黒夜行 2017年08月 (original) (raw)

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内容に入ろうと思います。
本書は、「音楽」というものを科学的に捉え、しかも数式やグラフや楽譜などを基本的に使わずに説明する、という作品です。音楽を「科学する」というのが、恐らくイマイチ想像出来ないんじゃないかと思いますけど、例えば冒頭に、本書はこんな疑問を解き明かします、と出てきたものを書いてみます。

『音楽の音と雑音のちがいは何なのか』
『なぜバイオリン十台の音の大きさが、一台の音の二倍しかないのか』

この疑問は、なるほど、と感じさせられました。確かに、「音楽」と「雑音」の差って、説明しろと言われてもなかなか出来ません。また、面白いと思ったのは後半の疑問で、確かにそうかもな、と。僕はバイオリン十台の音なんて聞いたことないですけど、でもオーケストラとかでバイオリンがたくさん並んでいるのを見ることはあります。想像してみる時、バイオリンが十台あった時、それがバイオリン一台の時の10倍の音だとしたら、想像を絶する大きさでしょう。でも、たぶんそんなことにはならない。オーケストラの人たちが力強くバイオリンを弾いているように見えても、10倍の音にはならないだろうな、と思います。それは何でだろう?そういう、「音楽」というものを取り巻く色んな理論や状況や不思議を、科学の視点から解説していく、という作品です。

また本書は、音楽の歴史的な話もちょくちょく出てきます。個人的に意外だったのは、ピアノの歴史です。

『ピアノは1709年にバルトロメオ・クリストフォリという流麗な名前をもつイタリア人楽器製作家によって発明され、その後100年以上もかけて改良が続けられた。』

何が意外だったかというと、ピアノってもっと歴史が古いものだと思っていたんです。それこそ500年とか1000年くらいの歴史があるんだと思ってました。まだ300年ぐらいの歴史しかないんですね。それがホントに意外でした。

また、楽譜に書かれている音が時代によって違う、という話も面白かったです。その事実は、別の本でも読んだような記憶があるんですけど、より具体的に書かれていて面白かったです。

『こうした歴史上の事情があるために、世の音楽学者たちは頭を悩ましている。学者の典型的な見解に、モーツァルトの音楽は、書かれたとおりに演奏すべきだというものがある。もうひとつ、モーツァルトの音楽は、楽譜に書いたときに彼の頭のなかで聞こえていたとおりに演奏しなければならないという、これもまたもっともな見解もある』

これは一体どういうことか。かつては国ごとに、あるいは町ごとに、楽器の音は異なっていた。同じ「ド」でも、違う音だったのだ。ここまではなんとなく僕も知っていた。

じゃあ、いつ音は統一されたのか。これが結構意外だった。

『専門的な議論(口論とたいして変わらない)が何度ももたれた後、1939年のロンドンでの会合で、今日使われている音が決定された。それで現在、世界中で、フルートをはじめ、バイオリンやクラリネット、ギター、ピアノ、木琴などの西洋楽器には、標準的な音の集まりがあるのだ』

これもびっくりでした。むしろ、1939年まで音が統一されていなかった、ということに驚きました。1939年以前の音については、色んなところで当時音楽家が使っていたメトロノームが見つかっているために、今の音とは違うということがわかっているそうです。であれば、モーツァルトが「聞いていた」通りに演奏するべきだろうと思うんだけど、そうなると楽譜を書き換えないといけなくて大変なんでしょうね。

歴史の話で言えばもう一つ面白いと思った話があります。
現在音楽には「長調」と「短調」という音階方式がありますが、紀元前から続く音楽の歴史の中では、様々な音階方式が生まれては消えていったそうです。そこからどんな風にして「長調」と「短調」の二つに収斂していったのか。

『西ローマ帝国皇帝のカール大帝は、教会旋法を広く普及させようとして、これらを使わないと死罪に処すと聖職者たちを脅かした。そうして教会旋法はあまねく行き渡った。
教会旋法は数百年にわたり広く用いられたが、そのなかでも流行り廃りはあった。最終的に、十八世紀に入るころには、もとの七つの旋法のうち二つしか使われなくなっており、この二つが長調と短調として広まっていった』

やっぱりキリスト教の教会ってのはホントに色んなところに出てくるな、と思わされました。しかし、教会旋法を使わなかったら死罪って、メチャクチャだよなぁ。教会、怖っ。

科学の話で言えば、こちらも興味深い話はいくつかあります。ただ、一部を抜き出して説明するのがなかなか難しいですね。

たとえば、ギターの弦をはじく場合。ギターを弾いた経験のある人はもちろんわかっているでしょうけど、弦の中央をはじいた場合と弦の端の方をはじいた場合では音が違う。実は、どちらの場合でも、音の基本周波数は同じなのだ。しかしそれでも、音は変わる。その理由を非常にわかりやすく説明してくれている。

また、実際にはスピーカーから出ていない音を人間の耳に聞こえさせる方法も非常に面白い。例えば、90Hz以下の周波数にはあまり強くないスピーカーがあるとする。このスピーカーから55Hzの周波数の音を出したい。普通に考えればはっきりした音は出ないのだけど、方法がある。実は、55Hzの倍音の周波数、つまり110Hz・165Hz・220Hz・275Hzをスピーカーに送り込めば、55Hzがはっきりと聞こえてくる。実際にスピーカーには55Hzの周波数の音は送り込まれていないのに、である。

また、現在の西洋の音階方式の基本である「等分平均律」の話もなかなか面白い。
我々が使っている音階というのは、基本的にこういう発想で作られている。
「オクターブを12段階に分割し、その内の7つの音を使う」
僕は正直うまくイメージ出来ていないのだけど、1オクターブをまず12個の音に分割するらしい(何故12なのかは不明。書いてあったのかもしれないけど)。で、その12個の音の中から7個を選んで、それに「ドレミファソラシ」と名前をつければ、僕らが使っている音階になる、というわけだ。

1オクターブというのは、例えば弦の話で言えば、弦の長さが半分になることを意味する。つまり、1mの長さの弦をはじいた時に「ド」の音が出るとすれば、そのちょうど半分である50cmの弦をはじけば1オクターブ上の「ド」の音が出る、ということだ。つまり、1m-50cm=50cmの長さを12に分割することが求められている。その12の音それぞれが他の音と何らかの関係性を持つようにすると、音同士がうまく調和するのだという。

その理想的な形は「純正律」と呼ばれる。しかし純正律は、実は使いにくいのだという。バイオリンやチェロなど「音が固定されていない楽器」のみであれば純正律でもハーモニーを生み出せるらしいのだけど、ピアノやフルートなど「音が固定された楽器」と合わせようとすると、純正律だと不調和な音が生まれてしまうのだという。

そこで妥協の産物として等分平均律が生まれた。これは、先の例で言えば、弦の長さ50cmをそれぞれの音が同じ間隔で配置されるように12に分割するものだ。一見すると簡単そうだが、これがなかなか難しかったのだという。このやり方にたどり着いたのは、ガリレオ・ガリレイの父であるヴィンチェンツォ・ガリレイ(1581年発見)と、中国の学者である朱載◯(◯は土偏に育)(1580年発見)の二人だが、どちらも音楽界からは無視され、1800年代に入るまで普及しなかったという。可哀想やねぇ。

科学の話とはちょっと違うけど、音の大きさを測る「デシベル」の話も面白かった。デシベルという単位について全然詳しくなかったのだけど、これは「絶対的な音の大きさ」を測るものではなくて「相対的な音の大きさ」を測るものだそうです。知らなかった。

デシベルという単位は、例えば「二つの音の差が10デシベルなら、大きい方の音は小さい方の音の2倍大きい」ということらしい。だから、20デシベルは10デシベルの2倍の大きさだし、93デシベルは83デシベルの2倍の大きさだそうだ。変な単位だ。その不便さを解消するために、人間にどう聞こえるかという主観的な音の大きさを基準とする「ホン」という単位があるそうだが、デシベルがあまりにも広く使われているために「ホン」が普及しないのだという。本書の説明を読むと、「ホン」という単位の方がメチャクチャ使いやすいんだけどなぁ。

あと、著者が断言してて面白いと思ったのが、「調は特定の気分を持つ」という音楽家の意見は思い込みだ、というものだ。例えば「イ長調」は「明るく陽気」、「ハ長調」は「中間的で純粋」というような、調による気分を多くの音楽家が感じているのだという。しかし著者曰く、科学的にはそれらに違いはない、ということだそうだ。あくまでも、調の変化が重要なのだという。また、調に気分があると信じる音楽家が、それぞれの調に「合う」と感じる楽曲を多く作るから、余計その思い込みが助長されるのだ、というような説明もしていた。

とまあこんな感じで、音楽を題材に様々な事柄が描かれている作品です。難しかったりややこしかったりする記述がまったくないとは言わないけど、概ね面白く読めるんじゃないかなと思います。

ジョン・パウエル「響きの科学 名曲の秘密から絶対音感まで」

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内容に入ろうと思います。
物語は、広島から家出してきた少年が、大阪にたどり着いたところから始まります。地元の不良中学生グループ・友和会から抜け出した島田太一は、警察から職務質問を受け、スポーツバッグと現金10万円を置いて逃げた。仕方ない、食い逃げでもするか、と思って入ったラーメン屋で、先程の警官に出くわしたのだ。いや、警官ではなかった。ただのおっさんだった。つまり太一は、騙されて10万円を奪われた、ということだ。金とバッグは返す、というおっさんを見返してやりたいと思って、食い逃げするためにとある仕込みをしたのだが、そのせいで店主らからボコボコにされてしまった。結局、おっさんに連れて行かれることになった。
おっさんは、アンポという名前らしい。状況はイマイチよくわからないが、どうやら太一の怪我を利用して、ラーメン屋から金をふんだくる算段をしているらしい。要するに、詐欺師の集団だ。太一は、成り行きから彼らの詐欺に関わることになり、その後も、大掛かりな仕掛けを用意する彼らの騙しの現場に加わることにした。政治家に似た男を利用して大金をふんだくる詐欺、ホテルに幽霊が出るという噂を流して金を取ろうとする詐欺、そしてついにはヤクザまで…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。詐欺、という犯罪を扱う作品なんですけど、全体的に凄くユーモラスに話が展開していきます。こういう物語の場合、詐欺という犯罪を正当化するために、詐欺を働く相手は悪人、つまり「清水の次郎長」みたいな感じの設定になることも多いと思うんだけど、本書では別にそんなこともなく、ただ金になりそうな案件を見つけたら、みんなで楽しそうに計画を練るわけです。なんだか、学園祭の準備でもしているような雰囲気で、みんな楽しそうです。

個人的にちょっと思うのは、何故アンポが詐欺をしているのか、という部分がイマイチよく分からなかったということです。いや、恐らく、著者的にはちゃんと理由を書いているつもりなんだと思うんです。本書では、アンポが「共産党宣言」という本を教材に、周辺住民に共産主義について勉強会をしているシーンが描かれます。そして、アンポの発言として、「金持ちから金を奪って分配するんだ」みたいなのもありました。恐らくアンポは、共産主義的な世界を実現する手段として詐欺という手法を選んでいるんだ、というような描き方なんだろうな、と思います。

ただ、そう描くには、さっきもちょっと書きましたけど、詐欺を働くターゲットの選別が甘いと思うんです。もし、富める者から貧しいものへの分配、というのが詐欺のテーマであるなら、あくどいことをして儲けている金持ちのみをターゲットにした方がいいと思うんですよね。その方が、その詐欺のテーマがはっきりと描き出せると思うんです。でも本書は、そういう感じではない。あくまでも、詐欺で金がふんだくれそうなターゲットが現れたら即座に反応する、というような感じでターゲットが決まっている、という印象を受けました。そこが弱いなぁ、と。そして、もし分配が詐欺のテーマでないとするならば、アンポが詐欺に注力する理由は明確には描かれていない、ということになります。個人的には、物語をうまくまとめるにはその辺りの描写が欲しかったかな、という感じはしました。

詐欺の中身は、なかなか面白いです。もちろん、実際にこんなにポンポンうまく行くのか、という疑問はあるだろうけど、どの詐欺も一手二手先まで周到に考えられています。しかも、「金をふんだくる」みたいな感じではなくて(最初のラーメン屋に対する詐欺は、ちょっとそういうテイストですけど)、あくまでも金を相手が自発的に出すように仕向ける、というようなやり方で仕掛けを進めていきます。特に、政治家に似た男を登場させる仕掛けでは、鮮やかだったなぁ、という感じがします。まさに、自発的に金を出させる、というのが上手くはまっているな、と。

詐欺は犯罪だけど、彼らと一緒なら、ちょっと面白そうだし、混ざって一緒にやりたいな、と思わされてしまう作品でした。

那須正幹「さぎ師たちの空」

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『カネには興味はない。金(ゴールド)に執着してた』

これは、分かるなぁ、と思った。

お金にまったく興味がないと言えば、それは嘘になるけど、人並み以下の興味しかないと自分では思っている。とりあえず僕は、衣食住にさほど興味がなく、日常的な生活にさほどお金が掛からない。お金の掛かる娯楽にも手を出していない。結婚もしていない。僕としては、お金がないせいで今の生活が維持できない、というような状況にさえならなければ、それ以上お金に関して特別望むことはない。

それよりも、お金では手に入らないものの方にやはり価値を感じる。

そんなもの、今の世の中にあるのか?と思う人もいるかもしれない。でも、僕はそれをイメージ出来る。

例えば「冒険」だ。確かに冒険をするためには、ある程度のお金がいることは確かだ。しかし、お金があれば冒険になるわけではない。このさきにはもう進めないかもしれないという判断や自然の変化を読み解く力、困難な状況を乗り越える勇気などがなければ、冒険にはならない。冒険は、お金で買えないものだと思う。

僕は、人間の能力も、お金では買えないと思っている。もちろん、大金を費やすことで能力を得やすい環境を手に入れることは出来るかもしれない。でも、僕が欲しい能力は、たぶんお金ではどうにもならない。僕は生まれ変わったら数学者か将棋指しになりたいと思っている。数学史上に残る難問を解く力や、大逆転をもたらす一手を導く力などは、どれだけ億万長者になろうとも手に入れることは出来ないだろう。

どれだけ資本主義が発達しようとも、お金では絶対に手に入れることが出来ないものというのは存在する。お金で手に入る、ということは、裏を返せば、頑張れば手に入る、という意味だ。しかし、お金で手に入れることが出来ないものというのは、無理な人にはどう頑張っても手に入れることが出来ないものだ。どちらにより大きな価値があるのかは明白だろう。

お金というのは結局、既に誰かが知っている世界を手に入れるための手段でしかない。お金で交換できる価値というのは、つまりはそういうことだ。交換レートが設定され、交換する場が既に存在している、ということだ。お金というのは結局、そういうものとの交換の役にしか立たないのだ。誰も知らない価値を手に入れようとしたら、お金は無力だ。

まあこんなことを言うと、貧乏人の負け惜しみにしか思われないんだろうけどなぁ。

内容に入ろうと思います。
ケニーは、祖父が興し、父が大きくしたワショー社を受け継いだ。鉱山を見つけ発掘するのを生業とする会社だ。しかしワショー社は廃業寸前まで追い込まれる。株価は4セントまで下がり、ケニーが語る儲け話に乗る人間はほとんどいない。ケニーは完全に追い詰められていた。
ケニーが思い出したのは、マイク・アコスタという男の名前だ。マイクはかつて、自ら打ち立てた理論によって銅山を発見した。彼女にプレゼントした金の腕時計を質屋に入れて旅費を作ると、ケニーはマイクに会いに飛んだ。
業界では彼の理論はほら話だと受け取られている、と語るマイクの話を聞きもせず、ケニーは自らの熱量をマイクにぶつける。掘りたい場所があるなら掘れ。金は俺が用意する。
こうして、インドネシアでの金鉱発掘のプロジェクトが立ち上がるのだが…。
というような話です。

「170億円(億ドルだったかな?)が一瞬で消えた」みたいなコピーがポスターにあって、面白そうだなと思って見てみました。あ、実話を基にした話だそうです。でも、なかなか予想外の展開になって、すげぇなこれが実話なのか、という感じで見ていました。

たぶんストーリーの展開が映画の肝なので、あまり詳しく書きすぎないようにしようと思うのだけど、とにかくアップダウンを繰り返す、なかなかの波乱万丈記という感じです。ケニーはどん底まで追い詰められるも、マイクを仲間に引き入れ一発当てようと目論みます。『俺達が売るのは儲け話、つまりあんただ』とマイクに言うように、かつて銅山を当てたマイクに対する期待の高さから金を集めるケニーは、心底からマイクの力を信じてすべてを託します。

しかし、発掘はなかなかうまく行かない。理由の一つは金が尽きかけているからですが、もう一つ、現地労働者が去ってしまう、というトラブルもありました。この状況をどう脱するか―そこでマイクが取った行動は、なかなか良かったなと思います。必要なものを必要な場所に届ける、ということの大事さを感じさせられたエピソードでした。

その後の狂乱は、ここでは書かないでおくことにしましょう。ケニーは、非常に分かりやすい成功を収めるけど…というような展開になっていきます。なかなか壮大な話で、もう一度書くけど、これが実話なんだなぁ、という感じで見ていました。

あまり深さはないけど、エンタメ作品としてはなかなか面白い映画だったかなと思います。

「GOLD」を観に行ってきました

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そこまでつまらなかった、というわけではないのだけど、結果的に途中で寝てしまった。だから、映画全体をちゃんと見れていない。

この映画は、イランの有名(らしい)なパナヒという映画監督による作品です。「作品です」と書いたのは、これがフィクションなのかドキュメンタリーなのか、僕にはイマイチ判断できなかったからです。

まずは全体の設定を書いておきましょう。
パナヒ自身がイランで、タクシードライバーをしている。町中で色んな人を乗せ、下ろす。その様子を、車内に取り付けた何台かのカメラで切り取っていく。という映画です。

なんでそんなやり方で映画を撮ろうとしたのか。それは、パナヒがイラン当局から映画撮影を禁じられているから、だそうです。どうして禁じられたのかは、映画を見ている分には分かりませんでしたが、作中に登場するパナヒの姪が、「イランで上映可能な映画の条件」について語っている場面がありました。「女性はスカーフを巻いている」「男女が交わらない」などなど色んなルールがあり、恐らくパナヒはそのいずれかに抵触したのでしょう。

これだけであれば、なるほどルールの網をかいくぐって面白いやり方でドキュメンタリーを撮ったのだろう、と思うでしょう。しかし作品を観ていると、単純にそうとも思えないのです。

というのも、作品の中で色んなことが起こりすぎるからです。

基本的にこの作品は、とある一日の情景として切り取られます。まず最初に、ちょっと強面の男性とスカーフを巻いた女性を乗せ、二人が「軽い罪で死刑にしたがる現状」について議論します。そこから色んな人を乗せながら話が展開していくんですけど、ホントにこれ実際に起こった話なのかな、と思ってしまうような展開もあります。

その最たるものが、交通事故にあった男性を病院まで搬送する場面です。まあもちろん、そういうこともあり得るでしょうけど、パナヒという映画監督が運転しているタクシーにたまたまそんなことが起こるもんだろうか、と思ってしまいました。

その後やってきた、金魚を抱えた二人組の女性もおかしかったし、そんなことを言ったら冒頭に出てきた強面の男性もちょっと変です。これが、何日かに渡って起こった出来事を編集で繋いだ映像なら、全然理解できるんです。でもこの作品は明らかに、一日に起こった出来事として記録されています。だから、「人生タクシー」の中で起こる出来事にはすべて脚本があって、つまりフィクションである、という考え方も出来るだろうな、と思います。

この映画について何か調べたりはしていないので、実際のところどうなのか分からないのだけど、フィクションであるにせよドキュメンタリーであるにせよ、試みとしてはとても面白いと思いました。

作品の中で、学校で短編映画を撮らないといけない、と語る男が出てきます。有名な古典映画はほぼ観たし、今は映画や本を読んで題材を探しているのだけどなかなか見つからない、という話をパナヒにします。それに対して彼はこう答えます。

『映画はすでに撮られ、本はすでに書かれている。他を探した方がいい』

これは、短いながらも実に的確で示唆に富むアドバイスだな、と思いました。確かにその通りだなと思いました。またこれは、映画撮影をまさに今禁じられている自分自身の体験から来るものだろう、という感じもしました。「映画を撮る」という枠組みを外れたところでしか映画を作れない身として何が出来るのか―その思考の果てに、タクシードライバーになる、という形を思いついたのではないか、と思うので、彼自身の実感のこもった言葉として聞くことが出来ました。

さて最後に。この映画の冒頭(という表現は正しくないですが)にはちょっとびっくりしました。突然、日本人による映像が流れ始めたんです。正直、何が始まったのか、さっぱり理解できませんでした。

最初は、とある映像編集会社にカメラを持った映画監督(最後に、森達也だと分かります)が入っていきます。カメラを持った映画監督は、どうも映画撮影を禁じられているそう。そこで彼は、「映画を撮る」のではなく「映像を編集する」という抜け道を探ります。つまり、過去に撮った映像を編集するのであれば、「映画を撮る」からは外れられるのではないか―「映画」と「映像」の論争をするような、ショートフィルムという感じでした。

そしてその後、また監督は代わります(名前は忘れました)。彼は、「もし自分が映画の撮影を禁じられたとして、それでも撮りたいと思うものは何か?」と考え、「息子しか思いつかなかった」と語ります。そして、生後1年ほどの息子を撮影した映像がしばらく続いていきます。

そしてその後に「人生タクシー」が始まる、という構成だったんですけど、イマイチ冒頭の二つの短い作品の存在意義が理解できなかったなぁ、と思いました。

「人生タクシー」を観に行ってきました

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向こう側に行けてしまう人間に、憧れることがある。
程度は、あまり問わない。しかも、主観的だ。あくまでも、「僕が壁を感じていること」を「容易く乗り越えているように見える人」のことを指している。

時々、そういう人間と出会うことがある。勉強でも芸術でも遊びでも人間関係でも仕事でも何でもいい。普通越えられないように感じられるハードルを、難なく乗り越えてしまう。

そういう時、自分の小ささを感じさせられる。

僕自身は、理性で自分を抑えつけてしまうことが多い。常に、自分を含めた物事を客観的に見てしまう癖がある。自分ではない自分が、いつでも自分を監視しているようなイメージだ。そして、そのもう一人の自分が見ていて「恥ずかしい」と感じてしまうようなことが、なかなか出来ない。

『圧倒的な才能というのは、他者すべてをいち観客にしてしまう。そこには嫉妬も何もない』

そういうものが欲しかった、と思う。僕は、生まれ変わったら数学者か将棋指しになりたいと思っている。しかも、圧倒的な才能を持つ数学者か将棋指しだ。誰も捉えたことのないような数学世界を数式で構築したり、誰も見たことがないような神の一手を指したりしたい―切実にそう感じてしまうことは、やはり時々ある。

ただやはり、「欲しかった」というような態度では、そもそもダメなのだろう。

『天才という言葉は、天才と呼ばれる人々に対する最大の侮辱なのです』

そう、そのことは、頭では理解できる。

天才と呼ばれる人たちは、それこそ圧倒的な努力をしているのだ。何も努力せず、天賦の才のみで圧倒的な成果を出し続けられる人はいないだろう。確かアインシュタインだったと思うが、「才能とは、努力できる天才のことである」というようなことを言ったという。確かにそうなのだ。「才能」という贈り物が外部から挿入されるのではない。努力し続けるその動きの過程そのものが「才能」と呼ばれる、ということなのだ。

『カメラには、努力だけでは行けない領域がある』

もちろん、これも一面の事実ではある。努力だけではどうにもならない。自分の内側に何かの可能性を見出すこと、そしてその可能性を大きく広げるだけの努力をし続けられること、その可能性が生み出す成果を形にし世に問い続けられること―。そうしたすべてが才能であり、才能を生むための努力なのだ。

『確かに僕は、才条三紀彦の放つ光の強さに引かれた人間のひとりである。その為に高校時代のほぼすべてをやつに侵食され、やつの使い走りとなり、やつの映画の手伝いをひたすらさせられた。それについて恨むことはない。楽しかったし、出来上がった作品も素晴らしいものであった。むしろその充実した日々には感謝したいほどである。
だが、やつは東京へと消えた。凡人たる僕に正体不明の熱を宿し、僕の人生に軌道を曲げたあげく、唐突にこの世からも消え失せてしまった。』

才能がいつ開花するか、それは分からない。だから、自分の内側に才能はないと諦めてしまうのは、いつであっても早い。早いがしかし、自分の内側の才能が見つからない以上、どう生きるかを考えなければならない。どんな生き方もあり得る。しかし、圧倒的な才能を持つ者の側で、その煌めくような光を浴び続けながら生きる―というのも、生き方としては悪いものではないのだろう。

そんな風に思わせてくれる小説だ。

内容に入ろうと思います。
十倉和成は、武蔵野にある中堅の私立大学である星香大学に通う一年生だ。熊本で二浪してまでもこの大学に入りたい切実な理由があった―ということだけを同宿である亜門次介に話してしまっていたようで、その理由を問い詰められる機会は何度もあったが、十倉はその理由を話さなかった。しかし、その切実さは実は、十倉が入学する時点で失われてしまっていたのだ。それ故十倉は、自分が思い詰めて必死の受験勉強の末に入学した大学であるというのに、日々凡庸とした日々を送っている。
彼が住んでいる友楼館は、かつて大学のあるサークルの部室であった。その名も、キネマ研究部。映画の撮影に情熱を燃やす者たちによる、ある意味吹き溜まりのようなサークルだ。
古い建物であり、建物中の音が伝わってしまうこの部屋にあって、十倉は最近大きな問題を抱えている。部屋の中のモノが無くなるのだ。「温子」と名付けた次姉が編んでくれたマフラーや、「武蔵」と名付けた100円ショップで買ったハサミが消え、ついには「どん兵衛」が盗まれた。「誰かいるのか―」誰もいるはずがないと思ってした誰何に、なんと押入れの真上の天袋のスペースから声が返ってきた。
黒坂さちと名乗った高校生のその少女は、なんと5年もその天袋に住んでいるのだという。今までよく気づかれなかったものだ。体調を崩し、「温子」と「武蔵」と「どん兵衛」を盗んだことを彼女は認めたが、十倉としてはもはやそんなことはどうでも良かった。このおかっぱの黒髪の美少女に魅せられていたのだ。
それからしばらく、十倉とさちの奇妙な共同生活は続くこととなった。さちの生活を心配した十倉が、高校生にも出来るアルバイトを探す―そんなきっかけから、二人の運命は流転していくことになる。
同じく友楼館に住んでいる久世一麿が、自分が撮る映画の主演をしてくれないかとさちにバイトを持ちかけた。そして一方で、十倉は、自分がこの星香大学に来た本当の理由を直視するようになっていく。
十倉が大学に入学する前、構内の建物から落下して命を落とした、高校時代十倉を映画撮影のために振り回し続けた才条三紀彦が最後に撮っていた映画のフィルムを見たことで、止まっていた十倉の時間が動き始めた…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。ザ・青春小説、という感じの作品で、言い回しやキャラクターの感じが森見登美彦を彷彿とさせる、と言えば、大体どんな作品かイメージはつくでしょう。映像にしたら面白そうな感じの作品です。

外枠は、よくある青春小説みたいな感じですが、中身はなかなか骨太です。本書で描かれているのは、「芸術に人生を捧げることについて」と言ってもいいと思います。学生の分際で人生を捧げるなどとは大げさ、という感じもするでしょうが、確かに彼らは、「映画を撮る」ということに人生を捧げている、あるいは捧げようとしているなと思います。

芸術というのは全般的に、向こう側に行ってしまった人間が、こちら側の表現方法で向こう側を描き出す、そんな側面があるような気がします。だから、本当に歴史に残り、人々の琴線に触れるような作品を生み出すためには、向こう側に行くしかないのだと思います。しかしそれは、努力だけではどうにもならない。努力なしではたどり着けないだろうが、ただ努力するだけでは無理なのだ。たどり着ける者とたどり着けない者がいる。

作中で才条三紀彦は、たどり着けた者として描かれます。彼の遺作となった、未完の映画「少女キネマ」は、観る者を皆震えさせるような衝撃を伴うような映画だったわけです。

だからこそ、多くの者は、特に十倉は「何故?」と思う。才条の死は自殺か事故なのか判然としなかったが、とにかく、何故これほどの映画を撮りながら死んでしまったのか、と誰もが思うのだ。

物語の大きな軸は、才条の死と「少女キネマ」という未完の映画に関わるものだ。まさにここでは、芸術とは何か、芸術に身を捧げるとはどういうことか、というようなことが、決して小難しくなく、エンタメの皮をうまく被りながら描かれていく。

そしてもう一つの軸は、黒坂さちだろう。天袋に住み続けているという謎の少女だ。十倉は彼女に惚れ込んでいるが、父の「女は魔性だ」という言葉が刻まれているが故に、思い切った行動が取れない。とはいえ、心温まるようなささやかなやり取りは日常の中であり、その積み重ねの中で十倉の想いはふつふつと膨れ上がっていく。

さちとの邂逅と、才条が遺した「少女キネマ」が、十倉の人生を大きく動かしていくことになる。それまで十倉の人生は、ほぼ止まったままだったと言っていいだろう。本書のラスト付近まで読み進めれば、よりそう実感出来ることだろう。止まったままの人生を、彼は周りにいる個性的な面々と関わることで過ごしていく。その生き方も、決して悪くはない。しかし十倉は、才条という男の存在を知ってしまっている。普通であれば覗き見ることが出来ない世界の入り口に立った男のことを知ってしまっている。やはり、その魅力に抗うことは難しい。

この物語は、十倉が重い重い腰を上げるまでを描く物語だ。映画が嫌いだ、と公言していた十倉が、その発言を撤回するかのような行動を取るまでに、どんな葛藤があり、どんな後押しがあったのか。その過程で様々なことが描かれるが、僕が好きなのはベスパというバイクの話だ。壊れたベスパをただひたすら修理する、というだけの無為な時間を小説で描き続けるのだけど、それが十倉の人生にとってはなかなか重要な転機となる。重要なモチーフや出来事を、そうとは感じさせないように登場させながら、ただの日常として描いていく、みたいなテイストは結構いいなと思う。

若さが全開にほとばしる、疾走する青春小説、と言った感じの作品です。

一肇「少女キネマ 或は暴想王と屋根裏姫の物語」

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本書を一言で説明しろ、と言われたら、たぶん僕は断るだろう。それは不可能だからだ。しかし、どうしてもと言われれば「脳科学の本だ」と答えるかもしれない。もう少し踏み込んで、「無意識についての本だ」と答える場合もあるだろう。

しかし、そういう説明では、本書の大半はこぼれ落ちてしまう。

別の説明をしてみよう。本書は、一つの大きな物語である。本の分類としては、間違いなく「理系ノンフィクション」というような括りになるだろう。書店でも、そういう売り場に置かれるに違いない。しかし本書は、間違いなく物語でもあるのだ。

まずはその辺りのことから書いていこう。

『だが、この本で語られる成功や幸福は、もっと深いものだ。問題とされるのは、心の奥底の部分である。無意識の感情や直感、偏見、自分でも気づいていない願望、その人の心が生まれつき持つ癖、社会からの影響など。これらはみな、私たちが日頃、「性格」と呼んでいるものに大きく関係している。そして、深い意味で人生に成功するためには、その性格がとても大事なのである。他人とうまく関わっていける性格かどうか、それが鍵となる』

ある意味で本書は、「人生の成功法則」が書かれている本であるとも言える。しかし、「人生の成功法則」と聞いて一般的にイメージするような本ではない。本書には、具体的にこうした方がいいというような提言はあまりない。あるにはあるが、それが作品のメインにはならない。また、テーマが容易にはコントロールできない「無意識」に関係する以上、分かりやすい行動を提示できない。

『心の中で、私たちが自分で意識している部分は実はほんのわずかしかなく、大部分は意識の下にある。そして、思考や意思決定の多くも、この意識下の心でなされている。幸福な人生を送れるかどうかも、多くは意識下の心のはたらきで決まるのである』

このことを、僕は他の本を読んで知っていた。「あなたの知らない脳 意識は傍観者である」という本だ。非常に刺激的で、人間に対する認識を大きく変容させる本なので、是非読んでみて欲しい。

僕たちは普段、様々なことを「自分」、つまり「意識」によって決めていると思って生きているはずだ。夕食に何を食べるのか、誰と旅行に行くか、結婚式場をどこにするか、何色の靴下を履くか…などなど、日常は決断の連続だ。そして僕たちは、自分の「意識」によってそれらの決定をしていると思って生きている。

しかし、脳科学の研究が進めば進むほど、実はそうではないのだということが明らかになってきた。

『意識は、無意識のした仕事の結果を私たちに伝えるために物語を作り上げるという、それだけが意識の仕事だというのだ』

実際に、ほとんどの決定は「無意識」によってなされている。これは、ここ最近の脳科学の研究によってかなり明確に明らかになってきた事実だ。僕たちが「意識」によって決定を下していると思っている様々な事柄は、実は僕たちの「意識」に上るずっと以前に「無意識」によって決められてしまっている。「意識」は、「無意識」の決定を「僕たち」に伝えるための役割を担っているに過ぎない、というのだ。

『ただ、長年、勉強を続ける間、私は何度も繰り返し同じことを思っていた。それは、脳や心の研究者たちが人間というものについて驚くべき洞察をしているにもかかわらず、彼らの研究結果は世の中一般に有意な影響を与えていない、ということだ』

本書を執筆した著者の問題意識は、まずここにあった。それぐらい、脳に関する最近の知見は驚くべきものであり、そしてそれらが驚くほど僕らに伝わっていないのだ。

『これまで、無意識は不当に低い地位に置かれてきたと思う。その状況を変えたいという気持ちもある。人類の歴史の中で、多くの人が知っているのは「意識の歴史」である。意識だけが自らの歴史を文章に残すことができたからだ。内側の無意識の世界で何が起きていたのか、それはまったく知らないまま、意識は自らを主役であると信じて疑わなかった。実際にはまったくそうではないのに、あらゆることは意識の力で制御できるはずと思い込んでいたのだ。自らが理解できることだけを重視し、それ以外は無視する、それが意識の世界観だった』

「無意識」の役割について知るようになれば、「意識の歴史」がいかに薄いものであるのかが理解できるようになるだろう。僕たちは、自由意志(これをどう定義するかは難しいが)によって生きてきたはずなのに、実は「無意識」という操り糸によって動かされるだけの存在だったというのだ。僕は、先に挙げた「あなたの知らない脳 意識は傍観者である」という本を読んでその事実をあらかじめ知っていたので驚きは少なかったが、それを初めて知った時には本当に驚かされたものだ。

『私がこの本を書いた最大の目的は、読者に無意識の役割を知ってもらうことである。人間が幸福になる上で、無意識がいかに重要な役割を果たすか、それを知ってもらいたいのだ。私たちの日々の行動は、無意識の世界で生じる愛情や嫌悪などの感情によってかなりの部分が決められてしまう。つまり、この無意識の感情の扱い方によって、私たちが幸福になるかどうかがほぼ決まってしまうと言ってもいいのだ』

ここまで言われてしまったら気にならない人はいないだろう。そして本書を読めば、「無意識」というものがどれだけ人生に大きく影響を与えるのか、実感することが出来るだろう。

そして、そういう実感を与えられるように、本書は物語の形式で提示されるのだ。

『私は、この本をあえて物語という形で書いた。それは、無意識の世界があまりに多面的なためだ。無意識については、様々な分野の多数の研究者が調べている。分野が違うので、それぞれが、無意識という暗い洞窟の違った場所に光を当てている。どうしても理解が断片的なものになりがちだ。しかも、その成果の多くは、学問の世界の外にいる一般の世界の人には知らされない。私は、そうしたばらばらの研究成果を何とか統合し、一般の人にもわかりやすくしたいと思った。そのための手段として物語が有効だったのだ』

本書には、ハロルドとエリカという男女が登場する。彼らは生まれ、子ども時代を過ごし、大人になり、出会い、結婚し、成功し、引退し、死を迎える。両親がどんな人物であったのか、生まれた土地柄はどうだったのか、学校で出会った友人はどうだったか、どんなコミュニティに属していてそこでどんな振る舞いをしていたのか…。本書では、そうした様々な細々した事柄を描き出す。そしてその過程で、彼らの人生を題材としながら、最新の研究結果を挟み込んでいくのだ。

『危険な試みであることは言うまでもない。脳や心についての研究はまだ初期段階にあり、その成果には異論も多い。しかも、私は研究者ではなくジャーナリストである。(中略)
それでも、私はこれを十分に取り組む価値のある仕事だと考えている。神経科学者や心理学者たちの過去三〇年間の洞察は本当に重要だからだ。政治や社会、経済、そして私たち一人一人の人生を大きく変える力を持っていると言えるだろう。私は、それをできる限り科学的妥当性を損なわないように気をつけて書いた。同時に、多少異論のあること(まったくないことは珍しいが)に関しても、思い切って、ある程度断定的に書いている』

著者は、自身の限界をきちんと理解している。研究者ではないが故に、踏み込んだ記述をしない。しかしその代わりに、ジャーナリストであり研究者ではないというある種の開き直り(と書くと語弊があるかもしれないが)によって、研究者であれば断定できないようなことを断定的にも書いている。もちろん、こういう書き方には賛否両論あるだろう。とはいえ、物語という形式を採用した時点で、一般的な理系ノンフィクションの枠組みを外れている。かっちりとした研究成果を読みたければ、個別に追うことは出来る。しかし本書は、人間の一生に影響を与える様々な事柄について一冊の本で描ききるために可能な選択をした、と捉えるべきだろう。そういう意味で、面白い試みだと思ったし、有意義な本ではないかと感じた。

本書の内容について、これ以上書くことは難しい。ハロルドとエリカの人生は、誕生から旅立ちまで、かなり細かく描かれていく。その合間合間に、最新の知見が挟み込まれる。どこかを切り出して提示する、ということがなかなか難しい本である。

しかし一つだけ書きたいことがある。「無意識」の凄さを実感してもらえるだろう話だ。

「盲視」と呼ばれる現象があるという。

『無意識の知覚の中でも特に驚くべきなのは、おそらく「盲視」という現象だろう。(多くは脳卒中が原因で)脳の視覚野を損傷した人は、意識の上ではまったく目が見えなくなる。(中略 そういう人に対する実験の詳細が描かれる) 色々な図形が描かれたカードを次々に見せ、どの図形かを当ててもらうという実験もその一つだ。見えていないはずなのに、かなり高い確率で図形を当てることができる。意識の視覚は失われたが、どうやら無意識がその後を引き継いでいるらしいのだ』

本書には、こういう様々な研究結果が、ハロルドとエリカの人生に並走するようにして描かれていくのだ。

本書は僕たちに、人生において何を重視すべきなのかを教えてくれる。具体的にどうすればいいのか、という研究こそまだ追いついてはいないのだが、結局僕たちが幸福になるためには「無意識」を良い方向に育てていくしかない、という結論になる。そう考えることで、日常的な様々な行動が変わっていくのではないかと思う。

デイヴィッド・ブルックス「あなたの人生の科学」

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言語というのは不思議だ、と思う。

物事にはたぶん、大体「始まりの瞬間」というのがあるはずだ。宇宙の誕生で考えれば、それは「ビッグバン」ということになっている。少なくとも今のところは。ビッグバンが「始まりの瞬間」であるが故に、それ以前がどうだったのかについて、考える余地はあるが、調べる手段は(たぶん)ない。そんな風にあらゆる物事は、何らかの「始まりの瞬間」からスタートしているはずだ、と僕は思っている。

では、言語の場合はどうなのか?ごくありきたりの考え方をすれば、こうなる。ある時突然、言語を獲得した存在が現れたのだ、と。それが「始まりの瞬間」のはずだ。

しかし、ちょっと考えてみれば、この発想はおかしいということが分かる。何故なら、僕はこう考えているからだ。言語というのは最初は、コミュニケーションのために生まれたものだ、と。

僕は、この考え方が当然だ、と思っていた。言語の「始まりの瞬間」には、それほど高度な単語や言語体系はないだろう。僕らは普段言語を、コミュニケーションだけではなく思考に対しても用いるが、「始まりの瞬間」においては言語は思考に使えるほど高度なものではなかっただろう、と思うのだ。だからこそ、コミュニケーションのために生まれたのだ、と思っている。

しかしだとすると、言語を獲得した存在が「偶然」にも同時に二つ以上生まれた、と考えざるを得なくなる。そんなことが、あり得るだろうか?地球上には人間(現生人類)以外に言語を獲得した種はいない、とされている(僕は、これに対しても「本当だろうか?」と考えているが、とりあえずそれは置いておこう)。生命が誕生してから恐ろしく長い時間が経っているにも関わらず、言語を獲得した種は人間だけ。それほど低い事象であるのに、「始まりの瞬間」に言語を獲得した存在が二つ以上生まれたなどと、考えられるだろうか?

ここまで具体的に言語化していたわけではないが、人間が言語を獲得したこと、について僕が考える時、すぐさまこういう行き詰まりにたどり着いてしまう。僕には、コミュニケーションの手段として言語が生まれた、という発想しか出来なかったので、これ以上の考察はなかなかしようがない。

本書を読んで驚いた。本書は、現生人類がいかにして言語を獲得したのかについての(恐らく著者オリジナルだろう)仮説をベースに物語が展開していく。それがどんな仮説なのかは、物語の後半で明かされる、この物語の肝となる部分なのでここでは触れない。とにかくその仮説は、「あり得る」という感覚を抱かせるに十分な説得力を持っている(本物の研究者が読んだらどう感じるのか分からないが)。

本書の登場人物の一人もそうだが、「人工知能にいかに言語を獲得させるか」という研究はずっと行われている。「機械が意識を持つ」ということは、ほとんど「機械が言語を獲得する」というのと同じであり、人工知能をさらなる高みに押し上げるには、いかに意識・言語を獲得するか、という研究に進んでいくのは当然だ。

本書で提示される仮説が仮に正しいとして、じゃあ人工知能に言語が獲得できるようになるのか、と聞かれたら、分からないと答えるしかない。本書で提示される仮説は、自己言及のようなある種の無限ループの果てに言語が生まれた、とするものだ。恐らく機械にも、その無限ループを実現することは出来るだろう。しかし、人類の祖先がその無限ループの果てに変化させたのは塩基配列だ。人工知能の場合、無限ループの果てに変化させられる可能性があるものはプログラムしかないはずで、しかし本書の仮説が要求する変化は、無限ループによる自己言及を経ずとも、人間の手でプログラム出来るものなのではないか、という気もする。しかしそうだとすれば、無限ループを経て言語を獲得した、という仮説が成り立たなくなるわけで、どうなるのだろうか?

そういう疑問はともかく、本書の仮説がもう一つ魅力的なのは、人類の進化に関するもう一つの謎も解決している、という点だ。
それは、何故地球上に存在する「ヒト」は、「現生人類」のみなのか、という謎だ。例えば犬であれば、土佐犬もいればゴールデンレトリバーもいる。犬は人間による交配によってその種を増やしているという事情もあるから特殊かもしれないが、しかしゾウにしろペンギンにしろ、それぞれの種には複数の属が存在する(学術的に用語の使い方を間違っているかもしれないけど、意味は通じるでしょう)。
しかし「ヒト」の場合は「現生人類(ホモ・サピエンス)」しかいない。

我々は我々自身のことを「ホモ・サピエンス」と呼んでいる。ラテン語で「ホモ」というのは「ヒト」という意味だ。何故僕らは僕ら自身のことを、ただ「ヒト」とだけ呼称しないのか。

それは、「ホモ・サピエンス」以外にも「ヒト」がいた証拠があるからだ。「ホモ・エレクトゥス」や「ホモ・ルドルフエンシス」など、我々と非常に似た者たちがいた。しかし、今はもう存在しない。「ヒト」という種には「ホモ・サピエンス」しか残っていないのだ。

何故か。この理由は未だに明らかになっていない。そして本書の仮説は、この謎にも明快に解を与えるのだ。

つまりこういうことだ。「現生人類」以外の「ヒト」は、言語を獲得するための過程において姿を消さざるを得ず、「現生人類」のみがその過程を生き延び言語を獲得したのだ。

非常に刺激的な仮説だ。しかし、恐らくこの仮説が仮に正しかったとしても、実験によって証明することはかなり困難だろう。物理学には「ひも理論」と呼ばれる、理論だけなら非常に美しく精緻な理論が存在する。しかしこの「ひも理論」、物質に関してあまりにも微小な前提を設けているが故に、現在の、そして恐らく未来の技術でも「ひも理論」が要求するレベルの微小さを観察出来ず、仮に「ひも理論」が正しいとしても現実の世界でその正しさを実証する実験を行うことは不可能だろう、とされている。本書で提示される仮説も、似たような宿命を持っているのかもしれない。仮に正しいとしても、現実の世界での検証は不可能。

そう思えばこそ、この物語で提示される「フィクション」が、現実世界では絶対に行うことの出来ない実験の「シミュレーション」のように思えて、ただの「物語」ではない感じを抱かせるのだ。

内容に入ろうと思います。
2026年10月26日。後に「京都暴動」と呼ばれるようになる信じがたい事象が発生した。突如人々が凶暴化し、近くにいる人間と命尽きるまで素手で殴り合うのだ。しばらくすると彼らは正気を取り戻すが、正気を取り戻す前に命を落とす者が大半だ。しかも仮に生き残っていたとしても、自身が暴徒化していた時の記憶は失われており、何が起こっているのかを証言できる者は皆無。「京都暴動」は京都のあちこちで散発的に発生しながら、京都以外の場所でも惨劇を引き起こすことになった。動画サイトで共有された映像により、「AZ(Almost Zombie ほとんどゾンビ)」と呼称されたり、病原菌や化学物質の蔓延によるものではないかという噂が世界中を駆け巡ることになる。しかし、最終的にその原因が人々の公表されることはなかった。
京都大学で研究を続けていた鈴木望は、ある日を境に人生が大きく変わった。今では、京都に莫大な敷地を有する施設を持つ、KMWP(京都ムーンウォッチャーズ・プロジェクト)の総責任者として、世界中の優秀な研究者のトップに立つ存在だ。2年前までは、そしてある意味では今でも、ほとんど無名に近い研究者であったにも関わらず、だ。
望をKMWPのリーダーに据えたのは、天才的なAI研究者だったダニエル・キュイだ。シンガポール人であり、北米ビジネス誌が選ぶ<世界で最も影響力のある100人>にも選出されたことがある。巨額の資産を有するIT企業の最高経営責任者であり、また人間と遜色のない会話をこなすAI用言語プログラムを開発した天才研究者でもある。しかし彼は今AI研究の第一線から退き、望をトップに据えたKMWPの出資者になっている。
望が研究しているのはチンパンジーだ。KMWPを京都に設置する案を提示したのは望であり、それは<京都大学霊長類研究所>が連綿と積み上げてきた研究風土が、京都を世界の霊長類研究のトップの地へと押し上げたからだ。KMWPでは、チンパンジー・ボノボ・ゴリラ・オランウータンの四種しか存在しない大型類人猿の研究を通じて、「人類が、どうして人類たりえているのか」を追い求めようとしているのだ。KMWPはマスコミ向けに研究施設を公開する予定であり、その取材のためにやってきたサイエンスライターであるケイティ・メレンデスは、その公開前に望の独占インタビューを取ることに成功する。ケイティは長くダニエル・キュイを追いかけており、その関心の延長線上にKMWPがあったのだ。
南スーダンに派遣されているUNMISS(国際連合南スーダン派遣団)は、検問所を通過しかけた貨物トラックを止めた。先頭グループが資金源確保のために人身売買を行っているという情報が届いていたからだ。そのトラックから見つかったのは、しかし人間ではなく一匹のチンパンジーだった。ウガンダ野生生物局で、施設許容量の限界から受け入れを断られたUNMISSは、廻り巡ってKMWPにチンパンジーを預け入れることとなった。そのチンパンジーに望が付けた名前は「アンク」。
この「アンク」が、人類進化の謎を解く「鍵」となるのだが…。
というような話です。

これはホントにとんでもない物語でした!メチャクチャ面白い!「虐殺器官」や「ジェノサイド」に匹敵する傑作というのは、大風呂敷ではないと感じました。

物語は基本的に、鈴木望という研究者を中心に進んでいく。鈴木望にインタビューをする女性記者・ケイティ、鈴木望に投資したダニエル、鈴木望の配下にいる様々な研究者、そして鈴木望自身の来歴や思考。こうしたものが物語の冒頭から中盤を動かしていく。もちろんそこには、「京都暴動」と呼ばれる謎の事象の断片が差し込まれるわけだけど、その段階では「京都暴動」で何が起こりどう状況が展開したのかはほとんど分からない。

鈴木望の物語に、「アンク」と名付けられた一匹のチンパンジーが紛れ込むことによって、事態は大きく展開することになる。「アンク」の存在が、鈴木望と「京都暴動」を結びつけることになる。とはいえ、その結びつきが理解できたところで、「アンク」が何を引き起こしたのかということは分からないままだ。

そこには、本書の核となるとある仮説が横たわっている。いかにしてこの仮説を「真実らしく」見せるのか―。この作品で描かれる様々な要素が、その一点のために存在すると言っても言い過ぎではないだろう。とてもではないが、一般人には予測することの出来る仮説ではなく、しかし提示された仮説は、難しい点もないではないが、理屈としては比較的すんなり受け入れられるように感じられる。「何故言語を獲得したのか」という非常に大きな難問に対して、非常にそれらしい説明がつけられている。見事だ、と感じた。いくつかの科学的な事実を巧みに結びつけて、一つの大きな「虚構」(証明されていない段階では、すべての仮説は虚構と呼んでいいだろう)を生み出す手腕は素晴らしいと言う他ない。特に、僕が「言語の獲得」に対して考えていた、「他者とのコミュニケーション」という大前提をまったく介在させずに「言語の獲得」を説明する仮説はとても魅力的だ。

「言語の獲得」と「京都暴動」がどう結びつくのか、それは是非とも読んでみて欲しい。「ヒト」が本能の奥底に持っている「はず」の衝動を呼び覚ますことで生まれるものによって「京都暴動」は引き起こされている、ということになっている。凄まじい想像力に惚れ惚れする。

本書では、ほぼすべての人間が、とある条件下では「京都暴動」を引き起こす加害者(暴徒者)になるのだが、その条件下でも暴徒者にならずに済む者もいる。何故暴徒者にならずに済むのか―、そのまったく別々の理由を複数用意しているところも非常に面白い。特に物語の後半で登場するある少年の存在は興味深い。とある症例により、「京都暴動」を引き起こす条件を逃れられているのだが、その症例を僕は聞いたことがなかった。調べてはいないが、恐らく実際に存在する症例だろうと思う。最も根源的な理由によって、「京都暴動」を引き起こす条件を免れているこの少年の存在感は非常に強く、インパクトがあった。

真実に近づけば近づくほど、世界は奇妙な振る舞いをする。ビッグバン直後の宇宙の想像を絶する環境や、微視的な物質の常識では捉えられない振る舞いなどはその一例だろう。数学でも、「無限」というものはうまく扱うことが出来ない存在だ。それが真実に近ければ近いほど、僕らの常識では測ることが出来ない状況が現出する、ということであれば、本書で描かれる虚構もまた、真実に近づいていると言えるのかもしれない。いかに言語を獲得したのか、という真実を追求する過程で不可避的に引き起こされることになった「京都暴動」の存在は、神や人間そのものと言ったある種の「タブー」に、科学が接近しすぎることを抑制するようなインパクトも持ちうると感じるのは、僕の考え過ぎだろうか。

佐藤究「Ank:a mirroring ape」

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内容に入ろうと思います。
本書は、フェイスブックのメッセージのみで構成された異色の小説です。
水谷一馬という男が、ある日送った一通のメッセージ。そこからすべては始まる。水谷は、歌舞伎関係のサイトでたまたま「未帆子」という名前を見つけた、と書き、そこから「結城未帆子」という女性のフェイスブックページにたどり着く。水谷には、この「結城未帆子」が、あの女性であるという確信が最初からあったわけではない。けれど、彼女であって欲しい、という気持ちから、そのページから分かる限りの情報を手に入れようとした。そして、恐らく彼女であろう、という確信を得てから、メッセージを送るのだ。
当初、返信はなかった。水谷は、それを当然のことだと受け止めつつ、何度かメッセージを送る。やがて、「未帆子」を名乗る女性から返事が返ってくるようになる。
水谷は、結婚式の日に何故式場に現れなかったのか、今でも理由が分からない、と書く。そして、それを殊更に追及するでもなく、かつて同じ大学の演劇部で演出家と役者という関係だった過去について語る。自身に生い立ちや許嫁についても話していく。「未帆子」もまた、かつて付き合っていた頃には明かさなかった話をいくつか水谷に披瀝する。
そうしてやがて、ルビンの壺が割れる。
というような話です。

なかなか評価の難しい作品だと感じました。
僕が本書を読み終えて、一番最初に感じたことは、「何か足りないな」ということです。正直、何が足りないのか、はっきりと指摘できるわけではないのだけど、どうも何か足りない感じがする。これは、物足りない、というのとはちょっと違う。物語としてはうまくまとまっていると思うし、一定以上の面白さはあると思う。ただ、何か足りない。

無理やりその足りなさに理屈をつけるとすれば、「未帆子」が何故返信したのか、という点に絡んでくるのではないか、という気がする。この点については、この感想の中で詳しくは触れないが、非常に重要なポイントではないかと感じるのだ。最後まで読み終えた者には、この疑問はなんとなく理解できるだろうと思う。

いや、まったく分からない、というつもりはない。「未帆子」の意図は、分からないでもないのだ。けれど、そうしなければならない必然性が、「未帆子」にあったのかと考えると、どうだろうか、と思えてしまう。そこは、やはりちょっと弱いのではないか。であれば、「フェイスブックのメッセージのみで構成する」という部分を捨てて、そのやり取りをしている水谷と「未帆子」を描く、という選択肢もあったのではないか、という気もする。もちろん、本書の「フェイスブックのメッセージのみで構成する」という試みは、一定の驚きとインパクトを与えていると思うので、成功していると言えると思うが、何故返信したのか、という部分を説明する上ではなかなか難しくなってくるように思う。

そこにリアリティが感じられないと、二人のやり取りが絵空事のように感じられてしまいそうで、ちょっともったいない気がする。かつて付き合っていた頃の話とか、許嫁の話とか、演劇時代の話、「未帆子」が秘密にしていたことなどは、本書を読む読者にとっては必要な情報であり、楽しむべき物語ではあるのだが、それらをこの二人が今やり取りしている、ということの意味がぼやけてしまう。少なくとも、「未帆子」の側にはそんなやり取りをする必然性はないのだ。最後まで読めば、水谷が「未帆子」にメッセージを送った理由は明白に理解できる。しかし「未帆子」が水谷に返信した理由は、あくまで想像することしかできない。ちょっとそこがもったいないように思う。

しかし、その点の違和感さえ気にしなければ、確かによく出来た小説だと思う。「ルビンの壺が割れた」というのは、水谷と「未帆子」がかつてやって演劇のタイトルだが、本書全体を表すものとしても秀逸だ。確かに、物語のラストで、ルビンの壺が割れる。そして、そこに至るまでのやり取りの運び方がなかなか良くできていると思う。

「未帆子」が演劇部で並み居る先輩を押しのけて主役を勝ち取った話や、水谷の許嫁にまつわる話など、どう考えてもただの昔話や言わずにいた懺悔でしかない話が、物語全体に絡んでくる。ラストの展開を知ってから彼らのやり取りを読み返してみると、ある種の闘いのような緊迫感を感じられるかもしれません。

たぶんこの感想を読んでも、どんな話なのか全然想像出来ないでしょうが、細かな部分を気にしなければかなり面白く読めるのではないかと思います。

宿野かほる「ルビンの壺が割れた」

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「共謀罪(テロ等準備罪)」が審議されていた頃、「この法律が通れば、日本は監視社会になってしまう」という批判が出ることが度々あった。しかしそれに対して、「共謀罪が成立しようがしまいが、既に日本は監視社会なのだ」と反論する人もいた。

僕は、具体的な実態こそ知っているわけではないが、後者、つまり既に日本は監視社会なのだ、という意見の方が正しいのだろう、と思っている。だからと言って、共謀罪に賛成というわけではないのだが。

公安警察という存在は、以前から小説を読んで知っていた。彼らがどんなことをしているのかも、小説で描かれる範囲のことならなんとなく知っていた。あるいは、CIAやMI6やKGBなど他国の諜報機関の実際の話や小説などを読むこともあった。

表に出てくるそういう話のどこまでが現実を反映しているのか分からないが、そこで描かれていることが現実をまったく反映していない、と考えるのも難しい。

元CIAの職員で、「CIAが世界中の通信を傍受している」という機密情報を暴露して世間を騒がせたスノーデンの映画も見たことがある。「スノーデン」と「シチズンフォー スノーデンの暴露」という映画だ。スマホやパソコンで何らかの通信をしていれば、世界中どこにいてもアメリカの監視対象になり得る―。僕たちはそういう社会に生きていることを自覚する必要がある。

ここで僕自身の、「未然に防ぐべきとされている犯罪(テロなど)」に対する考えを書いておこう。

僕は、そういう犯罪を未然に防ぐことは、諦めるしかないのではないか、と考えている。もちろんそれによって多数の死者が出る。社会に大きな影響を与える。しかし、それを「人間がやったことである」と捉えるから憤りを感じるわけで、同じだけの影響を自然災害が与えたとしても、同じような憤りを感じることはないだろう。結局、それが人間による行為なのか自然による脅威なのかという違いだけで、僕たちはいつだって命を落としてもおかしくない世の中で生きているのだ、と思うしかない、と思うのだ。

もちろんこの態度は冷たいし、人為的なものと自然災害を同列に並べることの無意味さを指摘されもするだろう。それは僕も十分に分かっている。しかし、そういう犯罪を防ぐためにどれだけの犠牲が払われているのか、ということを思う時、簡単に「テロは防がなければならない」とは言えない。

本書で描かれていることはまさにそういうことだ。起こるかもしれないテロを防ぐために、国家に忠誠を誓った(誓わされた?)者たちが、自らを犠牲にしてまで国家を守ろうとする。その功績は表に出ることはない(何故なら、捜査の過程で違法な行為を数々行っているからだ)。「共謀罪」は既に成立したが、この法律が運用されるようになったところで、盗聴や監視に対する国民の嫌悪感はすぐには薄まらないだろうし、恐らく永遠に消えることはないだろう。であれば、仮に「共謀罪」の成立によって、今まで違法とされていた行為が合法だということになっても、国民感情を考えた時に、やはりその行動は表に出せないという判断が下るだろう。結局彼らの功績が表に出ることはない。

重大事件を未然に防ぐ、ということの背景にはそういう、職務として個人を犠牲にして国家を守ろうとする者たちの想像を絶する奮闘がある(はずだ)と思う。

僕たちは、自然災害を起こらないようにするための努力はしない。もちろん、起こってしまった時の被害を最小限にするために努力や工夫は日々行われているが、自然災害を起こらないようにすることなど出来るわけないのだから、そこに注力することはない。テロなどの犯罪は、事前に努力すれば防げる可能性はもちろんある。しかし、そのために膨大な労力が必要とされるし、その過程で様々な個人が犠牲になる。その犠牲は、表向きなかったことにされる。テロを防ぐことで目に見える犠牲者を減らすことは出来るが、テロを防ごうとする過程で目に見えない犠牲者が数多く生まれる。その不均衡さを僕たちは無条件で許容して良いものなのだろうか、と僕は考えてしまう。

未然に防ぐべき重大な犯罪があるし、それらや防がれるべきだ、と考え方は分からないでもない。しかし僕たちは、それを実現するために膨大な犠牲が生まれるのだということを自覚しながらそう求め続けなければならないのだ、と本書を読んで改めて感じさせられた。

内容に入ろうと思います。
黒江律子、28歳。警視庁公安部公安一課三係三班所属の巡査部長だ、表向きは。実際の“奉公先”は公安部ではなく、「十三階」だ。
「十三階」は、警視庁直轄の諜報組織であり、全国都道府県警察に所属する公安警察官たちの中でも、ほんの一握りの優秀な者だけが呼ばれる特別な講習を経て、この部隊の構成員となる。末端作業員たちの活動内容は限りなく非合法に近く、時に完全なる非合法活動も厭わない。黒江は、万が一の時には性を売る覚悟で作業に臨んでいる。
その日も、作業玉(情報提供者)に女として迫り、重要テロ情報をさらりと手に入れる―予定だった。当初の作戦行動通りに行かず、事態は最悪の形で終結する。やがて黒江は、自分が防げたかもしれないテロの発生を知り、しばらくして「十三階」の現場から離れた。
身内に起こったある出来事をきっかけとして、「十三階」に黒江を引き入れたかつての上司・古池慎一から、「十三階」に戻ってこないかとアプローチされる。古池は黒江の才能をいち早く見抜き、「十三階」のメンバーとして黒江を育て上げてきたが、一方で古池・黒江はお互いに複雑な感情をもつれさせる関係でもあり、時にそれが作業に影響を及ぼすこともある。
黒江は、自分が防げなかったテロを起こした「名もなき戦士団」を追い詰めるために「十三階」に戻ってくる。黒江はかつてのテロ映像を分析し、やがてそこに一人の女の姿を見出す。後に「スノウ・ホワイト」と呼ばれる、恐らくテロの首謀者と思われる美しい女を、黒江は執念で追い詰めるが…。
というような話です。

これはかなり面白い作品でした。公安警察を扱った作品はあるし、「十三階」の前身とされる「チヨダ」や「ゼロ」を扱った作品もあります。そういう中で本書がずば抜けているのか、それは僕にはうまく判断できませんが、小説としてのリーダビリティは相当なものだと思います。

本書の主人公を女性に据えたことが、まず一つ大きな特徴でしょう。公安警察を扱った小説で女性が描かれないということはないでしょうが、警察全体でも女性警官は9%、公安警察となるとその数がさらに激減すると言われる中で、女性をメインに据えた作品というのはもしかしたら珍しいのかもしれません。その中でこの黒江という主人公は、女性性を前面に押し出しながら作業に当たる。女性であることを武器にする、という意味では、決して対男性だけに限らず、対女性の場面であっても自分の女性性をフル活用する。本書の読みどころの一つは、その「えげつなさ」だろう。

僕が本書を読んで感じたのは、恐らくこの「えげつなさ」は公安警察の実態として恐らく事実なのだろうし、そしてこういう「えげつなさ」を前面に押し出していかなければテロを未然に防ぐことが出来ない、ということなのだ。読みながら、こういう犠牲を強いてまでテロを防ぐべきだと、僕たちは本当に主張できるのか、ということだ。

また、作業以外の部分でも、黒江の女性性は描かれていく。主に、上司である古池との関わりにおいてだ。黒江は古池に対して恋心のような感情を抱いていることを自覚しているし、古池の方にもまったくそれはないということはない。しかし古池にとって黒江は、「十三階」の任務にとって非常に重要な存在であり、「十三階」としての黒江を手放すことが出来ない。それが分かっていながら、自分の内側の部分から古池に惹かれている自覚のある黒江は、上司との関わりで右往左往させられることになる。

『国家を守る、体制の擁護者としての最たる組織「十三階」の捜査員に、「個」はない。「十三階」に所属するための壮絶な警備専科教養講習の過程で、少しずつ「個」を消されていく』

そうやって「個」を失っていくのだが、しかし古池に対する感情だけはなかなか消せないでいる。作業における葛藤とは別に、黒江の一人の女としての葛藤もまた描かれており、それらが複雑に入り混じって混沌としていく。

女であるが故に、男以上に残酷にならざるを得なかったからこその葛藤。国を守るという壮絶な使命と、個人としてどう生きるのかという想いがごちゃごちゃになりながら、それでも自分にしか出来ない役割を全うしようと奮闘する女性と、彼女と共に国を守るために危ない橋を渡り続ける者たちを描く、非常にスリリングな物語だ。

吉川英梨「十三階の女」

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昔より、あれこれ悩まなくなったと思う。

『私は今でもときどき、いろいろなことがよくわからないまま大人になってしまったような気がすることがある。』

大人になると、何か変わるんだろう、と漠然と思っていた時期はあった。たぶん、中学とか高校ぐらいのことだろう。大人が近づいてきていて、でもまだちょっと時間があるような頃。大人になれば、たぶん自動的に、そう自動的に何かが変わるんじゃないか、と。子供でいるからこそ、色んなことが出来ないのだ、と思いたかったのだろう。大人になれば、大人であるというだけの理由で、きっと色んなことが出来るようになる。そうじゃなきゃ、自分がちゃんと大人になれるような気がしなかったのだ。

『逃げていたのは私のほうだ。力がなければ自由だと、何もない自分から逃げていた。』

あぁ、その通りだ。僕は、ずっと逃げていた。何も出来ないのは子供だからだ、と逃げていた。自分に何もないのは子供だからだと思っていた。

でも、大人がもっと近づくにつれて、そうじゃないことに気付くようになってきた。もう大学生にもなれば十分大人かもしれないが、まだ学生だという猶予期間があった。しかし、学生でなくなってしまえば、もう大人になるしかない。けど、今のまま大人になって、本当に、色んなことが急に出来るようになるのだろうか?そんな訳ない、と思った。そんな訳ない。

だから、大人になるのが怖かった。大人になったら、ちゃんとしなくちゃいけないと思い込んでいた。ちゃんとすることは出来ないと思っていた。大人になれるほど、ちゃんとは出来ない、と。

『みんながやることなら自分がやらなくてもいいと思ってしまう』

僕も同じだ。でも大人になれば、大人がやることは、何故だかやらなきゃいけないようになる。そうであることが求められる。

『型があるから自由になれるんだ』

言葉としては理解できるけど、僕にはなかなか実感できない。

どうにか大人として見られないように、逃げまくってきた。ちゃんとした大人のようには生きられない。それは今でもそう思っている。だから、大人だと思われないようにするしかない。そこまできちんと言語化できていたかどうか分からないけど、きっと僕はそんな風に考えていた。

そうやって、なんとか今日までやってきた。今僕があまり悩まずに住んでいるのは、「大人」という名前のソフトをアンインストールしてきたからだ。インストールするように要求されても無視してきたからだ。「大人」というソフトがインストールされているからこそ、それと自分との差に悩む。だったら、アンインストールすればいい。

『うまくいかなくても、丸くは収まらなくても、そのままの形で残すことも大事なんじゃないか。』

宮下奈都の小説群を要約すれば、まさにこの言葉に収縮していくのではないかと思う。誰もが、色んな価値観や感情を持っている。それらは本来は一つ一つ違う。みんなが同じ容器に収まるなんてことはあり得ない。でも、「同じ容器に収まるべき」という流れが強ければ、個々人は自分の価値観や感情をその容器に収まるように変形させてしまう。

それはダメだ。

宮下奈都の小説を読むと、いつもそんな風に感じる。今自分が抱いているその価値観や感情は、はっきりと名前が付くような、スパッとどこかの領域に収まるようなものではない。それを、単純に明快に表現してしようとすれば、細部を削り取るしかない。宮下奈都はそれを是とせず、何かに収まらなかったとしても細部まできちんとそのままであることが大事なのではないか、といつも訴えかけているように感じられる。

言語化してしまえば、そのままの形では存在できないような、そんな捉えがたい何かを、それでも言語によって捕まえようとする。そういう困難さの中で宮下奈都は、そうそうそんな表現だとぴったり来る、と読む者に感じさせるような描き方を、見事にやってのけるのだ。

内容に入ろうと思います。
6編の短編が収録された短編集です。内3編は、宮下奈都の出世作である「スコーレNo.4」のスピンオフのような内容になっています。

「手を挙げて」
和歌子は、姉の里子と共に住宅展示場へと足を運んだ。姉は、まるで骨董のような家に嫁いだ。姉は昔からなんでもできた。お茶もお花もなんでも。でもそれらは辞めてしまった。結婚してしまえばすべてご破算ではないか、と和歌子は思う。和歌子には、何もない。何もないことが自由だと思っていたけど、どうやらそれは思い違いだったようだ。住宅展示場の人から、一つだけ欠点があるんですよ、と言われて、和歌子は史生のことを思い出す。正確には、彼の母親のことを。コーヒーカップで紅茶を飲ませたことでウダウダ言ってくる史生の母親のことを。

「あのひとの娘」
美奈子のジュニア向けの生け花教室に、あのひとの娘がやってきた。津川紗英。いつかこんな日が来ると思っていた。
津川くんを意識し始めたのは高校生の頃。森太(森崎太郎)から話を聞くまでは、同じクラスにいたのに顔と名前が一致していなかった。森太は、テニス部に入った初心者の中で、唯一卵型のラケットを買った変な奴がいる、と津川のことを話したのだ。それからだ。津川くんを知りたい欲が高まって、ついに付き合うことになったけど、長くは続かなかった。
紗英には、生け花のセンスがあった。あのひとの娘、というだけで、色眼鏡で見てしまっているかもしれない。

「まだまだ、」
紗英は朝倉くんの生け花に魅入られている。同じ中学で、野球部にいると思っていたのに、生け花の教室にいた。そして、凄く上手い。朝倉くんに、一気に興味が湧いた。
紗英は昔から「お豆さん」と呼ばれていた。なんでも姉二人が引き受けてくれて、紗英はのほほんと育った。のほほんと見られることが多いけど、そうじゃない部分もある。そういう部分を出すと、「サエコらしくない」と言われる。いつの頃からか、「サエ」ではなく「サエコ」と呼ばれるようになった。

「晴れた日に生まれたこども」
晴子と晴彦。晴れの日に生まれたから。そんな単純な名前をつけられた姉弟は、「コー」「彦」とお互いを呼び合う。彦は勉強も運動も出来ない方じゃなかったのに、それ以前にどこか足りなかった。高校を辞めて働き始めた会社もすぐやめ、アルバイトもあまり長続きせず、フラフラしている。そんな彦が、私を呼び出して町をうろうろする。寂れた喫茶店に入って、うまくもないジュースを買う。何か話があるらしいが、よく分からない。彦はいつだって、ふわふわしたようなことを言う。

「なつかしいひと」
母さんが死に、父さんと僕と妹は、母の実家のある町へと引っ越した。母の実家に身を寄せることにしたのだ。頑張れば、そのままの土地で生活し続けることが出来たかもしれない。でもみんな、頑張り方を忘れてしまった。母さんがいない家で、頑張れる気がしなかった。知らない土地で、クラスに馴染むわけでもない僕は浮いていた。町を歩いていると、商店街の中に本屋を見つけた。そこで、セーラー服を着た女の子に出会った。自分が好きだという本を、いくつか紹介してくれる。

「ヒロミの旦那のやさおとこ」
ヒロミの家の近くに、古い車が停まっていた。中には一人、やさおとこ。家に帰って母に、見かけない男がいたと言うと、ヒロミの旦那でしょう、と言う。そんなバカな、と思ったけど、ヒロミの旦那はどうやらあのやさおとこのようだ。そのヒロミとは、ずっと連絡を取っていない。どうしているのかも分からない。昔はヒロミとみよっちゃんと私(美波)の三人でずっと一緒にいた。三人の世界の中に、男の会話が入り込む余地はなかった。だからだろうか。ヒロミもみよっちゃんも、結婚する直前まで私にその話をしなかった。ある日そのやさおとこから、思いがけない話を聞かされる。

というような話です。

宮下奈都らしい、モヤモヤした何かを丁寧に掬い取る作品だと思いました。

宮下奈都の小説の内容紹介をする時は、いつも困る。物語らしい物語がないからだ。

いや、それは語弊だ。物語は、ちゃんとある。しかし、決してそれが全体の中心にはない。宮下奈都の作品の中では、物語ではないものが常に真ん中にある。じゃあそれは何なのか。僕なりの表現をすれば、「名前の付けられない何か」だ。だから困るのだ。なかなか言葉では捉えられないものを作品の真ん中に持ってくるから、何を書いてもその作品の要約を掴めたような気分にはなれない。

言葉では捉えきれないものを切り取るために物語があるのだ、というのは、一つの存在理由として間違いないだろう。しかし、それが実現出来ている物語というのは、決して多いわけではないと思う。厳しい言い方をすれば、辞書に載っているような単語の組み合わせで表現できてしまうような価値観や感情を描こうとする物語も、たくさん存在する。宮下奈都は、いつもそれを回避しようとしているように僕には感じられる。辞書に載っている単語の組み合わせで表現できる程度のことであれば、物語を紡ぐ必要はない。そんな風に思っているように感じられる。

どの物語にも、誰かにとっての「モヤモヤ」が横たわっている。そのモヤモヤは、はっきりこうと表現できるような分かりやすいものではない。だからこそ当然、そのモヤモヤが完全にすっきり晴らされることもない。理解しやすいモヤモヤを、完全にすっきり晴らす物語の方が、容易に書けるのではないか。現に、そういう物語は、決して少なくない印象を持っている。しかし、宮下奈都はそれをよしとしない。

既に引用したが、まさに、

『うまくいかなくても、丸くは収まらなくても、そのままの形で残すことも大事なんじゃないか。』

という感覚が、宮下奈都自身の内側にも根付いているのだろうと思う。

作中で描かれるモヤモヤは、解消することよりも、その存在を認識し、可能な限りその輪郭を捉えようとする方に力点が置かれる。完全には捕まえられないかもしれないが、近づく努力だけはしてみよう、ということだ。解消するために物語が存在するのではなく、存在に気付くために物語が存在する。

それは、僕たちなりの日常を生きる上でも非常に大事な視点だろうと思う。何かモヤモヤを感じた時に、「どう解消するか」というやり方ばかりが強調されるきらいがあるように感じられるが、そうではなく、「モヤモヤの正体を出来るだけ掴んでみる」というやり方もあるだろう。掴めさえすれば、解消する方法は自然に見つかる、こともある。

初めの3編は「スコーレNo.4」のスピンオフ的な作品であり、後の3編はそうではない。個人的には、初めの3編の方が好きだな、と思う。決して「スコーレNo.4」を読んでいないと理解できない作品ではない。「スコーレNo.4」では端役だった人物や、「スコーレNo.4」には出てこない人物が主人公なので、「スコーレNo.4」にどっぷり、というような作品ではない。知っていればより奥行きが広がる、という感じだ。

初めの3編には「生け花」という共通項がある。恐らくこの生け花というモチーフの存在も、僕が初めの3編を好きな理由になっているだろうと思う。生け花という長い歴史と伝統があり、美しいモノを見るための力と表現するための力を要する芸能に登場人物たちを関わらせることで、彼らの悩みや葛藤により深みを感じることが出来る。生け花を通して悩み、生け花を通して新しい世界を知る、という描き方の中に、人間らしさみたいなものを盛り込んでいくことが出来るのだ。

「なつかしいひと」は僕の中でさほど印象の強くない作品だが、「晴れた日に生まれたこども」と「ヒロミの旦那のやさおとこ」はちょっと変な話で、結構気に入っている。前者では晴彦が、後者ではヒロミの旦那が実に良い味を出していて、興味深い魅力を放っている。後者の主人公は作中で、『ひとりなんだなあと美波はつくづく思い知らされている』と思うのだが、僕はこの二つの物語を読んで、やっぱり世界は広いよなぁ、と感じた。

宮下奈都らしい、優しさと美しい毒に満ちた魅力的な短編集だと思います。

宮下奈都「つぼみ」

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この本を読んだ理由は他でもない、乃木坂46の齋藤飛鳥にある。好きな本について聞かれる度に、ゴーゴリの「外套」を挙げていたのだ。

齋藤飛鳥は読書家で知られているし、遠藤周作や貫井徳郎など読んでいるという。人の悪意を描くような、気持ちが沈むような作品が好きだ、とも良く言っていたから、「外套」もそういう方向性の作品なのかと思っていた。

が、そうではなかった。

ある雑誌で「外套」について齋藤飛鳥は、『「真面目な人は損をする」とはこういうことかと思いました』と書いている。なるほど、そういう見方をしているとすれば、齋藤飛鳥らしい、という気もする。物事を真っ直ぐではなく斜めから見るような視点をよく取る齋藤飛鳥にとっては、ゴーゴリが描くこの不条理で滑稽な物語が、教訓めいた話に受け取れるのかもしれない。

しかし「外套」かぁ、と僕は思った。齋藤飛鳥がどの本で「外套」という作品に触れたのか、それは分からない。僕が読んだのは光文社古典新訳文庫版で、「鼻」「外套」「査察官」という3作品が載っている。で、この3作品の中で言えば、僕は「鼻」が好きだ。

冒頭から、何なんだこの話は、という展開が実に面白い。

何せ、焼きたてのパンを切ったら鼻が出てくる、というところから物語が始まるのだ。意味不明だ。その後、鼻を失った人物が右往左往しながら鼻を探す、という展開になるのだけど、その鼻が金の刺繍の入った制服を着て街を闊歩しているのだ。呼び止めた男は鼻に向かって、「あなたはぼくの鼻なんですよ!」と叫ぶ。シュール過ぎる…。何かを風刺したりするような背景的な当時の社会風潮などがあるのかもしれないけど、ただ読めばシュールで不条理で意味不明な物語だ。でも、なかなか面白い。

「外套」は、それまで慎ましやかな生活をしていた男が、擦り切れてボロボロになった外套を仕立て直してもらうのだが、それがきっかけで命を落とし、死後幽霊となって他人の外套を奪う、という、こちらも何だそりゃ、という話なのだが、「鼻」と比べれば全然現実よりだし、理解可能な範疇にある。

「外套」を読んでて感じた凄さは、要約すればさっき僕が書いたように2行程度で書けてしまうような、別に大した内容でもないのに、それを一つの短編にまで膨らませてしまうゴーゴリの想像力だろうか。本書の解説には「四次元的想像力」という言葉があり、『ゴーゴリの描く「現実」は現実を越えて「四次元」に突き抜けているのだ』と書かれている。それは「鼻」のような明らかに現実を超越したような作品に対しての表現なのかもしれないが、より現実に軸足を置いているように感じられる「外套」であっても、一人の男の慎ましやかな生活をここまで細かく描くのか、外套を盗まれた男がお役所などをたらい回しにされる様をこの短い話の中でここまで細かく描くのか、というような部分に現実を超越したような想像力を感じる。

とはいえ、これはある程度仕方ないことだが、「齋藤飛鳥が面白いと言っているから、僕も「外套」を面白く読みたい」という気持ちが僕の中にあることは確かだ。もし、齋藤飛鳥が「外套」を好きでいるという事実を知らずに本書を読んだとしたら、「外套」という作品に注目していたかは分からない。なので、ここで僕が書いたことが、「外套」に対する純粋な僕の評価なのかと言われると、なかなか難しいところはある。

何故齋藤飛鳥が「外套」を読もうと思ったのか。そこに一番関心がある。僕は、恐らく齋藤飛鳥が好きだと言っていなければ、一生読まなかっただろう。そのお陰で、本書のような読みやすい(解説で訳者が、本書を落語調に訳した、と書いている)古典作品もあるのだ、と知れたことは良かったことだ。齋藤飛鳥は一体いつどこで「外套」と出会い、それを読もうと思ったのだろうか。

聞く機会があれば、その辺りのことを聞いてみたいな、という感じもする。

内容紹介については、「鼻」と「外套」については、ここまでの文章の中で書いた要約以上に付け足す点はあまりない。少なくとも本書に収録されている3作品は、ストーリー展開がどうのというような話ではなく、読んでみてその不可思議さを感じるような作品なので、外形上の物語について触れてみても、あまり面白さは伝わらないのだ。

「査察官」についても、ざっと内容を書いておこう。こちらは、戯曲だ。ある町の市長が、ペテルブルクからお忍びで査察官がやってくる、という情報を耳にする。その内に町の地主である二人が、宿に金を払わない男がずっといる、あいつが査察官に違いない、と言って町は大わらわになる。しかし実はその男は、金遣いの荒いただの旅行者で…。というような話だ。こちらもスイスイ読めて、バカバカしい喜劇が展開されていく様がなかなかにシュールで面白い。

恐らく、齋藤飛鳥が「良い」と思っているほどには「外套」を良いと感じられなかったのが残念ではあるが、まあ読書というのはそういうものだ。読む本の趣味は、合わない方が当然だと思うので、なんということはない。読んでみて、「何故齋藤飛鳥は「外套」を読もうと思ったか」「「外套」のどこに齋藤飛鳥は惹かれたか」により関心が強まった、ということは確かである。
あと、これは昔からどうにもならない僕の性質だが、古典作品を読むと猛烈な睡魔に襲われるのをどうにかしたい。どうにもならないのだが。

ゴーゴリ「鼻/外套/査察官」

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戦争を扱った小説に対して、こんな感想を抱くのはあまり良くないのかもしれないが、率直にこう思った。
メチャクチャテンションが上がる!と。

『だがここには、日本人なら誰でも抱いたことがあるはずの素朴な疑問が存在する。アメリカは原爆を落とす無慈悲をしめしながら、なぜ直後に比較的平和な占領政策をとるに至ったのか。』

本書の内容を一言で説明すれば、「この問いに答える物語だ」となるだろう。

確かにその通りだ。僕は学校であまりきちんと歴史を学んでこなかったし、歴史について考える機会もあまりないので、僕個人はこういう疑問を抱いたことがないのだが、言われてみれば、確かにその通りだと思える。実際に、イラク戦争など、僕たちがリアルタイムで知っている戦争では、戦勝国が苛烈な占領政策で支配している姿を見ている。歴史上、多くの戦争でも、そのような経過を辿ってきているはずだ。

何故日本は、平穏な終戦を迎えることができたのか。

もちろん、色んな理由があるのだろう。でもそれは、なかなか両方を同時に説明するものではないのではないか、と思う。「平和な占領政策をとった理由」だけであれば、色んな可能性を考えうる。しかし、「直前に原爆を落としていたにも関わらず、平和な占領政策をとった理由」となると、なかなか難しい。

まず、何故原爆が落とされたのか、という理由からいこう。いや、正確に表現しよう。「何故原爆を落とすことに躊躇することがなかったのか」の理由だ。

当時ホワイトハウスは、シンクタンクに日本の分析をさせていた。その中で、日本人はこんな風に描かれている。

「日本人は自他の生命への執着が薄弱であり、だからこそ一億玉砕にも呼応する。であれば、本土決戦になれば婦女子を含めた非戦闘員が戦闘員になりうる」

この報告書に対して、本書の登場人物の一人はこう思考を巡らせる。

『恣意的な誘導だと筒井は思った。一億総特攻を拒否しないからには、民間人も非戦闘員ではなく、したがって原爆の標的にしても国際法違反にあたらない。そう暗に示すのが目的だろう』

そう、当時アメリカ人は、日本人を「生命を尊重するなどありえない民族」だと捉えていた。これは、相当根強く信じられていた考えだったようだ。特攻やバンザイアタック、玉砕と言ったアメリカ人には理解できない戦闘行動に対して、「日本人は生命を重んじないのだ」とする見方がいつの間にか広まっていたという。そういう背景があったからこそ、アメリカ人は原爆投下を躊躇せずに行ったのだ。

つまりこうも言える。原爆投下まではアメリカ人は、日本人を野蛮な民族だと思っていたのだ、と。であれば、やはり冒頭の疑問が蘇ってくることになる。
ならば何故、その直後に平穏な占領政策を取ることができたのだろうか、と。

実際、(物語ではあるが)本書では、1945年8月15日の米軍内の会議で、こんな発言がなされている。

『(占領に際して)今後も非戦闘員による個人単位での玉砕、あるいは村や隣組など小自治体単位での反乱が起こりうる、注意警戒事項にそうある。根拠は、日本人に根付いた国家主義が、人命の尊重に優先するという、彼ら固有の意識構造にある』

『本土決戦、一億玉砕、一億総特攻、神風。軍部の呼びかけに国民から強く反発する声もなく、むしろ積極的に応じているとの報告が多々ある。それらに基づいた分析だ。どの戦線でも、日本の軍司令部は玉砕を強いて、無慈悲に兵を見捨ててばかりだ。なのに遺族は、訃報をきいても感謝を捧げている。復讐心もより強まるかもしれん。われわれが日本の占領にあたり、警戒するのは当然だろう』

1945年8月15日時点でも、アメリカ人はこう考えていたのだ。そのままであれば、苛烈な占領政策が行われていてもおかしくはなかっただろう。

この流れは一体、何によって変わったのか。

それが、「1943年8月15日の出来事」と「一人のアメリカ人の進言」なのだ。
本書は、この二つを軸にしながら、日本の終戦、そして戦後のあり方を形作った大きな流れを描き出そうとする。

先に挙げた「一人のアメリカ人」は、本書の中では「ロナルド・リーン」の名前で登場する。若き頃、タイムズスクエアの一角にある古本屋で見つけた「源氏物語」の翻訳に魅せられ、極東の島国に憧れるようになった。後に日本に帰化し、ある新聞社の客員編集委員となった人物である。もちろん、分かる人には分かるだろう。あの人物だ。

あの人物がいなければ、日本は今とはまったく違った国になっていたかもしれない。そう考える時、大げさに言えば、僕たちは「源氏物語」という一冊の古典によって救われたと言えるのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
ロシアとアラスカに挟まれたベーリング海に浮かぶアリューシャン列島。その中に、戦時中、日本軍がアメリカ軍の領土を占領した島が二つある。アッツ島(熱田島)とキスカ島(鳴神島)だ。
熱田島に着任した山崎保代大佐は、この島が現在置かれている状況を振り返った。極北の寒地荒原(ツンドラ)であり、動植物はほとんど存在しない。島外からの供給は長く途絶え、増援部隊を送るという連絡があってから9日が経つ。完全な孤立状態だ。アメリカ軍に対しては徹底抗戦を敷いているが、どこまで持つか分からない。そこへ、山崎を熱田島へと送った樋口司令官から打電が届く。全員、玉砕せよ、と。熱田島では2638名の日本人が死を迎えた。
同じ頃、隣の鳴神島にも、5000人を超える兵がいた。彼らも熱田島と同様、孤立状態にありながらアメリカ軍に対して凄まじい抵抗をし続けていた。そこに、玉砕を促すような平文と同時に、ガダルカナル島での撤退作戦の通称であるケ号作戦の内容が暗号文で送られてきた。彼らは考えた。これは、救出作戦の知らせなのではないか?
しかし、鳴神島の救出作戦は、現実的に不可能なものだった。アメリカ領の孤島に置き去りになった5000人を超える兵を、米艦隊がひしめきあう海域を突破して救助に向かわなければならない。艦隊を損失するわけにはいかない大本営も難色を示すが、しかし樋口司令官は諦めない。あらゆる手を尽くし、この任務を了承させ、艦長も探し出した。海軍少将、木村昌福だ。
木村は、気象専門士官である橋本恭一少尉と共に、誰もが不可能だと思っている救出作戦に乗り出していく…。
一方、20歳のロナルド・リーンは、日本軍ほぼ全員が玉砕したアッツ島に派遣された。残された日本語文書から、重要な機密を探し出すためだ。「源氏物語」から日本に関心を持ったリーンには、理解できなかった。何故あれだけ繊細な情愛の念が民族の根底にあって、バンザイアタックという発送に行き着くのか、と。彼は、『自殺の欲望に憑かれ、自他ともに生命を果てしなく軽んずる、いわば狂気といえる国民性の発露』と日本人を捉えている多くのアメリカ人とは違い、彼らの国民性や行動原理を可能な限り正しく理解しようと奮闘する…。
というような話です。

本当に、素晴らしい物語だった。

僕は正直なところ、本書で描かれていることがどの程度まで真実なのか、全然判断できない。どこまでが創作で(明らかに、米軍内での会議の様子などは、想像によって描かれているのではないか、と思うのだがどうだろう?)、どこまでが史実なのか、分からない。とはいえ、本書の冒頭に、

『この小説は史実に基づく
登場人物は全員実在する(一部仮名を含む)』

とあるので、僕はとりあえず、本書で描かれていることは基本的に事実なのだ、と捉えて感想を書いています。

キスカ島、という名前は聞いたことがあった。というか、見覚え、というべきか。キスカ島の名がタイトルに入る本を目にしたことがあるのだ。しかし、それがどんな本なのか知らなかったし、ましてやキスカ島で、ハリウッド映画なのか?と思いたくなるような壮絶な救出作戦が展開されていたなんて、まったく知らなかった。

そしてもちろん、このキスカ島での救出作戦が、ちょうど2年後の終戦に大きく関わっているなどということももちろん知らなかった。

冒頭でも書いたが、本当にこれが真実なのだとすれば、僕たちはある意味で「源氏物語」によって救われた国民だと言えるだろう。それぐらい、ロナルド・リーンの果たした役割は大きいし、ロナルド・リーンが日本人の国民性を見出したキスカ島での救出作戦に関わった者たちも素晴らしい。

本書では、アッツ島やキスカ島で壮絶な毎日を送らざるを得ない兵士たちや、司令官である樋口の奮闘、またアメリカ軍側の動きなど様々なことが描かれていくのだが、何よりもやはり、キスカ島での救出作戦の詳細が物語としてはスリリングであり、出来すぎているというぐらい奇跡的だと感じる。

キスカ島での救出作戦は、普通に考えて誰もが不可能だと感じるだろうと思う。本書のP86には、アリューシャン列島の地図が載っているのだが、日本列島から、日本列島の長さぐらい離れた場所にキスカ島はあり、しかもその周囲はアメリカ軍に囲まれているのだ。しかも残っている兵は5000人以上。その兵士たちを1時間以内に収容しキスカ島から撤退しなければならないのだ。

無理でしょ、と普通は思う。

しかし、艦長である木村は、誰も考えつかないようなアイデアを次々に繰り出し、計画を前に進めていく。時に木村の指示は、その意図がさっぱり分からない。例えば、三本ある内の真ん中の煙突を白く塗れ、と指示する。この指示は、その意図を誰も理解できなかった。しかしある場面でその理由がはっきりと分かる。これには本当に驚かされた。

他にも、常識では考えがたいアイデアと決断で、木村は不可能を可能にしていく。

木村は、5000人以上の兵を救った。しかし、間接的には、日本人全員を救ったと言っていいだろう。もちろんその背景には、キスカ島の救出作戦を実現させようと奮闘した樋口司令官など、様々な人間の想いが込められている。それらを、リーンが的確に汲み取り、適切な場面で進言をした。どれか一つでも欠けていれば、事態は全然違ったものとなっただろう。

『こう思ってほしい。救える者から救っていると。救うことが許される者から、あるいは容認される者から、そういうべきかもしれん。私にはいまのところ、それしかできんのだよ』

樋口がそう語る場面がある。樋口もまた信念の男であり、結果的に彼は、自らの信念を貫き続ける人生を突っ走ったお陰で救われた。もちろん、すべての人間がそんな風に振る舞えるわけでもないし、信念を貫き通せば何もかもうまく行くわけでもない。とはいえ、こういう生き方をした人がいた、ということを知れるのは、とても勇気づけられることだと思う。

『若い兵士たちは、天皇陛下のため命を捧げるべき、そう信じている。敗北はむろんのこと、敵の捕虜になるのも恥と考える。だが、こんな時代をつくりだしてしまった自分たちこそ、恥を知らねばならない』

これも樋口の考えだ。実際に樋口(あるは樋口のモデルとなった人物)がこんなことを考えていたかは分からないが、しかし、少なくとも本書で描かれる樋口の様々な言動は、こういう下地となる考えなしにはなかなか実現されないだろう。僕たちも、上の世代が作り上げた価値観をただ盲信していないかどうか、そして下の世代にこれが当たり前だという考えを押し付けていないか、常に振り返り続けなければならないだろう。

『戦争のなかにあっては、正しい答えは否定されます。でも正しいものは正しいんです』

本書の中で重要な役割を果たす、同盟通信社外信部の菊地雄介の言葉だ。戦争の影が様々な場面でちらつく現代。僕たちはこのことを改めて認識しなければならないし、その中にあっても正しさを貫ける人間でありたいと僕は思う。

松岡圭祐「八月十五日に吹く風」

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正直に言おう。
胡散臭い本なのだと思っていた。

僕は本書を、とある理由から読むことにした。
その理由はここでは書かないが、別に起業しようとか成功者になろうと思って読んだわけではない。読む必要があったから読んだのだ。

だから、自分の中には、本書を読むためのそこまでの積極性はなかった。噛みくだいて言えば、しょーがねーから読むか、というぐらいのスタンスだったのだ。

けれど、冒頭から、本書は面白いかもしれないぞ、という予感を漂わせていたのだ。

『成功に向かう道には、いくつもの地雷が埋まっている。成功が現実のものとなるに応じて、それと等価の困難や障害が用意されていたのだ』

『大きな成功を実現していく過程では、確実に障害が降りかかる。成功だけを持ち逃げできない。私は単なる戒めとしていっているのではない。これは事実なのだ。私が確信できる理由は、短期間に急成長する会社経営者の多くの事例を見てきたからである。』

プロローグに、こんなことが書かれていた。なるほど、これはちょっとよくある自己啓発本とは違うような気がするぞ、と思ったのだ。

しかしとはいえ、まだまだ警戒心を解いたわけではなかった。というのも、「(ビジネス的に)成功すれば、等価の困難や障害がもたらされる」というのは、運不運やバイオリズムの話として説明されてしまうのではないか、という懸念があったからだ。そういう話であれば、面白くもなんともない。しかし、僕のその懸念は、良い意味で裏切られるのだ。

プロローグには、こんなことも書いてある。

『これからあなたに伝えたいことは、地雷を踏むことを回避する方法ではない。残念ながら困難や障害を避けることはできない。しかし上手に乗り越えることはできる』

『根底に流れるテーマは、ビジネスと家庭のバランスを撮りながら、いかに会社をスムーズに成長させるか、ということである』

ビジネス書をそこまで読んでいるわけではないが、ビジネス書という括られる本を読んで、「家庭」の話が出てきたことは、少なくとも僕の経験ではなかったと思う。非常に面白い切り口だと感じた。

そして、こう書かれている。

『物語ではあるが、作り話ではない。特定の人物や会社がモデルになっているわけではないが、この物語は、私に起こった出来事を含め、複数の実話を下敷きにしている。何人もの成功した経営者に出会ってみると、驚くほど似たようなパターンが生じているので、そのパターンから不純物を殺ぎ落としてきた結果、生まれた物語といっていいだろう』

本書は、青島タクという男が、会社を辞め起業し成功するも、その後様々な障害に襲われる、という展開の物語だ。ここで描かれる物語が、本当に色んな成功者が経験した「驚くほど似たようなパターン」であるのかどうか、それは著者の主張を信じるほかないが、これが事実をベースにしていようがいなかろうが、「起業」に関する様々なことを学べる物語だということは間違いないだろう。現代は、生涯同じ会社でサラリーマンとして働き続けることが困難になりつつある世の中と言っていいだろう。そういう世の中だからこそ、自分の人生を見つめ直すためにも、起業する予定などなくても、とりあえず読んでみるのはアリだと思う。

内容に入ろうと思います。
青島タクは、銀行員である父から「安定」を叩き込まれたために大手メーカーに就職したが、その安定から逃げ出したいと思うようになった。そこで、デジウィルというベンチャー企業へと転職した。デジウィルは数ヶ月前まで、その急成長ぶりがマスコミの話題となるほどの注目企業であり、転職したタクは周囲から羨ましがられた。
しかし半年後。タクは転籍(子会社に移り、本社に帰れる予定はなく、給料も減る)させられることになった。生まれてまだ三ヶ月の子どもがいる。どうしたらいいのか…。
転籍させられることを、妻のユキコに話をした。同時にタクは、独立して会社を作る計画を話す。ユキコは、そんなタクの決意を後押ししてくれた。そこからタクは独立へ向けて考え始める。
昼食を食べていると、かつて働いていた大手メーカーで上司だった神崎ヒロシに声を掛けられた。今は独立し、会計事務所とコンサルティング会社を経営している。やり手だ。タクは神埼に、独立する計画があることを話、相談に乗ってもらうことにした。神崎のアドバイスは的確で、タクが有望なビジネスのアイデアを思いついたこともあって、タクの会社は急成長を遂げることになる。
しかし、本題はここからだ。タクは、順調に成長しているはずの会社で、様々なトラブルがあることに気付く。ユキコとの関係もうまくいかない。それを神崎に相談しようとすると、まるで神崎はタクの会社や家庭の内情でも知っているかのように、きっとタクは今こうなっているんだろうね、と指摘する。一体神崎は、何故タクの会社や家庭のトラブルを予測することが出来るのか…。
というような話です。

なんとなくミステリっぽい内容紹介になっちゃいましたけど、別にそういうわけではありません。ただ、物語の展開のさせ方こそミステリ的ではありませんが、神崎が何故タクの会社や家庭のトラブルを予測出来たのか、という話は、まるでミステリの解決編を読んでいるかのような感覚になりました。

そう、タクが経験するトラブルは、きちんと原因や理由があるものであり、それは会社の成長と共に必然的に起こりうるものなのだ、ということを本書では指摘するわけです。

例えば、著者自身が経験したトラブルには、こんなものがある。

・長男が奇病に罹る
・長女が腸閉塞になる
・家に帰ったら妻がおらず、離婚届がポストにある
・社員が立て続けにメニエール病で倒れる
・同志のコンサルタントがうつ病になり、その後自殺

そしてこれらのいくつかは、青島タクが経験したこととして物語の中でも描かれる。

著者はこれらを、起業の成功による副作用のようなものとして原因追求する。もちろん、科学的に立証できるようなものではないが、本書の中で神崎の口を借りて語られるそれらの原因は、非常に納得感がある。なるほど、そういう説明であれば、100%ではないにせよ理解できる、というような説明をするのだ。

その過程で神崎は、「起業」というものをかなり詳細に分割して捉えてみせる。成長する過程で必要な役割、時期ごとの会社のあり得べき状態、起業家の精神状態などなど。そういったことを細かく捉えた上で、その過程のどんな要素がどんなトラブルに繋がっているのか、という説明をしていく。

先程も書いたが、もちろんこれは科学ではない。本書で描かれる説明が、必ずしも合っているとは限らない。しかしその点は、あまり問題にはならない、と僕は感じた。何故なら、起業家の状態や行動(=「行動」と呼ぶ)が「原因」となって「トラブル」が起こると推測しているわけだが、仮にその「行動」が「トラブル」の「原因」でなかったとしても、その「行動」は避けるべきだと感じられるように本書では描かれているからだ。

もう少し具体的に書こう。本書では、「長男が奇病に罹ったこと」(=「トラブル」)の「原因」が、青島タクの「行き過ぎたプラス思考」(=「行動」)にある、と捉えている。もしかしたら、この捉え方は不正解かもしれない。しかし、それは問題ではないのだ。本書を読めば、「行き過ぎたプラス思考」が「長男が奇病に罹ったこと」の「原因」でなかったとしても、「行き過ぎたプラス思考」を抑えるべきだ、と感じられるようになる、ということだ。仮にそれが直接の原因でなかったとしても、それは悪いものであると認識させられる。そこに本書の大きな意味があるのではないかと思う。

だから、「トラブル」の「原因」として指摘した「行動」が理屈に合わない、と仮に感じたとしても、そのことのみによって本書で書かれていることを単純に切り捨てるのはもったいないと思う。僕は理系の人間なので、やはり科学的に証明できないものに全力で寄りかかるのか怖いと思うし、本書で描かれる「原因」の指摘には、そこの関連性は弱い気がするなぁ、と感じるものもあった。それでも、その点をもって本書を非難する気にはならない。因果関係が仮に証明できなかったとしても、「原因」として指摘された「行動」を取るべきではない理由が伝わると思うからだ。

本書を読むと、「そういう視点から起業という行動や会社という存在を見るのか」と感心させられることが何度もある。今まで「起業」など考えたこともなかったし、「会社」というものも真剣に捉えたことがなかったのだけど、様々な形で「起業」や「会社」を単純化して捉えることで、その本質を捉えようとする視点が面白いと感じた。

本書は、「どうビジネスを軌道に乗せるか?」に対する直接的なヒントも様々に散りばめられている。それらのアドバイスも、実に面白い。「どうお客さんを集めるのか」「少数の大手のクライアントに頼るのは危険」「お客さんの声にこそヒントがある」など、ある意味では当たり前かもしれないのだけど、タクが軌道に乗せようとしている実際のビジネスのアイデアの実例と共にそれらが語られることもあって、非常に分かりやすい。

しかしそういう「どうビジネスを軌道に乗せるか?」という話は、恐らく本書でなくても学べるだろう。やはり本書は、「起業すること」や「会社という存在」の捉え方や、それらをどう活かしてトラブルを回避するのか、という点にこそ主眼がある。

『タク、仕事のために、家庭があるんじゃないんだぞ。家庭が幸せになるために、仕事があるんだ。履き違えるんじゃない』

恐らく多くの人が、「そんなこと分かってる」と思いながら起業するのだろう。しかし、分かっていないのだ。行く先にどんな落とし穴が待ち受けているのか、知らないから「分かってる」などと言えるのだ。

「分かっていないのだ」と思って、謙虚に学ぶことが大事なのだろう。本書は、そのスタートラインに立たせてくれる一冊だと思う。

神田昌典「成功者の告白 5年間の起業のノウハウを3時間で学べる物語」

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【―お笑いクラブって何をするんですか?
みんなでネタを考えて、披露するんです。私、小学校低学年の頃はすごく活発な子供だったんです。それが3年生ぐらいでちょっと変わって、「いや、でもまだ明るくいくんだ!」って思って4年生でお笑いクラブに入ったんです。でもやっぱりなんか違うなって思って1年で辞めました(笑)】「ENTAME 2016年10月号」

【―小学3年生までは「みんなと仲良くて、自分からひとりでいる子に声をかけたりする子」だったんですよね。
そうですね。
―その性格が変わっていった理由を、ぼんやりでいいので教えてもらうことはできますか?
いろいろあるんですよ(笑)。優等生ではなかったんだけど、弁論大会に出て賞をもらったことで全校生徒の前で発表した時があって。ブラスバンド部として全校生徒の前で披露する機会があった時は、木琴が一番難しくて一番憧れのパートになる曲だったんですけど、私がオーディションに受かって木琴を演奏したんです。慕われるような存在でもないのに、そうやって人前に立たされる機会があったことで、先輩にチクチクと言われることもあたし、同級生で取り立てて仲のいい子もいなかったし、いじめられてるわけじゃなかったけど、女子って面倒くさいので少しずつみんなとずれていったというか。】「EX大衆2016年5月号」

【中学デビューしたかったんですけど、まわりにビビってできなくて。でも、ついていくためにイケイケ風な女子を演じていました。途中から女の子特有の面倒くささを感じるようになりました。いまでは無理して自分を作っていたことを後悔しています。イケイケ風な女子も乃木坂初期のいちごみるくキャラも本当の自分じゃなかったんです】「OVERTURE Vol.009」

【中学生のときは、ハッピーエンドの恋愛小説も読んでいたんですよ。変わるものですよね(笑)】「Graduation 高校卒業2017」

【といっても、小さい頃はそんな子じゃなかったんですよ。いろんな本を読んで人間の心理を知ったことで、友達に対しても1つフィルターがかかってしまい、群れて行動するというのができなくなったんですよね】「アイドルspecial2016」

【知り合いに乃木坂のオーディションを勧められたんですけど、最初はイヤで。AKBさんがちょっと好きだったから、そういう存在に自分がなるのもどうだろうなと思ったし。
私はその頃暗かったのもあって、母親からも受けてみなよって言われて、最終的に応募したんです。で、オーディションで審査をするスタッフさんや大人の方と接していくうちに、“こういう芸能界の裏側を見てみたいな”と考えるようになって、この世界に入ってみたいなと思ったんです(笑)】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」

【―当時AKBやハロプロが好きだったこともあり、過去のインタビューでは「アイドルに助けられてきたので、『私もそんな存在になりたい』という気持ちになって乃木坂46のオーディションを受けました」と語っていた飛鳥。改めて質問すると、オーディションを受けた理由はそれだけではなかった。
それもあるんですけど、知り合いの方にオーディションを勧められたのもあって。私は乗り気じゃなかったけど、母親に「アンタは暗いんだから」と促されて受けることになったんです。
(中略)
私は人生を掛けるほどでななかったので、オーディションに合格したと知った時はかなり意外でしたね。】「ENTAME 2016年9月号」

【―その辺は冷めてたんですかね?
冷めてますね、結構。乃木坂に入ったのも別に、『アイドルをどうしてもやりたいから入ります』というわけでもなかったし。】「MARQUEE Vol.112」

【だいぶ話はさかのぼるんですけど、乃木坂46に入ってから2、3年くらいは『自分が乃木坂46にいる』という感覚があまりなかったんです。当時は中学生だったこともあり、物ごとを真剣に考えていなくて。活動に対して意欲がないとかそういうわけではなく、自分なりに一生懸命取り組んでいたつもりだったけど、いま振りかえってみると、自分のすべてが薄っぺらかったなと感じるんです。】「blt graph. Vol.14」

【それまでの私って、ただ流れに身を任せて生きていたので、別にやりたいこともなくて。昔はみんなと一緒にいるのが楽しいから、乃木坂にいるみたいな感じでした。】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」

【でも、乃木坂に入ってなかったら本当にどうなってたんだろう?きっとヤバいヤツになってたでしょうね】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」

【―アイドルとしての理想像はありますか?
最初の頃は「THEアイドル」になろうとしてたんですけど、王道じゃなくても受け入れてくれる人がいることを知って、その理想像はなくなりました。アイドルらしくない道もあると分かった途端、どうやっていたのかも忘れてしまって(笑)。最近は、「自分はアイドルなんだ」とはあまり意識してないというか】「EX大衆2016年5月号」

【アイドルの好きなものは苺だと思って、でも、苺だけだと狙いすぎかなと。「ああ、いちごみるくにしよう」と考えたんです。そして、今以上に自分の武器がなかったので「最年少」を武器にしてしまえと思っていました。
今は「いちごみるく」を後悔しているけど(笑)、当時はそれが正解だと思っていたんですよ。私の想像するアイドルをやらなきゃいけないんだって。ただ、無理をしていたというわけでもないんです。当時は今よりも無邪気さがあったので(笑)、そんなアピールが自然な行為だと思っていました。】「ENTAME 2016年9月号」

【理想のアイドルは自分と逆ですね。だって暗いアイドルとか意味分からないじゃないですか】「BRODY 2017年2月号」

【(理想のアイドルを演じることは)無理ですね…。あっ、でも頑張ったら出来るかもしれないです。ただ、それをする価値を見いだせてないっていうか。たぶん怖いんでしょうね。いろんなことを言い訳にして、自分を納得させてるだけだと思うんですけど】「BRODY 2017年2月号」

【「私、今思うと、本当に何も考えずに乃木坂に来た気がします」
今では、選抜常連になりつつある齋藤飛鳥。彼女は当初、「選抜に対して、思い入れはなかった」と語る。】「乃木坂46物語」

【―普通はセンターを目指すとか競争すると思うんです。飛鳥さんはそういうのに影響されずに?
最初の頃はありましたね。最初の“ぐるぐるカーテン”で選抜メンバーに選んでもらったので、その次から何枚かアンダーで活動したんですけど、その頃は結構『悔しい!』って思ってました。】「MARQUEE Vol.112」

【その後、全国握手会で、『走れ!Bicycle』をファンの皆さんの前で初披露するときも、ステージ上で、選抜メンバーがスタンバイするのを、アンダーメンバーが幕で隠すっていう演出があったんです。私たちは、乃木坂ジャージで、布の中にはキラキラの衣装を着た選抜メンバーたちがポーズをとってるんです。
リハのときもスタッフさんに『幕も笑顔でやりなさい!』って言われて。笑顔になんてなれないじゃないですか。…新曲の初披露なのに、もうボロボロ泣きました。】「乃木坂46×プレイボーイ2015」

【14年は自分探しからスタートしました。横浜アリーナのライブリハでだれてしまったとき演出家の方に「これだけ大人数だと、あなたがいなくても成り立つんだよ」と言われて。そのときはショックではあったんですけど、すぐに「あなたがいないと成り立たない」と言われる存在にならないといえないなと思ったんです】「日経エンタテインメント アイドルSpecial 2015」

【最初、アンダー曲(※「扇風機」)のセンターと聞いた時はプレッシャーもあまりなくて、ただただうれしかったんです。だけど、MVの撮影でV字型のフォーメーションの一番前で横にも誰もいない状態を経験した時に寂しさと難しさを感じて。「センターって、もしや楽しいだけじゃないのかな」と思うようになったんです。
この頃かな、今もそう思っていますけど、個性がないことに気付きはじめてすごく焦りだしたんです。「何かを極めたいけど、どうしたらいいのかわからない」という時期がしばらく続きました。】「ENTAME 2016年9月号」

【(アンダーの)センターに立ったのは、アンダーライブがない時期。6枚目のときだったので。でも私は、逆にその時期にできたことをすごく誇りに思ってて】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

【―8thシングル「気づいたら片想い」で再びアンダーに戻った時期が、飛鳥にとって一番ツラかったという。
「気づいたら片想い」で乃木坂46が「ミュージックステーション」に初めて出演したじゃないですか。乃木坂46というグループが世の中に浸透しはじめていることを実感する一方で、自分は選抜に入っていない状況があって…。
シングルの特典としてアンダーライブが行われたこともあって、「まいやん(白石麻衣)をはじめとした選抜常連メンバーと自分は別のグループなんだ」と考えることで、無理やりにでも自分の気持ちを割り切ろうとしたんです。】「ENTAME 2016年9月号」

【それまではガムシャラな姿を見せることがカッコ悪いと思っていたんです。だけど、ガムシャラな姿を出すことでファンの方が喜んでもらえることがわかったので、全力でパフォーマンスできるようになって。とくに2014年10月のアンダーライブ2ndシーズンで意識が変わって、本気で乃木坂46に向き合うようになりました。】「ENTAME 2016年9月号」

【アンダーの時期がなかったら、きっと今、ライブが好きじゃないだろうし】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

【なんか私の中でアンダーって特別で、割と私は選抜に行っても、センターをやっていても、アンダーメンバーと一緒にいるときのほうが安心するんですよね】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

【―CUTiEの前後で、飛鳥さんの何が変わったと思いますか?
もう全部変わりましたね。前まではあんまり写真に撮られることは好きじゃなかったんですよ。自分の見た目とかがそんなに好きじゃないというか(笑)。コンプレックスが多いのであんまり写真に残されるのが好きじゃなくて。ちっちゃい頃もいつも横を向いていたり、目を隠していたりしてましたね】「MARQUEE Vol.112」

【洋服を買う時、今年の頭くらいまではお母さんと伊藤万理華の指示に従っていました。買い物中にいちいち写真を撮って、2人に送って確認をとっていたんです。万理華にはコートとか大きい買い物の時だけなんですけど】「OVERTURE Vol.009」

【私は自分の見た目にコンプレックスだらけですけど、CUTiEの専属モデルをやらせて頂いたことで、周囲の人から“どう見られているのか”の大切さがわかって来て、普段の生活からどう過ごすべきかを学べたことが、人生ですごく大きい】「乃木坂46 夢の先へ」

【それまではカメラを向けられること自体が苦手だったんです。ただ、最初の「CUTiE」の表紙が好評だったので「メイクが変われば私が写真に残っても大丈夫なんだ」という気持ちになって、そこからは楽しさが大きくなりました】「ENTAME 2016年9月号」

【その頃は、実力や人気ではなくて「CUTiE」のおかげで選抜に入ることができたと勝手に思っていたので、ファンの方に「アンダーのフロントのほうがよかったんじゃないの?」と言われても「いやいや、『CUTiE』さんが用意してくれた席なんだから」と心のなかで呟いていました。】「ENTAME 2016年9月号」

【生駒ちゃん本人は覚えているかわからないけど、「アンダーにいる若い子たちにとっては飛鳥ちゃんが希望なんだよ」と言われたのがうれしくて。アンダーにいた回数と選抜にいた回数が同じだったし、アンダーメンバーの気持ちも分かっているつもりなので、若いメンバーには「アイドル向きじゃない齋藤飛鳥でも前にいけるんだ」と思ってほしいです】「ENTAME 2016年9月号」

【今でも選抜、アンダーのどっちがいいのかと聞かれると考えてしまいます。誤解を恐れず、理想を言えば「選抜に選ばれて、うれしい私」でありたいです。でも、選抜やアンダーのどこにいても「齋藤飛鳥はここにいます」というのを見せられれば幸せですよね。】「日経エンタテインメント アイドルSpecial 2015」

【でも実際、今はセンターにいないわけだし。逆に“私がセンターになったら、本気で売れると思ってるんですか?”ってみんなに訊きたいです】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」

【―ではこれまで、センターに立ちたいと思ったことはないのだろうか。
ほぼないですね。もともとセンターを目指すようなタイプでもないし、むしろ私がなると万人受けしないと思うし。本当にダメだと思うんですよ…って、ネガティブ過ぎますかね?(笑)
―自分が万人受けしないと言い切ってしまう、その理由も訊いた。
もう、全て。顔も万人受けしないですし、考え方や発する言葉もアイドル向きじゃないし。少なくともこんな暗い話しか出てこないところがダメだなって(笑)多少は明るさもないと!】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」

【今もですけど、センターになりたいっていう気持ちは別になかったので。福神も自分には無縁だと思ってました
―その頃の飛鳥さんは何を目指してたんですか?
特に何も目指さずただ居ただけって感じです。ただ今やる事をやってるっていう感じだったので】「MARQUEE Vol.112」

【もともとアイドルになりたくて乃木坂46に入ったわけではないし、センターは予想外すぎました。しかも『裸足でSummer』は夏曲じゃないですか。初めて曲を聴いたとき、これ絶対笑顔で歌う曲だ、とさらにプレッシャーがかかりました。でも、センター発表直後の『乃木坂工事中』(テレ東系)の放映を見て、自分の発言はほかのメンバーの気持ちを考えていなかったなと反省しました】「アイドルspecial2017」

【責任感や覚悟は必要だったけど、センターだからって無理して自分を変えることはない。私なりのセンターをやっていこうって。
実際センターに立ってみると、いろいろな発見がありました。私は意外とアイドルスマイルができるんだとか(笑)、こんなに粘り強く物事に取り組めるんだなとか。】「アイドルspecial2017」

【―感情をあらわにすることに抵抗がありますか?
多少はありますね。どんなに身近な人や親しい間柄でも、べつに見えなくてもいい部分はあるじゃないですか。だから、感情をそのまま出す必要はないのかなと思います。『もっと本音を見せてほしい』と言われていたし、もちろんそういう気持ちも理解していたけど、でもやる必要性をあまり感じていなくて。単純に頑固っていうだけなのかもしれないけど】「blt graph. Vol.14」

【―今回、センターを務め上げたことで齋藤さんが得た最大の収穫はなんだと思いますか?
なんだろう…「人間になれたこと」がいちばんの収穫ですね】「BUBUKA 2016年11月号」

【去年の夏ぐらいから、またちょっと人間らしくなったんですよ。「裸足でSummer」で初めてセンターをやらせていただいたときに、びっくりするぐらい周りがやさしかったんです。もちろん、いつもやさしいんですけど、私に不安しかないのを感じとって、私の性格も理解した上でいつも以上にやさしくしてくれて。そのやさしさにびっくりしつつも“なんだ!”人間っていいじゃん!って思えたんです。そのあたりから、ちょっとずつ“今、楽しい!”とかっていう感情を表に出せるようになって、人間らしくなってきたと思います】「Graduation 高校卒業2017」

【自分がどうかよりも、周りのメンバーの気持ちに気づけるようになったのが成長かもしれない。つらかったけどセンターを経験してよかったです】「日経エンタテインメント!2017年2月号」

【―飛鳥さんは以前と比べると、後ろ向きな発言も減りましたし。
『裸足でSummer』のときにあまりマイナスなことを言わないようにしようという意識でやっていて、それがたぶん染み付いて、わりと当たり前になったのかな】「BUBKA 2017年6月号」

【―昨年、センターを経験しても自信がついてこないんですか?
センターになっても、自信につながることはありませんでした。あの時期の経験は、まわりに助けてもらうことによって自分の至らなさを知ることにつながりました。それを反省して次に生かすっていう方向に持っていきたいですね】「FLASHスペシャル グラビアBEST」

【―確かに、飛鳥さんには今求められている感じが強いですし。
いやいやいや、全然全然。
―まだそういう認識はないですか?
ないですないです!
―でも確実にグループを牽引してるメンバーのひとりというイメージがありますが。
全然ですよ(苦笑)。そこに対する自信はこれからかなぁ】「BUBKA 2017年6月号」

【―センター期間をやり終えて、飛鳥さんのなかに何が残りましたか?
残ったというか、乃木坂46に対する考え方がだいぶ変わりました。グループのことも、グループのなかにいる自分のことも。
―具体的にいうと?
グループ内における自分の認識の仕方ですかね。前までは、べつに自分の存在がグループにとってそこまで大きいものではないので、自分のことを『乃木坂46として認めてない』っていう見方だったんです。『私はまだ認めてないからな』って。
―自分を突き放しますね
自分はグループのために何もできていないという意識が強かったし、むしろ『乃木坂46』という名前を使って何やっているんだ、という気持ちだったので。でも、センターをやらせてもらって、自分がここにいる意味だったり、役回りが理解できるようになりました。こういうふうにがんばればいいのか、っていう道がちょっと見えてきたというか。
―自分を認められるようになった?
乃木坂46にいても害はないかな、っていうくらいですけどね(笑)】「blt graph. Vol.14」

【実は、すこし前までは“次世代”という言葉に抵抗があったんですよ。1期生として最初からみんなと一緒に頑張ってきたつもりなのに、この4年間は何だったんだろう…って。でも、最近は、期待していただけているんだと思って、ありがたく受け止めています。私がグループの未来を担う、なんて大それたことは思わないけど、以前よりは欲が出てきたし、もっとグループに貢献したいと思うようにもなってきましたね】「FLASHスペシャルグラビアBEST 2016年新春特大号」

【―周りからの見られ方も、その時期から変わり始めたのも事実。そんな彼女は今、グループ内での自分の役割をどう分析しているのか。
みんなといると実感するんですけど、私って薄いなって思うんです。特に選抜メンバーは個性が強い子ばかりですし、何をやっても恥ずかしいことにはならない。そういう何事もうまくやる子たちと一緒にいると、“私にはこれがあるから、ここにいられます”みたいな武器がないなって気付かされるんです。
だからといって、そういう武器がほしいかと言われると…必要な時もあるんですけど、でもそういうのって周りから付けていただくものだと思うので。自分からこれをやろう、あれをやろうみたいなことは考えてないです】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」

【「こんな大人になりたい」はないです(キッパリ)。流れに任せたいし、「こうなりたい」と思いながら生きていくのが嫌なので。「こんな大人になりたくない」というのはたくさんあるんです。それと、友達は少ないけど、同年代の子を遠くから観てうらやましいと思ったこともないので、いまのところは乃木坂46に専念できるかなって思います。この先はどうなるのか分からないですけどね】「EX大衆 2016年9月号」

【―最後に、未来に向けて今の気持ちを。
大人になると“高校生のことに戻りたい”って、みんな言うじゃないですか。私の周りにも多いし、私もいつかそう言うのかもしれないし、それは別に悪いことじゃないとは思います。でも、大人になっても高校時代に戻りたいと思わなくて済む生き方ができれば、本当はそれがいいんだろうなって思っています】「Graduation 高校卒業2017」

【私がすごい弱っちい人間なので、期待を裏切られてショックを受けるのが怖いんです】「BRODY 2017年2月号」

【たぶんね、何に対しても期待をしたくないんですよ。期待をしてここに来たはずなのに、その期待を裏切られることが多くて。でも“そんなもんだよな”と思ってる自分がいつつ」、まだどこかで期待したい自分もいつつ、みたいな。いろんなのが混ざり合って、今の私ができたんだと思います】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」

【―いまも「世の中そんなもん精神」はあるんですか?
はい。9枚目、10枚目くらいから思い始めたんですけど、その頃はまだスタッフさんに褒められたらそのまま鵜呑みにして、期待に胸をふくらませていたこともあったんです。でも、結果的に期待はずれになることも多いと分かったので、いまは「世の中そんなもん精神」がより強固になってます。
―「世の中そんなもん精神」は、ビートたけしさんの「人生に期待するな」という言葉にも通じるなと思うんです。その分、冒険ができるというか、モデルなりラジオなり新しいジャンルにも恐れず飛び込めるのかなかって。
そうですね。小さいことで「うれしい」と大きく感じることもできるようになりました。「世の中そんなもん精神」があるから何に対しても高望みしないので、うまくやれている部分もあるのかなと思ってます。】「EX大衆2016年5月号」

【うーん、でも私はどんな意見も受け入れるというか、あえて自分のことを調べたりはしないけど、批判的な意見にも「参考になります」と思えるタイプなんです】「OVERTURE Vol.009」

【でも結局、私自身そこまで納得しようと思ってないというか、納得する気がないので、誰かに相談してスッキリしたいとか、自分のなかでこれを解決したいとか考えたことがあまりないですね。だって“納得することってなくないですか、世の中って?”って考えになっちゃうんですよ。】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」

【私、なんに対しても“こだわりを持つ”ってことが好きじゃなくて。もちろんいい方向に進む努力はしますけど、なるようになってくれればいいし、私は絶対にこうなりたいって夢は持ちたくない。自分にも、周りにも、あんまり期待はしたくないんです。そのほうが、ワタシ的にはいい意味で楽なんですよね】「Graduation 高校卒業2017」

【私、「このジャンルに向いてるよね」って言われるのが好きじゃなくて。曲によっていろんな見え方ができたほうがいいかなと思っているので、それは意識していますね】「ENTAME 2017年5月号」

【私は個人的に“飛鳥はこういうイメージだよね”って決められるのがあんまり好きじゃなくて。
だからこそ、いろんな方面の仕事をさせてもらえるようになって、自分のいろんな面を見せなきゃいけないなっていう意識はより強くなってます】「別冊カドカワ 乃木坂 Vol.2」

【私はファンの皆さんが抱いている私のイメージをまるまる全部は認めてはいないんですけど、自分らしさは自分が決めるものだとも思っていないんです。だから、齋藤飛鳥として求められるものにきちんと応えていきたいと思っています】「アイドルspecial2017」

【でもなんか、昔に比べて人に流されることがなくなってきていて、それが自分的にはいいなって感じることが多いんです。だから、今後も流されずに自分の考えを持ってやっていけたらって思うんですけどね。例えば、今は若いから何を言っても中2病とかメンヘラとか言われるんですけど、大人になってもずっとそんな感じで言い続けたら、中2病でもメンヘラでもなくて、根本的に性格がひん曲がっているだけなんだなって(笑)、わかってもらえる!
―齋藤飛鳥は、決して中2病でもメンヘラでもないんだぞと。
違いますよ。ただ、今はそう思う人はそう思ってくれてもいいんですけどね。時間がかかってもいいから、いつか理解してくれたらいいなって思います。】「Graduation 高校卒業2017」

【最近握手会やブログのコメントでうれしいのが、以前は「見た目」で好きになってもらう方が多かったんですけど、「考え方が好き」という方が増えたこと。「見た目」を好きになってもらえるのもうれしいけど、「見た目」が変わったらどうなってしまうんだろうという不安もあるし、「若さ」は必ず失われますから。
でも、「考え方」は基本的には変わらないので、そこを好きになってもらえるのが嬉しいんです。自分を認めてもらったような感じがします。】「日経エンタテインメント アイドルSpecial2016」

【あ~。世間の方にみんなのよさがどこも捻じ曲がることなく伝わればいいなと思ってます。
―自分自身は?
自分のことが捻じ曲がって伝わるのは、「もうしょうがない」と思ってるので大丈夫です】「EX大衆2017年5月号」

【もとから真夏のことは大好きだったんですけど、たぶんどこかで胡散臭さを感じていたんですよ(笑)】「BUBUKA 2016年11月号」

【もともと私はネガティブだから不安やプレッシャーはずっと抱えた状態ではあったんですけど、でも誰かに言うほどではなかったし、言うのもダサいから自分のなかに留めていたんです。ただ、一度だけどうしても我慢できなくなっちゃったときがあって。(中略)
そこで話を聴いてもらったときに「あ、真夏には言えるな」と思って。それから真夏にだけ話したりとか、言わなくてもなにかあったら目が合ったり(笑)】「BUBUKA 2016年11月号」

【真夏とは似てるところも結構あるんですけど…でも、なんか私が持ってないものをすべて持ってる印象があって。真夏は頭がいいし、やってることに無駄がないし。なにをやらせても恥ずかしいことにならないのもかっこいいですよね。あとはもう人間力。真夏だからこそ、こういうキャラでいれるというのはあると思います。私は誰からも好かれたいとは思ってないんですけど、でも真夏みたいにこれだけ周りから愛されているひとを見ると、そういう人生もアリなのかなってすごい思います。】「BUBUKA 2016年11月号」

【(最年少で得したことについて)あ、私は橋本(奈々未)が好きなんですけど、中学生のことはどうやって愛を表現すればいいのかわからなくて。たぶん、ちょっと歪んでいたんでしょうね。あの、きのこのお菓子があるじゃないですか?あれの上のチョコの部分だけ自分で食べて、棒のクッキーの部分を橋本に渡すっていう。よくわからない愛情表現を14歳のことにしていたんですよ。もう意味がよくわからないじゃないですか。でも橋本は、中学生なのにこんなに考えて私に愛を伝えてくれたって、理解を示してくれたうえにブログにまで書いてくれて。そんなことされるの絶対イヤなはずなのに、きっとこれも若さや無邪気さということで受け入れてもらえたんですよね】「BUBUKA 2017年5月号」

【なんだろうな。私がけっこうネガティブで暗いことをよく言うんですけど、奈々未は「私もそう思うときがあるよ」と共感してくれる。それと、ずっと言い続けてくれてるのが「飛鳥にはもっと気楽に生きる方法を覚えてほしい」という言葉で】「EX大衆 2017年1月号」

【なんか、奈々未のふとしたときに出る言葉って、すごく重みがあるの。この人は嘘をつかないんだって、心の奥底で信頼してる部分があるから、本当に素でいられるんだと思う。末永くこの関係でいたいな】「乃木坂46×プレイボーイ2016」

【(橋本奈々未)憧れている部分が大きいから、奈々未に質問や相談をすることが多かったのかなって。奈々未は嘘をつかないし考え方も近いから、その答えに納得できて、奈々未が示した道なら間違いないと思えるんです。5年間、ご飯に行ったこともないし、互いの気持ちをそこまで話したかといえばそうじゃないかもしれないけど、信頼し合えていた不思議な関係です】「OVERTURE Vol.009」

【礼儀とかはちゃんとしたいなって思ってます。チヤホヤされがちじゃないですか、アイドル。もう5年間もチヤホヤされ続けてきて、でもそのチヤホヤを真に受けず、それを疑って生きてこれたってことは、逆に社会に出ても普通に生きていけるんじゃないかなって思うんです】「BRODY 2017年2月号」

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喪失は、持っているからこそ感じる。
持っていないものを、失うことは出来ない。

『消えてなくなってしまうものにこそ美しさがある』

確かにその通りなのだろうとは思う。でもそれを「美しい」と感じられるのは、それが元々自分のものではない場合だけだろう。

自分のものであれば「消える」とはなかなか表現しない。「失う」となるだろう。「消える」と表現できるものは、元々自分のものではなかったのだ。だから「美しさ」を感じることが出来る。

あるいは、失ったものにも、「美しさ」を感じることは出来るものだろうか?

失いたくないから、何も持ちたくないと思ってしまう。
どうも昔からそう思うことが僕にとっては普通だった。
モノも人も概念も、あまり持ちたくない。
いずれそれらは、失われてしまうと思っているから。
その喪失に、自分が耐えられる気がしないから。

目が見えない人にも、色んな方がいる。
生まれた時から見えなかった人もいれば、途中から見えなくなった人もいる。
僕にはどちらの気持ちも分からない。
恐らく、両方の気持ちを同時に理解できる人はまずいないだろう。
その上で、こんなことを考えてしまう。
どっちの方が、よりダメージは少ないだろうか、と。

「喪失」という意味で言えば、生まれた時から見えなかった人は何も失っていないかもしれない。初めから持っていなかったのだから。
けれど、最初から見えない場合、「想像する」というのはどういう行為になるのか。
見えていた記憶がある人は、過去に見たものや見たものからの類推で「想像する」ことは出来るかもしれない。
しかし「見た」という記憶がない人は、一体何を想像しているのだろうか?

何に「美しさ」を感じるのだろうか?

内容に入ろうと思います。
視覚障害者向けに、映画の音声ガイドの文章を作る仕事をしている尾崎美佐子は、日々目に映るものを音声ガイドのように切り取っていく。モニター会で自分の考えたガイド文を映画に当てはめながら朗読する。そのモニターの中に、中森雅哉がいた。モニター会で、美佐子に厳しい意見を言った人だ。上司に見せてもらった写真集で、中森がかつて名の知られた写真家だったことを知る。
中森は、僅かに視野が残っている。公園で彼を見かけた時、美佐子は中森の手に二眼レフカメラを認めた。今もまだ、カメラを手放さないでいるらしい。
届け物をしたことをきっかけに中森の部屋に上がることになった美佐子。少しずつ、中森雅哉という人物の内側に触れていく。
美佐子には年老いた母がいる。認知症だ。面倒を見てくれる人がいて、すべてその人に任せきりにしてしまっている。時々顔を見せに行くが、母が何を見ているのか、美佐子には分からない。
中森は久々に、かつてのカメラマン仲間と飲みに出かける。「もう撮らないんですか―」そんな言葉にも、笑って返答する。その帰り道、吐瀉物に滑って転んだ中森は、地面に転がった二眼レフカメラが誰かに持ち去られたことに気付く…。
というような話です。

なかなか素敵な映画でした。たぶん色んな見方が出来る映画で、見る人によってどこに感じ入るかが変わってくるんだろう、という感じがしました。

僕はやはり、冒頭でも書いた「喪失」という部分に一番惹かれました。視力を失った写真家がどう生きるのか。

『一番大事なものを捨てなきゃいけないなんて辛すぎる』

という言葉は、想像するだけでも辛い現実を切り取るものだと思います。

また「喪失」は、記憶の喪失という形でも出てきます。美佐子の母もそうですが、美佐子が音声ガイドを付ける短編映画でも、認知症を患った妻とそれを介護する夫の物語となっている。この短編映画は、「光」本編のエンドロールの後に流れる。こちらの映画も、「光」以上に文学的という感じで、「喪失」とそれに抗うことを止めた者の緩やかな時間が描かれていると感じました。

『映画の音声ガイドは、彼ら(視覚障害者)の想像力を理解すること』

なるほど、と思うと同時に、それは激しく困難だ、とも感じました。目の見える人間が、目の見えない人間の想像力を想像する。そんなことが出来るのだろうか?

ただ、なるほどと思わされるセリフがあった。

『私たちは映画を観ている時、いつの間にか映画の中にいる』

僕たちにとって「映画を観る」というのは、「スクリーンを見る」というのと同じだろう。しかし視覚障害者にとっては、「映画の世界の中に入っている状態」なのだという。

『映画は私たちにとって、とても大きな世界なの。その大きな世界を言葉で小さくしてしまうこと程、残念なことはない』

なかなか厳しい言い方だが、非常に的確で分かりやすい表現だと感じた。

映画を観ていて感じたことは、登場人物たちが「セリフを喋っている」ような感じが全然しなかったことだ。主演の永瀬正敏と水崎綾女の二人はともかくとして、そうじゃない人たちは皆、映画の撮影などということとは関係なしに、普通に喋っているように見えた。特にそれを感じたのが、モニター会のシーンだ。本当に、実在するモニター会を見ているような感じがした。あのモニター会にいた人たちが本物の役者なのか、あるいはそうでないのか僕には分からなかったが、あの雰囲気を「演技」によって生み出しているとしたら、ちょっと凄まじいな、と感じた。

ちゃんと映画全体を捉えきれたか自信はないけど、なかなか素敵な映画だったと思います。

「光」を観に行ってきました

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学校の先生とは、あんまり相性が良くなかったなぁ、と思う。今振り返ってみれば、その理由ははっきり分かる。

僕は今でも、決められたこととかルールみたいなものが嫌いだ。自分の中でしっくり来るような内容であっても、それが「ルール」として定められているということに対してイライラしてしまうことさえある。

そして、まさに学校というのはルールの宝庫だ。「しなければならないこと」も山ほどあるが、「してはならないこと」も山ほどある。

そういう環境が、僕には窮屈だったなぁ、と思う。

子供の頃は表向きとても優等生だったので、ルールに対してさほど抵抗するようなことはなかったような気がする。ただやはり内側では、おかしいと思っていたし、時々どうにも我慢が出来なくなって爆発することもあった。

ルール、というのとはちょっと違うのだが、未だに覚えていることがある。

確か中学の合唱コンクールだったと思う。その時の担任の教師は、僕の中で「先生がなんでも決めてしまう」という見え方をしていた。それに対する反発があったのだろう。教師が、合唱コンクールで歌う歌はこれです、と勝手に決めてきた時に、それはおかしい、と言って反発したことがある。

正直僕にとっては、合唱コンクールで歌う曲なんかなんでも良かったのだけど、やはり「勝手に決められている」ということが凄く嫌だった。それで、選曲を一からやり直すことにしたのだ(まあ、結局、クラス全員で決めた結果、教師が最初に提示した曲に決まったのだけど 笑)。

そういうルールに対する嫌悪感は、やはり教師に向いてしまう。今なら、教師だって「やらされている」のだということは分かる。教育現場のことは詳しく知らないが、恐らく「こうしなければならない」「こうしてはならない」という様々な規則でがんじがらめにされているのだろう。教師にもよるだろうが、必ずしも生徒に押し付けているルールに賛同しているとは限らない。

とはいえ、その辺りのことは子供の頃はよく理解できていなかったのだと思う。ルールを押し付けてくる人=教師、と図式ですべての物事を見ていたのだと思う。だからどうしても、教師という存在を受け入れることが難しかった。時々、この先生はいいな、と思える教師もいたのだけど、数は決して多くはない。

その後僕の人生には、教師の側から子供を見る、などという経験はなかったわけだけど、教師を主人公にした物語を読むことで、少なくとも子供の頃よりは教師のことが理解できるようになったと思う。そうなった今思うことは、やはり教師も迷いながら教えているのだろうなぁ、ということだ。

『やっぱり先生って情熱持った人しかなったらあかん仕事やと俺は思うぞ』

作中にそんなセリフが出て来る。

教師になる理由には様々なものがあるはずだ。全員が、教育に対する情熱を持ち合わせているわけでもないだろう。とはいえ、そういう見られ方をされる、というのもまた一面の事実ではある。特に、子どもを預けている親はそう願ってしまうだろう。自分の教師としてのあり方と、教師の見られ方のギャップに、多くの人は苦労するのではないかと思う。

とはいえ、教え導くことに喜びを見いだせるのなら、天職なのだろう。本書の「よし太」のように。

内容に入ろうと思います。
里田香澄は、面積の96%が山林という、奈良県の十津川村にある谷川小学校の新米教師だ。創立143年の歴史を持つこの学校は、しかし今年度で廃校が決定している。2年生2人、4年生2人、6年生3人に教師が4人という非常にこじんまりした学校だが、生徒への目が行き届き、地域で学校を中心に行事を盛り上げる、という形が悪くないと思っている。しかし一方で香澄は、自分が教師に向いているのかどうか分からないという悩みをずっと抱えている。
香澄は4年生を受け持つが、同僚の仲村よし太が受け持つ6年生の副担任もやっている。地域の代表者であり、よし太の同級生でもある古坂一護の息子で絵の上手い十夢。曾祖母、母の女三人で暮らしながら、アイドル(NMB)に入ることを夢見る美少女愛梨。災害で母を亡くし、家具職人である父と二人で暮らしながら、中学受験を目指している優作。廃校の決定した小学校において、彼らのスタンスはばらばらだ。十夢は、この素晴らしい校舎、そして学校が無くなってしまうなんてあり得ないと考えている。しかし愛梨と優作はそうでもない。どちらも、スカウトされて、受験に受かって、この村を出て行くことを第一の目標としている。
よし太は教師で、当然大人だが、大人とは思えないほどアホだ。子供たちだけで遊んでいるといつも仲間に入りたがるし、いつも鼻をほじっている。勉強だって特別出来るわけでもないから、中学受験を目指している優作には不満だ。香澄にとっても、なんでこんな人が教師をやっているんだろう?と思うような人だったが、しかし子供たちからは絶大な人気がある。
ある意味で地域の中核を成す存在である谷川小学校が無くなることが決定している中で、そこに住む者たちの想い、そこを出たいと思う気持ち、誰かを思って行動する勇気などが丁寧に描かれていく作品。

これは良い物語だったなぁ。スイスイ読めてしまうような結構軽いタッチで描かれている作品なのに、中身はそこまで軽々しくはない。重厚なわけではないけど、穏やかな日常の物語の中に、小学校を中心とした人々の人生が屹立し、どっしりと張られた根っこのたくましさみたいなものをじっと眺めるような、そんな力強さを感じさせる作品だなと思いました。

物語の中心になっていくのは、やはりよし太です。彼はこの物語のキーパーソンだと言っていいでしょう。よし太がいるのといないのとでは、本書はまったく別の物語になってしまうだろうと思います。それぐらい、物語の根幹に関わってくるキャラクターです。

とはいえ、アホであることには変わりありません(笑)。作中でほぼずっと、よし太はアホなことばっかりやっています。まったく教師らしくないですし、教師らしく見せようという気も本人にはないでしょう。

それでも、よし太がやっていることは、まさに「教育」なんだろう、という感じがしました。

本書では、対比の意味を込めてでしょう、香澄が東京の小学校に研修に行く、という場面が描かれる。全校生徒が7人しかいない学校から、生徒数1000人以上の小学校に研修に行くのだ。そのギャップたるや。しかし、その現場は疲弊していた。そこに「教育」と呼べるものがあるのかどうか、判断は難しい。何を持って「教育」とするのか、というのは人それぞれではあるのだろうが、多くの人が最終的に求めてしまう「教育」というのは、よし太が実践するようなものなのではないか、と僕は思うのだ。

よし太の教師としてのあり方を真似するのはかなり難しいだろう。鼻をほじればいいのか、子供にバカにされるような振る舞いをすればいいのか、というとそれは全然違う。形だけ真似してもダメなのだ。そこには、よし太なりの想いと情熱がある。よし太は、それがとても強いのだ。想いや情熱だけでは乗り越えられないものもたくさんある。実際によし太は、教員免許は持っているが教員試験には何度チャレンジしてもダメで、講師という立場で教師をやっている。それでも、想いや情熱で届けることが出来るものもあるのだ、とよし太を見ていると思わされるのだ。

メインで描かれる3人の6年生も実に良い。三者三様であり、村での生活や学校への思い入れなど様々な部分で違っている。関係性がうまく行かなくなってしまうこともあるし、お互いのことが理解できなくなってしまうこともある。それでも、たった3人しかいない同級生との関わり、そしてあらゆるものがない村での生活は、彼らに良くも悪くも様々な経験を与えることになるのだ。

彼らを取り巻く大人たちも良い。大人たちにも物語があり、その多くは「何故十津川村での生活を選択したのか」だ。子供たちには、村での生活に不満がある。しかも親たちは、村での生活から離れられる機会があった、ということさえ知ることもある。じゃあ何故ここでの生活を選んだのか―。それぞれの家族のそれぞれの物語は、「生きる」ということについて大事な何かを伝えてくれるように感じられるのだ。

不覚にも、随所で泣きそうになってしまった。物語の展開としては、かなりベタではある。何度も、先の展開を予測出来た。しかしそれでも、予測通りの展開であることが分かって泣けてくる、という状況さえあった。正直、優しい人間が出て来る優しい物語はそこまで好きではないのだけど、本書はそういう部分に対する抵抗をほとんど感じることなく読むことが出来たし、ベタな展開であっても読ませる力には感心させられた。

こんな学校も、こんな生き方もいいかもしれないな、と思わせてくれる作品だと思います。

浜口倫太郎「廃校先生」

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内容に入ろうと思います。
本書は、一風変わったバンド小説です。何せ、楽器を弾くことも歌を歌うこともなく物語が終わるからです!この小説のテーマは、「バンドメンバー探し」です。
まずは全体の設定から。
中学の頃、ブラスバンド部でドラムを担当していた森尊(通称:モリソン)は、三年間の集大成となるコンクールでドラムスティックを放り投げてしまい、すべてを台無しにしてしまった。そのことがトラウマとなってドラムから遠ざかっていたが、ある日いきなり状況が変わる。同じ学年の見知らぬ少女が、突然モリソンのクラスにやってきて、「おめでとう」と言うのだ。
「選ばれたから。あたしのバンドのメンバーに」
台風のようにやってきて唐突にモリソンをバンドメンバーに引き入れたのは、石塚七海。このバンドのボーカルでありリーダーだ。他に、ベースギターを担当する緒方凛がメンバーとして決まっている。凛のロックに関する知識はかなり深いが、何故かリーダーの七海は、ロックのロの字も知らないようなド素人。何故バンドをやろうと思ったのかもよく分からない。
しかし、とにかくバンド活動を始めるには、あとギタリストを探さなければならない。彼らは、あの手この手でギタリストを探そうとするが、その度に「人助け」のような状況に巻き込まれることになり…。

「Track.1」
インターネットのバンドメンバー募集掲示板で勝手に七海がギタリスト募集を掛けていた。それを見てやってきたのが「ショーン」、本名「宮前匠音(ショーン)」という高校一年生だ。彼は、前のバンドを追い出されそうになっていることに気づいて自分から辞めてやった、と話をした。聞くと、前のバンドのメンバーがこそこそと集まり、別のバンドのギタリストと接触しているのを目撃してしまったのだという。確かにそれは怪しい。とはいえ、彼が本当に辞めさせられるところだったのだとすれば、何か彼に問題があると言うことも出来る。その辺りの事情を彼らは探ろうとするが…。

「Track.2」
応募してきたのは、高校生の志度道康。シド・ヴィシャスのようなパンクロッカーの格好をして、見た目こそバンドマンっぽいが、ギターは最近始めたばかりだという。しかし七海は、技術よりも魂の叫びが大事なんだ、とか、ついさっき凛が講釈した言葉を使って志度を加入させようとする。しかし、志度の加入にはモリソンがまったを掛けた。実はモリソンは、志度のことを小学生の頃から知っている。昔はあんなパンクロッカーみたいな格好はしていなかったし、もっと大人しい奴だった。すると、志度から驚くようなことを聞かされる。もうギターは弾けない、というのだ!

「Track.3」
小林さんは、27歳。高校生バンドに応募してくるにはちょっと年齢が高すぎるが、60万円もしたというヴィンテージギターをいじる手つきは流石で、いっきにバンドのレベルが上がったような感じだ。顔合わせを済ませ、今日は初めて音合わせをする日。入念に音を作る小林さんのこだわりにじれながらも、彼らは待つ。しかし、驚いたことに、トイレに行ってくると言ったきり、小林さんは戻ってこなかったのだ!なんでそんなことをしたのか…。

「Track.4」
初めて女の子の応募だぞ―。七海がそう言った時、誰も予想していなかった。ユウコちゃん(栄村由布子さん)が、まさか42歳のオバサンだなどとは。栄村さんが奢ってくれるというスイーツに釣られている七海と凛を横目に、モリソンは一人栄村さんの話を聞く。なんでも、これまでも高校生バンドに応募しては、断られてきているのだという。探せば同年代のバンドなどいくらでも見つかるだろうに、何故高校生バンドにこだわるのか…。さらに話を聞いていくと、どうも別居することになってしまった娘との関係修復を願ってのことだったようだが…。

「Track.5」
応募してきたのは、一つ年上の倉戸絵理。絵理がやってくる前、七海とモリソンはバンド名で揉めていた。自分の名前から取った「セブンシーズ」で押し切ろうとする七海と、4人を目指しているのに3人しかいない状況を模した「メヌエット」という名前にこだわるモリソンが険悪な雰囲気になっていた。絵理のロックに対する知識が深いために、凛と話が合うのが助かった。七海はいつもとは違って、絵理に対して敵意を剥き出しにするかのような態度を取っていた。音合わせにクラプトンの「いとしのレイラ」を選んだ絵理。その真意は、絵理から一人連絡をもらったモリソンはすぐに知るところとなったが…。

というような話です。

これはなかなか面白い作品でした。大粒な小説なわけではないですが、小粒ながらキラリと光る部分があるという感じの小説で、全体的にとてもうまくまとまっているような印象を受けました。

まず、全体の設定が面白いですね。バンドに限らずですが、スポーツ小説なんかでも、仲間を集めるところから話が始まっていくものは結構あると思います。でも本書の場合は、最後の最後まで、仲間を集めるだけで終わってしまう、というところがなかなか斬新だなと思いました。

連作短編集であり、全編バンドメンバー探しを貫くためには、毎回バンドメンバー探しに失敗しなければなりません。その点をミステリにする、という発想は、非常に面白いと思いました。募集を見てやってくる面々は、何かしら抱えている。彼ら三人は、自分たちのバンドのメンバーを探したいという気持ちは常にあるものの、しかしその一方で、相手の懸念を払拭してあげたい、という思いにも駆られてしまいます。そこがミステリになっていく。

やってくる人たちは、その人なりの理由があって彼らのバンドに応募してくる。小林さんのように、「ギターを弾かずに帰ってしまう」というのであれば話にならないのだけど、そうでもなければ、とりあえずバンドメンバーが決まったということでバンド活動をどんどん進めちゃえばいい。しかし彼らはそうしない。彼らは、その人たちが何故自分たちのバンドに応募することになったのか、ということが何だか気になってしまう。だから、その人たちが抱えている懸念を掘り下げ、あまつさえ解決に乗り出してしまう。しかしそうすることで、その人たちが彼らのバンドに応募してきた理由までなくなってしまうのだから、結局バンドメンバーが決まっていない状態に後戻りしてしまう、ということになる。この物語の構造が、うまく出来てるなぁ、と思いました。

何故彼らは、その人たちの事情を気にしてしまうのか。その詳しい理由は是非本書を読んでほしいのだけど、大きく言えば、彼らもまた傷ついてきた者たちだからだ、と言えるでしょう。モリソンの傷は、冒頭ですぐに描かれる。しかし、七海や凛もまた、それぞれ傷を抱えている。しかもそれが、物語の中でうまいこと絡んでくるのだ。実によく出来ている。七海の傍若無人さも、七海の背景を知れば多少は理解できるようになる…かもしれません(笑)

個人的に好きなのは、やはり「Track.4」と「Track.5」。この二つで、凛や七海の過去の話が明らかにされ、それが物語全体の骨格となっていく。全体的にだが、それぞれの個別の物語が何か突出して良いということはない。登場人物たちのそれぞれの問題は、有り体に言えばよくある話ではある。しかし、その組み合わせ方がなかなか上手いなと思う。

傷ついてきた者たち同士だからこその物語はとても優しい。僕が一番好きなセリフはこれだ(一応誰の誰に対する発言可伏せておく方がまだネタバレにはならないかなと思うので、セリフ中に出てくる名前は伏せてみます)。

『◯◯は私たちにすべてを話すことこそが誠意と思っているのかもしれませんが、それは違います。すべてを告白して相手に判断を委ねることは、相手に負担を強いるということです。私たちは◯◯を好きでいたいのです。だから、そのために必要な情報を与えてくだされば、それでいいのです』

これは凄く好きだなぁ、と思いました。僕の中にも、これに近い感覚があります。
僕の中では、「謝る」というのは、相手に「許容」を強要する行為だな、という感覚があります。謝ってしまえば、状況や相手との関係性にもよりますが、相手は許すしかなくなってしまう。許したくない、と思っていても、表向き許したことにしないわけにはいかない状況に追い込むことになる。だから僕は、どうも「謝る」というのが苦手だ。たぶんこのセリフも、感覚的にはそれに近いことを言っているのではないかと感じる。

傷ついてきた者たちだからこそ他人に優しく出来る。他人に優しく出来るからこそ、自分たちの現状を脇に置いて相手のために行動できる。しかもその優しさは、決して善意の押し売りのようには見えない(七海が傍若無人に振る舞うからこそ、彼らの優しさが100%純粋な優しさに見えない)。そこが良いと思う。

音楽やバンドのことに詳しくなくても、必要な情報は凛が詳しく説明してくれるし、たぶん読者以上に何も知らない七海をベースに物語が展開していくので、誰でも安心して読めます。バンドメンバー探しとミステリをうまく組み合わせた、なかなか読ませる作品だと感じました。

佐藤青南「君を一人にしないための歌」

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僕はこの本で、変わった読書体験をすることになった。まずその話を書こう。

本書のタイトルは、「脳を鍛えるには運動しかない 最新科学でわかった脳細胞の増やし方」だ。このタイトルから僕は、この本は「運動」についての本なのだ、と思った。これは、突飛な発想ではないだろう。色々あって僕は本書を、自分の興味関心から手に取ったわけではない、という事情も絡んでいる。中身をちら見することもなく、「運動」についての本なんだろう、という思い込みだけで読み始めた。

読み始めると、やけに「脳」についての話が多い。まあ、確かに、「運動」によって「脳」を鍛える、という話なのだから、「脳」について触れないはずもないか。しかし…。などと思いながら読んでいた。そして途中で気付いたのだ。

なるほどこの本は、「脳」についての本なのか、と。

それに気付いたところから、「脳」についての本だと頭を切り替えて読めれば良かったのだけど、どうもそううまくは行かなかった。「運動」についての本だと思いながらかなりのページ数読んでいたこともあって、なんとなく自分の中でこの本を読むモチベーションの糸が切れちゃったように感じたのだ。「脳」についての本だと気づいてからは、読みながら、なんだかなぁ、という感覚をずっと拭えないままいた。

僕は理系の人間だったので、脳科学の話も当然大好きだ。これまでも、脳科学についての本は結構読んできたので、「脳」に関する記述が難しいとか、興味がないとか、そういう理由でモチベーションが切れてしまったわけではないはずだ。恐らくだが、脳科学の本だと思って読み始めていれば、また違った読み方が出来たはずだと思う。

少なくとも僕が見る限り、タイトルや帯には、本書が脳科学の本だとはっきり伝えるような表記はないと思う。タイトルなどからは、「どう運動すれば脳が鍛えられるのか」について書かれた本に見えるのに、中身は「運動することでどう脳が鍛えられるのか」についての本だったので、僕は結構戸惑ってしまった。

そういう意味で、タイトルや帯で何を伝えようとするのか、という点は本当に大事だなと思った。

内容に入ろうと思います。
本書は、先程書いたように、「運動することでどう脳が鍛えられるのか」についての本です。かなり硬派な脳科学の本だと思った方がいいでしょう。もちろん、脳科学の知見そのものを伝えることが本書の目的ではありません。あくまでも本書は、運動をすることの良さを伝えることが目的です。その点は間違いありません。本書を読むと、病気や障害や加齢など様々な問題に対して運動がとても有効であるということが伝わるでしょう。しかしそのために脳科学の知見を通らなければならない、というのがちょっとハードルになるようにも感じます。

本書では、運動がどういう事柄に影響を及ぼすとされているのか、ざっと列記してみようと思います。

◯ 学習
◯ ストレス・不安
◯ うつ・注意欠陥障害
◯ 依存症
◯ ホルモンバランス
◯ 加齢

本書ではこれらの事柄について、様々な研究結果、学校や病院での活動実績、著者自身が診た患者の経緯などを交えながら書いていきます。

著者は正直で、確実に立証されているわけではない研究については、そう付け加えた上で記述していきます(当たり前のことなんですが、こういうことが出来ていない本もあるので)。どういう運動をどのくらいやればいいのか、についても、定量的な研究がなされているわけではないからはっきりとしたことは言えないとしながらも、様々な研究結果から、少なくとも、運動をすることで良い風に脳が変化する、ということは間違いないと言えそうです。「良い風」というのが科学的ではありませんが、別にそういう表現が本書で使われているわけではなく、僕が勝手に書いているだけです。

運動によって脳がどう反応し変化するのか、という部分についてかなり詳細にその仕組みを説明していますが、「これから運動したい」「運動したいけどどんなことをすればいいのか分からない」という目的で本書を手に取った人には、求めていることが書かれていなくてなかなかイライラするかもしれません。正直なところ、興味がない人はそういう脳科学的な部分はすっ飛ばしていけばいいんじゃないかと思います。最低限、「どんな具体的な実例があったのか」と「運動の激しさや頻度が効果にどんな影響を及ぼすか」について書かれている部分を読めば、目的は達せられるのではないかと思います。

むしろ僕は、本書は、これまでずっと運動をしてきたけど、それによって色んなことがうまく行っているような気がする、という人が読むといいのかもしれない、という気もします。これから運動したい、という人にとっては本書は不必要な情報が多い本に思えるかもしれませんが、既に運動を習慣に出来ている人には、自分の身体に起こっている変化を知るという好奇心によって、脳科学的な記述も読めてしまうかもしれない、という風に思います。

思っていた以上に学術的な内容で、実用書だと思って手に取った人は面食らうでしょう。書かれていることは興味深いし、なるほどと思わせることも多かったのだけど、「学術書」を「実用書」だと思わせてしまうタイトルや表紙(意図したものかどうかはともかく)が、読者のミスマッチを引き起こしそうな本だなぁ、とも感じました。

ジョン・J・レイティ「脳を鍛えるには運動しかない 最新科学でわかった脳細胞の増やし方」

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内容に入ろうと思います。
本書は、著者の三津田信三が、作中の登場人物として出て来る作品です。
小説家の三津田信三は、河漢社の三間坂秋蔵と定期的に会っている。仕事の打ち合わせではない。河漢社は専門書の出版社であり、小説を書いている彼が知らなくても当然の出版社だった。
三間坂はかねてより三津田信三のファンだったと言い、是非お会いして話がしたい、と言われ、仕事の打ち合わせだろうかと思いながら出向いていった、というところから、彼ら二人の会合<頭三会>はスタートした。
三間坂は、無類の三津田信三フリークであった。会う度に、お互いの個人的な話はそっちのけで、三津田信三の作品について語りに語った。やがて取り上げるべき作品が尽きてきた頃、三間坂は彼に、怪談は好きですよね?と問うてきた。
作品の多くが実話怪談をベースにしたものであり、またかつて怪談の蒐集をしていた時期もある三津田信三は、もちろん怪談が好きだが、三間坂のそれもまた凄まじいものだった。特に、語りの技術が抜群だった。聞けば、三間坂自身はそういう経験をすることはないという。怪談が集まってきやすい体質、とでも言うしかないだろう。
怪談の話をこれでもかとした後で、三間坂が変なことを言い出した。
「まったく別の二つの話なのに、どこか妙に似ている気がして仕方がない…といううす君の悪い感覚に囚われた経験が、先生にはありませんか」
そう言って三間坂が出してきたのは、二つの話である。一つはとある女性の日記であり、書き手である主婦の家で起こった不可解な出来事について触れている。そして二つ目は、少年の語りを書き記したもの。隣村の外れにある大きな屋敷に期せずして入り込んでしまった少年の体験を綴ったものだ。
時代も経験もまったく違う二つの話に、どことなく奇妙なものを感じた三津田信三は、その違和感を辿ってみることにするが…。
というような話です。

作品としてはそこまで良いとは感じませんでしたけど、短編集の見せ方としてなかなか面白い構成の作品だなと感じました。

本書には、5つの短編に序章・終章がつく、というような構成です。序章は、三津田信三がその5つの物語を読むことになった経緯が、そして終章ではミステリ的に言えば「解答編」が書かれている、という感じの構成です。

5つの短編は、何らかの形で素人が書き記した文章、という体裁を取っています。日記・聞き書き・ネット上の文章・応募されてきた小説のある章・自費出版された本のある章、という形です。だから、文体も雰囲気もバラバラで、そういう雰囲気の設定はうまいと思いました。本当っぽさ、みたいなものをうまく醸し出しているな、と。

三間坂と三津田信三が見つけ出してきた、来歴のバラバラな文章を並べて、それらに共通する違和感を取り出し、何故そんな違和感を醸し出すのかを議論する、という構成はなかなか斬新で、物語全体の構成としてはなかなか良くできている、と感じました。

ただ、僕が怪談的なものにさほど関心がないからでしょう、5つの物語にはどれもそこまで関心を惹かれなかったな、という感じでした。それは、僕が文章を読んでて頭に映像が浮かばないこととも関係があるかもしれません。怖ろしい描写がなされているんでしょうけど、僕にはこの作品で描かれている「異形の者」のイメージが頭の中にさっぱり浮かばない、という部分もあるかもしれません。

あと、「5つの怪談の共通項を探す」という設定は非常に面白いと思いましたが、一応設定としてこの作品は「三津田信三が実際に経験したこと」という体裁を取っているので、であればちょっと作為的に過ぎるなぁ、と思ってしまいました。もちろん、実際には本書は小説なので、僕のこの評価は厳しいかもしれませんが、ただ本書と同じ構成は、「三津田信三が実際に経験したこと」という体裁を取らずとも書けたはずだ、と思います。著者自身を登場させず、あくまでフィクションだ、という体裁で書けば、僕が抱いたような違和感はなかったでしょう。しかし、実話だ、という体裁を取っている以上、ちょっと色んなことが物語に都合よく描かれすぎている、と感じてしまいました。

とはいえ、なかなか良くできた作品だとは思いました。

三津田信三「どこの家にも怖いものはいる」

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