黒夜行 2017年11月 (original) (raw)

いくら考えてみても、僕には「血縁」の大事さが理解できない。

もちろん、僕が「血縁」に関して悩む立場にないから、ということはあるだろう。親が離婚して再婚したとか、養子に出されたとか、施設で育ったとか、そういうことは(たぶん)ないから、そもそも「血縁」を意識するような機会がないから考えないだけなのかもしれない。

ただ、そういう人は世の中には多いはずだ。でも僕には、世の中の多くの人が「血縁」をとても重視しているように思える。

例えば、自分の子供のDNA鑑定もそうだろう。本当に自分と血の繋がった子なのかどうかを確かめたい、ということだろう。これも「血縁」に関することだ。

僕としては、DNA鑑定をすることで、「自分の妻が浮気をしていた」ということが判明する可能性がある、という点は意味があるとは思う。僕自身は、その点もどうでもいいけど、浮気していたかどうかが気になる、という気持ちは、まあまだ理解できる。ただ、自分と血が繋がっていないから愛せない、というような判断になるとしたら、途端に理解出来なくなる。

しかもそれを、子供がある程度大きくなってからやる、というのはもっと理解できない。生まれた直後にやるのであれば、まあまだ理解できるかもしれない。でも、自分の子としてある程度の期間育ててきて、それから検査をする、という気持ちが、僕にはイマイチ掴めない。

血が繋がっていないことの、何がダメなんだろうか、と。

あるいは、実際にはあまり多くある事例ではないかもしれないけど、ドラマや小説などでは、自分が養子だと知った主人公が、育ての親とは違う、生みの親を探す、という展開になることもある。その気持ちも、僕には全然理解できない。自分がそういう立場になればまた別なのかもしれないけど、どう考えても大事なのは、生んでからずっと会っていない生みの親より、長いこと自分を育ててくれた育ての親だろう。「何故自分を養子に出したのか直接聞きたい」という動機なら理解できるのだけど、「血の繋がった親に会いたい」という動機は、僕には理解できない。

血が繋がっていようがいまいが、赤の他人だろうがなんだろうが、一緒にいたいと思う人と一緒にいればいいのだし、一緒にいたくない人とは一緒にいなければいい。そんな風にシンプルに考えればいいと思うのだけど、世の中はどうもそういうわけにはいかないようだ。

関係性に名前がつかないと、世間ではどうも排除されてしまうようだ。「親子」「兄弟」「家族」「夫婦」「恋人」「仲間」「友達」「同僚」「先輩後輩」などなど、誰もが理解しやすい関係性であれば何も言われない。しかし、そういう、辞書に載っているような言葉では表せない関係性になると、途端に理解されなくなり、排除される。みんなが、無意識の内にその排除の論理を発動させているように感じられることも、また怖いと思う。

「血縁」というのは、関係性の中でも最も強いものだと考えられているのだろう。だから、行き過ぎてしまう。「血縁」が最も強い関係だ、とするために、他の関係性と明確に区別するために、人々は「血縁」により多くのものを求めようとする。そうしなければ、「血縁」であることの価値を、誰も感じることが出来ないからだ。

みんなで「血縁」に対する幻想を作り上げて、維持して、苦しんでいる。そんなアホみたいなことは止めてしまえば、もっと楽に生きられるんじゃないかと思うんだけど、なかなか難しいんだろうなぁ。

内容に入ろうと思います。
1993年の冬。ある家庭で、何か事件が起こった。倒れている女性、泣き叫ぶ子供、そして「松宮さん」と呼びかける声。
2017年。28歳の松宮周作は、一人ぼっちだと感じていた。遠い親戚はどこかにいるかもしれないが、唯一の肉親である父・将彦は、つい先日脳梗塞で倒れ、それ以来意識が戻らない。大学時代一つ上の先輩だった紫織と結婚を前提に交際しているが、紫織の前の旦那との間の娘・真結とは、まだあまり打ち解けられないでいる。そもそも結婚の話も、父が倒れたことで延期になった。そのことに、ホッとしている自分もいる。自分が何者なのかイマイチよく分からなくなってしまっている今、自分が夫や父親などになる資格があるのか、考え込んでしまうことが増えたからだ。
周作には、気になっていることがあった。父が倒れる前、一通の預金通帳を受け取った。ふざけたことに使ったら縁を切る、と言いながら手渡されたその通帳には、324万円もの大金が記載されていた。父は、それが誰が溜めたお金なのかを明かさなかった。
自分には、母親に関する記憶があまりない。母親のことを思い出そうとすることもあまりない。母親は死んだと聞かされていたが、詳しいことは分からない。自分は、自分の家族のことを全然知らない。こんなんじゃ、自分が新しい家族を作るなんて無理だ。
だから調べてみることにした。
調べ始めると、奇妙な事実に行き当たった。どうやらかつて松宮家には、「家事手伝いをする大学生」がいたようなのだ。誰なんだ、そいつは?
というような話です。

なかなか良い作品だったなぁ。周作が抱く孤独感には共感できない部分もあったけど(その理由は、冒頭で書いた「血縁」が絡む)、しかし「血縁」の呪縛を解き放っている物語でもあって、全体としてはとても良かったです。

冒頭でも書いたように、僕は全然「血縁」を重視していないので、本書で描かれる家族の形に、基本的にはまったく違和感を覚えない。恐らく、「血縁」を重視する人にとっては、本書は価値観を揺さぶられる作品となるのだろう。「血縁」で繋がってこそ「家族」なのだ、という価値観を持つ人にとっては、本書で描かれる家族の形は、生理的にはきっと拒否したいはずだ。しかし、心情的にはなかなか拒否できない。そういう葛藤を自分の裡に認めながら読み進めていくことになるのではないか、と思います。

ただ僕は、全然そういう読み方をしなかったので、その部分に関しては一般的な人と比べて感動が薄まる可能性はあるな、という気はしました。主人公の周作にしてからが、やはり「血縁」を重視する人間であり、そんな周作が、「血縁」を超えた関係性を受け入れ、自分の中のわだかまりを乗り越えていく。その周作の心の動きに共感するように読者の心も動いていくだろうし、それが正当な読み方だろうとも思います。ただ、「血縁」をそもそも重視していない僕には、なかなかそういう読み方は出来ません。その部分は、まあそうなるよなあ、と思いながら当たり前のこととして読んでいました。やはりどんな前提を持って読むかで、作品の読み方って大きく変わるな、と感じました。

本書の主人公は松宮周作ですが、核となる人物は別にいます。内容紹介の中で「家事手伝いをする大学生」と紹介した人物です。名前ぐらいは出してもネタバレにはならないと思うんですけど、一応彼についてはあまり詳しいことを知らないまま本書を読んだ方がいいと思うので、この感想の中では「家事手伝い」と書くことにします。

「家事手伝い」のような生き方の選択が出来るだろうか、と考えてしまう。仮にそれが最善の選択肢だと分かっていても、出来ないことというのはたくさんある。その中で、それが最善の選択なのだ、と突き進むことが出来るかどうか。その凄さを、彼の生き様から感じてしまう。

僕なら、出来ないだろうな、と思う。

彼があんな行動を取ったのも、極論すれば、「血縁」こそが関係性の最大のものだ、という価値観にあると言えるだろう。そんな価値観が世の中になければ、恐らく彼はあんな行動を取らずに済んだかもしれない。「血縁」がなかったとしても、「家族」であり得るのだ、と社会が信じていれば、彼がそんな行動を取る必要は、もしかしたらなかったのかもしれない。

僕としては、そのことが一番悲しいように感じられる。

それが歪でもおかしくても形が変でも構わない。何が「家族」の形を作り出すのかと言えば、「血縁」という幻想ではなく、「家族である」という思い込みだろう。お互いがお互いを「家族」だと思っているということ―。これ以外に「家族」を定義出来る方法はない。本書を読んで、改めてそんなことを感じさせられた。

額賀澪「ウズタマ」

一緒にいる理由を、世間が納得する形で説明できなければ「おかしい」と思われてしまう世の中は、おかしいと僕は思う。

例えば一組の男女がいる。彼らが「夫婦」や「恋人同士」なら、誰もおかしいと思わない。しかしこれが、「ただのクラスメイト」とか「ただの先輩後輩」とかになると、途端に「んんん?」となる。そして人々は、「夫婦」や「恋人同士」であるはずだ、あるべきだ、というような見方をしたがる。

例えば男が二人でいるとする。彼らが「先輩後輩」や「クライアントとの商談」みたいなことなら、みんな納得する。しかし、少しでも世間の概念を逸脱すると、世間は彼らのことを「ホモなのか?」という風に見たがる。

意味が分からない。誰かと一緒にいることについて、何故「世間様」の了解を得なければならないのか。

と僕は思ってしまう。本書の解説を書いている三浦しをんも、似たようなことを考えているようだ。

【私がずっと不思議だと思っていること、理不尽だと感じていることへの答えを、『ウェルカム・ホーム!』は物語の形で見せてくれる。】

【なぜ、「家族」という単位を不動のもののように見なすのか。それが私には分からない。仲の悪い家族だっていっぱいいるし、家族だからといって一緒に住んでいるとも限らない】

うん、その通りだ。完全に、三浦しをんに賛同する。

日本は、「◯◯はこうあるべき」という圧力がとても強い。男はこうあるべき、女はこうあるべき、夫は、妻は、家族は、恋人は、子供は、学校は、先生は、先輩は、後輩は、地方出身者は、◯◯県人は…。そういう、明文化されていないはずの、でもだからこそ強力で厄介なルールがあちこちにあって、そういうものにちゃんと従って生きていこうとすると、窮屈で仕方ない。

でも、そもそも「ちゃんと従って生きていこう」という発想からして、もう外れているのだ。作中から引用してみる。

『彼女たちは、女というものは、結婚したら男の帰りを待ちながら家を守るものだ、と信じて疑わない』

そう、「信じて」「疑わない」のである。「従わなくちゃ」などと思っているのではない。そうすることが当たり前で、それ以外の選択肢など考えたこともないし、そうではない行動を取っている者は異端者。そういう風に考えている人が多数派だからこそ、世の中が窮屈なんだよなぁ、と思う。

僕は、「家族」だの「恋人」だのと言った、人間関係に付けられた名称はすべて、「便利なタグ」ぐらいにしか思っていない。日本のパスポートは世界中の大抵の国にすんなり入国できるから、闇のマーケットでは人気らしい。彼らにとって日本のパスポートは、日本に入国を果たすのに便利なタグでしかない。人間関係の名称も、それを持っていることで便利に世の中を渡っていけるタグみたいなものでしかないと思う。

だってそうだろう。一番大事なことは、「その人と一緒にいる理由」だ。そこさえはっきりしていれば、二人の間の関係性の名称などどうでもいい。「友達」から「恋人」になって「夫婦」になることで関係性の名称は変化するが、それは本質的な変化ではない。より本質的な変化は、「その人と一緒にいる理由」だ。そこを捉え間違わなければ、呼び方などどうでもいい。その時その時で、一番便利さを発揮できる名称を選択すればいいと思う。

三浦しをんも解説でこう書いている。

【私たちはたぶん、常識や社会制度や受けてきた教育から、完全に自由になることはできない。だが、幸せになるために生きるのだ、という大前提を、決して忘れてはならないはずだ。】

「世間のフツー」に収まるために、「自分の幸せ」を手放すのだとしたら、これほどアホらしいことはない。

三浦しをんはこうも書く。

【私はたぶん、結婚することはない(というか、できない)と思うし、子供もいないままだろう。「社会」の単位となりうる「家族」を、ついに自分では形成できないままなのではないか、という予感がする。
そういうひとは、きっと多くいることだろう。堂々たる「家族」を形成してはみたが、その人間関係のなかで自分はちっとも幸せではない、というひとも、少なからずいるはずだ。
では、どうすればいいのか。どうするべきなのか。私はずっと、それを考え続けている。】

「家族」を形成できたからと言って、幸せであるとは限らない。名称は、あなたの幸せとイコールではない。名称ばかりを追いかけているように見える人も、世の中には多くいるだろうと思う。その無意味さを、本書を読んで実感してみて欲しい。

内容に入ろうと思います。
本書は、2編の中編が収録された中編集です。

「渡辺毅のウェルカム・ホーム」
渡辺毅は今、無職に近い生活を送っている。そして一日の大半を「シュフ」として生活している。父親が始めた洋食屋「アンジェロ」を継ぎ「シェフ」になったが、テキトーに生きていたが故に潰してしまい、今は「シュフ」である。
と言っても、毅は結婚しているわけではない。彼女はいるが、独身だ。じゃあ誰の「シュフ」をしているのか…。大学時代の同級生であり、親友でもある松本英弘だ。彼らは、毅、英弘、そして英弘の息子である小学六年生の憲弘の三人で生活をしている。
ある日毅は、本当にたまたま、憲弘の作文を読んでしまった。「ぼくにはパパが二人いる」という内容の作文を読んで、毅は「ヤバイ」と思った。これじゃあ、俺達がホモみたいなじゃないか…。

「児島律子のウェルカム・ホーム」
児島律子は、結婚したら家庭に入るのが当たり前だった時代に証券会社での仕事を続け、離婚後にアメリカで学んだ「フューチャーズ(先物)」の知識を駆使して投資の個人オフィスを立ち上げるまでになっていた。頭を切り替えるのも不可能なぐらいの目まぐるしさの中、この4年間で大分成長し、目だけで意思疎通が出来るようになった秘書が、忙しいと分かっている状態の律子に何度も話しかけてきた。待っている人がいる、というのだ。もう2時間も。学生のようだけど…と言われて要件がさっぱり思い浮かばなかったが、久部良拓人と名乗った青年(学生ではなかった)からその名前を聞いて律子は驚愕した。
聖奈。石井聖奈。かつての結婚相手の連れ子で、もう何年も連絡を取っていない。
久部良と名乗った青年は、聖奈と結婚するつもりであるという。その報告にやってきたのだ。
久部良青年の登場により、律子の頭の中では、一度目の結婚とその破綻、そして二度目の結婚と聖奈との出会い、そしてその破綻の記憶が駆け巡っていく…。

というような話です。

これは結構面白かったなぁ。僕も三浦しをんと同じく、家族というものについては不思議や理不尽を感じているので、そういうものが物語として描かれているなぁ、と思いました。作中、様々な価値観が登場するが、「別にそんなの関係ないじゃん」的な意見は大体同じことを考えていたし、大きく賛同している。

本書で描かれる「家族」は、どちらも本質的な部分では血縁では繋がっていない。狭義で考えれば、彼らが言う「家族」というのは、言ってしまえば「自称」ということになるだろう。「自称家族」ということだ。しかし、やはりその捉え方は狭すぎる。僕は、自分たちが「家族」だと思っているのなら、そこに血縁がなくたって世間が認めなくたって「家族」でいいと思う。ペットならそういう発想が許されるのに、どうも人間だと許されないみたいだ。

『家事を女に押し付けるのはおかしい、とか、そういう話をしたいわけじゃないんです。でも、女が結婚したあとも仕事を続けることになると、すぐに「家庭と仕事を両立できるのか?」みたいなこと言われるじゃないですか。なのに男の人は結婚しても「家庭と仕事を両立できるのか?」とはゼッタイに言われないでしょう…?』

ホントその通り。ちょっと前にある人から、会社の面談で結婚するのか、子供を生むのか、みたいなことを聞かれた、みたいな話を聞いたことがある。僕が、会社の役員に女性は何人いるんですか?と聞いたら、一人もいないという返答だった。そういう会社なら、そういう無神経な質問もするんだろうなぁ、と思ったことがある。

フツーではない「家族」の中にいると、自然とこんな発想が生まれる。

『自分が向いてない分野のことは、向いてるヒトに任せる。その代わり、自分は自分が向いてる分野で役に立つ。それでいいんじゃないっすかね』

これはまさに至言と言っていいだろう。人の属性に対して役割が与えられているのではなくて、関係性の中で役割が生まれてくるという捉え方をすることは大事だと思っている。僕は普段からそんな風に思って人と関わっている。今この集団の中で足りない部分はどこで、その中で自分が埋められそうな箇所はどこだ、というように。

属性に対して役割が割り振られているとすると、一生その役割から逃れることは出来なくなるが、関係性の中で役割が生まれると思えれば、一つの役割に押し込められるわけでもないし、もちろん自分が望むなら自分が得意だと思っている役割を貫き通すことも出来る。こういう生き方の方が自由で、そして何よりもより全体のパフォーマンスが向上するように僕には感じられる。

本書を読めば、きっと分かるだろう。自分が今何に囚われていて、そしてそれが捨てて良いものなのかどうかを。捨てていいはずのものに囚われているなんて馬鹿らしい。考え方をちょっと変えるだけで手に入る自由が、この作品の中には詰まっています。

鷺沢萠「ウェルカム・ホーム!」

僕は、「情報が多いこと」にあまり価値を感じていない。何故なら、情報が多ければ多いほど、僕たちはまともな情報と接することが出来なくなる、と考えているからだ。そう考える僕なりの理屈をまずは書いてみよう。

まず、情報がどれだけ多くなったとしても、僕らが処理出来る情報には限りがある。インターネットの登場によって、僕らが接することが出来る情報がどれぐらい増えたのか分からないけど、それはもう天文学的な数字だろう。しかし、だからと言って、僕らの情報処理能力はさほど変わらないはずだ。確かに、大量の情報と接する世の中になったことで、以前よりはちょっとその能力は上がっているかもしれない。しかしそれは、情報の増加速度に比例するはずもなく、微々たる変化でしかない。

さてこの場合、僕たちにはどういう選択肢があるだろうか?情報は膨大、でも処理できる情報には限りがある、という場合には。

脳の情報処理に見合った情報にしか接しない、という方法も一つある。個人的には、これが出来るなら何の問題もない、と考えている。一昔前であれば、そういう生活も可能だっただろう。しかし、現代ではなかなかそんな生活は出来ない。SNSのアカウントを持っていて、ネットで検索して、youtubeを見る生活をしていれば、あらゆる情報と接する機会を持つことになる。接する機会そのものを減らすのは、困難だ。

さてではどうするか。恐らく多くの人が、意識的にせよ無意識的にせよ、「情報を選択する」という行動によって、情報を制限しているはずだ。情報と接する機会を減らすのと、情報を選択するとでは何が違うのかと言うと、機会を減らす場合は、そもそも10の情報にしか接しない。しかし選択する場合は、100の情報に接しながらそこから10選ぶ、ということだ。

さて、これで問題は内容に思える。脳が処理出来る10の情報を選べばいい、というのだから。でも、ここにこそ僕が感じる問題がある。というのは、「何を基準に選ぶのか」という問題があると思っているからだ。

情報というのは、接して咀嚼してみなければ、自分にとっての価値は分からない。しかし、情報を選択する場合、接した時点で良し悪しを判断することになる(咀嚼まで含めるのであれば、それは100接した内100を選ぶということと変わらない。選ぶというのは、咀嚼する前に判断して選ぶ、ということだ)。

じゃあその情報をどう選ぶか。咀嚼しなければ良し悪しがわからないはずの情報を、咀嚼する前に判断して選択するのだから、出来ることはただ一つ。「自分にとって良さそうかどうか」という判断基準を設けるしかない。

つまり、それがどんな情報であれ、「自分にとって良さそうに見える情報」は選ばれ、「自分にとって良さそうに見えない情報」は選ばれない、ということだ。選ばなかった情報の中に、自分にとても良い影響を与える情報があるかもしれないのに、それを選ぶことは出来なくなる。

「良さそうに見える情報」を作り出すことは簡単だ。例えば、楽してダイエットしたいと思っている人には、「1日1分で簡単に10キロ痩せる!」みたいな見出しをつければいい。どんなことが書かれているかに関わらず、「良さそうに見える」から、その情報を選ぶだろう。しかしそういう情報は、大抵ろくなものではない。

つまり、「良さそうに見える情報」を選ぶ、という意識が、自分の元に届く情報を極端に制限し、自分にとって価値のない情報ばかりに取り囲まれてしまうことになりかねない、と僕は考えているのだ。

そして、SNSなどを通じて多くの人と「繋がる」ことは、情報を増やすことだ。だから、今の思考をそのままトレースすれば、繋がれば繋がるほどロクな関係性は得られず、自分にとって価値があるかもしれない人と分断される可能性が出て来る、ということだ。

僕にとってそれは、あまりに価値を感じることが出来ない日常だ。だから僕は、SNSを止め、なるべくネットを見ず、オンラインで人と繋がらないように徐々に意識するようになっていった。

もちろん、僕のこの考え方を受け入れない人は大勢いるだろう。それで、別に構わない。僕のこの考え方が、完全に正しいとも思っていない。とはいえ、「繋がる」ことへの嫌悪感は、もっと多くの人が意識的に考えるべきことだ、とも信じている。

一度繋がってしまえば、なかなか人類は後戻りすることが出来ないだろう。繋がった世界が理想郷である可能性ももちろんある。しかしそれは、人類のこれまでの歴史や文化を破壊する可能性だって十分あると僕は考えている。そんな壮大な社会実験は、僕には怖くて出来ないし、容認もしたくない。

内容に入ろうと思います。
派遣社員として日々怒りに満ちた人と電話越しにやり取りするだけの日々にうんざりしているメイは、ある日友人のアニーから、明日面接だ、という連絡が来る。それは、世界中の人が使っている「サークル」というSNSを生み出した会社であり、メイはそのサークルで顧客とのやり取りをする仕事をすることになった。
サークルには、会社の敷地内にナイトクラブや有機農場、ライブ用のステージやボルダリング施設など様々なものが揃っている。また、社員やその家族に対する福利厚生も充実しており、多発性硬化症を患う父を持つメイも、その恩恵に預かれることになった。メイは、そんな世界的企業で働けることになったことを非常に誇らしく感じている。
しかし、違和感は少しずつ募っていく。同僚から、休日に社内のアクティビティに全然参加していないことをやんわりと指摘される。彼らがメイの充実した人生のためを思って言ってくれているのは分かる。しかしメイはどこか拭えない違和感を覚える。毎夜開かれているように思えるパーティーで、サークルを通じて子供を見守るシステムを開発している女性と話をした。子供が視界から消えるとすぐに通報が行くシステムを開発しているそうだ。メイが子供の行動をどうチェックするのかと聞くと、その女性は、子供の骨にチップを埋め込むのだ、と答えた。ジョークだと思ったメイは爆笑するが、相手が本気だと知る。ここでもまた、なんとも言えない気分がやってきた。
また、実家の近くに住む男友達にマーサーからも、度々サークルに対する違和感を突きつけられることとなった。マーサーはオンラインでみんなが繋がることに嫌悪感を抱いている。メイとマーサーの関係はなかなかうまく行かなくなってしまう。
そんなある日、メイはちょっとした行動から大問題を起こしてしまう。すぐに事態は収束したが、それはサークルが開発したシーチェンジという小型の無線カメラのお陰だった。その出来事をきっかけにメイは考え方を変え、自分の生活をすべて晒す初のサークラ―として世界的に有名になっていくだが…。
というような話です。

扱っているテーマは、僕が長い間意識的に考えるようにしてきたものだったので、興味深かった。繋がることや情報が飛躍的に増大することに対する嫌悪感は冒頭で書いた通りだけど、そういう感覚が描かれていることが面白い点ではある。

とはいえ、映画全体としては消化不良という感じはした。映画が何か結論を出すべきだとは思わなかったけど、世界中をオンラインで繋げるサークルというSNSがもたらす未来や状況を、うまく描けていないような感じがしてしまった。どの辺りが、と言われると困ってしまうが、この映画で描き出すSNSの怖さは、個人的にはちょっと矮小化されているように感じられてしまった。もちろん、それは僕が冒頭で書いたような問題意識を持っているからそう見えるだけかもしれないし、あるいは、一般的には親SNSの人が多いだろうから、そういう人たちを嫌悪させるような描写をすれば映画を見てもらえなくなる、という判断があったのかもしれない。その辺りのことはなんとも分からないけど、個人的には、ちょっとそういう方向じゃないんじゃないか、という気がしてしまった。

また、恐らく世間一般の人とはこの映画の見方が違うだろう、という部分も、この映画をうまく捉えきれなかった原因だと思う。

世間の人は親SNSの人が多いだろう。そういう人がこの映画をどう見るか。まずメイは、サークルに対して違和感を抱く。しかし親SNSの人たちは、この部分には共感しないのではないだろうか。つまり、最初メイはあまり共感されない存在として受け取られる。しかし、ある出来事をきっかけにしてSNSに対する考え方が代わり、サークルによってもっと人々を繋げる方向へと自らを突き動かしていく。そうなった後のメイには共感するのかもしれない。最終的にはメイの行動によって色々問題が起こる展開になるのだが、それも、SNSを信じすぎるとやばいことになる、捉えられ方になるのではないか。

つまり、親SNSの人がこの映画を見たら、最初は共感できなかった主人公が次第に共感出来る存在に変わっていく。しかし、それもやりすぎると大変なことになるからほどほどに、という映画として受け取られるのではないか、という気がする。これはあくまでも推測なので、間違っているかもしれないけど。

さて、僕はこの映画をどう見たか。最初僕は、サークルに対して違和感を抱くメイに共感した。しかし次第に共感できなくなってしまう。後半の方の展開によって、またメイの考えが変わることになるので、そうなることでまたメイに共感できるようになるが、中盤にメイに対して感じる違和感はなかなか払拭出来ない。という感じになる。

そういう意味で、ちょっと難しいと感じた。

また、そのこととはまた別に、僕にはメイが心変わりする最初のきっかけに違和感を覚えた。メイは、最初はサークルに変さを感じていたが、自分が命の危険にさらされたことで考えを変える。確かに、命の危険をサークルの技術が救ってくれたのだから、考えが変わってもおかしくないかもしれない。でも僕としては、あの出来事をきっかけに、そこまで一気に針が逆に振れるほど考えが変わるものだろうか、とも思ってしまった。その点に対する違和感も、なかなか捨てがたかったです。

個人的には、もっと違う描き方、切込み方を期待していたので、そういう意味で、観終わった感想はあまり良いものではない。

エマ・ワトソンは良かったなぁ、と思う。演技どうこうというのはよく分からないけど、僕の感覚としては、エマ・ワトソンが演じたメイはとても普通の女の子に見えた。メイが特別な存在ではなく、ごく一般的な感覚を持っている普通の人だ、という受け取り方をされることは、この映画にとっては大事なことだと僕は感じたので、そういう意味でエマ・ワトソンは凄く良かったなと思いました。

「ザ・サークル」を観に行ってきました

「ゴジラ」のことは、様々なメタファーとして捉えることが出来るだろう。具体的に何かというのではなく、それらを総体として捉えれば、それは「そこにあり続ける絶望」と表現できるだろうと思う。人類にとってのゴジラは、そこにあり続ける絶望だ。何故そこにいるのか、何故攻撃するのかなど、様々なことがよく分からないまま、そこにあるものとして捉えなければならない。

それは、肌の色だったり、出自だったり、これまで辿ってきた歴史だったりというような、自分の努力ではどうにも変えがたいもののメタファーとして捉えられるだろう。

それらとどう向き合うのかということを問われ続ける人生もあるだろう。闘うのか、諦めるのか、共存するのか、逃げるのか…。目の前にはいくつも選択肢がある。あるように思える。しかし、そういう圧倒的な絶望の前では、人はなかなか意味のある決断をすることが出来ない。

それが集団であればなおさらだ。個人であれば、個人にとって意味のある決断は様々に違い、決断して行動するという選択そのものが大きな意味を成す場合もあり得る。しかしそれが集団であれば、集団全体の総意としては、なかなか意味のある決断を導きにくい。人類の歴史は、そういう愚かな選択の歴史だったとも言えるだろう。

ゴジラ映画の初期シリーズを、僕は見た記憶はない。ゴジラが映画の中で、どんな風に描かれてきたのかという変遷を、僕は知らない。しかし、あくまでもイメージではあるが、当初ゴジラは、「とにかく圧倒的な強さを持つバケモノ」的な扱いでしかなかったのではないかと思う。もちろん、ゴジラが、ビキニ環礁での水爆実験を背景に生み出された存在だ、というぐらいの知識は持っている。だから、ゴジラの存在に製作者側が込めた思いというのはもちろんあっただろうが、しかし映画の中では、ただのバケモノという扱いだったのではないかと思う。物語の主眼は、バケモノに右往左往させられる人々の姿と、それに立ち向かう人々の勇敢さを描くことにあっただろう。

しかし、僕が知っている庵野版「ゴジラ」と本映画では、ゴジラというのはただのバケモノではない。つまりそれは、「ただ倒せばいいだけの存在ではない」という意味だ。ゴジラの出現とその対処が、未来にどう影響を与えるかという、長いスパンでゴジラが捉えられるようになったのだ。倒すという短期的な選択肢だけではなく、未来の時間まで含めた長期的視野でゴジラと向き合う人々の姿が描かれている。

ゴジラが「そこにあり続ける絶望」である以上、簡単には排除は出来ない。排除する可能性は当然模索しつつも、排除できない可能性についても検討し、行動を起こさなければならない。そしてそのことが人類に、新たな覚悟を強いることになる。

『ゴジラは我々から地球を奪っただけではない。正義や優しさ、そして人間としての最低限の誇りさえも奪われたのだ』

巨大過ぎる絶望と向き合わざるを得ない時、人は何を思い、どう行動するのか。未来、という時間軸を想定することで、人間の様々な行動が浮き彫りになる。

内容に入ろうと思います。
ハルオ・サカキ大尉は、中央委員会の決定に背いて拘束された。数千人の生き残りを乗せた宇宙船で過ごし始めて20年。居住可能な惑星を探し出せる可能性に賭けて地球を捨てた彼らだったが、亜空間航行を繰り返し、地球から11.9光年離れた場所までやってきても、居住可能な惑星を見つけられる可能性は僅か0.1%。ようやく見つけた、タウイー星と名付けた惑星は、居住可能性はゼロではないものの、その環境最悪だろうと予測された。中央委員会はそのタウイー星に先遣隊を送り込む決定をした。サカキ大尉は、そのことに激昂したのだ。何故なら、選ばれた先遣隊は老人ばかり。居住可能性の低い惑星に老人を送り込むことは、口減らしをしたいという思惑しか感じられなかった。だからこそサカキ大尉は反抗し、船内で拘束された。
きっかけは、20世紀最後の夏のことだった。突如地球に、無数の怪獣たちが現れた。人類は抵抗を続けたが、最後に現れた、ゴジラと名付けられた怪獣は、まさに規格外だった。「最悪の悪夢」「破壊の化身」と呼ばれたゴジラは、熱核弾頭150発の一斉攻撃さえも耐え抜く強さで、人類のみならず他の怪獣すらも蹴散らす破壊力を持っていた。そんなタイミングで地球にやってきた、移住を希望する別の惑星の種族(住んでいた惑星がブラックホールに飲み込まれてしまった)が、移住を受け入れてくれればゴジラの駆逐を約束すると言ったが、しかしやはり果たせず、生き残った地球人は別の惑星への移住の可能性を夢見て宇宙へと飛び立った。
船内での生活は、飢え・乾き・寒さに苛まれた最悪なもので、誰もが、こんな状態で何故生きているのか分からないと感じるほどだった。中央委員会は決断を迫られていた。予測では、不快指数を二倍に引き上げても、船内の備蓄はあと8年で底をつく。居住可能な惑星が見つかる可能性はほぼない。だったら、地球に戻るしかないのではないか―。
決断を間接的に後押ししたのは、投稿者不明のまま公開されたとある論文だ。それは、過去のゴジラとの戦闘データから、ゴジラの弱点を導き出したと主張するものだった。それは、囚われの身だったサカキ大尉がずっと個人的な関心から続けていた研究であり、非常に困難ではあるが、ゴジラを倒せる可能性を示唆するものだった。
地球をゴジラから取り戻す―。船内時間20年の間に、1万年以上の時が経過していた地球を舞台に、今ゴジラとの決戦が始まる…。
というような話です。

これは面白かったなぁ!虚淵玄が関わるアニメは、なんとなく結構見る機会があるんだけど、やっぱり面白い。この映画もとにかく、圧倒的な世界観が冒頭から怒涛のように展開され、既存のゴジラ映画とはまったく違う切り口からゴジラを描き出すものでした。

まず彼らは、ゴジラから逃げた者たちだった。ここがまず、これまでのゴジラ映画にはなかった部分だ。もちろん、僕らが生きている世界よりもかなりテクノロジーが進んでいないと不可能な選択肢なので、SFとしてしか描けない(ゴジラの存在自体がSFなのだが、ここでは、庵野版「ゴジラ」が、現実の官僚制度の中でゴジラといかに対峙するかを描いているのと対比するつもりでSFという言葉を使った)。しかし、そういう設定にすることで、物語の幅がグンと広がるのだ。

あまり深くは描かれないが、20年の宇宙漂流が人々に与える影響は大きい。飢え・乾き・寒さは前述の通りだが、20年の間に、地球の存在をほとんど記憶していない者、あるいは宇宙船内で生まれ地球をそもそも知らない者も出てくる。現実にゴジラと対峙した世代(サカキ大尉は若いが、しかしゴジラと対峙した世代である)と、ゴジラも地球も映像でしか見たことのない世代とのギャップが当然生まれることになる。

また、中央委員会が船内を統べているが、このトップに対する不信感や軋轢も生まれることになる。中央委員会は、全体のバランスを見て様々な決断をしなければならない。人も備蓄も限られている中で、出来る選択は多くはない。時には、犠牲を前提としなければならないこともある。しかし、全体ではなく個人個人に目を向ければ、それらの決定に承服できない人も多々出てくるだろう。冒頭の、タウイー星への先遣隊派遣も、その一つだ。

そんな風に、逃げる、という選択をしたことで、ゴジラや地球に対する様々な思いを持つものが出てくることになった。普通なら、ゴジラと対峙し闘う決断をする、という枠組みの中でしか人々の行動や価値観が広がっていかないはずだ。しかしこの映画では、逃げる決断をしたことで、様々な価値観が生まれる。

そしてその中で、最も急進的な考えを持つのが、サカキ大尉だ。誰もが忘れたいと思っている記憶と向き合い、ゴジラを倒せるはずだという信念の元、諦めずに研究を続けるサカキ大尉のような人間がいる。通常のゴジラ映画であれば多数派であるはずのサカキ大尉のような存在が、この映画では少数派になってしまっている、という構図が非常に面白い。

また、時間スケールが長く取れることも、この設定の魅力だろう。彼らは、亜空間航空(要するにワープみたいなこと)を繰り返すことで、長い距離を船内時間では一瞬で飛び越すことが出来る。しかしあくまでもそれは船内時間に限ってであって、船外では11.9光年離れた地点から地球へと戻るのに相当する時間が経過している。この時間感覚の差が、ゴジラの存在を記憶しながら、その1万年後の姿を見ることになる、という状況を生み出すことが出来るのだ。これもまた面白い設定だ。1万年という時間は、途方もない時間だ。その間にどんなことが起こっていても、それを不自然に感じさせないほどには。何が起こってもおかしくはない、という自由度を設定の中に組み込むことで、作る側も見る側も、物語の展開に対して様々な可能性を持つことが出来るようになった。

そして、これは他のゴジラ映画でも同様だろうが、あまりにも圧倒的な存在感故に、人的損害を前提にすることなしに計画が立案出来ない、という部分も、物語の振れ幅を大きくさせる。死ぬことがある種前提となっている作戦に従事する覚悟を持たせることが出来るし、またいつどのタイミングで誰を死なせるのかという自由度もある。

こういう要素が絡まりあって、この映画は実に良いものに仕上がっていると感じました。

さらに、アニメ映画だ、という点も素晴らしい。アニメはもちろん学園モノなども描かれるが、やはり、通常の映画であればCGを使わなければなかなか撮影できないような映画の場合により強さを発揮すると感じられる。ゴジラの存在も含めて、すべてが違和感なく物語の中に溶け込んでいる感じで、こういう作品を見るとやはりアニメの強さを感じるなと思います。

この映画の場合また、主人公であるサカキ大尉の描かれ方が実に良い。中央委員会と対峙して拘束され、その後一時的に保釈するという形で作戦に従事する。実に強い信念を持っていて、無謀であると分かっていながら打てる手を尽くす姿が素晴らしい。盟友であるメトフィエスの存在も非常に良かったと思います。

ゴジラの世界観が、こんな風にして派生していくのは非常に面白いと思いました。

「GODZILLA 怪獣惑星」を観に行ってきました

いやー!実に面白かった!

僕は、今の性格のまま自分が戦国時代に生まれたら、何も出来なかっただろうなぁ、と思う。何も目指すものがないからだ。

平時と乱世では、生き方はまったく変わってくる。平時ならば、慎重で野心がなく平凡な人間でも、それなりに役割はきちんとある。しかし、乱世であれば、そんな人間は碌に使えもしないだろう。僕はきっと、特に何をするでもなく死んだことだろう。今だって何かを成しているわけでは全然ないんだけど、でも、乱世に生まれなくて良かったと思う。

僕は歴史が苦手なので、元々歴史に対してはぼんやりとしたイメージしか持っていない。縄文時代は狩りだなとか、弥生時代は稲作だなとか、江戸時代は鎖国だな、みたいな。そういう意味で言うと、戦国時代は、イケイケの、今で言うマイルドヤンキーみたいな人たちが、イケイケな感じでやりあってた、という感じだ。織田信長は、まあそんな感じだろう。織田信長がマイルドヤンキーかどうかはともかくとして、イケイケのオラオラの感じだっただろう。もし戦国時代にSNSがあったとしても、きっと織田信長は使ってなかっただろうけど、周りにいる人が「信長様すげー」「信長様サイコー」みたいなツイートを日々するんじゃないかと思うような、なんかそんなイメージがある。いや、本書を読む限り、織田信長、人心掌握的に相当優秀っぽいけど。

豊臣秀吉が農民の出だ、ということはなんとなく知っていた。そこから天下統一を成し遂げたことがもちろん凄まじいことだ、ということももちろん分かっている。でも、じゃあその間がどうなっているのか、っていうのは、イマイチよく分からない。これは、歴史をちゃんと学んだ人はイメージ出来るもんなんだろうか?少なくとも、僕にはイメージできなかった。

本書は、そこを補完してくれる作品だ。

藤吉郎という、名字すらない農民が、いかにして天下統一を果たし、関白にまで成り上がったのか。本書ではその過程が活き活きと描かれていく。

本書を読んで凄いなと感じるのが、秀吉はその生涯を通じてほぼずっと「凡人」だった、ということだ。後半は策士的な一面も垣間見せるが、途中までは、力はない、武器も使えない、かといって算盤が出来るわけでもなく、農民の出のくせに畑仕事も碌に出来ない、という体たらくだった。

秀吉は、自身でもそのことを認識していた。だからある時、信長にこう問うた。

『おいらは何を極めればいいのですか』

それに対する信長の返答はさすがだ。

『貴様には、何の才もない』

これだけで終わってしまえばただの悪口だが、ちゃんとこの後も続く。それはここでは書かないことにするが、なるほど、さすが人の扱いに長けた男だ、と思わされる、信長の人心掌握術である。

秀吉は、とにかくひたすら凡人だった。とはいえ、ちゃんと持っているものもあった。それが、上に行こうとする意欲である。

印象的な場面がある。手柄が欲しいと信長に直訴した秀吉は、何の説明もなくある場所へ行くように言われた。そこで始まったのが、ある城を攻め落とす作戦会議だ。しかし秀吉は城攻めなどしたことがない。そもそも、城の各所の名称すら分からないのだから話にならない。なので、隅っこで黙っていろ、と言われて当然なのだが、そこで秀吉はこう返す。

『いやです。おいらも役に立ちたいです。隅っこで話聞いてるだけじゃ、手柄は立てられません』

この辺りが秀吉の面白いところだ。自分には特に出来ることはない、という認識はきちんとある。あるのだが、しかしそれでも手柄は欲しい。何かやってやるぞ、という気持ちはある。その気持ちが、最終的に秀吉を頂点にまで押し上げたのかもしれない。

「秀吉の活」というタイトルの「活」とは、「活きる」の「活」である。

『生きると活きるは、全く違う。たくさん考えて、他人に気配りして、一生懸命働くのが、活きるということだ』

秀吉のこの言葉は、随所に発揮される。秀吉は、自分が手柄を立ててやる、という気持ちを強く持つ一方で、他人を思いやる気持ちを持っている。誰かを犠牲にしてまで何事かを成したくはない、という気持ちを持っている。この気持ちもまた、物語全体を面白くする要素だ。決して自分だけのために突き進んでいかない、という姿に、共感させられてしまうのである。

自分が「活きる」だけではなく、他人をどう「活かす」かまで考える―。秀吉の振る舞いは、信長とはまた違った意味で、現在でも意味を持つような人心掌握術ではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
とはいえ、今回は内容紹介はほとんどしません。歴史の知識がないので正確に書けない、ということもありますが、「農民・藤吉郎が、関白・豊臣秀吉になるまでの生涯を描く」という要約以外にやりようがない、ということもあります。
とはいえ、内容を少しはイメージしやすくするために、各章題だけ抜き出してみます。

天下人の就活
天下人の婚活
天下人の昇活
天下人の凡活
天下人の勤活
天下人の転活
天下人の天活
天下人の朝活
天下人の妊活
天下人の終活

こんな感じで「活」で統一されています。
「就活」では、農民出の藤吉郎がいかに侍になるかが、「婚活」では寧々とどう再会し結婚に至ったのかが、「昇活」では秀吉の指示を聞かない足軽たちを従わせる成果をいかに戦場で掴むかが、「凡活」では平凡な自分の非凡さをどこに見出すかが、「勤活」では侍を辞めようとした秀吉を信長の勤勉な下僕へと戻らせたきっかけが、「転活」では侍を辞めた後の転職に思索を巡らせる様が、「天活」では織田信長に代わっていかに天下統一を成し遂げたかが、「朝活」では朝早くからどれだけ動けるかが勝負の公家の世界の話が、「妊活」では跡取りを儲けるまでに苦闘が、そして「終活」では自分が死んだ後のことをどうするかに思いを巡らせる様が描かれていきます。

まず本書は、圧倒的に読みやすいです。僕はこの著者のデビュー作である「宇喜多の捨嫁」という作品を読んだことがあります。内容はもの凄く面白かったんですけど、歴史が不得意な僕には読みにくい部分も結構ありました。

本書は、歴史のことなんてまったく分からない僕でもスイスイ読めてしまうぐらい読みやすかったです。ビックリしました。作中に出てくる登場人物たちは、教科書なんかで字面ぐらいは見たことがありますけど、何をした人なのかほとんど分かりません。前田利家とか、黒田官兵衛とか、石田三成とか色々出てくるんですけど、僕にはさっぱり。それでも、全然読めてしまう。この読みやすさは、本当に魅力だと思います。僕は元々理系で、ホントに歴史がまったく分からないんですけど、そんな僕がこれだけスイスイ読めるんだから、誰でも読めちゃうと思います。

また、全体的な雰囲気がコミカルな感じです。いや、そう書くと語弊があるかな。先程話に挙げた「宇喜多の捨嫁」が結構クールな感じの作品で、それと対比してしまう部分もあると思います。とにかく本書は、秀吉を滑稽に描き出すことで親しみやすさも読みやすさも演出していると思います。また織田信長がかなりかっこよく描かれているんで、その対比もあって、余計に秀吉がへなちょこに見えてくるという部分もあります。

500ページ以上あるなかなかの大著なんですけど、そんな長さを全然感じさせないような作品でした。ホントに、一気読み!って感じでした。

好きな描写は多々あるんだけど、やっぱり寧々と前田利家に関わる部分では良いシーンが多かったなぁ。

寧々は、秀吉を尻に敷くような勢いであれこれ口を出す女なんだけど、でも芯がちゃんとあってしっかりしている。寧々と秀吉とはかなり幼い頃から関わりがあったんだけど、本当にそこから結婚に至るまでは色んなことがあって、この二人の結婚までの話はなかなか波乱万丈です。寧々のような女性はいいなぁ。

前田利家との話も実に良かったです。秀吉と前田利家も古くからの付き合いで、悪友と呼んでいいような関係です。秀吉の人生の随所随所で関わりを持ってくる男で、その度に色んなことが起こるんだけど、やっぱり一番好きな場面は、天下統一を成す直前のある戦における二人の関係ですね。これは良い。本書全体の中で一番好きな場面です。秀吉と前田利家の関係性の集大成がここにあるという感じで、見事でした。秀吉、前田利家、双方がどういう判断をし、二人の関係性がどうなったのかについては、是非本書を読んで欲しいと思います。

実に見事な作品でした。一気読みです!

木下昌輝「秀吉の活」

昔、こんなことを考えたことがある。

科学の研究などで、細菌や微生物を実験対象とするということはあるだろう。細菌や微生物に対して、薬品を振りかけたり真空状態に置いたりと、様々なことをやって反応を見るような実験は想定できる。

さて、ここでこんな想像をしてみる。もしも細菌や微生物に「意識」があったら、その実験はどういう風に感じられるか、と。「意識」の定義は難しいが、なんとなく、人間と同じようなものを想像してほしい。

そういう想像をした場合、彼らにとって薬品を振りかけられたり真空状態に置かれたりすることは、僕ら人間にとっての「自然災害」のようなものではないか、と思うのだ。自分たちの意志とは関係ないところで、周囲の環境から暴力的にやってくる変化、という意味で、それほど遠いイメージではないと思っている。

さて、ここでさらに想像してみる。ならば、僕らが「災害」だと思っている現象も、実はさらに上位の世界の者たちによる何らかの「実験」なのではないか、と。もちろんこれは、永遠に証明することが出来ないただの空想ではあるが、可能性という意味では否定し切ることは難しいだろう。山も川も雲も太陽もすべて人工物…ではなくて<上位の存在>工物であり、それらが一定の条件下で作動することでその中で生きる人類に対する負荷を長い時間を掛けて観察しているのかもしれない―そういう想像も、可能だ。

そしてこの発想には、世界には「階層構造」があり、自分たちが住む世界に対して上位・下位の世界を想定することが出来る、ということでもある。

本書はその階層構造を、「物語」を扱うことで生み出している。

僕らが生きているこの世界には、「物語」を書く人間が多くいる。そうやって生み出された「物語」は一つの世界であり、僕らよりも一つ下位の世界では「現実」そのものとして振る舞う。さらに、僕らの世界の作家が生みだした「物語」の中にも「物語」を生み出す登場人物がおり、その人物が生み出す「物語」はさらに下位の「現実」として存在する。

そしてそれはつまり、僕たちが生きているこの「現実」も、より上位の世界の誰かが生みだした「物語」なのではないか、と想像出来ることになる。

そうだとしても、僕たちの生活は特に何も変わらない。僕らは、僕らの自由意志によって行動していると思っているが、実際にはそれは上位の世界の小説家(あるいは小説家に限らない)が生みだした行動要請なのかもしれない。しかし、仮にそうだとしても、僕たちが僕たち自身で、自由意志によって行動していると思えるのであれば何も問題はない。

僕たちは、殺人や大災害や貧困などの世界を、様々な物語の形で描くことが出来る。そうやって生み出された物語は、下位の世界では「現実」そのものとなり、恐らくそこで生きる人々は苦しみを味わうことだろう。しかし僕らは、それらの苦しみを「物語」として受け取ることはあっても、それを「現実」だと認識することはない。それらは僕らにとっては「現実」の苦しみではない。

科学の世界には、「オッカムの剃刀」という考え方がある。これは、科学理論は、目の前の物事を可能な限りシンプルに表現できるものであるはずだ、という考え方だ。例えば「雨が降る」という現象は、雲や大気や重力などによって説明できる。しかしそれを、「3億五千万年前に地球にやってきた宇宙人が遺した、地球上には本来存在しなかった化合物があり、それらは空気よりも軽いため常に大気圏に留まっている。そしてそれらが空気中の窒素とある一定の条件下で反応することで雨が発生する」みたいな説明をすることも(もちろん出来ないのだが)出来るかもしれない。しかしこれは、雲や大気や重力をベースとする説明よりも冗長だ。だから恐らくこれは間違っているだろう、というような判断の根拠として「オッカムの剃刀」は用いられることがある。

物語が階層化している、という世界の捉え方も同じだ。世界を冗長に捉えようとする試みであり、正しくない可能性の方が高い。しかし、可能性や希望を抱くことは、誰にとっても自由だ。

内容に入ろうと思います。
が、僕には難しすぎて本書の内容はとてもじゃないけど説明できないので、なんとなく分かった気になっている部分だけざっと書いてみます。

物語は、エドガーの父・ダニエルが死ぬところから始まる。エドガーは母・ラブレスから、父が遺したという小説の草稿を受け取る。そこでは、ダニエルとラブレスが「オートリックス・ポイント・システム」と呼ばれるシステムを開発した。言葉で記述することで世界を生み出す仕組みだ。エドガー001と名付けられたそのシステムは、大量の物語を生み出し、それらは「エドガー・シリーズ」と呼ばれた。しかしやがてある出来事が起こり、人類は絶滅してしまう。
人類が絶滅した後も、エドガー001は残り、誰もいなくなった惑星で一人物語を生み出し続ける。そして、有機体を持たないそれらの「エドガー・シリーズ」は、第二の人類の自らを称することになる。
一方で、オートリックス・ポイント・システムは、その内部に、その内部にはあり得ないはずの記憶をベースとした構造素子が生まれていることに気づく。それは、ディファランス・エンジンという、オートリックス・ポイント・システムとはまったく違う仕組みによって社会が成り立っている世界であり、エドガー001の流れを汲むウィリアム・ウィルソン004はそんな構造素子をバグと決めつけて排除しようとするが…。
というような話…かどうかは分かりませんが、僕がなんとなく理解したところだとこんな感じです。

新人のデビュー作らしいが、いやはや、ちょっとこれは僕にはハードルが高すぎた。使われている用語が、恐らくコンピュータやプログラミングの世界で使われているものをベースにしていて、基本的にそっちの方面に疎い僕には、使われている用語からしてちょっと理解の上限を越えた、という感じだった。なんとなく、どういう設定の物語なのかは漠然と分かったつもりではある。僕が理解できたことは、さっき書いたみたいな、「作中作やさらにその作中作というのは、世界を生み出すための構造なのだ」というような漠然とした理解で、とりあえず、「言葉で物語を生み出すことで世界を現出させる」という考えが基本にあることは分かったつもり。しかしそれ以上の理解は、僕には出来なかったなぁ。

つまらなかったわけではありません。基本的に全然理解できないながらも、ところどころ面白い記述があったし、ところどころ面白い場面があった。とはいえ、やはり僕にはちょっと歯が立たない作品だった。たぶん、プログラマーとか、あるいはコンピュータのシステムとか構造とか、そういうのを仕事にしている人であれば、本書で使われている用語や概念を恐らくすんなり理解できるでしょうから、そういう人には凄く面白く読める作品かもしれない、と思います。そうじゃない人には、とにかく用語と概念を理解するハードルがとにかく高い小説だと言っておきます。

樋口恭介「構造素子」

僕は、才能ある者の才能を活かせない人間は無能だ、と思っている。当たり前だ、と思うだろうか。でもそういうことは、今の時代でも日常的に起こっている。社員だからバイトよりは優秀だ、男だから女より優秀だ、日本人だから東南アジアの人より優秀だ…そんな偏見はいくらでもあるし、そういう偏見が、才能ある人間が能力を発揮することを阻んでいる。

『自分の役割が分かっているか?皆を導く天才を見出すことだ』

女性、しかも黒人の女性ばかりが登場することの映画の中で、非常に印象的な存在感を持つ一人の白人男性の言葉だ。彼がいなかったら、彼女たち黒人女性は活躍することは出来なかったのだろう。

他人を認めることには、才能が必要だ。何かの能力に秀でている人間に引け目を感じる必要はない。そういう人間が近くにいることに気づいているのなら、それだけで十分に才能がある。さらにその天才の能力を伸ばし、適切に活かせる場所に配置することが出来れば、なお有能だ。僕は、そういうことが出来る人間になりたい、と思っている。

この映画は、黒人に対する差別が残る時代のアメリカが舞台となっている。今では欧米でも黒人に対する差別は「表向き」なくなったように思えるが、とはいえまだまだ根強いものはある。さらにこの話は、白人・黒人の問題に留まらない。決して過去の話ではなく、現在進行形で、今もどこかで起こっている話なのだ。

『「私は、偏見は持っていないのよ」
「ええ、分かっています。そう思い込んでいることは」』

僕も、自分ではあまり偏見を持っていない人間だと思っている。でも、実際は分からない。偏見は、自分にとってあまりにも自然な判断だから、意識に上っていないだけ、という可能性もある。そのことを、僕自身も常に忘れないようにいたい、と思っている。

内容に入ろうと思います。
1961年、アメリカはソ連と有人宇宙飛行の実現に向けて激しい競争を繰り広げていた。そして同時にアメリカでは、「白人用」「非白人用」という区分が残る州も多くあり、NASAのある州も、まだその古い体質の残る場所だった。
そんなNASAで働く黒人女性たちがいる。彼女たちの多くは「計算係」として働いている。まだコンピュータが存在していない時代、発射や着水のための様々なデータは、すべて手計算で行われていたのだ。
黒人女性たちを束ねる管理職のような仕事をしているドロシー、技術に対する造詣が深く技術者になるように勧められているメアリー、そして誰よりも正確に完璧にどんな計算でもこなすキャサリン。この三人の黒人女性たちは、黒人で女性である、という激しい偏見と闘いながら、それぞれの能力をアメリカ国家のために活かそうと身を粉にして働いている。
しかし、やはり現実は厳しい。ドロシーは、前任の管理職がいなくなった後、ずっと代行のような形で管理職の仕事をしているが、黒人だという理由で管理職になれないでいる。キャサリンは、同僚からは技術者になるよう勧められるが、NASAの規定上、白人しか通えない学校の講義を受講していないと技術者プログラムを受けられないことになっている。キャサリンは宇宙特別本部でロケットに関する重要な計算を任されているはずなのだが、同僚の白人男性から仕事に支障を来たすような扱われ方をされるし、何より、「非白人用のトイレ」が近くにないせいで、日に何度もNASAの広い敷地を走り、「非白人用のトイレ」がある建物まで用を足しに行かなければならない。
NASAの面々は皆全力で仕事をしているが、ついに1961年4月12日、ガガーリンが有人宇宙飛行を達成。アメリカはソ連との競争に敗れることになった。
何としてでも有人宇宙飛行を成功させなければならないNASAだが、それでも、黒人に対する旧弊な考え方は簡単にはなくならない。それらを一つずつ跳ね除けながら、彼女たちはやがてNASAにとってなくてはならない存在になっていく…。
というような話です。

いい映画だったなぁ。ドロシー、メアリー、キャサリンの三人は実在の人物であり、だからこの映画も基本的には実際の話をベースにしているんだろうとは思います。映画的な脚色があるはずなので、どこまでが本当の話なのかは分からないのだけど、ストーリー全体としてこんなことがあった、ということは事実なんだろと思います。

三人の女性にはそれぞれ、見せ場がある。

ドロシーのシーンで一番好きなのは、図書館のシーンだろうか。先を見通して、自分が今すべきことは何かを考えて行動に移す、という場面が素晴らしくて、その行動がやがて、上司からある打診を受けた際の返答にも繋がっていきます。

メアリーのシーンで一番好きなのは、裁判所でのシーンです。そこで彼女は、ある権利を勝ち取るために判事に向かってスピーチをするんだけど、これが実に良い。『だから私が前例となるしかないのです』という言葉は、グッと来たなぁ。

キャサリンは、この三人の中でも一番主役級の扱いなので、良いシーンはたくさんありますが、僕としてはキャサリンがその場にいなかったある場面を挙げたいかなと思います。それは、グレンという宇宙飛行士がキャサリンについて言及する場面で、彼の一言が、なんというのか、キャサリンのそれまでの様々な不遇をすべて吹き飛ばしたような、そんな爽快感があったなと思います。

そして、僕が一番好きなのは、名前は忘れちゃったけど、キャサリンの上司である白人男性です。先程も書いたけど、彼がいなかったら、キャサリンを始めとした黒人女性たちはNASAの中で活躍することが不可能だったでしょう。黒人であり、さらに女性であるキャサリンに対して、自分こそ有能だと思っている白人男性たちは嫌悪感や敵意を示すことになりますが、上司だけは常にキャサリンのことを、圧倒的な才能を持つ者として扱います。黒人であろうが女性であろうが、NASAの計画にとって必要であれば仕事も任せるし規則も破る。そういう気概を持つこの上司は素晴らしいと思いました。

この上司の一番好きなシーンは、ハンマーを振り下ろしているシーンですね。カッコイイ。口ではなく、きちんと皆の前で行動によって示す、という見せ方はいいなと思います。

この映画の良さは、「アメリカの宇宙開発」という正の部分と、「黒人差別」という負の部分を両面で描いていく、というところだと思います。「アメリカの宇宙開発」の部分で実際の映像が使われているのはある種当然としても、「黒人差別」の部分についても、当時起こった事件の映像を映画の中に取り込んでいます。白人を過度に賞賛するでもなく、黒人を過度に貶めるでもなく、比較的どの要素もフラットに物語の中に取り込んでいるように感じられるのが良かったと思います。

実に素敵な映画だったと思います。

「ドリーム」を観に行ってきました

実に面白い映画だった。でも、面白さの源泉がどこにあるのか、はっきり掴みにくい映画でもあった。

主人公のミシェルがイカれている、というのは、面白さを生み出す理由の一つだろうと思う。ミシェルの行動原理は、うまく掴むことが出来ない。こういう場合、普通こういう行動をするだろう、という予測を、ことごとく裏切る。

最初こそ、ミシェルのその行動には違和感しか抱けなかった。行動があまりにも過激だからだ。映画の比較的初めの方で、ミシェルが車の窓ガラスを割るシーンがある。何故そんなことをしたのか、という状況説明はしないことにするが、ミシェルの判断は、僕からすると常軌を逸しているように感じられた。そういう行動が、いくつも重なる。その尋常ではなさに、最初はついていくことが出来なかった。

しかし、ある事実が判明することで、そこに一定の説明がついたと観客が納得させられてしまう。なるほど、こういう過去を持っているのならば、こういう振る舞いをするような人になっても仕方ないのかもしれない、と思える。そう思わされて以降は、どこかミシェルを受け入れている自分がいた。不思議な魅力があるのだ。

しかし、イカれているのは決してミシェルだけではない。程度の差こそあれ、ミシェルの周囲にいる人間も大分イカれている。物語はミシェルが中心なので、ミシェルとの関係で他の人との関係も描かれていくことになるのだが、ミシェルの行動や判断に対して、周りにいる人間もちょっとズレた反応をする。それが、ミシェルがいることによる歪みなのか、個々人が持つ歪みなのかは分からないが、とにかく、大体の人がイカれているのだ。

この映画を見て、まったく意味が分からない、という感想を抱く人もきっといるだろうと思う。それぐらい、彼らの価値判断は「共感」とは程遠い。しかし僕は、観ていくに従ってどんどん面白く感じられるようになった。皆、普通に働き、普通に日常を送っているように見えるのに、皆どこか狂っている。観れば観るほど、日常が歪んでいくような感じがして、そういう部分に面白さを感じたんだろうと思います。

内容に入ろうと思います。
ゲーム会社の社長であるミシェルは、ある日自宅にいるところを覆面を被った男に襲われ、レイプされた。しかしミシェルは、そのことを警察に通報しなかった。ミシェルには、警察とはどうしても関わりたくない理由があったのだ。
レイプされた後も、いつも通りの日常を送るミシェル。しかし普段からミシェルの周りには、ミシェルに対する悪意で溢れている。社内でも、ミシェルは嫌われている。カフェでは、知らないオバサンからトレーの中身をぶっかけられた。そう、ミシェルはある意味で有名人であり、そういう誹謗中傷と共に育ってきたのだ。
母親は若い恋人と付き合い、夫(あるいは元夫)の小説家とは微妙な関係性を続けている。息子が結婚するが、その嫁とも対立がある。社内では、ミシェルの右腕であるアンナの夫とセックスをする関係だ。
そんな中、隣人の男性が、ミシェルの家を見張っている男がいた、と警察に通報した。覆面を被っていたという。それをきっかけにして、ミシェルはその隣人の男性を気にかけるようになるのだが…。
というような話です。

こう書いてもストーリーが全然想像出来ないでしょうが、観ていてもどんな風に展開していくのか全然想像出来ません。ミシェルを取り巻く様々な情報が色んな形で提示されるのですが、それらがどう繋がっていくのか分からないのです。結局、タイトルの「ELLE」の意味も分からないままでした。それでも面白かった。とにかく、全編で不安定な感覚が継続して、どうなるのか分からないストーリーが魅力的な作品でした。

ミシェルの判断の異常さは随所で感じましたが、僕が一番凄いなと思ったのが、ミシェルが事故を起こした場面です。その事故の直後で、ミシェルはある行動を取るんですが、それが尋常ではないと僕には感じられました。ホントに、ちょっと理解不能でした。

個人的には、ミシェルみたいな人は好きです。僕は、行動原理が分からない人の方が好きなので、ミシェルの振る舞いにはゾクゾクとさせられる。見ていて、次にどうするのか分からない人というのは面白い。確かに、近くにいたら色々面倒なことに巻き込まれそうな気はするんだけど、魅力的な女性だと思う。

映画の面白さを全然伝えられていないと思うけど、僕としては非常に面白い映画でした。ミシェルの女性の、体当たりの演技も良かったです。あと、フランス語(だと思うんだけど)は、やっぱりかっこいいなと思いました。

「エル ELLE」を観に行ってきました

戦争、という言葉を使うと、一気に遠くなる。
砲弾の衝撃とか、銃声のやかましさとか、血の匂いとか、死体の惨たらしさとか…そういうものを、僕たちは知らない。戦争という言葉を使ってしまうと、だから一気に、遠い世界の出来事に思えてしまう。そこに、リアルを感じることが出来なくなる。

戦争、という言葉を使うのを止めてみればいい。例えば、日常の喪失、ならどうだろうか?

色んな日常を生きている人がいる。辛い日常を生きている人もたくさんいるだろうけど、しかし辛いことしかない、という人はそう多くはないはずだ。子育てをしている人、youtubeをいつも見ている人、アイドルや野球球団を応援している人、花を育てている人、絵を描いている人、旅をしている人、恋をしている人…。戦争というのは結局のところ、そういう日常を失わせるものなのだ。そう考えると、一気に戦争が身近なものに思えてはこないだろうか?

僕らの日常は、実に不確かな足場の上に構築されている。それは、「今自分たちがいるこの場所は日常なのだ」という思い込みの集積でしかない。僕らの目の前に、まるで無限に続くかのように思える形で存在しているように思える日常というのは、あるいは、二枚の鏡の間に立っているだけのようなものかもしれない。ちょっと前後どちらかに進んだら、鏡にぶつかってそれ以上進めなくなってしまうような。

『(雑誌の付録の)小道具の外国趣味もほどほどに。現実から目をそむけて、叙情的なものに溺れるのは読者の心を脆弱にする』

『ねえ、間違っていてよ。あなた方の誰も、お父様やお兄様が戦地に行っていないの?恥ずかしいと思わなくって?自分の身を飾ることばかり考えて』

雑誌の付録か華美だろうが、自分の身を飾ろうが、今の世の中では問題ではない。日本が戦争に突入する前も、そうだった。しかし、戦争が始まると、人々の考え方が変わる。ちょっと前まで「日常」であったものが、はっきりとした変化の兆しに気づけ無いまま、いつの間にか「日常」から排斥する力が生まれてくるのだ。

『どれほど現実が冷たくとも、誌面を眺めるひとときだけは温かい夢を。
そうした思いが許されない時代が来たのかもしれない。』

あなたの日常の中で、これがあるから頑張れる、というものを思い浮かべて見てほしい。そして、あなたの原動力になっているそれについて、「今の時代では不謹慎だ」と言って奪われてしまうことを想像してみてほしい―。

その想像の中にこそ、僕は「戦争の本質」があるのだと思う。

『希望です。新しい靴や服がなくても、ひもじくても、そこに読み物や絵があれば、少しは気持ちもなぐさめられる。明日へ向かう元気もわいてきます。』

本書は、戦争の足音を聞きながら、少女に向けた雑誌を作り続けている人々の物語だ。雑誌や物語に関心を持つ人にはそれだけで興味深いだろう。しかし、本書をただそれだけの物語として捉えるのはあまりにも狭量だ。本書では、「少女向けの雑誌」は「日常を彩るもの」として描かれる。そしてその「日常を彩るもの」を生み出すのにどれだけの情熱を注いでいるか、また、「日常を彩るもの」がいかに奪われうるかということを描き出していくのだ。

『子どもから大人になるわずかな期間、美しい夢や理想の世界に心を遊ばせる。やがて清濁併せ呑まねばならぬ大人になったとき、その美しい思い出はどれほど心をなぐさめ、気持ちを支えることだろうか。そうした思いをもとにこの雑誌は続いてきたはずだ』

『「だけど僕らは切腹も殉死もしない。生き残ることを選ぶ。なぜならこの雑誌は少女、乙女の友だからだ。たとえ荒廃した大地に置かれようと、女性はそれに絶望して死にはしない。一粒の麦、一握の希望、わずかな希望でもそこに命脈がある限り…女たちはそれをはぐくみ、つなげていく。」
はいつくばろう、ぶざまであろうと、有賀がつぶやいた。
「未来へつなげていくことに光を見出す。それが女性たちの力だ。僕らは男だけれど、女性にはそうした力があることを今だから声を大にして伝えなければいけない。なぜなら彼女たちの声は今はあまりに小さく、あまりにか細い。この時代のなかで簡単に潰されてしまうから」』

「日常」は、いつだってあっさり奪われ得る。そのことを、僕たちは「日常」の中にいると忘れてしまう。本書は、「日常」は決して「当たり前」と同義ではないと意識させてくれる作品なのだ。

内容に入ろうと思います。

佐倉波津子は、本名は「ハツ」だが、その名前が嫌で自分で書く時は「佐倉波津子」と書く。今は老人施設で寝起きする日々だ。夢と現実のあわいで生きているような、何が現実で何が過去の出来事なのか区別がつかないような日々だ。
来客は断って欲しい、とお願いしているが、たまに誰かが来たことを報告してくれる。ある日佐倉は、「フローラ・ゲーム」の限定バージョンを受け取った。それがきっかけで、17歳の頃から自分の人生がパーっと思い出された。
昭和12年。かつて裕福だった佐倉家は、父が帰って来なくなったのを機に生活が厳しくなり、佐倉は進学を諦めた。椎名音楽学院の内弟子として働きながら、時々マダムに歌の稽古をつけてもらう日々だが、マダムは戦争が終わるまで関西の田舎にひきこもることにしたとかで、佐倉は行き場を失ってしまう。
辛い日々を支えてくれたのは、印刷所の息子であり幼馴染である春山慎が時々こっそりくれる、試し印刷をした少女雑誌「乙女の友」だ。画家の長谷川純司と、主筆である詩人である有賀憲一郎のコンビが大好きで、いつも心をときめかせている。
そんな佐倉は、ひょんなことから、大和之興行社で働くことになった。「乙女の友」を発行している雑誌社だ。なんと、主筆である有賀氏の下で働けるのだという。とはいえ、働き始めた佐倉は、自分がお荷物であることに日々気付かされる。少年の働き手が欲しかった有賀氏の思惑が外れ、佐倉は何を任されるでもなく、時々雑用を頼まれたりしながら、会社の端っこにいた。
それでも、憧れの有賀憲一郎と長谷川純司の近くにいられることは、佐倉の心をときめかせた。
戦争の気配が色濃くなっていき、社員や友人が徴兵されたり、連載を持っていた作家さんが突然逮捕され原稿を落としたりするようなことが起こるようになった。佐倉は、そういう状況の中で、少しずつ自分の存在意義を見出し、誌面づくりでも活躍できるようになっていく。
周りは皆女性も含めて大学出ばかりの職場で、小学校しか出ていない佐倉は常に引け目を感じていたが、モノ作りに真摯に取り組む人々の中で揉まれながら、佐倉は次第に強くなっていく…。
というような話です。

これは良い作品だったなぁ。戦争を背景にした作品でありながら、作品全体からとてもキラキラした雰囲気を感じる。少女雑誌という、戦時中においてはいの一番に「不要」と判断されそうなものを、全身全霊を以って作り続ける者たちの心意気が見事に描かれている作品で、何かを生み出し届けるという、あらゆる仕事において不可欠な事柄の大事さみたいなものを改めて実感させてくれる作品でした。

冒頭でも触れたように、本書は、砲弾や銃声はほとんど描かれないながらも、それでいて「戦争の悲惨さ」を如実に描き出す作品だな、と感じました。戦場や兵士たちを直接的に描くことによっても「戦争の悲惨さ」を描き出すことは出来る。しかしやはりそれは、どこか遠い世界の話に感じられてしまう。本書は、戦時下ではいかに「日常」がジワジワと奪われていくのか、ということが丁寧に描かれていく。誰もが、自分が正しいと思っている。平時であれば、複数の正しさは共存できるのだけど、戦時下においてはそれが不可能になる。戦時下では、人々の思考や価値観がある方向に自然と集約されていくし、その流れに逆らうことはたぶん出来ない。その怖さを、本書は描き出しているなと感じます。

とはいえ、こういう捉え方は読者次第だと言える。そんなことを考えなければ、純粋に美しいもの、心をときめかすものへの愛情に溢れたものたちのキラキラした日常を描いた作品として読むことが出来る(ラスト付近はどうしても戦争を意識せざるを得ないけど)。

自分たちが作っているものを待ってくれる人がいる。ネットのない時代、そう信じることはなかなか勇気がいることだろう。特に戦時下においては。雑誌を一冊買ったところで、お腹が膨れるわけでもなければ、明日の支払いの役に立つわけでもない。しかしそれでも、ある人達にとっては、この雑誌の存在がどうしても必要であり、だからこそ自分たちも作り続けるのだ―。これはもはや、信仰に近いものがある。しかし、信じる力が強ければ強いほど、それは事実となる。仮にその事実が、ごく狭い範囲でしか成り立たない事実であったとしても、その世界の中では紛れもない事実だ。そういうものを自分たちが生み出しているということの自負と責任を、彼らはきちんと意識している。そこにプロフェッショナルを感じるのだ。

佐倉は、かなり個性豊かな面々と共に働くことになる。有賀憲一郎と長谷川純司も、共にユーモラスで有能で尊敬に値する人物だが、他にもいる。科学をベースに空想小説を書く空井量太郎、憲一郎の従姉妹で編集部で働いている佐藤史絵里、有能だが少女雑誌にはさほど興味はない編集長の上里善啓、読者からの人気の高い「翻訳詩人」である霧島美蘭…。他にも多数いるが、そういう個性的な面々と一緒に雑誌作りをしている。そういう中にあって、佐倉には誇れるものはない。唯一あるとしたら、「乙女の友」をずっと好きで、敬愛と言っていいほど愛している、ということだ。その愛情の深さが、佐倉を悩ませもするし、前に進ませもする。仕事、という側面から見ても、本書は実に面白い。

人間関係もまた豊かだ。色恋は扱わない、という方針の「乙女の友」だが、雑誌作りに励む面々の間では様々な思いが交錯することになる。創作の熱意と恋心が入り混じり、本人でさえその境界を区別することが出来なくなっていく者たちの苦しさみたいなものが描かれていてとても良い。

『この雑誌の読者は、この雑誌を毎月買える裕福な家の子女だけかい?大人の庇護を受けている子女だけが友なのか。僕はそうは思わない。美しい物が好きならば、男も女も、年も身分も国籍も関係ない。』

こういう台詞に、羨ましさを感じる自分もいる。何故なら、この時代は、戦争という巨大なものが迫りつつあったが、同時に、良い物を作ればきちんと売れる時代でもあったからだ。だからこそ作り手は、いかにして良い物を作るか、という点だけに神経を注げば良かった(というのはまあ書きすぎかもしれないが)。本書においても、「いかに売るか」という議論は出てこない。「いかに良い物を作るか」が重要なのだ。

今の時代は、そうはいかない。どれだけ良い物であっても、売れないことはある。逆に、大したことがないものでも、ひょんなことから売れてしまうこともある。僕は日々、「いかに売るか」に汲々としている人間だ。何か物を生み出すような仕事をしているわけではないから、彼らと同列に論じるのは間違っているとは思う。しかしそれでも、不謹慎なのかもしれないが、ある意味で良い時代だったなと感じてしまうのだ。

本書の舞台となる「大和之興行社」のモデルは、本書の出版社である「実業之日本社」であるという。「乙女の友」という雑誌のモデルは、同社が出していた伝説の雑誌「少女の友」だという。本書で描かれていることが、どれだけ現実や時代の雰囲気を切り取ったものなのか、僕には判断が出来ない。しかし、「少女の友」を出版した出版社から本書が出る、ということから考えてみても、かなり当時の雰囲気を醸し出せている可能性は高いのではないかと思いたくなる。そうか、こういう時代が、本当にかつてあったのか、という嬉しさみたいなものが、湧き上がってくるような気がするのだ。

伊吹有喜「彼方の友へ」

もの凄く面白かった!
期待値が低かった、ということもあるのかもしれないけど、いやはや、べらぼうに面白い。30年以上前、それこそ僕が生まれたのとほぼ同じ年に出版されたとは思えないほど古さを感じさせないし、演劇を舞台に脅迫電話から始まる事件を描いているのに、事件じゃないところが滅法面白いというのも凄い。有吉佐和子、凄いな。

内容に入ろうと思います。
推理作家の渡紳一郎は、うまく入眠できないという問題を長年抱えていた。今は、必要な量の薬を的確な時間に飲み、生活全体を穏やかにすることできちんと睡眠を確保できるサイクルを生み出している。しかし、そんなサイクルを邪魔する電話が掛かってきた。しかも、とんでもない電話だった。
元妻である小野寺ハルからの電話は、常軌を逸したものだった。演劇界にその名を馳せる加藤梅三という脚本家が、開幕を一ヶ月後に控えて降りてしまったという。その演劇は、川島芳子を主人公に据えたもので、松宝の看板である八重垣光子と中村勘十郎を東竹が借りて行う一大プロジェクトだった。しかし、脚本がないんじゃどうにもならない。そこで小野寺ハルにお鉢が回ってきた、ということらしい。それだけなら渡には何の関係もない話だ。しかしこの元妻は、依頼を引き受けるに当たって一つ条件を出したという。それが、演出は渡紳一郎でお願いします、というものだった。
かつて渡は演劇界にいた。しかし、あまりのストレスにより入眠できない日々が続き、二度と演劇界には戻らないと決意して、渡は推理作家へと転身したのだ。それをこの女はぶち壊しにしようとする…。
とはいえ、渡はその話を引き受けた。そして、すったもんだありながら、どうにか初日を迎えることが出来た。そのすったもんだの中には、渡の処女作に主演した花村紅子の死去も含まれている。舞台の幕が開く、まさにその前日に、花村紅粉の葬儀が行われるのだ。
初日から、関係者を慌てさせる色んなことが起こるも、観客は大喝采。連日超満員の大評判となった。帝劇側も、補助席を目一杯出して詰め込む作戦である。
そんなある日、帝劇の貴賓室の電話が鳴った。おかしい。この電話がなることなど、ほとんどないのだ。支配人の大島ですら、この番号を知らないほどだ。不審に思いながら出てみると、男の声で、「二億円用意しろ。でないと大詰めで女優を殺す」と言われる。なんてことだ、今日はただでさえ混雑が予測されるのに、その上脅迫電話か…。八重垣光子には敵が多く、彼女を守る必要などないという意見も出たり、そもそも光子自身も、舞台で死ねるなら本望、と言ってのけるし、中村勘十郎にしてからも、もう十分生きただろう、光子を守る協力などはしない、などと言い張る始末。その内、誰も予想していなかった展開が次々起こり…。
というような話です。

面白い作品だったなぁ。繰り返すけど、古さをまったく感じさせない作品だし、最初から最後まで一気に読ませる。最後、真犯人が明らかになる辺りの展開は、本格ミステリ的ではない(具体的には書かないけど)感じで、それはちょっとなぁ、と思う部分はないでもない。とはいえ、別に本書は本格ミステリとして書かれたわけでもないし、全体的にはもの凄く面白い作品だから、さほど気にならなかった。

一番凄いと思ったのは、本書の構成だ。なんと、脅迫電話が掛かって来るまでに200ページ掛かる。全部で430ページ程の作品だから、ほぼ中間地点から事件が始まる、と言っていい。じゃあ、事件が起こるまで面白くないのかと言えば、それは逆で、むしろ冒頭200ページが滅法面白いのだ。これが凄いと思う。

最初の200ページでは、渡とハルが演出と脚本を引き受け奮闘する話や稽古の様子、また初日からしばらくの間の演劇の内容が描かれていく。こう書くとさほど面白くなさそうに思えるだろうが、さにあらず。とにかく、八重垣光子と中村勘十郎が凄すぎて、この二人が織りなすやり取りがとにかく面白い。

二人共、看板俳優でありながら、セリフを全然覚えてこない。じゃあどうするのかと言えば、舞台上に隠れている「プロンプ」と呼ばれる、台本を持って役者にセリフを教える係というのがいるのだ。彼らが良いタイミングで役者にセリフを伝える。もちろん口頭で伝えるわけだが、「プロンプ」の声は役者にだけ届くように調整されるので、観客席からは聞こえない。

で、この二人は、セリフを覚えないという理由もあるんだろう、元のセリフとは全然違うことを喋ったり、台本にないような演技をバンバンしてくる。即興でセリフを作り上げては、相手とのやり取りを成立させていく。もちろん本書は小説だから何でも出来てしまうのだが、本書の解説によれば、八重垣光子にも中村勘十郎にも実在のモデルがいるという。その実在のモデルの方にしても、どこまでそういう即興でのセリフ回しをしていたのか分からないのだけど、そういうことは演劇界では往々にしてあることなのだろう。それがリアルに描かれていた。

台本になりセリフをやり合うことで、お互いの力試しや力関係を示す意図があり、だから八重垣光子と中村勘十郎はバチバチなのだ。実際には、八重垣光子は何を考えているんだかよく分からないのだが、中村勘十郎は光子のことを「殺してやる」と思っているぐらいムカついている。しかし困ったことに、八重垣光子の演技は、それはそれは観客を魅了するのだ。演技があまりに天才的であるが故に、誰も光子に口出しが出来ない。八重垣光子という超天才に周りが振り回されている、という構図が歴然とあるのだ。この状況を、舞台上での演技だけではなく、舞台裏での振る舞い、松宝や東竹の上層部の反応、付き人たちの証言などから明らかにしていく。もちろんその状況が、物語全体を左右することにもなるわけで、冒頭200ページでその辺りのことを掘り下げるのはとても重要なのだ。

事件が起こる前、彼らが彼らにとっての日常である「演劇」の世界を普通に生きているだけで、物語としてはもう十分スリリングなのだ。著者は演劇にも造詣が深かったようで、だからこそ演劇の世界を掘り下げて描くことが出来るのだろう。そのことが、物語を厚みのあるものにしている。

そして、事件のきっかけとなる脅迫電話が掛かってきてからも、基本的には演劇主体で物語が進んでいく。というのも、脅迫犯がどう出て来るのか、そしてどこの誰なのか、みたいなことがほとんど掴めないからだ。だから事件の方で物語を牽引していくことはなかなか難しい。

そんなわけで、事件が起こってからも、やはり八重垣光子と中村勘十郎の演劇が物語全体を引っ張っていくことになるのだ。脅迫電話が掛かってきてからは、ギアが一段上がったかのようにテンポが一層スピーディーとなり、てんやわんやの様相を呈することになる。そうした中で、一体誰がどんな目的で事件を引き起こしたのか…。もちろんこの点も面白く読ませるのだ。

なんとなく文学的な作品をイメージしていましたが、超ドエンタメ作品でした。ちょっと長いですけど、一気読みの一冊なので、是非読んでみてください。

有吉佐和子「開幕ベルは華やかに」

久々に、こんなぶっ飛んだ映画を観たなぁ。
これ、ストーリーを考えた人、マジで頭イカれてると思う(笑)

ストーリーも何もないんだけど、大体こんな感じ。
船が難破して無人島に取り残されたハンクは首吊り自殺をしようと思っていたが、その時に浜辺に男が横たわっているのを発見する。死んでいるのかもしれないが、話しかけてみる。なんだかよく分からないが、オナラばっかりしているそいつが、結果的にその男を島から脱出させてくれることになった。
目覚めると、それまでとは別の浜辺にいた。助かった!ハンクはそう思った。動きも喋りもしない男は浜辺に置いていくつもりだったが、気が変わって背負って行くことに。
人の気配を求めて歩き回るも、全然いない。その内男を背負っているのも馬鹿らしくなったが、しかしハンクは、その男が謎の力を持っていることに気づき…。
というような話。

これは僕の予想だけど、「スイス・アーミーマン」っていうタイトルが先に浮かんだんだろうなぁ、という気がする。これはまず間違いなく、「スイスアーミーナイフ」から来てる。スイスアーミーナイフってちゃんと分からないけど、日本の十徳みたいなものかな?つまり、「万能の道具」みたいなことなんだと思う。で、ハンクが拾ったのも、そんな「万能の男」だった、というわけ。とりあえずそのワンアイデアから話を作っていったんじゃないかなぁ。

話としては、特に面白いとは思わなかったんだけど、遭難してるのに「途中そんなことやってていいの!!??」的な展開は、ぶっ飛んでて凄いなと思いました。

「スイス・アーミーマン」を観に行ってきました

『映画音楽のルールは一つだけだ。“ルールはない”』

映画における音楽というのは、無声映画の時代からあったという。劇場にオルガンが設置され、譜面通り、あるいはその場の即興で音楽をつけた。音楽が必要だった理由の一つは、映写機の音をごまかすためだったようだが、次第に映画人たちは、音楽の力を認識するようになる。

『作曲家は語り部だ』

映画音楽にとって大きな革命は何度もあった。その最初が「キングコング」だ。この映画では、映画音楽のオーケストラを取り入れた。革命的なことだった。「キングコング」は、音楽なしでは「作り物感」が強い。実際、作り物だからだ。しかしそこに音楽が加わると、途端に迫力が生まれる。音楽の力を、初めて見せつけた映画だ。

『音楽は映画の魂だ』

その後、「欲望という名の電車」で映画音楽にジャズが組み込まれ、また「007」では映画音楽にバンドという選択肢が組み込まれるようになった。

『間違ったやり方なんてない。正しくなるまで、試し続けるだけだ』

そんな風にして、映画音楽には新しい風がどんどん吹き込まれていった。1960年代半ばから1970年代初頭は、まさに映画音楽の黄金時代だったそうだ。ヒッチコックの「めまい」は、映画音楽の手本だと言われている。またこの映画の中で、「サイコ」のシャワーシーンを音楽なしで流す場面があった。確かに、音楽なしであのシーンを見ても、あまり怖くない。ある人物はシャワーシーンの音楽について、『あんな音楽、映画音楽じゃなきゃ耳障りなだけだ』と、逆説的な形で音楽の効果を絶賛している。

『音楽は、観客に望みどおりの感情を与える潤滑剤だ』

もちろん音楽にはそういう効果もあるが、別の役割もある。この映画には女性科学者が登場する。彼女は、音楽が脳にどんな影響を与えるのかについて語るが、その話の中で、映画を観ている観客の視線について語られる。大勢の観客がいるのだから、ある場面について観客がそれぞれ別々の箇所を観ている、と考えるのが自然だ。人物だったり風景だったり、動くものだったり止まっているものだったり、様々な観客は、様々な場所を観ているはずだ、と。

しかし実際には、それと異なる研究結果が出ているのだという。ある場面における観客の視点は、かなり高い確率で同じになっているという。そしてその効果を生み出すのが音楽なのだ。音楽は、場面場面での観客の視線を操る役割も果たしているのだ。

映画音楽には革命児はたくさんいる。しかしその中でも、ウィリアムズは「神の領域」にいると表される。

『「JAWS」は、音楽がなければ、何が何だか分からない』

ダーダン、ダーダン、というあの印象的なフレーズを生み出したのがウィリアムズだ。当時としては、この音楽は無謀な実験だったというが、大成功を収めた。

その後もウィリアムズは、「スター・ウォーズ」「スーパーマン」「インディー・ジョーンズ」「ET」「ジュラシック・パーク」など、誰もが聴いた瞬間に映画を思い出せるほど有名な映画音楽を次々に生み出してきた。

『自分で鳥肌が立つような曲じゃなきゃダメだ』

その後も、映画音楽の世界は次々と革新を受け入れていく。そうやって現れたのがハンス・デューだ。彼も、「パイレーツ・オブ・カリビアン」「グラディエーター」「インセプション」など、印象的な映画音楽を生み出している。しかし、そんなトップランナーでも、映画音楽と向き合う際には不安を覚えるという。

『恐怖で妄想にかられることもあるし、死ぬほど悩むこともあるけど、でも辞める気はないよ』

その後、「ソーシャルネットワーク」の映画音楽がアカデミー賞を受賞したのを皮切りに、映画音楽は電子音楽家にも門戸が開かれることになった。彼らは映画音楽に「美しい混沌」をもたらし、それが革命となっていく。

『映画音楽は20-21世紀が生んだ偉大な芸術だ』

オーケストラを日常的に使っているのは、今や映画音楽の世界だけだ。オーケストラがなくなったら、文化に多大な影響が出る。映画音楽が支えているのは、もはや映画の世界だけではないのである。

非常に面白い映画だった。映画監督・作曲家・ミュージシャン・プロデューサー・映画史研究家・科学者など様々な人物が登場し、映画音楽について語っていく。実際に、その音楽が使われている映画のシーンも挿入され、それらの効果や、どのように生み出されたのかという話が、多方面から描かれていく。

僕個人としては、音楽の少ない映画の方が好みだ。映画音楽が、特定の感情を強要する風に感じてしまうからだろう。とはいえ、この映画を見ることで、映画音楽に興味を持つことが出来るようになった。感情を操作しているというのはもちろん予想通りだったけど、視線までコントロールしようとしているというのは驚きだった。

また、勝手なイメージでは、これだけ電子音楽が広まっているのだから、電子的な音で作ることが多いのかと思っていたのだけど、そうではないようだった。特に、作曲家たちがありとあらゆる楽器を集めているというのは興味深かった。子供向けのアニメの音楽制作のために子どもようのおもちゃのピアノを買ったという作曲家もいたし、見たことも聞いたこともないような楽器を奏でる作曲家たちも様々に登場した。「猿の惑星」で業界に衝撃を与えた作曲家は、金属のボウルをゴムボールで叩いて音を作ったという。それがその映画、そのシーンにハマっていさえすれば、どんな音でもどんな曲でも構わない。映画音楽の自由度の高さが、あらゆる才能を吸い寄せ、傑作を生み出す環境となっているのだろうと感じた。

しかし、ウィリアムズは凄いなと思った。「スター・ウォーズ」「スーパーマン」「インディー・ジョーンズ」「ET」「ジュラシック・パーク」の音楽なんか、どれも分かる。僕がこの中で、実際にちゃんと映画を見たことがあるのは、もしかしたら「インディー・ジョーンズ」をテレビで見たことがあるかも、ぐらいだと思う。それなのに、全部分かる。その曲を聞けば、なんの映画かパッと思い浮かぶ。この力は本当に凄いなと感じました。

『音楽は実体のない唯一の芸術だ』

確かにそうかもしれない。音楽は、見ることも触れることも出来ない。そしてそれが、僕らの心を揺さぶるのだ。その力を改めて実感させられて映画だった。

「すばらしき映画音楽たち」を観に行ってきました

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難しいことなど一切考えずとも面白く読める小説だが、本書には、異なる価値観を持つ存在とどう関わっていくのかという一つの解答がある。

昔がどうだったのか、具体的には知らないので、あくまでも印象の比較ではあるが、現代は以前と比べて、他人の価値観を受け入れる余地が狭い人間が多いように感じられる。

もちろん、時代の差はある。かつては、インターネットがなかったこともあり、個人の価値観が距離を飛び越えた他者にまで届くことはほとんどなかった。物理的に距離の近い者同士の間での価値観しか問題にならなかった時代だろう。また、そういう時代だからこそ、世間一般の価値観を作り出すのは、テレビや新聞や雑誌などのいわゆるマスメディアが中心だったはずだ。だからこそ、マスメディアから届く様々な価値観をベースにしながら、皆自分の考えを組み立てていったはずだ。ベースが同じだからこそ、そこまで大きな違いが認識されなかった、という側面はあるだろう。そういう時代の方が良かった、などというつもりはないが、そういう今とは違う環境があったことは確かだろう。

現代では、インターネットの登場により、個人の価値観が様々な形で表に出てくるようになった。個人が自らの価値観を社会に染み出させることが出来る仕組みのお陰で、人々の考え方のベースとなるような大きなもの(かつてはマスメディアが作り出していたもの)がどんどんと薄れていった。それ故に、どんどんと価値観は多様化し、細分化していくことになる。そのこと自体は、とても良いことだと思う。多様な価値観が混在するからこそ、世の中が豊かになっていくのだと僕は思っているからだ。しかし、多様性というのは、間違った方向に進んでしまうと、異なる価値観を持つ者を排除するような方向に行ってしまう。まさに僕らは今、そういう時代に生きているのだと僕は思う。

ニュースやネットを通じて、世の中で起こっている様々な出来事を見聞きすると、もう少し他者の価値観を受け入れる余裕を持てば大体のことは起こり得なかったのではないか、と感じるような事件やトラブルを見かけることがある。もちろん、昔はなかった、などというつもりはない。というか、昔の方が、全共闘を始め、対立が社会問題化するような時代だっただろう。しかしそれでも、現代の方が、価値観が多様化しすぎているが故に、対立の構造が遥かに複雑になっているような印象を受ける。

僕は、自分と価値観の合わない人間と遭遇すると、チャンスだ、と感じる。多数派の意見には興味を持てないことが多いのだけど、少数派同士でも意見が合わないことはよくある。その意見の合わない少数派と出会うと、自分とどこが合わないのか知りたくなる。知ることで、自分の価値観の境界線がはっきりしてくるように感じられるからだ。

また、相手の土俵の上で議論を進めていくことも好きだ。議論をする場合には、お互いにある程度前提を共有しなければならないが、そのことを理解しないで議論をしている人を見かけると、なんて不毛な議論なんだ、と感じる。僕は、お互いの前提をすり合わせて共通する部分を見つける、みたいな作業がめんどくさいので、相手の土俵に立って、相手の価値観の論理を使って議論を進めていく、みたいなことをやることもある。相手は、僕が根拠としているのが相手自身の価値観をベースにしたものであるので、なかなか反論しにくくなる。

自分と異なる価値観を理解し受け入れることは、コミュニケーションの基本だと僕は思っている。しかし、そこを放棄してしまう人が多いような印象を持っている。コミュニケーションには、価値観の異なる者と関わる、という側面もあるのだということに気づかない振りをして、価値観の合う者ばかりを探しては、「ヤバイ!」の一言で続いてしまう会話をする。

なんとなく僕はそういう現状を、怖いなと感じることがある。

価値観の異なる者との関係性を排除できてしまう社会インフラが様々に整うようになってきて、益々気が合う者とだけ関わればいいような日常が構築されようとしている。人間関係がオンライン中心だという人は多いだろうし、やがて本当に物理的に他者と合わなくても生きていけるような世の中がやってくるかもしれない。

そうなった時、きっと、人類は滅びるんじゃないかな、と思う。異なる価値観の接点・接地面にしか生まれないモノが、人類の歴史を作り上げてきたのだと、僕は思いたいのかもしれない。

内容に入ろうと思います。
本書は、前作「ロボットイン・ザ・ガーデン」の続編です。正直に言って、僕は前作の内容をほとんど思い出せないまま本書を読み始めたので、前作の内容はリンク先で読んでください。

本書は、“ジャスミン”という名の新たなロボットが、ベンとエイミーの夫婦(ではないのがややこしいのだけど、ここでは「夫婦」と表記する)の元にやってきたことから始まる。ベンはかつて、自宅の庭に迷い込んできた旧式のオンボロロボット(「タング」という名を付けた)と共に長い長い旅をし、タングを生みだした天才ロボット工学者であるボリンジャーの元までたどり着いたことがある。ジャスミンは、そのボリンジャーの元から派遣されてきた新たなロボットなのだ。
ジャスミンの任務はシンプルだ。タングのいる地点の位置情報をボリンジャーに送信すること。タングの所有権は自分にあるので、取り返しに来る、というのだ。しかしボリンジャーは政府から監視される対象、どんな通信手段も使えない状況だ。そんな中でジャスミンがどんな連絡方法を有しているのか謎だが、ともかくもジャスミンに位置情報を送信されるのは困る。
何故ならベンとエイミーは、タングのことを家族の一員と捉え、大切にしているからだ。
この時代、掃除や料理などに特化した、いわゆる「アンドロイド」と呼ばれるタイプの人工知能は急速に発展している。しかし、何らかの機能を全うするのではなく、ただ幼稚な言語でお喋りをするだけの旧式のロボットには興味を持たない。ロボットは全般的に厳しく管理され、チップに埋め込まれた情報から所有者などの情報が判明する仕組みになっているのだが、タングは盗品であるが故にメンテナンスや保障に問題が生じている。さらに、盗品であることが発覚すれば、ベンとエイミーはタングを手放さなければならなくなるかもしれないのだ。彼らはジャスミンをどうにか処分しようと試みるが、宙に浮き、庭にじっとしているジャスミンを排除することは出来なかった。
彼らの間にはボニーという娘がいる。彼らは幼い娘とロボット二台を抱えながら、研修医と解雇されそうな弁護士という苦しい立場に立たされている。
彼らは、法律上は彼らの持ち物ではないタングらとの様々な日常風景を描きながら、様々な成長を描き出す作品だ。

なかなか面白い作品でした。冒頭でも書いたように、僕は前作「ロボットイン・ザ・ガーデン」の内容をほぼ忘れていました。それでも十分面白く読めますが、やはり前作は読んでおいた方がいいでしょう。

前作は、ベンとタングが旅をし、その旅先ごとで色んなことが起こるという、ある種の冒険譚だった。本書の場合は前作とがらりと変わって、物語はほぼ家の中で進んでいく。だからこそ、という側面もきっとあるだろう、本書は日常における価値観の対立をうまく描き出している、と感じました。

相手がロボットである、という点も、本書を面白くする。例えばボニーのような人間の子どもであれば、言葉が通じる年齢になれば、「同じ種族である」という前提があるために、価値観のすり合わせは同じ種族ではない場合に比べたら圧倒的に楽だろう。

本書では、タング、そしてジャスミンが、自ら意志を持ち、会話をする。彼らが世の中をどう捉えているのか、どんな場面でどう感じているのかを知ることは実に面白い。人間と会話する場合には「大前提」にしてしまう様々な事柄を持っていないタングに対して、新たな価値観をどう伝え、また適切な価値観を元に行動することの大事さを伝えることは、なかなか難しいことだった。しかし、ベンとエイミーはそれをやり遂げたから今の生活がある。ベンとエイミーがロボットたちとどう関わっていくのか。一つの読みどころである。

また、ベンとエイミーの関係性も注目だ。前作の流れを忘れたので、何故ベンとエイミーが離婚しているのか、という理由を忘れてしまったが、彼らは、よりを戻したい気もするし、でもそこには高い壁があるとも感じられて、モヤモヤしてた状態を持続させている。ベンとエイミーの関係が、新たなロボットの登場によってどう変化したのか。その点も読みどころだと言えるだろう。

彼らの日常は、「家に意志を持ったロボットがいる」という点を除けば、至ってありきたりのものだ。しかしだからこそ、彼らの異質さが浮かび上がってくる。タングとジャスミンを受け入れる生活には、なかなか普通は踏み出すことが出来ないはずだ。異なる意志、というよりも、人間と同じような意志を持っているとは想定難い存在を前にして、0から人間の価値観を植え込んでいく過程は、読んでいる分には面白いが、相当大変だろう。しかし、その苦労を乗り越えてでもタングと一緒にいたいというベンとエイミーの強い意志を感じることが出来るし、実際に彼らは、タングやジャスミンがいたお陰で関係性に変化をもたらすことが出来たと言っていいだろう。

自分が当たり前だと思っていることほど、言語化しないまま疑問を感じることなく脳内にしまいこんでいる。しかし、タングのような存在がいると、自分の中の常識がひっくり返っていく。「ペットって何?」のような単純な質問だからこそ、それが如実に現れてくるのだ。本書は、ほんわかした読み物としてももちろん十分楽しめるのだが、コミュニケーションの本質を垣間見せてくれるという意味でも面白い作品だ。

デボラ・インストール「ロボット・イン・ザ・ハウス」

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内容に入ろうと思います。
本書は、エッセイストの北大路公子が、1年間雑誌に連載し続けたエッセイが掲載されている作品です。1月1日から12月31日まで、ところどころ抜けている日付もあるけど、概ね毎日書いています。日毎の分量はまちまちですけど。

僕は北大路公子のことを「プロの無職」だと思っているんだけど、とにかく何もしていない。いや、北海道に住んでいるので、仕方なく雪かきはしているようだが、雪かきする以外は大体酒を飲んでいる。よくもまあそんなに飲んでられるな、というぐらい飲んでいる。アル中を疑えるレベルで飲んでいるのだけど、大丈夫なんだろうか?

副題の「ダンゴ虫的」の通り、北大路公子は大体家から出ない。そして出る時は、時々あるサイン会か、あとは酒を飲むためである。これほどまでに「飲むために生きる」を体現している人もなかなかいないだろう。

酒を飲みながら、色んな人と話をする。その話もアホみたいな話ばっかりで面白い。例えば、会話というわけではないが、本書には「ストーブ祭り」というのが登場する。

『夜は、毎年この時期(※3月末)に開かれるストーブ祭りに参加するため、Mっちととともにハマユウさん宅へ。ストーブ祭りとは、「ハマユウさんがこの冬に買った灯油を消費しきるまで、皆でひたすらストーブを燃やしつつ酒を飲む」という天下の奇祭である』

アホである。これが毎年行われるというのだからアホである。

また、著者の独特の思考も面白い。いくつか抜いてみよう。

『もし私に息子がいて箱根駅伝の選手にでもなったら応援に行かなくちゃいけなくなるから、本当に息子がいなくてよかったと思う』

『天気予報を観ながら、「アレ」の呼び名について考える。代名詞のままだと不便だし、「雪」と呼ぶにはあまりに忌々しいので、思い切って「希望」と呼ぶことにするのはどうだろう。「あたり一面希望にふれている!」などと声に出すと、くさくさした気持ちも少しは晴れるのではという、健気な乙女心である。予報によると、明日の朝も希望が積もっているらしい』

『ついこの間までは、お正月に神棚に供えたスルメを「太る成分は神様が全部食べたから」という理屈で毎晩食べ続けていた』

アホだなぁ。しかし、よくもまあこんなアホみたいなことをポンポン思いつくものだと感心する。そのほとんどが、「目の前の現実を見なかったことにしたい」「めんどくさいことをやらないで済ませたい」という後ろ向きな発想から生まれているというのもまた凄い。

そして、日記であるのに、「生活感」というものをほとんど感じさせないところも凄まじい。「生活感」的な部分は、もちろん書いていないだけなんだろうけど、日々奇妙なこと、おかしなこと、笑えることが起こっているので、本当にこれが日常なのか、という気がしてくる。酒も飲みすぎだ。もしかしたら、この本は「ある一年」の記録ではないのかもしれない。例えば、「1月1日」は「2015年」のこと、「7月1日」は「2000年」のことなど、色んな年代のその日その日を継ぎ接ぎしているのではないか…なんてめんどくさいことを北大路公子がするはずもないので、もちろんそんなことはあり得ないだろうが、そんなふうにも感じさせられる作品だったりもするのである。

読んでも一切役に立たないし、人生を豊かにもしないが、「あぁ、人間というのは、どこmでも頑張らなくてもなんとかなる人はなんとかなるのだなぁ」としみじみさせられる、読んでいて楽しい作品です。

北大路公子「晴れても雪でも キミコのダンゴ虫的日常」

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内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短編を収録した連作短編集です。
まずは全体の設定から。
舞台は江戸。橋のたもとに時折現れる謎の老婆とたぬきのようにでかい白猫がいる。「玉占」という行灯があるので、占い師であるようだ。老婆は、悩みを抱えていると思しき者を呼び止めては、白い壺から玉を引かせる。その玉はその者の今の状態に近い性質を持つものとなる。「みれん玉」「やっかい玉」「びびり玉」「忘れ玉」「よくばり玉」 そしてその後で、壺に頭から顔を突っ込んだ白猫が咥えて取り出すのが、その者に今必要な玉だ。持っているだけで、今抱えている悩みが解決する―。そんな触れ込みで、1日8文で貸し出している。

「みれん玉」
おみつは、三味線の稽古場で出会った京さんに惹かれている。そんな京さんからもらったかんざしをなくしてしまった。今まさに必要なものなのに…。占い師にもらった「えにし玉」は、取り戻したいものを頭に浮かべるとそれが手元に戻ってくるのだという。病気で倒れた母の待つ家へと向かい、さっそく枕の下に「えにし玉」を入れてかんざしを思い浮かべると…。

「やっかい玉」
おこうは、お種の営む一膳飯屋・亀屋で働いている。他の若い娘がどんどん結婚していなくなっていく中、おこうだけはそんな話もない。人生で、誰かに関心を持たれたことなどない。そんなおこうを片付けようと思ったか、お種はおこうを占い師の元へと連れて行こうとするが、期せずしておこうは橋のたもとで占い師に出会う。そこで「すかれ玉」を借りたおこうは、翌日から自分に誰も彼もが関心を持ち始める状況に戸惑うようになる…。

「びびり玉」
俵兵衛は、無理難題を押し付けられて弱っている。若殿が見初めた娘がいるのだが、その娘には許嫁がいて、若殿の求婚を受け入れない。しかし、欲しいものは何をしても手に入れようとする若殿は、俵兵衛に、凄腕の占い師がいるらしいから相談してこいと命じられたのだ。そこで彼は「肝っ玉」を借りた。それを持って、若殿が見初めた娘の実家まで談判に向かうが…。

「忘れ玉」
正太は小間物屋の一人息子で、家を継ぐつもりではいるが、しかし記憶力があまりにも貧弱で、お客さんの顔やお得意さんの家までの行き方など何もかも全部忘れてしまう。まさに今配達中で道に迷い困っている正太の前に老婆が現れ、「覚え玉」を借りた。その日以来、一度見ただけでどんなことも記憶出来るようになった正太だったが…。

「よくばり玉」
団子屋で働きながら倹しい生活をしているトメは、ある日占い師から「あきあき玉」を借りた。なんでも、持っているだけで飽き飽きするほど金が入り込んでくるという。団子屋で働くだけの私にどうやって?と思ったが、確かに色んなとこから金が入り込んでくる。使えば使うほど入ってくると言われて散財するトメだったが…。

というような話です。

江戸を舞台にしているけど、会話や描写などはかなり現代物に近くて、時代物を読み慣れない人にも読みやすい作品でしょう。占い師の元にやってくる者たちの悩みも、非常に身近なもので、共感しやすいと思います。

この物語は、玉の力で悩みが消えたり望みが叶ったりするわけなんだけど、大事なのは、玉は自分のものになるわけじゃなくて、お金を払って借りているのだ、ということ。金を払えなくなれば手放すしかない。未来永劫その状況が続くわけではない、というのが一つの肝だ。

結局のところ、玉の力では物事は解決しないのだ、ということが分かる。相談に来た者たちの去就は話ごとに様々だけど、自分が望んだ通りにならなかったとしても、結果的に良い状況に落ち着いている、という展開になる。問題を捉え間違えていたり、理想としていた状況が実はさほど望ましいものではないのだと気づいたりすることで、現実に何らかの変化がある。その展開を楽しむ作品です。

さらさらと読める、読みやすい作品です。

星乃あかり「たまうら~玉占~」

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僕がファンタジーを得意だと感じられない理由は、「制約」がないように感じられるからだ。もう少し分かりやすく言えば、何でもアリ、という風に感じられるからだ。

特に、魔法やオーバースペックな科学技術が登場すると余計にそう感じる。それらが出てきてしまったら、何でもアリ感がもの凄く強くなる。

もう少し詳しく説明しよう。例えば、「この世界は、人間は空を飛ぶ能力だけ持っている」という設定があるとする。これはいい。空を飛ぶ、という以外は現実のルールに即しているとすれば、「空を飛ぶことしか出来ない」という点が制約になる。何でもアリではない。

あるいは、「彼は時間を止めることが出来る」みたいなのもいい。これも、「時間を止めることしか出来ない」という点が制約になるから、その制約の中でどんなことが起こるのか楽しむことは出来る。

あるいは、「JOJO」のような、各個人が特殊な「スタンド」という能力を持っているという設定もいい。「スタンド以外使えない」ということが制約になるので、その制約の中でどう展開するのか興味が持てる。

しかし、そういう制約が感じられない作品もある。なんとなく魔法が使えたり、なんとなく未来の技術が使えたりする。もの凄く身近な例でいれば「ドラえもん」がそうだろうか。「ドラえもん」のことは決して嫌いではないんだけど、設定だけ見れば好きなタイプではない。「ドラえもん」が僕の中でセーフなのは、「ドラえもんの道具によってどんなこともアリになるんだけど、でも楽したり得したりしようとしたのび太が結局損をする」という大枠が決まっているからだ。だから安心して見れる。

しかしそうではない場合、「この世界では何でもアリなんだから、何が起こっても「へぇ」としか思えない」という状態になってしまう。

本書がまさにそういうタイプの作品だった。

本書では、「カラヴァル」というゲーム、というかショーがメインで描かれるのだけど、この「カラヴァル」が行われる空間では、魔法のような現象が様々に起こる。で、そこに僕は「制約」をうまく感じることが出来なかった。後出しジャンケンのように、次から次へと新しい設定が出てきて、「こんなことも起こります」「こんなことも起こるんですよ」ということが続くので、物語上驚くべきなのかもしれない展開があっても、「まあ、色んなことが起こる空間だしねー」ぐらいにしか思えない。

もちろん、制約がないからこそ想像の翼を最大に広げることが出来る、という利点もある。そういう点を面白いと感じる人もたくさんいるだろう。でも、僕にはどうにもそうは感じられないんだよなぁ。

なので、特にファンタジー作品は苦手だと感じることが多い。

内容に入ろうと思います。
トリスダ島の総督の娘である姉・スカーレット(スカー)と妹・ドナテラ(テラ)の二人は、日常的に父の暴力にさらされる。悪いことをすると、悪いことをしなかった方に罰が与えられるのだ。そんな生活から抜け出そうと、スカーはある伯爵との結婚を決意する。この結婚が、自分とテラの人生を変えてくれると信じて。
そんな折、レジェンドから手紙が届く。まさか、と思った。確かにスカーは過去毎年、レジェンドに手紙を送ってきた。しかし返事が返ってきたことは一度もなかった。
レジェンドは、「カラヴァル」というショーを主催するゲームマスターである。スカーもテラも、祖母から話を聞いて、一度でいいから「カラヴァル」に参加したいと思っていたが、まさか結婚を間近に控えたこのタイミングで招待されるとは…。幸せになれるはずの未来を捨ててまで「カラヴァル」に参加することは出来ないと諦めるスカーだったが…。
色々あって、スカーとテラは「カラヴァル」に参加することになった。しかし、ゲーム開始直後から想像もしなかった出来事が起こり…。
というような話です。

個人的には、スカーとテラとその父親の関係がメインの方が、僕的には面白かったかな、という気がしました。もちろんその部分も、最終的には物語に関わってくるんだけど、本書は基本的に「カラヴァル」の描写がメインなので、ちょっとしんどかったです。

「カラヴァル」も、謎解きの体裁を取っているのだけど、謎解きが好きな僕としてはちょっと違うというか、あまり興味の持てない感じでした。もちろん、謎解きそのものはメインではなく、スカーとテラの関係、あるいはスカーを「カラヴァル」につれてきたジュリアンの話などがメインなわけで、謎解き部分なんか小説の評価としてはどうでもいいんだろうけど、個人的には物足りなかったなぁ。

基本的には、僕がファンタジーが苦手というだけの話なので、この作品を面白いと感じる人はいるんだろうと思います。たぶん、普段そこまで小説を読まないという人が読んだら面白く感じるかもしれません。

ステファニー・ガーバー「カラヴァル 深紅色の少女」

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僕らは、これまで歩んできた人生すべてを「思い出す」ことは出来ない。もしかしたら人によっては、これまでの人生すべてを「記憶している」人はいるかもしれない。ただ、それでもすべてを「思い出す」ことは出来ないだろう。何故なら、すべてを思い出すためには、これまで歩んできた人生と同じだけの時間が掛かるからだ。

だからこそ僕らは、自分の人生を振り返って「思い出す」時、思い出すことを限定しなければならないはずだ。

僕らは、どんなことを「思い出す」ことが多いだろう?

僕は、過去を振り返ることがほとんどない。そもそも覚えていない、ということもあるのだが、昔のことなんか振り返っても仕方ない、という感覚もある。その過去が、現在やあるいは未来に何らかの関係を持ちそうなのであれば、振り返ってみることはあるかもしれない。しかし、少なくとも僕の場合は、どこかの時点でピリオドが打たれた出来事については思い出す機会はほとんどない。

そんなことを書きながら、僕は、世の中の人のスマホの中に入っている写真のことを連想した。人によっては、料理を食べる前に写真を撮ったりする。あの写真は、その後見られる機会があるのだろうか?と僕はいつも思ってしまう。もちろん、食べ歩きを生業や趣味にしている人や料理人、あるいはダイエットをしている人なんかは、必要があってそういう写真を見返す機会もあるかもしれない。しかし、記念日でも特別な料理でもない、ただ毎日同じように食べている料理の写真を、その日インスタに上げた後、一度でも見る機会があるのだろうか、と思ってしまう。

僕たちはきっと、そういう料理の写真のことは思い出さない。現在や未来に繋がらない、ピリオドが打たれてしまったものだからだ。

ただ、そう考えながら、僕はこんな風にも思う。僕たちの人生の輪郭を形作っているのは、むしろそういうピリオドが打たれたものなのではないか、と。記念日に食べる料理や見たことのない料理なんかは「特別」なもので、「特別」であるが故に思い出される可能性も高まる。しかし、そういう「特別」は、僕らの人生の中では例外に近いものがある。僕たちの人生の輪郭を作り出すのは、そういう「特別」ではなく、むしろ、撮ったら忘れてしまうような毎日の料理の方だろう。

話はいきなり飛ぶが、ビジネス書や自己啓発本などを読んで違和感を覚えることがある。いわゆる「成功者」たちが書くことの多いジャンルの本であり、そういう「成功者」たちは、自分が成功した「要因」を、自分の人生の中から取り出してみせる。

確かに、彼らが挙げた「要因」は、成功の一角を成しているかもしれない。しかし、それは、振り返ってみて思い出せる、という点でやはり「特別」なのだと僕は感じる。そうではなくて、振り返っても思い出せないような「特別」から外れたものの方にこそ、本質的な成功の「要因」があるのではないか―。僕はそんな風に感じてしまう。

話をダイエットに置き換えると、もう少し分かりやすいかもしれない。ある人が2ヶ月で10キロ痩せた、それは毎朝リンゴを食べ続けたからです、と主張したとしよう。しかし、実際は、毎朝リンゴを食べるようになったのと同時に、それまで10年間毎朝食べ続けていたゆで卵を止めたからかもしれない。そういうことはいくらでもあり得る。

思い出せることは、自分の人生の輪郭にはならなかったのではないか―。この主張は極論だと理解してはいるが、時々こういうことを考えて、自分を形作ったかもしれない、今の僕には思い出すことが出来ないものについてふと考えてみる。

内容に入ろうと思います。
僕は、妻・葉子の母・四条直美が、病室で吹き込んだテープの存在を知っている。
直美は、1992年の年明けに脳腫瘍の告知を受けがんセンターに入院、その年の秋に45歳で死んだ。彼女は翻訳家であり、かつ少しは名の知れた詩人だった。僕と葉子とは小学校からの同級生であり、それもあって僕は、子どもの頃から直美のことを知っていた。
僕は直美のことが好きだった。
直美は、自らの死を意識してこのテープを残した。テープは、ニューヨークに留学していた葉子の元へと送られた。そしてその内容は、直美が家族に秘していた過去のある出来事についてだった。葉子は子どもの頃から、時々母親が京都に行くことを訝しんでいた。どうやらこのテープは、そのことと関係あるようだ。
A級戦犯を祖父に持つ直美は、許嫁がおり、大学を出て就職をしたら、早い段階で結婚して家庭に入ることを両親から望まれていた。直美は、そんな生き方は嫌だった。せめて先送りにしたいと、直美は大阪万博でのコンパニオンの仕事を見つけてきた。両親を無理矢理説得して大阪に向かった直美は、そこで人生を揺さぶる出会いを経験する…。
というような話です。

丁寧な物語だな、という印象でした。人物の造形や情景の細部がきっちりと描かれていて、人間や物語が立ち上がっているという感じがする。翻訳家であり詩人でもあった女性の語り、という設定に負けないように、言葉や思考がシャープな感じで、印象的な文章が多かった感じがします。

本書の特徴は、母親が娘に語った物語だ、ということ。普通の小説であれば、物語は「作者→読者」という形で届きますが、この物語は「母親→娘」を覗き見している、というような形で届きます。だから、直美の語りのあらゆる部分で、「何故彼女は娘にこれを語っているのか」と問うことが出来る。そういう問いかけに作品が耐えきれているのか、という点は各自で判断して欲しいのだけど、自分だったら同じ状況で何を語るだろうか、という想像も含めて、物語を受け取れそうだなと感じました。

個人的には、物語そのものにはさほど興味は持てなかったのだけど、場面場面での直美の思考や、直美が捉える時代観、その時代を生きる人たちの価値観や行動原理みたいなものが面白いなと感じました。特に直美の、両親や、あるいは大阪万博で一緒に働いていたコンパニオンなどを観察し言葉で捉える力みたいなものが結構好きでした。辛辣に、直截に、でも拒絶するわけではないという、なかなか絶妙なバランスで他人を捉えるスタンスが、いいなぁ、と思いました。

たぶん、僕も直美に直接会う機会があったら、好きになりそうな気がします。

蓮見圭一「水曜の朝、午前三時」

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内容に入ろうと思います。
本書は、エッセイストであり、「プロの無職」(という表現が適切に思える人なのだ)でもある著者が描く旅日記です。基本的に旅は嫌いらしいんだけど、嫌いなのは準備したり手配したりすること。それらをすべて免除され、自由気ままに好きなように行動し、いつでも酒を飲みまくる著者は、なかなか楽しく旅をしている感じがします。

本書の内容をざっくり紹介するとすれば、著者の文庫版あとがきを引用するのが適切でしょう。

『自分で言うのもなんだが、「勇気あふれる書」だと思う。
土地の風景や人との出会いや食べ物など、いわゆる旅の醍醐味についてほとんど書いてはいないくせに、堂々「旅日記」と称する勇気。
せっかく遠く離れた地へ出向いても、家にいる時と同じようにテレビを観ながらビールを飲んで過ごす勇気。
黙っときゃいいのに、わざわざ「あとがき」で「続編」に触れる勇気。
この本は勇気にあふれている』

まあ、そういうことである。

副題に「恐山・知床をゆく」と書いてあるが、本書を読んでも恐山や知床のことはよく分からない。よく分かるのは、著者やその仲間たちがいかにアホアホしいか、ごく僅かにいる有能な幹事役にいかに支えられた旅であるか、著者の妄想がいかに自由奔放か、ということぐらいである。

まあしかし、面白いのはさすが北大路公子という感じである。碌でもない旅だし、読んでて得られるものは特に何もないが、それでも、これほど気を抜いて読める本も珍しいというぐらい、力を入れずに読める。この力の入れ無さ具合はなかなか驚異的である。

しかし、ちょっと真面目なことを言えば、要するに、目の前にある光景から何を切り取るのか、ということが表現(の一つ)なのであって、それを言葉や絵や音楽で行う。著者は、目の前にある光景から、誰もが切り取りたくなるようなものはほぼ排除し、誰も拾わなそうなもので文章を書く。これは非常に高度な技量が必要だと言えるだろう。

さらにそこに著者は、謎の妄想を混ぜ込む。この妄想がなかなか良くできていて、秀逸だ。本書には、三つのお題から物語を作る、というルールで作られた短い小説が5編載っているが(何故載っているかは不明)、この小説を読んで、この著者の想像力は並外れているなと感じたものだ。僕はこの5編の小説を、どんなお題を元に作ったのか想像しながら読んだが(お題は、各小説の最後に載っている)、予想はことごとく外れた。「そんなお題からこの物語を考えたのか!」という驚きが楽しめる作品たちだった。

話を戻すが、著者の妄想力はなかなかのものだ。酒を飲みすぎて、現実と空想の区別がつかなくなってしまっているのかもしれない。そう考えると、著者が「妄想ではない」という体で書いている部分も怪しい。実はそこもすべて、著者の妄想なのではないだろうか?というか、コパパーゲ氏とかみわっちとかハマユウさんとかは本当に実在するのか?ってか、著者は本当に旅に行ったのか?みたいなところまで疑おうと思えば疑えてしまうのです。秀逸な想像力を見せつけることが、現実の描写も不安定にさせる、という凄技である。

などと書いてはいるが、こういうのはすべてただの曲解であり、著者はただ著者なりの旅を素直に書き記しているだけなのだろう。「オッカムの剃刀」を持ち出す必要はないのである。

まあ色んなことを書いてはみたが、とにかく脱力系のエッセイであり、こんな風に生きられるのって才能だよなと思わされるような、なんとも面白くて羨ましい旅日記であり人生なのである。

北大路公子「ぐうたら旅日記 恐山・知床をゆく」

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ビルの弟、ジョージーが行方不明になったのは1988年10月のこと。兄のビリーは知る由もなかったが、ジョージーは排水口の下に潜んでいた、<ペニー・ワイズ>と名乗った奇妙なピエロにさらわれたのだ。
8ヶ月後、夏休みに入った少年たち。ビルは未だに、ジョージーの行方を追うことを諦めていなかった。しかし両親は、ジョージーはもう死んだんだ、何も出来ることはない、と突きつけられる。
ルーザーズ(負け犬)と自ら呼んでいる仲良しグループの面々を引き連れて、ビルはジョージーを探そうとする。ビルは、ジョージーが下水道に流されたと考えていて、下水の行き着く先である“荒れ地”に目をつけた。しかしもちろん手がかりはなし。
そんな探索中、転校生のベンが不良グループに襲われ逃げてきたところに遭遇する。彼らはベンを助け、そしてそれをきっかけに、男をとっかえひっかえしていると噂される“不良娘”のベバリーとも知り合った。
彼らはその夏、次々と恐ろしい体験をすることになる。図書館、浴室、奇妙な屋敷の前で、彼らは次々と奇妙なピエロや恐ろしい現象を体験することになる。
友達がおらず、ずっと図書館にこもっていたというベンが、彼らが住む町・デリーの秘密を明かす。この町は他の町と比べて、死者や行方不明者が6倍も多いという。しかも、それは大人に限った話であり、子どもの場合もっと多い、と。さらに彼らは、デリーの町で起こった過去の事件と、今起こっている少年少女たちの失踪事件の共通項を発見し…。
というような話です。

スティーヴン・キング原作の最恐ホラーが映画に、というような触れ込みで話題になっている作品です。うん、確かに、なかなか怖かった。しかし、よく言われることだろうけど、日本のホラーと欧米のホラーはちょっと違う。日本のホラーは「想像させる怖さ」であるのに対して、欧米のホラーは「びっくりさせる怖さ」であるように思う。この映画も、どちらかと言えば「びっくりさせる怖さ」が主体であり、そういう意味では思ってたほどは怖くなかった。確かに「びっくり」させられることは何度も何度もあったんだけど、それは僕の感覚では「怖い」というのとちょっと違う感じです。

全体的にはなかなか面白く観れたんだけど、個人的にはもうちょっと頑張れるような気がしました。

まず、冒頭から1時間ぐらいは、正直話の展開がさっぱり理解できない。奇妙なピエロが中心にいるのは分かるんだけど、奇妙なピエロは最初の方はそこまで出てこない。基本的には、ビルの友人や野蛮な先輩、ベバリーやベンとの出会いなんかが描かれていくことになる。

これらの話の内、どの部分が物語全体の核になっていくのかがイマイチ捉えきれなくて、そこはちょっと不満だった。全体を観終えた今となっては、野蛮な先輩たちの話は物語全体には大きく関わらない、と分かるけど、観ている間はどれが後々核となるのかイマイチよく分からないので、集中して見るべき部分が分からなくて困った。

そして、これは僕の性質の問題なんだけど、思わせぶりな要素を散りばめたなら、出来れば上手く回収して欲しい、と思ってしまう。この映画の場合、前半の方でかなり色んな思わせぶりな要素が出てくるんだけど、それらの回収の仕方が、僕にはあまり上手くないように思えてしまった。僕は、前半部分を、「これ最後どうまとめるんだ???」的な興味で観ているので、もう少し上手く回収して欲しかったな、という感じがする。この映画は「夢オチ」ではないんだけど、僕の捉え方的には、ちょっと「夢オチ」感があって、そういう回収の仕方かー、という感じがしてしまいました。

あと、これは悪い点では全然ないんだけど、少年少女たちが、怖そうなところにガンガン進んでいくんで、マジかー、って思いながら観てました。いや、そこは行けないっしょ、というようなところにも臆せずどんどん言ってしまうんで、強いなこいつら、って思ってました。凄すぎです。

映画の最後に「IT 第一章」って出たので、これ映画もまだ続くのかしら?でも、次は観に行かないだろうなー。

「IT それが見えたら、終わり。」を観に行ってきました

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内容に入ろうと思います。

舞台は1989年、東西冷戦の終結直前。イギリス秘密情報部MI6は、敵方から「最強の敵」と評されるほどの凄腕のエージェントであるローレン・ブロートを尋問している。彼女をベルリンに送り込んだ者たちが、ベルリンで何が起こったのかを彼女から聞き出そうとしているのだ。
10日前。ローレンは彼らからある司令を与えられた。ガスコインという諜報員が何者かに殺された。彼が腕時計に仕込んでいた“リスト”は、冷戦を40年は長期させるほどの弩級の情報であり、今活動しているスパイの名が書かれている。これが東側諸国の手に渡ったらまずい。恐らく今リストを持っているのはKGBの者だが、まだリストは表に出てきていない。恐らくそいつは、リストをどこかで売り捌くつもりだろう。現在ベルリンに潜入しているデイヴィッド・パーシヴァルと組んで、そのリストを是が非でも手に入れろ―。
さらに彼女には、もう一つ重要な司令が与えられた。MI6内には、“サッチェル”という名の二重スパイがいるという。そいつの正体を暴くこと―。この二つだ。
ベルリン入りしたローレンは早速パーシヴァルと接触するが、どうにも信頼できない男だ。彼女に司令を与えた者が「誰も信用するな」と言ったこともあり、彼女はパーシヴァルを当てにはせず、独自のやり方で“リスト”を探し出そうとする。しかしそもそも、ベルリン入りする前からローレンとパーシヴァルの情報はKGBに漏れていた。その後も、彼女の任務には様々なトラブルが立ちはだかり…。
というような話です。

なかなか面白い作品でした。ただ、展開についていくのが大変な映画でもありました。スピード感のあるテンポで物語が進んでいき、それ自体はハラハラさせてくれる感じで良かったのだけど、人間関係がなかなか複雑で、誰が誰の側で、どこがどう繋がっているのかを速やかに理解しないと話に置いて行かれてしまうところがなかなか難しかったです。まあ正直、ちゃんと理解できていたとは言えない感じだったなぁ。

とにかく、主人公のローレンがメッチャかっこいい映画でした。あんな白髪の女性は、スパイであろうがなかろうが超目立つと思うんだけど、それはいいんだろうか?ともかく、彼女は強い。こんなに強い人、ホントにいるの?ってぐらい強い。特に接近戦では最強だ。銃を持ってても、肉弾戦に持ち込む。普通相手も銃を持っているから、離れた距離で撃ち合うより、接近戦に持ち込んで銃で殴る方が勝算がある、という計算なんだろうけど、それにしても強すぎる。10対1ぐらいの状況もあるんだけど、なんとか切り抜けてしまう。強すぎるでしょ!

まあそれ以外に特に感想はないんだけど、もう少しストーリーをちゃんと追えたらもう少し面白かったかな、という感じがします。そこがちょっと残念でした。

「アトミック・ブロンド」を観に行ってきました

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