黒夜行 (original) (raw)

思いがけず面白くてビックリした。と書くのは失礼だが、ただ、個人的には「黒島結菜を観に行った」ぐらいのつもりだったので、「映画も面白くてラッキー」みたいな感じになった。しかし、「歯がメチャクチャ汚い黒島結菜」のビジュアルはインパクトあるなぁ。演技も凄かった。

さて、この「歯」の話で言えば、本作を観る前にネット記事で、「原作者が『真珠の歯の再現』の見事さに映画化をOKした」みたいなのを読んだ記憶がある(うろ覚えだが)。で、その時僕はまだ、主人公の名前が「品川真珠」だと知らなかったので、「歯に真珠を埋め込んでるのか?」と思ったのだけど、全然違った。

まあ、そんな話はどうでもいいのだが、「死刑囚と結婚する」という冒頭の展開のスムーズさ(違和感のなさ)や、「法廷劇」としての面白さ、さらには超特殊ではあるが「恋愛」も描かれるわけで、ちょっと想像できない物語に仕上がっていると思う。僕も映画を観ながら、「インパクトのある展開やビジュアルで惹きつけることは出来ているが、これ、一体どんな風に物語を閉じるんだろう?」と思っていた。けど、「法律の間隙をついた意外な展開」からのラストの物語は、結構良かったなと思う。漫画原作なので、かなりの突拍子も無さが描かれるわけだが、それを、役者の演技などで「かなりリアルに寄せている」ので、「単なるエンタメ作品」というだけではない雰囲気にまとまっていると思う。

というわけで、まずは内容の紹介をしていこう。

児童相談所で働く夏目アラタはある日、関わりのある児童から思いがけない話を聞かされる。なんと、死刑囚と文通しているというのだ。その少年はその死刑囚に父親を殺されている(という容疑で控訴審を待っている)のであり、さらに、未だにその首が発見されていないのだ。そのため少年は、夏目アラタの名刺が手近にあったこともあり、彼の名を騙って死刑囚と文通していたのである。

そしていよいよ、「会って話そう」というタイミングになったところで少年に打ち明けられた夏目アラタは、東京拘置所へと足を運ぶことにした。面会の相手は、品川真珠。3年半前、自宅で死体を解体している最中に逮捕された彼女は、逮捕時ピエロの格好をしており、世間では「品川ピエロ」と呼ばれている。3人を殺害し死体をバラバラに損壊した罪で起訴され、一審では完全黙秘を貫いたまま死刑判決が下っていた。彼女の家には実は、身元不明のDNAが血痕から検出されているのだが、結局裁判までに身元が明らかにならなかったため、4人目の被害者と思われる事件では起訴されていない。

面会室の扉を開けて入ってきた品川真珠は、当然ピエロの格好をしているはずもなく、また太った姿が印象的だった逮捕時とは異なり痩せていた。そして夏目アラタを見ると、「なんかイメージと違った」と口にして帰ろうとしたのである。

アラタは、「父親の首の在り処を聞き出す」という重責を担っていることもあったが、それ以上に、「ここ数年で最も有名な殺人鬼」であり、そして「品川ピエロ」という印象から程遠い見た目だったこともあり、個人的に関心を抱いた。そこで彼は、立ち去ろうとする真珠に、「俺と結婚しよう」と叫んだのである。もちろん、彼女の気を惹くためのその場しのぎの口からでまかせに過ぎなかった。

しかしその後、自宅で寝ている時に、真珠の私選弁護人だという宮前光一がやってきた。彼は、アラタが真珠と結婚するという話を聞きつけ、その本気度を探りにやってきたのだ。というのも真珠は、逮捕されてから一貫して黙秘を貫いており、弁護人である宮前にも事件の話をしない。それが、何故かアラタには胸襟を開いているように思えるのだ。宮前は実は、国選弁護人として真珠の担当をした時から、彼女の「無実」を信じており、その証明のためなら何でもするつもりでいるのである。

こうして、宮前の介入もあり、アラタは本当に真珠と獄中結婚をすることになった。

しかしアラタは、本来の目的を忘れてはいない。真珠から信頼を得て、首の在り処を聞き出そうと考えているのだ。しかし真珠は思いの外手強い。そしてそこに1つ、疑問点があるのである。

アラタは品川真珠についてざっくりした情報を知っていた。母親からの虐待に遭っており、学校もまともに通えなかった。後に看護学校に通うも、途中で辞めている。恐らく、学力的にはかなり劣るはずだ。にも拘らず真珠は、アラタを試すような丁々発止のやり取りを続けるのである。

その疑問は、宮前から聞いた話によってさらに補強されることになった。真珠は8歳の時に知能テストを受けており、同年代の平均よりも低い70というスコアだったのだが、逮捕後に改めて行われたまったく同じ知能テストでは108というスコアだったのだ。10前後の誤差は起こり得るようだが、30以上の違いは普通あり得ない。だから、8歳から逮捕までの間に、彼女の身に何か大きな出来事が起こったのではないかと思うのだが、宮前もそれが何なのかは分かっていないようだ。

そんなわけで夏目アラタは、夫として面会や裁判の傍聴へと出向き、真珠のガタガタの歯を目にしながら、彼女が語る様々な話に耳を傾けるのだが……。

というような話です。

まず、「死刑囚と結婚するに至る過程」がなかなか面白い。作中でも説明されるが、「獄中結婚」するのは普通、記者などが多いそうだ。真珠はまだ控訴審を待つ身で刑が確定したわけではないので誰でも面会が可能だが、確定死刑囚となってしまえば面会にかなりの制約が生まれる。そのため、「確定死刑囚になってからも面会を継続したい」と考える者が獄中結婚という選択をするというわけだ。

しかし夏目アラタの場合は、記者というわけではないし、確かに「少年の父親の首の在り処を聞き出す」という名目こそあるものの、正直これは「対外的に話を通しやすくするための理由」でしかないと僕には感じられた。実際には、品川真珠という人間に曰く言い難い興味を惹かれ、その繋がりを保つために結婚したのだと思う。

しかしそうだとしても普通、死刑囚に面会に行ったりはしない。作中には「死刑囚と面会するのを趣味にする人物」も出てくるが、まあかなり稀だろう。そして面会に行かなければ品川真珠に惹かれることもなかったわけで、関係が生まれようがない。

そこを本作では、「児童相談所で関わりのある少年が夏目アラタの名前で勝手に文通をしていた」という、絶妙すぎる設定を持ってきている。これがまずとても良かった。夏目アラタ個人の動機で面会・結婚と進んでいくとしたらちょっと物語として成立しない印象があるが、最初の「面会」の段取りが完全に他者の動機に乗っかっているだけだったので、凄くリアルに感じやすい。

さらに言えば、冒頭で「イカれたピエロ」のビジュアルを出しておいてからの、面会室にやってきた品川真珠(黒島結菜)の落差もとても良い。本作の場合、「黒島結菜が出演している」という事実はさすがに鑑賞前に視界に入ってしまうだろうが、もしも運良くその情報を知らずに観ることが出来たら、さらにそのギャップに驚かされるんじゃないかと思う。

さすが漫画原作という感じだが、本作はこんな風に、冒頭からトップスピードで観客の興味を惹く仕掛けになっていて、物語の構成としてまずこの点が良かったと思う。

しかしやはり、「めっちゃガタガタの歯をした黒島結菜」のビジュアルは超強い。しかも、変な言い方だと自覚しているが、「似合ってもいる」と感じた。例えばだが、品川真珠の役をアイドルが演じていたとすると、アイドルというのは基本的に「クリーン」なイメージで売るはずなので、それと「ガタガタの歯」のギャップがあまりにも強すぎて、どちらかというと「拒絶反応」みたいな感じになってしまいそうな気がする。しかし、言い方が難しいが(黒島結菜がクリーンじゃないと言いたいわけではないのだが)、黒島結菜の場合、その「拒絶反応」がかなり薄いような印象だった。これはかなり配役の妙という感じがするし、さらに言えば、「黒島結菜がナチュラルに『狂気』を演じている」からこその馴染み具合だったとも言えるかもしれない。

ただ、馴染んでいるとはいえ、やはり最後まで「強烈な違和感」はつきまとう。特に、面会室や法廷にいる時はまだいいのだが、そうではない時(具体的には触れないが、そうではない時もある)の違和感は凄まじくて、ザワザワさせられる。そしてそんな「ザワザワ」が、ある種の「怖いもの見たさ」的な要素となって、観客を惹きつけるのかもしれない。

原作者が「絶対に譲れない」と主張した「真珠のガタガタの歯」だが、ここは本当にこだわって正解だっただろう。公式HPによると、この特注のマウスピースを制作するのに5ヶ月も掛かったという。ホント、「マウスピースを付けている」みたいな違和感を一切感じさせない自然さで、凄いものだなと思う。

さて、物語前半は「品川真珠と夏目アラタの心理戦」みたいな展開で進んでいくのだが、後半に進むに連れて徐々に「事件の真相」へと迫っていくことになる。もちろんそれは、夏目アラタや弁護士・宮前の奮闘あってのものなのだが、加えて、法廷での品川真珠の証言もそれを補強していくことになる。作中で、「死刑囚への面会を趣味にする人物」が控訴審を傍聴して、「もし控訴審も裁判員裁判だったら、品川ピエロの勝ちだったでしょうね」みたいなことを口にするのだが、それぐらい、彼女の法廷での証言は聞いている者を惹きつけ、同情心を誘うようなものになっている。ここでの黒島結菜の演技もまた絶妙だったなぁ。

そんなわけで本作は、「法廷劇的な面白さ」もある。二転三転、みたいな表現をするとちょっと違うかもしれないが、しかし「なるほど、そういうことだったのか!」的な描写は随所にあって、その展開もなかなか面白い。法廷のシーンはやはり、実際の法律に沿ってリアルにやっているだろうし、だとすると、「このような状況で、一体品川真珠はどんな裁きを受けることになるんだろう?」みたいな興味でも観客を惹きつけていくことになる。

さて、その「法律」の話で僕が感心したのが、冒頭で少し触れた「法律の間隙をついた意外な展開」である。具体的には触れないが、夏目アラタがある人物を問い詰めて「ない」という返答を引き出していたことに関係している。法律に詳しいわけではないが、確かに論理的に考えて「ない」だろうし、その間隙をついて想像も出来なかった状況を現出させる感じはとても斬新だなと思った。少なくとも僕は、このような法律の穴を衝いた展開を映画・小説に拘らずフィクションでは目にしたことがないと思う。

さて、そんなわけで物語的には色々あって、「なるほど、そういう風に着地するのか」という展開になっていくわけだが、夏目アラタが最終的に、「そのことを真珠が教えてくれた」と語るような展開になっていくのもなかなか面白かった。この点についても具体的には触れないので何を書いているのか分からないかもしれないが、アラタがたどり着いてしまった「実感」はなかなか難しい問題だなと思う。

ただ僕は、仮に夏目アラタの感覚を抱いていたとしても、自分に誇りを持っていていいと思う。それがどんな問題・状況であれ、辛い境遇にいる人は「無関心が一番キツい」みたいに感じることが多いんじゃないかと思うからだ。どんな想いが根底にあるにせよ、「関心を向けている」という事実に変わりないし、それは「無関心」と比べれば圧倒的に良い。個人的にはそんな風に思う。ただ、アラタの葛藤も分かるなー、という感じだった。

さて、僕は原作を読んでいないのだが、映画を観ていると「大分削ってるんだろうなぁ」とは感じる。特にそれを感じさせられたのが、アラタの先輩・桃山香(丸山礼)の描写である。彼女は1度、真珠と会うのだが、このシーン、物語全体の中でちょっと浮いているように思う。恐らくだが、原作ではもっと意味を持つ描写なのだろうなと思うし、だからこそ、大分端折ってるんだろうなと感じた。なので、映画を観てから原作を読むのも面白いかもしれない。

さて、あと少しどうでもいいことを書いて記事を終えよう。

まず、最近色んな映画を観ていて思うのが、「喫煙シーン、結構増えてきたな」ということ。外国映画はもとより、日本映画でも喫煙シーンが描かれるようになった気がする。僕の記憶では、ジブリ映画『風立ちぬ』で喫煙シーンがあり、世間的に論争が生まれたような記憶がある。そんなこともあって、「よほど必然性がない限り、喫煙シーンを入れない」みたいな映画が、特に日本映画に多かった印象があるのだが、少しずつ変わってきたのだろうか?

あと、エンドロールを見ていて気になったこと。「アラタ目線カメラ」のところに「柳楽優弥」と書かれていて、「へぇ、そんなことあるんだ」と思った。「アラタ目線カメラ」ということはアラタ(柳楽優弥)は映らないわけで、だから本人がカメラを回す必然性はない。ただ恐らく、柳楽優弥が自ら望んだのだろう、本作では「アラタ視点の映像」は柳楽優弥が撮っている、のだろう、きっと。エンドロールで普段見かけることのない記載だったので、ちょっと気になった。

というわけで、個人的には思いがけず面白い作品だった。黒島結菜も柳楽優弥も演技が見事で、黒島結菜のビジュアルはなかなか衝撃的である。「太ったピエロ」も、3時間掛けて黒島結菜が演じているそうだ。黒島結菜は割と推しなので、観れて良かった。

「夏目アラタの結婚」を観に行ってきました

いやー、これはなかなか面白い映画だったなぁ!自主制作映画とは、驚きだ。

さて、本作『侍タイムスリッパー』のことを知ったのはたぶん、一昨日ぐらいだと思う。先週の金曜日ぐらいから全国で拡大公開されたことを伝える記事の見出しだけ見たのだ。そこには「カメ止めの奇跡再来」と書かれていた。「カメ止め」とはもちろん映画『カメラを止めるな!』のことだ。そして本作『侍タイムスリッパー』も『カメラを止めるな!』と同様、口コミで評判が広まった作品なのだ。

本作は8月に、池袋シネマ・ロサという東京の1館のみで公開された。そして先週の9月13日から、全国100館以上での拡大公開となったのだ。僕はTOHOシネマズ日比谷で見たが、400弱ある座席の7割ぐらいは埋まっていたと思う。僕はネット記事の見出しをたまたま目にしただけだが、恐らくSNSなどではかなり話題になっているのだろう。しかも、ネット記事で読んだのだが、監督の安田淳一は「カメ止めの奇跡は再現できるのではないか?」と考え、かなり戦略的に本作を作ったのだそうだ。そうだとしたら、ちょっと凄すぎだろう。

そしてそんな話題作の中身はというと、メチャクチャ面白かった。最後ちょっと涙が溢れたことも含め、まさかこんな面白い作品とは思わずに驚かされてしまった。

しかも、「幕末の侍が現代にタイムスリップしてくる」という、よくあると言えばあるし、なんならチープにしかならなそうな作品で、爆笑とシリアスと感動を生み出しているのだ。映画を観ながら、客席から何度も笑い声が上がっていたが(もちろん僕も笑った)、そういうコメディ的な部分もありつつ、根底にはちゃんとシリアスなテーマ性もあり、その上で涙を誘うようなシーンもあったりするのだ。

メチャクチャ良く出来てる。

しかし本作は、そういう「単館から大ヒットした」というだけではない異常さがある。それは「ベースが時代劇である」という点だ。どう考えても、自主制作映画でやるテーマではないだろう。常軌を逸していると思う。衣装やセットやら死ぬほど金が掛かるはずだ。実際に監督は、愛車を売って資金を捻出したとかで、映画が完成した時点での貯金がわずか7000円だったそう。

しかしそうだとしても、本格的な時代劇(本作は劇中劇のような時代劇シーンがとても多い)を撮る資金を捻出するのは相当困難なはずだ。ただ、本作は、東映京都撮影所が相当協力してくれているという。ネット記事には「かなり持ち出しで協力した」みたいなことが書かれていた。『侍タイムスリッパー』を制作したのは「未来映画社」というところだが、そこから拠出された撮影スタッフは僅か10人ほどだったという。そんなんで、本格的な時代劇が撮れるはずもない。ネット記事には「東映京都撮影所が異例の協力をした自主制作映画」と書かれているが、まさにその通りだろう。そしてそれが実現したのはやはり、脚本が面白かったからなのだと思う(公式HPにもそう書かれている)。確かに、こんな脚本を読んだら、「金は無いみたいだけど協力してやるか!」みたいに感じるかもしれない。

さて、全然内容の話をしないがもう少しだけ。本作は「きっとエンドロールが面白いだろうなぁ」と思って見ていたのだけど、案の定、監督の「安田淳一」の名前があちこちに出てきたりと、自主制作映画感が満載だった。ただ、個人的に最も驚いたのが、本作でメインどころの役を演じた沙倉ゆうのである。彼女は本作で「時代劇の監督を目指す助監督」役として登場するのだが、なんと彼女は、映画『侍タイムスリッパー』の撮影においても実際に助監督を務めたそうなのだ。そんなこと出来るのか? と感じてしまうが、まあ撮影隊が10人しかいないならやるしかないのだろう。本作はエンドロールの流れるスピードが早く、普段映画を見ている時には「もっと早く進めー」とか思いながら見ているのだけど、本作の場合は「もうちょっとゆっくりして」と思った。たぶん僕が気づかなかっただけで、もっと色んな人の名前が色んなところに出ていたと思うので、それももうちょっと観たかったなと思う。ちなみに、沙倉ゆうのは僕より年上だそうだ。マジかよ。

さてというわけで、前置きが長くなったが、内容に触れたいと思う。

物語は、江戸末期から始まる。会津藩士である高坂新左衛門は、同藩の仲間と共に家老じきじきの密命を預かった。倒幕派の長州藩士を打てというのだ。そのため、寺から男が出てくるのを待ち伏せし襲いかかったのだが、相手と刃を交えた瞬間に雷に打たれ、気を失ってしまった。

目覚めた高坂は、江戸の町中に横たわっていた。昨日は京都にいたはずなのに、何故……?よく分からないまま声がする方へと歩くと、町娘が男たちに襲われている様子を目にしてしまう。そこにやってきたのが、心配無用之介と名乗る男。高坂は、彼に助太刀すべく刀を抜くが……。

「カット!!」

実はそこは撮影所で、時代劇の撮影中だったのだ。高坂は「別の撮影現場の斬られ役が紛れ込んだ」と扱われ、助監督の山本優子に追い出されてしまった。その後、撮影所内をうろうろし、巨石を若い女性が運んだり、ゾンビのようなメイクの町人に驚いたりしていたところ、撮影で使うクレーンに頭をぶつけ倒れてしまう。

そのまま入院することになったが、窓から見える街並みを目にして驚愕した。自分は一体どこにいるのだろうか。その後、ひょんなきっかけから、自分が未来にやってきたことを知った高坂は、たまたまあの決戦の日に待ち伏せしていた寺を見つけ、なんだかんだで寺に住まわせてもらうことになった。

その後いくつかの偶然が重なったことで、彼は「東映剣」という斬られ役集団に弟子入りすることになるのだが……。

というような話です。

冒頭からしばらくは、コメディ的に展開していく。もちろんそれは「幕末の侍が、何もかもが変わった現代のあらゆることに驚く」みたいな描写もあるのだけど、決してそれだけで面白さを生み出しているわけではない。冒頭で絡んでくるのは主に、武士の高坂、そんな高坂を受け入れる寺の老夫婦、そして助監督の山本の4人だが、彼らが絶妙な掛け合いをするので、それがとても面白いのだ。特に寺の夫婦が凄く良くて、「どう考えても変な高坂」を絶妙な感じで笑い飛ばしつつ、「幕末の武士である高坂が現代で生活していることの違和感」の大半を帳消しにするような役割を見事に担っていて素晴らしい。この寺の夫婦を含めた掛け合いが、とにかく前半の見どころである。

そしてそこから、高坂が斬られ役を目指し注目を集めるようになっていくのだけど、それ以降の展開はちょっとここでは伏せよう。想定できた人もいるかもしれないけど、個人的には「なるほど、そんな展開になるのか!」という、ちょっと驚きの物語で、出来れば知らずに観てほしいと思う。

本作については正直、物語が始まった直後から「一体どうやって物語を展開させるつもりなんだろう?」と思っていた。というのも、冒頭からしばらくの描写から「幕末に帰る的な展開にはならない」と分かるからだ。もしそういう展開になるなら、「どういう条件がクリアされれば幕末に戻れるのか?」みたいな情報が提示されないと成立しないが、一向にそんな話は出てこない。つまり割と早い段階で、「本作は現代で物語を完結させるんだな」と思っていた。

しかしそうだとして、こっからどうするんだろう? と思っていた。正直、展開のさせようがないだろう、と。冒頭は「幕末の侍が現代にやってきてビックリ」みたいな出落ちの展開を続けていればいいが、そんなのは長く続けられない。じゃあその後は? 高坂は一応、「自分が未来にやってきてしまった」と理解しており、さらに「ここで生きていくしかない」とも覚悟している。しかしかといって、何が出来るというわけでもないのだ。運良く寺に拾ってもらい、衣食住に困ることはなくなったが、物語という観点で言えばそんなことは展開でもなんでもない。

というわけで、131分もある映画(そう、本作は、自主制作映画なのに131分もあるのだ)をどう展開させるのだろうと思っていたのだ。

舞台が京都なので、「撮影所で斬られ役になる」というのは順当だと感じたが(僕はこれから観ようと思っている映画について基本的に調べないで行くので、ポスタービジュアルの「それがし、『斬られ役』にござる。」というフレーズさえ知らずに観た)、その後の展開はちょっとビックリさせられた。そして、その「驚きの展開」以降は、かなりシリアスに物語が展開して行くことになる。この「シリアスさ」については、展開に触れないと決めた以上書けないが、前半のコメディ的な展開からまさかこんな話になるとはという感じだった。

さて、具体的には触れないものの、後半の「シリアスさ」が生まれる理由については書くことにしよう。それは、「ごく一部の登場人物と観客にしか知り得ないある事実」が存在するからなのだ。そしてこの「ある事実」によって、「ごく一部の登場人物(と観客)」と「その他の登場人物」とでは、物語がまったく違って見えることになる。この構図がとにかく絶妙で、「シリアスなのにユーモア」という、明らかに矛盾した状況を成立させている要素にもなっている。

そして、後半で描かれる「シリアスさ」は、「失われたもの、失われていくかもしれないもの」への悲哀みたいなものが内包されていて、だからこそ「泣ける」みたいな要素も加わることになる。特に、「台本の改訂」を読んで以降の高坂の心情には胸打たれるし、そしてだからこそ、普通なら「リアリティに欠ける」と判断されそうなラスト付近のぶっ飛んだシーンにも真実味が生まれることになる。

その「ラスト付近のぶっ飛んだシーン」というのは殺陣のシーンなのだが、その迫力はちょっと凄まじかった。本作は本格的な時代劇をやっているので、全体的に殺陣のシーンが多く、そのどれもが迫力を感じさせるものだったが、ラストの殺陣はちょっと別格だった。何故殺陣のシーンが「ぶっ飛んでいる」のかは伏せるが、それを生み出しているある要素が「ホントのこと」のようにも感じられるし、さらに役者の実力や気迫みたいなものも乗っかって、まさに「手に汗握る」みたいなシーンになっていた。いや、ホントに凄かった。

そして、そんな超シリアスなシーンの直後に、「今日がその日ではない」の”天丼”で爆笑をかっさらうのだから、緩急も凄いし、脚本も見事だし、とにかく「上手いなぁ」と思わされっぱなしだった。

さて、本作の面白さにはもう1つ、「高坂新左衛門は何をするか分からない」という要素が存在していると思う。

高坂は幕末からタイムスリップしてきた武士であり、当然、現代の常識など何も知らない。当然、法律や道徳も幕末とはまったく違うわけで、だから高坂には「『我々の感覚から外れたこと』をしでかす可能性」が常にあるということになる。そしてだからこそ、なんかハラハラさせられるのだ。

例えば彼は、斬られ役になるための訓練を東映剣の師匠(この役を演じた人物は、実際に東映剣の役員・会長を歴任した人だそうだ)を行うのだが、斬られなければならないはずの高坂は、つい武士の性で師匠を斬ってしまう。これはまあ、一般的な感覚とは離れた状況だから大したことはないが、同じようなことはいくらでも高坂の日常で起こり得るのである。だから物語を追いながら、「もしかしたらここで、高坂がなんかマズいことをしちゃうんじゃないか」みたいな緊迫感が生まれることになり、そのことが「予測不可能性」みたいなものを生み出しているようにも感じられた。

というわけで、まあよく出来ていたなと思う。自主制作映画だが、東映京都撮影所の全面協力という意味では自主制作映画のクオリティではない。公式HPにはスタッフの紹介もされているが、殺陣も床山(時代劇のカツラとメイクをする人)も衣装も証明も、時代劇では知らない人がいないというぐらいの一流だそうだ。

また、物語の展開から誰もが想像するだろうが、斬られ役から映画主演にまで上り詰めた福本清三の著書のタイトル『どこかで誰かが見ていてくれる』がセリフの中に入っていたり、ラストには福本清三への献辞が記されたりしていた。公式HPによると、東映剣の師匠役や元々、福本清三が務めるはずだったという。ホントに、東映京都撮影所オールスター揃い踏みみたいな映画なのだろう。

そんな、ミニマムとマキシマムが融合したような作品で、なかなか類例のない映画と言っていいのではないかと思う。実に面白い作品だった。

「侍タイムスリッパー」を観に行ってきました

これは、とにかく設定がメチャクチャ面白かったなぁ。しかも、冒頭で「やや実話」と表記された通り、本作は実在の人物をモデルにしている。どの程度事実に基づいているのかわからないが、主人公ゲイリー・ジョンソンの設定については大雑把には事実だろう。

というわけで、まずはそんな主人公の設定を含めた内容紹介をざっとしておこう。

ニューオーリンズ大学で心理学と哲学の講師として働くゲイリー・ジョンソンは、趣味の電子工学の知識を活かして、盗聴・盗撮などで警察に協力をしていた。彼が関わっていたのは、ジャスパーという刑事が「ニセの殺し屋」に扮し、「誰々を殺してくれ」と言ってきた依頼人を逮捕するという「おとり捜査」だった。

しかしある日、そのジャスパーのある問題行動が市民を刺激し、そのため彼は120日間の停職を命じられてしまった。困ったのは、おとり捜査のために準備していたゲイリーらである。ジャスパーは来ないが、既に依頼人との待ち合わせは済ませており、誰かが「ニセの殺し屋」として依頼人と会わなければならない。

というわけで、何故かゲイリーに白羽の矢が立った。彼はジャスパーのこれまでの活動を見ていたため、大雑把な流れや、どんな言質を引き出すべきかは分かっていたが、もちろん演技などしたことがない。やれるか不安だったが、しかし、ワゴンの中で盗聴している仲間2人が絶賛するほどの演技力を見せ、見事「ニセの殺し屋」という大役を全うすることができた。

さて、本職であるジャスパーは120日間の停職中である。となれば、ゲイリーが「ニセの殺し屋」として駆り出されるのは自然な流れである。彼は良い関係を保っている元妻との会話で「他人と普通の関係を築けない」と口にしているが、しかし、心理学や哲学を教えていることもあり、「人間の心理」には興味を抱いている。初対面の人間に殺しを依頼すること、大した金額ではないお金を払って相手が人殺しをしてくれると信じていること、そういう依頼人の心理が気になって、「ニセの殺し屋」稼業を続けることになった。

ゲイリーは次第に、変装などもするようになる。SNSなどもチェックし、「相手が望む殺し屋」を演じることで、より完璧に「有罪の証拠」を得ようというわけだ。彼は様々なタイプの人物になりきり、依頼人から言質を取り、彼らを裁判所送りにしていった。

さて、それもいつもの依頼の1つに過ぎなかった。マディソンという、金持ちだが支配的な夫との生活にうんざりしている女性の話を聞いていたのだが、ゲイリーは彼女の境遇に同情してしまった。マディソンの金を受け取れば、彼女は逮捕される。だからゲイリー(マディソンに対しては『ロン』と名乗っていたが)は、「自分の仕事が無くなるだけだから得は何もないが」と言い訳しつつ、「この金で家を出ろ。新しい人生を始めるんだ」と言い、彼女を見逃してしまった。

その後マディソンからロンに連絡が来て、会うことに。そんな風にしてなんと、「相手を『殺し屋』だと信じている、夫を殺そうとした女性」と「相手に『殺し屋』だと信じさせたままの大学講師」が付き合うことになり……。

というような話です。

さて、公式HPによると、本物のゲイリー・ジョンソンは「地方検事局で働きながら、講師として地元のコミュニティカレッジで心理学などを教えていた」そうなので、この部分でも設定が異なっている。だから、映画で描かれている物語のどこまでが事実なのか分からないが、少なくとも「おとり捜査によって70人以上を逮捕に導いた」ということだけは事実なようだ。

本作は、完全なフィクションだとしたら信じてもらえないような設定だろう。なにせ、刑事ではない者が「ニセの殺し屋」に扮しておとり捜査に関わっていたというのだからだ。本物のゲイリー・ジョンソンがどうしてそんな役回りを担うことになったのか不明だが(これも、本作で描かれている通りかは分からない)、普通ならそんなこと考えないし実現しないしあり得ないと思うだろう。そういう意味では、本作で描かれていた「盗聴担当だったけど、『ニセの殺し屋』役が来れなくなったから仕方なく」という展開は、納得感のある描写だったなと思う。確かに、そういうことならそんな展開にもなりそうだ。

しかしそもそもだけど、アメリカの法律で一体「何罪」として裁かれるのか分からないが、「殺しを依頼した」という事実は「殺人」や「殺人未遂」として裁かれるのか? あるいは、何か特別な罪名があるのか。銃社会かどうかという違いもあるだろうけど、恐らく法律的にも日本では成立しなそうだなと思う。

ただ個人的には、このやり方は良いよなぁと思う。「犯罪」というのは概ね「犯罪行為が行われた後」にしか対処できないわけだが、この「おとり捜査」の場合は、凶悪犯罪を扱っているのに「被害者ゼロ」なわけで、とても素晴らしいと思う。日本でもやればいいと思うんだけど、日本の場合「殺し屋」という存在がどの程度リアリティのあるものとして受け取られるか次第だろうなぁ。

さて、話を戻そう。本作は「やや実話」という通り、後半からどんどん「実話なはずがない」という展開になっていく。「見逃した依頼人と恋仲になる」というのも、僕はフィクションだと思っているのだが、仮にこれが本当だとしても、その後の展開はさすがにフィクションである。映画のラストでも、「◯◯はフィクション」(◯◯は僕が伏せた)と表記される。まあ、当たり前だが。

後半の展開については、「ゲイリー・ジョンソンが追い詰められていく」とだけ書いておくことにするが、この窮地をいかに切り抜けるか、というのが物語の焦点になっていく。そしてそれは、概ね面白い。ただ、最後の最後だけ、「それでいいのか?」という感じもしなくはない。この点は、かなり賛否が分かれるだろうなと思う。確かに「物語にもう一捻り」という感じで付け加えられたのだろうけど、あまり良い案ではなかったように思う。いや、「舞台裏を見に来た」みたいなセリフは凄く良かったし、あの展開そのものは良かったと思うのだけど、やっぱり着地がね。どうなんだろうなぁ。

ただまあ、全体的にはポップでユーモラスに展開されるので、あの展開もまあまあ許容されるかなって感じもある。これがもうちょっとシリアス寄りの雰囲気だったら無理だっただろうなぁ。

あと、本作にはちょいちょい「ゲイリーがニューオーリンズ大学で講義をしている様子」が映るのだけど、そこで語られる話が作品全体のテーマと絡んでいる感じもあってなかなか面白い。色んな話をしているのだが、「自分とは何か?」「現実とは何か?」みたいな内容のものが多く、彼が学生に投げかける問いは、「『ニセの殺し屋』を演じている自分自身」に向けているものでもあるみたいな雰囲気がある。そういう雰囲気もなかなか面白いと思う。

ちなみに、主人公ゲイリー・ジョンソンを演じたグレン・パウエルは、主演だけではなく脚本・プロデューサーも務めているそうだ。まったく多才なことで。

というわけで、エンタメとしてなかなか面白い作品だった。

「ヒットマン」を観に行ってきました

なるほどなぁ、そんな話なのか。ちょっとビックリした。この作品については、映画館で何度も観たが、こんな感じの物語だとは想像できなかった。

とても良かったなと思う。

本作はとにかく、フィギュアスケートというモチーフがとても良い。作中ある人物が、「フィギュアスケートは女のスポーツ」と口にするのだが、確かに大雑把にはそんな印象があるだろう。また、これはフィギュアスケートのコーチ・荒川のキャラクター造形に関係するのかもしれないが、ある場面で彼が2つ折の携帯電話をチェックしていた。恐らく、ガラケーなんじゃないか、と。もしそうだとしたら、本作の舞台は今ではなく、少し前ということになるだろう。そしてだとすれば、余計に「フィギュアスケートは女のスポーツ」という印象が強かったかもしれない。

そしてこのことが、物語全体において結構重要な要素になっていくのだ。いや、なるほどなぁ、という感じだった。

さて、本作については、僕はもしかしたら予告を観てなかったら、物語をちゃんと捉えきれなかったかもしれないと思う。本作の予告では確か、「雪が積もってから溶けるまでの、3つの恋の物語」みたいなナレーションが入っていたように思うのだが、映画を観ながら僕は「3つの恋?」と思っていたのだ。

どこに3つもあるのだろう、と。

1つははっきり分かる。小学6年生のタクヤが、フィギュアスケートの練習をするさくらに心を奪われるのだ。これはメチャクチャ分かりやすい。

そしてしばらくして、もう1つの恋も分かった。こちらについては、映画を観ながら、最初の内は全然理解できなかった。「家族と住んでいる」みたいに思っていたからだ。ただ途中で、「なるほど、これが2つ目か」と思った。

そして.3つ目については、「3つの恋」という事前の情報があったから分かったという感じである。消去法で考えれば、それしかない。ただ、もしも「3つの恋」という情報を知らずに観ていたら、この3つ目の恋には気づかなかったかもしれない。いや、確かにそう言われれば、それを示唆する場面を思い出すことは出来る。でも、「そこまでの感じ」とは思っていなかった。

さて、この3つの恋は、実に興味深い形で展開されていく。「興味深い」と書いたのはネタバレを避けるためで、別に「面白い」という意味ではない。この3つの恋は、ちょっと思いがけない展開を見せるのである。

そして、ある意味でそのきっかけとなったのが、「タクヤがさくらを好きになったこと」だと言えるだろう。本作の物語の起点でもあり、3つの恋の「結末」が始まる起点でもある。もちろん、「タクヤがさくらを好きになったこと」自体は何も悪くない。「何も悪くない」と書いている時点で3つの恋の展開がある程度予想できるかもしれないが、まあとにかく、タクヤは全然悪くない。

そして、その「タクヤの恋」を起点にして、タクヤ・さくら・荒川の物語が、静かに静かに展開していく。どこかの場面でゴトッと音を立てて物語が進展していくみたいなことはない。いや、なくはないのだが、それは「最後の一撃」みたいな部分であり、その「最後の一撃」に至る前の過程は、スケートリンクの上を滑らかに滑るみたいな感じで進んでいくのである。

しかも、「タクヤの恋」を起点に始まった関係性であるにも拘らず、状況の変化に対したタクヤはある種の「傍観者」的な立ち位置にいることになってしまう。タクヤの視点からすれば、「意味が分からないことだらけ」だろう。何がどうなってそうなったのか、理解できなかったはずだ。だから彼には、「起点が自分である」ということも分からないままだろう。それはタクヤにとって良かったことなのかどうなのか。

非常に繊細な物語で、この3人だからこそたどり着けた関係性なのに、この3人だったせいで崩れてしまったという、矛盾だらけの展開だった。「どうにかなる可能性はあっただろうか?」と考えたくなるが、3人の誰もが「自らの価値観に正直に生きる」という選択をする以上、「どうにかなる可能性」は無かったんだろうなと思えてしまう。

そして、その事実がとてもとても淋しいことのように感じられた。

「もしフィギュアスケートじゃなかったら?」とも思う。何か状況は変わっただろうか、と。しかし、フィギュアスケートじゃなかった場合、「アイスダンス」も無くなってしまう。となれば、3人があれほどの多幸感を醸し出すような関係になることも、やはりなかっただろうと思うのだ。だからやはり、フィギュアスケートじゃなければならなかったし、フィギュアスケートだったからこそこうなってしまったのである。

僕はいつも、「名前の付かない関係性」に惹かれる。それは別に物語に限らず、リアルの世界でもだ。そして彼ら3人の関係は、結果として名前が付くことはなかった。それは良かったのかどうなのか。「名前が付かない関係性」の方が良いなと思っているが、本作の場合は、「名前が付いてほしい」とも感じた。しかしそれもまた難しい。「すべての関係に名前が付く」ことはあり得ないからだ。ここにも、なんとも言えないややこしさがある。

本作を観ながら僕は、ずっとそんなモヤモヤした気持ちを抱かされてしまった。それを、「フィギュアスケートやアイスダンスの練習」というほぼそれだけの世界観の中だけで描き出してしまうのだから、その「巧みさ」に驚かされてしまった。舞台設定もメインの登場人物の数もとにかくミニマムながら、実に奥行きの広い物語を描いていて、凄く良かったと思う。全体的には、映画『PERFECT DAYS』の雰囲気に近いだろうか。「何も描いていないのに、そんな映像から何かが浮かび上がってくる」みたいな感じ。圧倒的だった。

さて、普段僕は、映画を観ていても「音楽」や「映像」にあまり反応しないのだが、本作は「音楽」も「映像」もとても良かったなと思う。

まず本作では、荒川が選手時代にこの曲に合わせて踊っていたという、ドビュッシーの『月の光』が随所に登場する。これが、「フィギュアスケートを優雅に踊っている感じ」とか「3人の関係性が静かに進展していく感じ」ととても合うのだ。また、曲調が凄くゆったりしているので、雪降る冬の北海道(だと思う。船のシーンがあったので)のゆったりした雰囲気が伝わってくる感じもある。あるいは、「3人の関係性が遅々として進まない」みたいな状況さえも丸ごと包容していくみたいな感じがあって、凄く良かった。

また、湖に向かう途中の車内でかけた音楽が、湖のシーンでもそのまま連続的に使われたと思うのだけど、あのシーンも好きだったなぁ。曲の雰囲気と3人の関係性の感じが合っているのは当然として、それまではどうにもぎこちなかった3人が、この瞬間を境に殻を脱ぎ捨てたみたいな雰囲気も音楽と共に伝わってきて、これも良かったなぁという感じだった。

映像の話で言えばまず、「なんかいつもの映画と違う気がする」と思ったのだが、割と早い段階で「画面が1:1の正方形」になっていることに気づいた。普段はもっと横長の画面な気がするので、良い意味で違和感があったのだ。

米津玄師の『Lemon』のMVが同じく正方形だが、以前この点に関して何か記事を流し読みしたことがあり、「正方形にしたのは、いつの時代の人が観ても普遍性を感じてもらいやすいため」みたいに誰か(監督かな?)が答えていたのを目にした記憶がある。正方形だと普遍性を感じられるのかは分からないが、普通の映画の横長や、スマホの縦長とは違う、普段目にすることのない正方形の画面は、「今でも過去でも未来でもない」みたいな雰囲気を与え得るのかもしれない。先程、「ガラケーを使っていたから本作の舞台設定は少し前かもしれない」と書いたが、そうであってもなくても、本作は全体的な雰囲気としても、「今でも過去でも未来でもない」みたいな雰囲気を有している気がするし、やはりそれは、正方形の画面によるところもあるのかもしれないと思う。

あと、これは自分で気づいたわけではなく、Filmarksの感想をチラ見していてなるほどと思ったことなのだけど、本作は「自然光」を使ったシーンが結構ある。そして、そんなシーンはやはり、かなり美しいなと思う。エイア像は全体的に美しいなと思うんだけど、スケートリンクなど室内のシーンよりも、やはり外のシーンの方が綺麗で、なるほど日光を上手く使ってるからなのか、と感じた。

池松壮亮はもちろん抜群の安定感だったが、タクヤとさくらを演じた2人は本作が初主演、さくらを演じた中西希亜良に至っては案技経験ゼロなのだそうだ。さくらは決してセリフが多い役ではなかったものの、物語の展開においてメチャクチャ重要なシーンを担う人物でもあるし、そもそも「喋り以外で感情を伝えること」だって難しいはずだ。またタクヤは「少し吃音がある」という役で、こちらもなかなか難しい。この2人が絶妙な雰囲気を醸し出していたからこそ本作のテイストが生まれていると思うし、とても良かったなと思う。

あと驚いたのは、タクヤを演じた越山敬達が4歳からフィギュアスケートを習っていたということ。というのもタクヤは最初「フィギュアスケートが上手く出来ない」というところから始まるからだ。「滑れる人間が、滑れない演技をする」というのも、難しいだろうなと思った。またそういう意味で言うなら、池松壮亮はコーチで元選手ということもあり、スケートが上手くないと成り立たないキャラクターなのだが、さすが、とても上手かったなと思う。

あと、役者の話で言うなら、エンドロールを観てメチャクチャ驚かされた。「若葉竜也」の名前がクレジットされていたからだ。「若葉竜也」の名前を観た瞬間、「えっ、どこに出てたっけ?」と思ったのだが、その次の瞬間に「あー!あいつか!」となった。ホントに、若葉竜也とか菅田将暉とかは、主演も出来るし、脇役として出てくると全然気付けないみたいな感じがあって、いつもビックリさせられてしまう。

本作は、大学在学中に撮った映画『僕はイエス様が嫌い』でデビューした奥山大史の2作目の長編映画であり、そしてカンヌ国際映画祭で日本作品として唯一オフィシャル作品に選出された。凄いものだなと思う。

実に素敵な作品である。

「ぼくのお日さま」を観に行ってきました

本作はずっと観たいと思っていた。以前読んだ『ユリイカ 濱口竜介特集』に、本作について書かれていたからだ。

観たいと思っていた理由にはもちろん、「東日本大震災後を生きる人々の対話を捉えた作品である」という店への興味もある。しかしそれと同時に、先述した『ユリイカ』に書かれていた話も気になっていた。それは、「カメラがどこにあるか分からない」という点である。

そして実際に観て、本当にどこにカメラがあるのか分からなかった。実に不思議な映像である。

さて、この話の説明のためにまず、ドラマなどでよく見かけるシーンについて説明しよう。男女が喫茶店で向き合って会話をしている、みたいなシーンだ。男性・女性がそれぞれ正面からのワンショットで抜かれ、それらをつなぎ合わせることで「向かい合って喋っている」というシーンに見せている。

では、このシーンは実際にはどのように撮られているだろうか? 女性が喋っている時には、「本来であれば男性が座っているべき場所にカメラマンが座り、女性を正面から撮る」ことになり、男性が喋っている時にはその逆である。つまり、「この男女は実際には向き合っていない」ということになる。

まあこんなことは当たり前の話なのだが、しかし本作では、そんな当たり前が崩れている。本作では「向かい合って対話をしているはずの2人が、それぞれ正面からワンショットで抜かれる」のである(本作では、1人で喋る人も3人で喋るパターンもあるが、分かりやすいので2人の説明をする)。本来ならカメラマンがいなければならない場所に対話の相手がいるはずなので、普通なら撮れないはずのショットなのだ。

そして、ドラマやフィクション映画ではよく使われるこの手法は、やはり「観客がその場にいるかのような感覚」をもたらすだろう。対話している2人を共に画角に入れるショットでは、どうしても「観客は部外者」という感じがするだろう。しかし、本作で取り入れられている「対話者と正対しているはずの人物と、観客も正対できている」という手法によって、観客自身がこの対話の場にいるかのような感覚にさせられるだろうと思う。

さらにこの手法は、ドラマなどで馴染みがあるからだろう、「対話している者同士の関係性」をより色濃く映し出すように思う。「真っ直ぐ向かい合わせに正対する」というのは、特に親しい者同士であれば日常であまり経験することがないだろう。本作には「夫婦」や「姉妹」など関係の近い者が正対して対話する場面も出てくるのだが、「正対しているが故の微妙なぎこちなさ」や、「正対しているが故の真剣さ」などがより強く伝わってくる感じがあった。

さらに、ドラマなどでは馴染みがある手法ではあるが、ドキュメンタリーではまず見かけないので、そういう意味ではもの凄く「違和感」をもたらしもする。僕は最初から「カメラがどこにあるか分からない」という本作の特徴を知っていたからこそ、余計に、慣れるまではしばらく「メチャクチャ違和感のある映像だなぁ」と感じながら観ていた。しかし次第に、「このような撮り方をした意図」みたいなものが少しずつ分かってくるようになって、「凄いことやってるなぁ」という感覚になれたりもしたというわけだ。

そんなわけで、フィクションではお馴染みだが、ドキュメンタリーでは「不可能」だとさえ思っていた手法で「対話する者同士」を切り取っていく作品であり、その点にまずは驚かされてしまった。

さらに、恐らくだが本作は、「対話している者の会話を途中で切ったりせず、最初から最後まですべて収めている」ように感じられた。これは僕がそう感じただけなのでもしかしたら全然違うかもしれないが。

仮に僕のこの捉え方があっているとして、それもまた珍しいことのように思える。「編集」というルーツが使えるわけで、そういう中で「対話を頭から終わりまですべて使う」という決断はなかなか勇気がいることのように思える。本作は、147分の作品で、6組の対話が収録されている。冒頭10分ぐらい「紙芝居」が流れるので、それを除くと、1対話ざっくり23分ということになる。「23分間の会話」をすべてカットせずに使っているとしたら(そうではない可能性もあるが)、それはなかなかのものだろう。対話をしてくれる者たちにどんな指示をしたのか分からないが、結構難しいことのように思う。

また、これも僕の解釈が間違っているかもしれないが、本作での対話は基本的に「司会者的な人が存在しない形で、対話者のみで会話が展開される」形になっているのだと思う(1人で喋る人だけ、監督が質問をする形で話を促す場面もある)。日曜日の朝フジテレビで放送している「ボクらの時代」みたいな感じを想像してもらえればいいだろう。

ただこれも、もしかしたら僕の捉え間違いの可能性はある。2人以上の対話の場にも監督が同席している様子は映っている。だから、「実際には監督が話を促す場面もあるのだが、それは編集で切られている」のかもしれない。そうだとしたら、先程の「会話を最初から最後までそのまま使ってる」という捉え方も怪しいことになるが。

ちなみに本作では、観客に対して、「画面に映る対話者がどのような経緯から選ばれ、どういう人物なのか」みたいなことがナレーションで説明されることはない。あくまでも、対話者が語る内容のみによって彼ら自身の情報も伝えるという形になっている。だからよく分からない部分もあるのだが、それはそれでいい。むしろ、対話の中で少しずつ関係性や震災に対する考え方が分かってくる感じが良かったなと思う。

そんなわけで、「僕の解釈が正しければ」という但し書き付きではあるが、色んな意味で「対話を収めたドキュメンタリー映画」としては異例と感じられる手法を取っている、その斬新さも含めて非常に興味深く感じられた。

さて、ここからは気になったエピソードについて少し触れていこうと思うが、個人的に一番良いなと思ったのは、潜水士の夫と彼の仕事を支える妻の対話である。「夫が妻の話をちょいちょい遮る」という部分も含め(それだけ取り出すとあまり好きではないが)、「長年連れ添った夫婦(25年だそうだ)」だからこその雰囲気が凄く良かった。

恐らく「正対して会話をする」という状況に不自然さや気恥ずかしさを感じているのだろう、対話の中でお互いの呼び方がちょいちょい変わっていくのも面白い。あんまりちゃんとは覚えていないのだが、「お父さん」「あなた」「この人」みたいな感じで、その時語っている話の内容や、そこにどんな感情を付随させたいのかによって、お互いが無意識に呼称を変えている印象があって、2人がずっと「微妙な駆け引き」をしているみたいだった。しかしそれは「相手に勝とう」みたいな感覚ではなく、「阿吽の呼吸でお互いの存在を引き立てようとしている」みたいな印象で、凄く良い関係性だなと感じた。

しかし、そんな2人が語るエピソードは相当にハードだった。地震発生直後からの怒涛の展開を楽しそうに語るのだが、映像にしたら「パニックもの」みたいな状況なのである。「家の土台が折れたのが分かって、家にいたまま1kmぐらい流された」とか、「イカダで川を下ってたら、水面と橋の感覚がもの凄く狭くなってて、ぶつからないように祈りながら通り抜けた」など、なかなか凄まじい。しかしそんな話を、「ジャッキー・チェンみたいだったね~」みたいなテンションで話すのである。

もちろん、この夫婦は家族・親戚・従業員に震災で亡くなった者がいなかったようで、そういう背景もあって「笑い話的に話せる」みたいなこともあると思う。すべての人が震災の経験をこんな風には語れないだろうし、この夫婦にしたって、彼らの阿吽の呼吸あってのこのテンションなわけだ。その辺りのことは理解しつつ、それでも、「内容と語り口のギャップ」がとても印象的に感じられた。また、詳しくは触れないが、「入院する夫を置いて妻が戻ってしまった時の感情」や「震災を機に妻の実家のある町に引っ越さざるを得なくなったことの心境」など、色々と興味深い話をしていた。

さて、本作では最後に登場する姉妹の話も印象的だった。新地町に住んでいた2人は、今は車で10分ほどの南相馬で働いているらしいのだが、彼女たちは「東京組との差」みたいな話をしており、興味深かった。

「東京組」というのは、「新地町出身だが、東京に避難した人たち」のことを指している。そして彼女たちは、「東京組の人たちも新地町について色々考えてくれているのは分かるけど、でもやっぱり、地元に残っている人の意見をちゃんと聞いてほしいと思う」みたいに言っていたのだ。具体的にどんなやり取りをしているのか分からないが、町の運営に関することなのだろう。そして、「意見を出してくれるのはありがたいけど、結局やるのは地元にいる人間なんだから」と語る妹の意見には、「そうだよなぁ」と感じさせられた。そんなわけで姉妹は、とりあえず今のところは、新地町からあまり遠くない場所に住もうと考えているようである。

また、「海」に対する感覚も興味深かった。妹が、「岩手の方みたいに、デカい防波堤にはしてほしくない」みたいな話をする。海のすぐ傍で育った彼女たちは、「海を実感できる生活」が存在することに大きな価値を抱いているようだ。だから、「海の近くに住めなくなるのは仕方ないとしても、町のどこかからは海が見えたり、海が感じられたりしてほしい」みたいに言っていた。

この点に関しては、姉の方がより踏み込んだ発言をしていたのが印象的である。彼女は、「震災直後からこのことは考えていたけど、いつ話せばいいかよく分からなかった」と前置きをしながらも、「自然の中で人間が”勝手に”生きているんだから、それを人工物で区切るのは違う気がする」みたいに言っていた。彼女のこの意見には、「自然と共に生きるのなら、そのマイナスも受け入れるしかない」みたいな感覚がある。この姉妹も、親族に震災による死者がいなかったらしく、だから余計にこういう話はしにくそうだったが、姉は明確に、「海が近いなら津波は起こるし、それは受け入れた上で住むしかない」という感覚を持っているようである。妹は、姉が「東日本大震災後」による被害を割と楽観的に捉えていたという認識を持っていたそうなのだが、姉のこの感覚を聞いて「納得した」と口にしていた。

このような話は特に、姉も言っていたが「普通には表に出てこない」ように思う。少なくとも、このような姉の意見は「テレビのニュース」では絶対に取り上げられないし、逆に「ネット上では「誹謗中傷」が殺到するみたいな感じになりそうである。「酷い災害だったから、皆が同じような感覚を持っていなくちゃいけない」みたいな謎の風潮を感じるが、そんな必要はないはずだ。もちろん、時と場をある程度は選んだ上でではあるが、自分の心が赴くままに感じ、考えればいいと思う。そういう意味でも、この姉の意見は結構印象に残っている。

さて今度は「震災らしい意見」を取り上げよう。こちらも個人的には「なるほどなぁ」と感じさせられた。

税理士であり議員もしているという男性が1人で(というか監督と)話をするのだが、その中で妻のある決断のエピソードを取り上げていた。妻が働いていた建物は古かったため、震災直後の大きな揺れの直後は、皆すぐに建物から出て避難したそうだ。しかし、揺れが収まった後、妻は「間違いなく津波が来る」と考えたそうだ。そしてだとしたら、建物から出たこの場所はとても危ない。そこで彼女は、「津波被害を避けるために、再び建物に戻る」という決断をしたのである。結果として妻のこの決断は、多くの人を救うこととなった。

税理士の男性は、「あの時は、こういう決断を迫られる状況が山程あった」と語る。その決断如何で、命を落としたり助かったりしたのだ、と。確かに、彼の妻の場合、「津波が来る前にもう一度大きな揺れが来たら、建物が倒壊する可能性がある」という状況に置かれていたわけだ。そんな中で、「津波の危険の方が高い」と判断し、皆をもう1度建物内に避難させた。非常に難しい決断だと言えるだろう。潜水士の夫婦もそうだったら、「あそこで違う決断をしていたら……」みたいな状況に何度も遭遇している。そんな経験を多くの人がしているという点が、災害の凄まじさを伝えるように思う。

またこの税理士の男性は「津波てんでんこ」についても話していた。「津波てんでんこ」については東日本大震災後に割と取り上げられることが多かったので知っていたが、「地震が起こったら、他の家族のことは気にせず、まず自分を助けるために逃げる」という昔から伝わる教えである。実際、この「津波てんでんこ」を普段から実践していた鵜住居小学校と釜石東中学校では、生徒の被害はほとんどなく、「釜石の奇跡」とも呼ばれていた

税理士の男性は、「一度家族の縁を切る(家族で集まって逃げるのではなく、それぞれが勝手に逃げる)ことで、再び縁を繋ぐことが出来る」という印象的な言葉で「津波てんでんこ」を評価していた。そして、「この精神がもっと『当たり前のもの』になってほしい」とも話していた。

一方で、冒頭で登場した高齢の姉妹も「津波てんでんこ」について言及しており、確か妹の方だったと思うが、「家族を見捨てるような悲しさがある」と話していた。実際に知り合いが、「自分の母親が津波に呑み込まれる様子」を見ていたという。母親が「自分を置いて逃げろ」と言ったそうなのだが、そうは言ってもやはり、「見捨ててしまった」みたいな感覚になってしまいもするだろう。頭では理解できても、心がついていかないみたいな感じだろうか。

そんなわけで、観る人によって気になるポイントは違うんじゃないかと思う。対話者たちは、とても個人的な話をしているわけだが、その対象が「東日本大震災」であるが故に、否応なしに「真理」みたいな性質も帯びることになる。「経験した者にしか語れないこと」はやはり重いし、しかしそんな「重い」はずの話を実に軽妙に語ってくれる(ことが多い)ので、重苦しくなりすぎない。

僕は、東日本大震災後に何年か岩手県に住んでいたことがあるぐらいで、「東日本大震災」や「東北」に馴染みがあると言えるような感じではないが、それでも、「少しの間住んでいた」という事実は僕の中で、それらとの繋がりみたいなものを感じたりもする。「東日本大震災」は、僕が生きてきた中で言うと「地下鉄サリン事件」「阪神・淡路大震災」「9.11テロ」「コロナのパンデミック」ぐらいしか比較対象が存在しないと思えるぐらいの凄まじい出来事であり、多くの人にとって人生観や生きる意味みたいなものを塗り替えた出来事だったんじゃないかと思う。

だから僕は、機会があれば「東日本大震災」に関係するものに触れたいと思うし、本作は久々にそのような機会になったというわけだ。

「なみのおと」を観に行ってきました

本作を観たのは完全に、河合優実が主演だからだ。それ以外の理由はない。

しかし観ながら、「もし河合優実がいなかったら、誰を主演にしたんだろう?」と考えさせられた。それぐらい、河合優実がズバッとハマっている感じがある。

さらに、「もし河合優実がいなかったら」にも、本作に関係する話がある。というのも、河合優実が役者を目指すきっかけになったのが、本作監督である山中瑶子が初監督した映画『あみこ』を観たことがきっかけだからだ。『あみこ』を観た河合優実は衝撃を受け、山中瑶子に「いつか出演したいです」と書いた手紙を渡したそうなのだ。

つまり、山中瑶子がいなければ女優・河合優実は存在しなかったかもしれないのである。本作に対して「もし河合優実がいなかったら」という表現を使うのは、そういう意味でも適切だと言っていいだろう。

河合優実の何が凄いのか、僕には上手く言語化出来ないが、映画冒頭を観ながら考えていたことがある。

冒頭、河合優実演じるカナは、新谷ゆづみ演じる友人・イチカと喫茶店で喋るシーンから始まる。そしてそのシーンを観ながら、「もしも新谷ゆづみがカナを演じていたらどうだろうか」と考えてしまった。

たぶんそれはあまりしっくり来ない。というのも、新谷ゆづみは見た目の可愛さがパキッとしているので、「容姿が発する情報が多い」という印象になってしまう。それはつまり、「それ以外の情報を配置しにくい」という意味でもある。もしも新谷ゆづみがカナを演じていたら、「カナが作中で繰り出す様々な奇行」に対して、「何らかの意味」が付随してしまうように思う。そしてそれは、本作の雰囲気にとってはあまり良くないだろう。

一方、河合優実は、どう表現すればいいのか難しいが、「絶妙な可愛さ」を有しているという感じがする。これはつまり「可愛すぎない」という意味だ。だから「容姿が発する情報」が少なくなる。だから、河合優実演じるカナの振る舞いに対しては様々な意味付けが可能になるし、それは、観客の焦点を常に反らし続けているように感じられる本作の雰囲気に、とても合っている感じがしたのだ。

そして、似たような感覚を抱かせる女優のことも、映画を観ながら思い浮かべていた。岸井ゆきのだ。彼女も「絶妙な可愛さ」という感じで、岸井ゆきのと河合優実には同じような雰囲気を感じる。だから、年齢さえ合えば、岸井ゆきのも本作の雰囲気にハマる気がする。でも、他に誰がいるだろう? 僕にはちょっと、パッとは思いつかない。

そんな河合優実が演じたカナは、実に捉えがたい存在だ。ただ同時に、誰もが「こんな風でありたい」と感じてしまうんじゃないかと思うような、「むきだしの生」みたいなものを感じさせられた。

「社会の中で生きていく」というのは概ね、「『自分らしさ』みたいなものを押し殺して良き場所にハマるピースとして存在する」みたいなところがある。本作でも、カナは職場である脱毛サロンでそんな雰囲気を醸し出していた。自分は今「一個の人間」ではなく「社会の中に配された部材」であるみたいな感じ。そしてそれはきっと、僕を含めたごく一般的な人が内心のどこかに抱えている感覚ではないかと思う。

でもカナは、職場を一歩離れれば、「部材」であったことなどするっと忘れてしまう。親友や恋人や浮気相手の存在も全部フラットになって、「カナ」という存在だけが存在しているような感覚。カナの存在はアメーバみたいに不定形となって、何かに囚われたりしないで自由に伸び縮みする。「社会性」みたいなものを全部投げ出したまま社会の中で屹立している感じがあって、たぶんそんな彼女の雰囲気には、ある種の憧憬を抱かされてしまうみたいな人も結構いるような気がする。

「自由だなぁ」って。

でも、カナが自由なのかは、よく分からない。「自由」というのは、「『やりたいこと』や『目指す地点』が存在し、それに向かう際に抵抗が存在しない」みたいなイメージがあるが、そもそもカナには「やりたいこと」も「目指す地点」も存在しないように思える。「やりたいこと」も「目指す地点」も無いのに「自由」とはどういうことだろう? 「そういうもの一切を持たないこと」が「自由」なのだろうか? いずれにせよ、僕にはカナは、特に「自由」には見えなかった。「日本はこれから、少子化と貧困で終わるので、当面の目標は『生存』です」っていうセリフも、彼女のそんな雰囲気を重ね塗りしていく感じがある。

ただ、「自由」の話なのかどうかは分からないが、ある場面でカナが口にする、「思ってることとやってることが違う人が怖い」って話は、なんとなくカナの本質を衝くような話に感じられた。

カナは、思ったことを口にするし、したいと思ったことをする。カナにとっては、それが自然なことで、それ以外のやり方があるようには思えない。でも、どうやら世の中は違う。思っていても言わないし、したいと思ってもやらない。世間的にはそれが当たり前みたいだけど、そんなのなんか怖い。意味が分からない。

カナはたぶん、そんな風に考えている。

『ナミビアの砂漠』というタイトルにどんな意味が込められているのかちゃんとは分からないが、作中ではっきり提示されるものとしては、カナがよく観ている動画がある。恐らく「ナミビアの砂漠」なのだろう場所を映したYouTubeのチャンネルか何かで、牛が水を飲んでいたりする。彼女がどうしてそんな動画を観ているのかは分からないが、僕の解釈では「『ナミビアの砂漠』の動画を観ることには意味がない」のではないかと思う。そうではなく、「『違和感だらけの社会』を見ずに済むためには何か別のものを眺める必要があり、それがたまたま『ナミビアの砂漠』の動画だった」ということなんじゃないかと思う。分からないけど。

カナはある場面で、「映画なんか観てどーなんだよー」と口にするのだが(それを「映画」の中で言わせるのもなかなか面白い)、たぶんカナは「人間」のことが上手く理解できないんだと思う。それが象徴的に描かれるのが、冒頭のシーンだろう。親友(だと思う)のイチカが、「かつての同級生が自殺した」「その子から死ぬ前日に久々に突然電話があって話をした」みたいな話をしているのだが、カナは自分の後ろの席で「ノーパンしゃぶしゃぶ」について話している男3人の会話に気を取られているのだ。全然聞いてない。たぶん、まったく興味がないんだと思う。それは、「イチカの話」にではなく「イチカ」に。

他の場面でも、カナが他人に何らかの関心を向けているシーンがほとんどなかった気がする。付き合っている相手に対しても、たぶん同じだと思う。好きな理由もないし、嫌いな理由もない。

そういうカナの雰囲気から、「『人間』のことが上手く理解できないんだろう」みたいに感じさせられた。そして恐らくその理由が、「思ってることとやってることが違う人が怖い」という部分にあるんだろうな、と。

ただ、一方でカナは、周りにいる人から好かれる。「好かれる」と書くとちょっとズレるかもしれないが、「必要な存在だと認識される」と書くともう少し正確になるだろうか。たぶんだけど、それはきっと「むきだしの生」に惹かれているんだと思う。社会に生きるほとんどの人が、本質的な部分を上手く覆い隠して、つまり、「『むきだしの生』を隠す」ようにして生きている。だから、カナのような人間は稀有だし、人を惹きつける。自分には真似できない生き方に惹かれるから、関わりたくなる。特に、カナと付き合うハヤシとホンダはより強くそのような感覚を抱いているわけだが、そうではない人たちも、何らかの形でカナの引力に引きつけられている。

カナは、社会から浮いているのだが、浮いているからこそ周りの人を惹きつけ、それ故に社会に留まることが出来ている。そんな矛盾めいた生き方にきっと、観客も惹きつけられるのだと思う。

そんなわけでとにかく、カナの存在感、つまり河合優実の存在感が凄まじかったし、ほぼそれだけで作品が成立しているような感じがあった。だから、河合優実じゃなかったら誰がこの物語を成立させるんだって感じがするし、だから山中瑶子と河合優実がずっと前に出会っていたというのは、なんか凄いことのように思える。

「カナには居場所があるのか?」と考えるが、やはりそれは自己矛盾みたいなところがあるだろう。というのもカナの場合、「社会から浮いていること」がある種のアイデンティティみたいになっているわけで、だから、「落ち着けるような居場所」があったら、それはカナの存在を根幹から揺るがすような感じもする。

ただ、「カナはカナのままでありたいのか?」という点は考える必要があるだろう。もしもカナが、「今の自分」を捨てたいと感じているのであれば、「社会から浮いていること」というアイデンティティにこだわる必要はなくなる。いや、カナは別にその点にこだわっているわけではないだろうが、恐らく社会にうまくハマれたことなどなかったはずで、結果としてこだわっているように見えるというわけだ。で、「そんな自分を捨てたい」と考えているのなら、いずれ居場所も見つかるだろう。

でも、そんなカナは想像出来ない。自分を愛してくれる人に対してもいじわるで暴力的にしか振る舞えないカナのことを、なんだかんだみんな好きになっていくわけで、「そうじゃないカナ」が存在する気がしない。そう思わせるぐらい、カナの存在感はとてつもなかったし、そんな存在感を見事に発揮した河合優実の演技には圧倒された。

ストーリーと言えるようなものは、ほぼ無い。主に、ハヤシとホンダという2人の男を巡ってあーだこーだしているわけだが、しかし、そのあーだこーだそのものにはさほど意味はないだろう。「カナの行動には意味がない」ということを浮き彫りにするために様々な状況が存在すると言えるわけで、観れば観るほど「空虚の穴」が広がっていくみたいな感じがした。137分の映画だそうだが、その間ずっと「空虚」を描き続けているわけで、凄い映画だなと思う。

あと、観ていてびっくりしたのは、唐田えりかが出てきたこと。久しぶりに見たなと思う。

まあとにかく、「河合優実が凄かった」という感想に終始する映画である。デビューからまださほど経っていないはずなのに、本当に快進撃だなと思う。「アイドル的人気」みたいな形で売れたケース以外では、このスピードは超絶異例じゃないかと思う。凄い人がいたもんだ。

「ナミビアの砂漠」を観に行ってきました

天才作曲家チャイコフスキーの妻は、「世紀の悪妻」と評されているそうだ。本作の予告を観るまで、そもそもその事実を知らなかった。そして本作は、そんな妻アントニーナの視点で結婚生活を描く物語である。

ただ、先に書いておくと、本作は「実話」というわけではなさそうだ。映画の最後に、「実際にはアントニーナは、夫と別居して以来、40年間夫と会うことはなく、1917年に精神病院で亡くなった」と字幕で表記されるからだ。ただ、公式HPによると「史実に従ってはいる」そうだ。つまり、アントニーナ以外の描写は可能な限り事実を描きつつ、アントニーナだけは大胆に改変した形で描き出したということだろう。

まあそんな作品なので、どの程度本作で描かれるアントニーナを「実像」として捉えればいいか分からない。ただ、「アントニーナは本当に悪妻だったのか?」という観点から描き出す本作の描写には、個人的には結構納得できた。チャイコフスキーには以前から「同性愛だった」という噂があったそうで、ただ、ロシアではその事実はタブー視されていたのだという。本作では、その事実をはっきりと描きながら、アントニーナの狂乱の人生を追おうとする。そして、「チャイコフスキーが同性愛者だった」というのが事実であるとすれば、アントニーナの葛藤や狂気も分からないではないという感じがする。

さて、そもそも、物語の舞台である19世紀末のロシアの「結婚」に関する知識をまとめておこう。当時「教会婚」はかなり厳しいものだったようで、皇室か裁判所の決定がなければ離婚が許されなかったという。また、「妻は夫の所有物」という感覚が明確にあったそうで、妻には選挙権は無く、また、夫の旅券には妻の名が記載されたそうだ。

このような時代に結婚したチャイコフスキーとアントニーナは、「離婚」で苦労する。「絶対に離婚したいチャイコフスキー」と「絶対に離婚したくないアントニーナ」の闘いである。しかしこの闘い、完全にチャイコフスキーが弱い立場である。離婚のハードルがもの凄く高いのだから、「離婚したい!」と思ってもそう簡単にはいかないからだ。

作中には、離婚に向けた協議のシーンも映し出される。アントニーナは出席しているが、チャイコフスキーはその場にいず、弟や関係者が代理で出ている。さて、そこに至るまでにお互いの弁護士が色んな調整をし、あとはアントニーナが署名をすれば離婚成立という状況になっていた。しかし、ここでアントニーナは署名しない。何故か。

それは、「夫が不貞を働いた」と記されていたからである。

当時のロシアでは、「離婚に至る理由」が必要とされた。つまり、「婚姻を継続できない理由」である。しかし、アントニーナにはそんなものはない。チャイコフスキーも、同性愛者だと明らかにするわけにはいかず、そしてだとすれば、「妻とは暮らせない理由」など表向きには存在しないことになる。

だから、離婚するためには「どちらかが不貞を働いた」ということにするしかないのだ。そしてチャイコフスキーは、自分が不貞を働いたということになってもいいから離婚したいと考えているのである。

しかし、自分が署名を求められている文書に「チャイコフスキーが不貞を働いた」と記されているのを見て、アントニーナは「夫を悪く言うようなことはしません」と署名を拒絶する。こうして、離婚が成立することはなかったのである。

さて、本作を観る限り、アントニーナが「悪妻」と言われる理由はないように感じられた。いや、「断じて離婚をしなかった」という点を以って「悪妻」だと言っているなら話は別だが、そうではないなら、アントニーナは単に「チャイコフスキーを愛しすぎただけ」である。ネットで調べてみると、どうやらチャイコフスキーは、結婚からたった20日間で結婚生活に限界を感じ逃げ出したのだそうだ(映画を観ている感じ、そんな早いとは思わなかった)。

確かにチャイコフスキーは、「自分は女性に愛情を感じたことはない」「兄と妹のような関係になれるのなら結婚を申し込もう」みたいなことを言っている。「同性愛者」だとは打ち明けていないが、チャイコフスキーとしてもかなりギリギリのことを伝えようとしたようだ。そんなチャイコフスキーが結婚しようと考えたのは、まあやはり世間体とかそういうことだろう。ロシアに限らないが、一昔前は「同性愛者」など認められていなかったのだから、「同性愛者ではない」という証明のためにアントニーナを利用しようと考えたのだと思う。

しかし、そんな思惑は上手くいかなかった。アントニーナはチャイコフスキーを深く愛していたため、色々と世話を焼きたいし、もちろんセックスもしたい。そしてチャイコフスキーとしては、そんな風に「求められること」に限界を感じたということなのだろう。

そしてそうだとしたら、アントニーナはちょっと可哀想すぎるなと思う。少なくとも「悪妻」と呼ばれる謂れはないだろう。

ただチャイコフスキーとしても、「全面的に自分が悪かった」とは言っている。いつ誰がアントニーナを「悪妻」と呼ぶようになったのか知らないが、少なくともチャイコフスキー自身は、自らに非があるとちゃんと理解していたようだ。

ただ、そんな風に言われてもアントニーナとしては困る。別に謝ってほしいわけではないのだ。アントニーナはある場面で、「あなたが私のことを愛していないのは知っている。でも私はあなたのことを愛している。一緒に暮らしてくれるなら軽蔑してくれてもいい」とチャイコフスキーに言っています。もちろん、冒頭で書いた通り、アントニーナは実際、別居してからチャイコフスキーには一度も会っていないわけで、「このセリフを直接チャイコフスキーに伝えた」というのは事実ではない。ただ分からないけど、自伝(アントニーナは自伝を出版しているようだ)や手紙には書いていたんじゃないかと思う。

さて、そんなわけで、アントニーナが唯一望んでいたことは、「チャイコフスキーと一緒に暮らすこと」だった。けれどもチャイコフスキーとしては、それこそ最も避けたいことだったのである。だから、2人の想いが交わることはない。関われば関わるほど双方が傷つくという、最悪な状況になっていくのだ。

ただ、「どちらが悪いのか」という話はなかなか難しい。チャイコフスキーは、「自分の都合のためにアントニーナを利用して結婚した」という点が圧倒的に良くないわけだが、しかし、「同性愛者」であるという事実を抱えながら生きていく辛さももちろんあっただろう。またアントニーナの方は、しばらくの間まったく非は無いように思えるが、「徹底して離婚しなかった」という点はやはり頑固過ぎた気もする。ただし、当時は女性の立場が圧倒的に低かったことを考えると、「仮に望むような結婚生活を送れないとしても、『誰かの妻でいる』ことの方がプラスだった」という可能性もあるだろう。そんな風に考えると、善悪を考えるのが難しくなる。

ただし、ある場面である人物が、「天才は何をしても許される」と口にするように、最終的には「国の宝」のように評価されているチャイコフスキーが”勝つ”ことになるのも、まあ避けられないだろうなとも思う。どれだけアントニーナの言動に「理」があろうと、それは通らない。ある人物は、「太陽と結婚した後で火傷について文句を言うのはバカ」みたいに言うのだが、それはきっと、当時のアントニーナに対する大方の反応でもあったのだろうと思う。

ただ、やはり難しいなと感じたのは、当時の女性たちの反応である。まあ本作では「アントニーナの母親」の反応ぐらいしかまともに描かれないが、母親は「女はどうせバカにされるんだから、さっさと離婚しろ」みたいなことを言う。とにかく、アントニーナに寄り添う気はなさそうだ。「女性全体」が厳しい状況に置かれている中で、「女性同士が共闘出来ない」というのはなかなか辛いことに思えるし、そんな中でよくアントニーナは孤軍奮闘したなと思う(まあ、映画で描かれていることは事実ではないわけだが)。

しかしホントに感じたのは、この2人は出会わない方が良かったんだろうなということ。アントニーナとしては「チャイコフスキーと共に生きていくこと」こそが「幸せ」だったわけだけど、そもそも出会いさえしなければそんな風に思うこともなかったわけだ。ホントに、出会ってしまったことが何よりも不幸なのだと、強くそう感じさせられた。

「チャイコフスキーの妻」を観に行ってきました

宗教(一神教)と妖怪は似ていると思う。

民俗学に詳しいわけではないので的外れかもしれないが、「妖怪」というのは基本的に、「当時の知識では説明できない出来事に理屈を付けるため」に生み出されたはずだ。例えば「木霊」という妖怪。樹木に宿るとされる精霊だそうだが、「やまびこ(山で大きな声を出すと反射して聞こえる現象)」は、この「木霊」が起こしている現象だとされている。現在の知識では「やまびこ」はまた違う説明がなされるはずだが、当時は理屈が分かっていなかったため、「木霊という妖怪の仕業」ということにしていたのである。

もちろん、すべての「妖怪」がそのように説明されるわけではないと思うが、それは僕の理解では、「『妖怪』という存在が世間に広まったことで、理屈関係なく『妖怪』を作り出そうという動きが生まれたから」だと思っている。「原初の妖怪」はたぶん、「理解不能な現象に理屈を付けるため」に生み出されたはずだ。

さて、僕の理解では、一神教もそれに近いものがあると思っている。例えば昔は、「地上」と「天上(宇宙)」は異なる理屈によって支配されていると考えられており、「天上」を統べているのは「神」だとされていた。「太陽が上ること」や「星の運行」はすべて「神が行っている」と考えられていたのである。これもまた、「理解不能な現象に理屈を付けるため」という背景があると考えられるだろう。

さてしかし、一神教と妖怪では大きく違う点がある。それは「人間が介入出来るかどうか」である。

これも僕の勝手な理解だが、「妖怪」の場合は、「妖怪がやってるからしょうがいないよねー」という風に扱うために作られたように思う。「理解不能な現象」に対して何か思い悩んでしまうのではなく、「理解不能な現象」について意識を向けないように名前を付けておくみたいな感じがする。

しかし一神教は違う。何故僕がそう感じるかと言えば、「お祈り」という行為が存在するからだ。

宗教についても別に詳しくないので僕の勝手な解釈でしかないが、「お祈り」というのはやはり、「何かを願う行為」に感じられる。もちろんそうではない場合もあるだろう。ネットでざっくり調べると、「祈りとは『神との対話』であり、内的な変化を期待するもの」という説明もあった。それももちろん理解できる。ただ、「お祈り」にそのような機能が存在するとして、それはやはりきちんと学ばないと血肉化して理解することは難しいだろう。だからやはり、「お祈り」と聞くと「願い事をする」という発想になってしまう気がする。

本作『僕はイエス様が嫌い』の中にも、「お祈り、意味なかったですね」というセリフが出てくる。どういう経緯でこの言葉が出てくるのかには触れないが、これは「願い事は届かなかったですね」という意味で使われている。この言葉を発する者もやはり、「お祈り=願い事」と考えているというわけだ。

さて、これも僕の勝手な解釈だが、一神教の場合は、「すべてを司る存在」としての「神」が登場するからこそ、「願いが届けば叶えてもらえる」という発想になりがちなのではないかと思う。そして僕には、この発想が良いものにはちょっと思えない。

例えば、キリスト教についても特に詳しくないわけだが、なんとなく、「神は乗り越えられない試練を与えない」みたいな発想があったような記憶がある。そして僕にはこれは、「『祈りが届かない』という状況を納得させるための言説」にしか聞こえない。「祈りが届かない」のではなく、「届いているかもしれないが、神の判断で、必要な試練が与えられた」みたいな解釈をしているように思えるのだ。

それが僕には、なんかしっくりこない気がしてしまう。

もちろん日本でも、例えば浄土宗は「『南無阿弥陀仏』と唱えるだけで救われる」みたいに言っていて、これも発想としては「唱えることで願いが聞き入れられる」的なものに近い気がする。決して一神教に限る話ではないと思うが、そういうこともあり僕は、「宗教」というものが全般的にどうも好きになれない。

もちろん、一応書いておくが、「宗教を信じている人」を貶めたりするつもりはまったくない。犯罪行為は倫理的にマズいことをしていない集団であれば、何を信じようが自由だ。「宗教」の存在によって救われている人がいるのも事実だろう。ただ僕は、誰かに何か宗教に誘われても、まったく信じる気がないというだけである。

さて、「宗教」の話になると毎回思い出す話がある。昔、何かの心理学の本で読んだエピソードだ。

どこかの国である主婦が突然、「私は神のお告げが聞こえた!」と主張し、宗教団体を立ち上げた。何故か信者が増えていったその団体に、研究のためにある心理学者が潜入したという。その宗教団体は「終末思想」を掲げており、「◯年◯月◯日に世界が滅びる」みたいな予言をしていたそうだ。その日付は遠い未来のものではなく、割と近い日付であり、だからその宗教団体の面々は、その予言された日を迎えることになった。

当然、世界が滅びたりはしていない。つまり、元主婦の教祖の予言は外れたことになる。さて、その後信者たちはどうなったのか。なんと、より一層その宗教を信じるようになったのだそうだ。何故か。それは、「私たちの祈りが届いたお陰で、終末が回避された」と考えるようになったからだそうだ。僕は「宗教」とか「祈り」とかについて考える際、このエピソードのことを毎回思い出す。

人間は、物事に意味を見出すのが得意だ。スポーツ選手なども、「赤いパンツを履いた日に勝っている」という理由で、ずっと赤いパンツを履いたりするみたいな人がいるだろう。「ゲン担ぎ」とか「ジンクス」みたいに言われるが、正直なところ、そこに因果関係などないはずだ。それをやっている本人も、大体の場合、因果関係がないことなど分かっているだろう。それでも、そうしたくなってしまう。そういう性質が、人間には元々備わっているのだろう。

だから「祈ること」と「未来の変化」を結びつけて考えてしまいたくなるというわけだ。難しいものだと思う。

なんかそんなことをあれこれ考えさせられる映画だった。

内容に入ろうと思います。

物語は、主人公・星野由来の一家が父親の実家へと引っ越す場面から始まる。状況ははっきりしないが、何か事情があって実家に身を寄せざるを得なかったそうだ。当然、由来は転校することになった。そしてその転校先の小学校が、キリスト教系だったのだ。授業の一環として礼拝が存在し、日曜日には市民にも開放される立派な礼拝堂がある。

ある日彼は、一人で礼拝堂に忍び込んだ際、目の前に小さなイエス様が現れて驚かされた。その後もその小さなイエス様は、おじいちゃんが使っていたレコードの上やお風呂のアヒルの上など様々な場所に現れるようになった。もちろん、由来にしか見えていないのだが、彼はその小さなイエス様にお願い事をすると叶うようだと気づくようになっていく。

一方、家族から「友達が出来たのか」と心配される由来は、和馬という友達が出来た。お互いの家を行き来したり、和馬が持っている別荘に連れて行ってもらうなど、家族ぐるみでの関係になっていく。しかしそんなある日、思いもよらない出来事が起こり……。

さて、物語としては非常に小粒なのだけど、なんだかんだで観させられてしまう物語だった。メチャクチャ面白いというわけではないが、じんわり来る。主人公のセリフが少ないことで、「彼が一体何を考えているのか」という想像する余白が生まれ、恐らく内面であれこれと渦巻いているだろう心情を観る人がそれぞれに受け取ることが可能になる。そして。映画を観終えて公式HPをチェックするまで知らなかったが、これを撮影した当時、監督は青山学院大学に在学中の学生だったそうだ。それはちょっと凄いな。「普通に」という言い方はおかしいかもしれないが、普通に商業映画としてのクオリティが保たれていると感じた。凄い人はやはり凄いんだなぁ。

さて、「宗教」が好きになれない理由について冒頭でウダウダ書いたが、他にもある。それは結局のところ、「内心に踏み込んでくるから」である。

本作には、「由来の担任教師」や「和馬の母親」など、キリスト教を熱心に信奉している人が出てくる。そして彼らは、「お祈りを捧げる”べき”」というスタンスで話をしてくるのだ。もちろん、担任教師は「キリスト教系の学校の教師」として、そして母親は「自分の息子に対してだけ」そういう発言をするので、まあ許容範囲内と言えばその通りだろう。しかし僕は、そのような言動も好きになれない。相手がどういう立場にあろうと、「他人の内心に足を踏み入れるような行為をする人」は好きになれない。というか、はっきり言って嫌いだ。

由来が通う小学校が公立なのか私立なのかよくわからないが、いずれにせよ、東京から引っ越してきた由来には「近くにある小学校」はそこだけであり、他に選択肢などない。他の子どもも同様だろう。あるいは、仮に選択肢があったとしても、親が「キリスト教系の学校に入れたい」と思えばそうなる。つまり、この小学校に通っている子どもには、「キリスト教系の学校に通いたいと望んでいた子」はいないはずなのだ。

そして僕は基本的に、そのような状態で「内心を矯正・強制するような行為」はすべきではないと考えている。

でも、キリスト教はそういうことするんだよなぁ。

以前観た映画『沈黙』は、遠藤周作の原作を映画化したハリウッド映画だが、この中のあるシーンも非常に印象的で、宗教について考える時には毎回思い出される。当時の日本の権力者(たぶん織田信長)とキリスト教の宣教師が会話をする場面で、権力者は、「君たちの宗教を否定するつもりはないが、今の日本には向かない」みたいなことを言う。それに対して宣教師が、「キリスト教は真理にたどり着いた。真理とは、どの時代・どの場所でも正しいということだ。もしも、日本でそれが正しくないというのであれば、それは真理ではない」みたいなことを言うのだ。

僕はこのセリフに唖然としてしまった。キリスト教、マジでやべぇなと思ったのである。

もちろんこれは、映画が描かれた時代(戦国時代か?)の話であり、現代のキリスト教が同じ考えを持っているのかは知らない。でも、なんとなくのイメージでは、「そういうこと考えていそうだなぁ」という気がする。そしてそうだとしたら、メチャクチャ嫌だなぁと思う。

そんなわけで、「僕はキリスト教が嫌い」なのである。まあ、キリスト教に限らないのだが。

映画の最後に、「この映画を若くして亡くなった友に捧ぐ」という字幕が表記された。そこに監督のどのような想いが起こっているのか、正直はっきりとは分からないのだが、本作全体の内容を踏まえれば、やはり監督自身も「お祈り、意味なかったですね」みたいなことを感じたのかもしれない。もしもそうだとすれば、監督自身の実感が籠もった作品と言えるのだろうと思う。

個人的には、由来が先生からある頼まれ事をされた際に「大丈夫です」と答えていたのが印象的だった。この時点で間違いなく、由来は「お祈り」の無力さを悟っていたはずだが、しかし「お祈り」も頼まれながら断らなかったのだ。ここにはある種の「諦念」があったように僕には感じられた。つまり、「この先生と自分は別の世界を生きていて、わかり合えない」みたいな感覚だったんじゃないかと思うのだ。そして僕の想像が正しければ、「まあそうだよな」と思う。

まあそんなわけで、キリスト教のことをボロクソ書いたが、キリスト教についてはこんなエピソードも思い出される。何の本で読んだか忘れたが、ある人物が子どもの頃に授業に神父がやってきた時の話を書いていた。その人物は理路整然と聖書の矛盾などを指摘したため、神父は「聖書なんかより君の方が正しい」と言ったそうだが、さらに続けて、「この本(聖書)に救いを求めないと生きていけない人がたくさんいることも知ってほしい」と言ったというのだ。だから僕は、全然キリスト教を否定するつもりはない。「嫌い」だが「悪い」と思っているわけではないというわけだ。

映画の話にはほとんど触れなかった気がするが、まあそんな感じである。

「僕はイエス様が嫌い」を観に行ってきました

なるほど、『けいおん!』の人が監督なのか。ということさえ知らないまま観に行った。っていうか『けいおん!』も観てないし。

しかし、良い映画だったなぁ。「何が良かったのか」と聞かれるとなかなか上手く説明できないのだが。

ただ、公式HPのトップページに、「山田尚子監督の企画書より」と題された文章があり、これがとても良かったので、まずは全部引用したいと思う。

【思春期の鋭すぎる感受性というのはいつの時代も変わらずですが、
すこしずつ変化していると感じるのは「社会性」の捉え方かと思います。
すこし前は「空気を読む」「読まない」「読めない」みたいなことでしたが、
今はもっと細分化してレイヤーが増えていて、若い人ほどよく考えているな、と思うことが多いです。
「自分と他人(社会)」の距離のとり方が清潔であるためのマニュアルがたくさんあるような。
表層の「失礼のない態度」と内側の「個」とのバランスを無意識にコントロールして、
目配せしないといけない項目をものすごい集中力でやりくりしているのだと思います。
ふとその糸が切れたときどうなるのか。コップの水があふれるというやつです。
彼女たちの溢れる感情が、前向きなものとして昇華されてほしい。
「好きなものを好き」といえるつよさを描いていけたらと思っております。】

解像度が高い文章でいいなぁ、と思う。いや、別に僕は「若者に詳しい」つもりもなく、上から目線(のつもりはないけど)で評価できるような立場ではないのだが、でも、メチャクチャ分かるなぁと感じた。

ちょっと話がズレるかもしれないが、最近「マルハラ(文末に「。」を付けるハラスメント)」というのが言語化されるようになった。その是非はどうでもいいのだが、この話から分かることは、「若い人たちは、『文末の「。」1つ』からも様々なことを読み取ろうとする」ということだ。

もちろんそういう「繊細」と呼ばれるタイプの人はどの時代にもいたと思うが、今の若い人たちの特徴は、「それが当たり前になっている」ということだと思う。山田尚子の文章の中の「清潔」という単語が絶妙だと思うのだが、彼らは「自分はちゃんと『清潔』だろうか?」という観点から人間関係やコミュニケーションを捉えているはずで、それが若い世代全体のデフォルトになっているように僕には感じられる。

そう、もはや「空気を読む/読まない」みたいな解像度では若い世代のコミュニケーションを語ることは出来ず、言語化して捉えることが出来ないような非常に細やかな「気遣い(目配せしないといけない項目)」によって関係性が成り立っているというわけだ。

しかし、当然のことながら、そんな日常は大変だ。若い人たちは「人間関係」にもの凄くコストを支払っている。だから「『仲が良い人』が少ない」と悩んだりするし、「恋愛は無理」と感じたりするのだと思う。

そして本作の良いところは、そういう「若い世代がナチュラルに抱えている大変さ」が「大前提」のように描かれている点だろう。いや、正確には「描かれていない」と表現すべきだろうか。

登場人物たちは個々にそれぞれ、何かしら「悩み」や「葛藤」を抱えている。そしてそれらは、確かに物語の中核を成す。しかし同時に、彼女たちにとってその「悩み」や「葛藤」は「日常茶飯事」でもある。本作で描かれている「悩み」「葛藤」が特別というわけではなく、それらがなかったとしても、ベースとして常に何かに囚われたまま生きているのだ。背景に溶け込む重低音のように、しかし一度気づいてしまうと無視できないレベルの存在として、ずっとそこにあるのだ。

そのような雰囲気が、凄く良かったなと思う。

作中では、「音楽」を通じて、彼女たちの「問題」が解決したような感じになる。それは、物語的な要請としては必要な要素だし、そうなって然るべきだろう。しかし同時に、「問題が解決した」にも拘らず彼女たちは、結局同じような場所にいる。「進展した」みたいな感じが無いのだ。いや、無いことはないのだが、こういう「青春が描かれるアニメ映画」で想定されるほどの「進展」は描かれない。

それが、とても良かった。

「現実を忘れさせてくれるほど没頭させる物語」ももちろん良い。そういう物語が、束の間であっても、現実の辛さを吹き飛ばしてくれたりもするだろう。一方で、「現実って、結局しんどいものだよね」という物語に救われる人もいるはずだ。そういう作品が存在するという事実、そしてそういう作品が多くの人から評価されているという事実が、「自分のことを分かってくれる人が世の中にいるはず」という気持ちにさせてくれるからだ。

本作は、そんな物語であるように感じられた。

少し全然違う話をするが、僕は「頭の中にまったく映像が浮かばない人間」だ。例えば、「頭の中にリンゴを思い浮かべて下さい」と言われても出来ない。「映像で何かを記憶する」とか「映像で何かを思い出す」みたいなことの意味が分からないのだ。昔からずっと、それが普通だと思っていたのだが、「小説を読んでいる時に、登場人物や情景は何も映像で浮かばない」という話をしたことがきっかけで、自分が少数派なのだと理解した。

それに気づいたのが30歳ぐらいの頃だったと思うのだが、それ以降、機会がある度に自分のこのような性質を説明しても、共感してくれる人は誰もいなかった。やはり一般的には、「頭の中に映像が浮かぶ」というのが当たり前らしく、「リンゴを思い浮かべられない」という状況が理解できないようだ。

ただ、本当につい最近、「私も同じ」という人に出会った。同類に出会ったのは、自分がそれに気づいてから10年ぐらい掛かったことになる。まあ、同類に出会えなかったことで困ったことは特にないのだが、やはり、自分が抱えている感覚が伝わる人と話が出来ると、なんか救われた気分にもなるものだ。

何が言いたいかというと、本作も誰かにとって、そういう存在になり得るかもしれない、ということだ。

物語の舞台は、キリスト教系の全寮制の高校。ここに通う日暮トツ子は、学内でもほぼ存在が知られていないぐらい地味な学生だ。4人部屋で同室の3人といつも一緒にいて、後は独り聖堂でお祈りをしている。その際時々、シスターの日吉子さんが話しかけてくれる。「男女交際禁止」など厳しいルールのある高校だが、その中でも日吉子さんは、生徒と一緒になって「皆によって良き方向」を探ろうと懸命になってくれる。

トツ子には、ちょっと変わった性質があった。目で見える「色」とは別に、感じる「色」があるのだ。人を「色」で見る癖があると自覚しており、ただ、そういう話をすると気味悪がられるので、普段は隠している。

同じ学校に、作永きみという生徒がいる。トツ子とは違って皆から慕われており、聖歌隊のリーダーを務めたりしている。トツ子も、作永さんから感じる「色」に惹かれ、そのままドッジボールを顔面に食らったりしてしまった。

しかし、そんな作永さんを校内で見かけなくなった。勇気を出して色んな人に話を聞いてみると、「理由は分からないけど、退学したみたい」という話だった。突然の話にビックリするトツ子だったが、どうにもしようがない。

しかしその後、色々とあって、作永さんがアルバイトをしている古本屋で再会を果たすことが出来た。作永さんは、営業中の店内でギターを練習している。作永さんを探していたと悟られないように、弾けもしないピアノの教本を手に取って買おうとするのだが、その時、お客さんとして来ていた男子高校生が作永さんに話しかけてきた。ギターの練習をしているのが気になっていたという。

そこでトツ子は、楽器など弾いたこともないしバンドも組んでいないのだが、「私たちのバンドに入りませんか?」と男子高校生・影平ルイに声を掛けた。こうしてひょんなことから、3人でバンドの練習をするようになる。

高校を辞めたことを未だに祖母に言えないきみ。家業の病院を継がなければならないと理解しつつ、音楽活動にのめり込むルイ。そして、他の人の色は見えるのに自分の色だけは見えないトツ子。「音楽」を通じて偶然のように繋がった3人が、各々が抱える「悩み」「葛藤」と向き合いながら、「好きなこと」に邁進していく。

本作の良かった点は、「音楽」が非常に重要な要素として登場するにも拘らず、「音楽」はあくまでも「触媒」でしかないという点だろう。そしてそれでいて、最後「しろねこ堂」と名付けたバンドで演奏するシーンは、作品全体を絶妙にまとめている感じがある。ラストシーンまでは正直「音楽映画」とは言えないテイストなのだが、ラストシーンは「音楽映画」そのものであり、そしてそのような構成に無理が無いように感じられたところが凄いなと思う。

しかも、トツ子が作曲した「水金地火木土天アーメン」という曲は、トツ子が作った段階では「単に陽気なおちゃらけ曲」みたいな感じだったのが、最後のライブでは「皆がノレるダンスミュージック」みたいな感じになってて、凄く良かったなぁと思う。あの曲が、あんな風に変わるとは驚きである。

ストーリー的には本当にこれと言って起伏はなく、「悩み」や「葛藤」が激しく顕在化されるシーンも無ければ、状況が一変するような驚くべき出来事が起こるような展開も無い。ただ、この作品においては、それがとても良い。

というのも、本作は、「何かすること」によってではなく、「何もしないこと」によって物語が動いていく感じがあるからだ。

僕が言いたいこととは少しズレるのだが、作中に、「言いたくないことは聞かないよ」というセリフが出てくる。これは割と分かりやすく、「何かすること」ではなく「何もしないこと」が状況を作っていると言っていいだろう。作中には、そんな風に感じるシーンが随所にあった。

そしてこれも、「若い世代なりのリアル」という感じがする。冒頭で、若い世代のコミュニケーションが大変だという話を書いたが、彼らは「何かがあった」というだけではなく「何もなかった」ということにも意味を見出すはずだと思う。そして本作では、若い世代のそんな雰囲気も上手く捉えているように思う。

「何もしないこと」が状況を生み出していく場合、そこにはどことなく「より深い関係性」が感じられるように思う。「何かすること」の意図を推察することも難しいが、「何もしないこと」の場合、「しなかったという事実」に気づく必要があるわけで、よりコミュニケーションの難度が上がる。そしてだからこそ、そういう難しいコミュニケーションを成立させている関係性に対して、より深い「親密さ」みたいなものが感じ取れるのである。だから、物語の起伏が少なくても、作品として成立しているんじゃないかと感じた。

この辺りの描写はやっぱり、脚本の吉田玲子の手腕もあるんだろうなぁ。僕が彼女をちゃんと認識したのは『劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン』だけど、その後もあらゆる作品で彼女の名前を目にする。ホント凄いものだなと思う。

さて、キャラクター的にはとにかく作永きみがメチャクチャ良かった。造形も、声もとても素敵で、特に声が良かった。公式HPによると、主演の3人、トツ子、きみ、ルイ役は1600人に及ぶオーディションで選ばれたようで、3人とも声優ではなく役者である。3人ともとても良かったけど、やっぱり作永きみはメチャクチャ良かったなぁ。声を担当したのは髙石あかりという女優だそうだ。

あと、影平ルイが演奏するのはなんとテルミンで、楽器の演奏シーンをアニメ化するのはどれも難しいとは思うのだけど、テルミンはより難しかったんじゃないかなぁ。ただ、ギターなどとは違って演奏できる人が少ないから、間違ってても気づかれない、とは言えるかもしれない。でも、きっとちゃんと作ってるだろうな、とも思う。

というわけで、派手さはないけれど、とても良い映画だったと思います。

「きみの色」を観に行ってきました

これはホントに、絶妙にヒリヒリする物語だった。描かれているのは「ありふれたような日常」なのだが、その日常が少しずつ歪んでいく。その歪み方がとても絶妙で、さらにそれを江口のりこが実に見事な感じで演じるので、なんとも惹き込まれてしまった。

「認めてもらうこと」というのは、どんどん難しくなっていくなと思う。今僕は41歳なので、年齢だけで言っても「認めてもらうこと」より「認めること」の方が役割として求められるような気がする。また、世の中はどんどん「便利」になっているから、「個人が提供できる『便利さ』」程度では、なかなか人は喜びや驚きを得にくくなったということもあると思う。そこそこ料理が上手い程度では冷凍食品に勝てない時代になっているだろうし、ちょっと絵が上手い程度だとAIに勝てなかったりもするだろう。

そしてだからこそ、「自分が望んだように認めてもらうこと」など、夢のまた夢だと言っていいだろう。僕は、割とこの辺りのことで「生きづらさ」を感じることが多い。

「置かれた場所で咲きなさい」じゃないが、「想像していたのとは全然違う部分で評価される」みたいなことは起こり得るかもしれない。そして、「どんな形であれ、評価されたら嬉しい」と感じるタイプの人は、それで満足できるだろうと思う。でも僕は、なかなかそうは思えない。まあそもそも、さほど「評価」を求めてはいないのだが、ただ、どうせ評価してもらえるなら「自分が望んだような形で認めてほしい」と思ってしまう。

恐らく、本作の主人公・初瀬桃子も、似たような感覚を持っているような気がする。

彼女は、無添加石鹸を作る教室を持っているし、あるいは「廃盤になってしまいずっと手に入らなかったカップセット」を手に入れて喜び、それでお茶を飲んだりしている。彼女の中に「良いなと感じる世界」があり、そして恐らく、「その世界を評価してほしい」と思っているような気がする。

ただ、それは上手くいかない。全然上手くいかないのだ。というか、「望んだように評価される」どころか、「誰からも評価されない」という状態にある。

これは地味にキツいよなぁ、と感じた。

冒頭で、仕事に出かける前の夫が洗面台で髭を剃った後、桃子が掃除をする場面が出てくる。そこで桃子は、素手で洗面台を洗い始めるのだ。彼女にとっては「当たり前の日常」なのかもしれないが、「洗面台を素手で洗う」というのは結構頑張ってるなぁ、と個人的には思う。しかし、もちろん夫はそんなこと知らないし、だから褒められもしない。

また彼女は、近くのゴミ捨て場が乱雑になっていたら、それが彼女の役割というわけでもないのに、率先して掃除をしたりする。時には、バケツに洗剤入りの水を入れてブラシでゴシゴシこするのだ。メチャクチャ頑張ってるなと思う。でも、誰からも褒めてもらえない。

桃子は、夫の実家の敷地内にある離れに住んでおり、声が届く距離に義母がいる。表向き、嫁姑は穏やかな関係を築いていそうにも見えるのだが、しかし随所で、「どうも義母が桃子を受け入れていない雰囲気」が漂う。その理由はしばらく分からないのだが、とにかく義母とも微妙な距離感を感じるのである。

彼女の日常は、こんなことの積み重ねで出来ている。

彼女は専業主婦なのだが、週に2回無添加石鹸の教室を受け持っているので、ある意味ではこれが唯一の「社会との繋がり」と言っていい。しかし、この教室も安泰というわけではない。

そんな風にして桃子は、少しずつ少しずつ削られていく。

しかしそれらは、「無視できなくもないレベル」のものだっただろうと思う。もちろん、桃子の中にダメージは蓄積しているし、心もざわついている。平穏なんかじゃ全然ない。でも、「まあ仕方ない」程度に流せはしたのではないかとも思う。その理由がしばらく分からなかったが、後半、「なるほど、桃子にも負い目を感じていることがある」ということが明らかになり、多少理解できた気にはなった。いや、それが理由かは分からないし、あくまでも僕が勝手に納得したというだけに過ぎないが。

しかし、作中で突きつけられるある事実に、桃子は耐えられなかった。それは、彼女が日常で感じているような「心を少しずつ削っていく」みたいなダメージではなく、彼女が生きて存在している根幹に関わってくるようなものだったからだ。それは認められないだろうと僕も感じた。

ただ、それはそれとして、桃子の夫・真守の気持ちも分からないではない。「私が何かした?」と問う桃子に対して彼が突きつけた言葉はとても鋭利だが、ただ、「なるほどなぁ」という感じがした。これはもちろん、そこに至るまでの江口のりこの演技が見事だったという話に尽きるのだが、真守が初めて桃子に突きつけただろう「本音」は、何とも言えない説得力を持って僕に届いた。

この物語は、桃子と真守が結婚してから8年目の生活を描いている。だから、結婚当初、あるいはそれ以前の恋愛期間に2人がどのような感じだったのかはほとんど分からない。ただ、なんとなくだが、「最初から合わなかったのではないか」という気がしてならない。そして、そんな2人の結婚のきっかけを知ってしまうと、真守の今後にも色々と考えたくなるのである。

映画を観ながらずっと、「桃子のような人が、『ちゃんと評価された』と少しでも実感できる世の中であってほしい」と思わされた。なんとなくだが、世の中はもはや「金額換算で大きな成果を上げた人」か「歴史に名を残すような偉業を成し遂げた人」か「大したことをしていないのにアピールだけは上手い人」しか評価されない時代になっている気がしている。もちろん、「アピールだけは上手い人」以外は存分に評価されていい。でも、そうではない、金額にも換算できないし偉業でもない、でも「確かに世界を少しプラスに押し上げている行為」は、ちゃんと評価されてほしい。

そういう世の中にならないと、益々「金儲け」か「アピール」が上手い奴がのさばる世の中になって、社会が一層窮屈になってしまうように思う。本作では後半、桃子がなかなかの狂気を発するわけだが、それは、「『狂った世の中』に対抗するために狂うしかなかった」みたいな感じにも見えた。彼女の「おかしいフリをしてあげてるんだよ」というセリフは、そんな宣言にも聞こえたのである。

そしてそんな狂気を「ファンタジー」にならないように、ちゃんと現実に繋ぎ止めながらギリギリまで爆発させる江口のりこの演技が流石だなと感じた。

さて、役者の話で言えば、まずしばらくの間、真守を演じているのが小泉孝太郎だと気づかなかった。いや、「小泉孝太郎に似てるなぁ」と思っていたのだけど、小泉孝太郎だとは思わなかったのだ。役者本人と役柄が違うのは当然だが、しかし、普段の小泉孝太郎の感じとは全然違う「クソダメな夫」で、小泉孝太郎っぽく見えなかったのだ。彼が演じる真守は、こちらも絶妙に「ダメ」な感じが出ていて、とても良かった。

そして同じく「絶妙さ」で言えば、桃子の義母で真守の母である照子を演じた風吹ジュンも流石だった。「うわぁ、こういう、悪気ない感じでナチュラルに嫌な感じを出してくる年寄りいるよなぁ」という雰囲気が絶妙で、大変良かった。

また、「気づかなかった」という話でいえば、青木柚に気づかなくて驚いた。エンドロールに「青木柚」の名前があって、「えっ、どこに出てた?」と思って後で調べたんだけど、無添加石鹸の教室にいるあの男が青木柚だったのか。マジで気づかなかった。映画『MINAMATA』の時も青木柚に気づかなかったから、まあさすがというべきだろうか。いや、今回は、単に僕があまりに気づかなすぎという感じもするが。

ストーリーだけ取り出したら、結構「へっ?」ってなるようなムチャクチャな感じがすると思うんだけど、それを役者たちが絶妙な感じでリアルの世界に落とし込んでいる感じがあって、そんな役者の演技に圧倒された作品だった。

「愛に乱暴」を観に行ってきました

さて、いつものことだが、僕は石丸伸二には全然興味がない。というかむしろ、「嫌いなタイプの人間だなぁ」と感じていた。そして個人的に、「どうして石丸伸二は支持されているんだろう?」ということを知る一端になるかもしれないと思ってこの映画を観てみることにした。

僕はとにかくネットをほとんど見ないので、僕が知っている「石丸伸二」は、「テレビで取り上げられた姿」だけである。恐らくこんな風に書くと、彼を支持する人から、「テレビの姿だけ見てたって分からないよ」みたいに言われるだろう。まあ確かにそれはそうかもしれない。

ただ、それはそれとして僕が感じるのは、「自分で編集できるYouTube、TikTok、Instagramなどで評価されても、それもまた一面でしかないだろう」と思っている。「大手メディアの切り取り方に悪意がある」みたいな話はきっと一理あるのだと思うけど、だからと言って、「大手メディアでの発信のされ方」みたいなものを無視していいという話にはならないように思う。選挙期間中はもしかしたら、ネットの発信の力でどうにかなるとしても、やはり継続的に支持を集めるためには、今はまだ「大手メディア」の発信も気にすべきだと思う。もちろん、そんなことは石丸伸二もよく分かっているだろう。本作を観る限り、安芸高田市長の時にも、メディアとは色々やり合ったようだからだ。

さて、そんなわけで、「僕はネット上で語られる石丸伸二のことは知らず、テレビで映し出される石丸伸二しか知らないが、そのような捉え方から彼のことを評価することも一面では正しい」という前提で話をしていきたいと思う。

さて、僕がテレビで見ていた石丸伸二は、「他人の話を聞こうとしない人」に見えた。というか正しくは、「『彼自身が持つ何らかの基準から外れた人』の話を聞こうとしない人」に見えたと書くべきだろうか。石丸伸二はたぶん、「誰の話も聞かない」みたいなタイプではないと思うのだが、同時に、「何らかの基準によって人を選定し、基準をクリアした人の話だけは聞く」という印象が僕にはとても強かったのだ。

それが石丸伸二の「見せ方の戦略」なのか、あるいはそもそもそういうタイプの人なのか、その辺りのことはよく分からないが、とにかく僕は、石丸伸二に対して抱いたその印象がどうにも好きになれなかった。

ここには、色んな要素が含まれている。

例えば、僕がその「基準」から外れている場合、「僕の声は聞いてもらえないのだろう」という気分になる。しかし同時に、仮に僕がその「基準」を満たしていたとしても、僕は、「そんな風にして選別する人間に話したいことなんかない」みたいに感じられてしまうのだ。

もちろん、普通の人ならそんな振る舞いも全然問題ない。ただ、今は「政治家」の話をしている。この点について思い出されるのは、以前観た映画『なぜ君は総理大臣にならないのか』『香川1区』の中で小川淳也が話していたことだ。彼は、「51:49で自分が勝った場合、負けた側である49の意見も背負う必要がある」みたいなことを言っていた。つまり、政治家というのは、「自分を選んでくれた51の代表」ではなく、「自分を選ばなかった49も含めた100の代表」だという意識を持っているというわけだ。そして僕は、理想論に過ぎるかもしれないが、やはり、政治家にはそのようなスタンスであってほしいと願ってしまう。

さて、石丸伸二が「自分を支持してくれるかどうか」という「基準」で選別しているのかは不明だが(というか結局、彼がどんな「基準」で選り分けているのか、僕には上手く捉えきれなかった)、いずれにせよ彼は、「『基準』を満たした人」の代表であるという意識を持っているのだと思う。そして、政治家としては珍しいと思うが、それが露骨に表に出ているように感じられたのだ。

表向きは上手く取り繕いながら、内心ではそんな風に思っている人は山程いると思う。そして、そういう人と比べれば、露骨にそれを表に出している石丸伸二の方がまだ許せる感じはある。ただそれは五十歩百歩みたいな話であり、広く捉えれば、僕にとっては同類である。

石丸伸二に関しては、都知事選の前後で様々な言説が飛び交ったが、その中で僕は、ラッパーの呂布カルマがXで発したという、「馬鹿のためには働けないんじゃないかな」という表現が一番しっくり来ている。もちろん、石丸伸二が「馬鹿かどうか」という「基準」で選別しているのかは分からないが、一番納得感のあった表現だった。

さて、そんな理由から僕は、どうにも石丸伸二のことが好きになれないでいた。それで、そのような状態で本作『掟』を観たというわけだ。

というわけでここから映画の内容に触れていこうと思うが、まずは、鑑賞時点では知らなかった、公式HPに書かれている情報について書いていきたいと思う。本作がいかに現実と並走する形で、超特急で作られたのかという話だ。

本作は元々とある劇団の舞台劇だったそうだ。その公演が今年2月に行われ、その脚本を翌3月に本作プロデューサーが目にしたところから企画が始まった。広島県の安芸高田市長だった石丸伸二が都知事選への立候補を表明したのが同年5月17日のこと。つまり本作は、その前から制作が決定していたというわけだ。そして撮影を開始、また同時に、「最も早く公開出来る劇場探し」を行い、8月30日に決まったのだそうだ。企画の立ち上げから公開まで半年未満という、相当異例と言える作品と言えるだろう。

企画を立ち上げた時点では、石丸伸二が都知事選に出馬することも、その後「石丸旋風」を巻き起こすことも分かっていなかったのだから、この企画から公開までの流れは「賭けに勝った」と言えるんじゃないかと思う。後はどれぐらいお客さんが入るかという話になるだろうが、それはこれからだろう。石丸伸二が都知事になっていたらまた大きく変わっていただろうが、なかなかそれは難しかっただろう。

そんなわけで、異例の形で公開までこぎつけた作品だというわけだ。

さて、本作は、先程少し言及した、5月17日に行われた「都知事選への出馬」を発表した記者会見の様子から始まる。これはフィクションではなく、石丸伸二本人が映る実際の映像である。そしてその記者会見の様子が終わると、舞台は少し前に遡ることになる。舞台も名前も変え、「フィクション」の物語が始まっていく。

北東雲市は、国会議員の汚職の煽りを受け市長他数名が辞任、それによって市長選が行われることになった。現職の副市長が立候補しており、他の候補者がいなければ無選挙で当選が決まるはずだったが、出馬締め切りの日、市役所に必要書類を持って高村誠也がやってきた。市長選に出馬するという。元銀行員で、彼は「無選挙で市長が選ばれるのはダメだと思った。だから『選挙を行う』ために出馬した」とその心境を明かしていた。

当選を果たした石丸伸二は、議会の定例会で居眠りをしている議員を発見する。議会側と話し合いをするも暖簾に腕押しという感じで、まともな返答も返ってこないし、議論にならない。そのため彼は、居眠り議員について告発するようなツイートをした。

これにより、マスコミをあげての大騒ぎとなり、この件で市長と議会との対立は決定的なものになった。

北東雲市の議員の中には「せいせい会」(どういう漢字かは不明)と呼ばれる会派が存在しており、議員に過半数が「せいせい会」に所属していた。議長や古参議員が多く集まる会派で、北東雲議会ではこれまで、「市長が『せいせい会』に話を通し、物事が決まる」という通例があった。議員やマスコミは色んな呼び方をしていたが、高村はこれを「根回し」として批判、自分はそのやり方を取らないと貫き通した。

これにより、市長と議会との対立は一層深まった。議員の過半数を握っている「せいせい会」は、「市長憎し」という理由だけで、ことごとく様々な法案に反対する。市長は改革のための道筋を付けようと様々なアイデアを出し、実行に移そうとするのだが、「せいせい会」が邪魔をするのである。

高村は、市の財政状況と今後の人口動態から、北東雲市の財政が遠くない未来に破綻することを見通していた。だから「痛みを伴う改革」を推し進めようとするのだが、「市民」よりも「メンツ」を重視する「せいせい会」は議会で反対するばかり。しかしそんな状況においても高村は、「民自党が作り上げてきた合理的ではないやり方には一切与しない」という立場を崩さない。

こうして北東雲市議会は、マスコミも巻き込んだ場外乱闘も行いつつ、何も進まない膠着状態に陥ることになる……。

というような話です。

さて、僕がそもそも疑問に感じたのが次の点だ。いくら「フィクション」と言えども、明確なモデルを提示した上で作っている映画なのだから、「大筋の物語は事実なんじゃないか」と思うのだが、だとしたら、その「事実」はどのように捕捉したのだろうということだ。「議会の様子」は市民にも開かれているから見れるとして、それ以外の場面についてはどうしたのだろう。まあ、大体の場面にマスコミがいるから、「マスコミに取材をした」ということなのかもしれないが、元々が劇団作の演劇であるということを考えると、「どこまで事実なのかなんとも言えない」という気分になった。

これが、「ノンフィクションをベースにした作品」とかであれば、「ある程度事実に沿っているのだろう」と思えるのだが、本作の場合は、そこの担保みたいなものがどこにあるのか分からない。もちろん、公式HPでも「フィクション」と謳っているわけで、「だから事実であるかどうかにはこだわっていない」みたいなことかもしれないが、どうなんだろう。「石丸伸二が何故支持されているのか」を知りたくて本作を観た人間としては、どのていど「高村誠也=石丸伸二」なのかが判断できないと、石丸伸二の印象を更新することが難しい。

まあそんなわけで、以下の話は基本的に「石丸伸二」ではなく「高村誠也」に対する言及だと思ってほしい。

高村誠也のスタンスは、僕も割と理解できる。彼は、「選考まで終わらせた、2人目の副市長候補」や「超大手企業の誘致」など、「非常に重要な案件」についても、いわゆる「根回し」をせずに議会に臨んでいる。恐らくだが、「根回し」と言っても対したことはなく、「せいせい会」のメンバーに先に「議会でこういう話をするので賛成してください」みたいなことを言えば済む話なんだと思う。だからきっと、「それぐらいやれよ」「『損して得取れ』みたいに言うじゃないか」みたいに感じる人もいるはずだ。

でも、僕も同じ立場にいたら、高村誠也と同じことをしただろうと思う。そんなアホみたいなことのためにアホみたいな連中と関わりを持ちたいとは思えないからだ。

高村誠也は決して、「せいせい会」との対話を拒絶しているわけではない。むしろ望んでいると言っていいだろう。彼は「首長が批判されるのは当然」「私のことが嫌いならそれでいい」と言っている。そしてその上で、「議論で物事を動かしましょう」という話をしているのだ。しかし、民自党お得意のやり方でしか政治を動かせない連中は、まともな議論も出来ないまま、数の論理だけで押し切ろうとする。明らかに対話を拒絶しているのは「せいせい会」の方なのだが、彼らはそれを認めないし、メンツばかり重んじて市民の方を見ようともしない。

本作では、そんな「腐った地方政治」と「それを改革しようとするリーダー」の真正面からの対決が描かれていく。

この映画は特に、地方に住む人が観るべきだろう。「地方」というのはこの場合、「財政が厳しく、人口が減少している自治体」ぐらいの意味に捉えてほしい。そしてそういう地域に住んでいる場合、本作で描かれることは他人事ではないのだ。

明らかに地方の財政は限界を迎えており、市町村として存続できるかは「政治」に掛かっているからだ。

本作では、東京出身の男がある店で食事をしている時、「汚職で辞任した前市長が再び市長選に出るらしい」という話になる。そして、東京出身の男が「でも、受かるわけないでしょう?」と聞くと、地元でずっと暮らしてきた店の従業員は、「たぶん通ると思いますよ。それが地方です」と言っていたのだ。

つまり今も、「政策や実績や将来性などとはまるで関係のない理屈」によってトップが決まっているというわけだ。

しかしそんなことをしていたら、自治体としての存続が危うい。本作ではある場面で、マスコミ向けの説明の場で高村誠也がグラフを参照しながら北東雲市の向こう10年の予測を示していたが、相当に悲観的な内容だった。とにかく、「人口減少」は避けられないのだから、何もしなければ破綻へとまっしぐらだ。そんな中で、「お金をくれるから」とか「誰々さんの付き合いで入れないといけない」みたいな理由で投票していたら、そりゃあどうにかなるものもならなくなるだろう。

だから、高村誠也が「正解」かどうかは分からないものの、少なくとも「それまでの政治とは異なる理屈で突き進む人」を選ばなければならないし、そうしなければたぶん色んな地方自治体がこれからバタバタと死んでいくのだと思う。

本作は、そういう危機感を煽る作品という風に捉えることも可能だろう。

さて、「高村誠也=石丸伸二」なのだとすれば、石丸伸二の見方も少しは変わるのだが、本作が一体どの程度事実に即しているのかがなんとも判断できないので、石丸伸二への見方もちょっと変えようがないというのが今の感覚だ。まあでも、もしも本作で描かれる高村誠也がそのまま石丸伸二を引き写しているのだとすれば、「見せ方の下手さ」はあるとしても、想いや手腕はかなり素晴らしいものがあるように思う。北東雲市(安芸高田市)の改革が進んでいたら、どうなっていただろうか? 特に、超大手企業の誘致に反対した議員は、現状をどう捉えているのか。

その辺り、聞いてみたいものだなと思う。

「掟」を観に行ってきました

いやー、これはメチャクチャ面白かったなぁ。いやもちろん、日本人である僕が「面白かった!」と書くのは憚られる部分もあるのだが。

本作の物語(というか実話)が生まれたのは、日本のせいだからだ。

物語は1946年に始まる。8月、国民の英雄ソン・ギジョンの名を冠したマラソン大会がソウルで開かれたのだ。ソン・ギジョンがベルリンオリンピックのマラソンで金メダルを獲得してから10周年を記念する大会だった。

しかし、ソン・ギジョンの金メダル獲得には、ある悲しい事実が存在していた。ベルリンオリンピック時には日本統治下にあった朝鮮の記録は、日本の記録として刻まれているのである。ソン・ギジョンは「孫基禎」、そして3位になったナム・スンニョンは「南昇竜」という日本名での記録となった。朝鮮ではもちろん、特にソン・ギジョンは英雄視されているが、彼は表彰式の際、月桂樹で胸の日章旗を隠したことが問題視され、日本の圧力を受けて引退を余儀なくされたのである。

朝鮮は、1945年の終戦を受け日本からは解放されたが、その後駐留しているアメリカ軍に良いようにされ、未だ「独立した」とは言えない状態になっている。そんな中でナム・スンニョンは、朝鮮から再び国際大会に選手を送り出そうと意気込んでいた。

一方のソン・ギジョンは、昼間から酒を飲み、自身の名を冠した大会を見ないどころか、メダル授与式に遅刻する始末。英雄の面影はない。しかし彼らは後に、「東洋の小国の奇跡」と評される快挙を成し遂げるのだ。

きっかけはやはり、ナム・スンニョンの情熱だった。彼はボストンマラソンに選手を送り込もうと考えていたのだが、最初の段階で躓いた。なんと朝鮮は、「国際大会への参加歴がない」という理由で、ボストンマラソンへの参加資格が存在しないというのだ。ソン・ギジョンとナム・スンニョンの記録は日本のものとなっているため、ベルリンオリンピックへの参加は「参加歴」とは認められないという。しかし、それを説明した米軍の担当者から、「一つ方法がある」と教えてもらった。

そのキーパーソンとなるのがジョン・ケリー。彼は実は、ソン・ギジョンからもらった靴を履いて大会に優勝した経験があるのだ。つまり、親交のあるソン・ギジョンが彼に手紙を書き、招請状をもらうことが出来れば参加は可能というわけだ。

そうして無事参加できることに決まったのだが、難題は山積みだった。アメリカは朝鮮の選手を入国される条件として、「現地での保証人」と「2000ドル(900万ウォン)」を用意するように伝えたのだ。ここには、朝鮮がまだ「独立国」ではなく「難民国」であったことに関係がある。「難民国」からの入国には、このような厳しい条件が課されるとアメリカのルールで決まっているそうなのだ。しかし900万ウォンは大金だ。なにせ、朝鮮の家1軒が30万ウォンの時代である。貧困に喘ぐ韓国で、この金額を用意するのは並大抵のことではない。

そしてこの貧困は、選手集めにも暗い影を落としていた。彼らは選手の育成を始めるのだが、これと言った才能を持つ者がいない。しかし、彼らは1人だけ、煌めくような才能を持つ人物を知っていた。ソ・ユンボク、先日のソン・ギジョンマラソン大会で優勝した青年である。しかし彼は、友人から「賞金が出る」と騙されて大会に出場したに過ぎなかった。朝から夜まで働き詰めで金を稼がなければならず、一銭にもならないマラソンのために時間を割く余裕がなかったのだ。ソン・ギジョンもナム・スンニョンも彼を説得しようとしたが、なかなか難しい。

しかし彼らは、様々な難題を乗り越え、ついにボストンの地に朝鮮の選手を送り出すことに成功したのである……。

というような話です。

物語は全体的に、「よくあるスポーツ物語」と考えていい。「様々な困難を乗り越えながら勝利を目指す」という感じで、正直なところ、「予想外のことはほとんど起こらない」と言っていいだろう。

ただ、やはりこれが「実話」の力だと思うが、そんな「予想外のことが起こらない物語」がとにかく面白かった。

まずは何よりも、「ボストンマラソンに出場するまでの困難をいかに乗り越えるか」という点が面白い。問題は山積みだが、やはりとにかくお金のハードルが高かった。家1軒が30万ウォンの時代に900万ウォン集めなければならないということは、現在の感覚で言えば、家1軒2000万円としても6億である。しかも時代は終戦直後、ソ・ユンボクが働き詰めにならなければならなかったように、韓国は全体的に貧しかった。そんな時代には、ちょっと現実的とは思えない金額だろう。

しかしまあ、とにかく彼らは色々頑張って、ボストンにはたどり着くわけだ。後は出場するだけ……とはならなかったのがこの物語の凄いところだ。正直この点は、本作における最も重要なシーンと言っていいと思うので、どんな「難題」に巻き込まれたのかには触れないが、まあこれは凄い。「そんな事態になるのか」という点も、「そんな風にして乗り越えたのか!」という点もどちらも驚きで、メチャクチャ良かった。特に、ソン・ギジョンがある場面で、「ボストンマラソンは、アメリカ独立をいち早く伝えたメッセンジャーにちなんで開かれるようになったはずだ」と、その起源から掘り下げて説得しようとしたスピーチはメチャクチャ良かった。そして、アメリカという国に思うことは色々あるけど、こういう場面におけるアメリカの「決断」というのはさすがだよなぁ、と思う。日本で同じことが起こっても、こういう展開にはならないだろう。

そして、何よりも驚いたのが、ラストのマラソンのシーンである。何に驚いたかというと、僕自身に驚いたのだ。

というのも僕は、基本的にスポーツにはまったく興味がなくて、マラソンや駅伝を観ないどころか、スポーツの試合を観ることがほぼない。以前、友人に誘われて東京ドームに野球を観に行ったのが1度あるくらいで、あとは映像で観ることもまずない。オリンピックも全然興味がなかったし、「結果だけ教えてくれたらいいよ」ぐらいの気分になってしまう。

にも拘らず、本作で描かれるマラソンシーンにはメチャクチャ興奮させられた。気づいたら、劇場に座っている自分の身体が縦揺れしていたぐらいで、そんな身体が思わず動いてしまうぐらいワクワクさせられた。

このマラソンシーンにも、「おいおいホントにこんなことが起こったのかよ」と言いたくなるような展開があり(実話なんだよね?ちょっと信じられんけど。ネットでちょっと調べたけどよく分からなかった)、そこからのさらなる展開もメチャクチャ良い。「まさか自分が、スポーツシーンで感動するとはなぁ」という感じで、その点にも驚かされた。まあ、ダイジェストだったから良かったというのももちろんあると思うけど。2時間観るのは無理だなぁ。

ちなみに、ベルリンオリンピックでソン・ギジョンは、当時の世界記録を樹立した。その記録が、2時間29分19秒2である。しかし、現在の世界記録は、あと少しで2時間を切るというところまで来ているわけで、その進化も凄いものだなと思う。

さて、これも印象的な場面だったが、ある場面でソン・ギジョンが「俺みたいになりたいか?」とソ・ユンボクに聞く場面がある(映画を観れば分かるが、このセリフは、恐らく今皆さんが受け取ったのとは違う意味を持つ言葉として発せられる)。そしてこれに対してソ・ユンボクが「はい、目標です」と答えるのだ。詳細に触れなければ、この受け答えは自然に感じられるかもしれないが、実際には「ソン・ギジョンにとって予想外の返答が返ってきた場面」であり、だからこそソ・ユンボクの返答がとても素敵に感じられた。そんな「目標」であるソン・ギジョンとの”闘い”も注目である。

ボストンマラソンは1897年に創設されたそうで、「近代オリンピックに次いで歴史の古いスポーツ大会の1つ」だそうだ。本作で描かれる1947年の大会時点で50年の歴史がある。そしてレースを終えた後、アメリカ人の実況は、「ボストンマラソン史上最もすばらしい大会」と評すのである。「朝鮮」がどこにあるのかも知られておらず、なんなら「敵国・日本」と同一視されているぐらいの知名度の無さの中で、ソ・ユンボクがどんな”快挙”を成し遂げたのかは、是非本作を観てほしいと思う。これは書いてもネタバレとは思われないと思うが、ソ・ユンボクは決して「優勝しただけ」ではないのだ。

この物語において日本は「朝鮮が難題を乗り越えなければならない土壌」を生み出した存在であり、だから日本人としては、正々堂々とした気分で「面白かった!」とは言いにくい作品ではある。ただやはり「面白かったなぁ!」と言いたくなる作品だ。物語としてはシンプルにメチャクチャ楽しめる作品だと思う。

さて、最後に気になったことを2つ。まず、ある場面で「正の字を書いて数を数える」というシーンが出てくるのだけど、朝鮮(韓国)も同じなのか、と思った。もちろんこれは、「日本統治下の影響」という可能性もあると思うが、映画の舞台は日本から解放された直後であり、だとしたら、「日本に教わったことなんか絶対にやりたくない」と思う人の方が多いんじゃないかと思う。だから、昔からそういうやり方だったのかなと思ったのだけど、どうなんだろう。

あと、朝鮮の国歌が、「蛍の光」の音楽でビックリした。いや、「別れのワルツ」かもしれないが(「蛍の光」は4拍子で、「別れのワルツ」は3拍子なのだけど、僕にはどちらか分からない)。調べてみると、歌詞だけが先に存在したが曲がなかったため、この曲に乗せて歌うようになったとか。「蛍の光」は元々スコットランドの民謡で、作曲者不祥だという。色んなところで使われているんだなぁ、とビックリした。

「ボストン1947」を観に行ってきました

まったくノーマークの作品で、映画の存在さえ知らなかったが、なかなか面白かった。「劇場版」というタイトルをあまり気にしていなかったが、どうやら元々はNHKのテレビ放送だったようだ。それが映画版として再編集されたということだろう。「役者がかなり豪華なのに、どうしてこの映画の存在を知らなかったんだろう」と思ったのだけど、そういうことならなんとなく理解できる。

東日本大震災の時だったと思うが、こんなエピソードを耳にしたことがある。地震発生直後、「津波の心配はない」という発表が恐らく気象庁からあり、もちろんテレビのアナウンサーもそれを伝えた。しかし実際には凄まじい津波がやってきて、大勢の命を奪っていった。

そして、「津波の心配はない」と伝えてしまったアナウンサーが、大きな後悔を背負っている、というのだ。

そのアナウンサーは、別に「嘘」を報じたわけではない。結果として誤りだったわけだが、報じた時点では「真実」だった。しかしそれでも、自分が「結果として誤りだった情報」を伝えてしまったがために、逃げ遅れて命を奪われた人もいるのではないか。そのように考えてしまったのだと思う。僕はこのエピソードを聞いてから、地震が起こる度に、アナウンサーの「津波の心配はありません」という言葉に意識が向くようになった。万が一これが間違った情報だったら、それを伝えている人は何を背負うことになるのだろうか、と。

そして、「結果として誤りだった情報」を伝えた者でさえ、大いに葛藤するのだ。であれば、「嘘だと分かっている情報」を伝えた者たちは、もちろん大いに葛藤したことだろう。

戦時中の日本放送協会(現・NHK)のラジオ放送を担ったアナウンサーたちの物語である。冒頭で、「事実を基にした物語」と表示されるし、登場する日本放送協会職員は全員、実在の人物のようである。

物語は、世の中がきな臭くなる前、1939年から始まる。愛宕山にあった日本放送協会が日比谷に引っ越し、ラジオを通じてニュースやスポーツを国民に届けていた。そして、本作の語り部であり、日本放送協会にアナウンサーとして入社した実枝子が初出勤したその日、日本放送協会内でテレビの受信実験が成功した。

その場には、日本放送協会を代表する名アナウンサーが揃っていた。「カラスが1羽」で有名な松内則三、二・二六事件で「兵に告ぐ」と発した中村茂。往年の名アナウンサーの中で、気鋭の新人と目されているのが和田信賢である。彼は「最強のアジテーター」と評される人物で、スポーツでは、その熱い実況によって一体感を作り上げていた。オリンピックで実況をするのが夢なのだが、1940年に開催が予定されていた東京オリンピックは返上となり、彼は、自身のアナウンスメントを遺憾なく発揮できる場を探しあぐねていた。

和田は弱いのに酒ばかり飲んで昼間は酔いつぶれていたり、新人研修でもほんの僅か喋って帰るなどやりたい放題だったが、「虫眼鏡で調べ、望遠鏡で喋る」という彼の信念は本物で、局内でも一目置かれていた。そんな彼が、日中戦争でなくなった英霊を靖国神社で鎮魂する「招魂祭」で行った実況には誰もが度肝を抜かれ、「我が道を行く」というスタイルを貫いていた。

そんな中、日本は「情報局」を設立、新聞・雑誌・ラジオの情報統制を強化することにした。もちろん、日本放送協会もその中に組み込まれた。「女性の声では指揮が上がらん」と言われ、実枝子は活躍の場を奪われてしまう。他の者たちも、「国民を高揚させるような読み方をしろ」「アメリカを敵と思わせる放送をしろ」という情報局の要請に、議論百出だった。

そうして、1941年12月8日を迎えた。日本放送協会は、アメリカへの宣戦布告(真珠湾攻撃)を伝えた。こうして一気に、戦局が激しくなっていく。日本放送協会は「大本営発表」を伝えるだけではなく、アジア各国に170名を超える職員を派遣、100を超える放送局を立ち上げ、「電波戦争」に従事したり、日本文化の普及に務めたりしたのである。

時には、「嘘」であることを知りながら、その情報を電波に載せたのだ……。

というような話です。

さて、まず1つこの点に触れておく必要があると思うが、NHKが日本放送協会について描いており、しかも戦時中とは言え「恥部」と呼べる事実を扱っているわけで、どこまで事実を正確に描いているかはなんとも判断しがたいと思う。この点に関しては、どこまで言っても留保はつきものだろうと思う。

ただ、あくまでも僕の感想だが、本作は「実在する人物を実名で描く物語」でありながら、人によってはどちらかと言えば「悪い印象」で描かれる。それは結構勇気の要る描き方ではないかと思う。なんとなくだが、子孫の承諾がなければなかなかそのような描き方は出来ない気がするし、とすれば、現実を可能な限りリアルに描き出すためにかなり奮闘したのではないか、と想像できるように思う。まあ、実際のところは分からないが。

さて、「戦争」を扱った作品はそれこそ山程あるだろうが、「アナウンサー視点」というのはなかなか珍しいように思う。当時は民間の放送局などなかっただろうし、テレビ放送もまだ広まっていない。つまり、活字メディアを除けば、「日本放送協会のラジオ」が唯一、「公式の情報源」として存在していたというわけだ。今の僕らには、それがどういうことなのかなかなか想像しにくい。現代はありとあらゆるメディアが氾濫しまくっているので、「誰もが同じ放送を聴く・観る」なんてことはほぼなくなったからだ。

そしてだからこそ、そんな時代にラジオアナウンサーとして活躍した者たちの影響力も、僕らにはなかなかイメージしにくい。例えば、ツイッターの日本一のフォロワーは前澤友作らしいけど、僕は彼のツイートを観ていないし、YouTube・Instagram・TikTokなどそれぞれに一番多いフォロワーの人がいるだろうが、その人たちの発信を僕は見ていない。僕はテレビを結構観ているけれども、テレビを観ない人は多くなったようだし、やはりどう考えても、「誰もがその人からの発信を受信している」みたいな人は、現代ではやはりあり得ないだろう。

そんな凄まじい影響力を持っており、自分たちがそのような大きな影響力を持つことを理解しているアナウンサーたちが、「戦争」という状況において様々な葛藤を繰り広げるのだ。

和田は結果として、開戦と終戦、どちらにもアナウンサーとして大きく関わった。

真珠湾攻撃の日、宣戦布告の事実を伝えたのは同僚の館野守男だったが、その日当直(なのか?)として和田も残っており、館野がマイクに向かって喋る中、「勢いが足りない」と、即興で「軍艦マーチ」のレコードを放送に乗せた。猛々しい雰囲気と共に、放送によって国民を鼓舞しようというわけだ。

そして終戦直前、前日本放送協会会長で情報局の局長になっていた下村宏は、和田にある頼み事をした。玉音放送を分かりやすく噛み砕いて、国民を鎮めてくれ、というのだ。それが出来るのは君しかいない、と。

終戦直前まで、日本放送協会の面々は「一億玉砕」を放送で伝え続けた。それを受け、「戦争が終わった」と伝えても、各地で軍人が反発し戦いを継続させようとするかもしれない。だから、それを君の声で抑え込んでほしい、というわけだ。

下村はそれを伝える際、和田に「私も君も、殺されるかもしれない」と言っていた。「お前たちが煽ったんだろう」と逆恨みされるかもしれないというわけだ。「それでも、引き受けてくれるか」と下村は言うしかなかった。

「覚悟」という意味では、1943年10月21日に行われた「出陣学徒壮行会」も凄まじかった。詳しくは触れないが、和田は「自らの信念」と「果たすべき役割」との間で凄まじい葛藤を繰り広げることになる。

僕はこういう作品や場面を観る度に、「同じような状況に立たされた時に『NO』と言える人間でありたい」と思う。しかし同時に、それはとてつもなく困難なことなのだろうとも思う。これまでにも、物語やドキュメンタリー、ノンフィクションなどで、「『信念』と『役割』が衝突する際の困難さに直面した人たち」のことを観たり読んだりしてきた。映画や本で取り上げられるのだから「凄い功績を持つ人物」であることが多いだろうが、そういう人たちであっても、そう簡単には状況に対処出来ずにいるのだ。

みたいなことを、多くの人はもっと認識した方がいいだろうな、と考えている。僕が漠然と頭の中で考えているように、「戦争になったら逃げる」「理不尽な状況に立たされても毅然とNOと言う」みたいに出来ると想像している人も多いかもしれないが、やはりそれは想像でしかない。たぶん無理だろう。そう簡単じゃないはずだ。そういうことを認識するためにも、こういう物語は定期的に摂取すべきだなと思う。

本作はとにかく、森田剛が圧巻だった。映画の最後に、和田信賢の享年を知った時、「森田剛が演じるには年齢が釣り合わないなぁ」と思ったのだけど、それ以外は言うことないという感じだった。「最強のアジテーター」と評されるほどのアナウンス能力を持っている役ということもあり、アナウンスの練習もかなり積んだのだろうと思う。声の力強さも印象的だったし、また、様々な場面で見せる「葛藤」には、染み渡るような辛さがにじみ出ていて、良い演技をするなぁ、という感じだった。

さて最後に。やはり忘れてはならないのは、「状況次第では、メディアは嘘をつく」ということを認識しておくということだ。ここで言う「状況」とは、決して「戦争」に限らないし、「メディア」も決して「大手メディア」に限らない。「情報量」も昔と比べたら莫大だ。私たちは益々、「情報の真偽」に注意しなければならない時代にいるというわけである。そういうことを常に意識しておく必要があるだろう。

「劇場版 アナウンサーたちの戦争」を観に行ってきました

なかなか面白い映画だった。ちなみに僕は『アンナチュラル』も『MIU404』も観ていない。いや、「観ていない」と書くと嘘になるか。年末年始に、人気ドラマを一気に放送したりする時間があるが、それでどちらの作品も何話かだけ観た記憶がある。だから、設定とか雰囲気とかはなんとなく知っているけど、詳しいことは分からない。そんな人間が観た感想である。

まずは内容の紹介から。

11/24、ブラックフライデーの初日に舟渡エレナはセンター長として配属された。国内の流通4割を担う15万平方メートルの巨大な物流センターだ。アメリカ資本のショッピングサイト『DAILY FAST』(デリファス)の物流倉庫であり、派遣社員700人が常時働く。ブラックフライデー期間は800人に増員される。

そして業量的にも売上的にも莫大になるブラックフライデーの初日に、その事件は起こった。アパートの一室で爆破事件が起こったのだ。状況から、デリファスが発送した荷物が爆発したと考えられた。

一体、どこで爆弾が入れられたのか?

デリファスの物流センターは、厳重なセキュリティが敷かれており、「ブルーパス」と呼ばれる派遣社員は、倉庫内にメガネとメモ帳とペン以外持ち込めない。また、発送する荷物はロットのまま倉庫内で開封する仕組みだ。荷物の中に爆弾を入れる余地などない。

となれば、デリファスの配送を一手に引き受けている羊急便だろうか? 警察も当初は彼らを事情聴取していた。しかし何も出てこない。出てくるのは、「1個運んで150円という配送料の安さ」「休憩もまともに取れない仕事」「再配達は1銭にもならない」という過酷な現実ばかり。さらにそこに、「発送するすべての荷物をチェックする」という仕事まで加わったものだから、羊急便の関東局局長である八木は疲弊しきっていた。

その後も、デリファスの荷物ばかりが爆発する。しばらくしてエレナは、ネット上である動画を見つけた。デリファスのブラックフライデーの告知動画のようだが、何かおかしい。調べてみると、デリファスが作った広告ではないという。そしてその流れでエレナは、「1ダースの爆弾」という、事件発生前に書かれたツイートを発見してしまった。

つまり、爆弾は12個あるということか……。事態を重く見た警察は、流通センター内のすべての荷物を差し押さえする決断を下すが……。

というような話です。

物語の本筋は「爆破事件の解明」にあるのだが、それはむしろ「補助輪」と呼んで良いかもしれない。本作の本質は、「日本の流通のリアル」と「その中で働く者たちの様々な葛藤」であり、それを爆破事件という「補助輪」と共にあぶり出していくという構成になっている。

僕はあまりネットでモノを買わない。別にそれは何か主義主張があるとかではなく、単に物欲があまり無いだけだ。本作に出てくる梨本に近いかもしれない。

まあそれでも、まったく使わないということはない。均せば、月に1回ぐらいは何かネットで買っている、ぐらいの頻度だろう。そして、ネットで買い物をする度に、「この値段で成り立っているのだろうか?」と感じる。「送料無料」が当たり前の世の中で、さらに商品の値段も異常に安く、「この売上で、関係する人の利益がちゃんと確保出来るものなのか?」と感じてしまうのだ。

いや、そう感じるからと言って、別にネットでモノを買うのを止めたりはしないのだが、ネットショッピングに限らず僕は、「『便利さ』に染まりたくない」という感覚を持っていて、そういう感覚が僕に、違和感を伝えるのだと思う。

「『便利さ』に染まりたくない」理由ははっきりしている。「依存」が好きではないのだ。僕は基本的に、「『これが無ければ生きられない』と感じるものが少なければ少ないほど幸せ」という感覚がある。そして、「便利さ」とはまさに「依存」を誘発するものなのだから、なるべく遠ざけておきたいのだ。「ちょっと不便」ぐらいの環境に慣れておくぐらいの方が、人生に対する満足度が割と高くなるんじゃないかと結構本気で信じている。

でも、こんな風に考える人間はほぼいないだろう。人類は基本的に「便利さ」を追い求めてきたわけだし、それが経済を成長させる原動力にもなってきたからだ。

だから、そんな世界が終わるわけも、止まるわけもない。そしてその事実は、「映画『ラストマイル』の世界を生きること」と同じである。

本作で提示される「爆破事件の真相」は、やろうと思えば実現可能であるように思う。もちろん「完全犯罪」は不可能だが、「捕まる覚悟」を持ってやるなら現実的には可能だろう。また、恐らくだが、もっと違うやり方だってきっと存在すると思う。というか今なら、メルカリなどで個人間のやり取りが可能なのだから、もっと様々な可能性が考えられると思う。

だから、「届いた荷物が爆発する」というのは、決して絵空事ではないのだ。

あるいは、昔僕はこんなことを想像したことがある。メルカリでもジモティーでも何でもいいのだが、他人に譲渡したものに「盗聴器」を仕込んでおく、というものだ。もちろん、盗聴器の電波は近い距離でしか受信できないだろうが、ジモティーのように「近場で譲渡する」と分かっているものであれば、街をうろうろと歩けば、自分が譲渡した「盗聴器付きの何か」に反応する可能性もあるだろう。日本の場合、「盗聴行為」自体は犯罪にはならないので、愉快犯的にやる人がいてもおかしくないし、というか、既にやっている人がいてもおかしくないだろう。

作中である人物が、「自分には当たらないと思ってる。正常性バイアスだよ」みたいなことを言う場面がある。確かにその通りだろう。エレナが働く物流センターには、品目だけで3億もの商品が存在する。商品数で言えばもっと莫大な数になるだろう。そして、その中の”たった”12個に爆弾が含まれているのだ。宝くじの1等が当たる確率はおよそ1000万分の1らしいので、「ブラックフライデー中に発送された商品が爆発する確率」は宝くじ1等が当たる確率より遥かに低い。

しかし人間には、「悪いことが起こる確率を高く見積もる」という性質がある。まあそうだろう。「宝くじ」は当たらなくても「残念!」ぐらいで済むが、「爆弾入りの荷物」を開けてしまったら、良くて重症、最悪死に至る。「ほとんど爆発しないんで大丈夫です」なんて話が通るはずもない。

そういう意味で、本作で取り上げられているテーマは、観る人の多くが「自分事」に感じられることという印象になるし、本当に絶妙だなと感じた。ちなみに、最近テレビで観たのだが、監督が「流通をテーマにする」と思いついたのは4年前だそうだ(そしてその話を脚本化にして、本作の物語が生まれた)。4年前と言えばコロナ禍が始まったぐらいで、「巣ごもり需要」はまだまだそこまで活発ではなかったはずだし、時間外労働規制による「物流の2024年問題」もまだそこまで顕在化していなかったはずである。2024年の公開はまさに絶妙という感じで、制作に時間が掛かるだろう映画でこんなタイミングで公開できたのは、もちろん偶然もあるだろうけど、かなり先見の明があったと言えるだろう。

さて、僕らにとって分かりやすいのは「配送ドライバーの苦労」だが、実は物流センターもかなりシビアである。派遣社員はゴリゴリに管理され、「遅刻・欠勤」「効率の悪さ」によってマイナスポイントが付けられる。また、巨大な物流センターなのに、センター長を含め社員は9人しかいない。物流などトラブル続出だろうし、ブラックフライデーともなればなおさらだろう。

しかも、明らかにAmazonをイメージしているだろうデリファスは、成果主義もえげつなく、「デリファスから出荷された荷物が爆発している」というトラブルが発生しても成果が求められる。この物流センターは、「稼働率が10%下がると1億円の損失」となるらしい。そりゃあ、警察の介入などもっての外だろう。

こういう現実を見るとやはり、「こんな負担を掛けてまで、注文したモノが明日届いてほしいか?」と思う。作中で配送ドライバーが、「昔は、家まで荷物が届くなんて奇跡だった。俺たちは奇跡を起こしてるんだ」と言っていたが、ホント、そんな「奇跡」が「当たり前」になっていることが異常なのだ。

ちなみに、エンドロールの最後に、普段映画ではあまり見ないような表記があった。「心の悩みは1人で抱えず、誰かに相談してほしい」みたいな文章が表示されるのだ。どうしてそんな表記がなされるのかは映画を観れば理解できると思うが、ホント、「心の悩み」なんかを”仕事なんか”のせいで抱えさせられる世の中は、おかしいと思う。

さて、あれこれ書いてみたが、もし『アンナチュラル』も『MIU404』も観たことない人が僕の文章だけ読んだら、「シリアスな物語なのか?」と感じるかもしれないが、そんなことはない。シリアスなテーマをリアルに扱いながら、全体の雰囲気としては軽やかでポップな感じがあるのだ。このバランスもまた凄いなと思う。

本作の場合、そのバランスを見事に取っているのが、舟渡エレナを演じた満島ひかりだろう。「メチャクチャ仕事が出来る人」という雰囲気を醸し出しつつ、トータルでは巫山戯たようなスタンスを取り続ける舟渡エレナという人物を絶妙に演じていたと思う。どんな危機的状況でも、彼女が発する「陽」の雰囲気が、作品全体を明るく保っている感じがあった。

そして、そんな人物だからこそ、時折見せるシリアスさにハッとさせられたりする。岡田将生演じる梨本孔と「カスタマーセントリック(すべてはお客様のために)」という企業理念について議論する場面や、彼女が誰か(最後に明らかになるが、ここでは触れない)とWEB上で話している時に口をついて出た「むしろ笑える」なんていうセリフは、「陽」の雰囲気と対極にあり、要所要所でこのような”引き締め”があることで、「浮ついているだけのキャラクター」みたいな印象にならずに済んでいる。

また、羊急便の関東局局長・八木竜平を演じた阿部サダヲもさすがだった。羊急便はデリファスの配送に依存しているため、舟渡エレナからの要求を断れない。しかしその要求は、あまりにもキツく、八木はどんどんと疲弊していく。ドライバーや配送センターなどの現場がギリギリで回っていることも理解している彼は、究極の「板挟み」状態にあり、観ているだけでもそのしんどさが想像できるような感じだ。

ただ凄いのは、「明らかにヤバい状況にいる」という深刻さが伝わりながらも、どこか「面白さ」みたいな要素も含まれていて、阿部サダヲが映るシーンは、シリアスになりすぎない感じがあるという点。彼は「配送の現場がいかに深刻か」というリアルを伝えなければならない立ち位置にいるので、それをこなしつつ、それが強く伝わり過ぎないようにブレーキを掛けるみたいなこともやっている感じがして、ちょっと凄いなと思う。

あと、誰のどのシーンなのか具体的には書かないが、容疑者の1人があることをする直前、「本当に死にそうな顔」をしていて、凄く印象的だった。無理やり言語化してみると、「悲壮感」よりも「諦め・解放感」みたいな雰囲気が強い表情で、「覚悟を終えた人の顔」という感じに見えたのである。そんなに多くは登場しないのだが、そのシーンが僕の中ではかなり印象的で、良い演技するなぁ、という感じだった。

さて、本作には「そんなに多くは登場しない人」がたくさんいる。『アンナチュラル』や『MIU404』のキャラクターが出てくるからという理由が大きいわけだが、「役者を豪華に使っているな」という印象だった。やはりそれは、監督と脚本家のタッグに信頼が篤いからなのだろう。三谷幸喜や宮藤官九郎などの作品も主役級の役者が端役で出ることが多い印象があるが、本作もそんな感じで、「贅沢感」が強い。

それはもちろん、主題歌を担当した米津玄師に対しても思う。もちろん『アンナチュラル』『MIU404』の主題歌も担当していたわけで、その繋がりで考えればとても自然なわけだが、『Lemon』や『感電』を発表した時とは「米津玄師」という存在の大きさが違う。これも偶然と言えば偶然だが、「物流」というテーマを最適なタイミングで劇場公開出来たように、先見の明という印象が強い。

ちなみに、本作『ラストマイル』の番宣も兼ねているのだろう、最近米津玄師が珍しくテレビ番組によく出るが、その中で話していて印象的だったエピソードがある。本作の主題歌『がらくた』には、「例えばあなたがずっと壊れていても 二度と戻りはしなくても 構わないから 僕のそばで生きていてよ」という歌詞があるが、これに関する話だ。

米津玄師は子どもの頃から、廃品回収車のアナウンスが気になっていたようで、その中でも、「壊れていても構いません」というフレーズが妙に耳に残っていたそうだ。それが歌詞に使われているわけだが、それが本作全体のテーマと上手く噛み合っている感じがあって、そういう点でも絶妙だなと思う。

撮影に関しては1つ、「物流センターの撮影はどこでやったんだろう?」と感じた。ベルトコンベアなど含めすべてセットなのかもしれないが、そうだとしたら相当な規模のセットを組んでいることになるように思う。ただ、実際の物流センターを借りるというのも難しいように思う。それこそ物流センターは、24時間稼働していたりもするだろうから、「稼働していない時間に使わせてもらう」みたいなことが難しい気がするのだ。

あと最後に1つ。「洗濯機」があんな風に絡んでくるとは思わず、細部に渡り様々な要素が絡み合うという点も面白いなと感じた。

単にエンタメ作品として観ても楽しめるし、社会問題を突きつける作品として観ても満足感があるだろうと思う。そして、「『奇跡』には理由がある」と改めて認識した上でポチろうではないか。

「ラストマイル」を観に行ってきました

さて、どうでもいいことではあるのだが、Filmarksの記録によると、この『箱男』が、僕がこれまでに観てきた映画の1000作目であるようだ。まあ、とりあえず記録として。

さて、本作『箱男』はやはり、よく分からなかった。「よく分からないだろうな」と想定して観に行ったので、それ自体は別に問題ではない。

さて、僕は原作の『箱男』を読んだことがあるようだ。「ようだ」と書いたのは、まったく記憶にないからである。映画と同様、読書記録もつけているのだが、それによると、今から20年ほど前に読んでいるらしい。全然覚えていない。

だから、映画を観ながら、「こんな話だっけ?」と思った。まあ、覚えていないのだから比較のしようもないのだが。

本作『箱男』は、途中まではなんとなく理解できたような気がする。「わたし」は、別の人物が担っていた「箱男」の座を奪い、自らが「箱男」となった。その生活は、「完璧な孤立」「完璧な匿名性」を有しており、また「私だけの暗室・洞窟」を支配できるもので、「わたし」は満足していた。執拗に追いかけてくるカメラマン(もしかしたらこいつも、自分の座を狙っているのかもしれない)や、よく分からない攻撃を仕掛けてくる乞食などに悩まされながらも、「わたし」は概ね、「箱男」として満足に生活していた。

しかしある日、「近くに病院があります」と言って、謎の女性がその地図を箱の中に入れてきた。罠だろうか。まあそう考えるのが自然だろう。しかしこの罠には乗っかってもいいかもしれない。そう「わたし」は考え、「箱」を脱ぎ捨てた姿で病院を訪れる。

一方、その病院で治療にあたるニセ医者は、白髪の男の世話をしつつ、葉子という看護師と共に病院を経営している。白髪の男は何か犯罪の計画を有しているようだが、よく分からない。そしてニセ医者は、その計画に協力するようでいてそうではなさそうである。

もちろん、「わたし」を病院へと呼び寄せたのは看護師の葉子であり、「わたし」はその存在に惹かれるが、ニセ医者と親しい関係であるらしい葉子は、「わたし」を窮地に追い詰める悪魔なのかもしれない。

そしてやがて、「本物の箱男」を巡る争いが始まることになり……。

というような話です。たぶん。

20年前、僕が原作小説を読んだ時にはまだ、今ほどスマホもSNSも広まっていなかったはずだ。もちろん、安部公房が本作を発表した時など、スマホの「ス」の字もなかったはずだ。しかしこの物語の中で執拗に提示される「匿名性」には、とても現代的な響きがある。僕らは「インターネット」を手に入れたことで「ほぼ完全な匿名性(情報開示請求などで身元は明らかになるので「ほぼ」と書いた)」を実現することになったが、安部公房が生きていた時代には「匿名性」が実現できる片鱗などほぼなかったはずだ。せいぜい、「覆面作家として活動する」ぐらいが関の山だっただろう。

そんな時代に「箱を被る」という形で「匿名性」を実現させ、それを物語として昇華させた安部公房にはちょっと驚きさえ感じさせられてしまう。

しかも、本作で描かれる「匿名性」には、「正体が分からない」というだけではない要素も含まれている。箱の中にいる「わたし」が、「箱男」として町中に潜んでいる時に、「仮に私の存在に気づいたとしても、見て見ぬふりする」みたいな実感を語る場面があるのだ。

そう、「箱男」というのは、「見られる側」である「わたし」がその正体を隠すという側面もあるわけだが、同時に「見る側」である世間が相手の正体を詮索しない、という要素も含むのである。この点で、「箱男」がもたらす「匿名性」は、ネット上の「匿名性」とはまた少し違ったものになると言えるだろう。

ネット上の「匿名性」はむしろ「詮索」を呼び覚ます。最近は、「GReeeeN(GRe4N BOYZ)」や「Ado」など、普通なら顔出しせずには行えない音楽活動を匿名のまま続ける人が出てきているが、やはりそういう人たちに対しては、「どんな人なんだろう」という興味は出てくるはずだし、それが過剰になれば「詮索」という形になっていくだろう。それは、ディズニーのキャラクターの「中の人」なんかに対しても向けられる視線と言えるだろう。

しかし「箱男」がもたらす「匿名性」はそうではない。世間は「箱男」を「そこにいないもの」として無視するし、また「箱男」に関心を抱く者であっても、「お前は誰だ?」という問いには意味を見出さない。「箱男」というのはそれで完結した存在であり、「中の人」が誰であるかなどどうでもいいのである。

そのような「匿名性」は、類似するものをパッとは思いつけないでいる。何かあるだろうか? まあ普通はあり得ないだろう。何故なら「箱男」というのは「普通誰からも憧れられない存在」であり、となれば「匿名である必然性」がまったくないということになるからだ。そして、「匿名である必然性」がないからこそ、「詮索」という行為が生まれないのである。

「『匿名である必然性』が無いのに『匿名』であるもの」は、世の中にはあまり存在しないだろう。だから、本作で描かれている「匿名性」は非常に特殊で、唯一無二であるように感じられた。

さて、本作でもう1つ問いかけられるのは、「本物とは何か?」である。この点に関しても、僕はよく考えることがある。

例えば「お札」。最近新紙幣が発行されたが、仮に誰かが、まったく同じ素材でまったく同じ技術で、まったく同じ印刷手法で「お札」を作ったとしても、それは「お札」とは認められない。ただの「偽札」である。「お札」の場合、「国(日銀)が発行した」という事実こそが「本物」の証なのであり、そうではないものは、たとえ材質や技術がすべて同じでも「本物」とは認められない。

同じようなことは、「ブランド物」に対しても感じる。例えばグッチのバッグとまったく同じ素材を使い、そしてかつてグッチに所属していた職人が作り上げたとしても、それはグッチのバッグではない。グッチが作るからグッチのバックなのであり、素材や製法が同じであることは、本質的には「本物」の証にはならないのだ。

では、翻って、本作で提示される「本物の箱男」とは、一体何を指すのだろうか? そう、作中では、その「本物さ」を巡って争いが続けられていたように思う。「本物の箱男である」という事実が一体何を指すのか誰も分かっていない。そもそもそんな問いは、「箱男」が1人しかいなければ成り立たないからだ。

そして「わたし」は、”前任”の「箱男」から奪い取る形で「箱男」になった。「わたし」にとっては、その事実を以って「本物の箱男である」と考えていただろう。”前任”がいなくなった時点で「本物の箱男」は存在しなくなった。であれば、「わたし」が新たに「箱男」になることで「本物の箱男」になれる、という理屈である。

では、「わたし」の存在が無くならない状況の中で、別の誰かが「本物の箱男」を名乗るためには、どうすべきだろうか?

本作の描写で興味深かったのは、「『箱男』の箱を買い取る」という話が出てくることだ。そそして一方で、「箱男になろうとする者」は、「箱男」が被っている箱の映像を観ながら目の前にある段ボールに汚しを入れている。

つまりこういうことだ。「わたし」から「箱」を奪うことで「本物の箱男」を不在にし、さらに「わたし」が被っていた箱そっくりの箱を新たに作ることで「本物の箱男」を名乗ろうというわけだ。

しかしここで不思議なことは、どうして「箱男になろうとする者」は、「買い取った『箱』を被る」という選択をしなかったのかということだ。「箱を買い取る」という話になっているのなら、その箱をそのまま被ればいい。そう考えるとここでは、先程僕が指摘したような、「素材や技術が同じでも『本物』とは言えない」みたいな話が関係しているような感じもあって、なかなか興味深い。

とまあ、この辺りまでは自分なりに色々解釈しながら観れたのだが、最後、「箱男」が改めて病院を訪ねてからの展開は「???」という感じでなんとも理解できなかった。

あと、謎の看護師が物語をかき乱すのだが、この看護師がエロさも生み出していて、ちょっとびっくりした。ますます「原作はこんな話だったっけ?」と感じたのである。

さて、個人的には、エンドロールの演出がよく出来ていると感じた。エンドロールは、恐らくすべて本人の直筆なのだろう、手書きの文字で構成されていた。そして作中では、「筆跡」もまた、「本物か否か」という要素として使われるのである(あの謎の器具がきっとそれに関係しているのだと思う)。

お札やバッグなどと同様、筆跡もまた「見た目が同じであっても『本物』ではない」という要素である。しかし、これもお札やバッグなどと同様、「結局のところ、見抜かれなければ『本物』と見なされる」のである。他にも「医師免許」「看護師資格」など、本作にはこのような「『本物』を巡る認識」が随所に登場するのだ。

そして作品全体のそんな主張を、エンドロールにも上手く反映させたということだろう。なかなか良くできた演出だったと思う。

さて最後に。公式HPを読んで知った、『箱男』映画化にまつわるエピソードに触れて終わろうと思う。

元々『箱男』という小説は、発表されて以降、ヨーロッパやハリウッドで映画化の企画が持ち上がったそうだが、その度に頓挫していたという。そしてそんな状況を繰り返す中、1986年、安部公房本人が最終的に映画化権を託したのが、本作監督石井岳龍だったのである。そして彼は1997年、ついに日独共同制作として正式に決定、スタッフ・キャストが撮影地であるドイツに渡ったのだが、クランクイン前日に日本側の資金不足により、なんと撮影自体が頓挫してしまったそうだ。

その後映画化権はハリウッドに渡るなどしており、制作の話も出たりしていたが結局上手く行かず。世界のマーケットでは「安部公房原作の映像化は不可能」と囁かれるまでになったそうだ。しかし石井岳龍監督は諦めていなかった。そして改めて企画を立ち上げ、企画頓挫の悲劇から27年、そして奇しくも安部公房生誕100周年にあたる2024年に公開にこぎつけたというわけだ。しかも、27年前に出演が決まっていた永瀬正敏、佐藤浩市を迎えて。

そんな風にして完成に至った作品なのである。この制作の裏話もまた、実に興味深いと言えるのではないかと思う。

まあそんなわけで、よく分からないと言えばよく分からないのだが、色々と思考が刺激される部分もあるし、また幻惑的な世界観もなかなか魅惑的で、全体的には観れて良かったなと思う。いやしかし、制作陣や役者はお疲れ様でしたという感じである。

「箱男」を観に行ってきました

いやー、これはホントに驚かされた。ただ、この「驚かされた」には少し説明が必要なので、まずは内容の紹介から始めよう。いやーしかし、これは凄いなぁ。公式HPによると、最終的には国民の4人に1人が劇場に足を運び、『パラサイト 半地下の家族』も上回る観客動員を記録したそうだ。まあそうだろう。本作の冒頭には、「実話をモチーフにし、フィクションを混じえた作品」と表記されたが、さらにその後で、「国民に秘されていた」とも記されたのだ。もちろん、その真相は書籍などで既に明らかにされていただろうが、こんな風にエンタメ映画に昇華されたことでより多くの人が知ることになったはずだ。まあホントに、凄い話である。

物語は、1979年10月26日の早朝から始まる。前線に配備されていた者も含め、軍人が一斉に集められたのだ。すわ戦争かと誰もが考えたが、そうではなかった。「独裁者」と評されたパク大統領が側近である中央情報部長に暗殺されたのである。国は戒厳令を発令、最大限の警戒に当たることとなった。

さて、この事件を受けて国民の間では「民主化」を求める声が高まった。そんな期待もあってのことだろう、大統領暗殺事件の捜査に国民の関心が集まっていた。しかし、暗殺事件の合同捜査本部長の就任した保安司令官チョン・ドゥグァンは、とんでもない野心を秘めた男だった。彼は陸軍内に「ハナ会」という秘密の組織を構築しており、彼に忠誠を誓う者が軍内に多くいた。そして彼は、大統領の死をきっかけに、さらなる権力を握ろうと画策するのである。

一方、イ・テシンは参謀総長であるチョン・サンホから首都警護司令官に任命された。多くの者がこのポストを狙っている中、当初イ・テシンはこの任命を断ろうとしていた。自分には相応しくないというのだ。しかし参謀総長は彼のことを「真の軍人」と考えており、「君のような無欲の人間に引き受けてほしい」と何度も説得する。そして最後には、半ば強引に首都警護司令官を引き受けることになったのだ。

そうしてイ・テシンが首都警護司令官に就任したのだが、彼と仲間には大きな懸念があった。それが「ハナ会」である。秘密組織のため実態が分からないが、陸軍内に相当のシンパがいると目されていた。またイ・テシンとチョン・ドゥグァンは軍人としてのあり方も含め対立していたため、状況次第では首都警護司令官であるイ・テシンの命令を聞かない者も出てくるのではないかと思われていた。

一方チョン・ドゥグァンは、様々な手を使って権力を手に入れようとする。主に参謀総長に取り入ることでどうにかしようと考えていたのだが、参謀総長もまた高潔な人物で、2億円の裏金を差し出された際も受け取らなかった。それどころか、チョン・ドゥグァンとその一派の動きが目に余るようになったため、参謀総長は彼らを”左遷”と言っていいような役職へと配置することに決めたのだ。

これで、チョン・ドゥグァンをトップとするハナ会は万事休すのはずだった。しかしチョンは諦めない。彼はあるとんでもない計画を立てていたのだ。

実は、パク大統領が暗殺された現場には参謀総長もいた。その後の捜査で、参謀総長は暗殺には関わっていないと判断されたのだが、チョン・ドゥグァンは捜査本部長の権限を使って「内乱幇助罪」で参謀総長を逮捕することにしたのだ。しかし、ただ逮捕しただけでは自分たちが危うい。だから、「大統領からの裁可」を得つつ、同時並行で「参謀総長の逮捕(実際には拉致)」を行おうと考えていたのである。参謀総長さえ排除できれば可能性は広がる。そう考えてのことだった。しかし一歩間違えば武力衝突となり、ハナ会の面々は反乱軍として逮捕されるだろう。一か八かの賭けだった。

実行は、組閣発表の前日、12月12日に決まった。彼らは当日、イ・テシンら3人を首席に呼んでおり、事が起こってもすぐに事態に対応できないようにしていた。そして自分たちの未来のために、すべてを賭けてチョン・ドゥグァンが大統領府へと向かい、参謀総長逮捕の裁可を得に行くのだが……。

というような話です。

さてそんなわけで、僕が一体何に驚いたのかの説明をしましょう。これは恐らく、多くの人にとって「ネタバレ」ではないはずですが、「ネタバレ」だと感じる人もいると思うので、何も知らずに映画を観たいという方はこれ以上読まないで下さい。

さて、僕が驚いたポイントは、「反乱軍が勝ってしまったこと」である。こう書くと、多くの人が「えっ?」と感じるのではないかと思う。「韓国が軍事政権下にあったことを知らないのか?」と。

いや、それはもちろん知っていた。いや、「もちろん」と言えるほどは知らなかったと書くべきだろうか。「韓国が軍事政権下にあったこと」は知っていたのだが、それがいつの時代の話なのかちゃんと知らなかったのだ。本作では冒頭で1979年の物語だと表記されるが、その頃にはもう軍事政権下ではなくなっているような気がしていたのだ。

僕が生まれたのが1983年なので、僕が生まれる少し前の出来事だ。そしてそんなタイミングでもまだ韓国が軍事政権下にあったというのは、ちょっと僕には信じられなかったのだ。というわけで、映画を観終えてちゃんと調べてみたところ、韓国では1961年から1993年まで軍事政権下にあったようだ。1993年って、かなり最近じゃないかと思う。そんな最近まで軍事政権下にあったとは思わなかった。

そしてだからこそ僕は、「最後にはイ・テシンが勝つ」と思いながら観ていたのだ。「反乱軍が勝つはずない。だからここから、何か逆転があるはずだ」みたいな感じで最後の最後まで観ていたのである。そして最終的に「反乱軍」が勝ってしまったことにメチャクチャ驚かされたのだ。

先ほど「このことを書くと『ネタバレ』になる人もいる」みたいな書き方をしたが、恐らく僕より若い世代には、「韓国が軍事政権下にあった」という事実をそもそも知らない人もいるんじゃないかと思う。だから、そういう人が本作を観たら、僕と同じように「反乱軍が勝っちゃうの? マジで?」みたいな感想になるんじゃないかなと。物語のセオリーから言ったら絶対にイ・テシンが勝つはずなんだけど、そうはならなかった。まさにこれは「実話を基にしているから」こその展開だし、だから、僕のように詳しい知識を持たずに本作を観た人は、同じように驚かされるんじゃないかと思う。

冒頭で記された通り、「フィクションも含まれている」ということなので、どこまでが事実かは分からない。密室で行われていることも多いので、そういう描写はフィクションとして描くしかなかったのではないかと思う(ただ、当時の騒動に関わったハナ会のメンバーが、後にノンフィクション作家の取材に応じて証言しているみたいなこともあるかもしれないから、そうだとしたらある程度事実ベースと言えるのかもしれない)。ただ、イ・テシンとチョン・ドゥグァンの人物描写は概ね事実に沿っているんじゃないかと思う。そしてこの2人は、凄まじく対照的だ。

イ・テシンはまさに「軍人の鑑」とでも言うべき人物で、いつどんな場面でも「圧倒的な正しさ」を放っている。それでいて「正しすぎて近づけない」みたいな感じでもなく、ちゃんと目の前にいる人間を見ながらやるべきことをやっていく。さらにその上で、ここぞという場面では自分の信念をどうやっても揺るがせにしないという押しの強さもあり、「こんな上司がいたら頑張って働くだろうなぁ」と感じさせる雰囲気がビンビンに出ていた。

一方でチョン・ドゥグァンはとにかく酷い。酷いなんてもんじゃなく酷い。己の権力のためにしか物事を考えておらず、状況を打破するためなら口八丁の嘘もつく。「手段に関係なく、勝った者こそが正義なんだ」という価値観しか持っておらず、勝つためならとにかく手段を選ばないえげつなさを常に放っている。

あまりに対照的な2人である。そして結局、チョン・ドゥグァンという「悪」が権力を手中にしてしまったという事実に絶望的な気分にさせられてしまう。本当に、嫌な世の中だ。

本作では、後半は丸々「12.12軍事反乱」の様子が描かれる。そして、どこまで事実かは分からない(映画的な演出が含まれているかもしれない)ものの、作中では随所に「あと一歩」という状況が描かれる。「あそこであいつがあんなことをしなければ」「あの時あいつがあんなことを言わなければ」みたいなことが本当に多かった。確かにチョン・ドゥグァンが勝ったのだが、本当にギリギリのところで、このクーデターが失敗に終わる可能性も十分にあったと思う。

ただ、イ・テシンにとって不利だったのが、「参謀総長が連れ去られてしまったため、指揮系統が混乱した」という点だろう。軍の組織のことはよく知らないが、「参謀総長の逮捕の裁可を大統領に求める」のだから、陸軍内において相当の地位にいることが分かるだろう。イ・テシンを首都警護司令官に任命したのも、チョン・ドゥグァンらを左遷させる人事を決めたのも、すべて参謀総長である。

だからそんな人物が逮捕(実際には拉致)されてしまったために、陸軍内では指揮系統が乱れに乱れる。特に、参謀総長が不在の場合に代理を務めるらしい参謀次長がとにかく酷かった。恐らく、この参謀次長が色んな場面で横槍を入れてこなければ、チョン・ドゥグァンらのクーデターは成功しなかっただろう。参謀次長はとにかくイカれているように見えた。もちろん、本作はイ・テシンを分かりやすく英雄的に描く構成になっているし、だからもしかしたら、史実とは違って参謀次長を悪く描いたという可能性もあるかもしれない。しかし、参謀次長のような訳のわからん指示をする人物がいなければチョン・ドゥグァンらの計画が成功しなかったことは間違いないので、やはりこの辺りの描写も割と事実に沿っていると考えるのが自然ではないかと思う。

さらに、本作には国防長官も登場するのが、こいつもまあ酷い。国防長官は国軍のトップなのだが、クーデターが起こってもその所在は知れないし(結果的にそれは悪くはなかったのだが)、姿を現したら現したで何もしないし、というかむしろ邪魔ばかりする。国防長官も参謀次長と同じく余計なことばっかりするし、それがなければチョン・ドゥグァンらの計画は成功しなかったはずだ。マジで酷かったなぁ、こいつら。

そんな中でもイ・テシンは、可能な範囲で最善を尽くし続けようとするのだが、結局正義は打ち砕かれてしまった。繰り返しになるが、普通の物語だったらイ・テシンのような人物は絶対に負けない。「必ず勝つ側の人間」的な描かれ方をしているのである。だからこそ余計に驚かされてしまった。こっち側が負けてしまうんだな、と。

映画全体の感想としては、まず冒頭からしばらくは状況を把握するのが難しい。軍人ばっかり出てくるし、その中で誰に注目すればいいか分からないからだ。ただ、イ・テシンとチョン・ドゥグァンに焦点が当てられるようになると、俄然物語は理解しやすくなる。

また、状況の把握の難しさは、「12.12軍事反乱」が始まってからもどうようだ。陸軍内で「イ・テシン派」と「チョン・ドゥグァン派」に分かれて争うわけだが、クーデターが始まるまでの物語内では登場しない者ばかりなので、誰が誰で誰とどういう関係にあるのか分からない。まあこの辺りはきっと、韓国の人でも正確には分からないだろう。そもそもが複雑な話なので、その辺りはある程度理解を諦める必要があると思う。

あとはとにかく、「ソウル市」を舞台にまさに戦争が勃発しそうな雰囲気になっていたことにも驚かされるし(夜中だが、もちろん市民も見ている)、何よりも、「とっくに覚悟なんか出来てる」と呟いたイ・テシンが用意していた飛び道具にも驚かされた。なるほど、だからあそこであのシーンがあったのかと納得したぐらいである。

さて最後に。ハリウッド映画でも韓国映画でも「自国の恥となるような史実を基にした映画」というのは結構あると思うのだが、日本映画ではあまり思い浮かばない。いや、もちろんあるんだろうし、僕が觀ていないだけだと思うのだが、ただ、本作『ソウルの春』が韓国で4人に1人が観るほどの大ヒットを飛ばしたことを考えれば、「日本国内で、恥部と呼ぶべき歴史を舞台にした映画が大ヒットするだろうか?」と感じてしまう。ドキュメンタリー映画ではそういうテーマの作品もあるとは思うが、エンタメ映画ではなかなかないだろう。例えばだが、「地下鉄サリン事件」や「オウム真理教」を真正面から扱ったエンタメ映画は無い気がするし、これからも生まれない気がする。

恐らくこれは、「何かに忖度してそういう映画を作らないようにしている」というわけではなく、シンプルに「日本国民が歴史に興味がない」ということなのだと思う。少なくとも映画の制作側は、「恥ずべき歴史を描いた映画なんかヒットしない」と考えているのだろう。そんな風に考えると、国民の民度の差を感じさせられて少し恥ずかしくなる。

「日本は素晴らしい国だ」みたいなナショナリズム的な発想もいいが、どんな国にだって「汚点」はあるはずで、そういう「恥部」に光を当てて改めて関心を促すみたいなことも、映画が持つ1つの力と言ってもいいんじゃないかと思う。

そういう作品が日本映画でパッと思い浮かばないことは残念に思えるし、それだけで判断できるものではないにせよ、アメリカや韓国との「大きな差」を感じさせられてしまった。

そんなわけで本作は、ちょっと凄まじすぎる作品だった。何にせよ、これが史実であることに驚かされるし、フィクションも混じっているだろうが、その中で描かれている人間ドラマもとても良かった。メチャクチャ男臭い、っていうかほぼ男しか出てこない映画だが、2時間半ずっと惹きつけられる、なかなかにとんでもない映画だった。

「ソウルの春」を観に行ってきました

公式HPによると、「デンマークの人々にとっても知られざる実話」なのだそうだ。冒頭で「実話に着想を得た物語」と表示されたので、事実そのものではないようだが、しかし、状況設定は事実と考えていいだろう。

そしてその状況はまさに、最低最悪としか言いようがないものだった。

映画を観ている時には理解していなかったのだが、本作は終戦1ヶ月前を舞台にしているようだ(登場人物たちが「戦争はもうすぐ終わる」とよく口にしていたが、まさか終戦1ヶ月前とは思っていなかった)。舞台はデンマーク。1945年当時、デンマークはナチス・ドイツの占領下にあった。

そんな中、リュスリンゲで市民大学の学長として働くヤコブは、学生たちの教育に非常に力を入れていた。息子のセアンは、そんな父の後ろ姿を見ながら日々を過ごしている。自慢の父親だ。妻・リスも大学の運営を手伝っており、彼らの生活は基本的に、大学運営に密接する形で行われている。

そんなある日、ドイツの将校から緊急の要請がやってくる。デンマーク国内の学校や大学で、ドイツ難民を受け入れろというのだ。デンマークはドイツと協定を結んでいるとかで、拒否は出来ない。ヤコブは、200人もやってくるというドイツ難民の扱いに悩むが、理事長から「体育館を開放しよう」と提案され、そのつもりで準備をしていた。

しかし、ドイツ難民受け入れ当日、駅に向かうと、なんと532人もの人でごった返していた。聞いていた話の2.5倍以上だ。とてもじゃないが体育館に収容できる人数ではないが、ドイツの将校は聞く耳を持たない。ヤコブは532人を受け入れざるを得なくなった。

しかし、ドイツとの協定では「場所だけ提供すれば良い」ということになっているらしく、ヤコブら大学側はドイツ難民の世話をするつもりはない。デンマークでも当然「ナチス・ドイツ」は毛嫌いされており、「ドイツに協力した」となれば自分たちに飛び火するという事情もあった。だからヤコブは、532人のドイツ難民を体育館に押し込め、それ以上何もするつもりがなかったのである。校舎は明け渡さないので、学生への授業はそのまま行われた。

しかししばらくして、体育館の中でジフテリアという感染症が広まり始めた。少しずつ、死者が増え始める。ヤコブは、難民の中に唯一いた医者と話をするが、「薬を打つか、隔離するかしなければどうにもならない」と言われた。しかし、薬の提供も隔離場所の提供も「ドイツへの協力」と見なされてしまう。念の為デンマークの医師会に連絡してみたのだが、「ドイツの収容所にいるデンマーク人を解放しない限り、デンマークの医師はドイツ人を診ない」という返答だった。ヤコブは静観するしかなかった。

しかしジフテリアは、主に老人と子どもの命を奪っていく。このまま何もしなければ、幼い子どもが命を落としていくことは確実だ。大学の地続きの敷地内で、”敵”であるドイツ難民が日々命を落としていく。ヤコブにも彼らを助けたい気持ちはあるが、しかし、理事長ら大学の重鎮との会合では常に「ドイツに協力するな」と釘を刺される。学長という地位と家族の生活を守るためには、ドイツ難民に手を差し伸べるわけにはいかない。

そんな中、彼らはどんな決断をするのだろうか……。

というような話です。

ヤコブが置かれた状況を想像すると、そのあまりの酷さに絶句させられる。彼は無理やり難民の受け入れを強制された。確かに協定を踏まえれば、場所さえ貸せば問題ない。だから、感染症が蔓延する体育館に難民を詰め込んだまま何もせず終戦を迎えればいい。

しかし、そんな風に主張する者たち(理事長ら会合に出席する重鎮)は恐らく、大学から離れた場所に住んでいるのだと思う。そしてたぶんだが、ヤコブ一家は大学の敷地内で生活しているはずだ。だから、理事長らにとっては「憎き敵」という記号でしかないドイツ難民が、ヤコブたちにとっては「近くで生活をする者たち」なのである。この差はとても大きかっただろうと思う。

理事長や町の住民にとっては、「憎き敵」という記号でしか見えていないのだから、ヤコブたちがドイツ難民を手助けしようとした理由が理解できなかっただろう。しかし、同じ敷地内で生活をしており、日々死体が積み上がっていく様を見ていれば、やはり感じ方も変わってくるだろう。作中では、まず妻のリスが手助けをしようとするのだが、次第にヤコブも考え方が変わっていくことになる。

しかし、本作にはもう少しややこしい状況が組み込まれている。息子のセアンと、セアンが仲良くしているビルクである。

ビルクは医者の息子で、恐らく大学運営を手伝っている(学生ではなく運営側の人物だと思う)。ピアノが弾けるため、そういう意味でも重宝される存在だ。しかしある日、彼の父親が突然射殺されてしまう。ドイツ兵の仕業だった。デンマーク国内では、ナチス・ドイツに反抗するレジデンス組織が台頭しており、彼らがドイツ兵らに危害を加えることもあるのだが、ドイツ兵はその報復に、無差別に(しかし大きなダメージを与えられる人物を選んで)報復を行っている。ビルクの父親が、そのターゲットにされてしまったというわけだ。

ヤコブにとってビルクは重要な存在で、そんな彼の父親がドイツ兵に殺されているという事実がヤコブを躊躇わせる。ドイツ難民を手助けするような行為を、ビルクが許すはずがないと分かっているからだ。まず1つ、ここに大きな葛藤がある。

さらに、ビルクとセアンの仲が良いという事実もまた、ヤコブを悩ませる。セアンは12歳と幼いながらも、「”敵”であるドイツ難民を助けるべきではない」という明確な考えを持っている(ちなみに、セアンの妹はまだ幼いため、その辺りの事情が理解できていない)。セアンは自身の気持ちや感覚をあまり言葉にすることがないが、しかし、「次第にドイツ難民に手助けをし始める母・父」に対して、曰く言い難い感情を抱いていることは理解できる。セアンははっきりと、「そんなことは間違っている」と考えているのである。

そのことはもちろん、ヤコブもリスも理解している。ヤコブがドイツ難民にもっと積極的に手助けすると決めたシーンで、「家族に危害が及ぶかもしれないから怖い」と考えを変えたように見えるリスが夫に、「子どもにはどう言うの?」と聞くのだが、それに対してヤコブは「我々は正しいと伝えるさ」と返している。これはもちろん、「そんな風に説得しなければならない」ということであり、両親もまたセアンがドイツ人に対してマイナスの感情を抱いていることを理解している。

ヤコブは次第に、町の住民からも白い目で見られるようになっていく。「売国奴」「ナチスの手先」「町の面汚し」と散々なことを言われてしまうのだ。しかし、恐らくそれらはまだ我慢できたのではないかと思う。一番キツかったのは、セアンからの視線だろう。彼ははっきりとは口にしないものの、「どうしてお父さんはドイツ人を助けるの?」と訴えかけていることは確かだ。そしてそこにはさらに、「僕が尊敬していたお父さんなのに」みたいな感情も含まれていると思う。ヤコブもそのことを正しく認識していただろうし、その事実が何よりも辛かったのではないかと思う。

さらにセアンが、ドイツ人を徹底的に敵視しレジスタンス活動も行っているビルクと仲良くしていることもあり、余計にその視線が辛く感じられるだろう。ホント、ヤコブにはまったく非がないのに、とんでもない状況に置かれてしまったものだなと思う。

観ていて、ヤコブやリスに気持ちも分かるし、でもセアンの気持ちも分かる。ビルクの立場にいたらやはり「許せない」という気持ちが強くなるだろうし、ヤコブに暴言を吐く町の人たちの気持ちも理解できなくはない。だから本当に辛いなと思う。どの登場人物の立場に立ったとしても、「そういう風に振る舞うしかないだろうな」と感じる。何が正解ということもないし、とにかく「ナチス・ドイツ」と「時代」が悪かったと思うしかないような、そんな状況が描かれていた。

映画の最後に、「デンマークで死亡したドイツ難民は10942人で、その内子どもが6540人だった」と表示された。個人的には、そこまで細かい数字がよくも残っているものだと思うが、それはともかく、死亡者の内の半数以上が子どもだったというのも残酷な話だ。

ある人物がある場面で、「でも子どもだよ」と口にする。確かにその通り。「ナチス・ドイツが憎い」という感覚は当然としても、やはり子どもに罪はないだろう。せめて子どもぐらいは、「敵」である以前に「子ども」であると認識すべきではないかと感じた。しかしこれは、リアルを知らない者が口にする机上の空論に過ぎない。日本にも「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という言葉があるが、なかなか「子どもだから」という捉え方ができなくなってしまうのも仕方ないだろうなと思う。

しかし、特にヨーロッパで制作される戦争映画に対して感じることだが、ナチス・ドイツは本当に最悪だったんだなと思う。よくもまあこれだけ「ネタ」(という表現は適切ではないだろうが)が尽きないものだと感じるくらい、ナチス・ドイツの蛮行はあらゆる映画で描かれる。もちろん戦時中であれば、日本を含めどの国も酷い行為を山程行っているだろうが、それにしてもナチス・ドイツはちょっとずば抜けて異常だったと感じさせられる。

ナチス・ドイツに限らないが、戦争に付随する「異常さ」を多くの人が理解することが「抑止力」に繋がると思っているし、そういう意味でも多くの人に知られるべき事実だろう。世界全体が平和であってほしいと思っているが、しかしやはり、どうにか日本が戦争に巻き込まれないでほしいと思う。もちろん、主導もしないでくれ。

「ぼくの家族と祖国の戦争」を観に行ってきました

映画を観終わって、デジタルリマスター版の公式HPの記述を読んでようやく、本作が能登半島地震を受けて29年ぶりに劇場公開された理由が分かった。

公式HPには、プロデューサーの言葉として、こんな文章が載っている。

【「あれから29年になりますか…」スタッフの多くは感慨深げに言う。「『幻の光』の映画化権をください」と宮本輝邸を訪問したのは1992年、その訪問から映画公開までは4年近くの歳月を要した。監督も新人、主演俳優も新人、もとよりチームを牽引するプロデューサーである私も映画界ではズブの素人であった。その新人たちに、映画の扉は硬く閉ざされたままで、出資も配給も全く目途がたたずただ日々が過ぎていった。「この企画はあきらめるべきかもしれない」とひとり断念の旅をと、輪島に向かった。「こちらでやれることは応援しますよ」立ち寄った観光協会のHさんは軽々と言った。その瞬間から映画『幻の光』は、まぼろしでなく、現実に動き出したのだ。】

今でこそ世界的な映画監督となった是枝裕和だが、本作が初監督作品であり、まだ無名の存在。そして、「主演俳優も新人」というのはおそらく江角マキコのことなのだろう。本人曰く、プロデューサーも素人だったというわけで、普通なら完成しなくてもおかしくない映画だったのだろう。しかし、輪島の人たちの全面的な協力のお陰で作品を完成させることが出来た。そういう想いを抱いていれば当然、「何かしなければ」という考えに至るのも当然だろう。本作の再上映によって、「美しい輪島」を改めて観てもらうという意図もあるようだが、より実際的な話で言えば、これも公式HPの記述だが、「収益から諸経費を除いた全額を輪島市に届け、1日も早い復旧復興を祈念する」ということのようである。

まあ、本作を観る前の段階ではその辺りのことを詳しく理解していたわけではないのだが、そういう観点からも観て良かったかなと思う。

本作は、「生活」と「風景」を映像で繋いだような作品だった。冒頭からしばらく描かれる尼崎での場面ではセリフは多いものの、能登へと舞台を移してからは、セリフは極端に少なくなる。荒れた海が立てる波の音や美しい夕日、輪島朝市のガヤガヤした音、ゴトゴトと走る電車。画面は常時、そういったもので埋め尽くされていく。

物語的な「起伏」という意味では、大きく2つしか無いように思う。1つは、主人公・ゆみ子の夫の死。そしてもう1つは、ゆみ子が再婚のために能登へと嫁ぐこと。この2つ以外は本当に「日常生活」が描かれているだけという感じだ。だからなんというのか、感覚としては「映画を観ている」みたいな感じではなかった。じゃあなんなんだと言われても困るのだが、「生活」と「風景」を眺めているという意味でいうなら「旅」みたいなものと言えるかもしれない。客席に座りながら、観客は旅をしているというわけだ。

そんな中で、物語の中心を貫くのが、「夫は何故自ら死を選んだのか」である。

尼崎に住んでいた夫妻は、慎ましいが、穏やかでぬくもりのある生活をしていた。風呂は銭湯、盗んだ自転車に2人乗りし、爆音でラジオを聞く隣人の老人に思いを馳せる。そんな何でもないけど愛おしいような日々を過ごしていた。

さらにそれから2人は子どもが生まれる。まさにこれから人生が再び始まっていくというような、そんな日々だったのだ。

しかし夫は、生後3ヶ月の子どもを残して、自ら命を絶った。理由は、ゆみ子にもまったく想像が出来なかった。

そんな想いを抱えながら生きる女性を主人公にしている。荒れる日本海はゆみ子の心情を表しているようにも思うし、度々映し出される電車は、「幸せのレールの上を走っていると信じていたゆみ子」のことを象徴しているようにも思う。

ゆみ子は、子連れで能登へと嫁いでいく。表向き、その生活はとても平穏だ。息子は、再婚相手の娘と仲良くなり、夫婦仲も問題なし、地元にも受け入れられている。しかしその一方で、ゆみ子の心の内側は日本海のように荒れている。

それはもしかしたら、日常が平穏であればあるほど強まっていったのかもしれない。というのも、自殺した夫との生活も平穏そのものだったからだ。平凡で幸せな平穏が続くと思っていた人生が、なんの音沙汰もなく変わってしまった。だからこそ、日常が平凡で幸せな平穏を保っていればいるほど、不安が押し寄せてくるのかもしれない。

そしてそれは、誰にもどうにもしてあげることが出来ないものだ。唯一可能性があるとすれば自殺した夫だけだが、死人に出来ることはない。誰かの慰めは、内なる日本海の荒波にかき消される。いや、それが分かっているのか、特段ゆみ子を慰める者も出てこないのだが。

身近な人間が自殺したら、「どうして死を選んでしまったのか?」と僕もきっと感じるだろう。しかし同時に僕は、「誰だって、ふと死にたくなることがある」とも考えている。はっきりした理由などない。むしろ、はっきりした理由がある方が死ぬのは難しい。「死のうとしている自分」を常に意識しながら死に向かわなければならないからだ。想像しているほど、これは容易なことではない。

だから、ふとした瞬間に、「あ、今なら死ねそう」なんて思考が浮かんだりして、そのまますっと死んでしまうみたいなことは、いくらでも起こり得ると思う。「死ぬこと」はとても難しいからこそ、「世界が一瞬無音になる」みたいなタイミングを捉えてふっと死の方へと足を踏み出してしまうみたいなやり方じゃないと、人って案外死ねないだろうと思っているのだ。

だから、身も蓋もない話をすれば、「死んだ理由なんて考えても仕方ない」と僕は思っている。ただ、そんな風に思える人は、そう多くはないだろう。「自ら死を選ぶ」ということについて「何か理由があるはずだ」という思考に囚われてしまう気持ちも分かる。そしてそんな状態に陥ってしまえば、「自分が悪かったのかもしれない」という考えに行き着くのも時間の問題だろう。

ゆみ子はきっと、そんな想いを抱えながら生きているのだろうし、それはとてもしんどいことだろうと思う。しかし本作では、そのような「しんどさ」はあまり可視化されず、ゆみ子は平穏に生きているように描かれていく。そんな女性の葛藤が、後半からラストにかけてジワジワと染み出してきて、「残された者の難しさ」みたいなものを感じさせられた。

しかし、個人的に結構印象的だったのは、江角マキコが可愛かったこと。僕の中の江角マキコのイメージは四角くて固さを感じさせるようなものだったんだけど、本作の江角マキコは丸っこくて柔らかい印象で、ちょっと驚かされた。特に夫が自殺する前の尼崎での生活を描く場面は、江角マキコの柔らかい雰囲気がとても印象的で、とても意外な感じがした。

正直に言えば、物語的には特に何も起こらないので、退屈と言えば退屈なのだが、「映像の美しさ」は圧倒的で、しかも非常に残念なことに、「その美しい世界は、地震によって失われてしまっている」わけなので、余計に29年前に撮られたこの映像に意味が出てくると言えるだろう。「能登の応援のために」みたいなことを僕が言うと嘘くさくなるので言わないが、「美しい世界が閉じ込められた世界」を観てみるのも良いだろう。ついでに、あなたが支払った鑑賞料の一部が、輪島の寄付へと回るというわけだ。

「幻の光」を観に行ってきました

「どうやって撮ってるんだろう?」って、観ながらずっと思っていた。

元々僕は本作を、ドキュメンタリー映画だと思ってた。映画館で観た予告で本作の存在を知ったのだが、その雰囲気から「ドキュメンタリー」に感じられたのだ。しかし、映画が始まってすぐに、「あ、ドキュメンタリーじゃないんだな」と気付いた。別にドキュメンタリーじゃないから観る気が失せたとかそんな話ではないのだが、とにかく「これはフィクションなんだな」と冒頭ですぐに気づいたのだ。

そこまでは別に不思議でもなんでもない。

ただ、映画を観ていてとにかく驚かされたのは、「明らかに実際の出産の現場を撮影していること」だ。帝王切開で子どもを取り出していたり、子宮口から赤ちゃんの頭が出てくる場面だったりが、映画の中で普通に映し出されるのだ。CGなわけがないし、演技でどうこうなるものでもないので、この出産シーンは本物だと思う。鑑賞後に公式HPを確認したら、「実際の出産シーンを織り交ぜながら、」と書いてあったので、間違いない。

そしてそこに、役者たちの演技が組み込まれていくのだ。

「実際の出産シーンを織り交ぜている」ということは、実際に病院にカメラを入れて撮ってるはずだ。しかし、作中でも描かれていたように、フランスの産婦人科病棟は戦場のような有り様だ。助産師や医師たちが口々に、「30年も続けてたら死ぬ」「常に人手不足」「人を人として扱わない」など、あまりに酷い職場環境に文句を言っているのだ。

また、本作の最後は、助産師たちのデモの様子を映し出して終わる。本作に登場した役者たちが映っているので、このデモのシーンも映画用に撮影したのだとは思うが、しかし恐らく、「助産師たちのデモがあった」というのは事実なんじゃないかと思う。そのデモの中で助産師たちは、「助産師は絶滅」「重要な仕事なのに薄給」「過労死寸前」といったプラカードを掲げていた。相当深刻な状況にあるようだ。

そして、そんな現場に、撮影のためのカメラを入れるのだ。そんなこと出来るのだろうか? まあ実際にやったのだろうけど、そういう点から僕は、「本作は一体どんな風に撮られたんだろう?」と感じてしまった。

そんなわけで、明らかにフィクションだと分かる映像の造りではあるものの、随所に「ドキュメンタリー感」を感じさせる作品であり、そのリアリティに圧倒されてしまった。

僕は正直、子どもの頃からずっと「子どもなんかほしくない」と思っていたし、今も変わらずそう思い続けているので、結婚はともかくとしても、「父親になる」みたいな選択を自らするつもりはまったくない。ただその一方で、「子どもや子育てをしている家庭はもっと優遇されるべきだ」と思っている。どう考えたってそうだろう。「老人」や「未婚の人(僕もそうだ)」に金を使うより、「これから生まれてくる子ども」に金を使う方がどう考えても合理的である。

そしてだからこそ、命が生まれる現場を支える人たちも、優遇されてほしいと思う。

フランスは、僕の知識では、かなり大胆な少子化対策を行って、割と有意な成果が出た国だったはずだ。ちゃんと知っているのは「婚外子を法的に認めている」ぐらいだが、調べてみると、税金など様々な点で優遇措置があるのだそうだ。

しかしそんなフランスで、助産師たちが過酷な労働を強いられている。それはなんとも皮肉というか、理解しがたい状況であるように感じられる。

彼女たちが働く環境は、なかなか凄まじい。それは単に「助産師や医師がハードワークを強いられている」というだけに留まらない。もちろんそれも大問題だが、もっと重篤な問題がある。「人手不足のために、母子に危険が及ぶような状況が常に存在し続けている」のだ。

作中で主人公の1人として描かれている黒人のソフィアは、自身が担当する患者が子宮破裂を起こし、帝王切開に切り替わったという経験をする。この件でソフィアはメンタル的にかなりやられてしまうのだが、ここには実は様々な複合的な問題があった。そもそも分娩台が空いておらず、分娩台にいればチェックできたはずの変化に気付けなかった。またモニターが故障し、遠隔でのチェックも難しくなる。さらにその日は、スタッフに病欠があり通常よりも人数が少なかったのだ。だから、ソフィアを責めるような雰囲気に対して同僚の1人は、「ソフィアの問題じゃなくて、人手不足が問題なの」と訴える。

また、後半ではこんな状況が描かれていた。出産を控えて分娩台にいた2人の妊婦が、誰の手も借りずに出産したのだ。助産師たちは人手不足と業務過多のため、その2人がいる病室に行けなかったのである。一緒にいた夫は、「5時間も誰も来なかったんだぞ」と、助産師のリーダー的女性を責めていた。

とてもまともな状況とは言えないだろう。

そんな環境の中で、どうにか踏ん張る者たちが描かれる作品で、そのあまりの壮絶さに圧倒されてしまった。

さて、そんな「命が生まれる現場の凄まじい労働環境」をベースにしながら、主にソフィアと、彼女とルームシェアしているルイーズの2人がメインで描かれていく。公式HPの内容紹介を読んでようやく理解したのだが、この2人は5年間の研究を終えて助産師として働き始めたのだそうだ(なんとなく僕は、ソフィアは元々働いていて、そこにルイーズが新たにやってきたのだと思っていた)。初日、ルイーズは先輩から「こんな忙しい日に新人?」みたいに言われながら仕事を教えてもらう。しかししばらくの間、「何か出来ることはありますか?」と聞いても、「私の邪魔をしないで」ぐらいしか言われない日々を過ごす。

一方のソフィアは、自ら積極的に手を挙げ、チームの面々からも信頼されるようになっていく。しかし、先述した「ミス」があり、ソフィア自身もメンタルがおかしくなってしまったり、上司も配置換えを考えたりと、なかなか難しい状況に置かれてしまう。

そんな2人の家に、新人の医師(だと思う)のバランタンが間借りするという話になったことで、少し厄介な状況に陥ることになる。ただまあ、その話には触れないことにしよう。しかしなかなかハードな状況で、誰も悪くないと言えば悪くないが、悪いっちゃ悪いよなぁ、というなかなか難しい感じがした。確かに「善行」かもしれないが、しかしそれを「善行」と呼んで良いのか悩むような状況だった。

さて、これは助産師に限る話ではないが、大変だなぁと感じたのが「安心させなければならないが、死と隣り合わせでもある」という命の現場の辛さである。

冒頭でルイーズが上司に怒られる場面がある。上司がある妊婦に、「いくら手を尽くしても収縮が収まらないので、未熟児のまま双子が生まれてしまう」と告げた場にルイーズもいたのだが、病室から出るとルイーズは「感傷的になるんじゃない」と怒鳴られてしまう。ルイーズは「未熟児のまま双子が生まれる」という話を聞いてもらい泣きしてしまっていたのだ。

それの何が問題なのか。上司は「患者を不安にさせたいの?」と詰め寄る。助産師は妊婦を安心させなければならないのだ。そのため、「自分の感情はロッカーにでもしまっておくの!」と言われてしまうのである。

一方、ソフィアにもこんな場面があった。後にソフィアを罪悪感で苦しめることになるミスの前、その妊婦に「私たちがついているから安心です」と彼女は伝えていたのだ。もちろんソフィアは本心からそう思っていただろうし、そう出来るとも考えていたはずだ。しかし実際には色んな状況が重なり、とても「安心」とは言えるような状況ではなくなってしまった。

映画で描かれている病院は、とにかく深刻な人手不足に陥っており、そのせいでミスも起こりがちなわけだが、そうでないとしても、やはり今も「出産」というのは「死」と直結する営みであることは間違いないと思う。つまり「危険な状況に陥る可能性は常にある」というわけだ。

しかし同時に彼女たちは、妊婦を安心させるために「大丈夫です」と言わざるを得ない。もちろん彼女たちは嘘をついているつもりはないだろう。そのために全力を尽くす覚悟を持っての言葉であることは間違いないと思う。しかし、どれだけ努力しても予期せぬことは起こるし、結果として伝えた言葉が嘘になってしまうこともある。

僕は、本質的にはこの点が最も辛いんじゃないかと感じた。もちろん本作で描かれる「過酷な労働環境」も深刻なのだが、仮にそれが改善されたとして、「出産が危険な行為である」という事実が変わるわけではない。そしてそうだとすれば、どれだけ完璧に業務が行われたとしても、避けがたい危険が発生してしまうことはあるはずだ。

それが分かっていながら「大丈夫です」と言わなければならない世界。そのことが僕には一番大変であるように感じられた。

さて最後に。僕には上手く理解できなかったのがソフィアへの扱いだ。ソフィアが「ミス」の後で配置換えを提案されたことは既に書いたが、実は「ミス」以前にも配置換えの打診を受けている。産前教室という、出産前の妊婦に講習などを行う教室のことだろう。ソフィアはその申し出に対し、「分娩室が好きなので」と言って断っていたのだが、そもそも僕には、ソフィアがどうしてそんな打診を受けているのかが謎だった。なにせ、助産師は常に人手不足だからだ。

だから僕には、「ソフィアが黒人だから」としか思えなかったのだけど、それはさすがに曲解なのだろうか? そこまで人種差別を露骨に行うものなんだろうかとも思う、他に思い当たる理由がないので、僕としてはそう認識する他なかった。本当のところはどうなんだろう?

あと、公式HPを観て驚いたのは、本作は今日2024年8月17日時点で、「ヒューマントラストシネマ有楽町」でしか上映されていない。8月31日以降、他の地域でも順次公開されるようだが、しかし東京では「ヒューマントラストシネマ有楽町」1館のみのようだ。割とマイナーな映画のはずなのに、劇場が結構混んでいたのは、ここでしかやってなかったからなのかと納得。映画館の運営もなかなか大変だと思うので色々仕方ない部分はあるとは思うが、個人的には、もう少し広く公開されても良い映画じゃないかと思う。

「助産師たちの夜が明ける」を観に行ってきました

いやー、これはホント、なんとも言えない「ざらつき」をずっと感じさせられる作品だった。「自分は今、一体何を見ているんだ?」という感覚に何度も襲われたのだ。それぐらい、描かれているのは「不条理」に満ちた世界なのだが、しかし僕らは、これが「自分の人生の先にも待ち受けているかもしれない日常」であると理解できてしまう。その恐ろしさを、観ている間ずっと感じていたように思う。

本作は、僕の感触では、「物語」としては成立していないと思う。結局最後まで観ても「分からない部分」は残るし、まあそれ自体は別にいいのだが、「過去」と「現在」のあまりの結びつかなさが、「物語」という形にまとまることを拒んでいるような感じがした。

ただその一方で、「物語世界」としては成立していると思う。本作では「認知症」が描かれるが、「認知症」という圧倒的な「不条理」によって物語が展開されていき、それ故に「物語」としては成立していないのだが、しかし、描かれている「世界」は、まさに今も、この世の中のどこかに存在しているのではないか、と思わせるリアリティがある。

そしてこの、「『物語』としては成立していないが、『物語世界』としては成立している」という本作の特異さが、「ざらつき」となって観客に届くのではないかと感じた。

物語は冒頭から、異様な形で始まっていく。ある民家を、警察の特殊部隊のような集団が取り囲むのだ。緊迫した雰囲気が漂う中で彼らは突入を決めるのだが、しかしその直後、玄関から男性が出てきた。

それが、認知症になった遠山陽二である。そして「なぜ特殊部隊が集まっていたのか」は、映画の最後まで分からない。

さて、父親の逮捕を受けて、脇役ながら大河ドラマにも出演している役者である卓は、妻・夕希を連れて九州へとやってきた。行政とやり取りし、施設への入居が決まるが、しかし卓にはなかなか自分事には思えずにいる。というのもこの30年間、卓は父・陽二と数えるほどしか会っていないのだ。

卓が幼い頃に両親は離婚。そしてその離婚を機に、卓は陽二と疎遠になった。陽二はその後、直美という女性と結婚。卓は、結婚の報告などの折に何度か陽二を訪ね、直美さんとも関わりを持っていた。しかし結局、父・陽二のことなどほとんど関係ないような形で、卓は人生を歩んできたのである。

行政からの帰り、夫婦で父親の家へと向かったのだが、自分たちではどうにもならないと、直美さんの携帯に電話をすることにした。しかしその携帯は、家に置きっぱなしで直美さんとは連絡が取れない。それどころか、父親の逮捕を境に、直美さんの行方が分からなくなってしまったのだ。

一体何が起こっているのか? 卓は、家に残された手紙やメモ、写真などに目を通し、また「拉致されて外国に収容されている」と思い込んでいる、施設で暮らす陽二に話を聞いたりするのだが、何も見えてこない。それどころか、見知らぬ男性の訪問を受けたり、見知らぬ女性が陽二の家で食事の宅配を注文していたなど、謎は増えていくばかり。

一体、何があったのだろうか……?

とにかく圧倒的だったのは、遠山陽二を演じた藤竜也。演技のことを言語化するのは得意ではないが、とにかく細部まで含めた存在感が圧巻だった。認知症を患う前の「絶妙に嫌な雰囲気を醸し出す老人」の雰囲気も、認知症を患ってからの「狂気を狂気だと理解していない狂気」みたいな振る舞いも、ちょっと凄いなと思う。本作はとにかく、「遠山陽二」という人物のリアリティにすべてがかかっていると言っていいだろうし、それを藤竜也が完璧以上の演技で成立させたと感じた。

はっきり言って、「物語としては成立していない」というのは、遠山陽二があまりにもムチャクチャだからなのだが、しかしそれでも、「遠山陽二という存在」は実にリアルで、よくもまあこんな絶妙なバランスを成立させたものだと感じた。僕は映画を観る時、どうしても「物語」ばかりに目が行ってしまうので、あまり「役者の演技」に打ちのめされることはないのだが、本作の場合は、とにかく「藤竜也の演技」に驚かされたし、揺さぶられたし、感動させられた。

さて、本作のタイトルには「不在」という言葉が入っているが、では「存在する」とはどういうことだろうか? 本作の最も深い問いかけは、ここにあるのではないかと思う。

少しまで、今泉力哉のオールナイト上映のイベントに行き、そこで初めて映画『退屈な日々にさようならを』を観た。そして、合間のトークで今泉力哉が、この作品を作るきっかけみたいな話をしていたのだ。大学時代の友人が亡くなったという連絡をもらったのだが、もちろん彼はそんな想像などまったくしていなかった。つまり彼の中でその友人は「生きていた」のだ。そこまで親しい友人ではなかったのだろう、亡くなってから3ヶ月後にその連絡をもらったそうだが、実際に命を落としてから今泉力哉が連絡をもらうまでの3ヶ月間、今泉力哉の中では、その友人は「生きていた」のである。こんなエピソードを話していた。

これはつまり、「記憶の中に存在していれば、リアルに存在しているのと大差ない」みたいなまとめ方も出来るだろう。「もう存在しない」という情報によって記憶が更新されてしまえばそうもいかないわけだが、そんな「更新」がなされない内は、「記憶の中の存在」と「リアルでの存在」は大差ないのである。

さて、しかし本作では、「記憶が失われていく」という認知症が扱われている。先程の話を逆にそれは、「記憶の中の存在」が消えてしまえば、仮にリアルに存在していたとしても、「リアルでの存在」も消えてしまう、ということになるだろう。本作ではもちろん、このような難しさが描かれている。

しかしそれだけではない。本作の非常に興味深い点は、「記憶が物質として残っている」ということにある。

あまり具体的には書かないが、本作には「大量の手紙」が登場する。そしてそれは、「陽二と直美の記憶そのもの」と言ってもいいだろう。「記憶」が脳内に留まっているだけだと、認知症のようなきっかけで失われてしまいもするが、「手紙」という形で物質になっていると、また違った存在の仕方が可能になる。

良かれ悪しかれ。

さて、この点に関しては少し、僕自身の話を書いてみたいと思う。

僕は20歳ぐらいの頃から「本を読んでブログで感想を書く」ということを始め、その後映画でも同様のことをやるようになった。現在41歳。途中まったく本にも映画にも触れなかった数年間があるものの、概ね20年近く文章を書き続けていることになる。

また、僕の文章を定期的に読んでくれる方には理解してもらえると思うが、僕は割と「その時々の自分の思考・感覚・価値観」を「本・映画の感想」の中に織り交ぜていくというやり方をしてきた。

なので僕にとっては、「昔のブログ記事を読み返すこと」は「タイムカプセルを開ける」みたいな感覚がある。

正直、昔のブログ記事を読み返すを読み返すことはほとんどないのだが、たまにそういう機会があると、「そうか、昔の自分はこんな風に考えていたのか」なんて感じることも多い。正直、「20代の自分のことを、全然別人に感じられる」みたいな感覚さえある。僕自身はずっと連続した存在としてこの世に生き続けてきたわけだが、どの時代で切り取るかによって、僕自身の見え方が全然変わってくるのである。

そして同じことが、「手紙」に対しても言えるだろう。陽二と直美は、結婚して30年が経っている。そして、その「手紙」が書かれたのは、2人が結婚する以前なのだ。

30年前と今とでは、同じ自分だろうか? はっきりとそんな風に突きつけられることはないものの、本作にはそんな問いも含まれているように感じられた。

さて、本作はそんな「陽二と直美を巡る物語」が主軸の1つになっているのだが、もう1つ、「卓が状況を把握するために動く」という描写も主軸だと言える。そしてこちらも、実にややこしい。

こちらのややこしさは先程とは違い、「『記憶』に類するものがほぼ存在しない」という点にある。陽二と直美のややこしさは「存在したはずの『記憶』が失われる」ということによって浮き彫りになるわけだが、卓が直面したややこしさは「そもそも『記憶』なんてなかった」という点にあるというわけだ。

卓の視点からすれば、「父親が誰だか分からない人と再婚し、そうかと思えば突然警察に捕まった」みたいな感じだと思う。陽二と直美の夫婦関係も、他の人との関わりも、何も知らない。そんな「何もない」ところから彼の奮闘は始まっていくのである。

もちろん、「父親との『記憶』が何かあったら、状況に変化があったのか?」と言うと、なかっただろう。陽二と直美の問題は、そんな領域とは関係ない部分で深まっていくからである。しかし卓は、「あまりにも何も知らない」ことによって、どう動くべきか分からずに困惑することになる。

なにせ、父親は認知症になり警察に捕まり、父親の再婚相手は行方不明で連絡も取れないのだ。施設に収容された父親から話を聞くことは可能だが、意味不明な話ばかりするため、まともな会話は成立しない。日記、手紙、メモ、写真など、残された情報は膨大だが、しかしそれらを読み解くとっかかりさえ無いのだ。

観客は、「陽二と直美の過去のやり取り」を回想という形で知ることが出来るが、卓にはもちろんそんなことは不可能だ。そういう意味では、卓もまた「認知症的状態」にあったと言っていいかもしれない。

そしてそんな「認知症的状態」にある2人が、まったく交わらない世界線の中で、肉体的にのみ接触しているという状態を捉え続けるのが本作であり、まさにお互いにとってお互いが「不在」だったと言えるだろうと思う。

とまあ色々書いてはみたものの、本作を上手く捉えきれているのかどうかよく分からない。というか本作の場合、「正しい捉え方」など存在しないようにも思う。物語というのは大体、終盤に向けて収束していくものだが、本作はとにかくひたすら発散し続けている感じがあり、だから「全体像を的確に捉える」ことなど出来ないように思う。観た人が、琴線に触れた部分を切り取って、「これが私の捉え方だ」と表明していくしかないのだろう。

面白かったかどうかという質問には馴染まない作品だが、とにかく「圧倒された」ことは間違いないし、観て良かったなとも思う。久しぶりに、なんとも言えない「特異さ」を孕む作品を観たという感じで、個人的にはとても満足だった。

「大いなる不在」を観に行ってきました

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