黒夜行 2008年11月 (original) (raw)

テレビに、自由の女神が映っていた。ちゃんと聞いてなかったから何のニュースなのかは分からなかったけど。自由の女神。いいなぁ。一回ぐらい、ちゃんと見てみたいよね。
「今日はどうする?」
カクの声だ。今日は土曜日。私達のデートは、大体いつもドライブだ。カクは車が好きだし、私はドライブが好きだからちょうどよかった。
私は昨日深夜過ぎまで残業していたために疲れていたし眠かった。きっと頭の回線がどこかおかしかったのかもしれない。気づくと、ふと言っていた。
「アメリカに行きたいな」
「アメリカ?」
「うん、自由の女神」
「女神ねぇ」
「ウソウソ。間を取ってアメ横とかにしよっか」
結局どこに行くか特に決めないままで車に乗り込んだ。
いつものように車でなんてことのない話をした。景色を見て写真を撮ったり、時々車を停めて散歩したり。でもやっぱり疲れていたんだろう。私はいつの間にか寝ちゃったみたいだ。
目が覚めると、目の前に空があった。辺りは夕陽に染まってオレンジ色だった。私は相変わらず車の助手席に座っていた。
空の下に海が見えた時、私は自分の見ているものが信じられなくてカクの方を見た。カクは真剣そうな顔で慎重にハンドルを握っていた。
海の上を走っているのだった。
「起きた?」
「…どうして?」
「アメリカに行きたいって言ったろ?」
「そうだけど。でも何で車が海の上を走ってるわけ?」
「あぁ、これね。ある一定の速度をほとんど誤差なく維持し続けると、車って海の上でも走れるんだよね。でもその誤差ってのがさ、プラスマイナス0.05キロとかでさ。ものすごいテクニックを必要とするんだよね。だからみんなそんなことしないんだけど」
私は後ろを振り返ってみた。既に陸地の姿はまったく見えない。360度すべて海に囲まれていた。
「今まで海の上を走ったことってあるの?」
「いや、ないんだけどさ、やってみたら案外出来るもんだなって」
「でも、アメリカまでガソリンってもつの?」
「それは大丈夫。ちゃんとたくさん買っておいたから」
そういえばさっき後部座席にポリタンクがたくさんあった。どこまでも用意周到なのだ。
私はちょっと怖くなった。いつ沈むかもしれない不安定な車に乗っていることもそうだけど、私の冗談を本気に受け取ってしまったらしいカクにも。

一銃「ドライブ」

そろそろ内容に入ろうと思います。
大学時代、五人で一軒家を共有して住み、バンドを組んでいた友人の一人である真吾が、50歳を前に事故で死んだ。ヒトシ、ワリョウ、淳平、そして私の四人は、真吾の地元である福岡まで足を運び、葬儀に参列した。
その帰り。人気俳優になりかけていた淳平が、突然とんでもないことを言い出した。
「俺はこれから自殺する」
何事か、と残りの三人は思った。旧友である真吾が死んだその直後に、お前はどうしてそんな馬鹿みたいなことが言えるんだ、と。
レンタカーを適当に運転して、適当なところまで行ったらそこで死ぬ、という淳平に、残りの三人はついていくことにした。自宅を改造してカフェにし、ゆったりと仕事をしている私とは違い、高校の教師であるヒトシや実家の豆腐屋を継いだワリョウには、それぞれ家族もいるわけで、夜を徹してのドライブは辛い。しかし彼らは、これから死ぬという淳平を放っておけなくて、無理矢理車に乗り込んだ。
淳平は、何故死ぬのかという理由を自分からは決して言わなかった。だから残りの三人は淳平に約束させた。自殺する理由を当てたら、自殺を止めろと。
「そうだな、自殺する理由を思い出してくれたら、自殺を止めよう」
淳平はそう言った。思い出す?っていうことは、五人が一つ屋根の下で暮していた、あの頃に原因があるっていうのか?
というような話です。
僕はこの著者の作品はこれまで、「東京バンドワゴン」のシリーズしか読んだことがなかったんですけど、結構いろんなタイプの作品を書く作家みたいですね。「東京バンドワゴン」は家族小説ですけど、本作はまあ言ってみれば青春小説だし、ミステリーなんかも書いているみたいですね。なんとなく五十嵐貴久みたいなイメージをしました。結構いろんなジャンルの作品を書ける、という意味で。
僕は本作みたいに、「ただ○○な小説」というのが好きなんです。本作の場合、「ただドライブするだけの小説」となります。他にも、恩田陸の「夜のピクニック」は「ただ歩くだけの小説」だし、三浦しをんの「風が強く吹いている」は「ただ走るだけの小説」となります。
でも本作は、ちょっと全体的にプレーンな印象でした。凸凹や起伏がない感じです。決して作品全体が悪いということはないんです。読んでてうまいなと思うし、文章も読みやすいし、細かなところまで気を配っている作品だなと思います。ただ起伏が少ないので、ちょっと物足りなさを感じる作品ではあります。
本作のメインの話は、淳平は何故死ぬなんて言い出したのか、というその理由なわけですが、正直言ってこの真相がちょっとどうよ、という感じがしました。僕としてはもう少し別の展開を期待していたので、この真相は微妙だなと思いました。
他にも本作には、帯の後ろに書いてある「あの人のためにしたことを、後悔したことなんか、ない―」に関わる話も出てくるんですけど、これも正直言ってそこまで大した話じゃないんですね。本作では、この二つの謎を最後の方まで結構引っ張っていくんですけど、どっちも結局は大した話じゃないんでそこまで引っ張ることはあるんだろうか、と思えてしまいました。まあ、何で自殺するのかっていう方は、最後まで引っ張らないと作品として成立しなくなっちゃうんですけどね。
と悪いことばっかり書きましたけど、でも本作で語られる、彼ら五人が大学生だった頃の話というのはすごく面白いなと思いました。語り部である私が住んでいた一軒家に残りの四人が住み着く形になって共同生活が始まったわけなんですけど、そこに茜さんって女性が加わったりして、なかなか楽しそうなんですね。この彼らが大学生だった頃の話は、読んでて結構面白いと思います。今40代半ばぐらいの人だったらこの登場人物たちと同じぐらいの年代なので、より懐かしいという気持ちで読めるかもしれません。
茜さんを含めた六人が、非常に活き活きと描かれているんですね。彼らの大学時代の話は、特にこれと言って重要な話が出てくるわけではないんです。もちろん誰にでもあると思うけど、当人達にとってはすごく大事な思い出なんだけど、周りの人が聞いてもどうってことはないっていう話なわけです。何だけど、でも読ませるんですね。それぞれのキャラクターがしっかりしているし、一つ一つのエピソードも割と印象的だったりしていい感じです。何より、本当に楽しそうなんですね。それは、自殺の理由を考えなきゃいけない三人が、それそっちのけで昔の話に花を咲かせてしまうほど面白い話なわけです。茜さんという人も実に可愛らしくて、五人の共同生活も本当に面白そうで、読んでて羨ましいぞ、という風に思うと思います。
とはいえ、僕はやっぱり共同生活はちょっと出来ないなと思います。僕は一人でいる時間がすごく好きなんですね。というか、近くに誰かがいる状態だとやっぱり緊張するんです。落ち着けない。五人の共同生活は羨ましいと感じつつも、やっぱり僕には出来ないだろうなぁ、という感じがしました。
でも、これだけ深い人間関係を築けた、というのは一生ものですね。正直言って、なかなか一生ものの人間関係って作れないと思うんですよね。作ろうと思って作れるものじゃないし。まあ僕も、大学時代に入っていたサークルがなかなかとんでもないサークルだったんで、そこで一緒にやっていた奴らとは結構深い人間関係を築けているような気がするけど、やっぱりずっと一つ屋根の下で暮していた本作の五人ほどじゃないだろうなという風にも思いました。
全体としては、まあまあという感じです。可もなく不可もなく。起伏の少ないプレーンな小説です。ただ、細かなところにまで気を配れ、また読みやすい文章を書き、バランスのいい作品なので、著者の作家としての力量は感じられる作品だなと思いました。また別の作品を読んでみようと思います。「東京バンドワゴン」の三冊目も読みたいですしね。

追記)amazonでは結構評価が高いです。僕が微妙だと書いた自殺についての結末も、概ね高評価のようです。もしかしたら読む年代によって違うのかも。僕ももう少し年を取って成熟してから読んだら違うのかもです。
しかしいつも思うけど、amazonとかで肝心な部分のネタバレをしちゃいかんだろ、と。まあ森博嗣は、作家以外の人間が本の内容に関して書いたものはすべてネタバレだ、といつも言っているので、僕がこうしてブログを書いていることなんかも森博嗣的ネタバレになっちゃうんですけどね。

小路幸也「モーニング」

地球温暖化が原因だ、と言われることもある。突発的な地殻変動だ、という説明にもなっていないような説明もあった。宇宙人の仕業だという人もいれば、実は元からそうだったんだ、という安っぽいミステリのような説明をつける人もいた。
しかしとにもかくにも、それは起こってしまったわけだ。
静岡県と愛知県の県境をほぼまっすぐ北西に伸ばしたラインで、日本が真っ二つに分断されてしまったのだ。
日本という国は、地震大国である。プレートがいくつも折り重なった上にあるためだが、恐らくそのそれぞれのプレートが別々の方向に引っ張られたのだろう、と言われている。衛星からの観測により、マントル対流が異常なスピードで循環を始めているということが分かっている。これまでマントル対流は、地殻を年数センチ移動させる程度であったが、今ではそのスピードは年数メートルというスピードに変わっている。そして何故かその影響を受けているのは、日本列島だけなのである。
日本列島が真っ二つに分断された当初は、まだ感覚は数十センチだった。人々は即席の橋を掛けるなどして対処できた。しかしその感覚はどんどんと広がってしまい、今では青森県が北海道と接触し山が形成されつつあり、山口県と福岡県も同様のことが起こっている。
その流れの中で、大阪府が下日本の首都を宣言した。日本が二つに分断されて以降ももちろん首都機能はすべて東京にあったが、上日本と下日本に分かれて以降、うまく機能しなくなっていた。大阪府が首都宣言したことにより、日本という国家が明確に二つの国として分裂することになってしまった。
それから数百年が経つ。今では上日本と下日本は別々の国家として存在している。使われている言葉もまったく違う、近くて遠い国である。

一銃「独立」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はかなり突拍子もない世界を舞台にしています。まずその説明からします。
舞台は近未来の日本。その時代では、もはや月に人が住めるようになっている。
そんな日本に、「江戸国」という独立国が存在する。国際的には日本の属領という扱いであるが、日本国内では江戸国というのは暗黙の了解として独立国として認められている。
しかもその江戸国は、完全に鎖国状態なのだ。北関東から東北に掛けての地域一帯が江戸国の領土であるが、そこに日本から入るには、300倍という倍率を潜り抜けなければならない。江戸国は他のどんな国とも交流をせず、食物もすべて自給自足、科学技術に一切頼らない、まさにかつての江戸時代の生活そのものを守って生きているのである。
主人公は、日本の大学二年生である辰次郎。彼はそもそも江戸国なんかにはまるで興味はなかったのだけど、とある事情から江戸国に入る必要が出てきた。とはいえ、倍率は300倍。通るとは思えなかったが、しかしなんと入国を許可されたという。身請け先は、身の丈六尺六寸、目方四十六貫、極悪非道、無慈悲で鳴らした「金春屋ゴメス」こと長崎奉行馬込播磨守だった。ここはつまり警察のような役目であり、江戸の治安を守っているのである。
倍率300倍をたった一度の応募で潜り抜けたのにはわけがあった。辰次郎はとある任務のために、いわば裏口で江戸国への入国が許されたのだ。辰次郎は、江戸で短期間で広まり、致死率100%という流行病である「鬼赤痢」の正体を突き止めるようにゴメスに命じられるのだが…。
本作は、非常に質の高い作品を出すことで結構有名な、「日本ファンタジーノベル大賞」受賞作です。
これはしかし面白いですね!そもそも、新人のデビュー作とは思えない完成度だと思いました。作品全体がどっしりとした土台の上に乗っかっているという感じで、非常に安定しているんですね。ストーリーもキャラクターも申し分ない。細かい裏話なんかも小出しにしていってそのバランスが絶妙だし、文章も新人とは思えないほどしっかりしています。
しかし、何よりもやっぱり素晴らしいのは、その設定ですね。いやはや、これはお見事ですよ。まさに脱帽。これまで何百という作家が世に出てきたわけですけど、こんな設定を思いついた人はいないでしょうね。僕はちょっとだけ、森博嗣の「女王の百年密室」という作品を思い出しましたけど。今から100年後の未来が舞台なんだけど、その世界の中に、100年前の技術水準のみで暮しているコミュニティがある、という設定で描かれる作品で、ちょっと本作と通ずるところがあると思いましたが、しかし本作の設定の方が群を抜いているでしょうね。
なにせ、日本の中に江戸国なんていう独立国が存在している、っていう設定ですよ。素晴らしいじゃないですか。これがただ江戸時代を舞台にした作品だとすると(まあそれだと全体的に成り立たない話なんだけど)ただの時代小説みたいになってしまうし、江戸時代のタイムスリップする話にするとSFになってしまうしで、どっちにしても読者を限定してしまいますよね。でも本作は、江戸の捕り物を描いているくせに、完全に現代物の作品なんです。そもそも主人公が、江戸国の人間ではなくて日本出身なんだから当然と言えば当然ですけどね。日本出身の若者視点で物語が進んでいくので、江戸時代の知識をそもそも持っていなくてはいけないなんてことはないし、それでいてまるで江戸時代にタイムスリップでもしたかのような新鮮さを辰次郎視点で感じることが出来るわけです。江戸での生活について辰次郎が疑問に感じれば(もちろんそれは読者が疑問に感じることでもあるのだけど)、それを江戸国の人が説明をしてくれるし、非常に分かりやすいですね。だって例えばですよ、僕は時代小説とか読んでて、「1尺」とか「1貫目」みたいな単位が出てきても、それがどのくらいかわからなかったわけなんです(登場人物の中では当然だから誰も疑問に出さないですしね)。でも本作では、分からないことがあれば辰次郎が質問してくれるから、そういう時代小説を読む時のような不具合は全然ないわけなんです。しかしホントうまい設定を考えたものだなぁ、と思います。
江戸国の成立の過程や、そこで何故科学技術に頼らず生きているのかという舞台裏も明かされるわけで、面白いですね。
キャラクターもなかなか面白いです。何よりもまず、ゴメスの描写が素晴らしいですね。とにかく、とんでもない人間だという風に描かれています。確かにとんでもない人間なんですけど、でもいいところもあったりするんですね。そのバランスがうまいと思いました。
また、辰次郎と一緒に江戸国に入国した松吉と奈美も面白いです。特に、松吉はいいですね。いろいろあって(このいろいろの部分も面白いですけど)時代劇にはまって、どうしても江戸国に来たかったという江戸オタクで、江戸国の人間にも、お前よく知ってるなぁ、と言われるほどです。
辰次郎の先輩に当たる人々や市中の人々なんかも鮮やかに生き生きと描かれていて、読んでて面白かったです。
「鬼赤痢」についても、何故そんなことが起こったのかという背景に深いものがあり、またそれが江戸国そのものと関わっていたりして、実にうまくまとめたなという感じがしました。
そして最後に、タイトルが素晴らしい!これは書店員的な視点かもしれないけど、このタイトルは秀逸だなと思います。読めばタイトルがどんな意味なのか(本作の場合登場人物の名前なんだけど)分かるけど、パッとみただけでは何なのか分からない。分からないから手に取ってみようかと思わせる。タイトルにはそういう力があるわけで、本作のタイトルはまさにその力を最大限に引き出している見事なものになっていると思います。
新刊で出たときから面白そうで平積みしてるんですけど、POPを作ったりしてもう少し強く押してみようと思います。これはなかなか掘り出しものだと思いますよ(まあ大分前から目をつけていたという人はたくさんいるでしょうけどね)。時代小説が苦手、という人にこそ読んで欲しい作品ですね。これは傑作ですよ!

西條奈加「金春屋ゴメス」

僕は「ホテル・ニューナカジマ」に泊まることを決意した。不退転の決意だった。もはや後戻りは出来ない。それぐらいの覚悟がなければ、「ホテル・ニューナカジマ」には泊まることは出来ない。
何人もの友人に相談した。彼らは皆、「止めておけ」と言った。「ホテル・ニューナカジマ」に関する噂は、大げさにならない程度に噂になっていた。もし世間の注目を強く引き付けるようになっていたら、そしてその噂がもし真実であれば、「ホテル・ニューナカジマ」は普通に存在することが出来なくなるだろう。
「ホテル・ニューナカジマ」は、正確な場所が分からないことでも有名だった。「ホテル・ニューナカジマ」へ続くドアは、都内のいくつかの場所にひっそりと存在しているらしい。しかし、その場所を知っている者は多くはない。僕は、ありとあらゆる伝手を使って、そのドアの一つを探り当てた。ホテルの建物自体も、恐らく地下にあるのだろう。そのことだけでも、世間に流布している噂を補強するのに充分だった。
僕は作家を目指していた。子どもの頃から、どうしても作家になりたかった。大学を出て、一時は平凡な営業マンとして働き始めたものの、作家への思いを断ち切れず退職。3年ほど作品を書き続けたが引っかからず、そこで「ホテル・ニューナカジマ」に籠ることを決意したのだ。
「ホテル・ニューナカジマ」出身の有名人は多い。彼らの存在が、「ホテル・ニューナカジマ」というホテルの存在を世間に強くアピールすることになった。年間興行収入1位を獲得した映画監督、世界的に有名になった陶芸家、タイトル七連続防衛のボクサー、そしてブッカー賞の候補になったこともある作家もいた。
彼らの成功に憧れて、「ホテル・ニューナカジマ」を目指そうとする者は多い。「ホテル・ニューナカジマ」についての噂が出てくるまではそうだった。今では、その数は大分落ち着いていることだろう。作家になるために「ホテル・ニューナカジマ」にカンヅメになろうと思っている僕のような人間が狂人だと思われる程度に、その噂は大きな影響を与えていた。
「ホテル・ニューナカジマ」は、宿泊費はタダ、ありとあらゆるサービスもすべて無料、という夢のようなホテルである。部屋はどれもスイートであり、一流の料理と一流のもてなしをすべて無料で提供するホテルだった。
しかし、もちろんいいことばかりではない。あくまで噂であるが、宿泊者は自らの身体を担保にさせられるようだ。つまり、何らかの形で成功することを求められ、それができなければ殺される、というのである。
「ホテル・ニューナカジマ」には、人を成功に導く何かがある。「ホテル・ニューナカジマ」出身者はそれが何であるのか明言はしないが、その存在は確かなようだ。しかしそれは、成功を確実に約束するものではないらしい。あくまでも成功するかどうかは、宿泊者個人の努力と運に掛かっている。
僕は、その噂を知ってなお、「ホテル・ニューナカジマ」に向かうことに決めた。どうせ作家になれないなら死んでやるさ。僕は、「ホテル・ニューナカジマ」に続くと言われるドアを静かに開けた。

一銃「ホテル・ニューナカジマ」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、ベリー家というとあるアメリカ人の物語です。それは、結果的に結婚しベリー家の父親と母親になるある一組の男女が熊を買うところから始まります。
1393年の夏。ベリー家の父親であるウィン・ベリーは、高校の夏期休業中のアルバイト先である海辺のホテルで、近くに住んでいるのは知っていたけど話したことはほとんどないメアリー・ベリーと出会う。二人はちょっとしたきっかけで話すようになる。二人は、ユダヤ人の熊の調教師であるフロイトと出会い、彼から一頭の熊とオートバイを買い、そして結婚した。
彼らには五人の子供が生まれる。本作はその内真ん中の子供であるジョンが40歳のの時に語っている、という設定で話が進んでいく。
長男のフランクはホモ、長女のフラニーと次男のジョンはお互いに愛し合っていて、次女のベリーは小人症、三男のエッグは難聴というなかなかいろんなものを抱えている兄弟であるが、彼らはごく平凡な生活をしている。
しかしある時、父親であるウィン・ベリーは、夢だったホテルを開業することになる。「第一次ホテル・ニューハンプシャー」である。彼ら家族は、いくつかの「ホテル・ニューハンプシャー」と共に、様々なものに人生を振り回されながらも、家族一丸となって生きていく…。
とまあ、あまりに漠然とした内容紹介ですが、なかなか壮大な物語なので、いろいろ書こうとするとたくさん書かないといけなくなるのでこれぐらいにします。
ジョン・アーヴィングの作品を読むのはこれで三作目ですが、これまでで一番好きな作品だと思います。相変わらず長い作品ばかりですけど、長いだけあって読み応えはばっちりで、すごいと思います。
僕が残念なのは、ジョン・アーヴィングの作品は、今の僕の読書のスタイルにはちょっと合わないな、ということなんですね。僕はとにかく、一冊でも多く本を読みたいと思っている人間で、だから一冊一冊の本を割と早く読みたいと思っているんですね。現代小説であれば大抵どれも同じようなスピードで読めるんですけど、ジョン・アーヴィングの作品は読むのに時間が掛かるんですね。スラスラ読めないんです。というか、スラスラ読んじゃいけない作品なんですね。だからジョン・アーヴィングの作品は、他に読む本がないという状況で一週間くらい隔離されている状態で読みたいですね。そうしたら、じっくり読み進めることが出来ると思います。
それに今回は、本作を読んでいる時殺人的な睡魔に襲われていまして(もちろん本作がつまらないという意味ではないので悪しからず。純粋に僕の方の問題です)、とにかく眠くて眠くて死にそうでした。病気なんじゃないかと思うくらいの睡魔が立て続けにやってくる中で読んだので、ちょっと残念だったという気がします。この作品は、もう少しいい環境の中で再読してみたいなと思います。
本作は、一応何の話かと聞かれた時にこれだと答える部分はあります。解説でもそう書かれていますしね。一応それが何なのかは書かないでおくけど、ラストで兄弟が皆でそれに立ち向かって行くシーンは、それまでの様々な流れをきちんと一点に収束させる形でなかなか見事だと思いました。
でも、じゃあ作品全体でそれがメインであるかと言われると、まったくそんなことはないんですね。基本的に物語はあらゆる方向に進んでいきます。基本的に、上巻はアメリカでのこと、下巻はウィーンでのことが描かれるのだけど、それぞれの場所で「ホテル・ニューハンプシャー」を舞台にして、またベリー家という家族を登場人物にして、いろんなことが巻き起こるわけです。ジョン・アーヴィングはそれを丁寧な筆致で描きながら、家族の成長やあるいは崩壊と言ったものを追っていきます。
本作は、ストーリーやキャラクターが描かれているというよりは、時間が描かれているなという感じがします。ここで僕は、『時間』という言葉を『歴史』という言葉とほとんど同じ意味で使っています。ただ、歴史というほど重厚ではないしんですね。歴史という言葉だとなんとなく違和感があるんです。やっぱり時間を描いているんだと思います。ベリー家という家族に流れる時間を切り取った作品というわけですね。
ベリー家の家族だけでなく、様々な登場人物が非常に魅力的ですが、本作で何よりももっとも重要な存在となるのが熊ですね。まさかここまで熊が重要とされる小説はこれまでなかったんではないかと思います。特に後の方の熊は最高ですね。違和感丸出しの存在なのに、すっと馴染んでしまっているところなんか、作者の描き方が素晴らしいからなんだろうなと思います。
ストーリーだけ取り出せば、なんだかおとぎ話に思えるようなふわふわとした存在感しかないと思います。しかしそれに様々な肉付けを施すことで、何故かその荒唐無稽な物語が地に足のついた話に思えてしまうのが不思議ですね。何となく伊坂幸太郎の作品を読んでいる感じでした。最後の、兄弟があることに結集して立ち向かうシーンなんかも、それまでのあらゆる流れがすべてそこに行き着くように描かれていたわけで、何となく伊坂幸太郎っぽい気がしますしね。
ジョン・アーヴィングというのは現代アメリカを代表する文学作家であって、だから深い読み方をすればもっといろんなことを感じられる作品だと思うんですけど、僕はそういう文学がどうのというのは苦手なのでよくわかりません。ただ、読み物として非常に面白いと思いますね。難しいことを考えないでも読める作品です。あと「ガープの世界」を読みたいところですね。ジョン・アーヴィングの作品の中では恐らく一番評価が高いでしょうからね。
日本の作家では、なかなかこういう作品を書ける作家はいないと思います。僕が今ふと思い浮かんだのは、桜庭一樹の「赤朽葉家の伝説」です。あるいは、読んでないけど去年のこのミス1位だった佐々木譲の「警官のなんとか」みたいな奴。あるいはちょっと雰囲気は違うけど、高村薫とかですかね。こういう長い年月を経た壮大な物語というのは、なかなかないと思います。ジョン・アーヴィングはアメリカ文学の金字塔なんて言い方をされますが、難しいことは全然ありません。娯楽小説として楽しく読めるので、気になったら読んでみてください。

ジョン・アーヴィング「ホテル・ニューハンプシャー」

「明日からキツいぞ。マジでげんなりするわ」
「何でですか?」
「そうか。お前は知らなかったんだっけ、無限マンションのこと」
「無限マンション?」
「そうだ。うちの営業部は、無限年に一度、無限マンションに営業に行くことになってるんだ。それが明日から始まる無限年続くんだよ。キツイぞ、これは。何しろ無限年掛けて無限マンションを回るんだからな」
「無限マンションって何ですか?」
「要するにだな、部屋数が無限にあるんだ。無限だぞ、無限。いつ終わるんだよ。まったく社長もアホなことを始めてくれたもんだよ」
「田中さんはこれまで無限マンションで営業をしたことってあるんですか?」
「あるわけないだろ。無限マンションの営業を始めたら、無限年営業を続けなくちゃいけないんだ。お前、どうしてうちの会社に社長の姿がないか、考えたことあるか?」
「そうなんですよね。僕も入社以来一度も社長の姿を見かけてないんです」
「そうだろ?何せ無限マンションでの営業を初めてやったのは社長だからな。未だに社長は無限ホテルでの営業を続けてるはずさ」
「なるほど。でもだったら、僕らが営業する必要なんてないじゃないですか?だって、社長がすべての部屋を一つずつ順番に回っていけば、すべての部屋を営業できることになるんでしょ?どうせ無限年の時間が掛かるわけだし」
「それがそうでもないんだな。無限マンションにはさ、部屋番号が1号2号3号って全部通し番号になってるわけだ。社長も、とにかく無限の部屋を営業に回るっていうのに不安だったんだろうな。だから社長はルールを決めたんだ」
「ルール?」
「あぁ。社長は自分で、部屋番号が1と素数であるすべての部屋を営業することに決めたんだ。これだけでももちろん無限の部屋数があるわけだけど、でも全部の部屋を回るよりはましだろ?で社長は残りの部屋をどうやって回るか、指示を残したんだ。次に営業に回る者は、残った部屋の内、部屋番号から2を引いた数が素数になる部屋を回る。その次は部屋番号から3を引いた数が素数になる部屋…、と続いていくんだ。これから俺らが営業に行く部屋はさ、部屋番号から43を引いた数が素数になる部屋だよ」
「…カントールって知ってますか?」
「誰だそれ。歌手の名前か?」
「違います。昔の有名な数学者です。無限について先駆的な研究をした人なんですけど、そのカントールは、整数の集合と素数の集合は同じだと証明しました」
「は?どういうことだ?」
「つまりですね、整数の数と素数の数は同じだっていうことなんです」
「そんなわけないだろ!整数より素数の方が少ないに決まってるじゃないか」
「僕に言われても困りますけど、そういうもんなんです。だから初めっから社長が順番通りに一つずつ営業をしてくれれば、僕らが後からこうやって営業に行く必要なんてなかったはずなんだけどなぁ…」

一銃「無限」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「無限」というものがいかにして数として認められるようになっていったのか、その歴史について描かれている本です。無限に関しては、カントールという数学者が独創的な仕事を成すわけですが、それまでは無限というものについてはほとんど深く考えられることはありませんでした。
古代から、無限という概念については知られていました。しかしそれは、現在では「可能無限」と呼ばれる概念でした。「可能無限」というのは、『ある正方形を無限の小さな正方形に分割する』という風に使うときの無限であり、うまく説明できないけど、イメージ的にはある一定の上限があるような、そんな限られた無限なわけです。
カントールが現れるまで、数学者は皆この可能無限のレベルに留まっていました。そもそも無限について考えると何らかのパラドックスが生まれてしまうわけで、無限についてはあまり深く考えないようにしていたようです。
しかし、カントールの仕事により、無限に関する考察が、数学の根幹を成すほど重要なものであるという風に認識されるようになりました。カントールが生涯を掛けて証明しようと努力し(そのために精神を病んでしまった)、ゲーデルがその証明は現在ある数学の枠組みの中では証明できない、ということを証明した『連続体仮説』は、ヒルベルトという有名な数学者がとある学会で発表した最優先でとかれるべき23の問題の1番目の問題として取り上げられるほどでした。
カントールはまあいろんなことを考えたわけですが、それらはどうも、僕らのイメージからするりと抜けてしまうような、漠然としたものばかりです。例えば冒頭の話に書いた「無限マンション」(これはヒルベルトが好んで話していたという無限ホテルをパクったものですが)の話がいい例ですね。実際の無限ホテルの話はこうです。無限ホテルは現在満員ですが、そこに無限人の新たな宿泊客がやってきた。ホテルは満員なのだから当然入れるはずはないのだけど、しかし支配人は一計を案じます。現在無限ホテルに宿泊している人を、以下のルールで別の部屋に移すわけです。即ち、部屋番号1の人を2へ、部屋番号2の人を4へ、部屋番号3の人を6へ移します。すると新たな無限人の宿泊客を、奇数の部屋番号の部屋へと見事入れることが出来るわけです。
これは一体何の話かといえば、偶数・奇数ともに加算無限である、ということです。素数も有理数も加算無限です。加算無限というのは、整数と一対一の対応をつけることが出来る、つまり整数と同じ数だけ存在する、という意味です。整数と偶数が同じ数、というのは僕らの想像を越えた話ですが(普通に考えれば、整数は偶数の二倍の数なくてはおかしいですよね)、しかしこれはカントールが正しいと示したわけなんです。
僕はカントールの名前を知っていましたが、それは整数と超越数が一対一の対応付けができない、つまり超越数は不可算無限であるという証明を何かで読んだことがあるからです。この証明法には感動しましたね。ここでは詳しく書きませんが、ある小数の集合があって、その小数の集合からある一定の法則によって別の小数を作り出すことが出来る、というところから矛盾を導き出し、背理法によって証明するんですけど、お見事という感じでした。
カントールはある時期から精神をおかしくしてしまいます。それにはいろんな理由があったとされますが、その内の一つが学生時代の先生だったクロネッカーという有名な数学者からの悪意ある攻撃であり、もう一つが彼が生涯を掛けて証明しようとした『連続体仮説』だったといわれているようです。クロネッカーからの攻撃はまあ分かりますが、『連続体仮説』が精神に不安定をきたすというのはなかなか納得しがたいものがありますね。しかしこれにはもう一つの例があります。不完全性定理という、ある公理系の内部には、真偽を判定することが出来ない問題が含まれる、という驚くべき証明を若干26歳という若さで成し遂げたゲーデルも、『連続体仮説』と取り組んだために精神を病み、やがて自ら餓死を選択して死んでしまうことになります。『連続体仮説』は、二人の超有名な数学者の精神をおかしくした、まさに奇問なわけです。
『連続体仮説』については、ゲーデルともう一人の数学者の仕事によって、今採用されている公理系では真偽が判定できない、ということが証明されたようです。しかしこの『連続体仮説』は、数学の根幹と大きく結びついていて、ありとあらゆる証明が、『連続体仮説』の真偽に拠っている、つまり『連続体仮説』の真偽が判明しないとその真偽も確定しない証明が山のようにあるんだそうです。そういう重要な仮設の真偽が判定できないというのも、面白いなぁと思いました。
数学を扱った本というのは割と厚いものが多いイメージが僕にはありますが、本作は250ページほどで、分量的には割と軽いですね。また、難しい数式が必要とされる分野ではないので、うまくイメージできるかどうかは別として、数学の素養がそんなにない人でも十分読める本だと思います。無限という、普段の僕らの生活にはほぼ無関係なこの数字に隠された神秘をちょっとは感じてみるというのも面白いかもしれませんよ。興味がある人は読んでみてください。

アミール・D・アクゼル「「無限」に魅入られた天才数学者たち」

僕はね、人を殺したくないわけなんだよ。
あ、何その顔。ってか笑っちゃってるし。まあそういう反応は慣れてるから別にいいんだけどさ。やっぱおかしいかな、これって。
僕ね、意外と真剣なんだよ、これ。真剣に言ってるわけ。
ねぇ、ヨシコちゃんだって本読むわけでしょ?読むよね。前に、厚保山武史が好きだって言ってたもんね。どんな話だった?サムライが出てきて、姫様が出てきて、カレーを食べて、横浜で暮らすと。まあよくわかんないけど、そういう話があるわけだよね。
でもさ、じゃあヨシコちゃんだって殺しちゃってるじゃん。
その、はぁ、っていう顔止めてくれない?わかんないかなぁ?
つまりさ、ヨシコちゃんは、一冊本を読み終える度、その本に出てくる登場人物を殺しちゃってるわけ。だってそうでしょ?その登場人物たちはさ、僕らが本を読み終えた瞬間に人生が終わってしまうんだよ。確かにね、作家によってはさ、続編を書いたりすることもあるかもしれないよ。それでもさ、永遠に終わらないシリーズなんてさ、未完のまま作家が死なない限りありえないよね?ってことはさ、いつか物語は終わっちゃうわけ。物語の終わりはさ、登場人物の死でさ、それはさ、僕らが引き起こしてるってわけよ。ほらね、立派に殺してるでしょ?
僕?僕はね、このことに中学生の頃に気づいたんだよ。本を読み終えてしまったら、殺しちゃうんだって。本に限らないよ。マンガだって映画だって、物語のあるものなら何だって同じ。
だから僕はね、物語を最後まで読まないようにしてるんだ。小説だったら、最後の数ページ残して止める。中学生の頃このことに気づいて以来、僕は本を最後まで読みきってしまったことってないんだ。
僕はホントにこんな風に思うんだよ。世の中に物語が存在できるのは僕のお陰なんじゃないかって。僕が物語を最後まで読まないでいるからこそ、その物語は存在出来るんじゃないかってね?誇大妄想すぎ?どうかな。僕が死んだら、世の中から本がなくなるなんてことだってさ、もしかしたらありえるかもしれないじゃん。

一銃「殺すということ」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、桜庭一樹が東京創元社のHPで連載をしていた読書日記をまとめたものです。
もともとライトノベルで本を書き続けていた桜庭一樹が東京創元社から本を出すきっかけになったのが、「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」だったそうです。それを読んだ東京創元社のとある編集者(K島)が桜庭一樹を見出し、文芸の世界へと引っ張っていったようです。読む本の趣味なんかも似ていたようで、じゃあ読書日記でも書いたら面白いかもね、ということで始まったんだそうです。というようなことは、最後のあとがきに書いてありました。
一応読書日記とありますが、基本的にはエッセイですね。日常生活の細かいことがいろいろ書いてあります。身体を動かすのが好きなようで、空手は初段。イケメンが苦手で(周りの人に、あの人はイケメンだよ、と言われないとそもそもイケメンに気づけない)、何故桜庭さんはホストに行かないんですか、と編集者に聞かれた時の返答が「初対面だから」。頻繁に故郷である鳥取に帰り、家族から「まりすけ」と呼ばれ、何故か犬と間違われたりする。一人称は『俺』。カッコイイぜ、桜庭一樹。
執筆の合間に本屋へ行き、インタビューの合間に本屋へ行き、パーティーの、サイン会の、…。とにかく何でも読む主義のようで、自分の趣味ばかりで読む本を選ぶと凝り固まってしまうから、常に誰かに本を薦めてもらうようにしているらしい。月に3回くらい古い本を読みたくなる衝動がやってくる。基本的に、僕でも知らないような(これでもそれなりに本を読んでる人間ですからね)作家や作品ばっかり読んでいてすごいと思う。本作では書かれていなかったけど、僕が昔何かで読んだところによると、これまで読んだ本の中で最もよかったものの一つに、ガルシア・マルケス(ブランド名ではない)の「百年の孤独」(お酒の名前ではない)が挙げられていた。名作と名高い作品だけど、多分僕は読めないと思う。とにかく、広く深い。桜庭一樹の周りの人間(主に出版関係の人)も同じような本(古い本、絶版になっている本、一部でカルト的に有名な作家の本、誰だかさっぱり分からない外国人作家の本などなど)を読んでいるみたいで、とにかくすごい。僕なんか、足元にある埃にも及ばないような、とんでもない世界である。とはいえ、そんな魑魅魍魎跋扈する世界に踏み入れたいとは思いませんけど。
本屋の話も結構出てきて、ぐるぐる回って買い漁るのだけど、鳥取にあるという小さな本屋が凄く気になる。『犯人』ならぬ『犯書店員』と勝手に読んでいる書店員(別に顔見知りというわけでもない)がいろいろやっているに違いないのだけど、小沼丹とか埴輪雄高とか須賀敦子とかのコーナーがあるらしい。また星野智幸とか吉田篤弘なんかも押しているようで、本の内容に関わる雑貨なんかと一緒に並べているらしい。他にも変わったフェアをやっているようで、桜庭一樹的にはなかなか面白い本屋であるらしい。
本書を読んで僕は、もし僕がいる店に桜庭一樹が来た時、桜庭一樹を楽しませることが出来る売り場であるだろうか、と常に考えてしまった。答えはノーである。確かに、桜庭一樹レベルの読書魔がそう何人もいるとは思えないし、マニアックなフェアをやっても売れなきゃ仕方ない。それなりの規模の書店にはその規模なりの役割があって、まずそれを優先しなくては…、みたいなことは言い訳で、結局僕にはそういう深い売り場を作ることは出来ないのだろうな、と思う。売上を上げることは出来ても、面白い売り場を作ることは出来ないかもしれない。そう思うと、ちょっと哀しくなった。しかしだからと言って、桜庭一樹が読んでいる系の本を読んで、もっと深い世界へ行こう、とは思わない。だってそれをやるにはあまりにも僕の時間がなさ過ぎるんだもん。
しかし桜庭一樹はいつどうやってこんなに本を読んでいるんだろう。それなりに早く読めるのだろうとは思うのだけど、それにしても買っている量が半端ない。しかもどれもなんだか難しそうというか、スラスラ読めなそうというか、深くてどっぷりしそうというか、とにかく手早く読める本であるはずがなく、時間が掛かるはずである。しかもこの読書日記を書いている時桜庭一樹は、「赤朽葉家の伝説」の書き下ろしをやり、「私の男」の連載をやり、「青年のための読書クラブ」を連載し、「GOSICK」シリーズを書き下ろし、「七竈と七人の可愛そうな大人」の後半を書き下ろし、というようなことをやっているのだ。もちろん、インタビューだの取材だの打ち合わせだのゲラに目を通すだのと言った仕事は常にあるのだ。読めるのか?そんなに本を、と思ってしまう。
いやそれもそうなんだけど、出版社の編集者の人はもっと忙しいような気がするから、それこそ日々本を読み続けているのが神掛かっているような気がする。僕だって、仕事している時間以外は相当の時間を読書に充てているけど、それでも満足には読めないぞ。すごいっすよ、ホント。
まだこの時期は直木賞を獲る前だからこれぐらい読めているのかもしれないけど、直木賞獲った後は生活がどう変わったんだろう。本を読む時間が減っちゃったかな、とか思ったり。
あと、「私の男」の執筆の仕方がすごく特徴的でビビった。なんというか、大丈夫かよ、と言いたくなるような書き方で、後付けだけど、なるほどそれだけ念のこもった作品だからこそあれだけの雰囲気を出せたのか、と思う。あれを毎月続けるというのは、さぞ大変だろうな、と思う。
さてというわけで、自分へのメモ用に、本作を読んで気になった本、読みたくなった本をちょっと書き出して行こうと思う。

二階堂奥歯 「八本足の蝶」
車谷長吉 「赤目四十八瀧心中未遂」
森谷明子 「七姫幻想」
フレッド・ヴァルガス 「青チョークの男」
ジョナサン・キャロル 「月の骨」
アメリー・ノートン 「殺人者の健康法」
ローレンス・ノーフォーク 「ジョン・ランプリエールの辞書」
芦辺拓 「グラン・ギニョール城」
ウィリアム・モール 「ハマースミスのうじ虫」
J・M・スコット 「人魚とビスケット」
筒井康隆 「十二人の浮かれる男」

最後の、筒井康隆「十二人の浮かれる男」は厳密には桜庭一樹が読んだ本ではないですが。欄外にある本の紹介の文章中に書かれていたので、そっちで気になりました。
特に、「人魚とビスケット」が気になりますね。注文して買おうかな。どうしよう。
さて最後に二つ。割と面白い話があったので抜き出してみようと思います。
まず、「淑やかな悪夢―英米女流怪談集」というアンソロジーに収録されている、シャーロット・パーキンズ・ギルマンという作家の「黄色い壁紙」という作品について。この作品については、そのあまりの怖さを表現する逸話があるんだそうです。

『最初にこの原稿を受け取った小説誌の編集長は、「自分が感じた惨めさをほかの人物に味わわせることなどいとうてい容認できるものではない!」という理由でボツにした(そんな理由聞いたことない…)。ようやく別の雑誌に掲載されたが、今度はボストンの医師から「読んだ者が誰であれ、正気を失わせること疑いなしだ!」という苦情がきた(そんな苦情も、聞いたことない…)。』

どんだけ怖いんでしょうね。気になります。
もう一つは、桜庭一樹が月に3回古い本が読みたくなるその時の内側の衝動についてです。

『…新たに出る注目の本ばかり追いかけると、まるで流行のJ-POPを消費する若者のような心持ちで読んでしまう気がして、手が止まる。
こういうことを繰り返したら、作家も読者も聞き分けがよく似通った、のっぺりした顔になってしまうんじゃないか。みんなで、笑顔でうなずきあいながら、ゆっくりと滅びてしまうんじゃないか。駄目だッ。散らばれッ!もっと孤独になれ!頑固で狭心で偏屈な横顔を保て!それこそが本を読む人の顔面というものではないか?おもしろい本を見せておいて「でも気にには難しすぎるかもね」なんて口走って意中の女の子をムッとさせろ!読もうと思っていたマニアックな本が、なぜかすでに話題になっていたら、のばした手を光の速度でひっこめろ!それくらいの偏屈さは、最低限、保たなくては…。みんな、足並みなんか、そろえちゃ、だーめーだ…。古い本を!古い本を!むかしの小説を!読まないと死ぬゾ。』

なかなか変わった人のようです。
というわけで、そんななかなか変わった作家である桜庭一樹の日常を垣間見ることの出来る作品です。広く深い本好きになりたいと思っている人には、どんな本を読んだらいいかという指針になるでしょう。小説を書き、小説を読むことに人生を捧げている一人の女性が、今日もひたすら本を読む。興味があったら読んでみてください。
とりあえず、桜庭一樹の「青年のための読書クラブ」を読みたいぞ。

桜庭一樹「桜庭一樹読書日記 少年になり、本を読むのだ。」

「なぁ、『鏡の国のアリス』って知ってるか?」
「いや」
「知らねぇのかよ。有名だぞ」
「何それ。映画とか?」
「バカ。本だよ。イギリスの有名な作家の」
「イギリスの本なんか知るかよ」
「まあいいや。でな、そんなかで、鏡の向こうの世界ってのが出てくるわけなんだな」
「なるほど」
「鏡の向こうの世界ってのは、こっちの世界とは何もかもあべこべなんだよ。例えば、こっちで晴れてれば、鏡の世界では雨、こっちで車が左側通行なら、鏡の世界では右側通行ってわけだ」
「ふぅん」
「でだ、もしそんな世界があったら、お前どうする?」
「どうするって、何がよ」
「いやだってさ、面白そうじゃんか。何もかもあべこべなんだぜ。例えばテストで酷い点数取ったとするだろ。でもさ、そんな時に鏡の世界に行ってみ。たぶんすごいいい点数取ってるぜ、俺。なんか、そういうの、いいじゃんか」
「ただの現実逃避だろ、それ。何がいいんだよ」
「まったく夢がないやつだな」
「それにさ、鏡の世界って、一度行ったら二度と戻ってこれないような気がするんだけど」
「何でだよ。また鏡を通ってこっちに戻ってくればいいじゃないか」
「考えてもみろよ。こっちは『鏡の世界に行ける鏡のある世界』なわけだろ。じゃあ鏡の世界では『鏡の世界に行ける鏡のない世界』ってことにならないか?」
「…うーん、そう言われると困るなぁ。確かにそうかもしれないけど、でももしそうなったらおかしくならないか?例えばこっちでは『鉛筆がある世界』なんだから、鏡の世界では『鉛筆のない世界』になっちゃうだろ」
「知らねぇよ。鏡の世界の話はお前が始めたんだろ。俺に文句言うなよ」
「まあそうだけどさ」
「なるほど、そう考えると、やっぱ俺は鏡の世界には絶対に行きたくないな」
「何でだよ」
「だって考えてもみろよ。こっちでは『自分が生きている世界』だけど、鏡の向こうでは『自分が死んでいる世界』ってことになるよな」
「…なんだかうまくいかねぇもんだなぁ」

一銃「鏡の向こうの世界」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「物理の北山」と称される、ガチガチの物理トリックを多用した本格ミステリを書く気鋭の新人作家による、「そして誰もいなくなった」へのオマージュとなる作品です。つまり、閉鎖空間に集められた人間が一人ずつ殺されていく、というやつですね。
ルディという女性に招待され、探偵たちが江利ヵ島にある『アリス・ミラー城』に集められた。彼らは、『アリス・ミラー』を求める依頼者から仕事を請け負い集まったのだ。
『アリス・ミラー』というのは、ルイス・キャロルの小説「鏡の国のアリス」に登場する鏡の国に行くことが出来ると言われる鏡だ。もちろん実際に鏡の国に行けるわけではないだろうが、ルイス・キャロルが「鏡の国のアリス」を書くきっかけになった鏡であるならば価値は高い。その鏡が『アリス・ミラー城』にあるかもしれない、ということで探偵が集ったのだ。
奇妙な意匠が施された奇怪な城の中で、探偵たちの予想通り殺人事件が起こる。チェス盤の駒が一人一人消えていく犠牲者を暗示し、『アリス・ドア』や鏡の部屋など奇妙な場所で人々が殺され、また密室やバラバラ死体が現れてくる。探偵は、一人また一人と殺されていく。犯人は、一体誰なのか…。
というような話です。
僕は読み終えた時、分からなくはないけどすっきりとした感じでは理解できなかったので、ネットでネタバレサイトを探して読んでみました。それを読むと、なるほどそういう仕掛けだったのか、ということはすごく納得できました。本作は、とにかく何重にもこだわった巧妙な罠を幾つも仕掛けていて、それ自体は確かに素晴らしいと思いました。
ただ、僕の読後の感想としては、もう少しすっきりしたかったな、ということです。というのも、本作でどういう仕掛けが使われたのか、ということはもちろん理解できましたが、やはりそれはちょっと無理があると僕は思うわけなんです。どう無理だと思うのか、というのはもちろんネタバレになるのでここでは書きませんが、やっぱり不自然なんです。僕が『アリス・ミラー城』にいる探偵だとしたらそうはしないだろう、という行動を探偵たちは取らされます。それは、本作に組み込まれた大仕掛けのためには仕方ないことなんですけど、でもちょっとなぁという感じです。あぁ、ネタバレして、どう不自然なのか書きたいですね。
でも、確かに不自然で無理はあると思うんですけど、でもその中で最大限努力しているというのは伝わってきます。僕からすればその不自然さに目を瞑ることはちょっと難しいですが、でも小説として致命的に破綻しているということはありません。これだけの大仕掛けを、小説を破綻させずに組み込むことが出来たというのは、やはり作家の手腕何だろうなと思います。でも、やっぱりもうちょっと全体的な整合性があればよかったのになぁ、と思います。まあ、難しいでしょうけど。
ただ、この大仕掛けにはまず誰も気づかないだろう、と思います。僕は冒頭で、ちょっと変だなとは思ったんです。たぶんその部分は誰もがあれ?と思うんじゃないかなと思います。でもその後、著者がうまいこと進めていくので、その疑問を忘れてしまうし、自分の中で勝手に別の解釈をしてしまうんですね。このトリックに、読んでる間に気づける人はすごいなと思います。
本作では最後に動機も明かされますが、それがかなりぶっ飛んでて僕は結構好きですね。でも、こういう動機が納得できない、という人は少なくないと思います。僕はこの著者のデビュー作も読みましたけど、そこでも動機はとんでもないものだったような気がします。まあそういう作風なんでしょう。
「物理の北山」と呼ばれていますが、本作ではさほど物理的なトリックはメインとはなっていません。まあ、全体に組み込まれた大仕掛けがメインということでしょう。
密室が出てきますが、この密室のトリックは、古典的だなと思う一方で、よくこんなこと思いつくなという感じのするものでもあります。この両者は相容れないように思えるかもしれませんが、割とそう思う人は多いんじゃないかなと思います。もう少し書いておくと、密室への思想は古典的なんだけど、その手段が凄まじいという感じです。
鏡の部屋での殺人にもちょっとしたトリックがありますが、これはそう大したものではないですね。まあもちろん僕には思いつかないわけですが。
あと、衝撃的なトリックの欠片みたいなものが一つ出てきます。これはこれで面白いですけどね。
非常に難しい作品にチャレンジしたという部分は大きく評価できます。でもやっぱり、読後もう少しすっきりしたかったな、というのが僕の感想です。素晴らしい大仕掛けだけど、でもやっぱり不自然であることが否めない。もう少し全体の整合性みたいなものがきちっとしていたら、僕ももっと前向きに評価が出来るし、恐らく素晴らしい傑作になっていたのではないかなと思います。
本格ミステリを結構これまでも読んできて好きだという人は読んでみるといいかもしれません。本格ミステリを何か読んでみたいと思っている初心者の方は、何か別の作品を読んだ方がいいかと思います。

北山猛邦「『アリス・ミラー城』殺人事件」

連日ニュースを賑わせている話題がある。
医療事故だ。
ここひと月ほど、全国の医療機関で多数の医療事故が報告され続けている。ここひと月で報告された医療事故数は、ここ5年間で報告された医療事故数に匹敵する。突然医療事故が増えた、というわけではない。これまで隠されてきたものが表舞台に出てくるようになった、というだけのことだ。
それと時を同じくするようにして、インターネット上で大きく話題になっているホームページがあった。それは、死体の解剖写真が載っているものだった。
それだけでも充分問題だった。何せ死体の写真が載っているんだから。しかし、特に一部の人を驚かせたのはその部分ではない。そのサイトには、死亡診断書に記載されている死因と、実際解剖によって判明した死因が併記されているのだ。
つまりこういうことだ。現在日本の解剖率は2%台。ほとんどの死体は解剖されることなく、死体表面の所見によって死因が確定される。しかもそのほとんどが「心不全」「呼吸不全」だ。これは、「死因不明」と同義である。
サイトの運営者は、どういうやり方をしているのかは知らないが、解剖されることなく死因が確定した死体を入手し、それを独自に解剖しているようだ。恐らく葬儀業者と結託しているのだろうが、定かではない。
このサイトの存在は、厚生労働省としては大きな問題を孕んでいた。頻発する医療事故のニュースと相まって、日本の医療が崩壊しているということを世間に強く印象付けることになるからだ。警察もサイトの運営者を摘発すべく捜査を続けているが、未だ成果は上がっていない。
それは当然だ。黒幕は、もう死んでいるのだから。
今から20年前、一人の医師は日本の医療に絶望し、日本の医療を改革しようと誓った。まずはデータを集めた。葬儀業者を巻き込んで、火葬される前の死体を解剖し続け、写真と死因のデータを蓄積した。また同時に、全国の病院を回り協力者を集めた。彼らは20年後、時を見計らって同時期に医療事故を告発するという使命を帯びた。
医師は、蓄積した解剖データを基に運営されるホームページを作成した。足が付かないようにドイツにアパートを借り、そこに設置したパソコンから世界中のプロバイダを複雑に経由させた。また一日毎に解剖データがアップされるようにプログラムを組み、人の手を介すことなくサイト維持が出来るようにしておいた。
Xデーを決め、もうすぐその日が近いという時、その医師は事故に遭い死んでしまった。しかしその遺志は受け継がれ、医療制度を改革しようという人々によって計画は進められた。
半年後、厚生労働省が解体し、新たな医療系省庁を立ち上げることが新聞の一面に踊った。

一銃「日本の医療」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「チーム・バチスタの栄光」のシリーズの第四弾です。このシリーズは様々な人間をメインに据えて進んできましたが、本作で久々に田口と白鳥のタッグが復活です!やっぱり僕は、田口と白鳥のタッグは好きですね。「ナイチンゲール」とか「ジェネラル・ルージュ」とかも嫌いじゃないですけど、やっぱり「バチスタ」と言えば田口と白鳥、本作はもう滅茶苦茶面白かったですね。
物語は、東城大学病院長である高階に、万年講師であり、不定愁訴外来専従医師であり、また病院組織から独立したリスクマネジメント委員会の委員長でもある田口が呼び出されるところから始まります。なんと田口は今回、厚生労働省から呼び出されて、医療事故防止のための委員会創設のための検討会なるものに、リスクマネジメント委員長として意見を述べるように依頼されます。身に余る依頼だと固辞するも、明らかに白鳥からの差配と分かる露骨な依頼状を見せられ、田口は観念します。
厚生労働省の会議に出席するも、イマイチ噛みあわない議論。それもそのはず。厚生労働省は元々医療事故防止のためなんかに予算を与えるつもりなどなく、この検討会も、議論百出させ、空中分解させようという、ミスター厚生省こと八神という男の画策なのです。
厚生労働省の中では変人であり特異点とも呼ばれる白鳥は、しかし基本的には一般の利益のために動く男で、そのため八神の画策をなんとか防ごうとありとあらゆる奇手を繰り出す。田口を会議に招聘したのもその一環。田口はどうもいろんな人から、白鳥の懐刀だと思われているようで不満だ。
いつの間にか出世して厚生労働省の検討会なんかに出ている万年講師田口と、厚生労働省の特異点であり、エーアイ導入を目論む白鳥がタッグを組み、医療費削減ばかりに汲々とする厚生労働省と闘う。宗教法人によるリンチ事件や、本作中で『北』というコードネームで呼ばれる「ジーン・ワルツ」の事件なども絡んで来て、また彦根なんていう白鳥にも引けを取らない超人的なキャラクターが現れる、いやはや傑作ですな。
バチスタシリーズの中でもトップクラスに面白い、と僕は思います。やっぱり田口と白鳥のコンビが素晴らしいのもありますけど、彦根という、田口の大学時代の麻雀仲間がまたこれが素晴らしいキャラクターですね。詳しくは書けないですけど、本作で彦根が繰り出す弁舌はまあ素晴らしい。というかまあ正しいことを言っているんですけど、霞ヶ関ではどうにも正しいことが通らない。正しいことを通すには、白鳥や彦根のような変人が奇手を様々に繰り出して奮闘しなくてはいけない。おかしな世界だなと思います。
しかし本作のメインはなんといっても医療事故。これまでも海堂尊は様々な医療問題を小説の中で取り上げてきましたけど、今回はまさに、医療問題の指摘とエンターテイメントががっぷり四つに組んで見事なハーモニーを奏でている作品だと思いました。
対立構造は非常に複雑なんですね。霞ヶ関の力学は僕には到底理解できないでしょうが、でも海堂尊はそれを、僕みたいな政治オンチにでもなんとかついていけるような形にしてくれる。分かりやすいとはやっぱりいえないけど(それは現実の官僚がおかしいだけで、海堂尊は悪くないのだけど)、本作を読むと、医療事故に焦点が当たってはいるけど、広く日本の医療制度の崩壊について論じられていて、日本の医療がどう崩壊しているのかということがよく分かる内容になっています。
まず厚生労働省はとにかく医療費を削減したい。これが厚生労働省のメインです。彼ら官僚が目指すのはただこれだけで、あとは医療制度がぶっ壊れようがどうしようが関係ない。八神という、ミスター厚労省と呼ばれる男がまさにこのスタンスで、元々白鳥がやっていた検討会の梯子を外し、別の検討会を立ち上げ、議論を紛糾させ混乱させ、最終的に厚生労働省があらかじめ用意していた結論をメディアに提示しようと考えています。
そんな厚生労働省が主催者なわけで、検討会がうまくいくわけがないんですけど、ただ出席者はそれぞれの立場で真剣に議論しようと思っているわけです。しかしそのそれぞれの立場というのが、自身の既得権益を守ろうという方向でしかない、というのがどうしようもないですね。
検討会には二つの異なる解剖をメインに据えている学会の代表が出てくるんですけど、まずこの二つの学会が既得権益を守ろうといがみ合っている。しかし彼らの主張はどちらも似たようなもので、結局解剖を基礎におかなくてはいけない、というものです。解剖がなくなってしまうと彼らの既得権益はなくなってしまうわけで必至です。しかし現状では、解剖は全死亡例のたった2%に対してしか行われていません。なぜそんなことになっているかというと、国が解剖に対して予算を出さないからです。解剖は一体につき25万円かかります。解剖を一回する毎に25万円が病院の持ち出しということになるわけです。そんな利益にならないことを病院はしない、というのは当然の対応だと思います。
検討会には法律家も出てきます。しかし僕には、彼らの言っていることは良く分からなかったですね。法律にとって最も重要なことは法律の一貫性だけであって、あとはそれが現実に合っていようがいなかろうがどうでもいいのだろうな、ということだけは理解できましたが。
また検討会には医療事故遺族の代表もいます。彼らの主張は、もちろんちょっと無理だという部分もないではないでしょうが、基本的に普通の人が普通に考える普通の意見だと思います。しかし、それは決して反映されることはない。八神が遺族側の代表を検討会に組み入れたのは、田口をけん制するためだけです。遺族側の代表の一人に、バチスタ・スキャンダルの際に医師による殺人で死亡した患者の遺族がいます。白鳥から田口を検討会に引き入れることを打診された八神が、一応当て馬として遺族を組み入れたわけです。
さてそんな検討会で田口は、とある事情からエーアイの導入について意見することになります。というか元々白鳥が、エーアイを土台とした医療システムの構築を目指していたわけで、その駒として田口を引き入れたのだから当然と言えば当然ですが。
ここでエーアイについて少し説明しましょう。これは著者である海堂尊が実際に提言していることでもあります。「チーム・バチスタの栄光」で出てきたし、またブルーバックス新書から出ている「死因不明社会」という海堂尊の著書でも深く扱われています。
エーアイというのは、死亡時画像診断のことです。要するに、遺体のCTを撮りましょう、というものです。CTを撮れば、解剖せずに死因が分かるケースもあるし、もしそれでも分からないなら解剖をしましょう、という提言なわけです。
これが解剖と比べてどれだけ効果的かというのは明白です。まず解剖の場合は結果がわかるまでに半年近くの時間が掛かるようですが、エーアイはたった1時間。費用については分かりませんが、解剖が一体25万掛かるのに比べたら断然低いでしょう。また解剖の場合遺族の抵抗も出てくるでしょうが、画像を撮るだけなら抵抗感も薄まります。
というように明らかにメリットがあるわけなんですけど、医療費を削減したくて仕方ない厚生労働省は、利益を生み出さない解剖やエーアイに費用拠出をしません。今回は、このエーアイを基本導入できるのかどうか、というところが焦点であり、読みどころでもありますね。
読んでいると、官僚というのは本当にどうしようもない存在なのだろうなと思います。まあ別にどうにもしようがないんでしょうけど、官僚なんかに国の舵取りをされたらとんでもないことになるな、と思います。他の省庁についてはよくわからないし、本作で描かれている厚生労働省が現実とどこまで近いのかも僕は正確には分からないけど、でも僕の個人的な印象では、本作で描かれる厚生労働省の官僚というのはまさに現実なのだろうし、こんな人達に国が運営されているのだと思うと怒りが湧いてきますね。いやホント、誰か革命でも起こした方がいいかもしれませんよ。僕はやりませんけど(笑)。
本作を読むと、白鳥がものっすごっくまともな人間に思えるから不思議で仕方ないですね。「バチスタ」の時はあんなに変人だったのに。別に白鳥のキャラが変わったわけではないんです。ただ、白鳥のいる場所の背景が変わっただけなんですね。錯視と同じで、背景が変わるだけで、白鳥というキャラクターががらりと別物に変わってしまうのは本当に読んでて面白かったです。白鳥みたいな官僚が現実にいないですかね。いないでしょうねぇ。
本当に面白い作品なのでまだまだ書こうと思えばいくらでも書けそうですが、しかしちょっと今日は時間がないので、後は本作で面白いなと思った部分を抜き出して終わりにしようと思います。
まずは厚生労働省の次官が局長に向かって言った、官僚というものの存在について。白鳥みたいな人間は官僚であってはいけない、という話の続きです。

『官僚には不動点や特異点は存在してはならない。特異点は取り替えが利きません。官僚の大いなる美点は、いつでもどこでも誰とでも相互交換ができること。システム運営する誰かが、取り替えの利かない存在に成り果てたら、その人と共にシステムが滅びる。だから我ら官僚は、顔のない、誰もが同じ造作の、無限増殖を繰り返す存在に徹しなければならないのです』

なるほど、これは面白い意見だなと思いました。

もう一つは、田口のクレーム処理について。田口は不定愁訴外来という、患者の愚痴を聞く専門なのだけど、最近はモンスター・ペイシェントという無茶苦茶な文句を言うような人間が増えた。その対応もさせられているのだ。それに対する田口の対応の仕方。

『たとえば、「診療順を飛ばされた」というクレームを延々と言い続ける中年女性がいた。不定愁訴外来に回された当初、マシンガンのように自分が蒙った不利益をまくしたてた。俺はうなづきながら相手の目を見、聞いていますよ、とサインを送る。三度目、四度目になると、さすがに相手もワンパターンの俺の対応に気がつく。
「ちょっとお、聞いてるいるの?」
彼らのクレームは必ずこう変容する。そこで俺は、彼らが主張したことをまったく同じように繰り返してみせる。彼らは俺の言うことにいちいちうなずく。俺が語るのは彼らの主張なのだから、当たり前だ。人間とは不思議で、どんなに怒っていても、うなずくという肯定的行為をしながら怒りを持続させることは難しい。俺は、相手がいいと言うまで、相手のクレームを丁寧にリピートする。彼らはうなずき続けるが、やがて「もういいわよ」と呟く。そしてすっきりした顔で、「今回は許してあげるけど、次に同じ目に遭わせたら訴えるわよ」と捨て台詞を吐き、不定愁訴外来を後にするという寸法だ。』

なるほど、ブラボー。僕のいる本屋にもたまに無茶苦茶なことを言ってくる人がいるから参考にしてみよう。でもこれ、時間掛かるだろうなぁ。田口は、早く終わらせようとするから難しく思えるんだ、と言っているけど、まあ確かに。
というわけで、本作はとっても面白いです。またエンターテイメントとしてだけではなく、日本の医療制度について詳しく知るという点でも非常にうってつけの作品だと思います。素晴らしい作品なので、是非読んでみてください。

海堂尊「イノセント・ゲリラの祝祭」

カヌーだけが唯一の趣味だ、と言ったら、贅沢なんだかつまらない男なんだかよくわからないよね、と言われた。
妻と出会った頃の話だ。
結婚して10年経った今でも、それは変わっていない。僕の趣味はカヌーだけで、今も週末になればカヌーを漕いでいる。近くにカヌーにぴったりの川がある。というよりも、そういう川を見つけてその近くに住んだ、という方が正しい。今では妻もカヌーをやるようになって、一緒に過ごす時間が長くなっている。
言ってしまえば、ただ川を下るだけのことだ。しかし、ゆったりとした流れの中で、自分の力だけでカヌーを動かす。これはいつまで経っても止められるものではない。
いつものように妻と二人で準備をし、カヌーに乗り込んだ。よく晴れた日で、川もいつものように穏やかだ。周りの見慣れた景色を楽しみながら、妻と二人で静かに語らう。
突然、カヌーが沈み始めた。いや、実はそうではなかった。突然、川が真っ二つに分かれたのだ。川の真ん中に道が出来ていくかのようだ。僕らはその道に向かってどんどんと沈み込んで行った。
そうやって僕らは、竜宮城に辿り着いたのだった。

一銃「カヌー」

今日は時間がなかったので、いつも以上に適当なショートショートになりました。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、シリーズの六巻目です。ライトノベルを六巻も読むなんて僕の中では初で、未知の領域ですね。
前の巻では、レノスの町で毛皮を巡る騒動が持ち上がっていた。いろんなことがあって(ネタバレになるから書けない)ロレンスとホロはとりあえず窮地を脱したのだけど、ただホロの気は収まらない。ホロは何としても、ロレンスと同じ旅商人であるエーブを追いかけてとっちめてやらないと気がすまないのである。
というのは表の理由。前の巻で二人の関係が危うく壊れそうになってしまったのを利用して、うまいこと話を持っていったのだ(これもネタバレになるから詳しく書けない)。
まあとにかくロレンスとホロはエーブを追いかけることにした。エーブは恐らく、川を下ったケルーベの町に向かったはずだ。今から追いつけるかどうかは分からないが、とにかく船で後を追うことにする。
船での旅の途中、ロレンスとホロは行きがかり的に一人の少年を助けることになる。コルという名のその少年は実によく働き、聡明だった。コルの故郷の話、コルの窮状、船乗り同士の噂。そんな断片的な話をいろいろ耳にしたロレンスは、ホロと旅を続けるために、次の目的を見出すことになるのだけど…。
というような話です。
このシリーズは、経済っぽい話をメインにしながら主人公二人がいちゃつく話なんだけど、本作では経済っぽい話はほとんど出てこなかったですね。ほんの少し出てくるんですけど、どうやらそれもお預けみたいですし。本作は、次の巻に繋げるための間の巻という位置付けなんだろうなと思います。
それは、コルというキャラクターの登場についても言えそうですね。コルは実に良い少年で、ホロにけしかけられたこともあるけど、ロレンスは本当に弟子にしたい、と思う瞬間もあるくらいです。でもコルはコルなりの目的があって、それを邪魔するわけにもいかない。ロレンスたちを船に乗せてくれた船長も同じくコルを気に入ったようで、非常に魅力的なキャラクターなんですね。これからもコルはストーリーに関わってくるようですけど、どうなるのか非常に楽しみですね。
相変わらずロレンスとホロはいちゃついているわけなんだけど、この巻からはまたちょっと趣が変わるんですね。前の巻でロレンスが捨て身かつ致命的なことをホロに言ってしまうために、ホロに永続的な弱みを握られることになってしまうんですね。まあやりとり自体はこれまでと変わっていないけど、その永続的な弱みが加わってちょっと面白くなっている感じもします。
まあ何にせよ、次の巻に期待ですね。これからの旅がどういう風に展開していくのか、というのが楽しみです。経済っぽい話が出てこなくてそれはちょっと残念だったけど、次の巻で経済っぽい話を結構出すとあとがきに書いてあったので期待しようと思います。
にしても、シリーズ物の感想を書くというのはなかなか難しいですねぇ。シリーズを読んでいない人に対してネタバレにならないように注意しながら内容について書こうと思うわけで、なかなか大変です。まあ別にどうってことはないんですけどね。

支倉凍砂「狼と香辛料Ⅵ」

僕の身体は、大きな音を立てて海面にぶつかり、そのままゆっくりと沈んでいった。
海面にぶつかった時、もう僕は死んでいた。何故か?それは重要な問題ではない。僕は死体として、深い海の底を目指してたゆたっていた。
何だか心地よかった。僕には、自分が既に死んでいるという意識はない。何だか気持ちがいい。息が出来ていないはずなのに苦しくもない。身体が軽くなったようで、まるで羽でも生えているかのようだ。だが、やはり身体は動かない。それは、ちょっとどこかがおかしくなってしまっているからだろう、と僕は思っていた。死んでる、なんて思う暇はなかった。
僕は随分長く水の中にいるような気がする。もう周囲は真っ暗で、真っ暗な中にいるということしかわからない。時折発光生物が目に入る。あれはイカだろうか?僕の方に向かってくる。かなり大きい。深海に住むというダイオウイカだろうか?
その生き物は、僕の身体目掛けて泳いできた。僕はぶつかる、と思った。僕の喉を目掛けて泳いでいるみたいだった。
でも、何故かぶつかることはなかった。まるで僕の身体を通り抜けたかのように、あるいは僕の身体がなくなってしまったかのように。
しばらくして、明るい部分に辿り着いた。何によって光が与えられているのかはイマイチ分からない。が、そこにあるものは明白だった。
人間の目だ。
人間の目だけが集まってとてつもなく大きな集団を形成している。ざっと数えただけでも10万個は超えているだろう。目玉一つを米粒として、全体がおにぎりのように見えた。そう思うと、黒目がゴマに見えてくる。
<ようこそ>
突然声が降って来た。それは頭の中に直接響いてくるような奇妙な声だった。
そしてその声を聞いて僕は理解したのだ。僕も目だけの存在になっているのだ、と。
<きみも、僕たちと一緒になろう。ここでは、それが正しいことなんだ>
僕もそんな気がしてきた。僕は目だけになりながら、その集団にフラフラと近づいて行き、生まれた時からやり方を習得していたかのように、彼らと一体化した。

一銃「深海」

そろそろ内容に入ります。
というわけでお久しぶりです。約一週間ぶりの感想になりますかね。とにかく本作が長くて長くて、読むのに異常に時間が掛かってしまったわけですね。文庫本上中下で、計1650ページというとんでもなく長大な物語なわけです。なかなか読み始めるのに気合が必要な本ですね。
で、あまりにも長い作品なので、作品の内容紹介を短く書くのがほぼ不可能です。しかもネタバレ的な要素も多分にあったりするので、今日はちょっと手抜きをして(時間がないし、眠いということもあるし)、文庫の表紙裏に書いてある文章をそのまんまコピーして書こうと思います。
ノルウェー海で発見された無数の異様な生物。海洋生物学者ヨハンソンの努力で、その生物が海底で新燃料メタンハイドレードの層を掘り続けていることが判明した。カナダ西岸ではタグボートや穂エールウォッチングの船をクジラやオルカの群れが襲い、生物学者アナワクが調査を始める。さらに世界各地で猛毒のクラゲが出現、海難事故が続発し、フランスではロブスターに潜む病原体が猛威を振るう。母なる海に何が起きたのか?
異変はさらに続いた。大規模な海底地滑りが発生、代津波が起きてヨーロッパ北部の都市は壊滅してしまう。この未曾有の事態を収拾すべく、ついにアメリカが立ち上がった。女性司令官ジューディス・リーのもとに、ヨハンソン・アナワクら優秀な科学者が世界中から集められ、異変の原因を探り始める。だがその矢先、フランスを襲った病原体が奇怪なカニの大群によってアメリカの大都市に運び込まれ、パニックを引き起こした!
科学者たちは異常な行動をとった海洋生物が共通の物質を持っていることを知る。そしてヨハンソンは、一連の事態が起きた原因をようやく突き止めた。その仮説を証明すべく。ヨハンソン・アナワク・リー司令官らはヘリ空母に乗りこみ、グリーンランド海に向かう。そこで彼らが目にした想像を絶する真実とは何か?最新科学情報を駆使し、地球環境の破壊に警鐘を鳴らす―ドイツで記録的なベストセラーとなった脅威の小説。
という感じです。
なかなか話題作で、こんなに長い作品なのに、新刊で出た時から結構売れていました。すごいもんですね。ドイツ語で出版された原書は、重さが1.1キロだったそうです。ちょっとしたダンベル並ですね。
さすが話題になるだけあって、相当面白い作品でした。とにかく、長さ以外の部分でもかなり読み応えのある作品です。
まず、全編科学的な知識によって裏づけされているという点が素晴らしいですね。本作では、ありとあらゆる自然現象を、その仕組みや原理を科学的に説明しながら描写していきます。これはすごいですね。例えば、津波がどういう仕組みで発生して、どんな風に様々なものを破壊していくのか。あるいは地球を周回する海流がどうなっているのか。あるいは、深海で発生したガスが海上の船にどんな影響を与えるのか。とにかく、ありとあらゆる場面で、どんな細かな場面でさえも、科学的な説明による描写が必ずなされます。それは確かに、読んでてあまりにイメージ出来ないが故にちょっと退屈な部分も出てはくるけど、しかしこれだけありとあらゆる分野についてきちんと調べて書かれた小説というのはそうはないだろうからすごいと思いました。取材に四年の歳月を掛けたんだそうです。僕からすれば、四年でこれだけの広範囲に渡る科学的な知識を集めて理解して整理できるなんてホントにすごいなと思いますけど。
また本作では、現実的には起こりそうもない様々な現象や状況が描かれます。例えば先ほども書いたとんでもない規模の津波とか、メタンハイドレード層を掘り続ける新種のゴカイの出現とか、病原菌の仕掛けられたロブスターやカニの出現や、あるいはネタバレになるからここには書けないいろんなことがまあ描かれるわけなんですけど、どれもちょっと現実的には起こりそうもないですよね。でもそういうものについても、もし起こるとしたら科学的に考えてどういう風に起こるべきか、あるいはどういう風であるべきか、という考察がとにかくすごいですね。もちろん全部を理解出来るわけじゃないんだけど、著者がきちんと考えているんだというようなことは伝わってきます。
また本作では、オーバーテクノロジーは出てこないんですよね。本作は、ジャンルとしてはSFに分類されると思うんだけど、SFというと光速に近いスピードで飛べる宇宙船とか、タイムスリップする機械とか、そういう現在の科学ではありえないテクノロジーが出てきますね。しかし本作ではそういうことはありません。もし現実に本作に描かれているようなことが起きたら、本作で書かれていることは技術的にはすべて実行可能なことばかりなんですね。もちろん科学をベースにして書いている小説だから当然かもしれないけど、なかなか頑張っているなと思いました。
そもそも本作では、実在の人物が描かれたりしているようです。本作に出てくる一部の科学者については、実名で描かれます。実際その人物が所属する研究所も描かれ、そこで日々どんな研究をしているのか、という描写がされるわけです。なかなか斬新ですよね。本作は様々な文学的な賞を多数受賞しているわけなんですけど、その中でも最も特異なものが「ドイツ地球科学者協会賞」です。これは地球科学という学問を世間にアピールした個人あるいは団体に与えられる賞で、文学賞ではありません。それが、SF小説に与えられたわけで、本作がいかに啓蒙的であったかということがわかるというものです。
取材力や設定だけでなく、ストーリーについてもなかなか深く練られています。普通本作のような作品では、メインとなるストーリーを追いかけることが重要で、そのために登場人物が動かされたりするような印象の作品が結構あったりします。必要なストーリーに合わせて登場人物が動いてるなぁ、みたいな。
しかし本作ではそんな印象はまったくありません。もちろんメインのストーリーは常に深く描かれますが、そうではない、登場人物個々人の話についてもかなり言及しています。本作はかなり登場人物が多い作品なんですけど、そのそれぞれについて個人的な背景をきちんと持たせ、それについて割とページを割いています。特に、本作中でも特にメインとなるキャラクターであるヨハンソンとアナワクについては顕著で、特にアナワクに関しては、メインのストーリーとはほとんど関係ない自分の出自に関する部分にかなりページが割かれます。僕としてはその部分はちょっと退屈だったんですけど(笑)、しかしそうやってただストーリーを追うだけではなく、キャラクターをきちんと描いていこうという著者の姿勢は素晴らしいと思いました。
また巧いなと思ったのは、科学的な説明をしなくてはいけない場面の描き方ですね。本作では、どうしても一般の人が知らないような難しい科学的な知識について描写しなくてはいけない場面が多々出てくるのだけど、その処理が巧いと思いました。科学者同士で喋っているだけだと、お互い知識があるわけで、その科学的知識について会話の中では出てこないですね。本作は一人称の小説ではないので、字の文で書くわけにもいかない。だから登場人物に語ってもらうしかないんだけど、これはかなり色んなパターンがありました。二人の専門家の会話の場面に、一方の恋人が同席していて、その恋人にも理解出来るように話をしたり、あるいはある研究所で子供向けのセミナーが開かれている時に、その子供に説明をしている描写をするとか、そういう処理をしているんですね。これは結構苦労したんじゃないかなと勝手に想像をしますけど、なかなかお見事ではないかなと思います。
ストーリーは大まかに前半と後半に分けられます。ヨハンソンが、世界中で起きている異変に対してある仮説を持ち出すところが境目になるのだけど、でもその部分まで結構長いんですよね。これが欠点といえば欠点ですね。大体中巻の三分の二くらいまで読まないとその仮説が出てきません。それまでは、世界中でありとあらゆるトラブルが起きまくって、さてそれにどうやって対処しようか、そしてこれは一体どういうことなんだろうってパニクっているという描写なんですね。僕は小説を読む時何も考えないで読むんですけど、もしかしたら人によっては、このヨハンソンが提示することになる仮設になんとなく行き着く人もいるかもしれませんね。
で後半に入って、タイトルにもある「Yrr」についても何なのかという話がようやく出てきますが、この「Yrr」についてはほんとによく考えられていますね。「Yrr」が何なのかについてはここには書けませんけど、ここでされている「Yrr」についての考察は良く出来ていると思うし(きちんと理解出来ているかは別として)、実際ありえなくもないかもしれないと思いました。面白いことを考えるものです。
で後半はかなりハリウッド映画的な展開がバンバン繰り広げられることになりますね。危機に次ぐ危機って感じで、なかなか慌しいです。ただ後半、何だかやけに説明的な部分が多くなる(と僕が思う)箇所があって、そこは僕的にはちょっと退屈な感じはありました。
長い小説なんで書こうと思えば書くことはいろいろありそうですけど、そろそろ眠いし疲れて来たんでそろそろ終わりにしようと思います。
訳者あとがきによれば、本作は映画化が決定しているようなんですけど、それはちょっとさすがに無理があるんじゃないかなと思います。だって、こんなに長い話をどうやってまともな形で映画にするんでしょうね。無理ですよ。10時間ぐらい上映時間が必要なんじゃないでしょうか。
そんなわけで、まあとにかく長いし外国人作家の作品だしSFだしで、普通に本を読む人でも尻込みしそうな作品ですけど、そこを何とか乗り越えて読み始めてしまえば、あとは最後まで一気読みだと思います。難しいところも多少は出てくるけど、まあそれはそれで何とかなると思います。奇想天外な発想を、科学的知識で頑丈に包み込んだSF作品です。是非読んでみてください。深海というのは、宇宙よりも遥かに遠い場所だということがよくわかる作品です。

追記)amazonでは、訳がよくない、という評価がちらほらありました。僕は外国人作家の作品をあんまり読んでないのでなんとも言えませんが、確かに硬いなとか読みにくいなと思う部分は多かったように思います。訳で作品の評価が下がってしまうのは哀しいものですね。

フランク・シェッツィング「深海のYrr」

ここ最近の医療技術の進歩は目覚しい。それ自体はいいことだ。ブラボー。
でも、それに反比例するようにして、僕の仕事はどんどん楽しくなくなっていく。
やりがいがないとか?実感に欠けるとか?いや、そういう話じゃないんだな。とにかく、つまらないんだよ。
だってさ、身体にほんのちょっと穴開けてさ、そこからワイヤーをちょちょいって伸ばしてさ、ささっと手術なんか終わっちまうんだぜ。どうしょもねぇよ。何が楽しくて、そんなつまらん手術をせにゃならんのだ、っつーの。
とはいえ、仕事だから仕方ない。契約だから仕方ない。僕はそんな退屈な手術だって、もちろん手を抜くことなくちゃんとこなしている。
だから、久々に自分の<獲物>を前にして、僕は今興奮してるんだ。
「手術を開始します」
周りもみんな分かってるだろうな。ほら、看護婦長だって麻酔医だって、どうせやるんでしょ、みたいな顔してるし。ええ、やりますとも。やりますともさ。これだけが楽しくって仕事をしてるもんでね。もちろん文句を言うやつはいない。そういう契約だからだ。
交通事故に遭ったらしい。とにかく外見いろんなところがぐちゃぐちゃだった。顔も腹も手も足も。とりあえず開腹して、臓器をあっちこっち処置してやらなきゃいけない。
この腹を開くってのがさ、いいよね。楽しいよね。
僕は誰にも真似できないほどのスピードで次々と処置を終わらせていく。これだけの精度とスピードを兼ね備えた外科医なんて、日本に数えるほどしかいないだろう。だから、僕のわがままだって少しは通る。特権ってやつさ。
緊急の処置があらかた終わり、とりあえず一息ついた頃。僕はポケットから、滅菌フィルムに包まれた<それ>を取り出した。
患者の肋骨を探り当て、そこに<それ>を貼り付ける。
シール式の刺青だ。貼って剥がすと、刺青に見える模様が皮膚に残るっていうあれ。それを僕は、患者の骨に貼る。これが僕の趣味。別に貼ったところでどうなるものでもない。二度と見ることは出来ないだろうし、そもそも骨だって日々作り変わっているんだから、しばらく経ったら痕跡すら消えてしまうだろう。
でも、誰にもつけることの出来ない場所に刺青を残すことが出来る。それが快感なんだ。止められないね、こりゃ。
僕はウキウキした気分を抱えながら、残りの処置を続ける。これで君も、僕の印を抱えながら生きていくことになるんだよね。そう心の中で語りかけながら。って、あは、僕って気持ち悪い?

一銃「知らない内に」

そろそろ内容に入ろうと思います。
庵堂家は昔から、<遺工師>という仕事を代々受け継いでやっている。
遺工師とは、遺族の希望に沿って、死体の骨や皮を使って身近なもの(箸やかんざし)などを作る職人である。亡くなった人間の思い出を残しておきたい、いつまでも一緒にいたい、という遺族の希望を叶えるのである。
庵堂正太郎は庵堂家の長男であり、7年前に死んだ先代である父親に引き続いて遺工師の仕事をやっている。死体を解体しながらつねに独り言をいい続け、不眠不休で死体の相手をし続け、外に出る時は耳を汚されたくないからと言って耳栓をするという変人。周囲からも他の兄弟からも変人だと思われている。
庵堂久就は次男。今は東京で一人で住んでいるのだが、兄正太郎から、父の七回忌には帰って来いとつよく言われ、無理矢理二週間ほどまとめて有給休暇を取り、千葉の実家に戻ってきた。営業の仕事に向いていなく、日々ささくれた感情に冒されているのだけど、こっちに戻ってきたら来たでトラブルに巻き込まれて落ち着く暇もない。
庵堂毅巳は三男で、とんでもない暴力者。汚言症という、「糞」だの「カス」だのと言った暴言を本人の意思とは無関係につい口に出してしまう病気を持っている。本人にも押さえがたい衝動が内へ外へと向き、かつては手のつけられない存在だった。今では汚言症も随分落ち着き、正太郎の仕事を手伝うまでになったが、付き合っている女のことでトラブルがあり、毅巳はどんどん昔のように暴力的に壊れていってしまう。
正太郎は今超特大の依頼を抱えているために、受注を一旦ストップしその仕事にかかりきりになっている。しかしそんな折、かつて因縁があったとある暴力団組織から超難度の仕事が舞い込み…。
というような話です。
作品の話を書く前に、まず著者について。
この著者、今割と注目されているんですね。というのも、今年一年だけで、一般公募系新人賞(つまり、まだ作家ではない人が応募しデビューの足がかりにする新人賞)を四つも受賞しているからです。以下リストアップしてみます。
「地図男」でダ・ヴィンチ文学賞大賞
「庵堂三兄弟の聖職」(本書)で日本ホラー小説大賞
「RANK」でポプラ社小説大賞特別賞
「東京ヴァンパイア・ファイナンス」で電撃小説大賞銀賞
という感じです。

この内、ダ・ヴィンチ、ポプラ社、についてはまだ創設されて間もない歴史の浅い賞なので少しはハードルが低い(江戸川乱歩賞やすばる文学新人賞なんかに比べたらということですが)し、電撃に関してはライトノベルの賞なのでまた別としても、本書で受賞した日本ホラー小説大賞というのはなかなか伝統と権威と歴史のある賞で、かなりすごいと思います。
というのもですね、日本ホラー小説大賞というのは、他の新人賞とは一線を画す賞なんです。普通の新人賞は、応募作のなかから最もいい作品を選ぶ、という形式ですが、日本ホラー小説大賞だけは、日本ホラー小説大賞としてのレベルを超えていない作品には受賞させない、というポリシーがあるわけです。つまり、大賞受賞作なし、という年もあるということなんですね。実は、去年一昨年と大賞は出ていなかったようなんです。なので、日本ホラー小説大賞を受賞するというのは、ある一定以上のレベルを超えていると判断されているわけで、他の新人賞の選び方と若干違うわけなんですね。
しかしまあ、どんな賞であれ、一年でこれだけ受賞できるっていうのは尋常じゃないですね。著者略歴のところに書いてありましたが、デビュー前は毎月1作品の新人賞応募を自らに課していたのだそうです。いやいや、毎月新人賞に応募するとか、頭おかしいですから。一年で12作書くってことですよね。まあそれだけ書いていれば文章や構成力のレベルも上がるだろうし、となればデビューは当然だったのかもしれませんが。
というわけで作品の話に戻りましょう。
本作はホラーの賞を受賞していますが、解説でもあるように、ホラーという感じの作品ではありません。ちょっと前に読んだ「地図男」は古川日出男に似ていましたが、本作はちょっとだけ舞城王太郎に似てるなと思いました。ほら、例えば舞城王太郎の「煙か土か食い物」とかだって、ホラーだと言われれば言えなくもない、みたいな感じじゃないですか。本作もそういう感じで、ホラーじゃないんだけど、まあホラーの範疇に入れてもオッケーかなという作品です。
ストーリーの展開とキャラクターの造型がうまいと思いましたね。これは、「地図男」でも同じことを思いましたが。
ストーリーは正直言って、これというようなメインの軸がないんですね。例えば本格ミステリみたいに、殺人が起きてその犯人を探す、みたいなそういう分かりやすい一本の軸みたいなものはないわけなんです。三兄弟が久しぶりに顔を揃えたっていうところからの彼らの日常を追っていくだけなんだけど、でもうまいんですね。三兄弟それぞれが微妙にトラブルやトラブルの種や不満やなんかを抱えていて、初めの内はそれが独立に進行していくんだけど、段々とそれが重なり始めていくんですね。伏線が綺麗に回収される、みたいな話ではないんですけど、読んでいく内に、あんなに無茶苦茶だった話がよくここまでまとまったな、と思うくらい収束していきます。その辺りも、舞城王太郎っぽい気がしました。
キャラクターも実に面白いですね。久就は三兄弟の中で最も平凡な男なんだけど、正太郎と毅巳はすごいですね。正太郎は死体と添い寝し死体に語りかける変人で、また弟二人を気に入っている兄バカである。正太郎が死体を解体したり加工したりする場面はなかなかグロくて、そういう描写がダメな人は苦手かもしれません。しかしまあ、よく調べていますね。遺工師なんて、実際にはありえない仕事をリアルに見せるために、身体の組織について、あるいは実際に遺工師が存在したらするだろう手順やテクニックについてかなり詳細に書いています。これは相当調べないと書けないでしょうね。あとは想像力。すごいなと思います。
毅巳は、とにかくその暴力的な衝動の爆発が凄まじいですね。それによって毅巳自身だけでなく兄弟や彼らの面倒を見ている四万木という男をほとほと煩わせる。でも、毅巳の真っ直ぐダッシュ、猪突猛進という感じは結構好きですね。僕は絶対そういう風には生きられないので羨ましいなと思ったりもします。僕は本作に出てくる美也子という女性に非常に似てると思いましたね。余談ですけど。
文章のテンポもすごくいいですね。また書きますが、ホント少しだけ舞城王太郎っぽいんですよ。もちろん舞城王太郎の方がはっちゃけてますけど。リズムがあって、なかなか特徴的な文章だなと思います。
ただ一つ難点は、多視点の小説だということですね。一つの章の中で視点が三兄弟の間をどんどんと移っていく。僕は別にこういう小説でも普通に読めますけど、最近の人というのはこうやって視点がバンバン移っていく小説は読みにくいんだそうで、自分もそうだと思う方はちょっと苦手な部類かもしれないですね。
「地図男」と比べたらどっちがいいかと聞かれたら、微妙な差で「地図男」に軍配を上げると思いますが、本作もなかなかレベルの高い面白い作品だと思います。機会があれば、他の二作も読んでみようと思います。これからが楽しみな作家ではありますね。

真藤順丈「庵堂三兄弟の聖職」

中里徹の自宅に誘拐の電話が掛かって来た時、彼はまだ研究室にいた。使用人から緊急の連絡が入り、一人娘である可南子が誘拐されたことを知ったのだ。
中里徹は、世界的に有名な毒物学者だった。毒物に関する世界的権威である。トリカブトから、人体を一時的に仮死状態に出来る成分を検出したことで、2年前ノーベル賞も受賞している。生化学的に非常に重要な発見で、仮死状態における人体の性質を研究するのに大いに役立った。また余談ではあるが、中里が検出した成分こそが、南米でよく出没したといわれるゾンビの正体だろうということだ。一時的に仮死状態に陥らせる成分を飲ませ、蘇ったように思わせていたということだ。
製薬会社と終身契約をしている中里は、莫大な金を持っていた。専門的な学術誌で特集が組まれたり、ビジネス誌の表紙を飾ったりすることもある。科学者としては珍しく露出の多い男だった。恐らくそのために狙われたのだろう。
中里は、研究とは別に趣味で毒物を作り出すことに喜々としていた。飲んで一週間後に効くとか、血液と反応して毒物に変化するものなど、いつどうやって使うのかも分からないようなものを作っている。彼を良く知る人間は、彼のことを変人と呼ぶが、本人はそれを気にしている風もない。
娘が誘拐されたと聞いた中里は、特に慌てることもなく自宅に戻った。まあ大丈夫だろう、可南子なら。そうは思ったが、一応準備しておかなくてはいけないことがある。
要求は、現金で1億円。まあそれぐらいならくれてやる。どうせ使えないだろうけど。使用人が既に警察に連絡をしてしまったようで、自宅では逆探知機の設置などが急ピッチで行われていた。
中里は、自宅にある研究室にこもり、誘拐犯に渡す紙幣にある細工をした。まあこれも保険だけど。準備は整った。後はまあ、警察がやってくれるだろう。
二日後。可南子は戻ってきた。まあ予想通りだ。可南子から知らせを受けた警察は、誘拐犯のアジトに乗り込んだようだ。恐らくそこで死体を見つけていることだろう。
「何故誘拐犯は死んだのかね」
同じ日、刑事の一人にそう聞かれた。
「簡単なことです。誘拐犯に渡す紙幣に、唾液に反応して毒物に変化する液体を塗布したんです。お金を数える時に、指をなめてしまったんでしょうね」
「でも、犯人がお金を数える時指を舐めなかったらどうしてたんだね」
「いや、まあだから賭けだったんですよ。絶対うまく行くなんて思ってたわけじゃありません」
(まあ、ホントのことが言えるわけがないけどな)
中里は心の中でそう呟く。
(まさか遺伝子操作によって、可南子の唾液が毒物そのものだなんてことは、言えないわなぁ)

一銃「誘拐犯の不運」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、講談社が二年近くの年月を掛けて動く超特大企画、『書き下ろし100冊』の第一弾として発売されたものです。どんな企画かは名前の通りで、とにかく著名な作家100人に、書き下ろしで100点の小説を書いてもらうというものです。
本作は、「正義のミカタ」に次ぐ、久々の本多孝好の新刊になりますね。
30歳を超えて、人生がどうでもよくなった。別にこれと言って特別なことがあったわけでもない。会社ではひたすら事務仕事ばかりをやり、キャリアを積めてきたわけでもない。特に嫌な仕事だというわけでもないけど、別に面白いわけでもない。
結婚も、もう諦めた。私みたいな綺麗でもないし取り得もないような女は結婚できないだろうし、もしよしんば結婚したいという男性がいても、それは妥協の産物だろう。妥協されてまで結婚したくはない。
誰でも抱えているような孤独なのかもしれない。自分だけが寂しいわけでもないだろう。それでも、誰からも求められず、誰からも愛されず、容易に未来を想像できてしまうような生活に、もうこれ以上耐えられなくなってしまったのだ。
死にたい。
人気のない公園でそう呟いた時、謎の人物が彼女の元へやってきてこう囁いた。
「本当に死ぬ気なら、1年だけ待ちませんか?ちょうど1年後またここに来れば、1年間頑張ったご褒美をあげましょう。苦しまないで死ねる方法を差し上げましょう」
それもいいか、と思った。1年は、今の私からすると長い。しかし、我慢できないこともないだろう。それで、苦しまずに死ねる方法を手に入れられる。悪くない。
彼女の、死へのカウントダウンとも言うべき1年が始まる。
一方で、とある週刊誌の記者が、毒物を使った自殺に興味を示している。死ぬべきタイミングから1年以上を経て、何故彼らは自殺したのか。そして、何故服毒自殺だったのか。自らの取材対象が自殺したことの罪悪感から始まった調査は、やがて一人の女性の深い孤独を引きずり出していくことになる。
というような話です。
まあ悪くはない、という感じの評価ですね。どうも絶賛する気にはなれない、こう言っては申し訳ないけど中途半端な作品だなと思いました。
面白くないわけではないんですね。なかなかよく出来ている作品だと思います。週刊誌の記者の方のパートはちょっと退屈だったけど(やっぱり何かを調べるだけというのは、ストーリーの展開のさせ方としてなかなか厳しいものがありますね。もう少し、他の二人の自殺者についての話を広げてもよかったかもしれません)、後1年で死ぬ女性の方のパートはなかなか面白かったですね。特にボランティアで、事情があって親と一緒に暮せない子供たちの面倒を見る辺りからはなかなか面白くなっていきます。ありきたりかもしれないけど、そこで彼女は変わっていくんですね。彼女の中でのその変化は、1年後に死ぬという決意を変えるものではなかったけど、でもボランティアとして子供たちと触れ合うことで、自分が死ぬことの意味を見出せた、というその過程が重要なのだと思います。そこに至るまでの女性の心情の変化みたいなものはなかなか面白いと思いました。
ただ、やっぱり微妙なんですね。中途半端というか。作品にケチをつけたいわけでもなく、それはつまり、これぐらいの作品だったら本多孝好じゃなくても書けるよな、と思ってしまうんですよね。
だから、作品としてのレベルは充分だと思うんですけど、それが本多孝好の作品のレベルに届いていない、みたいな感じです。やっぱり「Missing」「Moment」「FINE DAYS」なんかを読んでいる読者からすれば、本多孝好という作家にはどうしても大きな期待をしてしまうんですね。でも、僕が期待したレベルには届いていないという感じなんですね。だから、何が悪いというわけでもないし、こっちの期待がただ大きいだけなんだろうけど、ちょっと残念な感じもします。
僕は、本多孝好はやっぱり短編をメインに書くべきなんじゃないかと思うんですよ。僕はこれまで本多孝好の作品をすべて読んできましたけど、長編は正直あんまりレベルが高くないような気がします。一方で、短編は凄いですね。お見事、というような作品が数多くあります。短編が本多孝好の原点になるのかどうなのかはよく分からないけど、とにかく原点に戻って短編を書いて欲しいなと僕は思ったりするわけです。
作品としては決して悪くないと思います。この作品に、誰かあまり知られていない新人の名前がついていたら、おぉこの新人すごいじゃん、ともちろん思えるような作品です。でも、やっぱり本多孝好はもっと高いレベルにいるはずなんですね、少なくとも僕の中では。だからこれからも頑張って欲しいな、と思います。

本多孝好「チェーン・ポイズン」

追記)amazonでは割といい評価のようです。僕の評価が辛すぎるのかなぁ。

いまや地球上に住んでいるのはロボットだけになってしまった。
もともと彼らは、人間の補助ロボットとして開発された。家事や介護全般、あるいは力仕事複雑で精密な仕事など、様々なことを代理で行うために存在していたのだ。
しかし、とあるきっかけで人間が地球上から絶滅した。強力なウイルスが世界に蔓延したのだ。ウイルスの影響を受けないロボットだけが生き残ったということだ。
彼らは、仕える相手である存在がいなくなったので、そのまま機能を停止してもよかった。しかしやはりというべきか、そうはならなかった。彼らはロボットだけで社会を作り上げるようになった。元々人間にとって必要な仕事のほとんどは彼らロボットが代わりにやっていたのだ。ほんの僅かなきっかけさえあれば、社会が生み出されるのは必然だった。
ロボットだけで社会を作り始めてから数百年という年月が経った。
今ではロボットは、死の概念さえも取り入れている。これはある時点で意識的に導入されることになった。死のない社会は、停滞を引き起こすということを彼らは知ったのだ。もちろん、本当に死ぬわけではない。部品を交換すれば、ボディ自体はいくらでも長持ちする。しかし、ある一定期間で意識を一旦止め、リセットし、まったく新しい人生を一からやり直す、そういう仕組みが出来上がったのだ。
その仕組みが出来上がってからしばらくして、ロボットたちはようやく死の概念というものを受け入れた。というかその解釈は、生まれ変わりと同じだった。自分の存在が一旦終わり、また新たな存在として生まれ変わる。彼らの間では、それが死という概念の理解であった。
一つ誰にも分からなかったのが、生まれ変わる際の意識は何によって決定しているのか、ということだ。新しい意識は、統合組織委員会という名前の組織が提供するということになっていたが、しかしこの組織に所属しているロボット一体もいなかった。この組織は完全に自律的に成り立っており、委員会という名前を持った、ただの無人の工場だった。
ロボット達は、恐らくランダムに決定されているのだろう、と考えていた。生まれ変わる際の意識を委員会がランダムに決定し、それを提供しているだけだ、と。
彼らは決して知ることはなかったが、統合組織委員会は決してランダムに決定をしているわけではなかった。彼らはある一定の規則に則って、生まれ変わった後の意識のデータを決定していたのだ。
それは、機能停止までにそのロボットがどんな『検索』をしていたか、に依存する。ロボット社会では、『検索』こそが最大の情報収集法であり、かつ最大のコミュニケーションツールであった。どんな言葉で『検索』を行ったのかがすべて統合組織委員会に収集され、その検索語に依存して意識が決定されるのである。
そうとは知らないロボット達は、『検索』によって卑猥な画像を見、『検索』によって殺人犯の情報を集め、『検索』によって社会の秘密を暴こうとする。
検索語という遺伝子が、ロボット社会を席捲しつつあった。

一銃「ロボット社会」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「モーニング」という週刊漫画誌に連載されたという、割と異例の発表のされ方をした、伊坂幸太郎の最新長編小説です。
本作も他の伊坂幸太郎作品と同じく様々な要素が絡まって普通に内容紹介をするのがなかなか難しいので、ちょっと変わった形で概要を紹介しようと思います。
主人公の渡辺拓海はシステムエンジニアで、膨大な仕事を無理な納期でこなさせせようとする無茶な上司のいる会社に勤めている。渡辺は上司から、今進めているプロジェクトから外れて、ゴッシュとかいう会社の仕事をやるように言われる。それは、上司であり会社一有能であった五反田正臣が手掛けていたはずだが、上司曰く、五反田は逃げたらしい。何故?仕様書を見る限りそのゴッシュの仕事は、五反田でなくとも楽勝のはずの仕事に思えるのだが。

ゴッシュの仕事を一緒にやっていた同僚である大石倉之助は、ゴッシュのシステムに異常な部分を見つける。出会い系サイトのHPであると仕様書にはあるが、システム上に暗号化されている部分がある。何だこれは?五反田が残してくれた手掛かりを元に、彼らは仕事そっちのけでそのHPについて調べることになるのだが。

渡辺佳代子は、世の中で浮気だけは許せないでいる。これまで二人旦那がいたが、一人は交通事故で死亡し、一人は行方不明になっている。旦那の渡辺拓海がそれについて聞くと、「浮気したからよ」と答えが返ってくる。

渡辺拓海は、会社の同僚である桜井ゆかりと浮気をしている。結婚とは、一に我慢、二に辛抱、三、四がなくて五がサバイバルだと思っている渡辺は、もちろん浮気をすることなど考えたこともない。でも違うのだ。桜井ゆかりとは、運命があったのだ。運命にやられてしまったのだ。そうでなければ、浮気なんてするわけないじゃないか。

岡本猛は、拷問をする。暴力を振るうのが仕事だ。爪を剥いだり、指を切ったり、そういうことだ。何故そんなことをするかと言えば、それが仕事だからだ。岡本は、椅子に縛り付けた相手を見ながら、こう言う。
「勇気はあるか?」

井坂好太郎は作家だ。渡辺拓海の友人でもある。浮気ばっかりしている男で、女に目がない。書いている作品も軽薄なものばかりで、何故売れているのか分からない。ただ、渡辺は何かあると井坂に相談をしに行く。井坂は今、あることについて取材をしている。それを元に、これまでとはまるで違う小説を書いている。

永嶋丈は、播磨碕中学校事件の際、用務員だった。今は国会議員である。

というような話です。まあ内容紹介にはなっていないですけどね。でも、まあ大体こんな感じの作品ですね。
さすがは伊坂幸太郎、という作品です。相変わらず無茶苦茶面白いですね。単行本で500ページを超す分量なんですけど(見た目ではそこまで長い小説には見えないのでちょっとびっくりでしたが)、次が気になって気になって仕方ない展開で、まさにページを捲るのももどかしい、という感じでした。
本作は、「魔王」の続編という位置付けの小説ではありますが、基本的に「魔王」を読んでいなくても充分楽しめる内容になっています。もちろん、「魔王」との関係性は出てきますし、それは設定上なかなか重要な部分と関わっていますが、ただストーリーを理解する上では特に問題はないでしょう。もちろん僕は「魔王」の内容をかなり忘れてしまっているので、もっと深い関連性みたいなものがあるのかもしれないけど、どうでしょうね。
舞台としては、「魔王」から50年後というような設定です。大体2060年くらいですね。その世界は、今よりもほんの少しだけテクノロジーが進んでいます。ただ、空飛ぶ車が発明されたとか、火星に人類が到着したというようなものではなく、携帯電話が登場したみたいなそういうレベルの変化であって、基本的に僕らが住んでいる世界とそう大差あるわけではありません。
そんな世界の中で、ただのシステムエンジニアであった主人公とその周りの人間が、日本の暗部、というか大いなる陰謀、というか世の中の仕組み、というかまあそういうものに肉薄していってしまう話ですね。こうかくと、なんだかもの凄く荒唐無稽っぽいですけど、伊坂幸太郎は荒唐無稽なものをすごくリアルっぽい雰囲気に変換してしまうので、冷静に考えれば無謀なことでも、読んでいる最中は全然そんな風には思わないですね。寧ろ、こういう社会が実際にやってきてもおかしくはないな、という感じがしました。
本作はミステリというわけではないですけど、でもミステリ的に捉えると非常に面白い構成だなと思いました。何せ、真犯人は○○という話ですからね。そんな荒唐無稽で無茶苦茶な話をいかに説得力のあるストーリーに仕立てあげるか。その部分が伊坂幸太郎っぽくてかなり好きですね。「魔王」は正直あんまり好きになれなかったんだけど、本作は相当面白いです。
本作で中心に描かれていることをここで書くわけにはいかないですけど、でもそれは一面の真理なのだろうな、と感じました。本作で中心に描かれていることを非常に回りくどく表現すると、「何故ヒトラーは生まれたのか」という風にも書けるんですけど、それに対する答えとして本作で提示されたものは、すぐに受け入れられるものではないでしょう。しかし、誰もがそうと気づいていないだけで、実は世の中はそういう風に回っているのかもしれない、と本作を読むと納得しそうになりますね。すごく面白いテーマだと思うし、っていうかよくもまあそんなテーマをこんな面白い小説として昇華できたなと、相変わらず伊坂幸太郎の作家としての力量に感服する次第です。
セリフ回しやキャラクターの個性なんかも相変わらず際立っていますね。伊坂節とでもいうべき独特の会話は相変わらず面白く読みました。特に僕は、本来であれば緊迫感のあるシーンのはずの場面で交わされる気の抜けた会話が好きです。そこを敢えてシリアスにしないことで伊坂幸太郎らしさが出るし、実際リアリティがあるという風に僕は感じられたりします。
キャラクターで言えば渡辺佳代子が好きですね。ちょっと無茶苦茶過ぎるし、っていうか怖すぎだけど、そのズレてる部分だとか無謀な部分みたいなのが、読んでる分には非常に楽しいですね。もちろん身近にいられたら怖いし、っていうか自分の妻だとしたら恐ろしすぎますけど。
それぞれのキャラクターがそれぞれ独特の個性を持って行動したり喋ったりしているのが楽しいですね。
ただ僕的にちょっと納得いかない部分もあったりするんですよね。これまでの伊坂作品だったら、絶対そこ何らかの説明があるんじゃないか、という部分をほったらかしにしているような気がするんです。例えば、渡辺佳代子は何の仕事をしているのかとか、桜井ゆかりは何者だったのか、というような部分です。僕は、伊坂幸太郎ならこういう部分に何か面白い説明をつけてくれるんじゃないかなと思っていたので、ちょっと残念だったなという部分はあります。まあそれで作品全体が損なわれているなんてことはありえないですけどね。
あとがきで伊坂幸太郎も書いていますが、本作は「ゴールデンスランバー」と同時期に執筆されていたため、両作品は雰囲気が非常に似ていますね。特に似ているのが、社会全体が管理されているという設定ですね。どちらも、現在の日本とはちょっと違った世界を舞台にしていて、そこで管理あるいは監視されることについて取り上げています。作家になって、周囲から注目されるようになった経験が何か関わっているのかな、と勝手に思ったりしますが、まあ別にそんなことはないでしょうね。純粋に、今の世の中はいつだってこういう風になりえるんだ、ということを示そうとしたのでしょう。
本作は通常版と限定版が発売されています。限定版の方には、連載時に掲載されていた挿絵がすべて載っているそうです。ただ僕は、装丁としては通常版の方が好きですね。工場の写真がバンと使われていて、かっこいい感じです。
伊坂幸太郎の渾身の新作です。今年の初めに「ゴールデンスランバー」を読み、今年の終わり付近で「モダンタイムス」を読んだことになりますが、どちらも今年の僕の中でのベストに入ってくることでしょう。これで、またしばらくしないと伊坂幸太郎の作品が読めないのかと思うと非常に残念ですが。ただ、じっくりと作品を書いて欲しいと思うので、ファンとしては気長に待とうと思います。本作も他の伊坂作品に劣らず傑作です。是非読んでください。

追記)amazonでは、かなり辛い評価をつけている人がたくさんいました。なかなか万人に受けいれられる作品というのは難しいものなのでしょうね。

伊坂幸太郎「モダンタイムス」

ついにこの日がやってきてしまった。センター試験、当日だ。
会場についた僕は、周囲を見渡し、そしてほくそえんだ。周りの連中は焦っていやがる。ギリギリまで問題集を片手に必至で暗記だ。ご苦労なことだ。僕は全然問題ない。余裕であることをアピールしようと、鼻歌でも歌ってやろうかと思ったくらいだ。
ここ二週間ほどまったく勉強はしていない。
それでも、まったく問題ないのだ。僕は、参考書など一冊も入っていないバッグをポンと叩いた。この中に、二週間一度も開けていない筆箱がある。その中には、一本鉛筆が入っているはずだ。
ちょうど二週間前のこと。センター試験の勉強の追い込みでイライラしていた僕は、ちょっと気晴らしにと思い、真っ暗な中散歩に出かけることにした。空気も星空も綺麗で、寒ささえも清々しいような夜だったのに、僕の心は試験への不安に駆られて一向に落ち着かなかった。
そんな時だった。彼女に出会ったのは。
都会にはよくいるという話を聞くが、彼女は初め占い師のように見えた。街頭で、しかもこんな寒い中占い師をしているような人間はこの辺にはいないので、すごく違和感があった。
ただ占ってもらうってのもアリかな、と思った。財布は持ってきてなかったけど、いざとなれば逃げればいいし。
そこでもらったのが、今バッグに入っている鉛筆なのだ。
センター試験が近くて不安だ、僕は試験に受かるだろうか、そんな話をしたところ、彼女はひと言も喋ることなく一本の鉛筆を取り出した。
「何か問題を出しなさい」
「は?」意味がわからなくて、僕は聞き返した。
「何でもいいから問題を出しなさい」
何でもいいからって言われても困るけど、その時ちょうど勉強していた英語の問題を出してみた。
「選択肢は?ないの?選択肢のある問題にして」
なんだか注文が多いなぁ、と思いながら、今度は社会の問題を出した。
「じゃあ、いい、見てて」
彼女はそういうと、鉛筆を手から離した。六角の鉛筆はコロコロと転がり、しばらくするとある面を上にして止まった。そこには「2」と書かれていて、それは先ほど出した問題の答えの選択肢の番号と同じだった。
もちろん僕だって、初めは信じなかった。しかし、それから何度やってもその鉛筆は正解を導き出すのだった。
「これをあげるわ」彼女はそう言った。その時には、僕はもうすっかりその鉛筆の虜になっていた。
「ホントですか?」
「ええ。ただし注意が一つ。今から試験当日まで、決してこの鉛筆に触ったり目にしたりしないこと」
「わかりました。大丈夫です」
そう言って僕は彼女から、小さな筆箱に入れられた鉛筆をもらったのだった。
この鉛筆があれば試験はばっちりだぜ。何せ正解の番号を教えてくれるんだからな。満点でも取っちゃおうかなぁ。僕はそんな余裕しゃくしゃくなことを考えていた。
試験がもう始まるというタイミングで、僕はようやくその鉛筆を筆箱から取り出した。
何だこりゃ?
鉛筆の六角の面はすべて「1」と書かれていた。これじゃあどうしようもないじゃないか。いくら鉛筆を転がしても「1」以外出ない。
嵌められた…。どんなトリックを使ったのか分からないけど、あれは嘘だったんだ。この鉛筆にはなんの力もないんだ…。
どうしよう…。全然勉強してない。センターで酷い点数取るわけにはいかないのに…。
僕は絶望的な状況で、試験を始めた。

センター試験がすべて終わってすぐ、新聞にこんな記事が載った。
「センター試験。全科目、正解の選択肢すべて「1」。受験生不安に駆られ満点逃す」

一銃「一発勝負」

いつの間にかうたた寝をしていたようで、なかなか驚くような時間になっていました。しかも変な体勢で寝ていたので変な感じです。やっぱり土曜日は眠いぞ、と確認した次第。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、受験数学界で結構有名な人らしく(自身でも受験数学の問題を多々作問されています)、また数学に関する一般向けの著作も結構多い著者が書いた一風変わったホンです。どう変わっているかというと、これまで入試数学を『攻略』するための本というのは数多く出版されているのに対して、入試数学がいかに作られているのかという側の本というのはほとんどなかったからです。著者はこれまで30年以上にわたって入試数学の作問と採点を担当してきた経験から、入試数学の作問者がどんな風に考えて問題を出題しているのか、ということをメインに話が進んでいきます。
本書の構成としては、いろんな問題形式やジャンルなどについてそれぞれどういうことに気をつけて作問されているのかということについて触れ、またそれに関する具体的な例となる問題が提示されます。そして最後に各章のまとめで、受験数学の作問者にはこういう風な問題を作ってもらいたい、学習指導要領はこうであるべきだ、というような提言がなされます。
本書を読んで、なるほど作問者はこんなに苦労をしているのだな、ということが分かりますね。作問者が問題を作る前に考えることというのは、学習指導要領の範囲外になっていないか(苦情の電話が来ないかどうか)、問題形式から重大なヒントを与えてしまっていないか、簡単な裏技によってすぐ解けてしまわないか、というようなことがメインになりますね。
学習指導要領の範囲内なのかどうかというのはものすごく気を使うようですね。例えば本作では、数ⅢCが範囲外の試験でも出すことの出来るある具体的な問題が提示されます。その問題は、数ⅠAⅡBの知識で解くことは出来ます。しかし、数ⅢCの知識があればより早く解くことが出来るというのも確かです。そういう場合、一般の方から「この問題は数ⅢCの知識を使わなくてはいけない問題なのではないか」という苦情が来るかもしれません。大学の方にだけそういう問い合わせが来るならいいんですけど、そういう人は大抵マスコミにも連絡をします。マスコミの人は文系の人が多いですから、大学側がいかに数ⅢCの知識なしで解けるのだと説明しても理解してもらえないでしょう。だから、そういう苦情が<来そうな>問題はなかなか出題出来ないようです。
またこんな例も載っていました。まったく同じA・Bという問題があって、でも問題の提示の仕方が少しだけ違います。Aでは問1と問2が独立している表記ですが、Bでは問1の結果を用いて問2の答えを出すように誘導があります。しかしそういう表記をした場合、Aは出題可能ですが、Bは出題出来なくなってしまう例というのがありました。ほんの少し表記を間違えるだけで学習指導要領を外れてしまうわけで、なんとも大変だなと思います。
あと本書を読んで僕が本当にびっくりしたのが、マークシート問題における裏技です。これはビックリしました。マークシート形式の問題の内時々、具体的な数字を変数に代入することで、通常の式変形をせずに答えを知ることが出来る方法があるんです。驚きましたね。本書には帯がついてるんですけど、この帯に書かれている問題もまさにそれで、具体的な数字を代入することで解けてしまいます。
問題を書いてみましょうかね。『x^2』という表記は、『xの2乗』を表すものとします。

『xyz=1,x+1/x=a,y+1/y=b,z+1/z=cのとき、
a^2+b^2+c^2-abc=□である』

□に入る数字を答えるマークシート問題なわけですけど、これがマークシートではなく記述式の問題であれば、上記の式をうまく式変形して値を求めなくてはいけませんが、マークシートであれば答えだけわかればオッケーです。その場合、与式にx=1,y=1,z=1を代入すると(これはxyz=1を満たす)、a=b=c=2となります。つまり答えは、2^2+2^2+2^2-2*2*2=4となります。
僕は本当に受験生の頃でも、こんな知識はありませんでした。本書では他にも、マークシート問題に関してのみ有効ないくつかの裏技が書かれていますが、僕も受験生当時知っていたかったなと思いました。それともこういうのは常識なのかなぁ。
またベンフォードの法則という、統計における有名な法則について書かれている箇所もあります。これもマークシートに関しての話で、答えとなる二桁の数字で、10の位の数字はいくつになることが多いか、という話です。なんというか、面白いことを考えるものです。
本書では、受験数学では有名なロピタルの定理やハミルトン=ケーリーの定理についても触れています。著者は、これらの高校数学では習うことのない定理を用いて解答をしても減点されることはない(少なくとも著者がこれまで関わってきた入試では減点されることはなかった)と書いています。しかし常にカッコ書きで、「ただし特に指定のある大学は除く」と書かれています。つまり、こういう定理を使って解答した場合減点する、とあらかじめ決めている大学があって、そういう大学入試では減点されるということです。どの大学入試で減点されるか分からないので使わない方が無難でしょうが、どうしても分からなければ使って解答すればかなり高い確率で点数がもらえることになります。ただ著者は、二行ニ列の行列はわざわざハミルトン=ケーリーの定理を使うまでもないので普通に解きましょう、と書いています。
驚いたのは、かつて著者が関わった大学入試で、y=mxに関する回転体の体積を求めさせる問題を出した際、『斜回転体の体積公式』という、数学者でもほとんど知らないような公式を使って解答した受験生がいたようです。採点者はあちこち調べまわって、ようやくある参考書にその記述があるのを発見し、その解答は正解として扱ったのだそうです。学習指導要領外の知識はなるべく使わない方がいいでしょうが、困ったら使ってみると高い確率で点数がもらえそうです。
後は、インドの入試問題なんかも出てきます。インドというのはとにかく数学の出来る国で、それによってIT大国へと変貌を遂げました。日本とインドでは何が違うのかということを検証しつつ、日本もインドのような学習方法に切り替えるべきだという提言をしています。
本書を読むと、僕ももう少し前の世代の数学を習いたかったなと思いました。数学の学習指導要領というのはコロコロ変わっていますが、特に数ⅠAⅡBⅢCという分け方になってからは特にダメになっています。他の分野との関連性が断ち切られているし、教わらなくなったことも数多くあります。著者は、昭和40年代から50年代にかけての数学の指導要領は今よりは遥かによかったと書いていて(当時の入試問題の質もよかったそうです)、その頃の学習指導要領に戻すべきだと書いています。僕も、その頃の授業を受けてみたかったですね。僕は数学は好きでしたけど、やっぱりイマイチ深く理解することが出来ませんでした。もう少し大局的な視点で数学を教わっていたら、もう少し違っていたかもしれないなと思うと残念です。
最後に。この問題はちょっと凄いなと思ったものがあるのでそれを書いて終わりにしようと思います。しかしこれ書くの大変なんだよなぁ。

『次の式を因数分解せよ。
(x+y+z)(-x+y+z)(x-y+z)
+(x+y+z)(-x+y+z)(x+y-z)
+(x+y+z)(x-y+z)(x+y-z)
+(x-y-z)(x-y+z)(x+y-z)』

僕なら、ある程度の工夫をしつつも、やっぱり展開していくでしょうね。それ以外に思いつきません。
しかしこの問題の解答は凄いですね。僕には絶対に思いつきません。

『与式にx=0を代入しても、y=0を代入しても、z=0を代入しても、その値は0になる。したがって与式は、xでもyでもzでも割り切れることになる。よって与式は三次式xyzで割り切れるが、与式そのものは三次式である。
したがって、与式=k*xyzと表せることになる(Kは定数)。
ここで、x=y=z=1の時、与式=3+3+3-1=8でなくてはいけないのでK=8と分かる。すなわち与式を因数分解した結果は8xyzである。』

説明されれば分かりますけど、こんなん自力で思いつけますか?僕にはまず無理ですね。すごいなぁ、と思ったわけです。
まあそんなわけで、受験生なんかは読んだら面白いと思うし、数学に軽く興味のある人が読んでも面白いと思います。なかなかないタイプの本なので読んでみてください。

芳沢光雄「出題者心理から見た入試数学 初めて明かされる作問の背景と意図」

もう学校には行きたくない。
毎朝電車に乗っていると、そう思う。もう嫌だ。今日こそは休んでしまおう。今日くらい行かなくたって困りはしないだろう。そうだそうだ、休んでしまえ。
それでも僕はなかなか学校を休めない。根が小心者なのだ。先生に怒られるかもしれない。お母さんに怒られるかもしれない。そう思うと、辛くて辛くて仕方ないのだけど、それでも身体だけは学校に向かっている。
しかし、ついに限界がやってきた。
いつもは山手線の品川駅から電車に乗って原宿駅で降りるのだけど、その日はそのまま電車に乗り続けた。山手線の車内にずっとい続けたのだ。一周約一時間。朝から夕方までずっといたから、10周くらいしたかもしれない。
それから毎日同じことをした。学校からお母さんには連絡が行っているはずだけど、お母さんは僕には何も言わなかった。心配そうな顔もしなかった。僕は逆にそれで助かった。心配なんかされたら、どうしていいかわからなくなってしまう。
毎日朝からずっと山手線に乗り続けていた。何をするというわけでもない。時々ゲームをしたりマンガを読んだりするけど、後はずっと立っているか座っているかだった。
吉田くんが話し掛けてきたのは、そんな生活を始めて二週間くらい経ってからだったと思う。
「君も学校に行けないの?」
吉田くんのそう話し掛けられて、それから僕らは電車の中でよく話すようになった。
吉田くんも僕と同じで学校に行けなくなっちゃったみたいで、僕と同じようにずっと電車に乗っている。吉田くんは家でパソコンを使うみたいで、インターネットを通じて自分と同じような子供が結構いることを知っていたみたいだ。だから電車の中でそれらしい子供を探していた。たぶん僕はその一人だろうと思って声を掛けたようだ。
それを聞いて僕は思った。そんなにたくさん仲間がいるなら、声を掛けて集まっていけばいいんじゃないかって。
それから二人で頑張って、同じような仲間をどんどん増やしていった。しばらくすると噂を聞きつけた子が仲間に入れて欲しいと言ってくることもあって、どんどん数は増えていった。
もうその頃にはいろんな学校の先生とか駅員さんとかも僕らのことを知っていたようだ。いろんな学校の先生がよく電車に乗ってきて説得をしに来たけど、僕らは知らん顔して無視していた。ずっと電車に乗っているのは本当はいけないことなんだろうけど、駅員さんはみんな結構優しかった。まあいいよ、いたかったらいつだっていなさい、みたいな。なるべく一番前か後ろの車両に乗ってくれって言われたけど。そこだと乗客も少ないし、駅員さんの目も届くから安心なんだとか。
僕らは電車の中でいろんなことをしていた。ただ喋っていたり本を読んだり勉強したりしていた。なるべく他の乗客の迷惑にならないようにということだけは気をつけていた。学校で勉強するのは嫌だったけど、電車の中でなら楽しかった。
状況が大きく変わったのは、僕が電車にい続けるようになって四ヶ月ほど経った頃だったと思う。
僕が通っていた中学校の先生が僕らのいる車両にやってきたのだ。僕らは、また来たのかと思ってうんざりしたのだけど、先生は乗り込んで来るなりいきなりこう言ったのだ。
「先生も仲間に入れてくれない?」
もちろん僕らは初めは信じなかった。大人が僕らの仲間に入りたがるわけがない。僕らの仲間になったフリをして、何かやろうとしてるんだ、って。でも先生の話を聞いている内に信じてもいいんじゃないかって思うようになってきた。
先生は学校の中で嫌がらせのようなものを受けていたようだ。しかも他の先生達からである。生徒からは人気のある先生だったけど、そのせいで嫉まれたりとかしていたのかもしれない。先生は何だかそんな生活に疲れてしまって、それで僕らのことを思い出したのだという。
「数学と英語ぐらいだったら教えてあげられるわよ」
それで決まった。先生は僕らの仲間になった。
あれから三年経った。今では「車内授業」というのは日本全国数多くの路線で行われるようになった。主に学校に行けなくなってしまった不登校の生徒が中心であるが、一方で塾のような機能も果たしている。乗客のあまり多くない路線では、鉄道会社から車両一つ丸々提供してもらえるケースもあるようだ。
あれは僕が始めたんだ。誰にも口に出して言うことはないけど、僕はそれを少しだけ誇りに思っている。

一銃「車内授業」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、作家・村上春樹が、未曾有の大惨事である地下鉄サリン事件の被害者・関係者62人に直接取材をし、そのインタビューを記録した作品です。62の中には、軽症だった人もいれば重症だった人もいるし、普通のサラリーマンもいれば営団地下鉄の駅員もいるし、亡くなった被害者の遺族の方もいれば、重症を負った被害者の家族の方もいます。また被害者ではないけれど、オウムと関わった弁護士であるとか、当時被害者を看た救急医療の医師であるとか、PTSDに悩まされる被害者を観ている精神科医とか、松本サリン事件の際に治療を行った医師なんかにもインタビューをしています。どんな境遇の人であれ、地下鉄サリン事件と何らかの形で関わり、かつインタビューが本になることを了承してもらえた方すべての人の体験が本作に収録されています。
既に事件発生から13年が経ちました。僕もまだ小学生でしたね。というかこの3月20日というのは、小学校の卒業式の日だったんでよく覚えてるんですね。あと、麻原が逮捕されたのが中学校の遠足の日だったというのもよく覚えています。
一応どんな事件だったのか書いておきましょう。
事件は1995年3月20日月曜日、翌日に春分の日を控えた日に起こった。営団地下鉄各線の車両内で、ビニール袋と新聞紙とで二重に包まれたサリンの液体を、先の尖った傘の先で袋を破ることによって漏出させ、気化したサリンガスにより死者11名、重軽傷者多数という未曾有の大惨事となる。
僕も当時テレビでニュースをいろいろ見ていたと思いますけど、何だかんだで何が起こったのかというのはよくわかっていなかったと思いますね。それはまあ皆そうで、しばらく経ってようやく何だったのか分かってくる。それくらい、起こること自体がありえない事件だったわけです。日本はその二ヶ月前に阪神大震災という大惨事も経験しているわけで、立て続けに起こったこの二つの出来事は、当時の日本に大きなダメージを与えました。
僕が本作を読もうと思ったのは、佐木隆三の「慟哭 小説・林郁夫裁判」という本を読んだからですね。この作品は、地下鉄サリン事件の実行犯の一人である林郁夫の逮捕からその後の裁判に至るまでを、オウム裁判をずっと追いかけていた著者が事実を元にして小説風に仕上げた作品で、なかなか興味深いものでした。僕にはオウムという宗教団体はまったく理解できない存在ですが、しかし林郁夫の主張というのはまだ分からなくもない、という印象を持ちました。非常に優秀で真面目で、我慢強い。そんな人がどうして地下鉄サリン事件なんていう大それたことをしてしまったのか、そしてまだオウムが地下鉄サリン事件を起こしたと知られる前にどうして自ら実行犯であることを告白し、残りの実行犯をすべて教えることにしたのか。逮捕されてから裁判に至るまでの心境の変化。もちろん僕は地下鉄サリン事件にはほんの僅かも関わっていないからこそこんな風に思えるのだろうけど、少なくとも林郁夫はまだ人間として救いがあるし、僕の理解出来る範疇にいるなと思いました。
その作品の中で、本書がほんの少しだけ紹介されていました。これまで村上春樹の著書に「アンダーグラウンド」というのがあるというのは知っていたし、たぶん地下鉄サリン事件を扱った作品だというのも知ってたと思うんですけど、それまでは特に興味はなかったんですね。でも、地下鉄サリン事件を起こした犯人側からの話を読んだので、では被害者側からはどんな風に見えていたのだろうかというのが少しだけ興味が湧いてきました。
本作は文庫本で800ページ弱あるのでなかなか読み通すのは大変ですが、かなり興味深い作品だと思いました。
まず村上春樹が何故こういうことをやったのかというのが興味深かったですね。それについては、あとがきに当たる「目じるしのない悪夢」という文章の中で書かれているはずなんですけど、僕にはなかなか難しくて(国語の教科書に載っている評論文みたいな文章で、苦手でした)よく分からなかったんですけど、でも村上春樹がこの仕事をしたというのは非常に大きいと思います。というのも、普通のノンフィクションライターなんかが同じことをしても、なかなか後世には残らないと思うんです。やはり本は売れないと残らないものなので。しかし村上春樹はビッグネームですから、本作も長いこと残り続ける本でしょう。風化させてはいけないという点では、村上春樹という名前は非常に大きいと思います。
また、どんな事件においてもそうでしょうが、地下鉄サリン事件の被害者もマスコミの取材攻勢にはかなりうんざりしていたようです。そこにノンフィクションライターが突っ込んでもなかなかここまでのインタビューは取れなかったかもしれません。文章を書く仕事をしているけどマスコミとは遠い村上春樹という聞き手が、これだけのインタビューを集めたのではないかと思います。
62人分の様々な体験が書かれているわけですが、やはり個人個人で様々な事情や感じ方があるのだなと非常に強く感じました。その日たまたま会社に早く行くことになっていたから事件に巻き込まれた、年に一度しかその電車に乗らないという日に事件に巻き込まれた、あるいはたまたまちょっと遅れて行ったからサリンがまさに載った車両に載らずに済んだ、という話は様々にありました。また、オウムに対して怒りを感じるかということについても意見は様々でした。ただ全体的に、あまり怒りを感じないという意見の方が多かったように思います。
そうだ、これを書いておかなくてはいけないですけど、本作は「インタビューが本に掲載されてもいい」という人の話しか載っていません。当然ですが。もちろん本作に載っていない被害者の方が多いし、また後遺症が重ければ重いほど口も重くなるでしょう。なので本作に書かれていることが、「地下鉄サリン事件の被害者の一般像」ではありえないということですね。僕は常にそれを意識して読みました。もちろん、それによって本作の価値が変わることはありえませんけど。
62人の様々な人の話が載っているわけなんですけど、そのほとんどの人に共通していると言う点が少なくとも僕は四つあると思いました。これはなかなか興味深い点だと思います。
まずは、インタビューを受けた方は何らかの仕事をしている人が多いんですけど、そのほとんどの人が、事件後非常に体調が悪くなりながらもとりあえず会社に行くか、あるいは会社には行かなくてはいけないと思って会社に向かっているということですね。これはほとんどの人がそうでした。呼吸も苦しくて、歩くのも限界という人でも、とりあえず会社には行かなくては、という発想がまず第一に来る。これは凄いなと思いました。日本人は勤勉だというけど、これはその一例としてカウントしていいんじゃないかと思います。欧米なんかで同じ事件が起きたらどうなんでしょうね。そう考えると、とにかく会社にはいかないとという発想は、こう言っては失礼ですけど、非常に滑稽だと僕は感じました。
二つ目は、サリンというのは本当に特殊なガスだということです。サリンは無味無臭(ただ多くの人は形容しがたい匂いがあったと語っていますが)で、吸ったところですぐどうなるというものでもありません。呼吸が苦しくなったり、瞳孔が小さくなることで風景が暗く感じたりするのが主な症状になりますが、本作で話をした多くの人が、初めはちょっと体調が悪いだけなんだろう、と思っているというのが興味深いですね。ある人は、まさにその日コートを脱いだのだそうだけど、そのコートがないからこんなに寒くて体調が悪いんだ、と思いました。ある人は前日に酒を飲みすぎたからこんなに気持ち悪いんだと思いました。ある人は低血圧だと、ある人は前の日から引いている風邪のせいだと、ある人は花粉症なのかなと、そんな風に思っているわけです。で多くの人が、まあだからそんなに問題はないだろう、と思ってサリンの充満している車内や構内から出なかったんですね。そのせいで被害はどんどん拡大して行ってしまった。しかも初めはなんともなかったのに、後からどんどん体調が悪くなっていく。僕もその場にいたら、すぐさま逃げようだなんて思わなかっただろうし、このサリンというガスの特性が被害を大きく拡大させたのだなと感じました。
なお数人は、何か液体状のものが広がっているのを見て「サリンではないか」と直感したそうです。ちょっと前に松本サリン事件が起きていたとは言え、そこまで瞬時に直感できる人は凄いものだと思いました。
三つ目は、車内にしても駅構内にしても、まったく危機感というか混乱がなかったということです。
これも多くの人が証言していますが、例えば目の前で奇声を上げる人がいたり、数人がまとめてバタバタ倒れたり、あるいは手足を痙攣させている人がわらわらいて、そういう人を目撃するわけです。でもほとんどの人が、「何か大変なことが起こっている」とは考えないんですね。ある人は、奇声を上げている人はちょっとおかしな人で、男女で倒れているのは痴漢スプレーのせいで、痙攣している人はてんかんの症状なんだろう、と思ったと語っています。また別の人は、車両内で明らかに異臭がして、かつ多くの人が咳き込んでいるのに、誰も何も喋らず、特に何の行動もしなかったと言っています。
これは読んでて非常に不思議でしたね。目の前でたくさんの人が倒れているし、ものすごく多くの人がゴホゴホ咳をしているのに、何かが起こったのだという風には感じない。でも、もしかしたら僕もそうだったかもしれません。大きな爆発でもあれば分かりやすいけど、サリンというのはほとんど匂いがなくて、しかも吸った直後に症状が現れない。だから、周辺の事態を一つの出来事として捉えられず、また自分の身に変事が起きてもそれを先ほどみた人と結び付けられないということになるのかもしれません。ただこの誰も危機感を持っていなかったという証言は非常に新鮮でした。
最後は後遺症についてです。どの人にも後遺症について聞くわけですが、物忘れが激しくなったとか目が悪くなったとか集中力がなくなったとかそういうことを言います。しかしその後で、年を取ったからかもしれませんけど、という風にほとんどの人が言うんですね。特に年配の方はそうです。
これが非常に厄介なわけです。見た目に何か障害があることが分かれば周囲もそれと分かるけど、サリンの場合後遺症がなかなか周囲に理解されない。頭が痛い、眠れない、目がすぐに疲れる、集中力がない、疲れやすい、そういうのは仕事をしている人間としては言い訳にしか聞こえないものばかりですね。他人が分かるような症状じゃないので、なかなか理解してもらえない。これが結構辛いみたいです。確かにそうだろうな、と思います。サリンの被害というのはこれまで報告がないわけで、どんな後遺症があるのかも当時は正確に分かっていない。そういう不安ももちろんあるでしょう。サリンは肝臓を痛めるからと言われて酒を止めた人もいます。子供に遺伝するのか心配している人もいます。そういう、はっきりしないことへの不安というのも、後遺症の一つと言えるでしょうね。
読んで面白いとかそういうことではなく(まあ実際結構面白いですけどね。事件当日の話だけじゃなくて、個人的な話も結構あったりするので)、非常に価値のある作品だなと思いました。どんな酷い事件でも数ヶ月経つと人はどんどん忘れちゃいますけど、やっぱり忘れちゃいけない事件というのはありますよね。オウムの事件なんかは特にそうだなと思います。長いのでなかなか読む気になれないかもしれませんけど、気が向いたら読んでみてください。

村上春樹「アンダーグラウンド」

久しぶりに古典作品でも読もうかと思って、ライブラリーに行ってみた。そこで見つけたのが、「食堂かたつむり」という本だ。2008年発行となっているから、もう100年も昔の本なのだ。「食堂」と「かたつむり」という言葉が何なのかよく分からなかったけど、なんとなく面白そうだなと思った。僕はこういう漠然とした感覚を大事にする人間なのだ。
早速読み始めたのだけど、でも読んでて理解できない部分が多かった。「食堂」というのが何かの場所だというのはわかったけど、でも「食べる」っていうのは一体どういうことだろう?登場人物は、毎日何かを「食べる」らしい。それは趣味なんだろうか?あるいは仕事?何なのだろう?
どうしても気になったので、母に聞いてみることにした。
「あたしもねぇ、ホントのところはよく知らないのよ」
「お母さんも分かんないの?」
「そうなのよ。食べる、なんて言葉聞いたことないわよね。調べたら分かるのかもしれないけど、既に私達には失われてしまった文化なんだろうから、何かの説明を読んだりしても理解できないかもしれないわ」
「そっかぁ。でもお母さんも知らないんならいいや」

既に歴史を語ることの出来る人間はいなくなってしまった。確かに彼らが言っていたように、調べれば分かることだ。彼らにとっての図書館に当たるライブラリーにアクセスすれば、恐らく分かるだろう。しかし76年前何があったのかということまで調べきれる人間はいないだろう。
要約すると、こういうことになる。
76年前の世界で、「サイバー保存」というのが流行ったことがある。これは、冷凍保存の進化版だ。冷凍保存は、難病に冒された人間などが、将来の世界で治療法が開発されていることを期待して冷凍されることであるが、サイバー保存は、主に死などによって肉体が失われる前に、自分の意識だけをコンピュータ上に保存しておくというものだった。これにより、死後でも家族と会話を楽しむことが出来たし、また将来的に人工人間みたいなものが開発され、そこに自らの意識を移せばまた肉体を手に入れることが出来る、というようなことを期待してもいたようである。意識の保存には、当時最大級だったワークステーションが必要であり、そのため料金は割高で、ある程度裕福な人間でなくては利用することは出来なかった。
ある日のこと。いくつかのことか同時に起こった。
まず、地球に隕石が落ちてきた。当初予測では地球をそれると考えられていた隕石が、ありえない確率で別の隕石と衝突し軌道が変化、そのまま地球に向かってきたのである。隕石はインドの市街地に落下、全世界的な大惨事となり、恐竜が絶滅したシナリオの通りに進み、結局それから9ヵ月後、人類は滅亡した。
同時に、サーバー保存で使っているワークステーションがクラッシュした。これは、隕石の墜落が原因なのか、あるいは他に原因があったのか、正確には分かっていない。隕石の落下直後で、そんなことを調べている余裕はなかったのだ。ハッカーの仕業かもしれないという憶測もあった。
その日、サーバー保存に使われていたワークステーションでは、人間の塩基配列を利用した人工知能の実験が行われていた。サーバー保存に使われるワークステーションは、日本にも数台しかない超高性能なものなので、よく別の研究用途に貸し出されるのだ。
どんな偶然がそこで起こったのか、それは誰も知らない。しかし、サーバー保存されていた個人の意識と、人間の延期配列データと人工生命のプログラムが融合した。それにより、サーバー保存されていたただの意識だけだった存在が、塩基配列データと人工生命プログラムを使って進化を遂げたのだ。年を取り、死の概念を持ち、さらに生殖機能まで手に入れた彼らは、地球上から旧人類がいなくなった今、彼らが新人類として台頭することになった。
彼らに、「食べる」ということの概念がないのは、そういうことである。

一銃「食べるということ」

そろそろ内容に入ろうと思います。
主人公の<私>は、ある日家に帰ると部屋がすっかり空だった。一緒に住んでいた恋人のインド人に、部屋のものをすっかり持ち去られて失踪されてしまったのだ。
失意の最中、声まで出なくなってしまった私は、唯一残った、祖母の形見であるぬか床だけを抱えて、15歳の時に飛び出したきり帰らなかった実家に向かうことにした。
どうしても嫌いだった母と再会し、そして頼み込んで敷地内に食堂をオープンさせてもらうことにした。料理を作ることだけが私のすべてだった。
<食堂かたつむり>と名づけたその食堂は、一日一組の予約客しか扱わない変わった店だった。噂を聞きつけて、様々な人がやってきてくれるのだけど…。
というような話です。
この作品は、ちょっと前に大いに話題になって結構売れた作品です。奥付けを見ると、たった3ヶ月で13刷まで行っているので、これはかなりすごいなと思います。
僕は、正直あまり期待しないで読んだんですけど、案外いい作品だと思いました。
読み始めは、なんだかなぁと思ったんです。ちょっとこれ、小説の始まりの設定があんまりよくないと思うんですよね。だって、家に帰ったら突然インド人の彼氏がいなくなってて、で声も出なくなって、でぬか床だけ抱えて実家に戻る、っておいおいちょっとどうなのその展開、とか僕は思いましたね。この作品は、主人公が<食堂かたつむり>を開いてからの話がなかなか面白いんですけど、ちょっとそこに行き着くまでの展開は微妙だと思います。
で<食堂かたつむり>を開いた後の話ですけど、これはなかなかのものだなと思います。料理を作る、そして食べてもらうことを通じて様々な人と知り合い、また様々な人の何かをほぐしてあげることになります。主人公の作った料理を食べることで、些細なことかもしれないけど人生の何かが変わっていく、気持ちが大きく変化していく、というような話で、その一つ一つのエピソードは結構よかったと思います。食堂作りを手伝ってくれた熊さん、村で有名な未亡人、お節介なお見合いおばさんからの依頼、拒食症のうさぎ、痴呆症の老人を持つ家族、そういう細かなエピソードを重ねることで<食堂かたつむり>というちょっと現実には成り立ちそうにない食堂の存在を、小説の中で力強くさせていると思いました。
また後半での話で素晴らしいのは、母との関係ですね。
主人公は子どもの頃から母が大嫌いでした。主人公には元々父親はいなくて私生児で、母は<スナック・アムール>なんて名前のスナックをやっていて(アムールというのは愛人というような意味があります)、また主人公の名前は倫子。母はよく、不倫の子だから倫子なんだよ、とお客さんに話しています。
そんな母がどうしても好きになれず、15歳で実家を飛び出すことになるわけです。
それは、久々に実家に戻り、<食堂かたつむり>を始めてからも一向に変わることはありませんでした。母を嫌悪する気持ちは常に湧き上がってきて、どうにもしようがありません。
しかし、あることをきっかけに、そんな母との関係が少しずつ変わっていくことになります。この過程もなかなかいいですね。実は母親のことを誤解していたと気づく主人公、それでもなかなか素直になれないでいる時に発覚したこと。そんな母のために主人公がしてあげること。ベタかもしれないけど、なかなかいい話です。
本作は料理好きの主人公が出てくるだけあって、料理に関しての描写が結構すごいです。たぶん著者自身の趣味も料理なんだろうなと思わせるくらい、調理や料理の描写が細かくされます。僕は食べることにほとんど興味がないので、どういう料理でどんな味がしそうなのかというのはイマイチ分からないのだけど、ここまで手間隙掛けて料理を作れば何でも美味しいだろうし、ちょっと食べてみたいなと思うものもありました。作る時によって入れる野菜が違うという<ジュテームスープ>は食べてみたいものですね。
あまり期待していなかったのだけど、案外面白い作品で割と楽しめました。僕としては、冒頭の展開はちょっとイケてないと思うので、そこは少し辛抱して読んでください。<食堂かたつむり>を開いてから面白くなります。エルメスもなかなかいい味出しています。二重の意味で(笑)。読んでみてください。

小川糸「食堂かたつむり」

追記)本作のamazonでの評価は結構辛いです。
著者は有名な人らしく(某有名音楽プロデューサーの奥さんとか)、アーティストにご飯を振舞ってそれをブログで書いているらしい。何で小説に手を出したの?みたいな評価が多かったですね。なるほど、それであんなに宣伝されここまで話題になったのか、と書店員としては納得しました。

僕はずっと<自分>を探している。きっといつまで経っても見つかることはないだろう。しかしその痕跡の欠片だけでも知ることが出来れば、僕は満足できるかもしれない。
きっかけは、大学時代の友人に聞いた話だった。僕は文系で、彼は理系だったが、何故か話が合った。その彼がある日、「量子力学」についての話をしてくれたのだ。
量子力学とは微小の世界についての理論であって、その理論によってエレクトロニクスや製薬業界で様々なものが開発された。即ち、非常に実用的で有用な理論であるらしい。しかし一方で、常識的に考えると奇妙な現象が様々に起こるようで、その中の一つが「波動関数の収縮」なのだそうだ。
詳しいことはやっぱり分からなかったが、波動関数の収縮というのは、量子力学において実に厄介なものであり、これまでにも様々な仮説が出されたが、満足なものはないという。
その仮説の一つに、「多世界解釈」がある。波動関数の収縮とは、確率でしか現せない現象が、何故人間の観測によって一つに収縮するのか、という問題らしいのだけど、それをありとあらゆる可能性に世界が分岐するという方法で説明するのが多世界解釈だ。つまり、<僕が試験に落ちた>世界と<僕が試験に受かった>世界とが同時に存在していて、世界は常に分岐している、ということだった。
僕はそれを聞いたとき、分岐した世界の<自分>に是非会ってみたい、と思ってしまったのだ。
友人は、別の世界の<自分>に会える可能性はまずない、と明言した。そんな可能性は、この先宇宙が無限回生まれ変わってもゼロだろう、と。しかし、もし別の世界の<自分>が存在するならば、たとえばこの世界の僕が死んでも、<僕が死ななかった>世界がきちんと分岐し、そこで僕はまた生き長らえることが出来る。この世界での僕は死ぬけど、でもそうなった瞬間、僕は別の世界の<自分>に融合できるのではないだろうか?今この世界に生きる僕とはまるで違った人生の世界に行くことが出来るのではないだろうか。
僕はそれが気になって仕方なかった。無理かもしれない。それでもやってみる価値はある。
僕はトラックが近づいてくるのを横目で見ながら、道路に飛び出した。

一銃「<自分>探しの旅」

そろそろ内容に入ろうと思います。
舞台は2067年、<バブル>が発生してから33年後の世界である。
33年前、地球の夜空から突然星が消えた。それは、半径1200億キロという途方もない大きさの暗黒物質が太陽系を覆ってしまったからだ。この暗黒物質は<バブル>と呼ばれ、その存在は世界を恐慌に陥れた。様々な仮説が飛び交い、またありとあらゆる宗教が生まれながら、混乱のまま33年が経過する。
元警察官であるニックは、匿名の依頼人から、病院から消えた若い女性の捜索を依頼される。その女性は脳に障害を持っていて、ドアノブさえ回せない重度の患者だったのだ。可能性は誘拐しか考えられないが、しかしニックは、その女性が過去二度も病室を抜け出していたことを知る。ドアノブも回せないような患者が二度も脱走することなど可能なのだろうか?
その女性の謎を追って香港に辿り着いたニックだったが、そこでとある研究所に捉えられ…。
というような話です。
いやはや、本作はなんとも難しい話でした!量子力学については普通の人よりも多少は知識があるはずなんですけど、それでも難解な話でしたねぇ。
本作は、量子力学における最難問である「波動関数の収縮」を扱っているSF作品です。波動関数の収縮というのは、ざっと説明するとこうなります。量子力学では、ある状態を取る確率によってすべての事象が説明されます。例えば原子核の周りを回る電子の位置についても、この辺にいる確率が何%、この辺にいる確率が何%という形でしか特定できません。
しかし一方で、ある観測機械を使えば、ある時間の電子の位置を確定することが出来ます。つまりこれは、確率によってしか存在し得ない状態が、人間の観測によってある一つの状態に収縮する、ということを示しています。
これが波動関数の収縮と呼ばれるものですが、今日はこれについて詳しく書いている時間がちょっとないので、昔書いた別の感想の文章を参照してください。

こちら

本作では、この物理学の難問(未だにこれと言った理論は出てきていません)に、著者自身の突飛な解釈を与えるストーリーになっています。
何せ、波動関数の収縮問題と、宇宙に突如現れた<バブル>と呼ばれる暗黒物質が結びつくんですから、これはなかなかすごいですよね。僕は本作のストーリー全体については難しくてなかなかついていけなかったけど、この波動関数の収縮問題と<バブル>の関連については素晴らしいと思いました。強引ではあるけど、非常に論理的な結びつきで、これが事実だとは思えないけど、こんなことがあってもおかしくないかもしれないな、と思わせるだけの説得力があるなと思いました。
本作では、ニックが失踪した女性患者を探すところから始まるのだけど、途中からニックはそれを放棄してしまいます。それには理由があって、でもそれを説明するには本作の特殊な設定を説明しないといけないのだけど、それは面倒なのでパスします。ちょっとだけ書くと、モッドと呼ばれる、脳神経を自在に繋ぎなおすナノマシンがあって、それによって様々に特殊な能力を持つことが出来るのだけど、途中からある特殊なモッドを埋め込まれることで、ニックは相手側に寝返ってしまう、というわけなんですね。
しかし、まあそこからの話がなんとも難しい。一応、多世界解釈の発想を使って、ありえない現象を起こす確率を高めているのだろうな、ということはなんとなく分かるんですけど(つまり多世界解釈を操作できる能力があれば、ありとあらゆる可能性の中から自分に最も都合のいい世界だけを選び取ることが出来るわけです。サイコロを振って1が10万回続けて出るのは確率的にはありえないけど、しかし多世界解釈を自在に操ることで1が10万回続けて出る世界を選択し続けることが可能で、本作では恐らくそういうことをやっているんだと思う)、しかしそもそも量子力学の世界というのが凡人には難解なわけで、その量子力学の設定をフルに使っている本作は、なかなか理解するのが難しい作品だと感じました。
もうちょっと一般人にも易しい内容だったらよかったかな、と思うのだけど、でもここまで全編に渡って物理的な解釈をフルに使った作品というのもなかなかないので、面白かったと言えば面白かったです。
物理に興味があるという人は読んでみると面白いかもしれません。物理はちょっと…という方は、あんまり手を出さない方がよさそうです。

グレッグ・イーガン「宇宙消失」

二十歳の誕生日を迎えたその日、僕は父親に呼び出された。今まで、決して入ることを許されなかった父親の部屋だ。やっと二十歳になれた、と僕は思った。12年前、父親に言われた言葉を思い出す。
『何もかも捨てて生きていくんだ』
8歳の僕には、父親の言っていることは難しすぎた。
『今は何も説明できない。ただ、父さんの言うことを信じてくれ。これは、将来お前のためになることなんだ』
父親の目は真剣そのものだった。
『友達も家族も、喜びも悲しみも、形あるものも形ないものも、すべて捨てて生きて欲しい。父さんも、父さんの父さんにそう言われて生きてきた。我が家の長男に課せられた生き方だ』
そうして最後に父は付け加えた。
『二十歳になったら、すべて教えてあげよう』
それから僕は、父親の言いつけ通りに生きた。仲のよう友人を作らず、自分の本心を表に出さず、何も求めず、何も追わず、何も喜ばず、何も悲しまずに生きてきた。それは、初めは辛い生き方だった。こんな生き方を自分に強いた父親を恨みもした。しかし屈しなかった。父親に認められたかったこともある。しかし何よりも、自分にはこれくらい出来るはずだ、という妙な自信があったことは否定できない。
そして今日、ようやくその日がやってきたのだ。
「お前にとっては、辛い生き方だったかもしれない。少なくとも俺は辛かった。何故こんなことをしなくてはいけないのかと、俺は親父を恨んだよ。しかし、どうしようもないんだ。これが、我が家系に与えられた使命なのだ」
使命、という言葉が耳に障った。ここまでして犠牲を強いなくてはいけない使命とは一体何だろうか。
「俺はもう引退だ。すべてをお前に引き継ぐことになる。お前の代でも、連絡はこないかもしれない。しかし、その来ないかもしれない連絡を待ち続けなくてはいけない。それが使命だ」
僕の理解を待つかのように、沈黙がその場を支配した。
「俺はスパイだった。それも、スリーパーという種類のスパイだ。普段は特別何をするということもない。諜報活動も尾行も何もだ。ただある特殊な状況になった時にだけスパイとしての役割を果たすことになる」
スパイ、と言われて僕は何も想像することが出来なかった。自分の父親がスパイだと聞かされても、そうだったのか、という程度のものだ。しかし、父親の告白を受けて思い出したことがある。昔家族でスパイ映画を見ていた時のことだ。脈絡もなく父親は、『スパイはこんなに目立っちゃいけない。スパイは見えない存在なんだ』と言っていた。そう考えると、父親がスパイであったということもそこまで不自然ではないのかもしれない。
「いつ連絡が来るか、それはまったくわからない。しかし、その日のために準備を怠ってはならない。もちろん、子供を産み、スパイの任務の後継者を育てるということも重要な任務の一つだ」
なるほど、僕が生まれたのは任務のお陰だったのか、と皮肉なことを考えた。
「最後に。我々は、織田信長の下で働いていたスパイだ。織田信長の直系の子孫から、任務の連絡が来ることだろう。もう数百年も連絡はない。しかし、いつ連絡が来るかは分からない。決して気を抜くんじゃない」
そう言った時父親の顔を見ると、心なしかスパイであることから解放された喜びが滲み出ていたように思う。きっと父親だって思っていたはずだ。
連絡なんか来るはずがない、と。

一銃「スパイ」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は五編の短編が収録された短編集ですが、先に全体の設定だけ書いておきます。
舞台となるのは、陸軍内に出来たとある秘密組織。結城中佐という、かつて敵国でスパイとして活躍したと噂される男が、たった一人で作り上げたスパイ養成所。正式には諜報養成学校だが、そこは<D機関>と呼ばれていた。陸軍内にありながら軍服・長髪の者は一切入れず、また陸軍大学の卒業生は取らないということで強硬な反対にあったが、結城は通した。無茶苦茶な試験を通過した化け物のようなメンバーが揃う<D機関>は、陸軍内では処理しきれない厄介な案件が回されることが多く…。

「ジョーカー・ゲーム」
佐久間は陸軍中尉でありながら、<D機関>への出向を命じられた。<D機関>を監視し、ミスがあれば<D機関>を潰し、ミスがなくてもそれを捏造するために送り込まれたのである。
佐久間は<D機関>の連中がどうにも好きになれなかった。天皇の存在の是非を議論するなど陸軍ではありえなかったし、化け物のような思考を持った彼らが何を考えているのかさっぱり分からなかったのだ。
ある時佐久間は、参謀本部から<D機関>へとある命令を伝えた。それは、スパイ容疑の掛かっているとある親日家の家宅捜索をすることだった。陸軍の暗号表を盗み出したらしく、それを押さえろとのことだった。結城は不承不承その命令を受けることにした。憲兵隊に偽装した<D機関>のメンバーの隊長役として乗り込んだ佐久間は、何か嫌な予感がしたのだが…。

「幽霊」
蒲生が英国総領事公邸に出入りするようになって一週間が経った。総領事とチェスをするためである。
本物の蒲生は洋品店の店員であるが、チェスをしている蒲生は<D機関>の人間だ。
蒲生は今、総領事に掛けられたスパイ容疑について白か黒かをはっきりさせるために動いている。
抗日テロを目的とした秘密組織の一員から、記念式典における爆破テロを自白させた。その全貌を明らかにしようと憲兵が努力した結果、その男を拷問で殺してしまった。
まだ組織が使っていた通信場所しか聞き出せていない。
そのいくつかの通信場所に張り込み、出入りする人間を調べた結果、そのすべての場所に出入りした唯一の人間としてイギリス総領事の名前が挙がったのだ。
しかし、日本は今イギリスと微妙な関係にある。ここで勇み足で総領事を取り調べると外交問題に発展しかねない。しかし、記念式典までは時間がない。何とか総領事が白なのか黒なのかはっきりさせたい。
そこで<D機関>にお鉢が回ってきたのだが…。

「ロビンソン」
伊沢はロンドンでスパイ容疑で逮捕された。本物の伊沢はとある写真店を経営する男だが、逮捕された伊沢は<D機関>の人間だった。
<D機関>では、敵の手に落ちた場合の対処法もきちんと教わる。
とにかく、自決するあるいは相手を殺すことは最悪の選択肢である。どんな場合でも、自国に情報を持ち帰ることを最優先にしなくてはいけない。そのためにどうするか、<D機関>のメンバーは徹底的に教え込まれる。
まさかその知識を使う時が来るとは。伊沢は慎重にことを進めた。
二重スパイになると申し出て、自国に偽の情報を打つように強要されるのだが…。

「魔都」
上海に配属されて三ヶ月。本間はこの厚さの中まったく汗をかかない及川大尉を化け物でも見るような面持ちで見ていた。
本間は及川からとある命令を受けることになる。なんと、上海派遣憲兵隊の中に、敵の内通者がいるというのだ。それを本間に炙り出して欲しい。そういう申し出だった。
そう言われた直後、爆音がした。窓の外を見ると、煙が上がっている。またか…。上海では、抗日テロが日常的になっており、彼らの主な仕事も、抗日テロの犯人を挙げることになっている。
その爆撃は、及川大尉の自宅を狙ってのものだった。敵の内通者がいるというこの上海派遣憲兵隊で、及川大尉の自宅を爆破した犯人を挙げることが出来るのだろうか…。

「XX」
日本における、ドイツとソ連の二重スパイというややこしいことをやっていたドイツ人が死んだ。<D機関>のメンバーである飛碕が扱っていた標的だった。そのドイツ人スパイは、スパイであることを指摘したところで日本にはメリットはない。しかし放っておくと都合が悪い。困った陸軍は、スパイのことはスパイで解決しろと、<D機関>に処理を投げてきたのだ。
それを担当することになったのが飛碕だ。飛碕はこれを卒業試験と捉えた。彼が二重スパイであったという明確な証拠をきちんとそろえ、後は彼の身柄を押さえるだけという時に、死なれてしまったのだ。
遺書はあった。しかし自殺なのか?自分の調査が彼にばれていたなどということは考えられない。しかし、誰かが殺したようにも思えない。一体どういうことなんだろうか…。
というような話です。
本作は、すごくというほどではないけど、ちょっとだけ注目されている作品だと思います。まず表紙が素敵ですね。僕が好きなタイプの表紙です。本作の評判を知らなくても、ジャケ買いしたかもしれません。
内容は結構よかったですね。どの話も、スパイという独特の設定を上手く活かしている作品ばかりで、非常に楽しめました。ミステリというほどガチガチではないけど、でもミステリタッチでストーリーが構成されていて、どの短編も最後まで興味を引っ張られる感じです。構成がうまいなと思いました。
また、どの話にも出てくる、<D機関>の教官という立場の結城がなかなかいいキャラで、存在感があるんですよね。<D機関>に所属する人間は皆そうですけど、特に結城は冷徹でスキがない。先の先の先まで読んでいて、常に相手を凌駕する。どこまで行っても謎めいた存在で、<D機関>のメンバーが陰で呼んでいる<魔王>という呼称も、あながち大げさではないような気がします。
僕がいいなと思った話は、「ジョーカー・ゲーム」「ロビンソン」ですね。
「ジョーカー・ゲーム」は非常に上手い話ですね。短編として非常に完成されていると思いました。<D機関>の設立の過程から結城の存在までを説明しつつ、親日家の家宅捜索をするというそれだけの任務から、最後にはとんでもない金塊を引き当ててしまうわけで、短い話ながらお見事だと思いました。何故親日家の家宅捜索を命じたのか、親日家はどこに暗号表を隠していたのか、結城はどんな絵を描いて佐久間らを送り出していたのか。こういうことが最後一気に明らかになっていって、お見事です。
また、<D機関>のメンバーではない、寧ろその存在と対立する陸軍から出向されている佐久間という男の視点で物語が進んでいくのも面白い点です。これによって、いかに<D機関>が奇妙なところなのかというのがうまく浮かび上がっているように思います。
「ロビンソン」は、結城の恐ろしさがよく分かる話ですね。まあもちろん、こんなに先の先まで読んで、しかもそれがすべてその通りうまく行くなんてことは現実にはありえないでしょうけど、でも結城ならやりかねないんじゃないかと思わせるところがうまいですね。
ネタバレにならないように書くのが難しいですが、要するにこの話は、結城が陸軍から押し付けられた超難問をいかにして解決するかという話なんですね。その展開がお見事という感じで鮮やかでした。スパイっていうのは、本当にここまで無茶苦茶な能力があるのかなと思ったりするので、新潮文庫の「陸軍中野学校」でも読んでみたいなとちょっと思いました。
「幽霊」も悪くなかったですね。スパイ容疑を掛けられているイギリス総領事に対し、普段の<D機関>のやり方としてはありえない顔を向き合わせた調査をする。時間がないから止む終えないのだけど、状況的にはクロ、心証的にはシロという中でいかにしてその白黒をはっきりさせるのかという展開はなかなかよかったです。
最後の二編「魔都」と「XX」は、まあ普通かなと思いました。「魔都」は内容紹介だけ読むと<D機関>が全然出てこない話みたいですけど、そんなことはないですね。ちょっとですけどちゃんと出てきます。「XX」の方も、まあそれなりかなという感じでした。
柳広司というのは時々話題になる作家だけど、本作は結構いいと思います。特にさっきも書いたけど、「ジョーカー・ゲーム」と「ロビンソン」は、短編小説としてかなり秀逸だと思います。結城と<D機関>を舞台にした話は続編が書けそうな気がするし、うまくそれは長編だって書けそうな感じがするのでちょっと期待したいところですね。なかなか面白い作品なので、是非読んでみてください。

柳広司「ジョーカー・ゲーム」

僕は、今から50年以上前の平成の時代について調べている。平成史とでも言うべき著作の構想を何年も練っており、その取材のためである。
しかしこの取材は困難を極めている。何しろ、平成時代に刊行された書物や映像などは、ほぼすべてが特別な許可がなければ閲覧不可なのである。どんなジャンルにも闇ルートがあるものだが、僕はそうしたルートを通じて様々なものを手に入れている。
しかし、そうした書物や映像を見ると、とにかく驚かされる。つい先日手に入れた、当時の情報番組はこんな風である。

番組が始まると、司会者二人の顔がアップになる。お決まりの挨拶とタイトルコールの後、男性司会者がおもむろに、昨日収録があった別の番組について話を始める。その番組には人気アイドルグループが出演しているらしく、その裏話を語っている。どうも女性司会者はそのアイドルグループのファンのようで、しきりに羨ましがっている。
司会者二人がネームプレートのある席に移ると、ほどなくして次の企画が始まる。どこかの町の商店街で行われている安売り市の映像が出てきて、この番組を見たと言えばさらなるサービスが受けられるという主旨であることが分かる。商店街の中をカメラが自由に動き、もちろんモザイクなど一切かかっていない。
お次の企画は、ブックランキングのようだ。その週の文芸書の販売ランキングと、とある書評家(もちろんネームプレートあり)のオススメの書籍を紹介するというものだ。すべての書籍には著者名が載っていて、番組では触れられることはないが著者略歴なんかも本には載っているのだ。

番組はまだまだ続くが、しかしここまでだけでも充分その驚きを理解してもらえることだろう。現在僕らが生きている世界ではまずありえない番組である。
僕ら乱戻の時代は、個人情報が厳しく管理されるようになった。これは、個人の意思とは無関係に、自分を含めたすべての人間の個人情報をみだりに明かしてはいけない、というものだ。
だからもし僕らが先ほど紹介したような番組を作るとしたら、こんな風になるだろう。

番組が始まると、司会者二人の首からしたが映り、タイトルコールと挨拶が始まる。あるいは司会者が覆面をしているというのでもよい。司会者にはもちろんネームプレートなどなく、お互いを呼び合う際にもAさんだのBくんだのという風にする。
人気アイドルグループの話をするなどもっての他だ。何せ、自分の私生活だって許可なしには表に出してはいけないのだ。司会者は、天気や株の動きなど、個人の情報に関わらない世間話をすることになる。
彼らが席につき、企画が始まる。とある町の商店街で行われている安売り市の映像は、ほとんどモザイクが掛けられることになるだろう。レポーターは元より、一般人の顔など決して映してはいけないからだ。
本などは、すべて著者名が伏せられることになる。もちろん著者略歴など書かれるはずもない。読者は、誰の作品なのかを知ることなく、本を選ぶしかないのである。

平成の時代を取り戻すためにも、僕は自分の本を匿名ではなく自身の名前を記載して出版したいと思っている。恐らくその話に乗ってくれる出版社はないだろうから自費出版になるだろう。それでも、出す価値は充分にある。出版したことで、僕が逮捕されることになっても。

一銃「古きよき時代」

そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、まずパッと表紙を見た時に結構驚きますね。なにせ、『著者:匿名』って書かれてるんですからね。ペンネームを使っている作家は数多くいますし、経歴をほとんど表に出さない覆面作家もそれなりにいますけど、これまで匿名で本を出すというケースは見たことがなかったですね。本書を読めば、その理由はおぼろげに分かりますが、結構びっくりさせられますね。
本書は、FBIでも政府の調査機関でもなんでもないただの専業主婦が、テロリストハンターとして活躍するに至った経緯を綴った作品です。
本書の最後で著者は、本作を出版することで自らの身と家族の身が危険にさらされることになる、と書いています。恐らく自分と関わった多くの人に迷惑を掛けることにもなるだろう、と。しかし、それでも出さねばならない、と彼女は決意します。本書を出さなければ、穏やかな老後を迎えることが出来るかもしれないけど、もしそうなったら、後悔で自分の顔が見れなくなってしまうだろう、と書いています。
著者はイラクで生まれたユダヤ女性です。
中東に関して全然知識がないのでこれから書くことに何か間違いがあるかもしれませんが(僕は政治的なことに関する理解力がホントに死んでるんです)、許してください。
イラクではユダヤ人が迫害されているようです。というか、イラクに限らず中東の多くの国でそうなんだそうです。その理由はイスラエルという国にあるみたいです。
詳しい事はわかりませんが、要するにイスラエルという国はユダヤ人が建国した国で、しかもアメリカよりの考えを持っているわけです。多くの中東諸国がイスラエルを地上から消し去ろうとこれまでも様々な戦争を仕掛けてきたけどうまくいかなかったようです。
そうなると、怒りの矛先は自国に住むユダヤ人に向けられることになります。著者もそのパターンで、生け贄にされたのは彼女の父でした。一家は裕福な生活をしていましたが、それが仇となり目をつけられてしまいました。父は激しい拷問にもなんとか耐え続けましたが、最後には屈し、スパイであることを強制的に自白させられ、サダム・フセインによって公開処刑されました。
夫を失った母はしばらく嘆き暮らしましたが、しかし泣いてばかりはいられないと奮起しました。箱入り娘だった母のどこにそんな才能があったのか、彼女はあらゆる伝手を辿り、家族を連れてイスラエルへと逃げ込みました。イスラエルはユダヤ人の国。とりあえずの自由と安全を確保しました。
そこでちょっと成功した一家でしたが、著者は結婚してしばらくした後、夫の希望もあってアメリカに移り住むことにしました。これまでの裕福で充実した生活を捨ててアメリカに移り住むのです。
当初彼女はやることがなく、しかもこれまでよりも生活の水準が下がり不満でした。ある日求人広告を見てみると、中東に関する調査員を募集しています。彼女はこれだと思い面接に向かい、見事採用されました。
しかし、オフィスへ顔を出しても誰も何も教えてくれません。自分は何をしたらいいのか、あるいはここのオフィスでは一体何をしているのか、さっぱり分からないままでした。
ある日彼女はオフィスで、一冊のパンフレットを見つけました。それは、アメリカ国内で慈善活動をしている団体のものでした。彼女はそれを手に取り、英語とアラビア語で書かれている文章を読み始めました。疑問に感じた点を、誰にでも手に入る公文書などを参照しながら調べて行き、そして彼女は一つの結論に達しました。
この慈善団体は、アラブのテロ活動の資金調達のフロントの役割を果たしている、と。
彼女はそれに関するレポートを書き上げ、上司に提出しました。上司も他のスタッフも誰も、その事実にはまったく気づいていませんでした。
そのレポート自体は大きな意味を持たなかったのだけれども、しかし彼女にはやるべきことがはっきりと分かりました。彼女はそれから、誰にでも手に入る公文書だけを頼りに、FBIや国務省ですら知りえないテロ組織に関する様々な事実を導き出し、あっという間にその道の専門家になりました。現在では、あらゆる捜査機関が彼女の持つ情報を求めて連絡を取りにくるのだそうです。
そんなテロリストハンターとなった女性の、人生を賭けた闘いの記録です。
本作を読むと、今まで知らなかったことをいろいろと知ることが出来るようになります。
まず本作のメインの話である、テロ組織についてです。僕は先ほども書きましたけど、政治的なことに関する理解力に乏しいので、本作に書かれていることを理解するのはすごく難しかったし、たぶん全然理解出来ていないと思うのだけど、それでも結構びっくりさせられることがたくさんありました。
その一つが、先ほども書いた慈善団体がテロ組織の資金調達のフロントの役割を担っていることです。中東のテロ組織は、恐ろしく以前からこの仕組みをアメリカ国内に作り上げ、アメリカ国内でアメリカへのテロのための資金を作り続けてきたわけです。
慈善団体というのは、やってることはいろいろあるでしょうが、まあようするにボランティア団体みたいなイメージだと思います。NPOのような、非営利の団体です。こういうところがいかにしてテロ組織にお金を流すことが出来るかというと、寄付ですね。こういう慈善団体は常に寄付を受け付けていて、その寄付金がテロ資金に流れ込んでいるわけです。しかもそういう慈善団体は、アメリカ政府が公認している団体なわけで、そういう団体がテロ組織のフロントであるということは今まで誰も知らなかったわけです。それを著者は、主に公文書だけを使って探り当てたわけです。
著者が凄いのは、誰でも手に入れることが出来る公文書だけを使って驚くほどたくさんの情報を手に入れているということです。著者は、時には潜入捜査のようなこともするのだけど、基本的にはオフィスで資料を読んだりネットサーフィンをしています。ただそれだけのことで、実に多くのことを理解してしまうのです。
例えば、あるテロリストを入国禁止にしたいのだけど、決定的な証拠がないのだと言って、移民局(INSみたいな名前のとこ)の人間が彼女のところにやってきます。それで彼女は、主に公文書だけを持ち出してあらゆる証拠を提示してあげます。基本的に彼女は情報提供を惜しまず、求められればほぼ無償でどんな情報も提供します。
公文書だけを読んで(もちろん並外れた理解力は必要でしょうが)テロ組織に関して並ぶもののない専門家になってしまったということは、裏を返せば誰でも同じことは出来るということですね。もちろん、FBIでも国務省でもということですが。しかし、誰もそれをしない。FBIなど、未だに公文書から情報が得られるわけがない、という風に思ってるようです。
本書を読むと、とにかくアメリカという国はダメなんだな、ということがよく分かります。もちろんこれはアメリカという国に限らないでしょう。国という、とんでもなく大きな組織を動かしていくには、様々な歪みが存在するものでしょう。でももちろんそれでいいわけはなく、著者もそれを何度も指摘しているのだけど、もちろん改善されることはありません。
著者は、9.11のテロの遥か以前から、9.11に関わった多くの人や組織について政府に警鐘を鳴らしていました。この人物や組織については詳しく調べるべきだと何度も忠告をしてきたわけです。しかしそれでも重い腰を上げることはなかったわけです。9.11の後、多くの調査機関が彼女の過去の調査について知りたがり、彼女の過去の調査のおかげでいろんな手を打つことになりますが、著者としてはやりきれないでしょうね。もっと早く手を打てば、もしかしたら9.11は防げたかもしれないのだから。
しかし、ある機関を除く調査機関はまだましです。9.11後、お互いが持っている情報を付き合わせたりしているようだし、共同で捜査をしたりもしているようです。
しかし何よりも最悪なのがFBIですね。本作を読むと、FBIの無能っぷりがよく分かるし、そもそもFBIは何のために存在しているのかさっぱり理解できないという風に思うことでしょう。
FBIと聞くと、何だか有能な捜査機関のような気がしますけど、本作を読むとどうも印象が違います。本作を読むとFBIというのは、掃除機のように情報だけ吸い上げて何もしないぐーたらな組織だなという風に思います。
例えば著者が知りえた情報をFBIの人間に伝えるとします。FBIは情報を吸い上げることはするけど、しかしそれを活用することは一切ありません。結局与えた情報がどう使われたのか著者が知ることはほとんどありません。
そしてその後、また別のFBI捜査官が彼女の元を訪れ、ある情報について知りたいと言ってきます。しかしその情報は、何年も前に既にFBIに渡している情報なわけです。つまりFBIという組織は、内部的にもまったく情報の共有をしないという無茶苦茶な組織なわけです。
でもまあまだこれはいい方です。極めつけはこれです。
ある捜査機関が、テロ組織の資金源を根絶したいと考えチームを組みました。そのチームは元々テロ組織に関する知識はほぼなかったわけですが、著者の元でレクチャーを受けたり自身での調査を続ける中で、専門家と言ってもいいくらいの情報を知ることになります。
プロジェクトは進み、後はテロ組織の資金源に関わる団体に踏み込むだけという時、政府機関の捜査官が彼女の元にやってきて、家宅捜索をする捜査員の安全は確保されているのだろうか、と聞いてくるわけです。
つまりこれはどういうことかと言えば、その政府機関の捜査官は、著者が二重スパイではないのかと疑っているわけです。彼女は激怒しますが、しかしさらに彼女を怒らせる事態になっています。
なんと、彼女と一緒に捜査を続けていたチームの捜査官が皆FBIから取調べを受けているというのです。もちろん彼女自身も盗聴され尾行されています。どういうことかと言えば、その捜査チームの捜査員がFBIの機密データを著者に流したのではないか、と疑いを掛けられているのだというのです。何ともバカバカしいですが、FBIはテロ組織を追うのではなく、そのテロ組織を追い詰めようとしている捜査員を追っているのです。
なんというか、読めば読むほどFBIっていうのは頭が悪いんだなと思いました。もちろん優秀な人もたくさんいることでしょう。しかし、組織としてFBIというのはちょっと終わってるなという感じがしました。こんなこともあったようです。FBIは何年も前からある人物に関して捜査を続けていました。その人物に関するありとあらゆるデータはもう揃ったわけですが、しかしそのテロリストはまだ何も犯罪を犯してはいませんでした。
その後そのテロリストはテロを起こします(確かどこかの大使館の爆破か、あるいは貿易センタービルの爆破だったと思いますけど)。FBIは、そのテロリストが確実にテロを起こすという情報を握っていながらも、まだテロを起こしていなかったというだけの理由で何もしないで放置していたらしいのです。
これほど意味のない組織はないですよね。情報だけはせっせと集めて、でも集めるだけで何もしない。一体どこに存在価値があるのかさっぱり理解できません。
一方で著者は素晴らしいですね。公文書という誰でも手に入れることの出来る情報だけであらゆることを知り、しかもそれによって得たデータを誰に対しても提供する。もし彼女がいなかったら、アメリカのテロ捜査は相当立ち遅れていただろうな、という風に思います。
僕はこういう政治的な陰謀とかっていう話を理解するのは苦手なんですけど、それでもなかなか面白く読めました。こういう人が世の中にいるんだなということを知れただけでもよかったですね。
中東やテロに関心がある人は読んだら相当面白いだろうし、そうでなくても広く政治に興味があるとか世界情勢に興味があるという人にはオススメですね。また、ただの一般の女性がこんなにすごいことが出来るのだという風な視点で読んでも充分面白いと思います。なかなか類似本がない本だと思うので、興味がある人は読んでみてください。

匿名「テロリスト・ハンター」

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