活を共にするようになった神島は、なんとか経営を軌道に乗せた日焼けサロンの他に、フランチャイズの保育園の経営に着手する。園長となった神島は、しかし子育ての現状を知り苦悩する。既定の時間になっても迎えにこない親や、親とは思えないような無責任な親など様々な世界を知る。バケツとの生活も順調ではあるがちゃんとしているとは言い難く…。

「駄目老人」
日焼けサロン、フランチャイズの保育園に続いて神島が手を出したのが、老人向けの何でも屋。話を聞いてあげるとか草むしりをしてあげるなど、ヘルパーではまかなえないような微妙なお手伝いをしようというものだ。
神島は、ほぼ寝たきりで麻痺が残って体もうまく動かせない老人の女装の手伝いをしている。無茶苦茶だけど、こういう部分で需要があるのだからやるしかないと神島は腹を括っている。この老人がいろいろとトラブルの種になっていく。
バケツは新聞配達の仕事を始めた。なんだかんだで何とかやっているらしい。しかしある時バケツが、神島の元を去って一人で暮らしていくといい…。

というような話です。
まあまあ良いかなという感じの作品でした。手放しで絶賛は出来ないけど、読後感はなかなかいいし、全体的に悪くない作品だなと思います。
著者は元々ノンフィクションを書く作家みたいですね。小説はたぶんこれが初めてとのこと。著者自身、高校を中退してボランティア活動をやったり、「ドッグレッグス」という障害者プロレス団体を設立したりと、本書の主人公・神島みたいな感じの人のようです。そういう経験から感じたこと、分かったことなんかを本書で小説という形で表したんだろうなと思います。
しかし軽々しく触れられない問題ですよね。正直なところ、障害者の現状とかって僕はまったく知らないし、正直あんまり興味もなかったりするんですね。確かにいろいろと大変なことはあるんでしょう。でもそれを、「障害者だから大変ですよね」なんていう大雑把な括り方をしたらやっぱりいかんのだろうなとか思うんです。そもそもやっぱり、「障害者」というひと括りでまとめてしまったら、零れてしまうものがたくさんあるでしょうしね。
例えば神島は、養護施設で出会ったバケツを引き取って一緒に暮らすことになるけど、どうでしょう、そんなこと出来る人ってどれぐらいいるでしょうね?たぶん世の中にはいるとは思うんです、そういうことが出来る人って。でも大抵の人は、一応表向き障害者には優しくとか親切にとかって思ってるけど、いざ自分の問題となると逃げるっていう人ばっかりだろうなって思うんです。そういう意味で僕は、この神島っていう主人公にはなかなか共感は出来ないんですね。こういう人は世の中にはいるだろうけど、僕はそんな風には絶対なれないですからね。
神島は、ボディビルで体は鍛えているけど気が弱い、という男です。いくつもの事業を経営していても気の弱さは変わらず、何か問題がおきてもあまり決断ができずなあなあにしてしまうようなところがあります。それを優しいという言葉に置き換えることは簡単だけど、でもどうなんでしょう。神島は、障害者や子供、老人なんかには凄く優しい。けどそれは、相手のことを考えた上での優しさなのか。時には厳しいことを言ったりすることも優しさになると思うんだけど、神島は気が弱いからそれが出来ない。だから、神島の優しさがどうも純粋な優しさであるという風には僕には受け取れなかったりするんですね。僕も実際神島みたいな『優しく見える』だけの人間なんで、ちょっと厳しく見てしまうのかもしれないけど。
まあなんか厳しいことをいろいろ書きましたけど、本書に好感が持てるのは、『障害者だから○○』という雰囲気があんまり出てこないというところだと思います。冒頭で出てくる養護施設ではちょっとそんな雰囲気はありますけど、それは著者の書きたいことではないということが伝わってくるし。『障害者』というのをひと括りにするんじゃなくて、本書では『バケツ』という一人の障害者にきちんと焦点を当てることで、『障害者であるバケツ』という個人の物語になっているということが分かるのがいいですね。やっぱり障害者なんかとこれまでたくさん接してきた経験があるでしょうから、そういう部分から、『障害者』をひと括りにしないみたいなスタンスが生まれたんだろうなと思います。
何だかあんまり誉めてないような文章ばっかりになりましたけど、決して悪くないんですよ。ただ、障害者とかをテーマにした作品って、難病に冒された恋人との恋愛みたいな感じで、ちょっと安易になっちゃうと思うんです。だから多少厳しい目で見てしまうという部分があるんだと思います。本書は障害者をテーマに扱いながらいやらしくないんでいいと思います。強くオススメするわけではありませんけど、気が向いたら読んでみてください。

北島行徳「バケツ」

さて今日もネットで拾った話を二つほど。
その前に一つ、時々ウチの店で発生する謎の出来事を(謎でも何でもないですけど)。
新書の売場に、「負けに不思議の負けなし」っていう野村監督の上下の文庫本を置いてるんですけど、時々この文庫が他の新書で隠されてることがあるんですね。恐らくお客さんの中に、野村監督が大嫌いな人がいるんでしょうねぇ。でも、何も隠さなくったって(笑)

まずはこちら

http://www.toyokeizai.net/business/industrial/detail/AC/f6f150676f13a52ed201386ed74ed6b2/

マンガ業界はヤバイよ、という話。
まあ別に昔から言われてるんでしょうけど、やっぱりマンガ業界っていうのは相当大変みたいですね。「週刊少年ジャンプ」でさえも全盛期に比べたら相当部数が落ちてるらしいし、コミックもそもそも売れていない。たとえ赤字だとしても原稿を集めるために雑誌を出し、単行本でそれを回収するというこれまでのやり方がかなり崩れてきている、という話のようです。まあ別に分かり切った話ですけど。
僕がこの記事で一番驚いたのが、「モーニング・ツー」という雑誌で連載している中村珍さんという漫画家の収入と支出の例が載っているところです。
詳しい明細がすべて載っているわけではないようですけど、「モーニング・ツー」に連載していた「羣青」という作品に関しての収支は以下の通り。

収入:618万2600円
支出:776万2334円

結局157万9734円のマイナスなんだそうです。
これはたぶん雑誌連載分で、単行本の収支は含まれていないでしょう。単行本が売れてくれさえすれば多少黒字になるのかもしれないけど、でもこの数字異常じゃないですか?雑誌に連載しているだけだったら、食っていけるどころか、借金を背負うことになってしまう、という状況のようです。
もちろんこれは、「モーニング・ツー」という一雑誌に連載している一漫画家の例であって、他の雑誌・他の漫画家がどんな状況なのかは知りませんが、ちょっとこれは凄いなと思いました。
マンガの将来ということに関連して、「神のみぞ知るセカイ」という人気マンガを描いている作家が警鐘を鳴らしている、みたいな記事もありました。

http://www.excite.co.jp/News/column/20091105/Getnews_36798.html

マンガ雑誌が面白くないことで新人がやってこず、さらにマンガ雑誌が面白くなくなっていく、という現状や、萌え系の絵が描けないマンガ家は生き残っていけなくなるだろう、というようなことを言っているようです。
いずれにしても、これからのマンガ業界というのは相当に厳しいのだろうなと思います。「スラムダンク」や「ワンピース」クラスの超大ヒットマンガというのも出にくくなっていくのかもしれません。雑誌も売れなくなって、さらにコミックも売れなくなれば、書店としてはもうどうしようもないという感じでしょうね。厳しいものです。
もう一個別の記事についても書こうかなと思いましたけど、それはまた後日にします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、作家・森見登美彦が、「ヘンテコであること」「愉快であること」に主眼を置いて、太宰治の作品群から選びに選んだ19編が収録されている作品です。巻末に森見登美彦による作品解説みたいな文章があります。
普段なら19編すべての内容紹介をするんですけど、多いし、文豪の作品の内容紹介は難しいし、というわけで、結構面白かったなと思った話だけ内容紹介を書くことにします。

「失敗園」

「カチカチ山 お伽草子より」
兎が狸をメタメタにするあのおとぎ話を太宰治が再構築。兎を処女の女性、狸を汚いオッサンに見立てて、いかに処女の女性は恐ろしいのか、みたいなことを描いていく。

「貨幣」

「令嬢アユ」

「服装に就いて」

「酒の追憶」

「佐渡」

「ロマネスク」
いにしえの仙術を学び美男子になろうとして失敗した仙術太郎、喧嘩に強くなろうとしたのに喧嘩をする機会をどんどん奪われてしまう喧嘩次郎兵衛、嘘ばっかり吐く才があって人の手紙の代筆なんかをしたりする嘘の三郎という三人の人生を別々に描きつつ、最後に三人が顔を合わせる、という展開の話。

「満願」

「畜犬談」
いつか絶対に犬に噛まれると思っている主人公は、犬に噛まれないようにと卑屈になって犬に丁寧に接する内に、犬に好かれるようになってきた。好かったではないかというとそうでもなくて、可愛くない可愛くないと思いながら何だかんだで世話をしてやる。その内皮膚病になってしまい、タイミングよく引っ越すことになった夫婦は犬を捨てようとするんだけど…。

「親友交歓」
小学校時代の「親友」であるという平田が家に訪ねてくる話。この平田という男がまあとんでもない男で、いかに主人公がその無茶苦茶につきあわされたのか、ということを描いた作品。

「黄村先生言行録」
黄村先生というのは、およそ風流というものがない人で、綺麗なものを見ても美味しいものをたべてもいっかな無関心。しかしそんな黄村先生がある時一緒に行った水族館で山椒魚を見てしまい、それから山椒魚にぞっこんする、という話。

「『井伏鱒二選集』後記」
太宰が師匠と仰ぐ井伏鱒二の選集に載せた後記。巻末で森見登美彦が書いているように、小説について語る太宰の文章は面白いと思う。

「猿面冠者」

「女の決闘」

「貧の意地 新釈諸国噺より」
ダメ男が大みそか、ひょんなことから10両手に入れ、こんな幸運は怖いからと言って近隣の者を集めて酒を飲むことにした。しかしそこで1両足りない、という騒ぎになるのだが…。

「破産 新釈諸国噺より」
金持ちの万屋に養子に入った男とその妻の物語。両親が死んだ途端浪費家になり、あっという間に財産を使いきってしまった男が、最後どうやって破たんしてしまうのか。ラストがいい。

「粋人 新釈諸国噺より」
大みそか、借金も山ほどあるのに僅かな金を持って茶屋に行き、嘘八百を並べてとりあえず遊んでやろうという男と、そんな嘘を見破り、可能な限り金をぶんどってやろうとする婆の話。婆の一枚上手っぷりが面白い。

「走れメロス」
まあこれはストーリーを書かなくてもいいでしょう。

というような感じです。
恥ずかしながらわたくし、本書で初めて太宰治の作品を読むんです。「走れメロス」もちゃんと読んだのは初めてだし、「人間失格」も読んだことがありません。もしかしたらどっちも国語の教科書に載ってたのかもしれないけど、そもそも国語なんて大嫌いだったんで教科書なんて碌に読まないし、授業でも太宰治を取り上げたことはたぶんなかったはずなんで、何にしても本書が僕の太宰デビューなんです。
森見登美彦が編集後記で書いているように、本書は「ヘンテコであること」「愉快であること」に主眼を置いている作品なんで、もしかしたら太宰らしい作品ではないのかもしれません。僕の中の太宰治の勝手なイメージは、鬱々とした暗い小説を書く作家だ、という感じなんですけど、本書はそういう印象のほとんどない作品集です。こういう作品から入ると、どれどれ他の作品も読んでみようかな、とちょっと思えたりするんで、太宰治の作品を読む入口としてなかなかよかったりするのかもしれません。
なかにはよくわからない作品もあったり、何が面白いのかどこがいいのかよくわからない作品もありましたけど、全体的に読みやすくてびっくりしました。僕が昔の文豪の作品って苦手でほとんど読んだことがないんですけど(夏目漱石の「こころ」とか、三島由紀夫の「金閣寺」とかあとは安部公房を何作か読んだくらいかな)、とにかく文豪の作品っていうのは文章が読みにくくて仕方ないんですね。だから僕は好きじゃないんです。でも太宰の文章は実に読みやすい。本書ではしかも、そういう傾向の作品ばっかり集めてるんだから当然かもだけど、ユーモア溢れるような面白い文章が結構あって、へぇ文豪でもこんな読みやすい文章を書いてる人がいたんだな、と新鮮な感じがしました。
僕が結構好きだなと思ったのは「畜犬談」と「親友交歓」と「貧の意地」でしょうか。「畜犬談」は、絶対に犬に噛まれるはずだから犬におべっかを使っている主人公の話なんだけど、最後の転調がおかしくって、「貧の意地」もそうでしたけど、落語みたいな感じがしました。
「親友交歓」は、「親友」だという平田がまあめんどくさいムカツク男で、こんな奴が親友面して現れたらムカツクだろうなぁと思いました。主人公がなんとか我慢している様子が伝わってきて面白いんです。
「貧の意地」は貧乏人ばっかり集まって酒を飲む話なんだけど、これが途中から誠に変なことになっていく。どう変になっていくのかは是非読んで欲しいんだけど、まさにタイトル通り「貧の意地」という感じの作品です。
「ロマネスク」「黄村先生言行録」なんかも楽しい小説だし、「『井伏鱒二選集』後記」も、内容には触れず井伏鱒二との関係について書いているだけなんだけど、何だか面白いんですね。なかなか面白い作家なんだなぁと思えました。
一つ残念だったのが、「女の決闘」という作品です。これ、実は読み飛ばしてしまったんですね。ちょっと初めの方を読んで、どうもこれは読みずらいな、何だかよくわからない小説だなと思って諦めてしまったんだけど、森見登美彦の編集後記に書いてある解説を読んで、面白そうだなと思ったんです。なかなか奇抜な構成の作品で、なるほどこんな作品ならちゃんと読めばよかった、とか思いました。まあいまから読めばいいんですけど、やっぱりなんとなく気が乗らないんですね。読みにくいのも事実だし。それがちょっと残念です。
まあそんなわけで、僕みたいにこの年まで太宰治の作品に触れたことがないという人は本当に少ないような気もしますけど、暗くない小説ばかりを一遍に集めて読んでみるというのもなかなか新鮮な経験なんではないかなと思います。あと、太宰治の作品を読んでみたいけど、みたいな人にもなかなかよかったりするんじゃないかなと思います。僕も、機会があれば別の作品も読んでみたい、と思わせる作品でした。とりあえず、「グッド・バイ」っていう作品を読んでみたいんですよね。
まあそんなわけで、読んでみてください。

森見登美彦編「奇想と微笑 太宰治傑作選」

今日もちょっといろいろとありまして時間がないもので、書店の話は省略。確かに書くこともないんだけど、こう省略ばっかりっていうのも僕のポリシー的にいかんですね。
内容に入ります。
本書は3つの短編が収録されている作品です。大枠の設定としては、両親が死んで葬儀屋を継いだ森野という女社長が、死者に関わるちょっとしたトラブルを解決する、というような感じです。

「空に描く」
そんなに親しくなかった高校時代の同級生・佐伯杏奈が、父親の葬儀を森野の葬儀屋で行った。その後しばらくして杏奈がまた森野を訪ねる。何でも、誰かから父親が書いたと思しき絵が送られてきた。しかしその絵は、父親と母親と姉しか描かれていない。しかもその少し前、甥っ子が死んだ父親の幽霊を見た、というのだ。どうしたらいいのかよくわからないという杏奈に代わって、この件を調べることになるのだけど…。

「爪痕」
森野の葬儀屋に、一人の女性がやってきた。葬儀をやり直したいのだ、という。
事情はこうだ。先日森野の葬儀屋が執り行った妻を喪主とした葬儀だが、故人には愛人がいて、その愛人こそ私だ。故人は妻のことを悪しざまに言っていたので、妻を喪主とした葬儀には納得がいかない。だから、私を喪主にした葬儀をもう一度執り行って欲しい。そういう依頼だった。
もちろん森野は断った。しかしその後故人の妻から、葬儀をやり直したいという話があるようだが、という話が届く。さすがに事情を調べ始める森野だが…。

「想い人」
仙台に葬儀をやってもらったらしいとある老婦人がふらりと森野の葬儀屋にやってきた。何でも話を聞いてもらいたかったらしい。その話というのが生まれ変わりで、何でも死んだ夫の生まれ変わりらしい中学生が時々やってくるのだ、というのだ。
その中学生は、その老婦人の昔の話をかなり詳しく知っているらしい。当人でなければ知りえないようなことだ。昔の思い出話なんかに花を咲かせながらお茶を飲んだりするのだ、という。
しかし森野にはそれが、年寄りから金をせびろうという不逞の輩にしか思えない。気になって調べてみることにするのだが…。

というような話です。
僕の本作への評価は、作品としては決して悪くないんだけど、僕が本多孝好という作家に求めているものとはやっぱり違うんだよなぁ、という感じです。
本書は、「MOMENT」という作品の続編的な位置づけの作品です。とはいえ、「MOMENT」を読んでいなくても一向に構いません。「MOMENT」という作品では、神田という名前の病院の清掃のアルバイトをしている男が主人公で、そこにチラリと葬儀屋の森野が顔を出します。本書では主人公が森野で、神田がチラリと顔を出す、という感じになっています。
ストーリーはどれもなかなかよく出来ていると思いました。どの話も、葬儀屋という設定からあまり違和感なく進んでいく話だし、最終的な解決にしても、葬儀屋という立場、つまり死んだ人間を成仏させるのが葬儀屋だという森野のポリシーに沿っています。もちろん現実に森野のような探偵まがいのことをする葬儀屋はいないでしょうけど、特に設定的に違和感を感じるようなことはありませんでした。
話自体も、どれも家族的なものに根ざしている部分が多くて、しかもミステリチックなテイストになっている。「空に描く」では、絵の持つ意味が焦点になっていくし、「爪痕」では葬儀をやり直したいという女の正体が焦点になるし、「想い人」では生まれ変わりだという中学生の真意が焦点になる。それぞれミステリとしても悪くない完成度だと思います。まあでも、「爪痕」はちょっと無理があるかなぁ、と思いましたけど。残りの二つは、最後まで読むと、なるほどそういう事情でそういうことになったのか、という風に納得が行くんですけど、「爪痕」はちょっと納得しがたいという感じがありますね。何故そんなことをしなくてはならなかったのかという部分の説得力が少し弱いかなと思いました。
キャラクターも結構いいんです。僕は主人公の森野みたいなクールな女性は好きだし、従業員の竹井のような掴みどころのない男もいいと思います。新入社員として雇った桑田もすっとぼけたいい味を出してるし、ところどころ顔を出す神田はちょっと存在感は薄いけど、でも森野が神田を回想するような場面では結構変わった男だなと思えます。
それに、森野葬儀社は寂れた商店街の一角にあるんですけど、その商店街の人々とのやり取りなんてのもなかなかいいですね。森野はまだ20代後半で、葬儀屋の社長としても若すぎるし(そのせいで仕事を断られることもある)、商店街の集まりなんかでももちろん圧倒的に若い。その中にあって、周囲にうまく溶け込んでうまくやっているなんていうところも結構いいなぁと思いました。
というわけで、作品としてはまあまあいいかなという感じではあるんです。でもですね、これが本多孝好の作品だというのが納得いかないんです。これが誰か別の作家の作品だというなら、おお結構いい話を書くじゃないか、と思えるんですけど、本多孝好の作品としてはあんまり納得がいかないんですよね。
結局本多孝好への期待が大きすぎるんだと思うんですね。やっぱり初期の作品が凄すぎました。「Missing」や「MOMENT」や「Fine days」なんかは僕の中では凄すぎる作品なんです。すげぇ作家が出てきたな、と思いました、ホントに。でも、作品を出すに連れ、初期の頃の輝きみたいなのがどんどん薄れてきてしまっているという印象がどうしても強いんですね。「真夜中の五分前」とか「正義のミカタ」とか「チェーン・ポイズン」とかもちろん読んでますけど、やっぱり僕の中ではパッとしないんですね。そこがどうしても残念です。昔のような作品を書いてほしい、とか言っても、まあ難しいんでしょうけどね。
まあそんなわけで、作品単体で見ればなかなかいい作品だと思います。でも、本多孝好の作品のなかでは、やっぱりそんなに良いと言える作品ではないかなと思います。昔のような作品を生み出せないものでしょうかねぇ。

本多孝好「WILL」

さて今日は時間がまったくないので書店の話は省略。
内容に入ります。
本書は、今年のこのミスの海外部門の1位ではないか、と言われている作品なんだそうです。とある出版社の営業さんに聞いたんですけど、後は、「ユダヤ警官同盟」と「ミレニアム」ってのがこのミス1位候補だとか。
主人公のアダム・チェイスは5年前故郷を追われた。とある殺人事件で無実の罪を着せられそうになったのだ。判決は無罪だった。しかし、周囲の目は、アダムが有罪だと言っていた。アダムの義理の母親がアダムに不利な証言をしたという事実も重くのしかかっていた。アダムは故郷を離れ、一人ニューヨークで暮らすことにした。
しかしアダムはとある事情から故郷に戻ってくることになる。親友だったダニー・フェイスから連絡があったのだ。相談したいことがあるからどうしても戻ってきてはくれないか、と。その電話では断ったが、結局アダムは故郷に戻ってくることになった。
そこで故郷を取り巻く様々な事情を知ることになる。アダムは未だに殺人者として顔を覚えられている。妹も弟も、父親も父親の親友の孫も、みんな何かしら問題を抱えている。かつて恋人だった女性とも、なかなかうまく関係を取り戻すことが出来ない。
そして何よりも、チェイス家を巡って町が二分しているらしいのだ。とある電力会社がこの地に原子力発電所を作ろうと計画しているのだけど、アダムの父親が土地を売ることに反対している。原子力発電所の誘致に躍起になっている人々から、チェイス家は悪意をもって見られているのだ。
そんな中、また殺人事件が発覚する。その後も死体やトラブルが絶えないのだが、常にアダムが疑われるような状況に入り込んでしまう。アダムには5年前の悪夢が蘇る。また無実の罪で捕まるのだろうか…。
というような話です。
うーん、僕にはこの作品がそんなに凄いとは思えなかったんですけど。この作品がこのミス1位候補なのかなぁ。このミス1位候補だと言われて読んだんでハードルが上がったのかもしれないけど、そんなに凄い作品だとは思えなかったです。まあでもきっとそれは、僕が外国人作家の作品があんまり得意ではない、ということなんだと思うんですけどね。
何と言うか、全体的に淡々と進んでいくんですね。作品としてはミステリという範疇に入るんでしょうけど、でもどこに盛り上がりがあるのかよくわからない、ちょっと起伏に乏しい作品かなと思いました。何よりも、結構長い作品なんですけど、読み始めてしばらくしても、物語の焦点がどこにあるのか全然分からないんです。本書の中では、いろんな人間がいろんなトラブルや問題を抱えています。で、その中で、どれが作品の中で中心を成す要素なのかというのが、どうしてもはっきりしないような印象があったんですね。だから、どの部分に興味を集中すればいいのかが分からなくて、どうしても散漫になってしまったという印象があります。
外国人作家の作品は、登場人物の名前が覚えられなかったり、文章がちょっと読みにくかったりするんで苦手なんですけど、本書はそんなことはありませんでした。登場人物は結構いるんですけど、わりときちっと描写されるからか名前もすんなり覚えられたし、文章も読みにくいと感じるほどではなかったんで、長い作品ですけどそんなには時間がかからなかった気がします。
僕が最近思うのは、外国人作家の作品というのは結局ごくごく一部の作品しか日本に入ってこないということなんですね。外国人作家の作品を翻訳して出す出版社の趣味みたいなものがかなり色濃く出てくるんでしょう。今日本で出版されている外国人作家の作品の雰囲気は、どうも僕にはあんまり合わないんですね。でもだからと言って外国人作家の作品がダメというわけではなくて、きっと日本では翻訳されていないような作品に僕の好きな作品があるに違いない、と思うようにしています。日本の作品だってそうですもんね。詳しいことは知りませんけど、伊坂幸太郎とか東野圭吾の作品って海外で翻訳されてるんですかね?一方で、桐野夏生とか森博嗣とかの作品は海外でも出てる。でもじゃあ桐野夏生や森博嗣の作品が合わないからと言って日本の作品がダメということになるかっていうと、やっぱりそれは違いますしね。
まあそんなわけで、本書は僕にはあんまり合わなかったです。時々外国人作家の作品でも当たりはあるんでこれからも読みますけど、やっぱり僕は日本人作家の方がいいですね。

追記)よかった。amazonの感想を読む限り、本書がダメという人も結構いるみたいです。というか、大絶賛かまったくダメかの両極端の作品みたいです。

ジョン・ハート「川は静かに流れ」

さて今日は、内容についてたくさん書きたいんで、書店の話はなしにします。
内容に入ります。
本書は、ノーベル物理学賞を受賞したアメリカの物理学者が書いたエッセイです。
と書くと、物理やら科学やらの話ばっかり、と思うかもしれませんが、まったくそんなことはありません。本書は、基本的に科学的なことについてはほとんど書かれていません。もちろん、著者自身の職業が物理学者なんで、物理学関係で関わる人間が多い。だからこそ、まったくそういう描写がないなんてことはないんだけど、基本的には難しい話はまったく出てきません。
じゃあ何が書いてあるのかというと、
①著者自身による社会や人間の観察
②いかに面白いイタズラをしたか
ということがメインになっていきます。
このファインマンという物理学者は、僕がこれまでもっていた物理学者のイメージを一変させる存在です。僕の中では、物理に関わらず学者というものは全般的に、自分の専門分野については果てしなく興味・関心を持っているのだけど、それ以外の分野については、ちょっと近い分野であれば多少の興味を持つけど、まったく関係のない分野であれば見向きもしない、というイメージがありました。
しかしファインマンさんは、もうありとあらゆることに興味を持つんですね。数学も好きらしく、それで暗号とかパズルが好きというのは分かるけど、ブラジルに行った時にサンバの時期にちょっと難しい楽器をかじってみたり、どこか別の国に行くのに相当真剣にその国の言葉を学んだり、まったく絵なんて描けなかったにも関わらず苦心して個展を開くまでになったとか、そういう物理やら学問やらとまったく関係のない分野についても常に興味を持っているんですね。そういう過程で出会った様々な人々や、あるいは分野の違う世界における常識の違いなんかを面白おかしく綴っていきます。
また著者はイタズラが大好きのようで、常に何か面白いイタズラが出来ないものだろうか、と考えているわけなんです。そういうこれまでにやってきたイタズラの数々についてもここで書いています。
というわけで、こういう話をしてもなかなか伝わりにくいでしょうから、いろんな面白かった具体例を以下に挙げてみようと思います。

ファインマンは高校時代、数学や定理を発明することに没頭していたらしい。もちろん既に発見されているものなのだけど、それらを独自のやり方で証明するなんていうことをずっとやっていたみたいです。そういう頭のいい人というのはいるものだけど、やっぱり凄い人というのは(特に科学系の人は)、子供の頃から才能があるものなんですね。

ファインマンは学生時代、あるイタズラをやってみた。何故か入口にドアが二つある部屋があったのだけど、その一枚のドアがどうも盗まれたようだった。それを見たファインマンは、もう一つ残っていたドアを盗んで隠してしまった。
その部屋の主はいろんな人に話を聞くのだけど、ドアがどこに行ったのかわからない。ファインマンも聞かれ、「ドアを盗ったのは僕だよ」というのだけど、ファインマンは嘘ばっかりついて人を騙すという評判が立っていたから信じない。
その後夕食の際、何人かのメンバーでこのドア問題について話し合った際、メンバー全員にドアを盗ったかどうか答えさせようということになった。そこで、他のメンバーはもちろん知らないと言ったのだけど、ファインマンは「僕がやりました」ときちんと言った。しかし「ふざけるなよ、ファインマン」と言って結局これも信じてもらえない、という話。こういうイタズラは、僕も機会があったらやってみたいものです。

ファインマンは眠りと意識というものについて興味を持ち、眠りに落ちる自分を観察する訓練をしたのだという。その結果、夢を見ている自分を客観的に外から眺めるということが出来るようになった、という話。何かに興味を持った時のファインマンのやる気というか根性みたいなものはなかなか凄い。

ファインマンが、専攻ではない生物の講座に紛れて授業を受けていた時のこと。ある猫の筋肉やらなんやらというテーマについて発表をする機会があり、ファインマンは動物解剖図解という本に載っていた諸筋肉の名前をまず列挙することから始めた。
しかし全部言わないうちにクラスの連中が、「そんなものみなわかってるよ」と言い出した。
その時にファインマンが言ったことが面白い。
「道理で四年間も生物学をやってきた君たちに僕がさっさと追いつけるはずだよ」
本を15分も見れば分かることをいちいち暗記なんかしてるから時間がいくらあっても足りないのだ、と言う。確かに僕もそう思うけど、学校では暗記しないとどうしようもないというのも事実なんだなぁ。

ファインマンは物理学者がなかなか出来ない積分もサラッとやってのけるらしいのだけど、それには高校時代のある経験が役に立っている。
高校の物理の先生がある時ファインマンに居残りを命じる。
「ファインマン。君は授業中話はするし、どうもやかましくていかんが、その理由はわかってる。退屈してるんだろう、君は。この本をあげるから、後ろの隅っこの席に行って自分で勉強しなさい。この本に書いてあることがみんなわかるようになったら、またしゃべってもよろしい」
そういうわけでファインマンはそれから物理の授業の間、本当に後ろの方の席でこの本を読むことになったらしい。少なくとも日本では、学校の授業というのは低いレベルの人間に合わせる。いきおい、出来る人間は退屈することになる。そういう生徒にこういう提案をするのは面白いかもしれません。

ファインマンがいかに様々なことに興味を持つかという話。大学時代部屋にいると、アリを見つけた。そこでファインマンは、このアリどもはどうやって食物を見つけるのか興味が湧いてきた。そこで、詳しくは書かないけど、その場で様々な実験をやってそれを確かめてしまう。恐らく本を読めば分かることなんだろうけど、ファインマンはその後も、専門家の言ったことを鵜呑みにせずすべて自分で確かめると決意する機会もあったりして、とにかく自分でやらないと気がすまないらしい。

ファインマンは原爆作りに関わっていた科学者で、ロスアラモスというところにいた。ロスアラモスでは科学者が外に出す手紙や、科学者の元に外から送られてくる手紙は検閲される決まりになっていた。原爆の秘密が漏れるのを防ぐためである。
そのやり方に不満を持っていたファインマンは、検閲官をからかってやろうといろいろとイタズラを仕掛ける。両親に暗号つきの手紙を送らせる。その手紙はもちろん検閲で止められ、ファインマンは呼ばれる。しかしファインマンはその暗号を解く鍵を知らない。両親に、暗号付きの手紙を送ってほしい、と言っただけなのだ。
あるいは、ロスアラモスで検閲をしているということを知っている妻が、「何だか○○に肩越しにのぞかれているみたいで手紙が書きにくいわ」という手紙を送る。しかし○○の部分のインクがにじんでいるのだ。ファインマンは検閲に抗議する。検閲では中身は見ても外から来る手紙に手は加えない、というルールがあるのだけど、インク消しで消しているじゃないかと。しかし検閲は、やるにしてもインク消しは使わない。ハサミで切るんだ、という。すると後日妻から、「いいえ、インク消しなんか使うもんですか。きっと○○がやったんでしょう」という返事が来るんだけど、今度は○○の部分がハサミで切られていて、またファインマンは検閲に文句を言う、という寸法だ。
さらにファインマンは検閲から、奥さんに検閲について手紙で触れるのを止めるように伝えてほしい、と言われた。そこでファインマンは妻宛ての手紙で、「僕は君に手紙の中で検閲ということに触れぬよう通告せよとの指令を受けた」と書いたのだけど、すぐに検閲に呼ばれることになる。なんと、『検閲』という言葉を使うな、というのだ。じゃあどうやって検閲を止めるように伝えればいいんだ!

原爆を作っていたロスアラモスには有名な数学者・科学者がたくさんいたが、物理の世界では神さまのような存在であったニールス・ボーアもいた。ロスアラモスにボーアが来るという日の朝、原爆のプロジェクトの中でもペーペーのようなものだったファインマンの元に、ボーアの息子から電話が来る。ボーアが君と話したがっているというのだ。とりあえず行ってみると、ボーアは原爆の効率を上げる方法についての話だった。ファインマンは科学の話になると、相手の立場を忘れてしまう。その時も、ボーアの意見をばっさりと斬ったりなんてことをした。
その後ボーアの息子から事の次第を聞くことになった。前にロスアラモスに来た時、ボーアは息子にこう言ったらしい。
「後ろの方に座っているあの若者の名前を覚えているかな?僕をおそれず僕の考えが無茶なら無茶と平気で言えるのは、あいつだけだ。この次にまた、いろいろな考えを論じるときには、何を言っても『はいはいボーア博士、ごもっともです』としか言わない連中と話し合ったって無駄だ。まずあの男をつかまえて先に話をしてからにしよう」
後にファインマンもノーベル賞を受賞することで権威を持つことになってしまい、それで面倒なことを背負うことになってしまうらしいのだけど、このボーアの姿勢は僕は好きですね。

挙げられている具体例がちょっと難しい(僕もイマイチわからない)んでここでは書けないんですけど、もの凄く耳の痛い話があった。「覚える」ことと「理解する」ことがいかにかけ離れているかという話です。
ブラジルの学生にある質問をすると、スラスラと答えられる。しかし、まったく同じ質問を、具体的な事例に照らして質問をすると、まったく答えられなくなってしまうのだ。覚えるという点でブラジルの学生は優秀だが、まったく理解していないのだ。
その現状を、とある講演でファインマンは、ギリシャ語をこよなく愛したギリシャ人の学者の話にたとえた。この学者は自分の国ではギリシャ語を勉強している子供があまりいないことを知っていたが、外国に行ってみたら猫もしゃくしも小学生までがギリシャ語を勉強しているのを見てすっかり喜んだ。彼はギリシャ語の学位をとるため試験を受けにきた学生に、「真実と美との関係についてソクラテスがどう考えていたか?」とたずねてみた。ところがこの学生は答えられなかった。そこで今度は「饗宴の第三部で、ソクラテスはプラトンに何と言ったか?」ときいたら、学生は急に元気になって、ベラベラベラベラ一語一句まちがえずに、すばらしいギリシャ語で全部暗誦してみせた。ところがその饗宴の第三部で、ソクラテスがプラトンに話したことこそ、真実と美との関係だったのだ!
僕にも耳が痛い話です。学生時代、覚えたり、覚えたことを活用したりと言ったことは出来たけど、きちんと理解していなかったなということを大人になって気付きました。当時は理解しているつもりでいたんですけどね。残念です。

とある大学からウチに来てくれないかと言われたファインマン。もらえる給与の額を見てファインマンはこう考えてその話を断った。
「給料のことを読んでから、ますますこれはどうしても辞退しなくてはならないと決心しました。どうしてそのような莫大な給料の職を辞退するのかといいますと、実はいつも僕がやりたいと思っていること―つまりすばらしい女性をアパートに囲って、何かいいものを買ってやるとかいったこと―が、その給料ならば実際にできるからです。そしてそうなればもうどういうことになるかは言うまでもないでしょう。僕は彼女が何をしているかなどと絶えず気をもんだうえ、家に帰ればいざこざがもちあがるに違いない。こういう心配事があると、いきおい僕は気楽でなくなり、不幸になってしまう。そうなると物理の研究にうちこむこともできなくなって、僕はめちゃくちゃになります!僕がいつもやりたいと思っていることは、実は僕のためにならないのです。だから僕はこのお話はどうしてもお受けできないと、心に決めたしだいです。」
変な人ですね。

他にも面白い話が満載なんだけど、僕の方の時間がないんでこの辺で止めることにします。
まあそんなわけで、科学的な難しい話はほとんど出てきません。難しいことがあっても、そこは理解しないで読み飛ばしても全然差支えはありません。エッセイというのはなかなか面白い作品がない、というのが僕の印象ですけど、この作品はこれまで読んだ様々なエッセイの中でもトップクラスに面白い作品でした。是非読んでみてください。

R・P・ファインマン「ご冗談でしょう、ファインマンさん」

ここ数か月ぐらいだけど、もう目に見えてお客さんの数が減っていてちょっと驚きます。売上自体は、来店客数の減少に比例することなく、ちょっと落ちたなぁぐらいの感じなんですけど、来店客数の減少がとにかく半端ない。僕の感覚で言うと、一時の半分ぐらいになっているんじゃないかなと思います。
とにかく、店内にお客さんが全然いないんですね。ウチの店は両側を道路に挟まれている立地で、出入口が二か所あります。片側の道路から入ってもう片側の道路に抜ける、というお客さんが、かつてはかなりいたんですね。そういうお客さんは、ただ店内を通り抜けるだけで特に何も買わないんですけど、それでも店内が活気づいているという雰囲気を持たせるのに一役買っていたと思うんです。
でも、何がどうなったのか、最近そういう取り抜けをしていくお客さんの数さえ激減しているんですね。そもそも、本を買うかどうかは別として、店に来てくれるお客さんの数がびっくりするぐらい少なくなりました。雑誌とか小説とかを立ち読みしているような人もホントに少なくなりました。
通り抜けをするお客さんさえ少なくなったということは、何か外的な変化があったのだろうかと思うんだけど、特別思い浮かぶようなことはないんです。確かに今周辺で開発が進んでいるんですけど、何か道順に変化があったとか、近くに他の本屋が出来たとか、そんなことは特にないんですね。通りぬけのお客さんの存在さえ考えなければ、品揃えや接客など店自体の責任に出来るんだけど、通りぬけのお客さんさえ少なくなっているとなると、何か別の原因を考えたくなります。
しかしまあいずれにしてもこれまでは黙っててもお客さんはやってきてくれたけど、これからはそうはいかないぞ、という状況になってしまいました。本当にウチの店はこれまで、黙っていても品揃えが酷くてもお客さんが来てくれるという、本当に立地だけでなんとか成り立っていたような店だと思うんだけど、それが通用しなくなってきているんでかなり厳しいでしょうね。売上的には少しずつ落ちている、という感じですけど、恐らくこれからどんどん下がっていくことでしょう。
黙っていてもお客さんが来てくれる本屋ではなくなった、という事実を、社員がどれだけ認識しているのか。まあ認識してないだろうなぁ。
文庫と新書は、とにかく来店客数が増えてくれないともうどうにもならないんで、かなり硬直状態です。文庫と新書の売場をどうにかすることで来店客数を増やすというのはなかなか現実的ではないですしね。まあかなり厳しいです。なんとか踏ん張ろうとは思っていますけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書はまあ、とにかく奇書と言っていい作品でしょう。ひたすら野糞をし続けるオッサン(本人は糞土師を名乗っている)の話です。
ことは高校時代にまで遡ります。大人の世界に幻滅した著者は、なんと仙人になりたいと言って高校を中退してしまいます。しかしそれで生きていけるわけもありません。著者は自然保護のボランティア活動みたいなものを組織しながら、一方できのこを始めとする菌類の写真を撮るというような生活を始めます。
著者が野糞をするきっかけになったのが、住んでいる町の近くで起こった「屎尿処理場建設反対運動」だったんだそうです。自分の排泄物が自然保護という観点からみたらおかしいことに気づいた著者は、だったらトイレを使わないで野糞をしてやる、と決意。それからほとんどトイレを使わないで野糞をするという生活になるわけです。
そんな中で気づいた、糞と菌類との共生。キノコの写真家として本格的に活動し始めた著者は、一方で野糞の記録もつけるようになり、しまいには野糞の良さを広めるまでになっていくのだが…。
というような作品です。
とにかく、全編野糞とキノコの話がメインです。ウンコについての本というのはそれなりにあるかもしれないけど、野糞に関しての本というのはまあないでしょう。この著者申請さえすれば、「下水道が完備されている国での野糞世界一」みたいなギネス記録もらえるんじゃないかなぁ。
著者は茨城に住んでいるらしいんですけど、仕事の関係で都内やあるいは海外に行くこともあります。その時でさえ、どうやったら野糞が出来るのかというのを真剣に考えて実行するんですね。もちろん、都内で仕事という時はなかなか野糞が出来ないわけなんだけど、野糞歴が長くなっていくに連れてその問題もどんどん解決していったようです。現在では、年に二三回トイレを使うだけで、後はほとんど野糞なんだそうです。
まあしかし、糞土師なんて言っていますけど、まともなこともちゃんとしています。写真の素人だったにも関わらず、キノコの写真を撮る人というのがほとんどいなかったということもあり、徐々にキノコの写真家として認められてくことになります。キノコに関する著書も多数あり、また仕事の繋がりで様々な著名な研究者なんかと関わりを持っているようで、そういう意味では立派なことをしている人なんですね。
まあ別に野糞が立派じゃないとは言わないんだけど、やっぱりすんなり受け入れるのは難しいですね。著者の言い分としては、人間は自然から食べ物を摂取しているだけで、排泄物は自然に返すことなく、逆に資源の無駄遣いして処理している。人間の排泄物は、他の生態系にとってはごちそうなのだから、自然に返さなくてはいけないよ、という感じのようで、まあ分からないでもないんだけど、じゃあ野糞が出来るかっていうとなかなか難しいですね。
伊沢式野糞の最も抵抗がある点というのが、最後手で肛門を洗う、という点です。まず、使い勝手のいい葉っぱ(これについてもどれがいいかということをきちんと調べて本書に載せています)でお尻を拭き、その後瓶に入れて持ち歩いている水を指につけ肛門を何度か拭く、というんですね。インドではみんなこうしているらしいんだけど、これはなかなかハードル高くないですか?
しかし、伊沢さんの周囲では野糞に啓蒙される人がいるらしく、中には女性にも関わらず野糞をするという人さえいるみたいです。凄いですね。すげぇなと思います。そういう、常識をサクッと飛び越えられる女性は好きですね。
糞土研究会みたいなものも発足したようで、会員が徐々に増えているんだそうです。いろんなところでウンコについての講演をするとバカ受けらしく、講演後もみんなでウンコの話をしているぐらいらしいです。ホント変なことやってるなぁと思います。
自分が野糞をしたウンコがどういう過程を経て土に返っていくのかというのも研究したらしく、巻末にその時の様子を写した写真が載っている袋とじがあります。僕はこの本を古本屋で買ったんですけど、その時点で袋とじは開けられていませんでした。で、僕も開けてないんですね。結構ぐっちょりとしたウンコの写真もあるみたいで、なかなか中を開く勇気が出ません。まあその内気が向いたら開けてみようと思います。
しかし、対象が何であれ、一つのことにここまで真剣に取り組むことが出来るというのはやっぱり凄いものだなと思います。高校時代大人に幻滅したことで今の道に進むきっかけになったわけですけど、やっぱりこういう特別な道に進む人というのは、社会に解け込めない人が多いんだろうなと思ったりします。僕も社会にはなかなか解け込めない人なんですけど、僕の場合はただ解け込めないだけのダメ人間なんでちょっと残念ですけど。
まあそんなわけで、オススメするほど面白い本というわけではないんですけど、奇書であることは間違いありません。変わった人の話を読みたい方はどうぞ。

追記)別に文句をつけるわけではないんだけど、amazonのコメントで「?」というものがあった。本書のタイトルが「くう・ねる・のぐそ」となっていて、野糞の話はたくさん出てくるけど、食うと寝るの話は出てこなかった、というのだ。
うーむ。なんというか、このタイトルはそういうことじゃないと思うんですけど。人間にとって、「食べること」「寝ること」「排泄すること」はとにかく大事な三つで、その大事な三つの内の一つをなんと野糞で置き換えちゃった人がいますよ、という驚きを生み出すためのタイトルだと思うんですね。だから食うと寝るの話がないのは普通だと思うんだけど…。

伊沢正名「くう・ねる・のぐそ 自然に「愛」のお返しを」

ネットから拾った話を二つほど。
まずはこちら。

http://blog.livedoor.jp/booksai/archives/1048732.html

なかなか面白いことをやっている本屋の話です。
この本屋が有名な本屋なのかどうかは知りませんが(でも何となく書店業界では有名そうな感じがしますけど)、ブログで告知するだけである程度お客さんを呼べる、と考えているのだとすれば、やっぱりある程度は知名度のある書店なんだろうなと思います。
店内で宝探し、という企画をやっているみたいです。
ブログ上で、スタッフが指定している30点のリストの中の本をどれでもいいから店内から探し出し、それを買うと会計時にプレゼントがもらえる、というものらしいです。会計時に、「ブログを見ましたよ」と伝えるのが条件ですね。
なかなか面白いですね。これでどれだけお客さんが乗ってくれるかというのはまた難しいところかもしれませんけど、こうやって面白いことをやっていれば話題にもなりますしね。
こういうのは、なかなか大手の書店では出来ないでしょうね。やってやれないこともないでしょうけど、企画として成立させるためにはかなりの点数をリストアップしないといけないし、全従業員に徹底周知しないといけない。しかも、上記店舗でもこういう状況になったらどうするんだろう、と思うんだけど、リストにある本をもし問い合わせを受けたらどうするんだろう?小さい本屋(たぶん上記の本屋はそんなには大きな店ではないと思う)であれば、問い合わせをした人と、レジで「ブログを見ました」と言う人が同じかどうか判別できるけど、大きな書店ではなかなかそれも難しいでしょう。まさに、町の書店ならではの企画だなと思います。
ウチの店でこういうことをやるというのはまったく期待できませんが、いろんな書店が頑張ってアイデアを出していろいろ盛り上げてほしいものだなと思います。
さてもう一つ。

http://150turbo.seesaa.net/article/131870461.html

お金を持ってる、ある程度上の世代の人は、あんまりamazonは使わないだろう、という話。やれamazonだ、やれ電子ブックだ、と出版業界も新たなステージに進みつつあるけど、金を持ってて本を買いたい世代はそういう流れになかなか乗れないんではないだろうか、ということなんですね。
まあ確かにそれはあるかもしれません。いくらamazonが便利でも、それはネットとかを使い慣れている人には便利というだけの話で、そうではない人にとってはやっぱり書店の店頭で聞くのが一番早いですからね。僕なんかも年齢だけは若いですけど、機械的なものにはとにかく疎いので(パソコンの機能はネットとワードぐらいしか使わないし、ゲーム機のハードやiPodも持ってないし、携帯の機能はメール・写真・アラーム・電話ぐらいしか使わないしという、実にアナログな人間です)、今どんどん進んでいる機械的な進化には到底ついて行けないでしょう。
記事では、ある一定以上の年齢の人が本が欲しい時はどうするか、という話が書かれています。まずamazonはパス。じゃあ本屋に行くかと言っても、近くに町の本屋がない。大型店に行くにしても、どこに何があるか分かりずらいし、車でいかないといけないし。だからどうするか。図書館に行ってしまうらしいんですね。
本が売れない売れない、と言っているけど、それはお金を持っている世代にうまくアプローチが出来ていないだけじゃないの?みたいな話のようですね。
その意見が的を射ているのかどうかは判断できませんが、なるほどそうかもしれないと思わせる話ではあります。確かに僕も、年輩の人に優しい売場作りが出来てるかと言われると、ちょっと黙ってしまいますからね…。
コンビニやスーパーには、陳列の法則みたいなものがあるみたいで、どこも大体似たような感じですけど、本屋の場合並べ方のルールみたいなものはないと言ってしまっていいでしょう。無限のやり方がある。どれが正解というのではなく、正解が無数にある。その中でいかに自分の店の客層にあったものを選択できるのか。考えなくちゃいけませんね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本書は、今後司法の歴史にも刻まれるであろう「光市母子殺害事件」の遺族である本村洋さんを、およそ9年間に渡り見続けてきた著者が描いた、本村さんの軌跡の物語です。
山口県光市で起きた凄惨な事件。妻は殺された後で死姦され、生後11か月の娘まで無残に殺された。犯人は18歳の少年。重く圧し掛かる、少年法の壁。
当初本村さんは、ただ何もせず何も発言せず裁判を傍聴し、人知れず終わっていくような、そんなことを考えていたようです。しかし周囲の人の励ましや、あるいは少年法に対する疑問、犯罪被害者の権利が踏みにじられていることへの不満などが重なり、やがて司法を巻き込み大いなる変革を突きつける論客となっていくのです。
元々本村さんは、少年法というものについてほとんど知りませんでした。そして、知れば知るほどおかしな法律であると思うようになりました。何故少年だからという理由だけで加害者であるのに匿名報道なのか。無期懲役でも何故7年で出てこれるのか。
また裁判についても疑問を覚えるようになります。何故遺影の持ち込みは禁止されるのか。何故裁判官はそれについて何も説明をしないのか。被害者が2名であれば通常は無期懲役だという、それまでの判例との整合性を合わせるかのような刑の決め方にも到底納得することが出来ませんでした。
本村さんは、自身が好奇の目にさらされることは分かった上で、自分の率直な疑問や不満をメディアを通じて発信するようになります。その後、犯罪被害者の権利を勝ち取るべきだと考える人々に賛同し、犯罪被害者の会の立ち上げに協力し、次々と改革を行っていくことになります。
そしてついにその日がやってきます。一審でも二審でも判決は無期懲役だった。最高裁での差し戻しが決定し、その後出た判決が死刑。被告が少年であり、かつ被害者が二名なら無期懲役というこれまでの判例を打ち破り、本村さんは死刑を勝ち取ることになります。
そんな一人の青年の闘いの物語です。
凄い話でした。僕はもちろん、事件自体は知っているし、その後の話も断片的には知っています。ニュースの情報源がネットのニュースだけになって、新聞(は元々読んでないけど)やテレビをまったく見なくなってしまったんで情報量は格段に減りましたけど、それでもそれなりには知っているつもりだったんです。
でも本村さんがここまで凄いことをやってのけたのだ、ということをようやく本書を読んで知りました。被害者を蔑ろにするような司法の慣習や、あるいは被害者を無視するような法律を次々と変えていくことになった本村さんですが、僕が凄いなと思ったのは、その冷静さです。
もちろん、事件が起こった直後こそ、本村さんは激しい感情に囚われ、ものすごいことを言ったりもします。「司法に絶望したから、加害者を早く刑務所から出してほしい。自分が殺すから。」というようなことを記者会見で言ったりするわけです。凄まじいですね。でももはや誰も何も言えないわけです。本村さんの言っていることが正しいと聞いている人は思うんですね。
そんな、初めの内は激情に駆られることがあったりするものの、その後本村さんは実に冷静に議論を展開していくことになります。少年法はおかしい、というのではなくどこかおかしいと思うのか、マスコミの対応や裁判についてもどういう点が間違っていると考えるのか。そして、何故死刑は必要だと考えるのか。そんな風に、感情ではなく明快な論理によって、矛盾点を突いていくわけです。
中でも次のような考え方が出来るのは凄いなと思いました。
二審での裁判官が「無期懲役」を下した判決について、本村さんはこう考えます。

『「この少年は、まったく反省もしていないが、日本の法体系や価値観からいえば、死刑にはできない。だから無期懲役にする」
そう言われるなら、納得はできないが、少なくとも筋は通っている。どうせならそう言って欲しかった。
しかし、最初から結論である無期懲役に持っていくために、どうしても裁判官は、Fが「反省している」「悔悟の念を抱いている」としなければならなかった。そこが本村には許せなかった。』

これは凄いな、と思いましたね。こんな風にはなかなか考えられないでしょう。本村さんは、『少年だから、あるいは殺したのが二人だから死刑には出来ない』という現実を非難したいわけじゃないんです。もちろんそういう現実をなんとかしたいと考えているんだけども、でもそれ以上に、『最初から決まっている結論に持っていくために現実を捻じ曲げる裁判官』の存在を非難するわけですね。事件から時間が経っているとは言え、ここまで冷静に考えることが出来るというのは凄いことだなと思います。
また、本村さんの周りには、本村さんを支える多くの人たちがいました。彼らがまたいいんですね。本村さんは何度も自殺を考えたといいます。しかしそれを踏みとどまらせ、司法と闘うことを決意させてくれたのが、周囲にいた様々な人々なんです。
妻子を失い、何のために仕事を続ければいいのか分からなくなった本村さんは、上司に辞表を提出することにします。そこで上司に言われたのが次の言葉。

『「この職場で働くのが嫌なのであれば、辞めてもいい。君は特別な経験をした。社会に対して訴えたいこともあるだろう。でも、君は社会人として発言していってくれ。労働も納税もしない人間が社会に訴えても、それはただの負け犬の遠吠えだ。君は、社会人たりなさい」』

この言葉は素晴らしいですね。普通に慰留しても、きっと本村さんの辞める意志は変わらなかったでしょう。でも、何か訴えたいことがあるなら社会人として訴えてくれ、というのはかなり痛烈な意見です。しかしなるほどと思わせる。いろんな問題で不義理を働く会社が多い中で、こんな風な対応の出来る会社があるのだなと思うと、何だかまだ捨てたもんじゃないなと思えますね。
次は、一審で無期懲役の判決が出た後、検事が上告は望まないと言った本村さんに言った言葉。

『「僕にも、小さな娘がいます。母親のもとに必死で這っていく赤ん坊を床に叩きつけて殺すような人間を司法がばっせないなら、司法は要らない。こんな判決は認めるわけにはいきません」
銀縁の眼鏡をかけ、普段、穏やかでクールな吉池検事が、突然、怒りに声を震わせたのである。目が真っ赤だった。本村たちは息を呑んだ。
「このまま判決を認めたら、今度はこれが基準になってしまう。そんなことは許されない。たとえ上司が反対しても私は控訴する。百回負けても百一回目をやります。これはやらなければならない。本村さん、司法を変えるために一緒に闘ってくれませんか」』

僕はいろいろ本を読んでたりするんで、警察や検事がいかにして事件を捏造するかなんて話を読んだこともあります。それに、確実に勝てる裁判ではないと裁判に掛けないなんていう話もあるわけで、検事というものにあんまり良い印象はありませんでした。でもこのエピソードを読んで、なるほど悪い人ばかりでもないんだな、と思うことが出来ました。
最後に、一審判決が出て、刑務所から出てきたら犯人を自分が殺す、という記者会見を行った後、東京のテレビ局に呼ばれて飛行機で向かう途中、スチュワーデスに掛けられた言葉。

『「山口の事件のご遺族の方ですよね」
座席に座っていた本村に、スチュワーデスが飲み物のサービスをしながら声をかけてきたのである』
「はい、そうです」
本村は、返事をした。
「お昼、テレビを見ました。これはこの飛行機に乗っているスチュワーデス全員の気持ちです。こんなものしかありませんけど…。これはお守りです。がんばってください。」
スチュワーデスはそう言って、小さなだるまのお守りを本村に差し出した。』

その後本村は、自分は犯人をこの手で殺すとテレビで言った人間なのに、そんな人間を支持してくれる人もいる。それに勇気づけられた、と語っています。
この場面はちょっと泣きそうになりました。周りに人がいるところで読んでたんで危なかったです。
こういう様々な人に支えられながら、本村さんは闘いを続けていくことになります。
最後に死刑判決を勝ち取った時の様子も凄い。これは当然の判決を勝ち取ったに過ぎないんだから泣いてはいけない、と言い聞かせていたそうです。
社会の大きな流れがあったこともまた事実でしょう。しかしも本村さんま、まさに自らの手で司法を変えてしまいました。どの驚くべきパワーには脱帽です。
最近また光市の事件が取り上げられることが多くなってきています。「福田君を殺して何になる」という本で、光市の事件を実名で名前を出して本を出した著者と出版社が訴えられる、みたいな事態になっているかと思います。どこまでも余波が続いている、という感じがします。
本書を読んでてとにかく腹が立ったのが、被告側の弁護士です。もちろん彼らにも色々と言い分はありましょうが、本書を読む限り腹が立ってしかたありませんでした。
本書を読む限り、僕の目に映る彼ら弁護士の姿は、とても誠実だとは思えません。僕は別に、あんな事件を起こした人間を弁護するなんて考えられない、ということを言いたいわけではありません。どんな事件を犯した人間でも、きちんと裁判を受ける権利があると思うし、それにはちゃんと弁護士が必要です。
でも本書に出てくる弁護団は、いずれも死刑廃止論者ばかりのようで、死刑廃止の流れを作りだす一環としてこの事件を捉えています。そのために、最高裁を欠席したり、あるいは無茶苦茶な『新事実』を出して来て事実そのものをひっくり返そうとしたりします。もう無茶苦茶ですね。この弁護団については、橋本弁護士が訴えられるみたいな話もありました。いつでもどこでも話題になっていたなという印象があります。
僕は正直犯罪被害者になったことがないんで、本村さんの気持ちがわかるとは言えません。それに、正直に言えば、この事件についてもすごく関心があったわけでもないし、これからも自分は別に犯罪被害者になることはなかろうと高を括っているんで、深刻な問題だと捉えることはあんまり出来ていないと思います。それでも、こういう出来事があったんだということを知ることが出来たのは良かったなと思います。大きな力の前では人は無力かもしれないけど、でも前に進み続ければ何かを動かすことが出来るかもしれない。そんな風に思える作品でもあります。是非読んでみてください。

門田隆将「なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日」

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