黒夜行 2010年07月 (original) (raw)

アカネちゃんがいなくなったという話は既にサークルのメンバーにも伝わっていたようで、志保はアカネちゃんと仲のよかった新入生からいろいろと聞かれた。アカネちゃんは豪快な性格だけれど案外面倒見がよくて、アカネちゃんを慕っている後輩は結構多い。志保には答えられることがほとんどなかったし、話しているうちに新入生の方がアカネちゃんのことを知っているのではないかと思うようなこともあったけれど、とにかく大丈夫だからと気休めにもならないことを言うしかなかった。
定期整備はそれなりに順調に進んだ。花壇は町中のいくつかに分散しているため、いくつか班を作るのだけれど、リーダーになれる上級生が少なくて、志保も二箇所掛け持ちでやらなくてはいけなくなった。二箇所の花壇を何回か往復させられたのはきつかったけれど、新入生も大体やり方を覚えていたし、地元の人も親切だったので、大きなトラブルもなく終えることが出来た。

「失踪シャベル 17-7」

内容に入ろうと思います。
本書は、デパ地下の和菓子店を舞台にした日常の謎系のミステリです。
主人公の梅本杏子は、高校を卒業したばかりの18歳。将来やりたいこともなく、なんとなく大学に行くのも違う気がして、特に何も考えないまま高校を卒業したのだけど、さすがにこのままではヤバイと思い一念発起。食べるのは大好き、でもちょっと太り気味だから可愛い制服のお店は無理、とかいろいろ考えている内に、和菓子屋っていいんじゃないかと決めた。
店長の椿さん、職人志望で販売のプロである立花さん、大学生アルバイトの桜井さんと共に働き始める。この三人が、見かけによらず超絶的な個性の持ち主で、杏子は圧倒されるも、楽しくアルバイトを始めることが出来た。
しかしそんな和菓子屋さんに、時々謎めいた事柄がやってくる。ちょっと変わった注文だったり、なんなんだろうと思わせるようなことだったり。杏子は、未熟な和菓子の知識を駆使して謎解きをしようと頑張るのだけど…。
というような話です。
本書は、坂木司のいつものスタイルのように、連作短編集で、普段僕は連作短編集だったらそれぞれの短編の内容を紹介するんですけど、本書はちょっと省略します。なんというか、これまでの坂木司の日常の謎系の短編より、一つ一つの話のメインとなる謎がくっきりとはしてないんですね。いくつかの謎が盛り込まれていたり、二つの短編にまたがって関わる話だったりと、短編毎に紹介するのがちょっと不自然な気がする作品なので、今回はちょっと省略させてください。
いやー、相変わらずいいですね、坂木司。ホント面白い作品を書く作家だなと思います。
本書は、坂木司の得意ジャンルと言っていいでしょうね。坂木司の連作短編集には、ある特殊な仕事(歯医者とかクリーニング屋など)を舞台にして、そこで起こるその職業だからこその日常の謎を描く、というスタイルの作品が多いんだけど、本書もまさにそんな感じの作品になっています。和菓子店を舞台にして、和菓子の世界だからこその謎がいろいろと出てきます。
どれも、本当に些細な話なんだけど、面白い謎なんですよね。しかもそれが、接客の合間からにじみ出るというのがいい。気づかなければそのまま流してしまいそうな些細なこと(これは僕も普段から接客をしている人間なんでそう思うんですけど、本当に何の気なしに接客をしていたら見過ごしてしまいそうな些細な事柄に注目するんです)に気づき、謎がなんなのかはっきりと分かる前に椿店長がその謎を解決しちゃう、みたいな話もあったりします。
いや、このパターンはなかなか凄いですね。椿店長は本当に些細な情報からその裏側を見抜くことが多くて、他のスタッフが???と思っている間に、とりあえず解決しちゃ。で、結局何が謎だったのか後からスタッフは知る、という感じ。面白いですね。
他にも和菓子というのは、ダジャレやイメージなんかで名前や形が決まっているようなことが多くて、そういう豆知識みたいなものも面白いし、しかもそれをうまいこと謎に組み込んでいるところなんかも素晴らしいですね。
あと、これは坂木司の職業系のミステリはどれを読んでもそうだけど、ホントに仕事が楽しそうなんですね。坂木司は、食べ物を美味そうに描くことにも長けていますけど、職業を面白そうに描くことにも長けているなという気がします。和菓子屋とかも、和菓子の知識がないと大変だろうし、デパートの接客業なんかも大変なんだろうけど、それでもなんとなく面白そうな感じがしてしまうというのが凄いところだなと思いますね。
しかしまあ何より本書で一番面白いのは、それぞれのキャラクターでしょう。主人公の杏子も、自分がちょっと太っていることを自覚しつつそれなりに器用に生きているまあまあなかなか面白いキャラクターですけど、他の三人が強烈すぎてさすがに霞む。他の三人がどんなキャラなのかは是非読んで欲しいところだけど、桜井さんはともかく、椿店長と立花さんはちょっと変人だろう、あれは(笑)。
洋菓子が主流(というか、本書を読めば洋菓子そのものが主流というわけではないということが少し触れられているけど)のこの世の中にあって、和菓子もいいなぁ、と思わせてくれる、そんな作品だなと思いました。表紙も美味しそうで(この新刊が出た時、書店の担当者が小説だと思わず、実用書とかお菓子のコーナーに並べられた、なんてこともあったようです)、ほっこりするなぁ、という感じがします。軽くサラッと読める作品だけど、ちゃんとした作りの面白い作品です。是非読んでみてください。

追記)正直この作品とはあんまり関係ないことを書くけど、amazonのレビューを見たら、一人「ケータイ小説レベル」っていう評価の人がいた。でも、僕はそれ違うと思うんですよ。たぶんそれは、坂木司のこの作品がどうこうということじゃなくて、この作品を読んだ人が、こういうジャンルの作品がそもそも向いてないっていうことじゃないかと思うんですよね。他の日常の謎系のミステリとか、あるいは他の坂木司の作品を読んでて、そういう作品が少なくとも嫌いではない、という前提の上でそういうことを書くならいいと思うんだけど、たぶんそうではないんだろうと思うのだ。それが残念。その辺りの区別はして欲しいなぁ、と思うのだけど、やっぱり難しいのかなぁ。

坂木司「和菓子のアン」

四限の講義が終わっても、カナちゃんからの連絡はなかった。志保は、久しぶりにサークルに顔を出してみることにした。今日はバイトの日だったけれど、電話をして休みにしてもらった。とてもじゃないけれど、バイトをやれる気分ではなかった。
部室に顔を出したけれど、いつもより人数が少なかった。アカネちゃんを探しているのだろう。部長はちゃんといて、どうやら定期整備もちゃんと行うつもりのようだった。地元の人と一緒に管理をしている花壇の整備の日で、地元の人との都合もあるから、こちらの都合だけでは止めることが出来ないのだろう。これから定期整備に向かうメンバーも新入生ばかりで、部長もどことなく不安そうだった。お前は探しに行かなくていいのか、と言われるかと思ったけれど、定期整備の戦力になると思ったのだろうか、部長は何も言わなかった。

「失踪シャベル 17-6」

内容に入ろうと思います。
本書は、物理学者であるファインマン氏による二つの講演を収録したものです。一つは、コーネル大学で毎年行われているメッセンジャー講演での講演、もう一つはノーベル物理学受賞講演です。本書のほとんどはコーネル大学での講演であり、ノーベル物理学受賞講演はすごく短いです。
コーネル大学での講演は、物理法則そのものについての大局的な話がメインになります。どういうことかというと、ファインマンが話しているのは、ある特定の物理法則についての話ではありません。確かに、講演の最中、抽象的な話になった時に、具体的なイメージが出来るようにと、冒頭で重力についての諸法則について話すことはするんですが、それはその後の講演の布石みたいなもので、メインの話題ではありません。メインとなるのは、物理法則そのものについてです。
うまく説明できないのだけど、例えば、物理の世界は数学的な記述に依らずに表現することは出来ない、という話が出てきます。もちろん、数学的な記述に見えても、実際は数学とはあまり関係ないというような表現もあるわけですけど、物理がいかに数学というものに頼っているのか、という話がなされます。
あるいは、個々の物理法則ではなく、物理法則同士に共通する様々な特徴について話したりします。代表的なのは、保存則と対称性です。保存則は、エネルギー保存則とか角運動量の保存則、対称性は左右や回転に対する対称性なんかの話が出てきます。これらが、新しい物理法則を発見する際、いかに強力な武器になるか、そしてその一方でいかに強力な制限になるのか、という話が出てきます。
またその後、物理法則の中には過去と未来を区別するものは存在しないのに、何故過去と未来は明らかに区別されているのか、という話や、量子論のような日常的な感覚とは相容れない法則の説明を通じて、何故そうなっているのかを考えるのも大事だけど、自然とはそういう風になっているのだと受け入れることも大事だ、というようなことが語られていきます。
作品全体としては、それほど面白くもなかったかなぁ、という感じはしました。たぶんこれは、実際の講演の場にいて実際に聞くほうが断然面白かったんだろうなぁ、と思います。ファインマンは講演とか滅茶苦茶うまかったらしいですから。
一般的な物理学の本と比べて、視点が違っていたというのは面白いところだなと思いました。普通の物理の本というのは、何かある特定の物理法則についてか、あるいは物理全体を概略するにしても、主要な物理法則をいくつかつなぎあわせて流れを見せる、というような構成になることが多いですね。
でも本書は、そういう視点ではないんですね。物理法則というものを一つのまとまりとして見た時に、どういうことがいえるか、どういう特徴があるか、どういう点がおかしいのか、というようなことが語られていきます。この切り口はなかなか斬新で面白いと思いました。
でも、なんでだろうなぁ、そんなに面白くはなかったんですね。ファインマンの物事を見る視点や切り口は面白いんだけど、どうも全体的にさほど面白くない。なんだろうなぁ。たぶんファインマンの作品は評価が高いはずなので、きっと本書も世間的には評価が高いんじゃなかろうかと思うのですよ。だから僕には合わなかっただけだろうなと思うんですけど。
でもやっぱり、講演を実際に聞くのと、それを文章に起こしたものを読むのとでは経験が違うということなのかもしれません。うまく説明できませんが。僕的にはそんなに面白い本じゃなかったんだよなぁ。
というわけで、個人的にはあまりオススメは出来ないんですけど、たぶん世間的には評価の高い本じゃないかと思うんで、気が向いたら読んでみてください。普通の物理学者とはちょっと違った感覚を持つ(だろう)ファインマンの視点は、やっぱり面白いと思います。

追記)やっぱりamazonのレビューでも評価滅茶苦茶高いです

R.P.ファインマン「物理法則はいかにして発見されたか」

生協に向かいながら、志保は会田君にメールをしようとした。親友の一人がいなくなってしまった、と。でも、メールで言うようなことでもない気がして、止めた。カナちゃんもアカネちゃんもいない大学は、何だか空っぽになってしまったみたいで、大勢の学生が行き交っているのに、一人ぼっちになってしまったみたいに感じられた。生協に着いたけれど、考えてみれば空腹を感じていなかったし、食欲が湧いてくるような状況でもなかったから、中には入らなかった。一人で過ごすお昼は、ただ時間を持て余すばかりで、どこで何をしていればいいのか全然分からなかった。さっきたくさんのメールを受信していたカナちゃんの携帯電話を思い出して、余計に孤独を感じた。こういう時は、嫌がらせのように時間が進むのが遅くて、鬱々とした曇り空を見ながら、これからどうすればいいのかぼんやりと考えていた。

「失踪シャベル 17-5」

内容に入ろうと思います。
本書は、昭和の犯罪史に名を残す、あの三億円事件をモチーフにした小説です。
玉川上水で、ラーメン店店主の扼殺死体が見つかるところから物語は始まる。あと二ヶ月で定年を迎えるロートルの刑事・滝口は、被害者であるラーメン店店主の名を聞いて、管理官に自分を捜査本部に組み込むようにゴリ押しする。被害者の交友関係などを調べる敷鑑に名乗りを挙げ、所轄の刑事である片桐と共に捜査を始めるも、一向に事態は進展しない。
普段大事件など起こらない所轄にいる片桐は、この事件で手柄を立て、本庁の捜査一課への階段を駆け上がろうと目論むのだが、老いぼれ刑事と組まされてとんだ貧乏くじを引かされたと思っている。しかしそんな片桐に向かって滝口は驚くべきことを口にする。犯人の目星はついている、というのだ。
そこで滝口が取り出したのが、34年前に起こった三億円事件の極秘資料だ。34年前、刑事になりたてだった滝口は、この三億円事件の捜査に組み込まれたのだ。そしてそこで、その後の刑事人生を運命づける事態に巻き込まれたのだ。
滝口は、この殺しのヤマは、必ず三億円事件と関わっているというのだが…。
三億円事件の首謀者たちのやり取りや、謎のホームレスなどの描写も絡めつつ、三億円事件の真実を暴きながら人々の人生を活写していく群像劇です。
これは凄い作品でした。最近映画化もされた作品ですけど、とにかく骨太の警察小説です。
事件ノンフィクションを扱う元フリーライターだった人なので、とにかく物凄く取材したんだろうなぁと思わせる内容でした。三億円事件については、もう隅から隅まで調べたんだろうな、と。僕は、三億円事件に関するノンフィクションとかって読んだことがなくて、テレビで特集を組んでるのを見たか、あるいは三億円事件を題材にした小説を読んだかぐらいの経験しかないんですけど、本書での三億円事件の描写は、これが真実であってもまったくおかしくないな、と思わせるぐらい、リアリティに溢れた物語だと思いました。
本書でとにかく素晴らしいのが、定年間近の刑事・滝口ですね。滝口は、定年間近ということもあり、ここしばらくはやる気をなくしていたただのロートルだったんだけど、それまでは出世を諦め現場の捜査員として第一級の評価を得てきた凄腕の刑事なわけです。その眠れる獅子が、ラーメン店店主の殺人事件から始まる捜査で、また花開くことになります。
初めこそラーメン店店主殺人事件の捜査をするわけですが、その内滝口と片桐はいろいろあって追われる側になってしまうわけなんです。そうなってからも、滝口の機転・判断力などは素晴らしいものがあります。所轄で刑事になったばかりの片桐とは比べ物にならない歴然とした差を見せつける感じで、いやーこの滝口のかっこいいことかっこいいこと。何を考えているか分からず片桐を振り回すところとか、一本芯が座っていてそれが定年間近の老いぼれ刑事の原動力になってるところとか、追い詰められた状況でも発揮される冷静さなど、とにかく凄い男です。この滝口の描写を追っていくだけでも充分楽しいです。
物語は、三億円事件の奥深くに隠された真相に迫っていくことになります。もちろん本書は小説なのでフィクションなんでしょうが、確かにそういう背景でもないとこういう状況にはならなかったかもしれないな、と思えるようなところもあって、そっくりそのまま真実ではないにしても、かなり近いところまで肉薄しているんじゃないかなぁ、とか思いました。前に、三億円事件の実行犯の一人だと噂された中原みすずが書いた、三億円事件を扱った小説「初恋」を読んだ時も、これはリアルだと思いましたけど、本書は、実行犯側のあれこれだけでなく、当時のありとあらゆる状況を含めて、これが一つの結論ではないかと思わせるだけのリアリティがあるな、と思いました。
実行犯側の物語も実に面白いです。魔性の女が出てくるというのは凄くいいですね。事件の真相がどうであれ、やっぱり三億円事件は金目当ての犯行ではないんじゃないかなー、という漠然としたなんとなくのイメージがあるんで、「初恋」でもそうでしたけど、金目当て以外の動機が存在するというのは、僕の中ではリアリティが増すな、と思いました。実行犯の一人であるその魔性の女に操られる形で三億円事件は引き起こされたのだ、というような流れや、34年後の現在、実行犯の面々がどんな人生を歩み、そしてどのようにして追い詰められていくのか、という流れも凄く面白いと思いました。
最後の方は、ちょっとだけですけどまとまりなく終わってしまった印象がありますが、まあでもこれだけの物語を(しかも現実の事件をモチーフにした作品を)、これ以上うまく終わらせるのも難しかっただろうな、と思います。
警察小説として、かなりレベルの高い作品ではないか、と思います。三億円事件に関するノンフィクションを読んでみたくなりました。滝口の活躍っぷりに注目しながら読んでみてください!

永瀬隼介「閃光」

「志保は勉強ちゃんとやらないと。それに、私は学部違うからシホのノート使うことってないけど、やっぱりシホのノート待ってる人だっているし。アカネが戻ってきた時、シホがちゃんとノート取ってくれてなかったら、アカネは困ると思うよ」
確かにそう言われればそんな気もしてきたけれど、なんだかはぐらかされているような気もする。でも実際、志保に何が出来るのかと聞かれれば、何も出来ないだろう。アカネちゃんが普段よく行くところも知らないし、カナちゃん以外の友達だってあまり知らないのだ。だったら大人しく講義を受けているべきなのかもしれない。
「分かった。じゃあ何か分かったらすぐに教えてね」
「うん」
そう言うとカナちゃんは、走ってどこかに行ってしまった。カナちゃんもアカネちゃんもいないお昼というのはあまり経験したことがなくて、どうせ一人ならわざわざ食堂なんかに行かないで、生協で何か買ってくればいいのかもしれないと思った。

「失踪シャベル 17-4」

内容に入ろうと思います。
本書は哲学者による無限論です。
本書は、大学生の僕が、タジマという講師による無限論の講義を、タカムラさんという女の子と二人で受ける、という設定で進んでいく物語です。「数学ガール」のように、物語設定で数学の話が進んでいくので読みやすいと思います。
内容は、無限というものについていろんな話が展開されていきます。
無限論には、二つの立場があるようです。それが、「実無限」と「可能無限」です。そして本書では、タジマ先生は基本的に「可能無限」の立場に立ち、「実無限」というのは幻想に過ぎないのだ、という話をしていくことになります。
実無限と可能無限の話を、僕の理解できた範囲で書いてみましょう。これは、線分についての解釈によって説明できます。
実無限は、『線分は無限の点が存在するのだ』と解釈します。一方の可能無限は、『線分は線分を切断すれば点が取り出せる。その可能性が無限なのであって、点が無限に存在するわけではない』と解釈します。
例えばこれは、あのアキレスと亀のパラドックスでも説明できます。
実無限の立場に立つと、『アキレスと亀の間の空間は無限に分けることが出来るのだから、永遠に亀には辿り着けない』ということになります。一方で可能無限の立場に立つと、可能性としての無限しか考えないので、アキレスと亀の間の空間が無限に分割できる、とは考えません。一方で、結果的にアキレスが亀に追いついた後で、『アキレスは亀がいたところまで追いついた。その後さらにまた追いついた…』と説明が無限に続くだけである、ということになるわけです。
僕は実無限と可能無限なんていう違いは全然知らなかったんですけど、本書を読むと、僕が知っていた数学は『実無限』の立場から数学を見ていたのだな、ということが分かりました。
しかし、これを『可能無限』の立場から見るとこんなに面白いのだ、ということを本書を読んで初めて知りました。
なんと言っても驚いたのが、可能無限の立場からすると、カントールの対角線論法が認められなくなってしまう、ということ。これは衝撃的でした。
僕はこのカントールの対角線論法という証明が、あらゆる証明の中でも相当好きなんですけど、まさかこれが認められないような立場が存在するとは、という感じです。
カントールの対角線論法そのものについてはちょっと説明を省きますけど、これによって、『自然数』と『実数』では、無限の濃度が同じだ、ということが分かるわけです。つまり、『自然数』と『実数』は一対一の対応をつけることが出来る、というわけです。
これは実に不思議な結論ですが、しかしカントールの対角線論法によれば正しいわけです。その証明は見事だと思うし、ほとんどの数学者がその証明が正しいと思っているわけなんですけど、これが正しくないという見方があるとは思いもしませんでした。
濃度が同じ(一対一の対応をつけることができる)からと言って、量が同じだというわけではない、という説明も納得でした。何か三角形を書いて、その三角形の内部のどこかに、底辺に平行な線を引いてください。その時、三角形内部の線分と底辺は、三角形の頂点を中心として一対一の対応をつけることが出来るのだけど、しかし両者の長さには違いがあります。なるほどなー、という感じがしました。
可能無限の立場から見ると、『実数という集合』さえ存在しないということになります。
例えば、『自然数の集合』というのは、「1,2,3…」というものですけど、これはどこまでも無限に大きな自然数を書き続けることが出来ます。
しかしこの『自然数の集合』というのは、『前の数に1を足す』という行為を『無限』に繰り返すことによって得られる、と可能無限の立場では考えるわけです。つまり、無限に繰り返すことが出来る規則が存在する、というのが可能無限の立場なわけです。
では一方で、実数はどうか。実数には、√2みたいなものやπみたいなものもあるし、3/8とか0.8589658みたいなものもあるわけです。これらを、ある一定のルールによって導くような規則は存在しないわけです。つまり可能無限の立場では、『実数の集合』は存在しない、ということになるわけですね。
可能無限の立場では、√2というのは数字ではない、と言います。√2というのは、各桁の数字をある規則によって導くことが出来る。その開平法につけられた名前こそが√2だ、というわけです。だから、可能無限の立場では、1<√2というような式は、「√2は1より大きい」と読むのではなく、「√2という方法で数を作れば、1より大きな数を作ることが出来る」と読むわけです。
√2というのは、1.41421356…と続きますが、どこまで言っても…が消えることがなく割りきれません。実無限の立場では、「…の部分は人間が計算出来ていないだけで、存在しているのだ」と考えるのだけど、可能無限の立場では、「…の部分は存在していないのだ」と考えるのです。
「…の部分は存在しない」とはどういうことなのか。例えば、「富士山に徳川家康の埋蔵金があるかどうか」という質問には、「あるかないか」のどちらかの答えが存在します。しかし例えば、「桃太郎が行った島に埋蔵金はあるか」という質問はどうでしょう?桃太郎が行った島、なんていうのは実在しないわけだから、実在しない島に埋蔵金があるかどうかという質問には答えようがないでしょう。
それと同様で、「…」の部分も存在しないわけで、さらに可能無限の立場からすれば、無限というのはそもそも存在しない、となるわけです。
というわけで、物凄く面白い作品でした。今まで信じていたことがガラガラ崩れていくような感じでした。もちろん、この可能無限の立場というのは、少数派のようです。カントールの対角線論法が間違っているのだ、などと考えている人はあんまりいないそうです。しかし本書の議論を読む限り、確かにカントールの対角線論法が間違っているという話も、筋が通っていて面白いなと思いました。無限というものについてあんまりきちんと考えたことがなかったし、これまで読んだ本もカントールの業績に触れるものばっかりだったのだけど、この本は実に新鮮で面白かったです。数学の話ですけど、講義形式で面白く書かれているので凄く読みやすいと思います。是非読んでみてください。

野矢茂樹「無限論の教室」

「今、サークルのみんなにも連絡して、アカネちゃんを探してもらってる。大騒ぎして、実はなんてことはなかったっていうんじゃアカネも恥ずかしいだろうから、ぎりぎりまで自分たちで探そうと思ってるけど、今日の夜までにアカネちゃんと連絡が取れなかったら、警察とあとご両親に連絡しようと思ってる」
そうやって喋っている間も、カナちゃんの携帯電話にはメールがどんどん届いているようだったけれど、やはりアカネちゃんは見つかっていないみたいだった。志保は、不謹慎だと思いながら、アカネちゃんのことが羨ましく思えた。カナちゃんは、志保がいなくなっても、ここまで必死に探してくれるだろうか。
「私も一緒に探すよ」
「ううん。大丈夫。シホは講義に出て」
そう言われると、自分だけ仲間外れにされているみたいで哀しかった。そんな表情を読み取ったのだろう、カナちゃんは続けてこう言った。

「失踪シャベル 17-3」

内容に入ろうと思います。
向坂伸行は、社会人三年目。ある日、何故というような理由もなく、10年以上も前に読んだある一冊のライトノベルの感想をウェブで探そう、と思い立った。
「フェアリーゲーム」というそのライトノベルは、ラストが残酷であり、しかし当時周りに本を読んでいる人間がいなかったために、それについて感想を言い合うことが出来なかった。ふと誰かと、あのラストについて語り合いたいという衝動に駆られて、検索してみたのだ。
すぐに見つかったのが、「レインツリーの国」という名前のサイト。そこには「ひとみ」という女性が、同じく10年以上も前に読んだ「フェアリーゲーム」の感想をつい最近書いてみたという文章が載っていて、伸行はそれに惹かれた。自分と似ているのにちょっと違うというその感性や言葉の使い方にやられた。この人と連絡を取ってみたい、と思い立って、メールフォームから長々とメールを送った。返信が来ることなど期待もせずに。
しかし返信はすぐに来た。それから頻繁にメールのやり取りを繰り返していくことになる。その内に、伸行の中に自然と、この女性と会ってみたい、会ってその声を聞いてみたいという欲求がふつふつと湧き出てくるようになった。
しかし「ひとみ」は、会えないという。それでもなんとか粘って、「ひとみ」と会う段取りをつけた伸行だったが…。
というような話です。
さすが有川浩です。有川浩の凄いなと思う点は、ベタ甘なラブコメを、それが好物というわけではない僕に、これほど読ませ、かつ感動させてしまう、という点ですね。ホント、有川浩のベタ甘ラブコメは、物語として本当にレベルが高いと思う。僕は少女マンガとかほとんど読んだことがないんで、今から書くことは偏見重視ですけど、少女マンガ的なラブコメって、普通の女の子がカッコいい男の子にとか、ありえないような状況から恋が芽生えるとか、そういう女性の妄想を具現化したみたいな作品が多いイメージがあるんだけど、有川浩のラブコメは全然そんな感じじゃないですよね。凄く日常的にありえそうな状況から(本書の出会いの設定も、別に現代では普通ですよね)、凄く現実的な恋愛を描いているのに、それがベタ甘なラブコメになっているわけなんです。解説で山本弘氏が、「有川浩の最大の魅力が会話のうまさだ」と言っているように、設定がどうあれ、その会話によって作品がラブコメになると言っていいでしょう。本当に凄いと思う。
本書では、ネタバレになってしまうのでここには書けないある事情によって、なかなか苦労ある恋愛模様が描かれていくことになる。その事情というのが要するに、「ひとみ」が伸行に会いたくないと思うその理由なのだけど、しかしそれについて触れずに感想を書くのは難しいなぁ。
肝心な部分に触れないままちょっと文章を書いてみたんですけど、それでもやっぱりこれはネタバレになるなと思ったんで、ちょっとそれは消しました。「ひとみ」の事情に絡む話はちょっとここでは一切書かないことにします。そのために、感想で書けることがかなり限定されてしまいますけども(泣)
会話の巧さの話に戻ろうかな。本書では、「ひとみ」と伸行がリアルに会っている時の会話ももちろんいいんだけど、それ以上に、二人がメールでやりとりしているのも凄くいいですね。二人の間には、「ひとみ」が抱える事情のために、大きな壁のようなものが立ちはだかっているわけなんだけど、それを伸行が必至に壊そうとしている。「ひとみ」は、壁の向こう側をなかなか信じることが出来ないでいて、壁が壊されるのを必至で防ごうとしてしまう。そういう、まさに攻防と言ってもいいくらいのやり取りがメールで行われるわけです。これが素晴らしいですね。メールだから踏み越えられるラインとか、ネット上での距離感みたいなものも凄くリアルだし、壁を壊そうとする側と壁が壊れることを防ごうとする側が、最終的にはきちんと向きあって一緒に前を向いて歩くようになっていく過程というのも素敵です。
正直ところどころ泣きそうになりましたからね。バイトの休憩中に泣きそうになったりして、あーいかんいかんこれは我慢なり、とか思いながら読んでいる場面もありました。ラブコメでは僕は普通泣きませんですよ。
あと、非常に登場人物の限られた作品の中で、「二塁打ナナコさん」の存在感がいい。というか僕は、個人的にこの「二塁打ナナコ」さんにかなり惹かれるものがあるのだなー。たぶん、男がそう感じることを計算に入れてこのキャラは描かれているんだろう、と思いました。正直僕は、「二塁打ナナコさん」の方がいいなー、とか思ってしまうような男でございます。
まあそんなわけでですね、素晴らしい作品でございました。作中の肝となる部分にはまるで触れずに感想を書いているので、素晴らしさをまく伝えきれていない部分もあると思うんだけど、是非読んでみて欲しい作品です。恋愛モノはなぁ、と思っている方にも、割と面白く読んでもらえる作品ではないかと思っています。是非読んでみてください!

追記)ストーリーとはあまり関係ない点を二つだけ追加で書こうと思います。
まず、伸行が使っている大阪弁についてこんな記述がある。
『何しろ関西弁(特に河内弁)は、いかなる外国語との喧嘩でも迫力負けしない地上最強言語である。巻き舌に啖呵のタイミング、こと喧嘩言語としては世界中でも最も進化している言語であると言っても過言ではない。』
有川さん、断言するなぁ(笑)。さすが大阪弁です。
あと本書には、「図書館戦争」のアニメ化について、あるエピソードをアニメ化することは出来ないということが前提だった、という話が衝撃的でした。いや、自主規制は大事かもしれませんけど、やっぱり本当に大事なもののために活かされてはいないなぁという感じがしました。ビックリです。

有川浩「レインツリーの国」

「朝からアカネと連絡が取れない。朝からマルイのバーゲンに行こうって約束してたんだけれど。寝坊かもしれないと思ったけど、すごい楽しみにしてたからおかしいと思ってアカネの住んでるマンションまで行ってみた。ベランダに鉢植えが出しっぱなしになってた。ほらアカネって、夏でも夜鉢植えを室内にしまうでしょ?だからおかしいと思って、大家さんを無理矢理説得して、中にはいらないって条件でドアだけ開けてもらった。玄関に、昨日アカネが履いてた靴がなかった。沓脱ぎには脱ぎっぱなしの靴がいくつかあったから、靴箱に入ってるってことはないと思う。たぶん昨日、アカネ家には帰ってないと思う」
カナちゃんは、息継ぎをする間も惜しんで一気に喋った。事情は大体分かった。確かにアカネちゃんは昨日家には帰っていないのだろう。そして昨日アカネちゃんと最後に会ったのは、たぶん志保だ。けど志保には、カナちゃんの役に立ちそうな情報は何一つ持っていなかった。

「失踪シャベル 17-2」

内容に入ろうと思います。
本書は、偶然だとか運だとか確率だとかについて、広く全般的に扱った作品です。
いやまあですね、とにもかくにもつまらない作品で、箸にも棒にもかからないという感じです。新書なんだから、と思わなくもないけど、ちょっとこれはなぁ、という感じ。
仏教やら哲学っぽい話やらも出てくるし、スピリチュアルやら占いの話もあれば、確率やベイズ推定の話なんかもある。あらゆるジャンルをごったにして、そういうなかなか偶然や運について考えるという作品なんだろうけど、いかんせん焦点が定まっていなさ過ぎて何が言いたいんだかイマイチよくわからない。まあそりゃあ、ところどころで書かれるアドバイス的なものが参考になるという人もいるだろうけど、僕としては、曖昧なことを漠然と書いているだけで、だからどーした、という感想しか抱けませんでした。
というわけで、この本についてはほとんど書くことがないですね。僕としては基本的にまるでオススメは出来ません。

植島啓司「偶然のチカラ」

「アカネがどこに行ったか知らない?」
二限の講義中、カナちゃんがらメールが来た。
「今日は見てない。講義にもいない」
前の方の席で、講義中にメールの返信をするのはなかなか難しい。とりあえず急ぎでそれだけ返すと、ノートを取るのに専念した。それからカナちゃんからの連絡は来なくなったけれど、どうせ昼に会うのだからそこで話せばいいということだろう。
講義が終わっていつもの食堂に行こうとすると、志保を待っていたかのようにカナちゃんに捕まった。
「アカネが帰ってないみたい」
「え?どこに?」
「家に。昨日」
「うそ。だって昨日」
「そうシホん家に行ってた。それからアカネ、どうした?」
「どうしたって、普通に帰ったよ」
「なんか言ってなかった?」
「ううん。ビーフシチューうまかったって、最後に」
そうやって喋っている間にもカナちゃんの携帯電話は鳴っていた。志保と話しながら、来たメールをチェックしているようだけれど、カナちゃんの顔は晴れない。いろんな人にアカネちゃんの行方を探してもらっているのだろう。

「失踪シャベル 17-1」

内容に入ろうと思います。
本書は、偉大な物理学者であり、多くの人に親しまれたファインマンが、テレビや講演などで語ったことを一冊の本にまとめたものです。
内容について深く紹介するのが難しい本なんで(講演録なんで)、それぞれの章のタイトルだけ挙げて終わりにしようと思います。

「ものごとをつきとめることの喜び」
「未来の計算機」
「現代社会での科学的文化の役割とそのありかた」
「底のほうにはまだ十二分の余地がある」
「科学の価値とは何か」
「リチャード・P・ファインマンによる スペースシャトル「チャレンジャー号」自己少数派調査報告」
「科学とはなにか」
「世界一、頭のいい男」
「リチャード・ファインマン、宇宙を築く」
「科学と宗教の関係」

全体的な感想としては、ちょっと残念だったかなという感じです。でもこの評価は恐らく妥当な評価ではないでしょう。本書は、ちゃんと面白い良書だとは思います。でも僕の評価が何故低いのかというと、それは以前に読んだ「ご冗談でしょう、ファインマンさん」という作品があまりにも面白すぎたからです。
「ご冗談でしょう~」の方は、たぶんファインマン氏が自分で書いた原稿がほとんどだったんじゃないかと思います(記憶が曖昧なので間違っているかもですけど)。しかも話題は、一応物理のことを中心にしていましたが、それよりもファインマン自身の人生について語っているような作品でした。僕は基本的に、物理学者そのものの人生より物理そのものの方に興味が行く人間ですが、ことファインマンに関していえば真逆でした。ファインマンという物理学者の生き方・考え方・感じ方がとにかく面白すぎて、しかもファインマンという人は物理一筋のカタブツというわけではなく、とにかく興味を持ってあらゆることに手を出していたりする。そういう、ファインマン自身の生き方が軽妙に書かれている作品で、とにかく面白かったです。
一方で本書は、やはり講演(しかも一般人を対象にしたものではなく、科学者や教師と言った人たちを対象にしたものだったので)がメインになるので、ちょっと堅苦しい印象を受けました。もちろん、良いことが書いてあるし、相変わらずその考え方には素晴らしいものがあるなと思うのだけど、どうしても「ご冗談でしょう~」を読んだ時の印象が強いので、本書の堅さみたいなものはあまり好きになれなかったな、というのが正直な感想です。
なので、決して作品自体が良くない、ということではないはずです。結構難しい描写もありますけど、物事を変わった方向から見るファインマンの視点はやっぱり新鮮だと思うし、科学についてだけでなく、教育や哲学・宗教などと言った問題にも斬り込んでいく姿勢は素晴らしいと思います。
個人的には、第一章の「ものごとをつきとめることの喜び」と、第七章の「科学とは何か」というのがよかったですね。何がいいかというと、この二つの章には共に、ファインマンの父親の話が出てくるんです。この父親が素晴らしくて、ファインマンはまさにこの父親に教育されて素晴らしい物理学者になったと言ってもいいでしょう。この二つの章は、子供をいかに教育するか、という観点から読むと実に面白いと思います。
例えばこんな感じです。ある時知り合いの男の子から、「あれは何て鳥か知ってるかい?」と聞かれるのだけど、ファインマンは「知らない」と答える。するとその男の子は得意げに鳥の名前を言い、「君のおやじはそんなことも教えてくれないのか!」と言われるのだけど、実際ファインマンの父親はきちんと教えてくれている。
じゃあファインマンの父親はどんな風に言ったのか。

『あの鳥は何という鳥かわかるかい?あれはね、茶首ツグミというんだよ。もっともポルトガル語ではな…、イタリア語ではな…、それに中国語だと…、日本語だと…。
これでいろんな国の言葉であの鳥の名前を何というかわかったわけだが、いくら名前を並べてみたってあの鳥についてはまだ何ひとつわかったわけじゃない。ただいろおいろ違った国の人間が、それぞれあの鳥をどう読んでいるかわかっただけの話だ。さあ、それよりあの鳥がいま何をやっているのか、よく見るとしようか』

ファインマンはこういう父親から、
『彼は何かの名前を知っていることと、何かをほんとうに知っていることとの違い』
を教わることになるわけです。こういう父親のエピソードというのはたくさんあって、どれも素晴らしい示唆に富んだものだと思います。教育という観点から、第一章と第七章だけでも読んで欲しいものだなと思います。
というわけで、僕としては「ご冗談でしょう~」があまりにも素晴らしい作品だったので、ちょっと堅さのあるこちらの作品はどうも好きになれなかったのだけど、作品としては素晴らしいものだと思います。僕としては「ご冗談でしょう~」を絶賛オススメいたしますけど、興味があればこちらも読んでみてください。

R.P.ファインマン「聞かせてよ、ファインマンさん」

「いや、そのさ、そこに無造作に置いてあったからさ、ちょっと興味を惹かれたっていうか」
確かに、探そうとしなくてもすぐ目につくところに置いていた志保が悪い。
「ううん。いいよ」
そう言うとアカネちゃんは明らかにホッとしたみたいな表情になった。
「でもあれだね」
「ん?」
「お母さんの字って、ベルの字そっくりなんだね」
「え?」
「ほらあたしさ、よくベルからノート借りるだろ。だからベルの字ってすごい見慣れてるんだよ。この書置きの字、ベルの字そっくりだなって思って」
志保は一瞬なんて言っていいか分からず、答えに詰まった。
「そう。よく似てるって言われる」
そう言うのが精一杯だった。
「再婚相手は帰った?」
「うん、帰った」
「じゃ、あたしもそろそろ帰るわ」
「うん、アカネちゃん、今日はありがとね」
「いや。ビーフシチュー、うまかったぜ」
玄関に向かうアカネちゃんと一緒に、志保は急いで自分の部屋に戻っていった。

「失踪シャベル 16-15」

内容に入ろうと思います。
本書は、戦時下のフランスで起こったとある出来事をモチーフにした物語です。それは、『ヴェロドローム・ディヴェール(冬季自転車競技場)の一斉検挙』と呼ばれる、パリ中心部で起こった。フランス警察の手によるホロコーストでした。
物語の前半は、二つの視点で進んでいきます。
一方は、1942年7月、まさにその『ヴェルディヴ』が起こった朝からの出来事を、一人の少女の視点で描いたものです。その少女はまだ幼く、ユダヤ人がどうして迫害されているのか理解出来ていない。当時フランスでは、ユダヤ人である成人男性が摘発されることが多かったため、父親だけが地下室にいる生活だったのだけど、フランス警察がやってきたその朝は、女子供も無関係に連れだされたのだった。
ナチス政権が背景にあったとはいえ、フランス警察はフランス国籍を持つ子供を含む13000人のユダヤ人を検挙し、競技場に押し込んだ。劣悪な環境に置かれた少女には、気がかりな点が一つだけあった。
それは弟のことだった。少女は、すぐに戻って来られると信じていたので、弟を秘密の納戸に隠し、外から鍵を掛けたのだった。連れ去られてからも一瞬足りとも忘れることの出来なかった弟。なんとか弟を救わなくては…。
一方で60年後のフランス。アメリカ人であり、フランス人男性と結婚したジュリアは、勤めている雑誌の編集部から、『ヴェルディヴ』に関する記事を担当するように言われる。ヴェルディヴに関してまるで知らなかった彼女だが、大方のフランス人もそれについてはよく知らないのだ、ということを知る。今では絶版になってしまった多くの書籍を探したり、ユダヤ人救済のための最大の組織を作り上げた人物を取材したりと精力的に取材を続ける彼女だったが、ふとしたことからその取材が、実に個人的な関わりを持つことに気づくことになる。ジュリアは、雑誌の取材とは別に、自らの気持ちを整理するという目的のためにヴェルディヴの取材にのめりこんでいくことになるのだが…。
というような話です。
なかなか重厚な物語でした。驚くような展開があるわけではないし、淡々と物語が進んでいくのだけど、読ませる力のある物語だなと思いました。
僕はそもそもホロコーストというものについてほとんど知らなかったんですね。ホロコーストの意味を知ったのもつい最近という有様で。それまでは、ホロコーストって星占いとかそういう類の何かだと思っていましたよ。
そんな今でも、ホロコーストがどんなものだったのか、ちゃんとした知識があるわけではありません。アウシュビッツ収容所ぐらいは知ってるし、何か類する写真も見たことあるけど、真剣に知ろうとしたことはこれまで特になかったですね。
しかも、本書で扱われている「ヴェルディヴ」というのは、フランス人さえほとんど知らない、という失われつつある過去なんだそうです。このヴェルディヴは、背景にナチスドイツの圧力があったとは言え、基本的にそのほとんどをフランス警察が主導したホロコーストなわけです。1995年に、シラク大統領がこの件に関して触れ、国家として正式に謝罪をしたというスピーチがあったらしいんだけど、それで初めてこの出来事を知ったというフランス人が多数いたそうです。著者もその一人だったようで、歴史の授業でも教わらなかったその出来事について調べ、そして本書を書いたんだそうです。
ホロコースト全般について基本的な知識がないので、このヴェルディヴが他のホロコーストと比べて酷いのかどうかという判断は出来ないのだけど、しかし無茶苦茶だと思いますね。魔女狩りだとかアパルトヘイトやら、歴史にはそういう差別の話は多々ありますけど、やっぱりユダヤ人だというだけの理由で迫害されるというのはまったく理解できませんね。
しかし一方で、じゃあ例えば僕がその時代のフランス人だったとして、ユダヤ人の一斉検挙を目にしたとしたら、何か出来ていただろうかと言われると、それは無理だっただろうな、と思います。結局その場にいた多くのフランス人と同様、見なかったことにしてまた日常に戻っていたことでしょう。戦争にしても何にしてもそうだけど、未来の人間が過去の出来事に対してとやかく言うことは簡単です。でも、その時代その場にいた人の気持ちになることは絶対に出来ないと思う。だからこそ、過去に起こったどんな出来事についてもそうだけど、軽々しく批判は出来無いな、と思ってしまうんですね。もちろん、二度と起きてはいけないとは思うけど。
本書では、そのヴェルディヴに直面した少女の視点から、そのヴェルディヴの真っ只中の描写が語られるというのがとにかく重いですね。もちろん、どれほど資料に当たることが出来たとしても、生存者がほとんどいなかったと言われる出来事なので、このヴェルディヴに関する描写は想像による部分が大きいだろうと思います。どこまで真実なのかは誰にも分からないとはいえ、グッと迫ってくるものがありますね。しかもそれが、何も知らなかった無垢な少女によって語られるので、余計に苦しい感じがします。
こういう話を読むと、昔誰かがやった有名な心理学の実験を思い出します。被験者を適当に刑務官側と囚人側に分けて、それぞれの役回りを演技させます。するとしばらくすると、刑務官側に振り分けられた被験者は横暴になっていく、というものです。元の性格がどうであろうと、与えられた役回りをこなしていく中で、どんどん性格が変わってしまうんだそうです。本書でも、フランス警察はそれまでと態度を一変させてユダヤ人の一斉検挙に乗り出すわけだけど、そこで発揮された非情さは、やはり人間誰しもが持つ固有の傾向なんだろうと思うし、自分がその時代のフランス警察の一員だとして、本書で描かれるような酷いフランス警察のようにきっとなっていただろうなと思います。
さて一方で、ヴェルディヴについて調べているジュリアは、このヴェルディヴにのめりこんでいくことになります。元々アメリカ人であり、フランスが起こしたタブー的な出来事についても先入観を持つことがなかったということもあるでしょう。そういう点でも、主人公をアメリカ人に設定したのはうまいと思います。
またジュリアは私生活でもかなりいろいろと苦しい立場にあったりするんですね。それで、まさに現実から逃避するかのようにヴェルディヴの取材にのめりこんでいく。しかしその過程で彼女は、新しい人生を掴みとっていくことになるわけです。その物語の構成力の巧さは抜群だと思いました。60年前の出来事が、現実的にジュリアの人生に影響を与えていく過程は、なかなか真に迫るものがあるなと思います。
ジュリアが知ることになる、自身の個人的な事情とヴェルディヴの関係の切り出し方も凄くうまくて、物語の導入部分が秀逸だなという感じです。自然とジュリアがヴェルディヴの取材にのめりこんでいくようになる展開がなされていて、違和感なく物語に入れます。その後も、自身が抱える問題とヴェルディヴの問題とがオーバーラップしたりとかして、ただ単にホロコーストを扱ったという作品ではなく、ヴェルディヴというホロコーストを扱いつつ、物語としての完成度も凄く高いと思いました。
個人的に好感が持てたのは、人探しにページを割かなかったこと。探している人が割とあっさり見つかってしまうことに不満を感じる読者がもしかしたらいるかもしれないけど、個人的には人探しに無駄にページを使うより、サクっと見つかって物語がどんどん進む方がいいと思うんで、いいなと思いました。
淡々とした描写で綴られる、物語単体は地味な作品だと思いますけど、見事な構成力と、辛い過去に真摯に向き合う強い気持ちとによって見事な小説になっているなと感じました。静かな中に力強さを感じさせる芯の強い物語であり、またいろんなことについて深く考えさせてくれる作品でもあると思います。僕の個人的な意見ですが、歴史を知ったところで過去は繰り返されてしまうと思います。しかしそれでも、過去何が起こったのかを知ることには意味があるのではないかと思わされました。是非読んでみてください。

タチアナ・ド・ロネ「サラの鍵」

「財布はないみたいです」
「涼子さんの財布を見たことは?」
「牛皮の、焦げ茶色っぽい感じの財布ですよね?」
「そう。なかったですか。分かりました。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
そう言うと、脇坂さんは深々と一礼して、敬叔父さんと一緒に帰っていった。ふと志保は疑問を覚えた。財布について聞くだけなら、電話でもよかったのではないか。ここまで来れば部屋に入れてもらえると思ったのだろうか。それとも別の考えがあったのだろうか。
志保は、とりあえず憂鬱な時間が終わったことにホッとした。アカネちゃんにありがとうと言おうと思ってリビングへと向かい、ドアを開けた。
アカネちゃんはちょうど、お母さんが残した書置きを読んでいるところだった。
「あ、いや、見るつもりはなかったんだけどさ」
アカネちゃんは動揺したような声でそう言った。

「失踪シャベル 16-14」

内容に入ろうと思います。
主人公の二人は、2006年現在では、同じ大学の教授と事務方という関係であり、一方で1968年では同じ小学校の同級生という関係だ。三都が教授で、安斎が事務方である。
ある日起きると、三都と事務方は1968年の小学校だった時代に意識だけタイムスリップしてしまった。つまりどういうことかといえば、外見は小学生だが、記憶や思考は中年である2006年現在のものであるという、そんな変わったタイムスリップを経験することになったのだ。
初めは戸惑った二人だったが、一日ごとに現在と過去を交互に繰り返していく生活にもしばらくして慣れる。
二人はある実験をし、タイムスリップした先の1968年が、二人にとっての現在である2006年の世界と時間的に繋がっていることを確認した。つまり、1968年の時代で何か行動を起こせば、2006年の世界に何らかの影響を与えられるのだ。
そこで二人はある決意をした。1968年と言えば、未曾有の事件である3億円事件が起こった年だ。クラスメートで、途中で東京へと転校してしまった里美ちゃんは、3億円事件のせいで命を落とすことになった。二人は、里美ちゃんの命を救おうと決め、ありとあらゆる準備を進めていくのだが…。
というような話です。
なかなか面白い作品でした。いろいろと突っ込みたいところはあるけど、全体的にはエンタメ作品として程良くまとまっているんじゃないかな、と思いました。
初めは、1968年の描写は三都が、2006年の描写は安斎が視点人物になっているという切り替えがどうもうまく出来なくて(短い区切りで時代が入れ替わるんで)、慣れるまでちょっと時間掛かりましたけど、なれればスイスイ読めました。タイムトラベルに戸惑ったり、知恵を絞って不可能を可能にしたりというストーリー展開はなかなか面白かったと思います。
ただ、タイムトラベルの設定はもう少し厳密さが欲しかった気がします。本書では、『どうしてそうなるのかまったくわからないけど、そうなるんだから仕方ない』というような感じで展開される話が多いんですね。もちろん、そもそも意識だけ過去に行っちゃうなんていう設定にきっちりとした理屈をつけるのが難しいってのも分かるんだけど、もう少しルールの輪郭みたいなものがきっちりしている方が読み手としては納得しながら読み進められる気がします。
あと、ラストがホントにトントントンとサクっと終わってしまったのもちょっと残念でした。計画段階の描写はかなり多いのに、その計画を実行したという描写は限りなく少なくて、もう少しその部分の盛り上がりが欲しかったな、という感じはしました。特に3億円事件に関わる部分は、もう少し書き加えてもよかったような気がします。ラストがホントあっさり終わってしまったので、そこはちょっと物足りない感じはしました。
北海道在住の小学生が、いかにして東京の3億円事件の現場に行くか、っていう計画部分はなかなか面白かったです。さすがにちょっと都合良すぎだろ、というような設定もありますけど、まあそうでもしないと東京に行けなかっただろうから、まあいいかなという感じはします。
また、三都と安斎の3億円事件への関わり方の違いみたいなものも面白いですね。三都の方は、純粋に里美ちゃんを助けるという目的なんだけど、安斎の場合はちょっと違うんですね。しかもそっちに関してもいろいろゴタゴタがある。2006年における安斎のいろんなてんやわんやという感じは、読んでてなかなか面白いなと思いました。
全体的には、さらっと読めるなかなか面白い作品だと思います。強くはオススメしませんが、読んでみても面白いと思います。

小路幸也「カレンダーボーイ」

そう言って志保は、玄関から向かって右手にあるお母さんの部屋に入った。
志保はお母さんの部屋をあれこれ漁りながら、脇坂さんについて考えていた。脇坂さんにもっと早くに会っていたらどうなっていただろうか。もしかしたら、何も変わらなかったかもしれない。でも、もっと違った道を進むことも出来たのかもしれないとも思う。後悔するのは最良の選択肢を選びとる覚悟のない人間だと志保は思っているのだけど、自分が選んだ道が最良であったのかどうか、自信がなくなりつつあった。後悔はしないと決めた。でも、もしこの道を選ばなかったらどうなっていたのかを想像するぐらいのことは、自分に許そうと志保は思った。
しばらくして志保は部屋から出た。

「失踪シャベル 16-13」

内容に入ろうと思います。
とはいえ、僕に本書の内容を説明できるとも思えないですが。
葦船住人は2008年に、テロ未遂で逮捕される。しかし葦船住人には、政治的な背景も宗教団体との関わりもなく、何故葦船住人がテロ行為を企てたのか誰にも理解できず、冤罪なのではないかという話も出る。
葦船住人は、小説家としてデビューし、担当編集者であった大島友梨花と結婚した。しかし結婚生活はうまく行っているとは言えなかった。葦船住人は様々な葛藤を抱えながら生活を続けていた。
そんあある日、一通のメールが届いた。2035年から届いたらしいそのメールはなんと、葦船住人と大島友梨花の間に生まれなかった娘からのものだった。
その娘、葦船風子は、私は平行世界にいる、と告げます。高度に発達した情報化社会の中で、量子演算を繰り返した結果、平行世界からの干渉に気づくことになり、そしてやがて、平行世界の対象と連絡できる技術が開発されたのだ、と。
葦船住人はそのメールを、自分が発信したメールだ、と認識しました。自分は狂っている。狂ったもう一人の自分が、生まれなかった娘を騙って自身にメールを送っているのだ、と。
しかし、風子にアリゾナまで来るように言われた葦船住人は、風子の存在を信じていないにも関わらず、その誘いに乗ります。そして葦船住人は…。
というような話です。
いやー、凄い小説でした。面白いのかどうかと聞かれると、なんて答えていいのかイマイチよく分かりませんが、とにかく物凄い小説だ、ということはわかりました。
物語の展開は、正直追い切れていません。なんとなく分かる部分と、よくわからない部分が混在していて、なんだかよくわからなくなっています。とにかく、設定が非常に複雑なので、すいすいとは読み進められない作品です。
ただ、複雑でなかなか理解出来ないとはいえ、物語の設定は素晴らしいと思いました。きちんと説明できるとは思えないけど、自分なりの言葉で説明するとこんな感じです。
コンピュータにおいて、古典回路であれば、演算は0か1かに収束させられるわけですけど、量子回路の場合、0から1までのありとあらゆる数字の重ね合わせを保ったままで演算をすることが出来る。それはつまり、ありとあらゆる平行世界に演算を分散させる一方、結果だけは僕らの世界に反映させるような、そんな仕組みだと言ってもいい。
量子回路がある閾値を超えてしまったために、ネットワーク全体が量子的に発散してしまい、他の平行世界からの干渉を避けることができなくなってしまった世界、というのが本書の設定です。これがまあ難しい。量子コンピュータというのは、実際僕らの世界でも研究が進められているもので、しかもその演算は、本書でも語られているように、『無数の平行世界に演算を分散させることで処理スピードを格段にあげる』というやり方なわけです。まだ量子コンピュータは実用化には至ってなくて、もう少し時間が掛かりそうですけど、もしかしたら量子コンピュータが普及してある一定の閾値を超えたら、本書のような現象が起こってもおかしくないんじゃないか、と思わせるだけのリアルさがありました。
しかも本書のメインのストーリーは、その平行世界同士でやり取りをし、別の平行世界に介入する、という部分なんですね。ここもまた難しい。どうやって平行世界同士で通信をするのか、平行世界間で『意識の転送』をどうやって行うのか、というような技術的な描写はほとんど僕にはよく分かりませんでした。難しかったですね。
本書では、いくつかの平行世界が同時進行で描かれるんで、もうどの話がどこの平行世界の話で、どれがどの平行世界の話でないのか、もうさっぱり分からなくなりますね。しかも人格の転移なんていう現象もあったりして、誰が誰なのかぐちゃぐちゃになっていったりします。ホント、よくもまあこんな物語を書いたものだな、という感じがしました。
物語は、なんなんでしょうね、家族の話でもあるし、設定はSFだろうし、でも文学の香りもするし、それになんかそういうジャンル分けがそもそも無理みたいな匂いも漂ってくるんですね。作品全体を理解出来ているとはとてもじゃないけど言えないけど、でもとにかく凄い物語だったなぁとは思います。
僕には、本書の解説書みたいなのが欲しいですね。どの平行世界での話がどうなっていて、結局誰がどの平行世界からどんな干渉をしたのかとか、それぞれの平行世界において誰の人生がどんな風に展開していったのかみたいなのがすぐ分かるような解説書が欲しいですね。そういうのがないと、ちょっと僕には本書は理解出来ないなぁ、という感じがします。面白いかどうかと聞かれると、返答に困る感じですけど、読んでみる価値のある物語だと思います。たぶん読む人によっていろんな捉え方の出来る作品なんではないかなと思います。批評家の初の小説作品らしいですけど、初めて書いた小説でこんなとんでもないものが書けるというのはやっぱり凄いなと思いました。この著者の批評とか読んだことないですけど、メチャクチャ頭良い人なんだろうな、と思いました。
というわけで、激しく複雑で難解なストーリーなんで、軽々しくオススメするのは難しいですけど、読んでみる価値のある物語ではないかなと思います。興味があれば読んでみてください。

東浩紀「クォンタム・ファミリーズ」

「ええ。志保さんは、涼子さんが自発的に失踪したとお考えのようですけれど、僕にはどうしてもそうは思えません。個人的な事情なので詳しくは話せませんが、今涼子さんが自分から姿を消すとは考えにくい状況なんです」
「私も、具体的な話を聞いてはいないんだが、脇坂さんのその言葉が気になってね。それで来てもらうことにしたんだ」
「それと財布がどう関係するんですか?」
「もし涼子さんが自発的に失踪したのだとすれば、どんなに荷物を減らしたとしても財布ぐらいは持っていくでしょう。だからもし涼子さんの部屋に財布が残っていれば、それは自発的な失踪ではないという可能性が高くなります」
相変わらず脇坂さんの言っていることは論理的で、志保もなるほどと思ってしまった。財布のことは思いつきもしなかった。確かに自分が失踪する時だって、財布くらいは持っていくだろう。
「分かりました。ちょっと待っていてもらえますか」

「失踪シャベル 16-12」

内容に入ろうと思います。
本書は、東京バンドワゴンシリーズの最新刊です。4編の短編が収録された連作短編集です。
まず全体の設定について書いておきましょう。
舞台は、下町にある古本屋<東京バンドワゴン>。大黒柱である古書店主・勘一を初めとし、その息子で伝説のロッカーである我南人やら、さらにその下の世代まで4世代同居の超大家族です。近くの神社の神主やら、IT企業の社長やら、近くの小料理屋の夫婦やら、家族ではないけど仲間というような人たちもわらわら関わって、常に賑やかな堀田家です。
そんな堀田家の面々を見ている、本書の視点となる人物は、既に他界してしまった勘一の妻サチです。サチの家族を見る温かい視線が、物語全体をさらに素敵なものにしています。

「夏 あなたの笑窪は縁ふたつ」
勘一は、近くの神社の神主であり幼なじみである祐円と、かつての知り合いである<ネズミ>の墓参りに向かう。それに同行した祐円の甥っ子が、寺でやった大学の合宿で百物語をやったという。そこで実に恐ろしい体験をしたと言って勘一に相談するのだが…。
一方で、IT企業の社長である藤島が、堀田家の隣に建てたアパート<藤島ハウス>への引越し作業が同時にあって、人手が足りなくなるということで、亜美の弟・修一が呼ばれて店番を手伝うことに。しかしこの修一が今、道ならぬ恋をしているのだとかなんだとか…。

「秋 さよなら三角また会う日まで」
店の前に、<捨て猫>と書かれたダンボールが置かれている。中にあったのは、猫に関係する古本。これは一体なんなのだろうなぁ、と堀田家の面々は首を傾げることになる。
一方で、近隣の住民から、<東京バンドワゴン>について文化庁だか新聞記者だかが調べている、という話を聞かされる。思い当たることがあったのか、勘一は家族を集めて話をするのだが…。

「冬 背で泣いてる師走かな」
紺の大学時代の恩師が<東京バンドワゴン>にやってくる。紺を訪ねてきたらしいのだけど不在。どうやら家に蔵書を置けなくなったのでどうしたらいいだろうか、という相談だったようで、それならと勘一は、静岡にある<東雲文庫>を紹介する。しかしそれを聞いた紺は急いで<東雲文庫>に足を運ぶことに…。
一方で、IT企業の社長の藤島はあることで思い悩んでいた。だったらと、我南人に、クリスマスパーティーにみんな呼んじゃいなよ、と言われるのだが…。

「春 オール・マイ・ラビング」
我南人の周囲がちょっと騒がしくなっていく。とある事情で祐円と藤島に持ち込まれた内密の相談事も我南人に関わるものだし、アメリカからやってきたハリーって男の用件も我南人絡みだった。
一方で、研人は卒業式を控え、何かやろうとしているらしい。同級生であるメリーちゃんに、何か思い出に残ることを、と言われて張り切っているようなのだけど…。

というような話です。
いやー、相変わらずこのシリーズは素晴らしすぎますね!本書はシリーズ第五弾です。正直、僕は読んだ本についてすぐ忘れちゃうんで、前のシリーズの話をするっと忘れていることが多くて、全部読み返したいなぁ、という気分になりました。
ホントに、これほど登場人物たちに愛着を感じる小説って、なかなかないと思うんですよね。登場人物表を見てもらえばわかると思うんですけど、この登場人物の多さはちょっと異常ですよね。でも、確かに前作までのシリーズの内容は忘れてますけど(笑)、一人ひとりどんなキャラだったのかというのは大体覚えてるし、これだけキャラクターがいても、その書き分けは見事なものがありますね。本当に、ある家族の成長を間近で見守っている、というような感じがします。
ストーリーもそれぞれもちろん面白いんだけど、正直このストーリーだけ取り出してもダメですよね。別のなんてことないキャラクターたちが、本書と同じストーリーで描かれていても、たぶん全然ダメでしょう。まあどの小説もそうであることを目指して書かれているのだとは思うのだけど、このシリーズほど、ストーリーがキャラクターにぴったりと寄り添っている作品はないんじゃないかな、という気がします。このキャラクターたちだからこそ、このストーリーが活きる、という話ばかりで、うまいこと考えるものだなと思います。
ストーリーで一番好きなのは、やっぱり「夏」の話ですね。これはもうラストが素晴らしすぎます。ラストである登場人物が言うセリフがすごくよくて、ここに書こうかとも思ったけど、やっぱそれはちょいネタバレになっちゃうよなぁという風に思ったのでやめておきます。
「秋」も、ラストちょっとあまりにも現実的ではないような気がする展開が出てきますけど、さすがという感じの仕切りですね。この「秋」のラストは、京極夏彦の「巷説百物語」シリーズのライト版かな、という感じもします。
「春」の研人もよかったですね。このシリーズは、サザエさんみたいに登場人物が年を取らない話じゃなくて、きちんと皆成長していくわけなんだけど、この「春」の話で研人の成長が物凄くよく分かります。
このシリーズを読んでると、大家族って羨ましいなぁ、と思いますね。これだけ毎日賑やかで、しかも楽しいことがあって、近所とも親しくしていて、しかも<東京バンドワゴン>を慕ってくれる人がそれこそ山ほどいるなんていう環境だったら、素敵だよなぁ、と思います。でも同時に、まあ大抵の大家族はここまでいいもんじゃないだろう、とも思いますけど(笑)。このシリーズを読むと、大家族に憧れますけど、僕自身の性格を考えると、まず大家族は向いてないだろうなとも思います。ただ生まれた時から大家族だったらまた別なのかなぁ。
というわけで、やっぱり素敵過ぎるシリーズです!このシリーズはやっぱり、1巻から順に読んでいくのが一番ベストだと思います!是非是非読んでみてください!

小路幸也「オール・マイ・ラビング 東京バンドワゴン」

「お母さんが出て行ったことは、スナックのオーナーさんからの電話で気づきました」
そう切り出して、志保はお母さんがいなくなった時のことを話した。しかしそれは、敬叔父さんに話した以上の情報ではなかった。脇坂さんも知っている情報ばかりだろうけれど、脇坂さんは口を挟むことなく静かに聞いていた。志保が最後まで話し終わると、脇坂さんは一つお願いがあるのですが、と言った。
「涼子さんの部屋を見せて欲しいのですけど」
志保は即座に首を振った。
「いくら脇坂さんでも、勝手にお母さんの部屋を見せるわけにはいきません」
「そうですか」志保の返答は予想通りだとでも言う風に、脇坂さんは頷いた。
「それでは、涼子さんの部屋で、財布を探してもらえないでしょうか?」
「財布、ですか?」

「失踪シャベル 16-11」

内容に入ろうと思います。
本書は、サントリーミステリー受賞した著者のデビュー作です。
とある事情により刑事を止めた茜沢は、その後私立探偵になる。茜沢が刑事を辞める時にお世話になった真田から時々仕事を回してもらいながら、なんとか食いつないでいる。
そんな真田から回ってきた仕事が、人探しだった。ホスピスにいる松浦という老人が、35年前に生き別れになった息子を探して欲しい、というのだ。松浦は当時周囲では名の知れた極道で、出産時の出血によって妻が死亡、途方にくれて赤ん坊を抱き抱えながら夜の街をさまよっている時に、一人の女性に出会ったのだ。
その女性は、困っている松浦の様子を見て取り、松浦から話を聞き、そして松浦の子供を引き取り育てると約束してくれたのだ。
死の間際になって、少なくない遺産もある。出来ることなら息子に会ってみたい、というのが茜沢への依頼だ。しかし、35年も昔の話で、しかもその女性の名前も分からない。調査は困難を極めると思われた。
その一方で、別の事態も動き始めていた。真田から電話があり、かつて茜沢が刑事を辞めるきっかけになった事件について進展があった、と伝えてきた。先ごろ起きた殺人事件の現場に残っていた体液が、かつて茜沢の妻と息子をひき殺した犯人のものと一致したのだ。松浦の依頼をこなすついでに、真田が手がけている事件についても調べられる状況だったので、茜沢は二つの調査を同時に進めるのだが…。
というような話です。
物凄く良くできてる小説だな、と思いました。新人のデビュー作にしてはこなれている、という印象。最終的に、いやいやこんな偶然はちょっとないだろ、と思うようなストーリーではあるんだけど、僕はそういう部分がそこまで気にならないし、うまくまとまっていると思いました。
ただ一方で、正直な感想としては、ちょっと地味で物足りなかった、という感じもします。ただこれは、たぶん僕が山ほど本を読みすぎているから、という理由だと思うんです。僕みたいなヘビーな読書人間には、こういう地味な物語はそこまで強く訴えかけるものがないな、と。でも、普通に人に勧めることが出来る作品だと思います。
ストーリーは、そんな偶然は…、という部分を除けば、実にうまく出来ています。普通、これは僕の印象ですけど、人探しみたいなストーリーって、結構退屈なんです。一般的には評価の高い宮部みゆきの「火車」って作品も確か人探しみたいな話だったと思うんだけど、僕には面白さがよくわからなかったりしました。探している対象者の輪郭が徐々に浮き上がってくるというのが面白いのかもしれないけど、やっぱり物語として読むにはちょっとまだるっこしいという感じもしてしまいます。
でも本書は、結構頑張ってると思います。人探しだけではなくて、真田が関わっている事件の方も同時並行で進めていくことで単調さを補っているし、人探しの過程で出会う人々が素敵に描かれているので、やっぱり地味な展開ではあるのだけど、人探しのストーリーにしてはかなり頑張っていると思います。
でまあ、松浦老人の依頼と、真田が手がけている事件とが、まあ当然ながらいろいろ関わっていくんですけど、これが一筋縄ではいかない感じ。現実的勝手いうと現実的ではないけど、物語としてならアリだなと思える感じです。二転三転するラストは、なかなかうまいことやったなぁ、という感じです。
後半の方で、真田が手がけている事件の方でなかなか緊迫した展開になるんだけど、その辺りのテンポの良さはなかなかうまいなと思いました。この著者はデビュー後、国際謀略やらサスペンスやらを書くような作家になったので、本書のその部分の描写を読む限り、それ以後の作品もきっと面白いんだろうとちょっと思った。全体的に文章力があるし、本書ではまだちょっと弱いかなとも思うけど、人物描写も悪くない。フリーライターから作家になったようだけど、フリーライターだったからと言って小説の文章が書けるわけでもないでしょう。なかなか力量のある作家だなと思います。
この作家の作品は初めて読んだけど、なるほどなかなかレベルの高い作家だなと思いました。あんまり趣味ではないんだけど、この著者が出している国際謀略とかそういう系の作品も機会があれば読んでみようかなと思いました。ちょっと地味目な作品ですけど、しっかりした良作だと思います。読んでみてください。

笹本稜平「時の渚」

そうやって話してみると脇坂さんというのは人柄のいい人なのだろうと思わされた。少し理屈っぽいところはあるけれど、冷静だし、年下の志保に対しても丁寧さを崩すことがない。脇坂さんがお母さんを志保から奪って、どんどんおかしくしてしまったんだ、と思っていたようなところもあるけれど、実際はお母さんの方が脇坂さんに惚れ込んでしまったのかもしれないとも思った。お母さんが父親とは違ったタイプの男性に惹かれるというのも自然だと思うし、志保にしても会田君のような知性を脇坂さんから感じ始めていた。そうやって、空想の脇坂さんではなくて現実の脇坂さんと会話を交わすことで、少しずつ志保の心の凝り固まっていた部分が溶けて行くような気がした。でも、そこが溶けてしまうのは、志保にとっては都合が悪いのだった。もしかしたら自分は、こういう展開を恐れていたのかもしれない。自分のしたことが、もしかしたら間違っていたのではないかと突きつけられているかのようで、さっきまでとは別の意味で息苦しくなっていった。

「失踪シャベル 16-10」

内容に入ろうと思います。
本書は、史上初めて、ディズニー側の全面協力を得て、かつディズニー側の検閲を受けずに書かれた、ウォルト・ディズニーの伝記です。ディズニーはなかなか難攻不落らしく、通常であれば資料は見せてもらえず、また検閲も厳しいらしいんだけど、どういう理由でかこの著者はそれらを全部パス出来たようで、これほどのウォルト・ディズニーの伝記は今後現れることはないだろう、と言われるほどの作品だそうです。
本書はまさに、ウォルト・ディズニーの生涯を描いた伝記です。父親に苦しめられた少年時代、愛着のあった田舎の風景、自分はクリエーターになって絶対に素晴らしい作品を残すんだと絶対的な自信を持っていた青年時代。そんな時代を経てウォルト・ディズニーは、自らアニメ・スタジオを作ります。
始めこそ短編アニメを生み出し続け、そこでミッキーマウスというキャラクターも生まれたのだけど、カラー化や音声をつけたアニメなど様々に先駆的なことをやり、そして長編アニメを手掛ける。「白雪姫」が物凄く評価を得て、一躍時代の寵児になるも、制作費に金を注ぎすぎるためにスタジオは常に資金難に苦しめられることになります。しかしウォルトは、予算をケチッてつまらないものを作るよりはと、採算が採れなくても制作費をつぎ込んでいきます。
ウォルトは常に新しいことへとチャレンジし、やがてテーマパークの構想を得ます。自分が過去に成し遂げたことには関心を持たず、常に新しい創造の対象を追い求め、死の間際まであらゆることに力を注いだ「創造の狂気」の生涯を描いた作品です。
本書を読んで僕は、ウォルト・ディズニーはスティーヴ・ジョブズにもの凄く近いなという感じがしました。
僕の中でのスティーヴ・ジョブズのイメージというのは、自分が作ると決めたものには一切の妥協をせず、それを実現するためにありとあらゆる無茶をし、人をこき使い、時にはスタッフを特別な理由もなく解雇する、という感じなんですけど、ウォルト・ディズニーもまさにそんな感じなんですね。
とにかく、創造への情熱が物凄い。アニメ一本作るにしても、脚本を決めるだけでも1年とか2年とか平気で掛ける(今実際どれぐらいで作られてるのか知らないけど、でもさすがにこんなに時間を掛けてられないだろうと思います)。アニメの細部に渡ってイメージがあり、それを自ら演じてイメージを伝えようとする。決して妥協せず(これは後年、アニメや映画への情熱を失ってからはまた変わるんだけど)、少しでも気に入らなければやり直しを命じる。アイデアが常に沸いて出てきて、さらに熱中する対象があるとそれにずっと関わって、家に帰らなかったり自分で率先して作業をしたりするのだ。
とにかく、自分がこれだと思ったものを生み出す情熱については物凄いものがあります。決して立ち止まらず、常に何か新しい対象がないかと動き続けるというのも凄い。お金や女性や名誉なんかにはほぼ関心を持たず、お金は作品を生み出すことを保証するためのものであり、賞を授与したいからと言って呼ばれても忙しいからいけないと断ったりする。時計や車や服にも関心がなく、テーマパーク建設の際には、夜遅くまで自ら作業し、作業員と一緒にテントでホットドックを食べるような、そんな人間です。とにかく、対象が定まれば人生がそれ一色になってしまう、というのが凄い。
だからこそ、兄のロイが物凄く苦労することになります。ロイは会社の会計的なことを全て取り仕切っていたのだけど、ウォルトが思いついた端から何でも計画を実行してしまうし、制作費もじゃぶじゃぶつぎ込んでいくしで、よく会社として成り立っていたなぁ、と思います。モノづくりのセンスや先見の明ではウォルトは天才的な直感がありましたけど、経営のセンスはゼロで、ホント兄のロイがいなかったらディズニー社は成り立たなかっただろうな、と思います。
そういう、創造について素晴らしい才能を発揮する一方でウォルトは、人間的にはあまり好かれるタイプではなかったようです。少人数を相手にする時と大人数を相手にする時で態度が変わったりするらしいので、意図的にキャラクターを使い分けていたのだという見方もあるらしいけど、とにかくスタジオでは横暴という感じ。イライラしていることが多いし、何かを創造するという部分では自分の意見を絶対に譲らない。さらに、特になんていうことはない理由で従業員を解雇したりするんですね。特に、スタジオを初期の頃から支えてくれたスタッフでさえあっさり首を切られてしまうというのは驚きです(まあこれはスティーヴ・ジョブズも同じだったと思うけど)。ウォルトにとって、どれだけ長く働いてくれたかなんていうことは関係なく、今進行中のプロジェクトに役に立つか立たないかだけが重要なのであって、そういう非常な面も持ち合わせていたりします。
でも、初期のウォルトは、スタジオを活発で家族的な雰囲気にしたいと考えていたし、事実初期の頃はそういう形でスタジオを運営できていた。組織が大きくなるに従っていろいろ変わってしまったようです。
ただ、公の場に出る時には「親しみやすいおじさん」みたいなイメージでいたので、ウォルトのそういう嫌な部分はあまり表には出なかったのだろうと思います。とにかく、ウォルトと一緒に仕事をしていたスタッフは本当に大変だっただろうと思います。誰かが、「ウォルトは他人の天才を利用する天才だ」と言っていたようで、まさしくその通りだなという感じがしました。
他にも書こうと思えばいろいろ書けると思うんだけど、ちょっと今日は時間がないのでこの辺で終ります。結構長い作品で、ところどころあんまり関心を持てない話題(共産主義がどうとかとか、ウォルトが作ったのはアメリカのなんとかだとか、まあそういう話)もちょっとはありましたけど、なかなか面白かったなと思います。これほど、モノを生み出し続けることに貪欲すぎるという人間は、これからもなかなか出てこないんじゃないかなと思います。日本のトップレベルの漫画家なんかは結構近いかもだけど、でもウォルトみたいに壮大なレベルで物事を考えているというわけでもないでしょうしね。人間的にはなかなか難しい面もあったと思うけど、ウォルトが成した奇跡は素晴らしいものがあるなと思います。たぶんビジネス書としてはまるで役に立たないと思うけど(笑)、こういう人がいたんだなと実感できるいい作品だと思うので、ぜひ読んでみてください。

ニール・ゲイブラー「創造の狂気 ウォルト・ディズニー」

このような展開になることは予想していたのだろう。だとすれば、会ったことも話したこともない人に対しての先程の振る舞いは、大人の対応としてはあまりにも稚拙で恥ずかしくなった。その稚拙さをあらかじめ読まれていたのだと思うと、意固地になっている自分が何だかつまらない人間に思えてきて、志保は涙こそ止まらなかったけれど、少しだけ落ち着きを取り戻すことが出来た。
脇坂さんもそんな志保の変化を見抜いたのかもしれない。しばらく経ってから、口を開いた。
「志保さんが、僕を疑う気持ちは分からなくもありません。涼子さんの最近の交友関係は知らなかったでしょうし、唯一知っているのが再婚する予定だという男だけ。殺人がどうという部分を除けば、良識的な判断でしょう。僕は涼子さんを殺していないときっぱりと言い切ることが出来ますが、残念ながらそれを証明することは僕には出来ません」
「すいませんでした。本当にそんな風に思っていたわけではありません」
「よかった。本気でそう思われているかもしれないという覚悟をして来ていたので、少しだけホッとしました」

「失踪シャベル 16-9」

内容に入ろうと思います。
本書は、「正確な経度を測ること」が最も重要な科学のテーマとされた、18世紀イギリスを舞台にしたノンフィクションです。
その遙か以前から、緯度を正確に測るというのは難しいことではありませんでした。太陽が昇ってから沈むまでの時間や太陽の高さなど、天体の運行を観察することで緯度は容易に知ることが出来ました。
しかし一方で、経度については困難を極めました。経度を正確に知るには、二箇所の正確な時刻を知る必要なあるのですが、特に海上ではそれは非常に困難だったわけです。当時存在していた時計は一日におけるズレが大きく、また気温や船の揺れなどによって時間のズレがさらに増幅されるという有様だったので、船上における時刻さえ満足に知ることは出来なかったわけです。
経度を知ることが出来ないために、海上での遭難や事故が相次ぎました。その状況に業を煮やしたイギリスは、正確な経度を測る仕組みを作り出した者に大金を与えると約束しました。
多くの人が、月の運行から経度を知る「月距法」に期待を寄せ、また経度を測る仕組みを審査する協会の人間さえも、月距法に期待を寄せ、天文学以外の分野での解決は認めたくない、というような状況ができていきました。
そんな中で、正確な時計を作りさえすればすべての問題は解決すると、教育を受けたこともなく、また時計職人に弟子入りをしたこともない、まったくの独学で時計作りを身につけた、一人の天才職人が立ち上がるのだが…。
というような話です。
科学ノンフィクションとしては、ほどほどという感じでしょうか。あんまりそこまで面白くはなかったなぁというのが感想です。
たぶんそれはこういう理由だと思います。僕は本書を、「経度への挑戦」というタイトルと裏表紙の内容紹介から、「結構科学的なことについて書かれた科学ノンフィクションに違いない」というイメージで読み始めたわけです。でも実際、この天才的な時計職人は、時計を作っただけなんですね。いや、実際それは物凄いことなんですけど、でも「科学ノンフィクション」という感じはあまりしない。しかも、いかに時計が作られたのかという部分はほとんど描かれないんです。この天才的な時計職人については、知られていることが実に少ないらしく、様々に工夫を凝らせた時計についても、そのアイデアがどんな風にして生み出されたのかなんていうことはほとんど語られない。とりあえず天才的な時計職人は、これまで誰も作ることが出来なかった物凄く正確な時計を、どうやってかは知らないけど作り上げたのだ、という話なんです。
しかも、割と政治的な話が多いんですね。この時代の話だから(ってまあいつの時代もこんな人間ばっかりだと思いますけど)仕方ないのかもしれませんけど、科学的な話より、天才的な時計職人が作った時計が、政治的な関係でいかに不当な扱いを受けたのか、というような話が結構メインで出てくるんですね。いや、もちろんその話も面白いといえば面白いんですけど、でも僕としては「科学ノンフィクション」だと思って読んでいるわけで、そういう意味でちょっと期待はずれだったかな、という感じがしました。
まあそれでも、いつの時代も変わらないなぁ、という感じはしますね。政治的に権力を持っている人間が、才能のある人間の成果を奪ったり、才能のある人間の芽を摘み取ったり、まあそんなことばっかりです。この経度の話にしたって、どこか一つでも運が悪ければ(まあ時計職人は充分不運だったと思いますけど)、後世に彼の名前が残らなかった可能性だってあったと思います。うろ覚えで申し訳ないですけど、群論という超独創的な数学の分野を切り開いたガロアは、その内容があまりにも先進的過ぎて教授だかに認められず、何かがダメになった(あんまり覚えてません)みたいなことがあったはずだけど、ホントそんなことばっかりです。こういう話を読むとつくづく、僕は権威や権力なんか欲しくないな、と思います。「踊る大捜査線」(あんまりちゃんと見てるわけではないんですけど)で、ギバちゃんが「組織を変えるために上に行く」みたいなことを言って頑張ってるはずだけど、難しいですよね。確かに、権威があって出来ることってあると思うけど、権威があるからこそ出来なくなることだって増えてくるわけで、そのバランスってホント難しいと思います。
まあそんなわけで、科学ノンフィクションとして読むとそこまで面白くないと思いますけど、ちょっと科学も混じった歴史ノンフィクションぐらいの気持ちで読めばそれなりに楽しめるのかもしれません。

デーヴァ・ソベル「経度への挑戦」

「志保!」
敬叔父さんが見たこともないような形相で志保を見ていた。敬叔父さんとの関係が壊れてしまいそうで、志保は哀しくてこらえていた涙がこぼれ落ちた。一度流れ出した涙はそう簡単には止まらなくて、志保は声だけは上げないようにしようと思って、脇坂さんの方を見ながら止めどなく涙を流した。
「いいんです、池上さん。志保さんの方にもいろいろあるんだと思います。僕のことを憎く思う気持ちもあるでしょう。池上さんに来てもらったのは、志保さんを止めて欲しかったからというわけではないんです。そうではなくて、僕が志保さんには何もしなかったということを証明して欲しくて、一緒に来てもらったんです」
脇坂さんは、娘ほどの年齢の人間に人殺しではないかと言われながらも冷静だった。お母さんから志保のことをどんな風に聞いていたのかわからないけれど、志保がお母さんの再婚に賛成しないだろうということぐらいは聞いていたのだろう。志保のどんな応対でも受け入れる覚悟があるというのは事実のようで、泣いている志保を目の前にしても動じるところがなかった。

「失踪シャベル 16-8」

内容に入ろうと思います。
本書は、ついこの間日本へ帰還し大いに盛り上がった、小惑星探査機「はやぶさ」と、それを生み出した宇宙研という日本が誇る素晴らしい組織についての物語です。
先に書いておきます。僕はちょっと前のはやぶさ帰還の際、凄く冷めた目で見てました。みんな何でこんなお祭り騒ぎしてるんだろう、と。僕はそういう、盛り上がってるから盛り上がろう、みたいな雰囲気は得意ではないので、なんだかよくわからないけど盛り上がってるなー、意味わかんねー、とか思いながら傍観していました。
しかし今ではそれを激しく後悔しております。もしはやぶさ帰還の前に本書に出会っていれば、いや本書じゃなくてもいいんです、はやぶさについて少しでも知識を持っていれば、僕もはやぶさ帰還の瞬間、みんなと同じ気持ちを共有できたことでしょう。それが悔やまれてなりません。ホント、あの時冷めた目で何盛り上がってるんだかなんて傍観していたことをお詫びいたします。
さて、内容に入ろうと思うわけなんですけど、その前に、はやぶさのプロジェクトがいかに素晴らしいものだったのかというのが凄くよくわかるエピソードがあるので、まずそれを書こうと思います。
はやぶさから得られた論文が、科学の世界で最も権威のある雑誌の一つである「サイエンス」をジャックしたという号があったようです。この雑誌はとにかく査読が厳しく、第一級の研究者であっても、大抵はここが悪いここを直せと言われるのが常なんだそうです。そんなサイエンスの編集長が、このはやぶさのプロジェクトに向けてこんな言葉を贈ったんだそうです。

『今回、このように重要な研究成果を報告する場としてSCIENCEをお選びいただき、世に発表いただくことに対し、重ねて御礼申し上げます。日本の宇宙科学研究のレベルの高さ、ならびに研究全般に質の高さを証明する今回の研究を弊誌に掲載できることは光栄の限りです』

まさに大絶賛と称しても言い過ぎではない絶賛です。僕は、日本の宇宙科学研究のレベルがこれほどまでに高いということをまるで知らなかったので、物凄く恥ずかしいことだなと思いました。
本書はまずプロローグで、はやぶさがいかに注目された研究であったか、そしてはやぶさがいかにイトカワに着陸したのかというハイライトをざっと紹介しています。ホント、このプロローグのハイライトだけでも、もう僕は泣きそうになりましたね。はやぶさの陰に、こんな物語があったのか!と衝撃を受けました。
それから物語は大きく二つに分かれます。一つは、日本の宇宙科学研究をたった一人で切り開き、小惑星「イトカワ」の由来ともなった、糸川英夫という男が、いかなる発想でロケット作りに邁進していったのか、という物語です。
そしてもう一方が、はやぶさがどんな流れで生まれ、そしてはやぶさがどんな旅程を経てどんなトラブルを引き起こしながらどんな成果を達成していったのか、という物語になります。
正直読み初めの頃は、第一章の糸川英夫の話なんかいいからさっさとはやぶさの話を書けよー、とか思ってました。しかし、この糸川英夫のパートの面白いこと面白いこと。
糸川英夫は戦時中、零戦に匹敵するとまで言われた戦闘機「隼」を生み出し、早くから広く名前を知られるようになったが、戦後GHQにより航空機の開発が制限されてしまう。一旦は失意に落ち込むも、とあるきっかけから音響光学の世界に飛び込み、またしても成果を挙げる。
その過程で行ったアメリカで、糸川はアメリカの宇宙科学の進みっぷりに脅威を感じる。これは日本もすぐにでもなんとなしなくてはならない。その情熱が、糸川をロケット開発に向けさせた。
しかし初めは制限が大きかった。手に入れられる火薬の大きさにも制限があり、また何もかも手探りの状態でやらなくてはならなかった。そんな状況の中で糸川は、周囲が思いつきもしない独創的な逆転の発想を次々と行い、どんどんと前に進んでいった。
糸川は、ロケットの開発だけではなく、研究を進めるシステムの開発にも力を入れた。糸川はシステムについてこんな風に述べている。
『焼き鶏はネギやらタンやらハツやらが一本の串に支えられて大変食べやすいように工夫されている。串そのものは食べられないが、多くのおいしい物を一本の焼き鶏にまとめている。この串がシステムである』
糸川は、工学と理学を組み合わせたシステムを生み出した。これは世界でも宇宙研にしか存在しないシステムだ。宇宙探査は、ロケットを飛ばす工学者と、飛ばしたロケットから得られたものを分析する理学者の協力が不可欠だ。その両者を同じように扱い、一つのシステムの中に組み込んだのだ。はやぶさによる研究は、その掲げた目標も諸外国を驚愕させたのだけど、予算総額でも諸外国を驚愕させた。彼らは予算総額を聞いて、「そんな金額で探査機が設計できるのか?」と驚く。さらにそのあと、「探査機だけではない、とけっとも射場もそれらの経費も含めた総額だ」と付け加えると苦笑するしかないという。そんな低予算でこれだけのプロジェクトを成し遂げられるのも、糸川が生み出したこのシステムのお陰である。
このシステムは、今も宇宙研に受け継がれている。宇宙研においては、ノーベル賞を狙おうか、という理学の大先生が、ロケットの打ち上げに関しては、工学の修士に頭を下げて教えて貰う、という光景が日常的なんだそうである。これは作ろうと思って作れる環境ではない。糸川英夫は、ロケットそのものについてもとんでもない業績を多々残したが、今に至る宇宙研の伝統的なシステムを生み出したという点でも素晴らしい研究者だった。
ロケット開発には、政治なども様々に絡んで来て、糸川英夫は志半ばにして研究職を去ることになってしまうのだけれども、糸川英夫の思いは今に至るまで宇宙研に引き継がれているのである。
そして後半は、そんな宇宙研がどんなロケットを開発し、どんな成果を挙げ、さらにその流れの中でいかにしてはやぶさの計画が持ち上がり、いかにはやぶさが作られ、そして運用されていったのかという、探査機はやぶさの物語になります。
はやぶさの物語になっていくと、かなり専門的な話が出てくるようになります。相対性理論やら量子論やらの理論的な話はもともと興味があって結構知ってる僕ですが、基本機械オンチで工学的な知識がまるでない僕としては、読んでてもよくわからない箇所も多々ありました。とはいえ、そういうところは華麗にすっ飛ばして読んでも充分素晴らしいと思います。
はやぶさのミッションがいかにして生まれたのか、という話は、科学と政治の難しさを考えさせられます。宇宙探査のミッションというのは、とにかく計画してから実行に移すまでとんでもなく時間が掛かる。さらに日本は、宇宙探査に関する予算が欧米と比べて非常に少ない。以上のような理由から、日本が取れる選択肢は限られてしまうのです。それは、極端に挑戦的で、世界の誰もが二の足を踏むようなミッションです。
何故なら、ミッションを計画している段階で他国にその内容を知られたら(そして基本的に宇宙探査は、一国だけで出来るものでもないので、必然的にオープンな形で行われざるおえない)、欧米諸国が予算をつぎ込んで先に成果を挙げてしまうことが可能だからです。予算の少ない日本は、ミッションを知られたとしても容易には真似できないようなハイレベルな挑戦をするしか選択肢がなかったわけです。
はやぶさのミッションには様々な研究がいくつも組み合わされています。そのどれか一つであっても、世界的に意義のある物凄い研究です。しかも宇宙研はそれをいくつも同時に成功させようと計画しているわけで、はやぶさの計画を知った諸外国が、恐るべき計画だと言ったのも当然だと言えるでしょう。
しかも既に結果が出ているように、はやぶさは予定されていたミッションをほぼすべて完璧にこなす、という成果をたたき出しました。しかも、途中何度も修復不可能とも思えるレベルのトラブルが発生したにも関わらずです。
難しい専門的な部分についてはちょっと解説できないので省略しますけど、日本の技術力がいかに高いか、という話を一つ書こうと思います。それは燃料についてです。
世界的に、ロケットの燃料は液体燃料が使われています。これは保存が難しい代わりに、バルブを調節することによって火力を容易に調整できるという利点があり、多くの国のロケットに採用されています。
しかし、糸川英夫は日本のロケットを開発する際、固体燃料で行くと決断をしました。これには二つの理由があります。
一つは、糸川英夫には他国の真似をするという発想がまったくなかったということ。糸川英夫がロケット開発に取り組んだ時、固体燃料を制御することは不可能だ、と言われていました。固体燃料というのは、一度火をつけてしまえば燃え尽きるまで火を消すことが出来ないというタイプの燃料です。しかし糸川英夫は、他国の真似をしてもいつかは行き詰まる。だったら始めから無謀でも挑戦しようではないか、と固体燃料による開発を決断するのです。固体燃料でロケットを飛ばすのは無理だと言われていたにも関わらず、あえてそれに挑戦するというのが糸川英夫の逆転の発想です。ちなみに固体燃料によるロケットは未だに日本以外では開発されていない(はず)です。
二つめの理由は、ロケット開発当初、液体燃料を扱っていた三菱に協力を断られたという経緯があります。一方で、固体燃料を扱う日本油脂が協力を申し出てくれた。だったらこれで行こう、と糸川英夫は決断するわけです。逆境をプラスに変える力はホンモノだなと思いました。
著者は固体燃料について、こんな風に説明しています。
『一度点火すれば二度と再び消すことが出来ない個体ロケットの制御とは、大阪から東京の自宅に車で帰るのに、常にアクセル全開、ブレーキ無しで突き進み、最後の最後、車庫入れの瞬間にピッタリと燃料が尽きるように運転をするようなものである。宇宙研の技術は、そんな奇跡を実用的なものにした。世界中が「M-V」に憧れた所以である。』
この一事を以てしても、日本の技術力がいかに素晴らしいか、ということが分かると思います。
本書は、敢えて研究所内の独自の情報に頼らず、公開情報などの一次情報を中心に書かれた本のようです。その理由の一つを著者は、屈強な著者が控えているので、面白い話はそちらに任せた方がいいと判断したから、みたいなことを書いています。ホント、はやぶさをオペレーションしている間の研究所内の話も含めて、もっと人間ドラマみたいなものを描いている本が読みたくなりました。
最後に一つ。面白いなと思ったのが、はやぶさがこれまでで初めて、軌道計算に量子力学的考慮を加えた探査機になったという話。
通常ロケットの打ち上げは、古典力学と呼ばれるニュートンが考えた物理学でほとんどまかなえます。少なくとも、これまでの宇宙探査ではそうでした。しかしイトカワの調査ではそうは行かないのです。イトカワは小惑星であり、小惑星であるということは、重力が異常に小さいということです。重力が異常に小さいと、太陽の輻射圧というものの影響を考慮しなくてはいけなくなるわけです。
これはこんな風に考えるといいかもしれません。光というのは、光子という粒子がたくさん連なったものだ、という風に見なすことも出来ます。帆を張ったヨットに風が当たると前に進むように、宇宙空間では光子が物体に当たることでその物体に影響を与えることが出来ます。
しかしこれまでの宇宙探査では、対象となる惑星(月や火星)の重力が充分に大きかったために、太陽の輻射圧を考慮する必要がなかったわけです。はやぶさは人類初の小惑星の探査機としてイトカワにたどり着いたので、初めて太陽の輻射圧を考慮して軌道計算が行われたようです。
昨日タイミングよく、宇宙研が開発したイカロスが、帆を張って光子を受け止めることで前進することができた、というニュースを見ました。こうしてはやぶさからまたイカロスという新しい探査機へと繋がっていくわけです。
まあそんなわけで、とにかく素晴らしい作品でした。章によっては専門用語が頻出して結構辛いところもありますけど、そういう箇所はざっと読み飛ばしてしまっても構わないと思います。とにかく僕は、日本の宇宙探査技術がここまで素晴らしいものだと全然知らなかったので、感動しました。みなさんから遅れること約ひと月。僕はようやくはやぶさ熱にとりつかれることになりました。はやぶさ関連の本はたくさん買ってしまいそうな気がします。みなさんも、日本が世界に誇る素晴らしい研究を、もっと知りましょう!ぜひ読んでみてください。これほどワクワクさせられた本は久しぶりです!

吉田武「はやぶさ 不死身の探査機と宇宙研の物語」

志保の内にあったのは、怒りの感情だった。冷静に考えてみれば、脇坂さんに対するその怒りは、理不尽なものなのかもしれない。それでも志保は、脇坂さんへの激しい怒りを抑えることが出来なかった。口を開けば罵倒する言葉がこぼれ落ちそうで、自分からは口を開くまいと思っていた。空想の脇坂さんとは全然違ったけれど、脳裏には目の前にいる脇坂さんが血まみれになっている姿が鮮明に浮かんで来て、志保は身体の両脇に下ろした拳を一層強く握りしめた。
「志保さん、池上さんから大体の事情は伺いました。何度も聞かれるのは酷でしょうが、涼子さんがいなくなった日のことをもう一度詳しく聞かせてもらえないでしょうか?」
「あんたがお母さんを殺したんじゃないの」
意識して言ったつもりはないけれど、気づけばそんなことを口に出していた。

「失踪シャベル 16-7」

内容に入ろうと思います。
本書は、アニメ映画(だと思う、たぶん。違うかもだけど)のノベライズです。アニメの方の脚本家自身がノベライズしています。
舞台は東京お台場。家族とどうもうまくやっていけない姉・未来と、誰にでも優しく気を遣ってしまう弟・悠貴は、夏休み二人でお台場のロボット展を観に行くことにした。
そこで、マグニチュード8.0というとんでもない地震に見舞われてしまう。
二人が途方に暮れていると、たまたまそこにいた日下部真理という女性が二人の保護者となって、自宅まで送り届けてくれるということになった。
徒歩で家まで向かう三人だったけど…。
というような話です。
正直これはちょっと微妙だなと思いました。物語としてはまあまあそこそこという感じですが、小説としてちょっとこれはいかんなぁ、と。
映画とかアニメとかのノベライズで基本的にダメなのは、映像をそのまま文章に変換しているもの。「東のエデン」のノベライズを読んだ時も思ったけど、映像が進行するのと同じ感じで、ただそれをなぞるようにして文章に変換しても、それは決して『小説』にはならない。本と映像メディアとでは表現方法が違うということを意識してやらないとノベライズというのはちゃんとした作品にはならない。
本書も、僕はアニメの方は見てないんで何ともいえないけど、この書き方を見ていると、恐らく映像の流れの通りにただ変換しただけなんだろうなと思える作品でした。三人の視点が実に短いターンで交代されるというのは、小説としてはやっぱりダメだと思います。
文章自体も、きちんと選ばれた言葉ではないなぁ、という印象を持ってしまったし、地の分はただの説明、会話文はそこまで魅力的には感じられない、という印象でした。
ストーリーも、まあベタなのはいいんだけど、描写があんまりうまくないから、ラストの落ちも途中で分かっちゃったしなぁ。僕は普段小説を読んでてそういうの全然分からないんですけど、これはちょっと分り易すぎ。
もの凄く取材をした、みたいなことを書いてあるけど、恐らくそれは絵を描くのに必要な取材だったんだろうな、という気がします。たぶんアニメの方では、その取材の成果みたいなものがそれなりにうまく出ているんだろうと思います。でも小説の場合、別に膨大な取材を経て生み出された作品だとはまるで感じられませんでした。
まあそんなわけで、僕としては微妙だったなぁ、と。あんまりオススメは出来ません。

高橋ナツコ「東京マグニチュード8.0~悠貴と星の砂~」

「申し訳ないね、忙しいのに」
「いえ、全然」
そんな風にするつもりはないのに、敬叔父さんとの受け答えも何だかぎこちない感じになってしまって、志保はもう嫌になってしまった。会いたくもない再婚相手と会うことで、敬叔父さんとの関係まで微妙な感じになりそうで怖かった。
「脇坂さんに来てもらったから」
そう言って敬叔父さんは、後ろに控えていた脇坂さんを促し、志保と向き合わせた。
「脇坂利紀です。今日はお忙しいのに時間を作ってもらってありがとうございます」
そう言って脇坂さんは、菓子折りみたいなものを差し出した。正直なところ受け取りたくはなかったけれど、敬叔父さんの手前もあるし、受け取らないのも大人気ないと思って、黙って受け取った。後でアカネちゃんにでも持って帰ってもらおう。
「これが、池上涼子の娘、志保です」
志保が何も言わないのを引きとって、敬叔父さんがそう志保を紹介した。

「失踪シャベル 16-6」

内容に入ろうと思います。
本書は、哲学者(なのかな?内田樹というのはそもそも何者なんだろうか…。哲学者ではないかも)である内田樹が、自身のブログや雑誌に連載していた文章を書籍化したものです。
本書は大きく三つに分けることが出来ます。
第一章は、「文化資本主義」に関する話。難しそうな気がするけど、これがそうでもない。日本はこれまで、「一億総中流」という形でやってこれていて、また階層があったとしても、「勝ち組」「負け組」というレベルだった。しかし今、新たな階層が出来つつある。それは、「バカ組」と「利口組」だという話である。
これは、親の収入その他によって、子供の頃から文化的な生活を送ることが出来たかどうかによって、はっきりと階層分けされてしまう社会の到来を予知した文章です。
内田樹氏の文章は、読んでる分には凄く分かりやすいのに、いざ自分で説明しようとするとうまくまとめられない。まあこれはきっと、「分かった」のではなく「わかったつもりになっている」だけなんだろうけど。とにかくうまく説明は出来ないけど、何も手を打たなければこれから日本はそういう二極化の階層分けが自然と形成されていくだろう、という話です。
第二章は、「負け犬」についてです。もちろんあの酒井順子の「負け犬の遠吠え」のあの負け犬です。
「負け犬の遠吠え」を独特の視点から読み解き、また「30代未婚子なし」である負け犬女性たちこそが文化の担い手なのであるという方向性から、負け犬について語っています。
そして、本書のメインである第三章は、内田樹氏による人生相談です。
いやー、この人生相談がとんでもなく面白かった!寄せられる相談は、本当に僕らの実に身近な問題ばっかりなんですね。敬語は必要か・お金は大事か・給料は何故安い・転職するべきか・フリーターは悪か・結婚したほうがいいかなどなど、こういう凄く日常的な問題について、すごく明快で斬新な回答をばっさばっさと繰り出してきます。
第一章・第二章がなくて第三章だけで本書が構成されていても、十分買いだなと思うくらい素晴らしかったです。
というわけで以下では、気になった相談について、内田樹氏の文章を書こうと思うんだけど、重要な点は、内田樹氏の文章というのは明快な論理の流れみたいなものとセットでないとうまく理解出来ないかもしれない、ということ。以下では僕は、内田樹氏の短い文章を引用すると思うけど、その結論に至った論理まではめんどくさいので引用できないと思います。だから、その文章だけからでは何を言っているのかわからないものも出てくるかもしれませんけど、まあ気になったら買って読んでくれということでお許しください。

「敬語について」

『「敬する」というのは、別に「自分より力のあるもの」に「何かよいもの」を贈ることではない。自分が傷つかないために「身をよじらせて」攻撃を避けることだ。』

『敬語もそれと同じような「道具」だ。それは「生存のための道具」なのだ。だから「じゃまくさい」のは当たり前だ。プロテクターなんだから重苦しいに決まってる。』

「給料について」

『勤務考課がデタラメだからこそ、彼らは「自分の能力は、いまさていされているよりもっとずっと高いのだ」という甘い幻想の中に浸っていられる。そして、まさしく、「気分の能力は適正に査定されておらず、自分の給料はほんらい支払われるべき給与よりはるかに安い」と信じられるからこそ、彼はその「安い給料」に我慢していられるのだ。』

「転職について」

『「決断というのは、できるだけしない方がよいと思います。といいますのは、「決断をしなければならない」というのはすでに選択肢が限定された状況に追い込まれているということを意味するからです。選択肢が限定された状況に追い込まれないこと、それが「正しい決断をする」ことより、ずっと大切なことなのです」』

「離婚について」

『人が離婚をするのは、無意識的にではあれ、離婚することを前提に結婚生活を営んでいるからである』

「目的地にたどりつくまでの道順を繰り返し想像し、その道を当たり前のように歩んでゆく自分の姿をはっきりと想像できる人間は、かなり高い確率でその目的地にたどりつくことができる。「夢を実現する」というのは、そういうことなのである。」

「大学について」

『キャンパスという無意味に広い空間が必要なのは、そこに行くと「自分が知りたいことが知れる」からではない。そこに行くと「自分がその存在を知らないことさえ知らなかったもの」に偶然でくわす可能性があるからである。』

「想像力と倫理について」

『私たちが自分に課すべき倫理的規範はある意味で簡単なものである。
それは社会の全員が「自分みたいな人間」になっても、生きていけるような人間になることである。』

まあ他にも本書には、思わずページの端を追ってしまうような素晴らしい言葉が多々あるんですけど、それは是非是非読んでみてください。上記に挙げた言葉も、やっぱり内田樹氏による明快な論理と一緒でないとどうもしっくりこない感じがするんで、やっぱり是非読んでみて欲しいなと思います。
ホントに、なるほどこういう視点から物事を見るやり方があるのか、と納得させられる話ばっかりでした。発想の転換というのは視点の転換というのか、まあよくわからないのだけど、ズバッと本質を衝くところは凄いなと思いました。
本質を衝くという点では、森博嗣にもちょっと似てるところがありますね。僕らはいろんな物事を見る際に、それに付随するあらゆる装飾に気を取られてなかなか本質的な部分を見れないことが多いんだけど、この二人はどちらも、そういう装飾の存在なんか一顧だにせず、まっすぐ本質を見つめる目を持っているなという感じがしました。
二人の違いを挙げるとすれば、内田樹はその論理が迂遠であるのに対して、森博嗣はすっきりしているという感じでしょうか。でもだからと言って内田樹の方が劣ってるなんて話をしたいわけじゃありません。森博嗣の場合、他人を啓蒙したりすることに興味も関心も特にないので、論理も結論もさらっとという感じなんですけど、内田樹氏の場合、他人の相談に乗ったりするのが好き(かどうかは分かりませんけど、少なくとも得意だと自負しているようなので)らしいので、迂遠な論理展開で相手を翻弄して楽しんでいるというのが正解でしょう。僕は内田樹氏の、わざとやってるだろう迂遠な論理展開は結構好きです。
内田樹氏の著作を初めて読みましたけど、もうとにかくメチャクチャ面白かったです。これはありとあらゆる人が読むべき1冊でしょう!立ち読みで、第三章の人生相談の部分のさわりだけでも読んでみて欲しいです。なるほどそーいうことだったのかー、という新鮮な驚きに満たされるのではないかなと思います。是非是非読んでみてください!

内田樹「街場の現代思想」

「お母さん、どこ行っちゃったんだろうね。マルイさん、どっかでお母さんと会ってない?」
リビングから、アカネちゃんの声が聞こえてくる。なんて言っているのかまでは聞こえないけれど、きっと自分の応援するサッカーチームに檄を飛ばしているのだろう。人の家でそこまで熱くなって試合を見ることの出来るアカネちゃんが何だか羨ましくて、アカネちゃんぐらい豪胆だったら、再婚相手に会う前にこんなに不安な気持ちになることもないんだろうな、と思ったりした。
ピンポーンという音がした時、大げさではなく、一瞬心臓の鼓動が止まったような気がした。志保はマルイさんをいつもの場所に置くと、一度深呼吸をしてから部屋を出た。
玄関のドアを開けると、まず敬叔父さんの顔が見えた。敬叔父さんはいつもの作業着姿じゃなくてスーツを着ていた。敬叔父さんのスーツ姿を見るのなんて久しぶりで、それは志保の家に来るためというわけではなく、脇坂さんに失礼のないようにということなのだろうけど、敬叔父さんのそのぴっしりとした雰囲気が、余計に志保を緊張させた。敬叔父さんもそんなことには気づいているようで、ネクタイはしていなかったのだけれど、それでどうなるというものでもなかった。

「失踪シャベル 16-5」

内容に入ろうと思います。
本書は、「理性の限界」に続く、限界シリーズ第二弾です。趣向としては、「理性の限界」に含めることが出来なかった事柄について扱っている、という形のようです。と書くと、「理性の限界」を読んでないとダメという風に思われるかもですけど、そんなことはありません。本書の方から読んでも全然問題ないと思います。
本書で扱われているのは、「言葉の限界」「予測の限界」「思考の限界」という三つです。
「言葉の限界」では、ウィトゲンシュタインがまず語られます。ウィトゲンシュタインの哲学は前期と後期で分かれているらしいんですけど、前期の方は「論理哲学論考」という書物にまとめられているようです。
ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で導いた結論は、哲学的な問題など存在しない、ということです。ウィトゲンシュタイン自身の言葉で説明すれば、「語りうることは明らかに語りうるのであって、語りえないことについては沈黙しなければならない」となります。あらゆる哲学的な問題は、言葉の意味が不明瞭であることから生じる擬似問題に過ぎないのだと看破します。
一方で後期ウィトゲンシュタインは、言語ゲームなる概念を生み出します。これは、言語というのは社会集団における生活形式によってルール付けられているのであって、すべての言語に共通する本質的なものなど存在しないと言います。言語は文化によって規定されるので、言語によって行われる思考や言語によって無意識の内に身につく慣習も自ずと文化によって違いが生じる、という話です。
思考が言語に依存するという「サピア・ウォーフ仮説」や、理論に基づかない観測は存在しないという「ハンソンの観測の理論負荷性」など、様々な話を取り上げ、言語の限界を探っていきます。
「予測の限界」では主に、科学的手法についての議論が進みます。過去に起きた具体的な事例から本質を抽出する「帰納法」には根本的な問題があることを明らかにし、「反証主義」という新たな原理を打ち立てたのがポパーです。ポパーは、理論は決して経験的に実証されることはないが、仮説を経験的に反証することなら出来るという立場に立って、反証される危険性のある理論こそが科学的な仮説であるとの考えを提示します。これは、占い師を例に取ると分かりやすいです。例えば占い師が、「今日のあなたはラッキーです」と「仮説」を提示したとしましょう。その日あなたは、車に轢かれて大怪我にあったとしましょう。でも占い師は、「死ななかったからラッキーだ」というかもしれません。こういうのが、反証不可能な仮説です。こういう、反証できる可能性があるかどうか、という視点で見るのが反証主義です。
また、未来予測は可能かという話や、複雑系の話など、多様な話が出てきます。
「思考の限界」では、まず「人間原理」というものについて書かれています。「人間原理」というのは、宇宙は人類が発生するように「微調整」されて出来たものだ、というような考え方です。実際、宇宙を支配する6つの定数のウチ、ほんのわずかでも数値が違っていたら人類は生まれなかっただろう、と考えられています。ある数値は、現在0.007であることが知られているんですけど、それが仮に0.006でも0.008でも人類は生まれなかっただろう、と考えられています。また僕らが生きている空間は3次元ですが、これも、安定した惑星軌道があって生命が進化できるような空間は三次元空間のみだということが示されているんだそうです。こういう微調整が神によって行われたのだろうか、というところから、神の存在証明の話になったりします。
また、ファイヤアーベントという哲学者も出てきます。この哲学者は方法論的アナーキズムという立場を取っていたようですけど、これは、いかなる制限もない自由な発想によって科学が進歩する、というような考え方のようです。帰納法やら反証主義など関係なく、科学はどんな風に考えてもいい、と。ファイヤアーベントの話も結構といろいろと出てきます。
まあもちろん僕が書いた以外にも扱われている内容は多岐に渡りますが、大体こんな感じです。
「理性の限界」も面白かったけど、本書も面白かったです。ただ、どちらかというと「理性の限界」の方が面白かったです。
その理由は僕の中では明白です。「理性の限界」では、「アロウの不可能性定理」「ハイゼンベルクの不確定性定理」「ゲーデルの不完全性定理」という、三つの明確な主軸がありました。この主軸を中心にして様々な分野へ広がりを持たせた議論になっていて、凄く分かりやすかったんですね。
でも本書の場合、主軸となるのが「言語」「予測」「思考」という、明確とは言えないものになっています。たぶんその点が、僕の中で本書よりも「理性の限界」の方が面白く感じられた理由だろうと思います。
とは言え、やはり知的な議論は面白かったです。個人的には、哲学者たちの個人的な話(結婚・離婚を繰り返していたとかそういう話)はそこまで興味がないんだけど、やっぱり知的な部分に関わるところはべらぼうに面白かったです。
相変わらずですけど、様々な立場の人を登場させ、彼らがシンポジウムで議論をしているという体裁で書かれているのは本当に素晴らしい手法だなと思います。専門家だけでなく、会社員や運動選手なんかの一般人も多数話に参加するし、また司会者の采配が見事なので、難しい話をすんなりと理解できる気になれます。
あとはいくつか、これは面白いなぁと思った話を書いて終わろうと思います。
まず、「予測の限界」に出てきた「確証原理」の話。ここではカラスの例が扱われています。
たとえば「すべてのカラスは黒い」という仮説を立てます。この時、黒いカラスが発見されればされるほど仮説の確証度が増す、というのが「確証原理」の考え方。
当たり前だと思うかもしれませんが、この議論はなかなか面白い。まず、「すべてのカラスは黒い」という仮説の対偶命題は「すべての黒くないものはカラスではない」であり、この両者は同値です。つまり、「すべての黒くないものはカラスではない」が正しければ「すべてのカラスは黒い」も正しい。
さて、「すべての黒くないものは…」は、例えば黄色のバナナや青色のペンなんかも該当するので、これらの例がたくさん見つかれば見つかるほどこの仮説の確証度は増加します。となると、黄色いバナナなどの例は、「すべての黒くないものは…」の確証度を高め、さらにそれは「すべてのカラスは黒い」の確証度を高めることにもなるのです。
確証度のパラドックスはここから始まります。黄色いバナナは、黒くないばかりでなく白くもない。つまり黄色いバナナは、「すべての黒くないものは…」だけではなく「すべての白くないものは…」という仮説の確証度も増加させることになります。つまり、一本の黄色いバナナが、「すべてのカラスは黒い」と「すべてのカラスは白い」という根本的に異質な仮説の確証度を共に増加させてしまうことになるのです。この発想は凄く面白いと思いました。
次は未来予測についてのパラドックスです。ある宇宙人が地球にやってきたとしましょう。彼らは「脳検索装置」という技術を持っていて、地球人の脳を一瞬でスキャンし、その情報によってその人間の次の行動を予測できるとします。
さてあなたがその宇宙人を一週間地球案内に連れだすとしましょう。その一週間ずっと、宇宙人の脳検索装置はあなたの行動を完璧に予測したとします。
さて宇宙人は去り際に、プレゼントを用意します。箱Aは透明の箱で、中には100万円がある。箱Bは不透明で中身がわからない。そこで宇宙人はこんな風にいいます。
『あなたは、①箱Bのみを取るか②箱AとBを両方取るという二つの選択肢の内の一つを選べます。ただ、私があなたの脳をスキャンしてあなたの行動を予測していることに注意してください。もし脳検索装置が、①あたなは箱Bのみを取ると予測した場合、私は箱Bに1億円入れておくが、もし②あなたが箱Aと箱Bの療法を取ると予測した場合箱Bは空にしておく』
さてあなたはどうしますか?このパラドックスも、考えれば考えるほどよく分からなくなっていく、不思議な話です。
さて最後に、「全能の神は存在する」という証明を書いて終わろうと思います。
神の存在を認めなくても、「神は全能である」という命題を受け入れたとすれば、それは神の存在を受け入れなくてはならない、という話です。何故なら、神は全能なのだから、とにかく何でも出来る。何でも出来る神にとって、「存在する」という簡単なことが出来ないはずがない。だから「全能の神は存在する」というわけです。これも面白い発想だなと思いました。
というわけで、相変わらず面白い限界シリーズ。哲学とか物理学とか経済学とかあらゆるジャンルについて書かれていて、なんとなくそういうの難しそうだなと思っている人には是非読んで欲しい作品です。どっちから読んでもいいと思いますけど、個人的には「理性の限界」から読むのがいいかなと思います。

高橋昌一郎「知性の限界 不可側性・不確実性・不可知性」

アカネちゃんは、壁に掛かっている時計を見ると、あと三十分ぐらいでリビングに行くわ、と言った。その間に再婚相手が来たりすることねぇよな、と聞かれたので、たぶん大丈夫だと思う、と答えた。志保の部屋からリビングに向かうと玄関から丸見えなので、再婚相手が来る前にはリビングに行っていたいのだろう。
カナちゃんがいればまた違ったのだろうけれど、ファッションとかインテリアとかに特別な興味のない二人は、部屋で何をするでもなくだらだらと過ごした。アカネちゃんは、志保が時々買うファッション雑誌をぱらぱらめくっているし、志保は頭の中で決めたストラップのデザインを元に、型紙を起こしてみようといろいろ描いていた。これから再婚相手が来るにしては、穏やかに時間を過ごすことが出来ていた。やっぱりアカネちゃんに来てもらってよかった、と志保は思った。
三十分ぐらい経ってアカネちゃんはリビングに移っていった。一人になると何だか急に不安になって、マルイさんをお腹の上で抱きしめながら、型紙作りを続けた。

「失踪シャベル 16-4」

内容に入ろうと思います。
本書は、伊坂幸太郎の最新刊「バイバイ、ブラックバード」の副読本みたいな感じです。内容としては、伊坂幸太郎氏へのインタビュー、インタビュアーによる「バイバイ、ブラックバード」の解説、そして「バイバイ、ブラックバード」を生み出すきっかけになった太宰治の未完の小説「グッドバイ」の収録、という形です。
本作単体でどうこうということはないですけど、「バイバイ、ブラックバード」を読んだ後に読めば結構面白いんじゃないかなと思います。
やっぱり、伊坂氏へのインタビューがメインでしょうね。短編小説を書くのは苦手だということ、考えられていた部分とそうではない部分、<あのバス>の部分に関わる考察、などなど、なかなか面白い話が出てきます。「バイバイ、ブラックバード」が未読の場合、ネタバレ的になってしまう部分もあると思うんで、やっぱり本編を読んでから読むのがいいでしょうね。
一番面白いなと思った点は、最後に伊坂幸太郎が読者にコメントをするところ。おてがみ小説を受け取った読者にコメントというところで伊坂氏は、
『おてがみ小説を受け取った人は、5人の女性に一番近いところにいた。何故なら、他の短編は読めないのだから、他の女性とはどんな別れ話をしているのだろうという女性たちにモヤモヤに近い』
みたいなことを書いていて、あーなるほど確かにそれはそうかもしれないな、と思ったりしました。僕は残念ながらおてがみ小説はもらえなかったですけど、確かにそういう気持ちになりそうな気がします。
解説については、伊坂幸太郎と太宰治を結びつけながら書いていて、まあこんな感じかという感じ。
太宰の「グッドバイ」は、まあ未完だからなんとも言えないけど、まあまあかなという感じです。でもやっぱり、昔の小説というのは僕にはしっくり来ないものが多いんで、なかなか面白いとは言い難いんですけどね。「バイバイ、ブラックバード」で繭美に当たるキャラクターがなかなか破天荒で面白いなと思いました。
まあそんなわけで、「バイバイ、ブラックバード」を読んだ人は読んでみてもいいと思います。そこまで強くオススメするわけでもないですけどね。

ポスタル・ノベル編「『バイバイ、ブラックバード』をより楽しむために」

「テレビってここだけ?」
志保がお皿を片付けていると、アカネちゃんがそう聞いてくる。
「うん、そう」
「今日ちょっと見たい試合があるからさ」
「再婚相手はリビングに通すつもりはないから、ここにいてくれればいいよ」
お皿を洗い終わると、二人で志保の部屋に向かった。志保はバッグを開けるとシャベルを取り出して、マルイさんの隣に置いた。
「へぇ。バッグに入れっぱなしとかじゃないんだ」
「それなら毎日持って帰ったりしないよ」
「いやいや、大して変わんねぇだろ」
アカネちゃんは、机の上で開っぱなしになっている手芸雑誌に一瞬目を向けたみたいだったけど、すぐに逸らした。そういえば今開いているのは携帯電話のストラップのページだ。昔志保があげたストラップのことを思い出したのかもしれない。
「で、ベル、ノートは?」
「えっとね、ちょっと待って。はい、これ」
「お、サンキュー」

「失踪シャベル 16-3」

内容に入ろうと思います。
本書は、なかなか珍しい形で発表された作品を書籍化したものです。内容に入る前に、まずその辺りの話からしようと思います。
本書は6つの短編で構成されている連作短編集なんですけど、最後の1章を除いた5つは、「おてがみ小説」として発表されました。これは、それぞれの短編について50人(5話あるので計250人)だけが読める、というものです。おてがみ小説に応募した人の中から抽選で各話50人を選び、短編が完成するごとに(いつ届くのかは決まっていなかった)自宅に郵送する、という形式で発表されていました。なかなか面白い企画ですよね。僕も抽選に応募しましたけど、外れてしまいました。残念!
また本書は、太宰治の「グッドバイ」という未完の作品へのオマージュになっているという点でもちょっと注目です。「グッドバイ」は、多くの女性と同時に付き合っていた男が、それぞれの女性と別れるために別の女性を連れて別れを切り出しに行く、という話なんですけど、本書の大枠の設定もそういう形になっています。本書の方では、伊坂作品らしくなかなかポップな設定になっていますけども。
というわけで、それぞれの短編を紹介しようと思います。意図的に、最後の短編の内容だけ書かないことにします。5人の女性と付き合っていて別れを切り出しに行くのが星野一彦、そして星野に付き添う女性が繭美です。

「バイバイ、ブラックバード Ⅰ」
いちご狩りで出会い付き合うことになった廣瀬あかりに別れを切り出しに行った星野は、巨漢で性格の悪い繭美と結婚するのだと嘘をつき、あかりへ別れを切り出すのだが、当然あかりは納得できない。というか星野にしたところで納得は出来ないのだ。もちろん繭美と結婚するなんてのは嘘っぱちなわけだけど、それでもこの嘘をつき通すしかないのだ。
難色を示すあかりに、繭美が冗談のような提案をする。近くのラーメン屋でやってるジャンボラーメン。あれをこいつが完食出来たら、お前こいつと別れろよ、と。無茶苦茶ではあるが、彼らはラーメン屋に行き、本当にジャンボラーメンを食べる羽目になるのだが…。

「バイバイ、ブラックバード Ⅱ」
「フレンチ・コネクション」という映画の話から付き合うことになった霜月りさ子に星野は別れを切り出しに行く。りさ子は夫と離婚しており、シングルマザーとして子供を育てていた。りさ子は控えめで、しかもほんのりと不幸を背負っているような女性で、星野の別れ話に対しても、まあ仕方ないと諦めるような態度だった。
りさ子の家を立ち去った二人だが、星野はりさ子の話で気になったことがあった。最近当て逃げされた、という話だ。せめてもの罪滅しに、この当て逃げ犯ぐらい捕まえてやれないものだろうか…。

「バイバイ、ブラックバード Ⅲ」
トリッキーな出会い方をした如月ユミに星野は別れ話を切り出しに行く。ユミはあっさりとしたもので、悩んだり悲しんだりということもなく星野の別れ話をさらっと受け入れた。
ユミの家でトイレを借りた繭美が、なんだかいろいろと覗いたらしく、ユミが近いうちにあるマンションに泥棒に入るつもりだということを知り、星野はそれを止めようとするのだが…。

「バイバイ、ブラックバード Ⅳ」
耳鼻科で出会った神田那美子に星野は別れ話を切り出しに行く。数字自体や計算が大好きな那美子は、星野から電話があった時点で別れ話だろうと予感していたという。その時刻が「18:18」だったから、逆から見たら「バイバイ」に読めるから、というのだ。
しかも那美子にはそもそも、別に気になることがあったのだ。とある検査に行ったのだけど、もしかしたらそれが悪性かもしれないのだ、という。
星野は、彼女とは二度と関われないのだけど、せめてその検査の結果ぐらいは知りたいと思うのだけど…。

「バイバイ、ブラックバード Ⅴ」
CMの撮影現場でたまたま知り合った女優の有須睦子に星野は別れ話を切り出しに行く。睦子は女優だからか、感情を表に出したりするようなことはほとんどないのだけど、星野が別れを切りだしても、絶対に別れないから、と譲らない。
そんな時、マネージャーに呼ばれたらしく部屋を出なくてはいけなくなった睦子だが、何故か星野と繭美も同行し撮影現場に行くことになった…。

「バイバイ、ブラックバード Ⅵ」

というような話です。
まさに、伊坂作品らしいというタイプの作品です。数年前に新聞連載されていて最近書籍化された「オーファーザー」を除けば、最近伊坂幸太郎は自分の得意な書き方で小説を書くことを制限する傾向があって、なので僕らが思う伊坂作品らしい作品というのはなかなかなかったわけですけど、今回はいろいろ考えた結果、自分の得意なやり方で書くことにしたんだそうです。
面白い作品でした。っていうかやっぱり、こういうタイプの作品は、伊坂幸太郎にしか書けないよな感じがします。
「グッドバイ」という話をモチーフに、5人の女性に別れ話を切り出しに行くという設定にしたらしいんですけど、まあまずこの設定が面白いし、しかもそれぞれの話がかなりタイプの違う話で、いいなと思いました。女性に別れを切り出す、というだけの話で、これだけいろんな話を書けるものなんだなと思います。別れ話だけじゃなくて、それぞれの女性とどんな風に出会ったのかというエピソードもそれぞれ個性的で面白いです。
話としては、第四話と第五話がよかったです。もちろん全部いいんですけどね。どちらの話も、ラストが凄く印象的ですね。第四話は、結局どうだったんだよ!という部分が気になるけど、まあそこは読者の想像にという感じの終わらせ方なんですけど、その終わらせ方が女性のキャラクターを含めてストーリー全体をぎゅっと凝縮している感じでよかったです。第五話のラストは、なるほどそう繋がりますかという感じで、まあやりすぎだろという気もしなくはないけど、伊坂作品だったら違和感ないなという感じもします。読者にしかラストの意味はわからないのだ、というところもいいですね。
女性のキャラクターとしては、第三話に出てくる如月ユミがダントツですね。僕はホント、ああいうトリッキーなキャラクターには弱いんですよ。人にどう見られるかなんてことに無頓着で、自分のやりたいことをやりたいように突き進むみたいな。まあユミはちょっとやりすぎだと思うし、近くにあんなキャラがいたら疲れるだろうけど(笑)、それでも惹かれちゃいますね、こういう女性には。
あと、女優の有須睦月もかなりいいです。ああいうクールな女性っていうのは素敵ですね。あと、数学が好きでちょっと不幸そうな感じを漂わせる神田那美子もいいよなぁ、なんて思ったり。
しかしやっぱり、キャラクターとして突出してるのは、繭美でしょうね。相当な破天荒なキャラクターです。人格が破綻しているというより、そもそも人格なんてものが存在するのか怪しいというような、そういうとんでもない人間です。相手の嫌がることを積極的にやるくせに、伊坂幸太郎が書くからか、どうにも悪い人に見えないというところも面白いですよね。不思議なキャラクターです。
不思議と言えば、主人公の星野も不思議です。5股掛けているとは思えないようなごく平凡な人間なんだけど、繭美とは対照的に人間味に溢れている。すごく人間臭いんだけど、とんちんかんな部分もあったりで、これもまた伊坂作品らしいトリッキーなキャラクターだなと思います。繭美と星野という、あらゆる意味で凸凹な二人のコンビが、作品に良い味を出しているなと言う感じがしました。
本書には、<あのバス>と呼ばれる存在が出てくるんだけど、これはやっぱり気になりますね。結局、なんなのかよく分からない。でも、ストーリーとしてはこれでいいんだと思うんですね。気になるけど、でもわかっちゃうのも面白くないな、という感じ。最後の最後、まさにここから新たな物語が始まりそうだぞ、というようなところで終わって、その後どうなったんだろうなぁなんて想像するのも楽しいと思います。
ホント、読んでて楽しい小説だなと思います。専売特許だなというぐらい、伊坂幸太郎にしか書けない作品だと思います。是非読んでみてください。

伊坂幸太郎「バイバイ、ブラックバード」

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