黒夜行 2007年02月 (original) (raw)

僕は、集団の中にいるとどうしてもはみ出してしまう人間である。
なんて書くと、ちょっと人と変わってて組織に馴染まずたくましくていいじゃないか、みたいな風に思う人もいるかもしれないけど、いやいやそんなかっこいい話では全然ない。「踊る大捜査線」の織田裕二(役名忘れた)みたいなはみ出し方ならまあいいんだろうけど。
自分でも不器用だと思うし、周りから見ればすごく子供に見えるのだろうし、ホント嫌になるのだけど、まあしかしこの性格はなかなか変えられるものではない。
集団とか組織というのは、そこにいる個人に資質などとは別に、集団・組織としての性格を持つようになる。学校のクラスという集団、会社という組織、そういったものは、そこに属する個人には無関係にある性質を帯びる。
そうなると、そこに属する個人よりも、集団・組織そのものを守ることが優先されてしまう。悪く言えば、その集団・組織の中に個人をはめ込んでしまおう、という意図が見え隠れする。
僕には、どうしてもそれが受け入れられないのだなぁ、と思う。集団・組織の駒だとかネジだとかになりたくない、みたいな話で、大人としてはまあどうかと思うのだけど。
僕は自分のこの性格のせいで、絶対にサラリーマンになることは出来ないということがわかっている。
会社という組織は、まず第一に会社という組織そのものを存続させなくてはいけない。つまり、器がまず初めにあるのである。その中で個人というのは、その器を存続させるための駒でしかない。そこに属する人間は、組織を存続させるために行動しなくてはいけないし、あらゆる意思決定は組織存続のために行われる。
例えば、組織を存続させるために、何か悪いことを誰かがしなくてはいけなくなったとする。組織の中にいる限り、組織存続が最優先なので、その命令を跳ね除けることは出来ない。しかし、個人としてはそれに納得することは出来ない。納得できなくてもしなくてはいけないことがある。
こういう状況に、僕自身が耐えられないのである。
この、納得が出来ないことをしなくてはいけない、というのは僕にとって苦痛であり、例えばそれは悪いことだけに限らない。自分の考えではこうやった方が明らかにいい結果が生み出せるということがわかっていることでも、組織内の何らかの力関係やあるいは慣習などによって、明らかに効率が悪かったり悪い結果しか生み出せないようなやり方を取るようなことがある。その場合でも、それに従わなくてはいけない。
普通の人はどうやってこういうのをやりすごしているのだろうとか思うのだけど、僕にはダメである。もう考えただけでもダメである。納得できないのにしなくてはいけないという状況にも、それを結局するだろう自分も、全部何もかも嫌になるのである。
そうやって僕は、集団や組織に馴染むことが出来ない。
また、集団や組織の性質に関わらず、そこに含まれる個人個人についてもいろいろ苛立ってしまう。例えば会社の中で、一人だけ上司に見つからないように仕事をサボっている人間がいるとする。普通の人は、まあ自分の仕事に支障がなければまあいいか、と思うのかもしれない。しかし僕はダメである。むかついてしまうのだ。何であいつは仕事をしないんだと腹が立ち、それを誰も注意しない状況にまた腹が立ち、そしてしまいには自分で文句を言いにいってしまうのである。
別に責任感があるとかどうとかいう話ではなく、純粋に性格の問題だ。ただむかつくのである。集団の中にそういう人間がいなければいいが、いると始終イライラして落ち着かない。
そんな性格だから、僕は集団や組織の中では割と指示を出したり文句を言ったりする立場になる。指示を出して組織をうまく回したり、文句を言って集団を是正したりしないと気が済まないのである。特に、その集団・組織を管理する立場にある人間に対しては一層苛立ちを感じるし、口調も刺々しくなる。上の立場の人間の文句を始終言っているし、何でこんなことも出来ないのだと本人に直接言ったりもしてしまうのである。
別に僕が出来る人間であるというわけでは全然ないのだけど、性格的にこうなのだから仕方がない。
そういう自分を客観的に見ると、ホント子供っぽいなぁ、と思うことがよくある。イライラしていることを態度に出してしまったり、普段自分が文句を言っている相手から自分が何か指摘されたら、素直に受け入れられなかったりとか、ホントまるで子供であるし、それは常々自覚しているのだけど、しかしそれはもうどうしようもない。
こんな自分を殺して、うまくやろうとすればそれなりにうまく出来るのだろうとは思う。多少のことは諦め、大きな気持ちで構え、使い捨ての文句を建設的な提言に変えたり、他人を許容する心を持つことで、集団や組織とうまく馴染めるのかもしれない。
でも、僕にはそうする気が全然なくて、だからいろんなことを諦めている。サラリーマンは絶対に無理だという選択も、もちろん人生から逃げたかったという理由もあるけど、しかしこの自分の性格をきちんを把握した上でのことである。また、なるべく集団とは関わらないようにして、一人で静かに過ごそうとも思っている。
集団や組織の中でうまく立ち回れる人間を、時々羨ましいと思わないでもないのだけど、しかし僕はこのままでいいか、と思う。自分を曲げて殺して窮屈に生活していくよりも、自分のあるがままを受け入れてそれを諦める方が僕にはいい。決して楽な選択ではないし、かつ周囲にも迷惑この上ない選択だけども、まあ仕方ないだろうと思う。
しかしまあ、大人になれないというのは、なかなかみっともないことである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
横浜に、突如闖入者が現れた。それは、海の底からやってきて、そして陸の上で大暴れを始めた。
巨大化したザリガニのような生き物だ。人間の体長を超えるような化け物ザリガニたちが襲来し、人を襲っている。
化け物ザリガニ襲来のその時、潜水艦隊員である夏木と冬原は、所属艦である「きりしお」艦内にいた。脱出を試みるが、逃げ遅れた子供達の救出に手間取り、結果子供達と共に「きりしお」内に立て篭もることになった。さすがに、潜水艦の厚い外壁は破られるわけもなく安心だが、しかし潜水艦の周囲を完全に化け物ザリガニに取り囲まれてしまい、身動きが取れない。彼等は救出されるまでの日々を、様々に個性があり問題もある子供たちと共に過ごす羽目になった。
一方地上では、警察の警備班が化け物ザリガニを食い止めるべく奮闘するも、圧倒的な武器不足のため防衛ラインを死守することで精一杯だ。内閣では自衛隊の投入が議論されるも即断されることはなく、警察内における負傷者は増していくばかりだ。米軍が爆撃を検討しているという情報も入り予断を許さない状況であるが、しかし日本という国も諸刃の剣である自衛隊出動はなかなか決断されない。
陸で奮闘する人々と潜水艦内で奮闘する人々を素晴らしく描ききった作品です。
いやはや、もうとにかくべらぼうに面白かったですね。さすが有川浩です。もう、どこをとっても一級のエンターテイメントだなと思いました。僕としては、それでもやはり「空の中」の方が素晴らしいと思うけど、でも本作もかなりかなりレベルの高い作品で、楽しく読みました。
まずは陸上での奮闘の描き方のレベルがすごいです。有川浩は軍事マニアっぽい感じですけど、それでもここまであれこれ描けるのは並じゃないなと思います。警察の警備部や機動隊、自衛隊だの防衛庁だのと、僕にはどこがどう繋がっていてどう反目しているかなどまるでわからない複雑な組織関係をすごい描いているし、兵器の描き方や現場の臨場感なども素晴らしいと思います。何よりも素晴らしいのは、作中では明石という警部補が作っている警備計画で、ゴジラを参考にしたという電磁柵を初め、明石の振るう采配は微に入り細に入り素晴らしいものでした。また、明石と同じくアウトロー的な雰囲気をかもし出す烏丸という上官の振る舞いもよくて、やっぱ僕はアウトローが好きだな、と改めて思いました。
そういえば、潜水艦内に残った夏木と冬原もアウトローであり、有川浩はそういう、組織から外れているのだけど切れているわけでもない人間の描き方が上手いなと思いました。烏丸は例外だけど、明石も夏木も冬原も組織の中の階級は大したことはなく、それは組織に収まりきらないだけの才能や実力があるからなのだけど、しかしそういうものを持っているが故に逆に組織から外れてしまう人間達で、見ていてどことなくだけど自分に近いものを感じました。別に僕が優秀というわけではないですけど。
また、自衛隊に関する記述は、まあいろんな小説で読んでいたけども、あらためて憤りを感じます。恐らく本作のようなことが実際に起これば、本作のような流れを経て自衛隊が出動となるのでしょう。しかしそれはもうまったくおかしな話であって、自衛隊が出張ってくるまでに警察にどれほど被害がもたらされたか、という話である。自衛隊さえもっと早く出てくれば、という思いを誰もがかみ締めながら、しかしそれを口に出せば犠牲になった人間が報われないということもわかっていて、そういう複雑な思いを内側に呑み込むしかないのです。僕がここでこんなことを言っても仕方ないのはわかっているけども、本作のような状況でも自由に自衛隊を動かせないのであれば、それは明らかに間違っているし、明らかに法律が間違っているのである。しかし、どうなるものでもない。
作中で、警察の人間がこんなことを言う。

『次に同じようなことがあったら今より巧くやれるようになる、そのために最初に蹴つまづくのが俺たちの仕事なんだ』

なんと歪んだ国家であろうか。
さてそしてもう何よりも、何よりもいいのが潜水艦内の話であって、何度泣きそうになったか。子供同士の対立があり、子供と大人の対立があり、また変化の兆しがあり、成長の予兆があるという潜水艦内で、もうとにかくいい話です。化け物ザリガニとかどうでもよくて、とにかくこの潜水艦の中の話を書きたかったんだろうな、と思います。
夏木と冬原のキャラクターが最高で、どっちもベタと言えばベタなキャラクターなのだけど、しかしそのベタなキャラクターを本当にうまく描いています。不器用で言葉も悪くてでも繊細な夏木と、人当たりがよくて物腰も柔らかだけど実はかなり冷たい冬原というかなり対照的な二人で、その違いっぷりが面白かったです。彼等みたいに大人になれればいいと思うのだけど、同じ潜水艦内にいたら同じようなことは出来ないだろうな、と思います。
でも何よりも、望が最高でしょう。潜水艦内で唯一の女性であり、高校三年ということで子供達のリーダー格でもあるのだけど、しかしいろんな形で歪んでいて、当初はかみ合わないことが多かったのだけど、次第に慣れてきて、問題も様々に解消されるようになってきて、でまあいろいろあって、もう最高!という感じでした。いや、ホントいい話を書きます。
泣くまい泣くまいと思っていたのだけど、どうしても泣いてしまったのが、望の以下のセリフ。

『初めてになりましたよね?』

いやホント、最高でした。後半になればなるほど望のキャラがどんどんよくなって、最後はホント僕の好きなど真ん中のキャラでした。
ついでのように書いておくと、化け物ザリガニ(レガリスと名付けられるのだけど)に関してもあらゆる場面に伏線があって、うまいなぁ、と思いました。さっきからそればっか言ってますけど。
というわけで、とにかく最高でした。素晴らしい作品です。是非読むべきだと思います。というか読まないと損だと思います。必ず読みましょう。というか読みなさい!「空の中」も一緒に読みましょう。いや~、面白かった~。

有川浩「海の底」

恐怖という感情は、外側に存在することはありえない。必ずすべて、内側で完結するものだ、と僕は思う。
感情というのは、おおまかに言ってすべて内側から発するものだ。自分自身の経験や持っているものなどから生み出されるものだろう。
しかし時には、感情は外側から支配されることもある。誰かの素晴らしい功績を知って感動したり、誰かの悲しい出来事を聞いて悲しくなったり、ということである。
もちろん恐怖の場合も同じようなことはある。他人の話を聞いて恐怖する、などだ。
しかしそれでもやはり、恐怖という感情は、他の感情とは根本的に違う気がするのだ。
恐怖は、他人と共有することが出来ないのだ、と思う。これがつまり、すべて内側で完結するという意味だし、外側には存在しない、ということである。
例えば、結婚をする友人がいるとする。その友人に対しておめでとうという感情を抱くことは普通であるし、誰とも共有できる。もしおめでとうという感情を抱けなかったとしても、こういう場合たいていの人は嬉しいのだろうな、というくらいの理解をすることは出来るだろうと思う。
しかし、例えば高いところが恐いという人がいるとしよう。もちろんそういう人は多いと思うので、そういう人同士であれば共有は可能だろう。しかし、高いところが恐いと思わない人には、その恐怖はまったく理解できない。高いところが恐いという感情を生み出すということがそもそも理解できない、何故これに恐怖を感じる人間がいるのか、ということが理解できないのである。
他の様々な感情というのは、ある意味で記号化されている、と言えるだろう。誰しもが哀しむこと、誰しもが楽しむこと、みたいな観念があり、もしそれぞれに対して哀しみや楽しみを覚えることが出来なくても、それぞれを記号として理解することは出来るものなのだ。
しかし恐怖だけは、記号化されていないのだろうと思う。何を恐いと感じるかは人それぞれまるで違うし、その違う同士では、まず間違いなく分かり合うことが出来ない。
恐怖は記号化することが出来ない。それは、恐怖という感情が、それぞれの個人の妄想に拠っているからに他ならないだろう。
雷が恐いという人は、それが自分に落ちるかもしれないという妄想を抱くが故に恐さを感じる。しかし、雷を恐いと思わない人は、自分に落ちるわけがないと思っているし、自分に落ちるなんて考えている人間のことを理解することができない。
恐怖というのは、個々人が抱く妄想によって支配されるので、共有することは出来ないし、内側だけで完結するのである。
映画や小説などでホラーというジャンルがあるが、だからこそこのジャンルは非常に難しいと思う。恐怖を統一的に記号化することがそもそも出来ないが故に、誰もを恐怖させるものを創り上げるのは並大抵のことではないだろう。人の妄想というのは、いつの世も無限であるのだから。
そろそろ内容に入ろうと思います。上記の文章は、もう少しうまく書けると思ったんですが、なんともよくわからない内容になってしまいました。
僕は小学5年生で、夏休みの真っ最中だ。毎年恒例で、沙央里ちゃんという三つ上のいとこのいる親戚の家に行くことになるのだけど、例年といろんなことが違った。姉が受験のために行かず、そのため母も行かず、かつ沙央里ちゃんちのおばあちゃんが死んだらしいのだ。
そんな状況の中、僕は父と二人で沙央里ちゃんの家に向った。
豪雨の中ようやく到着するも、どうも様子がおかしい。叔母さんのエプロンには血がべったりとついているし、風呂場の脱衣所で人の指を見つけてしまった。家全体から異臭がするし、叔父さん叔母さんの様子も明らかにおかしい。そして何より、沙央里ちゃんの姿が見えない。
何かあるなぁ、と僕は思った。指もあったし。ちょっとこの家変だし、いろいろ探してみよう…。
というような話です。
なんとも評価の難しい作品だな、と思います。恐らく、読む人によって評価が大きく分かれるでしょう。
僕は、いささか奇妙な評価だとは思うのだけど、この作品は、終わらせなければ傑作だった、と思います。これは、ラストが悪いとかそういう短絡的な意味ではなくて(まあラストは微妙だと思ったけど)、このままの雰囲気が「物語」という枠の中で終わらずに続いていくならば、それはちょっと恐かっただろうな、と思います。もちろん、「物語」であるわけでどこかで終わらせなくてはいけないのは当然でそれは分かっているのだけど、それでも終わらせなければ傑作だったのに、と思いました。
「僕」視点というのがとにかく奇妙で、その奇妙さはすごいと思いました。冒頭で書いたように、何に恐怖を感じるかは人それぞれ、という感じで、「僕」視点で語られる沙央里ちゃんちの異常がより増幅されているような感じがしました。
また恐かったと言えば、「僕」の父親が恐かったですね。ある意味で別の恐怖を感じました。
ただ、やっぱり最後の落しどころみたいなものがなぁ、という感じです。ホラー小説というのは、やはりどことなくミステリ的な要素も含まれてしまうわけで、それをうまく外して着地させたところはなかなか面白いと思ったのだけど、どうもしっくりはいかなかったです。でも、選評ではラストを褒めているものもあったので、これも人それぞれなのかな、という風に思ったりもしました。
作品の雰囲気としてはすごく恐いし面白いと思うのだけど、ストーリーという点から見るとちょっとどうかな、という風に思いました。でもまあ短い小説だし、文章は読みやすいし、奇妙な恐怖をかきたてる作品だとも思うので、興味がある人は読んで見てください。合う人は合うと思います。

矢部嵩「沙央里ちゃんの家」

求めているものは、まあ大抵なんでもそうだと思うけど、思う通りに手に入るようなことはない。だからこそ望むのかもしれないし、手に入れた時は嬉しいのかもしれないが。
僕は、昔からあまり多くのことを望まないで生きてきた人間で、というかむしろ、望んでも手に入らないのだろうな、と諦めていたようなところもあるので、それは僕にとっては自然で普通なことなのだけど、普通の人は比較的、多くのものを望み、かつ望んだものが望んだとおりに手に入るものだ、と思っているのではないだろうか。
楽観的だなぁ、と思わなくはないのだが、しかし希望を持ちたいというのはまあ普通のことかもしれない。
モノでさえ、簡単には手に入らない世の中だ。もちろん、お金さえあれば比較的なんでも手に入る時代ではあるとは言え、でもそういうことを言いたいわけではない。欲しいものと手に入るものというのはやはりどこか大きく違うわけで、欲しいものが見つかりにくい世の中になった、というような気がする。あれもこれも、どこにも差がなくて、どっちも同じなような気がして、でも同じならどっちも欲しくなったりして、結局あれもこれも買ってしまう。でもそれは、本当に欲しいものを手に入れているのではなくて、なんとなくただ集めるようにして買わされているだけだったりするのではないだろうか。
人間関係に至ってはよりその傾向が強い。
望んでも、まあ滅多には手に入れることが出来ないだろう。人との出会いは本当に不思議なもので、これだけの人がいるのだからまあ当然としても、お互いに望んだ関係になることは難しかったりするのだ。
これも、さっきのモノの話と同じだ。つまり、本当に望んだ関係になることというのは難しいのだ。必ず、どちらかが妥協しているし、どちらかが我慢している。その妥協をしても、その我慢をしても、それでもその関係を続けたい、あるいは続けなくてはいけないという理由で人間関係が続いているだけの話で、お互いに完璧にぴったり望んだような関係には、なかなか出会えるものではないのだろう。
そういう完璧な人間関係を求めている人は、やはり多いのだろうな、と思う。お互いがお互いのことを求め、そこには一切の妥協も我慢もなく、擦れ違いも食い違いも起こらないで、素敵な関係でいられるようなそんな関係を。
人間関係の難しさは、一旦固定してしまったらそれを変えることはなかなか難しい、ということだ。どちらかの思惑で、あるいはどちらの思惑でない場合もあるだろうが、人間関係というのは様々な要素で固定される。お互いの性質やその環境によって。そうして一旦固定されると、なかなかその関係を変えることはできないものだ。
お互いに、ぴったりの完璧な望んだ関係になれるかもしれない、という予感を持った二人がいても、その関係性が別の何かによって固定されてしまうと、もうそこから動くことはない。動かそうとすれば、現状での人間関係が壊れてしまうことを覚悟しなくていけないし、なかなかそれだけの覚悟は出てこないものではないかと思う。
だからこそ僕は思うのだ。ぴったりで完璧な望んだ関係など、まあ幻想だろうな、と。必ず、どちらかの妥協や我慢があるはずだ、と。そしてもし万が一、世の中にぴったりで完璧な望んだ関係があるのだとすれば、それこそ奇跡だろうな、とそんな風に思ったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、二編の短編を収録した短編集になっています。それぞれの内容を紹介しようと思います。

「勤労感謝の日」
失業しハローワークに通っている恭子は、ある意味命の恩人である長谷川さんに見合いをさせられることになった。見合いの席に来た男は野辺山という、あんパンの真ん中をグーで殴ったような顔をした男で、性格も気に入らなかったので、見合いを途中で抜け出し、かつての後輩と飲みに出かける…。

「沖で待つ」
及川は、福岡営業所に同期入社した太っちゃんの部屋に久しぶりに行ってみることにしました。特に理由があったわけではないのですが、果たしてそこには太っちゃんの幽霊がいました。三ヶ月前に死んでしまったはずの太っちゃんが。
関東出身の二人は、右も左も分からない福岡で、住宅設備器機メーカーでバリバリと働きました。辛い時も楽しい時も一緒に分かち合った同期であり、特に何でもないのだけど、同期であるという理由だけで、すごく心強い関係に思えました…。

というような感じです。
本作に収録された「沖で待つ」が芥川賞を受賞したわけだけど、内容はまあまあかな、という感じでした。
まあでもそれはもしかしたら、僕がサラリーマンではないからかもな、と思ったりもします。サラリーマンであれば、仕事の大変さだとか、同期との関係みたいなものに、もっと共感できたりするのかもしれません。僕はまあしがないフリーターなので、同期だとかそういうものはちょっとピンと来なくて、実感が湧かなかったような気がします。
それでも、及川と太っちゃんの関係は、見ていてなかなか羨ましいものだ、と思いました。会社の同期というのが誰しもあんな関係になれるわけではないと思うのだけど、まあなれたら素敵でしょうね。
まあそれでも、太っちゃんは何で結婚したんだ?みたいな疑問はあったりして、その辺りはまあよくわからなかったのだけど。なんだろう。
「勤労感謝の日」の方は、まあなんとも言えないというか、本当にただ、見合いの席を抜け出して後輩と飲む、というだけの話に思えました。つまりこの話は、長谷川さんという世話好きな人に見合いを斡旋されてそれを勤労に喩えていたりする話なのかもだけど、でもなんともわからないです。女性が読んだらどう思うんでしょうか?見合いの経験がある女性が読めば、何か思うところはあるかもしれないですが。
まあそんなわけで、単行本で100Pぐらいしかない本で、しかも内容的にもまあまあという感じだったので、定価で買うのはちょっと高い本かもしれないです。そこまでオススメというわけではないですね。「海の仙人」の方がよっぽどいいと思います。僕としてはまあ、「海の仙人」をオススメします。

絲山秋子「沖で待つ」

夢を持つことが難しい世の中になった。
それは、夢を与える大人が少なくなったからだと僕は思う。
夢を抱くことの出来る対象は、今でももちろんたくさんある。サッカー選手、歌手、作家などメジャーなものを初め、いろんな分野においてなりたいもの叶えたい対象というものは昔と変わらず存在し続けている。
しかし、どうしても大人が、子供の夢を妨げてしまう。
大人は子供に、ちゃんとして欲しいと願うものなのだろう。ちゃんと勉強して、ちゃんと大学に入って、ちゃんと仕事をする。そういう人生を大人は子供に望んでいる。それは、自分の経験から来る後悔もあるのかもしれない。学歴がないために苦労をしたり、あるいは夢破れて非業の人生を歩んだせいかもしれない。ちゃんとした人生を、堅実な人生を歩むことを至上と考えることは、確かに正しいのかもしれない。
しかし、そうした大人の考えが、子供の夢を奪っていることもまた事実である。
僕が小学生の頃であれば、将来なりたいものというアンケートを子供に取れば、サッカー選手だのケーキ屋さんだのという、多少現実離れしたしかし夢のある回答が多かったものだ。僕自身、子供の頃の夢でなんと答えているか覚えていないが(昔の文集なんかを探し出せば分かるかもしれない)、しかしそれらしい何かをきっと持っていただろうとは思う。
しかし、最近の小学生は違うようだ。何かのニュースで見たのだが、今時の子供に将来の夢を聞くと、なんと1位が公務員になるのだそうだ。おぼろげな記憶なので正確かどうかは自身がないが、そうだった気がする。
小学生の子供が、公務員の仕事に興味を持つわけがないと僕は思う。僕は今でも、公務員の仕事なんか絶対退屈で、どんだけ給料がよくても僕には出来ないだろうな、と思うのに、まして将来にいくらでも希望の持てる子供が、公務員に魅力を感じるわけがないと思うのだ。
その背後には、間違いなく大人の存在がある。
大人が子供に言い聞かせるのだろう。安定した職業に就きなさい。公務員は安定していていいですよ。公務員になるには学歴が大事ですよ。勉強した方がいいですよ。
そんな風に洗脳しているに違いない。
それは、どう考えても社会を発展させないし、子供を殺しているだけだと僕は思う。
もし万が一僕が結婚をして子供が出来るとしよう。そうしたら僕はこんな風に言うだろう。
「将来やりたいことを必死で考えなさい。もしそれが、勉強して大学に行かなくてはなれないものなら勉強をしなさい。もしそれが学校の勉強以外の努力が必要なら、勉強なんかしなくてもいいよ」
僕は、自分が勉強ばかりしていた学生時代だったので、そんな風に思うのかもしれない。確かに今の世の中、勉強しいい大学に入る方が、社会の中でよりいい居場所にいることが出来る。それは間違いないし、これからも変わることはないだろう。
しかし僕は思うのだ。どれだけ給料がよくても、どれだけ待遇がよくても、仕事そのものに面白みを感じられなくては意味がないだろう、と。
僕は、作家になれればいい、という夢はあるけども、しかし今の書店の仕事も半端なく楽しい。本屋というのは給料がものすごく低い業界だけれども、別に僕としてはそんなことはどうでもいい。給料が低かろうが、一緒に働くスタッフのレベルが低かろうが、仕事自体が楽しいので僕は毎日楽しく過ごすことが出来る。趣味の読書がそのまま仕事に活かせるし、だからこそ、引きこもりで発展性のない生き方だけど、しかし僕は僕なりに充実しているし、これが夢だというつもりはないけど、しかしやりたいことをやっているということは出来る。
大人は、子供の世界を狭めるべきではないと僕は思う。確かに、夢を追うには才能が必要かもしれない。しかし、夢を追って敗れなくては分からないことだってあるはずなのだ。今の世の中、一度でもレールを踏み外せば元に戻ることは出来ない社会だ。しかし僕は、そんなルールの中で勝負したくはないし、子供にもさせたくないと思う。窮屈な世界ではなく、もっと自由に、その世界でたとえ負けたとしてもいい経験だったと言えるような、そんな人生にしたいし、そんな人生を子供にも与えたいと思う。
学歴社会を根本から否定するつもりは別にない。しかし、子供の夢を摘み取るような仕組みは、やはり好ましくはないだろう。仕組み自体は、恐らく変わらないだろう。大人がもっとしっかりとして、子供の世界を広く保ってやらなくてはいけないと思う。大人には、それだけの責任があるし、義務ですらあるだろう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、一度はプロを諦めたものの、再起して、サラリーマンからプロ棋士になった瀬川晶司という方の自伝です。
まずは、棋士業界について少し触れましょう。
棋士業界というのはなかなか変わった世界であり、プロ棋士になるためには、奨励会というところに試験に合格して入り、そこで着実に段数を上げていき、4段になればプロとして認められる、という世界である。
変わっているのは、年齢制限があるところで、26歳までに4段になれなければ、奨励会を退会させられ、以後プロ棋士を目指すことは出来ないのである。
つまりこれは、幼い頃から将棋に触れ、そこから整った環境の中で将棋と触れ合うことの出来る少数の人間しかプロになることが出来ないということである。
たとえばスポーツの世界であればわからないではない。そもそも年齢がどうこう言う前に体力的な問題があるわけで、例えば30歳で野球に目覚めても、そこからプロになることはかなり厳しいだろう。
しかし、将棋というのは体力とは関係ない。世の中には、30歳で将棋に目覚め、そこからアマチュアの世界で驚異的に勝利を収めて行くような人間もいるのである。しかしそれでも、プロになる道はないのである。
そんな閉鎖的とも言える世界に風穴を開けたのが、本作の著者である瀬川氏である。彼は、26歳という年齢制限に引っかかり、一度は奨励会を退会するも、その後将棋の面白さにもう一度気付き、アマチュアとして活躍する中で、プロ棋士を次々になぎ倒していき、アマチュアがプロと勝負して2割勝てるかどうかという中で、その勝率は7割を超えたのである。そうなってから、周囲の後押しもあり、プロ棋士になりたいという嘆願を起こし、紛糾の末にプロへの編入試験実現までこぎつけ、かつその試験に合格し、晴れてプロになったのである。
そんな瀬川氏の、将棋との出会いやかつての恩師、あるいは奨励会での奮闘や、奨励会を退会してからプロを目指すまでの、まさに将棋漬けであった人生が描かれています。
正直、将棋と言えば羽生さんくらいしか知らないような人間で、ルールは知ってるけど全然強くないという人間なのだけど、それでもこの瀬川氏のことは知っていました。将棋にまるで関心のない僕でさえ知ってるくらい、この瀬川氏のニュースは一時期マスコミを席捲していたし、かなり話題になっていたなぁ、と思います。
本作は将棋の解説書ではないので、将棋のルールがまったくわからない人でも読めるし、感じには振り仮名が振ってあるので、帯にあるように小学校高学年から読める本です。
本作の中で特別印象に残っているのは、刈間澤先生です。瀬川氏の小学5年生の担任の先生なのだけど、本当にいい先生だったんだな、という風に思います。瀬川氏はそれまで、自分の主張もやりたいこともまるでなかった子供だったのだけど、刈間澤先生との出会いによって大きく自分を変えることが出来たと言っていて、確かにこの刈間澤先生はそれだけのことが出来る先生だと思いました。
授業中にお菓子を配ってしまうような奇抜な先生だけど、こんな先生に出会えていたら、僕も人生が少しは変わっていたのかな、と思ったりします。自分の学生時代を振り返ってみても、ここまでの先生はいないですね。やっぱりいつも思うのだけど、学生の頃というのは、どういう先生に出会うかによって本当に大きく違うものだな、と思いました。
帯に「あきらめなければ、夢はかなう」とあるのだけど、確かにそれはそうかなと思います。しかし何よりも思うのは、冒頭でも書いたように、夢を持つことが出来るかどうか、ということです。僕は正直、子供の頃に特別な夢を持つことが出来ませんでした。自分には何もないと分かっていたからこそ、勉強ばかりしていました。何か目指すべき夢を持つことが出来ていたら、また違っていたかもしれないと思います。
瀬川氏も、それこそ死ぬような思いで(冗談ではなく死のうと思ったことがあるようです)プロ棋士になったわけで、夢を持っていても叶えることは難しいのだろうけど、しかし読めば何かを感じられるかもしれません。
そういえば、本作を読んでもう一つ強烈に印象に残っているのは、小野さんというプロ棋士の話です。既に亡くなっているようなのですが、この方は、高校一年生で入るのでも遅いと言われる奨励会に、なんと高校を卒業してから入り、しかも三年で4段に昇格しプロになるという、無茶苦茶な人だったようです。しかし、例えば羽生名人などは、中学生の頃からべらぼうに強かった天才であるのに対し、小野さんというのは努力人であったようです。とにかく信じられないような努力をして、天才ばかりの棋士業界に努力だけで乗り込んでいった、そういう人だそうです。世の中にはすごい人がいるものだ、と思いました。
夢を持っている人も持っていない人も、読んだら面白いだろうと思います。僕も、特別夢を持っているわけでもないですが、読んでてなかなかいいな、と思いました。作文がうまかったようで、文章もなかなかいいし、スラスラ読めてしまうのでオススメです。是非どうぞ。

瀬川晶司「泣き虫しょったんの奇跡」

ねえねえ、一人ひとりが持っててもいいんじゃないかな。
あっ、『世界』の話ね。うん、ごめんごめん。
だってさ、おかしくない?うちらが生きてる『世界』って、結局一つじゃない?みんなさ、同じとこにいるんだよ。タクヤ君もサトミちゃんもさ、みんなだよ。ヘンだよ、そんなの。
えー、だって、だってだよ、人ってそれぞれ違うじゃん?ほら、あたしは暗くてダメで可愛くない…ううん、そうだよ…でさ、キョウコはさ明るくて綺麗で…いや、だからそうなんだって…友達もたくさんいるわけじゃない?でしょ?それなのにさ、おんなじところに立ってるなんてさ、ちょっとヘンだよ。
あたしにはあたしの『世界』があってさ、キョウコにはキョウコの『世界』がある、そっちの方がさ素敵だって思わない?みんながみんなね、一つずつ『世界』を持ってるの。その中では何でも自分の思い通りで、なりたい自分になれるし、やりたいことも全部できるの、ね、いいでしょ?
そうなの?そんな『世界』は厭?何でかなぁ。だって、全部自分の思い通りなんだよ。スタイルがよくて、かっこいい彼氏がいて、美味しいモノをたくさん食べて、ねっ!いいでしょ?
…そうかもしれないけど。でも、たとえ独りでもさ、全部自分の好きな風に出来るのって、ほらやっぱり素敵だよ。素敵なものに囲まれてさ、綺麗なものだけを見てさ、正しいものだけに触れてさ、そうやっていればさ、どれだけ独りだって寂しくないよ。
でもそうだよね、キョウコは友達たくさんいるもんね。あー、羨ましいなぁ。あたしもキョウコみたいだったら、こんなこと考えなくてもよかったのかもね。友達がいっぱいいてさ、学校行くのも楽しくってさ、友達ともさ『世界』を共有できてさ、やっぱそういうのいいなぁ。
…ううん、ごめんごめん。こんなことが言いたかったんじゃないの。キョウコと話したかったの。ううん、いいんだけど。
誰か、あたしの世界を壊してくれないかなぁ。もうね、厭になっちゃったんだ。でもさ、諦めきれないっていうかさ、自分では壊せないんだよね。わかる?なんだかんだ言ってさ、自分で創り上げた『世界』ってさ、それなりに居心地いいしね。それはさ、ただの妄想の『世界』でさ、実際の世界と触れたらさあっさり消えちゃうようなものなんだけどさ、でもあたしには結構大切なものだったりするんだよね。
でもさ、やっぱみんなおんなじ『世界』で生きなくっちゃいけないんでしょ?結局、それが大人になるってことなんでしょ?今のままだとさ、あたし自分の『世界』からさ抜け出せないと思うんだぁ。綺麗でも正しくも素敵でもない、それでも唯一自分が逃げ込めるだけの狭い『世界』だからさ。
ねぇキョウコ、あたしの『世界』、壊してくれないかなぁ。ホント、一生のお願い!ねっねっ!ダメかなぁ。

繋がっていない携帯を耳から離して、あたしは呟いた。
「…536回目の練習、終了」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、作家である乙一と漫画家である古屋兎丸とが共同で書き上げた漫画です。
単純に、乙一が原作、古屋兎丸が作画というわけでもないようで、ファミレスで毎回二人で白紙の状態から話し合いを始め、そこで大筋の流れが決まると、乙一がそれをプロットにし、古屋兎丸が漫画にする。乙一は話し合いの内容をそのままプロットにするのではなく多少変えたりもし、古屋兎丸の方も乙一の原作を多少変えたりとで、話し合いの内容から漫画の内容が大幅に変わることもあったようである。
そんな手法で作られた本作は、連作短編という形態の漫画になっています。それぞれの内容をざっと紹介します。

「沈没記」
学校に行きたくない少女の物語。街全体が水没してしまうという妄想の中にしばらく溶け込む。

これは、絵のイメージがすごくて本当によかったです。完全に水没してしまった街と、それに気付かず生きている人々。好きなものに囲まれてそこから出たくないのだけど出なくてはいけなくなる感じがよかったです。

「アリの世界」
アリを飼っている少年の話。自分が好きな子が自分のことを好きだという妄想に囚われてしまう。

これもすごいです。アリの社会と教室という社会を重ねたところがよくて、巻末の対談でも触れられているけど、「山岡さんがほつれてる…」というセリフは秀逸だと思いました。

「魔女っ子サキちゃん」
自分は6歳の少女で、魔法で高校生の姿になっているのだ、と信じ込んでいる少女の話。魔法少女になるためのポポロンステッキをいつも手放さないのだけど、それが紛失してしまう…。

自分の近くにこんな子がいたら、ちょっと敬遠してしまうかもだけど、でも気持ちはわからなくはないというか。前編後編に分かれていて、後半は割と辛い話です。

「学校の中枢」
落ちこぼれの自分と、トップクラスに入ってしまった友人との話。トップクラスである1組に行きたいのだけど、勉強への劣等感から奇妙な妄想にとりつかれる。

勉強ばっかりしていた自分としては、落ちこぼれの気持ちはわからないのだけど(厭な言い方ですね)、でも落ちこぼれることへの恐怖というのはかなり強かったです。だから、逆説的に分からなくもないというか。全編がほぼ妄想で、そして絵がすごい。

「お菓子の帝国」
好きな人のために15キロのダイエットを成功させた少女は、しかし夢の中で見たある未来の光景のために、お菓子という敵を殲滅するためにまたお菓子を食べ始めるようになってしまう…。

言い訳とか自己正当化とかそういう主題のある作品で、甘いもの好きの人には共感できる作品ではないかと思います。この作品も絵がすごくて、お菓子が世界を滅ぼすという妄想が展開されるのだけど、その妄想でのお菓子がホントに恐いというか。生八橋が人を飲み込んで骨を砕くシーンなんか、なかなかの迫力です。

「モンスターエンジン」
バイク事故で死んでしまった友人と夜の空を失踪する話。昔子供の頃に描いた想像のバイクにまたがって、二人は夜を疾駆する。

これはいい話でした。死んでしまった友人に勇気をもらう話なんだけど、話の筋が素敵でした。

「○様を見つけたら(○は雲が三つ、龍が三つで構成される一文字の漢字で「タイト」と読む)」
お金に貪欲は母親を持つ少女の物語。すべてを壊して欲しいと願い、それによって「タイト様」を呼び寄せてしまう。

人の名前を覚えられない少女が考えた名前の覚え方が面白かったです。ストーリーはまあまあというところです。

「竜巻の飼育」
学級委員長で友達がいない少年の物語。ホームルームで「真の友情」について話し合いたいのだがうまくいかない。ある日、竜巻の子供を見つけて飼うことにするのだけど…。

かなりホラーでした。「風太がやったんだ…」というセリフがもう哀しくて哀しくて。一人で朝ホームルームの練習をしていたり、学級委員長のリコールをされたりと、とにかくイタい少年の話でした。

「ホームルーム」
最終話。竜巻に飲み込まれた教室の中に取り残されたこれまでの主人公たち。彼等は地上に戻りたいのか、あるいは戻りたくないのか、委員長を中心にしてホームルームが開かれる。

これもビジュアルが最高で、竜巻の中の教室というあまりに非現実的な世界を容易に受け入れてしまいそうになるだけの力がありました。いい話でした。

そして、巻末に、乙一と古屋兎丸の対談が収録されている、という感じです。

古屋兎丸の絵は初めて見たのだけど、妄想的な場面であればあるほど映えるな、と思いました。普通の場面を描く時は普通なので、そのギャップがホントよくて、機会があれば他の作品も読んでみようかなと思いました。
乙一は、相変わらずいい仕事をしているな、と思いました。それは、作品の仕上がり具合という意味でもそうだけど、普通の作家みたいにただ小説を出し続けるだけではなくて、いろんな作家とコラボしたり、いろんな企画に参加したりと、そういう意味でも面白い仕事をしているなぁ、という風に思います。しかし、「ジョジョ」のノベライズの仕事は進んでいるんでしょうか?
漫画に1260円は高いと思う人もいるかもだけど(僕は、総じて漫画の値段は安すぎると思うのだけど、まあそれはまた別の話)、でも買いだと思います。乙一・古屋兎丸それぞれのファンはもちろん買いだろうけど、そうでない人にも是非読んで欲しい作品です。妄想と現実の間を彷徨う10代を描いた作品なので、特に若い世代が読むと共感できるだろうなと思います。
オススメです。完全書き下ろしというわけではないけど、乙一の久々の著作です。是非是非読んで見てください。

乙一×古屋兎丸「少年少女漂流記」

ハイウェイを暴走する光景が見える
煙草は運悪く切れていた
洪水の夜にはもってこいのステップ

海は夜と同じくらい黒く
鮮血のように美しい赤色の印象とともに
雪が降る夜は

彼女は、自分にとってどんな存在だったのか
あとはもう壊れるばかりだ
人はテレビのリモコンのように
人間に要求される

真の静寂の一瞬
人間はたくさんの生命の集合体ではないだろうか
閃光が頭の中に
なにも残らない

知っている?
これも、装飾
この空間に自分はもういないと思った
架空の冒険

アスファルトの歩道を行く
君は笑いだした
明きの夕暮れという境遇は
この場所だ

夜中に歩道橋を渡った
雨上がりの街は暗く霞んでいる
冷たい湿った空気が

人間ってどうして倒れないのだろう
彼女の目は瞬きもしなかった
これでは人形だ

風を見て
振り落とされないようにしがみついた

夢の中ではいつもロープウェイに乗る
夜中に目が覚めた

椅子から立ち上がって出ていこう
あのひとときが脳裏に蘇る
ベッドで横になると涙が溢れ出たという
そうかもしれない

短い夏が終わった
荷物を背負ったロバが歩いている
起きているのに目を瞑りたい
ときどき

砂時計
これが普通だろうか
過去のどこを探しても間違いはなかった
生きている顔と死んでいる顔

風に導かれ異邦の地に
欲しいものは十月の神秘よりも

柱に刻まれたイニシャルは
皺のある太陽と
これこそ少数にして残された墓地

極に引かれる数奇な力と
少し赤みがかって見えた月が
じりじりと照りつける無慈悲な日差し

異国のオイルの香り
僕らはまた夜の街へ出る
淡々と落ちていく
人の思考は闇に浮かんでいる

朝はまだ冷静と憔悴の間にあって
顔をしかめ

冷たいスリッパ
草木たちは拝跪する

喘いだのは誰だったのか
いつも通る道でも
細くなるほど流れは速く
引き金をひき
戦おう

目覚めたときには犬の死骸がなくなっていた
シートで眠る彼女の顔
消える浮かぶ蘇る
さがしみつけ

死のうとして死ねなかった友と
連側にして滑らかな曲線は
遠い声が運んでくる
地層はななつ

さびたカミソリの仄かな紅は
恋人よ
走るために生まれてきた
繰り返すアルカロイド

君はもう眠っている
ごらん
浮いてみせよう

くみくみと思考し
ねえ、怒らないでダーリン
飛べないことを
電気みたいに純粋な
そこにあるものが
走れば巡り進めば戻る

詩とは飛躍だ
詩とは省略だ

詩は世界を創り
詩は世界を壊す

時間を消し
物語を消し
意味を消し
正義を消し
感情を消し
そうして詩が生み出される

詩は残る
風に乗って
詩は届く
風を超えて
詩は戦う
風に向って
詩は壊す
風を凌いで

そうして生み出された詩が
僕の手元にある

内容に入ろうと思います。
説明しておくと、冒頭で書いた「ハイウェイを暴走する光景が見える~走れば巡り進めば戻る」の部分は、本作のすべての詩の冒頭を全部そのままの順番で繋げて書いたものです。決して僕が考えたわけではありません。行の空け方は、まあ文章の繋がりなんかを考えて、妥当な感じで僕が勝手にやりました。
さてというわけで、本作は森博嗣の唯一の詩集です。森博嗣は、講談社ノベルスの開きのページに詩を書いたりなど、作品としてまとめなくても詩はいろんなところでちょくちょく発表していたのだけど、詩集というと確かに本作だけだなと思います。
全部で86編の詩が収録されています。
僕は基本的に詩心みたいなものはないので、全般的には難しいなという印象を受けました。詩は読むものじゃなくて感じるものなんだとは思うんだけど、読んでてどうもしっくりこないものが多かったです。つまり、僕が森博嗣に追いつけないというだけの話なんですが、そんな感じでした。
それでも、これはいいなぁ、というものはもちろんありました。何故いいと思ったのかという理由は表現できないですが、いいなと思った詩を抜き出してみようかと。

「夢を知っている?」
知っている?
大地は丸くなんかないのを
レンガの工場があるね
緑色のペンキはどうしたって剥がれるよ
煙突が突き出ているね
低い樹と大きな石ころは全部、大地のおまけ
白い教会が見える?
ほら、見えるだろう?
もう、わかった?
全部、おまけなんだ

「ロケットに乗ってやってきた」
人間ってどうして倒れないのだろう
倒れやすい形なのに
一番不安定な形なのに
何故か人間だけが立っている

自分が自分で考えているという幻想
自分が自分で立っているという幻想

僕はゆっくりと目を開ける
一瞬にして宇宙から帰還する
躰の存在を感じ
気持ちを掴む
血液は慌てて流れ始める
僕は、僕の形をしてロケットに乗っている

「人間が恐いのは何故」
ときどき
自分でもばらばらに思考している
と思えるときがある
手が触る自分の肌に感触がないことがある
恐ろしい
そういう感覚が一番恐い

たぶん、そこに人間がいることが恐い
触れたものが人間だったことが恐い

「刻まれたイニシャル」
柱に刻まれたイニシャルは
プラトニックな伝統か
累積した友への愛欲か

斜めに唾を吐くステンレスは
聖者特有のスピードか
神霊に委ねられた裁きか

凍ってしまったアスファルトは
地下道を抜けてくる邪心か

それとも
迷い迷って頭を抱え
ぱっくり音を立てて弾け飛ぶ
おまえか

「ガラスのオレンジ」
皺のある太陽と
ナイロンの靴下
あるいは涼しい拒絶と
そして涼しい拒絶
招待状は花束と
ひびの入ったガラスのオレンジ
死のうとして
けれど
死ねなかった角砂糖

「しくしく思考」
くみくみと思考し
ていていと微笑した
あのとぶとぶの毎日を
夢に見るすりすりは
せめてぶおぶおのように
それともきまきまでも良いから
どうしてもぐっぱぐっぱで
できればぎまぎまになって
立派にゆぐゆぐすることを
今日もお願いしますますでした

どうでしょうか?

あと何編か、これまでのシリーズ作を彷彿とさせるような詩もありました。例えば

「間違いはなかったか」
過去のどこを探しても間違いはなかった
どこへ戻ってもきっと同じ道を選ぶだろう
後悔することがあるとすれば
他人を許容しようとしたこと

心残りはそれだけ
それはもう肌に刻まれたものと同じ
その蟠りだけが余熱のように残る

決して消えることがない
消えてほしくない

これなんかは、真賀田四季が出てくる何かの作中で、ほぼ同じような文章を見たような記憶があります。気のせいでしょうか?

あとは、

「灰皿」
引き金を引き
爆音
彼女の躰が弾んだように見え
残像
衝撃が伝わって
残響
火薬の匂い
白煙
彼女はもう動かなかった

僕はゆっくり近づき
肘掛け椅子
そして灰皿

「飛ぶと飛ぶ」
飛べないことを
知らない連中が
飛んでいるのだよ

生きられない理由を
知らない連中が
生きているように

というこの二編なんかは、なんとなく「スカイ・クロラ」を彷彿とさせないでしょうか?どうだろう。

森博嗣は自身の日記の中で、薄い本はそれだけでよく見える、という風に書いていました。また、もしもうすぐ死ぬということがわかっていれば、本作を手に取って数ページ読むかもしれない、という風に書いていました。
一編一編ゆっくりと読み進めて行くのもいいだろうし、一通り読むことを何度も繰り返してもいいでしょう。合う合わないはかなりあると思いますが、それは森博嗣に限らずどの詩集でも同じだろうと思います。興味がある人は手に取ってみてください。
どうやら元本には写真がついていたようだ。文庫版では写真はない。なんとか元本をどこかから手に入れられないだろうか。

森博嗣「魔的」

誰も知らない世界がある、というのは信じてもいいかもしれないと思う。
僕は基本的に、科学的ではないことは全然信用しない人間である。占いだとかUFOだとか幽霊だとか、そういう世の中に出回るありとあらゆる怪しい話には、基本的には全然興味がない。そういう非科学的な話を聞く度に、アホだなぁ、とか思ったりするのである。
しかし、見えないものが存在する、という考え方は、一概に嘘だと切り捨てることが出来ないだろう、と僕は思うのだ。
見えないものが存在する、という表現はなんともおかしい感じを受けるかもしれないけど、でもそういったものはあってもおかしくない、と思う。
哲学なんかの分野では、もしかしたら、実存だとかについての定義があるのかもしれない。もしかしたらそこに、目に見えるものこそ実存で、目に見えないのならば存在していない、みたいなことが書いてあったりするのかもしれない(適当に書いているのでわからないけど)。でも、もしそういう考えがあるなら、もちろん妥当な考えであるとは思う。見えなければたとえそこに存在していてもないようなものだし、見えるか見えないかがすべてである、と。
しかし僕は、見えないのだから存在を否定することも出来ないだろう、と思うのだ。
例えば、以前「スカイフィッシュ」という未知生物について話題になったことがある。普段僕らの目には見えないのだけど、ビデオカメラで撮影された映像をスローにすることで映る、というのだ。その姿は透明な棒状のものにひらひらする布をなびかせたような形状で、それが信じられないような超高速で空を飛び交っているのだ、という話であった。確かにスローにした映像にはそれらしい生き物は映っていたし、スローにした映像であれだけのスピードで映っているならば相当速く富んでいるのだろうな、とも思ったものである。
まあタネを明かせば、この「スカイフィッシュ」という生き物は存在しないのだ。これは、ハエなどがビデオカメラの映像視界を横切る際にたまたまそんな風に映る、というだけのことであって、言ってしまえば「ビデオカメラの中だけに映りうる幻の生物」であったわけだ。
さてこの話を通じて僕が何を言いたいかというと、確かに「スカイフィッシュ」は存在しなかった。けど、目に見えない生物がいるということを否定することは出来ないだろう、ということだ。なにしろ、目には見えないのだ。その存在をどうやって否定できるだろうか。
以前読んだ、有川浩の「空の中」という小説も思い出した。超上空まで飛行できるように設計された戦闘機の飛行訓練中に、その戦闘機が突如爆発炎上するという事故が多発するのだけど、その原因というのが、遥か悠久の彼方より空の上で生きてきた、透明でかつ広大な面積を持つある生物の存在であった、という話で、ものすごい上空にいたがために今まで誰にもその存在を知られることがなかったのだ、というような話だった。もちろん、そんな生物は実際にいないのだろうけど、でもいないことを否定することもまた出来ないと思うのである。
その考えを応用すれば、僕は幽霊を信じてもいい。上記では幽霊を信じないと書いたけど、それは「幽霊を見た」と証言する人を信じない、ということだ。しかし、死んだ人の魂が、僕らの目に見えない形でこの世の中にあるかもしれない、ということは否定しないし、そういうことがあってもいいと思うのだ。
だからこの世の中のどこかに、誰にもその存在を知られていない土地というのがあってもいいと思う。
ちゃんとした知識はないのだけど、以前は「サンカ」と呼ばれるような人々がいたようだ。国家に属さず、山の奥の奥でひっそりと暮らしながら生きる人々のことだ。彼らは、今もどこかの山にいるかもしれない。彼らと僕らの生活は交じることがなく、だからお互いにその姿を見ることはない。目には見えない存在だが、いるかもしれない。そんな彼らが生活している土地などは、もはや「見えない場所」と言っても間違っていないのかもしれない。
昔ドラえもんに出てきた「地底王国」みたいなものも、あってもいいな、と思う。北極に空いた大穴を下りていくとそこは地底で、そこにも世界が広がっているという話で、地球の内部にはマグマだとかが詰まっていることを考えればありえない話だけど、でも否定はできないし(だって世の中には、深海の火山口付近で、そこから出される二酸化炭素を栄養にしながら生きている生物もいるくらいだ。マグマの中でも生きられる生物がいたって、おかしくないかもしれない)、僕はあってほしいな、と思う。
知らないことは世の中にたくさんある。知らないことがたくさんあり続けるからこそ、人の好奇心というのは留まることがない。何でも解明すればいいというものでもないだろう。謎は多い方が楽しいではないか。
そろそろ内容に入ろうと思います。
この世の中には、<穏>と呼ばれる土地がある。そこは、地図にも記載されることはなく、その外にいる人間はその存在をほとんど知られることのない土地で、ほんのわずかな交流を除けば、外の世界とは一切遮断された陸の孤島である。そこには雷季と呼ばれる季節がある。冬から春に掛けての時期であり、この期間は雷が鳴り続ける。人々は家の中にこもってその季節をやりすごす。そして、雷季には、よく人が消える…。
その穏で生活をしている賢也の生活を中心に物語が描かれる。賢也はどうやら友人から快く思われていないが、しかし少ないながら友人はいる。友人と他愛もない時間を過ごしたり、あるいは墓町と呼ばれる廃墟で闇番と呼ばれる番人と時間を過ごしたりしながら、賢也は自分自身や穏について様々なことを知るようになっていく。
あることがきっかけで穏を離れなくてはいけなくなった賢也は、以前から自分にとりついている<風わいわい>と共に、下界を目指して旅を続けるのだが…。
というような話です。
まあまあ面白いな、と思いました。
恒川光太郎という作家は、ないはずのものをいかにもあるように描くのが結構うまくて、人間の世界の隙間に、普段は気付かない様々な世界があるのだ、という話を書くのだけど、本作もそういう感じでした。前作の「夜市」では、人間の世界のほんのちょっとしところに別世界があるよ、という感じだったけど、今回は、人間世界とは完全にかけ離れた場所にある<穏>が舞台であって、まあそういう方が僕としてはよりリアリティを感じるかな、とは思いました。
途中読んでて、ダラっとしたところもないではないのだけど、でも最後まで読んでいけば、まあなるほどなというような感じになると思います。
でもどうしても気になるのが、文章がぷちぷち切れるな、ということでした。別にすぐに章を変えるとかではなくて、なんとなく文章が流れていかないな、と感じました。僕の中にある文章のリズムと、この作家が書く文章のリズムが合わないというだけの話だと思うのだけど、でもどうにも文章がぶつぶつ切れるなぁ、という印象が最後まで拭えなかったです。
さらっと読むにはまあいい作品ではないかな、と思います。深いことを考えずに読める作品です。

恒川光太郎「雷の季節の終わりに」

今日は前書きナシで行きましょう。
どうにもつまらない作品で、ちょっと感想を書く気にあまりなれないというか。
内容の紹介です。
美しくない人は皆着ぐるみを着なくてはいけない町。町全体がテーマパークと化していて、その中で見世物として生活することが普通となった人々。
そんな中で生活している伏見は、どうしようもない親戚やらと付き合ったり、友達とあれこれしたりしながら生活をする。
というような話。
設定が面白いなというのと、森博嗣が帯の推薦文を書いていたので期待していたのだけど、よくわからなかった。
コミックと小説の融合(というか、コミックのコマ割の中に文章が書いてある感じ)という形式は新しいと思ったけど、どうも内容が面白くない。前半こそ着ぐるみに関係した話だったけど、後半になるとただの同性愛の話になっていくし、なんだそりゃ、という感じになる。
しかしなぁ、最近どうも外れが多くて残念である。なんかこう、ガツンと来る作品を読みたいものである。

D「キぐるみ」

例えば、自分とはまるで関係ないある他人の家に隠しカメラを仕掛けることを考えよう。
仕掛ける場所は居間に一つ。そしてその映像をひたすら一日中見続けると考えて見て欲しい。
僕の中の「古典」のイメージというのはこういうものだ。意味がわかるだろうか?
僕はとにかく「古典」作品というのが苦手で仕方がない。学校の授業で読まされていた頃もダメだったし、今でも同じくダメである。まったくと言っていいほど、そのよさを理解することが出来ない。
どうしてだろうな、と考えた時に、上記のような例が浮かんだわけです。
とにかく、退屈なんですね。まさにその退屈さは、まったく知らない他人の家に仕掛けた隠しカメラの映像を一日中見てなくてはいけないような退屈さであって、僕にはそれが堪えられないわけです。
編集されてない、とでも言えばいいでしょうか。その編集されてないぶりが苦手ですね。
僕らが、編集されているものに慣れすぎているからだと思います。一番はテレビであり、いいところだけを繋いで面白くするというスタイルを取っているし、現代小説だって、必要な部分だけを切り取って編集して書かれているように思います。
でも「古典」作品というのは、ノーカット版みたいな印象があるわけです。とにかく、面白い面白くないは関係ない、一人の人間の必要な何かみたいなものを編集せずに描くみたいな、そんな印象があって、それがダメですね。読んでて、うー、となってしまいます。
時折、やっぱ「古典」作品にも手を出さないとなぁ、と思って何か読んでみるのだけど、いい作品に出会えた試しがありません(唯一安部公房くらいでしょうか)。やっぱ僕は、「古典」作品にはなるべく触れないようにしようと思います。
そろそろ内容に入ります。
正直、読んでてよくわからなかったので内容も大雑把にしか理解できてないのだけど、一応その大雑把な紹介を。
主人公が引っ越してきたその隣に住んでいたのがギャツビーなる人物で、素性のはっきりとしない人物であった。気が向けばパーティーを開くそのギャツビー氏と個人的に親しくなり、そして頼まれ事を引き受けることになる。
ギャツビー氏を中心とした、ある夏の物語。
という感じです。
やっぱりダメでした。村上春樹が訳そうがどうしようが、やっぱりダメなものはダメですね。いつものように読んでて外人の名前が覚えられないので、中盤ぐらいから誰が誰なのかわからなくなってくるし、登場人物達がなんの会話をしているのかもよくわからなくて、やっぱ「古典」は苦手だなぁ、と改めて思った作品でした。
ただ、とにかく僕が残念に思うのは、「あぁ、村上春樹と同じ地平に立つことは出来ないのだな」ということです。もちろん、まったく同じ所に立つことは無理としても、出来るだけ近くに立ちたいと思うのは自然でしょう。しかし、同じ作品を読んでこうも評価が違うと、見ているものが違うのだなとか、感じているものが違うのだなと認めざるおえなくなって哀しいです。
まあ、この作品をオススメだとかなんとか、そういうことは言わないことにします。僕にはとにかくダメだったし、まあそんな「古典」アレルギーの僕の意見なんか参考にならないと思うので、皆さん自分の判断でどうか読むか読まないか決めてください。

スコット・フィッツジェラルド「グレートギャツビー(村上春樹訳)」

自分が、世界の主人公であると思ったことはないだろうか。
世界は自分を中心にしている、みたいに思ったことはないだろうか。
僕らは当然のことながら、自分の視点で世界を見ている。自分が見たモノ、聞いたモノを世界のすべてだと感じ、その感じに従って僕らは世界を認識している。
それはすなわち、自分が中心であるという視点をつねに思っているのと変わらないだろうと思う。
自分の世界の中で自分が主人公であるのは、まあ至極当然の話である。自分の視点こそがすべてであり、周りの人間はすべて観客である、というような感覚も、また間違いではないし正しいだろう。
しかし、それはすべて相対的なものでしかない。
僕らは、世界の主人公であると同時に、他人の世界の観客でもあるのである。
自分独りきりであれば、世界は自分のものであるし、その主人公でありつづけることが出来る。独りの世界には観客は想定できないが、しかしもう一人の観客としての自分を設定し、その観客の視線を意識して世界を生きていくことは出来るわけで、独りの世界であれば僕らはいつでも主人公足りえる。
しかし、二人以上の世界であれば、自然と主従が決まってくる。揃った面子によって、誰がその世界の主人公であるかは比較的明確であり、それぞれがそれぞれの世界を保持しその中で主人公であっても、全体の世界の中では一人の主人公が決定され、残りの人間は観客としての視点も持ち合わせることになる。
そうやって世の中は、主人公と観客に分けられていく。
常にどんな場でも主人公でなくては気が済まず、一瞬たりとも観客としての自分を許容することのできない人種、そうした人々が俳優や女優と呼ばれるのだろう。
人に見られるという感覚は、大抵の場合思い込みでしかなく、自分の世界の中で主人公であるが故に、他人の観客としての視線を敢えて創造しているに過ぎないだろう。
例えば、人前で何か失敗をしたとする。道を歩いていて転ぶ、というようなことでいい。本人としては、すごく恥ずかしいものだ。何故恥ずかしいのかと言えば、それは他人の観客としての視線を意識しているからだ。自分は、自分の世界の中では主人公であり、その主人公が転んだのだから観客は注目しているだろう。そんな意識が働き、勝手に恥ずかしくなるのである。
しかし、実際人は他人のことをそこまで観察しているものではない。視界に入ってもすぐに忘れるだろうし、目にも留めていないことの方が多いだろう。その観客が、自分と多少何らかの関係がある時は、多少記憶に残るかもしれないが、しかしそれもそれまでのことである。
昔は僕も、そういう他人の視線を意識しすぎて、無駄に一人で悶々と悩んでいたものだと思う。最近でも、もちろん他人の視線を意識はするが、しかし同時に受け流すことも出来るようになった。どうせ他人は、自分のことなど碌に見ていないだろう。そんな風に思うことが出来るようになった。
これは、自分が観客としての視点を以前より強く獲得したからではないか、と思うのだ。自分から見れば自分は主人公であるが、他人からすれば一人の観客に過ぎない。その観客に過ぎない自分の視点というものが、誰にとってどういう位置に収まるのかということを、なんとなく学んだのだろうと思う。
世の中には、この観客としての視点を獲得出来ていない人が多いように思う。もちろん僕が完璧に出来ていると言いたいわけではないのだけど、他人のそれは余計に目に付く。
やはり誰もが、自分が主人公であるという幻想を信じたいのだろうな、と思うのだ。その幻想は大抵の場合、自分独りの世界の中でしか通用しないのに、人々はその世界を少しでも押し広げようとしているように思う。自分は主人公なのだからこれぐらい許されるとか、自分は主人公なのにどうして周りはもっと尊重しないわけとか、そんな意識が強くありすぎるが故に、それを観察している人間に酷く変な行動として意識されてしまうのである。
大勢の世界の中で主人公になれるのは、本当に一握りの人間でしかない。その他大勢の人間は、その本物の主人公の観客に過ぎず、唯一自分の周囲の狭い世界の中でのみ主人公としていられるのである。僕らはもっと、観客としての視点を身に付け、自分の立っている場所をしっかりと認識し、その位置でしっかりと立ち続けることを意識すべきではないのか、と思う。
誰しもがシンデレラに憧れるだろう。しかし考えてもみれば、全員がシンデレラであれば、観客がいなくなってしまう。観客の一人のいない主人公など、主人公としての価値などないだろう。それよりも、よりよい観客となり、主人公を鋭く見つめる方が、世界にとっても自分にとっても素晴らしい結果をもたらすことになるかもしれない、と思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
とは言うものの、本作は内容紹介が本当に難しい作品で、内容紹介をすればするほどネタバレになりそうな作品です。ストーリー自体も複雑であって、内容紹介を省略するのがベストなのだろうけど、しかしどれだけ複雑な話なのかを理解してもらうために、多少内容を書いておきましょう。
ストーリーのベースは演劇です。全編演劇がベースになって物語が進んでいきます。
作中劇というのでしょうか、本作の中で台本のように書かれている章があり(女優1:「~」みたいな表記の章)、その作中劇の内容だけ紹介しましょう。
『「脚本家が不可解な死を遂げ、その容疑が三人の女優に掛かっている」という内容の舞台を製作した脚本家が、その製作を記念して開いたパーティーの席で不可解な死を遂げる。その舞台の主演女優候補として残された三人の女優にその疑いが掛かる。警察は、事情聴取と平行してその三人の女優に、死んだ脚本家が遺したその舞台の脚本を演じさせる』という内容の舞台。
それと平行して、ある大物女優の死、就職活動中の女性の死、霧のたちこめる山奥の劇場を目指す二人の男の物語などが語られる。
どこまでが虚構で、どこまでが真実なのか、その境界が読み進めるにつれて曖昧になっていく物語。
という感じです。
なかなかチャレンジ精神溢れる作品で、僕は結構こういう作品は好きですね。本作は、結構真面目にミステリで、これまでの恩田陸の作風とはちょっと違う感じがするでしょう。だから、既存のファンとしてはあんまり好きになれない作品かもしれないですね。逆に、ミステリが好きなら読んでみたら結構いいと思う作品です。
とにかく構造が複雑で、本当に理解するのが大変です。といって読みにくいわけでは決してなく、複雑なくせに結構スラスラ読めてしまうわけで、その辺りさすがだなと思いました。
とにかく、これは一体どこの『中庭』の話なのかが入り組んでいます。あらゆる事件がある『中庭』を舞台にして起こるのだけど、その『中庭』が現実の中にあるのかそれとも虚構の中にあるのか、虚構の中にあってもそれが一層目なのか二層目なのか、というところが煩雑で、よくもまあこんな話を考えたものだ、と思いました。
最後まで読んで、なるほどこういう話だったのか、と僕なりに構造を理解したつもりではありますが、でも間違っているかもしれません。でも最後の方で、「解釈次第だ」みたいなセリフがあって、それはまあその通りだなと思い、まあ間違っててもいいかな、という風に思ったりします。
いろんな殺人事件が起こるし、それぞれに解決が与えられるのだけど、でもそれぞれのその解決は綺麗だとは思いませんでした。でも、この複雑な構造の物語の中で、どうもそういう部分は些末なものとして僕の中では扱われて、まあいいかという感じになりました。僕としては、個々の事件の解決にとやかく言うのではなく、作品の構造そのものに隠されたミステリを楽しんだ方がいいだろうな、と思いました。
複雑な作品をさらに複雑にしているのが、上記で一応説明したつもりの作中劇ですが、これがなかなかに面白かったです。三人の女優が同じ筋の物語を平行して語るのだけど、女優が女優自身を演じるというなかなか込み入った作品で、劇の大筋はあるけど、細かい部分は女優自身が脚色して自分の話に仕立て上げるという趣向です。しかもそれが、ある事件の取調べという状況であって、なかなかスリルもあります。ほんと、よくもまあこんなことを思いつくものです。
ただ、僕の中でどうしても処理し切れないのが、「旅人たち」と題された章で、一応どこかに収めようと思えば無理矢理収まらなくはないのだけど、でもやっぱりはみ出ます。ジグソーパズルは完成したんだけど、どうも一箇所嵌まり方がおかしくて、これでいいのかなぁ、という感じ。物語がすべて『中庭』で完結してくれていればよかったのだけど、難しいものだ。
しかし本作は、携帯で連載していたものらしいんだけど、よくこんな難しい話を携帯で連載しようと思ったなぁ、と思います。携帯で読んでた人のどれくらいがついてけたのか、疑問ですね。ちょっとそこだけが、本作の失敗ではないかな、と思いました。
そうそう、構造的に似ている作品が思い浮かんだのですけど、ネタバレになりそうなので書くのは止めておきます。メフィスト賞を受賞してデビューしたある作家の作品、とだけ書いておきましょうかね。
僕は基本的に恩田陸は苦手で(でもここ最近読んだ3作は3つともよかった)、でも本作はなかなかいいと思いました。だからというわけではないのだけど、既存の恩田陸ファンには合わなそうな気がします。さっき書いたことの繰り返しだけど、ミステリファンなら結構読めるんではないかと思います。複雑な話がダメという人はちょっと手を出さない方がいいかもしれないけど、僕としては結構オススメです。読んで見てください。

恩田陸「中庭の出来事」

はっきりと失われたことがわかる、そんな喪失ならばいい。目の前で失われたり、形が損なわれたり、そんな喪失であれば、むしろ安心だ。辛くないとは言わないが、少なくとも受け入れることぐらいは出来るだろう。
しかし、世の中そう簡単でもない。失われたことがはっきりとはわからない喪失で満ちているように僕には思う。
何かが失われるのは、大抵一瞬ではなくある一定の時間が掛かる。その過程で、静かに失われていくものだ。
しかし、その過程で疑問を抱いてしまうだろう。これは、本当に喪失なのだろうか。初めから持っていなかったのではないか。あるいは、本当は何も失っていないのではないか、と。
そうやって人は、いろんなものを失い、失ったフリをし、失ったように思い込みながら、曖昧で意味のわからない喪失を繰り返している。
人との関係というのが最も厄介だ。
僕は、高校時代の同級生とほとんど連絡を取っていない。同窓会の誘いが来ることもあるが、顔を出したことはない。少なくとも彼らは、僕にとっては失われた人々である。
しかし、もし同窓会に出たとしたらどうだろうか。失われていたと思っていたものが、実はまだ継続していたという風に思えるかもしれない。これだけ時間が経過していても、残るものは残るのだ、などと思えるのかもしれない。
しかし、失われていると感じている自分が間違っている、という感覚も捨て切れない。彼らは、本当に自分の世界にいたことがあるのだろうか。自分が勝手に友人だと思っていただけであり、本当は誰からもなんとも思われていなかったのではないか。もともと持っていなかったのに、僕が勝手に失ったと感じているだけではないのか。そんな風に思う。
僕は、こういうはっきりしない喪失というのが嫌いである。失っているならば、失っていることをきちんと理解したい。
今も、例えばバイト先で、その人の前では仲のいいフリをするけど、実は陰で悪口を言っている、なんていうことはざらである。僕は、嫌われているなら嫌われているでいいし、好かれているならそれでいいのだけど、どっちかわからない、というのがすごく恐い。「あの人に好かれているのか嫌われているのかわからない」より、「あの人に嫌われている」という方が全然状況としては好ましい。
皆、失ったものは見たくないと思うだろうし、第一失ったものは目に見えない。失ったという状況とともに喪失そのものが残るだけであり、失ったものを直視できるわけではない。
それでも僕は、何を失ったのかきちんと理解したいと思う。はっきりと、自分がどれだけのものを持っているのかを、そしてどれだけのものを失ったかのかを理解して、そうして自分の輪郭をきちんと保っておきたい。
失うくらいなら、初めから持っていたくない。失ったことがはっきりと分からないくらいなら、初めから捨ててしまいたい。僕はそんな風にも思うし、出来る限りそれを実践してきたつもりだ。なるべく多くを求めず、出来る限り身軽のまま世界の底に横たわって、なるべく失う可能性の低いものだけを所有して、そうして生きてきたつもりだ。
喪失が人間に与えるものはただの欠落であり、欠落を保持したまま生き続けることはどうしても難しい。そうして人は、欠落すらも喪失することを覚え、いつしか喪失に慣れていくのだろう。
喪失の後に続く日常こそが残酷だ、そんな風に本作では語る。欠落を抱えた日常こそが喪失の本質なのかもしれない。その残酷な日常を抱えてでも僕は、失われたことをはっきりと理解したい。そんな風に思う。
そろそろ内容に入ろうと思います。
檜山は、毎晩夜眠ることが出来ないでいる。眠いなぁ、と思って布団に入るのだけど、そこから2時間くらいは眠ることが出来ない。そんな眠れない夜の底にいる自分を自覚しては、夜の深さを思う。
ある晩、気まぐれに窓の外を見ると、そこには隣のクラスの矢鳴がいた。寒いのに薄着のままで、この沈黙した夜の町を毎晩歩いているのだという。彼もまた眠れないのだろうか。
特別親しいわけではなかった矢鳴と、それ以降交流をもつようになった。矢鳴の幼馴染で、キューピーさんと呼ばれている女の子とも時折話すようになる。
矢鳴は奇病に冒されていた。痒みから始まって、いずれ全身を失うことになる奇病で、彼は次第にあらゆる部分を失っていくことになる。
奇病に冒された矢鳴と、その矢鳴と何故か交流をもつようになった檜山との交流の物語。
さて、どうも最近当たりが少ない感じで、本作も僕にはちょっと合わない作品でした。
本作で描かれるような喪失感や虚無感みたいなものはすごく理解できるし、キューピーさんが口にする、人を信じることが出来ないという話も、すごくよくわかるのです。だから、本作が全体的に扱っているモチーフというかテーマ的なものとは、僕は結構親和性が高いはずなのに、どうも作品そのものとは相性が悪かったようです。
それは、これは出来れば書きたくないのだけど、本作で描かれる喪失が奇抜であり、ちょっと馴染めなかったからだろうか、などと思いました。さらに言えば、リアリティーという、僕の嫌いは話になるのだけど、でも喪失を身近に感じるためのリアリティーに欠けるのではないか、と思ってしまいました。
つまり、その喪失そのものを受け入れることが出来ないために、その喪失と対峙する矢鳴にも、その喪失と向き合わされる檜山にも、その喪失から遠ざけられるキューピーさんにも、どうにも感じ入ることが出来なかったのではないか、なんてそんな風に思ってみたりしました。
喪失を扱った小説として僕が傑作だと思っている作品に、小川洋子の「密やかな結晶」があるのだけど、同じ不条理的な喪失を扱っているのにも関わらず(むしろ小川洋子の世界の方がファンタジックだと思う)、「密やかな結晶」の方が遥かにリアリティーがありました。それとどうしても比較してしまって、ちょっとダメだった、というのもあるかもしれません。
あと、これはまあ些末なことだけど、主人公の檜山の人称が、地の文では「私」になっていて、どうしても途中まで、登場人物が女だと思ってしまいました。会話文では人称は「僕」になっているので、あぁそうかこいつは男だったな、と思うのだけど、またしばらくすると女だといつの間にか思っていて、またあぁそうか男だったな、みたいなそんなくり返しでした。
どうにもなんともいえない作品でした。オススメできない作品です。帯に三浦しをんや島本理生なんかが推薦文を書いてるけど、僕にはそれほどいい作品とは思えませんでした。

埜田杳「些末なおもいで」

僕は音楽というものをまるで聞かない。
音楽とは、ほぼ縁がないと言っていいだろう。
友人と喋っていて、そのことをよく思い知らされる。友人達は、例えば昔ヒットした歌やナツメロなんかが流れると、「これは高2の時の歌だ」とか、「一番初めに付き合った彼女のことを思い出す」だの、まあそんなようなことを言うのだが、僕にはそんなことはまったくなし、そんな会話にもついていけないのである。
もちろん、CDを買ったりラジオを聞いたりすることはなかったものの、人並みに音楽番組なんかを見てはいたし、それなりに知っている音楽というのもある。しかし、それらは僕の人生経験と結びついた形では僕の中に残っていないのである。僕は何か音楽を聞いても、懐かしい情景を思い出すこともないし、過去のワンシーンを回想することもない。また、歌っているアーティストやその歌のタイトルなんかもわからず、ただ知ってる曲だな、と思うだけなのである。
だから僕の場合、カラオケに行っても酷く困ることになる。曲自体は、なんだかなんだいろいろ知っているのである。今は本屋で働いていて、そこでいつも有線が流れているので、今時の歌でも結構分かる。この前友人と年越しをしていた時に、テレビで一年の歌のトップ100みたいなのをやってて、そこで流れた曲のほぼすべてを僕は知ってて驚かれたものだが。
だがしかし、僕はどうしても、アーティスト名にも曲名にも興味がなくて、だから知っている曲があって、どうもそれを歌えそうだと思っても、それをカラオケに入れられないのである。だから、知っている曲は増えても、一向に歌う曲は増えない。
基本的には音楽にはまるで興味がない。音楽を聞いている時間や空間というものが、僕には何ももたらさない。感動も落胆も恐怖も狂喜も、そうした感情はほとんど僕の中に現れることはない。
歌詞についても同様で、知ってる曲があって、その歌詞を知ってても、その歌詞の内容について何か想ったり考えたりすることはない。歌詞に共感するなんて経験は皆無で、その意味さえ考えることはない。
僕にとって音楽というのは、あらゆる意味でただの音であり、それ以上でもそれ以下でもない。音楽にのめり込む人を否定したり非難したりするつもりはもちろんないし、寧ろ羨ましく思うこともあるけども、しかしやっぱり僕には音楽というものはこれからも無縁であり続けるだろう。
一つもっともらしい、それでいて実情にそぐわないだろう言い訳を思いついた。僕が、音楽をあまり好きになれない理由だ。
それは、「本物」が評価されにくい世界なのではないか、という思いがあるからだ。
音楽というものは、一種の見世物であって、音楽そのもののよさよりも、アーティストのスタイルだとか、アーティストの人気だとか、そういう音楽そのものとは関係ない部分もセールスに大きく関わってきてしまう分野だと思う。
たとえ多くの人が素晴らしいと思う「本物」の音楽があっても、状況によっては埋もれてしまうこともあるだろう。そんな感じがしてしまうのだ。
僕は本が好きなのだけど、本は割と「本物」が見過ごされないと思う。もちろん、すっごくつまらない癖に宣伝のうまさや映画化などの理由で、大したことのない本が売れたりもする。しかし一方で、素晴らしい作品というのもまた決して埋もれることなく残っていくように思う。もちろん、僕が本が好きだから偏見はあるだろうけど。
しかし、音楽にもいい点はもちろんあって、僕が思うにそれは、時代によって古びない、というところだと思う。いい音楽は、いつ聞いてもやはり良いものだろう。
しかし、本というのは、必ず時代遅れになる。どれだけ人間の本質を描いていようが、どれだけ素晴らしい主張があろうが、時代という背景を描かずに小説を書くことが不可能なように、本というものには宿命的に時代との隔絶がある。どんな名作であろうとも、どんな傑作であろうとも、そこに古臭さを感じさせてしまうものがあるだろう。
まあそんな比較はどうでもいいのだけど、これからも僕は、音楽は有線とテレビCMぐらいでしか聞かないだろう。それを不幸だと思う人もたくさんいるだろうけど、僕からすれば、本を読まない人間の方が不幸に思える。まあ、どっちもどっちである。どちらが優れている、という話では決してない。
音楽も小説も、どこかの誰かの心に必ず届く。そうなら、まあ細かいことはどうでもいいかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
今現在は、ほんの僅かなスペースに申し訳程度の酒場をオープンさせた、語り部である他平。彼はとある理由から、高校時代に所属していた吹奏楽部時代の思い出を回想することになる。
そのきっかけは、当時一つ上の先輩であった桜井ひとみによってもたらされた。彼女は結婚することになったのだが、どうせなら自分の披露宴で、当時のメンバーを集めてブラバン再結成をして何か曲目を披露しないか、ということであった。とにかく、実現するかどうかはわからないなりに、わかる範囲で連絡を取ろうとする他平。その過程で、思わず昔を思い出すことになったのだ。
軽音部に入ろうと思っていた他平をブラバンへと引き込んだ皆川、「腹筋を鍛えれば健康になれる」と変な理屈を捏ねてブラバンに入った来生、他にも美女がいるからとか、録音するのに音集めのためなど、さしたる理由もないままにブラバンに入った新入生と、こちらはこちらで個性溢れるメンバーの揃った先輩、そして同じく個性的な顧問の教師らと、あっさりと過ぎることのなかった濃密な青春時代を過ごした。
過ぎたる日々を回想しながら他平は、現実を生きるかつての仲間の姿を様々に見る。25年ぶりの再結成は、容易ではない。今を懸命に生きている人々が集まって、昔を懐かしむブラバン再結成は実現するだろうか?
というような話です。
どこかで評判になっているのを見た気がしたので、割と期待して読んだんですけど、どうも期待はずれだったようです。
決して悪い作品ではないと思います。まず驚かされるのは登場人物の多さで、しかしこれだけの人数がいるのに、さほど煩雑にならずに読み進められたのは、ひとえに作家の手腕だと思います。もちろん、登場人物紹介を確認しながらの読書になるけど、でも次第にきちんと人の区別がつくようになっていくわけで、これだけの人数をきっちり書分けるのは大変だっただろうな、と思います。
またストーリー自体も、まあいろんなことが起こるし、音楽とは関係のない部分まできっちり書いていて、高校生の青春モノとしてはまあ悪くないのだろうなと思います。
でも、なんというか説明できないのだけど、今ひとつ何かが足りないよなぁ、という風にずっと思ってしまいました。何が足りないのかうまく説明できないのだけど、読んでてそこまで入り込める作品でもなかったし、どこにも引っかかりのない作品で、目の前をただ滑っていくようなそんな感じがしました。
また読んでて気になるのが、突然時代が切り替わることです。1行空けたり、章を変えたりすることなく、ただ改行だけで突然過去に戻ったり現在に帰ってきたりするのは
すごく読みづらくて、最後の方は慣れましたけど、初めはちょっとついていくのがなかなか大変でした。伊坂幸太郎の「重力ピエロ」のように、かなり細かくぶつ切りに章分けしてでも、もう少しなんとかならなかったかなぁ、と思ってしまいました。
というわけで、僕には合わない作品でした。でもまあ、読んで損するような作品ではないと思います。まあこんなもんかな、みたいな作品で、合う人には合うんではないかと思います。気が向いたら読んでみるのもいいかと思います。

追記:アマゾンのレビューを読むに(五つ星の大絶賛でした)、
・音楽を聞きまくった人(あるいは楽器を弾いたことがある人)
・そこそこ年配の人
が読むといいようです。僕はどちらも当てはまらないのでたぶんダメだったのでしょうね。当てはまるという方は読んでみるといいかもです。

津原泰水「ブラバン」

不謹慎なことをいうけども、誘拐というのは本当に魅力的な犯罪である。
魅力的というのは、ここまで知的な要素を要求される犯罪はなく、その誘拐の目的そのものよりもむしろ、誘拐をするというそのスリルが勝ってしまうような、そんな部分があるということである。
僕も、絶対に捕まらない、ということならやってみたいものだ。そんなテーマパークみたいなのが出来たら面白くないだろうか。かなり広い敷地内に、警察やら一般人やらマスコミやらその他いろんな人々を配置して、その中の条件で誘拐事件を成立させてみる、みたいな。あったらやってみたいものだ。
誘拐というのは、成功率が0%である、と言われている。日本においては、誘拐という事件はそもそも成り立たないのだ、と。
しかしそれでも、誘拐事件そのものはなくなっていかないし、小説の中でもどんどんと取り合げられていくのだ。
警察というのは基本的に、起こってしまった犯罪に対応する組織である。殺人やら強盗やら、既に済んでしまったものに対して、犯人を見つけるために捜査をする。
しかし誘拐の場合その性質ががらりと変わる。犯人はまだ犯罪を終えてはおらず、その同時進行の中で警察は捜査をしなくてはいけないのである。
だからこそ、犯人対警察という構図が出来上がるし、だからこそ小説でも頻繁に扱われるのだろう。
誘拐にも様々あるが、基本的には「いかにして金を受け取るか」という犯罪であり、警察はいかにそれを阻止するか、というものである。金を受け取るためには、どんな形であれ多少の接触は必要なわけで、そこが誘拐事件の肝でもあり難しいところであり、警察側の突破口でもある。
でも例えば、金を受け取るのではない目的のために誘拐という手段を利用れば、これはかなり強いような気がする。
例えばよくあるのは、「人質を返して欲しければ誰々を刑務所から出せ」みたいなものである。これだと、犯人側と警察側の直接的な接触は回避できる。犯人側は、何らかの形でその釈放を確認しさえすればいいわけで、これだと少しは安全といえるかもしれない。
しかしこの場合も難点があって、それはもちろん、犯人とその刑務所にいる人間の関係性から犯人の素性がばれてしまう、ということである。要求が、「この人をどうしろ」とか、「このモノをああしろ」とかいうものだと、どうしてもそれとの関係性によって素性がわかってしまう。
だから僕は、誘拐という犯罪をこんな風に利用すればいいんじゃないかと思う。
誘拐事件の中で、どこかの銀行口座に金を振り込ませる、みたいなことになった場合、警察は事件の起こった県内すべてのATMに張り付く、みたいなことをするらしい。それを利用して、その誘拐と同時に銀行強盗をすればいいんじゃないかな、と思う。ATMに張り付くだけで警察が空っぽになるとは思えないけど、でも少なくとも手薄にはなるはずで、それを利用して何か別の犯罪をするというのは、案外なんとかなったりするんじゃないか、と思う。
まあこんなことをグダグダ考えたところで、所詮実行するわけはないわけで、どうしょもないのだけど、でもこと誘拐に限っては、それが机上の空論であっても計画を立てることは結構楽しいと思う。実行できる場がないというのが残念なところですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
12月30日。箱根駅伝を目前に控え、その準備に慌しくなっている神奈川大学陸上部の部員とマネージャーたち。唯一の四年のマネージャーとして最後の箱根駅伝を成功させようと思っている水野友里もまた、忙しい準備に追われていた。
しかしその日水野友里は、人知れず誘拐されてしまったのだ。
その事実に気付いたのは翌日のこと。水野友里とつきあっていた、今年の駅伝では10区を走ることになっている津留康介と監督だけがその事実を知らされ、他の部員には伏せることになった。
犯人側から手紙のようなものが届き、そこには「津留康介を出場させるな」というようなことが書いてあった。
一方で、箱根駅伝の中継のすべてを管轄する、日テレのブース。箱根駅伝の総合プロデューサーである幸田を筆頭に、最後の準備に余念がない。
しかし、回線の具合が時々おかしくなる。女性が監禁されているような変な映像もどこからか送られてきた。そしてその後、犯人側の計略にやられた幸田は、犯人側と直接的なやり取りをするようになっていく。
津留康介を出場させるな、というだけで他の要求を一切しない犯人グループ。一体彼らの目的はなんなのか。事件は解決しないまま箱根駅伝当日を迎え、ランナーたちが知らないところで、多くの人間が右往左往させられることになる…。
というような話です。
誘拐モノは基本的に好きでまあ時々読むのだけど、本作はちょっとあんまり、という感じでした。
まず僕が一番好きになれない点は、機械的なもの、電子的なものを多用している、という部分です。もちろん、今の世の中では現実的に誘拐事件を成功させようとすればそういったものに頼るしかないでしょう。よくわからない機械的なもので警察を翻弄して、またネットワークを駆使していろんな情報を得て、みたいな。
しかし、小説というのは現実とは違うわけで、そこで機械的なものを多用してしまうとちょっと興ざめになるな、と思います。
もちろん本作では、日テレの放送ブースと直接のやり取りを確保しなくてはならないような事情があったわけで、機械的なものを駆使しなくてはどうにもならなかったのだろうけど、それでもそういうストーリーはちょっと厭だなぁ、と思います。
またなんというか、結局駅伝って大して関係なくなかったか?とか思ってしまいました。もちろん、終盤でそれなりの理由みたいなものは提示されるのだけど、でも弱いと思います。箱根駅伝でなくてはいけないようなすごい理由というものがあるわけでもなくて、だから無理矢理だなという感じがちょっとしました。
さらに、何故津留康介がターゲットにされたのかというのもよくわかりませんでした。どこかに書かれていたのかもですけど、結局よくわかりませんでした。犯人側は、初めに津留康介に目をつけて、それからマネージャーの水野友里を人質に決めたのだけど、その何故津留康介だったのか、というあたりがイマイチわかりませんでした。
というように、いろいろちょっとダメかなぁ、と思うようなところが散見されたので、ちょっと評価は低いです。オススメしないので、興味がある人は読んで見てください。
やっぱり誘拐モノといえば、もう僕の中で最高傑作である、真保裕一の「誘拐の果実」でしょう。まず皆さん、これを読みましょう。

安東能明「強奪 箱根駅伝」

世界は複雑になりすぎた。
どうして、もっとわかりやすい世界のまま留めておけなかったのだろう。
どこかの国では、銃弾に倒れる子供たちが、食料もまともにないような苦しい生活を強いられている。
どこかの国では、感染力の強い伝染病が流行し、人々をしに至らしめている。
どこかの国では、金儲けだけに目の眩んだ人々が、世界の経済を動かそうと暗躍している。
どこかの国では、将来を憂えた死んだ目をした若者たちが、無意味に無根拠にあてもなく生き続けている。
もっと近い話をしようか。
どこかの県では、政治家が汚職を繰り返し、その悪政の被害を県民が被っている。
どこかの県では、公務員から軒並み逮捕者が出ている。
どこかの県では、自分の子供をバラバラにして殺された家族が、今も悲嘆にくれながら生活をしている。
世界はあまりにも複雑だ。
どうしてもっとシンプルであり続けられなかったのだろう。
僕はいつも思うのだ。もっともっと狭い世界の中で生きていきたい、と。出来る限り、世界は狭い方がいい。自分の本当に周囲のことだけを考えていればいい、山の向こうも海の向こうもなく、ただ目に見える範囲だけが自分の世界であると信じられる、そんな世界で生きていたい。
それは、きっと誰でも同じなのだろう。だからこそ、山の向こうや海の向こうの出来事を、見て見ぬフリをしてやりすごしている。世界のどこかでは戦争が起こっているけど、どこかの県では凶悪な殺人事件で揺れているけども、でも自分には関係ない、と。そうやって僕らは、無理矢理世界を小さく思い込もうとしているのだと思う。
しかし、それだって限界がある。どこかの国の戦争のせいで、日本の石油の値段が上がることがある。どこかの国の政治のせいで、日本が物資を送らなくてはいけなくなる。どこかの県の犯罪者のせいで、学校の送り迎えをしなくてはならなくなる。
どうしたって、世界のどこかからの影響がやってくる。狭いと信じていたはずの世界に、どこかから何かがやってきてしまう。
本当に、世界が狭かった頃の生活が羨ましい。
朝日と共に目覚める。日中は働く。雨が降れば休む。日暮れと共に寝る。そんな単純だけどどこからも何も影響されない生活こそ、本当に豊かな生活なのかもしれないと本当に思う。
世界の複雑さは、ほんの一握りの人間だけを豊かにするものだ。世界の複雑はさ、ほとんどの人間を不幸にしている、と言っていいだろう。しかしそれでも、世界の複雑さが変わることはないだろう。これからも世界は複雑であり続けるだろうし、僕らはその世界の中で生きていかなくてはいけないのだろう。
国境も宗教も貧富の差も紛争も民族の違いも言葉の違いも、そういう人間が作ってきたありとあらゆるものを一旦ゼロにして、一つの地球に皆が住む、なんていうことが出来れば…、なんて思うけど、あまりに理想的過ぎますね。それに、複雑だけど平和な日本にいるからこそ、こんなことがいえるのかもしれないですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、6編の短編を収録した短編集になっています。それぞれの内容を紹介しようと思います。

「器を探して」
ヒロミという、お菓子作りの天才に惚れ込んで、その下で働くようになって長い年月が過ぎた。ヒロミは今ではマスコミも取り上げるほどの人気者だ。その影で、弥生は本当に苦渋をなめている。
今日もだ。今日はクリスマスで、付き合ってる彼が結婚を申し込んでくれるだろう日なのに、それなのに私は、プディング用の美濃焼きを探すために岐阜県くんだりまでいかなくてはいけないのだ…。

「犬の散歩」
恵利子はスナックで働くホステスだが、そこには一風変わった理由がある。
犬、のためなのである。
捨て犬の里親を見つけるというボランティアを始めた恵利子は、夫の稼ぎでボランティアをし続けている自分を嫌に思い、夜の仕事を始めたのだった。
里親が決まるまで捨て犬を自宅で飼うのだが、なかなか引き取り手の見つからない病気持ちのビビは、今ではもう2年も我が家で過ごしている。
犬のためにボランティアをしているなどと言うと、大抵の人間は怪訝な顔をするが、それでも恵利子は日々ボランティアに勤しんでいる。

「守護神」
裕介は、ホテルでアルバイトをしながら夜間の大学にも通うフリーター学生である。そんな彼が今頼みの綱としているのが、ニシナミユキだ。
学内で、「代筆の神様」と噂されている人物なのだ。仕事に忙しく、レポートを書くのもままならない祐介は、最後の頼みの綱としてニシナミユキをなんとか探し出しアプローチするのであるが…。

「鐘の音」
仏像の修復師としてかつて働いていた工房に、15年ぶりに顔を出した潔。そこで、かつて一緒に仕事をしていた吾郎と再開する。
潔が修復師としての自分と訣別したあの日。あの寺で不空羂索と出会い、その修復にすべてを賭けていたあの日のことを思い返し、過ぎたる日々を回想する…。

「ジェネレーションX」
おもちゃ雑誌の編集部員である野田は、あるクレームに対応するために、おもちゃメーカーの若手社員と共に、クルマで宇都宮まで行くことになった。
車中その若手社員は、ひたすらあちこちに私用電話を掛けていた。どうやら、同窓会でもあるようだ。まあ仕事中だぞと言ってやることも出来るが、仕方ない、彼らは「新人類」なのだから…。

「風に舞いあがるビニールシート」
風に舞いあがるビニールシートを引き留めなくてはならない…。
国連難民高等弁務官事務所のフィールド専門のスタッフであり、同時にかつて里佳の夫であったエドは、つい最近、活動をしていたフィールドで哀しい死を遂げたばかりだった。エドのためなら協力するという人間がたくさんいただけに、その死は深く悼まれた。
里佳は思い返す。エドと出逢ったあの日から、結局離婚することを決断するまでの、長くてそれでいて絶望的に短かったあの日々を…。

というような感じです。
本作は直木賞受賞作なのだけど、全体的な僕の印象としては、あっさりした作品だな、という感じでした。うーん、なんだろう、うまく説明は出来ないのだけど、でもあんまり引っかかるところのない作品だったな、という感じでした。
でも、「ジェネレーションX」だけはかなり好きです。仕事中なのに私用電話をかけ続ける若手社員が一体何を望んでいるのか、そしてそれに野田はいかにして応えることになるのか、とまあそんな話だったのだけど、この作品は、余計な知識的なものもなく、ストレートに面白いな、と思いました。
そう、他の作品には、どうにも「余分な知識」と感じられてしまうようなことが結構多かった気がします。長編だったら気にならなかったかもしれないけど、短編だとちょっと鼻に付く、みたいなそんな感じです。「守護神」での各文学作品についてのあれやこれやとか、「鐘の音」の仏像に関するあれこれだとか、「風に舞いあがるビニールシート」の難民や世界情勢のあれこれだとか、もちろん作品に必要な要素なんだとは思うのだけど、でもなぁと思ってしまうような部分がなんとなく多かった気がします。
でもそういう部分は逆に、細かい部分まできっちりしていると感じられる部分でもあって、一概にはなんとも言えないところですね。自分でも書いてることがよくわからなくなってきました。
とにかく、どこにも引っかからないなぁ、と思う作品で、だからちょっと残るものも多くないなぁ、という感じでした。別に悪い作品だとは思わないし、水準以上の作品だとは思うけど、でも無難すぎてなんともいえない、という感じでした。あんまりオススメはしないですね。「DIVE!!」の方が200倍くらい面白いと思います。

森絵都「風に舞いあがるビニールシート」

現実とは、何だろうか。
そんなことを考える。
現実が現実であるということは、一体どういうことなのか、と。
現実というのは、人間の認識によって生まれる。言ってしまえば、現実というのは人間の認識が生み出したものであって、人間がいなくてはそもそも現実というものは存在しない。
現実というのは、「そこにあるもの」では決してないのである。「そこにあるように思えるもの」なわけで、決して絶対的な存在ではない。
僕らは、目の前のりんごに触れることが出来るしその匂いを味わうことも出来る。切るときの音を聞くことも出来るし、もちろん目で見てその赤さを確認することも出来るし、食べて味を確認することも出来る。
これが現実である。
しかし当然のようにその現実は、人間の五感を通じてしか存在し得ない。触れられる匂わず、音も聞こえず見えず食べられないりんごは、たとえ本当に存在していたとしても、決してそれは現実ではない。現実とはそういうものである。
しかし逆に、りんごが存在しなくても、現実を生み出すことは出来る。
パントマイムという技術がある。何もない空間で、あたかも何かあるように振舞う演技であり、「四方を壁に囲まれた人」とか「綱を引く人」のような演目が有名だ。
さて、彼らは小道具を一切使うことがない。身一つで人前に立ち、そこに壁を、ロープを出現させる。
観客は、目でこそ見ることは出来ないが、しかしその壁やロープを認識することは出来る。そこには存在しないものであるのに、その存在を認識することが出来るのである。
これにより、演者のいる世界、つまり「四方を壁に囲まれた人」や「ロープを引く人」といった世界が、現実そのものになるのである。
これが、虚構が現実を生み出す構造である。
役者というのも、同じ構造の世界で生きている。まあ、広い意味で言えばパントマイムも俳優と言えなくはないので、同じことの繰り返しになるのだけど。
演技をする人というのは、虚構の世界から現実を生み出すための変換装置であると言っていい。虚構の視線、虚構の感情、虚構の思考、虚構の手振り、虚構の癖。そうした、ありとあらゆることが虚構によって装飾される世界から、彼らは現実を生み出すのである。いや、この言い方はちょっと違うかもしれない。俳優というのは、虚構から現実を生み出す存在であるべきだ、という表現の方が正しいだろうか。
例えば僕らも、日常生活の中で演技をしてる。本当の自分を隠すために、普段とは違う自分を演技によって生み出し、そうして社会をなんとか生きていったりする。僕もその一人で、自分を隠して演技するのは比較的うまいと思っている。
しかしそれは、現実から現実を生み出しているに過ぎない。存在するものだけを使って別のものをひねり出しているだけのことであり、そこに虚構が絡むことはない。りんごの例えで言えば、存在するりんごをミキサーにかけてりんごジュースを作るようなものである。
俳優というのは、存在しないものから存在するものを生み出す。これこそが演技の力であり、演劇の魅力なのだと思う。演じることで、存在しないりんごから存在するりんごジュースを生み出すことだって出来る。まるで魔術師である。
学生時代に、少しだけ演劇と関わった経験がある。僕自身演じていたわけではなく、小道具を作るセクションにいただけのことだけど、しかし、演じる人間のすごさは少しだけわかる。まさに彼らは、虚構から現実を生み出していた、と思う。
今も、バイト先の人が演劇に関わっていて、時々演劇を観にいく。演ずることにすべてを賭けている人がそこにはいて、彼らの生み出すものが現実となって少しだけ世界を削る。演じるというのは奥が深い。
自らが演じるだけで、現実のすべてを生み出せることが出来るとしたら、一体そこには何が見えるのだろうか?
そろそろ内容に入ろうと思います。
演劇に関わる様々な人間が、ある大演出家が手がけるという舞台へと収斂していく。芹澤という、映画界でも演劇界でももはや伝説となった演出家が、久しぶりに舞台をやるという噂が駆け巡る。内容は、女二人による演劇、というだけしかない。物語のすべては、その芹澤が演出する舞台のオーディションへと収束していく。
サラリーマンから脚本家になった神谷は、今ではテレビの仕事も何本もこなす有名な脚本家になった。その彼の元に、ある脚本の依頼が来る。これを引き受けたら、自分はプレッシャーにさいなまれる日々だろうし、失敗したらこれまでの実績がすべておじゃんになるだろうけど、しかしどうしてもやってみたいと思わせる依頼だった。神谷は、悩みに悩んだ挙句、その依頼を受けることにする。
W大学で学生演劇をしている巽と新垣。つい最近大所帯から10人ほどで抜け出して作った新しいグループで、名前もまだない。公園で、ランニングやストレッチや発声練習なんかをしながら、自分達の舞台をしたい、と思っている。
ある日、公園で練習している彼らの元に一人の女の子が近づいてきた。入部したい、ということだが、元々女性は入れないということで作ったグループなので躊躇った。リーダーである新垣は、演劇経験はないというその少女に、無生物のエチュードをやらせることにした。無論、出来なかったという理由で入部を拒否するためだ。
しかし、そこで彼女が見えた演技は、そこにいる誰もを圧倒した。何もない空間に、あたかも別の世界が立ち現れたかのような驚くべきリアル感がそこにはあった。落とすためにやらせた試験ではあったが、しかしここまでのものを見せられて落とすわけにはいかない。佐々木飛鳥と名乗った女の子は、こうして入部したのだ。
それから、運良く初舞台を踏めるチャンスが巡ってきた。そこで彼女が見えた演技も恐るべきもので、そして、それに注目した人間がいた。
東響子は、芸能一家に生まれ、自然と役者になった。20歳そこそこでありながら、芸歴は10年以上もあるベテランで、その演技力には定評がある。
周囲でいつの間にか話題になっていた、芹澤が仕掛けるという新しい舞台。オーディションが秘密裏に行われているという話であったが、しかし彼女の元にはオファーは来ていない。今公演中の舞台で初共演したアイドルや、親戚でありよきライバルでもある葉月などはオーディションに呼ばれているというのに。
その事実に愕然とした彼女は、オーディション会場に乗り込むことを決意する。
そうして、あらゆる人間の運命が、芹澤という男の舞台へ収束する。役者の存在すべてを賭けたオーディションが開かれ、そこで新しい世界が開かれる…。
というような話です。
ベタ褒めしてもいいですか?
いや、ホントマジで傑作でした。久しぶりにここまで素晴らしい作品を読んだ、という感じです。ぐいぐい引き込まれていくし、読むのを止められない感じでした。僕は基本的に恩田陸は大嫌いで、でも書店員として恩田陸は読まないとまずいだろ、という義務感で結構今まで読んできたのだけど、でもホント今まで頑張って読んできてよかった、と思いました。これほどの傑作に出会えるとは、まさか思いませんでした。
去年「私を見て、ぎゅっと愛して」を読んだ時も似たようなことを感じました。すごい作品を読んだな、という感じが今も残っています。まあそれでも、どちらかといえば「私を見て~」の方が素晴らしいと思うけど、しかし本作もすごいものです。まだ今年は40冊弱ぐらいしか読んでないけど、今年読んだ本の中で現時点での暫定1位になってもおかしくない作品だと思います。
とにかく、佐々木飛鳥のくだりを読んでいる時が一番興奮しました。
佐々木飛鳥というのは、演劇経験はゼロなのだけど、それまでの人生の中で様々な経験があって、その中で、人の仕草を完全にコピーすることが出来たり、あるいは本能で求められる演技を出来てしまうという、まさに天才なのです。その割りに、有名になりたいとかすごい役をやりたいというような自意識みたいなものは全然なく、巽や新垣のいる小劇団で小さく活動していきたい、と思っているような女の子です。
そんな彼女が初主演した舞台もなかなかのものがあったけど、やはり一次オーディションのくだりを読んだ時は、本当に感動しました。
一次オーディションでは台本を渡されてそれに応じた演技をするというのが課題なのだけど、しかし参加者の誰もが首をかしげるようなよくわからない趣向が凝らされた台本でもありました。詳しいことはネタバレになるので書かないけど、その趣向は一筋縄では解決できないかなりハードルの高い制限であって、その趣向をいかに解釈して台本をやり遂げるか、ということが試されるオーディションなわけです。
そこで佐々木飛鳥が見せた「解答」は、もう素晴らしいものがありました。さすがに鳥肌が立つということはないけど、でも、今自分はすごいものを見ている、すごいものを「読んでいる」ではなく、すごいものを「見ている」という感覚に囚われました。鮮やかだったし素晴らしくて、そこにいた誰もが唖然としただろうと思います。恐らく彼らは鳥肌も立てていたでしょう。とにかくそのくだりを読んだとき、その場にいたい、と思いました。佐々木飛鳥のその天才的なまでの演劇を直に観てみたい、とそんな風に思わされてしまいました。
さらに、二次オーディションもあるのだけど、そこでもまたハードルの高い課題が要求されます。その与えられた課題をいかに解釈して演じるのか、ということがまた求められる課題であったのだけど、そこでも佐々木飛鳥の出した「解答」はもう素晴らしいもので、確かに佐々木飛鳥にしか出来ない「解答」ではあったけど、しかし普通には思いつくことすら不可能なものだったのではないか、と思います。
とにかく、演劇を始めて数ヶ月の天才佐々木飛鳥がどんな演技を見せてくれるのかというところに、本当にワクワクしました。あんなにワクワク小説を読んだのは本当に久しぶりだと思います。普通のミステリなんかより全然ドキドキしたし、次の展開が気になりました。
もちろん、佐々木飛鳥以外の参加者の演技もまた魅力的であり、その違いを読むのも面白かったし、女優同士の火花を散らすかのような争いみたいなものも本当に見所で、すごい世界だなと思いました。
恩田陸はこの作品の中で、巽や新垣たちの劇団が演じた舞台の脚本だとか、一次・二次オーディションの趣向とその展開だとかも考えていたわけで、小説内小説を何本も書いているのと同じだな、と思いました。しかも二次オーディションで使用された台本など、古今東西ありとあらゆる演出家や役者が演じてきた傑作中の傑作であり、その演出を例え小説の中だとは言え自分の中でやらなくてはいけないというのは、本当に厳しいと思うし、恩田陸は自分自身に相当高いハードルを課したな、と思いました。もちろん、そのお陰で素晴らしい作品になっているのですけど。
これまでは、演劇にものすごく興味がある、というわけでもなかったのだけど、本作を読んで、すっごいと言われる演劇とかぐらいなら見に言ってもいいかなぁ、とか思ったりしました。例えば、あの蜷川ユキオとかいう有名な演出家の舞台であるとか。本作の中で佐々木飛鳥が辿り着いた境地の片鱗でも僅かに感じられたら、それはもの凄く快感だろうな、と思ったりします。
本作は、確か「ガラスの仮面」をモチーフにしてるとかなんとかどこかで書かれているのを読んだことがあったのだけど、そうだとするなら「ガラスの仮面」を読んで見てもいいかもしれないな、と思ったぐらいでした。とにかく素晴らしい作品です。これを読まない手はないと思います。是非読みましょう。というか読みなさい。読まないと後悔しますよ。是非是非、ホント素晴らしい作品ですから。

恩田陸「チョコレートコスモス」

名前のないもの、輪郭のないものに、人は不安を感じるものだ。
人は、何か新しいもの、触れたことのないもの、あるいは久方ぶりのものに出会うと、まずそれに名前をつけようとする。名前をつけ、それと共に時間を過ごすことで、次第に輪郭がはっきりしてくるようになり、自分がそれを所有しているということ、それが目の前にあるということをきちんと実感できるようになる。
初めて出会った人にはあだ名をつけ、初めて湧き出てきた感情に名前をつけ、美味しかった料理の名前を覚える。名前と共にその輪郭はくっきりし、他のものと区別されていくようになる。
恐らく、恋愛も同じようなものではないか。
人は、相手のことが好きだとか、自分を好きでいてくれているかとかという前に、まず「恋愛」というものに飲み込まれるのだと思う。これぞ「恋愛」であるというものに飲み込まれることで自分の現状を理解し、「恋愛」というものを深めていくことが出来る。
先ほどから僕が言っている言い方をすれば、まず二人の関係に「恋愛」という名前をつけ、次第にはっきりしてきた輪郭に安心しながら、お互いの関係を深めていく。
しかしこれは、そうなるのが理想的だ、という話にすぎない。
世の中はそううまくは出来ていなくて、「恋愛」という名前をつける前に始まる恋もあるだろうし、「恋愛」という名前をつけ損なったまま続いていく恋愛もあるだろうし、「恋愛」という名前を返上しないまま終わってしまう恋もあることだろう。
自分を取り囲む状況に名前をつけることが出来ず、輪郭も安定しない。今「恋愛」と名前をつけていい形の中にいるのか、あるいはいないのか、そこにどうしても不安を感じてしまうものだろう。そういう状況は、結構あるだろうと思う。
不安定な人間関係は、しかしそれはそれで面白いこともある。安定しきらないだけの関係を続けていけるというのも、一つの形であるのかもしれない。安定を求めるが故に、分かりやすい名前を求め、輪郭をはっきりさせたいと思う人は多いかもしれない。しかし、どうなるともわからない不安定さを内在させるために、敢えて名前を捨てるというのも、一つ面白いものかもしれないと思う。
恐らく本作の内容とはかなりかけ離れた話になってしまった。
そろそろ内容に入ろうと思います。
19歳のオレは、39歳のユリに恋をした。
ユリは、オレが通っていた美大の講師であり、友人が開いた飲み会を通じて急速に親しくなった。休日にユリのアトリエに行きモデルをやるようになり、そうして関係が出来た。
ユリは、とても女らしいとは言えない女だった。見た目は39歳そのものであったし、料理も出来なければ、掃除も出来なかった。しかしそれ以上にオレを苛立たせるのは、ユリが自分のことしか考えず、オレに気を遣ってくれないことだ。なんだろう。オレばっかりいろいろ考えてる。
ユリは結婚していた。旦那との関係は、よくわからない。オレらの関係はしばらく続き、そしてしばらくして終わった。
ユリと過ごした日々を瑞々しく描いた作品。
本作は、比較的評価の高い作品で、実際悪くはないと思うんですけど、でも絶賛するほどの作品でもないのではないか、と思ってしまいます。
本作は、その著者の感性みたいなものがすごく魅力的な作品だと思います。センスがいいというのか、この世の中にあるものをもんのすごくありのままに切り取ってみました、というような描写をさらりとやってみせるあたりはなかなかうまいなと思いました。感覚的な描写というようなものがすごくうまい作家だな、と。
けど、ただそれだけだということも出来るのではないかと思います。ストーリー自体に特に見るものはないと思うし(平凡だし展開が面白いわけでもない)、キャラクターがすごく魅力的なわけでもなく、ただ世の中にあるものをきちんとした形で描写出来ているその点だけがいいんではないかな、と思いました。
解説でなんとかっていう人がベタ褒めしてるんだけど、その人の言ってることもよくわからないし、絶賛されている理由のよくわからない作品でした。
本作には、「虫歯とやさしさ」という短編が収録されていて、そっちの方が僕は好きですね。何故か女装をするようになった男が、歯医者で歯の治療をしてもらいながら、恋人である伊藤さんについて考える、という話で、僕は最後まで、伊藤さんが男なのか女なのかわかりませんでした(今でも分かりません)。でも、こっちの話の方が、まあなんとなくだけど面白かった気がします。
この作家は、いつか傑作を書きそうな感じはしますけど、それは絶対に本作ではない、と思います。短いし読みやすいので悪くはないですけど、別にそこまでオススメはしません。

山崎ナオコーラ「人のセックスを笑うな」

人のセックスを笑うな文庫

人のセックスを笑うな文庫

美しさは時に、人に余る。不自然なのりしろの如く。
大抵美しさというものは、人生によき方向に働くものだ。美しい顔。美しい足。美しい瞳。美しい髪。美しい指。美しい胸。美しい微笑み。そうしたすべてのものは、人生を麗しく、生活を刺激的に、将来を暖かくしてくれるものであるはずだ。
女性であればなおさらの話であり、女性には失礼な話だが、やはり美しさによって人生は大きく変わってしまうものだ。美しいものは富め、美しからざるものは富まず。人生の豊かさが、その美しさによって左右されてしまうと言っても、決して言いすぎにはならないだろう。
しかし、美しさは時に人に余るのだ。美しければいいというものでもない。
美しさによって得ることが出来るあらゆるものが、自らの人生にぴったりと寄り添うものであるならば、その美しさは武器となろう。異性にちやほやとされたり、恋がうまくいったり、男社会をうまく渡り歩けたり、他人から注目されたり、そういうことをうまいこと人生の中で活かすことが出来るのならば、美しさは素晴らしいものだ。
しかし、必ずしもそうではないだろうと思う。
異性からちやほやされたくもなければ、恋に興味もなく、男社会をうまく渡り歩きたくもなければ、他人から注目されたくもないのに、しかし美しいという場合、その美しさは余る。過剰にして余分であるだけの、ただの贅肉である。
しかも、その悩みは誰にも打ち明けることが出来ない。過剰に持つものの羨ましい悩みであるとしか捉えられず、かえって非難を浴びることであろう。本人としては、真面目に思っているのだ。美しさに寄り添った人生など不要だ、と。しかし、周囲はそれを理解しない。美しさに付随するありとあらゆるを羨ましがり、それを活かそうともしない人間を軽蔑することであろう。
人生とは、かくもおかしなものである。どう生きたいか、という主張が優先されるのではなく、他人から見たどう生きるべきかという主張こそが、社会の中では大きく優先されてしまうものである。
多少話はズレるかもしれないが、以前友人と見たテレビを見ていた時のことを思い出す。
女性の友人宅で深夜のくだらないテレビ番組を見ていた。その番組は、何故か水着姿で登場の女性達がどうでもいいようなクイズ番組に答える、というようなもので、内容自体さしたる面白みもないものであった。女性達は皆胸の豊かな者たちばかりであり、要するにまあそんな番組であった。
その中に一人、明らかに顔は不美人であるのに、胸だけは標準以上に発達しているという女性がいた。友人とは、相撲取りみたいな顔だ、と評した。
さてその時にその友人とした会話である。要するにその不美人な胸の豊かな女性は、結局のところ自分の意思で今あの場にいるのではなく、そうするしか道がなかったのではないか、という話をしていた。
胸の豊かな女性は、自分が望むと望まざるとに関わらず、周囲からの視線を集めるものだ。どうしたってそれは宿命であり、そのうち、実際は周囲からの視線などないのにそれを感じるようにまでなってくるものであろう。
そういう視線をなんとも思わないでいられればいいのだが、しかしそう思えない人も中にはいるであろう。私は別に見せたいと思っているわけではないのに周囲から不自然な視線を感じる、と。
そこで発想の転換が起こっても、僕はおかしくはないと思う。つまり、その視線が不自然なものであるからこそ不快なのだ、と。ならばその視線を自然なものにしてしまえばよいのではないか。
そう考えて、豊かな胸に視線が集まることが不自然ではないグラビアという世界を目指したのではないか。
そこまで深く話したわけではないが、共通の認識としてそういう前提の元でその友人と会話をした記憶がある。あんなに不美人であるのに、胸が豊かであるというだけのことできっとあの場にいるのだろうね、と。
美しくないものは、美しさによりそうあらゆるを求めるが故に美しさに憧れるものだ。しかし同じく、美しいものであっても、美しさによりそうあらゆるを放棄したいがために、美しさを嫌悪することがあろう。美しさを追い求める人生は健全だと評価されこそするが、美しさを嫌悪する人生は不愉快であると評価される。なんと理不尽であろうか。
確かに、器には器にあったなにがしかを盛るべきであるとは思う。漆塗りの漆器に豚汁を注ぐよりも、蟹やら海老やらが入り混じった豪勢な吸い物が注がれる方が正しいように思う。
しかし、器は最初から与えられている。その器に何を盛るのかは器自身の自由ではないか。器の格に合わせて盛るものを決めるなど、まるで本末転倒。笑止千万である。
それでも人は、器にあった中身を期待してしまうものだ。愚かしいが、人間である。仕方がないことなのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
川村優奈は、ある日突然もの狂いに襲われた。男性経験などほとんどなかった、ただの丸い白いものであった一人の女は、一ヶ月ほどの間に知らない男七人と立て続けに関係を持ったのである。
そうして出来たのが、物語の主人公である、川村七竈である。
七竈は、擦れ違うすべての人間が思わず振り向くほどの美貌を兼ね備えていた。七竈はだから、子供の頃から無遠慮奈視線にさらされ続けた。七竈自身は、美しさなどに微塵も興味はなかったし、男など消えてしまえと思っていた。唯一興味を持つことが出来たのは、こづかいを貯めては買い集めた鉄道模型と、唯一の友人である桂雪風だけであった。
雪風はこの世のものとは思えないほど美しい少年であった。七竈と雪風は、年齢を重ねるに連れ異形の存在になっていく自らを憂え、また同じく周囲からの遠慮のない視線にさらされる境遇であったため、仲良くなっていった。雪風も鉄道模型に嵌まり、美少年と美少女は、ひたすら川村家の中で、鉄道模型と戯れながら日々を過ごしていた。
北海道旭川という寒さの厳しい土地柄で、あまりに美しすぎる二人の少年少女と、彼らを取り巻く環境を描いた、美しくも哀しい物語。
という感じです。
この作品は、なかなかいいな、と思いました。
表紙の絵と違わず、ものすごく妖しい雰囲気の世界観がうまく創り出されていて、その妖しさがなかなか他の作品にはない感じで、惹かれるものがありました。
本作は恋愛小説という謳い文句であり、まあ実際そうなのだけど、でも普通の恋愛小説では全然ないし、また恋愛要素が強い作品とも思えませんでした。
僕には、七竈という恐ろしくも美しすぎる異形の美少女と、雪風という同じく美しすぎる異形の美少年の二人の孤独が生み出した孤独な世界の物語であって、その世界は、どうにも恋愛という響きからは遠いというような感じがしました。
実際七竈と雪風の孤独はなかなか深く、また周囲にもなかなか理解されないため、実際かなり辛いだろうなと思いました。冒頭でも書いたけど、美しさというのは時に余分であり、それは七竈という少女の生き方を見るとすごくよく分かるな、という気がしました。
七竈と雪風の間には、口には出せないもう一つ別の関係があって、お互いに気付いているだろうその関係が、二人をさらに苦しめることになります。いつでも一緒にいた七竈と雪風が、その世界を壊さなくてはならなかった理由もそこにあって、物語はだから、二人がいかに世界を壊すのか、という話だなと僕は思いました。
物語は、何が起こるというわけでもなく、淡々と進んでいきます。七竈を置いてどこかへふらりと旅に出てしまう母親や、忙しく働きまわる雪風の母親、あるいは川村家で飼うことになった犬など、物語を語る視点は様々に変わっていくものの、それでも大した変化が訪れるわけでもなく、「いんらん」であり、小さな社会からははみ出している母を持った異形の美少女の日常とその周辺の出来事が、慎ましやかに語られるばかりです。
それでも、不思議な文体と不思議な人間達が織り成す世界観が、いつしか不思議な妖しい光を放ち始めて、なんでもない日常がこわごわと鈍く光っていきます。何が起こるわけでもないのに、七竈を中心とした狭い世界の中で、七竈を中心とした炎がぼんやりと辺りを照らすのである。その妖しい光に導かれて物語がさらに進んでいき、読むほうもその手を読められなくなってしまう、とそんな感じだったような気がします。
本筋とは全然関係ないのだけど、これはなかなか面白いなと思ったセリフがあったので抜き出してみます。

『「女の人生ってのはね、母をゆるす、ゆるさないの長い旅なのさ。ある瞬間は、ゆるせる気がする。ある瞬間は、まだまだゆるせない気がする。大人の女たちは、だいたい、そうさ」』

どうですか。女性の皆さん、わかりますか?
しかし思うに、桜庭一樹という作家は、よく作品毎にこれだけ雰囲気を変えられるものだ、と思います。ついちょっと前に読んだ「赤朽葉家の伝説」という作品は、硬質でまっすぐな物語であるという印象だったのに対して、本作は妖しげでどこまでも曲がりくねっているという感じがします。作家を知らされずに読んだら、まさか同じ作家の作品だとは思わないでしょう。これだけいろんな世界を書分けられる作家も、そうは多くないと思います。桜庭一樹の作品は、作品によってかなり好き嫌いが分かれますが、でもこれからも注目していこうと思います。
とにかく、本作は結構オススメです。妖しくて孤独な恋愛小説で、どこまでも不可思議で場違いな狂乱です。なかなか他の小説では読めない雰囲気だと思います。是非読んで見てください。

桜庭一樹「少女七竈と七人の可愛そうな大人」

あぁそうか。僕らはいつの間にか、「見えない傷」を負っているのか。それを引きずりながら生きていたんだ。
見える傷は、すごくわかりやすい。派手に怪我をしたり、バンソウコウが貼ってあったり、血が流れていたりすれば、僕らはそれが傷だったこと、すぐわかる。傷だとわかってもらえれば、誰かが優しくしてくれるだろう。包帯を巻いてくれるかもしれないし、優しく声を掛けてくれるかもしれないし、とにかく何か優しさで包んでくれそうな気がする。
でも、「見えない傷」の場合、そうはいかない。誰も、傷を負っていることに気付いてくれない。だって、それは見えないのだから。隠しているわけでもないし、見つかりたくないわけでもない。それなのに、ただ「見えない」というだけの理由で、誰からも優しさを受けられない。
そうやって「見えない傷」をどんどん抱え込みながら、僕らは生きていくしかない。抱え込んだ傷があまりに多すぎると、やがてそれは「見える傷」、あるいは「見せる傷」に変わっていってしまうのだろう。例えば、リストカットもその一つなのだろう。「見えない傷」を抱えすぎた人が、誰かに気付いて欲しくて、誰かに傷ついてることを知って欲しくて、わざと「見える傷」をつけてしまうのだろうと思う。
僕にも、経験がないわけでもない。
普段から、感情をあまり表に出さない人間で、だから辛いことがあっても笑ってごまかしたりしていた。辛くなかったわけないけど、でも辛さを表に出して自分の世界を壊してしまうよりは、辛さを押し隠してでも、このささやかな世界を守りたい、なんてそんな風に思ってたんだろうと思う。
そんな風にしてずっと生きてきた。
もちろん、いずれどこかで破綻するだろうな、とは思っていた。それはもうずっと昔から思ってたことで、このまま辛さを隠して生きていれば、いつかどこかで何かが壊れるだろうということは知っていたのだ。
それでも、やはり「見えない傷」を周囲に見せることはなかなか出来なかった。何らかの破綻を迎えるまで、それを抱え込んでいくしかなかったのだと思う。
実際、カッターで手首を切ろうと思ったこともあるし、屋上から飛び降りようと思ったこともある。その時々で僕は本気だった自信はあるし、どうしても死にたいと思っていた自信もあるのだけど、でも振り返って考えてみると違ったのかもしれない。そういう行為の一つ一つは、「見えない傷」をなんとか見せようとして、見せられる形にしようという一心でのことだったのかもしれない。誰かにその傷を見つけてもらいたくて、誰かに優しく傷を撫でてもらいたくて、それでそんな行動をとったのかもしれないと思う。
「見えない傷」であろうとも、傷はいつかなんらかの形でふさがることだろう。ふさがらないような致命的な傷もあるのだろうけど、もはやそれは傷とは呼べないようなものだろう。傷であるからには、いつかふさがると僕は思う。
それでもその傷は、誰にも認められず、誰にも知られることなくふさがっていくのである。自分の中だけで傷を見つけ、自分自身の力だけでその傷を埋め、そうやって僕らは騙し騙し生きていかなくてはいけない。
なんだか哀しい。
最後に傷を塞ぐことが出来るのは自分自身でしかないだろう。それはどんな場合でも変わりはないのだけど、でも、傷を負っているということを誰かに認めて欲しいと思う欲求は、誰もが持っているのではないかと思う。
その傷を癒すことはできないし、治すこともできない。
でも、ただそこにあるものとして、きちんと存在するものとして認めてあげることは、きっと誰にだって出来そうなものだ。
僕らの日常の、触れられそうなところに、「見えない傷」はたくさん転がっている。多くの人間が、生きていく中で負わなくてはいけなかった様々な傷で、世界は溢れかえっている。
その傷を、僕らは何らかの形で見つめてあげるべきなのかもしれない。
見つめてあげる、ただそれだけの行為が、なんらかの力になるのかもしれない。
そろそろ内容に入ろうと思います。
高校二年生のワラは、世界の中に自分の居場所がないのではないか、と感じている。未来に対する希望も抱けないまま、今を享楽的に消費することも出来ず、ただ何でもない存在としての自分を見つめながら、日々を過ごしているだけであった。
高いところから街並みを見たい。そう思って行った病院の屋上で、ディノと名乗る奇妙な少年に出逢った。胡散臭い関西弁とその会話の内容に一瞬たじろぐも、彼が持っていた包帯を屋上に巻きつけ、「これでええ、血が止まった」と言った時、不思議なことにそれまでと風景が変わったように感じた。
それから、落ち込んでる友人のタンシオの話を聞き、フラれたという公園へと出向いた。そこで、ディノがやったようにブランコに包帯を巻きつけると、タンシオもなんだか気が楽になったと言う。
包帯を巻くという行為には、何かの力があるのかもしれない。
そうしてワラは、「包帯クラブ」を結成することにした。ネットで依頼者を募り、それぞれの人の抱える「見えない傷」に対して、包帯を巻くのである。
何でもない日常と、何者でもないという閉塞感に閉じ込められた若者達が、奇抜なやり方でその閉塞感から抜け出そうとする、一瞬の物語。
というような感じです。
久々の天童荒太の新刊でしたけど、これなかなかよかったです。
まず、「見えない傷に包帯を巻く」という発想が、本当にいいなと思いました。実際、これがどれほど効果的なのか、やったことがない僕にはきっとわからないだろうけど、でも気休め以上の効果はあるような気がします。「包帯を巻く」という行為そのものよりも、「誰かとその傷を分かち合う勇気を持つことが出来る」という点で、すごく意味のある行為だな、と思いました。
人は、人の悩みを解決出来るほど素晴らしくもないし、人の傷を引き受けるほどお人よしでもないのだけど、でも人の傷を分かってあげることぐらいは出来るのだろうな、と思います。分かってあげたところでどうにかなるわけでもないのだけど、でも誰かに分かってもらえたというそのスタートから、一歩を踏み出すことができる人は結構いるのかもしれません。
僕だったら、やっぱり実家に包帯を巻くのかな、と思います。僕のありとあらゆる感情が置き去りにされているのではないかというその空間に包帯を巻いてあげることで、閉じ込められてきたその感情を解き放つと共に、自分の中で何らかの解釈の変化を生み出せるかもしれないな、と思います。包帯を巻くというのを一つのきっかけにして、新しい一歩を踏み出すことが出来るかもしれない、とも思います。まあ、そう簡単なことではないと思いますけどね。
本作では、今の若い世代(一応僕の世代も含めたいところだけど、でもやっぱ今の中高生とかかな)の感じているだろう虚無感だとか閉塞感だとか虚脱感みたいなものが結構的確に投影されているような気がします。誰かと勝負をしているわけでもないのに負けないことを求められ、上を目指すようにはっぱをかけられ、ありがちな幸せを無理矢理押し付けられるような日常の中で、若い世代が感じていることをうまいこと描き出しているような気がします。
大人はそんな子供のことを、甘えてるとか言うのかもしれないし、実際そうなのかもしれないけど、でも僕はやっぱり違うと思うんです。今の大人が子供だった頃は、選択肢が与えられることなど稀で、既に自分が進むべき方向みたいなものが決まっていた、という風に思うんです。もちろんその決まった道からなんとか抜け出すような人もいたんでしょうけど、でも概ねそうなんじゃないかな、と思います。そんな生き方が幸せだったかどうかは別として、決められた道を歩むのに悩む余地が少なかったことは確かだと思います(これは僕の勝手な意見なので、そんなことない、と思われる方がいたらすいません)。
でも今の世代というのは、それこそ選択肢が無限に与えられていると思うのです。もちろん現実的な選択肢は少ないにせよ、それでもどんな方向にでも進もうと思えば進むことが出来るわけです。
もちろん、そんな時代を幸せだという大人は多いでしょう。しかし、たった一度しかない人生にこれほど多くの選択肢を与えられたって、どうやって選んだらいいのかわからない、というのが普通だと思います。自分で道を選ばなくてはいけないというのは、ある意味人生に対してものすごく前向きにならなくてはいけないことで、それを強いられるのはすごくキツイと僕は思います。
そんな時代を生きる若い世代の気持ちみたいなものをリアルに描いているような感じがして、さすが天童荒太だと思いました。
これは、結構読んで欲しい作品です。大人にも子供にも。分かるとか分からないとかじゃなくて、今はこんな時代なのだということを認識する、あるいは実感するのにもいいのではないか、と僕は思います。
是非読んで見てください。

天童荒太「包帯クラブ」

僕は、変な人というのは基本的に好きだし、それが女性であればなお最高だという、まあそんな人間だったりします。
例えば男であれば、グラビアアイドルだとか雑誌の表紙を飾るような女性だとか、そういう綺麗な女性に目を惹かれたり、いいなぁ、と思ったりまあするでしょう。
いや僕だってまあそう思わなくはないし、綺麗だなぁぐらいのことは思うのだけど、でもそれが普通の人だったら、たぶん惹かれるようなことはないでしょう。
ただ綺麗なだけで、中身は普通の女性というのは、まあ特別面白くもなんともないですね。
僕が言う「変わっている」というのは、まあどう説明すればいいでしょうかね。分かりやすく言えば「ギャップ」ということだけど、でも「ギャップ」に弱いというのは誰でも同じなわけで、そういうのともちょっと違うよなぁ、と思ったりもするわけです。
例えばよく女性は、「一人ではラーメン屋に入れない」とか言いますよね。「一人で映画館に行けない」でもいいですけど。それは、まあホントに自分的にナシだと思っているのだろうけども、でも若干男の視点を意識した意見でもあると思うんですよね。なんというか、「私は一人でラーメン屋に行くような女じゃないわよ」みたいな、そういう主張が見え隠れしていると思うんです。
でもそういうの、僕はダメなんですよね。言っていることが普通すぎて、はぁそうですか、みたいな。いや別に、そういうことを言う人を否定しているわけではなくて、僕はそういう女性には惹かれない、というまあ勝手な話なわけだけど。
あと例えば、「化粧をしないと外に出れない」みたいな人もいますよね。いや別に化粧をするのはいいんですけど、でも例えばですよ、近くのコンビニに行くのにバッチリ化粧しなくちゃダメみたいな人は、やっぱダメですよね。
こうやって自分でも具体的に書くとなんとなく分かってくるんだけど、僕にとって「普通な人」っていうのは、過分に他人の視線を意識しすぎる人なんですよね。これをするとあの人にこう思われるかもしれないとか、こんなことを言うと大抵の人に嫌われるかもしれないとか、そういう他人の視線を意識しすぎるからこそ、言動が「普通」になってしまうんでしょうね。
だから裏返して言えば、僕はそういう他人の視線をあまり気にしない人というのに惹かれるんでしょうね。寝起きで髪の毛ボサボサだけどコンビニに行けるとか、ラーメン屋だろうが映画館だろうがどこでも一人で行けちゃうとか、そういうのってやっぱいいと思いますね。
でも、やっぱそこにも限度があって、あまりにも人の目を意識しなさ過ぎると、僕の中で「痛い人」「おかしい人」ということになってしまうわけですね。だから、まあ多少の節度みたいなものは必要だったりするわけですけど、でも僕はその範囲はかなり広いと思いますね。テレビでたまに、ゴミ屋敷みたいな部屋に住んでるOLみたいなのがやってて、さすがにそれはやりすぎだろとか思うけど、でも女性の部屋なのにすっごい散らかってるとか、家具とかほとんどないさっぱりした部屋だ、みたいなのは全然いいと思いますね。
まあ何にしても、僕がこうやって好みの女性の話をしたところで、別にどうなるわけでもないわけで、まあそれが哀しいといえば哀しいところではありますけどね。そういう「変わった女性」というのは、人の視線を意識しないために、男にもあんまり興味がなかったりすることが多い…と自分の中で言い訳をしてみたりしますけど、まあそんなこととは関係なく、ただ僕に魅力がないだけの話でしょうね。
そういう「変わった」人には結構出会うわけで、おういう人と話したりしてるとなかなか楽しいものです。僕もまあ大抵変わってるとか言われますけど、だから勝手に親近感が湧いたりするんでしょうかね。
本作でも、変わった女性というのはたくさん出てくるわけで、主人公の柚木草平が羨ましい限りです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
柚木草平は、元刑事で、今はフリーライターの傍ら、事件調査も行う私立探偵もやっていたりする。正式に離婚はしていないものの別居状態にある妻と一人娘がいて、また刑事だった当時上司だったキャリアの美人刑事と不倫していたりする。また、何故か草平の元には美人が集まる傾向があって、羨ましい境遇である。
今回草平の元に持ち込まれたのは、あるひき逃げ事件だ。警察が事故として処理しようとしているのだが納得がいかないと、被害者の姉である島村香絵から依頼を受けたのだ。早速調査に乗り出す草平であるが、被害者の知り合いを回ってみてもさしたる進展もなく、事故なのか殺人なのか判断がつかないでいる。
しかし、細かなところまで手を抜かずに当たってみると、どうやらこの事件はいろんな方向に触手が伸びそうな予感がする。また、ひき逃げ事件の被害者の友人が殺害されるという事件が起こり、どうやらひき逃げは単なる事故ではないだろうと草平は確信する。
依頼者である香絵も何かを隠しているようだし、この事件は一体どういう解決をみるのだろうか…。
というような話です。
本作は、とにかくタイトルが魅力的で、文庫で発売された時から気になっていました。「彼女はたぶん魔法を使う」なんて、かなり惹かれるタイトルではないですか?
内容的には、おっさんが好きそうな小説だな、と思いました。ハンフリー・ボガードというのが誰なのか僕は知らないですけど、形式的には本作は、ハードボイルドの探偵が活躍するミステリであり、柚木草平というキャラクターが、なんというか気障で古風な、今時ではない探偵の姿をばっちり見せてくれている。しかも、出てくる女性は美女揃い。これは、おっさんが大好きな小説ではないだろうか。
しかしだからと言って、おっさんではない僕が読んでつまらなかったかと言えば、全然そんなことはない。むしろ、こんな平凡なストーリーなのに、よくもまあここまで面白く読ませるものだ、と感心しました。
ストーリーは、ホントにひき逃げ事件をただ追うだけで、携帯電話のない時代の話、柚木草平がいろんなところを足で回っては情報を得るというだけの、ホントにただのそれだけの話です。
それなのに、なかなかこれが面白いです。たぶんキャラクターがなかなか面白かったからだろうと思います。
主人公の柚木草平は、綺麗な女性にはなかなか目がなくて、会話の端々につい気障なことを言ってしまうのだけど、それが全然かっこよくないというか決まってないというか、そのせいでなんとなくトボけたキャラクターに仕上がっているんですね。またその会話に付き合う女性の方も、まあキャラクターは様々にしてもそんな柚木とそれなりの会話の出来る女性ばかりで、その会話の応酬が結構よかったですね。
また続編でバシバシストーリーに絡んで来そうな、草平の妻と娘との会話も馬鹿馬鹿しくて面白いし、不倫相手である元上司との会話も面白くて、そういう会話の面白さが、ストーリーの地味さを押しのけて本作の重要な位置を占めていて、だからこそ面白く読めたのだろうな、と思います。
また、本作の中で特に大好きなキャラクターは、「変わった」女性である夏原祐子であり、このキャラはもう最高でしたね。トボけた口調の割に明晰な頭脳だったり、「~だってこと知ってました?」という口癖も、突拍子もないことを言い出す性格も、いやなかなか素敵な感じでした。たぶん近くにいたら惚れてると思いますね。そんな感じでした。
なんというか、すっごく軽く読めるミステリで、なかなか面白いと僕は思います。息抜きとか電車の中とかで読むのにはなかなか最適な小説ではないかなと思います。読んで見てください。

樋口有介「彼女はたぶん魔法を使う」

女性と言うのは不思議な生き物である。
なんていうことを、女性とさして縁のない僕が言っても、まあ説得力の欠片もないのだけど。
女性というのは、時代によってその生き方を大きく制限されてきたのだと思う。常に男の都合によってなんらかの役割、あるいは制約を与えられ、その中でのみ生きることを余儀なくされてきたと思う。
昔は、女性は結婚して子供を産むことこそがすべてであり、夫を立てて家庭を守ることがすべてであっただろう。その生き方に何らかの抵抗を感じたり、あるいは否定したかった女性もあっただろうけど、恐らく時代がそれを許さなかったに違いない。自由な恋愛もままならず、家同士の思惑の中で、好きでもない男と寄り添いながらも、そんな人生を甘受するしかなかったのだろうな、と思う。
もしそんな時代に、自分が女性として生まれていたらと思うと、ちょっと恐いなと思う。恐らく、社会のどこにも居場所を見つけることは出来なかっただろう。
そして時代は変わった。
女性の地位は次第に向上していき、いつしか自由を獲得するようになっていった。男の従属物であると考えられてきたような古臭い時代を女性自身の手で切り拓き、自らの力で自由を手にし、今ではまだ多少差はあるものの、ほぼ男と対等というところまで来たと思う。
恐らく女性というのは、その戦いの歴史、あるいは忍耐の歴史みたいなものをDNAに刻んでいるのだろう。その時間の積み重ねの中で女性は大きく変遷していき、時には予想外の進化を加えながら、徐々に不可思議な存在として変化していったのだろうな、と思うのだ。
僕の勝手なイメージでは、女性というのは、男に比べたら遥かに複雑であり、また理解するのが難しいと思う。女性に比べたら男の単純さなど話にならないもので、鼻で笑われてしまうことだろう。
感情の揺れ動きや人生に対する考え方まで、男にもないものを常に持っている。それは、男社会の中でなんとか生きていくしかなかった過去の女性達が、その厳しい制約の中で見に付けてきた処世術が、何らかの形で今まで連綿と受け継がれているのだろう、と僕は思っている。
今では、女性の地位というのは高くなり、男と同等であるようにも僕は思う。しかし一方で女性というのは、社会的に弱かった時代の面影というのも器用に残しているわけで、その強さと弱さを器用に使い分けているなぁ、と思うのである。女性はだから、人生をうまく生きることができると僕は勝手に思っている。
しかし、女に生まれたいかと言われれば、まあそんなことは全然なく、男でよかったなぁ、と僕なんかは思うわけである。女性のその複雑さの渦に入り込みたくないなぁと思うし、いろいろ面倒だなと思うことも多いからである。
なんというか、自分が何を書いているのかさっぱり分からなくなってきたけど、まあ女性として生きるというのはすごいことだなぁ、と思うわけである。なんだ、この結論は。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、赤朽葉家という製鉄業で生業を立てていたある一族の、三代に渡る女達を描いた物語です。
万葉は、今では民俗学で「サンカ」などと呼ばれる流浪の民に生まれた子供であり、ある日鳥取県の紅緑村の一角に捨てられているのを発見され、その後村の子供として育てられた。
紅緑村は、「上の赤」と「下の黒」と呼ばれる二つの旧家が取り仕切っている村で、造船業で財を成した、成金で黒を基調とした屋敷に住む「黒菱家」と、太古の昔からこの地で製鉄業を取り仕切り、赤を基調とした屋敷に住む「赤朽葉家」であった。両家は仲が悪く、お互いの行き来はほとんどなかった。
ある日万葉は、その赤朽葉家に嫁入りをすることになった。自分が何故嫁に選ばれたのかもわからないまま、万葉は、赤朽葉万葉となり、その後「赤朽葉家の千里眼奥様」と呼ばれることになる。万葉には、未来を幻視する力があり、それが悉く正鵠を射たためである。
赤朽葉家では様々なことが起こり、様々に死者が現れたが、その内に物語は、万葉の娘の一人である、赤朽葉毛毬へと移っていく。
毛毬は学生の頃レディースの頭であり、手をつけられない女であったが、時代と共にその熱も冷めていった。毛毬は新たな興味を見出し、またその道で成功を収めていくことになるのだが、赤朽葉家の人間としては特別なことは出来ず、兄の死後跡取を迎えるために名も顔も知らぬ男と結婚したくらいであった。
そうして私、赤朽葉瞳子が生まれた。この物語は、私が万葉や毛毬から聞いた話を思い出しながら書いているものである。
瞳子は、赤朽葉家の本家の女でありながら、万葉や毛毬とは違い普通の女であった。特に何が出来るわけでも、何がしたいわけでもない、無気力な若者であった。
しかし瞳子はあるきっかけから、万葉と毛毬を中心とした、この赤朽葉家の歴史と向き合わなければならないようになる。万葉が遺したある言葉によって…。
という感じです。
うーむ、なんとも評価の難しい作品でした。
本作は、「万葉編」「毛毬編」「瞳子編」の三部に分かれていて、「万葉編」と「毛毬編」は、とにかくひたすら赤朽葉家でこれまで何が起こったのかをひたすら書き連ねている感じです。赤朽葉家に関わる様々な人間は、一人一人それなりに面白くて、赤朽葉家で起こる出来事もまた様々でいいのだけど、それでもやはり中盤読んでいて退屈に思いました。
それで、「瞳子編」に入ってなんとミステリーになるのだけど、それもなんだかなぁという感じで、個人的にはあんまりだったなぁ、という感じはしました。
重厚感溢れる赤朽葉家の歴史と、細部に渡る細かい描写などはなかなかすごいものだと思いましたけど、あんまり深く物語に入れなかったな、と思いました。
僕としてはあんまりオススメはしないですけど、そうですね、例えば横溝正史のようなちょっと古臭いというか、旧家を巡るあれこれだとか、そういう類の話が割と好みだという人には悪くないかもと思います。

桜庭一樹「赤朽葉家の伝説」

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