黒夜行 2023年04月 (original) (raw)

いやー、これは面白かった!正直、「何が面白かったのか」がさっぱり分からないのだけど、とにかく面白い。これと言って何かが起こるわけでもないし、琴線に触れるセリフが出てくるわけでもないのに、ずっと面白かった。もちろんこの「面白い」は、「interesting(興味深い)」という意味なのだけど、「funny(可笑しい)」という意味でも面白かった。映画中、随所に「クスッと笑えるポイント」が散りばめられていて、実際に観客の間からも何度も笑い声が上がっていた。そのfunnyさも、「狙った面白さ」という感じじゃなく提示されているのがいい。ホントに、「主人公の女の子のナチュラルな行動が、結果として笑いを誘っている」という場面が多い。

モンゴル映画なのだけど、主人公サロールを演じた女優が、メチャクチャ日本人っぽくて異国感がない。なんとなく、「森七菜」とか「白河れい(貴乃花の娘)」に似てる感じ。でも、舞台は明らかに「異国」だから、そういう違和感も日本人的には面白く感じられるかもしれない。

とりあえず、ざっと内容の紹介をしておこう。
大学で原子力工学を学ぶ地味な学生であるサロールは、そこまで親しいわけではないクラスメートからあるお願いをされる。そのクラスメートは、バナナの皮で滑って足を骨折してしまい、しばらくバイトを休まなければならなくなったのだ。「代理を見つけないとクビだ」と言われ、サロールに声を掛けたというわけだ。
そのバイトというのが、「セックス・ショップ(アダルトグッズ販売店)」の店員である。
彼女は、店で商品の説明をひとしきり受け、「仕事の後、売上を、オーナーのカティアさんのところに届けてくれ」と、オーナーの家の鍵も預かる。初日の仕事を終え、売上を持っていくと、驚いたオーナーは怪我をしたバイトの子に電話をする。「正気?子どもを連れてくるなんて、あたしを逮捕させるつもり?」サロールは、成人しているようには見えない童顔なのだ。
こんな風にして、サロールの「セックス・ショップでのアルバイト」が始まる。
基本的にオーナーとの関わりは、売上を届けるだけなのだが、カティアはどうにもサロールのことが気に入ったようだ。一緒に食事をしたり、出かけたりするような仲になっていくのだが……。
というような話です。

映画を観ながら、僕がずっと面白いと感じていたポイントは、「サロールの無反応さ」だ。とにかくサロールは、その場その場の状況に、自身の意思を一切介在させないかのように、無表情で状況に接していく。普通なら、「えっ、困ります」「うわ、どうしよう」「それはちょっと…」みたいな反応になってもおかしくないような場面でも、とにかくサロールはひたすらに無表情のまま流されていく。

そのようなスタンスが、「自信の現れ」から来るのだとしたら、また受け取り方はちょっと変わっただろう。しかし、サロールの場合はそうではない。明らかに、「人生どうでもいいと思っている」みたいな感じが漂うのだ。アダルトグッズショップでバイトしようが、よく分からない年上のオーナーと食事しようが、ひょんなことから警察に拘束されようが、店で客からよく分からない扱いを受けようが、彼女にとってそれらはすべて「どうでもいいこと」なのである。

では、彼女にとって「どうでもいいとは思えないこと」は一体なんなのか。それは、映画の中で随所に描かれるのだけど、僕は正直、物語の後半になるまで、それが彼女にとって「重要なこと」だとあまり理解していなかった。同じように受け取る人もいるかもしれないので、ここではそれには触れずに思う。とにかく彼女には、「どうでもいいとは思えないこと」がちゃんとあるのだ。

しかし一方で、彼女はそれを「見ないようにしている」とも言える。というのもそれは、彼女が大学で選考している原子力工学とはあまりにかけ離れているからだ。サロールはカティアからの問いに答える形で、「原子力工学を選考したのは母の勧めだ」と明かす。彼女自身は、そこになんの興味も抱いていない。本当に興味が持てることには「蓋をしなければならない」と考えているのだ。

そういう意味でも、意思が弱いというのか、仕方ないと考えているというのか、そういう存在である。その感じが、「どんな時も無表情」という彼女のスタンスから実によくにじみ出ている。「敢えて無表情を装っている」とかではなく、「ナチュラルに無表情」という感じが、凄く良い。

サロールはオーナーから「眉毛がボーボー」と言われるぐらい、身なりに気を遣わない。髪もボサボサだし、服装も暗めの色合いのものが多い。「自分がどう見られているか、自分をどう見せるか」ということに、根本的な関心が欠けているのだろうと思う。

こういう感じが、サロールの「スタート地点」である。

そしてここを起点に、サロールが変わっていく物語なのだけど、その過程がなんだか一筋縄ではない感じで面白い。とにかく映画を観ながら感じていたのが、「次どういう展開になるのかさっぱり分からない」ということだ。ミステリチックな作品でも、SF的な設定でもない、割とよくある日常を描いた物語だと思うのだけど(アダルトグッズショップという設定だけちょっと異質だけど)、とにかく何がどうなるのかさっぱり分からない。

やはりその最大の要因は、サロールにある。サロールはとにかく、「自らの意思で行動する状況」がほとんどない。物語が展開するにつれて、彼女が自発的に行動する場面が増えていくのだけど、最初はとにかく、彼女にとっての「どうでもいいとは思えないこと」以外は、自分の意思で何か動くということがない。家でも、父親から「お茶を持ってきてくれ」と言われて反発するでもなく持っていく場面が描かれる(まあこの場面は後で、クスクス笑いを生むことにもなるのだけど)。カティアとの関係でも、基本的にカティアに言われるがまま行動していく。

そして、サロールを結果として大きく揺さぶっていくことになるカティアがまた謎めいたキャラクターなので、何をするんだか分からない雰囲気が強い。実際、カティアがサロールに対してする提案は、ことごとく唐突なものが多い。そして、その感じに、サロールもやはり無表情で付き従っていくのだ。その奇妙さが、やはり面白い。

さて、この映画ではもう1人、サロールと関わる人物が描かれる。名前が1回しか出てこなかったと思うので間違ってるかもだけど、「トガドルジ」みたいな名前だったと思う。サロールとどういう関係なのかよく分からないが、僕は「幼なじみ的な異性」なんじゃないかと思った。いつも同じ場所で、お互いにタバコを吸いながら、ダラっとした感じの話をしている場面が、時々挟み込まれる。

彼と話している時のサロールは、他の人と話している時と違って、少し「緩んでいる」感じがある。相変わらず無表情であることに変わりはないのだけど、それは、サロールが他の場面で見せる「無表情」とはちょっと意味が違っていて、「無表情でいることが、お互いに対する親密さの現れである」ということを理解しているが故の無表情であるように感じられた。

正直、彼がどういう風に物語に絡んでくるのかは全然分からないまま観ていたのだけど、「なるほど、そうなるのか」という展開になる。映画全体の中で、この場面が一番「funny」だったなぁ。普通ならfunnyになるような場面じゃないんだけど、とてもfunnyだった。そして最終的に、その場面こそが、サロールにとっての「新たな決断」のきっかけになるという展開が、物語全体を実に上手くまとめたような感じがあって良かった。

あと、随所に、映像の見せ方として上手いなぁ、と感じるような場面があった。例えばある場面で、「サロールの両親が、寝ている弟を静かに運んでくるシーン」がある。この場面、最後に「両親が弟を運んできた部屋で寝ているサロール」を映し出して終わるのだけど、それによって「あー、なるほど」となる場面となっている。「あること」を直接的に描くことなく、「弟を運んでくる」というだけで、観客にそれを伝える感じが、凄く上手いなと思った。

あと、この映画は全編にわたって、「音楽が流れるシーンで、実際に歌手が登場する」という、意味の分からない演出がなされる。しかし、これも、別に違和感を与えるようなものじゃないんだよなぁ。どんな意図でそんな演出にしたのかはよく分からないけど、僕は結構好きだった。特に、草原のシーンで歌手が出てきた場面は、映像の感じも含めて、凄く良かったなと思う。

しかしホント、変な映画だったなぁ。そしてその変さが、とても良い方に作用しているタイプの映画だったと思う。上映館がかなり少ないのが残念。みんな結構観たらいいと思うよ!

「セールス・ガールの考現学」を観に行ってきました

うーん、ちょっとピリッとしない映画だったかなぁ。

テーマ的には、なんとなく『万引き家族』とか『パラサイト』感があるし、「家族」とか「貧困・格差」みたいなテーマは割と普遍的だから、面白くなかったわけでもない。

ただ、うーん、ピリッとしないんだよなぁ。

分からないけど、ちょっと理由を考えてみると、「登場人物たちの背景がほとんど描かれなかった」ことにあるかもしれないなぁ、と思う。

なんとなく示唆されることは多い。「恐らくこういうことが起こったんだろう」という描写はある。ただ、それらが物語にあまり深く関わってこない。もう少し、「何故そういう生活になったのか」「何故手を差し伸べたのか」みたいな話が、有機的に物語と結びついていたら良かったのかなぁ、とか思う。

うーん、でも、それがあったとてどうかなぁ。わからん。

4人家族は、パーキングエリアに住み着いているホームレス。色んな事情で居心地が悪くなると、別のパーキングエリアまで歩いて移動している。パーキングエリア内では、人が良さそうな人を探し、「財布を無くして、ガソリンが無くなったから、2万ウォン貸してくれ」と声を掛けては、どうにかその日の食事にありついている。
しかし、やはりそんな生活も長続きはしない。ある日、かつてお金を借りた(実際には騙して奪った)女性とまた遭遇してしまい、警察に通報されてしまうのだ。
父親は逮捕され、母親と子ども2人は行き場もなく警察署の前でただ座っていたのだが……。

いつも書いていることだけど、僕は「『家族』という形をナチュラルに壊していくような関係性」は結構好きなので、そういう意味で、行き場を失った親子が辿る展開はなかなか好きです。ただ全体としてはなぁ、なんともピリッとしなかった。

「高速道路家族」を観に行ってきました

うーーーーーーん、という感じ。良いか悪いかで言うなら「良い」んだけど、うーーーーーんって感じ。

とにかく、役者はとても良かった。主要な役を演じる役者陣が、凄く良い。どの役にもハマってる感じだし、「人気の役者を集めて映画を作ってみました」みたいな映画では全然なかったのが良かったと思う。

特に横浜流星は、「闇落ち」した役が似合う。なんとなく僕が見る横浜流星は、大体闇落ちしている印象だ。メチャクチャイケメンなのに、ナチュラルな「陰」を出せる感じは流石だなと思う。なかなか同じような雰囲気を出せる俳優っていないよなぁ。

また、非常に珍しいと思うが、この映画では「能」が中心的な存在としてある。そして、同じ伝統芸能という括りで、中村獅童が絶妙にハマる。

個人的には、奥平大兼と作間龍斗が印象的だった。奥平大兼は、「MOTHER」で初めてその存在を知って驚き、「マイスモールランド」でも良い演技をしていたなぁ、と思う。奥平大兼は、見る度に毎回「あー、どっかで見た記憶があるんだよなぁ」と思う感じで、それが、まだそこまで知名度がなかった頃の菅田将暉っぽい匂いを感じる。

作間龍斗は、「ひらいて」っていう映画で山田杏奈と主役的な役をやっていた。その時にはジャニーズの人だとは知らず、後からHiHi Jetsの人だと知って驚いた記憶がある。僕の感触では、ジャニーズファンはもちろん知っているだろうけど、まだまだ世間的な知名度はそこまで高くないだろうから、そういう意味でも、彼のような存在が今作でああいう感じの役どころを演じるのは絶妙だなと感じた。

というわけで、役者陣はとても良かった。

個人的に、ストーリーがどうにもうーーーーーーん、という感じだった。僕は普段映画を観る時には、メモ帳片手にあれこれ書きながら観ているのだけど、今作では、冒頭30分ぐらいを過ぎて以降、メモを取ることがなくなってしまった。普段なら、気になるセリフが出てきたり、なんか感じたことがあったりしたらメモするんだけど、そういうのが全然ない。とにかく、僕には「ピンとくる何か」が全然なかった。

とにかく、横浜流星が印象的だった。

「ヴィレッジ」を観に行ってきました

いやー、変な映画だった。

実に挑戦的な作品だということは分かる。とても良く理解できる。映画を観るまで、詳しい設定を知らなかったが、「過去のアーカイブ映像のみを組み合わせて、独裁者たちを主人公にしたおとぎ話を作る」という作品なのだ。相当の労力が必要だっただろうし、そのアイデアと努力は素晴らしいと思う。

が、メチャクチャつまらなかった。あまりにもつまらなかったので、珍しく、「寝ようと思って寝た」映画である。

まあ、これはしょうがない。作品が、僕には残念ながら合わなかっただけである。

「独裁者たちのとき」を観に行ってきました

これはメチャクチャ良い映画だった。正直、最初の1時間ぐらいは、「ここからどう話が展開するんだ?」と思ってたんだけど、「まさかそんな話になっていくとは」と感じた。友人から聞くまで、映画の存在すら知らなかったが、これはマジで観て良かった。

ちょうど昨日の夜、僕が寝ようとしていた直前に、女友達からLINEが来た。「生きづらくてしんどい」という内容だ。さらに、「こんなマイナスな話は、周りの人を不快にするだけだからすいません」「休みの前の日なのにこんなことを言ってごめんなさい」みたいなことも書いてあった。僕は、「そういうのは出せそうな時に出しといた方がいいよ」みたいに言っている。

僕は割と、人からそういう話を聞く機会が多い。自分で言うのも何だが、話しやすいのだろう。というか僕は、意識的に「話しやすい雰囲気」を醸し出しているつもりだ。完全に、意識的にやっている。まあ、それが上手くいっているのだと思う。

ただ、僕にそういう話をしてくれる人に話を聞いてみると、なかなか話せる相手はいないようだ。まあそうだろう。誰かの「しんどい話」を、フラットに聞くのは案外難しい。

だから「ぬいぐるみに話しかける」というのは、ベストでとは言えないが、ベターな解決策だと感じた。ぬいサー(ぬいぐるみサークル)の面々は、「辛い話を誰かに聞いてもらうと、相手の気持ちを辛くしてしまう。だからぬいぐるみに聞いてもらうんだ」と言っている。

ホント、絶妙な設定だと思う。

とにかくこの映画に対しては、随所で「絶妙」と感じた。何もかもが「絶妙」だ。中でも、会話の「絶妙さ」には驚かされる。「沈黙」や「間」も含めて、ホントに見事なまでの「絶妙な会話」なのだ。僕にとっては実に心地よいこの会話の雰囲気を感じるだけでも、この映画に触れる価値があるなと思う。

映画を観ながら、僕が普段から考えていることを改めて実感させられる気がした。それは、「『マイノリティ』という言葉の『狭さ』」である。

一般的に「マイノリティ」という言葉は、恐らく、「『分かりやすい何か』を有している人」という意味で使われることが多いはずだ。「分かりやすい何か」というのは、「障害を持っている」「LGBTQである」などだ。語弊のないように書いておくが、別に「障害」「LGBTQ」のことを「分かりやすい」と評しているのではない。あくまでも、いわゆる「マジョリティ」が「『マイノリティ』という言葉」を使う際に、「障害」「LGBTQ」を「分かりやすい何か」と捉えているのではないか、というイメージでそう呼んでいる。

もちろん、そういう「分かりやすい何か」を有している人は「マイノリティ」に含めて良いだろう(ただ僕は、「マイノリティであるか否か」を決めるのは、最終的には「本人の気分」だと思っているので、そういう「分かりやすい何か」を有している人でも、気分がマイノリティじゃなければ、マイノリティではないと思っている)。

さて、一方、「マイノリティ」と呼ばれるべきは、決してそういう「分かりやすい何か」を持っている人だけではない。そしてまさにこの映画は、そういう人たちを描き出していると言っていい。

映画には、ぬいサーのメンバーとして7人の人物が登場するが、その中で、「分かりやすい何か」を持っていると言えるのは1人だけだと思う(少なくとも、観客視点からはそうだ)。それ以外の人たちは、「分かりやすい何か」を持たない。しかし、彼らは間違いなく「マイノリティ」と呼んでいい人たちだと思う。

しかし、いわゆる「マジョリティ」の人たちが「マイノリティ」を思い浮かべる時、彼らの存在は思い浮かびもしないと思う。シンプルに、認識できない。「障害」や「LGBTQ」は、概念が言語化されているからまだ捉えられるが、映画の中のぬいサーメンバーの「マイノリティさ」は、広く知られる形では言語化されていないので、「マジョリティ」の人たちには理解できないのだ。

この映画では、ぬいサーという「マジョリティ」から意識的に距離を置いているサークルを舞台に展開するにも拘わらず、きちんと「マジョリティ」視点が入り込む。そのキーパーソンが白城ゆいである。

正直この物語は、彼女の存在で成立していると言っていいだろうと感じた。

白城は、ぬいサーに所属しながら、学内唯一のイベントサークルにも所属している。白城はそのイベサーについて、「セクハラまがいのことも多い」と表現していた。「大学生のマジョリティ」をステレオタイプに想像する時に思い浮かぶような人・集団だと考えていいだろう。

白城については、正直映画の中でそこまで深掘りされない(客観的な立ち位置でいることが重要な役割だったため)ので、彼女がどのようなマインドの人なのかを掴むのは難しい。ただ、事実として彼女は、「ザ・マジョリティであるイベサーと、ザ・マイノリティであるぬいサーのどちらにも馴染むことができる」。両者の視点を持ちうる存在だというわけだ。

そんな彼女が、主人公・七森に聞かれる形で、「どうしてセクハラまがいのイベサーに所属しているのか」に答える場面がある。彼女の返答は要するに、「世の中は安心できる場所の方が少ないんだから、ぬいサーみたいな場所だけにいたら弱くなってしまう」という内容だった。

この視点は、映画全体のテーマを捉える上で、非常に重要なものと言える。いつものことながら、映画の内容についてまったく調べないまま観に行ったこともあって、「そういう話になっていくのか」と驚いたし、そしてこの要素が、男女問わず、観客全員がこの映画世界の「関係者」として引きずり込まれることを意味することになる。

映画後半の話についてあまり触れないようにするのだが(印象的なセリフはとても多いのだが、あまり書きすぎないように注意しようと思う)、「あー、それはメチャクチャ分かる」と感じた場面がある。

【でも結局のところ、傷つきたくて傷ついてるだけなんじゃないかって思うんだ。傷ついている自分は、加害者じゃないって思い込みたいだけなんじゃないかって】

この「ズルさ」は、僕の中にもちゃんとあるなぁ、と思った。僕は割と早い段階でその「ズルさ」に気づいていたので、この映画を観て「痛いところを突かれた」みたいには思わなかったが、その「ズルさ」に気づいていない人は「うっ」と感じてしまうかもしれない。そしてこのセリフの後に続く、「それに僕は○○だから…」という話は、僕も割と普段から気をつけているつもりだ。「○○として生きている」というだけで、避けようがない「メタ的な意味」が自分に付随してしまっていることに、気づいていない人がとても多い。そのことが、社会のあちこちで齟齬として浮き彫りになっている状況が山ほどあって、そういう現実にうんざりすることが多い。しかし、「どうせ僕も○○だしな」という感覚は、ずっと頭の片隅のどこかにはある。

色んなことをぼやかして書くので意味が通じないと思うが、ある場面でこんなセリフが出てくる。

【みんな笑いながらそういう話をするんだよ。真剣に話せない空気があるっていうか】

最近、このことを実感する機会があった。僕自身の話ではないので具体的には書かないが、やはりその人も「その時にはヘラへラしてしまった」と言っていたし、後から振り返ってそんな自分に嫌気が差しているようだった。「それに僕は○○だから…」という言葉は、「そういう社会になってしまっている遠因としての自分」を責めるものだ。そしてやはり僕は、良い悪いという話ではなく、「そのことで自分のことを責められる方が、そのことにまったく気づいていない人よりも遥かに真っ当だ」と感じる。

恐らく、世の中的には、このぬいサーの面々は「奇妙な人」に映るだろう。しかし僕の目には、ぬいサーの面々の方が、社会の大多数の人よりも「真っ当な人」に見える。

こんな場面も印象的だった。ぬいサーの中で、唯一「分かりやすい何か」を持つ人物が、その「何か」をサラッと口にした時のことについて、こんな風に語る場面があった。

【その場の言葉遣いが制約されたような感じがあった。「私は尊重してますよ」みたいな空気を出すの。なんか「自分自身」として見られていないような感じだった】

この感覚も凄くよく分かる。僕は別に「分かりやすい何か」を持つ人ではないのだけど、「マジョリティ側ではないこと」をさりげなく示すためのエピソードストックはそれなりに持っている。そして、そういう話をしてみた時に、「言葉遣いが制約されたような感じ」を感じることは確かにある。もっと明け透けに言えば、「地雷を踏むわけにはいかない」という緊張感みたいな感じだろうか。そういう雰囲気が出てしまっている時点で、既に地雷は踏まれているのだけど、マジョリティは地雷を踏んだという事実に気づいていない。そういう雰囲気は、やはり強い違和感として残る。

その違和感は、こんなセリフがよく言い表しているだろう。

【ヤなこと言うヤツは、もっとヤなヤツであってくれ】

これもホント絶妙なセリフだなぁ、と感じた。「今地雷を踏んだ」という事実に気づかないような「鈍感さ」が、「ごく当たり前に生きる普通の人々」に内蔵されているから、普段の振る舞いからその「鈍感さ」を見抜けない、という話だ。そういう人たちが「マジョリティ」であるという事実こそが、「マイノリティ」にとっての「生きづらさ」の根源だったりもするのだ。

こんな風に僕は、この映画が全体的に描こうとしている「何か」にメチャクチャ共感できてしまう。「原作者とか監督・脚本家とめっちゃ喋りてー」と感じるぐらいだ。

映画の中では、「優しさ」について様々な言及がなされるが、僕にとって「優しさ」というのは、「『僕には優しく振る舞わなくていい』と相手が感じられるように振る舞うこと」みたいな感覚がある。まさにそれは、「ぬいサーにおけるぬいぐるみの性質」と同じようなものだと言っていいかもしれない。

どうやったら「僕には優しく振る舞わなくていい」と相手が感じてくれるかは、人それぞれ違う。だから、「優しさの発露の仕方」もまったく違うものになっていると思う。ただ世の中には、「優しさ」という「形の定まった何か」が存在して、それを相手に示したり投げつけたりすることが「優しさ」である、みたいな感覚を持っている人がいるように思う。

確かにそれは、とても分かりやすい。「これこれの振る舞いをしてくれたら『優しい』、してくれなかったら『優しくない』」と簡単に判定できるからだ。しかし僕は、そんな解像度の低い捉え方が許せない。同じ行為が、ある人には「優しさ」として受け取られ、別の人にはそうは受け取られないなって、当たり前に起こることだ。

そして、そういうことが分かりすぎること分かっているからこそ、ぬいサーの面々は、イヤホンを付け、ぬいぐるみに話しかける。やはりそれは、「真っ当さ」であるように僕には感じられるのである。

実に良い映画だった。

映画全体の話を少しすると、とにかく「違和感を覚えるぐらい、ストーリーがスパスパ飛んでいく」という形式が印象的だった。重要なシーンが編集でごっそり抜けちゃってるんじゃないかと思うぐらい、いきなり唐突に状況が変わっている、みたいなことが、特に前半は結構多かった。その欠落が、後々説明されるわけだが、個人的には、そういう「違和感」も、映画全体の雰囲気に合っていて良かったと思う。

あと個人的には、「双子みたい」と評される七森と麦戸の関係がとても良かった。僕は別に、アセクシャルみたいな感じではないのだけど、それでも、七森と麦戸の関係が、異性との最上級の理想的な関係だなと思う。

いやー、これはとても良い映画だった。

「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」を観に行ってきました

非常にモヤモヤする映画だった。

この「モヤモヤ」には、色んな意味がある。

まず、「なんともしっくり来ない」という感覚だ。これは決して、悪い意味ではない。物語の評価において、「分かりやすさ」を重視する人間ではないので、「分かりにくい」「なんだか分からない」という内容であることは別に問題ない。

しかし、その「しっくり来なさ」が、どこからやってくるのかを上手く捉えきれないことに、なんだかモヤモヤする。

映画は、イスラム教の聖地マシュハドが舞台となる。そこで実際に起こった、16人の娼婦が殺された事件に着想を得た物語である。

つまり、このモヤモヤが「イスラム教の理解出来なさ」から生まれている、という可能性がある。その場合、イスラム教に対する知識を増やす以外に手立てはない。

しかし、本当にそうなんだろうか、と思う。そんな、「イスラム教だから」みたいな狭い捉え方をして良い作品であるように思えない。しかし、じゃあ何が自分をモヤモヤさせるのか、というのが、なんとも捉えられないのだ。

さて、こんなモヤモヤもある。それは、犯人が逮捕された後で描かれる。

この映画は、「捜査側」と「犯人側」が同時に描かれる作品であり、観客視点では犯人が誰なのかは早い段階で分かる。「犯人が誰か」は、物語のポイントではない。この映画では、色んな部分に焦点が当たるが、その1つが「犯人が逮捕された後」にある。

なんと民衆の多くが、この連続娼婦殺人犯を支持し、「無罪」にするよう運動を始めるのだ。

これは実に「モヤモヤ」させられる展開だった。

ここで最も重要になるのが、「イスラム教の聖地である」という事実だ。つまり、人々の間で、「聖地に娼婦は相応しくない」という考えがかなり多勢だということだ。

もちろん決して全員ではないのだが、少なくともこの映画では、「そのような声がかなり大きい」という描かれ方がしている。犯人自身も、「使命感でやった」「(殺す時に快感を得ていたのかと聞かれ)浄化の喜びだけだ」と答えている。映画を観るだけでは、「犯人が心の底から本当にそう考えているのか」ははっきり分かるわけではないのだが、恐らく監督はそのような意図をもってこの映画を作ったのではないかという気がする。

イスラム教の戒律(と呼ぶので合ってるのか分からないけど)について詳しいわけではないが、やはりそれらは西洋・東洋のものとはかなり異なるだろう。僕の感覚では、よほど狂気的な環境でない限り、「連続殺人犯が英雄視される」という状況は想像しにくい。しかし、「イスラム教であること」「聖地であること」という状況が、恐らくその「特異さ」を生み出しているのだろう。

その感覚の「馴染めなさ」に対しても、非常に強く「モヤモヤ」を感じてしまった。

そしてやはり、最大のモヤモヤは、主人公である女性ジャーナリストが直面する様々な現実である。

公式HP観て初めて知ったが、主人公ラヒミを演じた女優ザーラ・アミール・エブラヒミは、「第三者による私的なセックステープの流出によってスキャンダルの被害者となり、2008年、国民的女優として成功を収めていたイランからフランスへの亡命を余儀なくされた」そうだ。そして、ラヒミもまた、同じような経歴を持っている。映画の中ではほんの僅かしか語られないが、ラヒミもまた、自身に非がないスキャンダルのせいで新聞社をクビになっているのだ。

また彼女はある場面で、公権力を持つ人物から襲われそうになる。その人物が何を意図してそんな行動を取ったのか謎すぎるが、やはりこれは、ラヒミが女性であることから来るものだろう。

ラヒミは警察にも判事にも臆することなく質問を浴びせかける人物であり、知性と行動力がとても高い。一方、作中人物の言葉を借りるなら、マシュハドの娼婦は「薄汚い薬物常習者で、殺されても仕方がないロクデナシ」なのである。彼女たちには一見、共通項は無さそうだ。しかしながら、恐らくラヒミは、「自分も『娼婦』のような扱われ方をしている」という感覚を強く持っていたのではないかと思う。恐らくそのことが彼女の、この事件の取材に懸ける想いの強さに繋がっているのではないかと感じた。

日本も男女の不平等がかなり酷い国だとは思うが、映画の舞台となるイランはさらに酷いだろう。冒頭、ラヒミがホテルのチェックインをしようとすると(彼女はマシュハドとは別の地域に住んでいるっぽく、事件取材のために一時的にマシュハドに滞在するようだ)、既に予約済みであるにも拘わらず、「未婚で1人で宿泊」ということで一旦断られる。そこで彼女がジャーナリストのIDを提示すると、一転宿泊が許可されたが、それでも「(ヒジャブで)髪を隠して」とうるさく言われる。聖地ということもあるのだろうが、「道徳警察」の目が厳しいのだそうだ。

また、これはどの国でも大差はないのかもしれないが、「娼婦」ばかりを批判し、「娼婦を買う男」はまったく批判の対象にならない。少なくともこの映画では、そのように描かれている。仮に「娼婦」の存在が悪いのだとすれば、その娼婦を買う男だって同等に悪いとされてもいいはずだが、そこはやはり非対称になる。

確かに、「連続娼婦殺人事件」は、「犯人逮捕」によって「幕を閉じた」という状態にはなった。しかしそれは結局、「臭いものに蓋をした」という程度の話でしかない。本質的には何も変わっていないし、どころか、最後の映像(それが何かはここには書かないが、フィクションだと分かっていてもその異常さが際立つ驚愕の映像である)は「これで終わりではない」という現実を示唆しもするだろう。

新たな「連続娼婦殺人事件」が起こるかどうかが問題なのではない。そうではなく、「イスラム教に則った生活をしない人間は、どう扱われても仕方ない」という根本的な問題が今もずっと横たわっているということなのだ。それは、統一教会やエホバの証人などで二世信者の問題が取り沙汰されたように、決して「対岸の火事」ではない。

イスラム教に則った生活をすれば、必然的に女性は地位が低いままだ。それをどうにかしようと(まさにラヒミはそのような存在として描かれているのだと思う)奮闘すればするほど、イスラム教の教えから外れることになり、それはつまり、「娼婦的」な見られ方をされてしまうことを意味する。そうなれば、「殺されても仕方ない」という扱いになってしまうだけだ。

「ジャーナリスト」と「娼婦」という、対極とも言うべき存在を「同列」のものとして扱うような圧力が働いているという現実そのものを圧縮して閉じ込めたような作品であり、「連続娼婦殺人事件」という目立つテーマ以上の奥行きを感じさせる作品だった。

「聖地には蜘蛛が巣を張る」を観に行ってきました

いやー、こりゃあ変な話だなぁ。でも、なんとも惹かれてしまう。部屋から一歩も出ない主人公の5日間を、主人公の部屋の中だけで撮る異色の作品は、スパッとは割り切れない、なんとも言えない感覚をもたらす、実に奇妙な物語だった。

まずはざっくりと内容紹介から。
オンライン講師として、文章講座を教えているチャーリーは、体重272キロの巨漢である。Zoomを通じた授業では常に、カメラをオフにしている。彼は、テレビの前に置かれたソファからほとんど立ち上がれず、トイレや就寝などの際には歩行器を支えに歩くしかない。

ほとんど他人と関わりのないチャーリーだが、看護師のリズだけは、彼の日々の生活の面倒を見に毎日顔を見せてくれる。リズが何度病院に行くように諭しても、「保険に入っていない」「治療費が払い切れるはずがない」と、一向に病院に行こうとしない。リズも、チャーリーが病院に行かないだろうと分かっていてそう口にするのだが、一方で、そんなチャーリーがどうにか穏やかに日々を過ごせるようにと、彼女なりに色んなことを考えてチャーリーの世話をしている。チャーリーはそんなリズに対して何度も「申し訳ない」と呟くのだが、そんな言葉を聞きたくないリズは、「やめて」と口にして言わせないようにする。

チャーリーもリズも、チャーリーの死期が近いことははっきりと理解している。

リズ以外には、ドアの外から声を掛けてくれるピザ配達の男と、突然やってきたニューラーフの宣教師の若い男ぐらいしかいない日々に、突如若い女性がやってきた。彼女はエリー、チャーリーの娘だ。実に3年ぶりの再会である。

エリーはチャーリーにキツく当たる。しかし、落第しそうだという彼女が、チャーリーにエッセイの添削を頼んだことで、彼女との細い繋がりが残ることになった……。

というような話です。

観ながらずっと思ってたことは、「よくもまあこんなストーリーを映画にしようと考えたな」ということだ。公式HPを見ると、どうやら最初は舞台劇で上映されたそうだ。たしかに、ワンシチュエーションの設定は、舞台劇によく合っていると思う。

物語は、「なんだか分からない断片」が様々に積み重ねられるようにしてしばらく進んでいく。メルヴィル『白鯨』をテーマにしたエッセイ、終末論を語るカルトと見なされているニューライフの宣教師、関係性が不明なリズとチャーリー(公式HPの内容紹介ではその関係に触れられているが、この記事では書かないことにする)、観客がチャーリーに関する「ある事実」を知った上で登場する娘エリー、チャーリーがここまで巨漢になった背景などなど、分からないことだらけだ。

そしてそれらは、「それら同士の繋がりが明らかになった後」も、やはり観客に「モヤモヤ」をもたらすものである。なるほど、確かに「今眼の前で展開されているのがどのような状況なのか」は理解できた。しかし、その理解した内容は、やはり「おかしなもの」に感じられるというわけだ。

観客は次第に、チャーリーのみならず、チャーリーと関わる他の面々も「何か」を抱えているのだということが理解できるようになっていく。それぞれが抱えているものも、一言で「これ」と表現できるようなものではなく、結構ややこしい。そして、そういうややこしさが、「巨漢過ぎて外に出られないチャーリーの部屋」にひたすら溜め込まれていくことになる。

しかし、これが物語の奇妙な点でもあり面白い点でもあるのだが、その「メチャクチャ絡まりあったややこしさ」が、「絡まり合っているが故に奇跡的に解けていく」みたいな展開になっていく。恐らく、個別に対処しようとしたら、どれ1つとして解決に至らなかっただろう。しかしそれらが、有無を言わさず絡まり合い、もう何と何がどう絡まっているのかさえ分からない状態になったからこそ、ふとした瞬間にそれらすべてが一遍に解けていくみたいな「奇跡」が起こる、そんな物語だったと思う。

まあ、「奇跡」と呼んでいいような物語なのかは、なんとも言えないのだけど。

映画を観ながら、僕はずっとリズに気持ちが引っ張られることが多かった。そもそもチャーリーとリズの関係性が謎だったので、「何故ここまで献身的にチャーリーの世話ができるのか」とも感じたし、それは、2人の関係性が理解できてからも大きく変わりはしなかった。また、それとは別に、リズがチャーリーに関する「ある事実」を知ってしまってからの彼女の気持ちは、本当に想像が難しいと感じる。彼女自身、整理がつかなかっただろう。「私ってバカ」みたいなことを呟く場面から、そんな風に感じた。

リズがチャーリーとの関係に何を見出していたのか、それはなんとも分からないのだけど、部外者である僕が勝手に名前をつけるとしたら「共依存」みたいなことになってしまうのかもしれないと思う。リズが宣教師の若い男と外で話すシーンから、それを強く感じた。だからと言って、それが良いとも悪いともならないのだけど、とにかく登場人物の中で、リズに対してだけは「どうにか幸せになってほしいなぁ」と感じてしまった。

チャーリーに対しては、特に女性の観客がどう感じるのか興味がある。見た目は一旦置いておくとして、チャーリーの過去や、5日間の中でのエリーとの関わり方など、色んな意味でチャーリーは良い面も悪い面もある。女性が、それらを総合してチャーリーという存在をどう評価するのかは気になるところだ。もちろん、全面的に「良い」となるわけはないが、許容出来るのか出来ないのかという判断は気になる。

あと、シンプルに、宣教師の若い男は嫌いだなぁ。最初から最後まで嫌いだった。

「ザ・ホエール」を観に行ってきました

僕は基本的に、「家族」という既存の括り方をナチュラルにぶっ壊していくような関係性が大好きなので、そういう意味で、莉子(齋藤飛鳥)が出てきてからのストーリーはなかなか面白かった。

まあ、単純に齋藤飛鳥が好きだってのもあるんだけど。

先に書いておくと、ストーリーは正直よく分からなかった。ただ、作品全体の雰囲気は良かったと思う。そして、その「なんとも言えない雰囲気」を、坂口健太郎・市川実日子・齋藤飛鳥が絶妙に「成立させている」感じがする。他にも合うキャスティングはあるかもしれないけど、少なくともこの3人は、この作品世界には見事に合うキャスティングだったなぁ、と思う。そこはとにかくお見事でした。

少しだけ、「家族」の話を。

僕はとにかく、「恋人なんだから」「友達だったらさぁ」「家族でしょ」みたいな言葉が嫌いすぎる。心の底から、「そんなことどうだっていい」と思っているのだ。

そんなこと言わずに、「私はそうしてほしくない」「俺はこんな風にしてほしい」って言えばいいのに、どうしてか「関係性の名前」を盾にとって、「そうしないお前が悪い」と相手のせいにしたがる風潮があるよなぁ、と思う。

そして、その謎の「圧力」は、「家族」という関係性に対して一番感じる。僕は、当時はそこまで言語化出来ていなかったものの、それこそ小学生ぐらいの頃からずっと、そういう「違和感」を感じ続けてきた。

だから、この映画で描かれる「家族」は、割と僕にとっては理想だ。こう書くと誤解されそうだけど、別に僕は未山の立場に立って「理想」と言っているのではない。そりゃあ、未山からすれば理想だろう(感じ方は人によって違うかもだが)。「イマカノとモトカノの両方と一緒に暮らしている」のだから。

しかし僕は、未山の立場だけではなく、詩織・莉子・美々、どの立場からでも、「この『家族』は羨ましい」と感じられる自信がある。

「家族」という重力から軽々と解き放たれたこんな関係性が、何らかの形で僕の身近でも実現するといいなと思う。そして、「家族」という呪縛に「囚われている」という自覚もないまま生きているすべての人に、こういう可能性も存在することを理解してもらえたらいいなと思う。

内容に入ろうと思います。
未山は、「存在しないものが視える」という性質がある。その力を活かし、何か困りごとがある人の身体を触ってはアドバイスするような生活をしている。恋人の詩織は看護師として働くシングルマザーであり、未山は主夫みたいな形で一人娘である美々の面倒を見るなどしている。散歩途中で農家の人からじゃがいもをもらったり、失踪した牛を牛舎に連れ戻したりと、静かで穏やかな生活をしている。
しかしそんな彼はしばらく前から、自分の身に「存在しないもの」がまとわりついていることに気づく。そして彼は、その存在を辿ることによって、かつての恋人・莉子と再会を果たすことになる。
真っ黒の服を来て、白いものしか食べない妊婦の莉子を連れて帰った未山。当然、詩織との関係は終わりになると思っていた。しかし、未山の家を訪れた詩織は思いがけない提案をし……。
というような話です。

とにかく極端に説明の少ない作品で、僕の体感では、最初の1時間ぐらいはほぼなんの説明もなく話が進む。だから初めは、未山と詩織が結婚していて、美々はその娘なんだと思ってたし、未山の後ろをついて歩く男が何者なのかまったく分からなかったし、とにかく何も分からなかった。「なんだか分からないけど、これがここからどうなるんだろう」という興味だけで観ていた感じだ(映像は全体的にキレイなのだけど、ビジュアル的なものにあまり興味のない僕としては、その点にはあんまり惹かれなかった)。

で、莉子が出てくるちょっと前ぐらいから、ようやく色んな背景が理解できるようになってきて、さらに莉子が加わることで「謎の関係性」が成立することになったこともあって、僕としてはちょっと面白くなってきたぞ、という感じで見れた。

さっきも書いたけど、やっぱり坂口健太郎・市川実日子・齋藤飛鳥っていうキャスティングは絶妙だなと思う。特に、贔屓目はあるにせよ、莉子というキャラクターを成立させられる人はあまりいないだろう。莉子が発する「よく分からなさ」みたいなものは、普通であれば「現実味」からどんどんと離れていってしまうような性質だと思うのだけど、齋藤飛鳥は莉子という存在を割とナチュラルに成立させられる存在だと感じる。

坂口健太郎も市川実日子も、この奇妙な関係性を受け入れそうだなと感じさせる何かのある人で、だから、この訳の分からない物語がギリギリのところで成立しているんだろうな、という気がする。

とにかく、未山・詩織・莉子・美々という4人の関係性は、その異常さに反比例するように穏やかなものであり、僕が思う「他者との関係性の1つの理想」だなと感じた。こういう関係性を「異常」だと感じなくてもいいような世の中になってくれたらいいなと思う。

「サイドバイサイド 隣にいる人」を観に行ってきました

「好きかどうか」と聞かれたら、「好き」とは言いにくい。でも、メチャクチャ引き込まれたし、っていうか全然嫌いじゃない。

みたいな、なかなか評価の難しい作品だった。しかし、よくもまあこんな設定で物語をギリギリのラインで成立させているものだよなぁ、と感心させられた。

ざっくりと内容の紹介をしよう。

6日後に8歳になるウェンリン(ウェン)は、旅先のコテージがある森の中でバッタを獲っている。そこに、一人の大男がやってくる。腕中に入れ墨の入った男だ。レナードと名乗った男は、自分はバッタ獲りの名人で、パパたちと友達になるためにここに来たんだ、と語る。よく分からないものの、優しい雰囲気に引きずられるようにして会話を交わすウェン。しかしそこに、なんだか恐ろしげな武器を携えた3人の男女がやってくる。レナードが、彼らは仲間なのだという。

恐怖を感じたウェンは、すぐにコテージへと戻り、2人の父親(ゲイカップル)に「すぐに家に入って」と忠告する。その緊迫さをまだ理解しきれないでいたエリックとアンドリューだったが、しばらくしてドアがノックされ、「無理やり入りたくはないから開けてくれ」という謎の訪問者の存在を認識し、恐怖する。

果たして、彼らは無理やり家に押し入り、2人を椅子に縛り上げた。しかし、「危害を加えるつもりはない」という。彼らはいう。

【私たちは、”終末”を防ぎに来た。君たちの”選択”に懸かっている。家族3人のうち、進んで犠牲になる者を1人選べ。さもなくば、世界は滅びる。】

そんなことを言われて、「はいそうですか」となるはずもない。エリックとアンドリューは、意味不明な訪問者たちの理不尽な要求を突っぱね続けるが……。

というような話です。この内容紹介だけでも、まあ意味不明でしょう。これは、ざっくりと紹介した内容だから意味不明なのではなく、映画全編において、この意味不明さが貫かれるという感じになります。

ただ、「意味不明だ」と捉えているだけでは話が進まないので、もう少し踏み込んで考えてみたいと思います。

映画を観ながら、「もし自分が、レナードたちの側だったら、どうするだろうか?」と考えた。彼らの言動はあまりに「狂気的」だが、それはあくまでも「常識的な判断」によるものだ。彼らには彼らなりの「理屈」「根拠」「切迫さ」がある。それは、観ていて伝わってくる。彼らは、「自分がイカれたことを言ったりやったりしていること」も、「こんなことを言っても信じてもらえないこと」も分かっている。分かっているからこそ、「目的達成」のために仕方なくやらざるを得ないこと以外、可能な限り「誠実さ」や「信頼感」を作り出そうとする。

もちろん、そんな意図はエリックとアンドリューには伝わらない。当然だ。なにせ、訳の分からない男女が武器を持って突然押しかけて来て、自分を縛り付け、「終末を防ぐために、3人の内誰を殺すかを選べ」と言われているのだ。そんな中で「誠実さ」「信頼感」なんかが醸造されるわけがない。

ただ、「だからこそ」と繋げるのはおかしいが、だからこそ彼ら4人の切迫さが伝わるし、その支離滅裂さが、ある意味で間接的に、「彼らが本当にそう信じているのだ」ということが伝わってくるといえる。

さて、もちろんそれは「観客視点」でしかない。

もし自分がエリックとアンドリューの立場にいたら、そんな悠長なことを考えてはいられない。なにせ、大切な家族3人の誰か1人を殺す選択を強いられているのだ。意味が分からない。そんな意味の分からない状況を受け入れる必然性など当然無いとしか思えないのだから、相手の「切迫さ」がどうだろうと、そんなことを考慮する必要などない。

この絶望的に噛み合わない両者の「異様な」接点が、森の中のコテージで展開される、というわけだ。

繰り返すが、普通の観客の立場からすれば、訪問者4人の主張はイカれていると感じられるし、だからこそエリックとアンドリューの視点で物語を捉えることになるだろう。しかし世の中には往々にして、「訪問者4人」みたいな人(集団)がいるし、もしかしたらいつ自分がそっち側になってもおかしくないとも思う。

例えば、コロナワクチンに関する様々な主張が一時期氾濫した。もちろん、それらの中には、「医学的に耳を傾けるべき真っ当なもの」もあったとは思うが、「コロナワクチンを打つと身体に磁石が付くようになる」みたいな、明らかな嘘も数多くあった。しかし世の中には、そういう話を無批判に信じてしまう人もいる。

アメリカには、「トランプ元大統領は、世界を支配している悪魔崇拝者の秘密結社と闘っているのだ」なんていう、「何をどうしたらそんな話を信じられるのか意味がわからない」という話を信じている人たちがいる。そういう集団は「Qアノン」と呼ばれている。

そういう特異的な話を持ち出さなくても、例えば「自分が信じる政党の応援」をするような場合、人によっては「訪問者4人」のような振る舞いになってしまう人もいるのではないかと思う。

ちょっと持ち出した例がよくなかったかもしれないが、僕は別に「正しい/間違っている」の要素をこの議論には含めていないつもりだ。映画の話に戻れば、「訪問者4人」と「3人家族」のどちらが正しいかは明らかなように思えるかもしれないが、決してそうではない。「3人家族」の立場からすれば当然自分たちが正しいとなるが、それは「訪問者4人」の側も同じだ。「訪問者4人」の立場からすれば、「当然自分たちが正しい」のだ。

先程出した例で言えば、「コロナワクチン」であれば科学的知見が、「Qアノン」であれば「オッカムの剃刀」みたいな話が、「どちらか一方の正しさを強くする理屈」として働くだろう。しかし、この映画においては、そのような「何か」はない。実際にはあるかもしれないが、スマホの電波の届かない森の中のコテージという、かなり孤立した環境で、かなり限られた情報にしか接することができない設定においては、「正しさ」を決するような「何か」は生まれようがない。感覚的には「明らかに『3人家族』の方が正しい」と感じてしまうだろうが、客観的に判断すれば、同じぐらいの確からしさで「『訪問者4人』も正しい」といえるのだ。

そういう中で、「『訪問者4人』側に立たざるを得なくなってしまった」としたら、自分はどんな風に行動するのだろうか、と考えたりした。

僕は「占い」というものを基本的にはまったく信じていないが、しかし古今東西長い歴史の中で、「何らかの未来予知的な能力を有していた人」がいた可能性までは否定しない。まだ人類が科学で捉えきれていない何らかの「現象」「能力」はあってもおかしくないと思っているからだ。

もし、自分がそういう「予知能力」を持った人物だとして、その場合、自分の中には「未来にはこういうことが起こるという確信」が存在することになる。しかし一方で、それを客観的に証明することは出来ない。実際に「それ」が起こるまで、「それが起こること」の「正しさ」を証明することはできない。

もしも「それ」が「世界の終末」であり、その「世界の終末」を防げる手段まで知っているとすれば、やはり、「訪問者4人」のような行動をしてしまうのかもしれない。

そう考えた時、「訪問者4人」を単なる「狂人」扱いすることも出来ないと感じるのだ。

どんなメッセージや意図を込めた作品なのかなかなか推し量るのが難しい作品だが、なんとなくそんなようなことをグルグルと頭の中で考えてみた。

変な話だったし、人にはなかなか勧めにくいが、個人的には「観て良かった」と思える映画だった。

「KNOCK 終末の訪問者」を観に行ってきました

いやー、これは凄い。映像の迫力も凄いし、「実物大のセットを作って、実際に火をつけて撮影」っていうやり方も凄い。

映画の冒頭で、こんな表記が出てくる。

「ウソのようだが、すべて実話だ」

ホント、よくもまあこんなことが現実に起こったものだと思う。ニュースでノートルダム大聖堂が燃えていると伝えられた時にはメチャクチャ驚いた記憶があるし、その背後で起こっていた出来事が、かなり緻密に描かれている。公式HPには「驚異の98%再現!!」と書かれている。出火原因など、憶測を交えないといけない部分もあったのだと思うけど、分かる限りにおいては事実をそのまま描いたということだろう。

映画には、当時実際に撮影された映像も随所に映し出される。2019年の出来事だから、スマホなどで撮影された映像もかなりクリアだ。だから、映画の映像とさほど遜色がない。そういうこともあって、本当に火災の現場に立ち会っているんじゃないかと感じるような映像体験だった。

さて、映画の内容についてあれこれ書く前に、一つ触れておきたいことがある。それは、「『もしも火災が起こったらどうするか?』について、まったく考えてなかったわけ?」と感じてしまったという話だ。

出火原因が何だったのかはともかくとして、「火災は起こるもの」として対策を取っておくべきだったはずだ。しかし、映画を観る限り、とてもそんな感じではなかった。

スプリンクラーをつけるとか、窒素などの消火装置をつけるみたいなことは、もしかしたら、「文化財を傷つけてはいけない」「建築基準法上無理」みたいな理由があったのかもしれない。しかしそれにしても、「屋根が燃えているのに、放水可能な場所まで行くのに、狭い螺旋階段を300段も上がらなければならない」「ノートルダム大聖堂があるシテ島の消火栓が足りず、特殊な船から取水するしかない」「消防署からノートルダム大聖堂までの最短ルートが、消防車では通れない道幅になっていた」など、「それぐらい先になんとかしとけよ」と思う場面が山ほどあった。「野次馬が多すぎて消防車などの緊急車両が近づけない」みたいな状況も、想定不足感が強かった。

日本ではどうなっているのかちゃんと知っているわけではないが、以前テレビで高野山が取り上げられていた際、建造物の周囲を取り囲むようにして地面に小さな穴がいくつも開いている様子が紹介されていた。火災が起こった際には、そこから水が出る仕掛けだ。世界遺産になっている、合掌造りの建物の多い白川郷では、年1回の放水訓練を欠かしていない。もちろん、そういう対策をどれだけしていても、甚大な被害が出てしまうことはあるだろうが、ノートルダム大聖堂の場合は、「まったくなんの対策もしていない」ように見えた。

それだけならまだしも、「火災報知器の誤作動が多かったのに、修理していなかった」なんていう、明らかなミスもある。実際映画冒頭では、火災報知器の異常を警備員が知らせたにも拘わらず、「誤作動だ」と言って無視されてしまう場面が描かれる。

ノートルダム大聖堂には、「フランスが支払いに35年掛かった」と紹介される「いばらの冠」と呼ばれる聖遺物を含め、1300点もの貴重な文化財が保管されている。フランスが誰と35年ローンを組んだのかよく分からないが、とにかく「フランス史上最も貴重」と言われる文化財なのだそうだ。ノートルダム大聖堂のトップ(司教?)も、「もし1点しか救えないのであれば、『いばらの冠』を」と消防隊に頼んでいた。

そんな至宝が眠っているなら、ホント、もっとちゃんと対策しろよな、と思う。マジで、その点がホントに理解できなかった。

ノートルダム大聖堂自体の貴重さについても、「観光客にガイドが語る説明」として、様々に紹介される。

『欧州で最も訪問者が多い建築物』
『ゴシック建築の至宝』
『屋根を支える骨組みは世界最古の木材で作られている』

などなど。しかも、ただ「古くて価値がある」というだけではなく、現在に至るまで続く「信仰」とも結びついているのだから、その重要性はなかなか推し量れないだろう。日本だと何に相当するのか考えてみたが、よくわからなかった。古さだけで言えば、清水寺とか金閣寺なんかが当てはまるのかもだけど、「ノートルダム大聖堂」というものが持つ様々な要素をまるっとひっくるめたようなものは、なかなか思いつかない。それこそ「富士山が崩れる」みたいな感じなのかもしれない。

さて、そんな実話を、この映画では「出火に至る経緯」と「消化の戦い」だけで描いていると言っていい。非常にシンプルな物語だ。唯一、「大聖堂にろうそくの献灯にやってきた母娘のエピソード」だけがフィクション的というか、「恣意的に挿入された人間ドラマ」という感じで、それ以外は、「実際にこういうことが現場で起こっていたのだろう」という、状況描写と消防隊の奮闘だけで構成されている。

だから、とてもドキュメンタリー映画っぽい。もちろん、明らかにドキュメンタリー映画ではないことは理解しているので混乱することはなかったが、ドキュメンタリー映画を観ているような気分で映画を観ることができた。

映画を観ながら、「有事になった際の準備をしとけよ」と色んな場面で感じたのだけど、それとはまた別の観点で「それぐらいやっとけよ」と思う場面があった。

ノートルダム大聖堂には、文化財の管理の責任者であるプラドという人物がいる。彼は火事が起こった日、パリから22km離れたヴェルサイユ宮殿の展示を見に来ていたのだが、火事の一報を聞き、すぐに戻ろうとした。ただ、色んな場所が封鎖されていて、ノートルダム大聖堂の近くまで行くにも大変だった。

まあ、それは仕方ない。

さて一方で、消防隊の間でもプラドの名前は上がっていた。文化財の責任者で、重要なものを保管している部屋の鍵を持っているのもプラドだということが、早い段階で伝わっている。さらに、一番救出してほしいと言われている「いばらの冠」も、プラドが持っている鍵がないと開かないということが分かっているのだ。

さて、その状況で、プラドがノートルダム大聖堂の周辺を警備している警察官に止められる場面がある。プラドは「これが鍵だ」と、自分が文化財の責任者だと訴えるのだが、「今日は枢機卿が多すぎる」と、「どうせお前も枢機卿だって言って嘘ついてここを通ろうとしてるんだろ」という態度を取られてしまう。

これがマジで意味が分からんかった。プラドが持ってる鍵が必要なことは明らかだったんだから、警察と連携してその辺上手くやれよ、と。もちろん、現場は混乱していただろうから、ちょっとした不手際で連絡の行き違いがあったとかなのかもしれないけど、なんとなくこの映画だけから判断すると、そういう連絡はなされていなかったんじゃないかという気がした。

ホントに、「おいおい」と感じてしまう場面が多数ある映画だった。映画としては、とても良かったと思う。

「ノートルダム 炎の大聖堂」を観に行ってきました

これは面白いわ。僕らは、「マイケル・ジョーダンがナイキと契約した」っていう事実を知った上で観るしかないわけだけど、「そんな確約などまったくない状態」でこのミッションに関わっていた人たちは、ヒリヒリしただろうし、テンションも上がっただろう。

これが実話だっていうのが、面白い。

物語の舞台となるのは、1984年(どうでもいいが、僕が生まれて1年後である)。この時点における「ナイキ」と「マイケル・ジョーダン」の評価が、まず興味深い。

映画の中では、1984年当時における「バスケシューズ」のシェアの割合が表示された。当時は、「コンバース54%、アディダス29%、ナイキ17%」という状況だった。ナイキが17%というのも、その後の変化を知る僕らからすれば驚きだが、コンバースが54%というのもビックリだった。コンバースに、バスケシューズのイメージなんかまったくないからだ。

とにかくナイキは、バスケシューズの世界ではまったくの劣勢だった。ナイキは、ランニングシューズで儲けている会社で(作中で、「ランニングシューズはピカソで、バスケはマンガ」みたいなセリフが出てくる。ポスターの話だ。それぐらい、社内の予算規模がまったく違うということだ)、バスケ部門は閉鎖も噂されるような状況だったのだ。

ナイキのバスケ部門が用意できる年間予算は25万ドル。映画の冒頭で部門の面々は、「この25万ドルを、どの3選手に振り分けるか」という話をしている。

その会議の中で、その年の有力選手のドラフト順位が20位までホワイトボードに張り出されていた。もちろんその中にマイケル・ジョーダンもいるのだが、彼はその年ドラフト3位と予想されていた。

このことも非常に興味深い話だ。後に、バスケに興味のない人でもその名を知ることになるスーパースターが、NBAデビュー前はドラフト3位予想だったのだ。

これが、「ナイキ」「マイケル・ジョーダン」を取り巻く状況だった。もちろん、3位とはいえ、マイケル・ジョーダンの評価はものすごく高かった。コンバースもアディダスも、当然、マイケル・ジョーダンとの契約を狙っていた。

さて、ナイキにとって不利な状況はそれだけではない。なんとマイケル・ジョーダンが「ナイキとは契約したくない」と言っているのである。ある人物(彼は、歴史的にものすごく価値のあるスピーチの原稿を持っていることが示唆される。映画全体の内容とは関係ないけど)が、ジョーダンが言ったこととして、こんなセリフを口にする。

【25万ドルと赤いベンツをくれた会社とならどことでも契約する。ナイキ以外なら】

ジョーダンがナイキの何を嫌っていたのかよく分からなかったが、とにかくジョーダンは「ナイキなんて端から選択肢にも入れていなかった」のである。ジョーダンの代理人を務める人物は、ジョーダンとその家族の意向を理解し、「そもそもナイキを交渉のテーブルにつかせるつもりはない」とまで言う。

とても勝ち目がある勝負とは思えない。よくもまあ契約にこぎつけたものだ。

契約締結に多大な貢献を果たしたのが、ナイキのソニー・ヴァッカロである。彼の経歴が詳しく語られるわけではないが、ナイキのCEOから「バスケの師(グル)」と呼ばれており、そのCEOとの関係から、創業当初のナイキとも関わりがあったようだ。また、ジョーダンの代理人とも知った仲であるようだ(仲良くはなさそうだが)。とにかく高校バスケの知見が深く、才能のある人物を見抜く目に信頼が置かれているようだ。

そんなソニーをCEOが雇っているわけだが、ソニーはまあ組織には馴染まないタイプの人間で、度々CEOを苛つかせる。そして、「25万ドルを3人に振り分ける」という方針だったのを、このソニーが「マイケル・ジョーダンに25万ドル注ぎ込む」という博打に打って出るのだ。もしジョーダンと契約出来なければ、おそらくバスケ部門は解体だろうという状況である。つまり、部門全員の生活も丸ごとベットした賭けというわけだ。

そこまで彼がマイケル・ジョーダンに入れ込むきっかけとなった実際の映像が劇中繰り返し流れるのだけど、これがなかなか興味深い。高校バスケを観続けてきたソニーでさえも「見落としていた」と語るシーンであり、様々な複合的な状況を加味した上で観ると、確かにそこに「マイケル・ジョーダンの偉大さ」が浮かび上がってくる感じがする。何を知らずに見れば、「ある選手が味方からパスをもらいシュートを決めた場面」に過ぎないのだが、これがソニーに、この無謀な賭けに挑ませるきっかけとなったというわけだ。まったくぶっ飛んだ話である。

どうやってマイケル・ジョーダンを口説き落とせたのかは是非映画を観てほしいが、1つだけ、ちょっとおもしろい話に触れておきたいと思う。僕は、この決断がジョーダンの心を動かした1つのきっかけだったのではないかと予想しながら観ていたのだけど、実際にはどうもそこまでのものでもなかったようなので、書いてもいいだろう。

今もそのルールがあるのか分からないが、少なくとも当時のNBAには、「シューズの51%以上は白色でなければならない」というルールが存在していたようで、違反すると試合の度に罰金を払わなければならないことになっていた。ソニーは、社内のシューズ設計者に「革新的なものを」と言って試作品を作ってもらったのだが、どうにもシカゴ・ブルズのチームカラーである赤色が足りないと感じていた。しかしソニーはその51%ルールを知らず、設計者に「これ以上色は増やせない」と言われてしまうのだ。

しかしそこで、バスケ部門もマーケティング責任者であるロブが、「いや、赤を足そう」と提案する。罰金はどうするのかと言えば、「ナイキが代わりに払うと言えばいい。それも宣伝になるだろう」と。こうしてナイキは、「履いたら毎試合毎に罰金を払わなければならないシューズ」でプレゼンに挑むのである。

まさにこの辺りのチャレンジは、シェア17%と低迷していた企業だからこそやれたことと言っていいんじゃないかと思う。

最終的に映画は、マイケル・ジョーダンとその母の「凄さ」が伝わるようなものに仕上がっている。これもあまり具体的には触れないが、ジョーダンとその母が「何に最上級の価値を置いていたのか」がとても重要だ。さらに大事なことは、「自分はそのような価値を生み出せる人間である」という深い確信を母子が持っていたことである。ナイキとの契約が、NBA選手として活躍する以前のものであることを考えると、この母子の振る舞いは、ソニーのそれ以上に常軌を逸したものであるように感じられた。

映画には、ナイキの社訓だろうフレーズがいくつか出てきたのだが、その中に「プロセスより結果がすべて。ルールに逆らえ」みたいな感じのものがあった。まさにソニーもジョーダン母子も、その言葉通りの行動をしていたといえるだろう。ジョーダン母子は、ナイキにある条項を認めさせることに成功するのだが、今の時代を生きる僕らには、割と当たり前の仕組みに感じられる。それが、まさにマイケル・ジョーダンから始まったのか、と思うと、その事実にもまた驚かされる。

映画のラストで、登場人物たちのその後についてあれこれ触れられている。その中に、NYタイムズがソニー・ヴァッカロを評した言葉もあった。曰く、「スポーツ史上、最高の改革者」なのだそうだ。

これは良い物語だった。お見事です。

「AIR/エア」を観に行ってきました

非常にシンプルだが、まさに「普遍的」な、現代にも通ずる物語だと思う。この物語が突きつける「テーマ」に、改めて自分の人生を思い巡らせる人もきっと出てくるだろう。

ちなみに僕は、この映画の元となった、黒澤明監督「生きる」を観ていない。

一番印象的だったセリフが、

【生きることなく人生を終えたくない】

というものだろう。この言葉は、昭和の日本だろうが、『生きる LIVING』の舞台である1953年だろうが、現代だろうが変わらない。多くの人がきっと、「生きることなく人生を終えたくない」と思っているだろう。

しかし、実際のところなかなかそれは難しい。それは結局のところ、「人生に対する『満足感』を、何に対して感じるのか」という話になるからだ。

それは人それぞれ違う。だから、他人に教えてもらうことはできない。選択肢の参考にはなるが、結局は自分で「これ」というものを見つけるしかないからだ。

また、「それ」がなんであるのか分かっていたとしても、必ずしも手に入るとは限らない。「些細なこと」で満足できる人はむしろ幸せだと言えるだろう。望んでも努力しても確実には手に入らないと分かっているものでしか「満足」を感じられない人生は、やりがいはあるかもしれないが、なかなか辛いものがある。

さて、映画の中ではもう1つ、困難さについて示唆されることがある。

【少しずつ変わっていったんだ。だから気づかなかった】

主人公は、長年公務員として働く人物だ。その人生の背景について詳しく描かれるわけではないが、「妻は既に亡くなっている」「息子は結婚しているが、奥さんと遺産の話をしている」「仕事では、面倒事はとにかく先送りする」というような状況にある。映画の中で、ある人物が彼に「ゾンビ」というあだ名をつけていたことが明らかになるが、まさに言い得て妙と言ったところだろう。

主人公は恐らく、人生の目標もなく、成すべきことも見当たらず、ただ無為に日々を過ごしているだけである。そういう風に描かれている。しかし、若い頃はそうではなかった。今とは違う、もっと溌剌とした何かがあったのだ。しかし、時間と共に少しずつ変わってしまった。何か大きなきっかけがあったわけではない。だから、その重大な変化に気づかなかったのだ。そんな風に語る場面がある。

先日、ちょっと印象的だった出来事があった。大学時代の友人と飲んだ時のことだ。その中に、1つ上の先輩もいた。本当に久々に会う人で、もしかしたら学生時代以降会ったことがないんじゃないか、と思うぐらいの人だ。

その先輩は、聞けば誰もが知っているような有名な会社で働いている。結婚して子どももいるようだ。そして僕は先輩から聞かれるがままに、今の仕事などの状況を話した。僕の場合は、お世辞にも「羨ましがられる」ような生き方をしていない。先輩の境遇とは真逆と言っていいだろう。

しかし僕の話を聞いていた先輩が、何度も「すげぇな」「羨ましい」みたいなことを言っていた。僕の感触では、「本心からそんな風に言っているんだろう」と感じた。初めは、先輩が僕の何を「すごい」「羨ましい」と言っているのか上手く捉えられなかったのだが、話の中でようやく少しずつ理解できるようになってきた。

その先輩は、「自分が『敷かれたレールの上をただ走っていただけ』なのではないかと感じている」ようなのだ。はっきりそう口にはしていなかったが、先輩はどうも現在の状況に満足できないようだ。しかし一方で、その悩みはなかなか表に出すことが難しい。何故ならその先輩は、傍目には「誰もが羨むような人生」を歩んでいるからだ。分からないが、恐らくそういう「葛藤」を他人に話す機会はあまり無いんじゃないかと思う。そして、別に良い意味ではなのだけど「普通ではない生き方」をしてきた僕の人生を知って、普段から抱えていたそのような感覚が思わず噴き出したのではないか、と感じた。

僕は、中学生の頃にはもう「サラリーマンにはなれない」という確信があったし、大学を2年で中退する頃には、「『普通のルート』を生きても面白くないし、っていうか絶対に死んじゃう」と思っていた。だからさっさと人生の階段を降りて、なんとか適当に生きている。

しかしもし、そういう「確信」が自分の中になかったら、僕は「向いてない」と思いながら就活をして、「向いてない」と思いながらサラリーマンになって、「向いてない」とようやく確信して人生をドロップアウトしていただろう。「普通」から外れた選択を未だに後悔していないのは、このためだ。

と言って別に、今僕が「人生に対して満足感を得ている」かと言えば別にそんなこともないのだが、少なくとも、先の先輩が抱いているような「敷かれたレールの上をただ走っていただけ」みたいな感覚に陥ることはないと言っていいだろう。

レールの上を走っているという感覚がある場合、そこから外れることはなかなか容易ではないだろう。時間が経てば立つほどなおさらだ。『生きる LIVING』の主人公も同じだろう。まさにレールの上をただひたすらに走ってきただけだ。映画の中には、蒸気機関車で通勤する場面も描かれるが、まさにそこからも「レール」の存在を感じ取ることができる。

主人公にとって、そのきっかけは、余命宣告だった。そして、余命宣告を受けて初めて、自分が「生きていない」ということに気づいたのだ。

そんな「ゾンビ」が、どう「人生」を取り戻すのかの物語である。

市民課の課長として働くウィリアムズは、部下に煙たがられながらも、杓子定規な仕事・生活を続けている。判で押したようなその「堅物」っぷりは、ウィリアムズが「早退する」と言うだけで課内をざわつかせるほどの力を持っている。
病院に赴いたウィリアムズは、そこで「余命半年」を宣告される。長くて9ヶ月だと。
電気の点いていない部屋でぼーっと思案した彼は、すぐさま行動を起こす。貯金を半分下ろし、仕事をサボって海辺の町へとやってきたのだ。しかし彼には、「どうやって人生を楽しめばいいか」が分からない。たまたまカフェで知り合った劇作家に、余命宣告と今の悩みを打ち明けたところ、その劇作家が一緒に色んな酒場に連れて行ってくれた。確かに、これも「楽しい」のかもしれない。しかしウィリアムズには、どうもしっくりこない。それからもずっと職場放棄を続ける彼は、ある日、課内で事務作業を手伝ってくれていたマーガレットと街でばったり会う。彼女は転職先で内定が出ているのだが、今の職場の推薦状が必要で、出社してこないウィリアムズを待っていたのだ。ウィリアムズは、それは迷惑を掛けたと言い、お詫びに昼食をごちそうする、そこで推薦状を書こうと提案した。
結果として、マーガレットとばったり会ったことが、ウィリアムズの人生を大きく変えることになるのだが……。

とにかくウィリアムズの存在感だけで映画が成立しているような、そんな作品でした。公式HPを読むと、脚本を担当したカズオ・イシグロが、主演のビル・ナイに当て書きしたみたいなことが書かれていました。というか、黒澤明監督の『生きる』をリメイクするという話が浮上したのも、ビル・ナイの存在あってのものだそう。詳しくは公式HPを読んでほしいが、プロデューサーとカズオ・イシグロが話しているところにビル・ナイもいて、その時にカズオ・イシグロがビル・ナイに「あなたの次の主演作が思いつきましたよ」と言った、みたいなことが書かれている。

カズオ・イシグロは、黒澤明の『生きる』に昔から感銘を受けていたそうで、いつかこれをイギリス版として撮る人が現れないか、と思っていたそうだ。とはいえ、別に自分が脚本を担当するつもりではなかったそうだが、プロデューサーから強く請われて引き受けたそうだ。そして、「カズオ・イシグロが脚本を担当する」という事実が、黒澤明の権利者たちの気持ちを動かし、この企画の実現に至ったそうだ。なかなか興味深い話である。

カズオ・イシグロは、「黒澤明の『生きる』と、ストーリーは相当共通している」と言っているので、たぶんそうなのでしょう。しかし面白いことに、カズオ・イシグロは、それまで人生の中で何度も『生きる』を観てきたが、脚本を担当すると決まってからはたった1度だけ観て、それ以降はどんな『生きる』に関するすべての情報に触れないまま、英語の脚本を書き上げたそうだ。

映画において、映像的に印象的だったのは、「覚醒したウィリアムズ」が、土砂降りの雨の中踏み出すシーン。それまでとはまったく違うウィリアムズの姿もいいし、傘をバッと広げた場面もいしい、そこから一気に場面転換する構成にも驚いた。

あと、最後の方で「結局そうなるんかー」みたいな展開も興味深かった。「1人の人間が為せることは小さいが、まあそれは仕方ない」みたいな感じなんだろうか。しかし映画では、「それでもいいんだ」というメッセージも込められていて、それも良かったと思う。

派手さとは無縁の、非常に静かに淡々と展開する物語だけど、そのあまりの普遍性に、人生を考え直したくなるような作品ではないかと思います。

「生きる LIVING」を観に行ってきました

とにかく印象的だったのは、「良い夫婦だな」ということ。僕が思う「良い」は、「お互いに何でも話が出来そうだ」という印象にある。もちろん、本当のところは「何でも」とはいかないかもしれない。ただ、「根治の難しい病気を抱えている」という、消し去り難い現実を間に挟んだ夫婦が、その中で、「お互いに、何でも話しても大丈夫だ」という雰囲気をちゃんと届けようとしている感じは間違いなくあったし、その事実がとても素敵に感じられた。

「AYA世代」という単語は、たぶんどこかで耳にした記憶はあるのだけど、人に説明できるほどの知識はなかった。「Adolescent(思春期)& Young Adult(若年成人)」の頭文字を取った言葉で、概ね「15歳から39歳のがん患者」を指す。何故そんなピンポイントな対象に名前がつけられているのかというと、「医療費制度と介護保険の谷間で、経済的な助成が得られる制度がほぼ存在しないから」だ。

映画の主人公であり、この映画の企画者でもある「鈴木ゆずな」は、撮影当時28歳だった。2020年の2月、27歳で舌がんのステージ4と宣告され、その後肺や脳への転移も判明した。映画上映後にはトークイベントがあり、そこで明かされたのが、この映画の撮影期間だ。監督は、2021年10月に「地域で共に生きるナノ」の代表である谷口眞知子から連絡をもらい。11月に初めて鈴木ゆずな・翔太夫妻と会ったのだが、そこから僅か20日間ぐらいしか撮影できなかったそうだ。何故なら、ゆずなさんが意識がほとんどない状態で入院することになったからだ。

ゆずなさんは、「AYA世代として、困っている他の人の何かの役に立てるなら」と、自分の現状を映像として記録してもらうことを望んだ。本当に、それがギリギリのところで叶ったといったところだろう。ゆずなさんは元々看護師として働いており、普通のがん患者より医学的知識を持っている。自分の置かれている状況についても、かなり深く理解していたことだろう。そういう中で、「自分の今を、誰かのために残してほしい」と思えることは素敵なことだと思う。

彼女は、旦那さんと2人でインタビューを受ける場面もあるが、「自分が病気だから」みたいな卑屈さを出したりせず、出来るだけ対等に振る舞おうとする。旦那さんの方も、「奥さんが病気だから」みたいな雰囲気をほとんど出さない。もちろんそれは「カメラの前だから」と捉える人もいるだろうし、どういう解釈でもいいが、僕の目には、お互いがとても良く結びつき合っている夫婦だと感じた。

しかしそんな夫婦でもやはり、「どうやって最期を迎えたいか」という話をするのはかなり難しかったそうだ。当たり前だろう。2人でそういう会話をするということは、そういう状態を2人ともが認めてしまうことになるから、なかなかそういう話は出来なかったと、夫の翔太さんが語っていた。

映画の中で僕的に印象的だったのは、ゆずなさんの(恐らくLINE上の)言葉だ。舌がんになったゆずなさんは、舌の左半分を切除し、太ももの筋肉を移植したこともあり、喋ることが少し不自由になっている。そのため、「自分の考えを伝えるのに文字も使わせてほしい」と監督に訴え、恐らくLINEでやり取りしたのだろう言葉が画面上に映し出される。

その中に、

【「ステージ4でも治る」とサラッと言う芸能人やメディアに苛立つ】

という言葉があった。同じ「がん患者」でも、癌腫・年齢・ステージ・個人の体力など様々な要因によって置かれている状況は異なる。また、「治らない・治療できないという状況になってしまう可能性も理解してほしい」とも語っていた。

ゆずなさんは、肺への転移後、抗がん剤治療を行ったのだが、色々試してもまったく効かず、「保険診療で使える抗がん剤はもう無い」という状況になってしまったそうだ。また、脳の場合はそもそも、抗がん剤が入っていかないため、放射線治療しかできない。ゆずなさんの2021年3月時点で既に「治療はできない」という状態になり、「緩和ケアを並進させる」という方針になったそうだ。

制度も然りだが、「すべてを満遍なくサポートすること」は難しい。しかしそうだとしてもやはり、「想像力ぐらいは失ってはいけない」と思う。そして、想像するためには、「知ること」が大事だ。そういう意味で、ゆずなさんが残した「記録」には価値があるのだろうと感じる。

僕としてもやはり、これからも、「その立場にならなければ理解し得ないこと」を積極的に知る意識を持ちたいと思う。

もう1つ、なるほどと感じたのは、「病院で働いていると、使える制度のことを知る機会がない」という話だ。これは、ゆずなさんが働いていた病院の先輩看護師が語っていたことだ。病院は「治す」ところであり、なかなか「治った後」のことには触れる機会がない。後輩であるゆずなさんががんになったことで、彼女はそのことに気付かされたそうだ。介護保険が適用されるなら、ケアマネジャーみたいな人がいて、様々な差配をしてくれるが、AYA世代にはそういう点でも対応が行き届いていない。結局ゆずなさんは、その先輩看護師の尽力により「地域で共に生きるナノ」に行き着き、そこで支援を得られることになった。そもそもゆずなさんには「使える制度が少ないこと」が問題なわけだが、「単に制度だけあっても仕方ない」という問題が提示されたこともまた、意味のあることだと感じた。

「ケアを紡いで」を観に行ってきました

なかなか面白い映画だったのだけど、先に1つだけ書いておきたい。もうちょっと、編集を良い感じに出来なかったかなぁ、と。今どき、YouTubeだって、もう少し「見栄えの良い編集」をすると思う。「テレビで放送できないネタをやる」という企画自体はとても良いと思うんだけど、「見栄え」だってもうちょっと気にしないと、広く観てもらえる作品にはならないだろう。そこだけはちょっと、「うーん」と感じてしまった。

この映画は、「放送不可能。」シリーズ(になるようだ。最後に、第2弾の予告として、ホリエモンとの対談の様子が映し出されていた)は、「田原総一朗が墓場に持っていけない話」として、テレビでは放送できないネタをあれこれ聞くというコンセプトで行われている。第1弾の対談相手は、元首相の小泉純一郎であり、ネタは「脱原発」である。

あらかじめ僕のスタンスを書いておくと、僕は「原発という『技術』は素晴らしいのだろうが、それを動かす『人(組織)』に問題があるので、原発は容認出来ない」という立場だ。これは、東日本大震災における福島第一原発事故が起こって以降、僕の中の変わらないスタンスだ。

映画の中では様々なことが語られるのだが、まずはやはり小泉純一郎に特異な点に触れておくべきだろう。印象的な話は3つあった。

まずは、「総理大臣時代、自分は『騙されていた』」という主張。原発は「安全、低コスト、クリーンエネルギー」と言われており、だから総理大臣時代は原発推進派だった。しかし福島第一原発事故が起こって以降、脱原発へと舵を切り、様々な人を巻き込んで脱原発の運動の「象徴」として活動している。

単に「象徴」なのではなく、勉強や視察など活発に行っている。話の中で、フィンランドに作られた「世界初で唯一の使用済み核燃料最終処分場」である「オンカロ」の話が出てくる。小泉純一郎は、そのオンカロの視察に行ったそうだ。そして、2025年稼働予定だというオンカロが最後に残す検査課題が「湿気」だと知り、日本で最終処分場を建設するのは無理だろう、と判断したと語っていた。また、地下400mの場所に2000m四方の土地を確保したオンカロでさえ、原発2基分の使用済み核燃料の保管スペースしかないそうだ。だからフィンランドも、さらなる最終処分場建設をしなければならないが、住民の反対に遭って建設できていないという。原発2基分の最終処分場をどうにかこうにか作れたフィンランドと比べ、日本には54基の原発が存在し、福島第一原発事故直前の段階では、これを100基まで増やす計画が存在していた。どだい無理な話だと分かるだろう。

田原総一朗は政府関係者から、「日本にもオンカロを絶対に造ります」と断言されたことがあるそうだが、「そうやってみんなごまかしてばっかりいる」と痛烈に批判していた。

小泉純一郎は、千葉県の農家が発明した「ソーラーシェアリング」という仕組みについても語っていた(これも自分で観に行ったらしい)。これについて僕は、別の映画で詳しく観たことがあるが、田んぼや畑の上にソーラーパネルを設置することで、「売電の収益」だけでなく、「適度に日陰ができることで作物の生育もよくなる」そうで、どちらも収益がアップするというものだ。以前観た映画では、この仕組みは農家の間でかなり広まりつつあるが、やはり行政の支援がなかなかない(原発を推進したい国は、自然エネルギーへの投資をしようとしない)ため大変だと語っていたような気がする。

そんなわけで、小泉純一郎は、かつて原発推進派だった自分が「誤りだった」と気付き、正しい知識を得て啓蒙活動をしているのであり、その姿勢が非常に興味深かった。

また、そんな小泉純一郎が「脱原発の旗印」を掲げたことで、思わぬプラス効果もあったそうだ。それは、「脱原発=左翼」というイメージが払拭されたというのだ。

僕には理屈はよくわからないが、どうやら「脱原発」を主張すると「左翼」だと受け取られることが多いのだという。僕はあまり「右翼・左翼」の話が分からないのだが、映画の中では、「左翼」という言葉を「自民党反対」という意味合いで使っているようだった。しかし、元自民党で総理大臣経験者である小泉純一郎が脱原発運動のトップにいることで、「『脱原発』と主張しても『左翼』と受け取られずに済むから言いやすくなった」という感想が出てくるようになったそうだ。

小泉純一郎は、「脱原発以外の政治的な話には首を突っ込まないようにしている」と語っていたが、脱原発だけでは「党派がどうのとか関係なくやらなきゃいけない」と主張しており、その言葉通り、その道へと邁進している姿が見事だと思う。

そして最後に、息子である小泉進次郎に言及されていたのが興味深かった。映画の最後、田原総一朗が「これはオフレコでもいいんだけど」と言って口にしたのが、「進次郎はいつ動くんだろうね?」ということだった。小泉純一郎は、もう選挙応援はしないと決めているようで、息子の応援にも言っていないそうだ。政治的な関わりはあまりないのだろう。ただ、「いずれやらざるを得ないだろうね」と言っていた。どうなるか、期待したいところである。

また、小泉純一郎に対しては全体的に、「やっぱり喋りが上手いなぁ」という印象が強かった。マスコミを巻き込んで「小泉劇場」と呼ばれたムーブメントを生み出した当時と同じく、やはり人を惹き付ける話し方をする。映画では、田原総一朗との対談だけではなく、小泉純一郎が全国各地で脱原発の講演をしている様子を収めた映像も挿入されるのだけど、そこでの喋りが達者である。こういう「喋りで人を惹きつけられる人」がリーダーだと物事は動きやすい気がするし、だからこそ、脱原発という動きがちゃんと実現しそうにも思えるという強みがある。

また、これも全体的な印象だが、「どうして頭の良い人たちが『脱原発』を理解できないのか、それが私には理解できない」というスタンスを随時取っていたのも印象的だった。

例えばドイツは、それまで原発推進派だったメルケル元首相が、福島第一原発事故を機に脱原発へと踏み切り、わずか4ヶ月で脱原発への舵を切った。2023年4月(ってことは今月だよな)にすべての原発が停止する予定だそうで、自然エネルギーは46%までに上がっているそうだ。

ドイツの脱原発については、「周辺国から電気を買っているからできるんだ。日本では同じことは出来ないから無理だ」という主張があるようだが、小泉純一郎はドイツに行って話を聞き、それが詭弁だと理解したという。ドイツは単に、周辺国の電気を買う方が安いからそうしているだけで、自国だけでやろうと思えばできるのだそうだ。そもそもヨーロッパでは、EUが、自然エネルギーの割当を2030年までに65%まで引き上げる目標を立てているそうだ。その目標が発表された日に、日本の経済産業省も2030年までの目標を発表したそうだが、日本は僅か22%~24%を目標にしている。

小泉純一郎はしきりに、「なんで頭の良い人たちが、衰退産業である原発にここまで依存するんだろう」と首をかしげていた。田原総一朗は、「経済産業省は電力会社の天下り先でもあり、東電と関電に頭が上がらないからだ」と言っていたが、小泉純一郎は、「いやー、そうだとしても、すべての官僚に気骨がないとは思えないんだけどなぁ」みたいに言っていて、本当に理屈が分からないと感じているようだった。

さて、映画を観ながら僕は、「それまで知らなかった知識を得る」という意味でもなかなか興味深さを感じていた。例えばわかりやすいのは、「原発は保険に入れない」という話。なるほど確かに、と感じた。東京電力が、事故の損害賠償や廃炉の費用を捻出できないから国に援助を求めているという話が出てくるが、どうしてそういう話になるのかと言えば「保険会社が、原発を安全だと見なしていない」からなのだ。「原発は保険に入れない」という事実だけでも、その「安全神話」は崩れるんだろうなぁ、と思う。

また、水力発電についても「そうだったのか」と感じることがあった。国はこれまでいろんなところにダムを造り発言を行っているが、それは主に「治水」を目的にしているのだそうだ。つまり「治水のついでに発言をしている」というわけである。水害などが起こらないようにダムを造り流量を調整している、そしてそのついでの発言、という意味だ。しかし小泉純一郎は、もっと「利水」に力を入れればいいというのだ。

どういうことか。国は「治水」を主目的にしていることもあり、現在の水力発言は発電能力を低く抑えられているのだそうだ。そもそも、水を容量の半分程度までしか溜められないように規制がされているのだという。だからその規制を取り払い、少しダムを改修すれば、発言能力を大幅にアップできるのだそうだ。

専門家の試算によれば、今あるダムの能力を最大限まで活かせば、水力発電だけで全発電量の30%まで賄えるようになるそうだ。現状で8%程度だそうなので、約4倍近くまで能力向上が可能だというわけである。そんな話、これまで知らなかったなぁ。

また、東京電力(か政府か)は、福島第一原発の廃炉に20~30年掛かると言っているそうだが、これも「そんなわけない」のだそうだ。というのも、スコットランドにある原発の廃炉が決まり廃炉作業が1990年頃から始まっているそうだが、作業完了予定が2080年に設定されているというのだ。実に90年である。だから、なぜ福島第一原発の廃炉が30年で終わる見通しが立てられているのか、まったく理解できないという。

このように、「知らなかった知識を得られる」という点でもなかなか面白かった。

映画自体は2021年に撮影されたようで、その後、ロシアによるウクライナ侵攻を経てイギリス・フランス・アメリカの姿勢が変わったことが字幕で訂正される箇所がいくつかあった。その3カ国は、原発の方針を転換(反対だったものを推進することに決めた)そうだ。やはりまだ、自然エネルギーだけですべての電力を賄うのは難しい状況なのだろう。

しかし、映画の中でも語られていたが、日本は世界の中でも自然エネルギーを活用しやすい国であるそうだ。以前僕はテレビのニュース番組の中で、「洋上風力発電の最前線」の特集みたいなのを観たことがある。風力発電は、地上だと土地の確保が難しく、沿岸の場合は漁業への影響などから反対されることが多かったそうだが、風力発電の装置をかなり沖合に設置する技術が確立されるようになったことで、日本の広い領海が活用できると語られていた。確かに、遠くの海に風力発電を建てられるなら、いろんな問題が解消されそうだ(テロリストに狙われる可能性は高まりそうだけど)。

しかし映画の中では、「九州電力」と名指しして、「自然エネルギーの利用を減らせと言っている」などと指摘されていた。要するに、大手電力会社が既得権益を守りたくて反対しているだけなのだろう。

小泉純一郎は、肌感覚として、「脱原発に反対している人はそう多くはない」と語っていた。恐らく時間の問題だろう、とも。僕も、原発の是非が云々よりも、単純に「自然エネルギーの分野で日本の技術が進歩してほしい」という期待から自然エネルギーの利用が促進されてほしいし、そうなる未来を期待してしまう。

小泉純一郎には頑張ってほしいと思う。なんて他人事ではダメなのは分かってるから、僕も関心だけは持つようにする。

「放送不可能。 第1弾 田原総一朗×小泉純一郎 『原発、全部ウソだった』」を観に行ってきました

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