黒夜行 2016年06月 (original) (raw)

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内容に入ろうと思います。
主人公は、東北のカソリック系孤児院で高校を卒業した小松。彼は、今まで自分を世話してくれた神父が持たせてくれた紹介状を手に上京、モッキンポット神父の元へと向かった。髪はもじゃもじゃ、テカテカの神父服を来て、甲高い関西弁で話すモッキンポット神父の面接を終え、彼はS大学文学部仏文科への入学と、聖パウロ学生寮への入寮が許された。傾きボロボロの学生寮はちょっと恐ろしかったが、とにかく落ち着く先がちゃんと決まって良かった。
しかし、落ち着いたはいいが、今度は金がない。東京での暮らしはどうも金が掛かる。そこで小松は、浅草のフランス座で働くことに決めた。「フランス座」が何か分かっていないモッキンポット神父をうまくだまくらかし、ほとんど裸みたいな女の子がうろうろしている舞台裏で小松はあらゆる雑用をした。次第に雰囲気にもなれ、女の子とも仲良くなった頃、モッキンポット神父が乗り込んでくる。小松は、フランス座での仕事を強制的に辞めさせられたのだ。
これ以降小松は、共に同じ寮に住む、寮長である東大医学部の土田と、教育大理学部に通う日野と三人で、生きるための金を稼ぐために、あらゆる金儲けの手段を講じていく。そしてそれらはすべて、なんらかのトラブルを巻き起こし、そしてそれがモッキンポット神父の耳に入り、モッキンポット神父は彼らのトラブルの後始末をさせられ、あまつさえ、この碌でもない三人の仕事の世話までしてあげるのである…。
というような話です。

全体的に面白い作品でした。
連作短編集のような感じで展開されていくんだけど、どの話も基本的に構成は同じです。三人が碌でもない金の作り方を考える。何らかのきっかけでその金儲けの手段の問題点が露わになる。そういう金儲けをしていたことがモッキンポット神父の耳に入る。モッキンポット神父は事態を丸く収め、そして彼ら三人に新たな仕事を世話してやる。こんな感じです。

話のメインとしては、彼らがどんな金儲けの手段を思いつきそれを実行していくか、という部分です。これが面白い。よくもまあこんなこと考えるわ、というようなものばかりなのだ。寄付された衣類を盗む、パンの耳からパン粉を作る、募金の集団の近くに立って同じ集団だと思わせて募金を横取りする、寮の銭湯を貸す、パチンコを斡旋する、シナリオの新人賞を獲るために暗躍する…などなど、まあ色んなことを考えるのだ。これは著者が凄いと思う。ホントに、よくもまあこれだけ金を作り出すような状況を色々考えたものだよなぁ。

彼らの金の稼ぎ方は色んなパターンがある。一つは、明らかに犯罪だと言えるものだ。彼らはあんまりモラルがないので、割とそういうこともやっちゃう。言うまでもなく、これはアウトである。

また、世間的にはセーフでもキリスト教的にアウト、というものもある。これがもしかしたら一番多いパターンかもしれない。いや、パターンとして多いかは分からないけど、印象に残るものが多かった。モッキンポット神父としても、これが一番後始末に苦労したことだろう。なにせ、モッキンポット神父が斡旋する仕事は、基本的にキリスト教絡みのところなのだから。モッキンポット神父の斡旋先だけで悪さをしていたわけではないとはいえ、信者として体裁が悪い、ということは間違いない。

他にも、怠けていたからトラブルになったとか、ちょっとした不運からトラブルになったとか、色んなパターンがあって面白い。彼らが自ら引き寄せたトラブルなら仕方ないが、彼ら三人には疫病神でもついているのか、初めこそ好調だが途中でどうにもおかしくなっていってしまう。運の悪さもなかなかのものなのだ。

しかしまあそこは、どんなトラブルを引き寄せようとも、最後には尻拭いをしてくれるモッキンポット神父が存在する、という事実を持ってプラスマイナスゼロという感じだろうか。モッキンポット神父の存在ほどの幸運は、なかなかないだろう。よくもまあ、こんなクソみたいな三人の面倒を見てくれているものである。モッキンポット神父は一体どんな気持ちで彼らの尻拭いを引き受けているのか。本書の解説には色々難しそうなことが書かれていたが(斜め読みした)、結局僕の中では、モッキンポット神父の慈悲のなせる業だろうなぁ、という平凡な結論に落ち着いた。

基本的にはそういうドタバタを楽しむ作品、ということでいいんだろうと思う。深読みしようと思えば、キリスト教的な考え方とか、舞台となっている当時の時代背景とか、色々掘り下げながら読めるのかもしれないけど、「三人アホだなー」「モッキンポット神父優しいなー」という読み方でいいんじゃないかなという気がする。

バカバカしい金儲けの手段を実行する三人。時に真面目なんだけど空回りする三人。ちょっとした誘惑に負けてしまうが故に最悪の事態を引き寄せてしまう三人。そしてそんな三人に呆れながらも、なんだかんだ関わってくれるモッキンポット神父。彼らの関わりが楽しい物語です。

井上ひさし「モッキンポット師の後始末」

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僕は、自分が女脳なんじゃないかなぁ、と思うことが時々ある。もちろん、完全にではない。けど、普通の男よりは、女脳要素が強いんじゃないかなぁ、と思う。

女性同士のとりとめのない会話がまったく苦にならない(だから女子会に混ざれる)。
男が苦手だという、女性のウィンドウショッピングもまったく苦痛ではない。
空間把握能力がなさすぎて、地図がまるで読めない。
競争にさほど興味がなく、だから昇進にも関心がないし、男同士の序列もどうでもいい。
女性は、考えたことがすぐことばになる生き物らしいけど、まさに僕がこのブログを書く中でやっているのはそういうことだ。

女脳じゃないなぁ、と思う部分ももちろんある。ある出来事をきっかけに、それに付随する過去の出来事が一気に蘇ってきたりしないし、割と結論から喋るようにしてるし、言葉で言わないと伝わらないと思ってるので察して欲しい欲みたいなのもあまりない。だから、完全に女脳だとは思わないけど、女脳要素は結構あるんじゃないかな、という気がしている。

だから僕は本書を、男と女、両方の視点から読めたように思う。女脳に共感できる部分では、わかるわーと思い、女脳に共感できない部分では、あーそういう女性いるよなぁ、と思う。ちょっとそれは我田引水では…と思うような話もあったけど、概ね本書に書かれていることは、なるほどなぁ、と思わせる面白い話だった。

ちなみに僕は結婚していないので、夫婦のことはよく分からない。分からないけど、結婚している人から断片的に話を聞いていると、本書に書かれているような状況を耳にすることはあるので、やっぱり夫婦ってこうなっちゃうのね、と思いながら読んだ。脳科学だけですべて説明できるとは思っていないけど、脳の機能がそもそもそうなっているなら、このスレ違いはしょうがないよなぁと、本書を読んだ人はみな思うのではないかと思う。

『つまり、恋に落ちる相手とは、そもそも生体としての相性は最悪、その行動は、かなり理解に苦しむ相手ということになる』

本書ではそう断言されている。何故そんなことになってしまうのか。そこにはこんな理由がある。

『動物は、小さな昆虫から人間に至るまで、すべからくフェロモンと呼ばれる生殖ホルモン由来の体臭を発散している。このフェロモン、嗅覚細胞が完治する“匂い物質”だが、食べ物や花の匂いとは別の受容体が受け取っていて、顕在意識を通らない。すなわち、知らず知らずのうちに嗅ぎ取っている匂いなのだ。
フェロモンには役割がある。異性には、遺伝子情報(免疫抗体の型)を匂いで知らせているのだ。動物たちは、なんと、生殖行為に至る前に、互いの遺伝子の生殖相性を、確認しているのである。
生殖の相性は、免疫抗体の方が遠くはなれて一致しないほどいい。理由は、異なる免疫の組合せを増やすほど多様性が増え、子孫の生存可能性が上がるからだ。
すなわち、動物は、互いの体臭から遺伝子の免疫抗体の型を嗅ぎ取り、免疫抗体の型が一致せず、この相手とはいい生殖ができると判れば好意を抱く。これが恋の核なのである。
さて、ここで、よく考えてみて欲しい。免疫抗体の方は、生体としての外界への反応を牛耳っている。免疫抗体の型が近ければ、生体としての反応が似ている。逆に、免疫抗体の型が遠く離れて一致しないということは、生体の反応がま逆になる、ということになる』

少し引用が長いが、理解していただけただろうか?簡単に要約すると、こういうことだ。

動物は、フェロモンによって、生殖行為の前に相手の免疫抗体の型を知っている

免疫抗体の型が異なる異性の方が子孫が生き残る確率が高くなり、そういう人に恋をするようになっている

免疫抗体の型が異なるということは、物事への反応や考え方が真逆、ということ

つまり、子孫を残すのに最適な相手は、一緒に暮らすには最悪な相手である

いかがだろうか?だから、夫婦がうまくいかないなんて、当然至極のことなのだ。太陽が東から上ったり、夏の次は秋が来たり、夜になれば暗くなるのと同じくらい当たり前のことなのである。

まずこのことを理解するだけでも、夫婦というものを営んでいくやり方が大きく変わるのではないかと思う。子孫を残すのに最適な相手は、一緒に生活するには最悪な相手。子孫を残す本能を無視できない以上、夫婦はお互いに理解し合えない相手と暮らす覚悟を持って結婚しなくてはいけない、ということだ。脳科学的には。

さらにその上で、「女性は生殖に最適な相手を見つけた瞬間からある一定期間だけバリアを解くようになっている」「人間の骨髄液は7年で入れ替わり、そのため7年毎に免疫システムが変わり、それによって夫婦の関係性も変わる」など、人体の機能をベースにして、夫婦間の謎めいた関係性に理由を与えていく。人体の機能だから仕方ない、と諦めるのは癪ではあるが、しかし、そうなってるんだから仕方ない、とも思えてくる。特にやっぱり、フェロモンの話はインパクトあるなぁ、と思った。最近、結婚はするけど子どもは欲しくない、みたいな夫婦もいたりするけど、そういう方が夫婦としてはうまく行くのではないか、とも思えてくる。生殖や子孫を残すという本能を無視して、この人となら一緒に暮らせる、という相手と結婚する方がいいのかもしれない。生まれてくる子どもは多少遺伝子的には弱くなるのかもだけど、まあ現代日本なら、ちょっとぐらい遺伝子が弱くたって死ぬことはないだろう。
なんて思ったりもしたのだ。

さらに著者はこの上に、男女の脳の違いをはめ込んでくる。これも実に興味深い。

著者は、男女の脳の最大の違いは、右脳と左脳の連携だという。

『女性脳は、男性脳に比べ、右脳(感じる領域)が左脳(考える領域、言語機能局在側)の連携が遥かにいい。そのため、感じたことが即ことばになる脳なのである』

もちろん、男女の脳の違いがすべてこの連携の差から来るわけではないだろうが、この連携が強いからこその女性の振る舞い、あるいはこの連携が弱いからこその男の振る舞いというものがあって、そしてそれらが、見事にすれ違っていくのである。

女性脳、男性脳の差がどんなスレ違いを生むのか。個別の話は是非本書を読んで欲しいが、男も女性も、かなり共感できる部分が多いのではないだろうか。著者は女性なので、恐らく、女性について書かれている部分についての女性からの共感の方が強い気がする。僕も、今まで女性と何らかの形で関わった経験を様々に思い出しては、なるほどあの時あの人はこういう思考・感情だったのか、なんて思ったりしたものだ。

本書の記述から、女性脳の最大の特徴を一つ拾い上げるとすれば、

『女は褒めてほしいわけじゃない。わかってほしいのである』

かなと思う。ここに、男女のスレ違いのかなりの部分が集約されているように感じた。

女性が「可愛い!」という時、それは「見ているものが可愛い」ということを伝えたいのではなくて、「私が見ているものに一緒に注目して」という合図なのだ。「可愛い!」と評価に共感して欲しいのではなく、「それに注目した私」に共感して欲しいのだ。

女性は、起こった出来事を結論から話さず、最初から臨場感たっぷりに話す。これも分かって欲しいからだ。話の内容を理解して欲しいわけじゃない。どの場面で私がどんな風に感じたのか、それを一緒に追体験して、その時々の私のことを分かってほしいのだ。

女性は、何か問題が起きた時、まず共感して欲しい。「痛い!」と言ったら、「今度からこうすればぶつからないよ」じゃなくて、「痛かったね」と言ってほしい。「忘れ物をして困った!」と言ったら、「次は忘れないようにこうしたらいいよ」じゃなくて、「大変だったね」と言って欲しい。解決策など望んでいないのだ。

とまあこんな感じで、女性はとにかく「わかってほしい」と思っている。
これは、女子会によく呼ばれていた僕には、実感として理解できることでもある。

男同士の会話というのは、割と、議論っぽくなりやすい。ある問題や命題に対して、色んな人間がどう思うのか、どの意見が妥当なのか、という話になりがちだ。

しかし女性同士の会話は、そんなことにはならない。「そうそう!」「わかる!」「やっぱり!」みたいなことをみんなで言い合って、共感するのだ。僕はこういう女性の会話を楽しいと思える人間なのでまったく苦にならないのだが、男はそういう女性同士の会話を、なんの意味もないつまらない会話、だと感じるようだ。まあ確かに、女性同士の会話に交じると、後々「あの時どんな話したっけ?」と思い返してみても誰も思い出せない、ということになる(笑)。話の中身ではなく、その場その場での共感が重要なのだから、どんな話をしたのかという記憶は残らないのである。

この「女は褒めてほしいわけじゃない。わかってほしいのである」というのは、会社で女性が昇進を拒む原因にもなっていると著者は言う。男は脳の性質上、客観的な指標で評価されることを望む。しかし女性は、そういう評価にはさほど関心がないらしい。そうではなくて、自分の頑張っている部分を、誰かがきちんと見てくれて、それに対して主観的に評価してくれる方が嬉しいようだ。「◯◯さんの朝の挨拶は元気で気持ちがいいね」というようなひと言で、女性は「わかってもらえた」と感じられ、やる気になるという。だから、男が望むような評価指標しかない環境だと、女性は有能であっても、「そんな評価のされ方しかないならいいや」と思って昇進に対して興味を失ってしまうのだという。すべての女性に当てはまるわけではないだろうが、女性の部下がいる環境(今ほとんどの職場ではそうだろう)では、男は女性の評価のやり方を意識的に変えてみるべきかもしれない。

著者は、女性の上司に対しても、「報告書の斜め読みは、男性を案外傷つけるから気をつけて」とアドバイスをする。報告書や日報みたいなものは男が安心するために存在するのであって、女性には向かないのだそう。だから女性上司は、部下の報告書なんかを軽視してしまう傾向にあるらしい。そういう態度は、女性としては悪気がなくても、男は「蔑ろにされている」と感じてしまう、みたいなことが書いてあった。

みたいなことを書いていくといくらでも書けてしまうのでこの辺りで止めておくが、とにかく、男女の脳の違いは、男女の行動をどんな風に規定し、それが男女のスレ違いをどう生み出しているのか、という実例が様々に載っているので、非常に面白い。先程も触れたように、我田引水に感じる話もあるし、すべてが脳科学で説明できると考えるのも危険だろう。しかし、脳の機能というものを理解して、自分の行動を少し変えることで、異性とのコミュニケーションがスムーズに行くのだとしたら、知識として知っておいてもいいのではないか、と感じるネタがたくさんある。

例えば男性諸君は、P144を読むことをオススメする。ここには、著者がオススメするデートプランの立て方が書いてある。手間を書けずに女性の満足度を引き上げる脳科学方法が書かれているので、通用するのかどうか、是非実際に試してみて欲しいものである。

夫婦やこれから夫婦になろうとしている人は是非読んだほうがいいし、そうでなくても本書は、異性との関わり方の指南書になると思う。男女どちらも読んだほうがいいんだけど、男は読まなそうだなぁ、こういう本。

黒川伊保子「夫婦脳 夫心と妻心は、なぜこうも相容れないのか」

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僕は、「考えること」が好きだ。
でも、最初から好きだったわけじゃない。
最初は、考えざるを得なかった、というだけのことだ。

子どもの頃。僕には色んなことが分からなかった。
周りの人と自分が、同じような感じがしなかったのだ。
これだけ書くと中二病っぽい感じに聞こえるかもしれないし、実際にそういうのを中二病と呼ぶのかもしれないけど、とにかく僕はずっとそんな風に感じていた。
周りの人がなんで今笑っているのか分からない。
周りの人がなんでそのマンガにハマっているのか分からない。
周りの人がなんでそんなことに一喜一憂しているのか分からない。
僕はそんなことをずっと感じていた。

周りの人は、どうも、そういう疑問を抱いていないように僕には見えた。
周りの人は、特に問題なく、お互いの存在を分かり合っているように思えた。
もっと言えば、なんというのか、前提が共有されているような気がしたのだ。

僕には、その感覚は得られなかった。
同じような形をして、同じような格好をして、同じような言葉を喋っているけど、
周りの人が考えていることがよく分からなかった。

だから僕は、「考えること」によってそれを掴もうとした。
…のだと思う。
正直、そこまで正確には覚えていないのだけど。

周りの人の言葉、表情、仕草、感情の出し方、話題の選び方、興味の方向。そういうものを材料にして僕は考えたんだと思う。
なるほど、こういう時に笑うんだな。
なるほど、こういう時にこんな風に振る舞うんだな。
なるほど、こういう時にこう言うんだな。
僕はそういうことを、観察と思考によって身につけた、という意識がある。
考えなければ、僕は、色んなことが理解できないままだっただろうと思う。

そんな風にして、考えることで周りの人の振る舞いを理解し、それを元に自分の振る舞いを決める、ということを続けている中で、僕は、「考えること」の面白さに気づくようになったのではないかと思う。

『問いそのものを自分で立てて、自分のやりかたで、勝手に考えていく学問のことを、哲学っていうんだよ』

本書には、そんな風に書かれている。そういう意味で言えば、まさに僕はずっと哲学をしてきたんだろうと思う。

何故親が苦手なのか。
何故生きているのがしんどいのか。
何故初対面の人と関わるのは得意なのか。
何故勉強するのが好きなのか。
何故社会に出たくなかったのか。
何故大学を辞めたのか。
死んだら人間はどうなるのか?
幽霊がいないことを証明することは出来るのか?

そういう様々な問いに対して、僕は自分なりの答えを説明できるようになっていった。その答えが“正しい”かどうかということには、さほど興味はない。そうではなくて、自分が導き出したその答えが、他の問いに対する答えと矛盾しないかどうか。あるいは、答えを導き出す過程が論理的であるか。そういう部分に興味が湧くようになった。

中学生ぐらいから今まで、そんな風に、ずっと色んなことについて考えて生きてきた。このブログをこんな風に続けられているのも、元々僕が考えることが好きだからだろう。このブログは、「考えたことを書く場」ではない。僕は、考えた事柄を書いているのではなく、書きながら考えている。だからこのブログは、「考える場」なのだ。

僕が話していて面白いと感じる相手は、程度はともかく、僕のように、どうしようもなく何かを考えてしまう人だ。考えようと思って考えるのではなく、ナチュラルに、意識しなくても、色んなことを考えてしまう人。僕は、誰かの価値観そのものにはあまり関心はない。僕とは違う価値観を持っていてもまったく問題ない。ただ、その価値観に至る思考の道筋を言葉で説明できない人は、嫌だなあと思う。つまらないと感じてしまう。

別に、変わった価値観を持っていなきゃいけないわけではない。結論自体は、世間の多数派の価値観と同じだって構わない。ただ、その結論に至るオリジナルの思考を提示出来るかどうか。「みんながそう言ってるから」「当たり前じゃんそんなの」以外の理由を提示出来るか。そこに、僕の関心は集約されていると言っていい。

本書は、僕のような「考えてしまうタイプの人」には不必要でしょう。というのは、本書で書かれるような思考は、既に通り抜けているからだ。本書に書いてあることとまったく同じことを考えているかどうか、が問題なのではない。そうではなくて、思考のスタイルとして、前提を疑ったり、枠の外の意識を向けてみたり、常識の真逆に振り切ってみたりというような、物事を様々な角度から見て、常識や多数派の意見から離れたところから眺めるみたいなやり方は既に出来ていると思うからだ。

しかし、「考えないタイプの人」には、非常に良い入門書なのではないかと思う。それこそ本書は、小学生からでも読める。小学生には難しいだろう、という話も出てくるが、しかしこれは、年齢の問題でもないだろうとも思う。「考えてしまうタイプの人」であれば小学生でも理解できるだろうし、「考えないタイプの人」であれば大人だって理解に苦しむでしょう。本書はそういう本です。

考える力がさほどなくても、正直、この世の中では生きていける。「考えないタイプの人」というのは、あくまでもイメージだが、これまで自分の価値観が世の中の大多数の価値観とズレたことがほとんどないのだろう。ある意味では羨ましい人だ。そのズレが少なければ少ないほど、常に多数派の価値観に疑問を感じずにいられるのだから、生きていく上での障壁は少ない。結果的に生きやすい、ということになる。

けど、そういう「考えないタイプの人」は、変化に弱い。自分が依って立つ価値観が、「多くの人に支持されている」という土台しかない、ということに気づかないままでいることで、大きな変化があった時、どの変化についていけなくなるかもしれない。

また、これからさらに変化が激しくなるだろう社会を生きざるを得ない子どもたちには、考える力は必須と言っていいだろう。

本書は、「考えないタイプの人」の格好の入門書である。

内容に廃炉と思います。
本書は、哲学者の永井均が描く、「猫のペネトレ」と「ぼく」との対話のやり取りである。扱われている内容は多岐に渡るが、一つのテーマは2~3ページで終わる。非常に短い。思考を深めるための本ではなく、思考する際の発想力や手順みたいなものを見せてくれるお手本みたいな感じかもしれない。

目次からテーマをいくつか拾ってみる。

「人間はなんのために生きているのか?」
「善と悪を決めるもの」
「学校には行かなくてはいけないか?」
「言葉の意味はだれが決める?」
「友だちは必要か?」
「なぜ勉強しなくちゃいけないのか?」
「クジラは魚である!」
「地球は丸くない!」

こんな感じである。

子どもに「どうして?」と聞かれて答えられない、というような経験は、子どもを持つ親なら持っているかもしれない。本書で扱われるテーマも、そういうものに近い。スパっと答えを出すのが難しい問いに対して、どんな風に考えるのか。答えを提示するのではなく、考え方の一例を提示する、という印象だ。

『つまり、この本のほんとうの意味っていうのは、この本の読者ひとりひとりにとって、それぞれちがっていていいのさ。だいじなことは、自分で発見するってことなんだ。もし自分でなにかが発見できたなら、それが本当の意味だったんだよ。哲学っていうのは、そういうものなんだ』

「考えないタイプの人」からしたら、本書はとても難しく移るかもしれない。でもそれは、練習をほとんどしない人がいきなるフルマラソンに出る、みたいなものだ。そりゃあ、走りきれるわけがない。きちんと準備運動をして、筋トレをして、練習して、そうやって「考える筋力」みたいなものをつけていかないといけない。

「考えてしまうタイプの人」というのは、そういうことを、息を吸うように自然に出来てしまうのだ。それはもう、筋トレや練習が習慣になっている、という意味だ。だから、「考えてしまうタイプの人」には本書は勧めない。本書は、準備運動の仕方も、筋トレの仕方も知らない人に、そのやり方を教えてくれる、そういう立ち位置の本である。

とはいえ、ところどころ興味深いと感じる話も出てくる。
僕が一番面白いと感じたのは、犬が囲碁をする話だ。

作中に、8コママンガが登場する。流れはこうだ。老人が飼い犬に、お前が囲碁を打てたらいいのに、と言う。犬は出来ますよと言って、老人の向かいに座り、碁盤に向かって「お手」をする、というマンガである。

どういうことかと言うと、人間が囲碁を打つ動作を見て、それを犬は、碁盤にお手をするゲームと捉えた、ということだ。

『ちょうどロダンが囲碁をおてだと思いこんじゃっているみたいに、人間もなにか根本的な勘ちがいをして、ほんとうはぜんぜんちがうものを、そう思いこんじゃっているのかもしれないんだよ』

なるほどな、と思う。

この話で僕が連想したのは、物理学の世界の話である。

例えば光。光は、波としての性質を持っている。電波や電磁波と同じように、波として空間を伝わってくる。これは昔から知られていた。
しかしアインシュタインが、光には光子という粒としての性質もある、と主張した(確かアインシュタインは、光電子効果と名付けられたこの研究でノーベル賞を受賞したはず)。別の人物が行った、従来の理論では説明がつかない実験結果を、光に粒としての性質があるとすることで完璧に説明したのだ。

そうすると、光には、波としての性質と粒としての性質があることになる。

これは光だけに限らない。例えば電子。電子は基本的に粒としての性質を持っている。しかし、ある特殊な実験をすることで(この実験は日本人によって行われ、世界で最も美しい実験の一つに選ばれているはず)、電子には波としての性質もある、ということを示して見せた。

光だけでなく、電子にも波としての性質と粒としての性質がある。
現在の物理学では、こんな風に説明されている。

しかしこれは、もっと単純な何かを僕らが勘違いしているだけなのではないか、と僕には思える。波と粒、両方の性質を持つのだ、というちょっともたついた説明ではなくて、もっとすっきりした捉え方があるのではないか、と思えてしまう。ちょうど犬が、囲碁を「碁盤にお手するゲーム」と思い込んだように。

そしてこういうことはもっと山程あるのではないかと思う。ピラミッドやナスカの地上絵もそうだし、株式の値動きもそう。僕らは、色んな物事を、違った受けとり方をしているのかもしれない。そういう思考は昔から持っていたけど、「犬が囲碁を勘違いする」という例が非常に秀逸だったので、今まで持ってた問題意識みたいなものがクリアになったような印象を受けました。

「クジラは魚なんだ」という話も面白かった。確かに、本書に書かれている通りだ、と感じた。クジラは哺乳類だ、とされているが、それは、「体の内部の機能を最も重要な要素として捉えている」ためにそう判断されるわけだ。それは、一つの解釈の仕方として正しい。しかし、「クジラは海に住んでいるんだから魚だ」という捉え方もまた、一つの解釈として正しいだろう。僕らは今、「体の内部の機能を最も重視して動物を分類する」という前提を共有している(この前提を“科学”と呼んでいる)のだ、ということを意識出来るかどうか。そういう話が非常に面白いなと感じました。

「考えないタイプの人」には是非読んでもらいたい一冊だ。考える、ということの面白さを少しは分かってもらえるかもしれない。

永井均「子どものための哲学対話」

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僕には人としての心がなさそうだ。
そう感じることが時々ある。
でも僕の場合、「僕には人としての心がなさそうだ(良くないことだな)」とい客観視が出来ているつもりなので、まだマシだろうと思っている。

良い人のフリをするのが得意だ。
別に演技をしている意識はない。その場その場で、どうすれば良い人に見えるのか分かる。そして、こうだろうなと思った風に行動している。それだけ。僕自身は、内側から自分自身を知っている身として、僕は大して良い人ではないだろうと思っている。でも同時に、まあ良い人には見えるだろうなぁ、とも思っている。そういう風に見せているからだ。

こういう感覚は、誰の中にもあるもんなんだろうか?
よく分からない。
僕はどこにいても、誰といても、その場でこうあるべきなんだろうな、という役割を見つけ出して、そういう風にしてその場にいる。別に、良い人に見せるだけではない。状況次第で悪い人にも、ダメな人にも、楽しそうな人にもなる。自分の能力の範囲内であれば、どんなタイプの人間にでもなる。

アンジャッシュの渡部が以前テレビ番組の中でこんな風なことを言っていた。
「僕は、スタッフの人が求める通りの存在としてこのスタジオにいようと意識している」
僕の感覚は、こういう感じに近い。
渡部は、自分が面白いことが言えるか、目立つか、そういうことはどうでも良くて、番組という一つの場を成立させるために自分がやるべく役割を果たす、という意識でいつも現場にいるらしい。昔からそういう意識でいたわけではなくて、そういう意識に切り替えたのだと言っていたと思う。

僕も同じ。僕も、その場その場で、まあこういう人物がいたらいいよね、こういう人がいると全体がうまく回るよね、みたいなことを勝手に判断して、その役割をまっとうするように振る舞う。何でそんなことをしているかと言えば、その方が僕にとっては楽だからだ。別にやりたいことも主張したいこともない。周りに合わせて自分の形を常に可変させている方が、基本的には楽だ。

まあ、そういう風に生きているせいで、深い人間関係は苦手なんだけど。

僕のこういうやり方はおかしいんだろうな、とは思う。おかしいというか、まあ人とは違うだろう。
僕は、自分のこういう振る舞いについて考える時、あー自分には人としての心がないな、と感じる。他者の存在に反応する形でしか自分というものが出てこないというのは、自分の内側に「人」がいないのと似たようなものだろう。

高倉は、犯罪心理学をきちんと学んだ刑事だ。捜査一課に所属し、サイコパスの取り調べなどを担当していた。しかしある日、8人を殺したサイコパスとのやり取りで負傷し、その事件をきっかけに警察を辞めた。今では大学で犯罪心理学を教えている。
引っ越しをした高倉夫婦は、妻の康子と共にお隣に挨拶に行った。一軒目は、近所づきあいはしないことにしてるからとけんもほろろ。そして二軒目の西野さんは、不在だったために後回しにすることにした。
高倉は大学で、「日野市一家失踪事件」の存在を知る。現役時代関わったことのない事件だ。日野市で家族三人が突然失踪した事件で、高倉は、失踪なのに何故事件扱いになっているのか疑問を抱く。その事件では、早紀という少女が一人だけ残されたのだが、当時中学生だった彼女の記憶は曖昧で、証言能力なしとされていた。
刑事時代に関わりのあった野上から、この事件を分析してもらえないかと依頼された高倉は、現場に足を運び、一人残された早紀に話を聞き、少しずつ情報を集めるが、真実に繋がりそうな手がかりは出てこない。
一方で、隣人の西野さんは、なかなか捉えどころのない人物だった。一人で西野家に挨拶に行った康子は、初対面の印象こそ最悪だったが、次第に西野家と仲良くなっていく。西野家の一人娘である澪に料理を教えたりもした。
日野市の事件と隣人の西野家。まるで関係のない二つが、やがて結びついていく…。
というような話です。

僕は、途中まで非常に興味深く見ていました。どうなっていくんだろう、という展開への興味です。西野(香川照之)は最初からかなり異常な人物として登場しますが、しかし西野を異常と感じるのは、僕らがそういう目で見ているからです。もしあの西野が、お隣さんとしていれば、確かにちょっと変わってるけど、もの凄く警戒するかと言えばそうではないかもしれません。そういう西野の存在が、物語の中でどうなっていくのか。非常に興味がありました。

ただ、途中から、うーん、と思ってしまいました。その理由を具体的には書きませんが、「魔法だと分かってしまったから」というのがその理由です。
僕が展開に興味を抱いたのは、西野が裏で何かやっているとして(まあやってないわけはないんですけど)、どんな風にそれを成し遂げているのか、という点が気になったからです。予告編でも目にしたからネタバレにならないと思うけど、作中で、西野の娘である澪が高倉(西島秀俊)に、
「あの人お父さんじゃありません。全然知らない人です」
と言います。どうしてそんなことになっているのか?何故他人なのに一緒に暮らしているのか?父親じゃないならあいつは誰なのか?そして僕は、そういう謎めいた状況を成り立たせている土台に関心がありました。西野がどんな風にそれを実現しているのかということに興味がありました。

でもそれは、ある種の「魔法」でした。それが分かった時、ちょっとなぁ、と思ってしまいました。正直、作中で描かれる「魔法」がどんなものなのか、イマイチよく分かりません。分からないけど、でもそれは、「魔法」のように効くわけです。

もちろん西野のやり方は、その「魔法」だけにあるわけじゃありません。罪悪感を持たせるとか、自分が悪いのだと思い込ませるとか、そういう様々な手法と組み合わせてこの異常な状況を作り出しているわけでしょう。それは分かるんですけど、でもやっぱり、ベースにあるのは「魔法」なのか、と思って残念でした。

僕自身は、犯罪に関係したノンフィクションを結構読んでいたり、ドキュメンタリーを見たりすることがあるので、「ストックホルム症候群」的な状況が存在することは理解しています。「ストックホルム症候群」というのは、人質になった人が犯人に協力するような行動を取るようなことで、特殊な信頼関係みたいのが構築されることを言います。本書でも、例えば西野と澪の関係は、そういう「ストックホルム症候群」に、さらに色んな要素が組み合わさっているのだろうと思います。

とはいえ、澪の存在はちょっと無理ありすぎるように、僕には感じられてしまいました。
何故なら、澪は学校にきちんと行っているからです。

「ストックホルム症候群」は、囚われの身で逃げられないと思った状況で起こるんだと僕は思っています。澪は確かに、囚われの身だろうし逃げられないと思っているのかもしれないけど、でも、物理的に拘束されてもいないし、閉じ込められているわけでもない。学校には普通に行っているわけです。

その状況で何もしないだろうか?

もちろん、澪にも逃げられないと感じる理由があるでしょう。詳しくは書かないけど、自分だけが囚われの身になっているわけではないのです。しかし、そうだとしても、澪は彼らの運命をもう知っているわけです。自分ではどうすることも出来ないと感じているでしょう。でも、だったらなおさらのこと、外に助けを求めるなりなんなりしてもおかしくないのではないか、と。

ここが、現実とフィクションの違いだと僕は感じます。

これが現実の物語であれば、理由を問うことは無意味です。実際に、そうだったのですから。澪のような女の子が実在するとして、澪が何故、一人で学校に行けるような環境にありながら誰にも助けを求めなかったのか、その理由を問うことは無意味です。

でも、物語であれば違います。そこには、何らかの理由を用意しなければ説得力がありません。

僕はこれまで色々と事件ノンフィクションを読んできましたが、付き添いなしで外に出る自由を与えられながら逃げなかった、という事例の記憶はありません。もちろん、どこかにはあるかもしれませんが、僕自身は聞いたことがありません。自分が囚われている場所に誰か他人がやってきたけど、怖くて助けを求められなかった、みたいなことならありえるでしょう。でも澪は、家から自由に外に出ることが出来るわけです。そういう状況下にあってもなお何の行動も起こさない、という点には、やはり何らかの理由を持たせるべきだったのではないかと感じます。

そう強く思う理由に、先程の「あの人お父さんじゃありません。全然知らない人です」というセリフがあります。これは、澪が自宅近くで、通りかかった高倉にこそっと言ったものです。つまり澪には、誰かにこの状況を知ってもらいたい、助けてもらいたい、という意志がきちんとあるわけです。

だったら、自宅近くでいつ西野に見つかるか分からない場所で言うより、学校やその行き帰りなど西野と遠いところで誰かに訴えかける方がよほどいいでしょう。何故澪はそうしなかったのか。

一応自分なりに解答はあります。それは、「言っても誰も信じてくれないことを恐れたから」というものです。だとすれば、高倉に言ったことにも説明がつきます。直接西野と関わりのある高倉だったら分かってもらえるんじゃないか、と思ったのかもしれません。しかしそれも、例えば家で何枚か写真を撮って誰かに見せればすぐです。じゃあ、「自分が捕まることを恐れたから」でしょうか。しかしそうなると、高倉に話したことの説明がつきません。

そんなわけで、僕の中で澪というのは、ちょっとリアリティのない存在に思えました。実際の事件でそういうことがあれば、そういうことがあったんだなと受け入れますが、物語の中の登場人物としてはちょっと受け入れがたいと感じました。

リアリティという意味で言えば、康子が何故取り込まれてしまったのか、その辺りもイマイチよく分かりませんでした。あの場面が最初の最初のきっかけだったんだろう、という場面は思い当たります。でも、そこから、一体何がどうなればあんな場所まで康子が連れて行かれる羽目になるのか。いくら「魔法」の存在があったって、良く理解できないなと感じてしまいました。

物語のラストも、なんだかなぁと思ってしまいました。あそこでああなるんだろうな、というのはそうなる前から予想がつきましたけど、個人的にはあの展開が、計画されたものなのか突発的なものなのかで作品の意味合いが全然違うように思います。計画されたものであるとすれば、ラスト付近で西野を追い詰めたかに思われた場面で何故康子があんな行動を取ったのかイマイチ理解できません。突発的なものなのであれば、ラストの展開の直後の澪と康子の反応がうまく理解できません。どちらにしても、いつ「魔法」が解けたのか、「魔法」が解ける要因は一体なんなのか、そういう部分がイマイチ理解できないなぁ、と思ってしまいました。物語の終わらせ方自体は嫌いじゃありません。ただ、上述したようなことが気になって、どうもスッキリしない感じを受けました。

あと、これはもしかしたら演出なのかもしれないけど、高倉役の西島秀俊の演技がどうも下手に思えて仕方ありませんでした。西島秀俊の演技をたぶん初めて見たので判断はつきませんが、あれが演出でないとしたら凄く演技が下手に見えたし、演出だとしたらどんな意図でそうしたのかイマイチよく分かりません。

全体的には、もうちょっと頑張って欲しかったな、と感じる映画でした。

「クリーピー 偽りの隣人」を観に行ってきました

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『佐賀県という一地方で一介の県庁職員が始めたことが、様々な賞をいただくことにつながり、世界的に有名なプレゼンテーションの場である「TEDx」での登壇や、東京大学のなど多くの学校で講義をする機会にもなった。全国放送の密着ドキュメンタリー番組である「夢の扉+」では「“たらいまわし”をなくせ!スーパー公務員の挑戦」として取り上げてもらい、小学5年生の社会科の教科書でもその取組みが紹介され、インターネット上では、これらのことが救急医療分野だけでなく様々な分野で挑戦する人の後押しになっているという声も寄せられている。私の経験や佐賀の取組みが、幕末のように全国へ発信できているのであれば、本当に嬉しい限りである』

著者が県庁職員として行ったある挑戦は、これほどまでに社会に影響を与え、社会を変え、著者自身を取り巻く環境を変えた。

著者は何をしたのか?

大雑把にざっくりと言えば、県内すべての救急車にiPadを配備し、各病院の受け入れ状況などを「見える化」し、救急搬送の短縮だけではなく、バラバラだった医療関係機関の足並みを揃わせ、iPad経由で得られたデータを分析することで新たな医療分野の課題を発見している。その一つを解決するため、一度議論され否決された「ドクターヘリ」の導入を成し遂げた。公務員の世界では、一度決まった結論を覆すのは、様々な理由から困難だと言うが、著者はそれをやってのける。

まさに「スーパー公務員」と言っていいだろう。

しかし著者は、最近の「スーパー公務員」がもてはやされる傾向を危惧している。自分は普通の人間であり、結果的にそう見えるかもしれないが決して「スーパー公務員」ではない、と言う。

『TBSの「夢の扉+」をご覧になった方からSNSに「私の住んでいる自治体にも円成寺さんのような人がいればいいのに」というメッセージをいただいたこともある。その人にぜひ伝えたいことは、出番を待っている熱い公務員たちが世の中にはたくさんいるし、きっとその人の住む自治体にもいるということだ。きっかけさえあれば人はいつでも「当事者」になることができるのだ』

『全国各地を回りすごい公務員たちがたくさんいることを知った。役所という堅い岩盤の下にはマグマのような熱い公務員たちがたくさんいる。きっかけさえあれば彼ら彼女らはいつでも飛び出してくるのだ。』

著者は巻末で、『一介の公務員にとってこのような本を出すことは光栄なのだが、正直なところ個人的にはメリットよりもデメリットのほうが多い』と書いている。それでも本書を出すことに決めたのには、公務員にイメージを変えたいと思ったからだ。

『多くの人が公務員の魅力は安定していることだと思っているかもしれないが、私は「社会のために挑戦できること」が公務員の魅力だと思っている』

公務員、という存在に対するイメージは、僕の中ではあまり良くない。何か理由があるわけではなく完全にイメージだが、「成功しなくてもいいが、失敗すると評価に大きく響くから挑戦しない」「比較的自由な時間が取りやすいから趣味に時間を掛けたい人がなっている」「ダラダラ仕事をしている」というような良くない印象を持っていた。

もちろんそういう公務員もいるのだろう。ニュースなどで公務員が取り上げられる時は、大体なんらかの不祥事絡みだから、悪い印象ばかり刷り込まれているということもあるだろう。本書を読んで、僕の中での公務員のイメージは大きく変わった。

『民間企業のように給与に数倍、数十倍差が出たり、何かしでかしてクビになるリスクがあるなら、私も本書で取り上げていくような「挑戦」はできなかったかもしれない。現在の日本の公務員制度は批判も多いが、本来は安定した待遇によって「公のための挑戦」をしやすくし、少しでもよりよい社会を実現してほしいという先達たちの願いや祈りが込められているように思えてならない。
たとえ周りが何と思おうが、どんな評価をされようが、いい仕事をするために挑戦していけるのが、公務員の最大の魅力なのだと私は思う』

『だが、これは知っておいていただきたいのだが、私も含め多くの公務員は、目立たない中で世の中の役に立つ仕事をするのが本当に好きなのである』

『目立つ、目立たないではない。そういうことを可能にすることにこそ公務員としての仕事の喜びがあると私は考えているのだ。
公務員の仕事とは、どんなに地味で目立たなくても、意味のない業務などは本来は一つもない。その業務をきちんと行うことで、どんな人にどう役に立つのか、その想像力こそ、公務員に求められるものだろう
公務員らしい仕事こそが大切であり、お役所仕事という言葉に誇りを持っていい。お役所のしごととは地味で、放っておくと問題が起こるようなことを目立たないうちに手を打っておき、採算ではなく、人の命や地域の人の幸せを基準にして行うものだ』

どうだろうか。著者のこんな言葉を読んでいると、公務員という仕事が、何やら魅力的な仕事に見えてこないだろうか。

もちろん、著者と同じレベル、とまでいかなくても、誰もやっていないことにチャレンジすることは難しい。公務員なら、そのハードルはより上がるだろう。著者も、今でこそ「スーパー公務員」と扱われているが、『まだ何の成果も出ておらず、庁内での批判と厳しい目にさらされ、悶々とした日々が約1年も続いた。』『その人間がやっていることそのものではなく「目立っている」ことに対して批判ややっかみが出てくるのである』など、厳しい時期を過ごした。そもそも著者は、庁内で誰も行きたがらないと言われる激務の課に異動になり、そこで仕事外の時間を使って、自身が見つけた問題解決のために動いていたのだ。真夜中、県庁で残業をしている中、辞表を書いたり消したりした、というようなエピソードも語られている。

それでも「はみだすこと」に飛び込めと言う。

『またそれは公務員の世界だけに限らない。最近の日本社会全般においても、挑戦のリスクばかりが取り沙汰されて、みんなと同じ道から外れることのできない傾向があるような気がしてならない』

『誤解があるといけないが、はみだすこと自体に意味があるのではない。誰かのため社会のため何かを達成する道すがらで、はみださざるを得ないことが起きたらそれを恐れるべきではない、ということだ。もちろん、はみだす覚悟には、周囲に迷惑をかけないという責任が伴う』

僕は、今となってははみだすことはまったく恐れていない。仕事でも日常生活でも、むしろ周りから外れよう外れようとして行動をしている。その方が面白いからだ。決して昔からそんな風に行動できるわけではなかった。昔は、周りの目を気にして、なるべく周りから外れないように行動していた。でも、そういう生き方は結局、窮屈で自分の性格には合っていなかった。

お役所に限らず、どんな場面でも、前例のないことを躊躇する風潮みたいなものを感じることがある。今の職場はそれがまったくないので非常にありがたい。僕自身は、そういう環境があるからはみだせているという部分もあるかもしれない。著者は、公務員という、まさに「前例の踏襲」という厚い壁を突破しなければ何も出来ない環境で、世界中誰も成し得なかったことをやってのけた。もちろん、公務員だから出来た、という側面もある。しかし、最初のハードルとしては、公務員であるという足かせが非常に大きかっただろうと思う。著者の経験を知ることは、どんな環境でも何かに挑戦していくやり方を学ぶいいきっかけである。

『伝えたいことは、公務員という世の中で最も変革に縁遠く、何もしないと思われている仕事でも、はみだす覚悟さえあれば意外に何でもできるということだ』

『信念を持って物事に取り組むために一歩前に出ることは、嫌われる勇気を持つということでもあるのだ』

色んなことに言い訳をして、「出来ない理由」を探して何もしないことは楽だ。でも、普通だったら出来ないことにチャレンジ出来るのは楽しい。どんな環境にいても、そこで課題を見つけることが出来る。そして見つけた課題に対して、小さなところから行動していくことは出来る。著者が取り組んだ救急医療の現場の改革は、医療関係者が行政に対して長年不信感を持っていたという、ゼロからどころかマイナスからのスタートだった。それでも著者は、現場を見ることで乗り越えてきた。

『そこをあえて無理なお願いをしたのは、私自身が県庁での仕事を始めてからこれまでの職場で学んできた「現場主義」がなければ仕事はできないという信念があり、いかんともし難い想いがあったからだ。「現場を知らなければいい仕事などできない。効果的な政策など打てるはずがない」―これが私の行動原則だった』

「現場主義」による改革というのは、著者のいる佐賀県の伝統であるらしい。殿様自らが行動し、全国的に見ても異端の藩であった佐賀藩。その原則は、時代を超えて著者に宿り、現代において先駆的な改革を次々と成し遂げているのである。

著者がどんな経緯を経て、世界にその名を轟かせるまでの成果を生み出すに至ったのか、その詳細をここで書くことはしない。しかし、繰り返すがそれは楽な道のりではなかった。特に思い入れもなく県庁職員として働き始めた著者。すぐに実践を求められた課での苦労、三年ごとに業務内容がまるで変わる大変さ、最もヒマと呼ばれた課へ異動になり、そこで後の改革のきっかけとなる意識を得たこと、それから一転、最も辛いと呼ばれる課へと異動になり、殺人的な業務量の中、それでも自分の自由になる時間を見つけ、誰に言われるまでもなく課題を見つけ、解決方法を探り、実際に解決に向けて動き出す、という流れは、まるでドラマのようで面白い。面白いだけではなくて、それまでのすべての経験がどういう形でか後々役立つということも分かる。無駄な経験はないし、たとえ失敗があったとしても、そこから学べることがあればそれは失敗ではない。現状が辛いという人も多くいるだろうし、努力が報われないと感じている人もいるだろう。確かに、結果的に報われないまま終わる、ということだってあるかもしれない。でも、不貞腐れないで続けることで、後々、辛い経験も無駄だと思えた経験も、意味のある何かに変わるかもしれない。そんな風に思わせてくれる。

個人的には、特に若い人に伝えたい著者のこんな言葉があるので紹介しようと思う。

『変革者は物事を変えるだけの人間ではない。変えることが目的ではなく実現したい理想や未来に近づけるために、たまたま変えるという手段をとったにすぎない。
これは私の持論であり、新しく県庁に入った人たちにはこんなメッセージを伝えている。
「これまでやってきた前例や既存の制度を頭から否定してはいけない。たしかに時代に合わなかったりおかしいところもあるかもしれない。しかし、それもこれまで先人たちが汗と涙でつくり上げてきた積み上げなのだ。それは経験や教訓の塊であり、過去すべての人たちがより良い社会を生きたいと血のにじむような努力をしてきた願いや祈りなのだから、まずはしっかりと前例や既存制度を学ぶこと」』

決して、チャレンジすることだけが人生ではない。平穏に人生を終えたいという人もいるだろうし、チャレンジする人を手助けしたいと思っている人もいるだろう。そういう生き方を別に否定しているわけではない。本書は、何かチャレンジしたい、変えたい、見つけてしまった課題を解決したいと切実に願っている人に、その道筋を見せてくれる作品だ。そして同時に、特に熱い気持ちを持たずに生きてきた人の心を鼓舞するかもしれない力を持つ作品でもある。「はみだす」勇気を持って、それまで歩んできたのとは違う人生を歩んでみる。そんな一歩を踏み出してみませんか?

円城寺雄介「県庁そろそろクビですか? 「はみだし公務員」の挑戦」

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『毎日毎日汗水垂らして、もくもくと働いている。いすに座って仕事をしてるだけじゃ決してわからない「働く」ことの実感を、少しだけつかんだ気がした。さらに、想像しすぎ、心配しすぎは自分を苦しくさせ、そんなことに何の意味もないどころか、自分の人生を無意味にしちゃうと、おぼろげながら気づき始めた。動け動け、考える前に!』

本書を読んで僕は、働くことに恐怖を感じていたかつての自分のことを思い出す。

まともに働くことなんて、自分には無理だよなぁ、とずっと思っていた。ずっと、というのはどれぐらいからかというと、もう中学生の頃からは間違いなくそう思っていた。自分は社会に出られないだろう、と思っていた。今から考えれば、僕自身も著者と同じく、極端なマイナス思考、心配性だった、というだけのことだと思う。物事を基本的にすべて悪い方向に考えるのが得意だった僕は、経験したことのない「働く」という行為を無闇に想像しては、悪いことばかり考えていたのだろう。

とはいえ、結局「就活」というのが恐ろしすぎて、就活から逃げるために大学を辞めたのだから、相当社会に出たくなかったのだ、ということが伝わるだろうか。

大学時代、コンビニとファミレスでアルバイトをしたことがあった。どっちも、三か月でバックれた。その時のことはちゃんとは覚えていないが、「働く」ということに対して「うわー」と思ったのだろう。自分で言うのもなんだけど、僕は仕事は出来る方だと思う。たぶん覚えるのも早いし、やろうと思えば割となんだって平均以上に出来る。だから、仕事についていけなかった、とかじゃない。先輩後輩みたいな人間関係とか、誰かにやることを指示されるとか、そういう「働く」ということに当然付随してくるようななんやかんやが嫌だったんだろうなぁ、と思う。

そんなわけで、「就活」から逃げ、晴れてフリーターになった僕は、本屋で働き始める。大学時代の経験から、コンビニとファミレスは止めておこうと思った。他にどんなバイトがあるかなぁと、ふらふら街を歩いている時に、本屋が目に入った。確かに、本はそれまでも読んでいた。うむ、本屋という手はあるかもしれないな。

そんな理由から本屋で働き始め、もう10年以上も書店員をやっている。働いている店や環境などは色々変わったが、書店員という仕事は合っていたということだろう。特に目指していた職業もなく、そもそも働きたくもなかった僕は、とりあえず今は書店員としてうまいこと落ち着いている。

『20歳から働いてきた私は、44歳のその日、やっと社会人として一歩を踏み出したように思った。
自分がどれだけ日頃グウタラ生き、生意気ばかり言い、実がなく、どうしようもない人間かと心底思い知らされた。
自分を打ちのめしてくれるものに、初めて出会った気がした。』

『それでもとにかく、私はこの日、第一歩を踏み出した。この日から私は、私の人生を変えていくことになる。
大げさじゃなく、本当に』

著者はこんな風に書いている。僕にもこういう実感があるので、凄くよく分かる。何気なく働き始めた本屋でのアルバイトから、僕の人生は、ほぉそんな風に進みますか、というぐらい激動した。「就活」で自己アピールをしたわけでも、本が好きだから本と関わりたいなんていう生真面目な理由があったわけでもない僕にとっても、本屋でアルバイトをするというのは、人生を大きく変える出来事だったのだ。

僕が本屋を続けられた理由は、割とはっきりしている。それは、ちょっとおかしいんじゃないかっていうぐらいの裁量の広さだ。

僕は、フリーターだった頃も現在も、誰かに仕事を指示されるということがほとんどない。何をやるか自分で考え、自分でやることは自分で決めていた。なんなら、他の人のための仕事まで作り出していた。ルーティンとしてやらなければならない仕事、みたいなものも別になかった。やるべき仕事はあるが、それをどうやるかは自由だし、やらなければならない仕事は特にない。それは、少なくともフリーターという立場ではなかなか得がたいものだっただろう。そういう働き方が出来たからこそ、僕は「働く」ということを続けられたのだろうと思う。

まあだからこそ、僕は今でも、まともな環境では働けないだろうな、と思っている。幸運にも働いている場所が、ちょっと頭のイカれた場所だから、なんとか働けている。他の場所だったらちょっと、無理だったかもなぁ。

まあそんなことを言っているときっと、本書の「オバちゃん」たちに怒られそうだけど(笑)

『オバちゃんたちはただただ一生懸命に働く。「ああ、更年期なのよぉ。汗かいちゃうわぁ」と、ハンカチで顔の汗をふきふきがんばるかわいいオバちゃんを見ると、どんな仕事にもやりがいはあって、それを見つけるのは自分なのだと、つくづく思う。オバちゃんたちはコンビニの仕事に合っている、というよりは合わせる能力がある。合わせる努力をしている』

内容に入ろうと思います。
本書は、音楽ライターとして長く仕事をしてきているが、音楽雑誌が不況のため、収入面で不安を抱えた著者が、チャレンジとしてコンビニのアルバイトを始めた体験をエッセイにした作品だ。著者は極度の心配性らしく、本書では「ウツウツ」と称しているが、「自立神経失調症」「性格神経症」「心気症」「心身症」などなど様々な病名をつけられて来た過去を持つ。そんな著者が一念発起、とはいえ、週に2~3回、1回につき4~5時間と、まあ一般的にそんな大したことない時間だよね、というような働き方だったが、パソコンの前で文章を書く以外の仕事がほぼ初めてだった著者は七転八倒。ウツウツとしたり辞めたいと思ったりという感情と闘いながら、どうにかコンビニでの仕事を続ける、という話だ。

著者がいるコンビニは、なかなか面白い。お客さんが面白いのは、まあコンビニならどこでもそうだろうけど、このコンビニは働いている面々がなかなか凄い。オバちゃんばかりだが、皆揃いも揃って優秀だ。

『オバちゃんたちの責任感は半端なく、自らの職務に忠実で、店第一、と真剣に思ってるのがわかる。
オバちゃんたちなくしてうちの店はありえない。』

中でも凄いのが、病気がちなオーナーの代わりに店を任されている「マダム」だ。「マダム」と呼び方は著者独自のもので、そういう雰囲気を漂わせるのだという。

マダムは、誰よりも働く。汚いところを掃除し、接客時の言葉の細かな部分まで注意する。クレームがくればその誠実な対応ですべて解決、また、スタッフをやる気にさせる術に長けている。

普通のコンビニと違い、お年寄りの常連客が多いということもあって、マダムは、過剰とも言えるサービスを提供し、その姿勢は他のオバちゃんにも受け継がれている。著者が、「うちの店はやっぱりリッツ・カールトンなのか?」と驚くほどである。震災の影響で、通常6個入りの卵のパックが10個入りのものしか届かなかった時、10個は要らないというおばさんのために、4個を店で買い取って6個分の値段で売ってあげたりしている。そんなコンビニあるんだ。他にも本書を読むと、凄いなと思うサービスをナチュラルに行っていることが伝わってくる。

『そういう過剰サービスがお客をどんどん増長させている気がしてならない。なんでもやってもらえる、5秒待てば店員がスッ飛んで来てくれて何もかも思いのまま、が当たり前になって、やってもらえないと即クレーム。日本のサービス過剰、そのくせそのサービスへの対価は無料というねじれたシステムがこうして育っていくのだ。コンビニってすごい巨大な、怖い、バベルの塔みたいなものに思えてきたりもする』

こういう感覚は僕も分かる。僕自身は接客でそれほど大変な目にあったことはないのだけど、でも小売店のこういう過剰なサービスが悪循環を生んでいるよな、という感覚は持っている。それでも、日本ではそうせざるを得ない。何故なら、他がやっているからだ。なんとも窮屈な話である。

イメージは出来るが、本書を読んでいると、コンビニのお客さんってのはホントに色んな人がいるな、と思う。どんなお客さんがいるのかは読んで欲しいが、特にオジさんが困る、という話は分かる。オジさんとかオジいサンの中には、「人に何かを尋ねたり、感謝したりすることは恥だ」と考えている種類の人が確実にいて、そういう人は、とにかく反応がない。別に「ありがとう」を言って欲しいとかそういうことではなくて、こっちが何か聞いてるんだから答えてよ、みたいなレベルでの反応のなさが辛いなと思うことはある。エスパーじゃないんで、俺、みたいな気分になる。

『それでも私はコンビニで働き続けなくてはいけない。
それもこれも、私はうちの店が好きだから。マダムを筆頭にしたオバちゃんたちが大好きで、うちに来る老若男女、いろんなお客さんたちがあまりにおもしろくて、見るのを止められないから。
ああ、やっぱり運命だったんだなぁ。よもや自分の人生にこんな運命が待ち受けていたなんて、思いもしなんだ。
人生はおもしろい。そしてコンビニはおもしろい。
だから辞めたくても辞められないでいる』

著者は、色んな大変なことを抱えつつも、結局そんな境地に至って、コンビニで働き続けている。著者の仕事ぶりを読んでいると、コンビニの仕事ってなかなか大変そうだなぁと思うし、嫌なこともたくさんあるだろうが、コンビニでしか経験出来ないことというのも一方であるだろう。

著者がそれを実感したのは、あの東日本大震災の時だった。

『みんなそこで悲しみや苦しみ、不安をわかち合い、コンビニが「セルフ・カウンセリング」のようになっていた』

『コンビニは震災時に本当に大切なライフラインとなったけど、その役割の中でもこうした「会話の場」の部分が、実は一番大きかった気がする』

普段何気なく立ち寄る、特に意識していない、当たり前の存在であるコンビニ。だからこそ、震災という非日常において、日常を感じさせてくれる場として機能するのかもしれない。

震災に関する記述ではもう一つ、廃棄の話が気になった。

『そのときはまだ3月下旬、ニュースで「被災地では一日1個のオニギリしか手に入らない」と伝えられていた頃だ。
東京からその被災地まで、きっと300キロか400キロくらいしか離れていないだろう。そこには食べるものがほとんどなく、困っている人がたくさんいる。
後から知ったことでは、その頃まだほとんど支援の手が届いていなかった避難所もあった。なのに、捨てていた。大量に。食べられるものを!
日頃は半ば感覚が麻痺しちゃっていた廃棄だけど、そのときは心底、愕然とした。なんだか我が身を切られる思いで、
「もったいない、私にちょうだい」なんて冗談めかす余裕はなかった。
せめて今だけ、この時期だけでいいから、食べ物を捨てることは止めよう!お願いだから、これを捨てるのを止めてほしい。そう心から思った。
だけど、私はそれを一切言わなかった。言えなかった。』

著者に非はない。これは、システムの不備であり、ビジネスモデルの不備であり、社会通念の不備だ。変に律儀で融通が利かない日本人の気質が悪い方向に働くと、こういう事態に陥ってしまうのだなぁ、と実感させられた。

さらっと読むには面白い本だと思います。

和田靜香「おでんの汁にウツを沈めて 44歳恐る恐るコンビニ店員デビュー」

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僕は、「普通の」という言葉を、基本的に受け入れない。うっかり使っていることはもしかしたらあるかもしれないが、出来る限り意識的に、僕自身は「普通の」という言葉を使わないようにしている。

人によって「普通」は全然違うからだ。

『広汎性発達障害の子とは、普通の親子みたいに、一緒に遊んだりおしゃべりしたりできないのかな…』

著者は、母子家庭で育った。さらに、ちょっと変わった価値観を持つ(と、著者自身子どもの頃にそう判断していた)母親に共感できないでいた。そんな子ども時代を過ごした著者が求めたのは、「普通の」「家族」だ。

『子ども時代の私が欲しくてたまらなかったもの―それは「家族」だ』

『将来の夢―私の場合それは「何かになる」ことではなく、「家族をつくる」ことだった…』

しかしその「夢」は、彼女の娘である「たから」が発達障害児であることが判明したことで、すべて崩れてしまう。

『だんなの無職&転職、不妊、流産を乗り越えて、ようやく授かった子には全力で向き合った。24時間泣き叫ばれてもくじけなかった。あともう少し、もう少しで夢に手が届く―そう信じて頑張ってきたのに、最後の最後に「広汎性発達障害」の壁に立ちふさがられ、何もかもこっぱみじんに砕けちった』

「普通の」家族を夢見続けてきた著者は、「普通」ではない娘を授かったことで、長年の夢が叶わなかった、と感じている。本書は、「発達障害児を育てる苦労」について書かれた本ではあるが、「「普通」を希求し続けながらそれが手に入らないと知ってしまった著者の絶望」が全編に塗り込められている作品だ。

しかし、じゃあ、一体「普通」とはなんだろうか?と僕は思ってしまうのだ。

『平凡で、穏やかで、暖かな時間が私たちのまわりをゆるやかに流れていく。それ以外の未来なんて、このときの私には想像もつかなかった…』

著者は、「平凡で、穏やかで、暖かな時間がゆるやかに流れる」、そんな家族のあり方を「普通」と捉えている。

しかし、仮に生まれたのが発達障害児でなかったとしても、著者が夢見る「普通」から遠くかけ離れる可能性は、常にある。

学校でいじめられて自殺するかもしれない。通り魔に殺されるかもしれない。不慮の事故で命を失うかもしれない。誰かを傷つけて警察に捕まるかもしれない。痴漢の冤罪で逮捕されるかもしれないし、若くしてガンになるかもしれない。誰かを助けようとして命を落とすかもしれないし、性同一性障害だと後々分かるかもしれない。会社のお金を横領するかもしれないし、騙されてAVに出演させられるかもしれないし、病院で子どもが取り違えられていたことが発覚するかもしれない。

考え始めれば、キリがない。ここまで大げさなものでなくても、子どもとの生活が「普通」から逸脱してしまうような選択肢はいくらでも思いつく。「平凡で、穏やかで、暖かな時間がゆるやかに流れる」ことなどない生活を強いられる可能性など、いくらだって考えられる。

著者の望む「普通」とは、こういう不測の事態がすべて起こらない、ということなのだろう。そしてそれは、あくまでも「運」でしかない。「普通」から逸脱するような不幸な出来事が一切起こらないような人生なんて、努力で手に入るわけがない。

『「自分のことしか考えていない」って!?

うるさい!!

発達障害さえなけりゃ、私だっていいお母さんになってたよ!!』

この考え方は危険だと僕は思う。発達障害じゃなかったとしても、「普通」を壊すような出来事はいくらでもありうる。その度に、「◯◯さえなけりゃ、いいお母さんになってたよ」と言うつもりなのだろうか?

『「世の中にはもっと重い障害や病気の子どもを持つお母さんもいる」って!?

うるさい!!
うるさい!!

私は“普通の家族”が欲しかったんだ!!』

著者に足りなかったのは、誰も「普通の」家族なんか手に入れられていない、という認識だ。全員が全員、違う「普通」を生きていて、外から見てどれだけ「普通」に見えようが、それはあくまでもそう見えているというだけのことに過ぎない。

『みんな生まれたときから家族がいて、結婚したらフツーに子ども産んで、たいした苦労もせず、私が欲しかった幸せを手に入れてる。そんな連中にとやかく言われてたまるもんか!!』

「普通の家族」を追い求めすぎたこと。
これが著者の一番の問題だっただろうと僕は感じるのだ。

誤解しないでもらいたいことがある。
僕は、発達障害の娘を捨て、母親を放棄した著者のことを、決して否定していない。
というか、著者の選択は、一つの可能性として、常に認められるべきだと僕は思っている。

『こんなこと思うなんて、もしかして私―たからが可愛くない…?
言っちゃった…怖くて口にできなかったこの言葉…』

母に娘を預け、一人で過ごす週末。著者は、たからと一緒にいる日常は息が詰まるものだと実感する。たからがいなくて、ホッとする。そんな自分は、娘を可愛く思っていないのではないかと考える。

『「わが子が可愛くない」は、世間では完全なタブー。こんなこと誰にも言えない』

僕には、この感覚は理解できない。
自分のお腹を痛めた子どもだろうがなんだろうが、人間と人間の関係の問題だ。合う合わない、好き嫌い、愛せる愛せないは、親子だろうがなんだろうが様々な形を取るはずだ。

それなのに、自分の子どもだ、というだけの理由で、絶対に可愛がらなければいけない。そう、世間では思われている。僕にはこの感覚は怖いと感じる。

世の中には色んな動物がいる。例えば僕が知っている例では、パンダは育児放棄する。確かパンダは、一度に一頭しか子を産まないが、稀に二頭以上産まれることもある。しかしその際も母親は、産まれた子の内一頭に対してしか子育てをしない、と言う。

この場合、この母パンダは、母親としての愛情が薄い、として責められるべきだろうか?

人間だって結局は動物なのだし、個体差は他のどんな動物よりも大きいのではないかと思う。自分が産んだ子どもを愛せないぐらいのこと、いくらでもありえるだろう。しかし人間は、他のどんな生物よりも社会的な生き物だ。だから、「自分の子どもは無条件で可愛いはず」という幻想を共有したがる。「自分の子どもは無条件で可愛いはず」と無条件に信じられる人間がより上位の人間として扱われ、そういう人が社会を作っていくのだから、世の中はどんどんそういう方向に進んでいく。

僕はそんな風に考えているから、著者が娘を可愛いと思えないことや、最終的に娘を捨てるような行動を取ったことに対しては、非難する気持ちは一切ない。自分の命や、人間としての真っ当な生活を犠牲にしてまで、子どもと関わらなければならないということはないはずだ。確かに、子どもを産んだことに対する親としての責任はある。しかしそれは、自分が育てる、以外の方法で責任を取ることだって可能だろう。養子に出してもいい。施設に預けてもいい。調べたり行動すれば、何らかの可能性はあるだろう。自分で育てる責任が果たせなくなったのなら、それ以外の方法で責任を果たす手段を講じればいい。僕はそう思う。

僕が著者に対して苛立つのは、「普通」ということにこだわりすぎている点だ。そしてその「普通」というものを、一種の幻想のように捉えている点だ。発達障害でなければいい母親になれた、という著者の主張を、僕は信じない。人生には、発達障害以外にも、様々な「普通」から逸脱させる要因が転がっている。それらのどれにもぶつからずに人生を歩んでいくなんて、それこそ「普通」とは程遠いはずだ。結局著者は、何かあった時、「これさえなければいい母親でいられたのに」と繰り返すだけだろう。僕は、その点が嫌だな、と感じた。

「普通」というものに過敏に囚われすぎなければ、著者はたからと、もっと良い関係を築くことが出来ただろうと思う。
なにせ、愛していないかもしれないと感じる娘に対して、もの凄い努力を続けているのだ。

『私は「今」に目を向けず、いつも「先」ばかり見ていました。
そうすることで余計に不安になっていたのですから、本末転倒ですね。
「今目の前にいる子どもとのひとときを大切に過ごすこと」
その一瞬の積み重ねがすべての子育てに通ずる道であると、
あの頃の私に教えてあげられたらと思います』

著者は、娘が発達障害児であると分かった時から、娘の将来のことを考え始める。このままでは娘は、一人で生きていけない。友達も作れない。娘は、母親である私にさほど関心を示さない(それは「広汎性発達障害」の特徴だ)。いくら愛情を与えても、娘から返ってくるものはほとんどない。それでも著者は、娘の将来を考えて、様々な努力をする。

確かにそれは、結果的には間違っていた部分も多かった。著者が言うように、『「今」に目を向けず、いつも「先」ばかり見ていました』という状態だったため、「今」娘が出来ること、やりたいこと、関心があることを無視してしまうことも多くありました。「先」のことばかり考えすぎたせいで、娘に無理をさせる機会も多くありました。

とはいえ、愛せないかもしれないと思った娘に対して、間違った方法だったとはいえ、これほど努力を重ねられるというのは、凄いことだと僕は感じるのだ。

さらに著者は、そういう努力の隙間隙間で、時折、努力が報われたと感じられる瞬間に出会う。

『こんなふうにたからが心から笑える時間がもっと増えたらいいのにな…』

著者は、娘が発達障害だと判明して以降は、半ば義務のようにして、娘の自立を目指す方向の努力を積み重ねていく。さらにその過程で、娘が楽しい、嬉しいと感じられるような瞬間を作ってあげたいと感じる。著者にとって、それが義務になっているのは、娘が発達障害だからだ。そこには、「普通」を希求したのに「普通」が実現されなかった絶望が横たわっている。しかし、もしもその絶望が存在しなければ、著者が、必要以上に「普通」にこだわりすぎていなければ、著者は、娘が発達障害であろうとも、良い母親になれていたのではないか、と僕は本書を読みながら感じてしまった。

だからこそ、著者が「普通」に囚われていたことが残念でならない。

『「療育」とは目の前の課題をひとつひとつ丁寧にクリアしていくこと。日常の中で継続sていくものであって、明確なゴールは存在しない』

『「母親が子どもを殺害」―以前の私なら「どんな母親なんだ?」と“母親”に注目していただろう。でも今は「どんな子どもだったんだろう?」と“子ども”にも目がいく。実はこうした悲しい事件のなかには、「子どもが発達障害だった」というケースが紛れている』

『手足が不自由とか、目が見えないとか、世の中にはいろんなハンディを持った子がいる。こんなこと言ったら起こられるだろうけど…たからもそういう障害なら良かった。不便なことはあって人の輪に入っていければ、そこそこ楽しく生きられる。
でも広汎性発達障害はそれができない障害。
どうすりゃいいの…。ああ、もうダメ。どん底だ…。苦しむとわかってるのに生きなきゃいけないなんて…。いっそ何もわからない今のうちに死んじゃったほうが幸せなんじゃ…』

『ネットで心中方法を調べているときだけ、生きた心地がする。死ぬことだけが希望だった』

著者は、批判が来ることを承知で、当時の自分の感覚を吐露する。僕には子どもはいない。子育ての大変さなどまるで知らないが、しかし、本で読んだり人から聞いた話を総合すると、ただでさえ子育てというのは恐ろしくしんどいことのようだ。聞いているだけでも、世の中の「母親」という存在は、よく生きてられるな、と思うほど壮絶な子育てをしている人もいる。著者は、さらにそこに障害という要素が加わる。しかも、外から見てわかるような障害ではなく、周囲からの共感を得られにくいものだ。時代によっては、母親の努力が足りないで済まされてしまうかもしれない障害だ。母親を含めた他者との関係性がうまく築けない障害だ。並大抵の苦労ではないだろう。それに本書でも触れられるが、広汎性発達障害と言っても症状は十人十色。同じ障害を持つ親同士でも、共感できない部分は出てくるだろう。

だから、子育てを放棄した点を責めるのは止めた方がいい。子どもが発達障害であろうがなかろうが、子育ては大変だし辛い。音を上げてしまう人だったいて当然だ。僕は、「自分の子どもでも愛せない人がいる」という事実をきちんと共有して、「そういう場合社会はどう対処すべきなのか」を考える方が建設的だと思う。親子の愛だの、血の繋がりだの、そんなことを言ってたって何も進まない。母親の側も、「子どもを愛せない自分は人間としておかしい」なんて思うのは止めよう。「自分の子どもでも愛せない人がいる」という考え方を受け入れるようにしよう。

『子どもが不幸かどうかは、親が決めることではありません。
たからは不幸になるのだと決めつけ、
たからを救える唯一の方法は一緒に死ぬことだと思い込んでいた私は、
恐ろしく身勝手な思考にとらわれていたのです。』

著者は、子どもという、著者自身が何よりも望んでいた存在を手放してしまうことで、多くの大切なことに気づくことが出来た。それは、著者の言う「普通の」家族にいたのでは、もしかしたら気づけなかったかもしれないことだ。手放さなければ、その大切さに気づけないことはたくさんある。著者の経験は、失うにはあまりにも大きすぎるものを失ってしまったということであるかもしれない。しかし、同時に、得られたことも多かったはずだ。本書を読めば、本書の評価が賛否両論であるということはすぐに理解できるだろう。しかし、世間の声などどうでもいい。著者自身がこの経験を、価値あるものと捉えられるか否かだ。過去に戻ることは出来ない。であるならば、起こってしまったことをどう受け止めるか、という問題しかない。本書を読む限り、著者がしてきた経験は、著者にとっては意味のあるものだっただろう、と感じられる。

少し可愛そうだと思うのは、著者の元夫である。これは、妻である著者が育児放棄に近い行為をしていたり、浮気をしていたから、というような理由ではない。

『かこちゃんが子どもがほしいっていうから僕は協力してる。…でも僕自身は子どもはほしくない。』

元夫は、音楽の道に進むという夢を諦めて、子どもを育てる父親としてやっていくことに決めた。元夫は、子どもは欲しくなかった。しかし、妻が喜ぶ姿は見たかった。

『かこちゃんが幸せになることが僕の幸せだと思って、全部君の望むとおりにしてきた。結婚も就職も子どもを持つことも…。
なのに君はちっとも幸せそうじゃない。それがいやなんだ…。
たとえたからが障害でも、君が笑ってくれてたら僕はそれで良かったんだ…』

元夫は、「妻の願いを叶えたい」という希望を持って行動してきた。しかし結果的にそれが叶うことはなかった。

これは、「普通の家族を持ちたい」という希望を持っていたのに障害を持つ子どもが生まれてしまった、と感じている妻とは違う。

妻の場合は、「普通の家族を持ちたい」という想定に無理がある。努力でどうにもならない部分をそもそも含んでいる。だから、それが叶わなかったからと言って、何かが、誰かが責められるようなものではない。

しかし、元夫の「妻の願いを叶えたい」という希望は違う。こちらの希望は、努力によって左右される要素がとても大きい。そして元夫は、その希望が叶うように、自分のことを様々に諦めてまで努力を重ねる。その努力は、世間一般の基準と照らして、また著者の希望と照らしてどうだったかは分からない。しかし本書を読む限りは、少なくとも元夫なりには最大限の努力をしているように思える。

それなのに元夫の希望は叶わない。妻はちっとも幸せそうではない。努力でどうにかなる要素の強い希望を叶えるため努力を重ねてきたのに、どの努力が実ることなく願いは叶わない。その点が可哀想だなと感じるのだ。巻末には、著者から元夫への私信めいたものが掲載されている。元夫は、自分の人生を、どんな風に捉えているだろうか?

本書の最後の方に、実に印象的なたからの呟きがある。この場面では、少し、うるっと来てしまった。著者は著者なりに、ギリギリの努力、ギリギリの決断をしたはずだ。だから、何度も繰り返しているように、僕は著者を、子育ての部分に関して責めるつもりはない。しかしそれでも、このたからの呟きを聞いて僕は、もし万が一もう少し我慢できれば違ったかもしれない、と思えてしまった。著者は、絶望するのが早すぎた。「先」ではなく「今」を見て子育てが出来ていればもしかしたら…そんな風に感じてしまった。

本書を読んだ感想は、人それぞれ様々だろう。その感想の振り幅という点で言えば、非常に幅広い反応が予想出来る作品だ。文庫版あとがきにも、本書の単行本刊行時の反応として、こんなものがあったといくつか載せている。

『この母親は許せない』
『子どもの障害を言い訳に身勝手な行動をとった母親を正当化している』
『発達障害を持つ子を育てる大変さがわかった』
『障害受容に対するサポートの必要性を感じる』
『自分だけじゃないのだと勇気をもらいました』

読む人の環境や価値観次第で、振れ幅がどこまでも大きくなりうる作品だ。だからこそ良い、とも言える。著者が酷いかどうかは脇において、賛否両論様々現れる作品をベースに議論が展開されれば理解が深まることもあるだろう。無理解が広がる可能性もあるが、まあそれは仕方ない。

繰り返しになるが、僕が感じることは、「自分の子どもでも愛せない人がいる」という考え方を社会で共有すべきではないか、ということだ。

様々な示唆に富む一冊である。

文・山口かこ 絵・にしかわたく「娘が発達障害と診断されて…母親やめてもいいですか」

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何なんだこれは。

読みながら僕は、ずっとそう思っていた。

日本でこんなことが起こっていたのか。

信じられないような思いで、本書を読んだ。

事件そのものは、大分以前のものだ。しかし、著者が巻き起こした一連の騒動は、ここ10年の間に起こった出来事だ。

法治国家、近代国家である日本で、こんなことが起こっていたのか。

読みながら、ずっとずっと、そう思っていた。

なんなんだこれは。

読みながら、ずっとずっと、そう感じていた。

この本を読まずに人生を終えたのだとしたら、その人は人間として失格だろう。そう思えて仕方ない作品だった。

ページを捲る手が止まらない、という表現がある。あくまでもこれは、誇張だと思っていた。作品の面白さを誇張して伝えるための表現なのだ、と。僕は本書で、実際に、ページを捲る手が止まらない、という経験をした。本当にそんなことが起こりうるのだと、驚かされた。

『ここまで読めばおわかりいただけただろうか。
「北関東連続幼女誘拐殺人事件」が葬られたということを。
五人の少女が姿を消したというのに、この国の司法は無実の男性を十七年半も獄中に投じ、真犯人を野放しにしたのだ。報道で疑念を呈した。獄中に投じられた菅家さん自身が、被害者家族が、解決を訴えた。何人もの国会議員が問題を糺した。国家公安委員長が捜査すると言った。総理大臣が指示した。犯人のDNA型は何度でも鑑定すればよい。時効の壁など打ち破れる。そのことはすでに示した。にもかかわらず、事件は闇に消えようとしている』

この文章に、本書の結論が短くまとまっている。補足すれば、警察は、真犯人を知りながら(それを特定したのは、記者である本書の著者であるが)、その真犯人を逮捕しない、という判断をしているのだ。

何故か。

本書は、何故そんな状況に陥ってしまったのかを、著者の、地を這いずりまわるような取材の過程を余すところなく描き出すことで明らかにしていく作品である。

こんな無茶苦茶な話があるだろうか。無謀な(と後に判明することになる)捜査と鑑定によって、無実の人間を犯人と断定し人権を奪いながら、警察機構の保身のためだけに、真犯人を野放しにしている。

『あのとき(※「桶川事件」の取材のとき)私は、警察が自己防衛のためにどれほどの嘘をつくのかということを知った、警察から流れる危うげな情報にマスコミがいかに操作されるか、その現実を思い知った。そうやって司法とマスコミが作り上げた壁は、ものすごく厚く、堅い。一介の記者など本当に無力だ。その片鱗を伝えるためだけに、私はあの時、本を一冊書く羽目になったのだ』

著者は、後にストーカー規制法が制定される契機となった「桶川事件」の取材で、警察よりも早く犯人に行き着いた。しかしそこで、警察のなりふり構わない保身のためのウルトラCを見せつけられる。事件自体の構図を変えてまで、彼らは、自分たちのミスを隠蔽しようとしたのである。

そして、本書で著者が「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と名付けた事件(後に警察も、五つの事件の関連性を認める発言をしたが、五つの事件を同一犯の犯行であると断定した捜査は行われていない)においても、同様の保身のために真実が捻じ曲げられていく。

『恐ろしいことだと私は改めて思った。公権力と大きなメディアがくっつけば、こうも言いたい放題のことが世の中に蔓延していくのかと。』

本書は、刑事事件を追うノンフィクションであるが、その一方で、報道のあり方について報道の最前線に立つものから放たれる警告でもある。

『そもそも報道とは何のために存在するのか―。
この事件の取材にあたりながら、私はずっと自分に問うてきた。
職業記者にとって、取材し報じることは当然、仕事だ。ならば給料に見合ったことをやればよい、という考え方もあるだろう。だが、私の考えはちょっと違う。(中略)
権力や肩書き付きの怒声など、放っておいても響き渡る。だが、小さな声は違う。国家や世間へは届かない。その架け橋になることこそが報道の使命なのかもしれない、と。』

著者の取材の基本はこの、「小さな声」に耳を傾けることだ。

『そして何より、「一番小さな声を聞け」―。それは私の第一の取材ルールであり、言い方を換えれば「縛り」とすら言えるものだ。この事件ならそれは四歳で殺害された真実ちゃんの声であり、その代弁ができるのは親しかいない』

著者は、罵倒されることを承知で、被害者家族にアプローチする。今よりも遥かに、被害者に配慮のなされない取材合戦が繰り広げられていた時代のことだ。被害者家族が、マスコミに対する恐ろしいまでの不信感を抱いていることは想像に難くない。しかしそれでも著者は逃げない。「小さな声」に耳を傾けなければならないと考えている。

『人様に指摘されるまでもなく、被害者の家族は自分の犯したミスを悔み続けている。娘を、誰よりもかわいい娘を、パチンコ店に連れていってしまったことを悩み、涙を流し、生きてきた。日々の生活の中で”パチンコ“という言葉に触れるだけで、どれほど傷ついてきたことか。そんな人達をさらに追い込み、「私達とは関係ない」などと人々を安心させるために報道はあるのだろうか』

ワイドショーやニュースなどを見ていて、マスコミの取材の仕方に疑問を抱くことは結構ある。加害者側を責め立てるなら、まだ分かる(加害者側の責め方も、厳しすぎると感じることはあるが)。しかし、被害者側を丸裸にしていくだけの報道にどんな意味があるのか、見ていて理解できないと感じることは多い。被害者に関するその情報が、どうしてニュースで流されているのか分からない、と感じるようなものはある。

著者はそういう、被害者を一層傷つけるような報道など意味がないと語る。

『私は思う。
事件、事故報道の存在意義など一つしかない。
被害者を実名で取り上げ、遺族の悲しみを招いてまで報道を行う意義は、これぐらいしかないのではないか。
再発防止だ。
少女たちが消えるようなことが二度とあってはならない。
だからこそ真相を究明する必要があるのではないか。』

しかし、マスコミの多くは、真相の究明など目指さない。彼らにとっては、「お上」である警察からの発表を垂れ流すことが仕事なのだ。「お上」が担保した情報でなければ報じられない、という空気が、マスコミの世界を覆っている。
だから、「お上」を敵に回すような、「お上」が担保してくれない報道をするところは少ない。

『そもそも、刑事事件の冤罪の可能性を報じる記者や大手メディアは少ない。特に確定した判決に噛みつく記者となればなおのこと。「国」と真正面からぶつかる報道となるからだろう。容疑者を逮捕する警察。起訴する検察。判決が出ていれば裁判所。そのいずれかと、あるいはそのすべてと対峙することとなってしまう』

つまりそれは、「お上」が発しない、あるいは担保しない情報は、僕ら一般国民の目に触れる機会がないということである。

『本書が事件ノンフィクションでありながら、事件の「本記」に加えて、事件の「側面」や「その後」、「記者自身の行動」にもページを割いたのは、日々流れているニュースの裏側には、実は多くの情報が埋没していることを知ってもらいたかったからだった。』

本書で著者は、すべてを疑いながら取材を進めていく。

『どんな資料も鵜呑みにしない。警察や検察の調書や冒頭陳述は被告人を殺人犯として破綻がないように書かれている。報道は報道で、司法からの情報を元にしている。弁護人は弁護人で被告人を弁護するために資料を作成している。
私は記者だ。誰かの利害のために取材したり書いたりはしない。事実を基準にしなければならない。青臭い言い方をすれば、「真実」だけが私に必要なものだ。対立する見解があるときは双方の言い分を聞け、とはこれまたこの稼業を始めた時に叩き込まれた教えだ。』

可能な限り証言した本人を探し当てて話を聞く、証言そのものを実地で検分して矛盾を見つけ、DNA鑑定さえも自ら依頼する。

『菅家さんを“犯人”としたプロの「捜査」に疑問を呈するならば、彼らを上回る「取材」をしなければダメだ』

そうやって著者は、執念の取材により様々な事実を明らかにし、分かったことをテレビや雑誌などで報じることで新たな扉が開き、そんな風にして、不可能だと思われた「確定事件のDNA型再鑑定」や「最新前の釈放」など、前代未聞の展開を次々と引き寄せることになった。

著者の奮闘によって、通称「足利事件」と呼ばれている事件が冤罪であると証明され、犯人として逮捕され無期懲役が言い渡された菅家利和氏が釈放されることになった。実に十七年半も無実のまま刑務所に入れられていたのである。

しかしそれは、著者にとってはスタートラインでしかなかった。著者の目的は、菅家さんの冤罪を証明することではない。栃木県と群馬県の県境で起こった五つの事件が、同一犯による連続誘拐事件であることを示すことだったのだ。

そのためには、菅家さんが「足利事件」の犯人とされている状況は、非常に問題なのである。

『それでも私が本書で描こうとしたのは、冤罪が証明された「足利事件」は終着駅などではなく、本来はスタートラインだったということだ。司法が葬ろうとする「北関東連続幼女誘拐殺人事件」という知られざる事件と、その陰で封じ込められようとしている「真犯人」、そしてある「爆弾」について暴くことだ』

『しかし…だ。
私が立てた仮説は、実を言えば致命的な欠陥を抱えていた。
私は最初からそれに気がつきつつ、あえて無視を決め込んで調査を続けていたのだ。私のようなバッタ記者でも気づく五件もの連続重大事件を、警察や他のマスコミが知らぬはずもなかろうし、気づけば黙ってもいないだろう。なぜこれまで騒がれなかったのかといえば、そこには決定的な理由が存在していたからだ。
すなわち、事件のうち一件はすでに「犯人」が逮捕され、「解決済み」なのである。』

通称「足利事件」は、「自供」と「DNA型鑑定」が揃った、疑いの余地のない事件だった。著者も、自分の考えが妄想なのではないかと頭を過ぎることもある。

『仮にだ。あくまで仮にだが、万が一、いや100万が一でも、菅家さんが冤罪だったら…。
それが記者にとって危険な「妄想」であることは百も承知だった。私だってこの道は長い。冤罪など滅多やたらに無いことは知っている。刑事事件における日本の有罪率はなんと、九九・八パーセントである。しかも今回、証拠は「自供」と「DNA型鑑定」という豪華セットだ。まともな記者なら目も向けたくない大地雷原であろう。』

著者は、この最難関とも思える調査報道に身を投じてみることに決める。

『それには必要なことがある―菅家さんをこの事件からまず「排除」することだ。「北関東連続幼女誘拐殺人事件」にとって獄中にいる菅家さんの存在は「邪魔」なのだ。事態がややこしくなるだけだ。彼が有罪になったばかりに、他の四件までもが放置される事態に立ち至った。彼の冤罪が証明されない限り、捜査機関は真犯人捜しに動かないだろう。
これを修正する方法は、菅家さんの冤罪を証明することしかない。あるいは、少女たちが夢で迫ったように、捜査機関を出し抜いて先に真犯人に辿り着くか。
まあいい。両方やればいい』

そうやってスタートした取材は、信じられない展開を見せる。読み進めながら、何度「嘘だろ…」と思ったことか。菅家さんが冤罪であることを示し、その後「北関東連続幼女誘拐殺人事件」の解決のために取材を続けていた著者は、著者自身もそうと知らない内に、パンドラの箱に手を掛けていた。

それは、DNA型鑑定がもたらした「爆弾」だった。

実は菅家さんが逮捕された「足利事件」は、DNA型鑑定が重要な証拠として採用された最初の事件だった。そしてそのことが、著者も予想だにしなかった展開を巻き起こすことになる。

『警察も検察も、いったんは事件の連続性を認めながら、その後捜査を開始しもしなければ、あたかも事件そのものが存在しないかのように振る舞う理由―。
「北関東連続幼女誘拐殺人事件」はこのまま消え去る運命なのだろうか』

冤罪の証明から始まった取材が、どんな着地を見せるのか。その驚愕の展開は、是非本書を読んで体感して欲しい。

本書を読んで思い知らされることはとても多い。

まず、権力を信用してはならない、ということだ。権力に反発しろ、というのではない。ただ、権力というものはどうであれ、都合の悪いことを隠し、嘘をつき、保身に走る傾向があるのだ、ということを知っておくことはとても大事だ、ということなのだ。

本書で描かれていく、権力側にいる人間の言葉はあまりにも酷い。酷い発言は様々にあるが、最も何も言っていないという意味で一番酷いと感じたセリフが、裁判の中で、証人として出廷したとある検事が繰り返し言った「申したとおりです」というものだ。これは本当に酷い。

『本書は、様々な形で命に関わる人達に対し、そんな私の一方的な想いを記したものだ。批判や個人の責任追及が本書の目的などではないことは、ここできっぱりと断っておく。
人は誰でもミスをする。私だってもちろんすだ。誤りは正せばよい。原因を突き止め、再発を防止することに全力を尽くせばいい。だが、隠蔽しては是正できない。過ちが繰り返されるだけだ』

本書で描かれる、権力側の様々な反応に触れると、彼らが真剣に「再発防止」を考えているようには思えない。誤りを正し、原因を突き止めるつもりなど、さらさらないのではないかと思えてしまう。あらゆる都合の悪いことに対して、時には嘘をついてまで事実関係が明確にならないように様々な手を打つ。パンドラの箱を開けて膿を出し切るのではなく、パンドラの箱が開かないように必死になって押さえ込んでいる。その姿は、醜悪と言ってもいいほどだ。結局、警察組織の保身のため(というのが著者の推論である)、連続殺人犯を野放しにするという驚くべき決断をすることになる。

権力は、その気になれば何でも出来る。権力に歯止めを掛けるのは、僕たち一人一人であるべきだろう。一人で出来ることは多くはない。しかし、清水潔という記者が独力で大きな風穴を空けてくれた。僕らはその事実を知り、多くの人に広め、関心を持ち続けることで、権力に対する抑止力の一端に関われるのではないだろうか。

マスコミ、というものに対しても考えることは多い。

マスコミに対する不信感、みたいなものは、特にインターネットから情報を得ている世代には広く共有されているように感じる。しかし、マスコミという存在に対して不信感を抱いていても、マスコミが作り出す「空気」みたいなものに抗うことは難しい。そして、本書では、場合によっては、そのマスコミが作り出す「空気」を、権力が操っているのだ、という話になる。

これは、権力側が強権を発動して無理やり報道に介入する、というようなものではない。嘘ではない、紛れも無い事実を、どのように、どのタイミングで情報として流すかをコントロールすることで、権力側の望んだ通りの報道に誘導しているのだ。さらにそこに、これだけは譲れないというラインを守るための嘘も混ぜ込んでくる。僕らは、誰かが作り上げ、マスコミが拡散する「空気」に抗えないまま生きていくことになるのだ。

本書では、マスコミというものに対する不信感を、同じマスコミである著者自身が露わにしている。著者は、多くのマスコミが踏襲しているやり方に迎合せず、「何が真実であるのかを追究する」「一番小さな声を聞く」というスタンスで取材を続けていく。多くのマスコミがやっているやり方では、まずこの展開は起こせなかった。他のマスコミとは一線を画す、著者のマスコミ人としての矜持が、幾重にも折り重なった重い扉をこじ開けた。心を閉ざした被害者家族の心の扉も、法治国家の権力の上層とも言える司法の扉も。

取材の中で、弁護団にこんなことを言っていたマスコミがいたという。

『「なぜ日本テレビ(※これだけの取材を続けた著者が所属しているのが日本テレビだ)にだけ便宜を図るのか」などと真顔で弁護団に講義した民放記者もいたそうだ。』

恥ずかしくないのだろうか?著者が地を這い、泥水を啜るようにして続けた取材の最後の部分だけかっさらおうなんていう気持ちでいることに、マスコミ人として恥はないのだろうか?

著者は、「足利事件」を冤罪だと認めさせ、完全な解決こそなされていないが「北関東連続幼女誘拐殺人事件」の存在と真犯人の存在を示唆した。それは確かに、著者の粘り強い取材のお陰ではあるが、粘り強い取材をすれば必ず辿りつけたかと言われると分からない。多分に運の要素もあっただろう。しかし、と僕は思う。もし著者が、結果的に「足利事件」の冤罪を認めさせることが出来ず、「北関東連続幼女誘拐殺人事件」の真犯人を指摘できなかったとしても、著者のその取材の姿勢は賞賛に値すると思う。仕事であるから成果は出さなければならないということは分かっているし、誰もが著者のような仕事が出来ない環境にいるということだって分かっているつもりだ。それでも、著者が自らの信念を持ってその取材スタイルを貫いていること、その事実は、多くの人に知られるべきだと思うし、賞賛されるべきだと思う。

また、本書からは、無関心の罪、みたいなものも感じる。これはもちろん、僕自身にも跳ね返ってくる。

無関心、とは少し違うが、非常に印象的な描写があったので引用する。

『八三年に免田さん(※死刑判決を受けながら、後に再審によって無罪が確定した、いわゆる「免田事件」で犯人として捕まった人)を取材した時のことが、忘れられない。
脳裏に、今も焼きついているその表情。
熊本市内で夕食を一緒に取り、帰路タクシーを拾った。後部座席で車窓に目をやっていた免田さんが、ふと思い出したように前方に顔を向けるとこう言った。
「あんた、免田って人、どう思うね?」
尋ねた相手は運転手だった。当時熊本で「免田事件」を知らない人はいない。免田さんは続けた。
「あの人は、本当は殺ってるかね、それとも無実かね?」
ハンドルを握る運転手は、暗い後部座席の顔が見えない。まさか本人が自分の車に載っているとは微塵も思わなかったのだろう。
「あぁ、免田さんね。あん人は、本当は犯人でしょう。なんもない人が、逮捕なんかされんとですよ。まさか、死刑判決なんか出んとでしょう。今回は一応、無罪になったけど…知り合いのお巡りさんも言ってたと」笑ってハンドルを廻した。
「そうね…」免田さんは、視線を膝に落とした。
人は、ここまで寂しい表情をするものなのか。』

著者は、マスコミとしての矜持も、取材能力も、圧倒的だ。だからこそ、「桶川事件」と「足利事件」と、二つの別々の事件で、世の中を大きく変えるような成果を上げた。しかし、いくら著者が有能だと言っても、最終的には、多くの国民が関心を持たなければ、事態は動かない。

関心を持つ、というのは、先ほどの運転手のような野次馬的な興味とは違う。主体的に情報を集め、主体的に関わり、主体的に声を上げることだ。

もちろん、世の中には様々な事件が存在するし、事件だけではなく様々な問題・課題が常に転がっている。そのすべてに主体的に関わるなど無理だ。それでも、何らかの形で、今よりもほんの僅か、ほんのちょっとの関心を皆が持ち合わせなければ、結局のところ何も変わらない。

真実とは、「そこにあるもの」ではない。動物園にいるゾウのように、そこに行けば誰でも見られるようになっているものではない。真実とは、「自ら見つけに行くもの」だ。ジャングルの中から野生のゾウを見つけ出すようなものだ。しかし、それは誰にでも出来ることではない。だから、ジャングルからゾウを見つけ出し、動物園のような場所に連れて来て誰もが見られるようにする。その役割を果たすのが、マスコミだ。

しかし結局、動物園にいるゾウは、野生のゾウとは違う。しかし僕らは、気軽には野生のゾウを見に行けないが故に、動物園のゾウを見て、これが本物だと思うしかない。多くの人は、動物園のゾウと野生のゾウの違いなど気にすることもなく、動物園のゾウの姿を受け入れていく。

物事に主体的に関わることはとても難しい。だからこそせめて、動物園にいるゾウは野生のゾウとは違う、ということぐらいは、日々意識しておきたいものだと思う。マスコミを経由した情報は、どれだけ真実らしくても、真実そのものではない。多くの人がそういう意識を持つようになれば、少しずつ変わっていくものもあるのではないかと思う。

『偉そうなことを言うつもりなど毛頭ない。山ほど失敗してきた私だ。ただ愚直にやるしか私には方法がないのだ。権力もない、金もない、ただマスコミの端っこに食らいついているだけのおっさんができることなど、そう多くはない』

日本テレビの社員だ、という見方をすると、この著者の言葉は自らを卑下しすぎているようにも思えるが、著者は元々週刊誌出身の記者だ。名を馳せた「桶川事件」の際も週刊誌の記者であり、記者クラブに入っていなかったために警察からの情報を入手出来ない、そんな立場だった。それでも著者は、社会をひっくり返す調査報道をやってのけた。日本テレビに移ってからも、週刊誌時代の意識は変わらない。足をすり減らし、何度も現場に足を運び、そうやって真実を探ってきた。

そんな著者の、打てる手を全て打ち尽くし、最後の最後、打てる手はもう本書の出版しかない、という覚悟が詰まった一冊だ。本書が単行本で発売されてからも、結局、この国の警察は動かなかった。国というのはここまで腐敗するものなのか。そんな諦めと怒りを抱かせる、全国民必読の一冊だ。

清水潔「殺人犯はそこにいる 隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件」

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2015年11月、パリで同時多発テロが起こった。そのテロで妻を失ったフランス人ジャーナリストがFacebook上で投げかけたメッセージが、世界中から共感を呼んだ。

【だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。(私という)プレーヤーはまだここにいる。】

彼は、妻を喪った悲しみを表現しながら、しかし、テロリストたちに復讐をしないことを誓う。復讐をしないどころか、憎しみさえ抱かないと決意する。

【私と息子は2人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。】

愛する人を喪った気持ちを憎しみに変えるのではなく、憎しみに変えなかったという事実によってテロリストの目論見をくじこうとする。もちろん、彼一人の行いだけでは、世界は変わらない。しかし、彼のメッセージに共感した者たちもきっと多かっただろう、テロ後のパリでは、普段通りカフェに集い、普段通りの生活をする市民の姿があったという。日常の通りに過ごすことで、テロに屈しない気持ちを明確にする。そういう意識を持った人たちが多かったというニュースを見た記憶がある。

「復讐」という気持ちが、僕の中にはたぶんあまりない。子供の頃はどうだっただろうと、しばしキーボードを打つ手を止めて考えてみたのだけど、昔からそういう気持ちは自分の内側にはあまりなかったように思う。

何かが起こった時、「復讐」すれば元通りになる、というならいくらでも復讐するだろう。しかし現実にそんなことはほとんどない。自分が削られた部分を補う行動を取ればそれは元通りになるが、自分が削られた分相手も削ることで相手と対等になろうとする行為は、無意味さしかないように思えてしまう。

しかしそれでも人は、「復讐」の気持ちを抱く。

復讐したいという気持ちを制限し、その権利を取り上げているのが法治国家だ。人の命の裁量を握る暴力は国家だけが有する、というのが法治国家だ。しかし、委託という形であれ、復讐する権利を被害者遺族に明け渡したら…。本書は、そんな想像から始まる物語だ。

議会で「復讐法」という法案が可決された。被告は、旧法での判決と復讐法による判決の両方を言い渡され、被害者遺族から選ばれる応報執行者にどちらの刑罰を下すか選択出来る。復讐法による刑罰を選択した場合、加害者が被害者に対して行ったのと同等の行いをすることが許されるが、しかし、それは応報執行者自身が手を下して行わなければならない。そのため、旧法による刑罰を選択するものも少なくない。
本書の主人公は、応報執行者の監督役である応報監察官である鳥谷である。

「サイレン」
天野義明は、息子を殺した堀池剣也に対する刑の執行を待っている。剣也は、拷問のような激しい暴行を様々に繰り返すことで天野朝陽を死亡させた。義明は、息子に関する質問を剣也にし、正解出来なければ朝陽にしたのと同じことをすると宣言する。
何日かに分けて行われる刑の執行。刑の執行場である施設から出ると、毎回そこには、剣也の母親が土下座して義明に許しを請うている。

「ボーダー」
吉岡エレナは、祖母である吉岡民子を殺害した。積極的に死刑を望み、エレナの母である京子は、復讐法での刑の執行を望んだ。京子は、自らの手で娘を殺す決断をした。
京子の嫌いなものばかり贈ってくるエレナ、浮気をして出て行った夫の方を尊敬しているエレナ、友達のものを盗んでいるエレナ。法廷で「また誰かを殺すかもしれない」と発言したエレナは、自分の手で殺すしかない。

「アンカー」
一人の男が大通りで殺戮を繰り返した。櫛木矢磨斗は3人を殺し、5人に重軽傷を負わせた。旧法では精神鑑定の結果不起訴となったが、復讐法の適用も認められた。つまり、復讐法による刑の執行を選択肢なければ、櫛木は無罪放免というわけだ。
応報執行者に選ばれたのは、死亡した3人の遺族。医学部に通う大学生の弟を殺された久保田航平、専業主婦の一人娘である川崎景子、教師だった婚約者を殺された遠藤武の3人。
復讐法を適用するか否かは、多数決で決まる。

「フェイク」
67歳の神宮寺蒔絵は、人の過去と未来が見えるとして有名な霊能力者であり、政治家や財界人からも信頼が厚い。蒔絵を神と崇めるような信者も数多く存在する。
その蒔絵が、一人の少年を突き落とした、という。蒔絵の孫の修一が殺される場面を予知し、その現場に向かったところ、12歳の前田アキラが修一を突き落とそうとしていたという。それを阻止しようとして謝ってアキラを突き落としてしまったのだ、と。
蒔絵を神と崇める信者からの嫌がらせが相次ぐが、アキラの母である前田佐和子は、復讐法による刑の執行を選択する。

「ジャッジメント」
少年が応報執行者である、という点で、そのケースは世間の注目を集めた。森下麻希子の子供である隼人と未来は、麻希子の離婚後一緒に住むようになった内縁の夫である本田隆男に育児放棄や虐待を受け、ついに隼人の妹である未来が死亡してしまう。そして隼人は、少年でありながら応報執行者としての権利を行使し、母である麻希子と本田隆男に食事を与えず餓死させるという刑を執行することになった。応報監察官は、24時間3交代で、森下隼人による刑の執行に立ち会う。

表題作である「ジャッジメント」は素晴らしい出来だと思う。少年が応報執行者となり、実の母親を餓死させようとする。隼人の冷徹な質問と、反省するつもりのない母親の乾いたやり取り。少年と応報監察官が見守る中、人間が餓死していこうとする空間の異様さ。少年がしたとある決断。「復讐法」という法律が存在する世界の中で、最も異様ともいえる可能性を描いているという点で、「ジャッジメント」は出色の出来だと思う。役所の事なかれ主義や、鳥谷が人間として立ち上がろうとする部分も、一つのドラマとしてとても良い。

唯一不満を挙げるとすれば、森下麻希子と本田隆男が、あまりにも冷静に餓死までの過程を受け入れているように思えること。ページ数に制約があってその描写に紙幅を使えないと判断したのか、あるいは、淡々と餓死を受け入れる人間を描きたかったのか分からないけど、他の刑の執行の仕方はともかく、水も食事も与えられない餓死という執行法では、もっと人間の狂気が表に出るような気がする。不満と言えばその点が不満ではある。しかし全体的には良く出来ていると思う。

しかし、「ジャッジメント」がとても良い分、他がちょっと弱く映ってしまう。
例えば「サイレン」は、最後の展開から「復讐の無意味さ」みたいなものを描きたかったのだろうと感じるのだけど、物語全体にちょっと力がない。「復讐法」というのがどんなものであるのか、という紹介のつもりの話なのかもしれないけど、冒頭に持ってくる話のインパクトとしてはちょっと弱いものがある。

「ボーダー」は、完全に分量が足りていないと思う。この物語は、元々エレナがどんな人物であったのかという部分を、もっともっと手厚く描かないと物語として弱い。中編ぐらいの分量があれば、物語のラストの展開から様々なことを考えさせられる物語に仕上がりそうだが、本書の分量で読むと、どうしてもプロットを読んでいるような印象になる。この話は、もう少し長い物語で読みたいなぁ。

「アンカー」については、後で触れる。

「フェイク」は、ちょっと無理があると感じてしまった。予知能力の存在の有無の問題ではない。この物語は、一か八か、運良く成功すれば、というような気持ちで、細い細い綱渡りをした、という結末になるのだけど、一か八かにしてもちょっと無理があるように感じられてしまった。

それぞれ、決して悪いわけではない。けど、「ジャッジメント」が良く出来ていること、そして、「復讐法」という設定をあと一歩活かしきれていないように感じられてしまう点で、やはりちょっと弱いと思ってしまった。

さらに僕はもう一つ、この作品に対して感じることがある。
それが「復讐法」という法律に対するリアルである。

僕は「復讐法」という法律が、現実に法律として成立する未来を想像出来ない。それは、僕が人間を信じすぎている、というだけなのかもしれないけど(僕にはそんな自覚はないけど)、人間がこんな法律を自ら生み出すわけがない、と感じてしまうのだ。

そういう意味で本書は、僕にとって、ある種のファンタジーなのだ。

もしも「復讐法」の存在をよりリアルに感じさせてくれるのであれば、この作品は現実に肉薄することが出来ると思う。「復讐法」という架空の法律を使って世界を描き出すことによって、現実の世界に何らかの爪痕を残すことが出来る、それだけの力を持つ作品に仕上がると僕は感じた。

そのためには、「復讐法」がどのように制定されたのか、その部分をもっと厚く描き出すしかない。どんな政治家がどんな判断で法案を提出したのか、マスコミはそれをどう報じたのか、世論を変えるようなどんな事件が起こったのか。そういう部分を現実的に組み上げていって、そうやって「復讐法」という法律の存在をリアルなものに仕上げて欲しかった。

もちろんそれは、著者の書きたいことではないかもしれない。すべての短編を通じて「復讐の無意味さ」みたいなものを描き出したいのだろうと僕は感じた。それが著者の描きたいことなのだろう。著者は、「復讐」を描きながら「復讐の無意味さ」を提示しようとしているのだ。だから「復讐法」の制定過程などはどうでもよくて、「復讐法」が存在するという仮定の元で何が起こるのかを切り取りたかったのだろう。

しかしその物語は、僕にとってはリアルにならない。リアルにならないから現実に迫れない。僕からしたら、「もし明日地球が滅亡したら」から始まる物語と大差ない受け取り方しか出来ない。さすがに、「明日地球が滅亡すること」をリアルなこととして受け入れられる人はいないだろうし、だとすれば架空の物語として捉えるしかない。現実には迫れない。

「復讐法」の存在をそのまま受け入れられる人は、僕が抱いたような葛藤を感じることはないだろう。だから本書の感じ方は人それぞれ違うはずだ。僕は、「復讐法」がどのような過程を経て生み出されたのか、そのリアルな物語がなければ、本書で描かれる「復讐法」を当然のものとして受け入れられない。

それぐらい「復讐法」というのは、その存在自体があり得ない法律だと僕には感じられるのだ。

先ほど後回しにした「アンカー」への評価は、この点が関係してくる。
「アンカー」は、三人の応報執行者が多数決で復讐法を選択するかどうかを決める、という物語だ。しかしこの事件は世間を騒がせ、また3人の死者の他に5人の重軽傷者を出している。しかも、復讐法を選択肢なければ被告は無罪放免だ。そういう背景があるが故に、世論は圧倒的に復讐法による刑の執行を望む。その圧力は異様なほどだ。

しかし3人の応報執行者は、即断出来ない。いくら相手が憎き相手であると言っても、自らの手で相手の生命を奪わなければならないハードルは高い。その葛藤で苦しむ者たちを描く物語だ。

「アンカー」はまさに、「復讐法」の存在がリアルになればより一層輝く物語だと言える。「ジャッジメント」のケースもそうだが、「アンカー」のケースも、「復讐法」という法律の存在そのものを揺るがすような事件だ。だからこそ、「復讐法」の存在がリアルであればあるほど、世論の高まりや応報執行者たちの苦悩が映える。しかし僕にとって「復讐法」という法律の存在がリアルにはなりきらなかったので、この物語も強さを持ちきれなかったという印象だ。

現在、テロとその報復の連鎖が世界中に広まっている。そして、報復の連鎖は行き着くところまで行き着かなければ収まらないと、僕らは歴史から学んでいる。人間は愚かな生き物だ。確かにうっかりと「復讐法」のような法律をいつの間にか受け入れてしまっている、なんていうことがあるかもしれない。国民が「特攻隊」という殺人兵器を容認した時代があったように。しかしそれでも、「特攻隊」が組織される以前の日本人に、「特攻隊」の存在はまず受け入れられなかっただろう。「復讐法」も、僕にとっては同じ対象だ。将来そういう法律が制定される可能性はあるかもしれない。しかしそれでも、「特攻隊」以前の人たちが「特攻隊」の存在を恐らく受け入れられなかっただろうというのと同じように、「復讐法」以前の世界に生きる僕には、「復讐法」の存在は受け入れられないし、リアルではない。この点が、僕にとってのこの作品の一番の弱点である。

「復讐法」というアイデアは面白いと思うし、もし「復讐法」という法律が存在した場合にどんなことが起こりうるかという架空の物語としては面白いと思った。しかしやはり、復讐という選択肢がないからこそ人は人の形を保っていられるのだ、と僕は思う。だからこそ人間は、「復讐法」などという愚かな法律を選びとることはないと、今の僕には思えてしまう。「復讐法」の存在をすんなり受け入れられる人には、面白く読める作品だろう。でも、その点で引っかかってしまった僕には、「復讐法」の存在をもっとリアルに感じさせてくれたら、現実に肉薄できるより骨太の物語になっただろうに、と思わずにはいられなかった。

小林由香「ジャッジメント」

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お金というのは、いつの間にか幻想になってしまった。
かつてお金というのは、常に金(ゴールド)と交換できるものだった。ゴールドの保有量がお金の発行限度額だったはずだ。お金というのは、ゴールドよりも便利だから代替物として使っている、そういうものだった。

今ではお金は、実態を失ってしまった。僕にはもう既に、お金というものがどういうものなのか捉えきれなくなっている。今持ってるお金が、銀行口座にある分だけじゃなく、財布に入ってる1万円札や1円玉だって、明日には使えません、価値はありません、となってもおかしくない世の中に生きている。

お金というのは既に、多くの人がそれに価値があるはずだと考えている、という幻想だけで成り立っている。たぶんそうなのだろうと思う。

不思議なものだ。お金は色んな理由で増えたり減ったりする。給料をもらえば増えるし、店で使えば減る。これは分かりやすい。でも、株を買って値上がりしたら増える。値下がりしたら減る。簡単みたいだけど、でもそれって何でだろう?株が値上がりした時それを売れば、買った時との差額で利益が得られる。でもこの利益は、どこから来たのだろう?理屈で言えば、その株を発行している会社の価値の上昇分から、ということになるのだろう。でもじゃあ、会社の価値が上昇するって、一体どういうことなんだろう?

僕の拙い知識で判断すると、「会社の価値が上昇する」というのは、「みんながその会社の価値が上がった(or上がる)と思った」というのと同じ意味だ。株が買われることで株の値段は上がる。株が買われるということは、その会社に株価以上の価値がある、と判断しているということだ。誰が?投資家が、だ。

だから株を発行している会社の価値というのは、「不特定多数の人がその会社にあると思っている価値」ということになるのだろう。つまりまとめると、株が値上がりしたことで得られる利益はどこからやってくるかと言えば、「不特定多数の人がその会社にあると思っている価値が上昇した分」からやってくる、ということになる。

本当かな?何か間違ってるような気がするんだけど。

今の経済は、こんな「誰かがそう思った」みたいなもの凄くフワフワしたものに支えられているのだろうと思う。何か間違ってる気もするんだけど、でもそんな風にしか思えない。土地の値段みたいに、「あなたの会社は◯◯円ですよ」なんていう値付けをしない以上、会社の値段というのはきっとそんな風に決まっているのだろう。

そんな土台がフワフワしたものなんだから、そりゃあ1日で8億ドルぐらう吹っ飛ぶことだってあるでしょう。人間の悪意が介在しているなら、なおさら。

舞台は、毎週金曜日に行われている投資番組「マネーモンスター」。司会のリー・ゲイツは毎週陽気な調子で、投資に役立つ情報を伝えている。オススメの株、市場の動向、株価の変動の理由の説明などなど。リーがダンサーと一緒に踊ったり歌ったりするような、エンターテインメント番組だ。
今ウォール街を賑わせているのは、アイビス株だ。アイビスは、高速取引のアルゴリズムを開発し、そのアルゴリズムを駆使することで急激に利益を上げてきた。リーもアイビス株をオススメ株として紹介したことがある。誰もがアイビス株は順調だと思っていた。
しかしある日、アイビス株が大暴落した。一晩で8億ドルの損失が生まれた。アイビスは、アルゴリズムのバグだと発表していたが、詳細については分からないままだった。今日の「マネーモンスター」も、冒頭でまずこのアイビス株について取り上げる予定だった。
一人の男がスタジオを占拠するまでは。
荷物を持ってスタジオに乱入した男は、司会者であるリーに爆弾をセットしたベストを着せた。犯人の右手には銃、そして左手は何かのボタンを押している。デッドマン装置。親指を離した途端爆弾は起動する。つまり、犯人を撃ったりして手の力が緩めば、その瞬間周囲15mが壊滅する爆弾が炸裂することになる。
カイルと名乗った犯人は、放送を続けるよう指示し、そしてアイビス株を勧めたリーを責め始める。カイルは6万ドル、全財産を失ったという。
ベストはもう一着あった。実は今日、アイビスのCEOであるキャンビーが「マネーモンスター」に出演する予定だった。しかし、飛行機の遅れにより急遽、アイビスの広報係であるダイアンが代理で中継をすることになっていた。
ベストはキャンビー用だった。
カイルは、株の暴落の説明をダイアンに求めるが、ダイアンはアルゴリズムのバグだという話しかしない。カイルは納得しないし、番組を裏で仕切っているディレクターのパティも納得しない。パティは、マイクを通してリーをなだめつつ、アイビスに関する情報を集めるよう指示、アイビス株暴落の背景を探ることにするが…。
というような話です。

久々にこういう、ザ・エンタメみたいな映画を観ましたけど、なかなか面白かったです。あんなに簡単にテレビ局のスタジオに侵入できちゃうんかなとか、そもそも「マネーモンスター」みたいなオススメの株を紹介するような番組ってテレビでやってOKなんかなとか、細かな疑問はあったりするんですけど、観て面白かった、と思う感じのエンタメとしては良く出来てるな、と思いました。

映画を観ていて思うのは、こんな経済の仕組みでホントに大丈夫なんかなぁ、ということでした。より良い代案が存在しない、ということは分かっているつもりなんだけど、それでもなぁ、と思ってしまう。

ある場面で、「“悪い”ってなんだ?」というやり取りが出てくる。法律に違反していれば悪い、というのは分かりやすい。でもじゃあ、法律に違反していなければ悪くない、と言えるのかどうか。ここはもう、感情の問題だ。良い悪いの基準がない以上、明確な判断は不可能だ。

問題なのは、そういう善悪の判断基準を設けられないような仕組みの方にある。悪意一つで、法律に違反することなく、多くの人の感情を逆撫でし生活を脅かすような形で金儲けが出来る。いや、判断基準は設けられるのかもしれない。けど、気付かれないようにやることが出来る、ということだ。

これは好き嫌いの問題だが、マネーゲームは面白くないと思う。マネーゲームでお金が増えても、面白くない。でも、マネーゲームは面白いし、これが今のビジネスなんだ、と思っている人間が、世界の経済を作り上げ動かしている。

「マネーモンスター」を観に行ってきました

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秋山梨乃は、従兄の尚人が自殺した、という知らせを聞く。勉強もスポーツも絵もなんでも出来、プロのミュージシャンとしてやっていく決意をして着実に実績を積んでいる最中だった。理由は、誰も分からないようだ。葬儀の場で、祖父の周治に久々に会った。梨乃は、オリンピックを目指せると言われたほどの水泳の選手だったが、今ではその水泳を辞めている。周囲は落胆したが、祖父だけが唯一、以前と変わらない接し方をしてくれる。だから梨乃としても気楽だった。
尚人の葬儀から四日後、梨乃は久々に祖父の家に遊びに行った。祖父は、見たこともないような様々な花を育てていた。実際、そういう仕事をしていたらしい。花は嘘をつかないから、人間より付き合いやすいのだそうだ。梨乃は、祖父がこれまで撮り溜めてきた写真を見て、ブログの開設を提案する。色んな人に見てもらうべきだ、と。乗り気ではない祖父に対し、だったら私がやってあげると、ブログでの投稿までをかって出ることにした。
それからしばらくして、祖父が殺されているのを、梨乃自身が発見することになる。
蒲生蒼太は、大阪にある大学の物理エネルギー工学第二科にいる。かつての名称は、原子力工学科だ。原発事故以来、進路の選択に失敗した、と周りの誰もが思っている。
ある日蒼太は、見知らぬ、でも見覚えがあるような女性と出くわす。兄の名刺を持っているが、警察庁で働いている役人であるはずの兄が身分を偽ったらしい。蒼太は、兄の要介が不在であることを告げ、成り行きで彼女と話をすることになった。水泳選手の秋山梨乃だと分かった蒼太は、彼女から、彼女の祖父の死と、兄・要介の奇妙な行動を聞く。何故兄が、植物のことについて調べているんだ?
そこで思い当たるのが、子どもの頃の習慣だ。毎年入谷で開かれている朝顔市に家族で出掛ける習慣があった。また蒲生家には、再婚相手の息子である自分には立ち入れない、父と兄の強い結びつきみたいなものがあった。子どもの頃から不思議だったその秘密が、もしかしたらはっきりするのかもしれない。
祖父の死の謎を解明したい梨乃と、兄の奇妙な行動と、蒲生家の不可解な謎を追うつもりの蒼太がタッグを組み、「黄色いアサガオ」の謎に挑んでいく…。
というような話です。

東野圭吾はやっぱり巧いな、というのが率直な感想です。なかなか読ませる物語を書く。東野圭吾の作品を読むのは久しぶりだったけど、やっぱり巧いなぁ、と思います。

冒頭で、二つの、関係があるんだかさっぱり分からないエピソードが登場する。一つはとある殺人の、もう一つは朝顔市の。そこから、梨乃と蒼太が絡む物語が始まるわけだが、そこでも、繋がりそうもないような出来事が様々に登場しては、一つの物語として収束していく過程は見事だと思います。

アサガオに黄色は存在しない、という事実から、その壮大な背景を作り上げてしまう。江戸時代にはたくさん存在していた黄色いアサガオが何故消えてしまったのか、という実際の出来事に、著者なりの解釈を作り上げている。そしてそれが、見事にミステリと絡み合っている。嘘は大きいほどバレない、という話があるが、本書はまさにそんな感じで、最終的な着地点がなかなか壮大なので、どこまで嘘なのかわからなくなってしまうような感覚があります。まあ実際は、本書で描かれているようなことはありえないんだろう、と思いつつ、ホントにそうだったら面白いな、と思ってしまう自分もいます。

真相に行き着く過程も、些細な事実を少しずつ積み上げていくような形で、非常によく出来ていると思う。真相の究明には、梨乃と蒼太のチーム、刑事の早瀬、蒼太の兄の要介、そしてもう一人いて、四つ巴という感じで進んでいく。メインで描かれるのは、梨乃と蒼太のチームと、早瀬の捜査であるが、残り二つの暗躍も作中では非常に重要な要素となっていく。この四つがそれぞれに役割を果たしていくことで、ただの強盗殺人事件だと思われていた事件が、様々な背景を伴いながら解決していくのだ。巧い構成だなと思う。

まあそんなわけで、東野圭吾の作品を読むと、巧いなと思うのだけど、逆に言えば、物語的な巧さしか印象に残らない、という言い方も出来る。読みながら、自分だったらどうだろうなどと考えたり、感情が揺さぶられたりするようなことはない。東野圭吾の作風は様々で、東野圭吾の作品の中にもそういう、思考や感情を刺激する作品はあるのだけど、ここ最近の東野圭吾の作品の印象では、そういう作品少なくなってきているのだろうな、と思う。「白夜行」「手紙」「時生」のような、ストーリーの面白さだけではない何かを持っているような作品は、最近出していないように思う(最近の東野圭吾の作品を読んでないくせにこんなことを言うのはどうかと自分でも思うけど)。

本書でも、ストーリーの面白さだけではなく、梨乃と蒼太それぞれが抱える問題が、事件解決と平行して解されていくような展開も用意されている。作品全体のテーマと上手く合わせる形で彼らの成長を描く展開は、やはり巧い。巧いが、しかしやっぱり、巧いなぁ、としか思えないのだ。巧いみたいな風にしか思えない、というのは、貶してるんだか褒めてるんだか分からないが、巧い以上の何かが欲しいんだよなぁ、と思ってしまう自分がいるのは否定出来ない。

とにかく、文章は圧倒的に読みやすいし、ストーリーも実によく出来ている。これだけのページ数の作品を一気に読ませるのはさすがだ。そういう意味でやはり東野圭吾は凄い作家だなと思う。

東野圭吾「夢幻花」

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両親は、結婚して良かったと思っているだろうか。
本書を読んで、少しそんな風に考えた。

子どもの頃、僕はとても優等生だったが、それは優等生のフリをしているだけだった。大学二年の時、何かに対する仕返しであるかのように、僕は突如両親に牙を向き、10年弱ほとんど関わり合いを持たないまま生きていた。妹と弟は、子どもの頃、まあ鬱陶しい子どもだった。母親が作った料理をマズイと言って母親を怒らせ、言うことを聞かず、勉強もしない。僕が実家を出た後、弟は家の離れみたいな場所を溜まり場にして、弟がいなくても知らない連中がたむろしていたらしいし、弟は警察に捕まったこともある。僕も妹も大学を辞めており(妹が大学を辞めたのは、多分に僕のせいという面もあるが)、弟は結果的に高校中退らしい。父親は確か二度、飲酒運転で捕まっている。そういえば弟も、飲酒運転で捕まってたんじゃなかったかな?弟は、今では兄弟の中では一番まともになったが(結婚し、子どもを産み、実家の近くに家を建てた)、僕と妹は碌に親と連絡を取らず、実家にも寄り付かず、好き勝手やっている。

子どもの頃、両親の喧嘩が一番嫌だった。それから逃げるために、僕は勉強に逃避した(繋がりは意味不明だろうけど)。母親は、何かある度に父親に突っかかっていた。何で喧嘩していたのかもう覚えていないし、子どもの目線では汲み取れない何かもあったのかもしれないけど、でも僕には、なんだかどうでもいいようなことで喧嘩してるなこの人達、というような印象を持っていた。父親は、朝早く出て、夜は遅く帰ってきた。土日は、自身がコーチを務めていたテニスに行っていた。両親が一緒に何かをしているのを見た記憶はない(覚えていないだけかもしれないけど)。まあ、子どもが成人するまでは二人で何かするというのはなかなか難しいものなのかもしれないし、その辺りのことは結婚していない僕にはよく分からないのだけど。母親は、父方の祖母に対する不快感を示していたような記憶がある。まあ、母親自身あまり社交的な人間ではないので、祖母が悪いのかは一概には判断出来ないが。

本書に、こんな文章がある。

『そしてきのうから、わたしの体全部をうっすらと包んでいるイケンは、
「やっぱり子どもには、当たりとハズレがある」
ということで、うちの太郎は多分、ハズレなのだ』

当たりかハズレで言えば、我々子どもは三人ともハズレであろう。少なくとも、当たりではない。

両親は、結婚して子どもを産んで良かったと思っているのだろうか。
結婚しなかったらどうだっただろう?と考える瞬間はあるのだろうか。

『でも、全ては蓋を開けないとわからないのだ。一体どんな子どもが生まれるのか、自分の生活がどう変わるのか。今から想像しても無駄なのに、どうしてそうも自信満々に澄ましていられるのだろう。どうせ、あなたたちだって、バカにしているわたしと同じ道をたどるに決まっている。』

僕は未婚だが、周りに結婚している人間は様々にいる。そして、色々話を聞いていると、結婚したことを後悔するような発言ばかり耳にはいる。

もちろんそこにはある種のバイアスが存在する。日本人は、特に身内のことに対して外に向かってあまり良く言わないものだし、特にSNSが発達した現代、自分が幸せであることをアピールすることがどういう評価に繋がるのか理解している人は多いはずだ。長く一緒に暮らしていれば、良い部分は当たり前になり、悪い部分ばかり目立つということもあるだろう。だから一概に、既婚者たちの言葉を言葉通りに受け取るわけにはいかない。

とはいえ。話しぶりから、どうしても、幸せな結婚生活みたいなものを想像することが出来ない。別れるのがめんどくさいから、世間体があるから、子どもがいるから…。そんな消極的な理由で一緒にいるだけ、という夫婦も多いような印象を持ってしまう。

僕自身は、結婚したいと思ったことがない。いや、それはちょっと嘘だ。気まぐれのようにそう思う瞬間を足し算すれば、これまで33年生きてきた中で、1分ぐらいは「結婚したい」と思考したことがあるかもしれない。まあ、せいぜい1分ぐらいだろう。基本的に、結婚はゴメンだ、と思っている。

どうしてみんな結婚したいと思うのか、僕にはイマイチ理解できない。子どもが欲しいとか、専業主婦になって安定した暮らしをしたい、という理由は理解できる。そういう、打算という言い方は棘があるが、物事を天秤にかけた結果結婚を選択する、というのは理解できないでもない。けど、世の中の多くの人は、そういう部分ももちろん含みつつも、やっぱり「結婚というものをしたい」という、ある種の憧れみたいなものを持っているのだろうと思う。子どもや生活手段や、そういう実際的な部分はともかくとして、「結婚」という場所に辿り着くことが一つの幸せのゴールなのだ、という価値観が広く受け入れられていることが、僕にはイマイチ理解できない。

皆きっと、自分は何もかも理想通りの生活を手に入れられる、と思って結婚に臨むのだろう。結婚してからも夫は相変わらず恋愛期間中と同じだけ優しくて、子どもは五体満足で生まれ、相手方の家族(他人も他人だぞ)ともうまくやっていける。夫はリストラに遭わないし、子どもはいじめられないし、住んでいる場所は地震にならないし、親族は誰も犯罪を犯さないし…、と言った具合に。

でも、そんなわけねーだろ、と僕は思ってしまう。

『ハズレの子の親には誰も優しくなんてしてくれないのだ』

『わたしは、この義母と一緒にいると、自分の心にどんどん酷いものが湧いてくることが苦しい。自分はこんな人間だったのだろうかと、驚くほどだ』

『この男は、わたしの味方であったことがあるのか。あるいは、味方になろうとしたことはあるのか。もしかしたら、味方にならなくてはいけない、ということすら一度も考えたことがないのかもしれない。なぜ、わたしを助けようとしないのか。夫であり、父親ではないか。それなのに、いつまでたっても当事者の自覚を持たないでいる。この男のやっていることは、他人よりも酷いことだとわたしは思う』

『わたし自身の大きな欠陥は、自分の娘を全然かわいいと思えないということだ。いくら上辺をとりつくろっていても、心の芯では、貴子のことが好きではない』

『わたしたちが楽しく普通に過ごせるわけがない。心のどこかで、そう思っている自分をわたしは知っている』

『延々とハイテンションでひたすら喋り続けるお義母さんは、わたしにとって恐怖だった。そして、この電話の相手をさせられるわたしの都合を一瞬も考えないその神経が嫌だった』

結婚前は、誰もが夢を見ている。自分は、幸せなお嫁さんなのだ、と。これから幸せな人生がスタートするのだと。でも、誰に対しても、「こんなはずじゃなかったのに」は起こりうる。どんな金持ちと結婚しても、どんなに優しい人と結婚しても、「こんなはずじゃなかったのに」は誰にだって降りかかる可能性がある。

そして非常に残念なことに、現代の日本では、そんな「こんなはずじゃなかったのに」を受け止めるのは、ほとんど女性の側なのだ。これは、社会の仕組みが悪い。法律や社会制度や前時代的な価値観など、今の日本を取り巻く様々な環境が悪い。「こんなはずじゃなかったのに」のしわ寄せは、不幸にも女性が受け止めざるを得ない社会になっている。

『誰かわたしを知って欲しい、と思う。そして優しい声で言われたい。忙しいのに、あなたはがんばっていて本当に偉いねえと、どうか言ってくれないか。やらなくてはいけないことが山ほどあるのに、一生懸命やっているね、子どもたちも元気で丈夫で、とてもいい子に育っている、きっとお母さんが上手に育てたからだね。そんな風に一度でもいい、誰かあたたかい手で、私の手を握って言ってくれないか』

こんな、些細にも思えるようなことを願わねばならないほど、主婦たちは追い詰められている。

『それなのに、わたしがいられる世界はここしかないのだ』

『この世で唯一わたしがそっと静かにしていられる場所は、電気もつけないこの自分の寝室だけだ』

それは、あまりにも寂しすぎはしないだろうか?

だから、本書のタイトルは「逆襲」なのである。
男は気づいていない。主婦たちが、これほどまでに追い詰められていることを、辛いということを、やってられないと思っていることを、言ってはいけない様々な感情に支配されているということを。

『妻で母親なら、自動的にできるものだとすっかり安心しているだろう』

『でもねシスター。そういう教育を女の子にするのなら、男の子にも同じようにしてもらわないと。男って、女を、かわいいか、かわいくないかだけで判断しているみたいなんですよ』

しかし、男にはどうすることも出来ない。どう考えても男は、女性と比べて、あらゆる点で劣っていると僕は思う。男は、主婦たちが置かれている状況を理解しようとしないが、仮に理解できたとしても、何もしない。出来ないのだ。男とはそういう、愚かな生き物なのである(僕は、自分のそういう愚かさを知っているから、結婚という選択肢を考えもしない、という部分もある)。

『わたしにとっては、主婦とは雄々しい人たちです。たった一人で、家族のために自分の全てを差し出している善意の人です』

あとがきで著者はそう書いている。その通りだろう。男が働き、女性が専業主婦として家庭を守っていた時代には、男のそういう無能さは表面化しなかった。男は家庭の中で威張るものだっただろうし、女性は家庭の中で耐えるものだった。それが当たり前とされている時代があった。しかし今は違う。様々な社会構造や人々の意識の変化によって、家庭というものは、夫婦が二人で作らなければ守り切れない、ということになってきた。そして、そうなって初めて、男の無能さが露わになったのだ。

男は、家庭というものを共同でつくり上げるには極めて無能である。この事実をきちんと理解した上で女性のみなさんは結婚なさるといいと思う。結婚なんてメリットがない、と言っている男が増えているようだが、むしろそれは逆だろう。どう考えても、女性の方にメリットがないと思う。子どもを産む機能は女性の側にあるのだし、家庭や家族というものを維持する能力も女性の方が高い。子育てや金銭面の問題は多々あるが、結婚して子どもを産めばすべて安泰、とは言い切れない以上、子どもが欲しい女性は最初から結婚しないで一人で育てる選択肢を検討してもいいだろうし、子どもに興味がない女性には結婚するメリットは何もないだろう。

結婚が悪いことばかりではない、ということは当然理解した上で僕なりの考えを書いたつもりだ。結婚というのは、人生において数多ある選択肢の内の一つでしかない、ということを、もっとみんな意識した方がいいのではないかと思う。

内容に入ろうと思います。
本書は、基本的に主婦を主人公とした8編の短編を収録した短編集です(主婦ではない人が主人公の話も1編ある)。主人公はすべて別々で、子どもがいたりいなかったり、夫と仲が良かったり不仲だったり、義母と揉めていたりいなかったりと様々だ。しかしどの話にも、主婦である自分の行き詰まり感がポップな感じで描かれていると思う。

「お茶くみ奥さま」
夫の正樹は、禿げ始めている。でも、それを堂々と受け入れている彼を、わたしは尊敬している。子どもは二人。今日は、下の子どもの保護者会の日。今村君のお母さんが怒っている。働いているお母さんと働いていないお母さん。PTAの分担をどうするか。めんどくさい。働いているお母さんの方が偉い、みたいな雰囲気にうんざりする。でも、口には出さない。昔もらったアドバイス通り、苛立って文句を言っている相手がセックスをしている時の様子を思い浮かべてみる。

「レジ打ち奥さま」
太郎はハズレの子だ。どうしてもそう思ってしまう。何をさせても、全然出来ない。授業中に勝手に歩き回るし、筆箱の中身は一日で無くしてくる。いくら言っても聞かない。夫の昌一は、太郎の味方をしてやれ、みたいに言う。あなたが先生と関わるわけじゃないからそんなことが言えるんだ。夏休み中太郎と一緒にいたくなくて、スーパーでレジ打ちのバイトを始める。私は、レジ打ちに向いているみたいだ。

「長生き奥さま」
会社に行こうとしていた夫の荘一に、何この変な亀?と突っ込まれた。上野の国立博物館の「仏像展」で買った「贔屓」だ。神様として飾っている。ずっと、子どもはいない。子どもを産まないことは悪ではないはずだが、周囲からは悪であるかのように見られる。私、みなさんに何か迷惑を掛けていますか?不妊治療の相談のために病院へ行ったあの日、乳がんが見つかった。

「安心奥さま」
家族でクリーニング店を営んでいる夫の功一の家族。わたしは、葬儀屋で働いている。義母はわたしの職業を、周囲には「花屋」だと言っている。功一さんの妹が家を出て、二世帯住宅に改築した。娘の晴子は、アレルギー持ちだ。義母は、そのことを、まるで理解していない。わたしは、自分の作った食事で晴子を育てたい。しかし、義母のせいでそれが出来ない。

「加味逍遥散奥さま」
わたしは漢方医に、何がストレスなのか、と聞かれている。結婚し、子どももいて、仕事もしている。幸せなはずだ。でもわたしは、いつもいらいらしている。息子の遊大は、お茶碗も持てないし、言われたことが全然出来ない。夫は、子どもなんだから出来なくて当然だ、みたいなことを言う。小さな時から躾けなくてはいけないということが分かっていない。当事者意識の薄い夫。この人は私の味方であったことが一度でもあっただろうか?会社でも、子どもを育てているが故の勤務状況をネチネチ言われる。あなたの奥さんは専業主婦だから、時間があっていいですね。

「天城越え奥さま」
娘の貴子のことを、まったく可愛いと思えない。泣き出すと、また始まった、うるさいな、と思うだけだ。自分は、良い母親でありたいといつも願っている。しかしいつもその願いは、貴子の振る舞いによって打ち砕かれる。わたしが怒る前から謝るような貴子の有り様が気に食わない。子どもが出来た時、夫の元妻に「勝った」と思えたのに。授業参観の時、教室の後ろに貼られていた貴子の作文を読んで、わたしは大きく息を吸った。そこには、架空の幸せな家族の光景が書かれていた。

「にせもの奥さま」
わたしは、ネイルサロンを開いている。初めてのお客さんが来ると、みな、他にスタッフがいるのだろうとキョロキョロする。わたしがデブでブスだからだ。デブでブスだから、この人がネイルをするわけがないと思われるのだ。そういう視線には、もう慣れた。腕が良ければいいのだ。美しいけどネイルの腕がないよりは、全然ましだ。閉店間際、初めてのお客さんがやってきた。彼女は、息子が失明した出来事から、自分の身の上をつらつらと話し始める。

「逆襲奥さま」
夫の洋一と向かい合っている。土曜日、平日の仕事の疲れを取るべくまだ寝ていたいと思っている10時半。なんの予告もなく義母がやってきた。夫に追い返させた。義母の行動は、わたしには理解できない。勝手に料理を作ってきて、連絡もなしに押しかける。夫を通じて嫌だと言っているつもりだが、全然伝わらない。夫は、両親を毛嫌いするわたしに苛立っているようだが、仕方ない。夫の実家には、確実に「何か」がいるし、義母の行動はわたしにはまったく許容出来ないのだから。

というような話です。

非常に面白い作品でした。僕は結婚もしていないし女性でもないから、本書に書かれていることを当事者目線ではまるで読めないわけだけど、著者自身の、女性であること、女性として生きること、そういうこと全般に対する観察眼みたいなものが非常に鋭く発揮されている作品だと思いました。

幸せな結婚生活を送っている人も世の中にはいるだろうけど、もちろんそうではない人もいる。どっちが多いのか、僕には分からないけど、イメージでは、幸せではない結婚生活を送っている人の方が多いのではないか、と感じる。特に女性は。男は結婚しても、自分自身の看板を大きく変える必要はない。苗字も(今の社会通念では)男の側は変わらないし、お腹を痛めて子どもを産むわけじゃないから、明確に「父親」になる瞬間があるわけでもない。仕事だって、そのまま続けられるし、いわゆる「ママ友」みたいな、子どもを介した新たな他人との人間関係もうまくすれば回避できる。

女性はそうは行かない。結婚すれば(大抵は)苗字が変わり、仕事は続けられるかもしれないが、子どもが生まれれば何らかの形で働き方については考えなければいけない。子どもとの兼ね合いで、ママ友や義母との関係性が発生するのも女性の側だ。結婚すれば女性は、あらゆる場面で立場や呼び名が変わることになる。

それは本当に大変なことだよなぁ、と思う。

先程も引用した、この文章が非常に印象的だった。
『妻で母親なら、自動的にできるものだとすっかり安心しているだろう』
男の方は、夫になっても父親になっても、自分の立ち位置やすべきことが劇的に変わることはない(本当はそうではないはずだが、劇的に変化しないでいいような価値観がずっと続いている)。だからそれと同じ感覚で、女性の側が妻になり母親になっても、劇的な変化はないと思ってしまうのではないか。

女性は、様々な場面でそんな激変にもみくちゃにされながら生きていくことになる。主婦にとっての敵は、あちこちにいる。どういう存在がどういう理由で敵認定されるのか。女性側がどんな場面でどう感じるから揉め事が起こるのか。僕は女性ではないからきちんとは理解できていないにせよ、その一端を垣間見ることが出来る作品だと思う。

この作品からは、著者の躊躇を感じない。「こんなことを書いたらこんな風に思われてしまうかもしれない」というようなためらいを感じない。著者自身の体験や感覚がどれぐらい作品に盛り込まれているのか、それは想像するしかないが、しかし、なかなかぶっ飛んだあとがきを読む限りでは、かなり著者自身の体験や感覚が詰め込まれているのだろう、と思わせる。子どもを好きになれなかったり、夫に怒りを抱いたり、義母に恐怖を抱いたり。それらの場面での主人公たちの内面描写は、普通他人に言葉にして言ったり出来ない類のことだ。妻であれば、母であれば、そんな感情を抱くべきではない。そんな風に思ってしまうようなものだ。

著者は、臆せず書く。主婦というものの在り方をリアルに提示してみせるために、著者は、それらの感情をそのまま切り取ってみせる。その臆しない書きぶりが、作品を自立させているのだと思う。

筆致は、比較的ポップだ。湿っぽくはならない。そこに僕は、辛さを押し隠しながら、それでも幸せであるように他者に見てもらいたいというような、主婦たちの葛藤を見る。もうここにしかいられないのだ、という諦念と共に生きる彼女たちには、現実を丸ごと受け入れながら、それでも前に進んでいくような強さが必要とされる。その強さを手に入れるために、彼女たちは結局、湿っぽくなってなんかいられないのだ。

「こんなはずじゃなかったのに」と、誰もが思っている。結婚というのは、彼女たちにとって、もっと違う何かであるはずだった。大それたことを理想としていたわけではない。平凡な日常を求めていただけだ。しかし、その平凡な日常さえ、簡単には手にはいらない。「こんなはずじゃなかったのに」と思いたい気持ちは、分かるような気がする。

女性がどれぐらいこの作品に共感するのか分からない。まだ結婚していない人は、「自分はこうはならない」と思うだろう。きっと彼女たちには、この作品は響かないのだろう。幸せな結婚生活を送っている人にも理解できない世界だろう。しかし、多くの結婚している女性には、彼女たちの人生のどこかに、自分自身を重ねてしまうのではないだろうかと思う。にっちもさっちもいかなくなってしまった自分の人生を振り返らずにはいられなくなるのではないか。

鋭い観察力と卓越した表現力を駆使して、ポップな筆致で主婦たちの悲哀を切り取っていく。著者自身も、結婚というものに相当苦労させられたようだ(あとがきを読めば分かる)。著者の実感のこもっているセリフや感情も多くあることだろう。主婦たちの逆襲。男は(特に既婚男性は)、受け止めようと努力してみる必要がある。そして男女とも、こういう現実も起こりうるのだということを知った上で結婚すべきだろうと、改めて僕は思うのだ。

夏石鈴子「逆襲、にっぽんの明るい奥さま」

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あと半年で地球が滅亡するとしたら、何をするだろうか?
と考えてみても、特にやりたいことは浮かばない。
むしろ、あと半年で死ぬというのに、積極的に何かをしても仕方ないんじゃないか、と思いそうな気もする。
みたいなことを考えると、人間は、長く生きざるを得ず、いつ死ぬか分からないからこそ、自分の望んだことをしたり、新しいことにチャレンジ出来たりするのかもしれない、と思ったりもする。

半年後に小惑星が地球に衝突して人類が滅亡するとしたら?という質問をした時、とにかく犯罪が増えるから、先にそういう犯罪に巻き込まれて死んじゃうかもね、という意見が出た。それに対して、「それは嫌だ。どうせなら小惑星の衝突で死にたいじゃん」と言った人がいて、それには凄く共感できた。
確かに、地球に小惑星が激突しなくても起こりえるような出来事で死ぬのは馬鹿らしいな。どうせそんな一大イベントが起こるなら、まさにその小惑星の激突によって直接的に死を迎えたい、と思う。しかしそうなると、残り半年、健康なまま生きていく努力をしなくてはいけない。酒に溺れたり、身体を壊すほどの運動をしたり、あるいは身体を動かせなくなるくらい不精をしたり、健康を損なうような食生活をしたり…。そういうことは避けなくてはならない。もしかしたら、小惑星の衝突がはっきりする以前よりも、健全で健康的な生活を心がけるようになるかもしれない。健康な身体で万事小惑星の衝突によって死ぬために。

この作品の中では半年後の人類滅亡を前に、仕事を辞めて好きなことをやり始めたり、大麻などに手を出したり、犯罪に手を染めるようになったりと、様々な形で、半年後の滅亡に反応する人々の姿が描かれていく。その中にあって、主人公の刑事は、犯罪捜査に従事する。周囲から、奇異の目で見られながら。

コンコード警察署犯罪捜査部成人犯罪課のヘンリー・パレスは、つい最近昇進したばかり。成人犯罪課の刑事三人が早期退職したからだ。恐らく、半年後に迫った小惑星の衝突と関係があるだろう。
今から約半年後の10月3日、炭素とケイ酸塩でできた直径6.5キロの小惑星が地球に衝突することになっている。ありえないほど長い周期の楕円軌道を通る小惑星の存在は、天文学者の誰一人として想定外であり、地球への衝突をもっと早く知ることはほぼ不可能だった。
そんな地球においてヘンリーは、コンコードで起こったある事件の捜査に着手する。刑事に昇進してからの初めての事件だ。マクドナルドで自殺した男性。自殺?いや、どうみても自殺に見えるが、ヘンリーは他殺と判断した。半年後の人類滅亡を悲観して首吊り自殺が増えているし、首吊り自殺はあまりにも日常的になっているので軽く見過ごされてしまうが、しかしヘンリーの勘ではこれは殺人事件だった。死んでいた、保険会社の計理士だったピーター・ゼルが首を吊っていたベルトだけ高級品だったことが、他殺説を匂わす唯一の物証だった。
ヘンリーは、ゼルを殺した犯人を捕まえるべく奮闘する。しかし、様々な方向から捜査を続けるも、そもそもゼルが他殺であるという決定的な証拠さえ見つけることが出来ないでいる。ヘンリーも次第に、ゼルは自殺だったのかもしれない、という方向に思考が傾いていく。さらに、妹のニコが厄介な話を持ち込んでくる。夫のデレク・スキーブが帰ってこないというのだ。ヘンリーは捜査中であると伝え断ろうとするが、うまくいかない。結局ヘンリーは、ゼルの事件と、ニコの夫の捜索とを同時並行で行うことになる。
『ところが、刑事に昇進してからは、じれったいような歯がゆいような、名づけようのない感覚にすっぽり包まれていた。タイミングが悪かった、運が悪かったという不満が消えなかった。物心ついてからずっとやりたいと思い、待ちのぞんできた仕事についたのに、失望感をいだいていた。こっちこそおまえに失望したと、仕事はいうだろうけど。』
憧れの刑事になれたヘンリーは、自身の最初の捜査であるゼルの事件に強い思い入れを持っている。なんとかこの事件を解決出来ないだろうか?周囲から、どうしてそこまで熱心に捜査を続けるのかと訝られながらも、ヘンリーは捜査の手を休めない…。
というような話です。

なかなか面白い話でした。設定としては、伊坂幸太郎の「終末のフール」と近いなと感じました。違う点は、「終末のフール」は、隕石によって地球が滅びると人々が知らされてから既に数年経っている、という点だ。本書の場合、半年後に小惑星の衝突で滅亡しますと結構唐突に通告されるので、人々の同様が激しい。激しいが故に、極端な行動を取る者も増えてくる。そういう世界観の中で描かれる警察小説で、ごく一般的な警察小説とはあらゆる点で異なる作品です。

まず、半年後に滅亡するのに熱心に仕事をしている主人公ヘンリーの描写が面白い。ヘンリーは、周りが仕事をサボっていたり、世間が緩やかに崩壊していく様を見ていても、自身がやるべきだと感じている捜査の手を緩めるつもりがない。そこには、彼の過去の出来事や、人間としての正義感、真実を知りたいという強い思いなどが横たわっている。それらの背景について、はっきりと描写される場面は少ないが、ところどころに挿入されるエピソードがから、こんな事態になってまでも捜査に専念する主人公の人間的な輪郭が少しずつ明らかになっていく過程は面白いと感じる。

また、半年後に地球が滅亡する世界で、どんな出来事が起こっていくのかを、かなり細かくシミュレーションしているだろうと思う点が、作品のレベルを高めていると思う。世界的企業は倒産し、その海賊版とでも言うべき店舗が継続している。インターネットは、警察など一部機関しか接続出来ていない。人々は麻薬などの薬物に手を出すようになっていく。ガソリンは手に入らないから、廃食油で車が動くように改造されている。基地局の維持が出来ず、携帯電話はところどころでしか通じない。他にも細々とした描写から、人々が半年後の滅亡という事態を様々に捉え、それまでの人生を放棄するかのようにして新しい生き方に飛び込んでいく様子と、それによって社会にシステムや秩序が少しずつ壊れていく様子が丁寧に描かれていく。

本書のような物語を読むと、僕らの社会のシステムや秩序は、多くの人間の無意識の意志によって支えられているのだな、と感じる。誰もが、自分の人生はこれからまだまだ先ずっと続いていく、と思っているからこそ、それらは維持されている。その共同幻想が失われてしまえば、システムも秩序もあっという間に壊れていってしまう。人間は、集まり、お互いが持つ能力などを様々な形で交換していくことで、一人では出来なかった様々なことがやれるようになった。そうやって社会が生み出されてきたわけだけど、その基盤が実は脆い共同幻想によって支えられているのだ、という現実を改めて理解できたような気がする。

事件そのものは、僕にはうまく評価出来ない。ミステリとして、このストーリーがどう評価されているのかよく分からないが、ミステリとして読むには、展開が緩やか過ぎるように感じる。もちろん本書の場合、事件そのものと、半年で滅亡してしまう世界の描写とが同時並行で進んでいくので、事件自体の展開が遅いからと言って物語がつまらないということにはならない。しかしそうは言っても、展開が緩やかだなと思う。なんにせよ、自殺なのか他殺なのかさえ終盤にならないと確定しない。もちろん、それが魅力の一つでもあるのだろうけど。個人的な意見だが、主人公の、職務を全うしようとする姿勢は素晴らしいが、しかし、自殺なのか他殺なのかも判然としない事件をそれでも追い続ける執念みたいなものを作品内で維持できていたかと言うと、ちょっとそれは認めがたいと感じる。他殺と確定している事件を追うのであれば、ヘンリーの性格や価値観的に半年後に地球が滅びようがなんだろうが捜査はするだろうが、自殺なのか他殺なのか確定しないのにそこまで執念深く捜査をしている感じには、ちょっとリアルではない印象を受けてしまった。

全体の設定は非常に斬新で、その設定を忠実に描き出そうとするリアリティの追求もとてもいい。そして、その設定を背景に、それでも奮闘する主人公を描き出したのもとても良かったと思う。事件そのものには強く惹きつけられることはなかったが、作品全体の完成度は非常に高いと思います。

ベン・H・ウィンタース「地上最後の刑事」

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僕自身は、物語に救われた、と感じた経験はない。読んで感銘を受けた物語、泣いた物語、感情が揺さぶられた物語。そういうものはそれぞれにあるが、しかし、物語のお陰で救われたと感じた経験は、たぶんない。

僕はどちらかといえば、物語以外の本に救われたと感じた経験が多いと思う。自分の思考では辿り着けなかった価値観や自分が囚われている壁の存在に気づかせてくれる本が、僕自身の血肉を作り上げてきた。

僕にはどうしても、物語は虚構でしかない、と思ってしまう部分がある。これは別に、物語を否定するものではない。しかし、現実と対比出来るような存在ではない、と思うのだ。現実は現実であり、物語は物語。両者は、比べることが可能な同じ地平線上に存在するのではなく、まったく別のものなのだ、と思っている。

だから僕は、物語の力というのを、そこまで信じていなかったりする。

そういう自分を、もったいないなぁ、と感じる自分もいる。もっと物語に対する感受性、というか、物語を人生の重要な要素として受け取る力とでも言おうか、そういうものが強ければ良かったのに、と思う。

子供の頃、僕は、後に読書好きになるような子供が読むような本をまったく読んでこなかった。児童文学や横溝正史・江戸川乱歩など、およそ本好きであれば誰もが子供の頃に読んでいるだろう作品に、触れる機会がなかった。子供の頃本を読んでいなかったわけではないが、関心の範囲が恐ろしく限られていたのだろう。あるいは、図書室や図書館が嫌い(本を借りて読むというのが苦手)というのもあったかもしれない。本は読んでいたが、借りて読むという行為をほとんどしない子供だったと思う。

大学時代、古典を読んでおけばよかったなぁと今更感じる。元々理系だったので、ただでさえ古典を読むような環境や素地は存在しなかったのだけど、今振り返ると、その時期にしか読めなかっただろう本というのはあったよな、と思う。

ちゃんと自分の読書が始まったな、と感じるのは、大学二年の頃だ。唐突に古本屋に行って大量の本を買い、唐突に濫読し始めた。何がきっかけだったのか、まるで覚えていない。大学二年と言えば、僕の人生の中でもトップクラスに忙しい1年だったはずだ。自分でも不思議だと思う。

物語の感受性みたいなものが子供時代に形成されるとすれば、僕はそれが中途半端なままで止まってしまっているのだろう、と思う。物語に触れなかった分、数学や物理を大いに楽しんだから、まあ別に後悔するようなことではないのだが、タイムマシンがもしあるなら、俺が子供の頃の親に、読ませるべき本リストを渡すだろう。

本を読む人が少なくなっている、と言われている。僕は子供の頃から、周りに本を読む人間がほとんどいなかったから、そのことを実感する機会はない。とはいえ、書店員として本屋で働いていると、本を売ることの難しさを日々実感するのである。

現代において本を読んでいる人は、様々な理由で本を読んでいるのだろうが、その中には、一冊の本に救われた、という経験を持っている人もいるのだろう。救われ方はきっと様々だ。本を読んだことによって、その本を誰かとやりとりすることによって、その本を読めなかったことによって、その本と何度も不思議な出会いをしたことによって…。

僕自身にその経験がないから説得力の欠片もないが、しかし本書を読んで、確かにこれは物語で出来過ぎているけれども、しかし実際に、物語によって救われるということもあるのだろう、と思わされました。

内容に入ろうと思います。
本書は、玉川すみれがオーナーを務める「古書カフェすみれ屋」を舞台にした連作短編集だ。フードメニューを担当するすみれと、もう一人、古書スペースとドリンク担当である紙野頁の二人で切り盛りしている。渋谷から私鉄で数駅、そこから15分ほど歩いた住宅街。二階はすみれの住居だ。
紙野君とは、修行のためにアルバイトをしていたとある新刊書店で出会った。どんな本の問い合わせにも完璧に応える凄い書店員だった。すみれが古書カフェを開くつもりだと離すと、紙野君が突然、その古書部分を自分に任せてくれないか、と言ってきた。「古書カフェすみれ屋」は、カフェ部分と古書部分は独立採算制。紙野君は古書店のお客さんの対応以外の時間はカフェを手伝う。その対価としてすみれは、昼と夜のまかないと1日3杯のコーヒーを提供する。すみれは、人件費を掛けずに人手を確保出来、紙野君は好きな本を売る場所を確保出来る。お互いの条件がぴったり一致した。
飲食店は軌道に乗るまで時間が掛かると言われるが、幸い「古書カフェすみれ屋」は常連客もつき、経営的には比較的早くに安定した。すみれの料理の才ももちろん大きいが、紙野君の本を間に挟んだ接客もまた、お客さんの心を確実に掴んでいる…。

「恋人たちの贈りもの」
常連客の高原君がすみれに相談事をもちかけてきた。三年前、憧れ続けていた美雪さんと付き合い始めた高原君は、その時美雪さんから、「30才までには結婚することに決めている」「結婚したら子供と一緒にいたい」と言われていた。つまり高原君は、美雪さんが30歳になるまでに経済的に安定しなくてはいけないが、高原君の夢はミュージシャン。三年経った今も、目が出る気配はない。どうしたらいいだろう、という相談なのだった。
その話を耳にしていた紙野君が、高原君に一冊の本を売った。その本をきっかけに高原君は決意したようだ。慌てて店を出て行った。
そのすぐあと、なんと美雪さんがやってきた。美雪さんもすみれに、高原君との関係について相談を始めた。それも聞いていた紙野君は美雪さんに、「O・ヘンリ短編集(二)」という新潮文庫を売る。一冊の本が、人生を変えてしまうこともある、と伝えながら…。

「ランチタイムに待ちぼうけ」
すみれは、居心地の良いカフェ作りを心がけていた。客単価と回転率のことは常に考えておかなくてはならないが、しかし最終的にはすみれ自身がルールだ。どんなお客さんにお引き取り願うかを決めるのはすみれ自身。
開店と同時にやってきて、コーヒー一杯で何時間も粘る年配の男性客がいる。待ち合わせだと言うからテーブル席を案内するが、しかし相手は一向に現れない。昼時、その男性客がテーブル席に一人で座っていることから、客同士で揉め事が発生することもあった。しかしすみれは、自分の信念に沿って、その男性客を追い出すようなことはしなかった。
その男性客は、紙野君が行っていたフェアの中から、荒木経惟の写真集「センチメンタルな旅・冬の旅」を手に取った。荒木氏自身の妻を被写体に、新婚旅行と死の間際を撮った作品集だ。この作品について、紙野君と男性客は価値観をぶつけあうやり取りをしていたが…。

「百万円の本」
井上香奈子さんと息子の健太君は週に一度夜外食をし、その後でデザートを食べにすみれの店にやってくる。半年前に香奈子さんは再婚したが、再婚相手であるパン職人と健太君の反りが合わないのだという。良い人だから嫌いにならないでと言う香奈子さんに対し、俺が子供だから馬鹿だと思ってるし信じてないだろ、と突っかかってくる健太君。健太君は、紙野君が行っているフェアの中から、ジュール・ルナールの「にんじん」を手にとった。この作品が大好きだという。親子の会話を聞いていた紙野君は、香奈子さんに、是非読んでくださいと言ってある本を買わせる。もし読んで、僕がその本をオススメした理由が分からなければ、その時は、百万円の本を買ってもらいます、と言って…。

「火曜の夜と水曜の夜」
ある日の夜。本城さんと馬場さんという、共に初来店の二人の男性客が、紙野君が行っていたフェアの中にあった「セックスレスは罪ですか?」という本について話をしている。既婚者である馬場さんと、長く付き合っている彼女がいる本城さん。二人は、食と性をテーマに、パートナーとの相性の問題についてやり取りしている。
その翌日。由貴子さんと愛理さんという、こちらも共に初来店の二人の女性客が、同じく「セックスレスは罪ですか?」の話をしている。まだ若々しさを保っている愛理さんが、由貴子さんに対し、パートナーとのセックスを継続するためのアドバイスをし、また由貴子さんは、料理の腕について相談を始める。
その二組の会話を聞いていたすみれは、この4人の関係性を自分なりに想像するのだが…。

「自由帳の三日月猫」
すみれは店に、お客さんのコメントを書ける自由帳を置き始めた。普段やり取りしない方の意見も知ることが出来てやってよかったと思っているすみれだったが、ある日お客さんからの指摘で奇妙な書き込みがあるのを見つける。
猫の絵と、あと、日本語の意味をなさないひらがなの羅列だ。明らかに暗号みたいだったが、誰も解けそうにない。そんな書き込みが何度か続いた。
その後、あの猫は私が飼っていた猫で、最近死んでしまったのだ、と申し出てきた女性がいた。富永晴香さん。ようやく解読出来た暗号は、当の猫のことを知っていなければ書き得ない内容だったが、晴香さんには心当たりがないという…。

というような話です。

かなり好きな作品でした。思っていた以上に良かったです。

ストーリー展開がまず良い。恐らく、作中の鍵となる本から思い浮かべて物語を構築していったのではないかと思うけど、どの話も、その鍵となる本の使い方が巧い。特に、鍵となる本がある種のミスリードとなっている冒頭の「恋人たちの贈りもの」と、鍵となる本によってある幻想が崩れ、それによって躊躇していた一歩を踏み出せるようになる「火曜の夜と水曜の夜」での本の使われ方は特に巧いなぁと感じました。まさにその状況に合わせて本を差し出す紙野君の存在や、その本が常に在庫されている状況というのは、もちろんある種のファンタジーなわけでリアリティに欠ける部分ではあるのだけど、それが一つの型として作品全編で貫かれているので、物語としての統一感が計られていていいと思いました。

話によっては、鍵となるそのホント出会えなければかなり危険な状況に陥っていた、というものもあって、まさに、『たった一冊の本が、ときには人の一生を変えてしまうこともある』ということなんだよな、と思いました。

また、それらお客さんとのやり取りの合間合間に、紙野君の、本や書店に対する価値観みたいなものが挟み込まれていきます。

『そこが古本屋の面白いとこです。あの雑誌は半年前に出たものだから、まだ情報は腐ってない。でも新刊書店には並んでません。新刊書店は、ちょっと、情報の流れが早過ぎる』

『すみれさんは、書店併設のカフェで働いたことがあるから、ご存じですよね。ふつうの本屋、新刊書店って、自分が好きな本だけを売るわけにはいかないんですよ。自分の感性に合わないものでも売るのが仕事です。品性が下劣だと思えるような本でも、ベストセラーなら必死で仕入れる努力をする。そもそも、自分が注文しない本でも、問屋である取次から毎日たくさんの本が配本されてくる。
仕入れは難しいですが、古本屋は、やろうと思えば自分が好きな本だけを売ることができる。すみれ屋には、俺が好きなものしかありません』

本屋で仕事をしていると、紙野君が言っているようなことをよく考えさせられる。何が正しいという考え方は様々にあっていいのだけど、本屋を商売として成り立たせなければやっていけない、という点は同じだ。どうやって成り立たせるのか、という部分に様々な判断や行動が存在しうるが、紙野君のように、本が好きだからこそ古本屋をやる、という感覚もまた、一つの正解なのだろうと思う。

本書は、すみれさんの描写もとても良い。一応すみれさんの視点による物語なので、すみれさん自身の話はさほど出てこない。しかし、常識がきちんとあって、店を成り立たせるだけの才覚があって、つまりとても有能なのに、一人の女性としてはうまく振る舞えなくなってしまう、そんな姿が浮かんできていいなと思う。この店のルールは私自身だ、なんていう威勢のいいことを言う一方で、紙野君との仲を問われた時にうろたえる可愛さもある。オーナー店主としてのキリッとした部分と、人間の機微みたいなものをうまく捉えきれないうっかりした部分が、一人の人間の中でうまく混在している感じが、僅かな描写の中でうまく描かれていると思う。

さらに本書の凄いのは、カフェで提供される料理の描写だ。本書を手にとった方は、巻末に書かれた参考文献の一覧を見てみて欲しい。すべてレシピ本である。僕は食べることにさほど関心がない人間なので、本書で描写されている料理がどんなもので、美味しそうなのかどうか全然判断できないのだけど(なんなら飛ばし読みしてしまう 笑)、食べることに関心がある人(まあ世の中の大半の人がそうでしょう)は、非常にそそられる描写なのではないかなと思います。「古書カフェすみれ屋」は、基本的にランチメニューが毎日変わる。聞いたこともないような料理が日替わりで出てきて、しかもそれがべらぼうに美味いっていうんだから、近くに「古書カフェすみれ屋」がある人が羨ましくなる人も多いだろう。帯に三浦しをん氏も、『すみれ屋が本のなかにしか存在しないなんて、口惜しくてなりません。私も常連さんになりたいなー!』と書いている。そう感じる人はきっと多いだろう。

リアリティは薄いかもしれないし、ミステリとしては弱いかもしれないけど、人との関わり合いの中で本が繋ぐ優しさや想いみたいなものが伝わってくる良い作品だと思いました。

里見蘭「古書カフェすみれ屋と本のソムリエ」

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内容に入ろうと思います。
本書は、猿田(サル)・骨崎(コ)・リサコ(リ)の三人による便利屋「サルコリ」を舞台にした連作短編集です。7つの短編と5つのショートショートが収録されていますが、短編の内容紹介だけします。

「最小限の犠牲」
ホステスに化けたリサコは、高名な統計学者であるという宇野先生に手を握られながら言い寄られている。こんなことがもうずっと続いている。
そんなある日、東京駅のコインロッカーで何者かに話しかけられる。
バレたか…。
リサコは逃げた。メモリーカードを骨崎に投げ、骨崎も逃げた。追手の素性は分からないが、骨崎は剣道部と陸上部を兼部していたくらい脚が速い。よし、どうにか逃げ切れそうだ、と思ったが…。

「斬る」
ネットを介して世界へ動画と音声を発信できる設備を組んで欲しい、という依頼が舞い込んでくる。森谷と名乗るその男は、かつては熱心なジャーナリストだったが、ある公害事件に肩入れして住民代表として刑事責任を追及し、その後表舞台から姿を消す。
彼らは物件を探すところから着手するが、なんとその物件が電波障害が酷く、依頼の目的に恐ろしく不向きだと分かった。どうにかシールドを敷いて設備を組んだが、どうやら森谷の動きが怪しくて…。

「ミマデラの餌食」
S大学文学部の准教授である三万寺陵子は、あることで注目されている。人から失言を引き出す才能がある、と言われているのだ。彼女と対談をした有名人が次々と失言によりテレビの世界から消えかかっている。既に、三万寺と対談したいと思う奇特な人間はほぼ存在しない。
しかし、一人いたのだ。今回の衆議院議員総選挙で東京某区か立候補した伴部貴明だ。彼は、「当選したら三万寺陵子さんとテレビで対談する」と宣言し、圧倒的知名度を誇る対抗馬に僅差で勝ったのだ。
その伴部から、三万寺と対談しなければならないどうしようと、サルコリに相談があったのだ。

「学校じゃ教えてくれないこと」
骨崎はある日、奇妙な電話を立て続けに受けた。親を殺してだの、腎臓を売りたいからブローカーを紹介してだの。どうも猿田があちこちで安請け合いをしているらしい。
その電話も、猿田に電話をしているつもりらしかった。骨崎がそれを言い出すタイミングを失っていると、彼女は「やっちゃったのよ先生を。ナイフで」と恐ろしいことを言う。そして自分も死ぬから、と言い始めるのだ。骨崎は、とりあえず猿田のフリをして、彼女を死なせないようどうすべきか頭をフル回転させるが…。

「尾行練習」
サルコリの三人は、同じ探偵学校の同期だ。難易度の高い尾行が卒業試験で、合格率は10%にも届かない狭き門。骨崎とリサコはペアを組んでこの課題に挑む予定だったが、試験直前、どうもコンビネーションに問題が生じるようになった。
そこで、仕方なく、猿田と組むことに決めた。猿田は、一人では絶対不可能と言われるこの尾行の試験を一人で受けるつもりだ。優秀ではあるが、性格の悪さから蛇蝎の如く嫌われており、リサコも最後まで猿田と組むのを嫌がった。
三人は試験前の実践練習として、街中にいたとある中国人を尾行することにしたのだが、なんと彼らは強盗団だったのだ…。

「合格率120パーセント」
リサコは、替え玉受験のため、試験会場にいる。
別居中の夫(リサコは離婚を望んでいる)が持ってきた話で、資産家の令嬢の替え玉受験をしろとのことだった。もちろん断る気でいたが、ロクでもないこの夫は、子供を人質に取ってリサコを脅してきた。悪態をつきつつ任務に挑むリサコだったが、身代わりをするその少女から、驚くべき話を聞くことになり…。

「死んだ子の年齢」
猿田は、的場善夫という依頼人から、行方不明になった息子に関する依頼を受けていた。半年経った今も行方は分からないままだ。しかし的場氏の依頼は、息子を探してくれというようなものではなかった。休止中になっている彼のブログを代わりに更新して欲しい、というのだ。
一方骨崎とリサコは、あるカップルを尾行している。その様子を骨崎は、的場が依頼をしているまさにその最中に猿田に定期的に報告を続けている…。

というような話です。

ササッと読むには面白いかな、という感じの作品です。
サルコリという便利屋自体には、さほど特殊な設定はない。猿田がちょっと並外れて優秀過ぎる、骨崎は脚が速く剣術が使える、リサコは美しい、という特徴はあるが、基本的には何でもやる便利屋だ。普段は身元調査・ペット探し・廃品回収や家の補修まで、ごくありきたりなことをやっている。

しかし何故か時々、ぶっ飛んだ依頼が舞い込んでくる。特殊な能力を持っているわけでもないのに何故そうなるのかはさっぱり分からないが、彼らはとりあえずやってきた依頼を無下に断ることはしない。犯罪に手を貸すことは避けるが、そうでないなら多少危険でもやってやる。そういうスタンスの便利屋だ。

特別な能力もないくせに、なんだかんだで無茶苦茶な状況をほぐしてしまう感じは、なんか面白いという感じです。思いついたオチを活かすために外側の設定が作られているような物語もありますが、まあライトなミステリという体裁を貫いているので、それもまあいいのかな、と。非常にB級感漂う作品で、肩の力を抜いてサラッと読むのにちょうどいい作品だと思います。

両角長彦「便利屋サルコリ」

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人の数だけ「正しさ」があることは理解している。
それでも、出来るだけ、「正義」の数は少なくあってほしい。
人の数だけ「正義」がある世の中は、嫌だ。

正義とは、大きな集団の中で統一的に理解されている正しさだと、僕は思っている。
「大きな集団」「統一的」の定義が曖昧だけど、大体そんな理解だ、ということだ。
大体人は、あまり多くの正義に触れずに生きていける。うまく行けば、たった一つの正義だけに従って生きていけるかもしれない。たぶん、日本人の多くはそんな生き方が出来ているんじゃないかな、と思う。周りを海で囲まれた国土、世界のどこにもない言語圏、基本的には単一民族。信じる宗教や生き方など様々な違いはあれど、日本という国はそういう、比較的単一の考え方で成り立たせることが出来る国だと思う。

世界に目を向ければ、宗教対立、国境紛争、移民問題などなど、様々な正義を持つ他の集団との関わりを考えなければならなくなる。
そういう時、どの「正義」を取るべきか。
僕らは、そういう局面に立たされることが少ない。国全体で一つの正義を共有出来る、という幻想が成り立つと思い込めるだけの地理的・文化的特徴を持っているからだ。
とはいえ、そういう局面に立たされる機会が増えれば、正義を選ぶ判断基準が身につくかと言えば、きっとそうでもないだろう。

この映画の主人公であるケイトも、まさにそんな葛藤に直面しながら、なんとか真っ当な正義を選択しようともがく。

FBIの誘拐即応班のリーダーとして、女性ながら着実に実績を挙げていたケイトは、メキシコの麻薬カルテルが起こした誘拐絡みで、酷い現場を目撃する。結果的に、警官二名が殉職する惨事だった。
そしてケイトは、誰だか分からないお歴々が会談をしている場に呼ばれ、そこで、麻薬カルテルの専任捜査官への打診をされる。組織を超えた任命には、本人の意志が不可欠だ。受けるかどうか問われたケイトは、「今日の事件の首謀者たちを逮捕出来ますか?」と問い、受諾を決めた。マットという、サンダル履きの謎の男と、アレハンドロという、アメリカ人でさえないらしい男と共に、作戦に従事することになる。
ケイトは、メキシコと国境を接するエル・パソに送られると聞いていたが、エル・パソ経由することもなく、そのままメキシコのフアレスに送り込まれた。カルテルのボスであるマヌエル・ディアスの兄であるギエルモをアメリカまで護送するためだ。その任務の最中ケイトは、これまでの常識が通用しない、信じられない光景を目撃する。これじゃ、まるで戦争だ。
『米国人の君には理解できないだろう。きっと、すべてを疑うだろう。
しかしすぐに、すべてを理解するだろう』
ケイトは否応なしに、ルールなき闘いに身を投じることになる…。
というような話です。

これが現実なのか、というのが一番の感想でした。
知識としては、知らないわけではない。メキシコやコロンビアなどの南米を中心に麻薬カルテルが存在することも、アメリカが麻薬取引を壊滅させようと奮闘していることも。しかし、それはあくまでも情報でしかなかった。この映画がどこまで現実を映し出しているのか僕には判断はつかないが、しかしこれは、まさしく戦争だった。そこでは、あらゆることが許容される。この映画を見ていると、何が正義なのか分からなくなる。

ケイトの反応は真っ当だ。彼女は、ルールを遵守しようとし、手続きを踏んで物事を進めようとする。しかし、そんなやり方は、ここでは一切通用しない。利用出来るものはすべて利用し、相手を追い詰めるためならどんな手段も使う。

『毎日メキシコでは、奴の命令で多くの人が誘拐され、殺されている。奴の居場所を知ることは、ワクチンの開発に似ている。それで、多くの人を救うことができる』

ケイトは、真っ当な感覚を持ちながら、多くの人を救うことが出来る、というその理由で、様々なことに目を瞑り始める。そうでなければ、ここではやっていけないのだ。相棒のレジーが、何度もケイトに手を引くように言った。しかしケイトは留まった。

あの凄惨な惨状を生み出した者を逮捕し、多くの人を救い出すために。

ケイトが手を引かないと決めたその判断は正しかったか。それは、とても難しい問いだ。

ケイトが参加したことで、得られた結果もある。しかしケイト自身は、多くのものを失った。しかしそれは、ある意味では、ケイト個人の喪失だ。ケイトの参加によって、結果的に、多くの良い結果も生み出されただろう。ケイト自身が、自分の行動や判断を受け入れ、それまで守ってきた価値観を曲げれば、そこに問題はなくなる。

しかし、人間そう簡単に、それまで生きていく中で培ってきたものを棄て去ることは出来ない。

ラスト。ケイトはある葛藤にさいなまれる。自分がその立場であれば、ケイトと同じ行動を取っただろう。しかし、それは正しい行動なのか。誰がそれを判断出来るだろう。

『小さな街へ行け。まだ秩序が保たれている場所へ』

この映画が現実だとすれば、そして正義だとすれば、僕らはなんてクソみたいな世界に生きているんだろうと思う。まあ、そんなこと、分かっていると言えば分かっている。人生を生きていくということは、そういう傍証を、日々蓄えていくことだとも言えるだろう。また一つ、世界がろくでもないことを示す現実を知ってしまった。

「ボーダーライン」を観に行ってきました

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誰かの属性を好きになるわけじゃない。

どんな容姿をしていて、どんな仕事をしていて、家族はどんなで、何が趣味で、どれぐらいお金を持っていて、どこに住んでいるのか…。
そういうことは、誰かを好きになる理由にならない。好きになるきっかけになることはあっても、それは好きになる理由ではない。

でもみんな、そういう属性ばかり気にしている。

『でも君は、違う世界ばっかり見てたのね』

言葉で、理解したいから。誰かを好きになった理由を、言葉で理解したいから。だから、属性のことばっかり気になってしまう。私があの人のことを好きな理由はこうだと、はっきりと言葉で捕まえられないと不安だから。そういう属性があるから私はあの人を好きになったんだと安心したいから。みんな、言葉で表現される属性を確認しようとする。

でも、そういうのは、なんか違うような気が、僕はしている。

『夜眠る前。朝目覚める瞬間。気づけば、雨を願っている』

相手の属性が分からなくても、誰かに惹かれることはある。それは、一目惚れと呼ばれることが多いし、大抵容姿に惹かれたのだと判断される。まあ、そういう部分もあるだろう。でもそれは、そう考える方が楽だという共通認識があるからだ。相手の属性も知らないまま誰かを好きになったなんて、容姿に惹かれたんだろう、捉えることが分かりやすいからだ。言葉で表示された属性に惹かれるべきだ、という感情が、社会を支配しているからだ。

『本当は、梅雨はあけてほしくなかった』

人はたぶん、もっともっと、言葉では捉えきれない何かで、人を好きになっているはずだと思う。それを何と呼んでも、別に構わない。けれど、言葉で表示された属性を少しずつ引き剥がしていって、最後に残るそれが、誰かと誰かを本当に繋いでいるものなのだと僕は思う。

人を好きになることについて、少し、ロマンを求めすぎているのかもしれないけれど。

「あの人のどこが好きなの?」とか、「どんな人がタイプなの?」みたいな質問が世の中に溢れすぎている。それは、就職の面接の時の回答のように、模範解答があって、それはだから、自分の感覚からどんどんズレていく。言葉にすればするほど、自分が好きなタイプの人の輪郭がぼやけていく。僕には、それらの質問にうまく答えられない方が、人間関係として自然なのではないかと思っている。言葉で捉えられてしまう時点で、それは、本質ではないように僕には感じられてしまう。

『大事なことは言わないで、なんにも関係ないって顔して、ずっと一人で生きていくんだ』

言葉がなくても一緒にいられる関係。少なくとも僕には、それが関係性の一番の理想だ。けれど、何かを言葉に押し込めて、言葉で理解することで安心したい人は、言葉で捉えられない関係を不安定だと感じ、不安になる。だから、言葉で属性を捉え、言葉で関係性に名前を付け、「好き」という言葉を求める。まるで二人の間を繋いでいるものは言葉でしかないかのように、言葉がなければ一緒にいられないかのように、何もかもを言葉で捉えようとする。

『どうせ人間なんてみんなどこか少しずつおかしいんだから』

言葉で余白を塗りつぶした関係性には、もう、どこにも向かう先がない。二人の世界は、どの方向を向いても、全部言葉で埋め尽くされている。本来なら言葉では捉えきれない部分も、この世に存在するなんらかの、一番近似値と思える言葉で塗りつぶしていく。それが恋なのだと、愛なのだと、たぶんみんな思っている。そうしないと、関係できないのだと、思い込んでいる。

あー、窮屈だなぁ。

『あの人に会いたいと思うけれど、その想いを抱えているだけでは、ただのガキのままだ』

若い時は、属性ばかり気にしていた。属性しか、目に入らなかったからだ。言葉でしか、物事を捉えきれないと思っていたからだ。ある程度、それは仕方ないことだ。若さとは、世界の狭さと、ほとんど同義なのだから。

言葉で様々なものを捉えるという訓練をずっと続けてきて、そうしてその結果、僕自身がは、言葉では捉えきれないものに惹かれるのだ、ということに気づくようになった。言葉という武器で捉えよう捉えようとしても、どうしてもすり抜けてしまうものがある。どんなにピッタリの言葉を当てはめようとしても、どうしても近似値であるようにしか思えないものがある。そして僕は、そういうものに強く関心があるのだと分かってきた。

そう気づくようになると、世の中に存在する(つまりそれは、言葉によって存在する)関係性が、ひどくつまらなく思えるようになってきた。元々、名前の付く関係は、不得意だった。家族、恋人、先輩後輩…。そういう関係が、苦手だった。どうしてそうなのか、次第に分かるようになってきた。言葉で名前が付けれてしまう時点で、それは、僕にはどうでもいいものに思えてしまうのだ。

『晴れの日のここは、知らない場所みたい』

そう、そこは、言葉では成立していない、余白みたいな場所なのだ。「言の葉の庭」は実は、言葉ではないもので満たされているからこそ、特別な場所なのだ。

15歳のタカオは、雨の日の午前中は、学校をサボることに決めている。雨の日は、地下鉄を乗り換えずに改札を出て、新宿に広大な敷地を持つ公園の東屋で、叶うかどうか分からない夢を追いかけている。
ある日そこで、年上の女の人と出会う。朝からビールを飲んでいる。つまみは、チョコレートだ。その日からタカオは、雨の日の午前中だけ、そこでその女の人とよく会うようになった。
『できることならそれを仕事にしたい。そう誰かに言ったのは初めてだ』
靴職人を目指し、東屋で靴のイラストを書き続ける少年。
『私ね、うまく歩けなくなっちゃったの。いつの間にか』
スーツを来ていつも東屋でビールを飲む、27歳の女性。

『私はあの場所で、一人で歩けるように練習をしていたの。靴がなくても』

雨の日だけ会える相手との、約束のない逢瀬。モヤモヤした思いを抱えたまま日常を生きる彼らは、お互いの存在を通じて、新たな道を歩んでいく。

凄く好きなアニメでした。
ストーリーも映像も、どちらも素晴らしいと思いました。

ストーリーは、よくあると言えばよくある物語です。もの凄く単純に言えば、男女が出会い、お互いに惹かれ合って、でもそれぞれの事情からお互いに積極的に会うことは出来なくて、そういう障害を乗り越えた先に新しい関係性が生まれる、というような流れです。

よくあると言えばよくあるんですけど、でも、物語や登場人物のディテールが実に丁寧に描かれていくので、非常に奥行きのある物語に仕上がっていると思います。

『晴れの日は、自分が酷く子供っぽい世界にいるのではと焦る』
『はっきりと分かっていることは二つだけ。あの人にとって15歳の俺はただのガキだということ。そして、靴を作ることだけが俺を違う場所に連れて行ってくれるはずだということ』

タカオは、自分の15歳という年齢が気になっている。それは、年上の女性と恋愛することにおいて、という意味ではない。相手に人間として認めてもらう上で、という意味だ。15歳という年齢が、タカオを臆病にする。靴職人になりたいという、本人は叶わないかもしれないと思っている夢を持っていることも、『まるで世界の秘密そのものみたい』な彼女と関わることも、全部。

タカオはとても大人っぽい。とても15歳とは思えない。すでに社会に出ている兄のためにご飯を作り、靴職人というはっきりとした目標を持ち、年上の(とはいえ年齢も知らない)女性ともそつなく会話が出来る。同世代とは、なかなか話が合わないだろう。自分のことを子供だと思わなくてもいいだけの素質が、タカオには十分にある。

しかしそれでもタカオは、自分の年齢に囚われ続けてる。その観点からしか、物事を見ることが出来ない。自分は15歳だから、自分はまだガキだから。そういう卑屈さが、タカオにブレーキを掛けさせる。

『ねけ、私、まだ大丈夫なのかな』
『27歳の私は、15歳の私と比べて、全然賢くない』

ユキノという名前だと後に分かるその女性は、やり場のない思いを抱えている。彼女が何を抱えているのか、具体的なことは後半になるまで分からない。分からないが、しかし、彼女が日常の狭間で見せる様々な断面は、27歳の女性が社会の中で生きていく厳しさみたいなものをじわじわと感じさせる。

しかしそういう姿は、タカオの前では見せない。『まるで世界の秘密そのものみたい』とタカオに思われている彼女。何者でもない自分でいられるその場所で、彼女は、何者かになろうとしてもがいている少年と、言葉を必要としない空間を作り出していく。

それは彼女にとって、窮屈で鋭い牙だらけの殺伐とした日常の中に、ふっと湧き上がった奇跡のような場所だった。雨の日にしか現れないその場所は、大人びた少年が無意識の内に生み出した空間。お互いに属性のない、言葉で飾られていない存在としていられる場所。彼女を傷つけようとする何かが、降り注いでこない場所。

だから彼女は言えなかった。自分が何者であるのかを。言ってしまえば、この空間が壊れてしまうことを知っていたから。

『あれ以来、私、ウソばっかりだ』

梅雨があける頃。その奇跡のような場所は、元のなんでもない場所に戻ってしまう。二人の関係も、そこで終わってしまう。
はずだった。

若さと夢を持ちながら、ガキであることを後ろめたく思う少年と、若さも夢も失いつつ、大人であるという幻想を見せることで少年からの眼差しを手に入れる女性。お互いに相手をそうは見ないけど、お互いの精一杯がギリギリのバランスで保たれていた場所で、二人は、未来へと向かって歩き出す力を蓄えていく。

言葉を費やさず、細かな描写を重ねることで、彼らの心情や変化を的確に切り取っていく感じが実に見事で、要約すれば単純に思える物語を惹きつける物語に見せている。

そして、映像の美しさもまた、このアニメ全体の世界観を左右する大きな要素になっている。

まるで実写のよう、というと少し言い過ぎだが、ふとそう思わせるような繊細さがこのアニメにはある。そして、実写を超えている部分さえあると僕は感じた。

木々の緑、雨で煙る空、環境光を反映する人物、新宿の様々な街並み、本。そういうものが、それまでのアニメでは見たことがないような精度で描かれていく。駅の表示板や本の中身など、そこまで描くか、というほどリアルに描かれていく。作中で登場人物が本をパラパラめくり、あるページに目を留める、というシーンがある。このシーン、恐らく一時停止すれば、ページに書かれた文字が正確に読めるように描写されていると思う。教室の机に置かれた本も、本棚に置かれている本も、何の本か分かるくらい正確に描写されているし、ユキノが飲むビールやペットボトルのジュースに至るまで、どのメーカーの何であるかがはっきり分かるほど描き込まれている。

とはいえ、ただそれだけであれば、アニメを実写に近づけようとする(しかし絶対に実写には届かない)努力でしかない。

しかし僕は、アニメだからこそ実写を超えることば出来る部分があるのだ、と感じたシーンがある。

その前に浮世絵の話をしよう。浮世絵に詳しいわけではないが、洒落のあの有名な、歌舞伎役者を描いた浮世絵について、こんなことを聞いたことがある。あの歌舞伎役者の手は、実際よりも小さく描かれている、と。そのために、顔の迫力みたいなものがより強くなって印象深くなるのだ、と(正確には記憶していないから、間違いかもしれない)。

実写は、実際にあるものを写る通りにしか切り取れない。しかし絵であれば、様々な技法によって、強調したい部分をより強く印象付ける工夫をすることが出来る。

僕がそれを感じたのは、雨が地面に落ちて飛沫が上がるシーンだ。
実際にカメラで撮っても、雨が地面に当たった時の飛沫は、あそこまでダイナミックではないと僕は思う。しかしこのアニメの中では、雨が重要なモチーフであることもあるのだろう、雨が地面に当たって飛沫を上げる場面が、とても強調されて描かれていたと僕は感じた。作中の緑の描き方も非常に印象的だったけど、この地面で飛沫を上げるシーンが、映像的に一番印象的だった。

このアニメでは、雨が本当に印象的に描かれている。作品全体のモチーフとして非常に重要な雨。それを、アニメだからこそのやり方で非常に印象深いものとして観客に提示している。これだけ実写に寄せたアニメにするなら、いっそ実写でもいいのではないか、と思う自分もいないわけではない。しかし、アニメだからこそ出来るやり方で、重要なモチーフである雨を描き出す。その一点だけでも、この物語がアニメで描かれているという意味があるのではないか、と僕は感じました。

46分という、劇場で公開するものとしてはとても短いアニメながら、非常に印象深い物語と映像でした。

「言の葉の庭」を観ました

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メチャクチャ面白かった。

わからないこと、というのは必要だ。何もかも分かってしまう世界を、僕は望まない。
未来が分からないから、人間は生きていける。明日の夕飯に何が出るのか、半年後彼女が出来ているかどうか、5年後今の仕事を続けているかどうか。30年後どんな風に年を取っているか。僕らには知りようがない。知りようがない、という事実が大事なのだと僕は思う。

明日の夕食程度のことなら別にいい。半年後に彼女が出来ているかも、まあいいだろう。しかし、5年後、30年後の自分の姿をもし正確に突きつけられたらどうだろうか?その5年後、30年後に至る自らの軌跡をすべて知ることが出来るとしたらどうだろうか?
悪い未来だったら、最悪だということは想像出来る。しかし、5年後、30年後の未来予測が仮に素晴らしいものであったとしても、それは同じぐらい最悪なことだと思う。これからの5年間、30年間が、すべて分かってしまうのだ。自分がどんな行動をし、自分の身に何が降りかかり、どんな風に時間が過ぎていくのか分かってしまったとしたら。

それはもう、生きている意味を失ってしまうのではないかと思う。

そんな完璧な未来予測は、まあ恐らく実現不可能だろう。かつて、物理学でまだ量子論が発見される前、古典物理学の世界では、決定論という考え方が存在した。例えば、手に持ったボールを離す。その時の初速度、落ちる角度、空気抵抗、風速、その他もろもろすべての要素を知ることが出来れば、手を離した瞬間に、そのボールがどんな速度でどんな軌道を取って進むのか分かるはずだ、という考え方だ。初期条件さえ分かれば、その後の挙動すべてが計算できるはずだ、という考え方だ。

その後量子論が登場し、有名な不確定性原理が発見された。これは、速度と位置は同時に正確に測定不可能だ、ということを明らかにした。初期条件さえ分かれば、というその初期条件がはっきりとは分からない、ということが分かってしまったのだ。しかしこれは、原子などのごく小さな物質の世界で起こる出来事だ。僕らが生きている世界にある、例えば自動車の位置と速度は、同時に正確に測定出来る。

しかし一方で、カオス理論というものが登場する。これは、初期条件がほんの僅か違うだけで、結果が大幅に変わってしまう現象ことだ。どんな現象がカオス理論に支配されているのか、僕は詳しくは知らないが、世の中のあらゆる場面でカオス理論は顔を出す。

このカオス理論の登場により、決定論の考え方は苦しくなった。初期条件がほんの僅か違うだけで結果に大差が出るというなら、初期条件から未来を予測することは難しいことになる。

例えば、バタフライ効果というものを聞いたことがある人はいるだろう。北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる、というアレだ。これもカオス理論の一つだ。まさに気象の世界は、カオス理論に支配されていると言っていいだろう。

現在、天気予報というのは、スーパーコンピュータによって行われている。地球全体を無数の細かな立方体に分割し、それぞれの立方体内での変化を計算し、全体を統合して天気を予測している。しかし、天気予報は必ず当たるわけではない。カオスの壁に阻まれているのだろう。

しかし、もしかしたら、と考えることもある。この限界は、処理能力の限界に過ぎないのではないか、と。現存するコンピューターの処理速度が、カオスの壁を突破するのにまだまだ遅いだけであって、いずれカオス的な挙動もすべて計算し尽くすことが出来るコンピューターが登場し、僅かな初期条件の差も考慮に入れた完璧な未来予測が出来てしまうのではないか。

そんな妄想を物語に組み込んだのが、本書である。

舞台は、2020頃の東京。中谷は、オリンピックを控え、建て替えられている新国立競技場の建設現場で働いている。現場に、70歳は超えているだろう「おっさん」と呼んでいる作業員がおり、若手の作業員から使えないと常にちょっかいを出されていた。中谷はそんな場面を見かける度におっさんに手を貸していた。
ある日おっさんが辞めることになった日、いつものようにノミ屋が二人の元へとやってきた。中谷は競馬はやらないが、おっさんは普段から、少額ではあるが万馬券狙いの掛け方をしていた。おっさんは、当たったとしても払戻金を受け取れないにも関わらずまた万馬券狙いの掛けをして、もし当たったら中谷にやる、と言って去っていった。
そしてこの万馬券が、なんと当たるのである。
おっさんが消えた一時間後、工事現場で爆音がし、工事が中止になった。X線調査により、建物の基礎部分に爆弾が仕掛けられていることが分かった。そして、中谷の預かり知らぬところで、とんでもない事態が起きていた。
爆弾を仕掛けた脅迫者は、政府に対して要求を出した。それがなんと、中谷が買った万馬券が当たりになるよう、八百長をしろというものだった。政府は大急ぎで手はずを整え、警察は犯人確保の準備を整えた。
が、空振りに終わる。
突然大金が転がり込んできた中谷は、難癖をつけて金を吐き出させようとするヤクザを振りきってとある高級ホテルへと逃げこむことに成功する。
なんとその部屋に外線が掛かってくる。自分がここに逃げ込んだことを知っているものなどいるはずないのに…。
それが、おっさんとの再会だった。おっさんと再会した中谷は、「エアー2.0」という、おっさんが開発した未来予測を可能にするシステムを使って、新たな社会秩序を生み出す大きな渦に巻き込まれていくことになり…。
というような話です。

繰り返しますが、メチャクチャ面白い作品でした!久々に、骨太で手応えのあるエンタメ小説を読んだなぁ、という感じです。

とにかく作品のリアリティが凄い。

先に書いておくと、僕は社会情勢とか経済の知識などには非常に疎いので、そういう方面の知識に乏しい人間が感じるリアリティです。だから、そういう知識をふんだんに持っている人が読んだらどう感じるのかそれは分かりません。ただとにかく、作品の中で醸し出すリアルな雰囲気は凄いなと感じました。

この物語の中心には、「エアー2.0」という、恐らく現実には実現不可能なレベルのシステムが存在します。しかし、本書でリアリティがないのはこの「エアー2.0」というシステムだけです。それ以外のリアリティが半端ではない。「エアー2.0」という架空のシステムを僕らが生きている世界にぶち込んだ時にどんなことが起こりうるか、ということを考えに考え抜いて生み出された世界です。

まず、中谷とおっさんを中心とした、「エアー2.0」を開発した側の物語。基本的に、ここが物語の核になっていきます。中谷は基本的にある種の傀儡であって、新システムの構想・構築・運用まですべてを担っているのが、杉原と名乗るおっさんです。中谷は、現場作業員という立場から一気に、日本を、そして世界を変えうるかもしれない新しい経済システムの構築を推進する人物へと転身することになります。

おっさんは何者で、何を目指しているのか、というのは最後まで読まないと分からないし、最後まで読んでも分からない部分は残ります。なので、おっさんの思想めいた部分は、作中にはほとんど登場しません(謎かけのようにほのめかす場面は多々ありますが)。

一方で、中谷の思想は時々現れる。

『閉塞した空気がじわじわとこの国を満たし支配しはじめていて、中谷はときどき名伏しがたい苛立ちを覚え、なぜだと心の中で叫んだ。』

中谷というのはなかなか面白い人物で、金にそこまで執着を持たない。それは、おっさんと再会し、とんでもない大金を動かした後だから、というわけではない。そうなる前から中谷は、金というものに特別な執着を持たない。

『俺はさ、肉体労働ってのは嫌いじゃない。自分の力で土と掘り返したり埋めたりしてると、少しずつなにかデカいものが建っていく、そういうのは楽しいんだ。でも、あんたのやっていることにはそんな実感がないじゃないか』

金に執着がないだけでなく、労働というものに対する考え方も持っている。金のためにも働いてはいるが、しかし、体を動かすことが好きなんだ、と。震災をきっかけに故郷の福島を離れ東京にやってきた中谷にとって、肉体労働で金を稼ぐというシンプルな生き方が合っているようだ。

だからおっさんから選ばれたとも言える。

『けれど、現実には、金がこの世の中を規定してるんだよな。世界のすみずみまで科学が説明をし、気持ちよさげなものをどんどん作って、それに大量の金がつぎ込まれてる。(中略)でも、それだけだと、基本的には原発と同じだ。つまり科学と金で回っているシステムだ。そこに俺たちもいやおうなしに巻き込まれている。ただ、俺たちの生が金と科学とでガチガチに決定づけられているってのはどうなんだろうか。俺はいやだな。金と科学の上になにかもっと大きなものが必要なんじゃないかって思うわけなんだ』

中谷はそんな風にロマンを語る。こういう人は好きだ。金と科学がシステムを規定している。確かにその通りだ。その中にうまくはまり込めば幸せに生きていける。そんな風なレールが敷かれていることだってある。でも、そのシステムを蹴飛ばして拒絶する人間が、どんな時代にも一定数いる。そういう人たちはそれぞれの時代で、違和感を持つ者と見られてきた。皆が当然だと感じている、「信じている」という意識さえないまま採り込んでいる常識や価値観を無視して、自分が自然だと感じる生き方を選択する人は、凄く好きだ。

『今の中央銀行制度と税制は、巨大資本と国家権力による詐欺のシステムだ。人々は、本来得られるはずの利益を不当に搾取されているんじゃないかな』

『銀行にとっては危険ですよ。きちんと融資しないで株と国債ばかり買って金利で儲けて、中小や零細には貸しはがししたりしてるって実態がバレちゃいますからね』

今の世の中の仕組みがなんかおかしい、と感じている人は多くいるだろう。残業をしまくっても賃金は上がらず、子供を育てる環境は整わず、社会保障も逼迫している。そのくせ、税金はどんどん高くなっていく。しかもよく知らないけど、金持ちは優遇されているようだぞ。システムのどこにどんな欠陥があるのか指摘出来なくても(僕も出来ない)、そういう漠然とした違和感みたいなものを感じている人は多くいるだろう。

本書では、おっさんが開発し中谷が宣伝に務めている「エアー2.0」が、そんな閉塞した実態を暴き立てていく。彼らは、巨大資本と国家権力が搾取できないシステム、誰にとっても公平で合理的な仕組みを構築するために、何重もの仕掛けを敷き、準備を続け、行動を起こしてきた。彼らの運動が、もし現実に起こった場合、その是非は長い時を経なければ判断出来ないだろう。ただ少なくとも、風穴を開ける役割を果たすことは出来る。僕らは、人類の様々な歴史を照らし合わせ、資本主義と共に生きていく決断をした。しかしその資本主義も完璧な仕組みではない。もし「エアー2.0」を中心に据えた、彼らが構築しようとしたシステムが資本主義の代わりとなるより高位のシステムであるとすれば、なんとしても「エアー2.0」を開発してもらいたいと思う。

しかし、「エアー2.0」は、魔物とイコールでもある。使い方を間違えれば悲惨な結果を生むだろう。今回「エアー2.0」は、おっさんと中谷という、金銭的な欲望に頓着しない者によって生み出され運用された。だからこそ、「エアー2.0」の持つ可能性を引き出すことが出来た。もし別の価値観を持つものが「エアー2.0」を手に入れたらと思うと…恐ろしくて仕方ない。

さて物語は、様々な者を巻き込んで展開していく。新国立競技場の爆破未遂を追う警察、「エアー2.0」を中谷らから借り受けるような形で手に入れた政府(政府にも、中谷らに賛同する者と反抗する者がいる)、中谷らを追うマスコミ、中谷らの計画に乗って様々なプロジェクトを進行させる人々。「エアー2.0」から始まった社会のうねりは、瞬く間に日本中を飲み込む勢いを見せ、社会の構造を変えうる可能性を持ち始める。政府は、詐欺的なシステムの露見を恐れて手を打とうとするし、政府に追従するマスコミは彼らを叩こうとする。正義なのか羨望なのか、中谷らの行動に憤慨するものも現れる一方で、彼らが提示する新たな可能性が、震災と原発事故を経験した日本に新しい風を吹き込んでいく。新国立競技場の建設現場から始まった物語がどう展開し、どう帰結を迎えるのかは是非読んでみて欲しいが、とにかく凄いとしか言いようのないリアリティとリーダビリティに溢れた物語だった。

「エアー2.0」がもし存在したら、と考える。いや、この想像の仕方は、たぶん間違っている。何故なら、本書で描かれている通り、もし本当に「エアー2.0」が存在するとしたら、その存在はほとんどの人間に秘されるだろうからだ。だから、今まさに日本のどこかで「エアー2.0」が稼働している可能性だってある。僕らは永久にその事実を知ることはないかもしれない。

今もし「エアー2.0」が存在するとしたら…。しかしそれでも、僕らの生活はきっと何も変わらない。中谷らのように、「エアー2.0」が生み出す富を還流させる仕組みを構築する人物がいれば別だが、そうでなければ、「エアー2.0」の存在を知らない人間にはなんの恩恵もない。そう考えると、なんだか虚しいような気持ちにもなってくる。

未来は、分からない方がいいと僕は思う。未来は分からないから生きていけるのだ。けれど本書のように、未来を知るということを手段として、現在の腐敗したシステムに変わる新たな仕組みを構築出来る可能性があるなら、「エアー2.0」は存在してもいい。僕は、それに触れる機会があっても、自分の未来を知ろうとは思わないけど。

閉塞感に支配された現代の日本を実にうまく切り取りながら、「エアー2.0」という架空の存在をリアルに描き出すことで、生き方の新たな選択肢を提示する。社会を鋭く批評する内容でありながら、先の展開が読めないスリルのある物語でエンタメ作品としても良質だ。生きるとはどういうことか、そして社会の中で生きるとはどういうことかを改めて突き詰め、自身が崩壊したシステムの中に囚われているだけの存在であることに気がつくことだろう。僕らが今、結果的にしがみついているシステムは、本当にそれなしでは生きていけないのか。人間が生きていくのに本当に必要な仕組みとは何なのか。様々に考えさせる実に見事な作品だと感じました。

榎本憲男「エアー2.0」

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『いつから、セックスが夫婦の義務になりかわり、することにもしないことにも言い訳が必要になったのだろう?それにはじまりはあったのだろうか?あったとしたらいつ、何がきっかけだったのだろう?ある一言、ある表情、ある一瞬の目の動き。もしかしたらそんなものだったのかもしれない。よく気をつけていれば避けられただろうか?あるいは、すぐに気づいて修復すれば今のようにはならなかっただろうか?』

僕は、昔から結婚に興味はなかったが、最近では恋愛やセックスにも関心がなくなってしまった。だから、この物語で突きつけられる問いは、一生自分に向くことはないだろう、と思う。しかし、自分なりに想像してみた時、もし結婚したら、僕もセックスレスになるだろうなぁ、と思う。

でも確かに、それは何でなのだろうか?

『たしかにあの頃から、セックスの回数は減少していて、その状況は加速しつつあった。理由は単純で、面倒くさくなったのだ。実際のところ、どうしてあれは肝心なことをするまでにあんなに手順がかかるのだろう。今夜はしよう、と決めたら、まずそれこそ思わせぶりなひと言、でなければ軽い接触で妻にその意思を伝え、同意が得られればこれまた思わせぶりに順番に入浴、ようやくベッドに入っても、挿入するまでにさらにひと手間もふた手間もかけなければならない』

…確かに、それはめんどくさいだろうなぁ。

恋愛をしている時だったら当たり前だったセックスが、どうも結婚すると当たり前のものではなくなってしまうようだ。確かに、そういう話は、色んな人から聞くことがある。実際にそういうものなのだろう。

他人から聞いた話だが、女性は妊娠すると何らかのホルモンが出て、異性を敵とみなすようになるという。異性との恋愛が出来ないように身体が防御に入るのだと。夫ぐらい勘弁してやれよホルモン、と思うが、そうもいかないようだ。そうやって、妊娠を経ることで、夫婦というのはセックスレスになるのだろうかなぁ、と想像している。

『ずっと恋人同士だった二人が今日から夫婦ですよといわれても、どうしていいかわからなかった。だから見よう見真似でやってきた。ずっと真似し続けてきた感があるが、その是非はともかくとして、うまくやれていたと思う。だが、あるときから、それまでの努力がふいになった。二人はセックスしなくなってしまったのだ』

昔はどうだったんだろう?そもそも恋愛結婚が少なかっただろうし、なんとなく、男女が頻繁にセックスをしているイメージがないから、「セックスレス」なんていう問題は存在しなかったのかもしれない。結婚へと至る道が次第に恋愛を経由するようになり、「セックスを日常的にする関係性」から結婚に至るようになったがために、「セックスレス」が問題になったのかもしれない。

そう考えると「セックスレス」はそもそも問題なのか?という疑問が浮かぶが、現代においては問題であるようだ。以下は、香山リカの解説からの引用だ。

『たとえ、仕事で誰からも賞賛されたとしても、子育てがうまくいって子どもたちが一流大学に入ったとしても、あるいはその人が六十歳であっても七十歳であっても、「私を求める男、私のからだにさわりたいと思ってくれる男はこの地球上に誰ひとりいない」という意識は、女性を孤独に追い込み、自分の価値を見失わせる』

ということらしい。なるほど、分かるような気もするし、分からないような気もする。すべての女性がそう感じているわけでもないだろうが、そう感じる女性が多くいるからこそ「セックスレス」が問題になるのだろう。

作中で主人公の一人もこんな風に言っている。

『夫から求められないことで悲しんだり悩んだりするのは、ずいぶん前にやめてしまった。自分にはもう女としての魅力がないのじゃないかと悩んだこともあったけれど、今はもうそんなふうには考えない。なぜなら私は、私に向かってちゃんとかたくなる男を知っているからだ』

少なくともこの主人公にとって、「私にむかってちゃんとかたくなる男」がいるという事実は、自分の存在にとって大事であるらしい。

しかしそうか、今書いてて思ったけど、となるとこの点に関して言えば、やはり男の方が不利なのだなぁ、と。男の場合、「かたくなる」か否かというはっきりとした証拠が存在するが、女性の場合それに対比出来るようなものはちょっと浮かばない。女性の方は、いくらでも言葉でやり過ごすことが出来るのだなぁ、と。
まあ、男側としても当然、次のような意見に賛同したいわけだけれども。

『萎えてしまったことが、新居に越した頃から一、ニ度あって、「私のこと、もう愛してないの?」と涙まじりに責められた。こういうことは愛とは無関係であるとどうしてあいるにはわからないのだろう。愛していたって萎えるものは萎えるのだし、愛していなくたってかたくなるときはかたくなるだろう。これは愛とは無関係なんだ。』

うむ。その通りである。

僕は、個人的な意見でいえば、セックスと結婚(あるいは、セックスと恋愛)は分けてしまえばいいのではないか、と思う。極論で、賛同者はほぼいないだろうけど。

愛しているからセックスをする、という考え方を取り去ってしまえばいいのではないか、と思う。僕は少し前から、この人とは深く関わりたいと思う相手とはセックスをする関係にはならないぞ、と決めている。セックスは、深く関わりたいと思えない相手、つまりどうでもいい相手と出来たらいいなぁ、と思っている(もちろん、そんな状況はそうそうないから、つまりセックス自体を諦めるか、という結論に向かっているのだけど)。体の関係がない方が、人間関係がよりシンプルになって、距離を縮めやすくなるんじゃないかと思っている。

恋愛だろうが結婚だろうが、別にセックスとセットにする必要はない。確かに、子どもを作る上ではセックスは必要に思われるが、現代の技術を持ってすれば別にしなくても子どもは作れるだろう。そこまでしなくても、「子どもを作るためのセックス」というものに限定すればいい。恋愛だから、結婚だからセックスをする、という考えさえ捨ててしまえれば、「セックスレス」なんていう問題は存在しないことになると思うのだけど、どうだろう?

まあ、賛同を得られないことは分かっている。でもまあ、考え方一つであることは確かだと思う。結婚したことのない僕が言うのもなんだが、ずっと一緒に暮らしていて、表の顔も裏の顔も日常的に見ている相手と、ずーっと継続的にセックスが出来る、という状況(あるいは関係性)というのは、純粋に凄いなと思ってしまう。夫婦になって一緒に暮らすようになれば、そりゃあ相応にセックスは減るでしょうよ、と思ってしまう。もしその状態が自然であるとすれば、「セックスレス」が問題だと思えてしまうのは、セックスによって愛された記憶があるからだ。恋愛から結婚に進んでしまったからだ。だったら、恋愛の時からセックスを排除してしまえば、問題は解決するんじゃないかな。

なんて思ったり。

『性欲のためだけじゃないんだ。夫婦間において、ようするにセックスは第二の会話みたいなものなんだ』

うーん、そうかしら。相手に関心を持つ行為の一つがセックスなだけであって、相手に関心を持ってそれを表に出すことが出来るなら、別にセックスじゃなくてもいいんじゃないかな?

内容に入ろうと思います。

袴田伽耶と匡は、結婚して15年。今では立派なセックスレスだ。お互いに恋人がいる。そしてそのことに薄々気づきながら、夫婦という形を崩さないように日々を過ごしている。
ある日伽耶は匡に言う。
「あなた、恋人がいるでしょう」
その瞬間、夫婦という枠を踏み外さないように過ごしてきた15年間が一気に反転する。伽耶の恋人・星野誠一郎、匡の恋人・逢坂朱音も巻き込みながら、彼ら4人は奇妙な渦の中に放り込まれることになる。
朱音は匡より大分年下で、28歳。鍼灸師をしている。匡が彼女の診療所に行ったことで付き合いが始まった。朱音は、奥さんと別れて欲しいとかそういう面倒なことを言わない。匡は年若い朱音にぞっこんだ。しかし、妻にバレていたという事実が匡を動揺させる。あいつは何を企んでる?あいつだって、恋人がいることを認めただろ。
誠一郎は、伽耶の大学時代の同級生(浪人しているから歳は伽耶の二個上)で、元カレだ。匡とも面識がある。売れない漫画家で、学生時代に匡をモデルに漫画を書いたことがある。朱音にぞっこんの匡と比べれば、伽耶と誠一郎の関係は穏やかと言える。
伽耶は、結婚しているのにお互いに恋人がいるというこの状況をなんとか打破したいと考えている。打破した結果どういう方向に進むのか、明確には捉えていないが、とにかく現状は嫌だと考えている。匡は現状に不満があるわけではなく、朱音に妻公認で会える状況を楽しんでいるが、そんな何も考えていない匡に現実を理解させるために、伽耶はハチャメチャな言動を繰り出すことになる。「現状をどうにかしたい(なんなら夫ともう一度ちゃんと関係を築き直したい)」と思っている伽耶と、「妻のハチャメチャな言動の裏側を読もうとしてスレ違いまくる」という悪循環に陥る匡の、お互いの恋人を巻き込んだ奮闘の記録である。

かなり面白い作品でした。僕は結婚しているわけではないので、「あー、分かる分かる」という感じになることはないのですが、夫婦の間の微妙な感覚を、ちょっとした描写で実にうまく浮き彫りにしていて、重苦しい話ではない、どちらかと言えばコメディタッチの物語なのに、なかなか深い事柄を描いているなぁ、と感じました。

『あなたには恋人がいて、私にもいて、それなのにタマネギ入りのパン焼いたりとか、楽しみにしてるよとか、風呂入るからとか、そんなのっておかしいと思わないの?私たちこれからどうなるの?どうしたらいいの?』

伽耶のこの発言に対して僕は、女性って面白いなぁ、という感覚を抱きます。伽耶のこの発言は、僕の女性全般に対するイメージに一致します。それは、自分を棚上げする、ということです。

伽耶にも恋人がいる。だから伽耶も匡も、立ち位置的にはどっこいどっこいだ。しかし、何故か匡だけが責められている。女性の側としては、「私はこの状況に対して頭と時間を使って悩んで考えている」「それなのに夫は全然考えてくれない」「だから私には夫を責める権利がある」という思考回路なんだろうとは思います。でも僕(あるいは男全般)からすれば、おいおい、と思ったりします。「悩んで考えている」かもしれないけど、でもそれ表に出してないじゃん。悩んだり考えたりしているそぶりが見えれば、自分が責められる状況は理解できるけど、そんなそぶりはない。考えたり悩んだりしているそぶりがないのは俺だって同じなんだから、じゃあもしかしたら俺だって実は考えたり悩んだりしてるかもしれないじゃないか。なんて風に僕(あるいは男全般)は思います。

似たようなことを感じる場面は他にもあります。

『そして心はどうしようもなく匡を攻めていた。サラダ油を入れればいいじゃないかと行った匡をさっき責めたように。どうしてあのひとは「うん」なんて言ったのかしら。あのひとが反対してくれれば、私はキャンプを中止することができたのに』

これは、お互いの愛人も含めて4人でキャンプに行こうと「伽耶」が提案し、匡が了承したことになった、という場面の後で伽耶が内面の描写だ。

僕(あるいは男全般)からすると、は???という感じの思考だなぁ、と思います。ちょっと待て、と。そっちが行きたいって言ったんだろう、と。男の側からすれば、何を企んでいるのかさっぱり分からないけど、少なくともNoとは言えないだろう。妻が行きたいって言ってるんだから。ここでNoと言えば、それを何か疚しいことがあるからじゃないのか、みたいな勘ぐりをされる可能性だって検討するだろう。だから、Yes以外の選択肢はないのだ。

それなのにこの妻と来たら、どうしてNoと言わないのか、と夫を責めるのだ。おいおいそりゃないぜ、と僕(あるいは男全般)なんかは思う。

でも、女性って、結構こういうこと言うんですよね…。あー女だなー、と思うような、実に女らしい描写が色んな場面であって、わかるなー、と感じました。

同じことは、女性が読んだ場合の匡の描写に対しても感じることでしょう。男ってこういうこと言うよね、うわー男ってやだわー、みたいな描写がきっと色んなところに散りばめられているのでしょう。男である僕はそれがどういう部分なのか自分では分からないけれど、きっと本書には男のそういう描写も実にうまく描かれているのだろうな、と思います。

関係性の描写もとても巧いです。例えば、飴の話。
「飴あるよ」
車内で匡が発したこの言葉だけから、伽耶は、匡と朱音の関係性を推し量る。それは、なるほど確かにそうだよなぁと思わせる説得力のある推量で、こういう部分の女性の観察眼みたいなものは凄いなと思うのです。

あるいは水着の場面。

『タダツマだろうが誰だろうが、女が二人同じ場所に居合わせれば様々なレヴェルでの「戦い」が発生するのは世の理で、そうだとすれば朱音の信条として、勝利を目標にするのは当然のことだ。そして相手がタダツマならば、そしてとくにこの分野(水着、カラダ)ならば、完膚無きまでに大差をつけて勝利したい、と思うのも自然だ、と朱音は自分に確認する』

キャンプにやってきた4人は水着に着替えて海に入ろうとするのだけど、その際の朱音の思考だ。40歳を超えている伽耶に対して圧勝したいと思う28歳の思考。男同士なら、社会的地位とかそういう戦いになるだろうけど、女性は戦いのステージが違う。さらに、ただ女というだけではなく、一応、一人の男を間に挟んでやりあっている関係なのだ。これもまた、関係性をうまく描き出している場面だと思う。

そういう、男女の違いや関係性なんかを絶妙な描写で切り取っていくやり方で、夫婦という、基本的な関係でありながら複雑で奥が深いものを見事に描き出していく。結婚して15年。既にセックスレス。子どもがいるわけではないので、父親・母親という役割もない。既に夫・妻という役割は板につきすぎていて、あまりにも日常になりすぎていて変化がなさすぎる。お互いへの関心を取り戻すタイミングも、どこかで見失ってしまったようだ。そういう、僕の勝手な想像では日本全国あらゆる場所に存在するだろう夫婦のあり方を、シリアスにならないように描き出す。

恋人も含めた4人えキャンプに行く、という展開はちょっとハチャメチャ過ぎて、僕らの日常とはかけ離れているように感じるかもしれないけど、そこにはある種の願望も潜ませているのだろう、という気はする。「自分には、自分を求めている異性がいるのだ」ということを相手に知らせたい、という願望が。現実にそれをやれば、夫婦生活が破綻してしまう。どちらも、それは望んではいない。だから実際には出来ないのだけど、でももしそれをやってみたらどうなるんだろう…という、みんながやりたくても出来ないことを物語の中で代わりにやってくれている。そんな印象を受けた。だから、4人でのキャンプというのは非日常的な設定ではあるのだけど、それをあまりに飛躍した展開だと捉える人は少ないのではないか、と思う。自らの願望にブレーキを掛けているだけで、そうしたいという気持ちが多くの人の内側に眠っているように思うから。

『伽耶はいやになった。どの匡も伽耶の記憶の中の匡、伽耶がかつて知っていた匡だったから。そいう匡をとても愛しく思っていた。でも、今の匡はもう違う。そういう匡は、今はもうあの娘の前だけにあらわれるのだろう。伽耶の前にはついぞあらわれない。あらわれないのに、記憶の中だけに残っているなんて理不尽このうえない』

この物語は、基本伽耶が中心となって動いていく。ある意味で他の3人は、伽耶に振り回されている、と言える。しかしその伽耶が、一体匡とどうなりたいのかという点が、読んでも読んでもはっきりとは描かれない。女性が読めば、伽耶は当然こう思っているはずだ、ということが分かるのかもしれないけど、僕には伽耶の気持ちははっきりとは掴みきれない。僕は、伽耶は成り行きに任せようとしているのだろう、と思って読んでいた。とりあえず、状況を動かすだけ動かして、行き着いた結論を受け入れようと思っているのだろう、と。

だから、夫に対する愛着を感じさせる描写もあれば、夫に対する愛想を尽かしたと感じさせる描写もあるが、先に引用したこの場面は、確かになぁ、と感じた。かつて自分が愛した姿が、自分に向けられることはない。別の人の前でしかあらわれない。本書のような状況にでもならない限り、伽耶が感じたこの諦念を実際に感じる機会はそうそうないだろう。でも、伽耶が感じた悲嘆みたいなものは、なんか凄く分かるような気がする。

伽耶と匡はそれぞれ、恋人とはどういう関係に落ち着くのか。夫婦はどんな結論に至るのか。どう転んでいくのか分からない不安定な展開を追いながら、彼らの、そして自身の夫婦関係について考えてみてください。夫婦って難しいんだなぁ、と改めて思わされました。

井上荒野「それを愛とまちがえるから」

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内容に入ろうと思います。
蒸気機関を主な動力源とする大都市に暮らすエマ・ハートリーは、空中戦<極光号>の船長であるタイガーを父に持つ。<極光号>は、エーテル推進機という、蒸気機関、歯車式思考機械に次ぐ、世界を一変させる発明によって誕生した。宇宙にあまねく存在するエーテルという物質に作用することで、宇宙空間の長距離航行が可能になるというものだ。このエーテル推進機を搭載した<極光号>の登場により、地球外の惑星の探査が可能になった。しかし、幾度か<極光号>が地球に帰還しなかったというきな臭い噂もある。
新聞記者が記事を楽器の演奏に載せて送ったり、特殊鋼製の送気管を疾駆する圧搾空気推進超特急など、蒸気機関をベースとした様々な技術が彼らの生活を向上させていた。
エマは、久々に地球に帰還する父を迎えに港へと向かったが、どうも様子がおかしい。<極光号>内で何か起きたようなのだ。エマは、幼なじみであり、<極光号>の出航に尽力したファニーホウ地理学基金を創設した一家に属するサリーの振りをして<極光号>の船内に潜り込むことに成功した。
中にあったのは、謎の繭状の物体だった。そして、結果的に、エマがその繭に近づいたことで、その繭が内側から開き、中から全裸の男の子が出現したのだ。
ユージンという名だと後で分かることになるその少年とエマは、色々あって、随一の名探偵であるバルサック・ムーリエの事務所で見習いをすることになった。どんな事件も解決する私立探偵でありながら、犯罪の博物学者・科学者・探検家と、様々な分野で重要な功績を残している、みなのあこがれの人物だ。ムーリエ氏と共に犯罪現場に赴くようになるエマは、そこで、まったく理解不能な不可解な犯罪を目撃することになる…
というような話です。

これはなかなか凄い物語でした。よくもまあこんな設定を作り上げて、こんな風に物語を着地させたな、という驚きに満ちた作品です。SF的な設定を綿密に作りこみ、丸ごと一つの歴史を作り上げてしまうぐらいの世界観の中で、本格ミステリをやるというのは、相当困難だっただろうな、と思います。よくぞその高いハードルに挑戦したものだ、という感覚が非常に強くありました。
正直、フェアかどうかで言えば、難しい部分はあります。僕自身は、ミステリを読んでて、そこまでフェアかどうかに関心がないので、まあいいんじゃないかと思います。ただ人によっては、これはちょっとフェアではないだろう、と思う人もいるかもしれません。確かに本作は、「さぁ、犯人は誰でしょう?」的な、読者への挑戦スタイルの作品にすることは出来ません。謎解きに必要な情報を予め提示するわけにはいかないからです。しかし、そこを実に上手く隠し、それを隠すために世界をより細密に作りこみ、そうやって組み上げていった世界の中で、読者にとんでもない構図を提示し驚愕させる、という点に重きを置いているというだけです。フェアかどうかにこだわり過ぎずに楽しむのが良いのではないかと思います。

正直、序盤は、読み進めるのがちょっと辛いかな、と感じました。元々僕はSFやファンタジーのような、世界観が丸ごと僕らが生きている世界とは違う設定の物語というのは得意ではありません。基本的に映像喚起能力が欠如しているので、どんな本を読んでいても頭に映像は浮かばないのですが、普通の小説であればそれでもさほど問題はありません。しかしこういう異世界の話の場合、自分の映像喚起能力のなさのせいで、うまく物語の世界観を掴めないので、しんどいなと思ってしまいます。

本書も物語の冒頭はそういう印象を受けました。蒸気機関がメインの動力であるという設定をリアルにするために様々な描写が登場するのですが、基本的にどんなものなのか想像することは出来ませんでした。

ただ、そういう設定の部分をとりあえずやり過ごしてしまえば、後は物語はスイスイ進んでいくのではないかと思います。少女が少年と出会い、天才的な名探偵が登場し、謎めいた事件が発生し、さらにその裏で良からぬ事態が進行している気配があり…と、まあ物語の展開自体はベタだなと感じる部分は大きいのですけど、ベタなのでスイスイ読めます。そして最後、これどんな風に物語を閉じるんだろう、と思った頃に、なんかグインと振り回されるようなとんでもない展開になります。このラストをどう捉えるかで本書の評価は様々に分かれるでしょうが、僕は、よくこんな設定を考えて、その設定を活かすミステリ的事件を設定して、さらにその設定がリアルに感じられるように細部を作りこんだなという感心が強く来て、割と好印象のまま物語を読み終えました。

あと、元々理系の人間としては、「エーテルが存在する世界」という設定は斬新だなと感じました。
エーテルというのは、アインシュタインが登場するまでその存在が信じられていた架空の物質です。例えば音(音波)は、空気や水を媒質として伝達します。逆に言えば、空気や水のような媒質が存在しなければ、音波はどこにも伝わらないことになります。これは、光(光波)でも同じです。

さて、地球から星の光が見えているということは、宇宙空間は光波を伝達することが出来る、ということです。すなわちそれは、宇宙空間を何らかの媒質が満たしているということだろう。そう昔の科学者たちは考えました。そして、そんな媒質は観測されていないけれども、その媒質にエーテルという名前をつけました。観測できていないのは、観測技術の問題であり、エーテルは存在するのだと昔の科学者は信じていました。

しかしアインシュタインがそれを否定します。アインシュタインは、空間というものにはそもそも光波を伝達する性質が備わっているのだ、だからエーテルなどという媒質が存在しなくても光は伝播出来るのだ、と提唱しました。その仮説が証明され、エーテルの存在は否定されたのです。

『マイケルソンとモーリー両教授の実験で検出されるまでは、最も重要な存在でありながら、机上の空論であり続けてきました』

本書にはこういう記述がありますが、実際にはこのマイケルソンとモーリーという両教授は、エーテルの存在を否定する実験を行った人物です。宇宙空間にエーテルなどという物質は存在しないということが彼らの実験を通じて明らかになりました。

そんなエーテルを科学的な物質として存在させ、さらに物語の中で比較的重要な役割を与えているという点が、理系の人間としては非常に面白いな、と感じました。実際には存在しないエーテルという物質(しかしこの物語の中の地球では存在することになっている。そうでないと、エーテル推進機が存在できないし、<極光号>も宇宙空間に行けないことになってしまう)が本書の中でどんな風に使われているのか、それも是非注目して見て欲しいなと思います。

どんな風に読むかで受けとり方は様々でしょうが、厳密な本格ミステリとして読むのではなく、異世界を舞台にしたファンタジックな物語(ジブリ作品のような?)としてスイスイ読むのにいいんじゃないかなと思える作品でした。

芦辺拓「スチームオペラ 蒸気都市探偵譚」

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