黒夜行 2023年07月 (original) (raw)

やはり世の中には凄い人がいるものだなと思う。「シモーヌ・ヴェイユ」という人物のことは、この映画を通じて初めて知ったけど、「人類の歴史に名を刻む人物の一人」だなと感じた。映画の副題に「フランスに最も愛された政治家」とあり、それがどの程度真実で、真実だとしたらどれぐらい愛されていたのか僕には知る由もない。映画では、あまりその辺りに触れられないからだ。この映画は、「シモーヌ・ヴェイユ」という女性政治家の、そのあまりに凄まじい人物の半生を、時系列をグチャグチャにして描き出す映画である。

ナチスの強制収容所から生き延びた女性が、フランスの法律・社会・歴史を次々と塗り替えていくのである。彼女は保健大臣として、中絶が違法とされていたフランスにおいて「中絶法」を成立させ、後に設立されたばかりの欧州議会(EUの主要機関の1つ)の女性初の議長に選出された。またパリ政治学院を卒業したばかりの若い頃には、子育てをしながら女性初の司法官に自らの意思でなり、フランスにおける受刑者の待遇改善に尽力した。その活躍は「女性である」という事実を抜きにしても凄まじいものであるし、「政治と司法への女性の参画は誤りだ」と面と向かって言われるような時代にあっては、より凄まじいことに感じられるだろう。

この映画では、そんなシモーヌが、晩年にそれまでの来歴を思い返しながら回顧録を書いている、という設定で展開され、彼女の人生における様々なターニングポイントが描かれていく。

シモーヌは4人兄弟で育ち、両親とともにニースで暮らしていた。「同化ユダヤ人」であった一家は、フランスへの愛国心を抱いており、特に両親から「世俗主義を重んじるように」と常に言われていた。そして、フランス共和国を信じており、国が私たちのことを見捨てるはずがないとも考えていた。
しかしその予想は儚くも裏切られる。戦争が始まり、彼女の一家はユダヤ人として強制収容所に送られてしまう。男女別で収容されたため、父・兄とは離れ離れになってしまい、また収容所に送られた時点で姉のドゥニーズはいなかった(事情ははっきりとは分からないが、映画の後半でなんとなく状況を示唆する場面がある)。シモーヌは、母イヴォンヌともう1人の姉ミルーと3人で、劣悪な収容所での生活を経験した。
その後、なんとか生きて収容所を出られたシモーヌだったが、かつての記憶が蘇ることもあり、ベッドでは寝られない身体になっていた。昔から本を読むことが好きだったシモーヌは、弁護士を目指しパリ政治学院に通っていたが、そこで後に夫となるアントワーヌと出会う。アントワーヌの一家もユダヤ人だった(が、映画で描かれている限りの情報から判断するに、「ユダヤ人であること」によって戦時中にシモーヌほどの苦労はしなかったと推察される)。アントワーヌの家で食事をしていた際、両親の口癖だった「世俗主義」という言葉を耳にして、シモーヌは思わず微笑む。
その後2人は結婚、シモーヌは大学を卒業したが、既にアントワーヌとの子供を育てており、弁護士になるという夢を一旦脇に置き、家庭に入った。しかしその後、アントワーヌが人民共和派で働くことが決まる。そしてこのことが、シモーヌが政治の世界と関わる1つのきっかけとなった。
その後、保健大臣となったシモーヌは、男性議員たちから口汚く罵られながらも、どうにか「ヴェイユ法(中絶法)」を成立させる。その後も、フランスに限らず世界にも目を向け、「弱き者」のために骨身を削って活動を続けていく……。
というような話です。

とこのように、この記事ではシモーヌの人生を時系列で紹介したが、映画はまったくそうなっていない。「メインとなる描写の流れの中に、過去の回想シーンが頻繁に差し込まれる」みたいな構成でさえない。とにかく、トランプをシャッフルするみたいにして時系列をグチャグチャにしている。

別にその構成が悪いと言っているわけではない。ただ、「外国人」には少し観にくいとは感じた。

冒頭で書いた通り、シモーヌ・ヴェイユという政治家はフランスで大人気であり、恐らく彼女の生涯についてはフランス国内でもかなり知られているのだと思う。だからこそ、「時系列にこだわらない」という構成でも、たぶんまったく問題はない。ただ、シモーヌ・ヴェイユという政治家にあまり詳しくない人が観る場合、やはりちょっと混乱するかもしれない。若い時と晩年とで女優が変わるので、「いつの時代の話なのか」という理解に混乱することはないが、あまりにも時間軸を行ったり来たりするので、一般的な映画よりは少しだけ集中力を要するかもしれない。

「シモーヌがかつて強制収容所に入れられていた」という事実は、映画の最初の方で情報としては提示される。しかし、姉のミルーも同様だったようだが、「かつて収容所に入れられていた」という事実を、なかなか周囲には伝えられない。ミルーはシモーヌとの手紙の中で「(付き合っている相手は)優しくしてくれるけど、昔のことは言えない」みたいなことを言っている。シモーヌは夫アントワーヌにその事実を話しているが、それも「言わざるを得なかった」というような伝え方だったんじゃないかという気がする(それを示唆する場面も描かれる)。

映画では「シモーヌによるナレーション」の音声も挿入される。恐らくだがこれは、シモーヌの回顧録の文章をそのまま使っているんじゃないかと思う(あくまでも僕の予想だが)。そしてそのナレーションの中に、こんなものがあった。

【生存者や目撃者は沈黙を強いられている。
「黙って生きろ」という雰囲気を感じる】

ドイツは当然だが、ドイツに限らず、ホロコーストに関わってしまったすべての人・組織・国はやはり、大っぴらに謝罪したり反省の弁を述べたりしたいとは思わないものだろう。彼女が若い頃のフランスも、そのような雰囲気が漂っていたのだそうだ。反省よりも忘却を選んだということだろう。そして結果的にはそのことが、「シモーヌ・ヴェイユ」という傑出した政治家を生んだとも言えるかもしれない。

彼女はある場面で、「無視されて、今も苦しい」と口にする。自分が経験した「おぞましい出来事」は、もちろん忘れられるなら忘れてしまいたい出来事だろう。しかし、それはできない。そして、そうであるならば「こんなことがあったんだ」と広く伝えたい、あるいは広く伝えられなくても、身近な人には気軽に話せる世の中であってほしいと願うものだろう。しかしそれもなかなか叶わない。彼女の中にはそういう、「鬱憤」「怒り」としか言いようがないものが積もりに積もっていたのだと思う。

彼女は、「時に生還したことが失敗に思える」と回想し、さらに、

【親衛隊と寝たから生還できたのかと、老婦人に尋ねられたことがあった】

とも言っている。「あの現実」を知らない者からの「無知ゆえの非難」みたいなものが、彼女には感じ取れてしまっていたのだろう。しかしだからと言って、何ができるわけでもない。

だからこそ、「女性初の司法官」に就任して以降、それが爆発していく。この映画では冒頭で、あっさりと「中絶法の成立」の場面を描くのだが、そこで見せたシモーヌの力強さの源泉が何なのかは、観客にはまだ知りようがない。しかし物語を追うに連れて、それが「強制収容所での凄まじい経験」に裏打ちされているのだということが理解できるような構成になっている。

映画の後半で、彼女が経験した「強制収容所の実態」がリアルに描かれる。この強制収容所のシーンは、大量のエキストラ(しかも、女性が裸にさせられたり髪を切られたり、あるいは極寒の中行軍させられたりする。行軍シーンの背景は合成かもしれないが)と大規模なセットで描かれており、メチャクチャ金が掛かってそうだなと思った。それまで描かれていた「政治家としての威勢の良さ」「権力を正しく振りかざして正義を貫く」という描写とあまりにも対照的であり、その凄まじさにも圧倒された。

ホロコーストについての映画なりノンフィクションなりは結構触れてきたし、その度に「クソみたいな世界だな」と感じるのだが、この映画の場合は、「シモーヌ・ヴェイユという偉大な政治家が経験した出来事であるという実名性」や「女性の経験であるという特異性」などがあり、これまで触れてきたホロコーストともまた少し違う受け取り方になったような感じがした。

シモーヌは自身の強制収容所での経験をカメラの前で話す機会があったのだが、それが実現した経緯も興味深い。シモーヌは恐らく、夫など身近な人間には自身の過去を伝えていたが、公には言っていなかったのだと思う。映画では時系列がグチャグチャになっているので、中絶法成立の時点で公になっていたのかどうかちょっと判断できなかったが、少なくとも女性初の司法官として働いていた頃にはそのことは口にしていなかったはずだ。

きっかけとなったのは、何かの記念式でシモーヌが礎石(建築工事の開始を記念して設置する石)の設置をするという場面。彼女は慣れた手付きでセメントコテを操り、セメントを広げていく。隣にいた軍人から「上手ですね」と聞かれた彼女は、「ええ、やってましたから、収容所で」と答えるのだ。この記念式の場にはマスコミもいたため、この告白が恐らく、「シモーヌ・ヴェイユが初めて公に強制収容所での経験を認めた出来事」となったのだろうと思う。そうして彼女は、自身の経験を口にすることになったのだ。

勝手な推測に過ぎないが、もし強制収容所での経験がなかったとしても、「不正義を許せない」というシモーヌの性格はなんとなく生来のものな気がするし(収容所での描かれ方から、なんとなくそう感じた)、やはり社会を変えるようなことに携わる人生を歩んでいたかもしれない。しかし、もし強制収容所での経験がなかったら、夫に「綺麗に着飾った主婦なんかになりたくない」と啖呵を切ってまで司法官を目指したり、欧州議会で「優先順位がある。終戦を優先にしてはならない」と熱弁をふるうこともなかったかもしれないとも感じる。だからと言って「シモーヌ・ヴェイユにとってホロコーストは良い経験だった」などと考えるはずもないのだが、「中絶法を成立させ、欧州議会議長となったシモーヌ・ヴェイユ」が存在しない世界は恐らく、今よりもずっと悪い世界だったと思うので、部外者としては「シモーヌ・ヴェイユが強制収容所を経験し、生き延びてくれたことは、結果として良かったのかもしれない」とも考えたくなる。難しいところだ。

今もきっと、世界のどこかで、シモーヌ・ヴェイユのような人が世界を変えるべく奮闘していることだろう。今日映画を観るまで「シモーヌ・ヴェイユ」という人物のことを知らなかったのだが、他にも山程彼女のような存在がいると考えるのが自然だろう。

世界の変革を個人の双肩に委ねてしまうのは勝手だとも感じるが、誰もがシモーヌ・ヴェイユのようには生きられない以上、やはり個人の頑張りに期待したくなってしまう部分もある。だから、いつも感じることではあるが、シモーヌ・ヴェイユのようには生きられない私たちは、せめて「積極的に知る」ということぐらいは頑張るべきなのだと思う。

「シモーヌ フランスに最も愛された政治家」を観に行ってきました

これはちょっとダメだったなぁ。全然ストーリーが理解できなかった。あまりにも意味が分からなかったので、「裁判を傍聴していたラマが実は子供を殺した犯人なのだが、法廷に立っているロランスが彼女の身代わりとなって裁判にかけられている」という話なのかと思ったぐらいだ。後で調べると、全然そんな話ではなかったようだけど。

映画は、2016年にフランスのサントメールで実際に起こった事件・裁判を基にしているそうだ。映画のセリフはすべて、裁判記録に残された言葉をそのまま使用しているとかで、だから裁判シーンはそのまま、実際に裁判を踏襲していると言っていいのだろうと思う。

法廷にかけられているのは、セネガルからフランスへとやってきた移民女性・ロランス。「とても美しいフランス語」を話す女性。それはまさに、「黒人女性とは見られたくない」という強い想いの表れなのだそうだ。
ロランスは、生後15ヶ月の娘を海辺に放置し溺死させた罪に問われている。裁判の冒頭、裁判長から「何故殺したのですか?」と問われたロランスは、「分かりません。それをこの裁判で知りたいと思っています」と、被告人とは思えない返答をする。さらにその上で、「無実を主張します。私に責任があるとは思っていません」と口にする。ロランスは、「娘を海辺に放置し溺死させた」という事実の認定については認めている。それでも、「自分は無実だ」と主張するのである。
両親からの期待がプレッシャーだった、住んでいた家からの退去を命じられたためデュモンテ氏と同居を始めたなど、殺害に至るまでの過程を裁判長が質問していく。質問は主に裁判長が行い(日本の裁判とは勝手が違う)、最後に検察官・弁護士に追加で何か聞くことがあるかと問うが、検察官は何も質問をせず、女性弁護士も2,3付け足しのような質問をするだけであっさりとやり取りが終わる。
その後、ロランスが殺したとされる娘の父親であるデュモンテ氏が証人として喚問され、証言を行う。ロランスとはまったく年齢が釣り合わない高齢男性は、「決して嘘ではないのだろうが、自己保身に満ちた答弁」を繰り返す。
そんな裁判を、小説家であり、ロレンスと同じ黒人で、白人男性と結婚しているラマが傍聴している。ラマはロレンスに自分自身を重ねる。私はこの国で、「移民の黒人女性」として真っ当に生きていくことが出来るだろうか……。

ストーリー的にはこんな感じで進んでいく。

やはり難しいのは、「フランスにおける移民や黒人の立場」をなかなか知る機会がないことだろう。また、映画鑑賞後にネットでちらほらレビューを見てみると、「母・娘の関係の歪さ」みたいなものが核にあると指摘されていた。「母あるいは娘として生きたことがある人でないとなかなか理解が難しいかもしれない」みたいなことを書いている人もいる。そうなると、男である僕にはより一層理解が遠のくことになるだろう。残念ながら、全然理解できなかった僕は、「いかに睡魔と闘うか」という鑑賞体験になってしまった。

いつも思うが、本当のところ僕は、このような作品を鑑賞して「良かった」と言える人間でありたいなぁ、と思っている。まあそのためには、教養も読解力も足りないということだと思うのでなかなか難しい。

この映画は、様々な映画賞などで激賞され、いろんな役者からも称賛されているようで、僕には理解できなかったが、このような作品がちゃんと正しく受け取られ、評価される世界というのは、まだまだ希望が持てるように思う。なかなかオススメしにくい作品ではあるが、こういうタイプの映画は「0か100か」みたいなところがあると思うので、刺さる人には刺さりすぎるほど刺さる映画なのではないかと思う。僕のレビューなど気にせず、何か気になったという人は観てみてほしい。

「サントメール ある被告」を観に行ってきました

久々に、作品の考察を探して読んだ。

あらかじめ、「一度観ただけでは理解できない映画」という情報だけは知っていたので、覚悟して観ていたのだが、大枠の物語はさして難しくなかった。「英国情報部(=サーカス)内にいるはずの二重スパイを探す」という物語であり、それ自体はシンプルだ。もちろん、登場人物が多く、しかもそれぞれの関係がちゃんとは説明されず、状況もあまりつぶさには描かれないので、そういう意味での「難しさ」は残る。

ちなみに、僕が読んだ考察サイトは以下のものだが(僕が言うのもなんだが、尋常ではなく長い)、
http://www.rsch.tuis.ac.jp/\~ito/research/TTSS\_description/TTSS\_description.htm
その記述によると、この『裏切りのサーカス』は本国イギリスで広く知られている話だそうだ。原作であるジョン・ル・カレの小説『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』が広く読まれているため、「映画を観る英国人は、基本的な設定や物語を全部理解している」ということが前提のようだ。そりゃあ、英国人以外にはわからないわけだ。日本で言うなら「赤穂浪士」とか「坂本龍馬」みたいな感じだろうか。そういう意味でも、日本人が観るにはハードルが高い。

さて、そんなわけで、「二重スパイを探す」という大枠の設定は分かったし、スマイリーというサーカスをクビになった人間が、サーカスの上層部4人の中から二重スパイ(もぐら)を炙り出そうとしているという状況も分かる。スマイリーはサーカスをクビになってしまったわけだが、サーカス内に所属しているギラムと組んで、内部の情報も随時得られる。とにかく「怪しいもの」をひっくり返すようにしてもぐらを炙り出す、という物語の主軸は全然難しくない。

ただ、細部となるとお手上げだ。何がなんだかさっぱり理解できなかった。特に難しかったのは、「この物語は、一体何を描いているのか?」という点への理解である。

というのも、「ただ『もぐら』を炙り出すミステリ作品」なはずがないからだ。それだけの物語が、ここまで広く称賛されているはずがない。実際、映画の中で「『もぐら』の正体が判明する場面」は、正直、映画全体の中でも「するっと」終わっていった感じがする。やはり、それが主軸とは思えない。しかし、じゃあ一体何が物語の核となっているのかと言われても、それは僕にはまったく理解できなかった。

その点については、先程挙げたのとは違う考察サイトを観て理解した。この記事ではそれには触れないが、「それが理解できなければ、ラストシーンを含め、この物語の背骨になる部分がまったく捉えられない」という要素が存在する。それを知った上で物語を思い返すと、物語のあちこちの場面に「納得感」が出てくる。「一体この描写はなんのために存在しているんだろう?」と感じるような細部に説明が与えられていく感じがする。

さて、物語の核となる部分が分かっても、我々日本人には(あるいは、国籍の問題ではなく、生きた時代の違いによるものかもしれないが)なかなか理解できないのが、「映画に描かれている時代の背景知識」である。現代でももちろん、各国の「スパイ」が様々な活動をしているだろうが、『裏切りのサーカス』で描かれているのは1973年、東西冷戦真っ只中の時代である。作中のある人物が、恐らく軍人のトップだろう人物に向かって、「今はあなたがたではなく、我々が最前線に立って、第三次世界大戦を防いでいる」と口にする場面があるが、まさにそういう時代だったのだと思う。

そして僕には、そういう時代に通用した「理屈」がいまいちインストールされていない。もちろん、「スパイ」というのは、多くの人々(日本人に限らず)にとって身近な存在ではないので、「スパイのリアルがわからない」ということは特に支障にはならないわけだが、東西冷戦時代の空気感だとか、彼らが抱いていた恐怖とか、西側・東側双方が相手側をどんな風に見ていたのかみたいなことは、どうしてもリアルには感じにくい。そして、まさにそういう時代背景を土台にした作品なので難しい。これも例えば、外国人からしたら「日本人は何故ハラキリとかバンザイアタックをするのか」が理解できないみたいなものだろう(ちょっと違う気もするが)。この辺りのことは、日本人でも、東西冷戦時代を生きた人にならリアルに感じ取れるのかもしれないが、僕にはなかなか難しかった。

また、同じような話ではあるが、「イギリスという国」についての理解も一定以上必要であるように思う。

ある場面で、かつてサーカスに所属していた女性が、「あの頃は英国人が誇りを持てた」みたいなことを言う場面がある。こういうセリフも、なかなか僕にはスルッとは入ってこない。「大英帝国」と呼ばれた偉大な時代から陥落しつつある、みたいなことを嘆いているのかなという感じはするけど、それを僕が実感することは難しい。同じ人物が、「古き良きサーカス」という表現も使っていて、やはり同じように昔を懐かしんでいるわけだけど、彼らが懐かしむその「昔」が分かっていないと、なんとなく、作品全体もうまく鑑賞できないような感覚があった。

みたいな様々な理由から、この作品は日本人が観て物語を理解するにはなかなかハードルが高いと思う。

ただ、良く分からないなりに、「二重スパイを探し出す」という設定そのものはシンプルだし、ちゃんと知っているわけではないが(役者の名前には疎い)、恐らく時代を代表するだろう名優が集っている作品という感じがするので、とにかく「画面が保つ」という印象が強い。役者たちは、ほとんどの場面で感情らしい感情を見せないし、「スパイ映画」と言われて思い浮かべるようなアクションシーンなど皆無なのだが、それでも「画面が保つ」。常に「どこから湧き上がるのか分からない『圧倒的な存在感』」みたいなものに支配されているような感覚があって、そういう「何か」に映画館という場が支配されているようなそんな感覚が強い。だから、集中力を切らすことなく最後まで観れてしまうのだと思う。

しかし、「理解できた」という手応えは全然なかったのだけど、この記事の冒頭で紹介したサイトをざっくり読んだ限り、物語を理解するために押さえておくべき場面はちゃんと捉えられていたなと思えたので良かった。やはり、「理解できた」という感覚になれなかったのは、「この映画が何を描いているのか?」という核を掴みきれなかったからだろう。

こういう、派手さはないが「深く理解したい」と感じさせる物語はとても良いと思う。今回は、ギャガのアカデミー賞受賞作を映画館で上映するみたいな企画があったから観れたのだけど、また何か機会がある時にはちょっと観てみたい気がする。設定や物語を理解した上で観ると、やはりまた感じた方が変わるだろう。

「裏切りのサーカス」を観に行ってきました

さて、とてもビジュアルテイストで音楽チックな映画だった。いつもの如く詳しいことを知らずに観に行ったので、監督がアートディレクターを主戦場とする人であり、初の映画監督作品であるということも知らなかった。その点を踏まえれば、ビジュアルテイストで音楽チックな作品に仕上がるのも納得という感じだ。1:1っぽい、正方形な感じの画面も、普段見ている映画とは違って「オシャレ感」を演出していると感じた。冒頭で、「私たちは今日も叫ぶ。これは映画ではない」みたいな表記が出るんだけど、1:1なのはそういうメッセージでもあるんだろうか?

全体的に、「場面場面の映像美」みたいなもので魅せていく作品という感じがしたので、物語要素は薄いと僕は感じた。ただ、良かったのは、原作(原案)をきちんと用意したことだろう。川上未映子の『アイスクリーム熱』という短編小説がベースになっているそうだ。だから、物語感の薄い映画なのだが、ところどころ「物語的な面白さ」が楽しめる、という感じになっている。特にそれは、映画の後半に行けば行くほどそうなると言っていいだろう。

映画は基本的に「断片」をつなぎ合わせていくみたいにして進んでいく。「ある一つの場面」が支配する時間はとても短い。カットを割って割って割って、色んな要素を随時挿入して挿入して挿入して、というような構成の仕方だ。だからこそ、特に最初は「物語」が見えにくかった。誰の何の物語なのかさっぱり理解できない。出演者の中で「吉岡里帆」「松本まりか」がやはり女優としてはメジャーだろうから、この2人が主軸となっていくことは予想できるが、もしこれが北欧かなんかの(つまりハリウッド的ではないということ)映画で、役者の顔も名前もまったく知らないみたいな映画だったら、冒頭からメインで登場する何人かの女性たちの誰がメインで描かれてもおかしくない、みたいな感じになったんじゃないかと思う。

中盤ぐらいからようやく、少しずつ「登場人物」同士の関係性が見えてくる(それまで本当に、誰がどんな風に繋がりを持っているのか想像が難しい)。正直なところ、その関係性が見えたところで、「なるほど、そういう物語ね」となるわけではないのだけど、この辺りから「物語的な面白さ」が滲み出てくると言っていいだろう。「主に吉岡里帆の物語」と「主に松本まりかの物語」が重なるようで重ならない、絶妙なバランスで付かず離れずの距離感を保ちつつ、その周辺にいる様々な女性たちの「今、その瞬間」をひたすらに切り取ろうとした、そんな作品だ。

「関係性を描く」という意味では、「ひたすらに『直接的には描かない』というスタンス」がとても良い。特に僕が好きなのは、「イヤリング」と「ベランダの花」である。これはどちらも、後半になってその意味が理解できるものなので具体的には触れないが、はっきりと「こうだ」と描くことなしに、幾人かの人間の背景にすーっと透明な糸を引いていく、みたいな描写が実に上手いなと思う。他にも、もしかしたら僕が気づかなかった「ほのめかし」みたいなものがあるかもしれない。とにかく、「ストーリー」を「役者のセリフ・言動」ではない形で「視覚的に語る」というセンスがとても見事だと感じた。

あと、映画を観てそう感じることは僕には珍しいのだけど、「音楽が良いな」と感じた。何がどういいのか説明はできないが、僕の一般的なイメージで言うと、映画音楽というのは「音楽が鳴っているということを特に意識させないまま、しかし無意識に作用する」みたいなことが理想とされているように思う。しかしこの映画では、「音楽が鳴っている」ということがかなり激しく主張される。この場合、なかなか「役者の演技」とか「映像の雰囲気」みたいなものと合致させることは難しくなるんじゃないかと思う。ただこの映画では、少なくとも僕の感触では、「音楽は明らかにそこで鳴っているのだけど、それが映像と馴染んでいる」みたいな印象だった。こんな風に感じることはあまりないので、自分でも少し意外だった(全般的に、音楽にはあまり興味がないので、そういう意味での「意外」という感想でもあるのだけど)。

ただ、1点だけ、あんまり好きじゃない部分もあった。具体的に思い出せるのは1つのシーンしかないのだけど、全体的に「カメラワーク」がちょっと好きじゃないなと感じた。冒頭でも書いた通り、基本的には「短くカットを割って繋いでいく」という作品なので、それ自体はいいのだけど、長回しで映し出す場面もある。そしてそういう場面では、「役者がセリフを発することが分かった上でカメラが動いている」という印象が僕には強かった。なんとなく、僕にはそれがちょっと不自然に感じられたんだよなぁ。

もちろんカメラマンは、「次はこの役者がセリフを発する」ということを理解した上でカメラを動かしているんだろうし、それはそうなんだけど、普段映画とかドラマを観ていて、こういう点に違和感を覚えることがなかったので、この映画の場合はちょっとその「違和感」が「下手さ」に僕には見えてしまった。

あと、「世間的な知名度」という意味では仕方ないと思うのだが、この映画のメインビジュアルなどで映し出される4人(吉岡里帆・松本まりか・モトーラ世理奈・詩羽)の内、詩派の役だけ「物語全体にあまり『噛んで』いなかった」ような気がする。この4人を前面に押し出すのであれば、詩羽の役はもう少し物語全体に絡んでも良かった気もするし、あるいは世間的な知名度のことを無視して、メインビジュアルに詩羽ではなく別の人物を載せる、みたいな決断をしても良かったのかなぁ、という気もする。まあ、この辺りは、宣伝とかアピール的な意味合いもあると思うからまあ仕方ないとは思うのだけど。

しかし、詩羽とコムアイを同じ映画に出演させるとか、「この人がこんなところでこんな風に出てくるんだ」的なチョイ役の贅沢さも興味深い作品だ。

とにかくビジュアルは最初から最後までキレイなので、そういう部分に強く興味が持てる人はかなり楽しめるだろうと思う。

「アイスクリームフィーバー」を観に行ってきました

僕は基本的に異性の友だち(僕は男なので、女友だち)が多い。というかある年齢以降、「女性とは友だちになろう」と思考を切り替えたこともあり、恋愛関係にならない女友だちが、普通の男よりは多くいると思う。

しかし、そういう話をすると時々、「恋愛にしようとは思わないの?」みたいな反応になる。ウザい。

世の中の人はどうにも、「名前が存在する概念」に他人を放り込みたいと思うようだ。だから、「恋愛」とか「家族」みたいな概念に押し込めたがるし、たぶんLGBTQの「Q」は許容しにくいんだろうと思う。

まあ、理屈はわからないでもない。

以前、ネット上で結構名の知れた人物(割と頭が良い人という認識のされ方だと思う)が、今までやったことのない「将棋」を始めたそうだ。コンピューターとの対戦なんかをやっていたのだろう。その人物はそういう対局の中で、「盤面の駒をどんどん減らしたい」という自分に気づいたそうだ。その理由は「駒が多ければ多いほど、考えなければならない選択肢が増えるから」である。盤上から駒が減れば、状況の見通しがつきやすくなり、次に打つべき手も見えやすくなる。

恐らくそれと同じようなことなのだと思う。つまり、「『名前が存在する概念』に他人を放り込むことで、『考えなくて済む』という状態にしたい」のだと思う。

映画『クロース』に登場する、幼い頃から兄弟のように育ったレオとレミは、「名前が存在しない関係性」だと扱われた。親友や幼馴染と言うには仲が良すぎると判断されたのだ。だから「2人は付き合ってるの?」と聞かれることになる。

「親友でも幼馴染でも恋愛関係でもないのにこんなに仲が良い関係性」には、まだ名前がついていない。名前がついていないということは、「多くの人がそれを認識していない」ということであり、そしてそれは容易に「多くの人がそれを認めていない(拒絶している)」という捉えられ方にもなりかねない。

だから「世間」は、「拒絶しているわけではない」ということを示す意味でも、「『名前が存在する概念』に他人を放り込む」方が都合が良いのだと思う。レオとレミの関係にしても、それが「恋愛」だというのなら、「男同士の恋愛ぐらい受け入れるよ」みたいな姿勢を提示できる(まあ、この映画で描かれる同級生たちにその意図があったとは思わないけど、あくまでも可能性として)。ただ、「親友でも幼馴染でも恋愛でもない関係性」は、「世間」にとっては「困る」のだ。だから放っておけない。

そして、そういう「世間」が、僕は大層嫌いである。

他人をカテゴライズする人間は、大抵、「カテゴライズされようがない人間」である。つまり、「普通」ということだ。あらゆる意味において「普通」である場合、カテゴライズする意味がない。「普通」というカテゴライズに意味が生まれることもあるが、状況としては決して多くない。そしてそういう「カテゴライズされようがな人間(=普通の人間)」が、無邪気に他人を「名前が存在する概念」に放り込みたがるのだ。

それは「普通」であるが故の劣等感から来るものなんだろうか、と考えたりすることもある。

「名前が存在する概念」に当てはまらないということは、よく捉えれば「突出している」ということでもある。そして「普通の人間」には、そういう「突出した何か」がない。つまり、そういう自分たちが劣等感を抱かずに済むように、「突出した側の人間」を何らかのカテゴライズに収めることでその存在を矮小化していたりするんだろうか。

みたいなことを、割と日々考える。どうにも、世の中にはそういうアホくさい状況があちこちに転がっているように見えるからだ。ネットの誹謗中傷や著名人の自殺なんかも、そういうものの延長線上に存在するように僕には感じられる。

僕も、レオやレミと状況こそまったく違えど、「周りとの馴染めなさ」に苦労した経験がある。僕は人生のどこかのタイミングで、「『周りと違うこと』をプラスに捉える」ことが出来るようになったから、子どもの頃に抱いていたような「馴染めなさ」に対するマイナスの感情を抱くことはもうない。マイナスの感情から脱することが出来た人は、たぶん、そういう「感覚の転換」みたいなことをしているんだと思う。「周りと違うこと」をプラスに捉えることが出来るようになれば、むしろその「違い」は武器にもなるのだけど、そう思えない時には単なる「重荷」にしか感じられないだろう。

そして、その「重荷」は、まさに「世間」が生み出している。

この映画は、レオとレミという2人の少年の周囲を「世間」として描き出し、そんな「世間」のあまりに”些細な”(これは、世間の人間がそう考えているだろう、という意味であって、僕がそう思っているわけではない)反応によって、どれほど大きな影響を生み出してしまうことになるのかを描いていると言っていいだろう。

そしてこう表現すると、それはまさに、SNSなどの”些細な”反応によって甚大な影響が生まれてしまう現代社会そのものを描き出している作品に感じられるだろうと思う。

僕たちが住む「あまりにも醜い世界」を、とてつもなく美しい世界観の中で描き出すことで、その「醜悪さ」が一層際立つ、そういう作品でもあると思う。

内容に入ろうと思います。
花卉農家の息子であるレオとその幼馴染のレミは、家族も認めるほどの仲良しである。学校から帰れば花畑の中を走り回ったりして遊び、夜になるとレオはレミの家へ行き、2人同じベッドで眠る。2人にとってその関係は昔からの「当たり前」のものであり、それまで違和感を覚えることもなかった。
その後2人は共に中学校に進学する。同じクラスになった2人だが、教室でレオがレミの肩に頭を載せたりする光景を見て、周りのクラスメートは少しざわつく。そして女子たちから「2人は付き合ってるの?」と聞かれることになるのだ。
その出来事を境に、少しずつ2人の関係が変わっていく。特にレオは、学校でレミとあまり仲が良いように見られないように振る舞うようになり、そしてやがてその振る舞いは、レオとレミが2人でいる時にも及ぶことになる。
「2人は付き合ってるの?」という”些細な”一言によって、少しずつ歯車が噛み合わなくなっていった2人は、徐々に縁遠くなってしまい……。
というような話です。

この映画では、レオもレミも極端にセリフが少ない。冒頭からしばらくの間、2人がまだそれまでの仲の良さを保っている間はもちろん会話があるが、「2人は付き合ってるの?」と言われて以降、2人の会話は減る。しかしそれは決して、すぐに「仲違い」であることを示さない。何故なら、昔からずっと一緒にいるが故に「沈黙であること」にも違和感がないからだ。中学に入学して間もないということも加わることで、「喋らないこと」「隣にいる時間が減ったこと」が、「仲違い」に直結するわけではない。

そしてだからこそ、この2人の関係性の変化は非常に見えにくいし、ややこしい。レオにしてもレミにしても、相手の変化が「明白な何か」を示していると確信できれば、動きやすかったかもしれない。しかし、実際にはそうではない。レオは確かに、レミを避けるような振る舞いをし始めるのだが、それは僕ら観客だからこそ断言できるわけで、レミ視点ではきっとそうではなかったはずだ。レミは確証が持てなかった。しかし、やはり違和感を覚えていた。ただ、確証が無い状況ではなかなか出来ることは少ない。

また、「名前が存在する概念」ではないという事実は、レオとレミ自身にも影響を与えたといえるだろう。

例えば「恋愛関係」であれば、「自分以外の異性と仲良くすること」や「以前より連絡が疎かになっていること」に対して「どうして?」「何かあった?」と問うことも可能だ。何故なら「恋愛関係」というのは、そういうことを許容しにくい関係だと、ある程度一般的に認識されているからだ。

しかし、レオ本人も「親友以上だ」と言っていたように、彼らの関係性は、世間的な分かりやすい言葉では表現できない。そしてそれはつまり、「こうあるべきだ」という前提条件みたいなものもお互いが共有しにくいことを意味する。「正解の基準」みたいなものが存在しないのだから、相手の変化を「間違っている」と問いただすこともなかなか難しくなる。

それに何よりも、レオにしてもレミにしても「言葉で説得」みたいなことをしたくなかったはずだ。今までずっと、そんなことする必要がないほど分かり合える存在だったのだ。つまり、「言葉で説得」みたいなことをし始めた時点で、それは、「それまでの関係の終焉」を意味するとお互いが直感していたのではないかと思う。「言葉なんかなくたって分かり合える」という関係に、言葉を駆使して引き戻すことは、とても難しいだろう。

みたいなことを、2人の沈黙から色々と読み取れた。そして、セリフを介在させずにそんな2人の心情を見事に描き出したことに、この映画の素晴らしさがあると僕は思う。

とにかく映画の中では、レオもレミもほとんど自分の内面を表に出さないので、それぞれの場面で実際にどう感じていたのかみたいなことはわからない。ただ、物語の設定が非常にシンプルなので、「きっとこうなのだろう」という想像はしやすい。その想像が合っているのかという答え合わせが出来るわけではないが、「映画を観る」という行為の上では、「自分の想像を当てはめて鑑賞する」というが容易なので、観ていて戸惑うことはないんじゃないかと思う。

レオとレミ、共に演じた役者が「美少年」であり、また花畑を駆け回るとか農場沿いの道路を自転車で走るシーンが多かったりと、ビジュアル的にとても美しい作品に仕上がっていると思う。そして、冒頭でも書いたが、だからこそ余計に「醜悪さ」が際立つとも言える。

確かに存在していた「美しい世界」は、何かが少し違ってさえいれば壊れることなく存続したはずだ。しかし結果として、その「美しい世界」は失われてしまった。その残酷さに、やりきれない思いばかりが募った。

そしてだからこそ気をつけなければならない。もしかしたら僕らも”些細な”言動によって、どこかに存在しているかもしれない「美しい世界」を毀損しているかもしれないのだ。

僕らは、そんな世界に生きる必然性など、どこにもないと思う。

「CLOSE/クロース」を観に行ってきました

これは良い映画だったなぁ。シンプルな設定だけど奥深いし、説教臭くなりがちなテーマを扱っているにも拘わらずまったく説教臭くない。それぞれの立場がさりげなく描かれつつ、お互いがお互いと関わることで、今の立ち位置から少しずつ自分の立場を変えていく感じが凄くいい。日本人でもクスッと笑える場面が結構ある(外国の映画だと、日本人にはちょっと分かりづらい笑いとかあったりする)ので、コメディ的にも楽しめるし、さりげなく様々な教訓っぽいことを挟み込んでくるところも全然嫌味じゃなくて良い。

どこまでが「実話」なのかはわからないものの、具体的な個別のエピソードはともかく、「この2人の間にはこういう関係性があったんだろうなぁ」と感じられるような作品で、とてもよかった。

映画を観ながら、いつも意識していることではあるけれども改めて気をつけないといけないなと感じた場面があった。

こんなシーンがある。黒人の天才ピアニストであるドクター・シャーリーは、特に黒人への差別が色濃く残る南部での8週間のツアーを行っている最中だ。そんな中招待されたある会場に併設されたレストランで、シャーリーは「黒人だから」という理由で食事が許されない、という状況になる。そのレストランで食事をしているのは皆、シャーリーのバンド演奏を聴きに来た客だ。それなのに、まさにVIPであるはずのシャーリーが食事を断られるのだ。

シャーリーを招待した支配人が、シャーリーに「ここで食事をしていただくわけにはいきません」と断る。この支配人を観て観客の多くは「よくもまあそんな判断・行動が取れるものだ」と感じるのではないかと思う。

ただ、気をつけなければならないのは、僕らも気づかない内にこの支配人のような行動を取ってしまっているかもしれない、ということだ。

この映画で描かれるのは「黒人差別」だが、差別は決して黒人に対してのみ行われるのではない。どんな時代にもどんな地域にも、その時その時で「差別」が存在する。

映画の舞台となる1962年当時のアメリカ南部では、この支配人の判断・行動は「真っ当なもの」だった。僕らの常識では信じられないが、そういう時代がかつてあった。そして、同じことは僕らにも言える。僕らが今「真っ当だ」と感じている判断・行動が、未来の人から「私たちには信じられない」と言われるようなものである可能性は十分にあるのだ。

この映画に限らず、差別を描くすべての作品に言えることではあるが、映画・小説の中に登場する人物を「信じられない」「クソだな」と思っているだけではなんの意味もない。人類の歴史は常に差別の歴史でもあるのだから、僕らは僕らで「今の自分の言動が真っ当なのかどうか」について振り返る必要がある。

僕は普段からそういう意識を持っているつもりだが、こういう作品を観ると改めて「気をつけないとな」という気分になる。

内容に入ろうと思います。
コパというナイトクラブで用心棒をしているトニー・リップは、勤務先の改装に伴って一時的に失職することになる。彼は「医者の運転手の仕事があるから面接に行ってみては?」と勧められたため、何故かカーネギーホールの上階にある「診療所」に向かった。
すると出てきたのは、王族のような格好をした黒人だった。通された部屋も、象牙やら宝石やら高価なもので溢れていた。ドクター・シャーリーと名乗った黒人男性は、「医者ではなくピアニストだ」と口にし、「これから8週間、ディープサウスを含むアメリカ南部でコンサートを行うので、その運転手を探している」と言った。
トニーは黒人に対して嫌悪感を抱いている。ある日、家に工事にやってきた黒人男性2人組がいた。妻のドロレスは黒人にも分け隔てなく接するのだが、トニーは妻が黒人に出した水を入れるのに使っていたコップをこっそり捨てた。イタリア出身の彼は、黒人の工事士がいる中、義父とイタリア語で「黒ナス(黒人のこと)が来るなんて知らなかったんだ」と侮蔑的な言い方をしている。
そんなわけでトニーは、一旦は運転手の仕事を引き下がった。しかしその後色々とあり、結局8週間のツアーの運転手を引き受ける。
レコード会社の人間から、車の鍵など必要なものを受け取ったが、その中に「グリーンブック」があった。これは、「黒人が利用可能な施設を記した旅行ガイドブック」だ。当時のアメリカには「ジム・クロウ法」という、「白人と黒人を区別することを許可する法律」が存在しており、特に南部では黒人に厳しい形でその法律が適用されていた。そんなアメリカ南部を巡るのに、この「グリーンブック」は必携だったのだ。
これまで「口からでまかせ」を繰り出してどうにか生き延びてきたトニーと、高い教育・教養を持つシャーリーとでは、最初はまったく噛み合わなかったが、様々なトラブルを乗り越えたり、思いがけず本音でやり取りしたりする時間を過ごすことで、彼らの関係は当初のものとは大きくことなるものへと変わっていき……。
というような話です。

個人的に良いなと感じたのは、「2人の関係の進展が、決して分かりやすくはない」という点。設定や構成は非常にシンプルながら、2人の関係性が「分かりやすくは進んでいかない」のがいい。

例えば、よくある物語であれば、「最初は険悪だった2人が、色んなことを乗り越えながら友情を深めていく」みたいな展開になる。その方が王道だし、最大公約数が感動しやすい物語に仕上げることが出来るだろう。

しかしこの物語は、そうはしていない。

例えばトニーは、確かに映画の冒頭から「黒人に対する嫌悪感」を抱いていることが示唆されるのだが、だからといってそれが前面に現れるというわけでもない。自分の雇用主だから、ということももちろんあるだろうが、シャーリーを意図的に不愉快にするような行動を取ることはない。

一方のシャーリーにしても、無学なトニーを意図的に馬鹿にしたりすることはもちろんないし、雇用主と雇われ人という関係もあるのだろうが、気安く接したりするでもない。

というように、この2人のスタート地点は「明確な対立」が描かれるような形では始まらない。繰り返すが、物語的には「明確な対立」を描くほうが楽だと思うのだが、この物語はそうしていない感じがある。

個人的には、この構成が良かったなと思う。

そういう展開の物語だからこそ、「2人の関係性の変化」を描き出すことは結構難しくなるだろう。「最初にあった対立が無くなり、それどころか友情が芽生えました」みたいな展開にすれば分かりやすいが、この2人の関係性は結構後半の方まで「どうなるんだろう?」みたいな浮き沈みがある。その起伏によって観客を惹きつけているわけだけど、「関係性の変化」という意味では分かりやすく提示できない構成だと思う。

けど、やはり最後まで観ると、「2人の関係はメチャクチャ変わったよなぁ」と分かりやすく実感できるように作られていて、その辺りもとても上手いと感じた。

映画の中では、セリフというよりも行動でお互いへの「感情」が示されることが多く、特にそれはトニーに当てはまる。シャーリーはなかなかにわかりにくい人物なので、セリフからも行動からもはっきりとした感情が読み取れないことの方が多い気がするが、トニーは逆で、行動ではっきりとそれを示す感じがある。そういう意味でもまったくタイプが異なる人種なのだが、最終的にはだからこそ馬が合うという感じにもなったのかなと思う。

しかしホントに、改めて思うけど、「VIPとして招待しているにも拘わらず、演奏以外の部分ではいち黒人として扱う」というスタンスには驚かされる。先程、レストランでの食事の件を挙げたが、映画では他にも様々な「差別」が描かれる。

そしてそれらを観る度に、「どういう神経をしているんだろう?」と思う。

少しこの辺りの感覚の話をしよう。もちろん僕は「差別」そのものに対してもそのように感じているのだが、先程書いた「どういう神経をしているんだろう?」はもう少し違う意味がある。先程も書いたが、「VIPとして呼んでいる人物に対しても黒人のルールを押し付けること」に対してそう感じている。

だってこういうことだ。あなたがある人物を、「是非ウチに来てください!」とラブコールを送って来てもらう。三顧の礼とまではいかないかもしれないが、とにかく「呼んでいるのは会場側」なわけだ。しかしその会場の人間が、「あなたは黒人だから◯◯出来ません」と言うのである。

「差別」そのものも酷いわけだが、ただ「差別をしてしまう心理」は理解できなくもない。要するに人間は「自分よりも下」を恣意的に設定することで、安堵感を得ているということだろう。行動はクソだが、その内面が理解できないかというとそうでもない。

しかし、「VIPとして招待しておきながら、レストランでの食事は許さない」という心理は、僕にはまったく理解できない。よくもまあ、そんなことが出来るものだな、と感じる。

この点についてシャーリー自身が、「上流階級の人間は『教養がある』と思われたくて私の演奏を聴きに来る」と皮肉的に口にする場面がある。本当にその通りなのだろう。結局「自分に泊をつけるためのツール」ぐらいにしか思っていないのだ。「差別をする人間」もなかなかにクズだが、しかしこの映画で描かれるような招待側や上流階級の「ピアニストじゃないお前はただの黒人だよ」的扱いの方に、僕はより強く苛立ちを覚えてしまう。

もちろん、そのような背景を醜悪的に描くことによって、トニーのフラットさがより際立つという側面もあって、やはりそういう意味でも全体の構成が上手いなと感じた。

映画のラストの展開は、「なるほど、こうなるんだろうなぁ」と予想できるものの、とにかくそれがメチャクチャ良かった。映画の本当に最後の最後のセリフも見事で、全体的にとても良かったが、終わりが特に素晴らしいと思う。良い映画でした。

「グリーンブック」を観に行ってきました

いやー、しかし、イカレぶっ飛んだ映画だったなぁ。なにこれ???

舞台となるのは、1918年のアメリカ。当時は「スペイン風邪」が世界中猛威を振るっており、特に年配の人ほど過敏になっていた。
田舎の農場で生まれ育った少女パールは、厳格で細かなところまでうるさい母と、身体が不自由で自律的な行動が取れない父の元で暮らしている。彼女はダンサーになることを夢見ているが、厳格な母の元ではそんな希望は夢のまた夢でしかない。パールは、納屋に飼っている動物たちの世話をし、身体の動かない父親を風呂に入れ、母親から高圧的に怒られる日々に甘んじている。
ある日パールは、街に父親の薬を買いに出掛けた。そこで彼女は、母親に内緒で映画を観る。まさにそこには、彼女が憧れて止まないダンサーが映っていた。その後、たまたま映写技師と知り合い、「私は世界的なダンサーになるの」という思いを新たにする。
しかし現実は厳しい。どう考えても、この農場から出られる見込みなどない。
そんなある日、ヨーロッパの戦争に志願してしまった夫ハワードの妹がやってきて、「今度教会でダンスのオーディションがある」と教えてくれた。パールは、何があってもそのオーディションに参加しようと決意するが……。
というような話です。

そもそも映画を観終えた後知ったが、この映画は『X エックス』という作品の前日譚なのだそうだ。どうやら『X エックス』ではパールは「おばさん」みたいな年齢らしく、その若い頃を描いている、という映画であるようだ。『X エックス』を観ていたらどの程度「腹落ち感」が増すのかは不明だが、「なるほど、あのパールは若い頃こんな風だったのか」みたいな見方が出来るのだろう。『パール』しか観ていない場合は、やはりその辺りの理解がちょっと乏しくなるかもしれない。

1918年が舞台ということで、色んな意味で「古臭い」演出の映画だと感じた。もちろん、1918年が舞台だから衣装とかそういうものは古さが出て当然だけど、そういうことだけではなくて、なんとなく「昔の映画を観ている感」みたいなのがあった。たぶんそれって、上手くやらないと「下手」みたいな印象を与えかねないと思うんだけど、パールを演じた女優を含め、役者の演技がちゃんとそれを成立させていたような感じがした。

しかしこの映画、「R15+」って指定なんだけど、「ホントに?」って感じだった。どういう基準で指定が掛かるのか知らないけど、なんとなく「R18」とかでもいいんじゃない、と感じる映画ではあった。

あと、とにかくパール役の女優が、なんというのか「素の狂気」みたいに感じさせるヤバさを最初から最後まで放出していて、それが凄かった。違和感を覚えるぐらいの赤い唇とか、オーバーオールを着た幼さみたいなものがミックスされた「狂気」って感じだったが。「ヤバい行動」をしている時のヤバさはもちろんヤバかったが、「ヤバい行動」をしているわけではない時にもそこはかとなく滲み出るヤバさがヤバかった(メチャクチャ頭悪そうな文章だなぁ)。

さてまあそんなわけで、うーんなんともって感じではあったが、とにかく「ヤバさ全開」の映画ではあった。

「パール」を観に行ってきました

映画のタイトルになっている『キャロル・オブ・ザ・ベル』は、歌の名前だそうだ。一般的には「クリスマスキャロル」として知られているらしく、僕も、曲名にはピンとこなかったが、作中で何度も歌われたその歌は、聞き覚えがあった。どうも、映画『ホーム・アローン』の中で歌われたことで世界中に知られるようになったそうだ。

この『キャロル・オブ・ザ・ベル』という曲、実は元々ウクライナの民謡だったそうだ。『シェドリック』という民謡で、これに「ウクライナのバッハ」と呼ばれた作曲家が編曲を施し、英語の歌詞をつけたものが『キャロル・オブ・ザ・ベル』なのだそうだ。

その辺りのことを知らずに観たので、映画のあるシーンの意味が、この曲の背景を知った今ようやく理解できるようになった。

映画の主人公の1人は、ウクライナ人のピアノ講師の女性なのだが、彼女はある場面で「子供たちに何を教えていたんだ」と追及される。そこで彼女は、「ウクライナの民謡などを」と答えるのだが、ソ連人である相手から「馬鹿なことを」みたいな反応を受ける。そのソ連人の反応はつまり、「『ウクライナ』なんて言う国は存在しないんだから、『ウクライナの民謡』も存在しないんだ」という意味である。

『キャロル・オブ・ザ・ベル』という曲は今も、「ウクライナ語、ウクライナ民謡が確かに存在したのだ」という明確な証としても歌い継がれているそうだ。

しかしこの辺りのことは、「ウクライナという国が存在する」という事実が当たり前の僕らには、なかなかイメージしにくいだろう。

この映画の舞台は「ポーランド、スタニスワヴフ」と表示される。そしてその後で、「現ウクライナ、イヴァーノ=フランキーウシク」とも表記される。僕は、「ウクライナが元々ソ連と同じだった」という事実は知っていたけど、「現ウクライナの土地の一部が、元々ポーランドだった」ということは知らなかった。この辺りのことはやはり、なかなかニュースを見ているだけでは理解できない。

「ウクライナ人」という呼び方が、映画の舞台となっている1939年時点で存在しているわけで、ということは「ウクライナという国がそれ以前に存在していたが、一旦無くなってしまった」のか、「当時もウクライナという国は存在していたが、映画の舞台になっているのがポーランドだった」のか、あるいは「民族の名前として『ウクライナ』が存在する(「クルド人」のように)」なのかという感じだと思うが、その辺りもなかなか分からない。

とにかく僕に理解できることは、「この映画には、『ウクライナという国には住んでいないウクライナ人』が登場する」ということだ。

とここまで書いたところで、公式HPに「ウクライナ」の年表があることに気づいた。1917年に「ウクライナ人民共和国」が成立したが、その後1922年に「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」として一方的にソ連に併合されたようだ。その後、1939年にソ連がウクライナを占領した、という感じらしい。その辺りが、映画で描かれている舞台というわけだ。その後、1991年にソ連が崩壊したことで、ウクライナが独立宣言を行った、ということのようである。

映画の中で、ウクライナの民謡を元にした『キャロル・オブ・ザ・ベル』が何度も歌われ、さらに、物語の中心軸になるのもウクライナ人一家(映画には、ポーランド人一家やユダヤ人一家も登場する)なので、「この映画は、ウクライナ侵攻を受けて作られたものだ」と感じるかもしれないが、公式HPによればそうではないようだ。世の中では時にこのような「シンクロニシティ」としか言いようがない状況が顕在するが、まさに今も翻弄され続けているウクライナの歴史を背景に、「なんとしても生き残る」ために奮闘した夫婦と少女たちの奮闘は、まさに今の観客に響くのではないかと思う。

ポーランドに住むユダヤ人の弁護士が所有する物件に、ポーランド人一家とウクライナ人一家がほぼ同タイミングで引っ越してくることになった。しかしこの2家族は当初、あまり関係が良くなかった。両家の娘同士は、同じ年頃ということもあってすぐに仲良くなったが、親の方はそうも行かなかった。
ウクライナ人一家の母親は、自宅でピアノを教えており、娘のヤロスラワも母親と同じく歌が上手かった。特に『キャロル・オブ・ザ・ベル』を気に入っていて、「この歌を歌うとみんなが幸せになれる」と信じて、様々な場面でこの歌を披露する。しかしポーランド人一家の母親であるワンダは、隣の部屋から聞こえるピアノやレッスンの音を不快に感じることが多く、それでどうにも親しくなれないでいたのだ。宗教の違いもあり、なかなか仲良くなるきっかけがなかったが、ウクライナ人一家が主催した公現祭のパーティにポーランド人一家を招待したことから距離が縮まり、それからは娘のテレサをレッスンしてもらうなど、関わりが深くなっていく。
しかし、世の中は一気にきな臭くなってしまった。戦争が始まったのだ。違う人種ながら、穏やかに暮らしていた3家族にも、戦争の魔の手は忍び寄り……。
というような話です。

映画は全体的に、「いかに過酷な状況下で子どもたちを守るか」という話であり、もちろんその部分はとても良かった。戦時下で、自分も逮捕されてしまうかもしれないという恐怖を感じつつも信念に従って行動し続けた女性は素晴らしかったし、少女たちも厳しい環境の中で協力しあってどうにか乗り越えようとした姿は素敵だ。

しかしそれ以上に、戦争や軍人の醜悪さに嫌気が差してしまった。

軍人にしても、「命令によって動いている」ことはもちろん理解しているが、にしたって「よくそんなことが出来るな」と感じてしまうような振る舞いばかりしている。戦争は、あらゆる意味で最悪だが、僕にとっては、「能無しのクズの意見が『正しい』ことになってしまう」という状況に、とにかく耐えられないように思う。ホントに、何をどう考えたら「その行動」が「正しい」と思えるのか、理解できないと感じることが多すぎる。

あと、これはマジでどうでもいいことなんだけど、ソフィア役の女性が「オセロ中島」にメチャクチャ似てるなって思った。まあ、どうでもいい話。

現代の戦争にも通ずる「過去の歴史」を背景にした、ヒューマンドラマである。

「キャロル・オブ・ザ・ベル」を観に行ってきました

物語的にグッと来たかというとそんなことはないのだけど、とにかく主演の女優の演技が見事だったなぁ、と思う。ひたすら、「嫌な女」だったし、その「嫌な感じ」をメチャクチャ上手く演じていた。かなり引き込まれる映画だと言っていいだろう。

一人の女性が、かつて宝くじを当てた。19万ドルという大金を得た彼女は、シングルマザーであり、息子のジェイムズと「素敵な未来」を歩んでいくはずだった。
しかし、その女性・レスリーは今、住んでいる部屋を追い出された。周囲の住民に1ヶ月金を貸してくれと頼んでも、オーナーに一晩だけ待ってくれと頼んでも、まったくダメだった。彼女は、部屋から放り出された大量の荷物から、ピンクのキャスターバッグだけを持って、住んでいた街を後にした。
宝くじの賞金は? すべて酒に消えた。
レスリーは、6年間一度も会っていない息子を頼り、彼がルームシェアする部屋へと転がり込んだ。ジェイムズはペンキ塗りの仕事をしており、「どうにか生活を立て直すために仕事をしている」最中だった。ジェイムズには、母親を素直に受け入れきれない理由があったが、しかしもちろん追い出すようなことはせず、「人生プランが決まるまではここにいていい。ただし、酒だけは飲むな」と厳命した。
しかし、その約束を、レスリーは最初から守るつもりがなかった……。
どうにも酒が止められず、あらゆる場所を転々とするレスリーの再生を描き出す物語。

とにかく、レスリーがヤバい。さすが、19万ドルも酒を飲んだだけのことはある。立派なアル中である。

自業自得とはいえ、アル中も立派な病気なのだから、「病気だから仕方ない」という捉え方をした方がいいのかもしれないが、やはりそれはなかなか難しい。なにせ、「酒を手に入れる」ためなら、約束は破るし嘘はつくし金は盗む。しかも、酒に溺れた原因が同情されるようなものであるならまだ受け入れられるかもしれないが、「宝くじで当たったお金を酒につぎ込んだ」と周囲にも知られているのだから、どうにもならない。宝くじを当てたことはテレビで放送されるほど話題となったため、周囲の人間はその事実を皆知っている。だから、その後のレスリーに対して住民のほとんどが嫌悪感しか抱いていないし、落ちぶれていくレスリーに手を差し伸べる者もほとんどいない。

そして、そういう状況「なのに」なのか「だから」なのかなんとも言い難いが、レスリーはとにかく酒を止めない。恐らく本人も、酒を飲めばダメになることは分かっているのだろう。しかしそれでも、飲まずにはいられない。

どん詰まりの袋小路と言ったところだろうか。

映画の中で、息子ジェイムズが母親に、「マリファナはいいけど、酒はダメだ」と言う場面がある。マリファナについて詳しくは知らないが、そういう発言が出てくるってことは、マリファナは酒ほどの依存性がない、ということなのかもしれない。そう考えるとホント、どうして「酒を飲むことが許容されているのか」は結構謎だ(つまり、薬物を禁止するぐらいなら、酒も禁止すればいいのに、ということ)。

ストーリー的に、これと言った何かがあるわけではなく、とにかくひたすらにレスリーがどん底に落ちていく感じが描かれていき、そしてちゃんと「再生」も描かれる。ストーリー的には「王道」と言った感じだろう。しかしやはり、レスリー役の女優の演技がとにかく凄くて、引き込まれる。

そもそも、「酒浸りであまりまともに食べれていない」ということを示すためだろう、レスリーは「健康的ではない痩せ方」をしている。それは顔の感じなんかもそうで、あまりにも長いこと「他人に対して表情を作る」ことをサボってきたためだろう、他人に対して笑顔を見せる時にあからさまに不自然になる、みたいな感じもある。そういう、「見てくれ」の部分から、かなりレスリーという役柄に入り込んでいる感じがあって、まずそこが凄い。

その上で、「全部自分が悪いのに、それを認めたくないからか、他人に悪態をつく」感じも上手い。この映画では、「宝くじを当ててからの数年間」は描かれない(金が無くなって落ちぶれてからのことしか描かれない)ので、その期間に何があったのかは、間接的にしか分からない。しかし恐らく、「大金を得た彼女に、周りの人間が金の無心をした」みたいなことがあったはずだ。だからレスリーの中には、「あの時良い思いをさせてやったんだから、少しは助けてくれてもいいじゃないか」みたいな気持ちがあるんだと思う。

しかし、レスリーの周囲にいた人間にも言い分はある。具体的には書かないが、レスリーのかつてのある行動が、とにかく許せないのだ。

だから、彼らの「対立」は平行線のままだ。

息子にも愛想をつかされたレスリーの「生きる希望」がなんなのか、僕にはなんとも掴みづらいが、映画の中では少なくとも、レスリーが「死」を意識する場面は描かれない。とにかく「何がなんでも生きてやる」という感覚が強いのだ。僕はなかなか、そんなふうには思えないので、そういう姿に「強いなぁ」と感じてしまう。

この映画は、アメリカで単館上映からスタートしたようだが、主演女優の演技があまりにも評判となり、なんと彼女がアカデミー賞主演女優賞にノミネートされるという、まさに「宝くじを当てた」みたいなストーリーがある。まあ確かに、評判になるのも分かる演技だと思う。

「トゥレスリー」を観に行ってきました

ここ1年ぐらいの間に、ビートルズのドキュメンタリー的なものを3つほど観た(特にビートルズには興味はないのだが)。その中の描写で驚かされたのが、「ビートルズが、イギリスの階級社会をぶっ壊した」という描写だ。僕の中で「階級社会」というのは、どうも歴史の教科書に出てくる単語という印象があって、だからそんなものが、「ビートルズが存在する世界」にも存在した、という事実に驚かされたのだ。

さて、この映画を観るには、そういう「ビートルズ登場以前の、階級社会が厳然として存在していた時代の話である」という事実は、頭に入れておいた方がいいだろう。その方が、「国王の吃音を治すために奮闘した平民の言語聴覚士」の存在が、より際立つと思うからだ。

そんなわけで、『スラムドッグ$ミリオネア』に引き続き、ギャガ配給のアカデミー賞受賞作を劇場公開するイベントで視聴。メチャクチャ良かったかと聞かれると難しいが、良い映画だったと思う。

父王ジョージ5世の次男として生まれたヨーク公アルバート王子は、子供の頃からの吃音に悩まされていた。1925年の大英帝国博覧会の閉会式では、父が書いたスピーチ原稿を、世界人口の4分の1(オーストラリアやカナダなど、大英帝国の構成国にもラジオを通じて届けられた)に向けて代読することになったのだが、やはり吃音のため上手くいかず、聴衆をがっかりさせてしまう。
ヨーク公はもちろん吃音の克服に奮闘したが、それまで彼の吃音を治せる医者は誰もいなかった。あまりにも成果が出ないため、ヨーク公は妻エリザベスに、「吃音のことはもう諦めた。もうこのことは話題にしないように」と念を押すほどだ。
しかし、エリザベスは当然諦められない。彼女は伝手を辿って耳にした、ハーレイ街に事務所を構えるオーストラリア出身の言語聴覚士・ローグの元を一人で訪れた。ヨーク公の妻であることを隠して、「夫の吃音を治すために治療に出向いてもらえないか」と頼むが、「治療はここで行う。例外は一切ない」という。そこでエリザベスが、夫がヨーク公であることを告げるのだが、ローグはやはり例外を認めなかった。
その後、ヨーク公とエリザベスは、ローグの事務所へとやってくるのだが……。
というような話です。

実話を基にした作品だそうで、冒頭でも書いたけど、厳然な階級社会だった当時のイギリスで、一介の平民が国王と友情を育むという物語は、なかなか日本人には想像しにくいかもしれないけど、インパクトのある出来事なのだろうというイメージは持てます。

ウィキペディアによると、脚本家自身が吃音症であったこともあり、この物語の構想は30年以上温めていたそうだ。しかし、それほど長く温め続けなければならなかった理由があった。それは、ローグに関する記録がほとんど手に入らなかったからだ。実はヨーク公の妻・エリザベス(後の皇太后)から、ローグに関する記録を彼女の存命中に公表することを拒まれたからだという。まあ確かに、王室からしたら出来るだけ伏せておきたいことだっただろう。しかし、いずれにしても、「ヨーク公が、人前で喋らなければならない国王という重責を全うするために、吃音症と闘い続けた」という事実は、悪い評価を与えるようなものではないはずだ。

映画の核はやはり、ヨーク公とローグのやり取りであり、これはなかなか魅力的だ。特にローグが、相手が「国王(出会った当時はまだ王子だったが)」だと分かっていても、その事実に臆することなく対等に関わろうとする姿が印象的だ。もちろん、「対等に関わろうとする」のは、ひとえに治療のためである。ローグは、吃音は、身体的な問題でもあるが、同時に心理的な問題であることを見抜いていた。だからこそ、心理的なアプローチを上手く機能させるために「対等であること」にこだわるのである。

この、言ってしまえば「無礼」こそが、結果としてヨーク公の吃音克服に役立ったといえるだろう。2人のやり取りがどこまで史実に沿っているのか不明だが、なかなか魅力的である。

さて、メチャクチャどうでもいい話なのだが、映画を観ていて「ほぉ」と感じる場面があった。ヨーク公には兄がいて、父王ジョージ5世の死後、当然兄が王位を継承した。しかしこの兄はなかなかの問題児で色々ある。その色々には触れないが、とにかくそんな兄を見かねて、ヨーク公が兄を問いただす場面がある。

そこに、こんなやり取りがあった。「何をしてるんだ」「忙しいんだよ」「何で?」そんな風にヨーク公が問うと、兄は「王の仕事でだ」と答える。ちなみにこれは、表示される日本語の字幕である。

その時、僕に聞き取れた英語は、「Kinging」だった。つまり、「王」を意味する「King」の進行形ということだろう。ネットで調べてみると、「King」には動詞としての意味もあり、「~を王位につける」「王のように振る舞う」みたいな意味になるそうだ。「Kinging」なんて表現が存在するとは思わなかったので、ちょっとビックリした。

そんなわけで、なかなか興味深い映画だった。

「英国王のスピーチ」を観に行ってきました

ちょっとなんとも言いにくい映画ではあったなぁ。ダメだったってことはないんだけど、ズバッと来たという感じでもない。ただ、上手く説明できないが、「観て良かった」という感じはする。

先に書いておくと、そもそも「セリフが8割ぐらいしか聞き取れなかった」という問題がある。舞台は、18世紀後半の東北。いわゆる「東北弁」というやつだろう、東北の人以外にはきっとなかなか聞き慣れないイントネーションで、ボソボソと喋る(以前、東北は寒いから、なるべく口を開けずに話せるようになっていった、みたいな話を聞いたことがあるので、きっとこれもリアリティの追求なんだと思う)。そんなわけで、「推測を混じえても、8割ぐらいしか聞き取れない」という感じだった。

各場面で何が起こっているのかは、観れば大体分かるので、セリフが聞き取れなくても物語の理解にそう支障が出るわけではないが、ただ、「僕の場合は推測込みで8割ぐらい聞き取れた」というだけで、恐らくもっと聞き取れない人はいるだろうと思う。「推測」のためには、いろんな言葉や知識を知っていたりする必要があるから、それが上手く働かないと、「5~6割しかセリフが聞き取れない」みたいな観客がいても全然不思議ではないと思う。

この辺りは、リアリティとの兼ね合いが難しいポイントだと思うし、別にこの映画のスタイルが悪いとも思わない。ただ、現実的には「観るハードルは少し高い」といえるだろう。リアリティを追求したが故のデメリットであり、受け取り方は人それぞれか。

冷害に悩む農村が舞台であり、「遠野物語」に着想を得た物語だそうだ。

映画を観ながら、「人間の醜悪さ」を痛切に感じさせられたが、しかし、当時を知らない我々には、単に「醜悪」で切って捨てて良い問題でもないのだと思う。つまり、「あそこまで醜悪にならざるを得ないほどの冷害であり、まさに死が差し迫っていると感じられる中での行動なのだ」という視点は捨ててはいけないのだろう。

にしても、やはり醜悪だ。そしてそういう中で、まさに「凛」として生きる一人の少女の姿を描き出す映画である。彼女の置かれた境遇や、彼女がした決断、そしてその顛末などについて「良し悪し」で語るつもりはないが、生まれながらに「絶望」でしかない環境の中で、それでも「己の決断で生き方を選んでいる」と言わんばかりの凛の生き様は、それとはまったく対照的な父・伊兵衛の振る舞いとの対比もあって、とても「美しい」ものに見えた。

先代の「盗人」の罪を今も背負わされ続けている家に生まれた凛は、「生まれてきたが、育てられないから殺めてしまう子供」を家族から預かり弔うという「汚れ仕事」でなんとか生計を立てていた。父親の曾祖父の罪にも拘わらず、村では未だに「罪人」扱いされる父は、その状況に憤りを隠さないが、凛は「そういう家に生まれてしまったんだから仕方ない」と、自身の境遇を諦め気味に受け入れている。
そんな彼女の救いは、村から見える早池峰山。そこには「盗人の女神」がいるとされ、貧乏人も金持ちも罪人も、人は死んだら等しくそこへ行くと凛は信じていた。
幼馴染(だと思う)で、遠くまで旅行商をしている泰蔵は、村では除け者のされている凛とも普通に話す仲だが、「自由に生きればいい」という泰蔵に対して、「私とあんたは同じじゃない」と口にする。凛は、この村から出ることもなく、今の「罪人の家の子」という捉えられ方も変わらないまま一生を終えるのだろうと思っているはずだ。
しかしある日、思いもかけなかったことから、凛の人生は予期せぬ方向へと動き出していく……。
というような話です。

個人的に、山田杏奈が結構良いなと思っています。最初に山田杏奈に注目したのは『ひらいて』、それから『彼女が好きなものは』でも絶妙な役を演じていて、なかなか良い存在感の役者さんだなと思っています。

この映画でも、山田杏奈の存在感がかなり作品を自立させている感じがします。普段は「可愛らしい」という感じの女性ですが、『山女』では終始「疲れ切った農村の娘」という雰囲気で、そしてそれが決して浮いてない。「可愛らしい」という印象の人がやるには両極過ぎる役柄な気がするけど、その辺りの調整がとても絶妙だったなと思います。良い感じでした。

そして、そんな凛(山田杏奈)の父親として出てくる伊兵衛を演じる永瀬正敏も、絶妙な「クズ感」を表現していてお見事でした。永瀬正敏がクズであればあるほど、山田杏奈の「凛とした感じ」が引き立つという構成の物語なので、永瀬正敏のクズ感は大事でしたね。

なかなか人に勧めるのが難しい映画だなぁ、という感じはしますが、雰囲気とか存在感はなかなかの作品だったなと思います。

ちょっとなんとも言いにくい映画ではあったなぁ。ダメだったってことはないんだけど、ズバッと来たという感じでもない。ただ、上手く説明できないが、「観て良かった」という感じはする。

先に書いておくと、そもそも「セリフが8割ぐらいしか聞き取れなかった」という問題がある。舞台は、18世紀後半の東北。いわゆる「東北弁」というやつだろう、東北の人以外にはきっとなかなか聞き慣れないイントネーションで、ボソボソと喋る(以前、東北は寒いから、なるべく口を開けずに話せるようになっていった、みたいな話を聞いたことがあるので、きっとこれもリアリティの追求なんだと思う)。そんなわけで、「推測を混じえても、8割ぐらいしか聞き取れない」という感じだった。

各場面で何が起こっているのかは、観れば大体分かるので、セリフが聞き取れなくても物語の理解にそう支障が出るわけではないが、ただ、「僕の場合は推測込みで8割ぐらい聞き取れた」というだけで、恐らくもっと聞き取れない人はいるだろうと思う。「推測」のためには、いろんな言葉や知識を知っていたりする必要があるから、それが上手く働かないと、「5~6割しかセリフが聞き取れない」みたいな観客がいても全然不思議ではないと思う。

この辺りは、リアリティとの兼ね合いが難しいポイントだと思うし、別にこの映画のスタイルが悪いとも思わない。ただ、現実的には「観るハードルは少し高い」といえるだろう。リアリティを追求したが故のデメリットであり、受け取り方は人それぞれか。

冷害に悩む農村が舞台であり、「遠野物語」に着想を得た物語だそうだ。

映画を観ながら、「人間の醜悪さ」を痛切に感じさせられたが、しかし、当時を知らない我々には、単に「醜悪」で切って捨てて良い問題でもないのだと思う。つまり、「あそこまで醜悪にならざるを得ないほどの冷害であり、まさに死が差し迫っていると感じられる中での行動なのだ」という視点は捨ててはいけないのだろう。

にしても、やはり醜悪だ。そしてそういう中で、まさに「凛」として生きる一人の少女の姿を描き出す映画である。彼女の置かれた境遇や、彼女がした決断、そしてその顛末などについて「良し悪し」で語るつもりはないが、生まれながらに「絶望」でしかない環境の中で、それでも「己の決断で生き方を選んでいる」と言わんばかりの凛の生き様は、それとはまったく対照的な父・伊兵衛の振る舞いとの対比もあって、とても「美しい」ものに見えた。

先代の「盗人」の罪を今も背負わされ続けている家に生まれた凛は、「生まれてきたが、育てられないから殺めてしまう子供」を家族から預かり弔うという「汚れ仕事」でなんとか生計を立てていた。父親の曾祖父の罪にも拘わらず、村では未だに「罪人」扱いされる父は、その状況に憤りを隠さないが、凛は「そういう家に生まれてしまったんだから仕方ない」と、自身の境遇を諦め気味に受け入れている。
そんな彼女の救いは、村から見える早池峰山。そこには「盗人の女神」がいるとされ、貧乏人も金持ちも罪人も、人は死んだら等しくそこへ行くと凛は信じていた。
幼馴染(だと思う)で、遠くまで旅行商をしている泰蔵は、村では除け者のされている凛とも普通に話す仲だが、「自由に生きればいい」という泰蔵に対して、「私とあんたは同じじゃない」と口にする。凛は、この村から出ることもなく、今の「罪人の家の子」という捉えられ方も変わらないまま一生を終えるのだろうと思っているはずだ。
しかしある日、思いもかけなかったことから、凛の人生は予期せぬ方向へと動き出していく……。
というような話です。

個人的に、山田杏奈が結構良いなと思っています。最初に山田杏奈に注目したのは『ひらいて』、それから『彼女が好きなものは』でも絶妙な役を演じていて、なかなか良い存在感の役者さんだなと思っています。

この映画でも、山田杏奈の存在感がかなり作品を自立させている感じがします。普段は「可愛らしい」という感じの女性ですが、『山女』では終始「疲れ切った農村の娘」という雰囲気で、そしてそれが決して浮いてない。「可愛らしい」という印象の人がやるには両極過ぎる役柄な気がするけど、その辺りの調整がとても絶妙だったなと思います。良い感じでした。

そして、そんな凛(山田杏奈)の父親として出てくる伊兵衛を演じる永瀬正敏も、絶妙な「クズ感」を表現していてお見事でした。永瀬正敏がクズであればあるほど、山田杏奈の「凛とした感じ」が引き立つという構成の物語なので、永瀬正敏のクズ感は大事でしたね。

なかなか人に勧めるのが難しい映画だなぁ、という感じはしますが、雰囲気とか存在感はなかなかの作品だったなと思います。

「山女」を観に行ってきました

さて、インド映画だからこそ成立するという感じではあるけど、面白い映画だったなぁ。別に「スラム出身」の少年が主人公だからというわけじゃなくて、「さすがにそれは、ちょっと都合良すぎるだろ」みたいな展開が多いっていう意味なんだけど、まったく同じ物語を日本やハリウッドの映画でやっても、ちょっと受け入れられない気がする。インドの「なんだかよくわかんないけど、陽気でパワフルなエネルギーに溢れた感じ」だからこそ、「まあこういう物語もいいよね」って感じられる気がする。

というわけで、「ギャガがアカデミー賞受賞作品を映画館で上映する」って企画をやっているので、『スラムドッグ$ミリオネア』を観に行ってきた。若い人も含めて、客席は結構埋まってたから、「映画館で観たい」っていう需要って、まだまだあるんだろうなって感じはした(僕は別に、映画館で観たいというわけではないんだけど、「映画館で上映している映画しか観ない」という条件を付けることで、映画選びがなるべく偏らないようにしている)。

この映画は、物語全体の構成が見事だったと思う。

冒頭、主人公が拷問を受ける場面から始まる。観客には、何が起こっているのか分からない。特に、「クイズ番組で大金を手に入れる」みたいな内容だけ知って観ると、「??」という感じになるだろう。

実は主人公のジャマールは、「クイズ番組で不正を働いた」という疑惑で拘束され、警察で取り調べを受けているのだ。ジャマールは、スラム出身の若者であり、学校にも僅かな期間しか通ったことがない。普通に考えて、そんな人物が、医師や弁護士でさえ途中で間違えてしまうクイズ番組で、過去例のないほどの大金を手に入れられるはずがない。

という疑いを掛けられている、というわけだ。

警察は、ビデオに撮ったクイズ番組の放送を観ながら、「なぜこの問題を答えられたのか」とジャマールに問う。そしてそれに対しジャマールが、自身の過去を振り返りながら、「たまたまその問題の答えを知っていた理由」について語る、という構成になっている。

そしてその過程で、スラムで生まれ育ち、ずっと酷い暮らしぶりの中で生活していたジャマールの過去が明らかになる、という展開である。

しかもそれだけではない。ここでは詳しく書かないが、「なるほど、今ジャマールはそういう状況にいるのか」ということが、かなり後半になってから明らかになる。そして、そこからさらに一段階盛り上がりがある、という展開になる。この構成も上手い。

特に、後半に行くにつれて見事だと感じたのが、「ライフライン」の使い方だ。日本ではみのもんた司会で同じフォーマットの番組が行われていたが、「50:50」「電話」「オーディエンス」に助けを求められるという仕組みは、このインド版の番組でも同じである。

この「ライフライン」が、「なるほど!」というタイミングで使われるのだ。もちろんこれも、物語全体で観れば「ご都合主義」全開という感じだが、そもそも「ご都合主義」全開で展開されている物語なので、全然気にならない。むしろ、「そうくるか!」という感じだ。特に、最後に使うライフラインの場合、「そうでなければ実現不可能だったこと」に関わってくるし、なんなら「スラム出身で、どう考えても大金など獲得できるはずのないジャマールが、なぜこの番組に出演しようと思ったのか」という理由の説明にもなっている。ホントに、見事な構成だなと思う。

そのような、絶妙に構成された物語の中で、「ジャマールの個人史」とでもいうべき過去が描かれていくことになる。これはまさに、インドの現実そのものなのだろう。物語としては、「想像できる範囲内のこと」という感じではあるが、だからこそ「これが現実なんだ」という感覚も強くなるし、コミカルに描かれる部分も多々あるが、やはりそのリアリティには圧倒される思いがする。

細かなところには色々と突っ込みたくなる部分もあるかもしれないけど、そういうことを無視して楽しめる人は面白く観れると思います。インド映画らしく、エンドロールの始まりで踊るシーンがあったりして(本編中には、歌ったり踊ったりはない)、そういうのも楽しいですね。

「スラムドッグ$ミリオネア」を観に行ってきました

いやー、面白いじゃないか、マルセル。これは、メチャクチャ良い映画だった。正直、観ようかどうしようかって当落線上の映画だったんだけど、今日がファーストデイで良かった。違う日だったら、観るのを後回しにしていたかもしれない。

主人公はマルセル。彼は、どんな種類の生き物なのかよく分からないが、とにかく「靴を履いた、人間と同じ言葉を喋る、体調2.5センチの生き物」である。ある一軒家に、祖母のコニーと共に暮らしている。
かつてカップルが住んでいたその家は、その男女が突然いなくなってから空き家となり、今はAirbnbを通じて貸し出されている。そんな家にやってきたのが、映像作家のディーンである。
マルセルとコニーはそれまで、この家にやってくる人間たちから隠れて上手く共存していたのだが、ディーンとはどんなやり取りがあったのか(彼らの出会いの部分は特に描かれない)、マルセルはディーンが撮るドキュメンタリー映画の主人公になることに決めた。
実はマルセルとコニーは、以前はもっと多くの仲間と共に暮らしていた。しかし、両親を含む仲間たちが、カップルがいなくなった夜に、両親を含む仲間たちが忽然と姿を消してしまったのだ。彼らは毎週、「60ミニッツ」というテレビ番組を観ることに決めているのだが、何故かその日、テレビの前に集まったのがマルセルとコニーだけであり、それ以来、彼らはたった2人きりで過ごしている。
ディーンが撮影する映像は時々Youtubeにアップされるのだが、その内の一本がバズりにバズり、マルセルは一躍全米中の人気者になった。しかし……。

というような話です。

映画はフェイクドキュメンタリー(モキュメンタリー)のような体裁を取っている。つまり、「ディーンという登場人物が撮影したドキュメンタリー映画」という体裁で、マルセルとコニーの生活が切り取られていくというわけだ。そんなわけで、出会ったばかりの2人のやり取りも含めて非常に面白い。

体調2.5センチのマルセルは、ストップモーションで描かれている。CGを一切使っていないのかどうかは不明だが、観る限り、全部ストップモーションでやれそうな感じの映画な気はする。しかし、人間が普通に生きる世界でのストップモーションの撮影は、えげつなく大変だろうなぁ、と思う。公式HPを見ると、元々はYoutubeにアップされた短編作品だったようだが、劇場公開された映画は、制作になんと7年も掛かったそうだ。大変だわ、そりゃあ。

ストップモーションでコミカルに描かれていることもとても良かったのだけど、何よりもまずストーリーがメチャクチャ良かった。

マルセルとコニーは、ある時唐突に仲間を離れ離れになり、長い期間(人間のような感覚を保たないマルセルは把握出来ていなかったが、ディーンと出会った時点で2年ぐらい仲間と離れ離れになっていた)を2人で過ごしていた。もちろんそれは、「寂しさ」にもつながるのだが、それ以上に、実際的な生活の問題として直結する。

要するに、人手が足りないのだ。大人数いればなんとかできることも、2人ではなかなか厳しい。そこで彼らは、ありとあらゆる工夫をする。一番頭良いなと思ったのは、庭木に生っている果物を落とす方法だ。「どうやってロープを張ったんだ?」みたいな疑問はまあちょいちょいあるわけだけど、まあそれはともかく。

また、カップルが喧嘩して家を出ていってしまったことも大きな問題だ。食料が手に入らなくなったのだ。それまでは、カップルが食べていたものを上手いことくすねていたのだが、それが出来なくなった。そこで2人は、家にある本を読んだりしながら、独学で耕作を学び、食料を自分たちで作るのである。

ディーンがこの家にやってきた時点で、家の中は彼らの「工夫」で溢れていた。そんな彼らの日常生活を覗き見する感じが、まず楽しい。ディーンは基本的に、マルセルとコニーの生活に介入しないというスタンスを取っており、2人が普段どんな風に生活しているのかを映し出している、という設定になっている。

「なるほど、そんな風に生きてきたのか」という奮闘の記録が観れるというだけでも、十分に面白い。

さらに、あまり具体的には触れないが、ディーンとの会話の中に次第に「離れ離れになってしまった家族」のことは、「孤独の寂しさ」みたいな話が交じるようになってくる。特にマルセルは、普段気丈に振る舞っているのだけど、やはりどうにもならない寂しさを抱えているようだ。ディーンのYoutubeの映像のお陰で人気者になったことで、家族や仲間が見つかるかもしれないと期待を抱くこともあったが、そうあまくはない。

そういう状況の中で、寂しさを紛らわせる強がりを見せたり、何か可能性はないかと奮闘したりする姿も、とてもいい。

マルセルとコニーは、「60ミニッツ」を観ているからだろうか、人間世界のことに詳しい。どうやら、映画なんかも結構観ているようだ。だから、ディーンとの会話も、かなり知的でユーモラスなものになる。これも良い。マルセルとコニーは、新種の生物なのか、はたまた地球外生命体なのかみたいな、そういう「存在そのもの」に対する説明が一切ないのだけど、とにかく「人間世界のことにはかなり通じている」という設定を、(恐らく)「60ミニッツを観ている」という設定だけでシンプルに押し通すところも、面白いと思う。

この点に関連してもう少し。僕がこの映画で一番良かったと思うのが、「マルセル・コニーの存在そのものについて一切言及しない」という点だ。

例えばディーンであれば、普通は、「この生物は一体どこから来たんだ?」「なんで人間の言葉が話せるんだ?」「この家に来る前はどこで何をしていたのか?」など気になることは多々あるだろうし、現実にマルセルのような存在に出くわしたら、生物学者に見てもらうみたいな展開になったりもするだろう。しかしディーンはそういう行動を一切取らない。とにかく、「マルセルとかコニーのような存在がいる」ということを無批判に受け入れたことで、物語が進んでいく。

そしてこれは、世間も同じである。

マルセルの映像がネットにアップされると、すぐに人気者になるのだが、これもなかなか想像しにくい状況だ。普通なら、「ディーンが再生数を稼ぐために、マルセルなんていう生物が実在しているかのように見せかけている」みたいなことが疑われるはずだ。賛同するコメントも出てくるだろうが、間違いなく批判コメントが山のように押し寄せるはずである。

しかしこの映画では、そういう描写は一切描かれない。世間の反応について具体的に描かれる部分は少ないが、しかしそれでも、映画のラストのあの展開を含めて考えれば、「世間がマルセルの存在を疑いなくあっさり受け入れている」ということは事実だと考えるしかないと思う。

このように、ディーンも世間も、「マルセル・コニーの存在を無批判に受け入れている」という世界線で物語が展開されるわけで、そういう意味で言えば、この映画は「寓話」といえるだろう。「現実感が薄い」というわけだ。

しかし、にも拘わらず、映画を観ていて「現実感が薄い」という印象にならないのが不思議だ。

これは恐らく、1つには「モキュメンタリー」という手法を取ったことが大きいと思う。「現実を撮っている」というフェイクドキュメンタリーの手法を取ることで、映像のリアリティは格段に上がるし、それは「寓話」にしか思えないこの物語においても同じだと思う。そしてもう1つは、ラストの展開にあるだろう。これもまた、映画全体のリアリティを格段に高める要素として機能していると僕は感じた。

この「寓話にしか思えないのに、現実感がきちんとある」という描かれ方が、ファンタジーの嘘っぽさとか、現実の押し付け感みたいなものを絶妙に回避して、一個の物語としてスーッと観客の元に届くのだと思う。この「寓話にしか思えないのに、現実感がきちんとある」というのは、どことなく森見登美彦・伊坂幸太郎的という感じがあって、そういう作品が好きな人には結構合うんじゃないかなぁ、という気がした。

とにかく、メチャクチャ良い映画だった。実に良い。素晴らしい。「ストップモーションかぁ」みたいに思っている人は、ちょっと誤解があるかもしれない。ストップモーションアニメという感じではなく、ホントにリアリティのある存在としてマルセルとコニーが描き出されているのがいい。

観るかどうか迷っている人は、観た方がいいんじゃないかなと思います。

「マルセル 靴をはいた小さな貝」を観に行ってきました

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