黒夜行 2005年05月 (original) (raw)

ありがと。―あのころの宝もの十二話―(ダ・ヴィンチ編集部/編)

心の底から「ありがと」と言えるような機会はなくなってきた。きっと、僕の心が渇いているせいもあるのだろうけど、でもそもそも、誰かと感謝の言葉をそっと受け渡すような、暖かでひっそりとした状況というのには、なかなか出会わない。
僕は「ありがと」という時には、それぞれ色んな意味を含ませて言っているように思う。それらはそれも、本来の感謝の意味から遠ざかるような意味付けがされているように思う。素直になれない自分に辟易することは時折ある。
本作はもともと、「WEB ダ・ヴィンチ」上で、一年間連載されたいた、十二人の作家によるアンソロジー企画が本になったものだ。WEB上では「あのころの宝もの」という連載名だった本作は、書籍化に当たり「ありがと。」とタイトルがついた。
<恋愛、仕事、友情…生きていくことはとても苦しかったり、切なかったり、つらかったり。でも、そんなときに、あなたを支えてくれるかけがえのない宝ものはありませんか?誰かに感謝するわけではないけれど、誰かに「ありがと。」と言いたくなるような出会いの物語、12編。>
裏表紙でそう紹介されている本作は、でも、どうにもその趣旨とは違うんではないか?という作品もあるように思う。恋愛や結婚の話が多いようにも思った(それは、僕がそういう作品を読みなれていないからそう感じただけかもしれないけど)けど、仕事や友情の話もあって、全部とはいかないけど、半分ぐらいの作品は楽しめたと思う。初めて触れる作家がほとんどで、そういう意味でも新鮮な作品だった。
恋愛の話を読んでいると、女性の複雑さを少しだけ知ることができる。もちろん、女性から見れば男は不可解かもしれないけど、恋をしている女性や、恋を止めようとしている女性の心理は、やはり男には理解しがたい、と僕は思った。
全体的に書けることはあんまりなさそうな作品で、僕には理解できない作品もいくつかあったので、それぞれを紹介して感想を終えようと思う。

「町が雪白に覆われたなら」狗飼恭子
喫茶店で皿洗いのバイトをしている彼女。前に客として来た既婚者と恋に落ちたが、もう事務所には来ないでくれ、と言われた。新しく入ってきた可愛いアルバイトが接客を一手に引き受け、彼女は皿洗いばかり、冷たい水と洗剤に指紋を洗い流された彼女に、思いがけないプレゼント…

結構いい話です。「ありがと。」というテーマには、最も沿っている作品でしょう。自分の指紋が…という想像は、確かに少しだけ面白いです。

「モノレールねこ」加納朋子
突然庭先に姿を見せるようになったデブ猫。デブで不細工なのにどこか愛嬌のある猫なのだが、猫嫌いの母親に言われて遠くに捨てることに。しかし数日後、懲りずに現れたデブ猫の首には、赤い首輪がついていた。試しに手紙を括りつけてみると返事が返ってくる。「モノレールのこ」と名付けられた猫を介した奇妙な文通が始まる…

本作の中で一番好きな作品です。やはり加納朋子はいい、と思います。「モノレールねこ」なんてセンスとそこから生まれる想像は最高です。これも、「ありがと。」と言いたくなる出会いですね。

「賢者のオークション」久美沙織
キワモノの服が好きな彼女とその女友達。共にモデルだったが、女友達は結婚して勝ち組。彼女は、着るあてもない服を大量に抱えている。女友達からのメールで覚えることになったオークションで、持っている服を売るようになった彼女だが…

僕にもまだ理解できる、女性らしい心理が描かれています。やっぱり複雑であることには変わらないけど。

「窓の下には」近藤史恵
同僚の飼っている猫の話から、彼女の記憶は過去へと遡る。マンションの四階の部屋で一人で遊ぶことの多かった彼女は、真下の一階に住む女の子をみつける。ウサギを飼っているらしいその女の子と仲良くなりたい彼女なのだが…

これも結構好きです。枕の猫の話が、全体をうまく包んでいます。二人の少女の中に残るものは、少しだけ想像できて、大半はわかりません。

「ルージュ」島村洋子
昔同じバンドを組んでいた女友達との偶然の出会い。友達は子供を連れていた。不倫をしていて、休みの日はばっちり化粧をする彼女は、女友達と連れ添って化粧品売り場やファミレスへ行くことに。変わってしまった友達を見る彼女の眼差しと、最後にそれを振り払うような友達の言葉…

残念ながら、僕にはうまいこと理解できない作品でした。

「シンメトリーライフ」中上紀
養父に育てられた彼女と、養父と母との子である妹。元の父親とみたこともない弟を夢に浮かべながら過ごす彼女。養父が死に、恋愛に奔放に生きる妹を見ながら、母親を送り迎えするような生活の中鳴った一本の電話…

これも、よくわからないです。

「光の毛布」中山可穂
銀行員から建築の世界に飛び込んだ彼女。付き合っていた彼氏と会う時間も次第になくなり、仕事の疲れから何もかもがおざなりになり、職人さんに影響され言葉遣いも悪くなっていく。それでも二人は間違いなくお互いを愛していた。同棲を始めるもうまくいくわけのない二人。別れた後、仕事にも身が入らなくなった彼女が思い出した「光の毛布」…

これはかなりいいです。二番目ぐらいに好きです。彼女がやり直すきっかけを得た「光の毛布」。どんなにか、暖かかったでしょう。

「アメリカを連れて」藤野千夜
アメリカという名前のポメラニアン。太りすぎでお医者様から散歩をするように言われて、いざ深夜の散歩。婚約者からは危ないと言われているけど、物書きの日常は完全な夜型。そんな中知り合った犬好きの主婦。家に誘われて、でもしかし、その後で…

完全な、複雑な女性の心理、という奴で、僕にはわかりませんでした。気になったのは「銀色のオブジェがあり、放射状に三つに分かれた駅前通のあるロータリー」。これ、どう考えてみても、うちの近くの駅なんだけど…この作家さんは、近くに住んでいる人なんだろうか…

「愛は、ダイアモンドじゃない。」前川麻子
夫婦となった一組の男女。しかし、お互いの微妙なすれ違いが、女の心を毛羽立たせる。昔を思い、今を嘆く。変わってしまった夫を見る、女の視線の変化…

これも、僕にはよくわかりません。

「骨片」三浦をしん
女性が大学に通うなど珍しい時代。大学を卒業した彼女は、師事していた先生の遺骨を持っている。卒業後は実家の手伝いをしている彼女に結婚話が持ち上がるが…

これもどうなのかな、という作品です。

「届いた絵本」光原百合
お互い合意の上の別居、という珍しい形をとっていた両親。休みの日には家族揃って出掛けたりもするけど、でも一緒にいないほうがいい、と判断した両親の選択は間違っていなかったようだ。昔父親に読んでもらった絵本。成長した今、どこかに行ってしまったその絵本をもう一度父親にねだる。ポストに届けられた絵本。

割と嫌いではありません。短い話の中で、父親はいい存在感を放っているように思います。

「プリビアス・ライフ」横森理香
前世を巡る。私はあの時代、あの国であんな生活をしていた…そして今…

こんな説明しか出来ないぐらい、よくわからない作品でした。

「町が雪白に覆われたなら」「モノレール猫」「光の毛布」の三作を読むために本作を買う、というのがまあいいかなと思っています。

ダ・ヴィンチ編集部/編「ありがと。」

GO(金城一紀)

僕は今「22」才の「男」で、本屋で働いている「フリーター」で、親から見れば「息子」で、友達から見れば「友達」で、「学生」だったこともあるし、将来もしかしたら、「夫」とか「父親」とか、そんな風になる可能性だって、まあないではない。そういう、<僕>という存在に与えられたり、勝手に付随してくる名前とか役割とか、僕は日々、そう多くないにしても、時折は意識する。
でも僕は、「日本人」であることを、普段あまり意識しない。
僕も時折は言っているかもしれないけど、「日本人でよかった」なんて表現がある。味噌汁をおいしく感じたり、桜を見て満足したり、風鈴の音を聞いて涼んだり、風呂に入ってゆったりしたり、そんな時、僕らは特に何も考えることなく、そんな言葉を使うことがある。
そう、何も考えていない。
僕は、<僕>という存在が「日本人」であることはどうでもいいと思っている。つまり、<民族性>は<個人>であることを何も侵しはしない、と思っている。それは、本作に出てくる杉原もおんなじだ。でも、中身は全然おんなじじゃない。僕の<どうでもいい>は、考えることを放棄した<どうでもいい>だ。僕が「日本人」であることは、僕が敢えて主張したり考えたりすることもなく、僕の知らないところで誰かが勝手に保証してくれている。生まれた時から、日本に生まれた「日本人」であって、そこには、考えるべき要素なんか特に何一つない。
でも、杉原の<どうでもいい>は全然違う。あらゆることを考え、あらゆることを諦め、あらゆる世界を目指し、あらゆる屈辱を受け入れる。そうした、<民族性>そのものや、それに付随するありとあらゆることを経験し乗り越え咀嚼し、その果てに辿り着いた<どうでもいい>なのだ。重みも深さもまるで違う。
「僕たちは国なんてものを持ったことはありません」
僕はこのセリフに、少しだけ頭がしびれるような感覚を味わった。何故なら、この文章は、僕のテクストの中からは絶対に浮かばないものだからだ。「国を背負っている」かどうかなんか考えたこともないし、考える必要があるとも思えない。背負ったところで何が変わるわけでもないし、背負わなくてもそれは同じだ。それだけ僕ら日本人というのは、<民族性>というものや、<国>そのものについての関心が希薄になったということだろうけど、だからこそ、「国を背負う」ことを押し付けられ、でも、日本という国の中で日本ではない国を背負わなければならない身の上を嘆く間も与えられないまま、彼らは大人になるしかない。
杉原は、そのエスカレーターから飛び降りた。
北朝鮮。在日韓国人。在日朝鮮人。国籍。僕たちと混じりようのない世界で生き、混じるはずのない僕ら<日本人>の存在のために窮屈さと将来への絶望を負い、それでいてこの国で生きるしかない人間の、絶望と悲しみを綴った物語で…
は決して無い。この物語は、杉原という在日韓国人と日本人との恋愛が主筋だ。別に、何が主筋だって別に構わないけど。
複雑な事情(本作を読めばわかるから割愛)のために、元<朝鮮籍>を持ち、今は<韓国籍>の父親と、もともと<韓国籍>だった母親の元に生まれた、元<朝鮮籍>で今は<韓国籍>である高校生、通り名を杉原という在日韓国人が主人公だ。
彼は中学まではいわゆる朝鮮学校に通っていたが、これもいろんな事情から普通(こういう文脈で書くとこの<普通>という言葉の持つ不愉快さに嫌気がさすけど、他に表しようがない。これはただの言い訳)の高校を受験した。何故か喧嘩を挑んでくる奴が絶えないけど、全戦連勝の無敗。民族学校に通っていたからといって思想的にかぶれていたわけでもなく、悪いことはひたすらやったし、今でもやっている。そんな高校生。
そんな高校生が、やくざの息子である同級生に誘われたパーティーで、一人の少女と出会う。不思議な魅力に惹かれた彼はすぐに彼女に恋をした。「あたしに嘘はつかないでね」。そう言う彼女に彼は、自分が韓国籍であることを伝えない。二人は、まるでたんぽぽの綿毛が舞うような、ふわふわとして奔放な恋愛をした。
彼が過ごしている日常と家族との関わり。過去の記憶とそこからの変化。彼女との恋愛。そうしたものが、どうしようもなく<民族性>とつかずはなれずで描かれていく、青春の物語。
著者もやはりコリアンジャパニーズであり、そうした視点で語られる物語はとても新鮮だ。普段接することも考えることもない<民族>という方向から世界を見ることができる物語だ。
民族のことを考えると、アフリカの国境のことを思い浮かべる。エジプトの国境線が綺麗に真っ直ぐだってことは、地図を見ればわかる。あれは、アメリカだかどこだかが(世の中の悪いことは全てアメリカのせいだ、という偏見がきっと僕にはあるのだろう)、そこに住む民族や、彼らが信仰する宗教とは一切無関係に勝手に国境線を決めてしまったために、あんなに不自然な真っ直ぐな国境線が出来上がったのだ。
僕は、<民族>を区切るやり方も、そのエジプトの国境線みたいに決まっているように感じられる。どこで生まれたか、どこの言葉を喋るか、肌の色は何色か、そんなものとは関係ないし、もちろん僕らの希望だって一切関係ない。国籍は、それなりに一定のルールはあるだろうけど、でも一方的に、勝手に押し付けられる。望んで変えることは可能だけど、親と同じで、あらかじめ決めることはできない。
そんな不確かで曖昧な国籍なんかで<民族>が規定され、それによって立場が決まる。やっぱり理不尽だと、それはそう思う。
でも、やっぱり僕はどうしようもなく「日本人」だし、「アメリカ人」と言えば青い瞳をした白人を思い浮かべるし、「インド人」と言えばカレーを手で食べターバンを巻いている人を思い浮かべるし、「北朝鮮人」と言えば主席を尊敬し表情のない人を思い浮かべる。やっぱりそれはどうしようもなく仕方がない。
それは、僕が今から<韓国籍>や<朝鮮籍>に変えたって絶対に理解できることではない。幾ら国籍を変えたってやっぱり僕は「日本人」だし、それは在日韓国人や朝鮮人だってやっぱり同じなんだろう。
仕方ない、と僕なんかが言ったってどうにもならないけど、でもやっぱり、日本という国にいる限り仕方ない。
「いつか、俺が国境線を消してやるよ」
息子が親父にそう宣言する。できはしない、とやはり思ってしまう。でもかっこいい。方向は絶対に間違ってない。テクノロジーの進化でどんどん狭くなった世界の中に、いけない場所があるなんてそもそもおかしいんだ。
「No soy coreano,ni soy japones,yo soy desarraigado」
この言葉もかなりいい。せっかくスペイン語で書いてあるから、訳は載せない。本作を読んでください。
僕は、「フリーター」や「友達」や「息子」や、そうしたものに属さずして生きていくことなんか考えられない。どうしようもなく「日本人」の僕は、何かの枠の中にいることに、不自然さを感じない。
でも、杉原は、何にも属さない。「僕」という中にすら属さない。そうして、時を超え、空間を超え、いつしか国境線を越えて世界を飛び回るのだ。きっとそうだ。「No soy coreano,ni soy japones,yo soy desarraigado」だからこそ、そんなことができるのだ。
杉原はどうしようもなく。彼の繰り出す一発のパンチよりも、彼の中の何かは遥かに強いだろう。そうでなくては、生きていけないという、過酷な運命を背負いながら、それを過酷と捉えないような生き方には、それは必要だ。
どうしようもなく強い。だから、どうしようもなく弱くなった。
いい物語です。いろいろ考えさせられるので、是非読んでみてください。

金城一紀「GO」

羊をめぐる冒険(村上春樹)

マンションの最上階の一室に僕はいる。ただ高いだけがウリのその建物は、まさしく高さだけではほかにひけを取らなかった。窓から見下ろと、全てのものの「頭」を見ることが出来た。
ただすることもなく無為に時間を過ごしている僕は、ある時、マンションの前を左右に真っ直ぐ伸びる道路の上に、何かいろんなものが並んでいるのを見つける。それらは、きらきら光っていたり、鮮やかな色をしていたり、奇妙な形をしていたりしていたが、余りに高いその窓からは、それぞれが何なのか判別することは不可能だった。
だから僕は、そのものたちの並びを見て時間を過ごすことになった。一体どんな規則で並んでいるのか。そこにある理由はなんなのか。誰がそこに並べたのか。
しかし、次第にそれに飽きてきた僕は、部屋をごそごそと漁り、双眼鏡を見つけてきた。それぞれが一体何なのか、つぶさに見てやろうと思うようになったのだ。それらは、見事にカットされた宝石だったり、見たこともないほど美しい花だったり、機能性をまるで無視したライターだたりして、僕はその観察に没頭するようになっていった。
これは、僕の、村上春樹の作品を読む上での姿勢の変化を文章にしたものだ。つまり、今までは、物語の筋という奴を中心に読んでいたけれども、最近は、それぞれの文章や表現、思考の断片や状況の描写など、物語を構成する細かい要素それぞれを刻んで楽しめるようになっていた、ということだ。
それは、今まで「猫」としか呼ばれていなかった生き物にも様々な種類がいることを発見したかのような、あるいは、音楽を構成する音符そのものに惹かれていくような、そんな感覚がある。
村上春樹の文章や表現は前から嫌いじゃなかったし、素晴らしいとも思っていたけど、ようやくそれだけを取り出して楽しめるようになったということです。
でも、本作は、ちゃんと筋もある。それが僕にとって、本作がよりよく読めた理由だろう。
まさに、羊をめぐる冒険。その冒険の物語は、なかなかよかった。
難しいけど、内容に少し触れよう。
「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」と続いて登場する僕と鼠。鼠はいなくなったままで、僕は離婚し新しい彼女がいる。友人と始めた翻訳事務所は、広告の分野にまで手を出すようになり、仕事は順調だった。
比較的穏やかだった僕の生活は、しかし、共同経営者のある一本の電話によって切り刻まれることになる。その電話が、冒険の始まりだった。
電話で呼ばれた僕は、事務所である男と会う。業界では知らない者はいない、日本という国を牛耳る力を持つある大物からの使者。彼は、ある生命保険会社のPR誌の発行停止と、それにつかった写真の出所を聞いた。写真は、羊がたくさん写った他愛もないものだったが、一匹だけ存在するはずのない羊が混じっていた。使者は事情を話すが、僕は出所を喋らず、結局、その羊を探すはめになった。
そうして、羊をめぐる、僕の冒険が始まった…
そういう物語だ。少なくとも、こうやってある程度簡潔に筋の書ける村上作品を、僕は知らない。
僕だけかもしれないけど、ある種ミステリ的な要素もあって、僕としては親しみやすかった。誰も望んでいないかもしれないし、裏切られたと感じるファンが大半かもしれないけど、でも僕は、村上春樹に、ミステリを書いて欲しいな、とちょっと思った。
村上春樹の作品では、感情のうねりが感じられなくて、僕はそれが好きだ。無理して制御しているわけでもなく、かといって意識的に淡々としているわけでもなく、とにかく感情の起伏が平坦であることが自然であるように描かれていて、普通そんな人間がいたら現実では不自然に思われるかもしれないけど、でも村上春樹は、不自然だと思う僕らの方が非現実だとでも言いたそうに文章を書く。名前のついたあらゆる感情が、村上春樹の描く登場人物には似合わない。そこがいい。
こんなことをふと思った。よくありがちな質問だけど、無人島に一冊しか本を持っていけないとしたら何を持って行くか。今の僕なら、一生の間に読みきれるかわからないような長大な作品か、あるいは村上春樹の作品のどれかを選ぶだろうと思う。死ぬまで読み返すに耐えうる作品は、村上春樹の作品ぐらいしか思い浮かばない。結局それは、一度読んだだけではわからないからだろうし、何度読んでもわからないだろうと予測できるからだろうと思う。そんな感じだ。
実際には、目の前に一匹だって羊は現れないのに、それでも、たくさんの羊を目にしたきになれる作品です。星の紋章のついた羊が現実にいたら、ちょっと怖いな、と思います。羊男は結構好きです。耳の彼女に会えないのはちょっと悲しい気がします。

村上春樹「羊をめぐる冒険」

エイジ(重松清)

先に書いておこう。
本作は素晴らしい。とってもいい。是非とも読んでもらいたい。僕だって、何回か読み直してもいいって思ってる。どうか、読んでみてください。
知り合いが犯罪者だったら…?「もしも」なんて言葉で始まってもシャレにならないこんな状況。「友達の姉が援交してる」とか、「母親の知り合いが人を殺した」とかなら、それでもまだ「人ごと」として切って捨てられるかもしれない。
同級生が、しかも、同じクラスの知り合いが、通り魔だとわかったら…。
本作は、そんな状況での、クラスメイトの日常を見事に描ききっている。
僕だったら…と考えてみる。同じクラスで一緒に授業を受けていたのに、ある日突然、「彼は通り魔でした」なんて言われて姿を消して、なんて、そんなの、
リアルに捉えられるわけないと思う。
僕だったら、初めは「えっ」って少しは驚いて、でもしばらくして「ふ~ん」に変わって、それから後は「あっそ」になってしまうかもしれない。そんな気がする。
それは冷たいのかもしれないし、無責任なのかもしれない。でも、どんなに身近な出来事だって、最終的には「人ごと」にしてしまわないと、やってられないと思う。
家族との関わり方も難しい。家族、というのは、重松清の作品のテーマでもある。
中学生なんて、そもそも家族との関わり方は難しい時期だろうと思う。それぞれの過程で千差万別だろうけど、でも、結局誰かが我慢する形でしか、その時期は乗り切れない。子供が我慢するか、親が我慢するか…
息子の同級生という、「少年A」とは遥かに違うレベルでの関係に、家族はどう接するべきだろう。人はそれぞれ分かり合えないものだけど、中学生の息子の気持ちをわかろうとするのなんか、めちゃくちゃ難しい。
そう、僕だって、少し前までは中学生だった。少し前、と言えるぐらいの間だけど、でも僕は中学のことなんか全然覚えてない。自分や家族や友達や先生やそれ以外のあらゆることについてどう考えていたのかなんてわからない。誰もが中学生だったはずなのに、時代は違うのかもしれないけど、でも、中学生の頃の自分のことなんか忘れてる。
だから僕は、僕より全然大人のはずの重松清が、ここまで瑞々しく、見事に、鮮やかに、中学生の心理を、中学生の葛藤を、そして中学生そのものを描ききっていることに、すごさを感じている。
内容の紹介をしようと思う。
まだ出来て新しい、桜ヶ丘ニュータウンという住宅地が舞台。そこに住む、中学生の「エイジ」は、公立中学に通っている。勉強だってそこそこできるし、別に悪いことをするわけでもない、普通の中学生。
今は夏休み明けの二学期。夏休み開始直前ぐらいから、その桜ヶ丘ニュータウンでは通り魔事件が続発していた。女性を後ろから殴りつける事件が、既に二十数件。休み明けの学校は、そんな話題で持ちきりになる。それでもみんな「ふつう」に過ごしている。エイジは好きな子が出来たけど片想いだし、バスケ部は膝の故障で止めちゃったし、でも、学校はいつも通りだし、家族だっていつも通り。
本作の素晴らしいところは、その「いつも通り」をめちゃくちゃしっかり描いているところで、学校でのことも、家族とのことも、細かくリアルにしっかりと描かれ、読者はそんな「いつも通り」をちゃんと知ることができる。
噂は突然流れる。通り魔が逮捕されたらしい。しかもどうやら中学生らしい。うちの学校かもしれないぞ…ふとクラスを見渡して、今いない奴を探してしまう…そういえば、一人だけ、来てない。
先生から何も説明されることはなかった。なかったけど、みんな知っている。あいつが、通り魔なんだ、と。
別に、そこまで大して何も変わらない。みんな普段通りだ。深刻になったり、暗くなったり、そんな全然大丈夫。確かに、クラスメイトが通り魔だったなんて大変だけど、でもやっぱり人ごとなんだ…
そう誰もが思いたいけど、でもやっぱりどんどん変わっていく。
一つの事件は、周囲の多くの人間を巻き込んで影響を与えていく。直接危害を加えられた人間だけでなく、どんどんと、まるで雨に濡れたコンクリートが黒く変色していくように、じわじわと何かを変えていく。
物語は、通り魔のクラスメイトがクラスに帰ってくるまで、続く…
著者は、クラスメイトの逮捕を、三人の人間に、それぞれ別の感じ方をさせている。
まず、タモっちゃん。学年一の優等生。クールで無駄が無い。彼は、周りが騒いでいる時もいつも冷静で、「関係ないだろ」っていう態度を貫いている。
次にツカちゃん。悪ぶっているけどとても優しい奴。通り魔の事件をネタにして笑いを取るようなお調子者だけど、でも、段々と彼も変わっていく。通り魔の事件の被害者のことを考えることを止められなくて、どうしようもなく不安になっている。桜ヶ丘ニュータウンで相次ぐ事件に、元来優しい彼は、沈んでいくことになる。
そして最後にエイジ。彼は、ツカちゃんとは逆に、通り魔の犯人の方のことばかりを考える。特に親しかったわけでもない。「何でそんなことをしたのか?」なんて疑問を直接考えたりはしないけど、少しずつ、歯車がずれるようにして変わってしまった学校や家族との関係に軋みが、彼の思考をどんどんと深まらせる。最後はついに、「見えないナイフ」を振り回し、「その気」を押しやる場所を見つけようともがくことに…。
ツカちゃんがとてもいい。クラスの盛り上げ役で、でもとても繊細。馬鹿なことばっかり考えたり言っているようで、でも真剣。とにかく、彼がいなかったらこの物語は成立していないだろう、ってぐらい、僕にとっては重要人物。
それとエイジ。彼も好きだ。彼が考えるあれこれが、わかるようでわからない。「今まで、答えがわかるようなことしか考えてこなかったんだ」みたいなセリフがあって、なんかすごくわかるって思った。ふとした時に立ち上がる思考や行動の切れ端が、理解できたり不可解だったりで、でもそれが中学生特有っていうような、それも意味不明だけど、そんな何かを感じさせてくれて、なんかとてもいい。
本作では、通り魔の事件だけじゃなくて、エイジのバスケ部の関わりとか、エイジの片想いの話とか、そういう、「普通の学校生活」を描き出すような部分もあって、でもそういう部分もとてもいい。どこを切り取ってもいい話だと思う。
こんな場面があった。バスケ部でシカトされているキャプテンとバスケをしている場面。どちらもシカトの事実は知っているけど、でも言わない。認めたり同情したりするのはかっこわるいってわかってるからだ。でも、エイジが好きな女の子はそうじゃない。キャプテンのこと、助けてあげなよ、ってアドバイスする。そんな時、どちらからともなくこういう。
「オンナってバカだよな」
そういうお前らオトコの方がバカだよ、って言いたくなるようなシーンだけど、でもわかる。
何度でも言うけど、素晴らしいです。是非とも、読んで欲しいです。

重松清「エイジ」

黒笑小説(東野圭吾)

さて、東野圭吾の著作のいくつかを書き出してみようと思う。
母親の意識が娘の体に移ってしまった助成と、その夫との人生を描く「秘密」。
SF的な設定の元で親子の絆を描く「トキオ」。
性同一性障害に悩む友人との関わりを描く「片想い」。
強盗殺人を犯してしまった兄の罪と罰を描く「手紙」。
誘拐犯側のみの視点から誘拐を描いた「ゲームの名は誘拐」。
二人の男女の関係を、双方の視点を交えずに描いた傑作「白夜行」。
書き出せばきりはないけど、ここ数年の彼の著作は、感動や共感など、深いテーマに載せて鮮やかに描ききるような作品が多い。
そんな中にあって本作である。
こんなことを書くと貶しているように感じられるかもしれないからあらかじめ言っておくけど、本作はめちゃくちゃ面白い。引き出しの多さでは他を圧倒する氏だからこそ書けたといえるだろう。
彼は、こんな作品でも書けてしまう。
本作は、「快笑小説」「毒笑小説」に続く第三弾である。
ブラックなユーモア溢れる、コメディ的な作品だ。
僕はこれまでにいろんな作品を読んできたけど、コメディ的な作品というのは小説界ではなかなかない、という風に思う。映像やコミックでは主流だと思うが、やはりコメディ的なものは、視覚的な要素がない状態では成立させるのが難しい、ということなのだろう。
僕が思いつくのは、奥田英朗の「インザプール」「空中ブランコ(未読)」や、未読だが京極夏彦の「どすこい」も恐らくそうだろうと思う。作風的に伊坂幸太郎もコメディ的だが、やはり違うだろう。
そう考えると、彼が出した「○笑小説」三作は、小説界でもかなり稀な部類の作品だということになるのではないだろうかと思うのだ。
というわけで、内容を先に紹介しようと思う。

「もうひとつの助走」
ある文学賞の発表のため、候補になっている作家と各社の担当者がある店に集まる。各々思惑を抱えながら時が流れていく。担当者に掛かってきた電話口からは…

「巨乳妄想症候群」
ある日突然、丸いものが全て巨乳に見えるようになった男。友人の精神科医に相談すると、巨乳を見るな考えるなと言われる。そのうち、男の視界にも変化が起き…

「インポグラ」
バイアグラとは逆に、インポになる薬を偶然開発してしまった研究者は、友人にその利用法を考えてもらうことに。思いがけず様々な利用法が上がったのだが、しかし…

「みえすぎ」
ある日突然、普通の人には見えない微細な粒子まで見えるようになってしまった男。世の中の空気は、こんなにも汚れていて不潔だったのか、と彼は思う。春になり…

「モテモテ・スプレー」
ある理論から、モテモテスプレーを開発された。モテモテ度を測る機械で、とんでもなくもてないことが判明した男がそのスプレーを使って、会社のマドンナにアタックするのだが…

「線香花火」
会社勤めの傍ら、小説の新人賞に応募していた男がついに受賞した。これからのサクセスストーリーを思い浮かべて有頂天になる男だが、出版社の方ではさほど売り込むつもりはない。仕事との両立にイライラしだした男はついに…

「過去の人」
その新人賞を受賞した男が、文壇のパーティーに招待された。今年の新人賞受賞者に先輩らしくアドバイスをし、編集者の会話に割り込みうざがられていく…

「シンデレラ白夜行」
義理の母と姉妹にいじめられるシンデレラ。社交界にのそのそと太い体をさらけだす母と姉妹は、レディ・マスクと呼ばれる、今一番の社交界の花形美人にむかついている。一方シンデレラは、家計を支えるためにアルバイトをしているのだが…

「ストーカー入門」
いきなり別れようと言われた男。一週間後に掛かって来た彼女からの電話に狼狽する。振られて、でもなおあたしのことが好きなら、ストーカーになるのが普通でしょ。それから、別れた彼女をストーカーしながら、ストーカーのやり方を教授する日々…

「臨界家族」
ある人気アニメのキャラクターグッズを欲しがる娘。際限なく湧き上がるキャラクターグッズと販売元の策略に、父親はイライラする。「臨界家族」のその意味は…

「笑わない男」
売れないお笑い芸人は、とんだ手違いから超高級ホテルの泊まることに。明日うけなかったらクビ。そうマネージャーから言われていた二人は、ホテルの、まったくくすりとも笑わないボーイをなんとか笑わそうとするのだが…

「奇跡の一枚」
旅行先でとった一枚の写真。そこに映っているのは確かに自分なのに、どうみても自分よりも遥かに果てしなく美人だ。まさに奇跡の一枚。ネットで知り合った男に写真を送ってしまった彼女は…

「選考会」
ある新人賞の選考委員に選ばれた作家は、有頂天になり、さらに意気揚揚と審議に臨む。他の作家と大分意見が割れたが、それでも自分の推した作品が受賞作に選ばれ気分は最高だったのだが…

どれもこれも、最高にブラックで、とても面白いです。文壇の事情が書かれているものは、彼の著作の「超殺人事件」を思い起こさせてなお面白いし、過剰に皮肉っているのだろうけど、でも実際そんなこともあるのかしらん、と思わせるような作品です。
いくつか好きな作品を上げるとします。「インポグラ」は、インポになる薬の使い方の発想とラストがなかなか見事です。「シンデレラ白夜行」は、本作中僕が一番好きです。確かに、「白夜行」です。文壇事情の書かれた作品は、登場人物が固定されていて、それだけで連作短編のような感じで面白いけど、中でもいいのは「選考会」です。ありきたりのホラーよりもよっぽど怖いのではないか、と僕なんかは思います。
さらに本作の短編の並びは、雑誌発表順ではなく、それがまた面白い構成になっています。
「快笑小説」か「毒笑小説」のどちらかの文庫の巻末で、お笑いを書くことについて、東野圭吾と京極夏彦が対談しているのがあったような気がします。そこでどちらかが、「お笑いの作品を書くのは簡単だって世間では思われるかもしれないけど、普通の作品を書くよりよっぽど大変だ。テンションのあるうちに一気に書き上げないといけない。30枚ぐらいが限界だ」みたいな話をしていたように思います。なるほど、そうなのかもしれない、と思います。それは、お笑いの小説がほとんどないことからも窺えることです。
その対談の中で、「秘密」の裏話も書いていました。確か、「秘密」はもとは短編でどこかで発表して、路線としてはお笑いで書こうと思っていたようです。とりあえず短編で発表したものの納得できず、のちに長編に仕上げて、出版してくれるところを探した、みたいなことを書いていたように思います。あの「秘密」が、元々お笑いの作品のアイデアから出来上がっていたとは、信じられません。
「偉そうな顔をしていても、
作家だって俗物根性丸出し!
俗物作家東野がヤケクソで描く
文壇事情など13の黒い笑い」
帯でそう紹介されている本作。めちゃくちゃ面白いです。是非読んでみてください。

東野圭吾「黒笑小説」

時の鳥籠 THE ENDLESS RETURNING(浦賀和宏)

なんなんだ、これは…
日常は、いとも簡単に、余りにあっさりと、崩壊する。
浦賀和宏。
やはり彼の年齢に触れないわけにはいかないだろう。
デビュー当時、そして本作を書いた時点で19才。その若さながら、小説の未来を大きく切り開かんばかりの作品世界。
彼の才能は、余りに才能に過ぎる。
スタイルを模索する作家。そう称されているようだ。それはつまり、型に嵌まることなく、自ら型を作り出す作家だ、ということである。
僅か19才にして、デビュー作では京極夏彦に、本作では森博嗣に、その才能を認められている。
本作は境界に立っている、とそう思う。ジャンル分けは不可能だ。あらゆるジャンルの、そしてあらゆる日常の境界に位置し、際どさのバランスをうまく取り、ありえないほど繊細な作品を、そして見事な精緻の作品を、たった19才の頭脳が紡ぎだしているのである。
そこに、僕らの日常や常識など通用しない。世界を一から作り出し、輪郭を徐々に際立たせながら、それでいて現実と表裏一体を成すその世界観は、紛れもなく、天才の存在を誇示している。
彼は、どこを目指して突き進んでいるのだろうか。今まで誰も切り開くことのなかった、ある意味四次元の方向へと進んでいく著者。いずれニューリーダーとして、小説界を席捲するのではないかとも思える。
日常は、簡単に崩壊する。
僕達が、なんとか認識出来ている世界。認識できる部分だけを切り取って、「日常」という名前を与えているだけの世界は、しかし誰しもにとって同じではない。否、寧ろ、ひとそれぞれ違うと言って間違いない。
本作は、前作と表裏を成す。どちらが表ということはないが、メビウスの輪のように、表と裏が繋がっているような、そんな不安定な表裏関係だと思う。
前作、それは著者のデビュー作であるが、その段階から次作以降の構想があったのだろう。本作は、安藤直樹という男が出てくるシリーズの二作目であり、前作にかぶせるように世界が広がっていく。
怖い、と思った。
自分に見えていない世界が余りにも広すぎるのではないか、と思った。
今こうして生きている僕の見えないところで、僕の認識する「日常」の「裏」がゆっくり着実に動いているのかもしれないと思うと、怖い。
いや、もしかしたら、こうして世界を認識していると思っている僕の存在そのものが、既に日常ではない可能性すらあるのだろう…
物語の紹介をしようと思う。しかし、説明がかなり難しい。ネタばれがどうとかいう問題ではなく、構成がいささか複雑なのだ。
甲斐は大学病院の救命救急医である。心肺停止状態で運び込まれて来た女性を奇跡的に蘇らせた。生き返ったその瞬間の彼女の濡れた瞳。甲斐は、彼女に心を奪われてしまい、身元のわからない彼女を引き受けることに。
生き返った女性は記憶喪失に陥っていた。正確に言えばそうではない。記憶はあるのだが、それが自分の記憶だとはとても信じられない状態なのだ。
未来から来た。
甲斐に引き受けられてから、彼女は、自分の持つ、夢としか思えない、それでいてあまりにリアルで長大な記憶を彼に語った。
それは、未だ来ぬ未来の話だった。彼女が生まれるのは来年の12月。生まれると同時に母を失い、恋をし、妊娠し、振られ、また恋をし…と高校ぐらいまでの長い長い話。
その奇妙な記憶の最後は、父親に連れて行かれ、どこかの部屋に閉じ込められたところで終わる。
そしてそこから彼女の記憶は、心肺停止に陥った公園へと飛翔する。
甲斐は、信じた。
公園で彼女を助けた少女。未来から来たという彼女は、その少女がそう遠くない未来に自殺することを知っている。彼女は、少女を救うために、この世界に送られてきたのだ…
こういう話だ。
僕は読んでいて、京極夏彦の作品に似ているな、と感じた。どこがと言われるととても難しいが、漠然と雰囲気が似ている。時代も設定も全然違うのに、恐ろしく雰囲気が似ているように思う。
登場人物の思考の志向が似ているからだろうか、とそんな風にも思う。
本作は悪くないし、僕としてはかなり好きな作品だ。それでも僕は、シリーズ全体として評価したいという気になっている。とにかく、特異な才能に触れることが出来ることは間違いないです。シリーズを順番に、是非読んでほしいと思います。

浦賀和宏「時の鳥籠」

ナイフ(重松清)

「いじめ」と聞いて思い浮かぶイメージは、梅雨の時期に机の中に放っておかれた、カビの生えたパンだ。ジメジメとしていて、時が経つにつれて状態がひどくなっていく。初期の段階なら、カビの生えているところを切り取ったり、あるいは最悪捨てたりもできるけど、ひどくなると、触ることすら嫌になるような、そんな最悪なイメージが浮かぶ。
いじめは最低だ、と言ってしまうのは簡単だ。
それでも、昔の(今のではない、という意味でしかないので、そんなに昔の話でもないとは思うけど)いじめはまだはっきりと潔かったのではないかと、そんな風に思う。それなりに、もちろん子供たちの中でしか通じない理屈でだけど、いじめられるのも仕方ないかも、と思わせる理由もあっただろうし、やり方も肉体的に追い詰める、という、割と発覚しやすいものだったのではないかと思う(あくまで僕の勝手な印象でしかないので、本当のところはどうかわからないし、どんな形であれ、いじめられている当人が辛いことには変わりないのだけれど)。
しかし、今行われているいじめは、よりゲームに近いのだろうと思う。
特に理由もなく、あるとすれば、ただそいつをいじめれば面白いし暇つぶしになるから、といった理由だけで、クラスの人気者でも一夜にしていじめられるようになる。天災のようなもので、やられている方には、理不尽としか思えないだろう。
どんな形であれ、いじめはいつの世も存在する。
大人になればなるほど、時代が変われば変わるほど、大人は子供の言葉や理屈を理解できなくなる。大人のものさしで測ろうとして、かえって子供を傷つけるはめになりかねない。
誰だって、いじめられていることを知られるのは嫌だろう。プライドとかそういうものじゃなくて、ただ嫌なのだ。親には、見せたい自分の姿がある。それ以外の自分を見られるのは、嫌だ。
ひとつのいじめは、一人だけを傷つけて終わるものではない。いじめと言う名の波紋はどんどんと広がって、いじめている本人たちの知らないところまで、その余波が広がる。
誰だっていじめられたくない。だからこそ、今学校の中で「生きる」ことは、大人になるための通過儀礼と割り切れなくなるほど、辛いものになっている。
本作では、そんな現代の「いじめ」を軸に、周辺に家族や友達を据えた、連作短編集である。
それぞれの短編を紹介しようと思う。

「ワニとハブとひょうたん池で」
昨日までクラスの人気者だったのに、突然クラス中からハブにされた女の子。親友にも裏切られ、傷つきながらも、それでも両親の前では明るく過ごす彼女。
今は夏休み。自宅前の公園の池に、ワニがいるという噂があり、野次馬が大勢集まっている。ワニは好きだ。どうせなら、自らの肉体を餌として差し出したっていい。
両親と、ワニに餌付けしているという女性と時折話す以外誰とも喋らなくなった日々の中、いるのかわからないワニのことを彼女は考える…

「ナイフ」
背は低いが友達はたくさんいる。息子に対してそう思っている父親もまた背は低く、子供時代は周囲に対して恐怖を抱く日々だった。その強さに憧れていた同級生が、自衛隊として遠く異国に派遣されることをニュースで知る。息子の様子がおかしいと不安げな妻に大丈夫だと声を掛けるも、息子がいじめられていることを悟ってしまう。同級生のように、自分に誰かを守ることなんか出来るのだろうか?夜店で見かけた、小指ほどの大きさの小さなナイフ。スーツの胸ポケットにいれ、自らを鼓舞する父親…

「キャッチボール日和」
野球好きな父親が、大好きな投手の名にちなんで名前を付けた息子。幼馴染である少女は、彼が学校でいじめられていることを知っていて、それでも止める勇気はない。彼の父親は、そんな弱い息子を怒り、立ち向かえと激を飛ばすが、息子がいじめられる現状は変わらない。
故障続きで引退も囁かれる投手に息子の姿を重ね、逃げるなといい続ける父親に、彼女は溜息をつく。何もわかってないんだから、と。転校することになった彼と彼の父親への、彼女からのささやかなプレゼント…

「エビスくん」
転校生は背もでかく横幅もあり力も強い。ささいなことから目をつけられ、親友だよな、の言葉を繰り返しながら、転校生はある一人の男の子をいじめ始める。やっかいな病気を抱えた妹を持つ彼は、エビスという名の転校生の話を聞かせ、神様なんだからというと、連れて来てとせがまれるようになってしまう。転校生からのいじめは絶える事はなく、親友の助けもなかったが、それでも彼は、転校生も親友も大好きだった。みんなに片思いをしていたその時期、妹がきっかけで二人は近づくが…

「ビタースウィート・ホーム」
教員の仕事を辞め専業主婦になった妻と、そのお陰で仕事に専念できるようになった夫。娘の書いた日記への担任教師からの添削に腹を立てる妻は、担任への不満を抱える主婦仲間を見つけ抗議に行こうとまくしたてる。妻が仕事を辞めてからは、家のこと一切を妻に任せきりにしてきた夫に、何か強く言える言葉などない。いくつものきっかけで、生徒のボイコットまで発展した担任と親の問題は、教師と親という、埋めがたい深い溝を抱える存在として、それぞれの胸の内へと沈んでいく…

家族をテーマにして作品を発表し続ける著者は、どこまでも残酷にいじめを描きながら、救われようともがく人々を丁寧に描く。暖かさを失わないその文章は、薄汚い世界を根こそぎ綺麗にしていくような力を感じる。
誰かが苦しんでいるのに、その苦しみを理解し共有することのできない現実。そこに諦念をにじませたり、憤慨を覚えたり、やりきれなさを感じたりと、それぞれの思いは違う。答えなど期待できないいじめという問題に大して、解決を与えるわけではなく、ある方向を指し示すような、そんな作品だと思う。
僕が一番すきなのは「エビスくん」です。前半三作は何かしらやりきれなさが残るけど、「エビスくん」はすっきりと終わるような気がします。いじめ、とは少し違う形を扱った「ビタースウィート・ホーム」も、子供を持つ親の立場の難しさがよく出ていると思います。
こんなに苦しんでいる人が、身近にいるかもしれない。そう思わせる作品です。いい作品だと思います。

重松清「ナイフ」

娼年(石田衣良)

人は皆、欠けた部分を持って生まれてくる。変な表現だけど、そうだろうと思う。
欠けた部分には、人によっていろんなものが入る。お金を軸とする豪華さかもしれないし、名声や地位を軸にする虚栄かもしれないし、日常的でややさかな何かかもしれない。
もちろんそこには、人と人の繋がりもあるだろう。出会い、愛し愛され、触れ合い理解する。その一瞬の時間で、空白を埋めることだってできるだろう。
欠けた部分を合わせるように、男と女は、いや、人と人は惹かれ合う。
言ってしまえば欲望だ。ただ、欲望は「ある」ものではない、と僕は思う。欠けた、まさにその部分を「欲望」と呼ぶのではないだろうかと思う。その、「欲望」と言う名の空白を見つけ、理解し、そしてちょうどぴったりと嵌まる物を探し出す旅。それがきっと人生なのだろうと思う。
「欲望」という名の空白は、決して埋め立てられることはない。瞬間的に満たされることはあるけれども、氷を詰め込んだように、しばらくするとそこはまた、ただの空白になってしまう。埋めても埋まりきらない空間を持っているからこそ、そして、そこを埋めようという志向を捨てないからこそ、人は生き続けることができるのだろう。
しかし、いつか気付くかもしれない。それまで、空白は欠点であって、埋めなくてはいけないものだと思っていたが、ある何かをきっかけに別の考えに至る。空白があるからこそ、空白以外が存在できるのだと。空白の存在が、空白以外を繋ぎとめているのだということを。それを知ってなお、つまり一時的にすら埋めてしまえば、空白以外がばらばらになってしまうのではないか、という恐怖を知りながらも、それでもなお空白を埋め続けようとする行為。それが、きっと究極の、形のない形なんだろうと思う。人によって、つける名前が違うというだけで。
セックスも女性も、確かにめんどくさいし退屈だ。
本作の主人公リョウ。20歳の大学生だが、大学にはほとんど通わず、バーテンのアルバイトをしている。女に不自由したことはないが、積極的にセックスする気になれず、もてないわけではないが、付き合っている女性もいない。そんな、空っぽの冷蔵庫のような、ひんやりとして空虚な20歳という年。バーで出会った一人の女性との邂逅が、彼を異世界へと誘うことになる。
友人でありホストでもあるシンヤが、初デートだと言って連れて来た女性。40を超えながらも魅力溢れる女性。御堂静香と名乗った。彼女が去り際に置いて行った名刺を無視したリョウは、しかし一週間後また彼女と会うことになる。
「自分の退屈なセックスの価値を知りたくない?」
そう言われ、よくわからないままに静香についていく。彼女の自宅に案内され、彼女とセックスするものだとばかり思っていたリョウの目の前に、一人の少女がいた。20前にしか見えない。生まれつき耳の聞こえないという彼女と寝る。静香はそうリョウに告げた。リョウは、試験にかろうじで合格した。
娼夫として働く。成り行きだが決まってしまった未来に対して、リョウは積極的というわけでも、消極的というわけでもなく、無感動に飛び出していく。
そこで出会う数々の「欲望」の塊。
年上の女性が、自らの欠けた部分を曝け出し、リョウはその空白を理解しそこを埋めるべく最大の努力をする。彼はクラブでもどんどん人気を獲得していくようになる。
そんな中でリョウは、退屈だと言っていたセックスについての考えが変わっていくのを感じる。他人に触れることで自分の体温を知るように、彼もまた、女性に触れることで自分の変化を敏感に知るようになる。
特に理由があって飛び込んだ娼夫の世界ではないけど、いつしか彼は目的がはっきりとしてくる。
あらゆる欲望の形を見て、この世界の、いきつく果てを見てみたい。
リョウが娼夫として過ごす、ひと夏の物語。
リョウは決して溺れているわけではない。相手の欠けた部分を真摯に見つめ、理解し、それを伝え、そしてそこを埋める。彼にはそれが出来たし、他のどんなことよりも自分に合っていると彼は感じている。どんな女性でも、例えそれが老女でも、あるいは危険に感じられる性癖を持っていようとも、彼は拒絶することなく、受け入れていく。
男を買う女性も、別におかしいわけでは決してないと思う。自らの綻びを理解し、それを正常に処理する方法を知っているだけ、それを知らない人よりも上等だと思う。自分の欠けた部分を知らずに、あるいは知っているのに知らない振りをしている人はきっと多いのだろうと思う。それは、女性だから、というような理不尽な理由で、どこかに押し込められているのだろう。
本作は娼夫の話だけれど、全然生臭くない。セックスのシーンはしっとりと美しく描かれているし、リョウの視点を通じて、女性の性癖が奇異に映らないように配慮されているように思う。
女子高生の売春を想像してみるけど、どう想像しても生々しいものになってしまう。現実の情報が過剰にデフォルメされているのかもしれないけど、男の欲望が、ありきたりで、それが故にいびつで、全体的に醜いからだろうと思う。それはどう描いても、やはり生々しいものにしかならないだろうし、実際には想像以上に生々しいのだと思う。
僕は、実際に娼夫というような職業が現実にあるのか知らないし、あったとしたらここまで清廉なものなのかもわからないけど、でも本作で描かれている売春は、どこまでも美しいと思う。年上の女性の落ち着きや、リョウのセックスに対する考え方がそう見せるのかもしれないけど、やはり、女性の欲望の形が、ある意味歪んではいるけれども、歪んでいるなりに均整が取れていて、全体的にバランスがいいからではないかと思う。今まであまり読むことも知ることもなかった、女性の欲望の形が丁寧に描かれていて、いい作品だと思った。かなり好きな作品だ。
でも僕は、石田衣良が書く、都会的でスタイリッシュな文章に少しだけ馴染めない部分があった。池袋ウエストゲートパークシリーズのような、ごみごみした池袋を象徴するような、アップテンポで鋭い文章の方が僕としては好きだ。
最後に、解説の姫野カオルコが、最後に結んだ文章を引用して終わろうと思います。

「リョウの二十歳の夏は、<からっぽの冷蔵庫のような時間が過ぎて>ドアが開かれ、<人の四十年などこのセミの声の永遠に比べたら、ほんの一瞬の気がし>て過ぎ、少年ではなく二十歳の青年の身の丈にあった結論を出して閉じられてゆく、『娼年』はそんなものがたりです。」

石田衣良「娼年」

顔―FACE―(横山秀夫)

時代と共に、社会における女性の立場は急速に向上している、と言っていいのだろうと思う。あくまでも、昔に比べれば、ということだし、それはつまり、昔があまりにひどかったということなんだろうけど、それでも、女だから、という理由で排除されにくくなった時代は、まあましなんだろうと思う。
それでも、やはりほぼ完全な男社会というものは未だに存在するものである。男は女よりも優秀だ。そんな論理がまかり通ってしまうような世界。女だから使えねぇ。そんな台詞が日常的について出るような世界。そんな世界に憧れ、夢を叶え、無残な現実に直面しなければならない女性は、どのくらいいるのだろうか。
警察という組織。
婦警のイメージはある。僕の中では、ミニパト(そんなものが実際にあるか知らないけど)に乗って交通の取締りをし、学校などの交通安全集会などで笑顔を振り撒く。そんなイメージだ。
しかし、やはり女性の刑事、というイメージはなかなかできない。刑事に限らず、鑑識・監察医・幹部など、どこまで行っても女性の存在をイメージすることが難しい。
そんな僕らのイメージが、警察という組織の中における女性の立場を未だ不安定なものに留めているのかもしれない。例えば僕の中では、男の看護師というのはもう容易に想像できるし、実際その職についている人も結構いるのだろう。逆の話になったけど、でも、世間のイメージが女性の地位向上を妨げているというケースはままあるのではないかと思う。
男でも、一つのミスが将来を決定付けてしまうような厳しい世界。そんな中で、時に利用され、時に無視され、チャンスすら与えられないまま、しかし努力はしなくてはいけない存在が、やはり婦警なのだろうと思う。
さて、本作は警察小説である。ミステリーで事件を解くと言えば探偵だが、リアルさを追及するなら警察の捜査を欠かすことはできない。その際、やはり主体は刑事になるだろうと思う。刑事事件に真っ向から向き合い、足でネタを掴み、己の力量でホシを落とす。それが警察小説の王道であり、ほぼ唯一のスタイルだろうと思う。
しかし、横山秀夫は、デビュー当初からその発想を根幹から裏切った。つまり、刑事以外を主体に据えた、まったく新しい警察小説を書き上げたのだ。これは、普通の警察小説に慣れた読者にはかなり新鮮だろうと思う。
本作の主人公は平野瑞穂という婦警である。いささか複雑な事情で今は広報課、つまり外へのアピールを仕事とする部署にいるが、以前は、刑事事件で重要な役割を果たす鑑識課で、目撃者からの聞き取りを元に似顔絵を作成する専門だった。
一年ほど前のこと。瑞穂は、コンビニ強盗犯を目撃した老女からの聞き取りで似顔絵を作成。その似顔絵を見たコンビニ店長の指摘で犯人が逮捕された。警察は浮き足立った。似顔絵による逮捕第1号としてマスコミにアピールしたのだが、大きなミスがあった。
犯人と似顔絵はまったく似ていなかっのだ。
実は、コンビニの店長は、こいつはいつか何かやるだろう、と以前から目をつけていた人間がいて、似顔絵をちらと見て、その男に似ていると判断してしまったのだ。
対応に迫られた上司は瑞穂にこう命令した。
写真を見て似顔絵を書き直せ…
似顔絵の改ざん。泣く泣く命令に従った瑞穂は、しかし罪悪感に耐え切れずに失踪騒ぎを起こし半年間の休職。復帰後配属されたのが広報課だった、というわけである。
瑞穂は、今でも鑑識に戻り、自分の得意な似顔絵で犯人逮捕に貢献したいと思っているが、なかなか思うようにいかない。いくら能力があっても、男社会という歪んだなかでは、適材適所とはいかないのである。
その瑞穂が、自らの職域の中で事件に触れ、刑事とは別の立場、別の視点で事件を捉え、鑑識で培った観察力とその似顔絵描きの能力で事件を解決に向かわせる、という連作短編集である。
それでは、それぞれの短編を簡単に紹介しようと思う。

「魔女狩り」
捜査二課は今総選挙を巡る現金買収事件の捜査をしているのだが、J新聞がその関連で特ダネを毎朝連発している。選挙は終わり、疑惑の人物は落選したのだが、それでも、捜査対象者はその有力者の周辺人物なわけで、そうも情報をすっぱ抜かれるとまずい。マスコミに情報を下ろす広報課が突き上げをくらい、捜査本部とともに情報をリークしている人間の「魔女狩り」を行っているが、成果は上がらない。瑞穂は、記者と飲むのも仕事の内、と告げた上司に対抗するように、J新聞の女性記者と会ったり、あるいは話せる別の女性記者から情報を引き出そうとするも、うまくいかない。いつまでも情報漏れが止まないことに怒り心頭の本部は、捜査員を庁舎に「カンヅメ」にすることにしたが、その翌日にも特ダネが抜かれるが…

「決別の春」
「犯罪被害者支援対策室」という、いわゆる「電話相談」の部署に突然配属された瑞穂。初めて取った電話口から、今近隣で起きている連続放火魔に怯える女性の震える声が届くも、瑞穂のミスで電話を切られてしまう。待ちに待った電話で慎重に相手とコミュニケーションを取り、以前似顔絵描きをしていた頃にも似た、被害者を救うということの重みと大切さを感じる。打ち解けた彼女は、幼い頃両親を叔父に焼き殺されたことを告白する。今起きている放火と昔の放火殺人。彼女からの聞き取りで叔父の似顔絵を描いた瑞穂の抱いた疑問とは…

「疑惑のデッサン」
昔通っていた絵画教室に再び通うことにした瑞穂は、そこで、現似顔絵捜査官の女性と鉢合わせてしまう。しかし、彼女のデッサンを見た瑞穂は、出来の悪さに、何で自分が似顔絵捜査官ではないのか、という思いにかられる。ちょうど事件の一報が届き、彼女は現場へと向かった。翌日の新聞に載った似顔絵は、しかし彼女の力量とは思えないほど見事に描かれたものだった。まさか、捏造…自分と同じ轍を踏んでほしくない瑞穂は、彼女に接触するが…

「共犯者」
抜き打ちの銀行強盗訓練。今は、支店長だけに訓練の日時を伝え、本番さながらの迫真の訓練をさらざる終えない状況になっている。瑞穂は、何故か古巣の広報課に借り出され、銀行内から人気がなくなったのを見計らって、訓練開始の合図を出す役だった。銀行前にいた老人と赤ちゃん連れの女性に離れてもらい、瑞穂の合図で訓練が開始された。しかし、五分と経たない内に訓練は中止された。同じ銀行の別の支店で、本物の銀行強盗が発生したというのだ。ありえない偶然に、情報の漏洩が疑われた。瑞穂の証言で友人を傷つけてしまったがために、彼女は事件解決に尽力する。一体、「共犯者」は誰なのだろうか…

「心の銃口」
警察官の銃発砲の規定が大幅に改正され、婦警にも拳銃を持たせるような時代になった。瑞穂の銃の腕前はひどいものだが、婦警の中にも抜群に銃の扱いのうまい女性がいて、女性の地位向上へ一役買っている。しかし、その銃の名手が、殴打され拳銃を奪われたという。意識不明の重態。警察の拳銃で二次被害など出たらものすごい責任問題であり、警察は威信をかけて捜査をする。瑞穂は、得意の似顔絵で犯人に迫ろうとするが、思いがけない真相に辿り着いてしまうことに…

それぞれの物語は、ミステリーとして素晴らしい完成度を誇っていると思う。ちょっとした点から突き崩され、真相が姿を現すその見事な手腕は、警察短編の名手の名に劣ることはない。
しかし、やはり本作の魅力はそのミステリー的な点だけではない。やはり、瑞穂というキャラクターが重要な要素になっているだろう。
子供の頃から婦警になりたかった彼女は、正義感に溢れているが、警察の組織という現実にうまくいかないことの方が多い。それでも、名誉や出世のためではなく、誰かの何かのために行動できる瑞穂の姿は、共感が持てていい。
周囲との軋轢にもめげず、失敗にもめげず、前進しようとしている姿勢は、こうあってほしいと思う警察の姿であるだろうとも思う。
また、似顔絵によって真実を暴く、という設定も、なかなか目新しくて面白いと思う。
実は、ドラマ化されたものを以前見ていたが、ドラマの方も悪くなかったと思う。色々設定は変わっているような気もする(原作には、オダギリジョーがやっていた役はいなさそうだし、余なんとかという女優がやっていたカウンセラーもいない)けど、やはり連作短編集というのは、ドラマにしてもその形が失われることはないのだろうか、とそんなことを思いました。瑞穂役立った仲間ユキエもぴったりだと思いました。
ミステリーの分野でばりばりと活躍している横山秀夫の作品。是非読んでみてください。

横山秀夫「顔―FACE―」

接近(古処誠二)

僕は、戦争というものの形を知らない。経験したわけでもない。歴史はどちらかといえば苦手で、積極的に学んだわけでもない。僕には、遠い昔に起きた、悲しい出来事だ、という、曖昧な漠然とした印象しかない。
しかし、知っていればいいか、と言えばそういうものではないとも思う。
戦争など、遠い過去でしかない僕たちにできることと言えば、見て聞いて、体験したような気になるしかない。結局全ては、虚構でしかない。
物語も全て虚構だ。
しかし、例えどんなに偽りであっても、戦争というものの何かを残し、何かを留めておく存在には、価値があると思う。
戦争で何を失ったか。
戦争で何を得たか。
戦争で何を知ったか。
戦争から何を感じるか。
そうした「何か」を、文章の中に封じ込めれば、虚構の中にも、真実は生まれる。
人が生きる、ということは醜い。本質的に醜い。それを強く感じた。
今では、不自由などほとんど感じることなく、生きていることが当たり前の世界にあって、その醜さはなかなか姿を現すことはない。生きるために必死になる、ということが極端になくなった今との、余りのギャップが突き刺さるようだ。
いつ死ぬかもわからないという恐怖が背中にべったり貼りつくような環境下で、冷静を保っていろという方が無理なのかもしれない。誰もが生きようとする。弱いものは弱いものなりに。強いものは強さを活かして。それはきっと責められるべきことではない。
その中で、尊敬できる人に出会い、信じられる人を見つけることが出来るのは、幸せなことだろう。
例え、否定することが不可能なほど、裏切られたことに気付いてしまったとしても…
唯一の本土決戦が行われた島、沖縄。
未だに米軍が多数駐留する島、沖縄。
未だに因縁の切れることのないその地を著者は描く。
本土との文化の差が大きかっただろう沖縄。米軍が沖縄に来ると聞き疎開する人も出始め、一方で国のため、皇軍のため、と島に残って徴用に従事する人もいる。
桜の咲く頃に。
こんな言葉が島には広がる。その頃に米軍が来る。対する決意の現れをその言葉に託したのだろう。
弥一という少年。疎開した両親を逃げたと判断し、自らは皇軍のためにと沖縄に残ることにした11歳の少年は、壕に非難している住民が否定的なことを口にするのも聞かずに、歪むことなく国のことを信じている。
兵隊さんがなんとかしてくれる。
皇軍が負けるわけがない。
そんな自らの信念に従うように、誰よりも嫌がる仕事を率先して引き受け、身を粉にして働いている。
脳裏には時折、昔班長だった白沢伍長の姿が浮かんでいる。聡明で冷静で、殴ることも叱ることもなく、作業効率を上げ、負担を減らしたその指揮手腕に、住民も受け入れるとともに、弥一自身、尊敬の念を覚えている。戦況が厳しくなり、前線から逃げ出すような兵隊がいるような話を聞いても、彼は白沢伍長のことを思い浮かべる。
二人の兵隊を見つけたのは偶然だった。一人は足に大怪我を負っていて、見捨てることもできない彼は、壕にいる区長に相談するが、区長は兵隊をまるで信じておらず、壕に入れることも拒否した。
弥一は、近くにある小さなスペースに二人を匿い、出来うる限りの世話をすることに。しかし、そのせいで区長や住民との間でさらに溝が広がっていくことになる。
どんどん戦況は悪くなる一方だ。皇軍は負けるわけがない、という理屈の上に、住民がスパイになっているから勝てないのだ、と言い訳がくっ付き、ただでさえ本土とは違う文化をもつ沖縄の住人はさらに肩身の狭い思いをするようになっていく。前線を抜け出した兵が遊兵となり、壕や食料を奪うようになっていき、その危機は、弥一の住む壕にも押し寄せてきた。
二人の兵隊のお陰で何を逃れ、以後住民との関係も良好になっていく兵隊と弥一。信じていた人から裏切られるまでは…
弥一の視点で語られる文章にはしかし、弥一の感情が挟み込まれることはほとんどない。弥一は、怖いだとか不安だとか、そういう感情を押し殺し、信じたものを貫き通す事で自分の形を保っているようにも思える。
目の前で展開される悲劇を嘆くでもなく、死んでいく同胞に哀れむでもない。それでも無慈悲なわけではないだろう。その当時、その場にいれば、そんな感覚は麻痺してしまうし、そんな余裕はない、ということだろう。
周囲に流されることなく、己の信念を貫こうとする弥一。彼が「接近」したのは、真実を射抜く悲しい存在なのか、あるいは、虚構を暴く勇敢な精神なのか…ラストに漂う物悲しさは、なんとも言えません。
ミステリーでデビューした著者だが、いくら自衛隊にいた経験があるからといって、簡単にここまで文学に飛翔できたわけではないだろう。いっそ冷徹とも思える、弥一の視点を借りた筆者の文章は、硬質で怜悧な刃物のようです。その、鋭く突き刺さるような文章は、戦争という異常な世界を描くのに一役買っていると思います。
戦争を描くのに多少分量が足りないような気もするけど、少年の時代に翻弄される姿はなかなかの描写だと思います。悪くはないと思います。読んでみてください。

古処誠二「接近」

水の迷宮(石持浅海)

本作の持つイメージは嫌いではない。水槽に一杯の水、そして差し込む光。鮮やかな色の魚たちと優雅なイルカのショー。そうした、透明感溢れる情景の中で、同じく情熱的で透き通った人々が汗を流す。そういう舞台設定や状況といったものは嫌いではない。
しかし、どうにも読んでいて、違和感というか齟齬が残る。
普通の小説として見ても、登場人物の描かれ方が、どうにも単一的な気がしてならない。一言二言で表現できてしまうような、あまり中身のない人物造型のような気がして、ところどころで気になった。
特に不自然さを感じたのは、主人公であり視点人物でもある古賀という男で、驚き方がわざとらしかったり、あまりにも論理的な思考が出来なさ過ぎたり、なんとも不自然な印象を受けた。
それと、それはさすがにないんじゃないかな、と思うような判断がいくつかあるようにも思う。実際どうかなんてことが検証できるわけはないけど、リアリティの薄い決断がいくつかあったようにも思う(その部分を指摘するのは、内容に踏み込むことになるので止めておくが。あと、実はリアリティという言葉は好きではない)。
そして本作はミステリーなのである。
僕は、もちろん作家の力量や文章にもよるだろうし、扱う題材によっても変わるだろうけど、ミステリーとして本作を見た場合、「謎」の部分のインパクトが余りにも薄いような気がしてならない。大したことは起きていないのに、大騒ぎして右往左往しすぎているように思う。もちろんそうした点についても後々わかることがあるのだが、それにしても、読者を引っ張るだけの魅力に欠けるのではないだろうか。
伏線の張り方は割といいと思うし、見方によって意味がいろいろ変わる状況設定も悪くはないと思うし、探偵役の力量もまあそこそこだとは思うが、その魅力に欠けた謎と、主人公のあまりの愚鈍さに、どうにも違和感を感じ続けたものでした。
というわけで、とりあえず内容を紹介しようと思います。
3年前、水族館をよくしようと尽力していた片山という男が死亡してから、職員は力を合わせ、水族館の発展に努力してきた。そんな水族館で事件は起こる。
片山の三周忌の今日、バイトの子が持ってきた館長あての紙袋の中に、携帯電話が入っていた。次々に送られてくるメールで、水槽への嫌がらせを告げ、さらに金銭の要求もしてきた。死んだ片山との繋がりをにおわせる<脅迫者>の犯行に、職員は慌てる。
職員の中に犯人がいる。そうとしか考えられない状況下で、なんと職員一人の死体が発見された。疑心暗鬼に陥りそうになりながらも、必死で議論する職員。古賀の友人で、片山とも親交があった深澤は、少ない手掛かりの中から真相を見抜き、そして、片山の目指していた<夢>までも呼び覚ますことに…
青春ミステリーのような位置付けになるような気もするけど、僕としてはそれなりの作品でした。今後に期待です。

石持浅海「水の迷宮」

ナイン・ストーリーズ(J・D・サリンジャー)

物語の中には、「現在」という時しか存在しない…

「現在」という時の流れを忠実に繊細に切り取っている。しかし、その「現在」に行き着くまでの過程が、まったくわからない。一切とは言わないまでも、今どんな状況で、何故そうなったか、というような、所謂「原因」にあたるようなものは描かれていない。
知らない人ばかりが写った写真を見ているような感じである。写真を見て、この人が着ている服はどうだとか、あそこに写っている車はなんのメーカーだとか、雨が降っているだとか、そういうことはわかる。それでも、写ってる人間がどんな関係で、どういう理由でその場にいて、これから何をしようとしているのかは、その写っている人物と知り合いだったり、またその時の状況を聞いていたりしない限り、その写真からだけではわかりようもない。本作は、そんな写真のような印象を与えてくれる。
ある意味、物語が不安定なのだ。不安定という言葉は誤解を招きそうだから、不確定といい換えてもいい。とにかく、ピースの足りないジグソーパズルのように、一部モザイクの掛かった映像のように、黒ずみであちこち塗られた戦前の教科書のように、足りないものが多すぎて柱の足りない家屋のように不安定なのだ。
そう、サリンジャーは、引き算の文学、とかなんとか言われているように思う。「書かない」ことで何かを書く。「書かない」ことで、空間に、そして時間に、無限の広がりを持たせているのである。いや、僕自身がそう感じたのではなく、そう言われている、というだけのことだが。
古川日出男という作家がいる。その「沈黙」という作品の中で、一切の音響を消した映画に、元のストーリーとはまったく別の吹き替えをして大成功した男の話が書かれていた。僕は本作を読んで、それを思い出した。つまりサリンジャーの作品というのは、音響という要素の欠けた映像のようなものではないのか、と。読者自身が、サリンジャーの与えた音響なしの映像に対して、自由に発想の羽を羽ばたかせ、自分にとって意味のある、あるいは楽しく思える過去や状況を設定する、そうして楽しむ作品なのではないだろうか、とそう感じた。まさに、時を経て、作者と読者がコラボレートするわけである。
同じく本作を読んで思い出したのは、森博嗣の短編集である。森博嗣の短編集は、非常にサリンジャーに似ている。いや、もちろんそれは、僕の読んだ順番に影響されているだけであって、森博嗣がサリンジャーに似ている、という方が当然正確だろう。森博嗣の短編も、どうしてそうなのか、どうしてそうしたのか、というような部分が語られないことが多い。初めての短編集である「まどろみ消去」を読んだときは、長編とのギャップについていけなかったが、次第に慣れていき、その奥深さを完全に理解することは出来ないまでも、少しは楽しむことができるようになった。そうした下地がなければ、本作を読み通すことが出来たかどうかちょっと自信がない。
そう、村上春樹の作品のように、僕には本作を理解することが全然できない。まあそれは当然としても、良さを充分に感じられてもいないと思う。最後の方は、少しだけ読むのが辛かったりもした。
それは、僕にはさっき言ったような吹き替えの技術や、それに至る豊かな想像力がないせいだろうと思う。村上春樹の作品と同じく、気が向けば、何度か読み返そうか、とも思っているけど、今のところあまり気乗りはしていない。
さて、いつものようにそれぞれの短編を紹介しようと思うけど、ごく短い言葉で、状況をさらりと書くぐらいのことしかできないだろうと思います。
紹介の前に、作品の特徴を少しだけ書こうと思います。ほぼ会話だけで成立しているものと、ほぼ地の文で成立している作品があります。会話だけの方は、ごく短い時間の出来事を切り取ったもので、地の文だけの方は、ある程度の時間経過を有するものです。
さて、ではごく簡単に紹介しようと思います。

「バナナフィッシュにうってつけの日」
海岸に寝そべる男。その男の妻と実母あるいは義母との、男を心配する会話。男の元へと近づく少女。バナナがどっさりと入っているバナナ穴に泳いでいき、中に入るとバナナを猛烈に食べ、食べ過ぎたために穴から出られなくなり、バナナ熱に罹って死んでしまうバナナフィッシュを探そうとする男。そして、部屋に戻って自殺する。

「コネティカットのひょこひょこおじさん」
何か共通の話題について永遠としゃべり続ける二人の女性。その一方の女性の娘。娘には架空の存在の彼氏がいるようだ。母親は手を焼いている。足首をくじいたときに、足首と叔父の「アンクル」を掛けて、「コネティカットのひょこひょこおじさんみたいだ」と言った昔の彼。そして、泣き崩れる。

「対エスキモー戦争の前夜」
立て替え続けたタクシー代を友人に請求した女性。相手の家に上がり込むことになったが、そこで指から血を流し続ける兄に会うい、彼女の姉についてよからぬ話しを続ける。兄を劇場に誘う友人らしき男も現れ、ひとしきり会話をすると、戻ってきた友人に、お金はいらない、と告げる。

「笑い男」
<コマンチ団>という名前の、団長と25人の小学生からなるグループ。野球やなんかをして過ごす一方で、団長がいつも話してくれる「笑い男」の話にみんな夢中になっている。団長の恋人が野球に混じり、そして混じらなくなった時、笑い男は物語の中で死んだ。僕は、震えながら泣いた。

「小舟のほとりで」
メイド二人の会話。女主人は家出癖のある息子の所在を尋ねる。近くの湖の船の上。息子と女主人は会話をしている。家出をした理由を問うても息子は答えない。やがて口を開く息子。駆けッこをして家まで戻る二人。

「エズミに捧ぐ―愛と汚辱のうちに」
ふと入った教会で耳にした聖歌。その中でも一際目立った声をした少女に、偶然直後に軽食堂で出会う。彼女のために短編小説を書くと約束した軍人。そして、後で届く彼女からの手紙。

「愛らしき口もと目は緑」
目の前にいる女の電話がなる。受話器を取ると友人の声。奥さんが帰ってこない。そのイライラを吐き出し続ける。男は、冷静になるよう伝え続けるが、相手の興奮は収まらない。なんとか電話を切った後、すぐに掛かって来た電話で、妻が帰ってきたと告げた。頭痛を訴える男。

「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」
あらゆる策略を練って手にした美術の通信講座の講師のアルバイト。早速雇い主に会うも、その教育指導のやり方に幻滅する。送られてくる、ろくでもない作品に目を通しながら彼は、ある一人の、修道女だという女性の作品に目を奪われる。彼は彼女に、長々と手紙を書き、必要な指導をし、的確な画材を示しと、とにかく手を尽くすのだが、しばらくして、その通信講座を辞める旨の書かれた手紙が送られてくる。

「テディ」
バックから降りろ、としきりに父親から言われている少年。船内を巡り、両親に言われたことを果たそうとし、プールの実習の前に出会った男と、神や神秘体験の話をする。プールに響き渡る、少女の悲鳴。

一番好きな、というか、少しでも近づけたと思える作品は、「小舟のほとりで」です。あと、「テディ」のラストはかなり好きです。

J・D・サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」

百器徒然袋―風(京極夏彦)

探偵小説である。もう、めちゃくちゃに面白い。
本作は、百器徒然袋シリーズ(そんな呼ばれ方はしてないだろうが)の第二弾で、前作の雨編の続きである。タイトルの前に堂々と、探偵小説と銘打っているように、純粋にミステリーである。妖怪は全然まったく関係ない。
さて、その本作を、普通のミステリーにしていないのが、何を隠そう(全然隠れてないのだが)、榎木津礼次郎その人である。
この最強にして最低の大馬鹿探偵は、自らを神と称するどうしようもない人間だが(というか人間ではなく神なのだそうだが)、とにかく、良き悪しきにつけ、榎木津が大暴れする物語である。
めんどくさいので、榎木津に関する記述を本分から抜書きしてみよう。

(前略)
眉目秀麗にして腕力最強。上流にして高学歴。破天荒にして非常識。豪放磊落にして天衣無縫。世の常識が十割通じない、怖いものなどひとつもない、他人の名前を覚えない、他人を見たら下僕と思う―調査も捜査も推理もしない、天下無敵の薔薇十字探偵。
(後略)

これでも全然まだまだ言い足りないぐらいなのだが、これだけでももうどんな人物だか知れようものである。
それでは今度は、探偵というものに対する彼の発言を抜き出してみようと思う。

(前略)
「馬鹿だ。長さんだか留さんだか知らないが、何だって探偵がそんなことしなきゃいけないんだこの大馬鹿。いいか善く聞けこの大馬鹿者。この世界に於ける探偵と云うのは、世界の本質を非経験的に知り得る特権的な超越者なのであって、姑息にこそこそ覗き見し回るコソ泥野郎なんかとは天と地、土星と土瓶ほどに開きがあるものだろうがッ。思い上がりも甚だしいぞ」
(後略)

意味不明だ。何を言いたいのかさっぱりわからないが、もうとにかく果てしなく特殊で奇特な人間なのだ。
と、まあ榎木津の話はもうこれぐらいでいいだろう。
本作は、短編集(まあ中編集ぐらいだとは思うのだが)なのだが、でも全体として結局繋がっていく、という感じになる。見事な構成だと思う。細かいところまでこだわりが見られて、素晴らしい。
この百器徒然袋シリーズというのは、もちろん謎の大元である事件はもちろん混沌として複雑で魅力的なのだが、それ以上に、解決編が混沌としている。京極堂は話を聞くだけで、榎木津は話すら聞かずに大抵真相に達するのだが、解決のために仕掛ける罠だとか作戦だとかに巻き込まれる下僕供には、何をどうしているのかさっぱりわからない。僕(前作では何故か名前は出なかったのだが、本作の冒頭で本島だと明かされる)はそもそも事件本体の構造すら理解していないわけで、そんな状態で京極堂や榎木津に振り回され、全てが終わってもなおわからない、という鈍感ぶりなのだ。
相手が仕掛けてきた罠への反撃は、相手からの攻撃異常に奇妙で、説明も受けずに巻き込まれている本島は、ほんとうに流されるままに流されている。
少しだけ、僕こと、本シリーズの視点人物である本島某についても紹介しておこう。
本島は、まあ榎木津とは真逆の正反対と考えてくれればいいわけで、寧ろ関口に近い。凡人でありきたりの小市民。ただの図面引きであり、同じく凡人ではあるが変人の紙芝居書きの友人を持ち、ある出来事をきっかけに、榎木津に関わってしまったがために(彼はきっとそのことを一生後悔する羽目になるのだろうが)、もはや榎木津の下僕と認識されている、哀れな男なのである。
まあ、読めば読むほど可哀相な男である。まあ、京極堂は何度も本島に、あんな男(もちろん榎木津のことである)と付き合っていると、もの凄い勢いで頭が悪くなるぞ、といい続けているのだが、本島の方もある意味不可抗力なのだから仕方ない。
本作は、普通の作家が書けば普通のミステリーになってしまうところを、榎木津探偵一味が事件に関わり、榎木津が事件を粉砕することで、誰にも書けない特異なミステリーに仕上がっている。めちゃくちゃ面白い。妖怪や民俗学の難しい話もないし(俺は京極堂の講釈は結構好きなのだが)、読みやすい。前にも書いたけど、榎木津や京極堂が出てくる作品の入門として読んでもまあ面白いだろうとは思う。
まあ、とにかくそんなわけで、それぞれの話を紹介しようと思う。

「五徳猫」
本島と友人は、どうでもいいが当人達にとっては至極真面目な賭けを通じて、招き猫と関わることになる。招き猫発祥の寺だという境内で出会った二人の女性の奇妙な体験を聞いてしまったがために、またぞろ榎木津に関わることになってしまう。久々に休みをもらって生家に戻ったその女性は、しかし剣もほろろに追い返されたのだという。猫が化けて母を食べてしまったのではないか、と荒唐無稽な発想をする女性の命を受け、榎木津への依頼をすることになった本島だが、榎木津探偵事務所でもなんだか招き猫のことでごたごたしている。結局そんな話をもろもろ京極堂にし、真相に達した古書肆は、重い腰(これはもう相当に重いが)を嫌々挙げて、一方で大暴れできる榎木津は大層喜んで、いつものように、何が起きているのか、そして何をしようとしているのかさっぱりわからないまま、本島は猫だらけのその事件に最後まで巻き込まれる。

まあ本作の全てはこれがきっかけになったわけです。いつものメンバーがいつも通り馬鹿で、面白いです。本作に収録された三篇の内で唯一、妖怪に関する講釈があったりして、妖怪ファンにも楽しめるだろうと思います。各章の初めの文章が全て「右」という単語を使って始まっているという、これもなかなかの職人技ではないかと思います。

「雲外鏡」
のっけから本島は、それこそ平凡でありきたりな日常が180度ひっくり返って転覆するような目に遭う。榎木津探偵事務所を出てすぐ、彼はどこの誰ともしらない男どもにひきずられ、とある廃ビルに連れ込まれ、腕を縛り上げられている、という、どう転んでも絶体絶命のピンチの渦中にいるのである。駿東と名乗る男は、本島を解放するためだといって、本島に刺される小芝居をし、必死の思いでその場を立ち去るも、冷静になり、また京極堂にその話をしながら、どこか変だと思うようになる。京極堂にもその通り指摘され、京極堂の指示で榎木津にその出来事を知らせるように言われた本島は探偵事務所へ赴くが、いつものように問題が。霊感探偵を名乗る男から榎木津に推理勝負の挑戦状がたたきつけられたのだという。当人がいないので判断もできず、当惑する下僕たち。一体何のために本島は拉致監禁されたのか…

本島の大ピンチから始まる本作は、ある意味榎木津の<敵>が明確に現れた作品でもあるわけです(榎木津の人間に対する評価は、下僕か敵か無関心かのいずれからしい)。本作は、まさに京極夏彦にしか書けない、榎木の存在なくしてはありえない、そういう意味では(そういう意味でなくともだが)素晴らしい作品です。何故拉致監禁され、小芝居を見せられたのか。最後は痛快です。

「面霊気」
空き巣に入られたみたいなんだ、と本島に告げた友人は、彼に部屋の掃除を手伝わせるが、見覚えのない品が数点出てきて、その内の一点が気になり古物商の今川の元へと持っていく。それは、今川を大層に興奮させ、京極堂に相談にいかせるほどの品だったわけだが、そのあおりを受けて今川の用事、これは榎木津探偵事務所に荷物を届ける、というただそれだけのためのものだったのだが、いつものように問題が起こっている。今回は大分深刻で、なんと押しかけ社員にして元刑事の下僕が、窃盗の容疑をかけられている最中なのである。その下僕の証言を信じるなら、彼は誰かに嵌められたことになる。よくわからない理由で怒り散らした榎木津に追い出されるようにして京極堂の元へと向かうと、やはり真相を見抜いたらしい変人二人によって、相手をこてんぱにする作戦が決行される…

本島と益田が大ピンチに陥るが、なんだかんだと重い腰を上げる京極堂も今回はお手上げ…かと思われたが、大逆転でなんとか助かる。最後には解決するとわかっていても、実は京極堂は彼らを本当に助けないんではないか、と思ってしまう。各章の文章の始まりに「釈然としない」という言葉がば付けられていて、まあ職人だ。そして、なんとあの人物がついに現れるのである。こう御期待。

いつものように面白いです。是非どうぞ。

京極夏彦「百器徒然袋―風」

1973年のピンボール(村上春樹)

あるところに、ジグソーパズルの盛んな国がある。人々は、寝て食べて働く以外のほとんどの時間を、ジグソーパズルで過ごす。それは、娯楽というより寧ろ習慣のようなもので、人々は、特に儀式的な理由があるわけでもなく、あるいは、敬うべき伝統であるわけでもなく、まるで呼吸するようにジグソーパズルをする。誰も不思議に思わないし、ほとんど例外はない。
その国に、一人のジグソーパズル職人がいる。彼はその道では伝説の人物で、他の職人だけでなく、国中から尊敬されている。
彼の伝説たる所以は、その作り方にある。普通は、真っ白な板に機械で切れ目を入れて、絵の無い真っ白なベースを作り、そこに職人が絵を書いていくという工程なのだが、彼は、真っ白なベースをバラバラのピースにしてしまい、そのピース一つ一つに丹念に絵を書く、という手法なのである。
彼の頭の中で、全体像が出来上がっているのか、それは誰にもわからない。彼は寡黙な職人であり、どんな意図で以って絵を書いているのかわからないのだ。
全てのピースに絵を書き終わると彼は、そのジグソーパズルを組み立てる。そうして彼の仕事は終わるのである。
出来上がった絵は、抽象的なわけではなく、かといって具体的なわけでもなく、境界や輪郭が曖昧なまま、それでいて何かを連想させる、そんなものに仕上がるのである。
しかし、彼の仕事の素晴らしさは、それだけではない。
彼の作品は、出荷される段階で一度バラバラにされる。買った人が組み上げるのだが、大抵の人は完成させることができない。なぜなら、彼の作った作品は、買った人の価値観や思想によって、ピース単位で変形してしまうからだ。
彼と思想的に遠ければ遠いほど、繋ぎ合わせることのできるピースは減っていき、全体像を把握することができない、ということになる。
その国では、彼の作ったジグソーパズルを組み上げることができるというのは一種のステータスであり、その事実がすなわち、彼を伝説たらしめているのである。

さて、いきなりなんだ、と思われたでしょうが、上で書いた物語(駄文ですが)は、僕が本作を読んで得た漠然とした何かを、物語という形に託したものです。
僕は、もちろん村上春樹の作品全般について言えることですが、本作を含めた彼の作品に関して、読者がみな同じ文章を読んでいるのか不思議に思うことがあります。
つまり、彼の作品が僕の手に渡った時点で、僕の価値観や思想を読み取り、自動的に文章を変えてしまっているのではないか、ということです。手にした人間それぞれが、僅かずつだけ違った別々の文章を読まされているのではないか、とそう疑っているわけです。
何が言いたいかと言えば、それぐらい僕には理解することが難しい、ということです。他の人が読んでいるのは、同じような、でも致命的に違いのある別の文章であって、それはとても明確で素晴らしいものなのではないか。もしそうだとしても、僕にはその文章を読むことは不可能なわけで、ありえないとは思っていても少しだけ残念です。
僕は、この物語から何を感じるべきなのか、あるいは、この物語をどう誰かに伝えるべきなのか、それを語る言葉を持っていません。本当に、少しずつ規格とはずれたピースを組み上げているような、そんな不安と齟齬を感じました。
村上春樹の紡ぐ文章が醸し出す雰囲気は嫌いではないし、寧ろ好きかもしれません。彼の文章は、現実の風景を全て写実豊かな画家の描いた絵にしてしまうような、輪郭や印象はぼやけ、それでいて奥深さや厚みが増していくような、そんな世界に変えてしまう様な気がします。そうして出来た、写真や映像ではない、絵画に囲まれた空間で、登場人物たちが考え悩み、寝て食べ、進み止まる、そんな不思議で不可思議な世界を作り上げていて、その雰囲気は好きだと思います。
それでも、その完成された空間の中で、登場人物たちが何を悩み、何故進むのか、どう乗り越え、いつ止まるのか、そうしたことはさっぱりわかりません。そうした、筋を追う作品ではない、とわかってはいるけれども、まだまだついていけないでいます。
僕と双子とピンボールの話。鼠とバーと女の話。内容について僕はこれ以上説明のしようがないし、できません。好きな文章、好きな場面はあるけど、全体は好きになれない、という稀な作品だと思います。
それでも、村上春樹の作品は、これからも読んでいこうと思っています。

村上春樹「1973年のピンボール」

陰摩羅鬼の瑕(京極夏彦)

「死」とは何か?
「存在すること」とは何か?
「生」とは何か?
それが全てだ。この長い物語は、ただそれだけを語るために存在している。
すごすぎる。
正直、僕には語る言葉がない。著者が、これだけ長いページを割いて書こうとしたものを、ただの十数行で書き表せるわけはない。それでも、出来うる限り、言葉を尽くそうと思う。
「死」や「生」や「存在」を語るために本作は存在する、と書いた。しかし、本作を読んだからといって、それらについてわかるわけではない。長い年月を掛け、あらゆる人間が、あらゆる方向から考えに考えて未だなお答えのでないことに対し、あっさりと答えを提示できるわけもない。確度の高い仮説を提示する、というための物語でもない。
括ってしまえば、「死」と向き合うこと。本作ではその姿勢こそを提示している、と僕は思う。
僕らは、生きている限り死から逃れることはできない。しかし、誰も経験することはできないし、経験した者の話を聞くこともできない。そんな、不可避にして不可知の「死」という現象に対して、やはり人は不安を抱く。
しかし、先達の知恵というか詭弁というか、とにかくそうした「器」が用意されているがために、僕たちは普段、「死」を殊更意識しなくてもいいように、「死」というものに囚われて日常を逸脱することがないように、システムが組まれている。
人が死ねば葬式を上げ、お参りをするというのも、肉体に霊が宿り、死ねば霊は肉体から離れる、という幻想も、そもそも、神や仏などという記号を導入したことも全て、「死」というものを遠ざけるためのシステムであり、詭弁であるのだ。
日常的に、ニュースなどの情報から、死を知り学ぶ機会の多い僕たちは、ともすれば、死というものの存在に、あるいはそれに対する不安に、押しつぶされてしまうのかもしれない。しかし、直接に向き合わなくてもいい、という逃避が社会に根付き、年月を掛け浸透することで、安定を保ってきたのだ。
そうした後ろ向きなシステムを離れ、己の目で死を見る。そうした機会を本作は与えてくれているように思う。
どこまでも悲しい。
これほどに悲しい物語があるだろうか。
存在するもの、そして、存在すること、その全てが悲しい。
物語の紹介をしようと思う。
鳥の剥製がひしめきあうある大邸宅に住んでいる由良伯爵。これまで過去四度、彼は妻を迎い入れ、婚姻当日、何者かによってその命を断たれてきた。あまりにも短い犯行時間。幾度となく犯行は繰り返され、その度に犯人を指摘できないでいる。
そして今回。五度目の婚姻。
その式典に、関口と榎木津が呼ばれた。伯爵自身の興味半分、事件解決が半分というわけだが、榎木津は目が見えなくなってしまう。いつもの能力はしっかり発揮できるのだが、いつものように奇行暴言ばかり。関口にしたところでおろおろおどおどするばかりで、何もできずにいる。婚姻の儀式は、それでもつつがなく進んでいく。このままだと、花嫁はまた殺されてしまうというのに。
過去の事件を知る唯一の元刑事や木場、もちろん京極堂も関わり、事件は、余りに悲しい形で収斂していく…
生まれれてから一度も外の出たことのない伯爵。
屋敷内を埋め尽くさんばかりの禍々しき剥製達。
婚姻の度に起こる、防ぎようのない悲惨な殺人。
儒教を下敷きにした、遍く広がる日本の死生観。
何かがずれているようで、そのずれが何なのかわからない。おかしいのにおかしさを指摘できない。共有であることが前提ではなく、閉鎖的な環境が生む新たな価値観。
どこまでも偏狭で、それでいて異常ではありえない殺人犯。
どこにも救いがない。
本作は、僕がここのところ読んだ作品の中でも飛びぬけて最高の作品です。
まず、今までの京極作品と比べて、格段にわかりやすい。文章や語彙や知識が平易、ということはないけれど、状況や人間関係にかき回されたり、難しい思想が底に流れている、といったこともない。時間軸もわかりやすく、認識しがたい飛躍もない。
だからこそ、こんなにも悲しい。
京極作品を一枚の絵画に例えてみようと思う。中心となる人物がいて、背景がある。そんな絵画を思い浮かべてくれればいいと思う。例えば、背景にいる人―中心の人物に比べ遥かに小さく描かれている―が読んでいる本の文章が読める。流れている川の底の地形がわかる。遠くの山の頂きにいる獣の特徴がわかる。京極作品は、中心を重点に描くのではなく、背景を徹底的に描くことで中心を浮き上がらせようとする作品である。
例え京極堂と誰かの雑談であっても、関口の鬱々とした夢想であっても、儒教に拠った伯爵の思考も、全ては中心を際立たせるために、無駄なく配置されている。本作でいう中心とはすなわち、「死」に関わる思想である。探偵小説でありながら、殺人事件が中心にはこない。解決することが主目的にならないのである。
僕は今、自分がいかに言葉足らずであるかを身に染みて実感している。もっと語るべきことはあるはずなのに、本作に於いてはもっと書くことがあるはずなのに、僕の持つ言葉ではそれを表すことができない。否、京極夏彦の紡ぐ文章の前に、戦わずして諦めているだけかもしれないが。
とにかく、言葉に尽くせないのだから、何度でも言おう。本作は素晴らしい作品だ。僕が今まで読んできた本の中でも、十指に入ってもおかしくないだろうと思う。そのぐらいの衝撃と感動と悲哀がこの作品にはある。
早く走ろうと思うのに足がもつれて動かないようなもどかしさを感じています。もっと素晴らしさを伝えたいのにそれができないというのはなかなかに辛いものです。どうか、騙されたと思って、本作に辿り着くまでの京極作品を読むのが無理だという人は、とにかく前作一切を読まずに本作を読んでしまっても、まあ最悪いいと僕は思います。僕の中の京極作品トップは、今までは魍魎でしたが、今日を以って本作に変わりました。
是非、読んでください。

京極夏彦「陰摩羅鬼の瑕」

いちばん初めにあった海(加納朋子)

人を殺してしまった、という罪悪感を抱いたことがあるだろうか?
もちろん、殺意を持って殺した、とかいう話ではない。自分が殺そうと思って死んでしまったわけではなく、自分の意志とは無関係に、でも自分のせいで誰かが死んでしまった、と自分を責めるようなことはあるだろうか?
少なくとも僕にはない。誰かを傷つけてしまったとか、そういう後悔なら多少はあるけれども、それらは全て、相手が生きている。努力次第では、まだまだやり直せる機会がある類の後悔なのである。
死んでしまった相手には、何もすることができない。
それだけの重いものを抱えながら生きていく、というのは、どれほど辛いことなのか、僕には、うまくは想像することができない。
人を殺してしまった。そう思っている二人の少女、あるいは女性。一方は双子として生まれ、母親の愛情を一身に受けながら死んでしまった双子の兄の死を、その死を望んでしまったというだけで、その自分を悔いている。もう一方は、まだまだ幼い頃、不運な事故で相手を窓から突き落としてしまったという記憶に、こちらも同様に悔いている。
どちらも、言ってしまえば、深刻に悩むほどのことではないように思う。しかしそれは当事者ではないからそうだろう、とも思う。彼女らは、裁きと救いを求めている。求めてはいるが、どうしていいのかわからない。あるいは、後ろ向きなやり方を選ばざるおえないのも無理はないのかもしれない。
本作は短編集である。加納朋子と言えば連作短編集での作品がほとんどを占めるが、しかし本作は短編が二作だけ。中編集と読んだほうがいいのかもしれない。氏の作品としては、とても珍しい構成だといえるだろう。
先に話した二人の女性が主人公である。それぞれの短編の紹介は後に回すとして、物語の構造に少しだけ触れようと思う。
正直に言って僕は、途中まで読んでいて多少退屈だった。前半の短編が別に面白くなかったわけではなく、寧ろラストはかなりいいと思えたんだけれど、どうも終わり方が曖昧だし、それに、加納朋子のいつもの連作短編集で見せる、全体を貫く構造が今回はなさそうで、ただ二編の短編を収録した作品なのだな、と思っていたからである。
しかし、まあこれを書くと多少ネタばれなのかもしれないが、前半と後半を貫く構造が、今回の作品でもあった。僕はそれに気付いた時、なるほど、さすが可能朋子だ、と思ったものである。解説でも書かれていたけど、こういう構成は珍しいのではないかと思う。
それでは、多少唐突だけど、それぞれの短編を紹介しましょう。

「いちばん初めにあった海」
一人暮らしをしている堀井千波は、現在住んでいるアパートからの引越しを考えている。とにかく、住人の出す騒音が半端ではないのだ。安眠を妨げられる不快感にさすがに嫌気がさし、引越しの準備を始める千波。あれこれ物を引っ張り出していると、見覚えのない文庫本が見つかった。タイトルは、<いちばん初めにあった海>。準備を忘れて読みふけっていると、開いたページの隙間から手紙が落ちた。人を殺した、と告白する<YUKI>という名の女性。彼女の記憶からすり抜けている<YUKI>という名の女性は一体誰なのか?時折沸き起こる既視感に戸惑いながらも、彼女は徐々に過去を取り戻していく…
各章で、現在の千波の時間と、過去の千波の記憶とが交互に語られる、という構成です。一人の女性が裁かれ救われる物語です。

「化石の樹」
昔化石が好きで、近くにできた建物の入口にあった<木の化石>という石が好きだったぼく。時は過ぎ、今は植木屋でバイトをしているのだが、雇い主が突然入院することになった。愛想は悪いが憎めないその雇い主を見舞いに行くと、大した脈絡もなくあるノートを手渡される。それは、昔雇い主が治療したある一本の金木犀の木の中から見つかったもので、依頼彼はその内容一切を口に出すことはなかったのだという。病で倒れて気弱になったのか、その秘密をぼくに引き継ぐ、とこういうわけらしい。そのノートには、保母さんの書いた手記で、ある親子の悲しい物語が綴られていた…
親は子を選べないし、子は親を選べない。ピースの混じったジグソーパズルのように、いつまでも形にならない親子という関係が、どうにも悲しい物語です。

もちろん、いつもの加納作品のように、涼やかで透明な表現と優しい眼差しは健在です。透き通ったビー玉のような、時折なる風鈴のような、そんな小説です。読み終えてみて初めてそのよさがわかります。どうぞ、読んでみてください。

加納朋子「いちばん初めにあった海」

今昔続百鬼―雲(京極夏彦)

本作は、京極作品の中で、初の「妖怪小説」だと僕は思う。
今までの作品は、もちろん妖怪という要素は出てきた。しかしそれは、物語の構造や全体のテーマに関わるものであって、言い方は悪いけど、言ってしまえば、その妖怪云々の話は、なくても話としては成立する、とそういう感じの使われ方だったわけです。もちろん、妖怪の部分を除いたら面白みはぐっと減ることは間違いないけど。
しかし本作は、妖怪の話が直接物語と結びついている。トリックと関わりがある、といってしまってもいいかもしれない。だから、本作では、妖怪の話を除いたら物語は成立しない。だからこそ、氏の小説の初の「妖怪小説」、と言ってみました。
本作は、高田崇文のQEDシリーズに似ているな、という風に思います。シリーズといっても一作目しか読んでないし、それは、一作目が面白くなかったからですが。QEDシリーズは、歴史上の何らかの謎と殺人事件を絡めて、しかも同じ構造でどちらも一気に解く、というような感じで、本作もそんな構造になっています。
本作は短編集(京極作品の場合、中編集と言ったほうがいいかもしれないが)で、舞台は戦後間もない時期。主要な登場人物は二人。
一人は沼上という男で、物語の視点人物である。各地の伝説好きが高じて、戦前に仲間と共に伝説関連の同人誌まで発行してしまうほどの男である。
さて、もう一人の男。こちらが、あの榎木津にも負けず劣らずの突飛な人物なのである。
多々良という、もうとにかくの妖怪馬鹿。四六時中妖怪のことしか考えず、戦前に、妖怪で有名な先生に自分の論文を見てもらおうと無茶している時に、沼上と多々良は知り合った。
まあ、ただそれだけの人物ならば大したことはないのだが、この男はある意味只者ではないのである。口を開けば妖怪妖怪で、まず感謝や謝罪を述べるべき場合でも、とにかく妖怪の話を捲し立てる。周囲に迎合することをよしとせず、自らのやりたいように押し通すから、相棒の沼上はたまらない。正論を振りかざして自分の非は一切認めない。沼上は、もう太ったその肢体を見ているだけでもイライラするように。
まあ、そんな凸凹な二人は、しかし、妖怪と伝説という、まあきっても切れないようなものを好きなばっかりに、つかず離れずという感じ。二人は、なんとか金をためては、それを一気に使い果たすように各地へと飛び回り、金の持つ限り無茶な安行を続けるのである。彼らはそんな旅の最中に、珍妙な事件に次々と巻き込まれていくのである。何故か事件は、多々良のお陰で解決してしまうのだが、多々良はただ妖怪のことを考えているだけなわけで、何が真相なんだかわからない。多々良はそれぞれの話の中で、鳥山石燕が書いた妖怪図の解釈を思いつくだけなのだ。
とまあ、大筋ではそういうスタイルの話です。この多々良という妖怪好きは、記憶が確かなら、「絡新婦の理」にも出てきたように思う。京極堂の妹の勤める出版者で、妖怪の話の連載を持っているとかいうのである。その京極堂、今回ちらりとだが出てくる。
さて、それでは、それぞれの話を紹介しましょう。

「岸涯小僧」
伝説探訪に来たはいいが、多々良という男、目的地までを直線に進むという頭しかなく、結局道なき道を歩く羽目になり、やはりというか、彼らは今かなり山奥深いところをうろうろしている。人家があるようには見えず、やはり二人は険悪な感じである。川岸に辿り着いたとき、二人は「河童」という声と争うような物音を聞き、人家を探すよりもその辺りを捜索したがなにも出てこない。ようやく辿り着いた村には、超のつく妖怪好きの老人がいて、そこに泊まれることになるのだが、翌日、昨日の現場にもう一度行ってみると、そこで彼らは死体を発見してしまう。多々良の迷推理が光る。

「泥田坊」
例によってかなり遭難している二人。結構尋常じゃなくやばい。なんとか村らしきところへと辿り着いたはいいが、人っ子一人いない。いや、唯一動くものは、全身が黒く、ふらふらと歩く、それは奇妙な人らしきものだけだった。村は今忌みごもりだかで、ずっと家に籠っている日なのだそうだ。そんな迷信をあまり信じないという男の家に泊めてもらい一難去ったが、帰ってこないその家の主を探そうと神社へ向かうと、そこでまたも死体を発見してしまうことになる。雪積もる周囲には、被害者以外の足跡はなく、忌みごもりで誰も外に出ない中、誰に殺されたのか?一旦は容疑者にされた彼等は考えるが…

「手の目」
大雪のために足止めを食らっている二人は、宿の主人が帰ってこないことを聞き及ぶ。村の男衆は、毎晩夜出掛けていって、ふらふらになって帰ってくるんだ、きっと女がいるんだ、などと女主は言うが、どうもおかしい。前々から頼んでいた、村の古老への取次ぎがようやくかない、会って話を聞いた帰り、偶然首吊りをしようとしている男を見つけてしまう。どうも不審なものを感じた二人は、先ほどの古老を呼んで事情を聞くと、どうも村全体に及ぶ危機を村の男衆は導いてしまったらしい。成り行きでなんとかすると言ってしまった二人は、村を救うために、村を脅かしている男の元へと向かうのだが…

「古庫裏婆」
金が乏しくなった二人は、これからの旅筋でもめている。二人は、なんとなく避けていた東北に来ている。というのも、かつての友人に即身仏の写真を見せられる、という、まあそこそこに長い経緯があるのだが。とりあえず入った宿で相部屋になった男に、ただで飯を食わせてくれる寺があると聞き、さらに酒を飲ませてもらって翌朝、荷物がからきしないことに気付いて愕然とする。相部屋だった男が盗んでいったのだ。駐在を呼んでどうしようかと話をしているうちに、そのまさに即身仏の件で東京から刑事と監察医が来たとかで、そして何故か二人とその監察医を加えた三人でその寺へ向かうことに。しかし、二人はそこで、世にも恐ろしい体験をすることに…。京極堂のお陰で二人はなんとか助かるのだが。

言うまでもないけど、面白いです。読んで見てください。

京極夏彦「今昔続百鬼―雲」

蛍・納屋を焼く・その他の短編(村上春樹)

都心に立つマンションの一室に僕はいる。いつものように朝起き、顔を洗って朝食を食べ、歯を磨いて支度をして、さて部屋を出よう、と玄関のドアを開けた途端…
目の前には朽ちかけた橋がある。橋の両岸は崖で、遥か下に川が流れている。その橋は、どう見ても人一人の体重を支えられる状態ではない。
橋のこちら側は、地面は荒れ、草木は無秩序に生え、日陰が点在し、空気が淀んでいる。しかし、対岸に目をやると…
そこには、こちら側とは比べ物にならない、別世界が広がっていた…
本作を読み終えて感じたのは、つまりそれぞれの作品が、理想の対岸を目の前に、しかし絶対に渡ることの出来ない橋に絶望する、そんな光景に出くわしたような感覚でした。
世界が、ものすごく広がっている。
本作は、僕が今まで手にした中でも格段に薄い。しかし、その薄さに反比例するかのように、内包され凝縮された世界は、限界のなくなった風船のように、どこまでも広がり続けているように思う。
文章が着地しない。ふと飛び上がったまま、何かの拍子に時間が止まってしまったかのように、書かれてる文章は句点を突き破る。文章は、文脈や時間を形成するが、世界の輪郭は規定しない。どこかにあるはずの輪郭が、言葉という線で強調されるはずなのに、どこか曖昧で、近づこうとすればするほど、水面下から世界を見るように、どんどんとぼんやりとしていく。
とても不思議な作品だ。
僕は、やはりというかいつも通りというか、村上春樹の作品をなかなか理解することはできない。どう楽しめばいいのか、というコードがきっと導入されていないのだろうと思う。全ての要素が外側を向き、ほんの僅かな内側からの力のバランスで形を保っている物体を扱っているような、文字を追えば追うほど、形が曖昧になり、世界が発散し、いつしか蒸発してなくなってしまうような、そんな不安定感を抱くからかもしれない。
ただ、嫌いではない、と思う。というか、興味がある、という表現の方がより正しいかもしれない。つまり、村上春樹の発想の繋がり、連想の極み、展開の意外性。そうした、物語とは別次元での興味を抱かせる作品だと思う。
村上春樹は、どこかへと続く7つの世界の入口をこの短編集に収めたのだ。入口を入った瞬間、僕らが自由に世界を定められる。いや、入口をくぐる前に世界を望むのかもしれない。
求める世界へと飛躍する扉。そんなどこでもドアのような作品だと、僕は思います。
しかしながら、やはり村上春樹の作品の感想を書くのは難しい。
それぞれの作品をごく簡単に紹介しようと思います。

「蛍」:僕はある寮に住んでいる。ルームメイトは潔癖症の変わった奴。偶然出会った知り合いと、時々時間を過ごす。寮での日常。変わっていく関係。そして蛍。

「納屋を焼く」:僕は、パントマイムを練習しているという女性に出会い、付き合うように。ある日突然アフリカへ行き、突然帰ってくると、彼氏を連れていた。その彼氏を連れて僕の家に彼女が来た時、彼女が寝てしまったのを見計らって彼が言った。「僕は納屋を焼くんです」。

「踊る小人」:夢に出てきた小人。象を作る工場で働く僕は、小人の話を聞きにある老人の元を訪ねる。老人は、華麗に踊りやがて消えてしまった小人の話を僕にした。工場で有名な美女。誰にもなびかない彼女を僕はものにしたいと思った。ダンスのうまい彼女を振り向かせるため、小人の力を借りダンスを踊るのだが。

「めくらやなぎと眠る女」:時折耳が聞こえなくなるといういとこを連れて病院に行くことに。会社を辞めていなかに戻ってきた僕。バスの中にひしめく老人。時刻を気にするいとこ。病院では僕は、既視感を覚える。どこかで見たような気が。昔を思い出す。いたずらにばらばらになった記憶を繋ぎ合わせ、めくらやなぎと眠る女の話を思いおこす。

「三つのドイツ幻想」:さらに三つの短編からなるこの短編は、僕には紹介できません。

「蛍」を読んだとき僕は、「ノルウェイの森」から抜書きしてこの短編が生まれたのだと思ったのだが、どうやら書いたのはこちらの方が先のようだ。つい最近「ノルウェイの森」を再読したので、かなり驚いた。
僕は、どうしてか説明は出来ないけど、「納屋を焼く」と「踊る小人」が好きです。

村上春樹「蛍・納屋を焼く・その他の短編」

θは遊んでくれたね ANOTHER PLAYMATEθ(森博嗣)

どうにも地味になったな、というのが第一印象です。
どう地味なのかと言えば、つまりそれは、背景が足りないのだ、と僕は思います。背景がまっ白なモナリザを見ているような、モナリザ自体は美しく描かれているんだけど、背景が何もない、みたいな、そんなちぐはぐな感じです。
もちろん、面白くないわけじゃないんだけど、物足りない。それは、犀川級のキャラクターが出てこないからだろうと思います。
S&Mシリーズでは、僕の一番の楽しみは、事件や犯人や真相ではなく、犀川と萌絵のやり取りや高尚な会話でした。もちろん、事件抜きでその部分だけ読んでも面白くないわけで、いわば僕にとっては、犀川と萌絵のやり取りがメインで、その背景に事件がある、とそういう構図だったわけです。それになんと言っても、真賀田四季がいたわけです。
Vシリーズでは、確かに犀川より多少は劣るものの、同一に近い存在として瀬在丸紅子がいました。時折見せる、瀬在丸と保呂草の多少緊張感の伴うやり取りは、やはりなかなか面白いものでした。
しかしこの新シリーズでは、どうにもそんな人物が出てきません。基本的な人間はみな大学生か院生で、やはりそのレベルのキャラクターでしかありません。海月という人間が多少特徴的な人間ですが、あまりに無口であるため、その思考が読み取れず、なおかつ、犀川に口を開かせる萌絵のような存在もいないため、いまいち、といったところです。犀川や国枝も多少出てくることは出てきますが、やはり背景になるような程度で、メインになるようなものではありません。これから、海月という人間が驚異的に変化していくことを期待しつつ、さらに、事件や犯人や真相を背景に追いやってしまうような何か、を期待しながら読んでいこう、とは思っています。
さて、今回は自殺と思われるいくつかの死を皮切りに物語が始まります。フリーター、看護師、建築現場の監督。この三人の、自殺と思われる死がプロローグで紹介されます。唯一奇妙な点。それは、どの死体にも、体の一部に「θ(シータ)」に見えるマークが、口紅らしきもので描かれている、という点です。警察でも不審には思っているけど、他に不自然なところもなく、大筋で自殺と認めてもいいのではないか、とそういう流れになっています。
情報というのは唐突に入ってくるもので、短期間のうちに様々な情報が、西之園や加谷部や山吹の元へと入ってきます。
西之園は、友人で医学部にいる反町から、使われた口紅がどれも大筋で一致したことを知る。
山吹は、友人である舟元から、一番初めに自殺したフリーターの話を聞く。何でも、そのフリーターの姉からパソコンを調べてほしいと依頼され、その際にあるサイトへ行ったところ、人工知能とのバーチャルな会話を行うサイトであることがわかる。そこでは、お互いの関係をシータと呼んでいることもわかった。
加谷部はそうした話を西之園や山吹から聞き及び、さらに怪しげな探偵に声を掛けられるはめに。何でも、自殺したフリーターの家族に依頼されたのだという。
そうした期間を過ぎ、また「θ」を刻んだ死体が発見される。状況はどうみても自殺。今度は病院の元非常勤事務員。反町が実験をしている最中に起こり、彼女も野次馬に加わるはめになる。
自殺だとしたら、同じ口紅で「θ」を刻み、そもそも何故そんな文字を共通して描いて死んだのか。他殺なら、不自然な点が多すぎるし、個々の件でそれなりの不可能状況もあり、結局何故「θ」と描いているのかはわからない。そんな、どことなく掴み所のない事件に、いつものように西之園や加谷部は首を突っ込み、山吹は多少巻き込まれた感じで、海月は完全に巻き込まれたまま、事件はもう少しだけ展開を見せ、時とともに情報も増え、増えるだけで仮説は覚束ないまま、それでも最終的に海月が真相である可能性が高い仮説を訥々と話す…
というような話です。
まず僕は、本作を読んでいる時に、もしかしたらこんな感じかな、と思うようなことを思いついていました。それは以前にテレビで見たもので、もし最終的な真相がそうでなければここで、「読んでいる時に、前に見たあのテレビのあの奴と同じかもって思ったけど違いました」と書こうか、と思っていたんだけど、もちろんいろいろ違いはするものの、大元のトリックは同じだったので、ここでは書かないことにします。
でも、さっきも書いたけど、どうも背景が薄い。これはVシリーズでの感想でも書いたけど、もっと、その真犯人の意図とか動機が捻じ曲がってて全然理解できなくて、それでいて言葉や理屈ではない部分でなんかわかる、みたいな、そういう事件や犯人や真相を、僕は森ミステリに求めていたりするわけです。こんな表現はどうかと思うけど、これぐらいの作品なら、もちろん僕には書けないけど、普通の作家でも普通に書けるレベルではないかな、とそう思うわけです。もちろんこれは、森博嗣という作家に大層期待しているからこその苦言なわけで、嫌いだとかいうわけでは全然ないんですけど。
というわけで、つまらないわけではないけど、物足りないのです。
人物紹介表には出てこないけど、あの人たちも突然出てきたりします。ちょっとびっくりな感じです。そういうところはとってもいいですね。
さて、最後に。前作から始まった新シリーズは、本作から「Gシリーズ」と正式に名前が決まりました。僕は良く知らないのですが、前作が出たときに、シリーズ名は「Qシリーズ」だろう、という話が出たそうです。今までのシリーズ名は、探偵役のイニシャルだったので、今回の探偵役である海月(くらげ)からとって「Q」だ、ということらしいです。僕には「G」の意味はわかりませんが、タイトルにギリシャ文字が使われていくことは間違いないようなので、ギリシャ語の「G」(英語表記を調べてみると、ギリシャ語はGreekのようです)だろう、とどうやら言われているようです。
前作でも本作でも、タイトル通りの言葉が作品中でも出てくるわけで、後々、このギリシャ文字というのが、作品全体を貫く何か大きな伏線なのかもしれないので、その点も楽しみだったりします。
本当にこれで最後ですが、どうやら森博嗣は、4月から9月までの間、作家活動を初めとする各種アウトプットを一端停止するようです。作品が文庫化されたり、連載がまとまって単行本になったりと、作品が出ないわけではないそうですが。まあ残念ですが、今までのペースから考えると、この辺で休息をとっても全然文句は言えないだろうなと思います。ゆっくり休んで(つまりじっくり研究をしてください、という意味だが)ほしいと思います。
それではいつものを。

「(前略)宗教って、どうして人の命をあんなに軽く扱うのかって考えたことあるけど」
「それはそうでしょう。死の恐怖から人を救うために存在する仕組みなんだから、当然ながら、命の軽さを主張する論理になるんじゃない?」
(後略)

(前略)
「見えるものは、すべて幻想だ」
(後略)

(前略)
「いずれにしても本質ではない。宗教という形態自体が、メディアだからね」
「どういうことですか?」
「神様が必要となる理由は、基本的には責任転嫁のメカニズムなんだ。誰か他の者のせいにする。そうすることで、自分の立ち位置を保持する、というだけのこと」
「自殺したりするのは、どうなのです?」
「神様がいてもいなくても自殺はある。人間として、本質的に選択可能な行為だからね。ただ、神様という記号によって、解釈をしようと試みる。言い訳を作ろうと試みる、あるいは逆に、その解釈と言い訳によって、自殺を思いとどまらせる、という使用法もある。それだけ」
「本質的に選択可能なのは、どうしてですか?」
「人の知性が高まったことで、生命維持装置から自身を切り離すことができた結果によるものだろうね」
「では、賢いから自殺するのですか?」
「ある意味ではそのとおり。未来予測の能力が前提だ」
(後略)

森博嗣「θは遊んでくれたよ」

百器徒然袋―雨(京極夏彦)

天衣無縫にして傍若無人。元華族であり、今なお財界に多大な影響を与える父を持ち、それでいて何故か探偵などという職業をやっている。鳶色の瞳に白磁のような顔、容姿端麗、眉目秀麗。探偵のくせに調査も捜査もせず、それどころか依頼人の話すらろくに聞かない破天荒ぶり。口からでるは罵詈雑言、事件に関われば軽挙妄動、言っていることは意味不明で、やっていることは荒唐無稽。それでいて関わった事件では、ある意味快刀乱麻の大活躍。自らを神と呼んで疑わず、自分の上に人はいないと思っている。人の名前は一切覚えない。視力が弱い代わりに他人の記憶を視ることが出来る能力を持つ、どんな言葉を尽くしても表現できない奇人変人。
さて、一体誰のことを言っているのかと言えば、京極堂シリーズを読んでいる人にはあまりにもお馴染みで、そうでない人にはその輪郭すら描くことを許さない、そう榎木津礼次郎その人である。
そして今回は、京極堂を差し置いて、その榎木津が物語の主人公なのである。
しかしまあ、その大暴れっぷりと言ったら、痛快と呼ぶに相応しい。自らの娯楽のために大暴れし、誰も彼をも下僕として扱い、事件の解決、というか粉砕のためにおおはしゃぎ。暴れられる状況を作り出すために事件に首を突っ込んでいるとしか思えない。
とにかく全編榎木津の奇行が目立つ。もちろん、話の筋はちゃんとあるし、寧ろ榎木津の出てくる場面は主人公の癖にそんなに多くないのだが、それでも、榎木津が大暴れしたな、という印象がとにかく強く残る。
余談だが(というか、余談以外の文章はないとも言えるけど)、榎木津を見ていると、麻耶雄嵩が生み出した、こちらもとびきり奇行な探偵、メルカトル鮎を思い出す。まあ、メルカトル鮎には明らかな悪意や作為があるまっとうな探偵ではないのに対し、榎木津は天然にしてそのキャラクターなのだから、仕方ないとも言える。なんとなく、榎木津なら許せてしまうのだ。
ストーリーに触れることにするが、本作に収録された三篇は、敢えて分類するとするならば、「日常の謎」ということになるのではないか、少なくともストーリーの入口はそうだ、と言えるだろう。
「日常の謎」と言えば、北村薫を初め、本多孝好、光原百合、加納朋子、などを思い浮かべるとは思うけど、やはり趣は大分違うだろう。先に挙げた作家の作品は、どこかゆったりふんわりして、日常の細やかな謎を論理的に解き明かすという趣向だが、京極夏彦はやはり手強い。どの作品も仰々しく、ある意味おどろおどろしく、いつもの雰囲気ばっちりなのだ。
入口は常に些細なことから始まるのである。多少些細でない場合もあるが、ありきたりの表現をすれば、それは氷山の一角なのである。迷宮の入口と言ってもいい。それは、多少困難が付きまとう、謎というよりも課題やら依頼やらがあるわけだけど、いつのまにかそこに謎が発生する。課題やら依頼やらをこなしていくうちに、謎にどん、とぶちあたるわけである。こうなると下僕たちではどうにもならない。この世ならぬ能力を持つ榎木津と、同じくこの世ならぬ推理力を持つ京極堂の二人は真相を看破し、あとの面々はさっぱりわからない、といういつもの状況に追い込まれていくわけだ。
そして、本作はここからもいつもと違う。いつもなら、京極堂が出張って来て、やれ拝み屋だ、やれ憑き物落しだ、と言って、圧倒的な知識に裏打ちされた巧みな話術で、謎を「解体」していく。それこそ、絡まった糸を慎重にほぐすように。割れたガラスを慎重に繋ぎ合わせていくように。
しかし、今回は榎木津が事件を解決する。特に打ち合わせもなく始まる榎木津の作戦に、京極堂はいやいや参加する、という形だ。榎木津のステージで振舞う京極堂の存在感はやはりいつもよりは薄く、榎木津が、その奇態と奇行によって事件をかき回し、そして最終的には「粉砕」してしまう。まさに、あとかたもなく、だ。それこそ、絡まった糸にいらついて切り刻んでしまうように。割れたガラスをさらに粉々に砕くように。
二人を除く登場人物は、その解決への作戦の手助けをするのだが、自分が何をしているのかさっぱりわからない。というか、何を解決するのかすらわかっていないことすらある。あれよという間に何かが終わり、どう終わったのかはわかっても、何が終わったのかわからず、結局京極堂辺りに、何が起こったのか愚問を呈することになるのだ。
というわけで、それぞれのストーリーを紹介しようと思う。

<鳴釜>:僕(結局最後まで本名が明かされることはなく、榎木津にはいつものように毎度違う名前で呼ばれ、時には珍妙な偽名を拝命することになる、全編通しての視点人物)の従兄弟が自殺未遂をした。聞けば、輪姦され、あまつさえ子を生したのだという。輪姦したのは、ある高級役人の息子とその取り巻きだということはわかっているのだが、先方は金はくれてやる、という態度で謝罪もなく、僕はどうにかしたいという一心で知り合いにそうだんするのだが、そこで何故か悪名高き名探偵榎木津礼次郎を紹介される。探偵に何を依頼していいものかわからないまま、薔薇十字探偵事務所へ赴けば、そこで警察下がりの益田に、身の上を話す羽目に。謝罪は難しいとする益田を一喝した榎木津は、同じ目に遭わせてやると息巻く。さて、一体どうなることやら…

<瓶長>:榎木津の父からの依頼で、タイのお偉いさんに献上する瓶を探すように命じられた榎木津。もちろん自分で動くわけもなく、下僕である古物商の今川を呼びつけ探させる。一方で、珍妙な屋敷があると聞き及んだ僕は早速そこへと行ってみると、そこにはもう、屋敷中を壷で文字通り埋め尽くされた異様な光景が広がっていた。何でもそこには、榎木津の父が捜し求めている瓶があるとかないとかいう話で、しかもそこにはある古物商と金融屋とやくざが絡んでいるのだという。榎木津の父の可愛がっていた愛亀が逃げ出し、その捜索も命じられるなど、よくわからないまま事件は混迷し、混迷に応じて榎木津は大暴れしていき、文字通り粉砕しまくっていく…

<山颪>:これまた榎木津の父筋で、山嵐を探す羽目になった榎木津。しかし今度は榎木津自身が山嵐のとげとげを見たいようで、楽しんでやっているらしい。それはそれとして、僕はたまたまなのかなんなのか、珍妙な話を聞くことになる。あの箱根の坊主の事件で関わった修行僧二人が京極堂を訪れ、何でも大分昔の僧の同期に連絡をとったところ、その彼がいるようないないような、よくわからない応対を受けたのだという。初めはいないと言っていたのに、後から死んだととってつけたように言われたらしい。何でもその彼がいるはずの寺は、今はちょっとした有名な食い物屋になっているようで、角界の著名人専用の美食クラブなのだという。美術品ばかり狙う窃盗団の話も絡んできて、榎木津の奇行もさらにパワーアップ…

本作は何より、他の京極作品よりも遥かにわかりやすいです。今までの作品を読んでいないとわからない登場人物も何人かいるし、以前に扱った事件にもさらりと触れるので出来ればシリーズを続けて読んだほうがいいとは思うけど、あの厚い物語を読めそうにない、という人は、一足先に本作を読んでしまってもいいと思います。そうすれば、榎木津や京極堂をはじめとするキャラクターの面白さに触れることができ、他の作品も読みたくなることだろうと思います。京極夏彦入門として僕はお勧めしたいと思います。

京極夏彦「百器徒然袋―雨」

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