黒夜行 2020年07月 (original) (raw)

しかしジブリ作品は不思議だ。
意味がわからないのに面白い。

先日観た映画が、ちょっと僕には理解できないタイプのものだった。そしてその映画は、僕にとって、「理解できない”から”面白くない映画」という認識になった。

同じように、「千と千尋の神隠し」も、ストーリーは基本的に意味不明だ。なんのこっちゃ、という感じである。でも、同じように理解できない映画だったのに、「千と千尋の神隠し」は「理解できない”けど”面白い映画」という認識になる。

この2つの違いは、一体なんだろう?

映画を観ながら、一つ感じたことは、ストーリー以外の部分の「分かりやすい楽しさ」みたいなものをふんだんに盛り込んでいるからかもしれない、ということだ。釜爺の手の動きとか、湯婆婆のあり得ない頭身とか、両親がブタになっちゃうとか。あるいは、途中から千尋についてくることになる、小さくなった坊とか。ストーリーの部分についても、わけわからない部分は多々ある一方で、千尋とハクの関係性は、割とベタな恋愛っぽく描いている。

基本的には何が描かれてるんだかさっぱりわからないんだけど、要所要所、断片断片での面白さみたいなものはこれでもかっていうぐらいに入れ込んでくる。なんだかよくわからないけど、目の前の場面場面は楽しい感じで展開している、という感覚が連続することで、最後まで楽しく見れてしまうんだろうなぁ、とちょっと思った。

しかし、ストーリーはわけがわからん。でも、考えてみれば、「わけがわからん」と思わせるのも、それはそれで凄いことだと思う。

この映画は、ジャンル分けをするとすれば「ファンタジー」ということになると思うけど、ファンタジーというジャンルは割と、「何が起こってもいい」という世界観で描かれることが多いはずだ。もちろん、その背後に明確な理屈があるという場合もあるだろうが、理屈抜きで不思議なことが展開していく物語なんて、ファンタジーにはいくらでもあるんじゃないかと思う。

でも、ジブリ作品は、「何かあるんじゃないか」と思わせる奥行きがあるように思う。表向きは、「何が起こってもいい」というファンタジーなんだけど、実際はその裏に、何か明確で鋭いメッセージ性があるんじゃないか…。たぶん、そういう推測をしているからこそ、「わけがわからん」という評価になるのだ。純粋に、「何が起こってもいい」というファンタジーとして受け入れるのであれば、「わけがわからん」と思う必要はないからだ。

映画館で再上映されたジブリ作品の内、「もののけ姫」「風の谷のナウシカ」「千と千尋の神隠し」の三作品を観た。最初の2つは、核となるテーマ性は分かりやすい。自然との共生だ。それ以上に、どういうことが描かれているのかは僕にはうまく捉えきれないけど、自然との共生が描かれている、ということは分かる。

でも、「千と千尋の神隠し」の場合、そのレベルの理解も出来ない。核となるテーマは、一体なんなんだろう?「八百万の神が身体を休める油屋」とか「契約すれば名前を失う」とか「仕事をしなければここにはいられない」などなど、色々気になる設定や状況は出てくるのだけど、何を中心軸として捉えるのが正解なのか、よくわからない。まあ、「正解」というのは特には存在しないのかもしれないけど。ジブリ作品のプロデューサーである鈴木敏夫の本を読んだことがあるのだけど、宮崎駿は、どういう展開になるのか自分でもわからないまま絵コンテを描き始め、最終的に鈴木敏夫に「これってどうやって終わらせればいいんだろう?」と相談することもあるという。つまり、宮崎駿自身の内部にも「言語化された正解」というのは存在しないのだろう。もちろん、こういうのを読み解いて言語化するのが得意な人というのはいて、何らかの説明が色々となされているのだろうけど、そういう様々な解釈が許容される、というのがやはり良質な作品なんだろうな、という気がする。

ちなみに、鈴木敏夫の本には、「千と千尋の神隠し」をどんな作品にディレクションするか悩んだと書かれていた。結果的には、今公開されているようなものになったが、当初は、これはマズイんじゃないかと思っていたそうだ。子供にトラウマみたいなものを与える作品になってしまうんじゃないか、と恐れたという。また同じ本の中に、こんなエピソードも書かれていた。「千と千尋の神隠し」の宣伝を、千尋とカオナシのビジュアルで行うことに鈴木敏夫が決めた後、宮崎駿が「どうしてカオナシで宣伝してるんだ?」と飛び込んできたという。鈴木敏夫が、「だってこれ、カオナシの話でしょう?」と宮崎駿に言うと、「そうか、そうだったのか」というようなことを言った、という話だった。面白い話である。

さて、「千と千尋の神隠し」を初めて観たのがいつだったのかまったく覚えていないし、その時自分が何歳だったかもわからないし、当時の感じ方も覚えていない。でも、今日観て強く感じたことは、「冒頭の千尋は、メチャクチャ不安だよなぁ」ということだ。昔の自分がどう感じていたか覚えていないにも関わらず、たぶんこんな感じ方はしていなかったような確信だけはあって、だから、ちょっと年を取ったなぁ、という気分になった。

友達と別れて田舎に引っ越しというまさにその日に、お調子者の両親のせいで変な世界に足を踏み入れてしまう(しかも母親は、「あんまりくっつかないで、歩きにくいから」と言ったり、千尋の歩調に合わせようとしなかったりと、自分の子供へのそこはかとない無関心さが描かれているように僕には感じられた)。両親は、意味不明にブタになり、やってきた道に帰れなくなり、結局なんだかさっぱりわからないまま、化け物みたいな連中と一緒に働くことになるのだ。

メチャクチャ怖いよなぁ、と思った。自分だったら、釜爺のところまではたどり着けるかもだけど、そこから先は無理だったかもなぁ。仮に湯婆婆のところまでたどり着けても、湯婆婆に「さっさと帰れ」みたいに言われたら、粘れないだろうなぁ、と。もちろん千尋としては、両親を助けなきゃという気持ちが強かっただろうし、それで踏ん張れたのはあっただろうけど、いやーよく頑張ったなぁ、なんて視点で冒頭しばらく観てしまった。僕は別に子供はいないんだけど、なんとなく親目線みたいな。

しかし、やっぱり謎だな。あのカオナシってのは、なんなんだ???

「千と千尋の神隠し」を観に行ってきました

観終わって感じたことは、状況の説明がちょっと不足しているんじゃないかなぁ、ということだった。

ラスト、なかなか良い感じのクライマックスになる。しかし、そのクライマックスをちゃんと理解するための背景が、僕にはうまく捉えきれなかった。

彼女たちが住む集落に関しては、なんとなく理解できたが、「クシナ」「カグウ」「オニクマ」の関係性がちょっと分からない。もちろん、「親子」という関係性は理解できるが、彼女たちの間にどんなわだかまりや問題があるのかということが分からない。そこがうまく理解できないから、ラストの熱量のあるあの場面に対して、どう感じればいいのかが分からなかった。

彼女たちの間に、何かがあることは、ところどころでのやり取りから理解できる。でも、そのやり取りだけから、彼女たちの間に具体的にどんなことがあったのか、僕は想像出来なかった。

もちろん、勝手な推測は色々出来るかもしれないし、この映画の描かれ方だけから、的確に何かを捉えることが出来る人ももちろんいるだろう。この映画は、そういう、受け取り能力の高い人向けに作っているんだ、ということであれば、僕は適切な観客ではなかった、ということだから別に問題はない。

でもなぁ。映像は結構キレイで良かったと思うけど、芸術的とか、小説で言う文学的みたいな感じでもない。僕としては、そういう芸術とか文学とか方面に振った映画という感じじゃないと思ったんで、だとするとやっぱり、ちょっと説明不足な気がしてしまった。

世界観は結構好きだったので、その背景的な部分がもうちょっと理解できたら良かったなと思ってしまった。

内容に入ろうと想います。
人類学者のカザマは、山岳部員であるハラダ君と共に、山奥にあると言われる女性だけの集落を探していた。彼女は、人類学に生涯を捧げている。人間の営みに対して美しさを感じるといい、特に、閉鎖的なコミュニティで生きている人たちの中に、その美しさを感じる瞬間があるという。
一方、カザマが探しているまさにその集落は実在し、女性ばかりが住んでいる。外界で苦労した女性たちの避難場所のような場所であり、オニクマという女性がここでの生活を取り仕切り、守っている。オニクマの娘であるカグウ、そしてカグウの娘であるクシナと3人で生活し、オニクマの娘であるカグウも自然と、集落の中心的な存在になっている。
まだ幼いクシナは、ソニーのウォークマンを片手に森で遊んでいる。そんな折、クシナは、カザマにその姿を見られてしまう。結局、その集落を探し当てたカザマとハラダは、しばし集落に泊まることに。久しぶりに見る男に集落はにわかにざわつく一方で、女性であるカザマは集落の女性から避けられている。そんな彼女が接触を試みるのが、山で一人遊んでいるクシナだった…。
というような話です。

映像もキレイだし、物語の設定も良いし、全体の雰囲気も良かったと思うんだけど、やっぱり、クライマックスを含めて、物語全体をうまく捉えきれなかったのが残念だったなと思う。僕みたいな人間には、もうちょい説明してくれないと、理解できないんだなぁ。

カグウ役の女性が非常に良い雰囲気で素敵だった。何があったのかは分からないものの、この集落で生きることの絶望なのか諦念なのか落胆なのか、そういう何らかの業のようなものを背負っているような雰囲気を、絶妙に醸し出していると感じました。

僕が行った上映回には舞台挨拶があり、クシナ役の女性も来ていたのだけど、撮影が5年前だったようで、今月で14歳になったそう。しかし、そう言われなかったら全然気づかないほど大人びた感じの人でびっくりした。

「クシナ」を観に行ってきました

やっぱり、ジブリ作品って、なんか凄いよなぁ。ナウシカ、ものすごく久々に観たけど、いつの間にか泣いてた。

ナウシカを観て改めて思ったことは、無条件に信じることの凄さだなと思う。

ナウシカは、それが人間であろうが蟲であろうが、関係ない。自分に銃を向けてくる相手であっても、言葉の通じない相手であっても、関係ない。ナウシカは、まず、相手を信じる。

ナウシカに関していえば、結果的にそれでなんとかなった、というだけでしかない。実際にナウシカのように、誰であっても信じるみたいなスタンスで振る舞っていたら命がいくつあっても足りないだろう。ナウシカが生きる世界も、僕らの世界と大差ないと言えばないが、僕らは残念ながら、誰かを疑いながら生きていくしかないのだ。

だからこそ、ナウシカの振る舞いに打たれるんだろうなぁ、という気がする。

風の谷の老人の一人が、「多すぎる火は何も生まない」と言うが、この「火」というのは「核」の意味も含むだろう。ジブリ作品を観ると、いつも「核」と関連付けて考えたくなってしまうけど、結局、「相手も核を持っているかもしれない」という疑心暗鬼が、今の世の中を生んだと言っていいだろう。もちろんそれまでも、戦争や争いはあったわけで、人類の歴史において戦は必然なのだろうけど、「核」の状況は戦の在り方も一変させたはずだ。詳しくはないが、それまでは、騎士道や武士道などのように、戦いにも作法があったはずだ。命の奪い合いをするということは、ある意味で、お互いがその作法を守るという「信頼関係」の上に成り立っていたのだと思う。しかし「核」の存在は、そういう「信頼関係」を完全に無効にした。「核」を持っているということ、あるいは持っているかもしれないということが、前提として「信頼関係」を破壊する行為なのだ。もちろん、大砲などの兵器の進化も関係しているだろうが、「核」という、使用することが世界の破滅を意味するような強大な「火」の存在によって、人類の戦いというものの様相はきっと様変わりしてしまったはずだ。

失われてしまった信頼関係を取り戻すことは、非常に困難だ。そのことを僕らは、自然の脅威という形で実感させられている。

「風の谷のナウシカ」では、文明が崩壊してから1000年後の世界が描かれる。瘴気を出す植物で覆われた腐海は、人間の住める環境ではない。しかし一方で、人間が怪我してきた大地を清浄なものにするために腐海は存在している。しかしそのことを人間は理解しない。

今の自然災害も、腐海の瘴気と同じで、表向き人間に害を成すものであり、その実、狂ったバランスを整えるための自然の調整なのだろうと僕は思う。先日「もののけ姫」を観た時も同じようなことを考えたが、やはり、自然をどう理解するかという人間側の読解能力が著しく衰えたことによって、様々なことが起こっているのだろう。非科学的ではあるが、自然というのは、科学の粋を集めた観測機器によってではなく、巫女や占い師のような存在がファジーに捉えておく方が、実は正確に受け取ることが出来るのかもしれない。

この映画は、その後のジブリ作品よりもメッセージが圧倒的にシンプルな気がしていて、要するに、「腐海と共存するか否かの決断をどうするか」ということだ。「腐海」は、現実世界の様々なものと重ね合わせることが出来るだろう。本来的には共存し得ないと思われるものと共存するか、あるいは、共存し得ないと思われるものを破壊するか。人間は、傲慢で、代償を払わずに破滅できると思い込んでいる。そんなはずがない。代償は常に、誰かが払っている。それは、社会的弱者かもしれないし、これから生まれてくる子供かもしれないし、1000年後の人類かもしれない。

代償など存在しない、という人間の浅ましさが、地球をどんどん破壊しているのだよなあ、と思う。とはいえ僕だって、排気ガスを出す乗り物に乗るし、電気もたくさん使う。文明のある世界から後退することは難しい。だから、残念だけど、僕らが本当に「ヤバさ」を思い知るためには、「腐海」のような存在が生まれ、目に見える形で直接的な実害を与えてくる存在と共存する、という強制的な環境に身を置くしかないのかな、と思う。残念だけど。

内容について今さら書くことはないので省略。

「風の谷のナウシカ」を観に行ってきました

メチャクチャ、ハイパー、超良い映画だった!伊坂幸太郎の小説を観てるみたいな感じ。

日本にいるとあまり、「権利を勝ち取る」という場面に出くわすことはない。時代は少しずつ変わってはいるが、日本では(あるいは、アジアでは?)「個人の権利」よりも「集団の統制」の方が重視される場面が多く、何らかの実際的な(つまり、肉体的な痛みや、金銭的な損失)などの実害が生じない場合には、個人が自らの権利の行使に関して争うという場面はそう多くないと思う。

しかし、もともと欧米では歴史的に、個人の権利を闘争によって勝ち取ってきた積み重ねがあるので、そういうことに対する抵抗はないように思うし、僕の目からすると、ちょっとそれは過剰ではないかと思えるような権利の主張もあるように思う。

全体的に言えば、僕自身は、そういう社会には馴染まないな、と思う。日本みたいな、いわゆる「なあなあ」な感じで物事が進んで、全員がちょっとずつ不利益を感じていても、全体としてはまあまあ穏やかである、という方が平和だなぁ、と思ってしまう。それが良いとも思わないし、正解だとも思わないけど、僕自身は、やはり、何か権利の侵害があったとしても、実際的な実害がなければ、「まいっか」でこれからも終わらせるだろう。

その一方で、いつも考えていることは、弱い立場に置かれている人間こそ、権利がきちんと主張できる世の中であってほしい、ということだ。綺麗事を言うようだけど、本当にそう思う。

何故なら、自分がいつ、社会的弱者になるか分からないと思っているからだ。

僕は、現時点では、日常の生活に困窮し、明日をも知れない、という状態にはない。非常にありがたいことだ。しかし、今回のコロナ禍で誰もが実感したことだろうが、いつだって人生に躓くことはある。今回のコロナ禍は、確かに超絶特殊な経験だと思うが、しかし、ちょっと前まで、もしかしたら世間で「勝ち組」と呼ばれていたかもしれない人だって、今回のコロナ禍で状況が一変してしまったなんてことだってありうるだろう。また、コロナに限らずとも、ここ最近は毎年のように水害や地震で日本の各地が大きな被害に遭っている。自分の責任の及ばないところで、いつだって躓く可能性があるということだ。

ホームレスの人や、あるいは生活保護を受給している人に対しては、「探せば仕事はあるのに」とか「怠け者だ」などという批判もあるようだ。確かに、「怠け者」と指摘すべき人も中にはいるだろう。けど僕は、その大半は、頑張ってきたけどちょっとしたきっかけで躓いてしまった人たちだ、と思っている。僕自身も、過去のどこかの時点でホームレスになっていた可能性はあるし、これからの未来のどこかでホームレスになる可能性があると、リアルにイメージすることはある。決して、他人事だとは思えない。ホームレスを他人事だと思っている人は、よほど恵まれた環境で生まれ育ったか、あるいは、人生のリスクを正統に評価できない人だと僕は感じてしまう。

以前、哲学の本を読んでいて、ロールズという人が提唱した「無知のヴェール」という話を知った。これは、ある種の思考実験だ。あなたは今、真っ黒なヴェールを頭に掛けられているとする。何も見えない。そして、自分自身に関するすべての記憶・情報は失われているとしよう。つまり、あなたは男かもしれないし、女かもしれない。日本人かもしれないし、アフリカ人かもしれない。大富豪かもしれないし、ホームレスかもしれない。さて、そんなヴェールを被った人たちが集まって、国のルールを定めることにした。あなたは、どういうルールを提案するだろうか?というものだ。

この思考実験のポイントは、国のルールが決まった後でヴェールが取られ、自分が何者か知ることになる、ということだ。例えばあなたが、「大金持ちを優遇し、貧者をないがしろにする」というルールを提案しようと考えたとしよう。しかし、あなたはそこでこう思うはずだ。ヴェールを取った後、もし自分がホームレスだと分かったら?自分の提案したルールに、自分自身が縛られてしまうことになる。あるいは、「黒人を奴隷にしてもいい」というルールを提案した後、自分が黒人だと判明するかもしれない。

ロールズは、この「無知のヴェール」という思考実験を通じて、このヴェールを被った状態で提案することこそ、誰もが目指すべき正義ではないか、と主張したのだ。自分が何者であると分かったとしても自分が不利益にならないようなルールをみんなで決めれば、誰にとっても平等な世の中になるだろう、と。この話は、なるほど良く出来てるし、面白いなと感じたのでよく覚えている。

ホームレスの問題も同じだ。確かに今僕は、ありがたいことにホームレスではない。しかし、いつだってそうなりうる。格差が開きつつある今の日本のような社会では、ますます多くの人が、そういうリスクと隣り合わせで生きていくことになる。明日は我が身だ。そういう意識があれば、ホームレスとの関わり方もまた変わってくるだろうと思う。

それでも、「自分には関係ない!」と思いたい人に、また別の話をしよう。何かの本で読んだ社会実験の話だ。詳しくは覚えていないが、要するに、社会的弱者を放置することは、結果として社会全体のマイナスになる、というものだった。社会的弱者が増えることによって、社会保障費や犯罪などが増えてしまう。そしてそれに対処するために税金が余計に使われることになる。それよりは、最初から社会的弱者に対する保護や支援などに税金を投入した方が、結果としての出費は抑えられる、という結果が、フランスだったかどこかヨーロッパの国で出た、というのを読んだ記憶がある。

社会的弱者になっても最低限の生活が保障される社会であれば、安心してチャレンジも出来るだろう。社会的弱者になってしまえば、冬の寒さで凍死するかもしれない、なんていう環境では、とてもじゃないが、人生のリスクを冒すのは難しくなる。

内容に入ろうと思います。
シンシナティ公共図書館で職員として働くスチュアートは、毎日なかなか大変だ。「本に救われた」という彼は、図書館で本を扱えているかというと、そんなことはない。カウンターでは日々、ぶっ飛んだ質問が繰り出される。「ジョージ・ワシントンのカラー写真は?(あるわけないだろ、そんなの!)」とか、「実物大の地球儀は?(あるわけないだろ、そんなの!)」みたいなレファレンスに応じなきゃいけない。また、ホームレスへの対処も日常業務だ。特に冬、寒波に襲われるこの地では、朝からホームレスが図書館にやってくる。「開館後は誰でも入れる」という主義の公立図書館なので追い出すことは当然ないが、トラブルやら節度を守らない利用には注意しなくちゃいけない。そんなこんなで、ドタバタと日々が過ぎていく。
そんなスチュアートは、寝耳に水の話を聞かされる。なんと、同僚と共に訴えられている、というのだ。10週間前に、「体臭」を理由にある利用者(ホームレス)を追い出したことに対し、権利侵害で訴えが起こっているという。和解のためには、75万ドル支払えという。このように、「個人の権利」と「他の利用者の権利」の調整に日々苦労している。
シンシナティではいま市長選の真っ只中であり、黒人牧師の人気が圧倒的だが、スチュアートにホームレスの権利侵害の訴えを通告してきた検察官であるデイヴィスもまた候補者の一人である。とはいえ彼の参謀は、”今”選挙を行えば確実に負けます、と告げる。でも、”何か”が起これば逆転できるかもしれない、とも。
刑事であるビルは、署長に休暇を願い出ている。行方知れずになっている息子を探したいというのだ。ここ最近の寒波で、ホームレスの死亡が相次いでいる。ビルは息子をみすみす死なせたくないと考えているが、署長は、必ず休暇は出すからもう少し待ってくれ、と説得している。
さて、そんなある日。いつものように閉館しようとしていると、スチュアートが普段仲良くしているホームレスの一人が、「今日は帰らない。ここを占拠する」と言ってきた。今日の寒波で外に出れば死にかねないし、ホームレス用のシェルターも一杯で空きがまったくない。ここに一晩泊めてくれ、というわけだ。スチュアートは館長に、今日は彼らを泊めてあげましょうと説得を試みるが、逆に館長は、評議会がスチュアートを解雇したがっている、と告げる。館長としてはスチュアートの味方をしたいと思っているから、ここで事を荒立てないでくれ、というのだ。
しかし、なし崩し的にホームレスたちによる占拠は始まってしまう。しかも、この騒ぎに乗じて自らの支持率を上げようと乗り込んできたデイヴィスが、「武器を持っているかもしれない精神異常者による立てこもり事件」と事実を歪曲した話をメディアにしてしまい…。
というような話です。

凄く良い映画だったなぁ。冒頭で、伊坂幸太郎的って書いたけど、それは、「どことなく非現実的」でありながら「どことなく現実味がある」みたいなバランス感に対して感じたのだろうと思います。メインは、図書館の立てこもりなのだけど、同時並行でいくつかの物語が進行する。そしてそれらが一つに収斂していく。そういう、「よく出来た感」みたいなところは、ちょっと非現実的だと感じさせる。でもその一方で、その「よく出来た感」を抱かせる物語世界に生きる人物たちは、この上なくリアルな感じがするのだ。ホームレスに押し切られるようにして占拠の首謀者的な存在になってしまうスチュアートを始め、ホームレスたちのリーダー的存在や、文芸セクションに異動したがっていた同僚、前日に仲良くなったマンションの隣人、図書館の館長など、凄く人間味を感じる人物がたくさんいました。彼らはなんというのか、ちょっとズレている。ステレオタイプ的ではない、という表現は適切ではないかもしれないけど、目の前の状況に対して、「一般的にはこう行動するだろう」というものを外してくる。そして、その絶妙な外し方が、凄く人間っぽい感じがするのだ。理屈に合わないような行動をしているように見えるのだけど、その実、真っ当さを感じさせる、という意味で、凄く愛らしい感じがする。

そして、彼らと対比するようにして、非常にステレオタイプ的な人物が出てくる。市長を目指すデイヴィスや、この占拠事件を報じる自己顕示欲の強い女性キャスターなどだ。彼らの行動は、非常に分かりやすい。そして、そういう分かりやすい行動を取る人物が、この映画の中ではダメな描かれ方をされる。僕がこの映画で特に好きなのも、そういう一場面だ。色々あってくだんの女性キャスターが、電話でのスチュアートの単独インタビューを行うのだけど、その生放送で彼女は、恥をさらした意識のないままに恥をさらすことになる。これは、実に痛快な場面だった。スチュアートは、彼女の意図を理解し、彼女と正面衝突することなく、彼女の意図とはまったく正反対の主張を、国民に伝えることに成功したのだ。図書館を舞台にした映画らしい、絶妙な場面だったと思う。

ホームレスたちが取った手段は、手段だけ捉えれば褒められたものじゃない。どんな理由があれ、公共図書館を“占拠”すべきではないだろう。しかし一方で、彼らは厳密には誰にも迷惑を掛けていないといえる。もちろん、ルールは破っているのだが、閉館後の公共図書館にホームレスが泊まっていたところで、市民に何か不都合があるわけじゃない。それより、図書館の本に落書きをする人間の方がよっぽど不利益をもたらしているだろう。ホームレスたちはこの“占拠”を「平和的デモ」と呼ぶが、たしかにそうだなと思う。結果的に大事になったが、それは、大事にした人間にこそ非がある、と感じさせるものだった。

僕は、基本的には、ルールは守るべきだと思っている。しかし、相応しくないルールが存在することも時にはある。そうであったとしても、ルールを改正させる行動を取るべきだという意見は当然あるだろうし、理解できるけど、ルールが変わるまでには時間が掛かるし、その間ずっとそのルールに従っていたら、命に関わる問題になるとしたら、ルールが破られることも仕方ないと感じる。特に社会的弱者は、ルールを変えるための力を持っていなかったり、その方法を知らなかったりする。知識不足や勉強不足は指摘されて当然かもしれないが、やはり僕は、そもそも「ルール」というものが、社会的弱者を保護するようなものであってほしい、と思ってしまう。社会的強者が自分の立場を守るために利用する「ルール」なんて、どうでもいい(と言ってしまうと語弊はあるが、気分的にはそうだ)。

この映画を貫いている「公共図書館としての使命」という思想が、非常に良かった。図書館員たちは、折りに触れ、「公共図書館としてどうあるべきか」を自問し、自らの行動の指針とする。誰もが「知る権利」を持っているという、公共図書館の本来的な役割だけではなく、「公共」として何が出来るか、何をすべきか、という発想が、図書館員に通底している点が、清々しい。映画のタイトルが「パブリック」となっているのも、まさにその「公共」という部分を核にしているからこそだろうと思う。

【私は、市民の情報の自由のために生涯を捧げてきた。あんたらチンピラのために戦場にされてたまるか!】

痛快な場面だったなぁ。

映画館では、時折笑い声が起こるほど、面白い場面も多々ある映画だったが、それでもラストの展開はなかなか壮観だった。”占拠”が始まってから、これどうやって終わらせるんだろうな、と思っていたけど、最高の終わらせ方だったと思う。

こういう映画を観ると、いつも思う。僕も、何かあった時、スチュアートのような行動を取れる人間でありたいな、と。そして、絶対に、デイヴィス側にはなるいまい、と。

「パブリック 図書館の奇跡」を観に行ってきました

僕は、「科学で説明できないこと」を、基本的には信じている。そしてそれは、非常に科学的な態度だ、と僕は考えている。

例えば。今から120年ほど前、科学者たちは「原子」の存在を信じていなかった。何故なら、誰も見たことがなかったからだ。今では、小学生だってたぶん、様々な物質が原子から出来ていることを知っていただろうが、120年前には、世界トップクラスの科学者たちが「原子なんて存在しない」と思っていたのだ。原子の存在を主張する科学者はある意味で嘲笑の的でもあった。そんな状況を大きく変えたのが、あの有名なアインシュタインであり、1905年に発表した「ブラウン運動」に関する論文が、初めて原子(実際にアインシュタインが示したのは「分子」だけど)の存在を間接的にではあるが証明するものとして評価されている。

さて、この「原子」の話を前提にすると、こういうことが分かる。「その時代の科学力では捉えきれないが、未来の科学力では確実なものとして証明できるもの」は、いつの時代にも存在する、ということが。このことは、科学の歴史が証明している。いつの時代にも、その時代の科学力では捉えきれない現象が発見され、科学者が何らかの仮説を提示し、それが後に実験などによって証明されるのだ。これが、科学の歴史である。

だから、科学を信じるということは、同時に、科学では説明できない(が、未来には証明されるだろう)ものの存在を受け入れる、ということでもある。

そういう意味で僕は、「幽霊」や「UFO」のような現象も受け入れる。とはいえ、「死んだ人間の姿が見える(=幽霊)」や、「地球以外の知的生命体が乗っている飛行物体(=UFO)」という意味でそれらを信じているわけではない。今「幽霊」や「UFO」と名付けられている「現象」も、将来的には何らかの科学的な説明がつくだろう、と信じているということだ。その過程で、「幽霊というのは、死者の姿が幻覚ではない形で見える光学的な現象だ」ということが科学的手法で証明された、というのであれば、それは受け入れる。その可能性は低いと思っているが(「幽霊」と名付けられている現象には、死者とは関係のない何らかの現象が起こっている、と僕は考えているが)、それが証明されたのであれば受け入れるしかない。

科学者はこれまでもそうやって、受け入れがたいことを受け入れてきたのだ。

例えば、同じく原子の存在が否定されていたのと同じ頃、「エーテル」という物質が存在すると信じられていた。この「エーテル」は、今まで誰も見たことがないし、何らかの方法で検出されたこともなかった。しかし、色んな理由から、「エーテルという物質が存在しないとおかしなことになる」という共通理解が科学者の中にあって、ニュートンの時代からその存在が信じられていた(とはいえ、ニュートンは、エーテルの支持者ではなかったはずだが)。そんなエーテルを葬り去ったのも、やはり天才アインシュタインである。

また、この映画に絡めた話もある。10年くらい前に本で読んだが、「透明マント」は”原理的には”実現可能だ、ということが分かったのだ。その背景には、「負の屈折率を持つ物質」が作られたことにあった。

それまで科学の常識では、屈折率は常に正だった。「物が見える」というのは、「物に当たった光が見える」ということだ。そして、「物に当たった光が反射する角度」のことを屈折率と呼ぶ。「屈折率が正」というのは、「物に当たった光ははね返ってくる」ということであり、つまり、「屈折率が正=物が見える」ということなのだ。

しかし、屈折率が負になるのなら、話は変わってくる。「屈折率が負=物に当たった光がはね返らない=物が見えない」ということになるのだ。つまり、屈折率が負になる物質でマントを作れば、「透明マント」が作れるということである。そして、それまでの科学の常識に反して、屈折率が負になる物質を作れることが分かったのだ。

まあ、とはいえ、”原理的に”可能だというのと、実際に可能だというのは大きな違いがある。例えば、タイムマシンだって、原理的には可能だ。だが、それを実現するための技術に問題がある。透明マントにしても、原理的には可能だが、本当に完全に透明になれるようなものを作るにはまだまだ技術が追いつかないだろう(けど、タイムマシンよりは、透明マントの方が遥かに現実的だとは思う)。

科学的であるということは、科学で証明されたことだけを信じるような態度であると思う人もいるだろうが、僕はそうは思わない。科学的であるということは、同時に、科学では捉えきれないものを否定しない態度をも内包しているはずだ、と思っている。

内容に入ろうと思います。
セシリアはある日、エイドリアンの元から逃げ出した。エイドリアンは、光学研究の先駆者として世界的に認められている研究者だが、セシリアにとっては恐ろしい夫だった。行動や思考までも管理しようとし、セシリアは誰もが羨むような豪邸に住みながらも、束縛と恐怖と戦う日々を過ごしていた。そこから、妹・エミリーの協力を得てなんとか逃げ出したのだ。
友人で警察官であるジェームズの家に匿ってもらうことにしたセシリアは、家の前の郵便ポストにもたどり着けないほど、エイドリアンの存在に怯えていた。しかしある日、エイドリアンに居場所がバレるから近づかないように釘を差していた妹がやってきて、エイドリアンが自殺したことを伝えるネット記事を見せた。彼が自殺するはずがないと言い張るセシリアをなだめつつ、セシリアは少しずつエイドリアンの恐怖を忘れるようになっていった。
ある日セシリアの元に、相続のお知らせという封書が届く。エイドリアンの兄だという人物が、弟が遺した莫大な財産を相続する権利があると告げてきた。信じられないほどの大金を手に入れたこともだが、エイドリアンの死が確実であることを知り、セシリアは安堵する。彼女は、もらった遺産の一部を、ジェームズの娘であるシドニーの学費として渡し、親子を喜ばせた。就職のための面接も控え、セシリアの新たな人生が始まる…はずだった。
セシリアは遺産相続の話し合いの後から、家で誰かの気配を感じるようになった。でも、誰もいるはずがない。いるはずがないけど…彼女は確信する。エイドリアンが、近くにいる…。
というような話です。

エンタメとして、面白く見れる作品でした。とにかくまず、映画の冒頭から非常に不穏です。何がどうなってるのか分からない。とにかく、セシリアの必死さだけが伝わる。その後、彼女には状況が理解できるようになり、とにかく戦わなければならないと決意します。

この映画で本当に難しいと思うのは、誰もセシリアの話を信じようとしない、という点です。まあ、それは仕方ない。どう考えても、セシリアの主張は、頭のイカれた人間の戯言にしか聞こえないわけです。セシリアと親交のある者は、それでもセシリアの主張をそれなりに受け入れようとするが、そうではない人からすれば、ただのヤベェ奴でしかありません。彼女には、彼女なりの確信があって、彼女なりに最善の対処をしているつもりなのだけど、それがすべて裏目に出ることになる。

この映画は、基本的にセシリアの視点で描かれるので、観客もセシリアに同調するように物語を体験することになる。だからこそ、セシリアの主張を誰も受け入れてくれない状況に辛さを感じる。

しかし、当然だが、この話をセシリア以外の人物の視点から見れば、周りの人間の反応は当然だ。どちらが正しいわけでも、どちらが間違いなわけでもない。しかし、結果として、セシリアは孤独に追い込まれてしまう。「見えない存在」の恐ろしさが描かれた存在ではあるのだけど、その一方で、自分の主張を誰も信じてくれない怖さも同時に描いていると感じました。

ラストも、なるほどと思わせる鮮やかな感じでした。全然予想してなかったけど、確かにこれしかないな、という絶妙な終わらせ方でしたね。

映画を人に勧める時、「それ怖い?」と聞かれることがあります。この映画は、ホラーっぽい雰囲気は確かにあるのだけど、トータルで言えばホラー的な怖さではない、と言っていいと思います。ホラー的な怖さが気になって見るのを躊躇しているとすれば、そういう要素はゼロではないけど、概ね大丈夫だと思う、という感じです。

「透明人間」を観に行ってきました

「ハマーショルド」が誰なのかも知らない状態で観に行ったけど、凄い映画だったな。

さて、感想を書く前に2つ、書いておこうと思うことがある。

まず一つ目は、この映画は、「事実を暴く」という観点からすれば「ドキュメンタリー」ではない、ということだ。こう書いてしまうことは、この映画の「ネタバレ」には当たらない、と僕は判断したが、「ネタバレ」だと感じる人がいたら申し訳ない。

この映画では、監督自身が記者となって、ハマーショルドの死の謎を追いかけるが、その監督自身が劇中でも語っている通り、彼らが調べ上げたことは「フィクションの域を出ない」。この映画で描像される「事実」は、真に驚くべきものだが、しかしそれは、物証によって確定したものではない。証言は存在するが、それを客観的に証明する証拠はない。もちろん、監督自身、この「事実」は本当にあったことだという心証を持ったからこそ、こうして映画として公開するに至ったのだろうが、あくまでも、様々な状況証拠を総合して、「こういう絵が描ける」と言っている映画だ。いずれ、何らかの形で真相が明確になる時が来るかもしれないが、この映画単体でそれが成し遂げられているわけではない。

もちろん、だからと言って、この映画がダメだというわけではない。6年以上を調査に費やし、60年近く前に起こった、ほぼ手がかりの存在しない出来事について、思わぬ形ではあったが、真相らしきものにたどり着き、しかも、それ以上のものを掘り当てた、というのは驚くべきことだと思う。

さて書いておきたいことの二つ目は、この感想では、その「真に驚くべき事実」について書く、ということだ。

普段僕は、自分が書く感想においては、僕が「致命的」と判断する「ネタバレ」はしないようにしている。一応僕のスタンスとしては、まだ映画を観ていない人が読んでも興を削がれないように、書く内容を調整しているつもりだ。

ただ今回は、普段なら書かない部分までまるっと書こうと思う。文中に、「これ以降は、致命的なネタバレになるので、映画を観る前の方は読まない方がいいと思います」と表記しておくので、注意してください。

さて、ではまず、「ハマーショルド」って誰だよ、という話から書こう。ハマーショルドとは、当時の国連事務総長である。彼の死は、世界中に衝撃を与えたようだ。国連の場でも、「本当の意味で世に尽くした人」と追悼される映像が挿入されていた。熱烈な理想主義者であり、当時植民地支配から独立を成し遂げていたアフリカ諸国を守ることが、国際社会の使命であると訴えている人物であった。

さて、だからこそ彼は、植民地支配をしている大国から嫌われていた。自国の利益のために、アフリカから搾取し続けたいと思っている大国にとっては、ハマーショルドは邪魔な存在だったのだ。

1961年9月17日、ハマーショルドはコンゴにいた。彼は、カタンガを率いていたモイーズ・チョンベと和平交渉を目論んでいた。カタンガは、コンゴから分離して独立し、コンゴとの紛争に突入していた。カタンガを掌握していたのはベルギーの鉱山会社で、彼がチョンベを担ぎ出しトップに据えていたのだ。ハマーショルドは、コンゴとカタンガの紛争に国連軍を投入し強硬に鎮圧しようとするも、カタンガの傭兵軍は非常に強く、国連軍と一般市民に多数の死者を出した。アメリカやイギリスは、ハマーショルドに解決を迫り、彼はチョンベとの和平交渉に乗り出すことに決めたのだ。

翌9月18日。ハマーショルドを載せたチャーター機は、コンゴの小さな炭鉱町・ンドラに深夜未明に墜落。ハマーショルドを含む乗員全員が死亡するという「事故」が起こった。この事故の調査は何故か詳しく行われることなく、「爆弾などによる暗殺の可能性もある」という報告書が提出されながらも、憶測に過ぎないとして未解決のままとなっている。ワシントン・ポスト紙は「冷戦期最大の謎のひとつ」と評している。

この事故に興味を持ったデンマーク人ジャーナリストであり本映画の監督であるマッツ·ブリュガーは、手がかりらしい手がかりもない中、調査を開始する。

さて彼には、調査仲間がいる。ヨーラン·ビョークダールである。彼がハマーショルド事件に関わるようになったきっかけは父にある。なんとヨーランの父は、墜落したチャーター機の破片の一部である金属板を所有していたのだ。父がだいぶ老いてから、その金属板にまつわる話を聞いたヨーランは、以来7年もの歳月を掛けてこの事故を追っている。

そのヨーランは、非常に重要な仕事をした。ンドラの町の当時の目撃者たちの証言を集めたのだ。事故当時、黒人の証言はまったく重視されなかった。アフリカではアパルトヘイト政策が行われている時であり、黒人に人権があるとは考えられていなかったのだ。ヨーランは、そんな黒人たちの証言を集めていった。

すると、おかしな話が様々に出てくる。「墜落の直前、空港の灯りがすべて消えた」「墜落したのとは別の飛行機が銃撃した」などなど、明らかに事故ではないことを示唆する証言が集まったのだ。

また彼らは、僅かに残された記録も精査した。そもそも、遺体が発見されたのは、墜落から15時間後のことだという。これはおかしい。墜落現場は空港のすぐ近くであり、しかも黒人の証言によれば、朝まで燃えていたというのだ。墜落場所が分からなかったはずがない。しかも、ハマーショルド以外の15人の乗客の死体は、焼け焦げ、バラバラになっていたのに、ハマーショルドの死体だけは驚くほど無傷だったのだ。何故か、ハマーショルドが亡くなっていた状態の写真は残されていない。残っているのは、ハマーショルドが担架に載せられている写真だけだ。何故かその写真の襟元に、謎のカードが写っている。実はこのカード、ラストの方で明らかになるが、事故ではなかったことを間接的に示している証拠だった。

他にも彼らは、死体の写真を撮影したという地元の写真家や、国家安全保障局の元職員などからも証言を得つつ、ハマーショルドの死がただの事故ではないという印象を強めていく。

しかし実は、2013年の9月に、驚くべき調査報告がなされていた。それは、「南アフリカ海洋研究所(通称:サイマー)」と呼ばれる謎の機関の文書が存在し、そこに、ハマーショルドの暗殺計画について記されているというのだ。

なんだ、それならもう解決じゃないか、とはならない。何故なら、そもそもそのサイマーという機関が存在するのかどうか、確証がないからだ。2013年9月の調査報告の時点で、サイマーに関してわかっていたことは、ハマーショルドの暗殺について書かれた文書の存在だけ。誰も知らない、何をしているかも分からない、というか存在するかどうかも分からない機関の機密文書が出てきた、というだけでは、一件落着とはならなかったのだ。

普通ならここで、この調査報告を聞いた記者たちは、サイマーについて調べ始めるだろう。しかしそうはならなかった。サイマーの情報が出たのと時を同じくして、「サイマーというのは、ソ連による情報操作だ」というような情報が出たという。恐らく、CIA辺りの諜報機関がそういう情報を流したのではないか、とされているようだが、そういうこともあって、サイマーについて調べる者はいなかったという。

ここから焦点は、この「サイマー」という謎の機関に当たることになる。サイマーは実在するのか。実在するとするなら、本当にサイマーがハマーショルドを暗殺したのか。もし存在しないとするなら、ハマーショルドの暗殺が記されたこの文書はなんなのか。しかし、サイマーに関する情報はあまりに少なく、なかなか調査は進展しない。

一方で彼らは、もっと直接的な方法も取っている。墜落したチャーター機の残骸は、墜落場所にそのまま埋められている。だったらそれを掘り起こして、最新技術で調べようじゃないか、というのだ。とはいえ、こちらもなかなかうまくいかないのである。

さて、ここまでが、僕の感触では、まだ映画を観ていない人にも伝えて大丈夫だろう、という情報だ。

★★<これ以降は、致命的なネタバレになるので、映画を観る前の方は読まない方がいいと思います>★★

さて、彼らの調査は思いもかけない方向に転がっていく。その前に、サイマーに関する彼らの調査の進展について書こう。

彼らはサイマーについて調べ始めるが、ほとんど手がかりはない。マクスウェルという人物が創設者であるらしい、という事実を掴み、彼の写真も手に入れた。しかしマクスウェルは既に他界している。ハマーショルドの暗殺について記されていた文書には、様々な人物の名前が記されていた。その人物を特定し、探し出し、話を聞こうとするが、「サイマーという組織を知らない」とか、「このサインは私のもので間違いないが、なぜこのサインがこの文書にあるのかは分からない」というような返答が返ってくる始末。ハマーショルドの暗殺云々の前に、やはり、サイマーという機関が存在していたかどうかの確定にすら手間取っている。

一方、ちょっと違う角度からの話として、彼らは1988年の南アフリカの雑誌を見つけ出してきた。そこに、デビーという女性のインタビューが載っていた。その中で彼女は、サイマーで働いているという話をしているのだ。しかしその後デビーは突如地球上から姿を消す。後に登場する人物が、デビーはもう亡くなっているだろう、と話をしていた。

さてそんな中彼らは、サイマーの募集に応募した人物のリストを手に入れる。そこに書かれている人物に電話をしたり、探し当てて直接話を聞きに行くが、とにかく皆、サイマーについては話したがらない。

そんな中、リストに載っていたジョーンズという人物に行き当たる。彼こそ、彼らが6年間探し続けた人物と言っていい。彼は、身の危険も顧みず、サイマーに関して自分が知っていることを顔出しで打ち明けたのだ。何故危険だと分かっていて話をするのかと聞くと、彼は、「終止符を打たなければならないからだ」と答えた。

そして、彼の口から、衝撃的な話が語られる。確かに、サイマーという機関がこういうことをやっていたとしたら、そりゃあ誰だって口を噤みたくもなるだろうと思うような、とんでもない話だ。

ジョーンズはまず、サイマーという組織について語った。サイマーは、秘密の傭兵組織で、その目的は、敵国を揺るがすことだという。5000人以上が働く巨大な組織だ。サイマーは英国機関の下部組織だっただろう、とジョーンズは認識しているという(とはいえ、ジョーンズにも確証はなさそうだった)。とにかく、外国政府からの資金で成り立っている機関だった。

様々なことを行っていたが、その内の一つが、もしこれが事実だとしたら世界がひっくり返るような話だ。それは、「アフリカにHIV(エイズ)を蔓延させる」というものだ。

アパルトヘイトが横行し、白人至上主義そのものだったアフリカにおいては、とにかく、黒人の存在が「邪魔」だった。黒人を根絶させるために、エイズを蔓延させようというのだ。しかしどうやって?なんとそれは、ワクチン接種を装ってだという。マクスウェルは、無料の診療所をアフリカ各地に作る計画を立てていて、そこで予防接種と称してHIVウイルスを注射する、という計画だったという。

さて、少し話は飛ぶが、監督らはたまたま、アフリカのある広告を見つけた。それは、サイマーがダグマーという女性を暗殺してくれる殺し屋を募集するものだった。

さて、このダグマーという女性、サイマーで研究職をしていたという。しかし、殺されてしまった。ジョーンズは、「ダグマーがサイマーに殺されたことは誰でも知っていること」と証言していた。彼女は、診療所で打つワクチンが汚染されていることに気づいてしまい、それを告発しようとしていたという。当時サイマーでは、「ダグマーが告発しようとしている」という噂が流れていたそうだ。だから殺されてしまった。監督が、「サイマーは何故殺し屋の広告を出したのか?」とジョーンズに聞くと、「カムフラージュでしょうね」と答えていた。自分たちでダグマーを殺したわけではない、という風に装うためだという。

さて、ジョーンズはこのインタビューの後、国連に調査の協力をするようになったという。一方で、科学者から「ワクチン接種を装ってHIVを広めることは困難」という回答があった、ということも映画の最後で触れている。しかし、仮に効果がないのだとしても、「効果がある」と考えた人物が存在していて、実際にそれを行ったかもしれない、と考えることまで否定されるわけではないだろう。

最後にジョーンズは、こんな風に語っていた。

【白人は、アフリカの大部分を自由に操りたいと思っていた。それに抵抗する者を、サイマーは排除しようとした。そういう意味で、ハマーショルドは脅威だった。
今アフリカは、大国に抵抗を示している。もしハマーショルドが生きていて、主義を貫き通していたとしたら、その抵抗は30年も40年も前に起こっただろう。アフリカは、様変わりしていたはずだ】

国連からの調査協力に、英国と南アフリカは未だに応じていないという。

「誰がハマーショルドを殺したか」を観に行ってきました

僕は、自分の中に永田がいることを知っている。
気を抜けばいつだってすぐ、永田になれてしまう。
だから、生きるのが怖い。

永田のようには、なりたくない。

【いつまで保つだろうか】

昔は僕も、そんなことを考えていたような気がする。

【いつまで保つだろうか
次に不安が押し寄せてくるのは、いったいいつだろうか?
朝までは保ちそうだ】

確かに、そんなことをよく思っていた。

いつだって、どこかしらから不安が湧き上がってきた。それは、ほとんど実体のない不安だ。起こるかどうかも分からない未来への心配。起こらなくても人生が終わってしまうわけではないはずの微かな期待。そんな、どこで鳴っているのか掴めない音のような不安が、ずっとつきまとっていた。

今は、あまりそういう不安に駆られることはない。でも、ゼロになったわけじゃない。いつでも、あの、不安に満たされた感じに、いつでも戻ることが出来る。出来るという確信がある。そして、その確信があるからこそ、僕は、どうにかそこから遠ざかって生きようと普段から踏ん張っている。

不安な時、自分をコントロールすることが難しい。理屈では、全部分かっている。全部分かっているのだ。他人から言われるまでもない。全部分かっている。でも、正常な状態であれば従えるはずのその理屈に、どうしても従えない。とにかく、不安が最前線にいるのだ。常に見つめられているような気分。真っ当に思考することは難しい。当たり前のことが当たり前ではなくなるし、当然の輪郭が消え失せてしまう。

そんな不安に押しつぶされないようにするために、昔の僕は、誰かに責任を転嫁していた。そうする以外、自分をなんとか保つ方法が思い浮かばなかった。頭の片隅ではたぶん、自分が悪いことは分かっていたのだと思う。でも、それを意識してしまったら崩れてしまう。自分が崩れてしまうのが分かる。だから、誰かのせいにする。自分以外の誰かが悪いということにして、ギリギリのところで踏みとどまろうとする。

【みじめを標準として、笑ってやり過ごせばよかった。理屈では分かっている。けど、それは僕にとって、簡単なことではなかった】

そういう自分は、好きじゃない。だから僕はいつの頃からか、自分が悪いと思うようにした。積極的に。自分が本当に悪いかどうかは、大した問題じゃない。自分が悪いということにしておけば、誰かのせいにしないで済む。自分の中にいる怪物の目を覚まさせないようにしなくちゃいけない。

と、今は思えるようになった。

誰かのせいにする自分は、嫌だった。誰かを傷つけながら、傷つけたことに気づかないようにしなくちゃいけなかったから。誰かを殴り続けるためには、相手の傷が見えない方がやりやすいだろう。同じように、誰かを傷つけるためには、相手が傷ついていることに気づいていない風を装わなくちゃいけなかった。それに気づいてしまったら、相手を傷つけることが出来なくなるし、自分が何か責任を負わなくちゃいけなくなる。相手の痛みに気づかないでいれば、少なくとも、気づいていると相手に悟らせなければ、まだギリギリ成立する。

そんな風に思っていた。

誰かのせいにする自分も嫌いだったし、誰かの痛みに気づかないフリをする自分も嫌いだった。でもその時は、それが最善の選択だった。選択だと思っていた。今は、たぶん、そうではない自分でいられている。でもそれは、きっと、微妙なバランスの上に成り立っている。僕の生活の、何かちょっとした部分のバランスが崩れたら、

僕はいつだって、永田になれてしまう。

映画を観ていて、怖かった。永田が怖かった。自分だったから、怖かった。たぶん僕は、あそこまでは酷くはないし、なかったと思う。でも、永田であり得た。たまたま、永田ではなかっただけだ。

もし、沙希のような女性がいてくれたら、余計、永田だった可能性は高いだろう。

内容に入ろうと思います。
街をうろつく永田。高校時代の同級生と「おろか」という劇団を立ち上げ、脚本兼演出をしているが、前衛的な作風のため、公演の度に酷評の嵐。劇団員からも見放されつつある。永田は極度の人見知りで、他人の意見を聞かない。自分の理屈に合わないと苛立ったり噛み付いたりと、コミュニケーションに大いに問題がある。これで才能があればいいが、現状、高い評価を得ているとは言いがたい。
ある日永田は、自分と同じ画廊の絵を眺めている女性に気づく。同じスニーカーを履いている。ただそれだけの理由で、普段からは考えられない強引さで彼女を喫茶店に誘う。誘ったはいいが金がない永田は、アイスコーヒーを彼女に奢ってもらう始末だ。沙希というその女性は、青森から女優になるために上京し、今は服飾の学校に通っている。永田と沙希は付き合うことになり、金がない永田は沙希の家に転がり込むことになった。
特に働きもせず、演劇のことばかり考え、かといって脚本を書くわけではない永田。そして、永田を献身的に支え、永田からの酷い扱いにも笑顔を失わず、二人分の生活を成り立たせる沙希。夢を追う二人の、痛々しさの入り交じる恋の物語。

好きな映画だなぁ、これ。そもそも松岡茉優が好き、っていうのもあるけど、永田の痛々しさと、そうせざるを得ない心情が嫌というほど分かって、なんというか、観ていて心苦しくもなる映画でした。

観ながらずっと思っていたことは、沙希と出会ったことが永田にとって良かったのかどうか、ということだ。

永田の心の声で、こんなことを言う場面がある。

【その優しさに触れると、自分の醜さが刺激され、苦しみが増すことがあった】

たぶんこの映画の中で、一番分かりみが深い場面だと感じた。

たぶん僕も、沙希と関わっていたら、辛くなるような気がする。そして、その辛さをごまかすために、自分に良くしてくれる相手を傷つける行動を取ってしまう。

「才能」ってなんだよっていう定義の話は置いといて、永田が自分の「才能」について、何か根拠を感じられていれば違っただろう。しかし、沙希と出会った頃の永田に、それはなかった。永田の周囲に、永田の「才能」を評価してくれるような環境はなかった。永田自身は、きっと、長いこと自分の「才能」に自信を持っていただろうが、しかし沙希と出会った頃は、そんな自信も大きく揺らいでいたことだろう。

そんな状態で、沙希だけが自分の「才能」を評価してくれる。

まあ、それはいい。

けど怖いのは、「だから永田を献身的にサポートしているのだ」と感じられることだ。つまり、「永田に才能がある」から「永田を献身的にサポートしてくれている」と永田は理解しているだろうということだ。

これは怖い。何故なら、こう考えることは、「永田に才能がないことが分かれば終わってしまう」ということになるからだ。

永田が脚本を書かなくなった理由の大きな部分は、ここにあるはずだ。つまり、自分の才能の無さが、沙希に露呈するようなことはしたくない、ということだ。

そして、こう考えてしまう時点で、既に、沙希と関わることは大きなマイナスになる。少なくとも、演劇の世界でこれからもやっていこうと考えている永田にとっては。

考えすぎかもしれない。沙希は、永田に才能がないことが分かっても、それまでと変わらず関わってくれるかもしれない。しかし、そう信じるのは、なかなか勇気がいるだろう。特に永田にとっては。永田は、沙希以外の人間、つまり沙希の友人らとほとんど関わろうとしないし、沙希に対しても暴言を吐くこともある。自分でも、「誰かを楽しませる能力がない」「自分といて楽しいはずがない」と自覚している。それなのに、沙希が自分と一緒にいてくれる理由は、やはり、永田に才能を感じているからだろうし、だからサポートしてくれるのだろう。永田としては、そう考えるしかない。それは、凄くよく理解できる。

だから、ラストの沙希の言葉は、永田にとっては救いだっただろう。あれは、沙希の本心だったのだろうか?それとも、優しさだろうか?女性があの場面をどう観るのか、気になる。

沙希のような女性は、そりゃあ素敵だ。現実にも、沙希のような女性は僅かにいるかもしれないが、概ねこれは、男の理想の具現化と言っていいだろう。しかし一方で、沙希のような女性は怖い。それは、一緒にいたら自分がダメになっていくことが分かるし、相手をダメにしていくことも分かるからだ。一緒にいる時間は、そりゃあ楽しかろう。永田も、沙希が笑ってくれさえすればなんでもいい、というような感覚になる。それは分かる。分かるけど、でも、これは最悪の組み合わせだ。

【ここが一番安全な場所だよ】

一番安全な場所に、弾は飛んでこないけど、内側から朽ち果てていくのだ。

しかし、松岡茉優、やっぱり好きだなぁ。

「劇場」を観に行ってきました

「正しさ」の指標は人それぞれだから、「これが正解だ」と押し付けるのも押し付けられるのも好きじゃない。

とはいえ、いつも願うことは、どんな状況であっても、「被害者」に不利益にならないことが「正解」であってほしい、ということだ。

この映画では、「被害者の葛藤」が描かれる。その最たるものは、家族との関係だ。20年、30年以上前に神父からされた性的虐待に苦悩する男性たちは、この「神父による性的虐待」という点について、家族と折り合いが悪い。ある親は「誰もが問題を抱えている」と矮小化し、ある親は「教会に不利益になる」と暗に非難する。彼らは、虐待を受けてすぐ両親に打ち明けられたわけではないが、それでも、10代の内にそれを告白している。しかし、その時でさえ、大したケアをしてもらえなかった。

映画を観ていて感じたことは、被害者が「男性」であることが、問題をより複雑にしているのかもしれない、ということだ。フランスは、日本とは男性・女性に関する考え方が結構違うから的外れかもしれないけど、「男が性的虐待を受けたって、まあそんな大したことじゃないだろう」というような雰囲気がもしかしたらあるのかもしれない、と思った。これが、被害者が女性であるなら、また違うのかもしれないな、と。もし仮にそうだとすれば、逆の意味で男女平等が破られている、という感じがした。

この問題において、本質的に圧倒的に悪いのは、性的虐待を行った神父だ。そこに一切の疑問の余地はないだろう。被害を訴えるものたちの怒りも、もちろん、神父に向いている。しかし同時に彼らは、「沈黙した者たち」にも矛先を向けようとする。神父の行いを知っていたとすれば、教会は沈黙していたことになる。被害者の会はそういう理屈で、神父の上位職である枢機卿や教会そのものをも標的にしようとする。しかし一方で、その「沈黙した者たち」の中には、子供の訴えを聞いたにも関わらず何もしなかった親たちのことも、心の奥底では含めているのだろう、と思う。

主に3人の被害者がメインで描かれるが、彼らは様々なきっかけで、神父の告訴に関わるようになる。彼らが皆、「神父憎し」で動いているのと同時に、やはりそれは、過去の親子関係の精算にも向かっているように感じられる。

教会は、強大だ。この映画は実話を元にしており、公式HPによると、現在もまだ裁判が続いている案件だ。映画の中でも弁護士が、「数世紀続く組織に楯突くのは、大変ですよ」というようなことを言っている。そりゃあそうだ。だから、教会との闘いは、長引きだろうし、勝てるかどうかも分からない。きっと被害者たちは、そんな思いを胸に抱きつつ戦っているのだろうと思う。

しかし、家族との関係は、近い。近いし、簡単に思える。それに、状況が変わったのだ。自分に性的虐待をした神父が告訴されている。その動きを実現したのは自分の力でもある。これが、家族関係の改善のきっかけに感じられるのは、当然だと思う。

しかし、そううまく行くわけではない。

どんな「正しさ」を持っていても構わない。しかしやはり、どんな場合であっても、「被害者」が救われる、あるいは、せめて傷口が広がらないような「正しさ」であってほしいと思ってしまう。

内容に入ろうと思います。
アレクサンドルは、リヨンに住む5児の父親だ。銀行で働き、家族との関係は良好で、何不自由ない生活だが、そんな生活の中で、昔の記憶を思い出すきっかけがあった。子供の同級生の父親から、「君もプレナ神父に触られた?」と聞かれたのだ。そう、アレクサンドルはかつて、ボーイスカウト時代に、3年間神父から性的虐待を受けていたのだ。また、そのプレナ神父が、今も子供たちに聖書を教えていることを知り、我が子を守るためにも動かなければならない、と考えた。彼は、然るべき対応を取り、プレナ神父との面会にこぎつける。そこでプレナ神父は、過去の性的虐待は認めたものの謝罪しなかった。教区の枢機卿にも相談するが、事態が動く気配はない。そこでアレクサンドルは最後の手段として、検事に告発することにした。しかし、アレクサンドルの事件は既に時効を迎えており、警察は別の被害者を探さなければならなくなった。
その捜査の過程で、プレナ神父が告訴されたことを知ったフランソワは、最初こそ関わりを持たないようにするが、やがて自身の被害を訴える行動に出る。彼は<被害者の会>を立ち上げ、メディアを使いながら世論を巻き込もうとする。そんな折、新聞で神父の告訴と<被害者の会>を知ったエマニュエルも、自身の過去を告発する決意をし…。
というような話です。

映画の冒頭で、正直、結構びっくりしました。というのも、冒頭5分か10分ぐらいの段階で、プレナ神父が性的虐待の事実をアレクサンドルに認めているからです。え?ここからどうやって物語を展開させるんだろう、と思いました。

というのも、以前観た「スポットライト」という映画の記憶があったからだと思います。「スポットライト」では、新聞記者が神父の性的虐待を暴くというストーリーで、いかにして神父や教会を追い詰めるか、という部分に焦点が当たっていました。しかしこの映画では、神父が性的虐待を行ったことは認めているし、警察の捜査でも早い段階で、彼が性的虐待を行ったことを告白している手紙が見つかります。つまり、事実関係を争う映画ではない。

では、何が問題になるのか。

それは、この感想の冒頭でちょっと触れた、被害者たちの告発なのだけど、より焦点を絞るとすれば、「告発には時間が掛かる」という点だ。

彼らは10代の頃に、その被害を親に告白しているが、親は何も動いてくれなかった。そして、勇気を出して自ら世間に告発しようというタイミングでは、既に時効になっているのだ。プレナ神父の件については、最初に動いたアレクサンドルの件は、既に時効だった。アレクサンドルも、友人に告発するよう働きかけてみるが、家族もいるし難しい、という反応になってしまう。最終的に告発に動いた面々も、最初は「今さらそんなことしてどうなるんだ」とか「自分には仕事も家族もないから、告発したら後ろ指を指されるだけだ」と後ろ向きだった。そんな風にして、加害者が適切に裁かれるタイミングが失われてしまうことになる。

また、プレナ神父による性的虐待は、子供たちの間ではある種の「公然の秘密」のようなものだった。弟が神父に性的虐待を受けたことを知ったその兄は、「神父は小さい子にしか興味がないから」と言って、親に止められながらもキャンプに行く。もちろん、すべての子供が知っていたはずはないが、名乗りを挙げた被害者だけでも80名以上だというから、実数だとどれぐらいになるか分からない。アレクサンドルが同級生の父親から「君も触られた?」と聞かれるくらいには、被害者がその辺にいくらでもいるだろう、という認識がなされているのだ。

そういう状態であっても、プレナ神父は聖職を奪われないし、教会の権威も失墜しない。プレナ神父が告訴されて、その辺りの受け取られ方がどう変わったのか、そこまで明確に描かれてはいないけど、告訴された後も、枢機卿(プレナ神父の上位職の人)への支持は衰えなかったようなので、教会という存在がいかに強大かが伝わってくる。

そういう状況下で、家族や親しい人との関係がうまくいかなくなる中、憎しみや怒りに駆られつつも、正しいことを通そうとする<名もなき人たち>の物語だ。

「グレース・オブ・ゴッド」を観に行ってきました

堅苦しい法律の話がたくさん出てくる。キナ臭い事件もたくさん起こる。
それなのに、清々しい。
怒涛のどんでん返しも凄かったが、この点が一番見事だと思った。
新人のデビュー作とは思えない骨太の物語だ。

過去は変えられないが、過去の解釈なら変えることができる。
例えば。
本書の主人公の一人である久我清義はかつて、人を刺したことがある。詳しい理由は書かないが、それは、正義を貫くための行動だった。彼は人を刺したことを、「正義のための行動だ」と捉えることもできる。

一方で彼は、傷害事件を起こしたことで鑑別所に入れられたことで、期せずして法律と出会う。【感情が入り込む余地がない学問は、ただひたすらに学んでいて心地良かった】と思った彼は、法律の世界を目指そうと決める。つまり彼は、人を刺したことを、「法律と出会うための行動だ」と捉えることもできる。

「人を刺した」という過去は変えられない。しかし、「人を刺した」という過去をどう解釈するかは、自分次第だ。

そして、自分次第だから難しい。

【生きるためです】

清義が出会った少女は、自分の行動にそう理由付けをする。

【皆が幸せになってるんです。これのどこが悪いことなんですか?】

墓のお供え物を盗んで食べていた男は、清義にそう問いかける。・

「解釈」というのは、いかようにでもすることが出来る。だから、人の数だけバリエーションがあると言っていい。

気をつけなければ、自分にとって都合の良い「解釈」を人間は選んでしまう。「選んだ」という自覚さえないまま、その「解釈」が「現実そのもの」であったかのような錯覚すら、人間にはお手の物だ。

そうなればなるほど、「過去」と「過去の解釈」は乖離していくだろう。そういう意味で、過去の解釈の変更は、慎重になされなければならない。

さて。本作は、「過去の解釈」を変える物語ではない。

「過去」そのものを変えようという物語だ。

タイムマシンなどのSF的な道具立てを一切使うことなしに「過去」そのものを変える。それは、あまりに野心的な試みだと言っていいだろう。そして、その無謀な挑戦に、本書は見事に成功している(誰にとっての成功であるかは、難しい問いだが)。

あまりに無謀なその挑戦を、是非確かめてみてほしい。

内容に入ろうと思います。
久我清義と織本美鈴は共に法都大ロースクールに通っている。底辺ロースクールと揶揄され、過去5年司法試験合格者を出していない。清義も美鈴も成績優秀であるのだが、金銭的な面でこのロースクールを選ぶしかなかった。
最終学年21人は、模擬法廷を使ってよく「無辜ゲーム」を行っている。「無辜ゲーム」が開かれる条件は、「刑罰法規に反する罪を犯すこと」「サインとしての天秤を残すこと」の2つだ。この条件が満たされると、同じ学年の結城馨が審判者となって、「無辜ゲーム」が開かれる。告訴者(被害者)が証人に質問をし、それらを元に罪を犯した人物を指定する。審判者が抱いた心証と告訴者の指定が一致すれば告訴者の訴えが認められ、罪を犯した人物に罰が与えられるというものだ。結城は既に司法試験に合格している秀才であり、こんな底辺ロースクールに在籍している理由ははっきり言って良くわからないが、そんな結城が審判者として裁定するというのが、この「無辜ゲーム」が成立している一つの側面である。
清義は初めて告訴者となった。理由は、彼が「けやきホーム」という児童養護施設で育ったこと、そしてその施設長をナイフで刺したと書かれたチラシが配られたからだ。犯人はまもなく判明するが、この事件は清義に嫌な予感を抱かせた。
しばらくして、同じ施設で育った美鈴に対する嫌がらせが始まることになった。犯人を捉えようと行動する美鈴だったが、結局のところ、その嫌がらせについても、確たることは分からないままうやむやになって終わってしまう。
それから時が経ち、司法修習へと進むことを決めた清義と美鈴。就職活動もし、いよいよ弁護士としての活動が始まろうというその矢先。久々に結城からメールがきた。
「久しぶりに、無辜ゲームを開催しよう-」
そのメールが、清義の未来を大きく変えていくことになる…。
というような話です。

これは凄い物語だった!冒頭でも書いたけど、とてもじゃないけど新人のデビュー作とは思えない作品でした。現実の法解釈の元で、実際に起こってもおかしくはない「殺人事件を扱う裁判での超絶的な大逆転」が描かれるこの作品は、単なる物語ではない。本書で、薄氷を踏むような精緻さで組み上げられた展開は、そのまま、僕らが生きる現実に対する挑戦状でもあると言えるだろう。

そこには、法治国家の根幹への揺らぎ、みたいなものがある。

本書に登場する「無辜ゲーム」が成立する理由は、「誰もが結城の判断を受け入れる」という前提があるからだ。何故受け入れるのか、という理由は書かないが、結城が優等生だから、というだけではない理由がある。

ルールも同じだ。誰もがルールを守るためには、「ルールが定めた判断を誰もが受け入れる」という前提が無ければならない。詳しい法律論は知らないが、これが法治国家の大前提だろう。

しかし、どれほど矛盾を排除しようと努力しても、どれほど完全を目指そうとしても、ルールは完璧には仕上がらない。人間の人間による人間のためのルールである以上、それはどこまで磨き上げたところで歪さは残る。そして、その僅かに残った歪さの落とし穴に落ち込んでしまう人というのは必ず出てくる。

日本の刑法も、そういう歪さを内包している可能性については決して無視してはいない。間違ってその歪さに落ち込んでしまった者に対してどうするか、それもきちんと定められている。しかし、定められている”だけ”と言うことも出来る。

結城がこんな風に言う場面がある。

【僕の前に十人の被告がいるとしよう。被告人のうち、九人が殺人犯で一人が無辜であることは明らからしい。九人は、直ちに死刑に処されるべき罪人だ。でも、誰が無辜なのかは最後まで分からなかった。十人に死刑を宣告するのか、十人に無罪を宣告するのか-。審判者にはその判断が求められる。殺人鬼を社会に戻せば、多くの被害者が生まれてしまうかもしれない。だけど僕は、迷わずに無罪を宣告する。一人の無辜を救済するために】

僕は、迷う。

最終的な結論は同じかもしれない。僕も、一人の無辜を救済するために、十人全員に無罪を宣告するかもしれない。やはり、罪を犯していない人間が不利益を被ることは避けたいと思うからだ。

でも、僕は迷う。本当に、その判断でいいのだろうか、と。人数の問題ではないが、一人の無辜を救済することで、九人の罪人が百人の人間を殺す結果に繋がったら、僕は自分の判断を正しいと信じきれるか、自信がない。

この物語では、徹頭徹尾「ルール」が物を言う。

【俺は、倫理や道徳という曖昧な基準を信用していない】

【それでも、ルールに反していない以上、私は選択しなくちゃいけない】

【有罪判決が確定したときは、憎むことにするよ】

昨日ニュース番組を見ていたら、コメンテーターが「でも、この法律が出来たから、『法律違反』と言うことが出来るようになったんですよ」という発言をしていた。確かにそうだろう。ルールがそもそも存在しなければ、ルール違反も存在しない。

しかし、ルールが生まれることで、ルール違反が生まれてしまうことにもなる。

「赤信号で渡ってはいけない」というルールは、本来的には「歩行者とドライバーの安全を守るため」のルールだ。だから、深夜、まったく車通りのない通りの信号が赤だったとしても、歩行者とドライバーの安全が明らかに確保されているという状態なのだから、ルールを無視することは許されるのではないか、という気持ちが僕の中にある。つまり、「安全」が優位の概念であり、その「安全」を実現するための下位概念として「ルール」が存在するという認識だ。

しかし、「赤信号では渡ってはいけない」というルールが一度生まれると、「安全」よりも「ルール」の方が優位の概念として受け取られやすい。というか、法律論で言えば、それがきっと正しいのだろう。「誰しもがルールを守って行動する」という了解こそが、ルールを真っ当に機能させる唯一の方法だからだ。しかしそれでも、「危険」を回避するために生み出されたルールが「危険」とは無縁の状況下においてもその強さを遺憾なく発揮してくることに、違和感を覚えることはある。

さらに。ルールが明確化されればされるほど、悪用もしやすくなっていく。ルールがはっきりしているほど、そのルールを通り抜けることさえ出来れば、善でも悪でも関係なくなっていく。というか、ルールを通り抜けたものは善である、というシンプルな諒解が、悪を覆い隠すことに役立ってくれる。

ルールというものはそもそも、そういう矛盾を孕んでしまうものだ。

しかし、普段刑法などに直接的に接する機会のない僕らには、そういう矛盾を実感する機会さえあまりないと言っていい。

そういう我々にとって、本書は、ルールの矛盾を鮮やかに見せつけてくれる作品だ。まさに、「ルールを通り抜けたものは善である」という諒解を逆手にとって、法廷にあり得ない情景を現出させる、魔法のような物語なのだ。

僕らが生きている現実は、様々な解釈が許容されるが、法律という名のルールが切り取る解釈は、無条件に上位に置かれる。その問答無用さは、日常生活の中では感じ取ることができない。一般人が法律という名のルールに触れなければならない時、既にその横暴さに蹂躙されてしまっている時だと言っていいだろう。

だから、

【正義の味方になりたいのなら、正しい知識を身に着ける必要があるんだよ】

ということになるのだろう。

今回は、何を書いてもネタバレになってしまうかもしれないと思って、ほぼ内容に触れないまま感想を書いた。聞き慣れない法律の話も多分に登場するし、無味乾燥にしか感じられない法律の世界のことに興味を持てない人もいるかもしれない。しかし本書は、読んでみれば分かるが、乾ききった世界ではない。それどころか、「法律」という、知識のない者にはモノクロ画像にしか見えないようなものが、突然カラー画像に変わったかのような驚きを味わうことが出来る。法廷で、あり得ない劣勢をいかにひっくり返すのかという点は、確かにこの物語の白眉ではある。しかし、「どんでん返しが凄い」から凄いのではない。この作品は、「僕らが生きている世界が立脚している土台の脆さ」みたいなものを、現実を通じてではなく、物語を通じて実感させるという離れ業に挑んでいる作品だから凄いと思うのだ。

「ルールを通り抜けたものは善」という判断だけでは、捉えきれない現実が存在する。日常生活では実感できないこの感覚から遠ざからないでいられるように、この物語の力を借りよう。ド級のエンタメ作品でありながら、社会を両断する切れ味を持つ、この作品の力を。

五十嵐律人「法廷遊戯」

開始10分で泣いてたなぁ。年を取った。泣けてきた理由は正直良くわからないけど、「高潔さ」なのかな、とちょっと思う。

非合理的な話は好きじゃないのだけど、自然災害は、自然の「怒り」と受け取るべきだろうなぁ、と思う。

台風や地震や、あるいは感染症を自然災害に含めるべきか分からないけど、そういうものがどんどん増えているように思う。本当に増えているのかどうかは分からないけど、実感としては。

そして、その要因は間違いなく、人間だろう。

別に僕は本気で、自然が「怒り」を「人間」に向けているなどと思っているのではない。それは、システムの調整機能だろうと思っている。これまで人間は自然とうまく共生してきただろうが、そのバランスが崩れるようになってきた。だから自然は、そのバランスを整えようとして、その揺り戻しが自然災害という形に繋がっているのだろうと思う。

しかしそれでも、人間はそれを、「自然の怒り」と捉えた方がいいと思う。

「妖怪」というのは、よく出来ていると思う。「妖怪」というのは、その当時の科学などでは理解できなかった(あるいは、今の科学でも理解できない)事柄を、「妖怪のせいだ」という風に納得させるものだと思う。理由が分からないと、人間は不安だ。でも、「妖怪の仕業なんだ」と思えれば、原因が分かるから安心できる。そういう側面が、人間にはあるなと思う。

自然災害は、たぶんシステムの揺り戻しなのだけど、でもそれはなかなかパッとは理解できない。だから、「自然の怒り」という理解の方が分かりやすいと思う。そういう意味で人間は、自然災害を「自然の怒り」と受け取るべきだ、と思っている。

かつて人間の世界には、「絶対的な判断基準」が存在していたと思う。それは、時代や国によって様々な形を取る。宗教の教祖だったり、コーランのような書物だったり、科学の真理だったり。日本で言えばまさに、「自然」がそれに値するものだっただろう。

今でも、その残滓みたいなものはある。今でも古来からの宗教は(形を変えているとはいえ)存続しているし、「山の神」や「大漁祈願」などの形で自然に敬意を表する場合もある。しかしそれでも、判断基準が「絶対的」であるためには、ほとんどすべての人がその判断基準を信じる必要がある。「判断基準」そのものに「絶対性」があるわけではなく、「ほとんどの人がその判断基準を信用している」という点にこそ「絶対性」が宿る。そして、そういう意味での「絶対的な判断基準」というのは、もう今の時代には成り立たないように思う。

この映画の中で、「シシガミ」は、そういう絶対的な存在として描かれているだろうと思う。シシガミがどういう判断をしているのか、それは恐らく誰も分かっていない。分かっていないが、ただ、シシガミの判断には従おう、という存在。そういう存在がいるからこそ成り立つものがある。

恐らく人類の歴史というのは、そういう「絶対的な判断基準」を打ち砕こうとしてきた歴史なのだと思う。迷信や伝統と言ったものを解体し、それらに「科学的な説明」を付与するか、それが出来なければ「無意味」と切り捨てていく。正直僕は、科学や合理的な説明が好きな人間なので、迷信や伝統を解体していく流れは仕方ないと思う部分がある。

でも、「もののけ姫」のような物語を見ると、人間というのはやはり、人間を超越した「絶対的な判断基準」無しには上手く存在できないのではないか、と思わされる。それが迷信と呼ばれようが、その迷信を全員が信じることによる効果というのは無視できない。そのことを、あらためて考える岐路に、人間は立っているのかもしれないと思う。

とはいえ、今から「絶対的な判断基準」を信じる社会に戻るのは、たぶん無理だろう。人間はいつからか、自然を畏怖するのではなく、抑え込もうとするようになった。自然に打ち克つことが出来るとも思っているはずだ。そう思っている以上、「自然」は「絶対的な判断基準」には戻り得ない。日本人は宗教的な感覚にも乏しい。欧米ならともかく、日本でこれから成り立ちうる「絶対的な判断基準」を見つけ出すことは、難しいだろうなと思う。

たぶん、人類の歴史の中で、「絶対的な判断基準」を持たずに過ごしている稀有な時代なのだと思う。前例のない時代だ。どれぐらい先か分からないが、人間はいずれ、人間が作ったもの(今は「核兵器」を想定しているけど、未来には別の何かが出てくるかもしれない)によって滅びるだろう。そうなった後にまた、「絶対的な判断基準」と共に生きる知的生命体が現れるかもしれない。

内容紹介はするまでもないだろうからしない。

冒頭に書いた「高潔さ」の話をしようと思う。登場人物の多くは、欲まみれだ。もちろん、崇高な意思を持っている者(エボシ様など)もいるが、しかしやはり根底には欲深さがある。

しかし、アシタカとサンは、「高潔」という言葉が合う。その「高潔さ」みたいなものに、打たれたような気がする。

気持ちとしては常に、「高潔」でありたいなぁ、と思う。ただ、怠けたかったり、疲れてたり、本当に正しいこと以外を優先せざるを得なかったりと、なかなか簡単じゃない。というか、「高潔」でいることはほとんど無理だ。多くの人も、別に「高潔」を望んでいるわけではない。ほどほどでいい、とみんな思っている。

アシタカやサンの世界では、「高潔さ」は、僕らが生きている世界よりはずっと尊ばれるだろう。それでも、なかなかああはいられないはずだ。

アシタカは特に、「誰の」とか「どちらの」という判断をするのではなく、常により高い位置から物事を判断しているように思う。それこそアシタカは、ある種の「絶対的な判断基準」みたいなものかもしれない。普通の人間だから、アシタカの判断を、誰もが「絶対的」と感じるわけではない。しかし、彼の存在に、「絶対性」を感じる人はどんどんと出てくる。

大変だろうから、アシタカのようになりたいわけじゃない。でも、なんとなく、アシタカのような有り様に惹かれる自分もいるんだよなぁ、とも思っている。

ジブリ作品を映画館で観たのは、初めてかもしれない。もちろん、「もののけ姫」に限らず、ジブリ作品はテレビで何度も観たことがあるけど、映画館で観るとやっぱ全然違うような気がする。しかし、何度観ても飽きないって、やっぱり凄い映画だよなぁ。

「もののけ姫」を観に行ってきました

「想像力と数百円」という、糸井重里の有名なコピーがある。これは、新潮文庫の100冊というキャンペーン用のもので、「数百円」というのは文庫の値段のことだ。数百円に加えて、想像力があれば、どんな冒険でも出来る。なんというか、なるほどなぁ、と思う。

「想像力」というのは、人間だけが持つことができる偉大さだな、と思う。何かの本で、「物語」というのは、大勢の人間を統治するために生み出された、という話を読んだことがある。「物語」を生み出すのも想像力だが、現実を超越する力を生み出すのもまた、想像力だと思う。

手作りの熱気球で国境を越える-これもまた、凄まじい想像力のなせる業だろう。物事というのは、誰かが一度行なってしまえば、それ以降は「当たり前」になる。「当たり前」と書くと、その発想を軽んじるような印象も与えるだろうけど、少なくとも、過去に前例があれば、出来るか出来ないかの議論は存在しなくなる。出来ることは、間違いないのだ。

しかし、誰も成し遂げたことをないことを行うことは、出来るか出来ないかの議論から始まる。うまく行くかどうかは分からない。少なくとも、過去に誰もやったことがない、ということは、負の圧力として作用する。誰も思いつかなかっただけかもしれない。しかし、思いついたけど、無理だと諦めただけかもしれない。そんなことをやろうとするというのは、いつどんな時だって無謀だと思われる。

人類は、その想像力と無謀さで、少しずつ新しい地平を切り開いてきた。エベレストに登頂し、月に人類を送り、電気自動車を生み出し、感染症と立ち向かってきた。

この映画で描かれる「無謀さ」は、本来発揮する必要のないものだった。そんな風に、結果として表出してしまう無謀さは歴史上様々に存在する。原子爆弾にしても、開発当初は、「ドイツが原子爆弾を先に開発してしまったら、世界が終わってしまう」という恐怖心が研究者を駆動していた(実際は、日本に投下する前に、ドイツが原子爆弾の製造をしていないことが判明したようなので、日本に投下したことに関する責任は無視できないけど)。

しかし、こういう実話が、物語として後世に伝わると、人間が様々な事柄を想像力で乗り越えてきたのだという実感に、一層の重みが加わることになるので、僕はこれからも、こういう話を知りたいなと思う。

内容に入ろうと思います。
東西ドイツに分断されていた東ドイツに住むシュトレルツィク一家は、2年前から友人と共にある計画を立てていた。自作の熱気球でドイツの国境を越えることだ。熱気球は、友人のギュンターが設計し、準備は整っている。しかし西ドイツに行くには、滅多に吹かない北風が吹く必要がある。目の前に住むシュタージ(国家保安省)の役人の目を盗みながら、彼らは決行の日を決めた。しかし、設計者であるギュンターが突然、全員は乗れないと言い出した。自分たちは残るという。そこでシュトレルツィク一家の父親・ペーターは、自分たち一家4人だけで西ドイツを目指すことに決める。妻・ドリスと、長男のフランクにはあらかじめ計画は伝えていたが、まだ幼い次男・フィッチャーには、夜にキャンプに行くと言って連れ出した。熱気球は予定通り飛び、脱出は成功するかに思われた…が、彼らは失敗してしまう。痕跡をなるべく残さないように、普段どおりの生活に戻る一家だが、当然シュタージが捜査に携わることになる。捜査の手は徐々に彼らに迫っていく。追い詰められた彼らは、再び気球を作る決断をするが…。
というような話です。

実話が元になった物語で、彼らの脱出劇は「東ドイツからの最も華々しい亡命」と世界的に報じられたそうです。有名な話なんですね(知りませんでした)。映画の冒頭で、当時西ドイツへの亡命がいかに大変だったかが描かれます。1976年~1988年の間に、38000人が亡命に失敗し、少なくとも462人が国境で射殺され命を落としたという。それでも、西側への亡命を望む者が後をたたなかった。

この東側から西側への亡命に関して、シュタージの上官が興味深いことを言っていた。部下に対して、「社会主義の敵は逃げればいい」という発言をするのだ。もちろんこれは、「逃げるものを許す」という発言ではなく、「逃げるものは敵なんだから殺していい」という主旨の発言だと思うが、しかし本心では、それを発した上官も、それを聞いていた部下も、どう思っているのだろう?と思った。

ニュースで、香港のデモや、アメリカの黒人差別に反対する運動などの際、警察が市民を鎮圧する様が映し出される。もちろん僕は、彼らは「職務を遂行しているだけだ」と思う。彼らは、仕事でそうせざるを得ないのだから、むしろ大変かもしれない、と思ったりもする。しかし、そういう人を目にする度に僕はいつも、内心はどう思っているのだろう?と考える。職務は職務として遂行しなければならないけど、気持ちはどうなんだろう?自分の行動を、「正しい」と思ってやれているんだろうか?そういうことが、気になる。

シュタージの面々についても、本心はどうなんだろう?と考えてしまう。社会主義の国として、制約のある生活を余儀なくされる東ドイツ。そんな東ドイツから西ドイツへの亡命を企てる者が後をたたないという現実。そういう中で、「自分たちが守ろうとしているものは、本当に守るべき価値があるのだろうか?」という思考になるのかならないのか。

どんどん話は脱線するが、これに関連して、昔心理学の本で読んだ話を思い出した。ある時アメリカで、普通の主婦が、「◯月◯日に世界は滅亡する」と言い出した。そんな奇特な主張になぜだか賛同者が増えていき、一種の宗教団体のようになっていったという。その動きを知った一人の心理学者が、これはチャンスと、その団体に入信するフリをする。彼には自説があり、それを確かめる機会をうかがっていたのだ。それは、「信じていたものが崩れた時、信仰はどうなるのか?」という問いに対する答えだった。預言の日、当然世界の滅亡は起こらなかった。では、信者たちはどうなったか?実は、その宗教団体への信仰心が強まったという。これは、心理学者の予想通りだった。信者たちは、「自分たちの祈りが通じたお陰で最悪の事態が回避できた」と解釈し、さらに深くその宗教団体を信じるようになったというのだ。

非常に不合理な判断に思えるが、人間にはこういう心理があるという。そして同じようなことが、香港やアメリカの警察、そしてこの映画で描かれるシュタージに対しても起こるのかもしれない、と思う。

さて、追う側の話をあれこれ書いたけど、別に追う側の話がメインなわけではない。追われる側の物語だ。

彼らに関しては、「自作の熱気球で亡命を成し遂げた」という結果が強烈・秀逸なだけで、彼らの物語は別にそこまで劇的なわけではない。「とにかく必死で頑張った」ということだ。別にこれはけなしているわけではない。特別な何かに秀でているわけではない人物が、これだけ見事な脱出劇を成し遂げた、という点が、この物語の肝だと思うからだ。そういう意味でやはり、「熱気球で亡命する」という「想像力」こそが、何よりも秀逸だったのだと思う。

こういう映画を見ると、いつも現在のことを考えてしまう。この映画は過去の物語だが、現在も地球上のどこかに、何らかの理由で抑圧され、身動きが取れないでいるたくさんの人がいることだろう。彼らの苦労を、リアルタイムで知る方法はなかなかない。気骨のあるジャーナリストが潜入取材でもしない限り、表に出てこないからだ。

そう思う度、自分は「ただ知るだけでいいのかな」という気分になる。まあでも、知るだけでも、知らないよりはマシかと、自分に言い聞かせる。

「バルーン 奇蹟の脱出飛行」を観に行ってきました

あーだこーだ考えてると、結局「安楽死」だよな、という思考に行き着いてしまう。
安楽死が認められれば、回避できる問題は、結構あるんじゃないかと思っている。

森博嗣の『すべてがFになる』という小説に、こんな会話がある。

「先生…、現実ってなんでしょう?」
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ」

つまり、客観的に定義できる「現実」など、存在しないということだろう。僕もそうだろうと思う。結局のところ、「現実」は個別的なものでしかなくて、誰とも共有できない。「共有できたという幻想」があるだけだ。

たとえば、「幽霊」が見えるという人がいる。別に幽霊でもなんでもいいが、つまり、その場にいる全員が知覚できるわけではない「何か」が、見えたり感じたりする人がいる。僕は、そういう「何か」の存在を否定するつもりはないが、ただ、ほとんどの場合それは、感覚器官のエラーだと思う。目や耳から入ってくる情報に問題があるのか、あるいは脳内の処理の段階でエラーが発生するのかはともかくとして、どこかしらに不具合が生じている、ということになるだろう。

ただ、だからといって、その人が見ている「何か」が「現実ではない」ということにはならないだろう。その人の感覚器官を通じて捉えた世界なのだから、それはその人にとっての「現実」ということでいい。

以前、数学者にインタビューをさせてもらう機会があったが、その時、「地球以外の知的生命体が構築する数学は、我々のものと違うかもしれない」という話が出た。特に大きく変わる可能性があるのが、幾何学だ。幾何学というのは、要するに「図形問題」をイメージしてもらえばいいが、我々が知っている幾何学は、視覚情報を元にして作られている。しかし、例えば嗅覚が視覚よりも優位な知的生命体がいるとしたら、まったく違う幾何学が生まれるだろう、と言っていた。なるほどなぁ、と思う。

「環世界」という言葉がある。定義を説明できるわけではないが、「環世界」の説明でよく使われる「マダニ」の話は面白い。マダニは、視覚も聴覚もない。マダニは、動物の血を吸って生きるが、この虫が感じ取れるものは、「動物が発する酪酸の匂い」「動物の体温」「毛が少ない皮膚の感触」だけだ。つまりマダニにとって、この感覚器官に触れない情報は存在しない、ということになる。このように、人間を含めたすべての動物は、それぞれの感覚器官から得られた情報によって構成された「現実」を生きており、そういう状態のことを「環世界」と呼んでいる。

人間にしたところで、コウモリやイルカが使っているらしい超音波は聞こえないし、一部の動物には見えるらしい紫外線も見えない。超音波が聞こえたり、紫外線が見えたりしたら、僕らはまたまったく違う世界を生きることになるだろう。

さて、ここまで書いてきたような考え方が僕の中にはあるので、そういう観点からすると、この映画で描かれる「人生の一つの可能性」については、許容できる部分もある。しかし、この「可能性」が仮に実現されるとしても、それが「自分以外の人間の存在」によって成り立っているということが気にかかってしまう。まあ、それが「科学技術」である以上仕方ないことではあるが、人間によってその「可能性」が実現されているというプロセスに拒絶反応を示す人は多いだろうと思う。

もし。地球以外の惑星を探索できる時代がやってきて、ある惑星でこのシステムを発見したとする。その惑星では、もともと住んでいた知的生命体は何らかの理由で死亡してしまい、そのシステムだけが残されている。そんな状況であれば、その「可能性」に飛び込むのもアリかもしれないなぁ、と思う。

内容に入ろうと思います。
”建築家”は、自分の部屋で目覚める。何かがおかしい。黒いシミ?動いている?慌てて部屋を飛び出す。人や建物が、黒いシミのようなものに侵食されて、透けている。でも歩いている人や走っている車は平然としている。空に街。街が浮いている。どこに行けば?何をすれば?そこに、黒い怪物が現れる。なんなんだコイツは。やられる、と思った瞬間、知らない人に助けられた。素性の知れない相手だが、ついていくしかない。あちこちで重力が歪み、世界中の様々な街が縦横無尽に連結された不可思議な世界で、”建築家”はある工場へと連れて行かれる。
ここは、夢の世界だ、と説明される。人間は、昏睡状態に陥ると、ここにやってくるのだという。ここにやってきた人間たちの記憶で、この夢の世界は作り上げられている。この世界にいる人間はみな、”現実世界”では昏睡状態にいて、目覚めるのを待っている。時間の流れは”現実世界”より100倍も遅く、この世界では1000年でも生き続けられる。しかしここには”死神(リーパー)”と呼ばれる黒い怪物がおり、襲いかかってくる。リーパーにやられると、”現実世界”でも目覚められなく成ってしまう。
”建築家”は、自分の名前も思い出せず、急転する状況についていけないが、助けてくれたファントム(部隊の隊長)とフライ(傷を治す特殊能力を持つ)によって、なんとかこの工場にたどり着いたのだ。彼らのリーダーはヤンという男で、彼は「リーパーのいない島」があると信じている。そしてその島の場所を、”建築家”が知っているというのだが…。
というような話です。

全体的には、凄く面白く見れました。正直なところ、映像がSF的なのはもちろん想像通りだったけど、物語ももっとSF的なんだと思ってました(そうだとしたらちょっと合わないかな、と予想してた)。けど、映像の超絶SF感とは異にして、物語はかなりリアリティがあるように感じました。もちろん、扱われるのはいわゆる「オーバーテクノロジー」だから、SFなのは間違いないのだけど、僕がイメージしているSF、つまり「異星人と戦う」とか「超能力者がたくさん出てくる」とかっていう感じではなく、僕としては良かったな、と。映像の壮大なSF感と、SF的過ぎない物語というのが、僕としてはとても相性良く感じられました。

とにかく、映画の冒頭が意味不明で、グーッと引き込まれる感じがありますね。一応、公式HPには「記憶の世界だ」みたいなことが書いてあるから、僕が書いてることもネタバレにはならないと思うけど、僕はそういう情報も一切知らないままで見たので、「え?どゆこと?これどうまとまるの?」みたいな興味で一気に引き込まれました。物語の序盤で、記憶の世界だと明かされるわけなんだけど、そこからどんな風に物語が展開していくんだろうなぁ、と思いながら最後まで楽しくみた感じです。

冒頭の圧倒的なSF感とはうらはらに、さっきも書いたけど、途中から物語は結構リアリティ路線になっていって、そこをうまく繋いだなぁ、と思いました。ちゃんと考えるとどっかに矛盾があったりするかもだけど、僕はあんまりそういうところを細かく考えないんで、全体的に面白かったです。

ネタバレになるから具体的には書けないけど、「私はここに残る」と言う発言には、考えさせられるなと思います。確かに、そういう人にとっては、この世界は”正解”だよなぁ、と。

「アンチグラビティ」を観に行ってきました

正解はあるんだろうか、とずっと考えていた。

選択肢の中に正解があるなら、それを選べばいい。そして、「正解がある」ことが分かった上で、正解ではない選択肢を選ぶことも、自由だと思う。誰もが常に、正解を選ばなければならない、とは思わない。

しかし。正解が存在しないような分岐点で、道を選ばせるようなのは、間違っていると思う。

外側から見ている分には、「正解」はたくさんあった。ドリフターズのコントの「志村後ろ!」みたいな瞬間は、何度もあった。今、そこだろ、と。そこで「正解」を選べばいいんだ、と。そういう場面は、たくさんあった。

でも、最後まで観ると、彼にはそれらが「正解」に映っていなかったことがハッキリと分かる。観客からすればあまりにも明白過ぎる「正解」であり、この映画の登場人物の大半も同じ判断をするだろう選択において、彼は常にその「正解」を選ばなかった。

【全部ダメですよ。生まれてきてからずっと】

この後、彼が言った言葉には、打ちひしがれるような想いがした。そう、彼がそう思っている以上、僕らには「正解」に見えている選択肢はすべて不正解なのだ。

彼がそう思ってしまうことを責めても仕方ない。僕は、どんな意味においても、彼には責められるべき点はないと思う。誰もがそう感じるだろう。たとえ法律が彼を裁いても、本来的に彼は責められるべき人間ではない。

でも、彼の考えていることを丸ごと受け入れてしまうと、彼の人生から正解が消えてしまう。残念なことだが、きっと、彼はそのことを理解していたのだと思う。そのどうしようもない絶望の淵にあって、彼は、彼とその母親にしか正解に見えない選択をする。

「Mother(母)」と「Monster(怪物)」は、字面が似ている。劇中、「Mother」が何度も繰り返す「私の子だよ!」という言葉は、「Monster」の叫び声のようだった。自分の親が「Mother」であるか「Monster」であるかは、子どもは選べない。「不幸だった」で片付けないために、「Monster」から子どもを引き剥がす方法を、社会は考えなければならないと改めて感じた。

内容に入ろうと思います。
この映画は、よく映画で表示される「実話を元にしている」というような表記こそなかったものの、実際の事件を描いたノンフィクション作品が基になっている。この映画がどこまで忠実に描かれているか分からないが、ここに描かれているのと近いことが実際に起こったというだけで反吐が出るし、そして何よりも、同じような境遇に置かれた子どもたちがたくさんいるだろうという想像に、苛立たしい想いを抱く。

シングルマザーの秋子は、周平という息子と二人で暮らしている。ロクに働きもせずパチンコばかりして、金が無くなると両親や妹から金を”借りる”。しかし、返したことは一度もない。周平も、学校でうまくやれていないのか、働かない母親と一緒にいることが多く、時に、周平一人で金の無心に行かせたりもする。周平は、母親の命令にほとんど逆らうことがない。表情に乏しく、ほとんど喋らないので何を考えているか分からないが、到底、今の生活に満足感を抱いているとは思えない。
ある日、ゲームセンターで知り合ったホストのリョウと意気投合し、彼らは付き合うようになる。周平を知り合いに市役所職員に預けて遊び呆けた後、難癖をつけてその市役所職員を脅して金をとろうとしてトラブってしまい、彼らは遠くに逃げることにする。その後も、男からの暴力、パチンコ、金の無心を繰り返し、周平は学校に通えないまま、生活能力が皆無な母親に付き従う。秋子の妊娠が分かったことで状況は大きく変わり…。
というような話です。

映画を見ながら意外に思ったことは、主人公は秋子(長澤まさみ)ではなく、周平だったのか、ということだ。まあそれは、僕がそう判断したというだけのことだが、この映画では、秋子の存在は明らかに「周平の外的要因」という程度でしかない。もちろん、「程度」という言葉で済ませることが出来ないくらい強大な影響力を持つ「外的要因」ではあるのだけど、しかしやはり、この物語において、秋子は中心にいないと思う。秋子という、ブラックホールのような引力を持つ存在の近くにずっと居続けた周平の物語だ。

秋子については、映画の冒頭から最後の最後まで、印象が変化しなかった。映画を観る前たまたま、主演の長澤まさみのインタビューを読んだが(というか、見出しが目に入った、程度だが)、長澤まさみは秋子という役柄に「まったく共感できなかった」と言っていた。まあ、そりゃあそうだろう。この映画では、秋子に対する共感という要素はほぼゼロだと思う。普通、悪い風に描かれる人物であっても、主人公クラスの存在であれば、共感を呼び寄せるような場面も描かれることが多いだろう。しかしこの映画は、そういう部分を排除しようとしているように感じた。秋子という存在を、共感を一切寄せ付けない存在として描くことで、「Mother」と「Monster」を二重写しにしているような感じがした。

観客の関心は常に周平に向かう。観客は、秋子を「Monster」としか見ない。そういう部分しか見えないからだ。しかし周平は秋子を「Mother」として見ている。そして、この絶望的な食い違いが、最後の最後までモヤモヤしたものとして残る。

僕は、「親」という立場になったことがないから偉そうなことは言えないが、秋子が周平を人として愛しているようには思えなかった。「親」の立場から見れば、違った風に見えるだろうか?秋子には、周平は、ただの「道具」にしか見えていないように思う。彼女が度々口にする、「自分の子どもなんだから、どんな風に育てたって勝手でしょ」という言葉からも、包丁を研ぐような、あるいはバットを磨くような印象を感じ取ってしまう。そもそも僕は、自分の子どもだからと言ってどう育ててもいいとは思わないが、それはともかくとしても、秋子の周平の扱い方には、苛立たしさしか感じなかった。

でも一方で、僕はこんなことも考えた。親になってみなければ親の適性があるかは判断できないが、親の適性がないと分かったところで親であることを取り消すことはできない、ということだ。

これは、非常に根本的な問題だと思う。

僕は、自分が子育てとか親という立場に向いていない、という自覚がある。同じようなことをいう女性に会ったこともある。一方、こういうことを言うと、「自分の子どもだったら違うよ」とか「親になってみなきゃ分かんないじゃん」と言う人が一定数いる。

まあ確かにそうかもしれないが、でも、親になった後、「やっぱ向いてないじゃん」ってなったらどうすりゃいいのよ、と僕はいつも思う。口には出さないけど。

もしかしたら秋子も、そうだったのかもしれない。

この映画では、秋子がろくでもない母親である状態しか描かれない。周平を身ごもる前どうだったのか、生まれたばかりの頃はどうだったのか、そういうことは分からない。もしかしたら秋子も、最初からダメだったわけではないかもしれない。子育てを頑張る意思はちゃんとあって、良い子に育てたいと思っていたけど、でも向いてなかったのかもしれない。

で。じゃあ、どうすりゃいいのさ。

僕は、児童虐待のニュースを目にする度に、「自分は児童虐待する側だな」と思ってしまう。親になったら、たぶん向いてないことに気づくし、でも子どもは存在しているわけだから、僕自身の現実の中で何らかの対処をしなければならない。それが「虐待」という行動に繋がる可能性は高い、と僕は考えているし、そういう自覚を今の時点で持っているからこそ、親にはなるまいと決意している。

僕はいつも、この「正解」を知りたいと思う。親になった後で、親に向いてないと分かったらどうすべきなのかについての「正解」を。激論を巻き起こした「赤ちゃんポスト」は、一つの「正解」だと僕は思う。ただ、誰もが「赤ちゃんポスト」を利用できるわけではないし、ある程度子どもが大きくなってから向いてないことに気づいても打てる手はない。

僕は、虐待を無くすという方向よりも、子育てに関する選択肢を増やす方向の方が可能性を感じる。虐待は、無くそうとして無くなるものではないと思う。虐待の内の一定数は、「子育てに向いてなかった」という判断が根底にあると僕は思っているし、そう判断した親に「虐待」以外の選択肢を提示してあげることこそ、本当の解決策なのではないか、と思う。

もちろん、子育てに関する選択肢が増えていたとしても、秋子と周平の物語の着地点は変わらなかったかもしれないが。

「MOTHER マザー」を観に行ってきました

どんな映画なのか全然知らなかったし、観終わってもちゃんと理解できたとは言えない感じだけど、でも、「AKIRA」カッコいい映画だなぁ。いつ作られた映画なのかも知らないけど、普段アニメを観ない僕からすれば、特段古さを感じさせなかった。今の時代にも、全然通用するだろうなぁ。

たぶん、核のことなんだろうと思う。この映画の、中心の中心で描かれているものというのは。

物語の冒頭は、「1988/7/10」から始まる。その日に、東京で爆発が起こり、首都が壊滅するのだ。僕らの世界では、1986年4月26日に、チェルノブイリ原発事故が発生している。とここまで書いて、「AKIRA」の漫画の連載開始のタイミングを調べると、1982年12月だそうだ。チェルノブイリ原発事故より前だ。しかし、東西冷戦による核の恐怖はずっとあっただろうし、そういう時代背景があっての作品なんだろう、と思う。

僕らが核の恐怖をリアルに理解したのは、東日本大震災においてだ。福島第一原発事故が、原子力発電の危険性を明白に露呈させた。しかし、あれだけのことが起こってなお、日本は脱原発に舵を切らなかった。もちろんそこには、様々な要因があるだろう。僕自身、脱原発が唯一の選択肢だなどというつもりはない。現在の物質社会を維持したまま、脱原発に舵を切るのは相当困難だ。脱原発を指向するのであれば、多少なりとも不自由さを享受せざるを得ないだろう。その社会合意を日本で作れるかというと、僕は難しいだろうと思ってしまう。

一応、元々理系だった僕は、「原子力発電」という技術そのものは信頼している。もちろん、核分裂というのは、究極的には制御不能な反応であり、不測の事態は常に起こりうる。しかし一方で、科学者や技術者は(あるいは、ごく一般的な科学者・技術者は、と言うべきだろうか)、出来ないことを出来るとは言わない。だから、彼らが「出来る」というのであれば、それは出来るのだと思う。しかし、原子力発電は、科学者・技術者だけの判断では運用できない。経済や政治の問題が絡んでくる。そして、経済や政治は、科学者は技術者に、出来ないことをやれと言う場合もある。往々にして、そうやって事故は起こるのだ。物語では一般的に、マッドサイエンティストが暴走して危険な実験を行う姿が描かれるし(「AKIRA」の中にも、そういう科学者が登場する)、実際にそういう科学者がゼロとは言わないが、しかし、科学者・技術者の暴走によって致命的な事故が起きる確率よりも、科学者・技術者以外の者の無知や横暴によって致命的な事故が起きる確率の方が遥かに高いだろう。

だから僕は、「原子力発電の技術」は信頼しているが、「原子力発電を動かすシステム(人間を含む)」は信頼していない。

さて、先程、科学者や技術者は出来ないことを出来るとは言わないと書いたが、それも程度次第の話だ。特に科学者は、自然界のことをコントロール出来るなんて思ってる人はいないんじゃないかと思う。天気予報は、メチャクチャ当たるようになってきたけど、それでもまだ、災害級の豪雨などについては予測もままならない。地震予知が実用的になるのもまだまだ先の話だろう。それでも科学者は、予算を取ってきたりするために、ギリギリ嘘になるかならないかのライン上で、「出来ます」と口にしている場合も多いだろう。特に現代は、ビッグサイエンスと言って研究にお金が掛かるようになったし(素粒子や宇宙などの研究ともなれば、国際協力が必要なレベルだ)、研究予算をどうやって引っ張ってくるかは難しい問題だ。そういう中での駆け引きとして、まだ出来ていないしもしかしたら出来ないかもしれないことを「出来る」と言ってしまうこともあるだろう。

しかしだとしても、その「出来る」という発言が、不可逆的なダメージを負わせる可能性に繋がってしまうとしたら、さすがに予算獲得のためとは言っても断言することはないだろう。

自然は永遠に未知の存在であり続けるだろうし、核分裂は、そんな自然から濡れ手で粟のようにエネルギーを取り出そうとする魔法のような仕組みだ。しかし、人類の歴史は、自然からのしっぺ返しの歴史と言ってもいいだろう。ここ最近の異常気象は、基本的には人類の環境破壊が遠因だろうし、感染症は人類の歴史において度々発生している。核も、人類に度々牙を向いてきたが、人類はそろそろその警告を受け取った方がいいんじゃないか、と思う。いつ、不可逆的で回復不能な事態が発生しても、おかしくはないと思う。

内容に入ろうと思います。
カネダは、テツオら仲間と共に、夜な夜なバイクを乗り回している。敵対するグループと張り合って、夜の道路を爆走している。2019年、翌年にオリンピックを控えた東京は、31年前に謎の爆発により甚大な被害を受けた。現在は、高層ビルが立ち並ぶなど目覚ましい発展を遂げているが、一方で街には失業者が溢れ、革命を志向する若者によるテロ行為が発生している。きらびやかなネオン群とは対照的に、荒廃した街並みは終末感が漂い、カネダやテツオたちが通っている底辺学校では、授業など成立しないほどの有様だ。
そんなある夜、カネダたちは謎の人物と遭遇する。敵対するグループとのレース中、テツオの姿が見えなくなり、見つけた時にはテツオは大怪我を負っていた。その近くには、全身の皮膚が青色の子どものような体型で老人のような顔をした男がいて、しかもその男を回収するために軍が出動していた。彼らは軍によって手足を拘束され、また重体のテツオは軍のヘリで回収されてしまう。何が起こっているのかよく分からないまま、カネダらは日常に戻った。
その後、軍の病院から抜け出してきたらしいテツオと再会するが、テツオの様子がどうもおかしい。街中で錯乱したテツオは、再び軍によって回収され、その後行方が分からなくなってしまう。カネダは、ある場所で知り合ったケイという女性を救ったことがきっかけで、ケイが所属する革命組織と行動を共にすることになるが、話によるとどうも、テツオがある実験体にさせられているらしい…。

というような話です。

僕が「AKIRA」を観る前に知っていた情報は1つだけ。「舞台が、翌年東京オリンピックを控えた2019年だ」ということ。これは、「現実を予言している」と話題になったので知っていた。しかし、それ以外は何も知らなかった。そもそも、あの赤いバイクに乗っている少年の名前が「アキラ」だと思っていたくらいだ。

冒頭から、どんな風に話が展開していくのかまったく分からないまま見ていたけど、面白かったなぁ。最初にも書いたけど、結局どういう話なのかよくは分からなかった。でもそういうのは、たとえばジブリアニメもそうで、分からないからつまらない、というわけではない。分からないけど、面白かった。

冒頭で書いた、「核」という解釈が正しいかどうかはともかくとして、人間が踏み入れてはいけない領域がある、という感覚は誰にとってもあるだろうと思う。それは、例えば「バチが当たる」というような感覚にも近いものがある。日本人は無宗教だと言われるけど、一方で、「バチが当たる」というような感覚は持っている。誰から罰を受けるのか、ということは特別明確にしないまま、悪さをすると何か悪いことが帰ってくる、というような感覚を持っている。そういう感覚は、時代と共に薄れつつあるかもしれないけど、僕は大事じゃないかと思う。先ごろ世界遺産に登録された、大阪の前方後円墳は、天皇家の所有で、立ち入りの調査が許可されていない。名前は忘れたけど、誰か有名な人の墓だとされている。もちろん、学術的な調査をすれば真偽は判明するだろう。しかし、それを学術的に確定させることより、「踏み入れてはいけない」という感覚を大事にしてもいいんじゃないか、と思う。科学の世界でも、「人間のクローン」とか「人工脳」などというアイデアが存在する。もちろん、技術的に出来ちゃうものもあるし、いずれ出来ちゃうものもあるだろう。しかし、技術的に可能だからと言って、踏み込んでいいということにはならないはずだ。明確にルール化は出来なくても、「踏み込んだらマズイよな」という多数の感覚があれば、僕はそこで踏みとどまるべきだと思う。

そしてこの映画では、結局のところ、「そういう時に踏み込んでしまう人類」が描かれていると思うのだ。もちろん、実際に踏み込んだのはごく僅かな人たち(少数の科学者)だろうが、一方で人間には、よく分からない何かを待ち望む、みたいな気持ちがあったりもする。この映画の中でも、「アキラ様の覚醒を待ち望む人たち」が時々描かれる。彼らは、「アキラ様」と呼んではいるが、それがなんであるかは知らない。名前だけが独り歩きしている状態だ。しかし、そのなんだか分からない存在を待ち望んでしまう。しかも、「アキラ様」を待ち望む人たちは、最初はごく少数だったかもしれないが、その波がちょっとずつ広がることで、いつの間にか「みんなが待ち望んでいるもの」に変わっていたりする。トランプ大統領が誕生した背景には、そんな感覚があった、という文章を読んだ記憶がある。とにかく、強いリーダーを望んでいる、アメリカを再び蘇らせてくれるリーダーを望んでいる。そういう、表にはあまり可視化されなかった想いが、トランプが登場したことで顕在化することになったのだ。

そういう意味でこれは、僕らみんなの物語だと言っていい。マッドサイエンティストだけの話ではないし、革命を志向する少数派だけの話でもない。

現在地球は、6度目の大量絶滅期にあるらしい。もちろん、その主たる原因は、人類の存在だ。人類は既に、地球を崩壊させられるほどの力を持ってしまっている。人類がどういう選択と共に生きていくかによって、地球の命運は決まると言っていい(近いうちに、地球に隕石が落ちてきたりしない限りは)。そういう状況下にあって、個人が、組織が、国家がどのような判断をすべきなのか。そんなことを考えさせられた。

「AKIRA」を観に行ってきました

僕は、刺青そのものは嫌いではない(好きでもないけど)。ただ、自分の考えは一生変わらない、と思っている人のことは好きではない。だから、刺青を入れている人のことは嫌いだ。

確かに、刺青を除去する方法は存在している。しかし、費用も労力も苦痛も相当なものだ。だから普通、除去することを前提に刺青を入れることはないはずだ。ということはつまり、刺青を入れるという行為に対しても、刺青として刻んだ文字や絵も、自分は一生好きなままである、と信じているということだろう。つまりそれは、自分の考えが一生涯変わることはない、と考えているということだろう。そういう人は、好きになれない(とはいえ、若気の至りというのは存在すると思うし、若い時にしてしまったと後悔しているのであれば許容する余地はある)

同じように、「自分のことは正しい」と思っている人も好きではない。ある個人の考え方が、どの社会でも、どのコミュニティでも正しいなどということはあり得ない。そもそも「正しさ」というのは外的要因によって大きく左右されるものだし、「正しさ」を定められるとするなら、「明確な定義を作り、その定義に沿ったものはすべて「正しい」と認める、という共通理解を持ったコミュニティを作る」以外にはない。そのコミュニティ内で「俺は正しい」と言っているのであれば何の問題もないが、そのコミュニティが社会そのものであると勘違いしてしまっている人というのは世の中にいる。

この映画で描かれる「差別主義者(レイシスト)」も同じだろう。彼らが、彼らのコミュニティの中で白人至上主義を主張しているだけなら、何の問題もない。勝手にやってくれ、という話だ。しかし彼らは、それを社会に対して要求する。自分のコミュニティの外部の人間にも、その「正しさ」を押し付けようとする。押し付ける、などという生易しいものではない。暴力的に、強制するのだ。なんの権利があってそんなことが許されると思うのだろうか?

もちろん、明らかに間違っている場合もある。例えば、未だにアメリカでは、進化論を信じていない人がたくさんいる。学校で進化論を教えるな、と抗議する人もいるようだ。もちろん、多数の人間が信じているからと言って正しいとは限らない。進化論も、今後間違っていることが証明されることがないとは言えない。しかし、仮に進化論の間違いが証明されることがあったとしても、進化論に反対している人たちが信じている「インテリジェント・デザイン論」(昔は「創造論」と呼ばれていた)が正しい可能性は低いだろう(これはつまり、造物主的な存在が生命を設計した、という考え方である)。つまり、「多数派が信じているから進化論が正しい、つまりインテリジェント・デザイン論が間違っている」ということではなく、「進化論が正しいかどうかに関係なく、インテリジェント・デザイン論は恐らく間違っている」ということだ。

そして、そのような明らかに間違っている考えを持つ人を「転向」させることは「正義」と言えるかもしれない。しかし僕は、やはり、その「正しさ」がコミュニティの外部に漏れ出てこないのであれば、誰がどんな考えを持っていても許容したいと思う。コミュニティ内部での「正しさ」を、外部の人が否定することは、「正義」ではないと思う。

さて、こういうことを前提にした上で、僕は、人間は変わりたいと思えばいつでも変わればいい、と思っている。しかし、これは、言うほど簡単ではない。

つい先日、友人から興味深い話を聞いた。携帯ゲームに関して、こんなことを言っていた。

「携帯ゲームは全然面白いと思わないのだけど、でもなんとなくやってしまう。時々、泣きながらやっている時もある。」

その人は、そもそもゲームをするようなイメージのある人ではなかったので、余計にびっくりだったのだけど、要するに、「止めたくても止められない」自分に気づいて驚いた、という話だ。

「あなたの知らない脳」という本は、基本的に脳科学に関する本なのだけど、その本の後半に、犯罪者の更生について書かれている。色々書いているが、ざっくり結論だけ書くと、

「犯罪者の脳は変質していると判断すべきではないか」

ということだ。刑務所や更生プログラムなど、犯罪者をどう扱うかについて様々な考え方があるが、そもそも、犯罪に手を染めている時点で、それは脳の何らかの異常であるとみなすべきではないか、というのが著者の提案だ。薬物などによって脳が物理的に変質することはよく知られているだろうが、それと同じように、犯罪者の脳は何らかの意味で変質しているのではないか、ということだ。現在も、精神鑑定などによって「責任能力の有無」が判定されるが、しかし、それがどんな手法であれ、調査や測定の限界はある。精神鑑定などによって異常が判明したかどうかというのは、実際に脳に異常があるかどうかとは関係がない。「現在の技術の範囲内で」それが判定できるかどうか、ということでしかないのだ。だから著者は、そもそも何か犯罪を行なっている時点で、それは脳の異常であるとみなして対処すべきではないか、と主張している。

先程の、「携帯ゲームをやりたいと思っているわけではないのに止められない」という話も、脳の異常だということであれば納得しやすいだろう。

強い意志によって状況や人生を変えられることはもちろんあるだろう。しかし、もし本当に脳が変質してしまっているとすれば、もはや意志の力でどうにかなるレベルの話ではない。この映画の中で重要な役回りをするジェンキンスという人物が、父親は薬物依存症患者のカウンセラーだった、と話す場面がある。意思の力でどうにか出来るレベルではない人達の存在を知っていたからこそ、普通ではなかなか出来ないような振る舞いが出来ている、ということだろう。

こんな風に考えているから、僕は、自分を変えようとして変えられなかった人を「頑張りが足りない」などとは思わない。ただ、だからこそ、強い意思で自分を変えることが出来た人間は、凄いなと思う。

内容に入ろうと思います。
ブライアンは、顔を含む前身に差別的な刺青が入っている、筋金入りのレイシストだ。「ヴィンランダーズ・ソーシャル・クラブ」という白人至上主義者の団体に所属し、役員にまでなっている彼は、暴力によって対立する人間を傷つけることも厭わない。酷い家庭環境で育ち、一時期路上生活をしていた彼は、団体の主宰者であるクレーガーとシャリーンに拾われ、以来二人を本当の両親のように思い、彼らに一生分の借りがあるとして、レイシストとしての活動に精を出している。一方ジェンキンスは、「ワン・ピープル」という反ヘイト団体を主宰しており、ブライアンのようなレイシストを転向させる活動を続けている。
ある日、団体のイベントで歌を歌いに来た家族と、ブライアンは仲良くなる。ジュリーは、デジリー、シエラ、イギーという三人の娘を育てるシングルマザーであり、ブライアンから寄せられる好意を受け入れる。ジュリーは、人間としてブライアンを好きになるが、しかしレイシストとしての彼はまったく受け入れるつもりはなく、三人の娘も危険に晒したくないと考えている(以前交際していた男性が娘に暴力を振るっていたことが分かってからは特に)。ブライアンは、ジュリーと三人の娘との生活を考えるが、しかし、そのためには、団体を抜けなければならない…。
というような話です。

アメリカでは、黒人差別に対する反感が高まっていて、それが全世界的に広がっている。そういう状況下であるということもあって、考えさせられる映画だった。これは、実話をベースにした物語で、映画の最後には、ブライアンとジェンキンス本人の写真と映像も流れる。

実話がベースになっている、ということを考えた時、一番強く思うことは、ジュリーは凄いな、ということだ。人間の思想信条は、外側からは分からないものだけど、ブライアンの場合は、隠しきれない刺青が、レイシストであることを明らかにしてしまう。僕は、一般的な人よりはいろんなことに対する偏見が少ない方だと思うけど、それでも、ジュリーと同じ立場に置かれた時に、ブライアンを純粋に人間として捉えることが出来るかというと、難しいだろうなと思う。また、仮にブライアンを純粋な目で見ることが出来たとしても、彼女には三人の娘がいる。ブライアンのような人間に近づくことで、娘たちに危険が及ぶ、という可能性は当然よぎるだろう。実際、彼女たちには危険が及ぶことになる。そういう状況にあって、ブライアンと生活を共にしようと決断することは、相当なものだろうと思う。正直そういう意味で、ジュリーに共感できない部分もある。凄いなと思う一方で、最初から近づかなければ良かった、という気持ちもある。もちろん、好きになってしまったから仕方ない、ということなのだろうけど。

あと、映画を観ていて感じたのは、日本で同じ状況にあったらどうすればいいだろうか、ということだ。アメリカには、正式名称は知らないけど、「証人保護プログラム」みたいなものがあって、警察組織などに対して証言をすることで、身分をすべて変えて人生をやり直すことが出来る、という仕組みが存在する。日本にもあるのかもしれないけど、僕は知らない。どうなんだろう?

人生をやり直すためには、過去をスパッと断ち切らなければならない。お笑い芸人のEXITの兼近大樹も、北海道から東京にやってくる時、信頼できるたった一人にだけ連絡先を教えておいて、他のすべての人間を断ち切ったと何かの番組で話していたように思う。本人にどれだけ意思があっても、環境を変えなければ状況は同じままだ。そのことを、改めて実感させられる作品でもあった。

僕は、巨大な憎しみの連鎖に巻き込まれたことはない。だから説得力はないが、それでもやはり、憎しみによっては何も解決しないと思う。何か巨大な憎しみの連鎖に巻き込まれてしまった時、自分のところでその連鎖を止められる人間でありたいと思う。

「スキン」を観に行ってきました

| ホーム |

プロフィール

通りすがり

下のバナーをクリックしていただけると、ブログのランキングが上がるっぽいです。気が向いた方、ご協力お願いします。
にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

アフィリエイトです

アクセスランキング

アフィリエイトです

最新記事

サイト内検索 作家名・作品名等を入れてみてくださいな

メールフォーム

月別アーカイブ

カテゴリ

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

QRコード

QR

カウンター

2013年ベスト

最新トラックバック

最新コメント