黒夜行 2019年11月 (original) (raw)

すげぇ面白かった。びっくりした。キャストや設定なんかは、完全に「よくある学園モノ」って感じなのに、全然違う。

まずさっさと、ストーリーだけざっと書いておこう。3つの物語が同時に進行する。
小坂れいは留年して、退屈を持て余している高校生。かつて後輩だった(今同じ学年)女子生徒からカラオケやボーリングに誘われても「殺すぞ」と言って関心を持たない。というか、何にも関心を持っていない。しかしそんなれいが、同じクラスの女子に興味を持った。今まで、特別視界にも入らなかったのに。鹿野ななというその少女は、教室に迷い込み、ゴミ箱に捨てられた蜂の死骸を拾い上げ、花壇に埋めようとする。そんな奇特さに、あとをついていったれいは、「死にたい」と言う彼女に「殺してやるよ」という。二人はそれから、お互いを罵り合いながら、特別分かり合おうとしないまま、しかしそれでも、同じ時間を過ごすようになる。
堀田きゃぴ子は、自分のことを可愛いと思っていて、その可愛さを武器に様々な男に近づくが、うまく行かない。というか、嫌われたり別れを切り出されるのが怖くて、そうなる前に自分から離れてしまう。そして、自分から離れたのに、落ち込む。幼稚園の頃からの仲である宮定澄子(地味子)は、そんな彼女の性格をよく理解し、とはいえ付かず離れずと言った距離感を保ちながら、きゃぴ子との関係を続けている。
大和撫子は、宮定八千代に付きまとっている。事ある毎に「好き」と伝える。八千代は、僕はあなたのことが好きではないし、お付き合いもできない、とずっと伝えている。しかし撫子は、付き合ってくれとは言ってないし、私はただ好きだと伝えているだけ、私は、私のことなんか好きになってくれない八千代君が好き、と言って、始終付きまとっている。付きまとってはいるが、八千代の邪魔をするつもりはなく、とにかく、振り向いてもらえなくていいから傍にいたい、という気持ちが伝わってくる。八千代の方も、そんな撫子を決定的に遠ざけるでもなく、程よく関わっている。
この3つの物語が混じり合っていく。

元々は4コマ漫画だそうで(僕は読んでないけど)、だからかもしれないけど、全体的に、ストーリーらしいストーリーはない。れいとななは「殺すぞ」「死ぬぞ」と言い続けてるだけだし、きゃぴ子が男とうまく関係を築けなくて、それを地味子が慰めてるだけだし、撫子はずっと八千代に告白してるだけだ。まあ、後半の方では、それぞれの物語にも変化が出てくるんだけど、基本的には、ストーリーっぽいものはないまま物語が進んでいく。

でも、メチャクチャ面白い。

僕が感じるこの特異な面白さの一つは、「奇妙な関係性を、ステレオタイプの組み合わせで描き出している」という点だ。

れいもななもきゃぴ子も地味子も撫子も八千代も、非常に漫画的というか(元々漫画なんだけど)、リアル感が薄いというか、ある種のステレオタイプの権化のような描かれ方をしている。普通には存在しなさそうなキャラクターで、リアリティはまったくないし、言動そのものに共感できる人はそこまで多くないだろう。

しかし、そういう超ステレオタイプ的な登場人物が掛け合わされることで、異様な奇妙さが生まれる。この化学反応が、凄く面白いと思う。

れいは「殺す」、ななは「死ぬ」という、よくありがちな設定をずっと守っているだけなんだけど、その二人の掛け合いは非常に面白い。「死ぬ」と言ったことに対して止めようとする言動や、「殺す」と言ったことに対して嫌悪感を出したりする言動はない。相手の発言を空気のように扱い、「殺す」「死ぬ」がまるで「食べる」「遊ぶ」ぐらいの日常語かのように登場することで、二人の関わりの奇妙さが浮き上がる。

きゃぴ子は、みんながステレオタイプ的に感じているヤリマンだし、地味子は地味すぎて目立つ、みたいなステレオタイプ的な地味さを出している。しかしこの二人が関わることで、それぞれの欠落みたいなものが際立つ。特にきゃぴ子は、愛されたいのに満たされない思いを、自分の行動をきっかけとして感じてしまうというなかなか厄介な存在で、地味子に対する喜怒哀楽の激しさみたいなものから、きゃぴ子の満たされなさの深さが伝わってくる。

撫子と八千代の関係も、ステレオタイプ的には想定出来るものだ。女は追う、しかも叶わないと知りながら。男は受け入れない、しかし突き放しもしない。それぞれがありきたり感を出しながら、全然代わり映えのしない関係性を続けていくのだけど、でも両者の言動の背後には色々とあって、それが次第に明らかになっていく。メチャクチャ長い、ステレオタイプの応酬のような前フリから、浮き彫りになっていくものがある。

この6人の関わりで面白いのは、この6人全員が、ある意味で感情のないロボットかのような動き方をする、ということだ。れい・なな・地味子・八千代の4人は、そもそも感情らしい感情を表に出さないし、きゃぴ子は感情を出してる風で、しかし本当の感情がどこにあるのか不明だ。撫子は、本当の感情を出しているということは分かるのだけど、言動が異常(振り向いてもらえないのにつきまとう)すぎるので、それが本当の感情に見えない。6人全員が、なんとなく、ロボット感がある。

でも、それなのに、何故か凄く伝わるものがある。それは、「感情がない」からではなく、「感情を表出するのが不器用だ」ということが、観ている者に伝わるからだ。

冒頭でれいをカラオケに誘うような、自分の感情を素直に表出出来るような人物は、この映画にはほとんど登場しない。何かしら感情はある。しかしそれを、様々な理由から表に出せない。その背景に何があるのか、ということまでは、最初の段階では分からないが、しかし、彼らがみな、内に秘めた何かがある、という予感を醸し出すので、感情らしい感情をまったく表出させないのに非常に人間っぽいし、また、だからこそ、感情が思わず表に出てしまうような場面で、観客は大きく心を動かされることになる。

特にやっぱり、れいとななの話は、好きだなぁ。この2人の物語が、はっきり言って一番何もなにも起こらない。学校帰りにアイス食べたり、神社でぼーっとしたり、家でゲームしたりするだけ。時々、ちょっとドラマっぽいことも起こるんだけど、別にそんな大したことじゃない。でも、なんかすげぇ好きなんだよなぁ。たぶん僕自身が、こういう関係に憧れてる、みたいな部分があるんだと思う。それは「殺す」とか「死ぬ」とかって部分じゃなくて、「あなたのここが好きだ」とか「一緒にいて安らぐ」みたいな感覚を表に出さないまま、でも一緒にいられる、みたいな関係のこと。お互いに文句ばっかり言ってるし、優しい振る舞いもそんなにしない。けど、お互いの居場所はここだって分かってる感じが凄く伝わる。すげぇいいなって思う。この二人の感じは、ずっと観てられるなって思ったし、それはやっぱり、自分がそういう関係に憧れてるからだろうなぁ、って凄く思った。

反対に、きゃぴ子みたいなのは、やっぱりしんどいなぁ、って思う。この映画ではもちろん、そう感じさせるために登場する人物なんだけど、でも実際、程度の差こそあれ、きゃぴ子みたいな女性は多くいるんじゃないか、と思う。自分という存在を認めるために、他人からの承認が絶対的に必要で、でもなかなか他人はそんな承認をくれない。だから、その承認をもらうために、出来ることはなんでもする。でも逆に、そうやって承認を得られるようになってくると、承認されなくなった自分が怖くなる。だから、承認されなくなる前に離れてしまう。でもそうなると、昨日まで自分を承認してくれた人が突然いなくなるわけで、悲しくなる。理屈ではきゃぴ子も分かってるはずだけど、このサイクルを止められないし、その止められなさみたいなものが凄く良く理解できた気がする。

体温のない登場人物たちが、ステレオタイプ的なセリフを発するんだけど、でもそういうセリフに、なんだかグッと来る場面も多かった。たぶんそれは、「体温のなさ」が「「ステレオタイプ的なストレートな言葉のくすぐったさ」みたいなものを和らげてくれているからだと思う。普通だったら口に出すのが恥ずかしいようなセリフも、ある種のロボット感(あるいは、非存在感)がある彼らが発すると、そんなにくすぐったくなく聞こえる。でも、言葉そのものは凄くストレートだから、言葉がまっすぐスーッと入ってくる。たぶん僕がここで、映画の中で発せられたグッと来た言葉を、ただ文字にして書いただけだったら、「そんなクサいセリフにグッときたのかよ」と思われてしまうだろう。はっきり言って、そういうセリフばかりだ。でも、映像で観ると、全然スーッと入ってきてしまう。頭の片隅では「クサいセリフだな」と思っているくせに、「なんかすげぇいいな」って感じてる自分も自覚するっていう、不思議な経験でした。

なんか、自分が感じたこの映画の面白さをまだ全然伝えきれていない感じしかないけど、とにかく、メチャクチャ面白い映画でした。正直、同じ映画を複数回観ることはほぼないけど、この映画は、また観てもいいかもって思う。

「殺さない彼と死なない彼女」を観に行ってきました

凄い映画だった。
正直、まったく消化出来ていないし、この映画がなんなのかまったく捉えきれていないが、「なんか凄いものを観た」という、ビシバシ来る感覚だけは非常に鋭敏だ。

森達也というドキュメンタリー映画を撮る監督がいるが、彼がどこかで、こういう発言をしていた。

「ドキュメンタリーは、主観から逃れられない」

ドキュメンタリーというのは、目の前の事実を客観的に切り取るものだ、と思われている。しかし、そんなことは実際には不可能だ。何故なら、「何を撮るか」という選択、「何を撮らないか」という選択、「撮ったもののどこを使うか」という選択、「撮ったもののどこを使わないか」という選択に、どうしても主観が入り交じるからだ。例えるなら、有機野菜や手作りの塩など、自然のものから自ら作り出した材料で料理(作るものはなんでもいい)を作るとしよう。この場合、素材はすべて「自然」だが、出来上がった料理を「自然」と呼ぶ人間はまずいないだろう。同じように、素材はすべて「事実」だが、それらを組み合わせて生み出したドキュメンタリーは「事実」には収まらないし、それは、様々な選択によって主観が入り交じるからなのだ。

何故こんな話を書くか。それは、この映画を僕は「ドキュメンタリー」だと思って観に行ったからだ。

僕は、自分が観ようと思っている映画について、観る前に詳しい情報を調べることはしない。タイトルと、ざっとした短い紹介だけを読んで、他人の評価や星の数なんかを視界に入れずに映画を観に行く。この映画の説明を読んだ時点では、「なるほど、日雇い労働者が集まる西成を舞台にしたドキュメンタリーなんだろう」と判断した。

だから、映画を観始めてしばらく、混乱した。ん?僕は一体何を観せられているんだろう?と。なんとなく設定は、ドキュメンタリーっぽい。というか、「ドキュメンタリーを撮影するテレビマンたちを外側から撮っている」という設定で、観ようと思えば、制作側を記録したドキュメンタリーという風に見えなくもない作りではある。

しかし、明らかにドキュメンタリーではありえないようなシーンが登場する。例えば、この映画の冒頭は、UVNというテレビ制作会社(エンドロールを見る限り、実際に存在する会社みたい)が、ひきこもりの青年(というか中年)の取材をするというもので、ADが、母親と弟の取材の許可は取れたが、ひきこもりの当人の取材OKはまだもらえていない、とディレクターに伝えて怒られる場面から始まる。しかししばらくすると、そのひきこもりの中年の部屋の中からその当人を撮影した場面が映し出される。この時点で、そうか、この映画はフィクションなのか、とわかる(というか、僕が勝手にドキュメンタリーだと思い込んでいただけなので、「わかる」という表現は適切ではないかもしれないが)

しかしとはいえ、この映画は明らかに、「フィクションをノンフィクション的に撮ろうとする」という意図がある(と思う)。どの場面を見ても、「役者たちが、用意されたセリフを喋ってる感」みたいなものがない。口調も、声の出し方も、言葉のセレクトも、ドラマ感がない。ストーリーの展開上、言わなければいけないセリフとか、しなければいけない行動っていうのは決められていると思うけど、ここだけは譲れないというポイント以外は、その場その場で役者たちが自分の言葉で考えて喋ってるんじゃないか、というような雰囲気を凄く感じた。

さらにカメラのアングルが、意図的に隠し撮りっぽくしているように思う。もちろん、そうではないシーンもあるが、特に室内のシーンは、室内に設置した隠しカメラで撮りました、みたいな映像が凄く多いし、後でまた書くけど、西成に住む人たちを撮影している場面では、遠景から本当に隠し撮りしてるんじゃないか、と思わせるようなシーンもあった。

ストーリー的には明らかにフィクションなんだけど、撮り方的にはノンフィクションっぽく撮っている、という中に、さらに絡んでくる要素が、舞台である「西成」だ。

西成について詳しくない人のために書いておくと、以前はよく「釜ヶ崎」と呼ばれていた地域で、いわゆる「ドヤ街」と呼ばれる。日雇い労働者が集う町である。

そしてこの西成というのは、やたらめったらに近づいてはいけない区域としても有名だ。僕は大阪に行った際、この西成地区をうろうろ歩いてみたことがある。昼間だったし、恐らく昔よりは安全になっただろうから、僕自身は特別危険を感じはしなかったけど、ネットで調べると「近づいちゃいけない」という話はわんさか出てくるし、あるブログで、女性YouTuberが西成を歩いている際に公衆トイレに近づいたら、通りかかったオジサンに、「そこは覚醒剤の取引でよく使われる場所だから別のトイレに行った方がいい」と忠告された、なんて話もあった。僕もネットで、「すれ違う人と目を合わせてはいけない」という注意を読んだ記憶があったので、その忠告に従って西成を歩いた。

それぐらい「危険地帯」として有名な場所なのだ。

そんな西成を映画の舞台にしている、ということが、この映画の「ドキュメンタリー感」を格段に高めている。

僕は西成を歩いたことがあるんで、「このシーンはあの辺だな」となんとなく分かるシーンはいくつもあった(全部は分からないが)。だから、この映画は、実際に西成で撮っているのだ。この映画には、日雇い労働者と思しき人達がたくさん画面上に映る。恐らくではあるが、彼らは役者ではなく、実際に西成で生活している人たちなのだろうと思う。というか、はっきり言って、どこまでが役者で、どこまでが実際の生活者なのか、区別がつかない。主人公であるスヤマというADが人探しをしている時に話を聞いた飲食店の店員とか、同じADが一日解体の仕事をした時の仕事仲間とか、あれは役者だったのか、それとも本当の生活者だったのか。分からない。この映画では、「本当にそれをやっているとすれば犯罪」というシーンもある。これも、まあフィクションだろうし、その犯罪側の人間も、役者だろうと思う。ただ、この映画の雰囲気が、それを確定させない。この映画の、異様な設定やざわつきみたいなものが、「もしかしたら、あの犯罪の場面も、演技ではなく本当なのではないか?」と思わせてしまうのだ。それは、観客がこの映画の世界観に引きずり込まれている、ということだろうと思う。

「ドキュメンタリーなんだろうと思いこんで観に行ったが、実際にはフィクションで、しかしそのフィクションを明らかにドキュメンタリー風に撮ろうとしているし、西成という空間がそのドキュメンタリー感をさらに高めている。それ故に、フィクションであるはずの場面さえ、もしかしたらドキュメンタリーなのではないか、と思わせるだけの異様な強さを放つ」

これが、この映画が持つ常軌を逸した雰囲気であり、「僕は一体何を観せられているんだろう?」と最後の最後まで消化しきれない原因であり、観客がこの作品に引きずり込まれていく要因であると僕は感じた。

さて、ここまで文章を書いた時点で、この映画についてちょっと調べてみた。ざっと読んだ限りだが、面白い話がいくつか拾えた。

まず、この映画は2014年に完成していたが、大阪市からストップが掛かり、そのせいでしばらく上映が出来なかったという。脚本の段階でOKをもらっていて、脚本を大きく逸脱した場面はないのに、「西成を描いた部分はすべてカットしてくれ」と言われたんだという。そりゃあ、監督としては応じられないだろうな、と。元々大阪市から助成金が出ていたようだが、その辺りの話で折り合いがつかなかったので、最終的にもらっていた助成金は返還し、完全な自主制作映画になった、という。

また、ひきこもりの中年として登場する男性は、実際に心の病を抱えていたそうで、映画に出てくる母親も、実際の母親だそう。確かに、映画での名前と同じ名前がエンドロールで登場していたので、気になっていたのだけど、彼の描写に関してはドキュメンタリー的である、と言えるんだと思う。

冒頭で、「ドキュメンタリーは、主観から逃れられない」と書いた。しかしこの映画は、ドキュメンタリーでもないし、客観性を貫こうとしているわけでもない。そして、非常に逆説的だが、だからこそ、このフィクションは、非常にドキュメンタリー的なのだ、と感じる。

「ドキュメンタリー」には、虚構を組み込む余地がない。素材として、「事実」しか使えない。そしてその「事実」をどんな風に並べて見せても、その「並べ方」に主観が混じる。だから、「ドキュメンタリー」を目指そうとすればするほど、その「主観」部分が目立ってしまう。しかし「ドキュメンタリー的」には、当然だが、虚構はいくらでも組み込める。そして虚構を組み込めるからこそ、「事実」を並べる際の「主観」が目立たなくなる。それゆえ、「ドキュメンタリー的」は、本来「ドキュメンタリー」が目指している場所へとより近づける、ということになるのではないか。

みたいなことを、言語化して考えながら観ていたわけではないが、今こうして映画を振り返ってみると、そんな風なことを感じながら映画を観ていたように思う。

この映画は、「ドキュメンタリー的」だからこそ、底辺の生活をせざるを得ない人々を受け入れる西成という地域の現実や、メディアが果たすべき役割とそこからの逸脱、追い詰められた時の人間のやるせない振る舞いなど、「薄汚い」部分がより色濃く浮かび上がるように感じられる。

とまあ色々分析的なことを書いてはみたけど、とにかく、「凄かった」という感想に尽きる。なんか、凄かったよ、この映画。

「解放区」を観に行ってきました

全体的に、ちょっと僕には合わない作品でした。あまりにも耐えきれず、途中寝てしまったし。
ストーリーとしては、ゴッホの伝記的な感じなんだろうけど、どの時代のゴッホなのかは、ゴッホについて詳しくないので分かりません。ただ途中でポール・ゴーギャンが出てきて、黄色い部屋で一緒に生活しているシーンが出てくるんで、それぐらいの時代も含まれています。

ゴッホのついての基礎的な知識がある人が観たらどう感じるか分かりませんが、僕のような、ゴッホについてほとんど詳しいことを知らない人間には、どういう風にこの映画を見ればいいかちょっと分かりませんでした。人物について、あらゆる面を2時間で描き出せるわけがないから、この映画でも、「ゴッホ」という人物を、ある側面から切り取っているんだろうと思うんですが、その切り取る方向性みたいなものが僕にはイマイチ分かりませんでした。創作の苦しみなのか、周囲の人間との関わりなのか、あるいは他の何かなのか。ゴッホの生涯のどの部分に焦点が当たっているのかがわかりにくいなぁ、と思いました。

あと、この映画について非常に大きな疑問は、「何故か手ブレ感満載の映像」ということです。

通常手ブレ感満載の映画というのは、ドキュメンタリーでよくあります。手持ちカメラで、目の前で起こっていることを切り取っていくわけだから当然です。また、フィクションであっても、ドキュメンタリー風に見せたいとか、あるいは何か別の特別な理由があって、手ブレ感のある映像に仕上げることもあるでしょう。

しかしこの映画では、手ブレ感は必要ないんじゃないかと、僕は冒頭からずっと感じていました。手ブレ感のある映像は、「そこにカメラマンが存在する」ということを強く意識させるものですが、この映画では、そう演出する必然性が、僕にはまったく存在しないとしか思えなかったからです。あるシーンなど、走り出したゴッホと並走するようにカメラマンが走ってる感じで、画面がブレブレ、ほとんど何が映ってるんだか分からない、というような感じでした。そんな風に撮る必然性があったのか?

技術的に不可能なはずはないから、何らかの意図はあるんだろうと思います。もちろん、ゴッホその人の視点であることが明らかな場合に、特殊なエフェクトがなされるのは、理解できます。この映画では、ゴッホ視点の時に、下半分が刷りガラス風に曇ったり、色彩が他の場面より鮮やかだったりします。それは、意図は分かります。ただ、画面上にゴッホが映っている場面でも、平気で手ブレ感を出してくるんで、その意図がまったく分からないんですよね。あれはホント、何だったんだろう?

意図が分からないまま、手ブレの映像がかなり続くんで、映像的にしんどさを感じる人は結構いるかもしれません。

「永遠の門 ゴッホの見た未来」を観に行ってきました

同じ状況にいたら、自分だったらどうするだろう。やはり、そう考えてしまう。

母親と同じ立場だったら?子供に暴力を振るう夫を、殺すだろうか?難しい。

「人を殺すことはどんな状況であれ悪」という立場を、僕は取らない。「殺す」という選択によってしか、現実を変えられない状況はあり得るし、殺さなければ自分が殺される、という可能性だってあり得る。実際にするかどうかはともかく、「殺す」という選択肢は、誰しもが持っていて当然のものだ、と僕は考える(当然、逃げたりごまかしたりするのはダメで、法律で殺人が明確に制限されている以上、相応の罰は潔く受けなければいけないし、自分の「殺人」という行為によって生じた不利益に対しては、生涯償う覚悟は必要だ)

さて、「殺す」ということのマイナス要素もすべて受け入れ、対処する、という覚悟を持った上で、殺すのか殺さないのか、ということを検討してみるのだけど、やはりなかなか難しい問題だ。一つ確かなことは、僕は、自分の被害のために誰かを殺すことはないだろう、ということだ。あり得るとしたら、誰かを守るために殺す、という、この映画の母親と同じ状況の時だけだ。

となると、「殺す行為」が「守る行為」になるのか、という点に問題が集約される。

この映画でも、まさにここに焦点が当たる。

【親父が生きてる方が簡単だった。暴力に耐えてればいいんだもん】

複数の選択肢を同時に選べることももちろんあるが、「子供に暴力を耐えさせるか」か「夫を殺す」かは、どちらか一方しか選べない。子供の一人は、「暴力に耐える方が簡単だ」というが、厳密には、比較できるわけではないから判断は困難だ。暴力から解放されたからこそ、「暴力に耐える方が簡単だ」と言える、という側面は間違いなくある。

一方しか選べない、結局どちらかの道にしか進めない、というのは、決断を躊躇させる。「殺す」ことが、確実に「守る」ことになるのなら、きっと僕はそういう決断をするだろう。しかし、「暴力」は永遠ではないが、「殺人犯の子供というレッテル」は一生だ。その、永遠にも似た時間軸に、守るべき人を放り込むことが、「守る」ことになるのか。

難しい。

自分が、子供の立場だったら、母親を恨むだろうか?それとも、感謝するだろうか?これもまた難しい問いだ。

やはり、「殺人者の子供」というレッテルは、非常に重い。この重さは、「目に見えない」という部分も大きく関わってくる。

「暴力」というのは、視覚的に伝わりやすい。暴力を受けている場面や、暴力を受けた痕など、暴力というのは視覚的に伝わる。もちろん、隠そうと思えば隠せるが、暴力によって受けたダメージというのは、絶対に隠すという強い意志でもない限り、自ずと周囲に伝わるし、周囲も心配しやすい。

しかし、「殺人犯の子供」というレッテルは、視覚的ではない。視覚的ではないから、当人が辛さを感じていても、それが相手に伝わりにくい。また、視覚的でないからこそ、心配していることを当人に伝えにくい、という問題もある。暴力であれば、問答無用で心配できるが、殺人者の子供というレッテルを貼られているという状況は、当人がどの程度思い悩んでいるかを推測できないと、なかなか心配を伝えにくい。当人が想像以上に気にしていないかもしれないし、逆に、想像以上に気に病んでいるかもしれない。当人の受け止めの程度が分からなければ、心配の表明の度合いも計れないし、だからこそ、「扱いにくい」という雰囲気になってしまう。

一方、「暴力」は、肉体的な破滅をもたらす可能性がある、という点で危険だ。乳幼児への暴力や虐待で死んでしまうというニュースがよく流れるし、乳幼児でなくても、暴力によって重篤な怪我や障害を負う可能性もある。仮に失明したとすれば、「殺人者のレッテル」と同様、一生のしかかる困難さとなる。

果たしてどちらが良いのか。

一つ言えることは、「暴力の黙認」も「殺人の実行」も、母親の決断と受け取られる、ということだ。そして、同じ「決断」だとすれば、「暴力の黙認」は、子供からすれば残酷と言えるだろう。「未来に重きを置く」という判断基準もあるし、であれば、殺人という行為が誰かを守る行為になるのかを考えればいい。しかし、「子供への愛を伝える」という判断基準もある。その場合、「暴力の放置」よりは「殺人の実行」の方がより良い可能性もある。

そういうことを色々考えながら、映画を見ていた。

自分だったらどうするだろう?分からない。分からないけど、僕がいつも考えてしまうことは、「こういう決断をしたくないから、「家族」というものと関わりたくない」ということだ。「家族」という単位には、もちろん、喜びや楽しさがある、ということも分かっているつもりだ。しかし、「家族」だからこその苦しさや辛さもある。どっちに転ぶかは、正直、運次第だ。運良く、喜びの方に転ぶならいい。しかし、苦しさの方に転んだら、しんどい。そういうリスクは負いたくないなぁ、といつも考えてしまう。

【今、自分がしたことを疑ったら、私が謝ったら、子供たちが迷子になっちゃう】

自分の決断が、誰かの人生を左右する可能性がある。そんな場所に、僕はいたくない。そういう意味で、そこまでの覚悟を持って家族を作ったかどうかはともかく、家族という単位を守り、維持しているすべての人は、凄いなと思う。

内容に入ろうと思います。
15年前、稲村家の母であるこはるは、夫をタクシーで轢き殺した。三人の子供たちに、日常的に苛烈な暴力を振るうからだ。彼女は、父親を殺したと子供たちに伝え、これから自主すると告げた。そして、「15年経ったら必ず戻る」と言って、土砂降りの雨の中、警察署へと向かった。
15年後。子供たちはそれぞれの人生を歩んでいた。実家を出て東京で暮らす次男の雄二は、エロ本のライターをしながら小説家を目指している。長男の大樹と長女の園子は、実家のタクシー会社併設の家で暮らしている。大樹は勤め人となり、園子はスナックで働いている。雄二は、実家に寄り付かないばかりか、兄弟とも連絡をほとんど取らない。そして、パソコンに、実母の犯罪についてのルポ記事を保存している。自身の名前を売るために、母親の事件を踏み台にしようとしているのだ。
事件からちょうど15年後の夜、実家の入り口を叩く音がする。大樹と園子が不審がって見に行くと、そこに母親が立っていた。大樹は困惑を隠さないが、園子はすぐに母親を受け入れる。そして、雄二にも母親の帰還を知らせ、久しぶりに家族4人が実家に揃うこととなった…。
というような話です。

上述の設定をベースにして、じわじわと展開する物語が、重厚かつ考えさせられる内容で、見入ってしまいました。「母親が殺人者」という、決して日常にありふれた題材ではないにも関わらず、見ている人の心を掴む物語だと思います。それは、「家族のままならなさ」を描いているからだと思います。母親が殺人者かどうかはともかくとして、家庭内には、それぞれの家庭独自の問題が横たわっている。そしてそれらは、どれも、固有の困難さを持っている。その困難さを、母親が殺人者という特異な設定を持ってくることで包括的に描き出そうとしているという感じがするし、それは非常にうまくいっていると感じます。

こはると三兄弟の関係については冒頭であれこれ書いたつもりなので、それ以外のことを書きましょう。この映画では、稲村家の話にオーバーラップさせる形で、他の家族のことも描かれる。具体的に、誰のどんな家族なのか、ということはここでは触れないが、それぞれが、「稲村こはるが犯した殺人」と何らかの形で関わってくる。こはるの殺人行為がなければ防げたかもしれないこと、こはるの殺人行為を周囲の人間以上に肯定しようとする者、こはるの殺人行為が現実に与える悪影響など、様々なところで「こはるの殺人行為が中心」になる。どれも簡単に答えが出せる問題ではないが、やはり感じるのは、「殺人という行為が、直接・間接的に周囲に与えてしまう影響」についてだ。「殺人」というのは決して、加害者と被害者だけの問題ではない、ということが、改めて実感させられる。どんなものであっても、ある面からは正しくある面からは間違っている、ということはあり得るが、殺人ほどそれが顕著に現れるものもなかなかないだろう。

そのことは、こはるの扱われ方にもよく出ている。こはるは、殺人を犯した過去を持ちながら、周囲の人(タクシー会社の従業員など)はこはるを優しく迎え入れる。それは、こはるの夫の暴力があまりに苛烈であり、こはるの行為はやむを得ないものだった、という共通認識があるからだ。こはるの周囲にいる人間(三兄弟はともかく)は、こはるの殺人行為を、基本的には肯定し、受け入れている。

しかし当然のことながら、こはるのことを直接的に知らない人間からは、嫌がらせを受ける。どんな事情があれ殺人は許されない行為、という価値観を持つ人ももちろんいるだろうし、それは正しいことだと思う。しかし一方で、そもそもこはるが置かれていた状況をきちんと知ろうともせずに、雑誌やネットの情報だけからこはるを断罪しようとする者もいる。この映画では、そういう側面についてはあまり深く描かれないが、様々な場面から、タクシー会社や三兄弟が、世間からのそういう視線にさらされ続けてきた、ということが伝わる。

この両極端の状況が、三兄弟を難しい立場に置く。彼らの内面で渦巻く感情は非常に複雑だが、さらにそこに、「戻って来た母親は、周囲に優しく受け入れられている」という状況が加わることになる。周囲の母親に対する扱いが酷いものであれば、三兄弟も「気兼ねなく」母親に対する感情を出せるかもしれない。しかし、母親が周囲から受け入れられている、という状況があるだけに、ややこしくなる。母親は子供たちのために大きな決断をしたのに、その子供たちが母親を受け入れないとは、という見られ方をされてしまうことは必定だからだ。

そういう状況の中で、三兄弟は、自らの感情と、外的な要因とに翻弄されつつ、母親との関わりを模索していくことになる。

【これは母さんが、親父を殺してまでつくってくれた自由なんだよ】

あの場面で、あの人物がこういうことを言うか、という印象的なフレーズで、変な表現だが、その瞬間、色んなものを「許せる」ような気分になる。

【自分にとって特別なら、それでいい】

そうだな、と素直に思える言葉でした。

「ひとよ」を観に行ってきました

基本的に僕は、観ようとしている映画について、ほぼ情報を知らないまま観に行く。

冒頭からしばらくの間、僕はこの映画をフィクションだと思っていた。当然、フィクションだと思った。そう思った理由は後で書くが、5分ぐらい見て、あぁ、これはドキュメンタリーなのか、と分かった。

当然フィクションである、と感じた理由は、いくつかある。
まず、これは全編に渡ってであるが、基本的な状況説明がまったくなされない。どこで撮影しているのか、撮影している人物がどういう背景を持つのか。ドキュメンタリー映画というのは、その辺りの説明から入ることが多いように思う。しかしこの映画は、そういう始まり方をしない。だから僕は、「なるほど、ストーリーを描く過程で状況設定が少しずつ明かされていくのだろう」と、フィクションだと感じたのだ。

もうひとつは、カット割りがフィクションっぽかったからだ。というか、ドキュメンタリーのカット割りっぽくなかった。ドキュメンタリー映画というのは多くの場合、カメラ一台で撮っている。つまり、ある場面における切り取り方は一つしかない。カメラが一台で、役者に演技を繰り返させるわけではないのだから、当然だ。でもこの映画の場合、例えば「AさんとBさんが喋ってる場面」を撮ったシーンの後、「AさんとBさんのやり取りに笑い声を上げる少女たち」のシーンにすぐ切り替わったりする。カメラが一台しかなければ、ドキュメンタリーでこんなカット割りはできない。まあ、不可能ということはないけど。「笑い声を上げる少女たち」のシーンを別で撮影し、あたかも同じシーンであるかのように繋げればいい。しかしドキュメンタリー映画の作法として、そんな作り方が許容されるのか、という疑問は残る。

そんなわけで、冒頭から僕は「当然フィクションだ」と感じたのだが、ある瞬間に、あぁそうか、これはドキュメンタリーなのか、と気づいた。しかし、やはりカット割り的には、ドキュメンタリー映画っぽくない場面が多々あり、そこは僕の中で、違和感として残った。

状況設定は映画の最後までほぼなされないので、具体的なことはほぼ分からないが、映画鑑賞後にポスターを見たら、「イランの更生施設」と書かれていた。
映画の冒頭は、刑務所かと思った。少女が両手の指紋を取られており、外から鍵の掛かる「隔離区域」という名の部屋に入れられる。映画を観ていくと、何らかの犯罪を行った少女たちが連れてこられる場所だ、ということが分かる。恐らく、日本で言う「少年院」のような場所なのだろう。ただし、収容されているのは、全員少女である。
イランにおいては、男と女では得られる権利に大きな差がある。
彼女たちに、宗教家(だったと思う)が権利について教えに来る場面がある。そこで少女たちはその宗教家に様々な質問を繰り出す。
「男と女の命の重さはどうして違うんですか?」
「男親が子供を殺しても罪に問われないのは何故ですか?」
宗教家は、その問いに答えることが出来ない。

少女たちは、望んで罪を犯しているわけではない。どうしようもない境遇に置かれている中で、生き延びるために仕方なくした決断だったのだ。
娘に売春をさせた金でドラッグを買う父親。性的暴行を加えてくる叔父。父親は薬物依存症、母親はうつ病、自身もうつ病の薬を飲んでいる、という少女もいた。

父親を殺した少女も登場する。姉が父親を殺すことを提案し、母と彼女が同意した、と語る。この更生施設に、殺人を犯した者がどの程度収容されているのか分からないが、彼女の発言から、稀であることが分かる。彼女は、自分の置かれた境遇については、周りの少女たちと話をし、共感できるが、それでも、父親を殺したことは話しにくい、と語る。

彼女は、父親を殺さなければ自分が家を出ることになっていたし、そうなればドラッグに手を出していただろう、だから、ここにいる少女たちの気持ちはよく分かる、と言っていた。

収容施設から釈放される少女もいる。しかし、彼女たちの表情は決して明るくない。

ある少女は、監督から「釈放おめでとう」と声を掛けられると、「お悔やみを、よ」と返す。「酷い家族だから」「私を鎖で縛るかもね」と言う。

別の少女は、「ここを出て、また路上暮らしに戻るのかと思うと変になりそう」と涙を流す。この少女は、先の宗教家に、「生まれたのは私のせいですか?」と泣きながら訴えた。

収容施設側の対応も、多くはないが描かれる。その中で非常に印象的だった場面がある。

ある少女が釈放されることになった場面。そこで施設の職員の女性はこんなことを言う。

【ここの外のことは、私たちには責任はないの。たとえあなたが自殺してもね】

この発言を、どういうシチュエーションでしたのか、その背景まできちんとは分からない。文脈次第では、少女を励ますような発言だった、という可能性もある。しかし、やはりこの発言単体で見ると、少女側にあまりにも厳しいものに感じられる。

ある少女が、中盤ぐらいで、「将来の夢は?」と聞かれて「死ぬこと」と答える場面がある。同じ少女が別の場面で、まったく同じ質問に別の答えを返す。そういう、希望を感じさせる場面もあって、良かったと思う。

「少女は夜明けに夢をみる」を観に行ってきました

つい先日、「キューブリックに愛された男」という映画を観に行った。ひょんなことから、キューブリックの運転手に、そして雑用係になったイタリア人・エミリオの物語だ。
そっちを先に見ておいて良かったな、と思う。
「魅せられた男」の話が、あまりにハードだったから、逆に見ていたら、もしかすると、エミリオを「大したことない」を感じてしまったかもしれない。

【スタンリー(キューブリック)を理解しなければ、レオンがどれだけ苦労したか、理解できるはずがない】

劇中に登場するある映画関係者は、そう語った。

レオン自身は、こう言っている。

【僕は彼に仕え、彼は映画に仕えていた。】

レオン・ヴィターリ。「バリー・リンドン」で、キューブリック映画に抜擢された俳優であり、以後、すべてのキューブリック作品の制作において、24時間365日、ずっとキューブリックと共に仕事をし続けた男だ。

そう、彼は元々俳優だった。
「2001年宇宙の旅」を見て衝撃を受け、同じ監督だからと、「時計じかけのオレンジ」を観た。観終わってすぐ、彼は有人に、「この監督と仕事がしたい」と言ったという。「バリー・リンドン」での抜擢は、念願かなってのことだった。
レオンは、映画・演劇関係者の中で、役者として非常に評価が高かった。普通に俳優をやっていれば、もっと高い評価を得られただろうと、彼を知る者は口にする。彼はその当時、すべてが順調だった。しかし、「バリー・リンドン」の撮影があと数日で終わるという時、彼は思った。このまま終わってしまうのは、辛すぎる、と。そこで彼はキューブリックに、映画制作の技術的な部分に興味がある。裏方でもお茶くみでもなんでもいいからやらせてもらえないか、と言った。
そうやって彼は、キューブリックの右腕となった。
レオンについて語る多くの者は、その仕事ぶりを様々な言葉で表現する。それらに共通するのは、「献身」「狂気」という感覚である。
前述したエミリオは、キューブリックの生活全般のサポートをしていた男で、まったくとは言わないが、映画制作にはほとんど関わらなかった。レオンは、キューブリック組の映画制作のほぼすべてを担当した。
どんな仕事をしていたのか?
例えば、ある場面での照明の当て方を、毎晩キューブリックと検討し、それを照明監督にFAXした。普通これは、照明監督の仕事である。しかしキューブリックは、他人をほとんど信用しなかった。だからレオンがやる。
ワーナーとの交渉もレオンの仕事だ。キューブリックが、映画製作について、無茶なこと、前例のないこと、お金がかかること、そういうことを要求する。誰に?レオンにだ。レオンはそれを、ワーナーに伝える。ワーナーを説き伏せて、キューブリックのやりたい形で映画製作を行う。これは通常プロデューサーの仕事だろうが、レオンの仕事だった。
キューブリックは、各国ごとにまったく違う予告編を制作した。そのチェックもレオンの仕事。フィルムをどの国へ貸し出して、今どこにどういう状態で存在しているのかをすべて管理するのもレオンの仕事。俳優のオーディション用のビデオテープもすべてチェックし、演技指導もし、子役のケアもやり、映画の中のすべての効果音を音響監督と共に作成する。これらも全部、レオンの仕事だ。
大げさではなく、レオンは、24時間365日働いていた、という表現が正しい。毎日キューブリック邸に行く。そこで、14~16時間仕事をする。家に帰るが、仕事が終わるわけではない。そこから、色んな人に電話をし続けなければいけないのだ。

レオンの家族も、劇中に登場する。彼らは幼いながらに、父親は常に心ここにあらずである、と分かっていた。何か相談したいと思っていても、キューブリックのことを考えている。家族との時間は、あってないようなものだった。娘は、「それほどまで仕事に没頭出来る父を羨ましく思う」というようなことを語り、息子は、「あれほど働いたんだから、慎ましく生活するのに十分すぎるほどのお金はあってもいいはずだ」と語る。もちろん、本当は「寂しい」とか「構ってほしい」と思っていただろう。インタビューの中で、そういうことを言っていたかもしれない(映画で採用されなかっただけで)。しかし、彼らが父親について語る姿を見ていると、子供たちも妻も、「良い意味での諦め」みたいなものを抱いているように感じた。それは、「誇らしい仕事をしているんだからしょうがない」というような感じに、僕には見えた。レオンは、【全力でやります、と言ったなら、その通りにやらなければ意味がない】というようなことを語っていた。

【どれほど光栄だったか。彼と仕事が出来て。こんなに長い間】

レオンとキューブリックを知る多くの人物が、レオンのキューブリックに対する「献身」を「理解できない」という雰囲気で語る。もちろん、レオンの凄まじさは誰もが認めるところだ。しかし、なぜそんな働き方が出来るのか、自分にはとても無理だ、という風に、誰もが語る。

「キューブリックに愛された男」でも、本作でも、キューブリックその人の激烈さみたいなものは、そこまで描かれない。もちろん、「うわぁ、こんな人が周りにいたらしんどいだろうなぁ」と思う程度には観客にも大変さは伝わるが、しかし、誰もが「天才」と認め、誰もが彼が生み出した映画を絶賛する一方で、「あまりに完璧主義者」「多くの人が離れていった」と言われてしまうほどの苛烈さみたいなものは、両映画を見ているだけではわからない。しかし、キューブリックの周りにいた多くの人物が、同じように語っている姿を見て、間接的に理解はできる。

しかしその一方で、レオンの言っていることも分かるなぁ、という気がする。いや分かっている。これは僕が、「キューブリックの苛烈さ」をきちんと実感できていないからこその感覚なのだ。それは分かった上で、書いてみたいことがある。

「キューブリックに愛された男」の感想でも書いたが、僕は「天才」になりたいし、でもなれないことも分かっている。そういう中で、同時代に生きている「天才」と共に仕事が出来ることの悦びというのは、少しは理解できる気がする。もちろん、そのために、すべてを犠牲に出来るかと言われると難しいし、この映画に登場した多くの証言者たちもそういう気持ちなんだろうと思う。ただ、レオンの、【どれほど光栄だったか。彼と仕事が出来て。こんなに長い間】というセリフは、そうだよなぁ、光栄だよなぁ、という風に感じてしまう。

実際、レオンがいなければ、キューブリックは映画を完成させられなかったかもしれない。少なくとも、同じクオリティの映画は生み出せなかったかもしれない。レオンという人物が、あらゆる場面でキューブリックとの間に入ることで、キューブリックという天才の、天才であるが故の「マイナス部分」が、それでも緩和されていたはずだ。レオンがいなければ、キューブリックにどれほど天才的な才能・手腕があっても、彼の周りに人は残らなかったかもしれない。

キューブリックの死後、レオンには難しい仕事が残された。撮り終えたばかりの映画「アイズ・ワイド・シャット」を完成させなければならないのだ。ここに来て、レオンという存在は、非常に大きなものとなった。何故なら、キューブリックの映画制作のすべてを知っているのは、レオンしかいないのだ。そもそも、通常の映画制作においても、全行程をプロレベルで理解している人物というのはいない。分業制だから、当然だ。しかしレオンは、キューブリックからの超絶厳しい要求に応え続けている内に、映画制作の全行程において、プロレベルの知識と経験を身につけることになったのだ。その経験をフルに活かして、彼はキューブリックの遺作を、キューブリックが望んだ通りに完成させなければならなかった。

しかしそれは、簡単な仕事ではなかった。今までは、「キューブリックがこう言っている」と言えば、それがどんな無茶な要求でも受け入れるしかなかった。しかし、映画関係者たちは、レオンの存在を軽んじた。また、これまでキューブリックに散々な目に遭わされてきた者たちが、レオンへ不満をぶつけるようになっていく。レオンの、「キューブリックが望んだ通りにフィルムを完成させる」というこだわりは、時に、「難癖探しをしているだけ」と捉えられ、疎まれた。そんな環境の中、彼はキューブリックのために奔走した。その後、リマスター版の作成などにも精力的に関わっている。

現在(というのは、アメリカでの映画公開時かもしれないのでいつかは不明だが)ニューヨークでは、キューブリック展が開かれているという。しかしそこに、レオンの名はない。オフィシャルに、キューブリック展に関わってもいないという。招待もされなかったそうだ。普通なら、そんな扱いをする展覧会に対して、「あんな展示、クソだ」というような態度を取ってもおかしくはない。しかしレオンは、30回近くも、その展覧会の案内を買って出ているという。それももちろん、キューブリックのためだ。キューブリックが遺したものを、次世代に正確に伝えたい、という気持ちからだ。

「天才」は、それを支える人間なしには何も成し遂げられないということを、大人になってから少しずつ理解するようになったけど、キューブリックにとってレオンは、最高のパートナーだったと言えるだろう。

なんというのか、「羨ましいなぁ」という気持ちになる映画だった。

「キューブリックに魅せられた男」を観に行ってきました

これは面白い映画だったなぁ!
最初から最後まで、メチャクチャよく出来てた!
インド映画なんだけど、突然踊ったりしないから、そういう意味でも良かった。

とりあえず内容から。
アーカーシュは、白杖をつき、サングラスを掛け、周りの人の手助けを得つつ、腕の良いピアニストとして暮らしている。個人的にレッスンに行くなどして、レッスン料をもらっているのだ。ちょっと前にこの町へやってきて、NGOが与えてくれた障害者用の住居に住む彼のことを周囲も理解していて、周りともうまくやっている。
しかし実は彼、本当は目が見えるのだ!目を白濁したように見せるためにコンタクトレンズを入れ、他人の視線がないところでは周囲をちゃんと見て行動している。
ある日、若い女性が乗ったスクーターがアーカーシュのところへと突っ込んできた。怪我こそ無かったがお詫びをしたいという彼女と喫茶店に行き、話をすることに。ピアニストをしているというと、父親が経営するレストランのピアノで演奏することになった。彼の演奏は大好評で、初日からチップの最高記録を更新するほどだった。彼女はアーカーシュに徐々に惹かれ、二人は良い仲になっていく。
その店のお客さんで、かつて大人気を博したプラモード・シンハという俳優がいた。彼はアーカーシュに、結婚記念日に妻を驚かせたいから、サプライズで家にピアノを弾きにきてほしいと依頼する。
当日。プラモードの家を尋ねるアーカーシュだったが、ドアから出てきたのは奥さんのシミー。夫は出かけていると言って、アーカーシュを家に招き入れたが、彼が弾くピアノ越しに、なんとプラモードの死体が!もちろんアーカーシュは”気づく”わけにはいかない。トイレを借りると、なんとそこに、恐らくプラモードを殺したのだろう男の姿が。何も気づかないフリでピアノを引き続ける彼は、やっとプラモードの家から出て、そのまま警察署に足を運ぶのだが…。
というような話です。

とにかく、ストーリーがメチャクチャ良く出来てる。冒頭の、「ん?なんだこれ?」というシーンから、最後物語が閉じるまで、ホントに展開が予想できないし、普通に考えれば無茶苦茶な展開のはずなのに、それを納得させるだけの状況設定・世界観・登場人物をきちんと配している。「目が見えないはずの主人公が殺人事件を目撃してしまう」という風に、ひと言で映画の面白さを伝えられる絶妙な設定でありながら、そこからどう話が転がっていくのかまったく想像がつかないという展開の妙があって、非常に良く出来てるなと感じた。

主人公は、何度か絶体絶命のピンチを迎えるんだけど、それを、そんな風に脱するか!というような形で乗り越えていく。何を書いてもネタバレになりそうだからほとんど何も書けないんだけど、「手術」のシーンは、もう無理だろうなぁ、と思ったなぁ。まさかあれを、あんな感じで切り抜けることになるとは、予想外すぎた。

最後の最後も、「あぁ、きっとああなっちゃうんだろうなぁ」と思わせておいての、「なるほどそうきたか!」っていう感じが見事だったし、最後の見せ方も、「話せば長い」っていうアーカーシュのセリフから、なるほどこの映画はそこで語られたことなのね、というのが分かって納得感がある。

しかしやっぱり、この映画の白眉は、これも具体的には書けないんだけど、シミーがアーカーシュの家に来てあぁなっちゃった、っていう展開なんだよなぁ。まさかアーカーシュがあんなことになっちゃうなんて!というのが、この映画最大の凄さっていうか、面白さっていうかで、そこでアーカーシュは一旦最強の絶望を味わうわけなんだけど、そこからの大大大逆転劇みたいなのが、見どころだよなぁ、と。

という感じで、具体的なことはほぼ書けないぐらい、「アーカーシュが死体を見つけちゃってからの展開」は、そりゃあもう色んなことになります。「見えないはずなのに見えちゃってる」っていう、ある種ワンアイデアで突破しよう的な映画っぽくありつつも、一方で、絶妙な着地点を用意して、そこに至るまでの展開をしっかりと描き出していくという、まったくワンアイデアで逃げようとしてないところが素晴らしいと思いました。

具体的なことをほとんど書いてないんで、よく分からないでしょうけど、是非見てみてください。

「盲目のメロディ インド式殺人狂騒曲」

これは面白い映画だったなぁ。
やはり、「事実」っていうのは面白い。
僕は、スタンリー・キューブリック作品は、たぶん一作も観たことがないと思うんだけど(観たかどうか覚えていない程度に、関心がない)、それでも面白かった。

この映画のきっかけは、本作の監督がキューブリック邸の近くに住むようになったことだ。そこで、「キューブリックに仕えていたイタリア人がいる」という話を耳にする。ならばその男を探し出そうじゃないかと手を尽くして見つけたのが、エミリオ・ダレッサンドロという男だ。
映画の冒頭は、彼がどうしてキューブリックと共に働くことになったのか、というエピソードが語られる。まずこの話からして面白い。
エミリオは、自分の運を試すために、1966年、イタリアからロンドンにやってきた。ジャネットという女性と出会い、結婚。様々な職を渡り歩いた後、カーショップで働くことになった。F1レースの車に乗っている(もちろん整備のためだ)エミリオを見て、「あいつは誰だ?」と噂が広がり、あるチームがエミリオをドライバーとして採用した。すると初レースで3位に食い込むという大健闘だった。
しかし、レーサーでは家族は養えない。だからエミリオは、運転する仕事としてタクシー運転手を選んだ。
ある大雪の日のことだ。雇い主から、奇妙な仕事の依頼があった。あるオブジェを、ロンドンの反対側まで運んでほしい、というのだ。車体からはみ出るように入れるしかなかったそのオブジェを無事届けたエミリオ。誰が何のために使うのか分からなかったが、依頼主の情報が一つだけあった。「ホーク・フィルム」という会社名だ。実はこれ、キューブリックの映画会社だったのだ。
そんな縁でキューブリックの元で働き始めたエミリオは、次第にキューブリックから絶大なる信頼を得ることになる。家族と過ごす時間が無くなるくらいに。しかしエミリオは、キューブリックから雑用や無理難題をパーフェクトにこなし続け、キューブリックからの信頼は日増しに強くなっていく。
そんな、キューブリックとの関わりについて、主にエミリオ自身が過去を回想する形で語る、という映画です。

キューブリックからの信頼を象徴するこんな言葉がある。具体的に、どんな状況で発せられた言葉なのかは書かないが、なんとなく伝わるものがあるはずだと思う。

【新作?何もしてないよ。君が戻ってきたら、始めるつもりだ】

エミリオはキューブリックと一緒に働いている間、ほぼ彼の映画を観たことがなかったという。まあ、観る暇もなかった、というのが正解だろうが。大分後になって彼の映画を観て、彼が天才だということを知ったという。そんな天才から、「君が戻ってきたら、始めるつもりだ」なんて言われたら、そりゃあ痺れるだろう。しかもエミリオは、「映画監督・キューブリック」と知った上で一緒に仕事をする関係になったわけではない。そんなところも、キューブリックにとっては安心出来る要素だったんじゃないかと思う。

キューブリックは基本的に、エミリオへの仕事の指示を手紙でした。常にだったかは作中で触れられていなかったが、とにかく映画の中で、キューブリックの直筆の手紙が大量に紹介されている。もちろん、どんな仕事を依頼しているのかも。

これがまあ、毎日これか、と思ったらうんざりするようなものだ。猫の餌やりの方法から、向こう3年間安定的にロウソクを供給してくれる会社を探し出すことまで、とにかくありとあらゆる仕事がエミリオの元へとやってきた。エミリオは非常に優秀で(と彼自身がそう言っているわけではないが)、キューブリックが、こんな仕事までエミリオに頼むのか、と手紙を残していることからそれがわかる。ちゃんとした英語は覚えてないが、なにかの仕事の指示をする手紙の中で、「No one could do like you(誰もお前のようには出来ない)」みたいなことが書かれていて、エミリオの仕事に全幅の信頼を寄せていたことが分かる。

映画を観ながら、笑い声が上がる場面がいくつかあった。僕も、実際に笑った。それぐらい、キューブリックの生活、仕事の指示、映画撮影への情熱が常軌を逸していて、さらに、そんなぶっ飛んだ人間と関わることになった、実直で真面目なエミリオの対比が面白いからだ。

中でも、エミリオとキューブリックの別れのシーンは、何度か笑いが起きていた。なぜなら、キューブリックがあの手この手を使って、エミリオを引き留めようとするからだ。エミリオは、「家族が高齢だから、イタリアに帰って一緒に過ごしたい」と言ってるのに、それでも引き留めようとする根性というか、キューブリックにとっての重要さみたいなものが、ある種の滑稽さを伴って描かれる。とはいえ、それを語っているエミリオの目は潤んでいるので、滑稽さと共に哀切も響く。エミリオの語りと、当時の情景を写した写真でほぼ構成されている映画なのに、これほど面白く、これほど感動的な雰囲気をまとうのは、エミリオの語りから、エミリオとキューブリックの、言葉では表現できないほどの深い繋がりみたいなものを、誰しもが感じてしまうからだろう。

僕は今でも、「天才になりたい」と思うことはある。しかし一方で、もうそれは不可能だ、ということも、分かってはいる。そして、こういう映画を観ることで改めて感じることは、「天才にはサポートが不可欠だ」ということだ。世の中に「天才」と呼ばれる人は、歴史上の人物まで含めれば多々いるが、たった一人で偉業を成し遂げた人物など数えるほどしかいないだろう。であれば、天才のサポートをするプロフェッショナル、という方向性もあるな、と考えられるようになった。そういう意味で、この映画を観ながら、大変そうだけど、エミリオみたいな人生もアリだよなぁ、と思った。大変そうだけど(笑)

「キューブリックに愛された男」を観に行ってきました

全体的に「チープ感」がある映画だったけど、それも含めて面白かったなぁ。

まずは内容から。
主人公のナベオカは、東大を卒業しながら一度も就職したことがなく、アルバイトを転々として生活している。今は、無職だ。自分なりになんとかしないとという気持ちはあるが、積極的にどうこうする気力はない。そんな時、はじめて行った近くにある銭湯「松の湯」で、偶然高校時代の同級生であるソウジマと再会する。ソウジマは、ナベオカに気のある素振りを見せ、同窓会に誘う。同窓会では、高校時代目立たなかったヤツが起業家として成功している様を見せつけられ、居場所に困るナベオカだったが、そこでソウジマから、今働いてないなら銭湯で働けばいいじゃん、と提案される。そうすれば、会う機会も増えるし、と。
実際、銭湯で働くことになったナベオカ。同じタイミングで働き始めたマツモトと二人で、慣れない銭湯の仕事に精を出すが、ある日ナベオカは、銭湯の先輩従業員であるコデラさんが銭湯内で人を殺しているのを目撃してしまう。銭湯のオーナーであるアズマさんも一緒にいて、パニックになりながらも状況を整理すると、アズマさんは死体処理のために閉店後の銭湯を貸していて、コデラさんは殺し屋として日々忙しく飛び回っているという。行きがかり上、ナベオカは、死体処理後の清掃を担当することになるが…。
というような話です。

まず、設定がいいですね。確かに銭湯というのは、「血が飛んでも洗いやすい」「薪を燃やすのと一緒に死体処理が出来る」というわけで、人を殺すのにもってこいの舞台です。そこで夜な夜な死体処理が行われている…と言うと、ホラーチックな映画に思えるでしょうが、なかなかどうして、映画全体の雰囲気はほんわか、のんびりしてるんですね。確かに、ちょっと緊迫する場面もあるんだけど、そういう場面はむしろ稀で、人を殺してる場面も、死体処理後の掃除をしてる場面も、緊迫感はない。そもそも、ナベオカが、どういう心理なのか正確には読み取れないとはいえ、「死体処理後の清掃」という仕事に実にすんなり馴染んでしまう、という展開を見せる作品なので、ナベオカ視点で物語を追っている観客も、なし崩し的にこの世界観に慣れてしまう。

そしてこのナベオカの立ち居振る舞いが、「死体処理に関わってるのにふわっとしている」という映画全体の謎めいた雰囲気を作り出してるんですね。なかなか掴みどころのないキャラクターで、演技も上手いのか下手なのか判断しにくいというような感じなんだけど、独特の雰囲気を持ってる。なるほど、こういう感じの人間なら、こういう異常な状況にもすんなり馴染めちゃうかもなぁ、というような、妙な説得力がある。この主人公のキャラクターが、映画全体の妙な雰囲気を成立させてるなぁ、という感じがしました。

ストーリーは、「提示される情報が少ない」という理由もあるんだけど、なかなか先が読めないです。これを良しとするかどうかは見る人次第かなぁ。僕は悪くないと思うけど、ただ、「いきなりそうなる!?」っていうような唐突感を抱いてしまう部分もちょっとあったりして、全部を承服出来るかというとそうでもないなぁ、という感じはしました。

役者の演技は、演技についての良し悪しがちゃんと分かる人間では決してないけど、まあ下手かなぁ、という感じはしました。でもこの映画は、自主制作に限りなく近い商業映画だろうし、役者の演技をそこまで求めるのは酷だよなぁ、という感じはします。ただ一方で、まったく同じ脚本で、もっと有名な俳優が演じたら、やっぱりもっと面白くなるんだろうなぁ、と思ったりしました。ただ、有名な俳優を使うと、主人公のナベオカの雰囲気はなかなか出せないと思うんで、その辺りの良し悪しはあるかもしれません。おそらく観客が誰も知らないだろう、無名の、どんなな人物なのかまったく知られていない役者がナベオカという人物を演じたからこそこの雰囲気を出せたわけで、そういう意味では、役者の演技云々よりも、この映画全体の雰囲気のことを考えて、こういう無名の役者でやることがこの脚本には正解だった、ということになるのかもしれません。その辺りのことは、なかなか難しいですね。

個人的には、ナベオカが付き合うことになるソウジマさんが結構好きだなぁ。男的に、「あな感じで女子の方から来てくれるとかいいよね」みたいに思っちゃってるのかもだけど、なんか個人的に凄くいいなぁ、って感じがしました。あと、マツモトという役も、この俳優じゃないとなかなかハマらないだろうなぁ、という感じがあって、その個性的な存在感は良かったなと思います。

「絶対観た方が良いよ!」という感じで勧めることはないけど、個人的には好きな映画だし、こういうの好きそうだなぁ、と相手の趣味に合わせて勧めようかな、と思えるような映画でした。

「メランコリック」を観に行ってきました

「僕は、何を観たんだろう?」と考えさせられてしまった。
いや、むしろこうかもしれない。
「僕は、何を観せられたんだろう?」と。

例えば、ある人物の行動を、ランダムに切り取ってみる、ということを考える。
例えば、

2009年11月30日 15:20
2009年12月15日 3:01
2009年12月26日 18:06
2010年1月2日 11:11
2010年1月3日 23:42
2010年5月4日 13:55

さて、これをそのまま繋げてみたら、どうなるだろう?
人にもよるだろうが、「一貫性がないなぁ」「これは同じ人物の言動なのか?」と感じるかもしれない。

まあ、人間なんて、そんなものだ。ちょっと前に自分が言ったことを忘れてまったく別の主張をしたり、かつてした行動と矛盾する振る舞いをしてしまったりもする。まあ、それで普通だ。

しかし、「物語」として提示されるものの多くが、人間をそういう風には切り取らない。登場人物たちに様々な「きっかけ」を与え、言動が変化することの「納得感」みたいなものを受け手側に与える。そうでなければ、なかなか「物語」としてのまとまりを感じてもらえない。

一旦まとめよう。人間は普通、瞬間瞬間で切り取れば「矛盾だらけ」の生き物だが、しかし「物語」における「登場人物」の多くは、切り取る瞬間が丁寧に選ばれているために、「矛盾だらけ」という印象は排除され、「一貫した行動原理がある」ように描かれる。

さて、そうした前提の上でこの映画を評価してみることにすると、この映画は、「物語」でありながら、人間の本来的な「矛盾だらけ」という性質を、過剰にデフォルメして描き出すものなのではないか、と僕は感じた。

だから、はっきり言って、メインの三人の登場人物たちの行動原理は、「不可解」のひと言だ。彼らの中で、時間や価値観が連続しているようには、なかなか受け取れない。確かに、彼らには、彼らなりのきっかけや理由があるのだろう。それがまったく描かれていない、というわけではないが、この映画では、その繋がりがかなり希薄に描かれているように僕には感じられた。何故そんな行動をするのか、あるいは、何故その行動をしないのか、という説明を、きっと、彼ら自身も出来ない。いや、繰り返すが、人間というのは大体そういうものだ。しかし、「物語」の受け手である僕らは、無意識の内に、「物語の中の登場人物」、つまり「矛盾が排除された形で描かれる人物」としての了解を持ってしまうので、彼らの行動があまりに不可解に見える。

そしてこの物語では、その不可解さを、過剰にデフォルメしているように思うのだ。

そのデフォルメの仕方は、「楽しい」と「楽しい以外」という究極の二択、という形で描かれているように感じる。彼ら三人は、「楽しい」という感情をベースに動いている。そして、決定的に重要なのが、「楽しい以外の感情」の表出の仕方を、恐らく知らない、ということだ。この映画の中では、三人が馬鹿みたいに笑ったりはしゃいだりする場面はあるが、泣いたり苦しんだり悲しんだり哀れんだりというような、「楽しい以外の感情」の表出がほとんどない(まったくないわけではないが)。恐らく彼らには、そのやり方が分からないんだと思う。

で、「楽しい以外の感情」の表出が分からないことが、彼らをさらに歪ませる。つまり、どんなことも「楽しい」の中に組み込んでしまおうとするのだ。世間の価値基準からすれば、どうしたって「楽しい」には含められないようなことを、彼らは積極的に「楽しい」に入れ込んでいく。そして、一旦「楽しい」の中に入れてしまえば、世間の常識や未来に起こりうる結果など関係なしに、彼らは全力でその「楽しい」に興じることが出来るのだ。

この描き方は、なんとなく非常に現代的なものを感じさせる。今の時代を生きる人たちも、「楽しい」と「楽しい以外」の二極化が大きくて、「楽しい以外」を排除したいが故に、いろんなものを「楽しい」に突っ込んで、無理して楽しんでいるような印象がある。そんな現代性を入れ込みながら、彼らの不可解さが過剰にデフォルメされているように思う。

彼ら三人は物語の中で、数多くの犯罪行為を行う。それらは、露見しないのがおかしいくらいあからさまにやっているので、彼ら三人が警察に捕まらないという状況を、僕はある種のファンタジーと受け取った。現実的には、どこかの段階で、彼らは間違いなく捕まるはずだ。しかし、そうはならない。そういう意味での日常性を排除した、ある意味でファンタジックな世界観の中で、彼らの暴走がどこに行き着くのかを描き出すことで、そのことが、現代人の「なんでも楽しいに押し込めていく」という在り方の終着点を示唆しているように思えるのだ。

彼らの「楽しい」は、どんどんと無益で暴力的になっていく。彼ら自身が、彼らが作り上げた「楽しい」に縛られていく。自分達の「楽しい」から抜け出せなくなっていく。それは、当たり前なのだ。彼らの「楽しい」は、「楽しい以外」を無理やり「楽しい」で塗りつぶしていくようなものなのだから。「楽しい」以外の領域を無くしていくことなのだから。そんな風に「楽しい」に追い詰められていく彼らは、滑稽だ。

タロウは散々、「好きって何?」といろんな人に聞く。学校に一度も通ったことがないタロウには、学ぶことによってインストールされるはずの知識が備わっていないのだ。しかし、「好きって何?」と問われる者たちは、誰もそれに意味のある答えを返すことが出来ない。その沈黙はなんだか、『「好きって何?」が理解できたら幸せだよね』とでも言いたげで、結局のところこの物語は、誰も愛を掴むことが出来ていない、という悲劇なんだろうか、と思ったりする。

内容紹介は、ほとんど省略しよう。ストーリー展開は、あって無いようなものだ。ヤクザから奪った拳銃を持て余しつつ、暴力の衝動に身を任せながらクソみたいな日常を疾走する、エージとスギオとタロウの物語だ。

「タロウのバカ」を観に行ってきました

凄い映画だったなぁ。とにかく、最後の最後までザワザワさせられる感覚が続いたし、そもそも、冒頭から物語がどうなっていくんだかまったく想像出来なかった。途中から物語全体の設定が理解できるようになるんだけど、それがまた異次元の展開というか。とにかく、まだ映画を観ていないという方は、この感想を読まない方がいいと思います。この映画、まったく何の情報もないまま見に行く方が面白いと思うので(僕も、まったく何も知らない状態で観ました)

主人公は、空港の手荷物検査場で働くティーナという女性。決して良いとは言えない容姿で、表情にも乏しく、不快感さえ与えるような存在感であるが、彼女は手荷物検査場で非常に重宝されている。
それは、持ち込んではいけないものを所持している人間をあっさりと見極めるのだ。彼女は、羞恥心や罪悪感を匂いで嗅ぎ取れるのだ、と説明している。未成年が酒を持ち込んだり、ビジネスマンがポルノ動画を持ち込んだりするのを食い止めている。
ティーナは、中心部から離れた群島の辺りで、恋人のローランドと暮らしている。しかし恋人と言っても、相手はティーナの金が目当て。しかし、ティーナもそれが分かっていて、それでも誰かと一緒にいたい、と思ってしまうほどの孤独を抱えて生きている。
ある日ティーナは、手荷物検査場で、怪しげな男と出会う。ティーナの嗅覚が働く相手だったが、しかし、手荷物からは不審なものは何も発見できなかった。男はヴォーレと名乗り、会話の流れの中で自分の宿をティーナ伝えた。そしてティーナは彼に会いに行くのだ。
ヴォーレも、一般的には、他人に不快感を与えがちな存在だ。しかしティーナは、何故かヴォーレに惹かれるものを感じている。理由が分からないまま、ヴォーレとの関わりを深めていくティーナだが…。
というような話です。

もう一回書くけど、メチャクチャざわざわさせられる物語だった。とにかく、映画を観ていて、最初の1時間ぐらい、何がなんだかさっぱり分からない。いや、そんな奇妙奇天烈な物語が展開されるわけではない。しかし、ティーナとヴォーレの物語がどう繋がっていくのか、まったく理解できないのだ。ティーナが何故ヴォーレに惹かれたのか、という点がまったく不明なまま物語が進んでいって、それが映画全体に不穏な雰囲気をもたらしていると感じる。

そして何が凄いって、その理解できない映像の中で「キレイな描写」が少ない、ということだ。虫を食べるシーンがあったり、食事のくちゃくちゃした音が強調されていたり、主人公たちの外見(特にヴォーレ)が汚らしい感じにされていたりと、映像という観点から見て美しさがない。ストーリーや設定が理解できない上に、映像的にも美しくないという、「つかみ」という意味でまったくセオリーの逆を行くような映画でした。

それでも、(これは何かあるな…)という、「不穏さ見たさ」みたいな好奇心で、最初の1時間ぐらい見ていたと思います。

で、ティーナとヴォーレの2人の”秘密”が理解できてからもむちゃくちゃっていうか、むしろ分かってからの方がむちゃくちゃというか、そんな感じでした。

この”秘密”が分かったことで、ティーナが置かれている非常に複雑な立ち位置がようやく理解できることになります。この映画には「二つの世界」っていう副題がついてますけど、まさにティーナは、二つの世界の狭間にいる人物です。そして、とある事情から、彼女はどちらか一方の世界を選択せざるを得ない状況に陥ることになります。

これは相当にハードな選択です。ティーナの過去については、父親との会話の中でちょっと話に出るぐらいでそこまで詳しく描写されませんが、かなり苦労したんだろう、ということは推察されます。で、その苦労が、帳消しになる、とまで言わないけど、なるほどこのためだったのか!と思えるような状況がまず一方であるわけです。しかし同時に、これまで長い時間過ごしてきて、辛いこともしんどいこともたくさんあったけど、それでも愛着のある世界が一方にある。さぁ、どっちを選ぶ?という、なかなかハードな選択を迫られます。

そしてその葛藤の中で、「正しさとは何か」という問いが突きつけられます。ティーナの行動を、あるいはヴォーレの行動を、「正しい」か「正しくない」かという捉え方で理解するのは、ほぼ不可能ではあります。でも僕らは、社会という集団の中で生きる者として、どうしてもそういう判断をベースにした行動を取らざるを得ない。そしてそうなれば、ティーナが「正しい」、ヴォーレが「間違っている」とするしかありません。

でも、それは「社会」という、人類が合理的に生きていくために採用した集団を維持する必要があるからで、生来的に、本来的に、それが「正しい」判断なわけではない。もちろん僕らはもう、「社会」というものと切り離された生活というのを明確にイメージできないだろうから、生来的に、本来的に「正しい」と思ってしまうだろうけど、いやそんなことはないんだ、ということを強く訴えかけてくる作品だと感じました。

正直、観ていて”気持ちのいい作品ではない”ので、ちょっと人に勧めにくい作品ではあるんですけど、「当たり前ってなんだろう?」っていう、ありがちな問いだけど、普通に生きているとなかなか深堀りしにくい問いについて、かなり考えさせてくれる作品だと感じました。

「ボーダー 二つの世界」を観に行ってきました

内容に入ろうと思います。
本書は、まさにタイトルそのままの本です。
僕は別に編集者の仕事の経験はないので正確には判断できませんけど、確かに本書を読めば、編集者の仕事の大枠は捉えられるな、という感じはしました。

目次を全部挙げてみましょう。

01 編集者の仕事とは
02 企画を立てる
03 取材を行う
04 原稿の書き方
05 原稿整理と校正・校閲
06 デザインする
07 印刷する
08 著作権を知る
09 出版流通を知る
10 電子書籍の現状と未来

といった感じになります。
「編集者の仕事とは」「企画を立てる」といったスタートのところから、「取材を行う」「原稿の書き方」「原稿整理と校正・校閲」という中身を作る部分、「デザインする」「印刷する」という外側を作る部分と書いてくれているし、さらに「著作権を知る」で、出版における有名裁判も引き合いに出しながら説明してくれ、「出版流通を知る」で作った本がどう読者の手に届くのかも書いてくれ、さらには電子書籍についても触れてくれています。

もちろん、本書を一冊読めばすぐ実務が完璧に出来る、なんてことはありえません。というか、どんな業界であっても、そんなことが実現可能な本は存在しないでしょう。実際には、実務をこなさなければ身につかないものだと思いますけど、ただ、「こういう流れである」「こういう専門用語がある」「こういう部分に気をつけないとトラブルになったり非効率になったりする」という知識をあらかじめ持っておくことは、実務に携わる段階で非常に有利に働くんじゃないかな、と思います。

本の中身の作り方的な部分については、ちょっとした形で多少関わる経験もあったんでまったく分からないわけではないけど、ただ、「出版業界において、これが一定のルールとされている」というものをコンパクトにまとめてくれているので、非常に便利だと思います。また、デザインそのものは自分でやらないにせよ、デザイナーの人たちとのやり取りに際して、どういう部分は任せ、どういう部分は手綱をちゃんと握り、どういう部分の確認を重点的にしないといけないのか、みたいな話は、普通であれば実務をこなして失敗する中で学んでいくところでもあると思うんで、そういう部分についてもまとまって理解できるというのはいいなと思いました。

あと、著作権に関する部分は、非常に有益だと思います。著作権というのは、基本的に非常に広範な権利で、学ぼうと思ったらなかなかハードだと思いますけど、本書では、出版という点に関して抑えておくべき部分をまとめてくれているので、分かりやすかったです。

一冊の本・雑誌を作り上げるまでの苦労ってかなりのものなんだなぁ、と改めて思ったし、かなり細かな部分にまで考えを巡らせておかないといけないんだなということが理解できて良かったです。本書は、全部ではないにせよ、本やウェブメディア周りで仕事をしている「編集者・ライター以外の人」にも役立つ部分はあるんじゃないかな、と感じました。

編集の学校/文章の学校「エディターズ・ハンドブック 編集者・ライターのための必修基礎知識」

内容に入ろうと思います。
本書は、「note」というブログのようなサイトでバズり、書籍化されるに至った、なかなか珍しい形で出版された事件ノンフィクションです。
事件は2013年7月21日に起こった。山口県周南市・須金・金峰地区の郷集落は、わずか12人が暮らすばかりの限界集落だ。参院選挙の投票があった、ということ以外、いつもと変わらないはずの日だったが、その夜、民家で火災が発生。また翌日、火災が起こらなかった家でも死体が発見され、計5名の死亡が確認された。被害者は全員撲殺されていた。犯人の目星は早々につき、しばらくして林道沿いの道で機動隊員に発見されることになる。犯行を認めたため逮捕されたが、彼の自宅に「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」という貼り紙がされていたことが大きく取り沙汰された。ネット上では、「平成の八つ墓村」「平成の津山事件」と話題になった。
著者がこの事件に関わることになったきっかけは、些細なものだった。元々「霞っ子クラブ」という、女性4人で構成された裁判傍聴グループに所属しており、事件系のライターもしていたが、ある雑誌の編集者から、この事件について調べてほしい、と頼まれた。しかし大本の依頼は、「金峰地区における夜這いの風習」について調べてほしい、というものだった。この事件の犯人である保見光成に面会したジャーナリストによるインタビューに、夜這いの話が出てきているので、その裏を取ってほしい、というのだ。そんなきっかけから調査を始めることになった著者だったが、気になる情報も耳にしていた。
保見は、精神鑑定にかけられており、「妄想性障害」という診断が下されていた。そして裁判の中でも、「住民が自分に関するうわさ話をしていた」という保見の証言が、「妄想によるものという判断がされていたのだ。しかし実際、この地区に、保見の陰口のようなものがあった、という話を著者は耳にしていた。その辺りのことも確かめるべく、現場となった集落へと向かったのだ。
その集落は、異様だった。著者は、世間の感覚が通じない、と感じたという。「おかしい」「変だ」と感じる話を平然と口にし、さもなんでもないかのような振る舞いをする。元々保見は「光成」ではなく「中(ワタル)」という名前だったが、そのワタルに関する悪評以上に悪く言われる被害者がいたりもする。なんなんだこの村は…。奇妙な感覚を拭えないまま、足繁くこの集落へと足を運び、事件に首を突っ込み続けてしまっている著者。ある程度までまとまった取材原稿を賞に応募したが落選してしまうのだが…。
というような話です。

事件もののノンフィクションは、正直なところ、著者の力量とは関係のないところで作品の良し悪しが決まってしまう部分があって難しい。本書は、非常に面白そうな雰囲気を身にまとう本なのだけど、本書の中核中の中核である事件そのものに関する事態が進展しないので、どうしても面白みに欠けてしまう。本書の2/3ぐらいの部分を賞に応募したというが、確かにこれでは落選してしまうのは仕方ないだろう、と思う。

じゃあ、著者なりの視点で事件を切り取ればよかったかというと、それもなかなか難しいだろう。確かに著者は、裁判では「妄想」で片付けられている「住民によるうわさ話」に着目し、それが実際にあった、ということを確認している。確かにそれは、事件を新しい角度から捉えるものではあるのだけど、ちょっと弱いな、と感じてしまった。じゃあ、他の切り取り方が出来るかというと、相当に難しい。そもそもこの集落は、事件当時でさえ12人しか住んでおらず、事件後は当然さらに減った。その周辺の住民に輪を広げてみても、大して状況は変わらない。つまり、直接的に話を聞ける人が限られているのだ。取材で突撃したけど断られた、とかではない。そもそも、聞くべき話を持っている可能性がある人物が、異様に少ないのだ。

また、犯人である保見も話が通じない。当然著者は、被告に会いに行くわけだが、まともに会話が成立することはない。「妄想性障害」と診断されており、さらに拘置所内で症状が悪化しているようで、保見自身から事件についての話を聞くことは困難だ。

著者はあとがきにこんなことを書いている。

【いま、普通の”事件ノンフィクション”には、一種の定型が出来上がってしまったように感じている】

そして著者も、当初はその鋳型にはまるように取材をしていた、と語っている。著者は、「うわさ話」というものを真ん中に据えることで、「定型」から抜け出そうとしたのだろうけど、正直、そこまでうまく行っているとは感じられなかった。そして恐らく「定型」にはめようとしてもなかなかうまくいかなかっただろう。

つまり本書の場合は、「この事件を取り上げると決めた時点で、相当の困難を覚悟しなければならないし、著者はその難関を上手く超えられなかった」と評価するのが適切ではないか、と僕は感じている。

もちろん、こういう事件であっても、何らかの想定していなかったような展開によって、とんでもない事実や想像していなかった真相なんかがひょっこり顔を出すことはある。しかし、そうそうそんな幸運は転がっていない。本書も、どこかのタイミングでそんな幸運が転がり込んでいれば、もっと見事な作品に仕上がっていただろう。確かに、知られざる真実を掘り出す能力みたいなものは個々人で差はあるだろうが、とはいえ、外的要因に運任せにするしかない、という状況が多くなりがちなのが事件ノンフィクションだろう。著者は、なかなか奮闘したと思うが、運を味方にはつけられなかった。

本書は、賞に応募した原稿を6編に分け、うち4編を有料にして「note」に連載した。当初はまったく反応がなかったが、今年の3月に影響力のある人物が紹介したことでバズり、その半年後に書籍化、という流れになっている。邪推だが、「ネットで話題になっている今この瞬間に出さないと」という編集者の気持ちはあっただろうし、だからこそ、「note」でバズってから半年で出版という、いくら2/3ほど原稿が出来上がっていたとはいえ、追加取材もある中で、事件ノンフィクションとしてはかなりスピーディーな出版になったのだと思う。確かに、話題になっている内に出版したことで、本書は、一般的な事件ノンフィクションよりは売れているのではないかと思う。しかし、本の出来という意味では、もう少し練り込めたんじゃないかなぁ、という気もしないではない。出版のタイミングは重要だと思うので、スピーディーな出版が悪いと思っているわけではないけど、もう少し違う可能性もあったかな、という気はしている。

高橋ユキ「つけびの村 噂が5人を殺したのか?」

「悪」というのは個人の問題ではないと、いつも感じる。
ニュースで何か事件が報じられる。確かに、最終的な犯罪行為を犯した者は悪い。罰せられるべきだろう。しかし、その人だけが悪いのか、というと、決してそうではない。そこに至るまでの過程が必ずある。しかし、その過程は、なかなか見えない。何故なら、「悪」として顕在化するまで世間はその人に関心を持たないし、「悪」として顕在化すれば、それ以降「悪」のフィルターを通じてしかその人のことを見ないからだ。

「善」は単独でも存在しうるが、「悪」は単独では存在できないと思う。「善」は、「善」を生み出す環境が周囲になくても生まれうるが、「悪」は、「悪」を生み出す環境が周囲に無ければ、そうそう生まれないだろう。例外はあるだろうが、「悪」は環境依存型だ、と思う。

誰だってきっと、「余裕」があれば他人に優しく出来るはずだ。他人に優しく出来ないのは、どこか余裕がないからだ。この映画では、主人公と対比させるものの一つとして「富裕層」が描かれる。確かに、お金を持っていること、というのは、「余裕」のあるなしを論じる上で分かりやすい。分かりやすいからこそ、お金があれば「余裕」もある、と結論づけたくなるし、だから非難したくもなる。しかしきっとそうではない。仮にお金があったって、何か別の部分で「余裕」が失われていれば、誰かに優しくできなくなってしまう。

少しだけ、「余裕」がない。その積み重ねが、「悪」を生み出す環境になり、誰かを「悪」
へと染め上げていく。繰り返すが、「悪」をもたらす人間は悪いし、断罪されるべきだ。しかしその人はきっと、その環境にいなければ「悪」をもたらさなかっただろうし、僕がその環境にいたら、自分こそが「悪」をもたらす人であったかもしれない。

そういうことを、いつも考えてしまう。

時々、SNSにアホみたいな写真を載せて、アルバイトをクビになる若者が出てくる。それを見て、「今の時代の若者は…」と思ってしまう気持ちは分かる。しかし一方で、SNSが当たり前に存在している時代に学生をやっていたら?と考える。僕の学生時代は、SNSが大きく流行る直前ぐらいだった(当時一番人気だったのは、恐らくmixiだったはず)。自分の学生時代にSNSが当たり前に存在していれば、彼らと同じような愚行をしていたかもしれない。少なくとも、「絶対にしなかった」とは言い切れない。そして、SNSでバイトをクビになる若者だって、同時代にSNSが当たり前に存在しているんでなければ、あんなアホみたいなことをしなかっただろう。

「悪」は、気づかぬ場所で凝縮して、時々僕らの目の前に現れる。それは、結果だけ見れば、個人の中で凝縮するし、社会はその責任を個人に負わせる。しかし、その「悪」を生み出す環境は、僕ら全員が少しずつ寄与しながら作り上げているものだ。そのことを忘れてはいけない。もし、自分のすぐ近くで「悪」が生み出されたとすれば、自分の寄与がどういうものだったのか、冷静に分析しなければならない。

個人を断罪したところで、「悪」は消えない。「悪」は環境に偏在するものだから。

内容に入ろうと思います。
アーサーは、ピエロメイクの大道芸人を派遣する会社に所属して生計を立てつつ、年老いた母親の世話を一人で見ている。母親は、今度市長選に出馬するかもしれないという街の大物に手紙を出しているのに帰ってこないと嘆いている。30年前、その人物の屋敷で働いていたことがあるから、自分達の窮状を知れば必ず助けてくれるはずだ、と信じているのだ。
アーサーは、時に少年たちにからかわれてボコボコにされながら、ピエロの仕事に誇りを持っている。実はコメディアンを目指している彼は、人を笑顔にすることを無償の悦びとしているのだ。しかし、現実は厳しい。彼は、脳と神経の障害によって、突発的に笑ってしまうという障害を持っており、そのこともあってなかなか真っ当な人間関係を築けないでいる。心優しく、常に誰かを笑わせたいと願っているアーサーは、しかし、都会の片隅で邪険に扱われる日々を送っている。
彼は日々、必死に真面目に努力し、この生活から抜け出そうとしているのだけど、同僚の”余計な親切”がきっかけとなって、大好きなピエロの仕事が続けられなくなってしまう。その夜、帰り道、彼は一線を踏み越えてしまうが…。
というような話です。

僕はそもそも大前提となる知識を持たずに映画を観に行ったんですけど、この「ジョーカー」っていうのは、「バットマン」っていうアメコミに出てくる人気のあるダークヒーローで、この映画は、「ジョーカー誕生秘話」という性格のものだったようです。全然知りませんでした。この映画は、予想に反して大きな反響を呼び起こすことになったとよく聞くけど、そもそもベースとして、そういう人気シリーズのキャラクターを描いている、というベースがあったんですね。なるほどです。

この映画はとにかく、「凄かった」としか表現しようがないな、と思います。普通は「面白かった」「つまらなかった」「泣ける」「ドキドキした」みたいな評価が先にきて、その跡で「凄かった」みたいな表現が来るんだろうけど、この映画は、とにかく「凄かった」な、と。

さっきも書いたように、僕はこの映画が、「悪役として非常に有名なジョーカーというキャラクターが、ジョーカーになる前を描いている」という大前提を知らなかったんで、とにかくいろんなことがよくわからないまま進みます。
一つ、僕が最後までうまく捉えられなかったのが、彼らが置かれている街の現状です。

冒頭、ラジオ(orテレビ)で、「毎日1万トンのゴミが街に放置されている」「スーパーラットが大量発生」「市民の不満が募っている」というような、彼らがいるゴッサムという街の現状が語られます。でそれからも、とにかく街全体が殺伐とした感じになっている。

少なくともこの映画だけ見ていると、ゴッサムという街がどうしてそういう状況にあるのか、ということは、全然語られないように思います。これは、「バットマン」シリーズを知っている人であれば当然の情報なのかもしれないし、あるいは敢えて描かなかったということなのかもしれないけど、とにかく街には不平不満が充満していて、ちょっとしたことで暴動が起きかねないような、そんな雰囲気の中に彼らはいます。

そういう中にあって、アーサーは、必死に真っ当に生きようとする。彼は、唐突に笑ってしまうという発作が起こるので、特に初対面の人には不気味さを与えてしまうのだけど、彼自身は別に、誰かに危害を加えるつもりもなければ、むしろ、有効的に相手を笑わせて、それによって自分の存在価値・存在意義みたいなものが感じられたら素晴らしい、と考えている。しかし、彼のその望みはなかなか叶わない。市のケースワーカー(みたいな人)に、「自分は存在していないような気がする」という悩みをいつも話すものの、ケースワーカーが自分の話をちゃんと聞いてくれている感じもしない。きっと彼には、要領よく生きている人間は恵まれ、真面目だけど要領の悪い人間は損をする、というような不公平さみたいなものを感じていただろうと思う。

しかしそれでも彼は、孤独に絶望しながらも、真っ当さを自ら手放そうとはしないのだ。

きっかけは、本当にちょっとしたことで、しかしそれが彼の考えを大きく変えてしまうことになる。ここからの展開は具体的には書かないけど、彼の行動が、街の雰囲気を変え、その変化が次第に彼を生まれ変わらせていく。それまで自分が受けてきた仕打ち、我慢してきたことが、一気に凝縮して噴き出すようにして、彼は狂気へと突き進んでいくことになる。

映画を観ていて感じたことは、失うものがない人間は「悪」を躊躇しない、ということだ。

以前テレビで、刑務所の受刑者たちに盲導犬の訓練をさせるというドキュメンタリーを観た。日本ではなく、どこか海外だ。彼らは、相棒のように正面から関わらなければ盲導犬として一人前に育てることが出来ない子犬と関わることで変わっていく。それは、「失うもの」が出来た、ということなのだと思う。

アーサーにとって失いたくないものは、母親だった。彼にとって母親というのは、大きな意味を持つものだ(理由がはっきり描かれているようには思えないけど、彼の態度からそれが分かる)。しかし、とあるきっかけから、アーサーの中で大きな変化が生まれる。そしてそのことで彼は、「悪」への躊躇を無くしたのだろう、と感じた。

あまり詳しくは触れないが、アーサーは妄想癖もあるようで、実際に最後まで映画を観ていても、「これは現実だったのか、あるいは妄想だったのか」と確証の持てない場面もある。現実と妄想がシームレスに描かれていて、そういう演出も、観ていてドキドキさせられる部分だ。

「善悪の判断は主観でしかない」というような訴えをする場面があって、それは確かにその通りだなと感じさせられたし、いつだって自分が「悪」側に踏み出しうるということを改めて実感させられる映画でもありました。

「ジョーカー」を観に行ってきました

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