黒夜行 2007年04月 (original) (raw)

誰かに何かを伝えるために必要なものってなんなんだろうか。
僕はずっと、「力」だと思っていた。どんな形のものでもいい。権力や立場や、容姿や人気や、金や実績でも、とにかくどんなものでもいい、「力」のあるものの意見が通るし、「力」がなければ伝わるものも伝わらないのだ、と。
実際世の中は、「力」のある人間の意見によって支配されている。何らかの形で発言力を持った一部の人間が、その発言力をフルに活用して自分の意見を通そうとするそのあり方で、世界というのは動いているものだ。
だから僕は、「力」さえあればどんな意見でも通るものだろう、と思っていたし、「力」がなければどんな意見も通らないとまあそんな風に思っていたのだ。
しかし、最近違うかもしれないな、という風にも思う。
「力」を持った人間の意見は確かに通りやすい。しかし、自分の望んだ意見が通るのかといえば、それは違うのかもしれないと思うようになった。
「力」を持った人間が通すことの出来る意見は、自分が望んだ意見ではなく、あの人はこう望んでいるのだろう、と周りが考えた意見なのだ、ということだ。恐らく「力」を持つということは、そういうことなのだろうな、と思うのだ。
僕は昔から、お金持ちにはなりたくないな、と思っていた。それだけではなく、偉い人にもなりたくないし、権力だとか地位だとかも全然いらないな、と思っていたのである。それをきちんと言葉で説明できてこなかったのだけど、恐らく昔から悟っていたのだろう。「力」を持つことは、自分の意見を引っ込めなくてはいけない人生である、ということに。
最近読んだ本に、高田純次の「適当論」という新書があるが、その中で高田純次はこんな風なことを書いていた。中華料理屋に言って、その時餃子が食べたくても、なんとなくメニューの中で一番高い物を頼まなくてはいけない雰囲気になったりする、と。
結局そういうことなんだろうな、と思うのだ。自分の意見を引っ込めてまで、「力」を持っている自分というものを優先させなくてはいけない。その生き方を肯定できる人間は恐らく世の中にはたくさんいるのだろうけど、少なくとも僕には無理だと思う。窮屈すぎると思うのだ。
容姿がいい、というのも恐らく似たようなものだろうな、と思うのだ。僕は生まれてこの方かっこいいとかなんとか言われたことのない人間なのでまあよくわからないが、かっこいい人間にも相応の悩みがあると思うのだ。それはきっと、自分の意見が通らないということに関係する悩みであるような気がするのだ。かっこいいということがフィルターになって、思っていること、伝えたいことが伝わらないということはきっと多いだろうと思うのだ。
それは綺麗な女性でも同じことが言えるだろう。誰でも綺麗な女性に憧れるものだろうが、しかしそれにも相応の悩みがある。綺麗であるという壁が、言葉を遮断するのである。
朝起きてみたら超美男子に生まれ変わっていたとしたら、それはまあ人生が変わるだろう。たぶんいろんなことがうまく言って人生がより楽しくなるかもしれないとは思う。しかしそれと同時に失わなくてはならないものも多いはずだ。超美男子に生まれ変わることで誰にも理解されなくなってしまうのならば、まあ今のままでいいかな、という風にも思わないでもない。
今の世の中、容姿が「力」であることは間違いないし、容姿がいいことが人生において有利であることもまず間違いないと思う。それでも僕は、度を超えた美男子にはなりたくないものだな、という風に思ったりする。まあなれるわけがないのでそんな心配はしなくていいのだけどね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
俺は売れない漫画家だ。漫画家と言っても、雑誌の連載を持っているわけでも、コミケで同人誌を売っているわけでもない。自費出版で作った漫画をストリートで売っているのだ。ほとんど売れないのだけど。これまでに買ってくれたのは、自称ゲロ子という、非常に不細工な女だけである。
もちろんそれだけでは生計が成り立たないので、コンビニの深夜アルバイトをしている。しかしもう30歳を超えているのだ。漫画への情熱は変わらずあるのだけど、商業誌との相性が悪い。なかなか採用されないのだ。
まあそんないつもと変わらぬ日常だったはずの俺の人生は、ある朝とんでもない形でひっくり返る。
朝起きたら、超美男子に変身していたのだ。
それからの俺の人生は、まるでジェットコースターの如く変遷していった。ストリートで売っている漫画が一気に捌け、商業誌での連載もスタート、一躍人気漫画家への階段を駆け上がり、生活は一変。すべてが順風満帆で人生絶好調…。
…のはずだったのだけど、なんだろう、あれほど漫画へ情熱を傾けていたはずの俺は、一体どこへ行ってしまったのだろう…。
というような話です。
嶽本野ばらの作品は、こういう感じの作品が多い気がします。ストリートで自分の信念を持ってある活動をしていたのだけど、何かのきっかけでそれがブレイクし時の人になる。有名になったはいいけども、どうにも初めの自分の信念は踏みにじられているような気がして…。
というような話ですね。
ま嶽本野ばらのパターンなんでしょうが、不思議と作品毎に特色があって、まあ似たようなパターンの作品を読んでも、そこそこ飽きないように工夫されています。
本作もそのよくあるパターンの作品ですが、朝起きたら美男子になっていた、というカフカの「変身」ばりの設定の妙と、美男子になったのだから少女漫画的に一気にサクセスだぜ!…というわけでもなくいろんな屈折があったりで、なかなか面白い作品にまとまっているかな、という感じです。
本作を読んで、本当に伝えたいことというのは伝わらないのだろうな、と改めて思いました。それも、不特定多数の顔の見えない誰かに向かって何かを伝えるというのはほとんど不可能なんだろうな、ということです。
本作の主人公も、情熱と信念を持って、全員には伝わらないだろうけどきっと伝わる人はいるはずだと信じて漫画を書き続けるのだけど、結局彼の想いは一人を除いて誰にも伝わらないわけで、まあそんなもんだろうな、という感じがします。
日本という国に特有なのかどうなのかわからないけど、とにかく一時のブームに流される人間が多すぎて、それがいろんなものをメチャメチャにしていくような気がします。韓国ドラマがいいとなればブームになり、mixiがいいとなればブームになり、「白夜行」のドラマがブームになったりするわけです。別に韓国ドラマやmixiや「白夜行」がダメだと言いたいわけではありません。でもそうやって何でもかんでもブームにしてしまうことで、本当に大切なもの、本当に伝えたいことがどんどんと消えてしまって、万人受けするようなメッセージ性のないありふれたものが世の中にどんどんと積もっていくような気がして、そういうのは厭だよなとか思ったりします。
僕だって書店員として売上を伸ばさなくてはいけないわけで、ブームに乗っかって売れる本を売り場に置いたりするわけで、まあ同罪なのかもしれないけど、でも本当はブームに乗っかる人間を相手にしたくないなぁ、なんていう傲慢な考えがあったりとかします。
でも芸術を含めてありとあらゆるものは、基本的に経済活動の元に成り立っているわけで、売れなければどうしようもないわけです。内容がいいとか思想が素晴らしいとか、どれだけ他にアピールポイントがあっても、売れなければどうしようもないわけです。それも同時に分かっているからこそ、こそばゆいというか歯がゆいというか、そんな気持ちになってしまうのだろうな、と思ったりします。
話を変えて、本作の中で主人公が、美男子になったために何人かの女性と付き合うようになるのだけど、でも悉く失敗に終わるわけです。その理由を読んでいると、やっぱ恋愛ってめんどくさいよなぁ、とか思ってしまったりします。
なんというか、何かしてもダメだし、何もしなくてもダメだし、じゃあどうすればいいわけ、みたいな感じになりますね。僕としては、本作の中で主人公にあれこれと文句をいう女性よりも、主人公の意見に賛成してしまうような人間なので、恋愛ってやっぱ難しいのだろうな、と思います。百年の恋も冷めるような、という形容がありますが、恋愛というのは本当に幻想に幻想を重ねた上で成り立っていて、いつ崩れてもおかしくない書割りなのだろうな、と思ったりしてしまいます。女性って、やっぱ恐いですね。
嶽本野ばらの作品にほとんどと言って出てくる洋服の話ですが、今回はそれがかなり抑えられていて(いつもは洋服の話がメインだったりするけど、今回はそんなことはない)、正直ファッションに疎い僕としてはよかったな、と思います。いつも横文字のブランド名が出てきてうんざりしていた人(がいるかどうか分からないけど)も、本作は割といいかもしれません。とにかくさくっと読めるエンターテイメントで、まあ軽く読むには面白いと思います。としまえんにも行ってみたくなりましたしね。

嶽本野ばら「変身」

ギャンブルに面白さというものが、僕には全然わからない。
まあ僕が知っているギャンブルと言えば、麻雀をほんの少しだけやったことがあるという程度のものであるが、きっと僕には向かないだろうなぁ、と思った。友人には、「お前はちゃんとやれば強くなる」とかなんとか言われるのだけど(僕は割とそういうことを言われる傾向があって、将棋や麻雀はちゃんとやれば絶対強くなると言われるのだけど、しかし恐らくそんなことはないだろう。買いかぶりすぎである)、まあそもそも麻雀そのものというよりも、お金を掛けて何かをするということにそこまで燃えないのである。
というので思い出したが、そういえば高校生の頃、トランプの「大富豪」というのが周囲で流行っていた。休み時間になれば、誰かがどこからともなくトランプを出してきては、大富豪が開催されるのである。一応小金を掛けてやっていたので、あれも一種のギャンブルだったのだろうけど、当時の僕としてはお金を掛けていることよりも、大富豪というゲームそのものが面白かったわけで、だから正確にはギャンブルにはまっていたわけではない、と僕は主張したい。
友人にも何人か、そこそこギャンブルにはまっている人間というのがいる。麻雀というのは、何故か大学生にもなるといつの間にか誰もがルールを覚えるようになるものなのだが(不思議なものだ。麻雀と言えば、伊坂幸太郎の「砂漠」を思い出す)、まあ中には競馬に傾倒する人間もいれば、パチンコに傾倒する人間もいる。僕からすれば、一体何がきっかけでそういったギャンブルにはまるのか理解が出来ないのだが、まあ少なくない数のギャンブラーというのがやはりいるものである。
ギャンブルと言ってすぐにイメージ出来るのが、コミックの「カイジ」である。絵は無茶苦茶下手なのに内容は無茶苦茶面白いので一時期読み耽っていたのだが、あれもギャンブルをテーマにした漫画であった。
その「カイジ」の一番初めの話に、「限定じゃんけん」というギャンブルがあった。これは、グー・チョキ・パーのカードを各4枚ずつ計12枚(確か)を渡され、それを使って会場内にいる人間とじゃんけんをする。参加者は皆星を三つ渡され、じゃんけんに勝てばその星を相手からもらえる、というルールだ。星を一定数集めることが出来れば抜けることが出来るが、手持ちのカードをなくさなくてはいけない、というようなルールだったと思う。
非常に単純なルールであるのだが、これが非常に奥の深いギャンブルで、その展開には目を見張ったものである。よくもまあこんなことを考えるものだと呆れながらも感心して読んでいたのであるが、やはり僕の場合、それがギャンブルであるということは特に問題ないな、と思うのだ。つまり、その「限定じゃんけん」というものが「カイジ」という漫画の中ではギャンブルとして扱われていて、何かを賭けることで成立しているのであるが、しかし僕は、それが何かを賭けるわけではないただのゲームであっても面白いだろうな、と思えてしまうのだ。
たぶんギャンブラーとそうでない人間との差はここなのだろう。お金(でなくてもいいのだが)を賭けているかどうか、という部分でやる気が決まるのである。
僕としては別に、麻雀をゲームとして(つまりお金を掛けないで)やっても十分に面白いと思うのだが、しかし大抵の人間はそうは思わない。麻雀はお金を賭けないと燃えないらしいのだ。別にそれでお金を稼ごうなどと思っているわけでもないらしいので、余計意味不明である。
より分からないのは競馬やパチンコである。麻雀は、まだゲームとして面白いと思えなくもないのでいいのだが、しかし競馬は馬が走っているのを見るだけだし、パチンコは玉が飛んでいるのを見るだけである。一体何が面白いのか分からない。じゃあやっぱりお金を稼ぐつもりなのかと言えば、いやいやああいうものは100%胴元が儲かるように出来ているわけで、トータルで負け越すのは目に見えているわけである。
それでも人々はギャンブルを止めようとはしないし、むしろどんどんとはまっていくのである。たぶん僕には一生理解できないことだろう。
そういえば思い出したが、一度だけパチンコをやってみたことがある。確か3000円くらい使ったような気がするが、まあ予想通り面白くなかった。まあパチンコにはまっている人からすれば、3000くらいじゃパチンコの面白さなんかわからないよ、とでも言われそうであるが。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、かつて「ブックサカイ深夜プラス1」という書店で店長をしており、その後書店員を止めてフリーの売文業に転向し、その後千葉のときわ書房本店でまた書店員としての生活に戻った茶木則雄のエッセイです。
茶木則雄と言えば「このミステリーがすごい!」の座談会なんかでも有名で、僕も名前くらいは知っていたんですけど、どんな人かはもちろん知りませんでした。このエッセイを読んでとにかく思ったのは、ぶっ飛んでいる人だなぁ、ということです。
本作は、「本の雑誌」という雑誌に連載していたもので(本書の単行本が出たのが10年くらい前だから、連載はそれよりももう少し前でしょう)、基本的には本の話題を綴ったエッセイ…であるべきなんだろうけど、しかし実態はまったく違うものになっています。
もちろん本の話題がないわけではないのですが、それはあくまでも前フリやオチみたいな使われ方をしていて、メインは茶木則雄とその家族の奮闘記、みたいな内容になっています。
とにかく茶木則雄という人はギャンブル好きだそうで、お金があればギャンブルに使ってしまうという、僕からすれば理解できない人間なんですが、とにかくギャンブル絡みの話が多い。失敗ばかりしているのだからいい加減学習すればいいのに、とか思うのだが、しかしそれはギャンブラーに言っても仕方ないことのようである。
それに輪を掛けてすごいのが、家族との関係である。子供よりも遊びを優先してしまうなんてのは序の口で、連載の中で奥さんを「邪魔だ」とか「鬱陶しい」とか言っているのだ。すごいものである。「家庭は冷え切っている」などと堂々と書いてしまう。そんなことが書けるくらいなら本当は仲がいいのだろう、とか思うのだがどうもそんなことはないらしく、茶木vs妻のバトルはもの凄いものがある。あくまでも本作に書かれていることが真実であるとしてだが(しかし解説氏は、本作に書かれていることはほとんど真実だと太鼓判を押している)、ありとあらゆる局面で茶木vs妻のバトルが現れ、そのことごとくに茶木は惨敗を喫しているのである。哀れ…と思わなくもないが、しかし妻の主張がほぼ完全に正しいと思われるので、身から出た錆、自業自得としか言いようがない、というのが本音である。
子供との戯れも時々描かれるのだが、この子供が泣かせるのである。父親はギャンブル狂で、家庭は万年貧乏であるので、子供は旅行にも連れて行ってもらえないし遊びにも連れて行ってもらえない。ゲームも買ってもらえないのである。
しかし茶木家の子供は菩薩のように優しく、例えばこんな話があった。
運良くゲームのソフトが当たったのだが、しかし本体がない。買って欲しいと母親に頼んだが、貧乏だからダメだと言われた。父親はフリーになったばかりでお金がないから健気にも買って欲しいとは言ってこない。息子はどうしているかと言えば、母親の仕事をこまめに手伝っては、ちまちまと貯金をしているのである。
ある日いろいろあって父親と息子が銭湯に行った時のこと。息子はこんなことを言うのだ。

『「ねぇ、お父ちゃん」首まで浸かり、ゆでダコのようになった息子が言った。「ぼくねえ、もう六千円も貯めたんだよ。凄いでしょ」うん。「もっともっといっぱい貯めてさあ、ニンテンドウ64買ってェ、もしお金があまったらァ、お父ちゃんにも何か買ってあげるね。今日いっぱい遊んでくれたから」』

なんといい息子ではないか。息子は日々父親から散々な目に遭わされているのに(相撲ごっこをして前歯を折ったり、甘いと騙してキムチを食べさせたり)、たった数時間サッカーをして銭湯に連れて行っただけで、頑張って貯めたお金を使って何か買ってあげるというのだ。
素晴らしい息子ではないか。親がダメでも(笑)子は育つものなのだなぁ、と感心してしまった。
まあそんなわけで、書店員のエッセイではあるが、内容はほぼ本とは関係ない。本の話題も出てくるのだが、いかんせん連載が10年以上前なので、出てくる本が古い古い。それに、外国人ミステリーがほとんどなので、外国人作家の小説を読まない僕としてはそれらの本の話題はとんと分からない。
しかしそれでも、本作はエッセイとして十分面白いと思う。家庭の恥部を前面に晒すことで自虐的な笑いを取っているが、しかし悲壮的な感じには決してならず笑い飛ばせるのである。まあだから、誰が読んでも面白いであろう。結婚している殿方諸君が読めば…どうだろう。僕は読んではいないが、ブログ本で有名になりドラマにもなった「実録鬼嫁日記」のような感じではないか、と思ったりもする。読んでみたら面白いと思います。

茶木則雄「帰りたくない!」

僕はとにかく、個性の強い人間が好きである。
僕の中で「個性が強い」というのはどういうことかと言えば、自分の考えやスタイルを明確に持っていて、それを積極的に表に出している、あるいは表に出そうとしていなくても滲み出てしまう人、のことである。
例えばだけど、ヒトラーとか僕はすごいと思う。ヒトラーについて詳しく知っているわけではないのだけど、彼は自分の考えを明確に持っていたし、またそれを積極的に表に出していたわけだ。別にヒトラーの考えが正しいと思っているわけではない。というか、まあやっぱりヒトラーは間違っていたのだろうけど、でも考えやスタイルが正しいか間違っているかということは僕にとってはどうでもいいのだ。その人が何らかの考えやスタイルを明確に持ってさえいればいい。
何故そういう人に憧れるかと言えば、やはり僕自身がそういう人間ではないからだろうな、と思う。
僕にはとにかく、主義や主張なんかはまるでない。自分以外の周囲はどうでもいいと思っているし、世界に対して発信したいと思っているようなことも何一つない。些細なことでさえ自分の考えを持つことが出来なくて、何一つ自分を表現することが出来ない。どんな問題に対しても特別な意見はないし、どんなことが起ころうとも明確な主張はない。自分の力で周囲を変えたいと思うこともないのだ。
だからこそ、自分自身をきちんと持っている人間というのは素晴らしいと思う。それが正しいかどうかは僕としては関係ない。たとえ間違っていたとしても、それを正しいと信じて主張し続けることが出来る人というのは素晴らしい。
小泉元首相なんかもそういう人間で、言っていることは明らかにおかしいような気がするのだけど、でも自信を持ってそれを主張している姿は素晴らしいと思う。ある意味で羨ましい。そういう人間になりたいと思うことも多い。
僕の中では、太田光という芸人もその一人だ。別に太田光のファンというわけでもないし、詳しいことも知っているわけではないのだが、彼はあらゆる問題に対して自分の意見や主張を持っている。そのそれぞれが正しいのかどうか僕には判断できないのだけど、しかしそれを主張出来るということがかっこいいし、素晴らしいことだと思うのだ。
その太田光は、憲法九条の改変に反対をしている。つまり現行の憲法九条を守ろうという立場である。
僕はその意見が正しいのかどうかさっぱりわからない。言ってしまえば僕にはまるで興味のない問題であって、正直憲法九条がどうなろうがまあ僕としてはどっちでもいいかな、という具合である。
しかし本作を読んで、少し前にバイト先の人と話したある会話を思い出した。
その時は、女性天皇についての話をしていたのだ。僕としては、まあ女性が天皇になろうがどうなろうがまあ別にどうでもいいか、という感じではあるのだが、その人は、女性が天皇になるのはまあ仕方がないとしても、女系天皇だけは許してはいけない、と主張した。天皇の歴史は2000年の重みがあるのだ、と。伝統というのはそれだけで価値のあるもので、意味があるかどうかは別として簡単に変えてはいけないのだ、というような主張だった。まあその人としても、本気でそう考えているわけではなく、どちらかといえばそうだ、という話だったのだけど。
それを思い出して、明らかに間違っているのならともかく、明確な間違いもないのにあっさりと変えてしまうのもどうなのかな、という気になった。まあどっちでもいいというのは変わらないのだけど。
護憲派と改憲派がどんなやり取りをしているのか僕は知らないしまったく興味はないのだけど、しかし本質とはかけ離れたところで議論をしているのだろうな、と思う。
僕は、憲法九条の問題なんかシンプルだと思うのだ。結局のところ、変えたって変えなくたって大差はない、だったら変えなくてもいいじゃないか、という内容を、いろんな理屈をつけて難しく話をしているだけのような気がするのだ。違うかもしれないが、そんな印象がある。
まあ結局のところ、現行の憲法九条が正しいあり方なのかは、変えてみなくては分からないのだ。変えてみてダメだったら現行のままの方が正しいし、変えてみてよくなれば現行のものが間違っているということになる。変えもしないのに憲法九条の正しさを議論することは出来ない。議論できないなら放置すればいいではないか、とまあそんな風に思う。どうだろうか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、お笑い芸人である太田光と、その太田氏のメル友であり、太田氏が「思想界の巨人」と呼ぶ中沢新一が、憲法九条をいかにして守るか、という話を対談形式で載せている本です。
とは言うものの、僕の印象では本作は、憲法九条の話ではなく、日本人論という感じがします。つまり、日本人とはこういう生き物だ、という話をいろいろとして、その上で、だから憲法九条を残そうではないか、というところに繋げるという感じで、全体の6割近くは日本人論なんじゃないかなぁ、と僕は勝手にそう思いました。
だから、憲法の議論みたいなものはあんまりないような気がします。二人とも憲法九条を残そうという意思は明確なわけで、そこを深く掘り下げるのではなく、じゃあなんで憲法九条は日本人にとって大切なのか、残す上でどういうことを考えるべきなのか、というところをスタートにするために、話がどんどんと日本人論みたいな方向に進んでいくのではないかな、という風に感じました。
だから、憲法九条をどうしても残そうという二人の意思みたいなものは伝わってくるんですけど、でも根本的なところが議論にならないからその辺はちょっと消化不良だなという気がします。
でも一方で、もしこの対談が護憲派vs改憲派の対談であったとしたら、表面ばかりを突付きあうことになって本作のような深い日本人論を基礎にした話にはならなかっただろうから、まあどっちもどっちという気はするのですが。
しかしこの「憲法九条を世界遺産に」というフレーズは太田が考えたようなんですが、このフレーズはすごいと思いましたね。びしっと本質が伝わってくるという感じで、フレーズとして見事です。やはり言葉を武器に勝負しているからですかね、こういう言語感覚は冴えているのかもしれません。
読む前に予想した通り、全般的には僕にはあまり興味の持てない話でした。まあ、憲法九条とかどうでもいいと思っているから仕方ないんですけどね。なんか少しでも関心のある人にはいいかもしれません。護憲派も改憲派も、まあ一読してみたら面白いかもですね。どうでしょう。あんまりオススメはしないですけど。どっちだよ、って感じですね。

太田光+中沢新一「憲法九条を世界遺産に」

脳に優しい生活をしてあげたいな、という風に思ったりする。
この「脳に優しい」というのはどういうことかと言えば、脳にとって刺激的である、ということである。
脳というのはとにかく刺激を求めている器官である。人間を、壁が真っ白で何にもない部屋に数日閉じ込めると、幻聴や幻覚といった症状が出てくるらしい。これも、刺激を「おあずけ」された脳が、じゃあしゃあねぇなぁ、自分で刺激を生み出すしかないじゃんか、ってなわけでやってしまうことなのだそうだ。
とにかく、ありとあらゆることが脳への刺激になる。
ホムンクルスというものがあって、それは体のどこを動かせばより脳への影響が強いかというのを視覚的にした人形のようなものなのだけど、それによればとにかく手と舌を動かすと脳が刺激されるようだ。手と舌を動かすというと、うーむ残念ながらエッチなことが真っ先に浮かぶのだけど、まあもちろんそれだって脳への刺激は絶大でしょう。また、手を使って細かい作業をすれば呆けない、みたいなことはまあ昔からよく言われていた通り。
他にもまあなんでもいい訳で、五感を刺激するようなもの、例えば見る聞くと言ったようなことでも刺激になる。それも、今まで知らなかったものとかの方がいいのだろう。見たことのないものを見るとか、聞いたことのないようなことを聞くとか。やったことのないことをしてみるとかね。
とにかくそうやって、いろんな形で脳に刺激を与えて上げると、脳というのはどんどん進化していく。
脳細胞というのは、実際のところ減り続けている。一日一個くらいの割合で減っているようである。海馬という部分は例外的に新しい細胞が生み出されていくようだけど、基本的に脳細胞というのは一旦死滅したら再生しないのだ。
また、年齢と共に記憶力が悪くなっていくというのも正しい。物覚えが悪くなっていくのである。
しかし、だからと言って脳が成長しないわけではない。むしろ脳をうまく使えるようになるのは、30歳を過ぎてからだというのである。
脳には可塑性という特徴があって、一度覚えたことは忘れない。思い出せないことはあっても、脳の中から消えているわけではないのだ。若いうちはそうやってとにかく情報を蓄えていく時期である。
で、30歳くらいを過ぎるとどうなるかというと、情報同士の関係性を考えられるようになってくるのだそうだ。若いうちは、脳の特徴として、そういう関係性を作り出すという機能がまだまだ未発達なのだけど、年齢を重ねるにつれてそういうことが出来るようになる。もちろんそのためには、日頃から脳に刺激を与えてあげなくてはいけないのだろうけど、年齢を重ねる毎に脳をうまく使えるようになる、というのは何だか嬉しい話ではないだろうか。そういえば作家というのはデビューが遅い人がたくさんいるしなぁ、とか思ってみたり。
さてそんなわけで、脳に優しい生活(Brain Eco Life、略してBELとでも名付けましょうかね 笑)を出来ればいいと思うのだけど、僕はやっぱりダメだなぁ、とか思ってしまう。
体を動かすのは嫌いだし、好奇心はないし、新しいものも好きではない。基本的に家とバイト先を往復するだけの生活で、歩きながら本を読んでいたりもするので外の景色なんかもろくに見ていない。休みの日は一日中部屋にいるし、部屋にいてやることはいつも決まっているし、これじゃあ脳としては刺激が少なくて窮屈なんだろうな、とか思ってしまう。
まだ幻覚も幻聴もないので脳は限界じゃないってことなんだろうけど、やっぱ脳を活かすためにはどんどん刺激を送り込んでやらないといけないのだろう。そうなると、いろんな人と関わりを持って、恋愛なんかにも精を出して、バリバリ外へ出て新しいものを探し、なんていうことをしなくてはいけないんだろうけど…、いやいややっぱ無理だろうなぁ。
でもこうやって「無理」だって思うことも脳にはよくないんだよね。こうやって言葉で自分を規定してしまうと、脳というのは律儀にそれを認識するんですね。で脳というのは厄介なことに、一度認識したことは忘れることが出来なかったりするわけですね。だから、「自分はダメだ」とか「自分には無理だ」とか思ったりすると、思うだけでそれが悪い方向に影響してしまうわけで。
そういえば僕にも経験があるけど、中学生くらいの頃だったかな、僕は「世界中の人間に嫌われている」と思って生きることに決めたわけです。ざっと理由を説明すると、そう考えた方が行きやすいだろうな、って思ったからです。僕は昔から人見知りで引っ込み事案で、いつも周りからの評価にビクビクしていたような人間なわけで、だからいつも「俺って嫌われてないかな」とか、「やべぇ、今ので絶対嫌われたよ」とか、まあそんなことを思っていたわけですね。でも初めっから「世界中の人間に嫌われているんだ」と思えば、そういう一つ一つのことについてはどうでもよく思えてくると思ったんですね。まあ元から嫌われているんだからまあ気にすることないか、みたいな。
まあそんな風にして自分なりに生きやすくするために脳に暗示を掛けたんですけど、その暗示は今でも有効ですね。ほんと、ほとんど呪いみたいなものだけど、未だに僕にまとわりついていますね。まあ厄介なものでもないので僕としては重宝しているつもりですけど、脳というのは案外融通が利かないものなんだなとか思ったりします。
脳というのはホントまだまだ全然解明されていない分野で、というか僕が生きているうちに目覚しい進歩を遂げるかどうかも怪しいような分野ですけど、でも本当に魅力的ですね。自分が物事を考えたり認識したりするその過程を探るというのは刺激的です。目覚しい進歩があるといいなと思います。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、コピーライターとして有名な糸井重里氏と、脳科学の世界ではかなり有名(らしい)、東京大学薬学部助手(助手なのに有名というのもすごいと思うけど)である池谷裕二氏との対談という形態で全編貫いた作品です。
対談の内容は、池谷氏の専門分野である脳、もっと言えば海馬を中心とした話題なのだけど、学術的な話ではなく、脳の性質から考えた人間の生き方、みたいな話に方向付けされています。
池谷氏は、自分の専門分野について平易な言葉で語ります。最新のデータなんかを交えながら、脳というもの、あるいは海馬というものについて、どこまで分かっていてどこまで分かっていないのか、こんなことも分かっていたりするんですよ、ということを話す。
それを受けて糸井氏は、なるほどそれはイメージとしてはこんな感じがしますねとか、それは人間の社会に置き換えて考えるとこんな風に言えたりしますね、という風に返す。それを受けて池谷氏も自分の考えを語り、次第に話は次のテーマに移っていく、という感じで進んでいきます。
池谷氏の「進化しすぎた脳」という本を最近読んで、その読みやすさに驚いたものですが、本作ではさらに分かりやすい感じになっています。専門的な言葉や数字なんかを完全に排除しているためで、それは対談という形態のお陰だろうな、という風に思ったりします。脳についてまったく詳しくない糸井氏という相手と面と向かって対談するわけで、分かり難い部分があると話が展開していかない。そういう意味で本作は、専門的なことについては詳しくないかもしれないけど、今の脳という研究についての大雑把なところが非常に平易で分かりやすい形で書かれていると思います。
また糸井氏の受け答えがなかなか秀逸な感じで、さすがは言葉を操る仕事をしているだけのことはあるな、と思いました。とにかく、話を広げるその矛先みたいなものが巧くて、この話題からそんな話にまで行きますか、というようなこともあったりで、すごい人だな、と思ったりしました。
本作は脳の話だったりしますが、脳の性質を知ったうえでどう行動しますかというような話にもなって、かなり実用的だったりします。脳は基本的には疲れないから疲れているのだとしたら目だとか、記憶力を伸ばせる食べ物があるとか、睡眠というのはとにかく脳にとっては大事であるとか、ちょっと寒いとかちょっとお腹が空いている方が脳が活発であるとか、普通の学術的な本であればまず載らないような情報もたくさん載っていて、そういう意味では、読んでいて面白いだけの本ではないのでかなりいいと思います。まあ読んでもなかなか取り入れることは難しいとは思いますけど。
というわけで大体作品の内容はこんな感じですが、本作を読んでとにかく僕がたまげたことを最後に書いて終わりにしようと思います。
それは、池谷裕二氏は九九の計算が出来ない、ということです。
池谷裕二氏は、東大に入る時も東大の大学院に入る時も主席だったようなのだけど、とにかくモノを覚えられない子供だったようです。子供の頃の漢字テストで100点中2点だったこともある、と明かしています。
しかし、九九も出来ないような人が理系の大学、しかもその最高峰である東京大学に入学できるとはにわかには信じられません。
しかし池谷氏は、こういうやり方で乗り切ったのだそうです。
それは、公式を覚えるのではなく常に導き出す、ということ。
僕も理系だった人間なので、いろんな数学の公式を覚えた記憶がありますが、池谷氏はそれを覚えるのではなく、問題を解く度に頭の中で導き出していた、ということです。と簡単に言っていますが、尋常ではないですよ。僕なんか、二次方程式の解の公式を完全に忘れているんですけど、これを導き出そうと思ったらかなり時間が掛かると思います。もちろん、覚えた方が遥かに楽ですが、覚えられなかった池谷氏は毎回導き出すというやり方を選択せざるおえなかったようです。
だから今でも九九は出来ないそうです。じゃあどうしているかと言えば、例えば9×8を計算する時は、一旦9×10=90として、そこから9×2=18を引いて72という答えを出すのだそうです。池谷氏は、九九をすべて覚える代わりに、10倍する・2倍する・半分にするという三つのルールだけで全部出来るということを発見し、そのやり方だけを覚えたのだそうです。なるほど、そう言われると池谷氏はすごい人間なんだなということがよくわかるなぁ、という話でした。
そんなわけで、僕はまあこういう理系的な本は好きなので結構読むのですが、この作品は理系的な本に分類していいのか悩むくらい読みやすい本です。理系の知識が0でも分かると思います。なんせ著者の一人は九九が出来ないんですから、臆することはありません!(もちろんジョークで言ってるんですよ 笑)
脳の話はちょっと興味があるけどどの本を読んでも難しそうだよなと思っている方、ちょっとまず本作を読んでみたらいいと思います。それから、同じく池谷氏が書いた「進化しすぎた脳」を読んでみましょう。どちらも無茶苦茶読みやすいのでオススメです。

池谷裕二+糸井重里「海馬」

海馬文庫

海馬文庫

昔から、何かを欲しいと思うことが少なかった。与えられたものだけで満足しているような子供だったと思う。
僕は三人兄弟の長男なのだが、下の妹と弟は大分違う。とにかく欲しいものがたくさんあったようだ。もちろん、僕に与えられたものは当然欲しがったし、それ以外にも欲しいと思ったものはのきなみ親に要求していたようだ。まあもちろん親だって全部買ってやるわけでもなかったのだろうが。
僕としてはまあ、羨ましいという気持ちもないではなかった。何で妹と弟ばっかりにいろんなものを買い与えるのだ、と。もちろんそれで不満に思うこともあったわけだけど、でもそれを表に出すこともなかった。内向的な子供だったのだ。
でもそういう時にふと思うのだ。確かにいろんなものを買ってもらえる妹・弟は羨ましい。しかし自分に振り返って考えて見た時に、じゃあ何か欲しいものでもあるのか、というと特に浮かばないのである。
昔から本は読んでいたから本は欲しいと思っていたと思う。一時期雑誌もそこそこ買っていた記憶がある。時々まあお菓子も買っていただろう。しかしそれ以外のものはどうだろう。ゲームに興味を持ったこともなければ、服なんて別に何でも良かったし、食べたいものをやりたいことも別に特にあったわけでもなかったのだ。だから妹・弟のことを羨ましいと思うと同時に、しかしでも別に買って欲しいものもないか、とも思ったりしていたのである。もし僕もそういう「いろんなものが欲しい症候群」だったとしたら、それはそれでまた一悶着あったことだろう。僕がそんな人間でなかったからこそ、表向き面倒なことにはならなかったのだろうと思う。まあそれによって僕の人格が歪んだということはあるかもしれないが。
今でも欲しいものは本当にない。本が手に入りさえすれば、基本的にあとはどうでもいい。僕は殴り書きの家計簿をつけているのだけど、食料品と本以外に何か買うということがほとんどないということが分かる。年に二回ぐらい服を買いだめするくらいである。
欲しいものがないというのは不幸なことだろうか。やりたいことがないというのは不幸なことだろうか。
人によってはそう判断するだろう。欲しいものもやりたいことも山ほどあるという人間からすれば、僕は不幸な人間に映るに違いない。世の中にはこれほどまでに楽しいことや面白いもので溢れているのに、あなたはそれを知らずにこれからも生きていくのね、という具合である。
しかし別段僕としては不自由しない。本があれば時間は潰せるし、それ以外のものはただ消費するだけのものに過ぎない。時間ですら、僕にしてみれば消費するだけの対象でしかないのである。
まあそれで人生が面白いのかといわれると返答に困るが、しかしそういう生き方を選択したのだからまあいいかとは思う。
ただ、今まで誰も見つけていないもの、知らなかったものはちょっと手にしてみたいと思う。誰も知らなかった物理法則とか、誰も気付いていない数学の神秘とか、誰も見つけられなかった卑弥呼の墓とか。欲しいといえば、なるほどそういうものは欲しいかもしれない。つまりは情報ということか。誰も知らなかった情報。まるほど、これは欲しいと願う価値はあるかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、作家である森博嗣と、その奥さんにしてイラストレーターであるささきすばる氏の共著の四作目に当たる作品です。まあ今まで僕が読んだことがあるのは、本作を入れて二作だけですけど。
本作は、大まかに言って二つに、細かく言えば四つに分かれています。
大まかに言えば、前半が昼で後半が夜です。それぞれ昼と夜でさらに二つずつに分かれているという感じです。
昼は、白いカラスと猫の物語です。白いカラスがタマゴを盗んでしまい、それを猫とどうしようかと話すそんな話です。
夜は、蛇と蝎の物語です。なんとなく愛の物語である感じがします。
どうも本作は、ちょっと僕にはよくわからないなぁ、という感じがしました。昼と夜とが何を対称にしているのかとか、あるいは白いカラスや蛇や蝎が一体なんであるのかというようなところがよくわからないなぁという感じでした。まあ基本的に僕はこういう読解力みたいなものには乏しいので仕方ないんですけど。
というわけで、内容についてはあんまり触れようがありません。
しかしささきすばる氏の絵はいいですね。僕は絵についても全然詳しくはないですけど、ささきすばる氏の描く作品はどれも、その色使いの透明さがすごいなという気がしています。なんでしょうね、まるで「透明」という色が存在するかのような色使いによって、絵では表現し難いものまできっちり表現しているのだろうな、という印象があります。
またささきすばる氏には珍しく(?)漫画タッチの絵もあったりして、それはなかなか面白かったと思います。
というわけで、オススメとかどうとかというのはなんとも言えませんが、森博嗣かささきすばる氏のファンであれば僕がオススメしなくても買うだろうし、そうでなければ僕がオススメしても買わないだろうからあんまり意味がないでしょうね。まあ今回はそんな感じでした。

森博嗣「DAY&NIGHT 昼も夜も」

そういえばふと思い出したので、本作の内容とはまったく関係ないことをまずは。
今日は昭和の日ですね。今年からみどりの日ではなくて昭和の日になりました。それとあと一つ、今日は中原中也の誕生日だったりします。しかも生誕百年です。おめでたいですね。
さてそんなわけで。
なんか面白いことないかなぁ、と僕らはいつだって思っていたりしますね。でも、その「面白いことって何よ?」って聞かれると、はっきりと分かっていなかったりもします。なんとなく面白いと思えること、としか答えようがありません。
世の中にはそういうものはたくさんあって、そのものが現れればそれが面白いかどうか判断できるのに、それが現れないうちにこれということは出来ない、みたいな奴です。僕の場合で言えば本ですね。僕は、その本に出会えばそれが面白いかどうか判断できるけれども、しかしその本がどんなものであるか出会う前に表現できない、というような感じです。
さて世の中には、自分の人生はなんと面白いことで満ち満ちているのでしょう。毎日ハッピーでございますことよ、なんていう人間は果たしているものだろうか?
いたとしたらそいつを万力で締め付けて身長を半分にしてやりたいところだけど、実際問題まあいないでしょうね。どれだけ恵まれた人間であろうとも、現状に完全に満足してしまえばそこで終わりであるということは知っています。たとえどれだけ面白いことが身の回りで起こっても、いやいやこんなのはまだ序の口です、きっと世の中にはまだまだ面白いことはたくさんあるし、わたし諦めませんわ、みたいなまあそんな風に思うのが普通だったりするのかな、とか思います。
例えば、イメージだけで言えば芸能人って毎日すっごく楽しそうに生きている感じがしますよね。華やかな世界だし、毎日ありえないことが起こっても不思議ではないし、刺激的な毎日かもしれません。でもまあいろんな断片の話を聞くに、そこまで刺激的な日常ではないようですね。まあそうなんでしょうけど、あれだけ非日常の世界にいる人でもそこまで面白い生き方をすることは出来ないわけですから、人生って難しいものだよな、とか思いますね。
僕の場合は、まあ人生を諦めているというか、完全に諦めきっているような人間なので、自分の周囲では特に面白いことなんて起こらないだろうし、まあそれを期待することもしないようにしよう、とか思って生きています。きっとこのままつまらない人生を送るのだろうし、まあそれならそれで仕方ないか、とか思います。本当は自分からもっとアクティブに動けば、犬もあるけば棒に当たる的な感じで面白いことに出会えたりするのかもしれないのだけど、でも出会えないかもしれないわけで、それって徒労だよなぁ、とか思ってしまうようなダレた人間なわけです。
でもやっぱ思うんですよね。自分の中で何が面白いのかっていうのがちゃんとはっきり分かっていないと、結局のところ面白いことなんかには出会えないんではないかって。
僕はあまりにも興味の幅が少ない人間で、時々何かの偶然であるかのように変なところに興味のあるものを見つけたりするんですけど、そんな人間の場合そもそも、「何か面白いことないかなぁ」とか思っても当たる確率は低そうです。そうではなく興味の幅が広い人だって、それでも自分が思い求めているものの輪郭をある程度はっきりさせておかなくては手に入るものも手に入らないのかもしれません。「よりよいもの」を追い求めているとい姿勢では、何か面白いことがあっても「まだまだ面白いことがあるかもしれない」と言ってそれを手放してしまうこともあるかもしれないし、そもそもレーダーに引っかからない可能性もあったりするでしょうね。
でもまあ、「私にとってはこれこそが面白いことだ!」と明確に決めすぎてしまうのもどうかと思ったり…。それが、あまりにも現実には起こらなそうなことだったらなおさら…。
というわけでそろそろ内容に入ろうと思います。
俺はまあどこにでもいるただの高校生だ。というか、つい最近高校生になったばかり。もう平凡でなんでもないような、間違っても物語の主人公になったりするはずのないような、そんな高校生だったはずなのである。
いやしかし、俺の高校生活は、ある女によってあっさりとわけの分からない方向に捻じ曲げられていくのである。
その名も、涼宮ハルヒ。
たまたま俺の真後ろの席だったというだけで、他に理由はない。一度話し掛けたことがきっかけで少しずつ会話をするようになった。
その高校は四つの中学から人が集まってきていたのだが、ハルヒと同じ中学だったという連中からは驚かれた。あいつがあんなに人と会話をしているのを初めて見た、というのだ。それから俺は、ハルヒの中学時代の奇行を知ることになり、なるほどちょっと距離を置いたほうがいいやつなのかもしれないなぁ、でも見てくれだけは可愛いんだけどなぁ、とか思っていた矢先。
ハルヒは新しい部活を作ることに決めたと言って俺を巻き込んだ。私は部室と部員を集めるから、あんたは書類をちゃんとしといて、とこうだ。
それから、長門有希という新入生一人しか所属していない文芸部の部室を奪い、また超ド級に可愛らしい朝比奈みくるという一学年上の先輩を拉致してきては部員にし、また謎の転校生だ!と騒いでは小泉一樹というその転校生を部員にしたりした。
さて、入学当初の自己紹介で「ただの人間には興味がありません。この中に、宇宙人、未来人、超能力者がいたらあたしのところに来なさい。以上」という、超電波な自己紹介をしたハルヒ。部活にするのに必要最低限な5人のメンバーを揃えたハルヒは、「SOS団」と勝手に名付けたその部活の目的を高らかにこう言ってのけた。
「宇宙人や未来人や超能力者を探し出して一緒に遊ぶことよ!」
そうやってハルヒに一方的に引きずられる毎日ではあったが、しかし実はハルヒというのはとんでもない人物であることが明らかになったりして…。
というような話です。
さてこの涼宮ハルヒという作品は、アニメ化されたことをきっかけにして爆発的に人気が拡大した作品で、本もメチャクチャ売れます。最新刊がつい一ヶ月くらい前に発売されたのだけど、今年(つまり1月から)の文庫の当店での売上で現在トップを独走と言った感じです。ホント、ありえないくらい売れている作品です。
まあなのでさすがに読んでみようかなと思ってみたりしたわけです。
で、なかなか面白いかな、と思いました。いや、内容はライトノベルらしくくだらないし馬鹿馬鹿しいしアホみたいなもんなんだけど、まあこれはこれでアリだったりするかな、という感じですね。
世の中には「萌え属性」なんていう言葉があって、僕は詳しく知らないのだけど、とにかくどんなものに萌えるか、という意味のようです。この「萌え属性」にはいまや様々なものがあり、「ツンデレ」「眼鏡」「メイド」「コスプレ」とかまあいろいろあったりするわけです。
で本作はその「萌え属性」みたいなものがかなりわんさか出てきます。ハルヒは「ツンデレ」だし(まあデレの部分は良く判らないけど)、長門は「眼鏡」だし、朝比奈は「メイド」とか「コスプレ」です。だから要するに、いろんな男が持っている「萌え属性」を比較的満遍なく満たしているというところが、まあ本作が人気の理由だったりするかもしれないな、と思ったりします。まあ僕は、「眼鏡萌え」だったりしますけどね。
物語としては、なんていうんでしょうね、とにかく特別なことは何も起こらないのに時間だけが過ぎていく感じで、でもまあ読んでて面白かったりします。ハルヒがとにかく暴走して物語を引っ張り、一方でハルヒは何も知らずに蚊帳の外、脇役であるはずの俺が一転主人公ですかみたいな感じになって、それにいろんな小ネタがプラスされてひっちゃかめっちゃかになっていくという辺りが面白いような気がします。朝比奈さんのコスプレなんかはかなりいいし、長門が本好きというのもいいし、何よりもハルヒの暴れっぷりは読んでいて爽快な感じもします。
なるほど確かにこの作品、アニメにしたら面白いような気もします。まあ見ることはないでしょうが。
というわけで、まあ読める程度には面白いと思います。でも女性にはどうでしょうね。男が読んだらそこそこ面白いとは思いますけど。わかりません。まあライトノベルを読んでみようかと思っている人にはいいのかもしれませんね。

谷川流「涼宮ハルヒの憂鬱」

日本の法律の元となっているのは、確かドイツのなんとかっていう法律だったかな。ワイマールとかなんとか。でもあれは憲法だっけ。憲法もまあ法律だけど。でも憲法ってそういえば、GHQとかが作ったんだったような…。とまた浅薄で中途半端な知識を晒してみる。
しかしまあ思うのだ。真似したのがドイツの法律でよかったな、と。これがアメリカの法律とかだったら…。想像しただけでも恐ろしいものだ。
バイト先に法律の勉強をしている人がいるのだが、その人と少しだけ法律の話をしたことがある。
日本の刑法というのは、曖昧な解釈ができてはいけないのだそうだ。
まあそれはそうだろうと思う。解釈の余地があれば、同じ状況でも違う罰則というようなことになってしまうだろう。こういう場合はこう、という風に明確にしておかなくてはいけないのだろう。まあその人曰く、刑法はかなり厳密だけど、民法は例外が結構ある、というようなことを言っていたけど。
ただ考えてみると、曖昧な解釈を許さない条文というのはかなり難しいのではないか、と思ってしまうのだ。
例えば憲法九条は有名だけど、あれをどう解釈しようかみたいな話で結構いろいろ揉めたりしているのだろう。憲法だってきっときっちり作られているのだろうけど、それでも解釈の余地は出てきてしまうものだ。まあ人間がひねくれているというのもあるのだろうけど。
人を殺した場合はこういう罰則、みたいな条文があるとしよう。でも例えば正当防衛だったらどうなのか。正当防衛というのはどういうことをいうのか。また親を殺した場合はどうか。ただ殺すのではなく拷問みたいにいたぶったりしたらどうか。殺すつもりはなかったのだとしたら…。
みたいな風にいろんな場合を想定することが出来る。世の中には犯罪は山ほどあるわけで、そのそれぞれの犯罪にいろんな場合があるわけで、それを他と矛盾しないように整合性を保って作るというのは、まあ並大抵のものではないな、と思ったりします。
さてまあ日本はそんな風に、まあたぶんそこそこきっちり作られているのだろうけども、では世界に目をむけたらどうなのかというと、これがもうもの凄いことになっているのだ。
整合性とか曖昧な解釈を許さないとかいう前に、それって法律ですか?と聞きたくなるようなものがわんさかある。特にアメリカは州ごとに法律が違うからすごい。なんというか、まともな人間が法律を作っているのだろうか、と疑いたくなってしまうものばかりである。
と言っても恐らくイメージは出来ないだろうから、本作に載っていたぶっ飛んでいる法律をいろいろ載せてみようと思います。

「生後30日以内なら自分の子どもを捨ててもいい(ニュージャージー州)」

「犯罪を行うときは防弾チョッキ禁止(ニュージャージー州)」

「図書館の本の返却遅れ、一ヶ月以下の禁固刑(ユタ州)」

「市バスの制服にポケットをつけてはいけない(カリフォルニア州)」

「女性のオーガズム中に銃を撃ってはいけない(ウィスコンシン州)」

「ベッドとベッドの間でのセックスは違法(サウスダコタ州)」

「日曜日に夫が妻にキスをするのは違法(コネチカット州)」

「女性は救急車に乗っている時にセックスをしてはならない(ユタ州)」

「女性に下ネタを使うときには事前了承が必要(サウスカロライナ州)」

「飼い犬とは一日二時間過ごすこと(ドイツ)」

「空港で亀のレースを開催してはならない(ミシシッピ州)」

「どんな犬でもロープウェイでは大人料金を払わなくてはいけないが、犬がロープウェイに乗るのは違法である(コロラド州)」

「女性はズボンを穿いてはならない(アリゾナ州)」

「ネイティブ・アメリカンと通りでトランプをしてはならない(アリゾナ州)」

「日曜日の午後に離婚歴のある独身女性をパラシュートで投下してはならない(フロリダ州)」

「午前七時から午後七時まで床屋はタマネギを食べてはならない(ネブラスカ州)」

「火事場での食事は違法(イリノイ州)」

「牛乳を飲まないことは違法(ユタ州)」

さてどうであろうか。無茶苦茶を通り越して笑えてこないだろうか。
本作にはアメリカ以外の法律もそこそこ載っているのだが、しかし大半がアメリカの法律になっている。州ごとにバラバラなのは分かるが、そもそもそんな法律どうして出来たわけ?と聞きたくなるものばかりだ。特に「パラシュート」の話は意味不明すぎる。
さらに意味不明なのは「ロープウェイ」の話だ。ロープウェイに犬が乗ることが違法なら、そもそも大人料金を払わなくてはいけないという部分はいらないじゃないか!どういうことでしょうね。違法であることを覚悟で犬を乗せたいという飼い主が現れた時のことを想定しているんでしょうか…。
本作を読んでいると思うのが、外国には行きたくないなぁ、ということである。とにかく、何をしたら捕まってしまうのかが分からないのだ。シンガポールでは唾を吐いただけで捕まるというのは有名だが、イタリアでは領収書をもらわないと捕まるというのは初めて聞いた。他にもオーストラリアでは野外で火を使ってはいけないようだし(山火事防止のため)、借りた本を返さなかったばかりに捕まるところもあるのだ。恐ろしい。またキリスト教が多いアメリカだからか、キリスト教の安息日である日曜日にしてはいけないことというのがたくさんあるようだ。日曜日には、歩きながら歌を歌ってはいけないし、車を買ってはいけないし、ドミノをしてもいけないのである。平日はいいのに日曜日はダメという法律。なんでしょうね、ホント。
まあそんなわけで本作は、字もすごく大きくてスラスラ読めて、内容もまあ面白いと思うので、さくっと読むにはなかなかいい本だと思います。トイレに置いておいて、毎回行く度に一項目読む、みたいなのでもいいかもです。どうでしょうか。

知的好奇心研究会「世界のトンデモ法大全」

人々は、わかりやすい記号を日々求めている。
例えば僕の部屋なんかわかりやすい。僕の部屋は、家賃が恐ろしく安い。風呂なしなのでまあ当然だけど、僕の部屋に来る人間は一様に、お化け屋敷みたいな建物だ、みたいなことをいうのである。ここには住めないという人もいるし、人によっては僕のことを可哀相だと感じる人もいるかもしれない。こんな部屋に住んで、みたいな。
しかし僕としては、まあ風呂がないことは多少不満足ではあるが、概ね満足した生活を送っているのである。全然お化け屋敷だとは思わないし、住みやすい。快適である。
人々は僕に、お化け屋敷のような建物に住んでいる男、という記号を与えて、その記号で僕を見るのである。
色眼鏡とも言うが、とにかく僕らは、その対象そのものではなく、その対象に自分が与えた記号、その対象に自分が貼ったラベルを見ているのである。
だから様々に食い違いが起こるのである。
本作では、ある巨大グループの会長の娘と結婚した男、というのが主人公になっているわけだけども、人々はこの男を、逆玉の輿という記号を与えて見る。それは、妬みだったり羨望だったりあるいは嫉妬だったりするのだろうけど、どうしてもその記号を完全に拭うことは出来ないのだ。
別にどんなラベルを貼られたって構わない、と思っている人は少ないだろう。僕らは、他人からどんなラベルを貼られるかに戦々恐々としながら、上辺を繕い自分を隠し、本音を飲み込んでは愛想で対応するというようなことを日々の生活の中でやってしまっているものだ。
僕もまあ昔は、自分がどんなラベルを貼られるかに怯えながら生活をしていたものだ。学校という空間の中では特にそうだ。一度与えられたラベルはなかなか消えてはくれない。たった一度のミスが取り返しのつかないことになったりしてしまうのである。
幸いにも僕は、まあそこそこ外れることのないラベルで生きてこれたのだろうけれども、しかし他人からどう見られるかということばかり気にしているのも酷くつまらないな、と最近は思う。
性格が変わったということではないが、少しずつ僕は、周りの評価みたいなものを気にしないで生きていくことが出来るようになってきた気がするのである。まあ、どう見られてもいいか、と思えるようになってきたのだ。もちろんこれは、周りとうまくいかないこともあるし、対立してしまうようなこともあるかもしれない。めんどくさいなぁと思うこともきっと増えるのだろうけど、しかし自分を隠して生きていく方がよっぽどめんどくさいということにようやく気付いたのだ。
もちろん、その場その場で求められている役割を出来るだけ演じるというようなことはまあ人並みには出来ると思う。その上で、間違わない程度に自分を出していき、自分の存在そのものと周囲からのラベルを出来る限り均衡させる。これが今の僕には生きやすい生き方ではないかな、と思うのだ。
楽に生きようと思ったら、結局自分を隠さないで生きていくというのが一番いいのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
杉村は、今多コンツェルンという巨大グループの会長の娘と縁あって結婚をした。今では1児の娘もいる。周囲からとやかく言われることは少なくないが、少なくとも平和な家庭である。
杉村は以前は小さな出版社に勤めていたが、結婚に際しての条件に「今多コンツェルンに入り社内報の編集をする」というものがあったため、それを飲んで今では社内報を作っている。
さてそんな杉村の元に、義父である会長から頼み事があるという。妻の口から伝えられた内容はこんなものだった。
会長が個人的に雇っていた運転手が先ごろ自転車との事故で亡くなった。その運転手には娘が二人いるのだが、相談したいことがあると言って訪ねてきた。話を聞く限り娘婿にやらせるのが妥当だと判断したのだ、ということであった。
さっそくその話を引き受け、二人の娘との会見に臨むと、どうもこういうことのようだった。父親を引いた自転車の犯人はまだ名乗り出ない。捜査が進展しているのかも分からない。遺族としては出来る限りのことがしたい。だから、父親の人生についてまとめた本を書くのでそれを出版したい、ということだ。なるほど、確かにそれなら私向きの仕事である。杉村は承諾した。
しかし、本を書くことに積極的なのは妹の方だけで、姉はまた別の心配があるようだった。単独で姉から話を聞くことにしたのだが…。
というような感じです。
本作は「名もなき毒」と同じシリーズで、僕は順番を逆に読みましたが、「誰か」の次に「名もなき毒」という順番です。
相変わらず宮部みゆきは安定しているしちゃんとしているな、と思いました。本作は、自転車によるひき逃げ事件と、その被害者の娘である二人とのあれこれをメインにした物語であるのだけど、派手さはまったくありません。ド派手な事件が起こるわけでもなければ、強烈なキャラクターが出てくるわけでもなく、ビックリ仰天というような結末が用意されているわけでもない、本当に物語としては地味な話です。
しかし、本当に読ませますね、宮部みゆきは。
細かいところまで行き届いているなぁ、という感じがあります。事件自体は地味なのだけど、なんというのかきっちりと細かい部分を手を抜くことなく描いているために、全体としてまとまりがありかつ読んでいて面白い作品になっているような気がしました。
主人公であり、あれやこれやと調べたり間に入ったりする役割の杉村という男が、これでもかというくらいの善人で、しかしありえないくらいの善人であるのにリアリティを損ねていない、という辺りがすごいです。善人であるのは杉村の妻も同様なのだけど、やはりこれは、大グループの会長一家という、庶民からすれば超非現実的な世界を背景に物語が進んでいるが故に、度を越えた善人っぷりが浮かないということなのだろうな、と思います。
また本作を読んでいると思うのは、やっぱ僕には社会にきちんと出ることは出来ないだろうな、ということです。本作では、礼儀だとか作法だとか節度だとか、そういう社会的にきっちりしているべき部分を、それぞれの主人公達がかなりきっちりとやっている作品で、それだけの気配りはちょっと僕には出来ないな、と思ってしまいます。やっぱり僕は、グダグダのダメフリーターとして社会の片隅でひっそり生きていこう、と思いました。
さっき、びっくり仰天な結末はない、と書きましたが、しかしさすがに宮部みゆきのミステリなので、ラストもなかなかいいです。ビックリ仰天とはいかないまでも、なるほど予想もしなかった結末で、よかったな、と思います。ほんと、地味な物語をよくもここまで面白い作品に出来るものだな、と熟練作家の腕を感じました。
というわけで、気軽に読めてかついい本だと思います。魚の骨を丁寧に取り除いてみました、みたいな感じの作品です。大当たりというのはないかもしれないけど、まず外れることはないでしょう。オススメです。読んでみてください。

宮部みゆき「誰か」

人間が生きている限り、自然というものはどうしたって被害を受けるのだろうな、と思う。
僕は、自然は残ってくれた方がいい、と漠然と思っている人間だ。僕の貧弱なイメージでは、自然というのは森だとか川だとか動物だとかまあそういうありきたりのものばかりだけど、でもまあそういうものだけでない、人工物ではあにありとあらゆるものは残ってくれた方がいいなと思うのだ。
しかし同時に、じゃあ自然を守ることと自分の生活を考えた時にどっちを優先するかと聞かれたら、それはやはり自分の生活を優先するだろうな、と思うのだ。
どうだろうか。大抵の人がそうではないだろうか。
僕らは基本的に、自然というものがなければ生きてはいけない。そもそも酸素や二酸化炭素のバランスを保っているのも植物ならば、食料の大半を自然物から摂っているということもある。気温や気象やその他ありとあらゆることについて、人間は自然というものから限りなく恩恵を受けた上で生活をしているし、僕だってそれくらい考えればわかる。
しかしだからと言って、自然を守ることを優先して生きていけるわけがない。
例えば、排気ガスが自然に悪いことは知っている。けれども、車がなくなったら困る。発電も環境に影響を与えるが、しかし電気なしで暮らすことはもはやできない。もっと生活レベルで言えば、ゴミを分別して出すのがめんどくさかったりとか、あるいはこれは排水溝に流しちゃまずいのかぁというものでも、まあいいやと思って流してしまったりすることもある。
自分一人の行いくらい大したことないだろう、と思ってしまうのだろう。もちろん、誰もがそう思っていて、たくさんの「自分一人くらい」が集まってものすごい影響を与えることになるし、そういうことだって考えれば分かる。
それでもうまくはいかない。
結局のところ自然を守るというお題目は人間に深くアピールしないのだと思う。自分の行いが自然を守るという行為にどれだけ寄与したのか分かりづらいからだろうと思う。
ロハスという、環境に配慮して生活をしていこうという流れがあるけど、しかしそれも主流にはならないだろう。自然に優しい、ということを謳い文句にした様々な製品が出ているが、しかしそれも製品を買う時の一つの要素になりこそすれ、それを理由で製品を選ぶような流れは生まれにくいだろうな、と思うのだ。
こうして、一人一人の小さな自然に悪い行いによって、日々自然というのはどんどんと失われていくし汚されていくのだろう。
僕は、地球温暖化はどうやっても止められないし、それ以外のありとあらゆる環境破壊も止めることは出来ないと思う。人間が生きている限り、自然が現状を維持する方向へ進むとは考えられないのだ。エントロピー増大の法則のように、自然は一方の方向へとどんどんと失われていくことだろう。
どれだけ自然を守ろうと願う人がいても、その流れは恐らく変えることは出来ないだろう。そして人間は、その愚かな行いのためにこの地球という環境を壊し、最終的には人間の住めない星にしてしまうだろうと思う。
それを分かっていても、僕は積極的に自然を守ろうという方向に進むことは出来ないのである。なんというか僕らは、本当に愚かな生き物なのだろうな、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
年越しを、山奥の小屋で過ごそうではないか、という話になり、薫は記者仲間である瀬戸と娘の美々を連れてその小屋を目指している。その小屋は、薫の双子の弟であり、猛禽類の研究では世界的に知られている一流の研究者である昭がほとんど棲みついていると言っていいフィールドワークの拠点であり、他には昭の下で研究を続ける眞伊子とバーネヤンというフィンランド人が来る予定だ。
当初のメンバーに加えて、ヒグマに襲われたと言って逃げ込んで来た西という男が小屋に揃ったのだが、食料を調達するはずだった薫が来る途中で事故を起こして車を置いてきたため食料はほとんどなし。外をヒグマが徘徊しているかもしれないのに、持っている武器は猟師である西が持っている散弾銃だけで、これはヒグマにはほとんど通用しない。
外気温がマイナス40度を下回ることもある環境の中で、ふいに小屋が揺れた。地震だろうかと思われたが、そうではない。
ヒグマだ。
シャトゥーンと呼ばれる、冬眠の時期に穴ごもり出来なかったヒグマで、体長は3mを超えることもあり、体重は400キロを超えることもある。5tの重量を持ち上げることが出来、100mを7秒で走ることができる。鋭い爪を持ち、ライオンやトラを一撃で倒す、まさに怪物。
山小屋に取り残された彼らは、知恵を絞ってシャトゥーンから逃れる方策を考えるのだが…。
というような話です。
本作は、このミス大賞の優秀賞を受賞した作品なのですが、そこまで面白いと思える作品ではなかったなと思います。
たぶん一番の失敗は、シャトゥーンが強すぎるということだと思います。いやもちろん実際シャトゥーンというのは、ここで描かれているような恐ろしい生き物なんでしょうけど、しかし人間との差があまりにも激しすぎて戦いようがなく、それでスリルみたいなものが失われている気がします。
物語としては、シャトゥーンはもちろん無茶苦茶強いのだけど、でも人間の側もそれなりに打てる手がいくつかあり、知恵比べでなるべく互角の勝負に持っていく、みたいな話の方が、ドキドキ感もあるしスリルもあると思うのだけど、本作のように、シャトゥーンが一方的に圧倒的に強いと、もはや人間はなす術なし、食い殺されたはいおしまい、みたいな話になってしまうので、ちょっとよくないのではないかな、と思いました。
もしかしたら著者も、初めはそういう話にするつもりだったかもしれませんけどね。でも調べていくうちに、やべっ、シャトゥーンって無茶苦茶強くねぇ、これどうやったって人間に太刀打ちできないよぉ、みたいなことになって、こんな話にしたのかもしれません。
とにかく人が死んでいく悲惨さは、「バトルロワイアル」を思いださせる感じでした。「バトルロワイアル」は、とにかく人が記号のように死んでいくのだけど(まあ小説の中では背景もかなり描き込まれるので面白いですけど)、本作でも人がもうバリバリと記号のようにあっさりと死んでいきます。しかもかなりグロテスクに。生きながら食べられるとか、結構ホラーですよね。
そういえば本作を読んでへぇ~と思ったのが、クマに出会ったらどうするか、という対処の仕方ですね。割と多くの研究者が、「死んだフリをするのがいい」という話を支持しているようです。もちろんシャトゥーンみたいなのに出会ったらもうどうしようもないんだろうけど、でも「死んだフリ」は迷信だと思っていたので、研究者の多くが支持しているということを知って意外に思いました。まあしかし、人生の中でクマに遭遇するようなことは恐らくないだろうから、無用な知識ですけどね。
まあそんなわけで、ちょっと期待外れだった感のある作品でした。人間vsシャトゥーンという話ではなく、人間がシャトゥーンにボロボロにされるという話なので、スリルがあんまりない感じです。オススメはしないです。

増田俊成「シャトゥーン」

確か僕の記憶だと、犯罪の時効って延びるんではなかったかな、と思う。今は刑事事件が15年で民事事件が7年とかだけど、確か刑事事件が20年とかになるんではなかったかな。民事事件の方は覚えてないけど。いやもしかしたら間違った記憶かもしれないのだけど。
さてまあその時効の期間が延びるとして、それはいいことなのか悪いことなのかを考えてみましょう。案外これは、難しい問題だと思うんですよね。
いい点としては、犯罪者により長くプレッシャーを与えられる、ということですね。僕がもし犯罪を犯したとして、時効が15年ではなく20年だったら、キツイなぁとか思いますよね。以前よりもさらに5年も長く逃げ延びなくてはいけないし、その間穏やかな気持ちではいられないわけで、かなり厳しい。ずっとビクビクしながら暮らしていかなくてはいけないと思うと嫌だな、と思うのである。
しかし思うのだけど、時効を5年延ばしたところで事件を解決出来るかというとそんなことはないのだろうと思うのです。事件は、時間が経てば経つほど捜査しにくくなるわけで、それならばもはや、15年だろうが20年だろうが解決できなさみたいなものは変わりはないと思うわけです。
そもそもじゃあ一体なんで時効なんてものが存在するのかって考えてみると、あれなんでだろうなってことになります。なんででしょう。捜査を打ち切るきっかけのため、でしょうか。
それなら僕は思うわけです。時効というのはなしにしてしまって、犯罪者はそれがいつの事件であれ犯罪が立証されればその時点で罪になる、ということにすればどうでしょうか。しかし一方で、捜査打ち切り期限みたいなものも同時に設けるわけです。まあそれは15年でも20年でもいいわけですけど、それを過ぎれば、警察がその事件を捜査することはなくなる、という期限を作ればいいと思います。
いや、いろんなきっかけで事件って解決してもおかしくないと思うんです。時効を迎えた事件にしても、別の犯罪を犯した人間がふと供述をしたりとか、偶然何かの拍子に証拠が見つかるとか、まあほとんどありえないのかもだけどでもあってもいいんじゃないかと。そういう時に、じゃあ時効になってますんであなたのことは罪に問いませんです、というのはいかがなものだろうか、と思うわけです。
もし上で僕が書いたように、時効というものが警察の捜査を打ち切るきっかけのためだけに設けられているのならば、時効を廃止して捜査打ち切り期限というものに変えればいいのではないか、と思います。どうでしょうか。
それにしてもまあ不謹慎な話ですけど、一度でいいから完全犯罪というものをやってみたいな、と思います。銀行強盗とか誘拐なんかがいいですね。別にお金が欲しいわけでもないんですけど、こう知的ゲームみたいな感じで成功させたら気分がいいんじゃないかな、と思います。なんなら、お金を獲った後はそれをそっくりそのまま返してもいいですね。まあミステリで誘拐モノとかを読んだりすると、時々そんな風に思ったりします。
しかし完全犯罪というのはどういうことかって考えれば、時効まで逮捕されなければ完全ということなんでしょうね、やっぱり。そうなると、もし時効を廃止したら、表面上完全犯罪はなくなりますね。何故なら、起こった事件のすべては解決される可能性が残されているわけですから。
まあ僕は気が小さいので、犯罪はやらないと思いますけどね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ドラマで放映された「時効警察」をノベライズした作品です。全9話あるのだけど、今日はちょっと時間がないのでそれぞれの話を紹介するのはなしということで、その「時効警察」の大まかな設定だけ書きます。
舞台は総武警察署の時効管理課という部署。時効になった事件の遺留品の管理や資料の整理などをする部署である。そこで資料の整理などをする霧山は、無趣味であることを周囲の人間に指摘され、どうしようかと考えた。その結果、霧山は時効になった事件を趣味で捜査することにしたのである。
休日を利用して、また交通課に勤務する霧山に好意を抱いているしずかを連れ立って、時効になった事件の捜査をする霧山。料理研究家、トップクラスの水泳コーチ、人気女優、数学の助教授など様々な人間の罪を暴き立てては、「誰にも言いませんよカード」を渡すというなんとも奇妙な警察物語。
という感じです。
本作は、まあそこそこ面白いんですけど、でもやっぱり映像で見るべきなんだろうな、と思います。本筋のストーリーよりも、細かなところで挟まれる様々な小ネタがメインになっているような作品で、その面白さを文章で完全に伝えるのはかなり難しいだろうと思いました。それでもまあ、馬鹿馬鹿しい小ネタが満載で面白かったですけどね。
ドラマでは霧山というのがオダギリジョーなんだけど、なんというかすごく想像できるというか嵌まってるなぁ、という感じでした。無茶苦茶トンチンカンなキャラクターなのだけど、そのトボけ具合が飛んでて読んでて面白いです。ドラマで見たらもっと面白いような気がするなぁ、と思いました。他のキャラクターも漫画みたいなキャラクターばっかりで、結構笑えると思います。
本筋のストーリーで一番よかったなぁ、と思うのは、「三億円事件」をそのままそっくり真似した「平成三億円事件」の話です。警察にその事件の時効直前に、私が犯人なんだけど、手記を書きたいから遺留品を返してくれ、と電話が来ます。犯人かどうかも分からない人に返すわけにはいかないから、霧山が調べてあなたが犯人であるということが確定できたらお返ししますよ、という話なのだけど、これはなかなか話としてうまいな、と思いました。
それにしても初めて知ったのが、ドラマの脚本家というのは一人ではないんだなぁ、ということです。まあこういう、一話完結モノだからかもしれないけど、でもドラマの脚本とか全部同じ人が書いていると思っていたのでびっくりしました。それでなんとかなっちゃうものなんだなぁ、と。
まあそんなわけで、ドラマで見る方がたぶん断然面白いと思うのだけど、でもこの小説もまあまあ悪くはないと思います。ちょっと長いんでさくっと読むわけにはいかないけど、でも読みやすいんでスラスラ読めると思います。気が向いたら読んでみてはどうでしょうか。

三木聡他「時効警察」

他人の存在を、あんまり許容できない人間である。
なんというか、鬱陶しいなと思ってしまう。人間関係をうまくこなせないわけではないけど、でもやはり人好きといえるような性格ではなく、むしろ他人の存在を疎ましく感じる。
やはりまあ、疲れてしまうのだろうと思う。他人の考えに触れたり、その言動について考えたり、他人の存在に感情を揺さぶられたり、そういう心の動きみたいなものが窮屈な感じがして、あまり好きではない。
ただ一方で、他人の存在を求めていることもある。正確に言えば、自分にとって都合のいい部分だけ、ということだ。やはり、誰とも喋らなければ寂しいと思うし孤独にも感じるだろう。誰かが側にいてくれたらいいかもしれない、と思わないでもない。めんどくさい部分だけ欲しいのである。
まあ矛盾していると思うし、図々しいと思うけれども、しかし同じように考えている人は割と多かったりするのではないか、と思う。
インターネットというのは、そういう矛盾を解消するツールとして現れたわけで、その繁殖っぷりがそれを示しているような気がする。他人との煩わしい部分は切り捨てて、他人の存在のいい部分だけを残したようなインターネットの世界は、なるほど居心地がいいかもしれない。煩わしくなれば切り捨てればいいし、近づきすぎるということもない。まあ僕はそこまでインターネットには依存していないと思うけれども。
ペットというのもまた一つの考えなのだろうな、と思う。
僕はペットを飼いたいとは思わないけど、しかし飼っている人の気持ちが分からないでもない。例えば犬とかの場合、無償の愛みたいなものを注いでくれそうな気がする。人間同士であれば、打算や計略が浮き出て見えてしまうような関係でも、ペットはそんなことはない、と信じることが出来る。あるいは猫であれば、その適度なクールさをいい距離感として感じられるかもしれない。媚を売って近づいてくるでもなく、さりとて完全に離れてしまうでもなく、そういう長年連れ添った夫婦みたいな関係を実現できるものかもしれない。いや、飼ったことがないのでかなり適当ですけど。
動物は人間の言葉を喋らないから、こちらの都合のいいように解釈できる、というところがいいのだろうなと思います。例え不快感を感じていてもそれを言葉にすることはないし、責められることもない。確かに、何らかの温もりを求めている人には都合がよかったりするのだろうな、と思います。
僕は個人的には、ペットを飼うというのは人間の傲慢さの表れだと思っているのであんまり好きになれません。どれほど親身に丁寧に世話をしたところで、それは人間の都合であって、必ずしも動物のためになっているとは思えないのです。動物が人間の言葉を喋らない以上、何を感じているかわからないのだから。
何を言いたいのかよくわからなくなってきたけど、ペットを飼うというのは一つの大きな責任であって、真剣に考えなくてはいけないことだと思います。少なくとも僕は、ペットを飼いたいとは思えません。
ホント、何を書いているのか分からないですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
藍は「JOJO」というファッション雑誌の編集者であり、日々超多忙な生活を送っている。毎日終電で帰るのなど当然で、朝は事情があってかなりの早起きなので、かなりタフでないとやっていけない。
事情というのは、飼い犬のことだ。リラというなのゴールデンレトリバーをとある事情から飼うことになったのだけど、そのためにペット可の住居を求めて都心から郊外に引っ越したために通勤時間が長くなり、またリラの散歩もしなくてはいけないのとで必然的に朝が早くなるのだ。
長いこと付き合っている浩介と一緒に生活をしているけれども、リラの世話には大分浩介の力を借りている。藍一人の手ではどうにもならなかっただろう。
しかしそんな生活も破綻の兆しを見せる。藍の仕事があまりにも忙しくなりすぎて余裕をなくし、リラさえいなければ、と思うようになってしまうのだ。また浩介との関係も微妙に変化していき…。
働く女性とその飼い犬を中心とした物語です。
本作は、「カフーを待ちわびて」で日本ラブストーリー大賞を受賞した、あの原田宗典の妹でもある原田マハの第二作なのだけど、あんまり好きになれない作品でした。
なんとなく、あざといなぁ、という感覚が常にあって、どうしても物語に入り込めない感じがありました。ペットもいいし、それが病気になってしまうのもまあいいけど、でも全体的になんかありきたりでかつ泣かせようというような企みに満ちているような気がしました。まあ僕が歪んでいるのかもしれませんが。
ペットをきちんと飼ったことがないので(以前どこかで、ウサギを飼っていたという話を書いたけど、ほとんど世話らしい世話をしなかったもので)、ペットへの愛情みたいなものは正直よく分からないのだけど、まあ世の中のペット好きの人たちはあんな感じなのかもしれないなぁ、とぼんやり思ったりしました。
キャラクターや人間関係も特に面白いと思えるようなものもなく、あんまり読んでいて魅力の少ない作品かな、という感じでした。
まあそんなわけで、僕はあまりオススメしません。犬好きの人が読んだら、どうかなぁ。ちょっと分かりません。

原田マハ「一分間だけ」

基本的に、引きこもりである。
まあ、引きこもりという言葉にはどうも別に意味が付随するような気がするから、まあ言い直すなら出不精と言ったところだろうか。
とにかく、家にいるのが好きである。
類は共を呼ぶという言葉通り、僕の周りにもそういう人間は多い。別に外が嫌いなわけではないけど、でも積極的に出たいとは思わない。家で出来ることをのんびりやっているのが楽しい、そういう人種である。
僕も、とにかく外に出るのがめんどくさくて仕方のない人間である。例えば今日は休日だけれども、夕食を買いにコンビニに行く以外、外には出ていない。ずっと家にいて、本を読んでいるだけである。
僕だってまあ、人に誘われればもちろん外には出る。飲みに誘われれば行くし、遊びの予定があれば行く。ただ、一人ではどうにも外に出る気がしないのだ。ここ最近で、一人で外出した記憶を手繰ってみても、数ヶ月前にどこかのブックオフに一人で行った、くらいではないだろうか。それくらい、外に出るのがめんどくさいのである。
必然部屋にずっといることになるのだが、いやはや快適である。そもそもまず、服を着替えなくていいのだ。起きて、そのままの格好でダラダラと本を読み、ひたすらに本を読み、外の様子などまるで気に掛けもせずに本を読み、時々飯を食べたりネットを見たりしながら、また時々こうしてブログに感想を書きながら、ひたすらに本を読んでいるだけの生活である。
いやはや、快適である。
人と接するのが苦手な人間としては、やはり家に引きこもりがちになってしまう。外に出ても、そこにはめんどくさいことだらけである。大げさではあるが、何をするにも人を介さなくてはいけないし、何をするにも人の目を気にしなくてはいけない。そういうことに気疲れしてしまうのである。
バイト先の女の子で、外に出るのが好きだという子がいる。いやまあ、そういう方が健全で普通であるのかもしれないけど、しかし僕はなかなか共感出来ない。その子は、一人で自転車に乗って鎌倉まで行こうとしたり(途中で断念したらしいけど)、一人でふらっと映画を観に出かけたりするらしい。そういえば前バイト先にいた女の子も、毎日一人でいろんな喫茶店に行き、そこでお茶をするのが楽しい、とかなんとか行っていた。そういうものだろうか。
最近の子どもは外で遊ばなくなったらしい。まあそれはそうだろう。何せゲームが進化しすぎて楽しいのだろうし(僕はゲームとはほぼ無縁の人間なのでよくわからないが)、公園などでボールの使用が禁じられたりしているわけで、そもそも外で遊ぶような環境もないのだ。
とはいうものの、僕は別に「子どもよ、外で遊ぶべし」などと言いたいわけではない。世の中には、「子どもが外で遊ばなくなった、嘆かわしい」というような意見もあるらしいが、しかし別に関係ないだろう。昔は恐らく、家にいては娯楽がなかったのだろう。だからこそ外に出ていたのである。今では、家から一歩も出なくたって、娯楽は山ほどある。熱中できる何かがあるのならば、それがインドアだろうがアウトドアだろうが、別にどうでもいいだろう、と僕は思う。
家というものが持つ機能がどんどんと変わってきているのだろう。それがいいことなのか悪いことなのかは僕にはなんともわからないが、僕は思う。ずっと引きこもっていられるだけの家というのが、本当に快適な家なのではないか、と。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は6編の短編を収録した短編集になっています。それぞれの内容を紹介しようと思います。

「サニーデイ」
ふとしたことがきっかけでネットオークションを始めてみることにした。別に大きく稼げるわけではないけど、でももの凄く充足感があることに気がついた。専業主婦をしていると、なかなか人に褒めてもらえなくなる。だからこそ、落札者からのいい評価が、ただそれだけのことなのにすごく嬉しいのだ。ネットオークションを始めてからというもの、皺も減ったし化粧の乗りもよくなった。性格的にも前向きになっている気がする。ネットオークションって素晴らしいわ!
しかし次第に売るものもなくなっていって…。まあいいか、夫に内緒で売っちゃおうかしら…。

「ここが青山」
遅れて朝礼に参加すると、14年間勤めた会社が倒産することを知らされた。
それから夫婦の役割は一変した。
妻が働きに出るようになり、自分が家事をするようになった。初めは料理も洗濯もアイロン掛けもおぼつかなかったが、しかしやりがいを感じ始めていることにも気付いた。息子の弁当作りなど、毎日戦いだ。昇太にどうやってブロッコリーを食べさせようか…。気付くといつも、明日の弁当の献立を考えていたりする。
しかし、世間はそんな夫婦を不憫だと感じるようだ。まあそんなものかもな。夫婦はお互い満足しているのに、周囲の目には哀れみが籠っている。まあいいか…。

「家においでよ」
何が理由だったかよくわからないが、妻と別居することになった。インテリアにうるさい妻がいなくなって、部屋はがらんどうになってしまった。
まあ仕方ない。足りない家具を買い足そうか…。そんな軽い気持ちでいたのだが、これがどうして面白い。ソファを買うつもりだったのにテーブルを買ってみたり、本格的なオーディオ一式を揃えてみたりと、妻と一緒だった頃には出来なかったことを次々と実現させていった。しまいには会社の同僚も日参するようになって、かなり充足した毎日を送るようになった…。

「グレープフルーツ・モンスター」
家事の合間にDM用の宛名をパソコンで入力する内職をしている。1枚7円である。まあ大した稼ぎになるわけではないが、子育てもあるので仕方ない。
その内職を斡旋する会社の人間が週一で来るのだが、これまでのおっさんから若い担当に変わったようだ。随分と図々しい男だが、しかしその担当者が来た日の夜に限って夢を見るようになった。
それは、グレープフルーツのモンスターで、それがあの担当者であることが分かった。組みしだかれて襲われて、結局エクスタシーを感じてしまっている自分に気付く。
夫に内緒の密やかな楽しみ。それからは、その担当者が来る日を待ちわびるようになって…。

「夫とカーテン」
カーテン屋を始めるぞ、と夫が言い出した。まただ、と妻の私は思う。これまでも勝手に仕事を辞めては、思いつきの仕事を始めて失敗を重ねてきた夫だ。もう驚きはしないが、しかし勘弁して欲しいとは思う。今回もまた、私に内緒で勝手に仕事を辞めてきてしまったらしい。まあ仕方ない。
私は、イラストレーターの仕事をしている。夫がカーテン屋を始めてからしばらくして、なんだか分からないうちに傑作を描けた。編集者にも褒められた。周期的に描く絵に変化があるんですよね、といわれて振り返ってみると、どうも絵に変化があるのは夫が新しい事業を始めた頃に重なっているのだ。
いや、まさかね…。

「妻と玄米御飯」
妻は、今流行のロハスという生活スタイルにはまっている。地球環境に優しく、みたいなやつだ。作家である私は、まあ静観と言ったところである。
しかし、名のある文学賞を獲ってからは、どうもその妻の交友範囲の人々と接する機会が増えてきた。もちろん、ロハス的な仲間達である。どうにも合わないと感じるが、しかし口に出すことはない。
ある時、どうしても短編のアイデアが浮かばなくて、しかも締め切りが差し迫っていた。理由は簡単。そのロハス的な人々をこけ下ろす短編を書きたいのだが、書いたらまずいという頭もあって迷っているのだ。
どうするか。書いてしまおうか…。

というような感じです。
これまで、<家族>小説というのは腐るほど世の中に出てきたけれども、しかし<在宅>小説というのは斬新で今までなかっただろうな、と思います。
本作もまあ家をテーマにしているだけあって、割と<家族>小説的ではあるのだけど、しかしやはり<在宅>小説だなという感じがします。家族というよりもむしろ、家にいること、というのがテーマになっている作品が多いと思いました。
一番いいなと思ったのは、「ここが青山」です。僕も、別に家事が好きなわけではないけど(というか寧ろ全力で嫌いだけど)、でも主夫でもいいなぁ、と漠然と思っていたりする人間なので、すごく面白いな、と思いました。リストラされて妻が働きに出るという状況を、周囲の人間が哀れんでいるのだけど、当の本人達は至って楽しくやっているというところが面白いです。世の中の視線というのはやはり大事だけど、でも生きたいように生きるのが大切だろうなと思いました。
また「妻と玄米御飯」もかなりいいですね。僕も本作で描かれているように、ロハスみたいな主張に偽善的なものを感じてしまう人間なので、その描き方みたいなものにすごく面白みを感じました。こういうのもまさに宗教だろうな、と感じて恐い気がします。ロハスという生き方自体はいいのだろうし僕もそれ自体は否定する気はないのだけど、でもやはり強制してはいけないし、また大それた考えを持ってもいけないだろうな、と思うわけです。自分のためにロハスという生き方を選択するのは一向に構わないけど、地球のために自分はロハスという生き方選択したのだ、そしてそれは崇高な考えであるからして周囲の人間も是非ともに共感するべきだ、みたいなのはやはりいかんですね。
他にも、「サニーデイ」は最後の終わり方がいいと思うし、「家においでよ」は僕はオーディオには興味がないけど、でもああいう家での過ごし方は一つの男の理想だろうなと思ったし、「夫とカーテン」も夫婦の生き方みたいなものが伝わってきてよかったな、と思いました。
「グレープフルーツ・モンスター」だけは、ちょっとなぁと思いましたが、しかし巻末に載っている雑誌掲載順を見ると、この「グレープ~」が一番初めみたいなので、これなくして「家日和」という作品がなかっただろうと思うと、まあいいかなという気にもなります。
というわけで、スラスラ読めてしまうし、相変わらず奥田英朗は面白いなと思いました。特に夫婦だの家族だのと言ったものを、重松清とは違ったユーモラスな描き方で作品に仕上げて見せる辺り、未だに健在だなという気がしました。非常に面白い作品だと思います。是非読んでみてください。

奥田英朗「家日和」

鹿といえば嫌な思い出がある。
いつのことだったか覚えていないし、どこだったかも全然覚えていないのだが、一度鹿に襲われたことがあるのだ。
たぶん動物園かなんかだったのだろうと思う。奈良ではなかったと思う。家族でそのどこかの動物園に行った時のこと。小さかった僕は、何故か僕に向かって突進してくる鹿に激突され、転んだ記憶がある。確か冬で、辺り一面に堅い雪が残っているような時期だった気がする。僕はその固い雪に頭をぶつけて大泣きしたのだったと思う。
まあだからと言って、鹿が嫌いかといえば、別にそんなことはない。動物園にそんなに行かなかったこともあるのだろうけど、そもそも鹿とは縁のない生活をしているわけで、鹿についてどうこう思うことは特にない。
奈良県には一回行った記憶がある。いや、二回かもしれないけど、ちゃんとは覚えていない。その覚えている一回は、一人で行ったのだ。正確には、男二人で京都まで行った後、相手は実家である山口まで行き、僕は神奈川へ帰る前に奈良へ寄ってみた、という話である。
と言って、別に奈良についてどんな話があるわけでもない。確かに、鹿は多かったと思う。何故鹿なのか分からないが、あんなにいていいものだろうか。確かインドでは牛だかが神聖な生き物で、街中を我が物顔で歩いているらしいが、しかしそれとこれとは話が違うだろう。琵琶湖にブラックバスが大量に繁殖してしまったように、特別理由もないままに奈良に鹿が住み着いてしまったのではないかと思う。
奈良に住んでいる人は、あの鹿をどう思っているのだろう。邪魔な生き物だなぁ、とか思っていないのだろうか。あれは、法律上はどういう扱いなのだろう。確か法律には、牛や馬は公道を走っても良い、という決まりがあったはずだけど、しかし鹿はさすがに記載されていないだろう。あんなのを放し飼いにしておいていいのか?などという、どうでもいいことが気になってしまう。
奈良に住んでいる方、どんなもんでしょう?
本作に書かれていたけど、奈良では「寝倒れ」という言葉があるらしい。「大阪の食い倒れ、京都の着倒れ、奈良の寝倒れ」というらしい。
この寝倒れという言葉の起源が面白いと思った。
昔鹿というのは神聖な生き物であると思われていたようだ。だからこそ、鹿を殺してしまうことは死罪(!)に当たるようだ。
さてそんな時代に、朝起きて自分の家の前に鹿の死骸が置かれていたら、それはもう大変なことである。このままでは、自分の家の者が殺したと疑われてしまう。ならば、とその鹿の死骸を隣の家の前においやる。するとその隣の家の人も、そのまた隣へ…という感じにどんどんと鹿の死骸をたらい回しにしていった、という話があるようだ。
だからこそ、朝が遅い人は損をする、ということで、寝倒れという言葉が出来たそうだ。
また本作には、松尾芭蕉の話も出てくる。鹿を題材にしたこんな句があるらしい。

「びいとなく 尻聲悲し 夜乃鹿」

鹿の鳴き声など知らないが、まあでも「びい」ではないだろう。それともこれはあれか、日本人には「コケコッコー」と聞こえるニワトリの鳴き声が、アメリカ人には「クックドゥードゥルドゥー」と聞こえるというような違いだろうか。
などと思ってみるが、本作の中で一つの答え(オチ?)が用意されている。なるほど、なかなか面白いものである。
まあそんなわけで、ちょっと厳しいかなと思ったけど、鹿の話だけでなんとか文章を書けてしまうものだな。内容はともかく、だけれども。
というわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
大学院の研究員で、助手とちょっとしたいざこざを起こしてしまった俺は、担当教授からさりげなく、しかしほぼ強制的に臨時教師の仕事を押し付けられる。なんでも、奈良の女子高で理科を教えてこなくてはいけない、ということだ。なんだってそんなところまで行って教師などしなくてはいけないのだ。
しかしまあ仕方ない。そう思って向かった初日から、どうも雲行きが怪しい。遅刻してきた堀野という生徒に対する対応の仕方を間違え、嫌がらせのようなことをされるようになってしまった。
まあいいさ、どうせ数ヶ月の話だ。そう割り切って教師を続けていたのだが、しかしある時とんでもない事態が俺を待ち受けていたのだった。
なんと、あの鹿が、あの奈良中に生息しているあの鹿が、なんと俺に喋りかけて来たのだ!きみは神経衰弱なところがあるから、とことある毎に言われてきたが、ついに俺は幻覚を見るようになってしまったのだろうか…。
それから俺は、サンカクと呼ばれる謎の「お宝」を追い求め、剣道の指導に力を入れるはめになる。それが人類を救うことになると鹿に言われるのだが…。
というような話です。
いやはや、相変わらず面白いです、この人の作品は。
前作「鴨川ホルモー」も、京都を舞台にして、ありえないようなぶっ飛んだ物語がずんずん進行していきましたが、本作でもありえないような物語がずんずん進行していきます。どちらも、物語の導入はものすごく普通で、とてもそんな異世界ワールドへと入り込んでいくような作品には思えないだけに、その巧みな誘導はいつも見事だな、と思います。
本作では、鹿が喋るという辺りからどんどん異世界ワールドへと引きずられて行ってしまいます。奈良の女子高で数ヶ月教師をするだけのはずだったのが、いつの間にか日本を救うというような壮大な物語に摩り替わってしまいます。しかもそれに、鹿だの狐だの鼠だのが関わり、また何故か剣道の試合に真剣になり、鹿男街道をまっしぐらに進むはめになり、とまあワケのわからないことが頻発していきます。しかしそれが最後にはまあすべて丸く収まるわけで、強引なのかなんなのかわからないその筆力は大したものだと思います。
また、全編に散りばめられたユーモアも相変わらず健在です。本作では、堀野という女生徒が遅刻を咎められてつく嘘からしてもう最高だし、微妙にズレた登場人物たちが素っ頓狂なことをしてくれたり、あるいは至極下らないことを大真面目にやってみたりと、面白い場面がたくさんあります。
物語自体は壮大で、緻密でもあり、素晴らしいと思うのだけど、しかし全体を見てみると大げさなくらい馬鹿馬鹿しい話です。そのギャップがすごく面白いと思います。例えていうなら、超一流の寿司ネタを使ってカリフォルニアロールを作っているようなもので、しかもそれが絶妙に美味しい、みたいな感じでした。イメージできますか?
前作同様、相変わらずあんまり女っ気のない作品で(女子高が舞台なのに!)、それはそれで面白いなと思いました。だからこそ、堀野や長岡先生みたいな人が映えるのだろうし。あと、剣道の試合はなかなか迫力満点だと思いました(剣道経験者が読んだらどうか知りませんが)。
というわけで、「鴨川ホルモー」はまたまた偶然奇跡のように生まれた作品ではなく、万城目学の実力であるということがきちんと証明されました(って、酷い言い方ですね。いや、別に本気で言ってるわけではないですよ)。二作目ももうバリバリ面白いので、皆さん是非読んでみてください。

万城目学「鹿男あをによし」

生まれ変わり、というものを信じるだろうか?
僕は宗教については詳しくない、というかむしろまるで信じていないので無知も無知なのだけど、恐らく生まれ変わりを基本に据えているようなものもあるだろう。たぶんキリスト教も確かそうだったっけ。生きているうちにいい行いをすると生まれ変われるのだっけ?それともいい行いをすると天国にいけるのだっけ?仏教はそうだっただろうか。輪廻転生、みたいな話は、あれは仏教の話だっただろうか。
ああそういえば、どこかの国の国王だかなんだかを決める方法を今ふと思い出した。確か、現国王が死んだ後、その国王の「生まれ変わり」を探し出してその人間を国王に据える、みたいな国があったはずである。どのようにして「生まれ変わり」であるかどうかを判断するのか知らないが。
また、自分は誰それの生まれ変わりである、と主張する人も時々出てくる。以前、3歳にして数ヶ国語を自在に操れるという少女のニュースを見たことがあるが、その少女は生まれ変わりだと言われていた。しかし結局それは、親の超英才教育によって子どもが無理矢理語学を教えられていた、というだけの話だったというオチだった気がするが。
また、今流行っているだろうスピリチュアル的なものにも、前世という言葉で、生まれ変わりの概念が出てくる。あなたの前世はこうだったから、今のあなたはこうなのです、みたいなそんな話である。
さてそんなわけで、割と身近にあるような「生まれ変わり」についてあれこれ書いてみたのだけど、しかしどれも信憑性に欠ける。僕にはとうてい信じられるものではない。
ならば、どういうことが示されれば、「生まれ変わり」という現象が実際に起こったと信じることが出来るだろうか。
結果論(にしか見えないもの)から導かれるすべての話は、信じられるものではない。つまりそれは、「自分は誰それの生まれ変わりだ」とただ主張するだけのことであるのだが。いくら知っているはずのないことを知っていようが、ありえない能力を持っていようが、それが「生まれ変わり」であることの証明にはなりえないと思う。
僕が唯一信じられるのはこういうケースだ。あるAさんが、生前に「自分は生まれ変わるつもりだ」と決めるのだ。そして生まれ変わった暁にはこうした事実を示して見せる、ということをきちんと残しておく。それらを文書に残し、その事実を誰にも知らせないままその文書をどこかの貸し金庫に入れておく。
さてその状況の中で、実際Aさんが死にしばらく経ったあと、どこかで生まれたBさんが後に、どこどこの貸し金庫に自分の前世であるAさんの文書が残っている、という指摘をする。これならまあ、生まれ変わりを信じてもいいかな、と思う。
さて今度は、生まれ変わりが可能かどうかという話ではなく、生まれ変わりたいか、という話をしよう。
僕は、絶対に生まれ変わりたくない。人間にも、人間以外の何ものにも。時々、女性としての人生を一度やってみたいなとふと思うことはあるが、しかしふと思うだけで実際望んでいるわけでもない。
さて皆さんはどうだろうか?人間に生まれ変われるとしたら生まれ変わりたいですか?あるいは、人間に生まれ変わるのはちょっと無理だけど虫くらいになら生まれ変われるよ、と言われたら生まれ変わりたいと思うだろうか。
僕の友人に、とにかく死にたくないという男がいる。まあなんというかそれは誰でも同じかもしれないけど、彼の主張は、自分が死んでも世界が変わらない(だろう)というのが恐い、みたいなそんな話だった気がする。とにかく彼は死にたくないらしいのだが、じゃあ生まれ変わりたいと思うものだろうか。今度聞いてみようかな。
生まれ変わりはまあまるで信じてはいないけど、でもそういう現象が100%ないと信じているわけでもないので、どこかでそういうことがあってもいいとは思う。ただ、僕は生まれ変わりたくない。いいでしょ、別に。特に、この世に未練なんてないしね。死んだら死んだでさ、もうさっさと終わりにしてほしいものですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
ネタバレを最小限にするために、内容紹介もとにかく最小限に留めようと思います。
夏休みに入る直前の終業式の日、ミチオは学校を休んでいたS君にプリント類を届けるために彼の家を訪れるが、そこでS君が首を吊って死んでいるのを見つけてしまう。しかしその後、何故かS君の死体は行方不明になってしまう…。
そうしてしばらく経ったある日、僕の元にS君が戻ってきた。でも蜘蛛に生まれ変わった姿だったけどね。S君はそこで、自分は自殺じゃない殺されたんだ、と主張し、是非なくなった僕の死体を見つけ出して欲しいと願い出るのだけど…。
というような話です。
帯にはこんな風に書いてあります。

『僕と妹・ミカが巻き込まれた、ひと夏の冒険。
分類不能、説明不可、ネタバレ厳禁!超絶・不条理ミステリ。(でも、ロジカル)』

まさにその通りの作品で、見事だなと思いました。今まで道尾秀介の作品は本作を含めて3冊読んだことがあるのだけど、その中で一番面白い作品だと思いました。
とにかくこの人の作品は、作品全体のありとあらゆる部分に、伏線・ギミック・トリックの類が満載に仕掛けられている感じで、しかも最後にそれがうま~く収斂していくわけです。読んでいて、なんとなく違和感を感じるのだけど、でもその正体を掴むことは出来ない。出来ないけど、ぜも絶対怪しい。そんな風に思いながら読み進めていくと、最後にあっと驚くような真相が待っていたりするわけです。
本作も、読み終わるまでは、この作品をどうロジカルにまとめるのだろう、と思っていたのだけど、なるほど不自然でも無理矢理でもない形で(少なくとも僕はそう思いました)、綺麗にまとめたな、と思いました。すべての伏線が回収されているのかどうかは一読では判断できないのだけど、しかしかなりあらゆることが最後の十数ページで一気に解明されていくのは、なかなか快感です。
また本作は、もう一つの帯の文句が秀逸だと思いました。それは、

『本気で「物語をつくる」ってのは、こういうことさ!』

という一文なのだけど、いやホント読み終わったときなるほどねって思いました。これを帯に使おうと考えたのが著者なのか編集者なのかわかりませんが、いいセンスだと思います。
ただ逆に、タイトルの意味はあんまりよくわからなかったな、と思います。僕の中では、そこまで向日葵って関係なかったような気がするのだけど…。全然関係してないわけではないけど。それとも、向日葵というのは何かを象徴しているのか…。
本作の中のギミックで、一つだけ読んでいる途中で、これはまあこういうことだろうな、と分かったものがあるのだけど、しかしそれもまさかああだとは思いませんでした。ってこんな文章を書いても、何も伝わらないですね(笑)。
そんなわけで、本作はかなりオススメです。道尾秀介を読むならとりあえずこれではないでしょうか。バリバリのミステリを最近あんまり読まなくなっているので、こういうバリバリのミステリを読むとなかなか新鮮で面白いなと思います。是非読んでみてください。

追加:なんかアマゾンの感想を読むと、この「向日葵の咲かない夏」というタイトルには何か意味があるようです。ヤバッ、俺理解力なさすぎ?

道尾秀介「向日葵の咲かない夏」

超数学、という数学の一分野がある。
僕は、本作を読むまでそんな分野が存在することを知らなかったが、どんな分野であるかといえばつまり、「数学についての数学」というような分野である。
まあ意味はよくわからないだろうと思うのだけど、例えばそれは、国語辞典を作ろう、みたいな分野である、と僕は思うのだ。
数学に限らずあらゆる分野は、それぞれの個人がそれぞれ別々に業績を積み上げていって一つの体系を成す。誰かが意図的にそれを一つの方向にまとめたり、あるいは全体を無駄なくすっきりと統一させよう、などという思想の元に生み出されたわけではない。
数学もまあ同様であって、いろんな人がいろいろと自分が気がついたことを寄せ集めて体系が成り立っているのだ。
さて、発想自体は古代ギリシャからあったのだが、しかし近年、数学をもっと体系立てたやり方でうまいことをまとめてみようではないか、という流れが生まれたのである。つまりそれは、ありとあらゆる定義をもう一度見直し、全体を統一しようではないか、ということで、それを僕は「国語辞典を作ろう、みたいな分野」と呼んだのである。
この流れを生み出したのはヒルベルトという数学者である。数学を体系立てて組立て直そうという彼の思想は広く受け入れられ、一つの大きな潮流と成っていった。
さて、そうなったのにはワケがある。それは、数学というのは体系的に完全にまとめられるであろう、という風に数学者が信じていた、ということである。
これもどういうことかわからないかもしれないので、僕なりの解釈で勝手に説明をしてみよう。
ヒルベルトという数学者がやろうとしたことは、ある系に存在するいくつかの公理から、その系に存在するありとあらゆる定理を証明しよう、ということである。公理というのは何かといえば、ある系の性質を定めたようなもので、つまり前提のようなものだと思ってもらえばいい。例えば僕らが生きているこの世界の系では、次のような公理が存在する。

「ある点からある点に直線を引くことが出来る」
「与えられた直線をどちらの側にもいくらでも延長できる」
「ある点を中心とするある半径の円を書くことが出来る」
「すべての直角は互いに等しい」

本当はあと一つあるのだけど、長いので省略。また、文章は正確さよりも分かりやすさを優先して、本作の文章を勝手に変えて載せてみた。
さて、上に書いた四つは、どれも当たり前でしょう、という感じである。しかし僕らがいるこの世界の幾何学的なありとあらゆることは、上記の4点(+1点)と、それらによって既に証明された定理を使うことで説明ができるのである。
これが、体系的に完全である、ということである。いくつかの公理と、その公理によって証明された定理を使えば、どんなものでも証明できるという数学体系を、ヒルベルトは望んだしそれを実現しようと努力したのである。また他の数学者も、なるほど数学というのは非常に論理的だし整合性もあって、だから体系的に不完全なわけがないな、とまあそんな風に思っていたわけである。
多少話を変えるが、公理というのは、「実際にそうであるかどうか」ということは関係ない。もっと言えば、数学で規定される系というのは、僕らが生きているこの世界の系と一致する必要はないのである。
本作に分かりやすい例が載っていたので書いてみよう。
例えばある系について、次の三つの公理が成り立っているとする。

「すべてのxyzについて、x+(y+xz)=(x+y)+z」
「すべてのxyについて、x+y=y+x」
「ある特別の対象eがあって、すべてのxに対してx+e=x」

例えばこれが、僕らの生きている系の話であるとしよう。そうするとeというのは0しかありえない。
しかしだからと言って、上記三つの公理が、e=0でしか成り立たない、ということにはならない。
例えば、どこかある系では、「+」という記号が「×」という意味で使われているとしよう。そうなると、e=1である。また、「x+y」が、「xyの大きいほう」を表わす系が存在するとしよう。するとこちらもe=1となる。
またもっと面白い話もある。例えばある系では、「x+y」というのが、「xyのうち辞典のあとに出てくるほう」という意味だとする。するとe=その辞典の最初の見出し語、ということになるのである。
さてどうだろうか。公理というのは系の前提を生み出すもので、「実際そうであるかどうかは関係ない」というのがなんとなく分かっていただけたであろうか。
さてそんなわけでここで登場するのが、ゲーデルさんである。ゲーデルさんは何をした人かと言えば、「不完全性定理」というものを生み出した数学者なわけです。
話の流れでなんとなく予想がつくとは思いますが、そうですこのゲーデルさんの「不完全性定理」というのは、「数学を形式的に記述するのは不可能ですよ」ということを証明してしまったものなのである。
と書いてみたものの、たぶん僕のその説明は正確ではなのだと思う。
一応ゲーデルさんが証明したことは次のようなことである。

『自然数論を含む述語論理の体系Zは、もし無矛盾ならば、形式的に不完全である』

難しいですねぇ。さっぱりわかりません。一応要約すると、

『自然数の性質を、公理系によって完全にとらえるのは不可能である』
あるいは、
『Zが無矛盾ならば、正しいのに証明できない論理式がある』

ということになるらしい。
まあつまりどういうことかといえば、ヒルベルトの壮大な野望の一部を崩してしまった、ということである。
僕はまあ思うのだ。世の中というのはうまく出来ているものだな、と。それは、ヒルベルトとゲーデルさんが同時代に存在したということから思うのだ。
もちろんあらゆる分野と変わらず、数学も積み重ねの必要な分野であるし、であるとするならば同時代に生きる人々のレベルみたいなものも似たようなものになるだろうとは思う。しかしそれでも、数学を体系化しようと企むヒルベルトと、その野望を砕いてしまったゲーデルさんが同時期に存在したというのが、非常に面白く思えるのである。
さてというわけで、感想のほとんどを数学の話に費やしてしまったが、上記の内容は、あくまでも僕が解釈したことを書いているだけで、恐らく内容的には正確ではない(というか明らかに間違っている部分もあるかもしれない)。鵜呑みにしないでいただければ、と思います。
本作の内容についてですが、まず驚くべきはこの野崎昭弘氏の文章がべらっぼうに分かりやすいということにある。著者略歴のところにも、「分かりやすい文章に定評がある」みたいなことが書かれているのだが、僕は割とそれを信じていなかった。分かりやすいと言っても、まあ数学というのはなかなか分かりやすく書けるものではないと思っていたからだ。
しかし本作は、本当に分かりやすい本でした。扱われている例が面白いし、また難しい言葉を極力排除しようという配慮が感じられました。それでいて、正確さというものにはかなりこだわっていて、多少話が難しくなっても正確さを優先するという場面もあり、そういう部分でも好感が持てました。
さてしかし、そのもんのすごく分かりやすい文章を書く野崎氏の手による文章でも、ラスト50ページくらいの不完全性定理の話は、もうさっぱりお手上げという感じでした。
本作は、タイトルは「不完全性定理」となっていますが、全編がその内容というわけではなく、冒頭から200ページくらいは、古代ギリシャの話や数学の体系化の話、または集合論なんかに費やしていて、残り50ページくらいが不完全定理の話です。
その200ページくらいまではものすごく分かりやすかったのに、不完全性定理の話になるともうさっぱりで、もう何度読んでも分からないのでかなり諦めました。とにかく、それだけ不完全性定理というのが難しいということなのでしょう。ゲーデルさんはすごいなと思いました。
しかしこの野崎氏の本はこれからも読んでみてもいいなぁ、と思います。以前、サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」という本を読んで、よくもまあここまで噛み砕いて分かりやすく数学を説明できるものだ、と思ったものだけど、野崎氏の文章にも似たようなところがあります。何か見つけたら読んでみようかと思います。
さすがに本作は、バリバリの文系だという人(つまり数学が大の苦手だという人)にはオススメできません。数学が好きだという方は、読んでみたら面白いかもしれません。

野崎昭弘「不完全性定理」

小学生だか中学生の頃、<コギトノート>と呼ばれるものがあった。これは手帳のようなもので、毎日の時間割が上に書けるようになっていて、下には5~6行程度の欄があり、そこに毎日日記のようなものを書いては、担任の教師に提出する、と言ったようなものだった。
まあ、<コギトノート>そのものの説明はどうでもいいのだけど、何故そのノートが<コギトノート>と呼ばれていたかというと、そのノートの表紙にこんな言葉が書いてあったからだ(英語では書けないのでカタカナで)。

「コギト エルゴ スム」

これはあの、かの有名な「我思う故に我あり」という意味である。
というわけで、無駄に前置きが長くなったが、何の話かと言えば人間は考える生き物であるということであり、それはすなわち<意識>を持つということである。
人間の<意識>については、様々に研究をされてきている。
昔は、人間の<意識>というものは、哲学や心理学の分野だと思われていたのだと思う。いや今でもそう思っている研究者は多いようだが、人間の<意識>というものは一種別物で、何らかの科学的なアプローチは出来ないだろう、という認識があったのだ。
実際、哲学や心理学の分野で、<意識>に関するどんな進展がこれまでにあったのかということはよく知らないが、しかし、僕の個人的な意見を言わせてもらえれば、哲学や心理学で<意識>を解明することは出来ないだろう、と思うのだ。最終的に、「ほら哲学(あるいは心理学)で言ってたことは正しかったじゃないか!」となるのかもしれないが、しかしその正しさを保証するものは、間違いなく科学的なアプローチだろう、と僕は思うのだ。
恐らく<意識>というものが科学的な研究の対象になったのは、人工知能という考え方が出てきてからではないかと思う。
人工知能というのはAIとも呼ばれ、同名の映画が昔あったのでどんなものか想像がつくという人も多いだろう。というかもはや、人工知能という言葉はかなり一般的なものになっているかもしれない。要するに、ロボットを人間のようにしようではないか、という発想である。
その際に問題になるのは、ロボットに意識を持たせることは可能かどうか、ということである。恐らくその辺りのことを考え始めた頃から、<意識>というものが科学的研究の対象になっていたのだろう。
昔、瀬名秀明の「デカルトの密室」という本を読んだことがある。人工知能や脳に関することをテーマに据えた小説で非常に面白く読んだ記憶がある。その物語の最後で、人間並の<意識>を持った人工知能の開発に成功し、それが世界中で売り出される、という話があった。
またこっちはちょっと記憶が曖昧なのだが、山本弘の「神は沈黙せず」という小説の中でも、<意識>を持った人工知能の話が出てきたような気がするのだけど、どうだっただろうか。
そんなわけで、SFを含めた小説の世界では、昔から人間並みの<意識>を持った人工知能の存在は描かれてきたし、なるほど近未来という言葉からは、人間型の人間のような思考を持つ人工知能の存在というのは容易にイメージされるものだ。
しかし、実際どうだろう。そんな人工知能を開発することは可能だろうか。
現在でもこの部分については、研究者の間で考えが分かれている。つまり、人工知能に<意識>を持たせることが出来るという派と、持たせることなど出来ないという派である。
僕は、どちらかと言えば出来ない方に一票を投じたい。もちろん、人間並みの<意識>を有した人工知能がもし本当に開発されるようなことがあれば、それはもう素晴らしいことだと思うが、しかし無理ではないかと思う。
明確な理屈があるわけではないのだが、僕はこんな風に思う。つまり、人工知能と人間との間では、「言葉」というものが持つ意味がどうしても同一にはならないだろうな、ということだ。
人工知能にとって、言葉というのはただの言葉であり知識であり、言ってしまえばただのプログラムの一つである。それぞれの言葉同士を区別することは出来るが、しかしそれは単に字面が違うというような表面的な区別でしかない。
しかし人間にとって、言葉というのはただの言葉ではない。例えば「赤」という言葉は、ただの言葉であると同時に「赤らしさ」というイメージ(質感)も僕らにもたらす。これは、茂木健一郎氏の研究で広く知られるようになっただろう「クオリア」と呼ばれるものなのだが、結局のところ人工知能には、この「クオリア」を共有することが出来ないと思うのである。
最近ある本を読んだのだが、そこに「集合的無意識」という言葉が出てきた。ユングが提唱した言葉らしいのだが、その作品の中では、「生まれながらにして持つ学習するわけではない知識」みたいな使われ方をしていた。つまり、生まれたての赤ん坊が誰にも教えられないのにおっぱいを吸うことを知っているのはどうしてか、というようなそんな話である。
僕はなんとなくだけど、「クオリア」というものはその「集合的無意識」にあるのではないか、と思うのだ。人間すべてが無意識のうちに共有している知識である「集合的無意識」に「クオリア」というものが存在するからこそ、人間は同じ言葉から同じような質感を感じ取れるのだろうと思うのだ。
そう考えると、人間の「集合的無意識」にアクセスすることの出来ない人工知能には「クオリア」を獲得することが出来ないし、「クオリア」を獲得出来なければ、人間のような<意識>を持つことは出来ないだろう、というのが僕の意見である。まあデタラメなことを言っていますが。
さて、ここで天才数学者である「ロジャー・ペンローズ」という男が登場する。本当に天才のようで、例えば「ツイスター」という数学理論を一人で創り上げた男だ。この「ツイスター」理論のことを茂木健一郎は、「23世紀辺りの数学・物理学と大いに関係するだろう理論」という風に称している。それくらい天才らしい。僕も、何をした人なのかちゃんとは知らなかったけど、「ロジャー・ペンローズ」という名前は知っていた。
さてその天才が、人間の<意識>というものについて独自の理論を提唱しているのである。それがつまり<量子脳>理論という風に呼ばれるもので、つまり<意識>には量子論が関わっているという仮説である。
この仮説は、生物学者を含めたありとあらゆる方面から評判が悪い。とにかくペンローズの理論は批判の嵐である。この分野においては孤立してしまっていると言っていいだろう。
本作ではそんな、科学的な土俵ではなかなか評価されない天才ペンローズの超難解な理論を、今でこそ一流の脳研究者になった茂木健一郎と、今でこそ著名なサイエンスライターになった竹内薫の両氏が、今から約10年前、共にそこまで有名でなかった時期に翻訳と解説を務めた作品が本作である。
本作の構成は、非常に面白いものとなっている。
普通こうした科学系の作品は、
①誰か一人がある分野について書く
②誰かの理論を翻訳したもの
という二種類に分かれると思うのだけど、本作は全然違う。
本作は、一応著者が「ロジャー・ペンローズ」ということになっているが、しかしペンローズ自身の文章は、全体の3割くらいしかない。他の部分は、茂木健一郎と竹内薫による解説である。
つまり本作は、茂木氏と竹内氏の解説に挟まれる形でペンローズの文章が存在するという形態になっている。そこまで科学系の作品を読むことはないのだけど、しかしこういう作品は読んだことがなかったので新鮮でした。
さてまず何から書こうか。
まず、3割のペンローズ自身が書いた部分なのだけど、これは本当に意味がまったくわからなかった。文章を読んでいても、内容がさっぱり取れないのである。数学でも物理でもないような、非常に高度で難解な理屈を展開していて、とてもじゃないけどついていけなかった。というわけで本作を読もうという人は、ペンローズが書いた部分は飛ばし読みという感じにした方がいいような気がします。
本作で非常に面白かった部分は、茂木氏と竹内氏が書いた解説の部分です。本作の7割を占めるこっちの解説の部分はもう、非常に面白かったです。
冒頭で竹内氏が、量子論と一般性相対性理論の融合についての展望の話をしたり、茂木氏がペンローズと会った時の話があったり、竹内氏による用語集があったり、茂木氏による<意識>の話があったりと、かなり盛りだくさんな感じでした。何よりも傑作だと思ったのが、竹内氏によるペンローズ批判のまとめで、この部分は、内容こそきちんとは理解できないものの、そのまとめ方の妙みたいなものが非常に面白くて、いいセンスだなと思いました。
ペンローズ自身の言葉でペンローズの言いたいことを理解することは出来ませんが、茂木氏と竹内氏の二人の解説を読むと、ペンローズが最終的にどんなことが言いたいのかということがなんとなく分かってくるので、非常にいい構成の作品だな、と思いました。
一応ペンローズが<意識>についてどんな風に考えているか、ということを書いておきましょう。
まずペンローズは、人工知能に意識を持たせることは不可能だ、という立場です。それは、「計算不可能性」という部分を重視しているからです。ペンローズは、<意識>は「計算不可能性」を有していると主張します。それはつまり大雑把に言えば「計算によって状態を決めることが出来ない」というような感じです。
これに対して多くの人は反論します。ニューロンの発火は古典的な物理学で表わすことが出来る。古典的な物理学はすべて計算可能なのだからおかしい。あるいは人工知能の研究者は、素晴らしいプログラミング(プログラムというのもつまり計算可能なものです)をすれば、人工知能に<意識>を持たせられるかもしれないではないか、と。しかしペンローズはこの「計算不可能性」にこだわります。
そして、<意識>の働きが「計算不可能性」を持つのならば、それは量子論によって記述されなくてはいけないということになります。何故なら今のところ、「計算不可能性」を有した理論は量子論しかないからです。
しかし、ペンローズは現在の量子論は不完全だと考えていて、今ある理論だけでは説明することが出来ない、としています。つまり、量子論と一般性相対性理論を融合した新しい物理理論(それをペンローズは「量子重力」と呼んでいます)の登場を待たなくてはならないということです。
これが、ペンローズが主張している大まかなことです(本当は、マイクロチューブルとかいう脳のある部分が<意識>と関わっているというような話もあるのだけど、こちらは人に説明できるだけの咀嚼を僕が出来ていないのでパス)。
僕は、一般性相対性理論はすごく面白いと思ったし(もちろん0.1%も理解できてないと思うけど)、量子論も本当にすごい理論だと思います(こちらも0.1%…以下略)。また、数学の話ですが「不完全性定理」という話を聞いたときもすごいと思ったわけで、その世界のすべてをひっくり返してしまうような新しい理論というのはやはりワクワクするなぁと思います。だから、早く誰か量子論と一般性相対性理論を統一して、新しい理論を創り上げて欲しいものです。そして、僕が死ぬまでに誰か<意識>の謎を解き明かして欲しいものだ、とまあそんな風に思います。
本作は、僕は非常にいい本だと思います。ちょっと高い本だし、まあ本作はさすがに科学系の話に興味がない人には全然オススメ出来ないけど、しかしそういう話に興味があるという人は、読んだら楽しめそうな気がします。是非読んでみてください。
そういえば本作に書いてありましたが、ペンローズというのは絵も得意で、ペンローズが描いた「不可能図形」の絵を、ペンローズの祖父の友人であったエッシャーに見せたから、エッシャーはあの騙し絵の数々を描くようになった、とのことです。素晴らしいですね。

ロジャー・ペンローズ+茂木健一郎+竹内薫「ペンローズの<量子脳>理論」

「青山ブックセンター」、のことを考えると、僕の中ですかさず、「ABCマート」、と変換されてしまう。なので、「青山ブックセンター」の話をしようとすると、口をついて出てくるのはまず「ABCマート」という言葉である。その度にいつも、違う違う、と思いながら訂正をするのである。
だからどうということもない話である。
青山ブックセンターには、かつて二度行ったことがある。一度めは、渋谷のHMVの上の辺りにあるところで、二度目は自由が丘のブックオフの目の前のところである。
これまでに青山ブックセンターに足を踏み入れたのはその二度しかないのであるが、しかしものすごく素敵な本屋だと思った。
僕は、本屋で働いているせいもあるかもしれないが、自分が見たことも聞いたこともないような本がずらりと並んでいる本屋を見ると嬉しくなってしまう。
「僕が見たことも聞いたこともない」というが、しかし自分で言うのもなんだがこれはなかなかのことである。本屋にいれば、意識せずともそれなりの量の本を目にすることになる。小説に限って言えば、いつも僕は面白そうな本を探しているので、より様々な本を目にすることになる。そういう僕が「見たことのない本」がずらりと並んでいるというのは、やっぱりすごいと思う。
あまり他の新刊書店を見ることはないのだが、ふらりと立ち寄って見ることはある。しかしそういう時でも、大抵どこの本屋も大した違いはない。それはとりもなおさず、僕がいる本屋も他と大差ないということであり、担当を持っている僕としても頭の痛い話であるのだが。
金太郎飴とよく言われるが、書店は本当にどこも金太郎飴のような状態になってきた。売れている本や話題作、テレビで紹介された本、映画化される本、有名人が紹介していた本、著名な作家の著作、出版社が組むフェア、そういったものをただ漫然と並べているだけの本屋が、たぶん多くなっているのだろうな、と思う。この点は、書店系の書物の中で多く指摘されている。
書店員に知識がないのが問題なのであろう。恐らく書店員なのに本を読まない人間が山ほどいるのだろうし、書評なんかもチェックしていないのだろう(というものの、僕も新聞は取っていないので書評のチェックはしていないのだけど)。何を売り場に置いていいのか分からず、とりあえず出版社や取次ぎに勧められたものや話題になった本を並べるだけ、という状態になっているのだ。
ただ、いい訳をさせてもらえば、単純に書店員の側だけの問題ともいえないと思うのだ。それは、ありえないほどの新刊ラッシュである。
今、一日に雑誌を除いて200点くらいの新刊が出ているらしい。一日に200点出る中から、どうやって「いい本」を選び抜き、それを売り場に並べればいいのかということを考えると途方にくれるというものである。ある文芸評論家は、「出版される本の8割はゴミである」と言っている。夢の島からお宝を掘り出すような仕事を僕らはしているのかもしれない。
多少脱線するが、何故ここまで新刊の点数が増えているのかというのが本作に書いてあった。僕はその理由を知らなかったので興味深かったので書いてみます。
出版業界の商習慣というのはかなり特殊なもののようで、出版社と取次ぎのお金のやり取りはこうなっている。まず出版社が本を作り、それを取次ぎの卸す。その段階で取り次ぎは、出版社から送られてきた本の代金を全額支払う。その後出版社への返品が生じた際に、その返品分だけお金を取り次ぎに戻す、というやり方である。
ここで出版社は知恵を絞り、なんとか取次ぎにお金を返さなくてもいいような仕組みを考え出した。それがつまり、「返品分の代金を、新たな新刊を取り次ぎの卸すことで穴埋めをしよう」という発想である。つまり出版社は、売れない本の返品分と交換するような形で、また新たな新刊を取次ぎに卸しているということになる。
こうなると出版社としては、常に新刊を大量に作り続けなくてはいけない。いずれ捨てることになると分かっていても、新刊を出し続けるしかないのである。一日に200点の新刊というのは、そういう事情があるのである。
これは裏を返せば、書店が返品を出しすぎるからこそ新刊の点数が増えているともいえるわけで、すべてが悪循環のまま回っているのだな、という感じがしないでもない。
さて話を青山ブックセンターに戻すが、青山ブックセンターに置かれている本は見たことがないものが多く、しかもどこか輝いて見えるのである。何故だろう、と考えてもわかるものではないが、なんとなく手に取ってしまうし、なんとなく買ってしまいたくなってしまうのである。まるで魔法である。
その青山ブックセンターはかつて、一度倒産の憂き目に遭っている。これは、青山ブックセンターが赤字だったということではなく、親会社の倒産と共にという感じの倒産だったようだが、独立系の専門書店としてあらゆる人々に愛されてきた書店は、一度消えかけたのだ。
しかしその時不思議なことが起こった。作家や編集者が、青山ブックセンターを潰してはならんと、署名活動を始めたというのだ。そうした力もあって、青山ブックセンターは再生した。なるほど、どれだけお客さんの心を掴んでいるか、分かろうというものである。
本作は、そんな青山ブックセンターが何故再生することが出来たのかという部分を中心として、青山ブックセンターという特異な本屋について分析をした本である。
著者は元軍人で、今もって書店経営とはまるで関係ない人であるが、とある縁で青山ブックセンターの社員研修をしたことがあるということで、その経験を元に本作を書いている。
著者の主張は、青山ブックセンターは書店を祭りの場として提供したことで成功したし再生もしたのだ、というものだった。本と本が出会う場、本と人が出会う場としての書店という機能を最大限に活かし、それによって繋がったお客さんや作家や編集者を取り込み、また独自の知識とアイデアで様々な企画をし続けることで、今の青山ブックセンターが生まれたのだ、ということだ。
まあこれは、言葉で書けば簡単なようだが、実際はものすごく難しいと思う。書店員が並大抵ではない知識を持っているのはもちろん、お客さんが何を求めているかをデータで分析し、よりより陳列を目指して棚を入れ替え、目を惹くようなPOPを作り、また人脈を広げて様々なイベントを企画するというのは、本当に難しいものである。
青山ブックセンターの特色として、学芸員の存在がある。まあ要するに、それぞれの分野ごとに担当が存在するということであるが、この学芸員の持っている権限が非常に大きいことが一つの特色であるという。僕がいる店では、アルバイトが担当を持っているような店なのでその特色についてはよく分からないのだが、しかし作家などを呼ぶフェアを企画するのも学芸員だというのだからすごいものだ。つまり、学芸員それぞれにそれなりの人脈が求められるということであり、恐ろしいものだと思う。
また青山ブックセンターは、店長の厳しい管理項目が求められているようである。当然なのだろうが、売上についてもかなり厳しく目標が決められていて、その他ありとあらゆる項目について目標が存在する。数字こそ公表していないが、「ロス率」と呼ばれる数字がある一定の数字を超えると、店長は更迭されてしまうらしい。僕のイメージではなんとなくのんびりと仕事をしているようなイメージがあったので、ここまで厳しいというのは意外だった。僕のいる本屋とは大違いである。
こういう書店系の本を読んでいつも思うのは、やはり自分で考えなくてはいけないのだな、ということである。どんな成功例・失敗例を読んだところで、それはあくまで参考程度のものであり、自分の店に合ったやり方は自分で探って行かなくてはいけないのだろうな、ということである。しかしやはり、いろんな視点を知ることが出来るという意味で、こういう本は読んで損はないかもな、とも思う。
本作は、青山ブックセンターというかなり特殊な本屋の話であるということもあって、直接的に使えるようなことはあんまりなかったと思うけど、いろんなデータが載っていたので、ちょっと比較してみたりしようかな、と思う。
本作がどんなターゲットに向けて書かれた本なのかはわからないけど、一応ビジネス書としても読めるだろうな、と思います。書店以外にも参考になるようなことは多少あるかと。また青山ブックセンターに好きでよく行く、みたいな人は読んでみたら面白いかもです。また本作を読んで青山ブックセンターに興味を持った人は、是非一度足を向けてみてください。面白い本屋ですよ。

浅井輝久「ABC青山ブックセンターの再生」

神はサイコロを振らない。
あまりにも有名な言葉である。物理学の世界では伝説とも言える、かのアインシュタインの言葉である。
この言葉の意味をご存知だろうか?
アインシュタインは、二十世紀に確立されたある理論について批判的であった。量子論、と呼ばれるその理論を象徴的に批判する言葉が、「神はサイコロを振らない」という中に凝縮されている。
古典物理学というのは、ニュートンが確立したものだ。ニュートンの思想は単純で、世界はすべて絶対的なものに支配されている、というものだ。
例えば、サイコロを振ることを考えてみよう。サイコロを振ると何がしかの目が出るが、しかし出る目を完璧にコントロールすることは可能だろうか?ニュートンは、サイコロを投げる初速度や空気抵抗、地面との摩擦や放物線の軌道などを完璧に同じにすることが出来れば、毎回同じ目を出すことが出来る。決定論と呼ばれるこういう考えをニュートンは古典物理学の基礎に据えたのだ。
後にニュートンの古典物理学を根底から覆すことになるアインシュタインにしても、決定論者であった。すべての要素を厳密に統一することが出来れば、常に同じ結果を導くことが出来ると考えていた。
しかし二十世紀に入り、様々な研究から、量子論というものが生まれた。
量子論の中で最も有名なのは、ハイゼンベルグが唱えた不確定性理論だろう。これは、物質の位置と速度を両方とも厳密に測定することは出来ない、ということを示した理論である。
物事を観察する、ということを考えてみよう。僕らは普段、目でものを見ることによって観察をしているが、それらはすべて光の反射によるものだ。また、X線や電磁波によって物事を観察する方法もある。
しかし、物事を観察するためには、対象になんならの電磁波的なものを照射し、その反射を捉えなくてはいけない、ということに変わりはない。
さてでは、原子一個を観察することを考えてみよう。原子一個を観察するためには、その原子に電磁波的なものを照射しなくてはならない。しかし電磁波を原子に当てることで、電子の位置に影響を与えてしまう。結局僕らが知ることが出来るのは、「電磁波を照射することで影響を与えられた原子の位置」でしかない。速度についても同様である。
この不確定性原理は、物質は確率的に存在している、という風に主張する。例えばある原子は、ある瞬間Aという場所に70%の確率で、Bという場所に25%の確率で、Cという場所に5%の確率で存在する、と言った具合である。それは、観測をすることで一つに決まるのだが、しかし観測しない限り「ある意味で原子は二つ以上の場所に存在する」ということになるのだ。
これを証明(?)した実験に面白いものがある。光とスリットを使ったものだ。
まず紙のようなものに細長いスリット(縦長の穴のようなもの)を作り、そこに光を通すとする。すると光の先には光の筋が一つ出来ることになる。
さてではこのスリットを二つにすることを考えよう。するとどうなるかと言えば、二つのスリットを通った光が干渉し、縞模様のようなものが出来上がる。ピアノの白黒の鍵盤のような模様が出来ると考えてくれればいい。
さてここである装置を考える。その装置は、一回の照射につき光子(光というのは波であると同時に粒でもあり、要するにその光の粒のことを光子という)を一つだけ放出する(この装置は実際に存在するらしい。思考実験ではないということ)。さてこの装置から二つのスリットに向けて光(光子)を照射しらどうなるだろうか。
普通に考えれば、光子は一つしかないのだから、二つのスリットのうちのどちらか一つだけを通り、その通った側のスリットの方に一つの筋が出来る、ということになるだろう。
しかし、実際にはそうはならない。光子一つの場合でも、紙の向こうには縞模様が出来るのである。
つまりこのことから分かるのは、光子は同時に二つのスリットを通り抜けている、ということである。普通に考えれば信じられないことだが、しかしそう考えるしかないのである。
こうした実験がなくても、今や量子論というのは生活になくてはならないものらしい。詳しいことは知らないが、量子論がなくてはテレビもパソコンも作ることができないらしいのだ。
アインシュタインは、この量子論を批判した。この世の中が確率的な振る舞いを見せるとする量子論を、「神はサイコロを振らない」という言葉で批判したのである。
今では量子論は正しい理論であると信じられている。決定論者もいるのだろうけど、しかし量子論を認めないわけにもいかないというところだろう。
しかし、もし<ラプラスの魔>が存在しうるとしたら、量子論に反してそれが存在できるとしたら、なるほどそれは面白いことだと思う。<ラプラスの魔>がなんであるかは、自分で調べてください。微妙にネタバレになりそうな気がするので。
友人に、科学で解明できないものは信じない、と言う人間がいる。なるほど彼なら、本作で提示されたことを信じることはないだろう。しかし、僕は信じてもいいと思う。あってもおかしくはない。たとえそれが、どんなに「数学的にありえない」ことであっても。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、主に三つの物語が同時に進行していく形で物語が進んで行きます。
デイビッド・ケインは、元統計学の講師である。どんな確率でも暗算で計算できてしまう男で、講師としての評判もよかったのだが、しかしある時からおかしな症状に見舞われ、講師の職を辞さなくてはならなくなったのだ。
突然悪臭がやってきて、幻覚のようなものを見る。耐え切れなくなって吐き、そのうちに意識を失ってしまう。そんな症状が出始めたのだ。病院に行くと、癲癇だと診断された。
それから彼はポーカーにはまるようになるのだが、ある時とんでもない大負けを喫することになり、多額の借金を背負うことになってしまう。
治療のために病院から離れるわけにはいかず、借金を踏み倒して逃げるわけにはいかない。かといって金を稼げる当てがあるわけでもない。そうして騙し騙し日々を過ごしているうちに、いつしかケインは多くの人間から追われるようになってしまう…。
ナヴァ・ヴァナーは、CIAの工作員である。暗殺専門と言ってよく、その腕はCIA内部でもトップクラスのものである。
ナヴァは、CIAの仕事を通じて知りえた情報を他国に売ることをずっと続けてきたのだが、最後にしようと思っていた案件でヘマを踏む。北朝鮮とのその取引で多額の金を得ることが出来るはずだったが、しかし一転彼女は窮地に立たされてしまう。自分の命を守るため、北朝鮮との取引に使えそうなネタを追い続ける彼女だが、とことんうまくいくことがない。
しかし彼女は、ケインと出会うことで変わって行くのだが…。
ドクター・トヴァスキーは、現在とある研究にすべてを捧げている。それは、まともな常識を持った人間であれば一生に付すような研究であったが、しかしトヴァスキーは確信を持っていた。自分の理論は決して間違っていない。
トヴァスキーは人体実験を重ねることでデータを得ようとするのだが、しかしなかなかうまく行くことがない。援助を求めるもうまくいかず、しかも被験者を失ってしまうことになり…。
さらに、FBIや高額の宝くじを当てた男、また国家機関である<科学技術研究所>や天才的なハッカーなどが入り混じって物語を展開させて行く。
あらゆる人間が追うのは、ケインが持っているとされるある能力だ。ケインは一体どんな能力を持っているというのだろうか?
というような話です。
いやぁ、なかなか面白い作品でした。こういう作品はなかなかないだけに、読み応えがありました。
作品全体に、統計学や確率論、果ては相対性理論や量子論の話が散りばめられていて、そういう話が好きな僕としてはかなり楽しめました。ただもちろん、物理や数学がダメという人にも、なかなか興味深い話がたくさんあると思います。
例えば、生徒数58人のある授業での一コマ。講師は遅刻してきたある学生と賭けをすることになります。
賭けの内容は単純。この58人の中に、誕生日が同じ人間がいれば講師の勝ち。いなければ生徒の勝ちという賭けです。
さてどう思いますか?数学的でない、ごく普通の直感では、一年は365日あるわけで、58人でそれを配分しても、重なり合う可能性はすごく低そうです。58÷365なんていう計算をして、うむ確率はそんなに高くないぞ、なんて考える人もいるかもしれません。
しかし実際の確率は驚くべきものです。これくらいのネタバレは大丈夫だろうと思って答えを書いてしまいますが、58人の中で誕生日が同じ人間がいる確率は、なんと99.4%、ほぼ100%に近い確率で誕生日が同じ人間がいる、ということになるわけです。詳しい計算はめんどくさいので書きませんが。
まあそんなわけで、もちろん文系の人には(というか理系の人間にすら)難しい部分は本作にはあります。しかしそういう部分は、そこまできちんと理解しなくてもいい部分であって、些末であると切り捨ててしまっても問題ないと思います。また、僕は心理学や哲学については無知ですが、本作にはユングの話や東洋の哲学なんかの話もちらっと出てきます。僕は、まあちゃんと理解できたとはいえないですが、しかし面白い話だな、と思いました。
本作の中で、ケインが持っているとされる能力についてだけど、僕はこの能力が実際に存在してもおかしくはない、と思いました。今までこの能力に、きちんとした(あるいはそう見える)物理的な説明をつけたものを見たことがなかったので、かなり新鮮でした。僕は、そこまで物理に詳しいわけではないのだけど、しかし本作で提示されている説明は、酷く荒唐無稽という感じでもないと思います。本物の物理学者が読んだらどうかは分かりませんが。
後半で、この能力は誰でも持っているけど、その力の度合いに差がある。力の小さな人は、そういうものを気のせいだと判断する、というような部分があって、なるほどそう考えれば、あれとかあれとかにも説明がつくな、と思いました(ネタバレにならないように説明するのは難しい)。とにかく、僕は本作で提示された能力はありえるなと思いました。
本作は、割と「ダヴィンチ・コード」と比較されることが多いみたいだけど、僕はこっちの方が好きですね。というか多分、歴史的な話が好きなら「ダヴィンチ・コード」の方がいいだろうし、数学・物理的な話が好きなら本作の方がいい、ということになるのだろうな、と思います。
本作は、ミステリと言えばミステリだし、サスペンスといえばサスペンスだけど、アクションの要素も多分にあります。
いつも思うのは、日本の作品というのはアクションが合わないよな、ということです。日本でアクションを小説に取り入れようとすると、どうしてもノアールチックな作品になってしまいがちです。どうも、ミステリやサスペンスと言ったものとは相性が悪いような気がします。日本の作品でカーチェイスなんかやってもなんか締まらないし、何よりもやはり、銃を使えないという制約が大きいのだろうな、と思います。
たまに外国の作品を読むと、アクションシーンがなんとも自然だな、と思ってしまいます。それは、ハリウッド的な映画に馴染んでいるために、あまり違和感を感じない、というだけの話かもしれないけど。日本の作品でやったらあまりにも不自然であるようなシーンが、アメリカという国でならいくらでも自然な風景になってしまうのが、なんか不思議な感じがしました。
あと、僕が知っている中で、本作と同じような趣向を目指した作品に、山口雅也の「奇偶」という作品があるのだけど、本作の方が圧倒的にレベルが高いな、という気がしました。「奇偶」は結局オカルトチックな話になってしまったけど、本作は最後まで科学的だったなと思うからです。そんなことを思いました。
というわけで、僕はかなり満足しました。面白い作品だと思います。理系的な話が苦手だという人は若干二の足を踏むかもしれませんが(上下巻だし)、でもサスペンスもアクションも満載なので楽しめる作品に仕上がっていると思います。読んでみてください。
しかし最後にこんなことを書いてみるけど、どうしてもミステリ的に一点、フェアではない部分があると思うんですよね。でもそれは、もしかしたら作者のせいではないかもしれないのでなんともいえないのですけど。

アダム・ファウアー「数学的にありえない」

最近の話だけれども、あるテレビ番組雑誌に、高田純次が表紙になっていたものがあった。
それを見た時はもう、爆笑してしまった。
記憶は曖昧だが、確か黒っぽい背景の中で、黒っぽいスーツを着た高田純次が、赤いバラかなんかを持っていた気がする。まあそれだけならなんということのないショットだと思うのだけど、もちろんそれだけなわけがない。
高田純次は目を瞑っているのである。それだけでも大したことはないのだが、しかしもちろんそれだけではない。高田純次のまぶたには、マジックで描かれた「目」があるのである。
まあよくイタズラでやるような他愛もないことだけど、しかしかなりインパクトのある表紙だった。雑誌の編集部もよくこんなショットを表紙にするような英断をしたな、と感心したものである。相変わらず高田純次というのは適当だな、とまあそんなことを感じたものである。
余談であるが、同じ雑誌の次の号の表紙が、石原裕次郎のモノマネをした「ゆうたろう」が、真っ白なスーツを着てドラムセットに坐っている、というショットであった。同じく爆笑させていただいた。
最近は僕も、まあなかなか適当に生きることが出来るようになったなぁ、と結構満足しているのである。
今の僕の社会的なあり方は、ひと言で言えばフリーターである。本屋でアルバイトをしているしがない若者であり、夢も希望も特になく、本を読む以外の趣味も特になく、金持ちになってやろうとか有名になってやろうなどという企みもなく、結婚したいとか安定した生活をといった希望も特にないような、まあそんな人間である。住んでいるのも、築何年かわからないようなところで、風呂なしで家賃2万5千円という物件である。我が家に来たことのある友人達は口を揃えて、お化けが出そうな部屋だ、と評するような、まあそんな部屋である。
こう書くと、悲惨で最悪な生活のように思われるかもしれないが、しかし全然そんなことはなく、寧ろ大昔に比べたらものすごく満足感のある生活をしていると思う。
昔の僕は、本当にありとあらゆるものにがんじがらめに縛り付けられた人間だったな、と思う。人生はまっすぐ歩かなくてはいけないもので、脱落したら終わり。毎日着実に一歩一歩高みを目指して行かなくてはいけないし、努力を怠ることも許されない。まあ基本的に、そんな窮屈なことを考えながらずっと生きてきたわけである。
このままだと僕は潰れるだろうな、と思い、まあどうしていいかわからないなりに、自分を縛り付けるありとあらゆるものから解放されたくて、一時期様々な人間に迷惑を掛けたことがある。結果的に大学を中退し、一時期戻っていた実家から逃げ出すようにまた東京へと舞い戻り、今のような生活をしているのだが、その選択を後悔したことはこれまでに一度もない。
あのまま大学をきちんと卒業し、きちんとした形で社会に出た自分を想像すると、恐ろしい気がする。恐らく僕は、鬱病などの精神病を患い、思い余って自殺していたかもしれない、とまあ漠然とそんな風に思う。
今は気楽ですごくいい。確かに、ありとあらゆるものを捨てたのかもしれない。将来への希望だとか、結婚への可能性だとか、その他もろもろ、普通の人が後生大事に残しておきたいと願うようなものをバンバン捨ててしまったのかもしれない。
しかし僕は、そういうものに執着して生きていくということがどうしても出来なくて、そういう人生がどうしてもいいと思えないのである。ちゃんと会社で働いて評価され、きちんと結婚して子供を産み、なんていうまっとうな人生に憧れを感じることはないし、そうしないと社会的に評価されないとしてもまるで気にならない。
まあもちろん、高田純次ほどとは言わないが、僕もそこそこ適当に生きる術みたいなものを会得しているのかもしれないな、とまあそんな風なことを思いました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、一応高田純次の著作ということになっていますが、どう読んでもこの作品は、精神科医でありいろんな著作を持っている和田秀樹氏の著作と言っていいでしょう。
内容は、冒頭で高田純次と和田秀樹の対談。その次に、和田秀樹による、高田純次の名言分析。また高田純次が受けたなんたらテストの結果が載り、最後にほんの少し、高田純次の語る部分がある、という感じになっています。これで、著者名が高田純次となっているのはすごいですね。表紙のどこにも「和田秀樹」の名前はなく、和田秀樹もこれでオッケーしたのだろうか、と疑いたくなるような感じでした。まあそういう部分も含めて、適当なんでしょうけど。
内容は、まあかなりゆるい感じで、まさに新書だな、という趣です。とにかく、高田純次が喋りたいだけ喋り、和田秀樹が分析したいように分析しているという感じで、全体的にそこまで面白いとは思えない内容でした。ところどころ、面白いことを言うんですけどね。
まあ高田純次というのは、適当に生きているように見えて、実は気を配っているし努力もしている、というような感じの話で、ちょっと意外な一面的な部分はあります。
まあ、高田純次のように適当に生きれたらいいなぁ、なんて思う人は多いかもしれないけど、まあそう簡単にはなれないだろうな、ということが実感できる本でした。
薄い本なので、まあ本屋で立ち読みくらいでいいんじゃないかと思います。買うほどの本ではないかと。あと、「適当手帳」という本もあって、これも同じくソフトバンクから出ている新書なのだけど、こちらも適当みたいで一見の価値はありそうです。実物を見たことはないですけど。まあ興味がある人はとりあえず立ち読みでということで。本屋の人間が立ち読みを推奨してはいけないと思いますけどね(笑)

高田純次「適当論」

僕は、バイトが終わるのが深夜1時で、大体2時前後に家に帰るという生活をしている。一応都会に近いような場所に住んでいるので、深夜だからといって外が真っ暗というようなことは全然ないが、しかし時々変な気分に陥ることがあるのだ。
それは、言葉で説明することがなかなか難しい感情だ。
こう、バイト先から家に帰る途中で、ふと感じるのだ。何か嫌な予感みたいなものが、そっとのしかかってくるような感じである。
その嫌な予感は僕に何を伝えるのかと言うと、今家に帰ったら、家に誰かいるぞ、ということである。何故だかわからないが時々、そんな気分に陥ることがある。
もちろんそんな予感を抱いたからと言って、家に誰かいたような試しはない。毎回、いやいやんなアホな、そんなわけないがな、と思っているのだが、しかし一縷の不安みたいなものがこびりついて残っているのである。だから、鍵を開けて部屋の中に入る瞬間は少しだけ緊張するし、電気を点けるまでは油断することは出来ない。
子どもの頃にも、そんな経験がある。
例えば風呂に入っているとする。髪の毛を洗ったりする際に、まあ割と多くの人が目をつぶるだろう。僕もまあそうである。
そんな時、ふと思うのである。今目を開けたら、目の前に誰かいるぞ、と。もちろんそんなことはありえないのだが、しかし突然そんな風に思うことがあった。
また、夜暗いところで鏡を見ている時も似たようなことを感じたものだ。鏡を見ている時はもちろん自分の顔を見ているわけだけど、そんな時にふと思うのだ。今自分の顔からちょっと視線を外して鏡で後ろを見たら、そこにきっと誰かがいるぞ、というような具合である。
これまでどんな場合でも、その嫌な予感が的中したことはないし、恐らくこれからも的中することはないのだろうが、しかし恐らくこの予感が完全に自分の中から消えることもないのだろうと思う。
恐怖というものは、人間の想像力から生み出されるものだ。逆に言えば、人間の想像力によって生み出されたわけではない恐怖というものは、全然恐くない。
よく日本のホラー映画と外国のホラー映画の違いについて耳にすることがある。
外国でホラーと言えば、フランケンシュタインやドラキュラと言ったような、姿かたちが異形なもの、というのが主流だったと思う。それは確かに、こんな怪物が存在したら…、という人間の想像力の産物ではあるが、しかし名前も与えられ姿かたちも与えられ、そこにいるものとして認識することが出来る。見るものの想像力を刺激すると言った類のものではない。
しかし日本のホラーというものは全然違うのだ。日本でホラーと言えば、観客に何か見えざるものを想像させることで、観客自身が持つ恐怖の源泉を何倍にも増幅させよう、というような作品が主流だったと思う。振り返ったら誰かがいるかもしれない、この壁の向こうに何かがいるかもしれない。そういういくつもの「かもしれない」を積み重ねていくことで、観客の想像力を刺激し、恐怖を生みだしていくのである。
最終的に恐怖という感情は、それを抱く人間の妄想でしかない。例えば、目の前に血まみれの包丁を持って佇んでいる男がいるとしよう。その状況に恐怖を感じる人もいるかもしれない。それは、その血まみれの包丁が人を殺した証であり、そして自分ももしかしたらその包丁の餌食に掛かってしまうのではないだろうか、という自らの妄想に恐怖しているのである。実際その人は襲い掛かってくるかもしれないし、実際に何か被害を被るかもしれない。しかし、その事実と恐怖とは、あまり関係がない。恐怖は常に自らの妄想に結びついて発生し、それ以外の何ものとも無関係だからである。
恐怖という感情は、生き延びるために必要なものだという話を聞いたことがある。高いところを恐がるのは、そこから落ちて怪我をする可能性を低くするため。雷が恐いのは、打たれて死ぬ危険性を低くするため。恐怖を感じることで、危険なものを遠ざけようとする意識が働く、ということなのだろう。
しかし、本当にそうだろうか。人間という生き物は、それなりに長い歴史の中で、明らかに生存に不必要な恐怖を感じ続けてきたのではないだろうか。
人間は恐怖を求めるという話も聞く。バンジージャンプやホラー映画など、恐怖やスリルを売りにするエンターテイメントは無数にある。人間は、恐怖を完全に克服することは出来ない。しかし、克服できるはずのないものを、ほんの一瞬だけでも支配下に置くことが出来る、そこに魅力を感じるのかもしれないな、と思う。
人間に想像力というものが存在する限り、恐怖もまた消えてなくなることはないだろう。そしてそれがまた、人間という生き物を輝かせ興奮させる要素なのかもしれない、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作では、三つの物語が同時に進行するという形で物語が進んで行きます。
捷は建築学科に通う大学生である。両親を失い、姉との二人暮し。どこにでもいるような、平凡な学生である。彼は、とある人物と出会うことで運命が変わってしまうことになる。天才と呼ばれるアーティストで、すべての人を魅了せずにはいられないその人物に、捷は招待されることになる。プライベートなパーティーがあるからと言って連れて来られたのは、和歌山県の奥深い山だった…。
律子は、芸術に理解のあるマスターの元でバーの仕事をしながら、同時に彫塑を作るアーティストとして、一部で大きく評価されている期待の新人でもある。彼女もまた、圧倒的とも言えるオーラを纏う、世界的なアーティストと邂逅することで運命を狂わされた人間だ。捷と同じである。プライベートなパーティーに呼ばれたのだ…。
和繁は、大学時代の知り合いに偶然会い、流れで飲むことになった。その相手である淳は、有名な広告会社でバリバリ働く男で、特に親しいわけでもなかったが、しかし近況などを話したりした。その時の態度から和繁は、淳は何か悩みを抱えていると察するが、しかしそれを追及するようなことはない。
それからしばらくして彼の元に、淳の婚約者であるという夏海が現れた。淳が会社にも私にも何も告げずに失踪してしまったのだ、と彼女は語った。行きがかり上捜索に手を貸すことになった。向うは、いくつかの状況証拠が指し示す、淳の故郷である和歌山県…。
そして、この三つの物語を繋ぐ縦糸が、鳥山響一という男である。
響一は、その若さで既に世界中に認められているアーティストである。とある映画の美術演出を担当したことで一躍有名になったのだが、そのどこか淫靡で影のあるあやうげな魅力が支持されているのだった。彼は、「ガーデン」というDVDを製作し世界中の話題にもちきりにするが、しかし表にはなかなか出てこない。一方で、捷や律子のような人間を見つけ出しては、和歌山にある実家へと招待するというようなことをしているのである。
カラスの幻影と人間の狂気によって彩られた異空間に、響一の引力によって引き付けられてしまった人々を描く、幻想的なホラー作品。
という感じです。
恩田陸の作品は僕はあんまり好きにはなれないのだけど、でも書店員としてちょくちょく読むようにはしています。本作は、結構よかったな、と思える作品でした。
恩田陸という作家を僕は、「とんでもなく魅力的な謎を生み出すことが出来るけど最後のまとめ方が下手な作家」だと思っています。過去に読んだ作品もそういう傾向があって、導入や提示される謎はどれも驚くほど魅力的であるのに、それをうまくまとめきれていなくて、結局最後で尻つぼみ。まさに、「画竜点睛を欠く」という感じの作品ばかりだな、という気がしました。
本作が割と自分の中で評価が安定してるのは、本作がホラーだったからだろうな、という風に思います。
本作も、最後のまとめかたはちょっとグダグダというか、やっぱり失速という感じなのだけど、しかしホラーという作品がそれが許されるジャンルだ、と僕は思っています。ミステリのように、すべてが最後に収束して綺麗にまとまるという分野があれば、ホラーのようにすべてを曖昧にしたままあらゆる判断を読者に委ねる、みたいなジャンルもあるわけで、だから恩田陸の描くホラー作品は割といいのかもしれない、という風に思いました。
しかしホントに、作品全体の9割5分までは素晴らしいのに、残りの5分で失速するのはどうしてでしょう。それでも本作は踏みとどまった方だとは思うけど。
本作を読んで感じたのは、ピラミッドを作った王様の気持ち、でした。ピラミッドを作った王様達は恐らく、死への恐怖に駆られてのことだったのだろうな、という風に思います。死への恐怖、死ぬということを想像した時の恐怖が、ああいう建造物を生み出したのだろう、と。
本作でもインスタレーションと呼ばれる、様々な建造物が出てきます。それらすべての目的が最後に明らかになるのだけど、それを知って、なるほどピラミッドを作った王様と同じ理屈でこれらを生み出したのかもしれない、という風に感じました。まあ、だからなんだ、と言われると困りますが。
鳥山響一という天才アーティストが出てくるのだけど、僕は天才というのが大好きなので、この響一というキャラクターも非常に魅力的に映りました。まあ同時に、こんな人間は近くにいて欲しくないな、とも思うのですが。
ちょっと脱線しますが、それにしてもやはり天才というのは外側から描かれるのだな、といつも思います。多くの作品で「天才」と呼ばれる人々が出てくるけども、しかしそれらの人物を視点に据えた作品というのはほとんどありません。大抵は、周囲の人間から見た天才のありようを描くという手法です。
まあだからこそ僕は思うのだけど、森博嗣という作家はすごいな、と。森博嗣は、僕が思いつく中で唯一、天才という存在を内側から描ける作家だと思います。犀川創平しかり、真賀田四季しかり。素晴らしいと思います。
この作品は、登場人物の内面描写がなかなか素晴らしい作品で、恐怖や焦りと言ったものだけではなく、冷静な人物描写や客観的な自己分析のようなものまでかなり詳細に描かれていて、そういう部分での恩田陸の描写のうまさはすごいものがあるな、と思います。ストーリーに直接深く関わる部分ではなくても、その人物を深く深く掘り下げて行くような描写をしつこくあちこちで仕掛けてくる感じで、それをそんなに数は多くはないとは言え、登場するほぼすべての人間に対してやっているわけで、すごいものだな、と思います。そのせいで、あとがきで自身も書いてますが、「楽園」にたどり着くまでの描写がものすごく長くなってしまうのだけど。
まあ恩田陸の作品にしては僕はなかなかいいと思います。最後の終わり方に期待はしない方がいいけど、途中までの展開はなかなかすごいし、「楽園」に入ってからのありとあらゆる世界観もものすごいものがあります。よくもまあこんなもの思いつくな、と言った感じでした。結構オススメ出来る作品です。読んでみてください。

恩田陸「禁じられた楽園」

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