黒夜行 2022年02月 (original) (raw)

僕は、『東京クルド』という映画を観るまで、日本の難民が置かれている現実をまったく知らずにいた。

『東京クルド』でも、充分その酷さが理解できたつもりだった。

しかし、『東京クルド』と『牛久』では、描かれている状況がまったく違う。まずその話から始めよう。

『東京クルド』でメインで映し出されていたのは、難民二世の若者2人だ。両親と共に、幼い頃に日本に難民としてやってきた。彼らは、日本語がペラペラで、恐らく日本の普通の若者よりも丁寧に日本語を喋る。小中高も日本の学校を卒業している。しかしそんな彼らは「仮放免」という状態にあり、就労が認められずにいる。そんな若者たちをメインに描く映画だ。

そして、「仮放免」の状態にある彼らはまだまだずっとマシなのだということが、『牛久』を観ると理解できる。

そもそも「仮放免」とは何か。これは、「本来収容施設に収監されていなければならない存在だが、一時的にそこから解放されている状態」を指す。日本に難民としてやってきた難民申請者は、原則的には「収容施設」に入れられるのだと思う。そして、そこから「仮に放免されている状態」の者もいる、というわけだ。

そして、そんな難民申請者を収容する施設が日本の各地にあり、難民申請者で溢れかえっている。

なぜ溢れかえっているのか。それは、日本が難民認定をほとんどしないからだ。

この映画では、2010年から2019年における難民認定率、つまり、「難民申請をした者の内、どのくらいの割合で難民が認定されるのか」の数字が示されていた。実に、0.4%である。これは、他の先進国と比べたら、2桁違うぐらいの、圧倒的な低さだ。

『東京クルド』でも、若者の1人が隠し撮りした音声に、「自分の国に帰ってよ」「日本じゃない国に行ってよ」みたいなことを平然と口にする職員の声が記録されていたが、『牛久』でもある収監者が、「とっとと帰れ」「あなたはほしくない」と言われたみたいなことを証言していた。

もちろん、難民を受け入れるかどうかはその国の自由なのだから、「難民は受け容れません」と宣言しているなら、別にそういう態度もまあしょうがないかもしれない(それでも許容しがたいが)。しかし、『牛久』では、G7伊勢志摩サミットにおける各国の合意文書からの抜粋と思われる文章を引用していた。そこには、要約すると、「難民を率先して助ける」と書かれていた。

日本もその合意に加わっている国なのだ。であるなら、表向きは「難民を受け容れています」みたいな風にしながら、その実まったく受け容れていないようなやり方はクソみたいな話だと思う。

何も悪いことをしていないのに、塀の向こうに閉じ込められている人々の、日本への”皮肉”が心苦しかった。

【「日本はおもてなしの国」だなんてよく言うよな。これがおもてなしか?】

【東京オリンピックが延期になったそうだね。嬉しい。正義が金メダルを獲ったような気がするよ】

しかし彼らは決して「日本」を憎んでいるというわけではない。全員がそうかは分からないが、収監者の1人は明確に、「これは日本の問題ではなく、入管の問題だ」と断言していた。その理由は、

【日本の人々には、この問題は知られていないから】

だ。これもまた、僕たちの心をグサグサと突き刺す言葉だ。

しかし、僕に一番刺さったのは、この言葉だ。

【私は、日本のことをほとんど知らずにきた。
日本でこんなに苦しむと分かっていたら、母国で死んだ方がマシだったかもしれない】

これはあまりにも悲しい言葉だろう。そして、そう言わせているのは私たちなのだ。

こんな想像をした。かつて「地上の楽園」と喧伝され、多くの日本人が北朝鮮へと移り住んでいった。北朝鮮に移った人々はまさに同じことを感じたのではないか。

「私は、北朝鮮のことをほとんど知らずにきた。
北朝鮮でこんなに苦しむと分かっていたら、母国で死んだ方がマシだったかもしれない」

あれこれ書きすぎて、肝心なことにまったく触れていない。この映画は、全国にいくつかある難民申請者の収容施設の1つであり、かなり規模の大きな男性専用の施設である「牛久法務総合庁舎」が舞台に展開される。収容施設はどこもそうらしいが、面会時にはスマホやカメラの持ち込みは禁止されている。つまり、撮影は一切認められていない、というわけだ。そんな収容施設の面会室に隠しカメラを持ち込み、収監者たちの許可を取り、モザイクもかけず、音声も変えず、ほぼ全員が実名で登場する。

これがどれほどリスキーなことか伝わるかもしれない話を紹介しよう。

映画の中に頻繁に登場する「ハンスト」という言葉がある。「ハンガーストライキ」、つまり、「何も食べないことで抵抗を示す」という行動だ。そして収容施設では、「ハンストすると2週間仮釈放がもらえる」という手段が常套となっている。

しかし、そのハンストの生半可なものではない。人によっては80日間もハンストし、ようやく2週間の仮釈放を得ることもあるそうだ。そもそもだが、彼ら収監者は、いつまで収容施設に留め置かれるのか知らされない。4~5年いるのが当たり前だそうだ。

体調が悪くても医者には診てもらえず、診てもらえても「ゴミみたいな扱い」をされるそうだ。

そんな環境下で、「カメラで撮影され、映画として世間に広まること」が分かった上でそれに協力していると知れたら、何が起こるか分かったものではない。しかし、そんなリスクを背負って、現状をとにかく訴えたいと協力を申し出る者たちによってこの映画は成り立っている。

映画の8割以上が、「隠しカメラの映像」か「真っ黒な画面で電話の音声が流れる」かのどちらかで構成されている。ドキュメンタリー映画でも、これほどまでに「まともに得られる映像」が存在しない作品もなかなかないだろうと思う。

しかし、僕がこの映画で最も驚いたのは、そういう「監督が撮影・録音した素材」ではない。

映画の中で、ある収監者が、「職員と今裁判をやっている」という話をした後で、すぐに映像が切り替わる。その映像は、その収監者が大勢の職員に取り押さえられ、手錠を掛けられ、懲罰室へと連れて行かれるまでの一部始終が撮影されたものだった。

僕は最初混乱した。この映像は、一体誰が撮っているんだろうか? と。しかし、収監者と職員のやり取りを聞いて、なんとなく理解した。撮影しているのは収容施設の職員で、恐らくそれが規則になっているのだと思われる。

さて、当たり前の事実についてここで整理しよう。撮影しているのは収容施設の職員だ。「防犯カメラ」のような固定カメラの映像ではなく、明らかに職員が手持ちのカメラで撮影している。ということは、基本的な発想としては、「表に出ても問題ない映像」と考えているはずだろう。少なくとも、「これが表に出たら自分たちがマズい立場に置かれる」と彼ら自身が認識するような映像を”わざわざ”撮らないだろう。最悪、理由をつけて「撮っていなかった」ことにすればいいのだから。つまり、「撮って記録しているということは、それが表に出ても問題ないとその時点では判断している」と考えるのが妥当な考え方だろう。

そしてそうだとするなら、あまりにも恐ろしい。何故ならそれは、「職員がリンチしているような映像」にしか見えないからだ。8人ぐらいの男が、1人の収監者を押さえつけ、怒声を浴びせ、力でねじ伏せる様が記録されている。

恐らくこの映像は、弁護士からの証拠開示請求か何かで出てきたものだろう。そして、職員にはそういう可能性が想定されていたはずだ。実際に映像の中で、収監者が「裁判で訴える」と言うのに対して「訴えてみろ!」と返す場面が出てくる。彼らは、自分たちが撮影している映像が、「証拠」として外部に出る可能性を認識していたはずだ。

そして僕は、「この映像が表に出ても問題ない」と考えているその思考にこそ恐ろしさを感じた。というのも、そうだとするなら、「あの映像のようなことは、収容施設における”日常”だ」と判断するしかないからだ。職員の感覚が恐らく麻痺しており、世間一般の価値観と恐らく大きく乖離しているのだと思う。そして、収容施設内の理屈で物事を判断しているが故に、僕らが「あまりに酷い」と感じるような映像を、「表に出ても自分たちが非難されるはずがない」と認識出来ているのだと思う。

そのことに、僕は一番の恐怖を感じた。

同じような話は、別の収監者もしていた。話としては、こちらの方がより酷い。彼は難民申請の認可が下りず、その結果を受けてすぐさま強制送還の手続きが取られたそうだ。その出来事があった翌日に監督との面会があり、まだ心の整理がついていなかっただろう収監者の証言を適宜予想して僕なりに補うと、以下のような話になる。

申請が却下され、強制送還が決まると、すぐに成田空港へ連れて行かれた。帰還させられたら殺されるかもしれないから必死で抵抗していると、収容施設の職員から殴る蹴るの暴行を受けた。とにかく大声を上げて叫んでいると、航空会社の人がやってきて、英語で「どうしましたか?」と聞いてくれた。事情を説明すると、「そうであれば搭乗手続きはできません」と言われたから、こうやってまた施設に戻されたんだ。

当初は、面会室で口頭で話していたこのエピソードは、後々、恐らくこれも証拠開示請求か何かで提出させたのだろう複数枚の写真(恐らく映像から静止画を切り出している)が連続して映し出されていく。その収監者は、「写真では彼らの邪悪さは伝わらない」と言っていたが、それでも、あまりに酷いと感じるような扱いをしていることが伝わる写真だった。

これも同じだ。「このような写真を出しても、自分たちは非難されることはない」と、明らかに市民感覚と乖離した価値観を持っているから平然としていられるのだと思う。

マジでヤベェ。

また、仮釈放の際に顔写真を撮るようなのだが、その際に「笑顔で」と言われたという話は、あまりにも無神経で凄まじいと感じる。その収監者は、「あなたたちのせいで笑えなくなった」と返したそうだが、それが正解だろう。自分たちが普段どんな振る舞いをしているのか自覚した上で「笑顔で」と言っているとすれば、職員は全員サイコパスなのではないか、とさえ感じてしまう。

マジでヤベェのは政治家も同じだ。映画には、石川大我という政治家が登場し、国会答弁の様子も映し出される。この映画の監督と手を組み、難民収容施設の現実を改善しようとしているのだ。国会答弁では、この映画にも登場する収監者で、「自殺未遂をしたことで懲罰室へ隔離され、そのせいでさらに精神状態が悪化し自殺未遂を繰り返してしまう人物」について取り上げた後で、法務大臣にこんな質問をする。

【仮放免者は就労が認められていますか?】
【仮放免者は生活保護を受けられますか?】
【仮放免者は国民健康保険に加入できますか?】

この答えは、すべてNOだ。つまり、仮に仮放免を勝ち取れたとしても、働いてはいけないし、生活保護も受けられないし、健康保険にも入れないのだ。

どうやって生きればいいのだろう?

石川大我は「収容施設に多くの難民申請者が収容されている現状をどう解決するか?」と問うのだが、法務大臣は、要約すると「送還を促進することで問題を解決しようとしている」と答えていた。もっとざっくばらんに言えば、「勝手にやってくる難民が悪い。しかも送還を拒否する者が多い。だからとにかく、強制送還をじゃんじゃんやって、収容施設の収容人数を減らします」と言っているわけだ。

法務大臣もバカではない。質問の意図と答えが噛み合っていないことぐらい理解しているだろう。しかし現状の日本では、そう答えざるを得ない何かがある。それが何かは、正直僕にはよく分からない。何か大きな力が「難民を絶対入れてはならん」と押さえつけているとしか考えられないが、その理由もよく分からない。もちろん、ドイツのように大量の難民を受け入れることによる問題は生まれることはあるだろう。しかし現状の日本は、そんな心配をしてると知れたら笑われてしまうほどの認定率しかないのだ。

何を怖がっているのか僕にはまったく理解できない。国が「夫婦別姓」を認めない理由もまったく意味不明だが、難民を認めない理由もまったく分からない。

ホントに、恥ずかしい国だなと思う。

非常に皮肉なことに、コロナのお陰で(あるいは「せいで」)、それまでほとんど認められなかった仮釈放が大量に認められることになったそうだ。2019年12月31日時点で、全国の収容施設に942人の難民申請者がいたのだが、コロナ以降その75%に仮釈放が認められたという。ハンストしてやっと認められるかどうかというほど許可されなかった仮釈放があっさり通るようになったのは、収容施設内のコロナ蔓延をよほど恐れているからだろう、と語っていた。

しかし、忘れてはいけない。仮釈放が認められたところで、働けはしない。ある人物は、

【仮釈放から5ヶ月、たった5ヶ月ですよ、でもその間に、何度自殺しようと考えたか分からない】

と言っていた。

繰り返すが、このような状況は、僕たちが知らないから、関心を持っていないからこそでもある。「難民」と聞くと、自分と関係ある話には思えないだろうが、これを無視して「民主主義国家」を名乗るのはあまりに恥ずかしいと僕は感じてしまった。

「牛久」を観に行ってきました

僕は「自分のために行動する人」が好きだ。

これは、「好き勝手生きている人」という意味ではない。一般的には「誰かのため」と捉えられる行動を、自分のためにしていると自覚している人が好きなのだ。

それが、弁護士や医者のような報酬を得る職業であっても、ボランティアや保護司のような無報酬の何かであってもいい。何にせよ、直接的に「誰かのため」になるような行動を、僕は「自分のため」にしているのだと自覚していてほしいと感じてしまう。

まあ、それは僕の勝手なワガママみたいなものだけど。

もちろん、本当に心の底から「誰かのため」という気持ち100%で行動できる人も、世の中にはいるのかもしれない。そういう人が本当に世の中に存在するなら、それは凄いことだし称賛したい。ただ、大体の人がそんなはずがないと思う。「誰かのため」という気持ちが0では無理だろうが、100%なんてこともないと思う。0から100の間のグラデーションがあり、「誰かのため」以外にも何か理由があるのが当たり前だと思っている。

そしてだからこそ、「『誰かのため』という気持ちは当然持っている、けどこれは『自分のため』にやっているんだ」と自覚している人の方が、僕は安心できる。

もし自分が前科者だったとしたら、なおさら。

映画で一番好きな場面は、女性2人がコンビニの前で話をしているシーンだ。保護司である阿川佳代が、かつて保護司として関わった元受刑者・みどりに、「更生を手助けするなんて大口叩いてきたけど、私には何もできない」と弱音を漏らす場面だ。

みどりは佳代の話を聞き、自身の子ども時代や刑務所にいた時のことを話す。親が男漁りに行く時は500円もらえる、でも一週間も帰ってこないことがあった、その時の私は世界一不幸な子どもだと思っていたけど、刑務所にはそんな人ばっかだった、罪を犯してから出会う人間は、弁護士とか検事みたいな真っ当な人間ばっかりで、世間を代表していますみたいな顔で「これからは真面目に生きろ」とか言うけど、あたしたちみたいな前科者がいるから世間の代表みたいな顔が出来るんだろ、って思ってた。そんなことを滔々と語った後で、みどりはこんなことを言う。

【でも、佳代ちゃんと会って考えが変わったんだ。私らみたいな人間以外にも、こんなに弱い人間がいるんだ、って。】

さらに、

【前科者に必要なのは保護司なんかじゃない。佳代ちゃんみたいな人だよ】

とも念押しするのだ。

とても良い場面だった。

阿川は、保護司としての自分に悩む。彼女には、どうしても振り解けない過去があり、その過去に導かれるようにして保護司になった。もちろん彼女の中には、罪を犯してしまった者たちの更生に真摯に向き合いたいという真っ直ぐな気持ちがある。しかし同時に、彼女の振る舞いからは、「私は私のために保護司をしているのだ」という雰囲気が凄く伝わってくる。

そしてきっと、だからこそ彼女は悩んでいる。前科を持つ者たちに寄り添いたい気持ちは確かだけど、私は自分のためにも保護司をしている。そういう中途半端さみたいなものが、取り返しのつかない事態を引き寄せてしまったのではないか、と。

みどりは、阿川が抱えている葛藤を具体的には知らない。しかし、「その弱さこそが武器なんだ」と背中を押す。「罪を犯してから出会うのはまっとうな人間ばっかだった」という話は、とても説得力がある。確かに、まともに生きてきた連中なんかに、自分たちの辛さが分かるはずもないだろう。でも、阿川はそれが分かる。分かるからこそ、前科者と同じ目線に立つことができる。罪を犯してしまった者たちにとって、そのことが救いになるという話は、とても良くわかる。

以前、『プリズン・サークル』というドキュメンタリー映画を観たことがある。島根県に実在する、新たな取り組みを行っている刑務所を撮影した映画だ。

その取り組みは「TC」と呼ばれている。希望者だけが参加できる、グループセラピーのようなものだ。

その中で、とても印象的だった言葉がある。受刑者の一人が、「確かに自分が加害者なのは分かっている。けど、そもそも自分は被害者だった。被害者であることを誰かが認めてくれないと、加害者としての立場に立つことができない」と言うのだ。

この言葉は、『前科者』という映画にも重ね合わせることができると思う。

世の中にはもちろん、一切同情の余地など存在しないような、まったくもって身勝手な犯罪も存在する。だから、以下の話はすべての犯罪者に当てはまるわけではない。ただやはり現実は、『前科者』や『プリズン・サークル』で描かれるようなものなのだろう。

犯罪に走ってしまう人は、親から虐待を受けていたり、児童養護施設でいじめられていたり、苦しい環境の中で誰にも助けを求められなかった人たちが多い。もちろん、そういう境遇で育った人が全員犯罪者になるわけではない。だから、環境や境遇のせいばかりにするのも正しいわけではないことは分かっている。

ただ言えることは、罪を犯さなかった者たちが、「犯罪者は悪い。だから罰を与えるべきだし、そんな奴らに人権なんかない」と思っている以上、何も状況は改善されない、ということだ。問題の本質は、罪を犯した本人には無いことも多い。だから、罪を犯した者を刑務所に入れて隔離したところで、塀の外側には問題が残ったままで、それを放置することでまた新たな犯罪が生まれる可能性だってある。

『前科者』でも、まさにそのような状況が描かれる。具体的には触れないが、この映画で描かれる『犯罪』は、「塀の内側よりも、塀の外側にこそ『悪』の本質が残っている」ことを明確に示唆するものだ。

当然だが、罪を犯した当人は悪くない、無罪放免にすべき、などと考えているわけではない。どんな理由があれば、罪を犯したなら、法が定める罰を受けなければならない。しかし、それは個々の事件をどう終結させるかという話に過ぎない。社会全体としては、「犯罪が無くなり、安全な世の中である」ことが求められるだろうが、罪を犯した者を刑務所にぶちこむだけではその実現には至らない、と言いたいだけだ。

すべての人間が保護司のように生きることなど不可能だ。しかし、自分と犯罪者とを明確に区分し、自分には関わりのない存在だと捉えることもまた間違いだろう。「犯罪者が罪を犯してしまう環境」は、広く捉えれば我々自身も加担していると言っていい。安全な世の中を希求するのなら、まず、罪を犯してしまうような背景を持つ者をどう減らせるかを考えなければならないだろう。

内容に入ろうと思います。
阿川佳代は、コンビニでのアルバイトの傍ら、保護司として活動している。保護司とは、仮釈放中の元受刑者の更生を手助けする存在で、非常勤の国家公務員でありながら無報酬である。元受刑者たちとの関わりには、大変な状況に直面することもある。そんな保護司に自らの意思でなった阿川には、今も引きずっている過去がある。

阿川は半年前から、工藤誠という殺人犯の保護司を担当している。仮釈放中は月に2度定期報告が必要で、阿川はそれを自宅で行っていた。仮釈放期間は六ヶ月、その間問題がなければ晴れて出所できる、という仕組みになっている。

工藤は自動車修理工場で働き始め、社長もその腕前と人柄を買って、仮出所が終われば社員として向かい入れると言ってくれた。とても順調だ。工藤は、あと1回定期報告を終えれば仮釈放が終わるというところまでやってきた。

一方、彼らが住む周辺地域ではとある凶悪事件が発生していた。交番勤務の警官が襲われ、奪われた銃で撃たれたのだ。幸い一命はとりとめたが、奪われた銃はまだ見つかっていない。そしてその後も、その銃を使った犯罪が起きてしまう。

警視庁の刑事である鈴木と滝本は現場を回って情報を掴もうとするが、被害者同士の繋がりが見えず捜査は難航する。しかし、ある事件で物的証拠が取れ、仮釈放中の工藤誠が捜査線上に浮かぶことになる……。

というような話です。

様々な意味で「善悪」について考えさせられる作品だ。「保護司」という、決して馴染み深いとはいえない存在を中心にして、「正しい/間違い」の境界が突き詰められていく。社会的な「正しさ」は法が決める。それは法治国家に生きている以上仕方ないことだ。ただ、社会的な「正しさ」だけがすべてではない。状況が深く描かれれば描かれるほど、「正しさ」の軸がぼやけてきて、どう考えるのが正解なのかわからなくなっていく。

しかし、自身が抱え続けるとある後悔を遠因にして保護司となった阿川の振る舞いや言葉は、「それが彼女なりの正解だ」と感じさせる力強さがある。

冒頭からして、なかなか荒々しい。担当する元受刑者が仕事に行っていないと連絡を受けた阿川は、その人の家に向かうが、元受刑者は「あの職場は私に合っていない」と言い訳ばかりする。そこで阿川はとある強硬手段を取り、元受刑者を説得するのだ。

その説得の言葉も良かった。

【あなたは今崖っぷちなんです!このままだと、奈落の底に真っ逆さまです。そうなったらもう、助けてあげられなくなってしまいます】

初めて工藤誠に会った際には、こんな風にも言う。

【頑張りすぎないでくださいね。大切なのは、「普通」だと思うんです。頑張りすぎてしまったら、それは「普通」ではありません】

「普通の保護司」をそもそも知らないので比較のしようがないが、「犯罪者や元犯罪者と向き合っている人」が発する言葉っぽくはないと感じる。「現実は厳しいのだから、ガムシャラに頑張らないと」みたいなことを言うのが「普通」な気もする。頑張ろうと思っても、色々あって頑張れなかったから罪を犯してしまったという人が多いとすれば、「頑張ろう」という言葉はなかなか厳しいものとして響くだろう。自分がもし犯罪者になってしまったら、阿川のような保護司がいいなと思う。

映画を観ながらふと感じたことは、「分からない部分があることが魅力」というのは、元犯罪者に当てはめることは難しいだろうなぁ、ということだ。映画の本質的な部分とはまったく関係ない、僕の個人的な感覚なのだが、今まで考えたことのない視点が頭に浮かんだのでちょっと考えてみた。

僕は基本的に、「掴みきれない人」に興味がある。どんな言動をするのか、どんな発想・価値観を持っているのか、全然理解しきれない人ばっかりに関心がある。僕ほどではないにせよ、「ミステリアスであることが魅力に感じる」という感覚に共感できる人はいると思う。

あるいは、「好きな人のことは何でも知りたい」みたいな意見があったりするが、こういう意見を口に出したりするのは、「それが実際には不可能なことだと分かっているから」ではないかとも感じている。望んでもそれが叶わないと分かっているからこそ、「何でも知りたい」と口にせざるを得ない、という感覚を持っている人もいるのではないだろうか。

実際、「他人のことを全部知る」ことなど不可能だし、どうしても捉えきれない部分が生まれる。それを魅力と捉えるかは人それぞれだとしても、「分からない部分」は誰にでもあるということがある種当たり前のこととして認識されているように思っている。

しかし元犯罪者に対しては、「『分からない部分』があることを良しとはできない」という感覚になることが多いかもしれない。僕は、刑務所に入るような前科を持っている人と関わったことがたぶんないので、そういう人と関係性が生まれたら自分がどう感じるのかイマイチ分からない。ただ世間一般的には、元犯罪者については「『分からない部分』があることが不安」という捉えられ方になってしまうような気がする。

どうしたって他人のことをすべて知ることなどできないのだから、誰だって「分からない部分」を持っているのだが、元犯罪者の場合はそのことが許容されない現実があるとすれば、それはしんどいだろうなと思う。というか、どうしても元犯罪者を遠ざけたいという気持ちから、「『分からない部分』があるから怖い」という捉え方を意識的にしている、ということもあるかもしれない。

私も、普段は「『分からない部分』があるからこそ興味が湧く」と考えているが、同じことが、元犯罪者と関わる際にも言えるかと考えてしまった。元犯罪者だからという理由で排除するような振る舞いをするつもりはまったくないが、「分からない部分」をどう捉えるかで、自分の無意識の行動が変わってしまいそうな気がするなと感じた。

阿川がある場面でこう口にする。

【法律や福祉だけではあなたを助けられない。それが現実です】

映画の中では、ある人物は「殺人犯は人じゃないよ」と口にする場面があるが、恐らくこれは、過大に増幅してはいるかもしれないが、世間の声そのものだろうと思う。そしてだからこそ、法律も福祉も、元犯罪者を助けられるほどに充実しない。その現実に「仕方ない」と感じる自分もいるが、同時に、「だから何も変わらない」と感じもする。

先の言葉に続けて阿川が発する言葉からは、とても強い信念を感じる。実際の保護司が、どういう理由で保護司になり、何をやりがいに感じて続けているのか分からないが、阿川が別の場面で口にした、「人が”生き返る”瞬間に立ち会えるのって凄い」という言葉も含めて、阿川のような存在は本当に社会に必要だと感じる。

ある人物が阿川に、「恋してる?セックスしてるか?」と絡むが、確かに、自分自身のために保護司を続けているのだとはいえ、それが本人にとって幸せに感じられるのであれば、一般的な幸せも是非目指してほしいと思う。阿川に救われる人にとって阿川の存在はもちろん大事だが、阿川自身にとっても阿川はとても大事だからだ。

さて最後に。エンドロールを見て驚愕したという話をして終わろう。エンドロールを見ていたら、「石橋静河」の名前が出てきた。でも、僕は石橋静河が出てきた場面がパッと思い浮かばなかった。そこでしばらく考えて、「嘘でしょ……」と思ったのだ。

あの人、石橋静河だったのか。マジでエンドロール見るまで気づかなかった。

「前科者」を観に行ってきました

なかなか奇妙な物語だった。好きかどうかという話をするなら、「嫌いじゃない」という感じかな。雰囲気的には好きな映画だったが、「もう少し何かあってほしい」と感じてしまう部分もあった。

内容紹介をしようと思うが、意図的にわかりづらく書こうと思う。映画を観ていない人が読めば、どんな物語なのかイマイチ想像できない文章にするつもりだ。

物語には大きく、3つの要素が含まれている。

漫画家を目指しながら、建設現場の作業員の仕事を続ける草介は、絶滅したニホンオオカミを題材にしたいと考えている。しかし絶滅しているが故に資料も少なく、上手くイメージができない。そんなある日、仕事場で土を掘っていると、地層から何かの骨らしきものが出てきた。どうやら、動物の頭部のようだ。それこそ、ニホンオオカミくらいの大きさだろうか。現場監督に見つからないようにこっそり頭部を持ち帰り、その頭部の骨を見ながら漫画の原稿を書き進めていく。

ミドリは、一週間前にいなくなった飼い犬・シロを探しているが、まったく見つからない。そんなある夜、川辺で1人の男性と出会う。少し変な格好をしていて、初めは泥棒かと思ったが、転んだ際に切れてしまった鼻緒を直してくれた。足をくじいて立ち上がれないミドリをおぶって家まで送り届けてくれる。実家の寫眞館は、レンズや金属を供出させられたため、開店休業状態。寫眞館からカメラを奪ったら、何も残らない。お礼にと食事に誘ったその男性は、父が大好きなどじょう鍋を恐る恐る食べ、冬なのに「今日は花火ですよね?」と変なことばかり言っている。

雪深い山奥で、家畜が食い荒らされた。熊かもしれないが、銀三はそうじゃないと分かっている。あいつらが「お犬様」とか呼んでいやがるあいつだ。間違いない。しかし銀三の意見は聞き入れられない。どころか、もう村から出ていけと言われる始末だ。梢がいたから可哀想に思って村に置いてやったのだ、そんな一人娘を自分が作った罠で殺し、それでいて一人で山をほっつき歩いていた方が悪いなんて言うやつはでていけ。あぁいいさ、出ていってやる、俺はどうにかしてあいつを仕留めてやるさ……。

というような話です。

凄く偉そうな書き方になってしまうけど、「やりたいことはとても分かる」という感覚の強い映画だった。テーマとか、そのテーマの見せ方・組み込み方とか、とても上手いと思う。けど、じゃあ長編映画作品としてどう? と聞かれると、うーんどうなんだろう、という感じがしてしまう。

もちろん、逆の印象を抱く人もいると思う。映画全体から「なんか良いな」と感じる。そしてそれから、「なるほど、こういうテーマが内包されているのか」と納得する、という順番の人もいるだろう。

その辺り、とても微妙なラインにあるように僕は感じた。僕のように、テーマが前景に感じられてしまえば、ちょっと鼻につく感じがあるだろう。しかし、テーマが後景に見えれば、非常に印象深い作品に感じられると思う。僕としては、もう少し何かがあれば、テーマが後景に感じられた気がするので、その点は少し残念だった。

主演の2人、笠松将と阿部純子はとても素敵だった。2人とも、無表情で画面の中にいても成立する感じがある。それは顔だけではなくて、全体の雰囲気がそうさせてるのかなぁ。特にこの映画では、笠松将のセリフか極端に少ない。草介が存在しなければ物語は動いていかないのだから、そういう人物にしてはもの凄くセリフが少ないと言えるんじゃないかと思う。

ただそれでも、物語的にも画的にも成立している感じが凄くある。僕としては、この2人の存在感で最後まで興味深く観ることができたと感じるほどだ。

なんとなくだが、「リング・ワンダリング」という単語が、この映画制作におけるかなり初期段階から存在していたような気がする。少なくとも、「こういう物語でいこう」と決めた後でタイトルが決まったとは想像できない。「リング・ワンダリング」という言葉がすべての着想の始点にあるなどとは思わないが、かなり早い段階でこの「リング・ワンダリング」という単語を捕まえていたのではないかと思う。

このタイトルに込めた意味をすべて理解しているなどというつもりはないが、なんとなく、映画のタイトルと作品の内容が非常に共鳴し合っていると思う。とにかく、映画のタイトルがとても素敵だ。タイトルで勝っている映画は、強いと思う。

個人的には、今ひとつ突き抜けない作品ではあったが、観て良かったと思える映画ではある。

「リング・ワンダリング」を観に行ってきました

去年の年末から昨日まで、立て続けに4本の濱口竜介作品を観た。

観た順に並べると、

『ドライブ・マイ・カー』
『偶然と想像』
『親密さ』
『ハッピーアワー』

となる。」

では、良かった順に並べてみよう。

『偶然と想像』
『ドライブ・マイ・カー』
『親密さ』
『ハッピーアワー』

『偶然と想像』と『ドライブ・マイ・カー』は僅差、『ドライブ・マイ・カー』のちょっと下に『親密さ』、そして『親密さ』から大分離れて『ハッピーアワー』という感じだ。

正直ちょっと、『ハッピーアワー』はピンとこなかった。

『親密さ』を観たのと同じ流れで、下北沢のK2という映画館で観た。他にも様々な濱口竜介作品が上映される中、5時間という長尺の『ハッピーアワー』のチケットはすぐに売り切れてしまう。昨日も私は、一番前の席で観た。チケットを買う際、選択肢がかなり限られていたからだ。

『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』『親密さ』がとても良かったこともあり、『ハッピーアワー』への期待値はかなり上がっていたと言っていい。

しかし、それは『親密さ』の時も同じだ。『親密さ』は、『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』を観て上がっていて私のハードルを、超えこそしなかったものの、匹敵するレベルで良かったと思えた。

『ハッピーアワー』は残念ながら、ちょっとそんな風には思えない作品だった。

正直、濱口竜介作品に触れる順番は正しかったと思う。もし『ハッピーアワー』を最初に観ていたら、それ以降濱口竜介作品を観ようとは思わなかったかもしれないからだ。

『親密さ』と同じく、『ハッピーアワー』も役者の演技はとても下手だ。恐らくこれは、「下手に演じてもらっている」のではなく「下手」なのだと思う。役者は演技経験がなく、市民参加によるワークショップから生まれた作品だそうだ。

「感情が乗らない演技」は、私が観た濱口竜介作品に共通するものだし、『親密さ』でもお世辞にも上手いとは言えない演技を観ていたので、「演技が下手」という点に対する不満はない。

私は、『ドライブ・マイ・カー』『偶然と想像』『親密さ』の感想を書いてきたが、それぞれに共通して感じたことは、「映像的な部分よりも先に、別の『何か』が前面に出てくる」という点だ。それぞれ「自然な不自然さ」「脚本」「言葉」が、「映像的な部分」よりも強く押し出され、それによって、「感情が乗らない演技」「役者の演技が下手」という「映像的な部分のマイナス(に思える点)」がまったく気にならなくなる、という体験に、僕は凄く面白さを感じていた。

ただ『ハッピーアワー』は、「映像的に描かれる物語」が主軸になるという、一般的な映画と同じ感覚の作りであり、だから結果的には、「演技が下手」という点が目立つことになってしまう、と感じた。

「映像的に描かれる物語」は、結構面白かったと思う。特に、男の僕が言っても説得力はないけど、女性的な感覚の描写が本当に上手いと思う。脚本は「はたのこうぼう」という、濱口竜介を含む3人が担当したらしいが、たぶん3人とも男性だ。凄いものだなぁと思う。

ただ、やはり僕としては濱口竜介に「映像的に描かれる物語」の面白さを求めているわけではない、と感じてしまう。上手く言えないけど、違うんだよなぁ。

僕がこの映画で一番好きだったシーンは、「ある人物の妹」(それが「妹」と判明するのは後半なので伏せておく)と主人公の1人が、地下の薄暗いバーで話をしている場面だ。ここが一番良かった。

それまで観た濱口竜介作品は、カメラのカット割りも含めて「動き」の少ない中で役者がひたすら喋る、という要素が多く、それで画面が成立していることに驚かされることが何度もあった。『ハッピーアワー』の中では、まさにこの場面がそうだと感じる。バストショットの女性2人を固定で捉えて、2人がただ喋っている。しかもその内容が、ちょっと奇妙なのだ。しかし、お互いに奇妙だと理解していながら、深い部分で共感もしている。僕らの日常の中でも、その瞬間その場所でしか成立し得なかった奇跡的な関係性みたいなものが現出することは時々あると思うけど、まさにそういう瞬間を切り取っている感じがする。

2人のやり取りやちょっと緩んだ関係性、自分のことを曝け出してみてもいいと思える雰囲気、そういうもの全部がひっくるめて「この瞬間この場所だけのもの」という感じがあり、その雰囲気が凄く好きだった。あと個人的に、「ある人物の妹」はとても好きだなと思う。友だちになりたい。

映画の中に、新作小説の朗読会の場面がある。その朗読会の後のトークショーで対談相手を務めた「ヒノコウヘイ」(公式HPを見ても、役者の名前しか載っていないので、役名の漢字が分からない)が、「やっぱり私は、世界の残酷さを写し取った小説を読みたいんだなと思いました」と言う場面があって、それは僕も同じだ、と思う。

僕の場合は、より広く「奇妙さ」という言葉の方がしっくり来るが、とにかく「世界はこんなにも狂っているんだ」ということを、現実を知る、あるいは物語に触れることで実感したいという気持ちがある。

確かにこの『ハッピーアワー』にも「残酷さ」は描かれており、そこにグッと来る人もいると思うのだが、ちょっと僕の好きな感じではない。

というか、違うか、「残酷さ」が描写されるのがかなり後半になってからで、それまでの間しばらくは「残酷さ」と無縁、という点に違和感を覚えるのかもしれない。映画の後半は、それまでの流れを踏まえながら様々な「残酷さ」が一気に展開される流れになるが、映画が始まってから恐らく最初の3時間ぐらいは、ほとんど「残酷さ」は描かれない。後半の場面を観て、後から振り返る形で「前半のあの場面は残酷なシーンだったんだ」と気づくこともあったと思うが、僕としてはちょっと、「残酷さ」が出てくるのが遅すぎたような印象がある。

「奇妙さ」という点で言えば、先ほど名前を出した「ヒノコウヘイ」は、とても奇妙な存在だ。物語には結構後の方から関わる形になるのだが、個人的にはなかなかインパクトを感じる存在だった。

彼は常に「何を考えているのか分からない存在」として登場し続けるのだが、彼が最後に出てくる場面で、とても印象深いことを言っていた。具体的な状況には触れないが、彼は今なかなか袋小路の状況にある。彼自身は「進むも地獄、退くも地獄」なのだが、彼を取り巻く全体について考えれば、「ヒノコウヘイが退く方が全体の利益に適う」という状況にある。というか、少なくともヒノコウヘイの周辺の人間はそう信じている。

しかしヒノコウヘイは「退く」という決断をしない。その理由を彼はこんな風に断言していた。

【ただ私は、自分が幸せになる道を知っている。唯一の道だ。私は、そこを進むしかない。】

彼のこのセリフさえ、彼を取り巻く周囲の人間には恐らく理解されない、とても奇妙なものだ。僕が彼の立場だったらたぶん「退く」ことを選んでしまうだろうし、そういう意味でも、彼のその選択は共感できるものではない。

しかしヒノコウヘイのことを「理解不能」と判断するのは間違っているとも感じた。彼は彼なりに、状況をすべて理解し、自分の選択が間違いだと嫌と言うほど分かった上でその道を進もうとしている。その決断が自分以外の誰も幸せにすることはないと理解しているが、しかしそれでも、自分が幸せになるためにはどれほど周りを不幸にしたところでこの道しかないんだ、と決めて行動しているのだ、ということが理解できたので、ある意味でヒノコウヘイという人物に対する理解は最後の最後でストンと落ちた感じはある。

この場面では、ある人物が、「ヒノさんは、自分のために言葉を使っている感じがあります。違和感はありません。でも……」という形で意見を差し挟む。この瞬間もとても良かった。白黒が一気に反転するみたいな爽快さがある。長い時間を掛けて「女4人」の日常や非日常を追ってきているから、どうしても「女4人」側の目線になってしまう。しかしこの指摘は、そんな観客を「ハッと」させるものだった。

あと、役柄的にそういう立ち位置だということもあるが、純が絡む場面は印象的なものが多い。物語全体とさほど密接に関わるものではないが、有馬温泉からバスで帰る車中での会話は、その意味があるとは思えない奇妙な会話が面白かった。また、フェリーに乗る場面も、そうかそこにこの人物がいるのか、という事実も含め、インパクトのある場面だったと思う。

あと非常にどうでもいいことだけど、映画の中に恐らく濱口竜介本人が出演していてびっくりした。

最後に。この映画を観ながらずっと感じていたことは、「本職の役者ってホントに凄いんだな」ということだ。僕たちは、「ドラマや映画はこういうもの」と昔から刷り込まれているから当たり前に観ているけれど、やっぱり「作品世界の中で不自然さを感じさせない演技の上手さ」というのは凄いことなんだなと感じる。

基本的にこの『ハッピーアワー』は、全員演技が下手なので、演技が下手であることによる違和感は最後の最後までつきまとう。それを、普段見るドラマや映画からは感じないという凄さみたいなものを、改めて実感させられた感じがある。

しかしなんだかんだ言って、演技未経験者たちによる5時間もある映画を、決して飽きさせずに観させてしまう力は見事だと思うし、そういう意味では唯一無二だろうなと感じる。

「ハッピーアワー」(濱口竜介監督)を観に行ってきました

日本でも、ごく僅かではあるが、確定死刑囚が獄中から救い出されたことがある。この映画は、黒人弁護士が黒人の死刑確定囚を獄中から救い出した実話を元にした物語だ。日本はアメリカ同様、先進国では珍しく「死刑存置国」である。だから、他人事とは言えない。

ユーロスペースの「第11回死刑映画週間」で上映されていた映画で、上映後にトークイベントがあった。英語のデータをスライドにした大学の講義のようなトークイベントだったが、個人的には非常に面白いと感じた。映画の中身に触れる前にまず、そちらのトークイベントの話に触れていこう。

というのも、「なぜ黒人死刑囚を支援しているのか?」「なぜアラバマ州で活動しているのか?」など、映画を観ているだけでは理解できない外側の情報についても解説してくれていたからだ。

まず、アメリカにおける「死刑」の位置づけの歴史が非常に興味深かった。個別の話はなんとなく知っているものだったが、「それとそれがそう繋がるのか」と感じさせられた。

アメリカの歴史と奴隷制度は切り離せない。しかしある時点でアメリカでは奴隷制度は廃止され、表向き「白人と黒人は同じ権利を持つ」となった。

しかし、突然そんなことを言われたところで、人々がすぐに変わるはずもない。これまで黒人を下に見ていた白人の意識はそう簡単に変わるものではない。

当初は、いわゆる「ジム・クロウ法」と呼ばれる「あからさまに白人を優遇する法律」が様々に作られた。黒人には使用できない施設があるとか、バスの前の方には黒人は乗ってはいけないなどである。

しかし、奴隷制度が撤廃されたアメリカにおいて、このような状況が容易に実現したわけではない。当然、黒人の側は不満を溜め込む。そこで白人は、暴力・恐怖による支配を敷くことに決めた。それが「リンチ」である。

日本で「リンチ」と聞くと、「集団で個人をボコボコにする」ぐらいの意味だが、アメリカでは「白人が法的根拠なく黒人を暴力的に支配する」ことを指す。アメリカの歴史上、様々な「リンチ事件」が知られており、白人の暴力によって黒人が命を落としている。

しかし、その「リンチ」があまりに酷く、問題視されるようになっていく。そこで使われるようになったのが「死刑制度」だ。リンチを行えなくなった白人が、黒人を犯罪者として逮捕、起訴し、死刑判決を下すことでリンチの代わりとするようになっていったのである。

このような背景があるために、アメリカの刑務所には黒人が多い。別の背景として、「奴隷制度が廃止されたことによる労働力不足解消のため、刑務所が囚人をプランテーションや炭鉱に貸し出していた」という歴史もあるのだが、それについてはここでは触れないでおこう。

いずれにしても、アメリカの刑務所には黒人が多い。アメリカに住む黒人男性の3人に1人は、生涯で少なくとも1度は刑務所に入る、というデータがあるほどだ。

しかしこれは、アメリカ国民全体で見ても高い。アメリカ人男性の10人に1人は生涯で少なくとも1度は刑務所に入るし、白人だけに限ってみても17人に1人の割合だそうだ。

アメリカは囚人の数がとにかく多く、全米で220万人もいるそうだ。日本は5万人弱であり、アメリカの人口が日本の3倍であることを考えても異常に高い。アメリカ人は、世界人口に占める割合はたった5%にすぎないのに、世界中の囚人の中でアメリカ人が占める割合は25%にも達する。刑務所に使われる予算は全米で870億ドル(約10兆円)だそうだ。日本の国家予算が約100兆円なので、日本の国家予算の10%に相当する規模というわけだ。

そもそもアメリカ全体として、このような問題があるのである。

さらにその中でも、映画の舞台となるアラバマ州は、人口比で死刑の執行率が最も高い州なのだ。さらに、司法による人種差別が激しいことでも知られており、刑務所や死刑制度などにおいて様々な問題を抱えるアメリカの中においても、さらに問題が凝縮されている州なのである。

アメリカでは州によって法律が違い、既に死刑を廃止している州もある。全米で23の州が死刑を廃止したそうだ。残りの27の州は死刑を存置しているが、6州は死刑執行を停止している(モラトリアム)、8州がモラトリアムの宣言はしていないが実際に死刑執行を近年行っていないので、定期的に死刑が執行されるのは13州だそうだ。

さて、このように州によって死刑存置に違いが出ることで、興味深い調査も行える。それは、「死刑制度が犯罪抑止に役立っているのか」である。

そもそも「死刑」は、「重罪を犯すと自らの命が奪われる」という抑止力としてその存在意義が認識されるはずだ。しかしアメリカでは、死刑存置州ほど殺人率が高いことが明らかになっているという。30年間における様々な研究からも、「死刑には、社会の安全に対する抑止効果はない」と結論づけられているそうだ。

そうなってくると、死刑制度に存在意義があるのかを考える必要が出てくるだろう。実際、その背景には様々な事情があるそうだが、現にアメリカでは死刑判決も死刑執行も減少しているという。陪審員も死刑判決を避けたいし、検事も死刑求刑をしたくないのだ。「仮釈放なしの終身刑」という選択肢が生まれたことで、ますます「死刑を回避する傾向」に拍車が掛かっているそうだ。

また別の面からも死刑制度への疑問が突きつけられているという。それがコストの問題だ。死刑は不可逆的なプロセスなので、間違いがないようにすべてのステップが慎重に進められるように制度設計されているそうだ(この映画で描かれる1987年時点では恐らくそうではなかったのだろうが、徐々に整えられていったということだろう)。その結果、裁判期間は通常の4倍、裁判費用は通常裁判と比べて1件当たり1億円も多く必要になるそうだ。

確かにこんな風に説明されると、貴重な税金をそんなことに使っていていいのだろうか、となるだろう。

このような、アメリカにおける死刑制度の背景や現状が、データを元に語られていた。たぶんトークイベントだけで1時間ぐらいあったが(映画終了後のものとしてはなかなか長いだろう)、知らない話を知ることができてなかなか興味深かった。

さらにトークイベントでは、映画に出てくる「EJI」についても説明される。映画の主人公であるブライアン・スティーブンソンが立ち上げた「Equal Justice Initiative」という団体だ。映画では「死刑囚を支援する団体」として描かれるのだが、実はより広範な支援をしている。死刑囚の冤罪を証明して救い出したり、刑務所から出てきた元囚人の支援などはもちろんのこと、面白いと感じたのは「死刑が求刑されるかもしれない事件を担当する弁護士のためのマニュアル作成」なども行っているそうだ。

ブライアンが、死刑囚支援に熱心な白人女性と共に2人で立ち上げた「EJI」は、現在では150名以上のスタッフを抱える大所帯であり、年間予算も3700万ドル(約400億円)と凄い規模になっている。

そんな「EJI」を立ち上げたブライアンが、いかにして無実の死刑確定囚を獄中から救い出したのか。その実話を基にした物語である。

内容に入ろうと思います。
映画開始1分で、ウォルター・マクシミリアン(通称ジョニー・D)は死刑判決を受ける。自分で木を切りパルプの仕事を行っている黒人のジョニー・Dは、クリーニング店で18歳の少女ロンダが殺害された事件の容疑者として逮捕されてしまう。彼にはまったく身に覚えのない事件だったが、彼は流れ作業のように刑務所に送られてしまう。

この事件は、アラバマ州のモンロー郡史上最も凶悪な事件の1つとして住民を恐怖させていたのだが、州警察は1年もの間犯人を検挙することができなかった。恐らくそんな焦りもあったのだろう、白人の重罪犯に無理やり証言をでっち上げさせて、無実のジョニー・Dを逮捕したのだ。

それほど人々の記憶に残る事件だからこそ、この事件の扱いは困難を極める。住民はジョニー・Dが犯人だと思い込んで安心したいのであり、誰も蒸し返したくないのだ。

そんな火中の栗を拾ったのがブライアンだ。彼はハーバード大学を卒業した秀才なのだが、「困っている人の役に立ちたい」という思いから、わざわざ別の州からアラバマ州に引っ越してまで、無償で死刑囚の支援を行うことに決めた。学生時代に、囚人弁護委員会の使いとして同い年の死刑囚に会ったことも関係していた。自分と同じような境遇で生まれ育った人間が理不尽に囚われの身となっている現実をなんとかしたいと考えたのだ。

しかし彼の活動はのっけから躓く。協力者である白人女性が2年間の賃貸契約をしたはずの物件が一転拒否されたのだ。「死刑囚の相談のためなんかに使われちゃたまらない」というわけだ。その後も、「ジョニー・Dの件から手を引け」と脅迫を受けるなど困難は多い。

しかし最大の困難はジョニー・D本人だった。これまでも弁護人が面会に来ては力になると言ってきたが、どいつもこいつも何もしない。そいつらとお前は何が違うんだ? とブライアンを不審の目で見るのだ。

そんな、まさに「孤軍奮闘」としか言いようのない状況で、ブライアンは活動を始める。なんにせよまずは「再審請求」を通さなければならないが、その鍵を握るある黒人の証言者を警察が「偽証罪」で逮捕するなど妨害が続き……。

というような話です。

良い映画でした。「ブライアンがジョニー・Dの無罪を勝ち取る」という展開はもちろん容易に想像がつくわけで、後はそれをどう成し遂げるのかという話なのだが、モンロー郡での「あからさまな妨害・脅迫・非協力」に驚かされる形になった。

こういう話に触れる度に僕が不思議に思うことは、「人間はそんなにあっさりと良心を手放せるものなのか」ということだ。モンロー郡の住民は、まあある程度仕方ないと思う。「裁判は正しく行われているはずだ」と考えるのがまあ一般的な市民としては普通の感覚だろうし、「遺族のためなら協力するが、死刑囚のためには何もしたくない」という感覚も分からないではない。

ただ、保安官や警察、検事などはどうなんだろうと思う。彼らは「明らかな不正」を行い、ジョニー・Dを刑務所にぶち込み、死刑囚に仕立て上げた。そのことに、一切良心が傷まないものだろうか? もちろん、悪虐な人間はどこにでもいるものだが、すべてそういう人間なわけではないはずだ。自分が直接的にその悪虐さを発揮しているのでなくても、その気配を周囲で感じたら、何も動かないことに良心が咎めないものだろうか?

映画の中ではほんの一瞬しか映し出されないが、良心に沿った行動を取った人物も出てくる。ロンダの事件現場に最初に駆けつけた警官は、後に「死体の状態について虚偽の証言をしろ」と言われたそうだが拒否、すると警察を止めさせられたそうだ。ここでも、あからさまに恐怖で支配しているわけで、それを知って行動に移せなかったというものももちろんいるだろう。

しかし、やはり人間の命が掛かった問題だ。明らかな不正に対して、沈黙し続けられるものだろうかと感じさせられてしまう。

いや、やはりそんなレベルの問題ではない。ブライアンがアラバマ州刑務所で死刑囚たちと面会した際、彼らは驚くべき証言をするのだ。

【裁判はたった45分で終わった】
【「犯罪者は死刑でいい」と判事は笑っていた】
【証言する機会も与えられなかった】
【有罪かどうかは顔で分かる】

中でも凄いと感じたのはこの話だ。

【犯人はニガーだ。だから、お前が無実でも、ダチのために犠牲になれ】

もちろんこれは、黒人に対する人種差別と関わる問題であり、だから余計に難しい。権力を持つ者がその権力を不当に行使すれば、なんだってできてしまう。

この映画の原題は『JUST MERSY』であり、トークイベントの中で「公正な慈悲」と直訳していた。たとえ犯罪を犯した者であったとしても、この「公正な慈悲」は与えられるべきだし、その実現に向けてブライアンは闘ったのだ。

【それは法ではない。
そして、正義でもない。】

ブライアンは、理想を実現するために社会の中でできることをしたいと思ってハーバード大学を出てきたが、理想だけではダメだとジョニー・Dの件で実感した。そこには、強い信念と希望も必要なのだ。

そんな、信念と希望の物語である。

「黒い司法 0%からの奇跡」を観に行ってきました

「ビックリマンチョコ」みたいな映画だな、と思った。なかなか評価の難しい映画だと思うが、僕としては観て良かった。

この映画を観るに至った流れをまず書いておこう。

「濱口竜介」という監督の名前は、去年まで知らなかった。去年の年末、「絶対に観ないぞ」と思っていたのだがあまりに評判がいいから『ドライブ・マイ・カー』を観て、「なんて素晴らしい映画だ」と驚愕し、そこで初めて「濱口竜介」の名前を知った。そして同じく「絶対に観ないぞ」と決めていた『偶然と想像』が濱口竜介監督作品だと知り観に行った。するとこちらもとんでもなく素晴らしい映画だった。その後、映画の話もする友人と濱口竜介作品について話していると、彼女から「下北沢のK2という映画館で濱口竜介作品を上映する特集がある」と聞いて調べた。

そうやってこの『親密さ』という映画に出会うことになった。

「ビックリマンチョコ」の話に戻ろう。「ビックリマンチョコ」は、「チョコ」ではあるがある意味でそれは「おまけ」で、本来「おまけ」であるはずの「シール」の方がメインになる逆転現象が起こっているお菓子だと思う。

濱口竜介の映画にも、似たような部分を感じた。

それが「映画」であると主張する以上、基本的には「映像」がメインと考えるのが普通だろう。もちろん「映画」には、音楽・衣装・編集・脚本など様々な要素が絡んでくるが、いずれにしてもメインとなるのは「映像」であるというのが普通の考えだろう。

しかし濱口竜介の映画は、「映像」よりも「言葉」がメインにくる。

『ドライブ・マイ・カー』や『偶然と想像』でも、それは際立っていた。名のある俳優を使い、映像もキレイに仕上がっているのだが、しかしそれでも「映像そのもの」がメインにはならない。特に『偶然と想像』は、画面上での変化が乏しかったり、変化があってもそれは、その「変化そのもの」に意味があるのではなく、「場面転換をしたかった」というような動機に感じられることも多い。

『ドライブ・マイ・カー』でも『偶然と想像』でも、とにかく「役者が喋っているという状態、あるいはその内容」がメインとして立ち上がってくると感じた。

そして、「ENBUゼミナール」という専門学校の卒業制作として作成された『親密さ』では、よりその状況がくっきりと立ち上がる。というのも、「映像」の方にどうしても比重を置けない環境にあるからだ。名のある役者はおらず、機材も乏しい、撮影場所にも制約がある、という中で、「映像そのもの」のクオリティを上げることはなかなか難しい。恐らくそういう制約ゆえという理由もあるだろう、「言葉」が前景に来る。

僕がこの映画で一番好きなシーンは、「『親密さ』という映画の劇中劇『親密さ』の中で『暴力と選択』という詩が朗読される場面」だ。同名に劇中劇が存在する、という複雑な状況については後で説明する。

主人公の1人であり、劇中劇の脚本を担当する良平は、劇中劇中では「衛」という役であり、衛は自作の詩を朗読する会に参加している、という設定になっている。そしてそんな詩の朗読会で彼が朗読したのが「暴力と選択」なのだ。

劇中劇では計4作の詩が朗読されるのだが、正直この「暴力と選択」の話しか覚えていない。それぐらい、僕にはインパクトのある内容だった。元々理屈っぽい内容が好きということもあるだろう、そもそも良平も衛も非常に理屈っぽいキャラクターであり、その性格が詩にも反映されていて良かった。

メチャクチャ早口だったのでなんとなくしか内容を再現できないが、「暴力と選択」は以下のような内容だった。

<暴力とは、「相手から選択肢を奪うこと、あるいは「選択など不可能だ」と相手に信じ込ませることだ。こう定義することで、肉体的な暴力以外の暴力も定義することができる。つまり、選択肢が奪われない限り暴力とは言えない、という言い方もできる。仮に肉体的な暴力を受けたとしても、まだ何かを選択できる状態であるならばそれは決して暴力ではない。しかしそういう時に、まだ選択肢が存在しているにも関わらず「これは暴力だ」と言って本来的には暴力とは呼べないものを暴力にしてしまう者がいる。そういう者こそ暴力的というべきなのだ。>

本当はもっと内容は多く、例えば「私たちは『選べない』ということだけは選べない」という話も出てきたが、ちょっと再現できるほど覚えてない。上述の説明では、僕が何に凄さを感じたのかなかなか伝わらないと思うが、衛がもの凄い早口で「暴力に関する持論」を「詩」という体裁である種「暴力的」に語り続けているシーンは、とてもインパクトがあり、印象に残っている。

あるいは、同じく劇中劇中に「好きな相手に想いを寄せたラブレターを、親友に電話で聞かせる」という場面もある。この手紙の内容もとても良かった。

ラブレターを書いたのは、誰とでもセックスをしてしまい「サークルクラッシャー」と呼ばれる女性で、血の繋がらない兄のルームメイトである郵便局員に恋をしている。その郵便局員とは男友達として仲が良く、自分が誰とでもセックスをしてしまうことや、「サークルクラッシャー」であることも話している。つまりその女性の感覚では、「その郵便局員は私のことを『そういう女性』と見ている」と考えているし、だから想いとしては真剣なのだが、恋愛に展開させていくことが難しいと考えているという感じだ。

その郵便局員が遠くへ引っ越してしまうことが明らかになり、失意の底に沈んだ彼女は、自分の想いを伝えるべく真剣に手紙を書く。その内容は、「あなたが私のことをどんな女性と見ているか分かっているつもりですが、そのイメージを少しでも変えられるかもしれないと期待して、いつもとは違う真面目な感じで手紙を書きます」というような文章から始まり、自分の気持ちだけで物事が動くことはないと分かっているけれど、私がこれまであなたにしてきた言動のすべては「愛してほしい」の言い換えであり、そのことが伝わったらいいなと期待している、というようなものだった。

この電話越しに手紙を読む場面も、非常に印象に残っている。

今挙げた2つの場面は、ひたすらに「言葉」が全面に押し出される。言葉だけで成立していると言っていい。そしてとにかくこの映画には、そういう場面が多い。

映画の中で、主人公の2人、良平と令子が夜明け前の歩道や橋をただずっと歩きながら喋る長回しの場面がある。辺りは暗く2人の表情はおろか仕草もほとんど見えず、というかカメラは2人を後ろから撮るので映像的にはほとんど走っている車しか変化を感じさせない。そこで、「長いこと一緒に生活しているけど私は良平のことをほとんど知る手がかりがない」と語る令子と、「『知ること』にどんな意味があるのか僕にはよく分からない」と語る良平がぽつりぽつりと言葉を応酬するシーンがかなり長く続く。確かにこの場面は「夜明け前」という映像のキレイさみたいなものも含まれているが、やはりここも「言葉」がぐわっと表に出てくる。それぞれが求めていること、変わってほしいこと、変わりたくないこと、これからどうしていきたいのかなど様々な「すれ違い」が短い言葉の隙間から覗く、好きな場面だ。

「すれ違い」と言えば、劇中劇中にこんな場面がある。舞台上には、つい最近別れたカップルが喫茶店という設定の椅子に座っている。男は「彼女から唐突に別れを切り出され、理由も判然としないままそれを受け入れた」、そして女は「私なりに理由はあるけど、それは上手く言葉にはできない」とはっきり別れた理由を言わない。そしてそんな別れの場面があった後、とある偶然から久々に再開することになったという場面だ。

実はそこで男は、「好きな人ができたわけではないと言っていたけど、やっぱり他に好きな人がいたんじゃないか」と納得させられる。観客は、実はそうではないと知っているのだが、男としては、「なんだかんだ言っても、やっぱり別に男がいたんだ」というシンプルな理解に至っている。ただ男としても、特段それを蒸し返そうというわけではなく、久々に再会したモトカノと話をしたい、という気持ちでいる。やはり男としてはまだ好きな気持ちがあるからだ。

そんな中で男が女に、「今何を考えているの?」と聞く。すると女は、「今この水をぶっかけたら何が起こるんだろう、って考えてる」と答える。男はぎょっとして、「俺にってこと? なんか恨みでもあるのかよ」と返すが、女は「そうじゃないの。ただ、なんとなくそう考えてるってだけ」と答える。しかし男は、女のそんな言葉の意味を理解できない。「自分に水を掛けたらどうなるか」と考えているということは、「自分に何か恨みがあるとしか思えない」という思考に直結してしまう。女はただ単に、「そうしてみたらどうなるのだろう」と「ifの想像」をしているだけなのだが、男にはそれがまったく理解できない。

そしてこの「すれ違い」こそが、恐らく女が別れを決意した理由なのだろうと、観客は理解する。

恐らく客観的には男の感覚の方が「普通」なのだろう。しかし、どちらが正しいかはともかくとして、「言葉が同じレベルで伝わらない」という事実には大きなストレスを感じるし、そういう意味で僕は女の方に共感する。僕は「言葉の解像度」という表現をよく意識する。月を肉眼で見ている者と望遠鏡で見ている者同士の会話が成立しないのと同じように、「言葉の解像度」が異なる者同士の会話も成立しない。

この別れたカップルのやり取りの場面も、ほぼ会話だけで進んでいく。まさに「言葉」である。

そして、このやり取りを踏まえた場面が、後に出てくる。女の両親は幼い頃に離婚しており、その際に離れ離れになった兄こそが衛なのだ。女は衛と手紙でのやり取りは続けており、ある時「会いたい」と告げて2人は再会する。衛はパン工場のアルバイトをしており、そんな自分について、「お前が周りに自慢したくなるような兄だったら良かった」と女に告げるのだが、女は「お兄ちゃんは『世界は情報なんかじゃない』と思っている人だと分かったし、だから会えて嬉しかった」と返す。女は、男といる時と衛といる時では雰囲気が全然違うのだが、それは「言葉の解像度」の問題だったのだろうということが、ここで改めて浮き彫りにされるのだ。

さて、「言葉」の実例の紹介を次で最後にしよう。劇中劇『親密さ』の演出を務める令子が、本番の練習を一切せずに「役者同士でインタビューをする」「戦争に自衛隊を派遣すべきか議論する」などの”ワークショップ”を行うのだが、その1つとして「勇気」についての講義を行う場面がある。

その講義の中で、「世界のどこかに未開の部族がいるとする」と始まるある問題提起を、令子がひたすらに喋る。それはこんな話だ。

その部族は世界の広さを知らず、だから「世界」と言えばこの村のことだと考えている。そんな村では、成人の儀式としてバンジージャンプが行われる。世界の他の儀式と比較して変わっている点は、このバンジージャンプで最後まで飛べなかった者が次の長に選ばれるということだ。そして若者たちはその事実を知らない。
若者たちは、このバンジージャンプを飛ぶことが「成人の証」であると理解しているし、もちろん恐怖を感じながらも次々に飛んでいく。しかしその中に、どうしても飛ぶことができない者がいるとしよう。そのバンジージャンプは安全面がかなり考慮されていると分かっているが、それでも彼は「万が一」を考えてしまい足がすくむ。他の者がどんどん飛んでいく姿を見て、彼は、ここで飛ばなければ部族として受け入れられないのではないかと恐怖する。しかしそこに部族の長が近づき、仮に飛べなかったとしてもお前を受け容れないなんてことには絶対にならないと保証する。彼は悩む。そしてそんな彼の頭の中にこんな思考が生まれる。
今バンジージャンプを飛べない自分は、「世界で最も臆病な人間」だ。そしてそんな自分が勇気を出してバンジージャンプを飛ぶことが出来れば、その「勇気」は世界中すべての人のためのものになる。そして彼は、その思考によってバンジージャンプを飛ぶことができる。

みたいな話だ。この場面では、決してワンカットの場面転換なしというわけではないのだが、誰かが質問を入れるでもなく、令子が役者に個別の問いかけをするでもなく、ひたすら令子がこの物語を滔々と語り続ける。

この「勇気」に関する講義が、映画全体の中でどんな役割を担うのかみたいなことはイマイチ理解できているわけではない。恐らく、「自分という狭い狭い世界の外に足を踏み出そうとしない良平に向けたメッセージ」なのだろうとは思うが、それ以上詳しいことは分からない。ただ、ひたすらに「言葉」だけで場面を成立させるという意味でやはり印象に残るシーンだった。

とにかく「言葉」の映画なのだ。映像よりも役者よりも衣装・小道具・音楽などなど他のどんなものよりもまず「言葉」が前面に押し出される。とにかく「言葉の力」の強い作品で、そのことに圧倒された。

世の中はどんどん「映像的なもの」で評価が決まる時代になっていると感じる。SNSはインスタグラムやTik Tokがメインになり、子どもたちはYouTuberになりたがり、写真・デザイン・映像など視覚情報がこれまで以上に優先される世界だと思う。そういう中で、「言葉の強度」で世界を生み出そうとしている濱口竜介の映画には、とても惹かれる。僕自身、映像的なものよりも言葉に惹かれることが多く、芸能人やアーティストなども「この人は『言葉の人』なのだな」という観点から関心を持つことが多い。

映画などの映像を観て「言葉」を感じることは当然他にもあるが、それは「言葉”も”感じる」という印象であることが多い。しかし濱口竜介の映画からは、「言葉”を”感じる」のだ。まず「言葉」が先に来る、という意味で非常に印象深い映画監督だと感じる。

さて最後に、「映画の中に劇中劇が存在する」というかなり奇妙な設定について触れてこの感想を終わろう。

物語は、脚本家の良平と演出の令子が新しい演劇の準備を進めるという形で進んでいく。良平も令子も共に演者もこなすのだが、今回は令子の提案で、自分たちは出演せずに裏方に専念しようということに決める。

良平と令子は付き合っており、一緒に暮らしている。お互い当然演劇だけで食べていけるはずもなく、良平はレストランの厨房で、令子は小さなバーでアルバイトをしており、なかなか生活のリズムは合わないが、共に演劇を作る過程で様々なやり取りをし、2人の関係性が保たれている。

しかし良平は自分のことをあまり語る男ではなく、一緒に住んでいる相手なのだが令子にとって良平は謎めいた存在だ。しかし、かつて半年間も家に帰ってこなかったことがあり、同じことが起こったら怖いという理由もあって良平の深い部分を探れずにいる。一方で、2人は演劇の構成や進め方で意見が合わないことが増え、ついに良平から「セリフを変えなきゃ好きにやればいいよ。ちょっとでもセリフを変えたらぶっ殺すけどな」とキレられてしまう。

そんな風に準備が進められた演劇こそ『親密さ』なのである。

この映画は255分あり、間に休憩を挟みながら前後半に分かれる。そして、非常に上手い構成だと思うのだが、前半はまさに「劇中劇『親密さ』がこれから始まるという場内アナウンス」で終わっており、後半は劇中劇『親密さ』をずっと観るのだ。

劇中劇『親密さ』は、実際にお客さんを入れて行われた公演のようである。実際に、良平役の役者が脚本を、令子役の役者が演出を手掛けた舞台上にカメラマンが立っており、「お客さんに向けて公演を行うと同時に映画に組み込む映像も撮影している」という形になっている。そして映画の後半は、2時間10分ある劇中劇『親密さ』を最初から最後まで鑑賞するのだ。

まずその設定が凄いと感じた。

そして、この劇中劇『親密さ』が、思った以上に面白かった。舞台を観る機会はあまりないので比較対象は決して多くないが、この舞台単体で観ても満足できただろうと感じるものだった。そしてその舞台がまるっと映画に組み込まれており、もちろんフィクションではあるのだが「良平と令子がいかにしてこの舞台を作り上げたのか」という過程が外側として存在する構成はとても良かった。

そして、ラストシーン。これはとても美しいと思う。

映画の中で2度、良平(衛ではなく)が書いた「言葉のダイアグラム」という詩が読み上げられる。電車のダイアグラムのように、言葉と言葉をいかに繋いでいくかが重要なのであり、その流れに逆らった言葉は存在できない、というようなことを書いた内容だ。その中に、「言葉がぎゅうぎゅうに詰まった急行と、空いている各停がほんの一瞬同じ速度になり並走する瞬間」というような一文があり、まさにそれを実現するような映像になっている。

2人の人生の分岐や合流を様々な形で示唆するようなラストであり、「実際の撮影は大変だったんじゃないだろうか」という想像も含めて、名シーンではないかと感じる。

とても良い映画だった。

「親密さ」(濱口竜介監督)を観に行ってきました

僕はこの映画に「退屈さ」を感じてしまった。
それは、良くないことだと思う。

以前、『こうして世界は誤解する』(ヨリス・ライエンダイク/英治出版)という本を読んだことがある。「アラビア語が話せる」というだけの理由で、記者のイロハも分からないまま中東の特派員になった著者が、「報道」の現実を切り取る作品だ。

その中で、「報道とは『変化』を伝えるものだから、『独裁政権下』という『状態』はニュースにならない」という話が展開される。中東において最も取り上げるべきは、「『独裁政権下』という『状態』」なのだが、「状態」というのは基本的に大きな「変化」を生み出さないので取り上げにくい。一方、そういう「独裁政権下」で起こった「変化」は取り上げられてしまう。実際に起こったことを報道は伝えているのだが、「『独裁政権下』という『状態』」について詳しく触れずに「変化」ばかり取り上げるため、伝わる意味合いが変わってしまうというのだ。

例えば私たちは、動物園で動物たちの姿を目にする。例えばある動物園で、ゴリラが非常に不機嫌だとしよう。それを見る私たちは、「不機嫌な性格のゴリラなのだ」と捉えるだろう。しかしそのゴリラも、森など自然環境にいればそんな不機嫌な状態にならないかもしれない。「狭い空間に閉じ込められている」「人間からジロジロ見られている」という、「自然界ではあり得ない『状態』」にあるからこそ、ゴリラの不機嫌さが表に出ているかもしれないのだ。

しかし私たちは、そういう「状態」のことを考慮せずに、その不機嫌さを「個体の問題」と捉える。確かにゴリラは不機嫌であり、それを取り上げることは「事実」なのだが、「状態」に触れないと正しく情報が伝わらないということなのだ。

『こうして世界は誤解する』の著者も、現地で実際に目にする光景と、報道が切り取る現実が乖離する現状を理解し、警鐘を鳴らしている。

同じようなことを、この映画に対しても感じさせられた。

この映画で映し出されるのは、レバノン・クルディスタン・イラク・シリアの国境地域における「状態」だ。そして私がこの映画に「退屈さ」を感じてしまったことは、報道機関が「『状態』を報じても視聴率は取れない」と判断しているまさにそのことを如実に証明する形になっていると感じる。

とても良くない。良くないが、「退屈だ」と感じてしまったのだから仕方ない。

正直、全編を通じてほとんどうつらうつらしてしまったので、映画の内容は断片的にしか覚えていない。とにかく、音楽もナレーションもないまま、どこの誰が何をしているのかという説明も基本的に加えられず、ひたすらに「情景」を切り取っていく。特別な何かをしている人が取り上げられているというわけではなく、船に乗って釣りに向かう人や、理由は不明だが荒れた道路で車を待っている少年など、なんということはない人々の姿が映し出されるのだ。

その一方で、国境なのだろうか、軍服を来た者が銃を携えて警備をしていたり、街明かりが煌めく夜景の背景で機関銃らしい銃声が響いていたりと、「有事」を連想させる場面もある。

印象的だったのは、「ISIS」が関係する描写だ。例えば、幼い子どもたちが絵を描き、カウンセラーに話をしている。ISISが村を襲い、人々を殺した記憶を、子どもたちは淡々と語る。中には、「目の前で誰かの首が切り落とされ、それを『食べろ』と命じられた子ども」も出てくる。凄まじい経験だ。あるいは、ISISに誘拐された娘から届いたボイスメッセージを涙しながら聞く母親の姿も映し出される。同じく、その壮絶さには言葉もない。

このような「分かりやすい悲劇」には、やはり簡単に反応できてしまう。このISISが関わる部分だけは、狙いすましたかのように眠気が吹っ飛んだ。しかしそうではない、淡々と「状態」を映し出す場面になると、どうにも関心を継続することが難しかった。

映画を観ている最中も、「こんなんじゃダメだな」と感じていた。しかしそれでも、「無理やり関心を持つこと」は難しい。私は一般的な人よりは社会問題などに関心を持っているタイプの人だと思うが、それでも関心を持ちきれないのだ。そもそも社会問題に関心を持てないでいる人たちを振り向かせることの難しさを改めて感じさせられた。

こういう映画を観て「良い」と感じる人間でいたかったなと思う。そう思えなかった自分に、残念だ。

「国境の夜想曲」を観に行ってきました

メチャクチャ面白かった。そうか、「日本の教育の枠組み」の範囲内でも、ここまでぶっ飛んだことができるのかと、その点が一番グッときた。日本では不可能だと思っていた。なんだ、可能性あるじゃんか、日本も。

以前、『先着順採用、会議自由参加で「世界一の小企業」をつくった』という本を読んだことがある。愛知県にある樹研工業という中小企業の話だ。極小精密部品の製造では国内トップメーカーであり、世界でもこの会社でしか作れないものがあるほど高い技術レベルを持っている。

そんな会社の「採用」の方針はあまりにもぶっ飛んでいる。なんと「来た順」らしいのだ。学歴も性別も人種も年齢も能力も関係ない。とりあえず「先着順」で採用していく。

そうやって採用された者たちは、その後どうなったのか。高校時代に数学がまったくできなかった女性は、勤務開始から数年後には独学で大学受験の問題が解けるレベルになっている。中卒の工場長は、「歯車理論」について独学し、海外の世界的権威から大学院卒だと思われるレベルになった。まったく英語を喋れなかった者も、いつの間にか英語をペラペラ喋って外国人と交渉している。

社長のモットーは、「チャンスをモチベーションを与えること」だそうだ。その実践によって、他に類を見ない企業を作り上げた。

映画を観ながらもう1つ連想したのが、NHKの『すイエんサー』という番組だ。僕はこの番組を見たことがないのだが、番組プロデューサーが書いた『女子高生アイドルは、なぜ東大生に知力で勝てたのか?』という本を読んだことがある。

タイトルの通り、決して学校の勉強が得意とは言えないアイドルが、東大生に知力で勝った。その話が冒頭で触れられている。「すイエんサーガールズ」と「東大生」には、「ペーパーブリッジ」という共通の課題が与えられる。ルールは、「A4の紙15枚だけを使って『橋』状の構造物を作成し、より重い重りに耐えられた方が勝ち」というものだ。

この勝負になんと、すイエんサーガールズは圧勝した。東大生が作った構造物よりも3倍以上の重りに耐えたのだ。この結果には、番組スタッフも驚愕したそうだ。その後、この勝利がまぐれではないことを確かめるべく、京大・北海道大学・東北大学など様々な大学と対戦、5勝4敗とすイエんサーガールズが勝ち越している。

なぜ彼女たちは東大生に勝つことができたのか。それは、彼女たちが普段番組で行っていることにある。毎回何も知らされずに集められ、突然、「バースデーケーキのロウソクの火を一息だけで消したい!」「パスタを食べるときにソースの飛び跳ねをなくしたい!」「スイカの種がまったく入らないようにカットしたい!」などのお題が与えられる。そして彼女たちは、時折現れる「意味不明なヒント」以外何も与えられないまま、自分たちで考え続けて答えを導き出さなければならないのだ。

恐ろしいことに、この番組の収録は、彼女たちが「正解」にたどり着くまでエンドレスで終わらないそうだ。

彼女たちの日々の行いを著者は「グルグル思考」と呼んでおり、この「グルグル思考」をやり続けてきたお陰で東大生に勝つことができたのだろう、と分析していた。

「先着順採用」と「すイエんサー」で僕が言いたいことは、こういうことだ。

<大人でさえ、制約のない環境を与えられれば能力が開花する。子どもならなおさらだ>

そして、小中学生に対してそんな実践を行っているのが、この映画で焦点が当てられる「きのくに子どもの村学園」だ。山梨・福井・和歌山・福井・長崎の計5校存在するのだが、映画の中でメインで映し出されるのは山梨の子どもの村学園である。

衝撃的な学校だった。

時間割を見る限り、この学校には、「英語」以外の学習科目は存在しない。数学・理科・社会・国語の時間はないのだ。時間割の大半を埋めるのは「プロジェクト」の文字。いわゆる「体験学習」だ。

生徒は自分の意思で5つのクラスから1つを選ぶ。「料理」「大工」「工作」「演劇」「伝統から学ぶ」だ。クラス分けはこの「プロジェクト」に沿うので、小学校は1年生から6年生まで同じクラスに属している。

例えば「大工」であれば、設計から自分たちで行い、渡り廊下の屋根やテラスなどを作る。何を作るか、どう作るかに、大人は口を出さない。小学生が、のこぎりで木を切り、電動ドライバーでネジを入れ、屋根に板を貼っていく。

「料理」では、その年のテーマを「麺」に決め、そばの実を育てるところから始める。「そばの実を育てる」という提案も、「1週間の時間割の中で、いつ種まきをし、いつ収穫するか」もすべて子どもたちが決める。大人にも投票権は存在するが、子どもたちと同じ1票だ。「1票の格差」などない、完全に民主的な決定である。蕎麦を上手く作れなかった子どもたちは、自分で県内の蕎麦店に電話で連絡をし、蕎麦やつゆをどう作っているのかを取材に行く。

ナレーション(吉岡秀隆が務めている)で、「日本一楽しい学校」と紹介されていた。確かにそうだろうと思う。ちょっと衝撃的だった。

児童主導で話し合いをしている時も、みな思い思いの格好をしている。机に突っ伏している者、廊下で寝転んでいる者、大人におんぶしてもらっている子もいる。

先ほどから「大人」という表記をしているが、これは、「子どもの村学園には『先生』はいない」からだ。通常「先生」と呼ばれる立場の人は、学校では「大人」と呼ばれている。言葉の上でではなく、本当に「子ども」と「大人」の垣根がなく、大人の意見だから通りやすいとか、大人の意見だから聞かなければならないという雰囲気は一切ない。大人も、主張をし賛同を得なければ、意見が通らないのである。

「ほりさん」とみんなから呼ばれている学園長の堀真一郎は、映画の中で印象的なことを何度も口にするが、その中でも一番良かったのはこれだと思う。

【(普通の学校や社会では)自由には責任が伴う、と言ってしまう。でもここでは、大人が責任を取るから思いっきりやってくれ、と伝えています。児童に責任が伴う、というのは、この学校では”タブー”なんです】

心理学の世界には「心理的安全性」という言葉がある。これは平たく言うと、「『こんな言動をしてもバカにされたり批判されたりしないよね』と思える環境」を指す。「心理的安全性」が低い組織では様々な問題が起こることが知られているが(例えば、不正があった場合にそれを隠蔽するなど)、子どもの村学園では異常なほど「心理的安全性」が確保されているという言い方ができると思う。

子どもたちは、何をしてもいい。以前観た『すばらしき映画音楽たち』の中で、「映画音楽のルールは1つだけ。ルールなどない」と口にする人物が出てくるが、まさに同じことがこの学校にも当てはまるだろう。もちろん、他人を傷つけたりすることはダメだし、そういうあまりに基本的な部分については別途なんらかの形で教わるんだと思うが(映画の中では特に触れられていなかった)、それさえクリアできていれば、あとは自由なのだ。

中学校の卒業式でコメントする女の子の言葉が印象的だった。彼女は最初この学校に来た時、何をしていいのか分からず周りに聞いてばかりだったという。けど、誰に聞いても「やりたいことをやればいいんだよ」と言われるので、それでやっと、自分の好きなことをやっていいんだ、と思えるようになった、と話していた。

確か茂木健一郎だったと思うが、映画の中で誰かが、

【夢中になれるもの、それを見つけることができれば、この世界にいていいんだと思える】

みたいなことを言っていた。あるいは、映画のラストでナレーションが、

【子どもたちは、自由さえあれば幸せになれる力を持っているんです】

と語っていた。まさにそのことを強烈に実感させられる映画だった。

少し「心理的安全性」の話に戻ろう。堀真一郎が、「昔こんなことを言っていた女の子がいた」と話していたことがあった。子どもの村学園に来た当初はホームシックが強かったが、慣れてくると、「ほりさん、私はここにいると私でいられるの」と言うようになったそうだ。小学4年生の子がそんなことを言っていたと、驚きを込めながら回想していた。

さて、親の立場からすると、学力が心配になるだろう。しかしこちらについても、「卒業生の高校での成績の平均」みたいな図が出てきた。詳しく覚えていないが、卒業生の学力はかなり上位に位置するそうだ。

映画には、文化人類学者の辻信一も出てくる。彼のゼミに、子どもの村学園の卒業生が何人かいたことがあるという。その中でも印象的だった女の子は、その年の総代(卒業生のトップ)だったそうだ。

また、辻信一の言っていたことで興味深かったのは「質問力」についてだ。日本人はとにかく質問をしない。アメリカでは、相手が喋っている最中にも関わらずどんどん質問をするのに、だ。しかし、子どもの村学園の卒業生は、異常なほど質問するという。探究心がずば抜けているのだという。

彼はこんな風に言っていた。

【問いというのは教室から生まれるわけじゃない。暮らしの中から生まれるのではないか。だから、生活の中から問いを拾える環境にいる子たちは強い】

【世の中のことにはほとんど答えなんかない。世界は問いに満ちている。だから僕たちは、死ぬまで「知りたい」という気持ちが消えない。
それなのに、問いを抑え込まれてしまったら、人生って一体何なんだろうって感じる】

さて、学力の話に戻そう。この映画には、割合としては決して多くはないが、「子どもの村学園」以外にも、一般的ではない取り組みをしている学校を取り上げている。

世田谷区の桜ヶ丘中学校の校長を長年務めていた人物は、公立学校にも関わらず、校則をすべて廃止、「遅刻」という概念もなくし、通知表もつけないことにした。生徒がやりたいと言ったことはできるだけ取り入れることにし、意味もなく浴衣で学校に来る日を設けたり、ハロウィンの時には仮装しても良いことにした。

改革を少しずつ進めた校長は、最終的に、「全校集会で決まったことはできるだけ実現する」と生徒に約束する。それまで、生徒で何か決めても教師がNOと言えば通らなかったために、全校集会はまったく盛り上がらなかったそうだ。しかし、校長の宣言以降、状況は変わる。

そしてついに生徒から、「定期テストを無くしてほしい」と要望が出たそうだ。校長は内心ガッツポーズをしたという。というのも、校長も定期テストを無くしたいと思っていたからだ。そして、日々の小テストはあるが、定期テストは無くしてしまった。

それでどうなったか。定期テストを止めたことで、世田谷区で学力トップに躍り出たそうだ。

この辺りの感触は、僕も大分理解できる。

僕は、自分で言うのもなんだが、割と勉強はできた方だ。地方の進学校(高校)で上位に位置するぐらいの学力は維持できていた。

そういう「ベースとして勉強はそこそこできる人間」であるという前提の上で、大人になればなるほど強く実感してきたことが、「興味・関心のないことは全然覚えていられない」ということである。テストのため、受験のためなど、究極を言えば「とりあえずそれ以降は全部忘れてもいい」というのが学校の勉強だろう。そしてだからこそ、すぐ忘れてしまう。一方、元々興味・関心があることは、覚えようと思わなくも記憶できるし、いつまでも忘れないでいられる。

この差は大きいと思う。

世の中には「本当に異次元に勉強ができる人間」というのがいて、進学校にいた僕の周りにもやはりそういう奴はいた。そして、そういう人間はもう別格中の別格なので参考にならない。僕らのような一般人は、「興味のあることしか覚えられない」と思っておくのが順当だし、だとすれば、「自分の興味・関心にすべてのリソースを突っ込む」という判断が重要になってくると思う。

それを、小中学生の段階で実践させてくれるのが「子どもの村学園」だと思うし、その環境はとても羨ましいものに感じられた。

先ほども書いた通り、僕は勉強はできたし好きだったので、学校で落ちこぼれたりしていたわけではない。それでも大人になった今、「子どもの村学園」の環境を羨ましく感じてしまう。

それは、「探究心」と「行動」の接続にある。

僕は、「探究心」はとても強い方だと思う。世の中の色んなことを知りたいと思っているし、知識や教養に対する関心はかなり高い方だ。しかし問題は、その「探究心」を「行動」に結びつけられないということ。強烈に「知りたい」と思う感覚はあるのだけど、そこから手足が動かない。だから、本を読むか映画を観るかぐらいの範囲でしか自分の「探究心」を発揮することができない。

もし「子どもの村学園」に通っていたら、自分のこの「探究心」をもっと手足と接続させることができただろうと思ってしまう。僕は、自分が持っている「探究心」がもっと適切に機能すれば、今よりもっとずっと面白い人生になったような気がしている。だから余計に羨ましさが募るのだと思う。

さて最後に、「なんだ日本でもできるんじゃん」と感じたその背景に触れて終わろう。

映画には、「尾木ママ」こと尾木直樹も登場し、

【公立の小中学校でも、通知表を出さなければならない義務はない】

と言っていた。知らなかった。文科省がそういうルールを決めているのだと思っていたし、文科省が教育の枠組みを狭めているから画一化された教育になっているのだと思っていた。

そうでもないようだ。そもそも「子どもの村学園」のカリキュラムも、文科省から認定を受けている。「子どもの村学園」は私立の学校であり、一部には「私立だからそんなことができるんだ」という意見も存在するらしいが、そのカリキュラムが文科省から認定されているのだから、同じことを公立の学校でやってもいい、ということになる。実際に、長野県にある伊那小学校は、公立だが60年以上も通知表のない教育を行っており、「子どもの村学園」のような「体験学習」が行われている。

確かに文科省は、「こういうことを教えなさい」と規定しているが、それを「国語」「数学」「社会」などの授業で教えなさいとは言っていないようだ。伊那小学校では、「これこれの体験学習では算数が、これこれの体験学習では理科が身につきます」のような説明をすることで、文科省からの認定を得ている、みたいな説明がなされていた。

僕はとにかく、「文科省のルール的に不可能」みたいに思っていたので、この映画でその先入観が取れたことが一番大きな発見だった。

コロナウイルスによって教育の環境も大きく変わったが、子どもの村学園は保護者に向けて、「学習遅れを取り戻すという発想はしません」と宣言した上で、こんな風に言う。

【優先されるべきは、子どもたちがホッとできる時間です。取り戻すべきは、子どもの楽しい時間です】

別の場面では、こんな風にも言っていた。

【とにかく学校は「楽しいだけ」でいいんだという考えでやっています。世の中には「がんばれ、がんばれ」って言葉が溢れてしまうけど、ここでは「がんばらなくていいよ」ってメッセージを敢えて送るようにしています】

学生時代を振り返って「楽しかった」と感じるような人は、子どもの村学園には向かないでしょう。でも僕のように、全然楽しくなかったし、学生時代のことはほとんど覚えていないし、絶対に戻りたくない、と思うようなタイプの人は、子どもの村学園が向いているかもしれません。

もしかしたら、「普通の学校教育」を嫌というほど理解しているからこそ、子どもの村学園が眩しく見えるだけかもしれない。それでも、映画に登場する子どもたちが皆、自分から行動し、自分の意見を持ち、やりたいことをひたすらにやっている姿を見ていると、他と比較しなくてもその環境の価値を絶対的なものさしで捉えることができるのかもしれない、とも思う。

今まで、「子どもの頃に戻りたい」なんて一度も考えたことがないが、もし「子どもの村学園」で学べるなら子どもからやり直してもいいかもしれない。そんな風に思わされる、魅惑的な学校だった。

「夢見る小学校」を観に行ってきました

少し前にこんなことがあった。テレビで「衝撃映像」を見て、スタジオでゲストがコメントを言う番組を見ている時のことだ。

外国で、水没した道路で立ち往生している車を見つけたトラクターの運転手が、水没した車までトラクターで近づいていって、子どもを含む4人家族を救助する、という一部始終が映像で流れた。その映像を見た誰か(確かバカリズムだったと思う)が、「これを自撮りしてるっていうのが、なんかちょっと嫌だよね」とコメントしていた。

あぁ、分かるなぁ、と思った。

そう、その救助の映像は、トラクターの運転手が片手でスマホを持って撮影しているのだ。トラクターの運転手以外にも何人か人手はいて、だからスマホで撮影しながらでも救助ができたのだ。

映画を見ながら、このことを思い出した。

ダンサーの田中泯は、フランスで大ブレイクを果たす以前、モダンバレエの教室に通っていたそうだ。そして、その稽古場で踊っている時、鏡が凄く嫌だったと言っていた。

【向こうに映っている自分に支配され、囚われているように感じてしまった】

同じ頃、田中泯は、「”私”を表現しろ」「個性を出せ」とも言われていたそうだ。しかし、

【「私を表現する」ということに、どうにもピンとこなかった】

とも言っていた。

その後彼は、土方巽という人物と出会い、「これまで数多くの人間が生きてきた。『私』や『個性』なんてものは、過去のどこかに必ず存在する」と言われ、気が楽になったそうだ。

それから田中泯は、「野良仕事で身体を作り、その身体で踊る」と決めた。40歳のことだった。

【ダンサーは、ダンスを目的に身体を作ってしまう。私は、その身体で踊ることは違うと思った】

この辺りから、非常になんとなくではあるが、「田中泯の踊り」がなんとなく理解できてきたような気がする。その後で、

【芸術になる以前の踊りを探したかった】

とも語っており、自分の中で少しずつ焦点が当たっていく印象が強まっていく。

田中泯の踊りを見て、分かるのかどうかと言われれば分からない。凄いかどうかも分からない。ただ、田中泯がやろうとしていることは、なんとなく分かるような気がする。

それを、「ダンス」と「踊り」と言葉を分けて説明してみたいと思う。バレエやヒップホップなどなんらかのジャンルに収まるものを「ダンス」、そしてなんのジャンルにも収まらない田中泯のものを「踊り」と呼ぶことにしよう。

「ダンス」にも「踊り」にも「正解がない」ことは共通している。しかしそれは、「身体を動かす以前」の話だ。身体を動かした後、両者には差が出る。

「ダンス」をした後には、それが「正解かどうか」は判定される。もちろん「正解」とは呼ばれない。しかし「カッコいい」「決まってる」などの表現でダンスは評価されるはずだ。それはつまり、「カッコ悪い」「決まってない」という評価もあるということであり、「カッコいい」「決まってる」と評価されることを便宜上「正解」と呼ぶことができるだろう。

しかし、「踊り」は違う。田中泯の「踊り」は、どんなジャンルにも分類されないし、踊った後でさえ、正解も不正解もない。田中泯の「踊り」を見て、「あそこが違う」「あれは間違いだよ」ということはできない。「踊り」を囲い込むような「枠組み」が存在しないのだから、「何かの内側にあるか外側にあるか」によって正解・不正解を判定するようなものではない。

もちろん、「イケてないよね」という評価はあり得るだろう。しかし田中泯の「踊り」の前では、それは「個人の感想」になってしまう。絶対的な評価基準の存在し得ないものなのだから、それを見て誰が何を感じようが、それはすべて「個人の感想」でしかない。

そしてだからこそ、なんとなく、田中泯の「踊り」は安心して見ていられる。正解でも不正解でもないということは、「評価することによって自分が評価される」という状況を回避できる。「分からないことが正解」という存在として受け止めることができる。

田中泯の「踊り」を見て「分からない」と感じることに劣等感みたいなものを感じずに済むのは、そういう理由があるからではないかと感じた。

そしてこの違いは結局、「何のためにダンスする/踊るのか?」の違いなのだとも思う。

以前観た『蜜蜂と遠雷』という映画の中で、こんな感じのセリフがあった。

【野原にピアノが置いてあれば、世界中に僕一人しかいなくたって、僕はきっとピアノを弾くよ。】

この言葉を発した人物は、「観客のためとか、コンクールのためとかではなく、自分が弾きたいからピアノを弾く」というスタンスを明確に持っている。

田中泯にも、似たようなものを感じる。彼は、世界中に誰一人いなくなっても、踊るのではないかと思わされる。

「ダンス」の場合はどうだろう? もちろん、世界に自分しかいなくてもダンスする、という人もいるかもしれない。しかしやはりそこには、「誰かに見せる」「誰かに評価してもらう」という「他者」の存在を感じさせられる。そしてそれが、「救助シーンを自撮りしている運転手」のような違和感になってしまう。

もちろん、こんな風に映画の感想を書いている僕にしても、「誰かに読んでもらうこと」を想定しているだろうし、世の中に存在するありとあらゆる表現が「他者」の存在をある種前提にしていると思う。全員でそういう「違和感」の中にいるから普段は気づかないでいられる。しかし田中泯のように、「他者の存在を必要としないと感じさせる表現者」の存在に触れたことで、自分が生きている世界の違和感に気付かされることになるのだ。

映画を観ながら、連想した人物がいる。世界的数学者の岡潔だ。

彼は「多変数函数論」という分野における3つの超難問をたった1人で解決した。そのあまりの偉業に、ヨーロッパでは1人の数学者によるものとは当初信じられず、「岡潔」という数学者集団が存在すると考えられていたほどだ。

この岡潔、数学研究と畑仕事しかしなかったことで知られている。彼が「多変数函数論」の研究成果を発表した際、日本国内でもまったく無名の数学者だった。それもそのはず、30代後半から故郷の和歌山県紀見村に籠もり、畑仕事の合間に数学研究をするという生活を続けていたのだ。そして、その紀見村での研究中に、世界中の数学者がまったくお手上げ状態だった難問を次々に解決していき、世界的にその名が知られることになった。

なんとなく、田中泯に通じる部分があるように感じた。

踊りと数学という違いはあるが、田中泯も岡潔も、「本質を突き詰めるために、どのように生きるべきか」を考えている。

田中泯のこんな言葉が印象に残っている。

【私がやっていることが、一応踊りだということになっています。ただ私は、見ている人と私との間に踊りが生まれることが理想です】

別の場面でも、

【踊りは間に生まれていく】

と言っていた。彼にとって「踊り」とは、「身体を動かしている人物に属するもの」ではなく、「その周辺のものとの関係性」として捉えられているということだ。

岡潔の有名な言葉に、こんなものがある。

【数学の本質は、「計算」や「論理」ではなく「情緒の働き」だ】

「情緒」とは、「何かの対象に向けられる感情」ぐらいの捉え方でいいでしょう。つまり岡潔も、「周辺のものとの関係性」を重視していたというわけだ。

そして両者とも、その実現のために「野良仕事」「畑仕事」に従事していた、というのが興味深い。やはり、「自然から何かを感じ取る」ということの重要性を肌感覚として理解していたのではないかと感じさせられる。

映画のタイトルにもなっている「名付けようのない踊り」という言葉は、哲学者ロジェ・カイヨワからのものだそうだ。

1978年にパリで踊りを披露したことで一躍有名になった田中泯には、様々な「甘い誘惑」が舞い込んだそうだ。「完成品としての踊りを持てば、20年は生きられる」「パリに踊りの学校を作れば、流派が生まれる」などだ。それらを田中泯は、

【嫌悪の極み】

と表現していた。

そんな彼が、「この人には踊りを見てもらいたい」と希望した人物がいる。それがロジェ・カイヨワだ。田中泯はロジェ・カイヨワの『遊びと人間』という著作に惚れ込んだのだという。正確には覚えていないが、『遊びと人間』の中でロジェ・カイヨワは、「遊びとは本質的には無駄なものでしかない」みたいなことを書いているらしい。

ロジェ・カイヨワと連絡を取り、「窓からエッフェル塔が突っ込んでくる」ような部屋で踊りを披露した後で、彼が、

【永遠に、名付けようのない踊りを続けて下さい】

と評したそうだ。これは、「完成した踊りを持つ」「学校を作って流派を生む」などとは対極にある提言だろう。この言葉を受け取った田中泯の感想については触れられなかったが、恐らく、この言葉こそが彼を現在まで進ませる原動力となったのではないかと思う。

あとこれは、田中泯に限らず、何かを表現する人すべてに対して感じることだが、「彼らにしか見えていない、感じられないものがあるはず」という感覚に羨ましさを感じることがある。

【世界にあるたくさんの速度が、一斉に押し寄せてくる】

僕は芸術的なもの全般に素養はないが、「自分とはまったく違う世界の中で生きている人なのだろう」とはいつも思っている。ゴッホやピカソは、もしかしたら本当に世界があんな風に見えているのかもしれない。「場踊り」をする田中泯には本当に、僕らには感じ取れない「土地の感情」みたいなものが届いているのかもしれない。表現方法は人それぞれだが、「見えない人、感じられない人にも、それが伝わるように可視化してくれる人」が「芸術家・表現者」だと思っているし、自分がそっち側にいられないことを残念に感じることもある。

【脳みそが深海に沈んでいきそうな感じ……幸せだ】

懇親の踊りを披露した74歳の田中泯は、ポルトガル・サンタクルスの街角でそう呟く。

「名付けようのない踊り」を観に行ってきました

いやー、メチャクチャ面白かった!

「面白い」と感じる要素は多々あったが、まず単純に、芸人・松元ヒロの話が面白い。彼は「テレビでは扱えないネタ」をやるからテレビに出られないわけだが、映画館で最も観客が爆笑していた話は全然そうではないものなので、まずそれを紹介したいと思う。

舞台でも話しているネタかもしれないが、映画の中では舞台上ではなく、自宅で話していた。5つ年上の奥さんと電車に乗っている時の話だ。

2人が乗った車両では、中学生ぐらいの女の子とその父親らしき人が優先席に座っていた。さらに女の子は母親らしき人に電話をしていたという。そそこで妻が、「あんた、ここ優先席なんだから電話切りなさいよ」と強い口調で指摘した。もちろん車内はざわつく。そこで松元ヒロが、「いやー、今怖かったよね。今のこの5分でも怖かったじゃない。でも私は一生この人の隣にいるの」と口にすると、車内で笑い声が起こり始める。で、2人が電車を降りる時、松元ヒロが乗客に手を振ると、さらに爆笑が起こった、という話だ。

文字で説明してもたぶん全然面白さが伝わらないと思うが、この話を実に面白く、思わず笑ってしまうような話し方で喋るのだ。もちろん、舞台でのネタも面白くて、ついつい笑ってしまう。

彼は、「お笑いスター誕生」でダウンタウンらを破って優勝し、後に結成した「ザ・ニュースペーパー」という社会風刺コント集団でブレイク、一時期テレビの世界を席巻したが、今は年間120公演もの舞台を行い、テレビに一切出ないで生きられる芸人になったそうだ。

印象的だったのが、立川談志とのエピソードだ。ある日突然、松元ヒロの舞台のラストに登場し、観客に向かって、「あなたがたが松元ヒロという芸人を育ててくれたお陰で、彼はここまでの芸人になれました。皆様に変わって感謝申し上げます」と言ったそうだ。

それから松元ヒロは、立川談志からこんな言葉をもらったという。

【俺はテレビに出てる芸人を「サラリーマン芸人」って呼んでるんだ。クビにならないように気をつけながら喋ってるだけ。
芸人は、他の奴が言えないようなことを口にするような人間のことを言うんだ。
俺はお前を、「芸人」と呼ぶ。】

これは痺れるなぁ。松元ヒロも「嬉しかった」と語っていた。

さてここで少し、この映画の話から離れよう。『日曜日の初耳学』の中で先日、爆笑問題の太田光が林修と対談していた。太田光も際どい芸風であり、実際にテレビに出られなくなった時期もあるという。そんな彼が、「何故テレビで際どいネタをやるのか」について、ざっと次のようなことを言っていた。

「何かあった時、僕たちがネタにしないと、『爆笑問題さえも触れられないほど酷いのか』って思われてしまうかもしれない。だから無理やりにでも笑いに変えるんだ」

テレビの規制が厳しくなり、どんどんとできないことが増えていく現状の中で、太田光は彼なりに「テレビで実現可能な最大の際どさ」を見極めて芸にしているのだ。

一方松元ヒロは、こんな風に言っていた。映画の撮影スタッフに対して、「好きなように撮って、後で使えないものがあれば云々」みたいな話をした後で、撮影スタッフから「使っちゃダメみたいな部分ってあると思いますか?」と問われて、

【それを考えながらテレビに出たくないんですよ】

と答えていた。彼もまた彼なりに、「テレビ」という存在に向き合っているといえるだろう。

太田光と松元ヒロに共通していると感じたのは、「小さな声を拾う」という点だ。

太田光は『日曜日の初耳学』の中で、

「高校時代1人も友だちが出来ず、言いたいことがあっても何も言えなかった。だから今自分がこういう立場に立ってみて思うのは、昔の自分のような人間が救われるようなことを言いたいってこと」

みたいな趣旨の発言をしていた。一方松元ヒロも、

【多数派の人っていうのは、黙ってたって普通に生きてる。しわ寄せを食らうのはいつだって少数派ですよ。その人たちはどうなってもいいのかって言いたいよね】

【(元号が平成から令和に変わったって)俺には関係ねぇよ、明日の仕事がねぇんだよ、みたいな人っていると思うんですよ。
だから誰かが水をささないといけないんです。
そんな騒ぐなよ、何も変わってないよ、って。】

映画の冒頭は、なかなか印象的だ。渋谷のスクランブル交差点でカメラに向かって話をしていたのだが、次の瞬間「お手伝いしましょうか?」と通行人に声を掛けていた。白杖を持った視覚障害者がどうやら困っていたようなのだ。初めは駅までの道順を教えようとしたが、目的地まで案内することに決めたらしく、恐らく井の頭線の渋谷駅まで行き、一緒に電車に乗り、どこかの駅で別れていた。女性は、普段は付き添ってくれる人がいるのだけど、今日はたまたま自分が遅れてしまって付き添いの人と一緒になれなかった、みたいなことを話していた。

この場面に限らず、松元ヒロは常にニコニコし、周りへ感謝を伝えている。芸風こそ「テレビではやれないほど過激」だが、本人はとても良い人だということが伝わる。だからこそ、芸の中で刺々しいことを言ってもそこまで過激にはならず、爆笑できるネタとして成立しているのかもしれない。

彼は舞台上で、

「♪小池にはまってさぁ大変」
「第三次安倍内閣は大惨事だって言ってきたんですよ」
「戦時中には、教育勅語や云々かんぬん、分からなければ森友学園に聞いてください」(云々かんぬんの部分は忘れた)

など、社会問題を風刺するような話をバンバンしていく。まあ、「テレビで会えない」理由は明白だと言っていいだろう。

この映画は、鹿児島テレビ放送の制作であり(松元ヒロは鹿児島出身で、鹿児島実業高校に通っていたそうだ)、映画の中で、顔出しはしていなかったが、恐らく鹿児島テレビ放送の人だろう、「制作部長」「制作局長」などに「松元ヒロをテレビに出さない理由」と問うていた。「テレビは気軽に見れるものが求められている」「クレームなりトラブルなり何かしらあるのかなと考えてしまう」などその理由を語っていた。

しかし松元ヒロはかつて、今と同じように社会を風刺するネタ(当時はコントだったが)でテレビに出まくっていたのだ。「ザ・ニュースペーパー」は非常に人気だったそうだ。

しかしやはり、テレビであるが故に注文がつく。

映画には、かつて「ザ・ニュースペーパー」で一緒だったすわ親治というコメディアンも登場した。彼はドリフターズのコントにも出演しており、志村けんは兄弟子だという。松元ヒロはすわ親治を「ドリフターズのコントにも出ている雲の上の人」だと思っていたのだが、すわ親治がテレビで松元ヒロを見て連絡を取り、後に「ザ・ニュースペーパー」で一緒になる。そんな2人が、鹿児島実業高校で同級生だったというのだから人生は何が起こるか分からない。

さて、そんなすわ親治が、「ザ・ニュースペーパー」時代について語る場面がある。テレビだからスポンサーがつく、だから「金丸を銀丸に」「竹下を松下に」変えろ、みたいなことを言われることもあった。牙を抜かれたコブラみたいなもんだと思って結局辞めてしまったそうだ。松元ヒロも「ザ・ニュースペーパー」を脱退している。別の場面で、「ザ・ニュースペーパー」の生みの親である松浦正士の死について触れられるが、そこで彼は「喧嘩別れのように辞めた」みたいな話をしていた。

彼が「ザ・ニュースペーパー」を脱退した理由はきっと色々あるのだろうが、その1つをこんな風に語っていた。

【息子に胸を張れない仕事は良くないな、と】

当時小学生だった息子に、妻が「(テレビに出ている父親を)見ないの?」と聞くと、「いい、同じことやってるだけだもん」と言われたのだそうだ。この言葉をきっかけの1つとして自分のしごとを考え直した、と語っていた。

そんな息子も39歳となり、高校教師となった。父親の舞台の楽屋で父親の前で話をする場面があったが、とても良いことを言っていた。

【父親の仕事の説明は難しいですよね。他に(こういうタイプの芸人が)いないから。ただ、そこらのお笑い芸人なんかよりも、全然誇れますよね】

松元ヒロの決断は正しかったということだろう。息子から「誇れる」と言われ、彼は「嬉しいね」と漏らしていた。

そんな彼が20年以上も続けている公演がある。しかしその話の前に、永六輔について触れよう。

松元ヒロは公演の前に必ず、渋谷にある理容室「ウッセロ」に行く。そこは、故・永六輔が通っていた理容室であり、気合を入れるために松元ヒロも必ず公演前に行くという。彼は、テレビの創成期から活躍していた永六輔に見いだされて番組に呼んでもらったりしたことがブレイクのきっかけになっており、今でも感謝しているらしい。

そして松元ヒロは、そんな永六輔から託されたものがある。永六輔が入院中、恐らく代打で永六輔のラジオ番組のMCを引き受けたと思うのだが、その際、病室にいる永六輔から「9条をよろしく」というメッセージをもらったのだ。

憲法9条のことだ。この点もまた、太田光との共通点を感じさせる部分でもある。

松元ヒロのネタには「憲法くん」というものがある。これは、「『憲法』を擬人化し、松元ヒロがその『擬人化した憲法』になりきる」というものだ。20年以上というから、最近の憲法改正の動きに合わせたものではないということだ。そして、この「憲法くん」のネタを知っていてのことだろう、永六輔から「9条をよろしく」と託されたのである。

「憲法くん」のネタの一部が映画で流れたが、その中に、言われてみれば確かにその通りだ、と感心させられた部分がある。

【そろそろ私はクビかもしれないんです。どうしてです? と聞いたら、現実に合わないからっていうんです。
でも、そもそも私って「理想」だったはずじゃないですか。普通は、理想と現実に差があったら、頑張って現実を理想の方に近づけると思うんです。
でも今の時代は、理想と現実に差がある場合、理想の方を現実に合うように下げていくんですね】

これはシンプルで分かりやすい指摘だと感じた。確かにその通りだ。「理想」を「現実に合わない」という理由で改変することの不合理さが一発で伝わる。見事だと感じた。

【空気を読むんじゃなくて、「何かおかしいんじゃないか」と言うべきなんじゃないでしょうかね。
(自分を撮ってる)このカメラだって、本当はそういうものを映し出すべきなんですよね】

テレビ局が制作するドキュメンタリー映画で、松元ヒロは、テレビが生み出す「空気」と、その「空気」を生み出すのに加担している「テレビ局」に疑問を突きつけていく。

彼自身望んでいないかもしれないが、彼が再びテレビの世界で求められるようになれば、時代は少しはマシになったと判断できるかもしれないと思う。

「テレビで会えない芸人」を観に行ってきました

良い部分はとても良く、悪い部分はとても悪い映画だった。

悪い部分から書いていこう。

冒頭の40分ぐらいは、ひたすら眠かった。ほぼ寝落ちしかけてたので、ちゃんとした記憶があるわけではないが、それでも、ところどころなんとなく覚えている映像と音からは、何がなんだか分からない。とにかく、意味不明だった。

映画館で観ていたから最後まで観たが、もし配信で観ていたら途中で止めていたと思う。

あと、「余計な演出」が多い。これは、後で触れる「良い部分」がとても良いので、変な演出を加えずにそのまま見せればいいのに、と思ったのだ。もちろん、演出なしでシンプルにそのまま見せている箇所もある。全編、そのスタンスで貫いても良かったんじゃないかなぁと思う。日本海を思わせる海の映像に重ねるようにして、何が映っているのかよく分からない映像がダブってるシーンとか、なんだかよく分からなかった。僕にはまったく知識がないのでなんとも言えないが、「編集技術」が高いとは思えない作品だった。

では良い部分に触れよう。

とにかく「太鼓の演奏」が素晴らしかった。

映画を観ながら、「太鼓」は「演奏」でいいんだろうか、なんて考えていた。英語にしたら恐らく「play the taiko」ぐらいの感じになるのだろうが、日本語の「演奏する」はあまり適していない気がする。

実にパワフルなのだ。「楽器を演奏している」という感じではまったくない。

特に、人間に身長よりも長い直径ではないかと思うほど大きな和太鼓を2人で叩いている場面は圧巻だった。人間の腕はこんな風に動き得るのか、力強くバチを叩きつけているのにこれほど頭部はブレないものか。地球の底から沸き上がってくるようなその響きにはガツンと頭を殴られたような感じがした(だからパチっと目が覚めた)。

その後の、日本の太鼓ではなさそうな、どこかの国の民族楽器のような太鼓を4人で叩く演奏も凄い。和太鼓の時と違い、バチをムチのようにしならせてリズミカルに叩いている。そしてその状態で、4人が一糸乱れぬ演奏を長時間に渡って続けるのだ。何がどうなってるのかさっぱり分からないようなムチ(バチ)さばきが圧巻だった。

その後は、総勢10名ほどのメンバーで和太鼓(先ほどのよりは大分小さめ)を叩く演奏が始まる。これも凄い。「音が合っている」というだけではなく、腕のフリのシンクロまで完璧なのだ。あれだけ高速でバチを叩きながら、人間の身体はこうも動きを合わせられるものなのかと感動した。

今風に言えば「インストゥルメンタル」ということになるのだろうが、太鼓という楽器1つでここまで圧巻の演奏ができることに驚かされた。ちょっと凄いな。

あと、太鼓ではないのだが、1組の男女が声で音程みたいものを奏で、そのバックで小さく太鼓が鳴っている、みたいな場面もあったのだけど、その男女(特に女性)の声もすごかった。どうやったらあんな声が出るんだろう。これもまた驚かされた。

とにかく余計なことをせずに、太鼓の演奏だけをひたすら映していれば成立すると思う。それぐらい、太鼓が凄い。「余計なことをしている」という点が大きく減点なのだけど、とにかく演奏は素晴らしかった。

「戦慄せしめよ」を観に行ってきました

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