黒夜行 2007年03月 (original) (raw)

変わらないものは世の中にはないと思う。それは仕方のないことだろうとも思う。僕らは変化の中に生きていて、というか変化そのものを時間として捉えて、それを基準にして生きているようなところがある。時間と変化とは切っても切り離せないもので、不可分なのだ。であれば、それは享受するしかないだろう。
自分が変わることはいい。それは、自分の意思にせよそうでないにせよ、結局のところ自分が望んだ変化であるはずなのだ。あるいは試練である場合もあるかもしれないが、何にせよそれは受け入れなくてはいけない。
また、他人が変わることもまたいい。それは僕とは基本的に関係のないことであるし、誰か他人が何か変わろうとも、それが僕と関係のないことであるならばそれはどうでもいい話である。
しかし、自分と他人の関係が変わるというのは、すんなりと享受することの出来ない変化だと思う。
前にある小説にこんなことが書かれていた。
家族が引越しばかりするが故に転校を何度もしなくてはいけない子供の話だ。その子は、転校する度に周囲の人間から違う印象を与えられるのだという。ある時はもの静かな子供、ある時は活発な子供、ある時は無愛想な子、というように。
しかしその子は、学校毎に自分のスタイルを変えたりはしていないのです。自分自身のあり方に変化はないのに、周囲の人間がそれを「誤読」して関係性を決める。
こういうことは、結構よくありますよね?
自分自身の変化に応じて、周囲の人間の評価が変わることは、これは当然だと思います。しかし例えば、表面的にも本質的にも何も変化のない人間を、周囲の人間が変わったというだけで勝手に変化を与えられるのは、たまったものではないな、と思うのです。
つい最近も何かの感想で話題に出したけど、夏川純というアイドルの年齢詐称の話もまた挙げましょう。この問題に対する僕の態度は、別にそんなんどっちでもええがな、というものです。
さて夏川純自身には、年齢をサバ読んでいた時とそれを告白した後でどんな変化があったでしょうか?外見的に変わったところがあるわけではないですよね。では本質的に何か変わったか?そういうわけでもありません。夏川純という人間には、あの騒動の前後で変化したことなど一つもないのです。
しかし、周囲の人間はそれで騒ぎます。あんまりテレビを見ないのでどんな展開になっているかわかりませんが、しかし多少バッシング的な非難するような論調があったりするのでしょう。
こういう変化というのが、僕はなんか許せません。変化したのはそちらの側なのに、さも自分の側が変化したかのように錯覚させられるようなものだけは、どうにも納得がいきません。
永遠に変わらないものはない、と冒頭で書きました。しかし、信じることで永遠に近づけることは出来るのかもしれません。他人がどう言おうとも、常に自分を信じる。あるいは誰かを信じる。そうすることで、その信じる道が限りなく永遠に近づいて行くのかもしれません。
信じられるものを僅かでも所有しているのならば、それは永遠への可能性の一つを持っているということなのかもしれません。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、中編と短編が一つずつという構成になっています。

「ロリヰタ」
グラビアの撮影現場で偶然出会った君。君は、ロリータなお洋服を着て撮影に臨むところでしたね。でも、着させられたお洋服がどうも違うと思ってスタイリストさんに立ち向かっていましたね。
その場で僕は正統なロリータのスタイルを施しました。
それからですね、僕らがお互いに連絡を取り合うようになるのは。
僕はを持っていませんでした。買ったけど説明書を読みこなさなければメールは使えませんでした。それでも僕は頑張って、君とメールが出来るまでになりました。
いつしか僕は、君に恋をしていることに気付きました。人を愛する資格を失った僕は、君と出会うことが出来ました。君のことが僕は好きです。
それなのに…。

「ハネ」
貴方と一緒の夢を叶えるために、私は表参道の路上でハネを売ります。貴方に作り方を教えてもらったハネです。ここで露天を開くようになったもう長くなりますが、しかしまだ一度も売れたことがありません。
貴方に会いたい。もう一度会いたい。そう心から強く願っているのに。貴方からもらったあのハネを、今でもちゃんとつけています。両親からはこのお洋服も含めて冷たい目で見られるのだけど、気にしません。
徐々に状況が変わって、私のハネが売れるようになってきました。雑誌の取材が来るようにもなり、ある意味でカリスマ的な存在になって行きました。
しかし状況はいつでもわたしに断りもなく、大きく変わって行くのです…。

というような感じです。
どちらも冒頭で書いたように、永遠に変わらないものなどない、というようなことをテーマにした作品だ、と僕は思いました。周囲の都合で変化を強要される人々が、それに屈しずに、信じられる何かを強く信じるというような話です。
どちらの話も結構いい話でした。嶽本野ばらの作品でひさびさにいい作品だと思いました。
どちらも、暴力的なまでに突然何かが奪われてしまいます。当人としては何の変化もしてないし、何も大それたことをしたいわけでもないのに、周囲の人間が何か勘違いをして、その勘違いにいつの間にか巻き込まれてしまいます。
大衆というものの恐さを描いている作品でもあると思いました。名前のない大衆という存在が、人間一人を抹殺することがどれほど簡単かということを思い知らされました。
また、ロリータのファッションをしているからというだけの理由で、彼らをある種の偏見に落とし込む嫌な登場人物がたくさん出てきます。
僕だって褒められたものではなく、ロリータチックなファッションをしている人を見ると、「よくやるなぁ」とか「すごいなぁ」とか思うのだけど、でも悪意や暴力的な何かを感じることはありません。好きでやっていて誰にも迷惑を掛けていないのですから、そんな感情はおかしいだろうと思います。
理解できないものを暴力的に排除するシステムでも人間には備わっているのか、あくまで人間は、理解できるかどうか、ということにこだわります。理解できないものは不気味なものとして、攻撃してもいいものという認識が与えられるのかもしれません。
僕らは誰かに理解されるために生きているわけではないし、理解されることがすべてなわけでもありません。社会と折り合っていかなければいけないのは当然ですが、しかしその範囲内であれば誤解を生む行動であっても非難する理由は特にないはずです。
しかし、服装が変だというだけの理由で、人は攻撃的になります。
「ロリヰタ」の方には、男のくせにロリータの格好をしている主人公を、「ロリコン」だの「変態」だのといいます。また「ハネ」の方では、女性警官がロリータファッションをした主人公を理解できない異星人みたいな扱いをします。
「ハネ」の主人公は、こんな風に言います。

『多分、私に非行歴があったり、ひきこもりや家庭内暴力を起こしていたり、精神科に通院していたりすれば、羽を作って売ったり、ロリータの格好で大きな羽をつけていたり、金メダルのことを知らなくても、大目に見てくれた筈です。人と違う思考や行動をしていても、不良だからとか、精神的に不安定だからという解り易い理由があれば、安心できるのです。全く異質な生物であるから仕方あるまいと納得するのです。グループ分けをして、その中に入れることが可能ならば、そのグループのことが理解出来なくても、認知するのです。私はどのグループにも入らない。不良でもなければ、ロリータでもないし、ましてやハネ族と呼ばれるカテゴリーにも属さない。私は単に、私であるだけ。それが目の前の婦人警官を苛立たせるのです。』

世の中というのは窮屈なものだな、と本当に思います。
本作は、結構いい作品だと思います。僕が持ってるのはハードカバーですが、最近文庫になりました。かなり薄いし読みやすいと思います。嶽本野ばらに手を出してみようかという人にもオススメですよ。読んでみてください。

嶽本野ばら「ロリヰタ」

人間は、起源というものに惹かれるようです。
人間は、人間の起源を解明しました。ミトコンドリアイブ、でしたっけ。人類は、アフリカのある女性から始まった、その女性をそう呼びます。それが、人類の起源です。ミトコンドリアイブが生まれ、彼女が子を成し、子孫が繁栄し、土地を開拓し、そうした流れの先の先に、今の僕たちの生活があります。ミトコンドリアイブが起源です。
人間は、宇宙の起源を解明しようとしています。それは、ビッグ・バンです。ビッグ・バンによって起こったのではないか、と言われています。詳しいことは分かっていません。大きな大爆発から宇宙が・空間が・時間が始まったのではないか、というイメージです。少なくとも、いろんな面で破綻のない説明をすることは可能なようです。しかしまだ解明はされていません。人間は、宇宙の起源を解明しようとします。
さて僕は昨日、僕の起源を通過しました。なんの話かと言えば、昨日は僕の誕生日でした。僕の起源の日です。僕が始まった日です。特に他の日と何かが変わるわけではありませんが、しかし誕生日というのは少なからず意識されます。それはやはり起源であるからです。起源に惹かれるのが人間であるからです。
始まるものは、明確な意志で以って終わりを迎えるのが自明ですが、人間はその終わりにはなかなか目を向けようとはしません。あるいは、それが終わりであることを意識しないかのどちらかです。
やはり、人間は何かが終わるのはみたくないのです。何かが始まる方が、圧倒的に喜ばしいことであると感じるのです。
子供が生まれることを考えれば、誕生というのは明るく前向きなイメージがあります。しかし、死を考えるとそれは、暗く後ろ向きなものになります。始まりを求める気持ちは理解が出来るし、起源を遡るという欲求も、ある程度理解することが出来ます。
しかし、何かが始まることには、宿命的に終わることが定められているわけです。始まってしまえば、終わらずにあり続けることは不可能です。太陽でさえ、宇宙そのものでさえ永遠とは無縁でしょう。あらかじめ、終わりを内包した上での誕生です。
湧き水から始まった河川は、やがて海にたどり着きます。海にたどり着かない河川はありません。海は終わりであり、河川の誕生は、海という終わりをそもそも内包しているべきです。
起源ばかりに目を向けていては、世界を正しく認識することは出来ないでしょう。起源を遡る道程にではなく、終わりへと向う道程にこそ冒険が潜んでいます。
既に冒険は始まっています。誕生した瞬間から、起源が立ち現れた瞬間から、そこに冒険が生まれます。終わりへと向う流れの中で、僕らはその冒険と向き合うことになります。
終わりは広大です。無辺ですらあります。終わりまでの道のりは、長く厳しいものになるでしょう。時として、歩き続けることを諦めたくなることもあるかもしれません。
しかし恐らくそこには、何かの流れがあることでしょう。あなたの終わりまでの道のりを案内するような力強い流れが。その流れに導かれるようにして、僕らは歩き続けることでしょう。
冒険です。日々、冒険です。
そろそろ内容に入ろうと思います。
僕は、20歳を超えて初めて外出の許可が出ました。これこそが冒険です。井の頭公園です。ここが、僕の冒険の場です。
そこにはあらゆるものがあり、あらゆる人がいます。
僕は一人の男の人と出会います。神田川の起源である御茶の水を見にやってきたようです。なんだか意気投合しました。今はバケーションなのだそうです。
次に女の人に出会います。死んでいる女の人です。その女の人とも意気投合しました。あたしも、バケーションしちゃおうかな。
それから、イギリス人の男の人と女の人に出会います。二人はカップルです。何やら揉めているそうです。ボートにのったがために呪いに掛かってしまったようです。
そうして僕らはなんとなく、神田川を下って行くことになりました。
どこまで。
そう、海までです。
どうやって。
そう、歩いてです。
僕らは、5人でスタートした僕らは、次第に勢力を増していきます。夏休み中の子供3人、ゲロきものおじさん、双子の姉妹、評議会の面々などなど。
僕たちはひたすらに冒険を続けます。神田川に沿う形で、なるべく逸れないように、ひたすらに海を目指します。
これこそ、まさに冒険です。
というような話です。
僕は、「ただなんとかするだけの話」というのが大好きで、例を挙げれば、「ただ走るだけの話」である三浦しをんの「風が強く吹いている」だとか、「ただ歩くだけの話」である恩田陸の「夜のピクニック」などです。
本作はどうかと言えば、「神田川に沿って海までただ歩くだけの話」であり、本当にそれ以上でもそれ以下でもありません。ただ歩くだけです。
でも面白いですね。さすが古川日出男と言った感じです。
何よりも本作は、今までの古川日出男の作品のどれよりも読みやすいです。今まで読んできた古川日出男の作品は、面白いのだけどすごく読むのに時間が掛かる作品ばかりでした。文体に特長があって、すんなり読むということが出来ません。
しかし本作はとにかく読みやすいです。少年のような視点で語られる物語は、これまでの古川日出男の文体とは大きく違ってするすると読むことが出来ます。古川日出男の作品を初めて読むという人には、これをオススメしようと思います(あるいは「沈黙/アビシニアン」のどちらか)。
古川日出男は、とにかく「東京」とうものにこだわって作品を書く作家です。「ベルカ」や「アラビア」や「ロックンロール」など世界を舞台にした作品も多いですが、どこかの「街」が出てくるような作品は、大抵舞台が「東京」です。
古川日出男は、「東京」という街を解体したがっているように僕には思えます。「東京」という街に潜んだ「何か」を、解体することで表に引きずり出してしまおう、というような印象を受けます。
僕は「東京」というものに特に詳しいわけではないのだけど、でも古川日出男の作品を読むと、「東京」というのがどこか僕の全然知らない土地について書かれているような気になります。古川日出男は、「東京」を解体するために、あらゆる固有名詞を出して「東京」を正確に描写するのですが、それら固有名詞によって生み出された「東京」は、どうにも僕の描く「東京」とズレがあるような気がするのです。うまく説明できませんが。そんな風に感じるかたいないでしょうか。
今思いついたけど、古川日出男は、世界を舞台にして作品を書く時は「時間」を描き、東京を舞台にして作品を書く時は「街」を描くのではないかと思います。どうでしょうか?
本作に出てくる登場人物がなかなかに魅力的な人達ばかりで、読んでいて本当に面白いです。
リーダー格のウナさん、捉えどころのないカネコさん、日本語地獄耳のイギリス人と、その彼女でイギリス人とのやり取りが面白いへその女の人、夏休みの宿題の絵日記を描くために参加した騒がしい子供3人、息子に会えないくつくつと笑うおじさん、などなどもう多彩な人間が揃っています。彼等は、歩きながら様々な会話を交わすのだけど、なんだかその会話が抜けていて面白くて、するすると読めてしまいます。
何よりも、僕の視点がすごく面白いです。詳しい設定が描かれないのだけど、ロボットとかそういう何かではないのかな、と思いました。いやそんなわけないんですけど、読んでいる間中、ずっとそんな印象を抱いていました。なかなか新鮮な描写や反応をしてくれるので面白いと思います。
古川日出男を初めて読もうという人は、これを読んでみたらいいかもしれません。かなり抵抗なく読めるのではないかと思います。また、古川日出男の何かの作品を読んで、この作家は自分には合わないと思った人(あるいは途中で挫折した人)、もう一度だけ古川日出男にチャレンジすると思って本作を読んでみてはどうでしょうか。結構アリだと思います。爽やかで青春溢れる作品になっています。オススメです。読んでみてください。

古川日出男「サマーバケーションEP」

友情の話をしようかと思う。いつもの如く、大した話にはならないのだけど。
以前読んだ本に、太宰治の「走れメロス」を下敷きに敷いたような作品を読んだ。黒武洋という人の「メロス・レヴェル」という作品だ。この作品自体はもうすこぶるにつまらなかったのだけど、内容はこんな感じであった。
舞台は未来の日本。そこはあらゆるものが管理されている社会であり、また何よりも家族というものが重視されるようになった社会だ。例えば月に一度(だか週に一度)決まった日を設け、その日は規定の時間までに家族全員が家に揃って団欒をしていなければならない、みたいな法律があったりするわけだ。
そんな世の中で、家族の愛を確かめるための大会が開かれる。それが「メロス・レヴェル」である。家族が二人一組で参加し、その絆を確かめ合うというものだが、その方法がすごい。二人のうちどちらかを挑戦者に据え、あることに挑戦させる。それに成功すればいいが、失敗すればもう一人のパートナーが何らかの罰を受ける、というようなものだった。つまり、メロスとセリヌンティウスを模しているというわけだ。
大分昔に読んだので上記の内容紹介にかなり適当な部分もあるかもしれないけど、大体こんな感じだったと思う。とにかくその「メロス・レヴェル」という大会の話がメインの作品であった。
つまらない作品だったのだけど、友情というものを考えるには面白いかもしれないと思った。この場合、友情ではなく家族の絆であるのだが。
さて、友情というのもは、何らかの形で示されなければならないものなのだろうか。まずそこが僕には疑問である。
友情がそこに存在していることをわざわざ確認しなくてはいけないというのはどうなのだろう、それは本当の友情なのだろうか。もちろん、その友情を誰か他人に示す必要などまったくない。当人同士がわかっていればいいわけで、ならば友情というものを明確に形にして示す必要などないということにはならないか。
ということを恐らく世の中の人間だって当然わかっているわけで、だから「走れメロス」や「メロス・レヴェル」と言った作品のように友情を示すような行動をとったりしないのである。第一気持ち悪い。「僕は君に対して友情を感じているよ」「僕もそうだよ」「今からそれを示してしんぜようではないか」「ならば僕は君を信じるよ」「いざっ」みたいなことは気持ち悪くて仕方がない。太宰治の「走れメロス」をいつどこで読んだか記憶にないが(まあ恐らくどこかの国語の授業であろう)、しかしその時もきっとこう思ったに違いないのだ。「気持ち悪い」と。
そんな風に、友情をあからさまに形にして示すのはおかしい、という共通認識があるという点については特に異論はないと思うのだが、しかしそれでも世の中の人々は、友情というものを確かめたいと思っているように僕には見える。
まあ正直なところを言えば、僕だってそう思っていないわけではないので人のことは言えないのだが、しかしどうだろう、そんな自分に気付くことはないだろうか。
友人というのは、慣れてしまえば至極当たり前の存在であって、当たり前すぎるが故にそこに何も不安を感じることはない、という人もいるだろうが、羨ましいものだ。僕なんかは、変わらないものはないはずだという考え方で、今当たり前にあるはずの友情がいつの間にか消えてなくなってしまっていることだって十分にありえるだろう、と思うのである。
そういう意味で、誰かの友情を確認したいという欲求に駆られることがないではないが、しかし自分が誰かに対して明確に友情を示すことがないように、それを求めるのは筋違いというものだろう。
さて、友情そのものについて全然書いていないのでそれについて書こう。
「走れメロス」では、約束に違わず裏切らないことで友情を証明しようという話であった。確かにそれも友情の一つの形であろう。いやどんな形であれ、友情と呼ばれるべきものは、これに似たような何かであるのだろうと思うのだ。
しかし本作を読んでなるほどと思った。友情にも様々な形があるのだな、と。約束を破って裏切って、それでも友情と呼べるものが残りうるという可能性に触れたのである。これはなかなか新鮮であった。
主人公の一人はこんなことをのたまうのだ。

『「あるのだ。そういう友情もあるのだ。型にはめられた友情ばかりではないのだ。声高に美しき友情を賛美して甘ったるく助け合い、相擁しているばかりが友情ではない。そんな恥ずかしい友情は願い下げだ!俺たちの友情はそんなものではない。俺たちの築き上げてきた微妙微細な関係を、ありふれた型にはめられてたまるものか。クッキーを焼くのとはわけが違うのだ!」』

またこうも言う。

『「約束を守るも守らないも問題ではないのだ。信頼するも信頼しないも問題ではないのだ。迷惑をかけてもいいだろう。裏切ってもかまわん。助け合いたければそれもいい
。何であってもいいのだ。そんなことはどうでもいいのいだ。ただ同じものを目指していればそれでいい。なぜならば、だからこそ、我々は唯一無二の友なのだ!」』

詭弁ではあるが、僕は納得した。なるほど、そうかもしれない。特に、『ただ同じモノを目指していればそれでいい。』という辺りが納得できる。友情という言葉からは、向き合っているようなイメージが浮かぶが、彼等の場合はお互いが同じ方向を向いているイメージなのだ。なるほど、そういうこともあるだろう。これは面白い、と思った。
何であれ友情というのは、そこにそれがある信じた二人が揃って見る幻のようなものなのであろう。どんな形をしているかではなく、二人に同じものが見えているかどうかということが重要なのだろうな。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、先達が残した偉大な古典文学を下敷きにし、舞台を現代の京都に置き換え紡ぐ、まったく新しい小説です。五つの短編が収録されているのでそれぞれ書こうと思います。

「山月記」
斎藤秀太郎は、文学を志すものであった。彼は、一部関係者にはすこぶる勇名を馳せていたが、しかしそれはその文学においてではない。変人として、である。
周囲の者が次々と卒業して行く中で、「さらばだ、凡人諸君」と言葉を残した秀太郎は、留年と休学を巧みに使いこなしては、およそ不可能といわれたモラトリアム延長の歴史的記録へと果敢に挑んだ。
彼はその間ひたすらに小説を書いていた。しかし、一向に完成しない。作品の進展を聞かれた時の彼の口癖は、「至るところ佳境だらけさ」である。
さてそんな彼が、ある夜失踪した。残念ながら、その姿を捜すものはいなかった。
その失踪から一年後、大文字送りで知られる大文字山に天狗が出ると噂になり…。

「藪の中」
学園祭である映画が上映された。それは上映までほとんど情報が漏れることなく極秘で撮影されたものだったが、どこから伝わったのかラストシーンがすごいという噂が駆け巡り、上映前から話題になった。
監督は鵜飼という男で、役者は二人。渡辺という男と長谷川さんという女である。実はこの三人、渡辺と長谷川が元恋人同士であり、鵜飼と長谷川さんが現恋人同士という奇妙な三人でもあった。また脚本も、渡辺と長谷川さんのかつての恋愛の話を題に採っているという無茶苦茶なもので、周囲から非道であるなどの罵詈雑言が鵜飼の元に集まったが、彼等は一向に気にしなかった。
そんな映画「屋上」を巡る様々な物語を、それに関わった様々な人間の視点で語る物語。

「走れメロス」
詭弁論部に在籍する芽野史郎は、学園祭の場において詭弁論部の部室が奪われたことを知った。奪ったのは、私設軍隊「自転車にこやか整理軍」を率い。学内の学生のおよそすべての秘密を網羅すると噂される図書館警察長官の仕業であった。彼は初恋の人が生湯葉好きであり、その研究をするためだと言って横暴にも詭弁論部の部室を奪ったのである。
怒りに燃えた芽野は長官に会いに行き、そこで譲歩を引き出した。それは、グランドに設営しているステージに上り、楽団の奏でる音楽に合わせて桃色のブリーフ一丁で踊れば部室は返すというものだった。芽野はそれを了承するが、しかし今日は姉の結婚式があるので明日にして欲しいと頼んだ。代わりに、芹名雄一を置いて行くからもし自分が明日戻って来なければ代わりに芹名に踊らせるがよい、と告げた。
そうして芽野は、約束をすっぽかして逃げるのであるが…。

「桜の森の満開の下で」
桜が嫌いというわけではないのだが、誰もいないしんとした空気の中で見る桜は恐ろしいと思う。哲学の道沿いの家に住む男はそんな風に思っていた。
彼は斎藤秀太郎を師事し、小説を書いては秀太郎に見せるという日々を送っていた。孤独が気にならず、一週間誰とも話すようなことがなくても平気な人間であった。
ある日、満開の桜の下、哲学の道を歩いていると、一人の女性と出くわした。体調が悪そうなので介抱すると、それからしばらく後になんと付き合うことになった。周囲の人間は嘆いた。こんなことがあってもいいものか、と。
それからというもの、彼の人生はすべてがうまくいった。小説の新人賞に受賞し、作品の依頼が舞い込み、そして何よりも女の幸せそうな顔を何度も見ることが出来るようになった。しかし…。

「百物語」
友人のF君に誘われて百物語に参加することになった。何でも、学生演劇の主催者としてかなり名を知られた鹿島という男が計画したことらしい。当日になって集合場所へと赴くも、どうも白けた雰囲気が漂っている。盛り上がりそうにもないのだが、しかし抜け出るようなタイミングもなく集団について行った。
百物語は、鹿島という男の親類の家で執り行われるようだ。そこにはそれは数多くの人間が集っていて、しかし小さな集団で固まったままけん制しあった微妙な雰囲気であった。F君の知り合いと会話を交わし時間を過ごすが、しかし一向に始まる気配もない。なんか馬鹿らしくなって、結局僕は黙って帰ることにした…。

というような感じです。
面白い作品でした。森見登美彦という作家はやっぱりすごいですね。ホント他の作品も今すぐにでも読みたいところです。
なんと言っても一番面白いのは、「走れメロス」です。これはもう最高でした。あんまりにも馬鹿馬鹿しい設定で笑ってばかりいました。原作の内容を知っていたことも大きいかもしれません。他の四篇については原作そのものを知らないので、知っていればもっと楽しめたのかもしれません。そう思うと原作に多少興味が湧いてくるのだからすごいものです。
「走れメロス」は、冒頭で引用したように、最後はなかなか考えさせるというか深いというかそんな感じで、なるほど友情というものにもいろいろあるのだろうな、と思わされました。
「山月記」は、斎藤秀太郎という男の無念みたいなものがよく表れていてよかったし、「藪の中」は多視点で様々な人間がいろいろ語る点と鵜飼がその映画を撮ることでやりたかったことというのが面白かったと思います。「桜の森の満開の下」は奇妙な雰囲気でなんとも言えない余韻を残して終わるんですがあれはなんだんでしょう?桜の化身なんだろうか、とか思いましたけど、原作を読んでいれば分かったのかな。「百物語」は一番よく分からない作品で、まあ話の筋というか作者がやりたかったのだろうなということは分かったのですが、あんまり面白いとは思えませんでした。
「走れメロス」以外のすべての作品に斎藤秀太郎が出てきて(もしかしたら「走れメロス」にも出てきてたかもだけど)、また前作である「夜は短し歩けよ乙女」と関連する部分も多々あって、そういういろんな小ネタがちりばめられていて面白かったです。またもとの作品がそういう雰囲気なのか、難しい言葉を使った古めかしい文体みたいな作品もあって、しかし森見登美彦はそういうのがうまいから煩くなくて、さすがだなと思いました。
かなり面白い作品だと思います。元の作品を読んでなくても全然大丈夫だと思いますが、やっぱり読んでいた方が面白い可能性もあるのでそれは自由に選択してください。森見登美彦はやっぱ大注目ですね。すごい作家になりそうな予感がします。伊坂幸太郎並のポジションまで行けると僕は思うのだけど、どうでしょうか。

森見登美彦「新釈 走れメロス 他四篇」

ペットを飼うのは、どうも苦手だ。好きじゃない。
かつて実家に、何故かウサギがいたことがあった。何故だか全然思い出せないが、まあ学校からもらったとかそういったところだろう。こういう場合の当然の始まりとして、兄弟の誰か(たぶん僕ではない)が飼いたいといい、世話もきちんとやると言ったことだろう。だからこそ親も承諾したのではないだろうか。
しかし、まあこういう場合の話の当然の帰結として、兄弟の誰もが世話をしなくなり、結局母親の仕事になった。
それにしても思い出すのは、あのウサギは可愛そうだった、ということだ。僕の実家はとにかく狭くて、ちょっとした隙間に鳥籠を置いて、その中にウサギを入れていた。あれでは、身動き一つ出来ないだろう、と思えるような、そんな状態で飼われていた。散歩に出したような記憶も、僕に特にない。どうしていたのだろう。
何よりも問題なのは、そのウサギが死んだ時のことをさっぱり覚えていない、ということだ。本当に、記憶の片隅にも残っていない。普通どんなに愛着がなくても、飼っている生き物が死ねばそれなりに思うところはあるはずだろう。まあ僕が昔から非情で無関心な人間だったということだろう。これについては兄弟に聞いてみたいものだ。あのウサギが死んだ時のことを覚えているか、と。まあ当分会う機会もないのだろうけど。
そんな経験があったからか、あるいは僕が元々そういう人間なのかはわからないのだけど、とにかくペットは好きではない。世話をするのがめんどくさい、というのがとにかく唯一の理由で、何かと縛られることになる。まあ僕には無理だろう。
ペットに関してはいろんなことが問題になっているけども、一番はやはり、飼えなくなったペットを捨てることだろう。だったら飼うなよ、と思うのだが、まあそういうわけにもいかないのだろう。捨てられたワニだとかトカゲだとかが見つかって騒ぎになることがあるし、ペットとして飼われていた生き物が生態系を変えてしまうなんて話もある。
たぶん人がペットを飼う理由には、もちろん孤独を癒すためとか可愛いとかいう理由もあるのだろうが、手軽だという理由も間違いなくあるに違いない。それは、切ろうと思えばいつでも縁を切れる存在だ、ということだ。
人間同士ではそうはいかない。一度繋がってしまった縁を意図的に断ち切ることは難しいわけで、だから人間関係が疎ましくなったりする。
しかし生き物であれば、実際に縁を切るかどうかは別として、人間よりも後腐れなく他人になることが出来る。ペットは抗議を口にすることもなければ法律で訴えたりすることもない。人間の勝手な都合で一方的に捨てることが出来るのだ。そういう意味での手軽さが、今の時代に合っているのだろうな、と思ってしまう。
ペットは、世話をする煩わしささえなければ、僕もまあいい存在だとは思う。話し掛けてはこないけど自分の話を聞いてはくれるし、それなりの表現で感情を表わしてくれたりもする。思惑だとか計略なんかを持っているわけもなく、自分を手酷く裏切るような可能性も低い。孤独を紛らわせてくれるだろうし、いいパートナーにもなれることだろう。
しかしそういう自分を想像すると、なんとなく哀しくなってしまうのは僕だけだろうか。ペットと向き合って、ペットと同じ世界を共有し、その世界の中に浸りきっている自分を想像すると、何か間違ったことをしているような気になるのだ。その生み出された世界は幻想で、幻想の鏡に映し出された自分の醜い姿を見てしまっているような…。
まあペットを飼うことは一生ないだろう。まずありえない。僕はあらゆる部分で非情な人間だという自覚があるが、だからこそあらゆる面で自制もしている。僕がペットを飼っても、お互いにとっていい関係にはならないだろう。そういうものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、大きく分けて二部に分かれています。
第一部は、ティモレオン・ヴィエッタという一匹の犬とその飼い主である初老のイギリス人のコウクロフト、そしてボスニア人だと名乗る男の話である。
イギリスで成功していたコウクロフトは、しかしあるきっかけですべてを失い、今ではイタリアの片田舎で静かに暮らしている。ある日やってきた美しい目をした犬を飼うことに決め、ティモレオン・ヴィエッタという名前をつけた。ボーイフレンドと深い関係を築いては立ち消えるということを何度も繰り返す孤独な生活をしている。
ある日そんなコウクロフトの元に一人の青年が現れた。彼はここに泊めて欲しい、と言った。彼はボスニア人だと名乗った。ボスニア人は無口でしかも女好きだったが、しかしコウクロフトは彼と一緒にいられて幸せだった。しかし彼がティモレオンと仲が悪いのが哀しかった。
二人と一匹の生活はそれなりに続くのだが、ある日コウクロフトはティモレオンを捨てなくてはならなくなり…。
第二部は、捨てられたティモレオンが家に帰るまでの話です。その途中で様々な人間に触れるのですが、そのそれぞれの人々の人生や恋愛が語られて行きます。ティモレオンは、様々な人々の恋愛の狭間を行き交うようにしながら、コウクロフトの待つ家を一身に目指します…。
というような話です。
僕にしては珍しく、外国人の作家の作品を読みました。なんとなく気になったのと、帯に江國香織の推薦文があったからです。
第一部はちょっと退屈な感じがありましたが、第二部はなかなかいいな、と思いました。様々な人々の人生が語られるのだけど、そのそれぞれが短編小説としてなかなか見事で綺麗でした。恋愛に悩む人々の人生のある瞬間にティモレオンが関わってくるのですが、そのタイミングもよかったなと思います。
逆に第一部はちょっとなぁ、という感じです。同性愛者であるコウクロフトと同性愛者ではない犬嫌いなボスニア人の生活は、特に僕には興味のあるものではありませんでした。名誉も金も失ってイタリアの片田舎にひっそりと暮らす老人の孤独みたいなものは多少出ていて、そういう部分は悪くなかったと思うのだけど、ボスニア人に関しては全般的に好きになれなくて、あまり面白くなかったな、という気がします。本作は、後半が面白いだけに、前半がこれだとちょっと残念だな、と僕なんかは思ったりしました。人によって感じ方は違うかもしれませんが。
このダン・ローズという著者は、今イギリスの新人作家の中でかなり注目をされているようです。本作も発売直後に25ヵ国で発売されるなど、なかなかの注目っぷりです。でもまあ、そこまですごいのかな、と思いました。外国の作品はあんまり読まないのでわからないだけかもしれませんが。
そういえば、外国の作品は視点が難しいですね。改行もない文章の途中で突然視点が変わったりするので戸惑いました。外国の作品だとこれが普通でしょうか?
あと本作の帯に、ダン・ローズの最新作(?)の紹介が載っていて、これがなかなか面白そうな感じがします。そこに書かれていることを抜粋してみましょう。

『「マジ?あたしプリンセスを殺しちゃった」』
『失恋したヴェロニクは、酔った勢いでパリのトンネルを車でとばす。翌朝目覚めると、ガレージに停めた車には接触の跡、テレビではダイアナ妃の訃報が流れて…。英国の異端児がタブーに挑んだ、キュートで不条理な証拠隠滅物語。』

だそうです。なんか面白そうですね。
まあそんなわけで、それなりにはいい作品だと思います。静かで穏やかで淡々とした小説ですが、語られる愛の物語は結構いいです。気になるという方は読んでみてください。

ダン・ローズ「ティモレオン」

今でこそ、「東野圭吾」という作家を知らない人はいないだろう。本を読む人間は当然として、本を読まない人間にすら広く知られているのではないかと思う。様々な作品が映像化され、賞も獲り、様々な形で話題になる作家であり、今では宮部みゆきと同列に扱ってもいいくらいの国民的な作家になった、と僕は思ってます。
しかし、そんな状況になったのもつい最近の話です。東野圭吾は、デビューしてはや20年の月日が経ち、著作も50作を優に超えるほどですが、しかしデビューしてから相当の期間、かなり厳しい売れない時期を過ごしてきたわけです。今からは考えられないですが。
今でこそ、昔出した作品もこれでもかというくらい売れています。デビュー作の「放課後」や、映画になった「変身」「秘密」、ドラマになった「白夜行」なんかは当然のこと、それ以外のありとあらゆる作品が売れている状況です。しかしそれらも、作品を出した当時はまったく売れず、自信作にも関わらず書評家に注目してもらえずといった不遇の時代を過ごしてきたわけです。
また東野圭吾と言えば、賞の落選回数もすごいことになっています。直木賞など、毎年のように候補に上がっては毎年のように落ちるということを繰り返していたわけで(ついに「容疑者Xの献身」で受賞しましたが)、またデビュー以来直木賞以外の様々な賞にも何度もノミネートされましたが、現在に至るまで受賞したのは、「容疑者X」と日本推理作家協会賞を受賞した「秘密」だけです。
僕はとにかく東野圭吾が大好きですが、大好きだというだけではなく東野圭吾には思い入れがあります。なんと言っても、僕が今こうして異常なまでに本を読むきっかけになったのが東野圭吾の存在なのですから。
有名な話ですが、東野圭吾は「アルキメデスは手を汚さない」という本を読んだがために、それまで本嫌いだったのにも関わらず本を読むようになり、あまつさえ作家になりました。最近「アルキメデス」の新版が文庫で発売されたのですが、その帯に東野圭吾は、「この本と出会わなければ作家になっていなかった」みたいなコメントを寄せています。
僕もまあ似たような経験があります。僕の場合それは、東野圭吾の「白夜行」です。
小中高とそれなりに本を読んできたわけですが、それまでは単独の作家の作品にのみ固執する読書でした。小学生の頃は「ズッコケ三人組」シリーズを、中学生の頃は「ぼくらの」シリーズを、そして高校生の頃はシドニィ・シェルダンという風に、決まった作家の作品しか読んでいませんでした。
大学に入って二年目、それまでこれと言った本を読んでいなかった僕が突然本を読み始めたのには、「白夜行」の存在がありました。その頃は、もちろん東野圭吾も江戸川乱歩賞も何も知らない状況で、たぶん宮部みゆきなんかの超メジャーな作家の名前も知らなかったような気がします。そんな状況で古本屋に行き、表紙を見てなんとなく気になる作家の本を何冊か買いました。その中に、「白夜行」もありました。
読んでびっくりしました。小説というのはこんなに面白いものなのか、と感じました。それまでも本は読んでいましたけど、それとは全然違う世界を見せられた感じがしました。
それ以来僕は、ありとあらゆる本を読みまくり、知らなかった作家や賞の名前も知るようになり、様々な傑作と出会いながらも今日に至っています。
そんなわけで東野圭吾という作家に出会ったからこそ今の読書があり、また僕が天職だと思っている本屋の仕事も選ぶことが出来たのだと思います。
作品毎に多彩な引き出しを見せてくれる東野圭吾という作家は、本当に素晴らしいと思います。売れないからと言ってどこかの段階で見捨てられなくて本当によかった、と思います。これからも作家としてどんどん高みへと上って行って欲しいし、一作でも多くの傑作を残して行って欲しい、と思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は東野圭吾の5冊目のエッセイであり、タイトル通り東野圭吾の最後になるだろうエッセイです。
この最後のエッセイということに関して東野圭吾はこんな風に言っています。自分はエッセイを書くのは得意ではなく、エッセイを書くことによって小説を書く方にも影響が出る。下手なエッセイを書くくらいなら小説を書くことに専念する、ということだそうです。まあ確かに、小説の読者としては心強い言葉ではありますけど、作家のエッセイというのもやはり面白いもので、これからまったく出さないと宣言されるのもなんとも言えず寂しいものだな、と思ったりします。
本作の構成は、冒頭に年譜と自作解説があり、それ以降はあらゆる媒体に書いたエッセイを集めたものになっています。
この年譜と自作解説は、以前あった東野圭吾の公式HPに載っていたものそのものでした。ある時期から東野圭吾の公式HPに行けなくなってしまったのだけど、もしかしたらこの本を出版する計画があったからなのかな、と勘ぐってみたりしてしまいました。
エッセイは、映画化された自作についてや、演劇・スポーツに関することまでまあいろいろ幅広いものになっています。要するに、依頼された通りのエッセイを書いていたら幅広くなりました、ということだろうな、と思います。一本のエッセイを書くのに小説の連載一回分くらいの時間が掛かるというだけあって、内容は面白いと思います。
まあエッセイについては読んでもらうとして、一つ東野圭吾は書店向けにある提案をしていました。興味深いのでこれについて書いて感想を終わらせようと思います。
それは、本の万引きに対策についてでした。
ブックオフなどの古本屋の台頭によって、新刊書店で盗まれた本がブックオフに並ぶという現象が起こり、作家としては見過ごせない状況です。それに対して東野圭吾は、
「新刊書店で売る本には書店印を押す」
という対策を載せています。つまり、書店の名前の入った判子を押すということです。このメリットとデメリットについて挙げているので列記しようと思います。

メリット
①書店印が入っているので、ブックオフがそれを見てみぬフリをするとしても売る側に多少の抵抗があるだろうから万引きをある程度防げる。
②不正返本を防止できる(これは詳しく書くとめんどくさいので省略)
③古書店で買う本には必ず書店印が入っていることになる。つまり、まっさらない本を売ることが出来るのは新刊書店だけであり、差別化になる
④売る本に自店の印を押すのだから、それなりの責任とプライドが新刊書店側に求められるだろう。恐らくサービスの向上に繋がるであろう

デメリット
①全国一斉に義務化しなくてはいけない点
②お客さんが本が汚れるのを嫌がって拒否するかもしれない点
③著者やデザイナーが反発する(バーコードが導入された際実際あったらしい)
④毎回すべての本に押さなくてはいけないことによる書店の負担

新刊書店で働く人間としてこれについて考えてみたい。
まず、メリットの③で挙げていることだが、これは論理的におかしいと僕は思った。古本屋で買えばどこかの書店印が入っていることは確かだが、それは新刊書店で買おうとも変わらない。店に並んでいる段階ではまっさらな状態であるが、売る段階になれば書店印が押されるのだから。だからこれはメリットにはなりえないだろう。
また、メリットの①も怪しい。というのも、最近は携帯の写真で本を撮ったりする輩がいるし(カシャという音がするにも関わらず平気である。以前あるスタッフが咎めたところ、メールを送っているのだと逆切れされたらしい)、また図書館でのマナーの悪さの話もある。図書館の本のページを破って持って帰ったりするのだそうだ。万引きして本を古本屋に流そうなどという人間は、そういうマナー的な部分に弱い人間だろう。書店印がないくらいで、古本屋に持ち込むのを躊躇うとは思えない。
メリットの②については詳しく書かないことにするけど、メリットの④については確かに一理あると思う。確かに、売る本に自分の店の書店印を押さなくてはならないとしたら、多少サービスの向上が見込める可能性はあると思う。
さてデメリットであるが、①④はとにかく難しいと思う。完全にどの本にも忘れることなく書店印を押すということだが、やはりミスはある。僕のいる本屋は、二回がツタヤなのだけど、ロックキーの外し忘れということが時折ある。ロックキーは強力な磁石がないと解除できないので、ロックキーを外し忘れて渡すと、家に帰ってそれを開くことが出来ないのだ。とにかく、完全にというのは難しいものがある。
また②がさらに困難だ。書店で働いていると分かるが、とにかく本の綺麗さにこだわる人というのがいる。もちろん絶対数は多くはないが、しかし確実にいるのである。僕にはどこがどうなのか分からないような汚れを見つけては、交換してくれとやってくる人も多い。
とまあ様々な点で難しいと思うのだが、最大の問題はそういう部分にはない。東野圭吾がこの文章を書いたのが2001年なので仕方なかった面もあるのだが。
それは、amazonの存在だ。
amazonの場合、万引きの心配はない。つまり書店印を押さなくてはいけない理由がないのだ。もちろん、法律で決まれば話は別だが、書店組合みたいなところが主導でやることに決めた場合、恐らくamazonはそれに賛同しないだろう。
するとどうなるかと言えば、より本屋離れが進むことになる。書店印の押された本を買いたくない人がどんどんamazonに流れることになる。これがこの手法の最大の問題点だ。
もちろん本屋としても万引きは最大の敵であるし、どうにかしなくてはいけない問題であると思う。しかしそううまい方法はないものだ。何らかの対策が必要なのは間違いないが、しかしうまい工夫はなかなか思いつけない。歯がゆいものである。
まあそんな感じのエッセイでした。と言ってまとまるだろうか。
東野圭吾が好きな人なら読んで楽しめるでしょう。そうでない人はそもそも読まないでしょうが、東野圭吾の著作は読んだことはないけどこれから読もうと思っているみたいな人が、どの作品を読もうか考える上で本作を買うというのも、まあアリと言えばアリかもしれない。

東野圭吾「たぶん最後の御挨拶」

捨てるものさえきちんとはっきりさせておけば、比較的判断に迷うことはない。
僕らは普段生きていて、実に様々なことに悩んで暮らししているものだ。些細なものから些細ではないものまでそれは多岐に渡り、また個人的に重要なものから社会的に重要なものまで幅広く存在するわけだが、まあしかし悩みはいつまでも尽きないものである。
それらについて、その悩みと対峙した段階であれこれと考えるのは非常に時間が掛かる。一つ一つにそれぞれ別の対応をしていたのでは、それこそ大変である。
僕はだから常に(とは言えないのだけど)、自分の中で捨てられるものと捨てられないものを出来る限り明確にしておこう、と考えているわけである。お金は捨てられるか、プライドは捨てられるか、魂は捨てられるか、みたいなことをまあいろいろ考えておくわけである。
いざ悩みに直面した場合、その悩みによって失われると想定されるものを列挙するわけだ。そうすれば、悩みに対峙するのは簡単だ。その悩みによって失われるものが、僕が捨ててもいいと思えるものであればその悩みは切ればいいし、捨てられないものを失うということであればその悩みを受け入れる。そういう判断を明確にするために、捨てられるか否かの基準は重要だ。
まあといったところで、あらゆる悩みをそれだけでバシバシと裁断できるようなら苦労はない。実際は、捨てられるものを失う時でも惜しくなったりすることはあるし、捨てられないものを失うことになってもその悩みと向き合わなくてはいけないこともある。そもそも、捨てられるかどうかを明確に出来ないものもたくさんあるわけで、結局悩みに対してはそこそこ悩むということになってしまうわけだ。
しかし、世の中には決断の早い人間というものはいるわけで、恐らくそういう人々はそういう判断を常にしているのだろうと思うのだ。直感でやっている人もいるのかもしれないけど。
最近見たニュースでこれはと思ったものが、夏川純の年齢詐称の話である。僕としては、誰の年齢が何歳違おうと特にどうでもいい話なので、年齢詐称自体には特に興味はないのだけど、夏川純自身がその年齢詐称を認めたというニュースを見た時に、それはなかなかすごいな、と思った。しかも、年齢詐称が取り上げられてから認めるところまでそんなに時間は掛かっていないと僕は思った。なかなか出来ることではない。
恐らく、年齢詐称をバラすことで失うものがあっても、それは自分の中で捨てられるものだ、と判断したのだろうな、と僕は思うのだ。それよりも、もっと大切な何かがあって、その何かを守るためにバラしたのだ、と。まあ実際のところはどうかわからないが、僕としてはなかなか感心できるニュースであった。
捨てる捨てないの話からは逸れるが、人間は第一感によってあらゆるものを判断しているようだ。第一感というのは、最初の3秒での決断であって、すなわち直感のようなものだ。いろいろとあれこれ悩んでも、結局最初の第一感の判断に帰着することが多いのだそうだ。
まあこういうのは分からないでもない。僕は例えば今日はコンビニで夕飯を買うわけだけど、普段なかなか食べるものを決められない。食べたいと思うようなものも特にはないわけで、何を食べたって同じだと思っているくせになかなか決められるものではない。
しかしそんな時でも大抵、初めにこれからなぁと思ったものを選んでいることが多い。外食をする時でも同じで、メニューを決めるのに悩むが、割と最初にこれかなぁ、と思ったものであることが多いと思う。
もしかしたら僕らは、特に意識していない部分で、捨てられるものかどうかの判断を初めから持っているものなのかもしれない。それが、第一感というかたちで現れているのだとすれば、僕らはもっと第一感を信じて行動してもいいのかもしれない。
判断の早い人間になりたいと思う。それがどんなに予測の範囲外の出来事であっても、的確で揺るがない判断が出来る人間になりたいと思う。まあそうなると、人間ではなくなってしまうような気もするのだけど…。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、西尾維新の人気シリーズである新本格魔法少女りすかの第三巻です。
このシリーズの概略を先に紹介しておきましょう。と言っても僕もおおまかなところしか覚えてないですけど。
小学五年生である供犠創貴と、魔法の国である長崎県からやってきた魔法使いである水倉りすかは、目的こそ違えどお互いに協力し、それぞれの目的を果たそうと日々過ごしている。創貴は世界をその手に治めるため、そしてりすかは、父であり最強の魔法使いであると怖れられる水倉紳檎を倒すためである。
二人は、りすかの魔法と、「魔法使い」使いである創貴の策略でもって、これまでありとあらゆる魔法使い狩りを行ってきたのだが、水倉神檎が実行しようとしている「箱舟計画」が進行していることを知り、それを阻止するために、途中で同盟を組むことになった、城門管理委員会の創始者の一人である繋場いたちと九州中を駆け回っている。
というような感じです。
前回までで、「六人の魔法使い」の一人目であった魔眼使いを破り、さて残りも倒してしまおう、と旅立ったところである。
さてでは今回のお話。

「鍵となる存在!!」
「六人の魔法使い」の二番目である地球木霙を福岡県博多市で早々に見つけ出し、あっさりと勝利したその日、泊まっているホテルの一室に水倉鍵と名乗る子供がやってきた。ちょうど創貴が一人である時間を狙ったかのようにやってきたその男の子は、「六人の魔法使い」の六番目でありながら人間であり、魔法は使えないが魔法封じという特殊能力を持っている、ということだった。
さてそんな彼が何をしに来たかと言えば、創貴を勧誘しに来たようだ。「箱舟計画」の一部を話、その上で仲間に引き入れる。創貴はそれを受け入れたが、しかし一席勝負を設けようということになった。二人はビンゴをすることになるのだが…。

「部外者以外立ち入り禁止!!」
ビンゴを終えた水倉鍵が帰るちょうどそのタイミングで、繋場とりすかが戻ってきた。水倉鍵が帰った後、なんとりすかの右腕に異変が生じ始めた。またその異変に乗ずるようにして、なんと彼等はホテルの一室に完全に閉じ込められてしまったのである。りすかは意識を失ったまま横になっているし、何でも食べてしまう能力を有する繋場の能力も封じられてしまっている。完全に閉じ込められた形になった。脱出しようにもまともな手はどれも封じられてしまっている。創貴が戦略的な負けを選択しようとしたその時…。

「夢では会わない!!」
これに関しては、内容紹介をしない方がいいでしょう。

といった感じです。
このシリーズが始まってからの趣とは大分変わってきていますが、今回も面白かったと思います。
これまでは、それぞれに特色のある魔法使い同士の戦いに、人間である創貴の戦略を加味し、いかに勝つかというバトルゲームで、読んだことはないけど「ジョジョ」みたいな作品だったのだけど、今回はかなり違いました。
「鍵となる存在!!」では、「箱舟計画」について明かされますが(これがもの凄い内容でした)、基本的にビンゴゲームをしているだけだし、「部外者以外立ち入り禁止!!」も、密室から脱出するというゲームみたいなもので、また「夢では会わない!!」に至ってはもう大分趣向が違うというか、かなり驚いたくらいで、結構雰囲気の違う感じになっています。
僕としては、「部外者以外立ち入り禁止!!」がお見事だな、と思いました。水倉鍵がそこまで考えて計画を練っていたのか、という驚きがあって、実質的に創貴の初めての敗戦ではないか、と思います。本作はミステリではありませんが、しかしミステリでよく提示される「何故密室にしたのか?」という問いに対して明確な答えが用意されているので素晴らしいと思いました。
「鍵となる存在!!」は「部外者以外立ち入り禁止!!」の前フリみたいなもので、まあこんなもんかという感じです。「夢では会わない!!」は、読み初めから中盤までかなり困惑するt思いますが、面白いなと思いました。ただ、予知能力についてそこまでの解釈はやりすぎだろ、とか思いましたけど。ちょっとその辺が不満と言えば不満です。まあ他に手はなかったかもしれませんが。「夢では会わない!!」はかなり気になる終わり方をしているので、続きが早く読みたいです。
どうやら「新本格魔法少女りすか」のシリーズは、次の第四巻を以って完結するようです。残念ですが、まあこの設定で長く作品を書いていくのはなかなか難しそうなので仕方ないことなのかもしれません。さてどうなりますやら。
今年は「刀語」の他にあと一冊、「人間人間」が出るはずなので、そっちも楽しみです。こんなに小説を書いて死なないだろうかと心配になりますが、まあ西尾維新なら大丈夫でしょうか。
シリーズを読んでいる人は当然本作は読むとして、このシリーズを読んでないという方は是非、第一巻から読んで見てください。

西尾維新「新本格魔法少女りすか3」

僕は買い物は基本的に嫌いである。
どうしてもめんどくさいと思ってしまうのだ。服は年に二回くらいしか買わないし、本以外のものを衝動買いするということもない。毎週土曜日に一週間分の食料をまとめ買いするのだけど、毎週ほとんど同じモノを買っている。選ぶのがめんどくさいのだ。同じモノを食べていても特に飽きないので同じモノばかり買っては食べている。ここ半年くらいの記憶を辿ってみても、本と食料以外に買い物をした記憶がほとんどない。まあそんな生活である。
僕にとってはまあ本だけが別で、古本屋には週の半分は行っている。毎回棚を舐めるようにしてみて欲しい本を探すし、読みきれもしないのにバンバン買っている。
基本的に僕の場合、本を見ればそれが欲しいかどうか分かる。もちろん、好みの作家はいるし、話題になっている作品や評判のいい作品も頭に入っている。しかしそうではない、作家の名前も知らないし作品名も聞いたことのないようなものであっても、大抵パッと見で欲しいかどうか判断出来る。時々、手にとってパラパラ捲ってみたりしてみることもあるが、基本的に見た瞬間に買うか買わないか決めている。
さて普通の人はどうなのだろう?服とかアクセサリーとかお菓子とかをほぼ買わないのでよくわからないのだけど、どんな理由でそれらを買っているのだろうか?
やっぱり「なんとなく」というのが一番強いであろう。明確な理由なんてなく、ただなんとなく買ってしまう。それが消費行動なのだろうと思う。
何故これを買ったのか、などと考えながら買い物をしていたら疲れる。しかし「なんとなく」買ったとはなんとなく思いたくない。だからこそ人間は、後付けで理由を考える。ただそれだけのことなのだろう。
話は変わるが、本屋の話である。僕は本屋で働いているのだけど、時折ありえないくらいのベストセラーが生まれたりすることがある。
例を挙げれば、「ハリーポッター」「ダヴィンチコード」「世界の中心で愛を叫ぶ」「さおだけ屋はなぜ潰れないのか」「国家の品格」なんかである。名前くらいは聞いたことのある作品が多いだろう。これらはもうとにかくあきれるくらい売れた本で、在庫を確保するのが大変だった。上記以外にも、「なんでこんな本が?」というような本が突然ベストセラーになったりするわけで、その度に、人は何を基準に本を買っていくのだろう、と思うのである。
紀伊国屋書店で大々的に展開していた、どこかのランキングに載っていた、テレビで紹介された…など、本が売れる理由には様々な要素があり、またそうした分かりやすい理由であればなるほどと思えなくもない。
しかし時々、他の店では絶対に売れてないだろうけど、僕のいる店では何故か売れている、みたいな本が出てくることもあって、そういう本は一体どうして売れるのか売っているこっちもさっぱり分からないことが多いのである。
結局売っている側も買っている側も、何故売れているのか分からないままに買っていくという現状なのだろう。これはきっと、「買い物」という行為が世の中に生まれてからずっと継続して存在している不思議なのだろうと思う。
これからも僕は、まあいろんなものを買っていくことだろう。もしかしたら何か大きな買い物をしたりすることもあるかもしれない。しかし、何にしてもそこに特別な理由などないのだろうな、とそんな風に思うのである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、指南役というエンターテイメント企業集団が記した、「買う理由を世界で初めて解き明かした本」だそうである。
先に言っておくと、本作の最大の問題点はこの惹句にある。「買う理由を世界で初めて解き明かした」などと書いているが、別にそこまですごい内容ではない。買うという行動についていろいろ考察しているだけであって、特別これと言った結論があるわけではない。まあもちろん、買う理由がバシっと書かれているわけがないだろうとは思っていたのでそこまで期待外れというわけでもないのだけど。
内容は、非常に面白いと思います。買うという行為のありとあらゆることについて、なるほど確かにそうだわ、と思えるようなことが書いてあったり、あるいは広告や企業戦略みたいなものについて書いてあったりと、分量のそんなに多くない本ながら、短い章立てであっちこっちいろんな話題に触れています。帯には「ビジネス書」と書いてあるけど、まあ買い物に関して記したエッセイみたいなものだと思ってくれればいいと思います。
いろいろと面白いことが書いてあったので挙げてみますね。
まずブームについて。例えばヨン様ブームみたいなのがあるじゃないですか。ああいうのって50代くらいの女性が多いらしいんですけど、あれは「買い物への正当な理由付けが欲しいからブームに乗っている」と本書では書いています。別にヨン様には特に興味はないのだけど、ヨン様ブームに乗っておけば、それを口実に買い物が出来るから、ということなんだそうです。これはなるほど、と思いましたね。まず、「買い物」という行動ありきなのだ、という考えはしっくりきます。実際、ヨン様ブームみたいなのって異常ですからね。
人は選ぶのが苦手だ、という話も載ってました。情報誌にしてもセレクトショップにしても手書きPOPにしても、誰かが選んでくれているものを買うのは楽だ、みたいな話でした。これは、もうズボラな僕としては大いに賛成できる話でした。そういえば女性は、買い物に2時間も3時間も費やせそうなイメージがあるんですけど、あれはなんなんでしょうね?あれは、選んでいるのではなくただ見ているだけなのかもですね。
「魔法のヴェール」についての話もありました。これは、何でか理由は説明できないけど人を惹きつけるような言葉であるとか状況であるとかいうものが存在するという話です。それに関連して挙げられていたある数当てマジックがかなり興味深かったです。
あとはCMの話ですね。CMは何を売っているのかと言えばCMを売っているのだ、みたいな話があって、なるほど、と思いました。例えば、僕はリアルタイムでは見てないですけど、昔エリマキトカゲの出ていたCMがありました。あれ、何のCMだったか覚えていますか?ヒットCMと商品の売上はまるで関係ない、という話でした。
あとこれは買い物とは全然関係ない話なのだけど、クリエーターは制約がある方が燃える、という話も書いてあって、それもなるほどな、と思いました。その気持ちはよくわかります。昔演劇に必要だからということで、人が二人乗れる馬車を設計したことがあるんですが、この時の制約が、「人が二人乗っても壊れない」「写真一枚から設計図を起こす」「2tトラックに積み込めるように組み立て式の構造にする」と言ったもので、かなり厳しい制約でしたが、却って燃えた経験があります。また今は、オリジナルルールでナンプレ(数独)を作っているのだけど、それも制約が困難であればあるほど作るのに燃える感じがあります。
まあそんなわけで、買い物に関する話から全然関係ない話までいろいろでした。まあサクっと読むには悪くないでしょう。大きな期待をして読むと期待外れに終わるかもですが、軽い読み物だと思って読めば結構読めると思います。タイトルもなかなか気になるものですしね。でも、まえがきに書いてある「買う理由を世界で初めて解き明かした本」というのは、やっぱ言いすぎだと思います。

指南役「キミがこの本を買ったワケ」

人と違うことをしたい、と思っている人は多いだろう。
かくいう僕もまあそんな一人なわけで、一応胸の中では、「人と違うことしたいな~」などと呑気に考えていたりする。考えているだけで何もしはしないのだけど。
しかしこの、人と違うことをするというのは、本当に難しいことなのだ。
僕は思うんですけど、これは学校教育の弊害だと思うんですよ。まあ極論過ぎかもですけど、どうでしょう。
学校って、皆おんなじ向きを向いていきましょうね~、という発想で動いているじゃないですか。もちろん、集団生活を学ぶという場でもあるし、子供の頃からそう言う場で学べることも大きいだろうから完全に間違っているだなんてもちろん僕も言わないですけど、でもやっぱおかしいですよね。
こう、子供らしく大人受けのいい生徒ばかりがよく見られるわけですよ。勉強も真面目に出来て、運動も真面目に頑張って、みんなをまとめたり面白いことを言って笑わせたりとか、授業で積極的に発言したり委員を引き受けたりとか、そういう生徒ばかりが「いい生徒」みたいな風に見られるわけです。だから生徒も、まあいろんなことを考えて、ここではこう振舞っておいた方がいいんだろうな、なんて風に考えて、大人の考える「いい生徒」を演じたりするわけです。
それはそれで、社会で役に立たないわけではありません。我慢したり引くべきところは引いたりといったことは社会でも充分に必要なものだし、有益であることの方が多いかもしれません。
しかしやはり学校教育というのは、ところてんを作るように、大人の都合に合わせた子供を生み出すシステムなんだろうな、と思います。
みんなで同じ方向を向いているから、いざ人と違うことをしてみよう、とか言われても戸惑うわけです。そもそも、あたしに何が出来たっけとか、僕は何かしたいことがあるかなとか、そんな風に考えてしまうでしょう。
実際世の中の人々は、人と違うことを追い求めているにも関わらず、みんな似たり寄ったりになってしまっているように思います。ファッションも音楽も本も映画も、趣味も仕事も人生も、ありとあらゆるものに「普通」があり、その「普通」から外れようとしても結局そこに戻ってしまうような、そんな印象があります。
別に、初めから「普通」を目指しているならいいし、別にそれをどうこう言うことはないのだけど、人と違うことを目指しているのに「普通」に戻ってしまうというのは、なんともなさけないものだよな、と思います。
話は変わって、僕は本屋で文庫担当をしているのですが、「他の書店と違うこと」をするのは本当に大変だな、と日々実感しています。
本屋というのは、うまくやればかなり個性の出せる小売店のスタイルだと思います。世の中にはありとあらゆる本があり、それらはファッションや音楽ほどには流行に左右されません。独自のコンセプトで店作りをしている書店は実際にたくさんあるし、それで生き残っているところもたくさんあります。
しかし、いざやろうとなるとなかなか実行するのは難しいものです。
まず、世の中的に売れているものを売り場に置かない、というのが恐い。置けば売れるのに置かずに売り逃しているのかもしれないと思うと恐い。だから売り場に置くのだけど、そうするとどこの本屋も似たり寄ったりになってしまう。
棚も同じで、どこの書店も同じ一覧表でチェックをしている。一覧表にはランクがついていて、店の規模に応じてこのランクまでの本を入れよう、ということをやっている。ランクの高いものを敢えて外して棚を作って差別化をしたいとも思うのだけど、売れなかったらと思うとなかなか出来ない。
僕は本屋が好きで、本屋があるととりあえず中に入ってみるのだけど、結構どこも同じで嫌になる。嫌になるのだけど、いざ自分のところで変えようという勇気はなかなか出てこない。こうしたジレンマを抱えつつ、自分なりに許容できる範囲で小規模な変化を日々加えたりしているのだけど、それではなかなかインパクトに欠ける。
人と違うことをやるのは本当に難しいものだと思わされています。
僕が思うに、「人と違うこと」をするには、まず自分自身のことをきっちり理解出来ていないとダメなのだろうと思います。まずは自分自身についてきちんと理解し、さらにそれと周囲との差をきちんと把握する。その上でなければ、「人と違うこと」というのはなかなか出来ないものでしょう。そうした部分を省いて出来る人が、天才と呼ばれるのでしょうね、きっと。羨ましいものです。
人と違うことをすることに憧れることはありますが、きっと憧れだけで終わるだろうな、と思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「男前豆腐店」という会社の社長が自ら書いた、「男前豆腐店」についての話です。
さてでは、「男前豆腐店」とは何者だろうか、ということですね。
知っている人は知っているでしょう。今スーパーなんかに行くと、ぎょっとするような奇妙なパッケージの豆腐が並んでいるのを見たことがないですか?細長いパッケージに青文字で「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」と書かれた豆腐とか、下に水切り版があってパッケージに「男」とどでかく書かれた豆腐とか。あれを作っている会社が、「男前豆腐店」です。
僕は結構豆腐は好きで、だからと言って味の違いが分かるような舌の肥えた人間ではないのですが、しかしこの「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」や「男前豆腐」は本当に美味しいです。是非一度食べてみて欲しいです。本作にも書かれている通り、「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」の方は、もはや豆腐とは呼べないような代物になっていて、デザートに近い感じです。何とかチーズに似てるな、と思いました。オススメですよ。
この会社は、パッケージを見れば分かる通り本当に変な会社で、いろんなキャラクターグッズを販売したり、HPで連載小説を書いていたり、CDを出したりしているようなところで、まさに「豆腐業界の革命児」と呼べるようなところです。
実際豆腐というのは、「安くてナンボ」の世界であって、いかに安い豆腐を作るか、というのがこれまでのありかただったわけです。しかし、それでは生き残れないと踏んだ社長は、ありとあらゆる試行錯誤の結果、通常の三倍くらいの手間ひまを掛けて「風に~」や「男前」を生み出しました。これらは、内容量も他の豆腐よりは多いですが、値段もなかなかのもので、300円くらいします。それでも、食べて損したなんてことはまったく思わないような出来で、それくらい中身に自信がある商品なわけです。
まあそんな奇妙で変わった会社を作った社長が語る、これまでの商品開発の過程であるとかこれからの展開だとか会社の実情だとかをあれこれと書いた本になっています。
面白いですよ、ホント。彼のやることなすことすべて、頭に「豆腐屋なのに…」をつければすっきりするようなことばかりで、それくらい豆腐業界の常識からすればおかしなことをしているわけだけど、「とにかくうまい豆腐を作れば高くても売れる」という信条を元に、これまで誰も見返すことのなかった豆腐の製造過程の一つ一つまでひっくり返して研究を重ねて新商品を生み出すところなんか、ものすごいと思います。
本作を読んでいて一番感心した部分は、「大量生産の安い製品と競争して行くには、ものの背景にストーリーがなくてはいけない」という部分です。世界観がなくては売れない、と。
確かにそうかもしれません。本屋にしてもそうで、売れているものだけを雑多に集めているだけではダメで、「ウチはこういう本を売るんです!」とやってストーリーを生み出すことが出来ればまた違う世界観が生まれるんだろうな、と思います。言い方を変えれば「遊び心」とも言えるでしょうが、確かにそういう「余裕」みたいなものをもっと前面に出して行かないと、これからはモノを売るのは大変な時代なのかもしれないな、と思いました。
それで思い出したのが、北海道のある書店です。その書店では、出版社のランク外の文庫ばかりを集めて棚を作っています。ランク外というのは、要するに売れてない本ということで、その売れてない本ばっかりを集めているところがあります。それで売上をきちんとしているわけで、これこそまさに差別化だな、と思います。まあもちろん、真似するだけではそうはうまくはいきませんが。
「男前豆腐店」の豆腐は、パッケージは斬新だし面白い展開をしているしで、そういう部分がウケて売れていると思われているかもしれませんが、しかし何よりも根底にあるのは豆腐の質です。まずここに絶対の自信を持っているからこそあ「遊び心」を発揮できるわけで、外側だけ変えたってうまくいくわけではありません。そういう部分も含めて、この社長がやってきたことというのは本当に面白いな、と思います。
まあそんなわけで、まず「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」か「男前豆腐」を食べてみてください。それで興味を持ったら、次は「男前豆腐店」のHPに行ってみましょう。なんだこの変な会社は、とさらに興味を持ったら、どうでしょう、本作を読んでみてはいかがでしょうか?
そういえば、男前豆腐店オリジナルの前掛けが欲しいです。買っちゃおうかなぁ、マジ。

伊藤信吾「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」

目に見えないモノは存在するのかどうか、ということを考えてみましょう。
僕は、存在していてもおかしくはないだろう、という立場です。
この「目に見えないモノ」というのは、考えるのが非常に難しい対象です。まずそれには、「存在する」とは何かということを考えなくてはいけません。
我が友人の一人は、目に見えないものなど存在しないという立場の人間なのであるけれども、彼の見解はこうである。つまり、
『人間に認識できないものは存在しないのと同じ事だ』
ということです。
多少話は変わりますが、この友人はこんな風なことも言っていました。
『科学技術はこの先大きく進歩するかもしれない。しかし、自分が生きている間にそうならないのなら、それはないのと同じだ』
まあ言っていることは僕も充分理解できます。
世界というのは、人間が認識するからこそ存在するとも言えるわけであって、つまり人間が認識するものがすべてである、という風に考えることも出来るわけです。触れることが出来る、目で見ることが出来る、温度を感じたり匂いを嗅いだりすることが出来る。そういう対象こそが「存在する」ものであって、それ以外のものは存在し得ないという風に考えることは可能だと思います。
ただ僕はそうは考えません。
たとえば、北海道について考えることにしましょう。
僕は、北海道に足を踏み入れたことはありません。自分の目で北海道を見たこともなければ肌で感じたこともありません。しかし僕は特に、北海道という土地が存在することを疑ってはいません。
さて何故でしょうか?
テレビでも、これが北海道だよ~という映像は流れるし、友人にも北海道出身の人間がいる。北海道について書かれた本も知っているし、そこの名産なんかも知っている。
そういった周囲の状況から僕は、北海道という土地があることを疑うことなく信じているわけです。
しかし、より深く考えてみれば、僕にとって北海道というのは、もしかしたら存在しない土地かもしれません。テレビではさも北海道という土地があるかのように映像を流しているだけで、僕の友人は実際別の土地の出身で、本に書かれたことは完全にフィクションであるかもしれないのです。
さて、この場合僕はどうすればいいかと言えば、実際に北海道に行ってみればいいわけです。恐らく北海道はあるでしょう。紛れもなくそこに存在することでしょう。そうしたから初めて、僕の中できちんと北海道が存在することになるわけです。
さて、この「北海道」という部分を「幽霊」に置き換えて考えてみることにしましょう。
世の中には、幽霊を見たという人がいるわけです。幽霊出身の人はいないけどその特長は広く伝わっているし(足がないとか三角巾みたいなものをしているとかそういうこと)、それについて書かれた本も知っています。
これは、僕にとっての「北海道」と大差がないと言えないでしょうか?
詭弁だと言われるかもしれませんが、まあ詭弁であることは言い訳しませんが、しかしこう考えることも出来るというわけです。
さて、「北海道」であれば、北海道に行けば済む話です。しかしそれが「幽霊」であったらどうすればいいでしょうか。見ようと思って見ることが出来るものではなさそうです。「北海道」のように目で見て確認するということは出来ません。
だからと言って、「幽霊」が存在しないと考えるのは早計だ、と僕は思うわけです。たまたま「北海道」は目に見えるものであるから確認が出来るというだけの話で、目に見えないから存在しないと言うのは明らかに暴論ではないか、と僕は思うのです。
僕は別に、幽霊だの妖怪だの、あるいは宇宙人だのUFOだのと言ったものを積極的に信じているわけではないし、まあどちらかと言えばいないだろうな、と思っているけれども、しかしその存在を完全に否定することだけは出来ません。僕にとっては、「北海道」と「幽霊」は、それを目で見て確認できるかどうかの違いしかなく、本質的には同じモノです。なのに、「北海道」は紛れもなく存在するのに、「幽霊」は紛れもなく存在しないだと言えるわけがありません。
目に見えないのだから、実質考える必要がない、という意見ならば受け入れられるのだけど、目に見えないのだから存在しないというのは暴論でしょう。幽霊や妖怪は実際存在していて、人間とは関わらない形でどこかで暮らしていても、僕は全然おかしくはないと思います。
科学が隅々まで行き渡ってしまったせいか、非科学的と言われるものがどんどんと排除されてきてしまいました。しかし、非科学的かどうかを決めるのは科学という基準であって、それは人間が決めたものです。ミドリムシは植物なのか動物なのか、なんてことは、当のミドリムシは気にしてはいません。それと同じように、世の理も、人間が勝手に定めた科学なんてものさしを気にしてはいないでしょう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
江戸有数の廻船問屋で、薬種問屋も営んでいる長崎屋の一粒種である一太郎は、それはそれは両親や手代たちに大事にされて育てられてきた。大事な跡取息子であるという理由もあるが、体が滅法弱いというのもその理由だ。これまでにも、何度も死にそうになったことがあるほどで、そのせいで17歳にもなるのに、一人で表を歩かせてもらえないくらいである。一太郎の側には常に、佐助と仁吉という二人の手代が控えていて、何かと一太郎の行動を目に入れているのだ。
さてそんな一太郎だが、体が弱いという以外にも不思議なことがある。
それは、妖怪の類を見ることが出来るのである。そもそもからして佐助と仁吉という二人の手代が妖怪であり、また鳴家や屏風のぞきなど、一太郎の周りには他の人間には見えない妖怪たちで溢れているのだ。
ある日一太郎は、手代たちの目を盗んで夜の町へと出かけたところ、とんでもないものを目撃してしまったのである。凶器に血を光らせて持ち歩く下手人に出くわし危うく命を落としかけ、さらにその下手人が手を下したと思われる死体を目撃してしまったのだ。
それ以来、一太郎はなんだか変なことに巻き込まれ、何度も命を狙われることになるのだが…。
というような話です。
割と人気な作家の人気シリーズを読んでみましたが、なかなか面白い作品でした。
僕は時代物や歴史物の小説はまるきり読めないのだけど、江戸を舞台にしたこの小説は、難しいことも特になく(まあ多少あったけど、四半時ってどれぐらいの時間かって、常識ですか、これ?)、軽妙な語り口でポンポン進んで行くので、僕でも全然普通に読むことが出来ました。
周囲から大甘に甘やかされている若だんなが主人公なのだけど、この甘やかされっぷりもなかなか面白くて、確かにこんな中にいたら息が詰まるだろうな、と思われました。そりゃ、少しくらい一人で外に出てみたいと思うのは普通でしょうね。
若だんなと妖怪たちとの関係も微笑ましくて、また随所に若だんなの優しさが滲み出ていて、非常に好感の持てるキャラクターでした。
また本作は、最終的には若だんなが謎を解く形のミステリなのだけど、その筋立ても結構いいものでした。もしかしたらミステリ好きの人間が読めば、なんだよこれは、となるような話かもしれないけど、この舞台設定の中では充分通用する話だと思うし、僕はなるほど面白いな、と思ったりしました。事件そのものとは関係なさそうなものまで最後には繋がっていく辺りがなかなかうまいな、と思いました。
また、実際シリーズ化しているのだけど、登場人物がいろいろいて、またその人間関係がそこそこ複雑だったりするので、いろいろな展開が出来そうな作品だなと思いました。個人的には、若だんなと幼馴染である栄吉の妹との結婚の話はどうなるのだろうな、と気になったりします。まあ機会があればシリーズの続編を読んでみようと思います。
とにかく読みやすくて、軽く読める作品だし、万人受けする人に勧めやすい作品です。読んでも後に何も残らないような毒にも薬にもならない作品だとは思うけど、読後感はいいと思います。普通に楽しめる小説です。読んでみようかなと思っている人は読んでみてください。

畠中恵「しゃばけ」

逃げることは僕の中で、人生のテーマみたいなものである。というか、逃げることと生きることは僕の中で同義であり、分けがたく結びついている。
まあ、なんか大げさな物言いになったけど。
僕にとって、社会全般というのがなかなか手強いもので、どうしてもそこに馴染むことが難しい。集団であるとか関係性であるとか常識であるとか、そうしたものの集積である社会というものは、まさに僕の前に立ちはだかる壁であって、乗り越えることは難しいし、乗り越える気がそもそもない。
昔からこの壁は僕の前に立ちはだかっていて苦労したものである。
僕はなんだか昔から、どうも周囲の状況に馴染むことが出来なかった。表面上は、人当たりはよかったと思うし、友達と呼べそうな人はそこそこいたし、割と明るい人間であると思われていたのではないかと思うのだけど、自分の中で疑問を追い出すことは難しかった。自分はこんな人間ではないのに、みたいな。
いつだって自分を偽って生きてきたし、何かを隠して生きてきた。それが本来的な自分ではないという思いはずっとあったのだけど、しかしなんとかその中で馴染もうという努力も一方でしていたわけで、表面上の取り繕いはうまかったのではないかと思う。
決定的に何かが変わったのは中学生の頃ではなかっただろうか。僕は中学生の頃に、あることを決めたのだ。あることに気付いた、のではなく、あることを決めた。
それは、「僕は世界中の人間から嫌われている」というものだ。これは、今でも僕も行動規範みたいなものになっているし、僕を形作る重要な一要素であると言っていい。
特にきっかけがあったわけでもないのだが、こう決めることで僕は、本格的に「逃げる」指針を自分の中で打ち出したのではないだろうか、と思う。歯向かわず望まず、乗り越えず臨まず、何かと向き合ったり闘ったりするようなことはせずに逃げ続けよう、という風に思ったのではないか、と思う。
それからもずっと、あらゆるものから逃げ続けてきた。時には発作的に、時には計画的にそうしてきた。目の前にあるものから逃げ、遠い未来にあるものから逃げ、過去から逃げ、そうやって僕は生きてきた。
まあ褒められるような生き方ではないが、しかし僕は特別に後悔をしているわけではないし、これからもこの方針が変わることはないだろう。人生に対して、常に逃げ続けるという姿勢は、僕の中では非常にマッチする生き方である。いつかきっと行き詰まるであろうが、そうなればまあ仕方がない。もともと逃げなければ、もっと早くに行き詰まっていた人生である。行き詰まりがそこまで伸びたというだけでも充分であろう。
闘う理由が逃げるためであるような矛盾した僕の生き方だけれども、しかし割と共感できる人もいるのではないか、と思っている。引きこもりやニートなどの分かりやすい逃げ方も増えてきているけれども、普通に会社で働いていたりするような人の中にも、逃げ続けている人はいるだろう。それはこんな話をニュースで聞いたことからもわかる。最近は、出世を望む若者が減っているらしい。出生して仕事が忙しくなるよりは、下っ端で楽をしていたい、とそういうことらしい。恐らく上の世代の人間は、何を甘いことを言っているんだ、と思うのだろうが、しかしそういう世代なのだと僕は一刀両断してしまいたい。甘いわけでもなまけているわけでもなく、自分を失わない手段としての逃げの必要を充分分かっている人間が増えた、ということだろうと思う。
多様化という言葉があるが、まさにその通りだと思う。何によって自分が満たされるのか、ということが多様化しているように思う。僕は、逃げ続けることで満たされていると感じる。社会と向き合って疲弊したり、世の中を倦んで閉じたりするのではなく、積極的に逃げ続けることで得られるものだってあるだろうと思うのだ。まあ、正当化するつもりはないのだけど、僕は僕のこの生き方を肯定しようと思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
紺屋はとある事情で故郷に帰ってきている。東京での自分が嘘だったかのように腑抜けた生活を送っていたのだ。
しかしそれも今日までだ。
何か自営業を始めようと決めた時、最初に浮かんだのがお好み焼き屋だ。しかし、お好み焼き屋は事情があって出来ない。ということで調査事務所を開くことにした。と言っても信用調査なんかをしたいわけでもないし、まして探偵なんかやるつもりもない。私がやりたいのはただ一点、犬捜しだけだ。
しかし、開業早々に舞い込んできた仕事は、犬捜しとは程遠いものであった。失踪人捜しと古文書の解読だ。仕事をえり好みする気はないが、しかし初っ端からこうも的外れな依頼がくるとは幸先不安である。
ともかく、ハンペーというかつての後輩と二人でそれぞれに調査を分担し依頼をこなしていく。いつしかその二つの依頼は重なって行く野であるが…。
というような話です。
米澤穂信という作家は侮れない作家で、いつも期待を裏切らない作品を書いてくれます。
ストーリーは、こう言ってはなんだけど平凡と言えば平凡です。調査事務所を開設した主人公が、いきなり受けた想定外の依頼二つをなんとかこなそうとする話で、古文書の方はともかく失踪人捜しというのは特に目新しくもなんともないものです。
でも、その平凡とさえ思える作品を、米沢穂信はいろんなマジックで面白くしてしまうんですね。
一番のマジックは、やはりキャラクターだと思います。主人公の紺屋は、無気力とは言わないがやる気がそんなにあるわけではなく、冷酷とは言わないが優しい人間ではなく、厭世的とは言わないが覇気がないようなそんな人間で、これまでの「探偵像」みたいなものから大きく外れまくっています(本人は「探偵」ではないと否定するのだけど)。淡々と、という言葉が非常に似合っていて、仕事だからと機械的に処理しようとする姿勢が見られます。その、あまりに「探偵」という姿とはかけ離れたあり様にギャップがあって面白いです。
また、助手として採用されるハンペーは、逆に探偵に憧れを持った人間で、とにかくやる気はあるし、探偵的なことは大好きな人間です。体育会系の頭の弱そうな印象で登場する癖に、意外に博識で使える人間です。というか米澤穂信の作品に出てくる人間は、基本的に誰もが博識なのだけど…。
この二人の温度差みたいなものも面白いと思います。
紺屋が手掛ける失踪人捜しの方が本筋ではあるけど、ハンペーが手掛ける古文書の解読の方もなかなか読み応えのある話でいいなと思いました。
そして、ミステリ的にもなかなかうまくまとまった作品で、なるほどそういうことでしたか、という筋です。細かな部分にも伏線があって、やる気のなさそうな紺屋がしかしその細かな部分にちゃんと気付いたりしている辺りは能力の高さが窺えたりします。
というわけで、米沢穂信が初めて描いた、学園モノ以外の作品です。非常に面白いと完成度の高い作品だと思います。「犬はどこだ」というタイトルも面白いですし。是非読んで見てください。

米澤穂信「犬はどこだ」

何度も書いていることではあるのだけど、僕はどうしても家族というものが苦手で仕方がない。
家族というんのは不思議なもので、望んで関係が生まれるわけでもなければ、望んで縁を切れるものではない。どんな形であれ、家族という形を取ればそれは一生家族であって、それ以外の何かに変わることはない。
僕は今、ほぼ家族とは関わりのない生活をしている。大学入学と同時に実家を出て、とある事情で一旦実家に戻ったものの、また実家を出て、ほとんどそれきりである。実家に帰ることもないし(一度だけ葬式のために帰ったけど)、連絡を取ることもほとんどない。普段の生活の中で家族のことを意識することもまったくないし、両親や兄弟が今どうしているのかもまるで興味がない。もしかしたら、弟が捕まっていたり、妹が結婚していたりするかもしれないけど、でもまあそんなことは別にどうでもいい。
にも関わらず、僕は彼等と一生家族という関係なのである。例えば、今後20年くらい顔も合わさず会話も交わさなかったとしよう。もはやお互いの顔などわからず、声も忘れているだろうし、共通の話題もないだろう。もはやほとんど他人みたいなものであるはずだ。
しかしそれでも、僕と彼等とは変わらず家族なのである。両親が死んだら遺産だの負債だのという話になるだろうし、兄弟の誰かが結婚することになれば、僕も誰かの「義理の兄」ということになるのだ。
僕はなんというか、そういうところが嫌なのである。
ここからの話もどこかで以前書いたような記憶があって申し訳ないところだけど、また書いてしまおう。
人間の関係性というものは、個人個人が過ごしてきた時間によって形成されるべきだと僕は思うのだ。友達にせよ彼氏彼女にせよ、大抵はそういう性質だろう。出会って、ある程度の時間を過ごしてお互いを知り、そうしてその人とどういう関係でいるかということを築いて行く。そういう風であるべきだと思うのだ。
しかし世の中には、そうではない関係性というものもたくさんある。
例えば分かりやすい例では、先輩後輩などだ。あれは、お互いが過ごしてきた時間によって決定される関係性ではない。ただ、どちらが早く生まれたか、どちらが早く経験したか、どちらが早く知ったか、つまりそういうことによって、お互いが出会った瞬間に決定されてしまうものだ。そこには、個々人の過ごしてきた、あるいはこれから過ごすことになる時間など関係なしに存在する。そしてその関係は、それだけ時間を過ごしたところで一生変わることはない。
僕はどうしてもそういう関係性を受け入れることが出来ないのだ。お互いがある程度の時間を過ごして、なるほどあなたの方が上手だからあなたのことを先輩と呼びますよ、みたいなことならいいのだ。しかし、先輩後輩というのは既に決定されているものであって、そういうものに馴染めない。体育会系と呼ばれるところにはもちろんだが、普通の上下関係があるところでも、僕は全然生きていけないのである。
家族というのもそれと同じである。父親と僕の関係は、僕が生まれた瞬間から「父」と「息子」であり、それ以外のなにものでもない。どれだけ時間を過ごしても、どれだけ時間を重ねても、その「父」と「息子」という関係が変わるわけではない。
そういうものにどうしても納得が出来ないのだ。例えば、どれだけ父親が父親らしくなくても、それが僕の父親である限り一生父親であるし、僕がどれだけ息子らしくなくても僕が父親の息子である限り僕は息子なのである。世の中の人間は、どうしてこんなおかしな関係に納得できるのだろうか。僕は、どうしてもそれが不思議でならないのだ。
それに、窮屈でもある。人間の関係性が永続的に変わらないということがすごく窮屈なのだ。
僕は、人間関係が基本的に得意ではない。最近はそれなりに初対面の人間でもなんとかなるようになったけども、しかし深く付き合っていくというのはすごく苦手だし、そもそも人間にあまり興味が持てない。
だから僕はいつでも、自分の持っている関係性をいつでも破棄出来るようにしておきたいのだ。もちろん、関係性を破棄することなどありえないことはわかっている。けれども、その余地がまるでなくなってしまうと窮屈なのだ。若者が、毒薬をアクセサリーに入れて身に付けるようなものだ。そういう若者は、この毒薬さえあればいつでも死ねる、という余地があるからこそ生きていけるのだ。
先輩後輩や上司部下、そして家族という関係は、離脱するにはあまりにも多くのものを捨てなくてはいけない関係性だ。すなわち、余地がない。逃げ場がない。その関係性に取り込まれてしまえば、どうしようもなくなってしまった時の行き場がない。そんな不安感が、そういう関係性を嫌悪させる原因なのかもしれない。
家族とはこれからも今のような断絶の関係を続けて行くつもりだし、自分が家族を持つことなどまるで考えていない。これが普通の考えではないことは充分分かっているのだけど、もうこういう自分を自覚してしまっているので仕方ないのだ。
家族を大切にしなくてはいけないと人はいう。しかし、それは誰のためにそうしなくてはいけないのだろうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
花菱家は、かつては地方廻りの大衆演芸をしていた役者一家であったのだが、父清太郎にあれこれと振り回されているうちに、演芸廻りを止め、会社をいくつも潰し、そうして今ではレンタル家族派遣業などというけったいなビジネスをやっている。
演芸をしていた父に惚れ込んで結婚した美穂子、映画などの特殊技術に興味を持つ太一、父と激しく折りが合わず喧嘩ばかりしている桃代、ちょっと知恵遅れ気味な寛二、生まれたばかりの珠美という6人家族は、相変わらず父親に振り回されながらも、レンタル家族の仕事を嫌々続けている。生活は相変わらず厳しいし、家族の仲も険悪だ。
借金は嵩み、いつしか家まで追われることになった一家だったが、かつてのよしみで旅回りの一座に復帰できることになったのだが…。
というような話です。
相変わらず荻原浩の作品はいいです。本当に安心して読める作家の一人です。
本作は、家族のいろんな人間の視点によって描かれて行くのだけど、そのそれぞれの人生や考え方みたいなものがすごく面白い。
父はとにかく演芸がやりたくて、でもなんだかんだで失敗ばかりで常に迷惑を掛けているし、家族とも折り合いが悪い。考えなしだしノーテンキに突っ込むのだけど、でもある意味で人生を楽しそうに生きているといえなくもない。それに付き合わされる家族は相当大変だろうけど。僕ならついていきたくない。
母はもう我慢の人で、自分のことよりも他の家族のことをという感じだ。母のお陰でなんとか一家は持ちこたえているという感じ。
太一と桃代は、演芸などではなく自分の道を行きたいのだけど、でもなかなか自分の人生を歩むことが出来ない苛立ちがすごく伝わってくる。こんな家族の中にはいたくないのに、という思いで溢れている。しかしこの二人もまあ大分変わるのだけど。
そして何よりも本作で一番いいのは、寛二です。寛二は知恵遅れ気味で、17歳なのに小学生くらいの思考や喋り方なのだけど、その寛二の視点を通して見るあらゆるものがいろいろと新鮮で、かなりよかったな、と思います。
最終的に家族が一つにまとまっていく話なのだけど、山あり谷あり、というか崖っぷちあり断崖絶壁あり、みたいな感じでなかなか一筋縄ではいかないのだけど、最後演芸の世界に戻ってからの話はかなりいいなと思いました。
物語の初めの方のレンタル家族の話もいいです。いろんな現場に行ってそこで家族のフリをするのだけど、これがもうありとあらゆる奇妙な依頼者ばっかりで、爆笑必至です。確かに、レンタル家族なんていう仕事があったらこういう依頼もありそうだよなぁ、と思えるようなものばかりで、面白かったです。
荻原浩節とでも呼ぶべきものが荻原浩の作品にはありますが、本作もまさに荻原浩節全開です。かなり楽しめる作品だと思います。是非読んで見てください。

荻原浩「母恋旅烏」

「片眼の猿」というような話が、ヨーロッパの方にあるらしい。
その昔、999匹の猿がいた。その猿は皆左眼だけしかない猿であった。ところがある時、両眼を持って生まれた猿が現れた。しかしその両眼を持った猿は、左眼しか持たない猿の集団の中でいたたまれなくなり、ついには右眼を潰してしまった、というような話らしい。
これと同じような話は日本にもあったと思う。確か、一つ眼王国、みたいな話だった気がする。あるところに一つ眼王国があり、そこに偶然辿り着いてしまった両眼を持った人間が迫害された、みたいな話だったと思う。
さてもしかしたらこれとは話が大分逸れるかもしれないが、つい最近友人とこんな話をした。
科学で解明できないものはあるのかないのか、という話である。
ある友人は、科学で解明できないものはない、と断言する。科学的でないものは、存在しないと。死後の世界もUFOも、今現在の科学では解明できない。だからそういうものは存在しないのだ、みたいな主張である。
それに対して僕は反論するのである。
科学とは宗教みたいなものである。例えば僕らは、机が原子の集まりで出来ていることをこの眼で確認することはまずない。しかし、お偉い科学者たちが皆そう言っているから、という理由でそれを信じる。それは、キリストがこう言っているからという理由でキリスト教を信じるのと変わらないだろう、と。科学とはある一面での物事の見え方であって、科学という側面から見えないものがあってもいいはずだ、と。
その友人はこんなことも言っていた。科学はもう既に完成されつつあって、これから大きくひっくり返ることはないだろう、と。
しかしそれにも僕は反論するのである。ニュートンだって、何百年も正しいと信じられてきたけど、それをアインシュタインが覆した。大昔では、地球の周りを星が回っているという天動説を何世紀のも渡って信じていたのに、実際は地球が太陽の周りを回っているだけだった、ということがあった。今わかっていることも、もしかしたらこれから大きく覆されるかもしれない、と。
しかしその友人はこんなことも言っていた。自分が生きているうちに、そういう大きな変化はまあないだろう。だったら、ないのと同じではないか、と。その意見には、まあなるほど確かにそうかもしれない、と思ったのだけど。
さてこれが冒頭の話と、そして本作とどう関係するかというと、つまり物事というのは多数決によって支配されている、ということである。前出した我が友人は、科学というものを絶対的な基準に置いているようであるが、しかし科学というものは多数決によって認められたものでしかない。つまりそれはもしかしたら、片眼の猿と同じようなものかもしれないではないか。もしかしたら、科学こそが片眼の猿であって、今現在では迫害されているか認められていない別の何かが両眼を持った猿かもしれない。
ただどちらにしても、それを猿自身に判断することは出来ない、ということだ。外から見てそれがどんなに間違っていることであっても、多数決によって支配された論理は内側では常に有効だ。
例えばだけど、ホームレスの人というのは割と少数派であって、比較的弱者の位置づけにされている。しかし、日本人の9割がホームレスになったとしよう。そうしたら、残り1割の真面目に働いてきちんと家庭を持っている人間の方が、今度は奇異に見られるようになるはずだ。どちらが絶対的に正しいか、ということはない。そこに基準など何一つなく、あるのはただ、多数決という数の論理である。
もし自分が、片眼の猿の中にいる両眼を持った猿であることに気付いてしまったら、どうするだろう。片眼を潰してその世界に溶け込むか、両眼を持ったまま迫害されつつもその世界に留まるか、あるいは両眼が多数であるような世界を見つけ出すか。一番いいのは、それに気付かないことだと思うけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
今回は、まあいろいろちょっとアレなんで、本の折り返しのところに書いてあることを丸写しすることで、内容紹介に代えようと思います。
『俺は私立探偵。ちょっとした特技のため、この業界では有名人だ。
その秘密は追々分かってくるだろうが、「音」に関することだ、とだけ言っておこう。
今はある産業スパイについての仕事をしている。地味だが報酬が破格なのだ。
楽勝な仕事だったはずが…。
気付けば俺は、とんでもない現場を「目撃」してしまっていた。』
という感じです。
去年ミステリ界で、大ブレイクこそしなかったものの大注目されることになった道尾秀介の最新作です。
この作家の作品を読むのは二作目ですが、ミステリ的な技巧をこれでもかと凝らした作品に定評があるようで、去年出した3冊の作品もいずれも高い評価を受けています。
しかし、どうも僕は好きになれない作家ですね。もしかしたら僕の中で、こういうガチガチのギミックだらけのミステリみたいなものを飽き始めているんではないか、という気もしてきています。
僕はミステリというのは、トリックやギミックももちろん重要だけど、何よりもストーリーが面白くなくてはいけないと思うんです。トリックやギミックばかりを散りばめて、ストーリーが疎かになる作品が多いような気がします。
本作も、僕の印象ではそんな感じで、本筋のストーリーがあんまり面白くありません。産業スパイを探る探偵業というのが基本ストーリーなのだけど、これにあんまり興味が持てず、結末も大したことはなく、うーん、という感じでした。
恐らく著者がやりたかったのだろうな、ということに関しては、なるほどさすが「サプライズマジシャン」と呼ばれるだけのことはあるな、と思いました(帯にそう書いてあります)。確かに、ありとあらゆるところに伏線を散らばせて、それを最後にどかっと明かして驚かせるというのは、かなりうまいなぁ、と思いました。本筋とは基本的に無関係な部分の方が明らかに伏線がたくさんあって、まあだからこそ本筋のストーリーが疎かになるのだろう、とは思うのですが。
本作は、短く分かれた各章の章題がものすごく気になっていて、ここにもきっと何かが隠されているに違いないと思っていろいろ考えていたんですけど、僕が読んだ限り特にそこには別に何もなかったみたいです。さすがに考えすぎました。
というわけで、あんまりオススメはしません。まあたまには騙されてみるか、みたいに思っている人が気まぐれに読むという感じでいいかもしれません。

道尾秀介「片眼の猿」

僕はまあ、そこそこ規則正しい生活をしている人間だと思う。毎日ほぼ同じ時間に起き、そこから米を食べたり葉を磨いたりした後に本を読み、読んだ本の感想をブログに書き、銭湯とそのついでに古本屋へと行き、昼飯を食べ、仕事に行き、仕事をし、家に帰りラーメンを食べ、缶チューハイを一本飲み、本を読みながら寝る。
大体がこんな毎日である。ほぼ変わることはない。単調と言えば単調ではあるけれども、しかしもはや何も考えなくとも日常を過ごすことが出来るほど染み付いた習慣であるし、非常に楽である。変えようとも思わないし、まあとりあえずこの生活が維持できればいいと思っている。
周りの人間もまあ似たようなものだろう。平日は皆夜まで働き、家に帰っては短い時間をやりくりして自分の時間を見つけ、週末に遊ぶ。まあ大体同じような毎日、同じような一週間を過ごしていることであろう。それは僕としては全然いいことであると思うし、そういう単調な生活であるからこそ、時々ある単調ではない出来事をより楽しむことが出来るのだ、という風に解釈も出来ると思うのだ。
しかし世の中には、日常がまるで単調ではない、という人々がいる。
一番分かりやすいのは、芸能人だろう。いつも決まった仕事をしているわけではないので、毎日違うことをしているし、毎日違うスケジュールのもとで動いている。極端に忙しいこともあれば、極端に暇な時もあるだろうし、そういう起伏に富んだ生活をきっと送っていることであろう。
そういう、仕事の特殊性に縛られた形で生活が単調ではなくなるケースはまああるだろう。芸能人に限らず、スポーツ選手だとか芸術家なんていうのも、まあ単調さとはかけ離れた生活をしているものかもしれない。
しかし、仕事とは関係ない部分で単調さが失われている人というのも間違いなくいる。
僕がそれを一番初めに知ったのは、リリー・フランキーの存在だっただろう。あの「東京タワー」の著者であるとして知られるリリー・フランキーであるが、それは一面でしかない。リリー・フランキーの本質は、その異常な日常生活の中にあるのである。
そういった様々な経験は、エッセイという形で様々な作品となって売られているわけだけれども、そのどれもが無茶苦茶な話である。
類は友を呼ぶという言葉があるがまさにその通りで、リリー・フランキーの周りには常に奇妙な人々が集っていて、その奇妙な人々との交友から様々な奇妙なことが繰り広げられて行くのである。リリー・フランキーこそ、仕事とは無関係に、人間的に人生から単調さを削っている人だと思う。
僕にはちょっと真似できないなぁ、と思うのだ。もちろん、常に何か楽しい出来事が周りで起こり、その馬鹿馬鹿しさに爆笑していられるのはすごく幸せではないかと思うのだ。しかし、そのために失うものもものすごく多いと思う。一人の空間であるとか、人との適切な距離感であるとか、そういった僕としては比較的大事であると思えるものが失われてしまいそうな気がするのだ。
日常の単調さを嘆く人はいるかもしれないが、しかし逆に考えてみれば、日常が単調でなさすぎるのも恐ろしいものだと思う。常に何かが起こっていれば、それに麻痺していって、いつかありきたりで普通過ぎる日常へ回帰することが出来なくなってしまうだろう。日常の単調さを甘受してこそ、メリハリみたいなものが生まれるのではないだろうか。
さてこうした話を書いたのもまあ理由があって、それは日常を敢えて単調にさせないようにしている人間をさらに見つけたからである。
それが、本作の著者、中島らもだ。
中島らもの作品はまだこれしか読んだことがないのだが、その生活の一端は如実に窺うことができる。なかなかすごいものがある。ある意味羨ましくも思うが、しかしやはり憧れはしないな。僕は自分のこの、単調で退屈な愛すべき日常を大事にしていこうと思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、中島らもがあちこちいろんなところに書き飛ばしたエッセイの中から水気の多いものだけを集めた作品、だそうです。あとがきで著者自身がそんな風に書いていました。
タイトルからは、「恋」関係の内容のエッセイだと思われるでしょうが、必ずしもそうというわけではありません。全体的に恋愛系の話は多いですけど、でも恋愛とはまるで関係ない話もあったりします。また、恋愛に絡めた小説みたいなものもあったりで、なかなか盛りだくさんです。
エッセイは、一つ一つがすごく短くて、大体3ページくらいです。なのでとにかく読みやすいです。内容も面白くて、なんとなくイメージ的に、中島らもというのはふざけた人なのではないかと思っていたのだけど、割と恋愛相談みたいなものに真面目に返していたりしていて意外な感じがしました。その一方で、真面目な相談にふざけて回答していたりして、まあイメージ通りだと思ったりもしましたけど。
恋愛系のエッセイもそうでないものも、非常に面白いです。やはりそれは、中島らもの日常が普通ではないからでしょうね。友人なんかを交えた自身の経験を書いているだけなのに、中島らもの発想力とそれを紡ぐ言葉の選択のセンスの良さのお陰か、なんでもないことのはずなのにすごく面白く感じられます。
とにかくスラスラ読めてしかも面白いので、結構オススメです。電車の中とかトイレとかで読むのにいいかもですね。夜寝る前に少しずつ読むとか。中島らもの作品をちょっといろいろチャレンジしてみようと思いました。

中島らも「恋は底ぢから」

幸せになりたい、と人は望む。多くの人は、ぼんやりとであれはっきりとであれ、なんだかんだで幸せを追い求めるものである。
しかし、その形は本当にひとそれぞれ違うものなのだろう。
明確ではないかもしれないが、人それぞれ幸せの形みたいなものを持っているものであろう。
お金持ちになりたいだとか。
有名になりたいだとか。
結婚して子供が欲しいだとか。
楽しく生きたいだとか。
まあなんでもいいのである。人それぞれそういう形を持っているものだろうし、その形は本当に人それぞれまるで違うものなのだろうと思う。
僕は、普通の人が望むような幸せみたいなものにはあんまり興味が持てなくて、お金持ちになりたいわけでも有名になりたいわけでも結婚して子供が欲しいわけでもない。僕の幸せは、死ぬまで特別苦労なく生き、一瞬で死ぬ、というものである。これが僕の幸せの形である。なんにせよ、僕の場合かなり運任せなところがあって、そういう自分の手で幸せを掴むんだみたいな気概がないからかもしれないな、と思ってみたり。
さてまあそんなわけで人は皆何らかの幸せを追い求めているものだと思うけど、しかしなんとなくぼんやりと、僕はこんな風に思うわけです。
幸せというものは、追い求めている人間には見えないのではないか、と。
何故なら、幸せへの欲望というものは際限がないからです。
金持ちになりたいという人がいるとしましょう。さてではこの人は、どこまでいけば幸せであると感じることが出来るでしょうか?1億稼いだら。10億、100億稼いだら…果てしなく続きますね。満足することなく、どこまでも追い求めてしまうものでしょう。
そうなると、結局のところ幸せであるという状態に辿り付くことが出来ません。明確に、「僕は10億円手に入れることが出来れば幸せだ」と思っていれば、10億円手に入れた時点で幸せを感じるかもですが、しかしさらにと欲は続いて行くことでしょう。
結婚して子供が欲しい場合でも変わりません。結婚して子供が生まれても、そこで幸せへの探求は止まりません。子供を幸せにしようと願い、子供に幸せにされたいと願い、結局それはどこまでも終わることがありません。
そうなると結局、幸せを追い求めている人には幸せは見えない、ということになるのでしょう。
隣の芝は青く見える、という言葉がありますが、まさにその通りでしょう。自分の家の庭の芝の青さを自覚することなく、隣の芝ばかりみて青いなぁ、と言っている。しかしその隣の人だって、こっちの芝を見て青いなぁと思っているものなのです。
だからなんというかなぁ、これは提案なんですけど、積極的に幸せを追求するのを止めればいいんではないか、と思うんですよ。これ、たぶん最高の幸福追求の方法ですよ。
つまり、現状を認識し、現状を幸せであると感じるようになれば、これほど素晴らしいものはないでしょう。自分の庭の芝が青く見えるわけです。他人と比較するのではなく、自分自身の幸せを判断するには、これが一番いいのではないか、と思うのです。
なんか、恋愛でも同じことが起こっていそうですね。お互い好き同士で付き合い始めたはずなのに、お互いを求めすぎて幸せになれない、みたいな。本当は自分は幸せな状態にいるはずなのに、もっともっとと追求しているうちに、いつの間にか幸せだったはずのものも壊れてしまうみたいな、そんな恋愛もあったりしそうな気がします。
僕は、他の人から見たらどう見えるかわかりませんが、現状に非常に満足しています。特に野心も夢も希望もないですけど、しかし穏やかで平穏で凪いだ優しい人生を過ごすことが出来て、非常に幸せであると感じています。これからこの生活に変化がなくても、まあ少なくとも不満を感じることはないでしょう。新たな幸せを追求しようと特に思うわけでもないので、今の幸せが壊れてしまうことも恐らくはないでしょう。これこそ、完璧な幸福追求の姿勢ではないでしょうか?
そろそろ内容に入ろうと思います。
ミミズクは、魔物に食べてもらおうと思って夜の森にやってきた。額には数字が刻印され、手には鎖、ガリガリに痩せ、舌足らずな口調で喋るミミズクは、魔物に食べてもらいたいというその一心だけで夜の森までやってきました。
そこで、美貌の魔物に出会いました。月のような眼を持つその美しい魔物は、しかしミミズクを食べてはくれませんでした。
それが、ミミズクと夜の王との出会いでした。
ミミズクは期せずして、夜の森を統べる夜の王と邂逅し、そして消極的ながら森にいることを許されたのです。
ミミズクは、自分に優しくしてくれるクロちゃんという魔物とやりとりを交わしながら、次第に夜の王へと近づいていきます。夜の王はミミズクを無視するかあるいは嫌悪のような眼差しで見るだけですが、しかしそれでもミミズクは幸せでした…。
というような話です。
本作は、電撃大賞を受賞して電撃文庫から発売された本です。電撃文庫といえば、言わずと知れたライトノベルのキングレーベルであり、つまり本作も一応ライトノベルと呼ばれるわけです。
僕がこの本を読もうと思った理由は、ネットで評判がよかったからです。ネットで、ライトノベルらしくない、すごくいい話だ、と評判で、だったら読んでみようか、と思った次第です。
実際、これは結構いいと思いました。帯で有川浩が、「薄情します。泣きました」と書いているんですけど、正直僕もラストのラストではうるうるしてしまいました。さすがに泣くところまではいかなかったけど、ちょっと危なかったです。
正直、全編を通じて淡々とした描写が続くので、中盤辺りでちょっと飽きてくる感じはありました。そこから物語を強く引っ張る何かがあったわけでは特にないんですけど、でも最後はかなりよかったと思います。
とにかくミミズクのキャラクターがすごくいいです。どこかの村で奴隷にされていた過去を持つ少女なのだけど、物語の冒頭で、魔物に食べてもらうことが心底幸せなことなのだ、ということを繰り返し語ります。ちょっと壊れているというか、むしろ知識が足りないという表現の方が正しいかもしれないのだけど、そんな普通ではないミミズクが、今まで出逢ったことのない優しさに触れ、どんどんと変わっていく話です。最終的にはラブストーリーチックなんですけど、でもベタベタしてるわけでもなく、自然な感じだと思いました。
ライトノベルレーベルから出ているとは言え、内容はファンタジー小説という感じです。実際、ライトノベルには必ずつきものの挿絵も本作には一切なく、装丁を除けば普通の小説という感じでした。僕は正直、ファンタジーというのは得意ではないのだけど、それでも結構いいなと思いました。ファンタジーが好きだという人はさらにいいかもしれません。
まっすぐで純粋なミミズクに読んでてどんどん惹かれていくのではないかと思います。ミミズクの最後の選択は、理解できるとも言えるし出来ないとも言えるけど、でも何にしても正しい選択だったんだろうな、と思いました。
願わくは、全体的にもう少し背景的なものが深く掘り下げられていたらいいな、と思いました。夜の森や公国の設定や、夜の王やミミズクやアン・デュークの過去など、ちょっと断片的すぎて物足りない気がしました。もう少しそういう部分を加筆して分量を増やしてもよかったかもしれないなと思います。
ライトノベルっぽくない表紙なので、割と手にとりやすいのではないかと思います。ファンタジー小説が好きだという人は是非読んでみてください。

紅玉いづき「ミミズクと夜の王」

非常に眠いので適当な感想になることを初めから宣言しておこう。まあこの作品自体特に面白くもなかったわけで。
国語の授業というのがとにかく大嫌いな子供であった。今でもあの授業を受けろと言われれば僕はボイコットするだろうと思うくらい嫌いである。
とにかく、教科書に載っている文章の意味が僕にはさっぱりわからないのである。こうして小説をバリバリ読んでいてなんだけど、ホントにそうなのだ。教科書に載っている文章と言うのは、僕からすれば文章ではなくて、あれはただの言葉の羅列である。そこにどうしても意味を感じ取れないのである。
教科書に載っている小説に関してもまあ文句はあるが、とにかくあの評論という奴が困ったものなのである。教科書には、誰が書いたんだかしれないよくわからないことについて書いたよくわからない評論がたくさん載っているわけだけども、ああいう文章というのは本当に上記を逸していると思うのだ。
だって、文章を読み始めても、本当に意味が分からないのだ。単語それぞれの意味はわかるのに、それらを組み合わせているだけの文章の意味が全然理解できない。いつも教科書を読んでいて思うのは、その評論がどうかというよりも、そもそもこの評論は何が言いたいわけ?ということであった。まあ、ごくたまに面白い評論みたいなものもあったりしたのだけど。
そもそも、評論というものの存在価値がよくわからない。例えば小説の評論にしてもそうだ。ある作家のある作品を分析するのに、時代背景くらいを対象にするならまだわからないでもないのだけど、意味のわからない言葉の定義を繰り返したりだとか、何かと対比させてみたりだとか、この言葉の象徴しているものはなんなのか考えてみたりだとか、そんなことにどれだけの意味があるというのだろうか。
僕は思うのだけど、作家が自身の作品について書かれている評論を読んだら、9割くらいが「いや別にこんなこと考えて書いてないけど」みたいな風に思うのではないかと思っている。国語のテストと同じである。よしもとばなな氏の話を聞いたことがあるが、自身の小説がある問題に採用された際それを解いてみたのだが、作者の意図を問う問題でなんと著者本人が不正解だったという話。それと同じで評論にしても、的外れなことを論じているだけなのだろうな、と思ってしまう。
まあ別に、小説をどう解釈するかは読む側の問題であるし、解釈したものをどう論じようがまあどうでもいいのだけど、しかし何かの拍子にそうしたどうでもいいような評論を目にしてしまうと、なんだかなぁ、と思ってしまうのだ。
小説なんて別に、評論されなくても全然困らないのだ。読んで面白ければいいし、面白くなければダメなのだ。文芸作家の出現の流れであるとか、作者が込めたであろう裏の意図であるとか、別にそんなことはどうでもいいのである。
というわけで僕は、本自体の内容から大きく逸れてよくわからないことを論じている評論をなるべく読まないようにしようと思います。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、まあそんな僕が好きではない評論集なわけです。
じゃあなんでそんな本を買ったかと言えば、舞城王太郎の作品が収録されているからなんですね。ホント、それだけの理由で買いました。
評論の方は、まあ相変わらずよくわからないですね。なんというか、本自体の内容を論じているならいいんですけど、突然9.11とか経済とかそんな話になったりして、いや別にそんなこと関係なくないか?とか思いながら、まあ流し読みみたいな感じで読んでみました。吉本隆明の評論以降のものはめんどくさいので読んでません。
で舞城の作品ですが、こちらも負けじとよく分からない作品で、なんともいえない感じでした。
まあそこそこ面白いなと思ったのは、愛媛川十三(舞城王太郎と同一人物のはず)による文章ですね。「文学」はいやだ、「文楽」がいい、みたいな話でした。もっと作家はたくさん書いて競争するべきだ、みたいな話でした。
まあそんなわけで、実りの少ない作品でした。オススメしません。タイトルはなかなか惹かれますけどね。それだけです。

仲俣暁生「「鍵のかかった部屋」をいかに解体するか」

これを言っても誰にも賛同してもらえないのだが、僕はとにかく、『笑ってない小西真奈美』が好きである。
もちろん、笑っている小西真奈美を否定するつもりはないし、それはそれで全然可愛いと思うのだけど、やっぱり僕は、『笑ってない小西真奈美』の方が断然いいと思うのである。
ここまで読んで大抵のの方は、何を言っているんだこいつは、と思ったことだろう。いいのである。それでいいんです。アホなことを言っているわ、と思って読み飛ばしていただければ結構でございます。
なんと言いますか、完全な僕の好みの問題なのですが、冷たい女性が好きなんですね。正確に言えば、実際冷たくなくてもいいのだけど、冷たそうに見える人、というのがいいわけです。
こう、表情とか言葉とかから内面が見えないような。
こう、目の前にいるのに存在感が消えているような。
こう、見つめてると人形ではないかと錯覚しそうな。
そんな女性が好きだったりします。
小西真奈美という女性は、笑っていない状態でいると、上記のような感じになるわけです。すっと表情からいろんなものが消えていって、肌の表面から体温が消えていって、まるで見下されているかのような、相手が遥か高みにいる存在であるかのような、そんな雰囲気を漂わせてくれるわけです。
そういう女性が結構よかったりします。
まあもちろん、ずっとそんな感じでいられるわけもないわけだけども、でもそうした雰囲気を持つことが出来るだけでも素晴らしいわけです。自分の存在によって何か周囲の雰囲気を変えてしまう、みたいな。まあ女優だからということもあるのかもしれないですけど。
『笑っていない小西真奈美』が好きと書いたけど、まあもちろんのことながら小西真奈美という存在そのものが割と好きなわけで、それはなんというか、飾らなさを飾っているという風に感じるからです。
人間、自然体でいられるなんていうのはほとんど不可能で、常になんらのしがらみとか感情とか規則とかそういったものに縛られながら生きているわけだけど、そうしたなかで、自然体に限りなく近づくようにすることは出来たりします。それを僕は、飾らなさを飾っている、という風に表現したわけですけど、小西真奈美はそんな感じの雰囲気がします。
自分を飾ろう飾ろうと思っている人は、どうしても外側を飾ってしまうんですね。髪形だとか化粧だとか服装だとかアクセサリーだとか。でもそういうものは、本当に外側だけで完結する美しさでしかないわけです。
でも小西真奈美の場合、なんというか内側から綺麗、という感じがします。たぶん、内側の自分にすごく素直なのではないかと思うのです。服が着れなくなるから食事を減らすとか、化粧が落ちるから運動をしないとか、多くの女性はそういう外側のあれこれに内側が制限を受けているような印象があるんですけど、小西真奈美はまず内側の自分に正直で、それで外側が困ってもまあそれは仕方ない、という風な印象があります。
そういうところが、すごく好感を持てるのだと思います。
そういう、内側の自分に正直な人は、本当に内側から綺麗になっていくのだと思います。外側ばかり気にしている人は、毎回外側を飾らなくてはいけないし、外側を飾ったからと言って内側が綺麗になることはないのだけど、内側に正直に生きていれば、自然と内側は綺麗になっていくし、同時にそれは外側にもいい影響を与えて行くのだと思います。
実際小西真奈美は本作の中でこんな風に書いています。

『どんな女のコでも、「自分はきっと可愛くなれる」
そう信じて、前向きに一生懸命に生きていれば、
心の中が可愛くなって、そのうち、
自然と表情にまでそれが表れてくる。
メイクはきっと、その日との良さを引き出す為に
手助けしてくれるものなのに、
それでその人らしさを隠してしまうくらいなら、
笑顔が素敵なすっぴんの女のコのほうが可愛い。

私も、素顔の自分を好きだと言える、
そういう人でいたいと思う。』

あるいは、

『「どうせ私なんて…」が口癖の彼女は、
せっかくきれいな顔立ちをしているのに、
なんだかいつも悲壮感が漂っている。
「なんとかなるって」が口癖の彼女は、
お世辞にも、決して可愛いとは言えないけれど、
いつもニコニコしていて、なんだか愛らしい。
何気ない口癖が表情にまで反映している。
きっと二人は気付いていないほど、
何気ない口癖。』

もちろん女性にしたって反論はあるでしょう。
いくら内側が綺麗だって、いくら笑顔が素敵だって、それでも顔が綺麗な人の方がやっぱり綺麗なんでしょう?と。
そうかもしれない。でもこんな話も聞いたことがある。いつも笑っている人は、顔の表情の筋肉がどんどん笑顔の方にシフトしていって、表情がよくなる、と。僕なら、顔は綺麗だけど笑顔を忘れた女性より、顔はそこまで可愛くなくても笑顔が素敵な人がいいと思う。まあもちろん、顔が綺麗で笑顔も素敵な女性がもちろんよりいいのは確かだけど。
かつて大学生だった頃のサークルに、人前では決して化粧を落とさないという人がいた。旅行に行ってもそうだ。もちろん、風呂とかではどうしていたのか知らないけど、もしかしたら誰もいないような時間を狙って入っていたのかもしれない。実際朝は、誰よりも早く起きて化粧をばっちりしていたらしい。
なんというか、素顔の自分を好きになれないというのは、不幸なんだろうなと思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、小西真奈美の詩的な短いエッセイみたいなものをまとめた作品です。写真も一緒に載っているんですけど、それはどうも小西真奈美が撮ったものではないようです。僕としては写真も小西真奈美が撮っていたらよかったのにな、と思いましたけど。
僕は中谷美紀も好きで、中谷美紀の文章もいろいろ読んでいるんですけど、やっぱり自分の内側を素直に正確に文章にすることが出来るというのは素晴らしいことだと思いますね。本作も、何でもない日常の一コマであるとか、なんということもない感情の一瞬であると言った些細なことが書かれているだけなのに、その切り取り方や言葉の選び方みたいなものがすごく素敵で、僕はかなり好きだなと思いました。僕はこの作品を読んで、ますます小西真奈美が好きになりました。
あと、それぞれの文章ごとに、恐らく小西真奈美直筆だろうと思われるタイトルが書いてあるのだけど、その字もなかなか素敵な字でいいですね。やっぱ、字が綺麗な女性と言うのはいいものです。
あと、小西真奈美自身の写真も何点か載っているのだけど、いいですね。冒頭の話と食い違いますけど、笑ってる顔もやっぱいいです。特に、最後のページの写真なんか素晴らしいですね。
というわけで、小西真奈美が好きだという人は読んで見てください。そうでない人でも楽しめると思うけど、でもこの内容で1400円というのは高いと思う人はいるかもしれません。どうでしょうか。

小西真奈美「手紙」

神という存在、を信じるかと言われれば、まあ僕は信じないと答えるだろう。
しかし、神を信じるあ、と言われれば、まあ頷かなくもない。
さて、どこに違いがあるか。
科学を宗教と捉えることで、ちょっと説明をしようと思います。
僕は普段から思っているのだけど、科学というのもまた宗教の一つのようなものだと思います。
僕らは、「科学的に証明されている」とか言われたりすると、割と信じたりしてしまいますよね。でも例えばですよ、地球が丸いというのを確認したことはありますか?分子や原子というものを見たことがありますか?高速で動く物体の時間がゆっくり流れるというのを確かめたことはありますか?
そうなんですよね、僕らは「科学的」という言葉をつけるだけで、自分で確認してもいないありとあらゆることを信じているわけです。
確かに、地球が丸いくらいの話は、映像もあることだしまあ信じてもいいかもしれません。でも、物質が分子だの原子だの、果てはクオーツだのと言ったものから出来上がっているだとか、アインシュタインの相対性理論だとか、そういうものって自分では絶対に確認できないし、偉い人がこう言っていて、多くの科学者がそれを認めている、というのをただ信じているだけに過ぎないですよね。
これは、言ってしまえば宗教となんら変わらないですよね。キリストがこう言っているから、ブッダがこう言っているから、という理由で何かを信じる。手法が違うだけで、科学というものも立派な宗教です。
もう一つ別の話をしましょう。
昔ニュートンという天才物理学者がいました。大げさに言えば、基礎物理学のほとんどを組み立てたと言ってもいいような人でした。ニュートンが提唱した理論は現実の出来事を記述するのに完璧だったし、誰しもがニュートンの理論の正しさを信じ、数百年間もその地位は揺るがなかったわけです。
しかしそのニュートンの功績を揺るがした人物がいます。それが、天才アインシュタインです。難しいことは書かないですけど、アインシュタインが提唱した相対性理論というのは、裏返せばニュートンは間違ってましたよ、という話だったわけです。今までどの時代の科学者も疑うことなく信じてきたニュートンの理論が、実は違っていたんですよ、とアインシュタインは言ってのけたわけです。
もちろん、そんな理論を発表した当時は、んな馬鹿なという意見が多かったでしょうけど、次第にいろんなことがわかってきて、なるほどアインシュタインの言っていることの方が正しそうだ、となってきたわけです。
さて何を言いたいかわかるでしょうか?
つまり、科学というのも万能ではないということです。科学で記述できるのは、「今現在わかっていること」だけであって、それは将来どの時点で覆されるかわかったものではない、ということです。しかし僕らは、今はそれを信じるしかないですよね?いつ覆るかもわからない不安定なものを、それでも「科学的」だという理由で信じているわけで、それは宗教と言ってしまっても全然問題ないことだと僕は思います。
さてというわけで冒頭の話に戻りますが、僕はつまり、「神という存在」はちょっと信じられません。姿も形も意思も希望も持っているような、そうした形での「神の存在」は認めることが出来ません。
でも、「存在ではない形での神」というのはあると思います。それは、先ほどの例で言えば、ニュートンの理論と相対性理論のようなものです。アインシュタインが現れるまでは、「ニュートン」の理論が科学の世界では神でした。しかしアインシュタイン以降は、「相対性理論」が科学の世界で神に成り代わりました。そういう意味でなら僕は神を認めることが出来ます。
例えばこうしたものは様々なところにあります。一例では、「常識」というのもその類でしょう。「常識的に社会人はネクタイをしなくてはいけない」という「常識」は、ある意味で神です。それは、一種の信仰であり、宗教の一形態だと僕は思うのです。
そう考えてみると、僕らはありとあらゆることを思考停止のまま生きているのだな、という風に思います。ありとあらゆるそうした「神」の存在を無条件に受け入れることで、僕らの生活が成り立っていると言えそうです。僕はキリスト教や仏教と言ったそうした意味での宗教というものにまるで関わりたいとは思わないのだけど、でもあながちそうした存在を疎んだり馬鹿にしたりも出来ないのかもしれないな、と思ったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
マモルは小学生で、ばあちゃんと一緒に暮らしている。お母さんは死んでしまって、お父さんはマグロ漁船の船長でほとんど戻ってこない。
ばあちゃんは巫女さんの家系で、家の近くの稲荷山にある稲荷神社に務めている。
ある日からマモルは、守山初彦という美形の青年と一緒に暮らすことになった。守山さんは、稲荷山に計画が進んでいるレジャーパークの話を中止にさせたいと運動しているのだ。稲荷山の自然を守らなくてはいけないのである。
守山さんの抱えている事情を知るにつけ、マモルはどんどんと協力していくようになる。稲荷山を守るための僕らの戦いが始まった。
というような話です。
本作は、ある児童文学の新人賞を受賞した作品なのだけど、ちょっとなぁ、と思いました。
子供が読むにはまあいいかもしれないとは思うのだけど、大人が読むにはちょっとなぁ、という感じです。
最近児童文学系の作家が文芸の世界にどんどん出てきていますが、文芸の方で書く作品は、やはり大人が読むことも考えられて書かれている作品と分かるもので、もちろん大人が読んでも充分楽しめます。
しかし本作は、ちょっと子供向けという度合いが強い気がします。ストーリーが単調すぎるというか分かりやすすぎるし、毒みたいなものも全然なくて、ちょっと大人が読むにはライト過ぎるという風に感じました。子供も、読むにしたってホント小学生とかそれ以下ぐらいが対象ではないでしょうか。中学生になるともうこれくらの本だと退屈な感じがしてしまいます。
テーマ的なものは、自然を守ろうというものでいいと思うのだけど、明らかに大人を対象に書かれていないことでその良さがうまく伝わっていない気がしました。
読んでいて、宗田理の「ぼくらのシリーズ」のことをなんとなく思い出しました。大人の蛮行に子供が対抗する、という形態だったから連想したのかもしれません。「ぼくらのシリーズ」は子供が読んでも大人が読んでも楽しめる作品だったのに対して、本作はちょっと厳しいな、という風に思ったりしました。
というわけで、オススメは出来ないですね。小学生くらいがちょうどいい対象年齢ではないかと僕は思います。

たつみや章「ぼくの・稲荷山戦記」

日本人が日本で暮らしている限り、民族という意識はなかなか芽生えることはない。国境をどことも接することのない日本という国では、考える必要もない概念であろう。
ただ、少しだけそういうものに鈍感になりすぎているかもしれない。
日本にも他の民族というのはたくさんいる。多くは望んで日本にやってきているのかもしれないが、そうでない人もたくさんいることだろう。そういう人々は恐らく、日本人の民族への鈍感さ故に、様々に不満を抱えているかもしれない。
北朝鮮の拉致問題という話がかつてマスコミを席捲した。意に添わぬ形で外国へと連れ去られた人々を日本に戻そうという話だった。あれは、日本人に久々に民族というものを考えさせるニュースだったかもしれない。
歴史の上では、あらゆる民族が迫害を受けてきた。侵略者に追われ、土地を奪われ、民族を分断され、時には名前を奪われたりもしたことだろう。インディアンや奴隷にされた黒人、アイヌ民族やユダヤ人など、挙げればキリがないのだろう。
民族という意識の希薄な僕等には分からないが、やはり民族という単位は強いものなのだろう。いくら侵略されあらゆるものを奪われても、民族という形が失われることはない。この結束の強さが唯一の救いのように思える。
外国で暮らす日系人もたくさんいるのだろう。1世と呼ばれる人々は、特に多大な苦労をしたのだろうとも思う。そうした人々は恐らく、日本人であるという繋がりを強く意識したことだろう。
僕もつい最近エジプトに旅行に行ったのだけど、やはりそこでは日本人であるという意識が若干強くなったと思う。
ただそういう意識は、時々嫌な形で現れる。例えばニュースで飛行機事故を報じていると、必ずこんな言葉が付け加えられる。
「乗客には日本人はいなかった模様」
そういう問題ではないだろう、と思う。しかしテレビというのは、見ている人間が望むものを流しているのだから仕方がない。つまりそのニュースを見た人間が、「そうか、日本人の被害者はいなかったのか。よかったよかった」と思っていることが問題ではないかと思うのだ。
とりとめのないよくわからない話になったが、僕は最終的にはこう思うのだ。民族という壁がなくなればいいのにな、と。それによって、例えば文化や言語などあらゆるものが失われることになるかもしれない。しかしそれでも、民族の壁がなくなれば、多くの問題が解決するように思うのだ。
そして同時に、そんな未来は絶対に来ることはないだろうとも思っているのだけど。
そろそろ内容に入ろうと思います。
第二次世界大戦中のアメリカ。日系人である田川稔は、日系人収容所から米軍へと志願したが、負傷し退役した。今は学生となり、ペンシルベニア大学で工学を学んでいる。
ペンシルベニア大学では現在あるプロジェクトが進行中であった。それは、エニアックと呼ばれる、今で言うコンピュータの前身のようなもので、ある大学院生を中心としたグループがそれを推し進めていた。
稔はあれこれあってそのプロジェクトのメンバーに入ることになり、そこでめざましい活躍を見せることになる。日系人であることで多少のトラブルはあるものの、エニアックと関わっている時間が何よりも素晴らしい時間であった。
しかし、つまらない些細な問題からそのプロジェクトを追われることになった稔は、しかしそれに関係したある重大な情報を手に入れてしまうことになる。彼はこの情報をしかるべきところへと伝える決心をするのであるが…。
一方で、ダンサーをしている日系人のエリイは、どうしても日本に帰りたい事情を抱えていた。あれこれあって稔と知り合うことになったエリイは、彼について行くことを決意する。
稔とエリイの長い旅が始まる。
というような話です。
本作は今年度のこのミス10位の作品で、正直自分的にはあんまり興味の湧かなそうな話だなと思いながらも読むことにしました。
結論から言えば、やっぱり僕の趣味にはそこまで合わない作品だったんですけど、でも作品自体のレベルは無茶苦茶高いと思います。
稔やエリイの置かれた状況やその後の展開、逃げなくてはいけなくなった事情とその追走劇など、まずはストーリーの運び方みたいなものが結構うまいなと思います。場面分けがものすごく早く、陳腐な表現をすれば「24」みたいに同時並行で物語が展開しているような雰囲気の作品です。中盤から後半に掛けては、とにかく追う追われるのデッドヒートになってくるわけだけど、常に危うい状況に立たされながらもなんとか窮地を脱する稔の機転も素晴らしいし、それでもめげずに追い続ける追っ手の執念みたいなものもよく描けていると思いました。
また、背景に戦争を持ってきて、日系人がアメリカ社会の中で生きる難しさであるとか、あるいは戦時下における人々の考えであるとか、そういうところもきちんと描いていて、深い作品だと思いました。
たださっきも書いたけど、どうしてもそこまでのめりこむことが出来なくて、まあこういう小説の分野にそこまで興味がないからだろうな、と思います。
これまで僕が読んだ作家の中で言えば、逢坂剛とか船戸与一とかそういう系の作品だと思います。かなり重厚で細部まで作りこまれている作品なので、ヘビィな作品を読みたいと思っている人にはなかなかいいと思います。あとどうでもいい話ですけど、僕の中では久々の二段組の小説で、やっぱり長いなぁ、と思いました。
あと最後に、僕にはどうしても巻頭の登場人物紹介が納得いかないです。あそこに載っているのは、第一部の腫瘍登場人物で、第二部以降に主に出てくる人間の名前はほとんど出てきません。ネタバレ的なことを配慮したのかもしれないけど(別に問題ないと僕は思うけど)、それなら最初から全員載せないくらいの方がよかったかなぁ、と思います。
まあそんなわけで、ハードな冒険小説が好きだという人にはオススメです。

建倉圭介「DEAD LINE」

ある悪いことが起こる確率が2分の1であり、かつそれが起こるかどうか事前にチェックすることが出来る、という状況があったとしよう。その場合、あなたはそのチェックを受けるだろうか、という話である。
もう少し詳しい話をしよう。
ハンチントン病という病気がある。これは、治療法の確立されていない病気であり、症状もなかなか辛いものだ。かつて「ハンチントン舞踏病」と呼ばれていたことからも分かるように、まるで踊っているような奇妙な動きをするようになるのだそうだ。それは不随意運動と呼ばれ、自分の意思とは無関係に体が動いてしまう。顔の表情が怒ったようになり、性格も怒りっぽくなり、次第に体の機能がうまくいかなくなり、発症から10年ほどで一人で社会生活を送ることは不可能になる。
さてこのハンチントン病は、完全に遺伝によって起こる。原因は解明されていて、ある特定遺伝子の異常によって起こるのであるが、それが親から受け継がれるかどうかという確率が2分の1なのである。まあ当然だけど。発症遺伝子が受け継がれていれば100%発症するし、受け継がれていなければ100%発症しない、そういう病気である。
そして医学の進歩により、この発症遺伝子を受け継いでいるかどうかという検査が出来るようになった。つまり、親がハンチントン病の発症者であった時、その子供は病院にいって検査をすれば、自分が発症するかどうか簡単に確認することが出来るのである。
さて、もし自分にこういう状況が降りかかってきた時、その検査を受けるだろうか、という話である。
これは、結構難しいのではないだろうか。
こういう話もある。そのハンチントン病であるか否かの検査の開発に貢献したある女性研究者の親もハンチントン病であったのだが、彼女は最終的に、自分が発症するのかどうか検査しないことに決めたようだ。知らないという権利を選んだのだそうだ。
検査をして、もしシロであれば素晴らしいだろう。自分は絶対に発症しない。発症した場合の人生だとか、それを不安に思いながら過ごす日々だとか、そうしたものとはすべてサヨナラすることが出来る。
しかし、もしもクロであった場合の恐怖はものすごいものがある。絶対に100%自分は発症するということが突きつけられるのである。それは、渡っている吊り橋が少しずつ切れて行く様子をただじっと見守って行くような、そんな人生になるのではないだろうか。その状態で、将来に希望を見出すことは難しい。何か希望を持てば持つだけ一層辛くなるだけである。
検査をするということは、このどちらかに選択されるということである。シロであれば素晴らしい。しかしクロであれば最悪だ。まさに天国と地獄のような選択である。
一方で、検査をしないということはつまり、ずっと灰色のままの人生を生きるということだ。自分はシロであるということを信じたい。信じたいがでもクロかもしれない。そんな不安にずっと付きまとわれながら、生きていくしかない。
この灰色の人生も辛いものだ。例えばハンチントン病発症のサインとして、何かものを落としたり何かにつまずいたりというものがある。自分がシロであるということを知っていれば、たまたま落とした、たまたまつまづいた、という風に思えるだろう。
しかし、自分が灰色である場合はそうはいかない。もしかしたら今のが発症のサインかもしれない…。そんな不安とも闘わなくてはいけないのである。
僕ならどうするだろう。現実にこういう悩みを抱えている人がいるわけで軽々しく考えるわけにはいかないけど、でも僕なら検査をするかもしれない。
どちらか分からない、という不安の中で生きて行くのは、ちょっと辛いと思うのだ。シロならシロでももちろん最高だけど、クロならクロで覚悟が出来る。つまりそれは、死という覚悟のことだけど、自分の選択肢の中に、自殺するという選択肢を用意することが出来る。自分が間違いなく発症すると分かっていれば、そうなる前に自殺してしまえばいいと考えるだろうし、それに向けて覚悟を固めることも出来るだろう。
どちらでもない、という曖昧な状態の中に希望を見出せる人もいるのかもしれない。発症しないかもしれない、という希望を託すことが出来る人がいるのかもしれない。
この悩みを抱える人は多くはない。黄色人種であれば、100万人に1人から7人という割合だそうだ(白色人種の場合もう少し割合は増えるようだが)。日本で考えれば、多く見積もっても700人ほどである。その家族などを含めても、この問題にさらされる人間はそう多くはない。それぞれの人間がそれぞれの人生を見つめながら、自分の選択をしていくしかないのであろう。
人間は、希望を託す生き物だ。どこかに祈りの余地を残しておきたいという発想があるのだろう。しかし一方で、どちらでもないという状況に耐えられない人間もいる。難しいものだ。本作の中ではこんなことも書かれている。ハンチントン病を発症するかどうかの検査は、その検査を受けるかどうかという新たな悩みを生み出しただけなのではないか、と。どちらにしても、難しいものである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
僕は、幼稚園が一緒だった幼馴染であるミサキと大学で再会し、付き合うようになった。僕が大学院を卒業し、かつ就職が決まれば結婚しよう、というような約束もしている。ミサキは明るく元気で、また近松門左衛門も研究にもかなり力を入れていて、魅力的な人間だ。
僕が高校に教師として就職することが決まった日、ミサキに電話をした。就職が決まったのだから、結婚の話を進めようとそんな気持ちからだった。
しかしその電話で僕が聞いたのは、耳慣れない言葉であった。
「ハンチントン病」
ミサキは、自分の親がハンチントン病を発症していて、私も発症するかもしれない、という告白をした。そして、自分は発症するかどうかの検査を受けないとも。
ミサキが病気の可能性を告白した夜から、僕らの戦いは始まった。それは、ミサキが僕に現実を認識させるための時間であったし、僕が何らかの覚悟を決めるために必要な時間でもあった。ミサキと向き合い、病気のことも含めてミサキを知ろうとし、そうして僕は結局こう思うのだ。
僕にはミサキしかいない。ミサキでなくてはダメなんだ…。
というような話です。
本作は、新潮エンターテイメント新人賞をいう新人賞を受賞した作品で、高校教師であるという著者のデビュー作なのだけど、すごくいい作品でした。
何よりも、文章がしっかりしていて好感が持てました。新人とは思えないほどちゃんとしていて驚きました。どこがいいと言われると難しいですけど、無駄はなく滑らかで、風に乗せているかのようにスムーズに物語を運んでいる幹事がしました。とにかく文章がちゃんとしているので、読んでいてすごく安心できる感じがありました。
また、主要な登場人物が僕とミサキの二人しか出てこないのに、これだけ物語を展開させられる辺りがすごいと思いました。もちろん二人以外の登場人物も出てきますがあくまでも脇役であって、物語のほとんどを二人で進んで行きます。これは結構難しいことだと思うので、すごいと思いました。
また、過去の回想シーンなんかも適度に挟み、それが作品により深みを与えているし、二人の関係性がより強く感じられるので、すごくいいと思いました。
僕の友人に、「人が死んだり病気になったりする話は泣くわ。でもそれは卑怯だ」みたいなことを言う人がいます。まあ僕としてもそれはよく理解できるわけで、だから本作で「ハンチントン病」が中心的な位置を占めているというのはなんとなく違和感がないではないのだけど、でもその病気という部分だけに依存せずにあらゆる方向から二人の関係を再構築していこうとする、ある意味で関係性の再生の物語という風に思えたので、悪くはないなと思います。
というわけで、かなりいい作品だと思いました。予想以上にいい作品でした。巷に溢れている(だろうと思われる)軽々しくて甘ったるい恋愛小説ではなくて、骨太で重厚でしかし大切にしたいと思えるようなそんな恋愛小説です。病気が絡んでいるのでちょっと重くて辛い部分もありますが、でも読んで見てほしいと思います。かなりいいですよ。オススメです。

榊邦彦「100万分の1の恋人」

例えば、テレビの画面を近くで見てみる。当たり前だけど、それは赤・青・緑(だっけ?)の三色の配列から成り立っていて、どんな色でもその三色があれば作り上げることが出来る。つまりテレビの画面の構成要素は、三色の色であると言えるだろう。
あるいは本であれば、最小単位は文字だ。どんな華麗な文章であろうと、どれだけ素敵な物語であろうと、本という形態をとっている以上、突き詰めていけば最小単位は文字になる。
あるいは、世の中のものを微細に分解して行けば、最後には分子だの原子だのに行き着くわけだし、どんな実際的な物事であれ、どんな抽象的な概念であれ、それには基本となる構成要素があるはずである。
さてでは考えてみよう。『東京』という街は、一体どんな構成要素で作り上げられているだろうか?
僕のイメージでは、どれだけ微細に分解していっても、『東京』という街を構成する要素は見えてこないような気がするのだ。
例えば、京都であれば「歴史」と答えられるかもしれない。大阪であれば「人情」や「お金」なんてのもいいかもしれない。北海道であれば「自然」や「雄大」、沖縄であれば「米軍」なんて答えも一つかもしれない。他のどんな土地であっても、特産品やら名物地みたいなものはあるだろうし、積み重なってきたものもあるはずだ。そこに生きる人々が守り続けているものがあるだろうし、そこで生まれそこで生きる人々の心の奥底に残っているものを挙げることも出来ることだろう。
しかし、『東京』というのはどうだろうか。一体『東京』というものは何から出来ているのだろうか。構成要素は、本当に存在するのだろうか。
『東京』という街は間違いなく存在する。僕もまあそこそこ長い時間をそこで過ごしている(実際は神奈川なのだけど、川を越えればもう東京なので)。そこに住んでいる人はものすごい数に上り、また他の街にはないものがたくさんある。日本の首都として、ある意味で世界と闘って行けるだけの経済力があり、日本のあらゆる機能がそこに集中している場所でもある。『東京』という街はそういう街であり、れっきとして存在しているわけだ。
しかし、何から出来ているのかわからない。細かく細かく『東京』という街を細分化していっても、何も見えてこない。細かくすればするほど、印象が薄れて行ってしまう感じもする。
だから、『ない』ものから出来ているのかもしれないと思った。
『東京』という街は、『ない』ものから出来ている。
それはきっと、ありとあらゆる『喪われたもの』なのだと思う。そういう『喪われたもの』が長い期間を経て降り積もって行くことで、『東京』という街は生まれたのだろう。
それは、夢であってもいいし希望でもいい。時間でも感情でも支えでも友でもなんでもいい。とにかく多くの人間が『東京』へとやってきて、そして『東京』で多くのものを喪うのだ。人々はそれを、『東京』という街のせいにしようとするだろう。『東京』という街が、俺の何かを奪ったのだ、と。
そうした想いが、形を失ったはずの『喪われたもの』と積み重ねて行くことになったのだろう。形もなく音もなく手触りすらもないままにそれは降り積もり、見えもせず邪魔もしないのにそこにいる人間を排除していく。『喪われたもの』が壁となって東京を取り囲み、それが逆に『東京』という街の幻想を一層大きくさせ、さらに多くのものが喪われていくのだろう。
誰かの大切だったものを踏みしめながら、『東京』という街は息づいている。それは、まさしく『哀愁的』という言葉に相応しい街かもしれない。
これからも『東京』という街は、静かに『喪われたもの』を積み重ねていくことだろう。そこに住む人々は、自分の足元に無残に踏みしだかれている『喪われたもの』を眺めながら、『哀愁的』な気分になることだろう。感傷が日常と同義になるこの街で、僕らは『喪われたもの』と『喪われずに残ったもの』を眺めながら暮らしていくことだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、著者としては9章に分かれた長編という扱いをしているようですが、読むほうとしては9編の短編が収録された短編集という方がわかりやすいと思います。それぞれの内容を紹介しようと思います。
まず主人公の進藤宏について少し書きます。進藤は、絵本が描けなくなった絵本作家。4年前に書いた作品はとある権威のある賞を受賞し、絵本作家としての地位も高まったはずだが、しかしあるきっかけから描けなくなった。今では絵本作家であるということはほとんど忘れ去られている。
一方で、どちらが本業だかわからないほど、フリーライターの仕事をやっている。文章を切り売りする仕事だ。楽しくはないし寧ろ辛いが、しかし苦痛ではない。
そんなフリーライターの仕事を通じて、様々な人間と出会う。その物語である。

「マジックミラーの国のアリス」
時代のヒーローと呼ばれた男、田上幸司。ネットビジネスの世界でカリスマ的な存在であった彼も、今ではかなりの落ち目である。インタビューを引き受けることになったのだが、その後個人的な事情から彼から依頼を受けた。
学生時代の頃、『アリスの部屋』という覗き部屋みたいあ風俗店があった。そこの看板女優であったアリスを探してきて欲しいんだ。会って話をしたいんだ…。

「遊園地円舞曲」
ノッポ氏から葉書がきた。遊園地の廃業に伴って、ピエロの衣装を脱ぐという話だった。友人と呼べるような間柄ではなかったが、閉演間際の遊園地に行ってみることにした。
ノッポしはかつて、ビア樽氏とコンビを組んでピエロをやっていた。賞をもらったあの絵本との関わりも深い。しかし一方で、彼等との出逢いがあったからこそ、自分は絵本を描けなくなったのだ、とも言える。お互い、かつての苦さを思い出しながらも、しかし久々の再会を果たす…。

「鋼のように、ガラスの如く」
タイフーンという名の四人組のアイドル。その解散に併せて出すアルバムのボーナストラックとしてつける小冊子の原稿を書くことになった。
メンバーにインタビューをすることになったのだが、タイフーンの『姫』と呼ばれているワガママ娘がいつもの如くごね出したのだという。いつものことだと言いながら疲れを隠せない担当である河口くんを、しかし僕はいつの間にか裏切ることになっていた。何故か、レコーディングを勝手に抜け出した『姫』とドライブをすることになった…。

「メモリー・モーテル」
エロスを売りにした週刊誌の編集長を務めるカズさんは、部数の伸び悩みを理由に編集長を下ろされることになった。最後だということで、心残りだったある写真を週刊誌に載せたいのだという。その手伝いをすることになった。
それは、自分が描いた絵本で目元を隠した裸の女性と、その女性を後ろから抱く男の写真であった。編集部に送られてきた時、これは載せようと思ったのだそうだ。しかし、一緒に写っている男が自殺したために敢え無く断念した。この写真を、是非最後に載せたいんだ…。

「虹の見つけ方」
一時代を作った…そう評してもいいだろう作曲家がいる。マスコミに出ない、私生活もその他何もかも情報がない、アイドルに歌を提供し続けチャートで1位を取り続けた、新井裕介である。そんな彼に取材をすることになってしまった。
往年のような勢いがなくなってしまったかつての伝説は、今では酒に浸るような生活だった。虹を描けと言われて描けなかった自分を、それでもプロか、と詰った。そう、新井祐介は間違いなくプロだ。
そんな彼の頼みごとだ。最後のアルバムの最後に、書き下ろしで歌を書く。それを、当時から使い続けた『虹』という名のコーラスグループに歌わせたい…。

「魔法を信じるかい?」
担当編集者に連れられていった一軒のバー。そこには一人の女流マジシャンがいた。新たな絵本のアイデアが浮かぶかもしれないと取材を申し込んだのだが、ある条件がついた。
あるテレビディレクターに、その取材の風景を撮って欲しい、というものだった。知り合いだったので話を聞いてみると、なるほど少なくない関係があるようだ。ストイックな映像を作り続けるそのディレクターの過去の話。

「ボウ」
大学時代の、友人と呼んでいいかなんとも言えない知り合いから、突然連絡があった。いつでもいいからとにかく会いたい。頼むよ。学生時代、そんな言い方をするやつではなかったのに。
会うと、まるで病人みたいな形相であった。自分がゼロになってしまうのが恐ろしいのだ、と彼は言う。だから、自分のことを文章にしてくれないか。文章を書いてる知り合いはお前しか思いつかなかったんだ。歯切れの悪い返事をしてその場を去る。
担当編集者が、心理ゲームのようなものを出してくる。いいですが、「ボウ」と聞いて思い浮かべる漢字はなんですか?

「女王陛下の墓碑」
昔からの友人と会った。彼女は女王様だ。そういう店で、50歳になろうかという年齢で現役で女王様をやっている。
彼女とは昔取材で知り合った。取材でプレイを体験し、乗り気でない自分に気付いた向こうがあっさりと止めた。どこを気に入られたのか未だによくわからない。それでも、時々こうして会う。
この前なんか、三回もチェンジって言われたよ。そう明るく話す彼女が纏う寂しい雰囲気を描く物語。

「東京的哀愁」
ビア樽氏に病室で会った。その娘さんと話もした。父は、あなたにずっと会いたがっていました、と。
お願いがあるのだ、と言う。
父は、あるホームレス同士の結婚の仲人をする予定であったのだが、病気で入院してしまった。代わりに会ってくれませんか、という話だった。二人とも、僕の描いた絵本が好きなのだという。
アメリカで暮らす妻と娘が日本に来た。そして妻とは、正式に離婚することになった。娘との関係は、まあ当然だがうまくいかない。
担当編集者も、営業に異動になるのだそうだ。
段々僕は、一人ぼっちになっていく…。

というような感じです。
やはり重松清の作品はいいですね。僕としてはやっぱり、家族だとか学校だとかがテーマになっている作品の方が、作品としての深さもあるし読んでいて泣けたりして好きなのだけど、本作は本作で別の良さがあります。
冒頭で僕は、『東京という街は喪われたもので出来ている』みたいなことを書きましたけど、まさにそんな感じの話でした。進藤が出会う人々はそれぞれ、全盛期には素晴らしく輝いた場所にいたのだろうけど、今ではその輝きが失われしまった人々ばかりです。かつてのよき思い出を語り、見失った自分を振り返り、先にある自分の姿を思いやる。そうやって、崩れるその最後の瞬間の灯火を、全力で輝きに変えようとする人々がものすごく哀愁を漂わせていて、読んでいて哀しい気分になってきますね。『東京』という街に降り積もる『喪われたもの』は、人と人との距離までも隔ててしまうみたいで、誰もが寄り添えない孤独の中で寂しさを切り刻んでいるように思いました。
一方で、そんな様々な人々の人生を垣間見る側である進藤も、寂しい人間の一人です。毒にも薬にもならないとわかっている、ただ読み捨てられるためだけに存在する文章を日々紡ぎ生計を立てている一方で、絵本を描きたいとは思うのだけど描けない自分を諦めきっている。担当編集者に逃げていると言われても、反論も出来ない。他の人々と同じく哀愁を漂わせる人間です。
僕がこの作品の中で一番好きなのは、担当編集者のシマちゃんだ。進藤の描いた絵本を、冗談ではなく何百回となく読みこなしている彼女は、進藤の新作をとにかくひたすらに待ちわびている。絵本を作るために出版社に入り、進藤の絵本を担当するために部長にごり押しするくらいのファンである。進藤はそんな彼女の期待を常に裏切り続けているわけで、そんな二人の関係は、見ていてどこか苦しい。
シマちゃんは、絵本をまったく書こうとしないでフリーライターの仕事に明け暮れる進藤に苦言を呈しながらも、それでも決して見捨てることだけはしない。正直、進藤は彼女に甘えているんだろうなぁ、と思うのだけど、それを本気で愚痴ることもない。いい子なのだ。そのシマちゃんの優しさとか真っ直ぐさみたいなものが、本作の中では逆に眩しすぎて痛くて、だからすごくいいと思った。
好きな話は、「マジックミラーの国のアリス」「遊園地円舞曲」「虹の見つけ方」「哀愁的東京」です。とくに、「虹の見つけ方」は結構いいなぁ、と思いました。
重松清の作品で、これを一番初めに読む、というのはあんまり勧めないけど、重松清の作品を何作か読んでみて、その後で、「こう言う話も書くんだ」という感じで読むのがいいかなぁ、と個人的には思います。読んで見てください。

重松清「哀愁的東京」

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