黒夜行 2007年12月 (original) (raw)

これももう何度も書いたような話ではあるのだけど、まあ懲りずにまた書くことにしようか。そろそろ前書きで書くネタも尽きてきたからなぁ。なんか新しい方法を考えなくては。
幽霊について、である。僕の立場は、幽霊はいてもいい、というものである。いると思っているわけでも、いないと思っているわけでもない。ただ、いると断定するほどはっきりした存在ではないけど、いないと断定するほど明確な根拠があるわけでもなく、いるというならそれはそれでおかしくはないかもしれない、という程度のものである。
実際に霊現象みたいなものに遭遇したようなことはない。幽霊を見るとか、金縛りにあうとか、幽体離脱をするとか、幽霊の映った写真を撮ったとか、まあそういうような経験は特にない。だから僕にはまあ一次情報がないという風にも言えるかもしれない。僕の霊現象に関する知識は、すべて誰かが言ったことや書いたことであるということだ。
もし僕に霊現象の経験があったらまた立場は違うかもしれないなとは思う。霊現象を経験したら、まさにそのせいで幽霊の存在を信じるかもしれないし、あるいは逆に自分が経験したことのありえなさを認識して霊現象を否定するようになるかもしれない。まあ霊現象なんて、経験しないに越したことはないわけで、特に不満はないのだけど。
霊現象といわれるものの大半は、恐らく科学で説明がつくのだろうと思う。物理的な現象から病理的な症状まで、とにかく僕らが知らないだけで、霊現象と同じような状態になるような現象というのは恐らく存在するのだろうし、科学的に解明もされているのだろうと思う。わざわざ科学者が表立って出てきて幽霊の不在を証明しようとしないのは、それがあまりに馬鹿馬鹿しいからだ。わざわざ表立って説明しなくてはいけないことだとも思わないし、意味がないと思っているのだろう。まあその通りだと思う。
ただ、少なくとも現代の科学では解明で来ていないような現象も恐らくあるのだろうと思う。それが霊の仕業なのか、あるいはまだ解明されていない普通に科学で説明できる現象であるのかは今の段階ではなんとも言えない。科学で説明できないのだから霊は存在すると主張することも、あるいは現代の科学ではまだ分かっていないだけですべてはいつか科学で説明できると主張することも、まだどっちも出来ない。霊の仕業である可能性もあるだろうし、科学で説明できる現象である可能性もある。だから、霊が存在する可能性を僕は否定することはないわけです。
でも、幽霊っていうのは不思議な存在だとやっぱり思いますよね。見える人と見えない人がいるわけです。これをちょっとコップで考えてみましょうか。
一つ不思議なコップがあるとしましょう。このコップは、見える人には見えるのだけど、見えない人には見えないコップなわけです。もちろん、そのコップが見えない人にはそのコップに触れることも出来ないわけです。
さてこの場合、このコップは『存在』していると言えるでしょうか?見えている人からすれば、見えているわけだし触れもするわけだから当然存在することは疑いようがないわけですけど、でも見えない人からすれば、もちろん触れもしないわけで、存在すると言われたって何言ってるわけ、というような感じでしょう。
この話を自分で書いていて、シュレディンガーの猫というのを思い出しました。シュレディンガーの猫の説明を少しだけすると、これはある物理の分野を皮肉ったような話になるわけです。
ある箱の中に、ある確率で発射する銃(つまり、ある一定の時間の間に発射するかどうかが確率で決まっているような銃)があり、その銃の先に毒物の入ったビンが置いてあります。さて、その箱の中に一匹の猫を入れて蓋をします。そしてその一定の時間が経ったとしましょう。さて、その段階で箱の中の猫は生きているでしょうか、それとも死んでいるでしょうか。これがシュレディンガーの猫と呼ばれる命題です。
もちろん箱の蓋を開ければ、猫が生きているか死んでいるかは確認できるわけです。ただ、蓋を開けない状態ではどうでしょうか。銃が一定時間の間に発射する確率は決まっていて、蓋を開けてみないと銃が発射されたかどうかの確認は出来ません。
この場合物理学では、この箱の中の猫は死んだ状態と生きた状態が混ざった状態であると説明されます(というかこれは、非常に小さな世界の話を現実のスケールに置き換えたらこんな変なことになるよ、という皮肉であると捉えてください)。さっき例に出したコップも、存在している状態と存在していない状態が混ざった状態であるという風に表現できるかな、と思ったりしました。
幽霊もまあ似たような存在かもしれませんね。存在しているのと存在していないのとが混ざった状態。しかし、妖怪になるとちょっとまた事情が変わってくるでしょう。少し前の日本では、妖怪というのは多くの人が存在すると信じていたわけです。その実在が科学的に示されたということは恐らくなかったでしょうが、しかしかなり多くの人がその実在を信じていたわけで、そうなると、姿かたちはないという点では幽霊と同じなのだけど、妖怪の方は存在していたと言えるだろうなと思います。
まあ幽霊がいようがいまいが僕の生活に何か影響があるということもないので、どうでもいいと言えばどうでもいい話ではあるんですけどね。幽霊とは関係ないかもだけど、細木数子と江原啓之は嫌いです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作はシリーズ物で、僕はこのシリーズを読むのは初めてですが、本作は実はシリーズ4作目だったりします。とりあえずまずその辺の話からしましょう。
本作はSTシリーズと呼ばれるシリーズなんですが、第一期の作品と第二期の作品に分かれるようです。第一期の作品は3作あって、で本作は第二期の一番初めのシリーズなわけです。このSTシリーズの第二期は「色」シリーズとも呼ばれます。タイトルに、シリーズで活躍するSTメンバーの名前に関係する色が含まれているからです。
本作の色は「青」で、つまりこれは、STメンバーである青山翔が活躍する話だよ、ということなわけです。
まあそんあわけで内容です。
あるプロダクションがTBNから受注した心霊番組で、とあるマンションで撮影を行うことになった。そのマンションは以前から幽霊が出ると噂があった場所で、霊能者である安達春輔に立ち会ってもらいながら心霊現象を撮影しよう、というような企画です。タレントの水木優子をアシスタントに据え、撮影は順調に進んでいきました。
しかしプロダクションに所属するディレクターの見解の違いから、また霊能者である安達の助言もあり、人払いした部屋でカメラだけ回してみるということになりました。スタッフは打ち上げに行きましたが、テープ交換と最終的なテープの回収のために深夜と早朝にスタッフがいかなくてはいけません。
その早朝にテープを回収しに行ったスタッフが、プロダクションのディレクターの死体を発見しました。後頭部を強く打った状態で見つかり、近くに脚立があったことから転落死であると断定されそうになりましたが、警視庁科学捜査班(通称ST)の面々が事故死であるとの判断に疑問を持ち、捜査が継続されることになりました。
STというのは正式には刑事ではなく科学系の研究員という立場です。現場をあらゆる角度から検証することで捜査に助言を与える立場ですが、今回は本庁と対立する形になった所轄を助けるためにいろいろと動くことになります。
STのメンバーにはそれぞれ特殊な能力があり、それぞれの能力を活かして事件解決を急ぐのですが…。
というような話です。
いやはや、これなかなか面白い話でした。今野敏という作家の名前は知ってたし、一般の知名度は低いかもしれないけど業界的には評価の高い人だということも知っていたけど、なかなか面白い作品を書くんだなぁ、と思いました。
本作は一応警察小説という括りになるでしょうが、しかし警察小説にありがちな堅苦しい感じとか泥臭い感じとかが全然ありません。とにかくかなり特殊で奇妙な能力を持ったメンバーがあれやこれやありえない活躍をする感じで、まさにマンガみたいな設定です。でもだからと言って軽い話かというとそうでもなく、解説でも書かれていましたけど、かなり多方面に渡る広範な知識が描かれていて、著者の見識の広さに驚きました。とにかくいろんな意味で意外な作品でした。
さてそのSTメンバーのそれぞれの能力をざっと書いてみましょうか。
青山翔…文書・プロファイリング担当。とにかく美形で、今回の話では、芸能事務所の人に芸能界に誘われる一膜もあったり。軽妙な口調で誰とでも話し、その性格はすぐに把握できる。秩序恐怖症で、乱雑さに囲まれていないと不安になる。口癖は、「ねぇ、僕もう帰っていい?」である。

赤城左門…法医学担当。STメンバーのリーダー格でありながら孤独を好む。対人恐怖症のきらいはあるようだが、しかし彼が話し始めると人が集まってくる辺り、人望というか人徳のようなものがあるらしい。特に女性は苦手。

山吹才蔵…化学的な知識が豊富。この人は何か特別な能力があるわけでもなさそうなのだけど(本作を読む限りでは)、でも現職の僧侶という異色の男である。

結城翠…紅一点の女性である。物理の担当で、とにかく異常なまでに聴力が優れている。同じ部屋にいて誰かが電話をしているとき、その相手の声も聞こえてしまうほどだという。潜水艦のソナー員になりたかったようだが、閉所恐怖症のため断念。閉所恐怖症であるために、胸や太ももなどをあらわにしたかなりセクシーな服装をしている。

黒崎勇治…化学物質が担当。とにかく嗅覚が異常に優れていて、結城と黒崎のコンビは、人間嘘発見器と呼ばれるらしい。その理由は、結城が相手の心臓の鼓動を聞き分け、黒崎が相手の汗の分泌なんかを感知出来るからということである。様々な武道に秀でているが、とにかく無口。

こういうなんともマンガチックなメンバーたちが、それぞれの専門を遺憾なく発揮して事件解決にあたるのである。
また、ただ事件を解決するだけではないところもいい。本作では霊現象が扱われているのだけど、それが事件と結構ちゃんと結びついていてなかなかいい。なかなかストーリー運びがうまいと思った。
また、警察に関する描写も割とこだわっている感じで、本作ではそういう警察小説臭さはないのだけど、でも細かいところの描写が結構ちゃんとしているなと言う風に思いました。
しかし本作で何よりもすごいなと僕が思ったのが、その読みやすさですね。ここまでスラスラ読める作品は久しぶりな気がします。
僕は文庫本なら大体1時間で100P読めるんですけど、本作の場合1時間で150P以上は読めたのではないかと思います。それぐらいあっという間に読み終わってしまいました。ここまで読みやすい作品を書けるというのは一つの才能だなと思いました。ちょっと今野敏は侮れないなと思いました。
近い内にSTシリーズ第一期の1作目を読む予定です。このシリーズはなかなか面白いので、これからももっと読んでみてもいいかなと思います。すごく軽く読めて面白い作品なので、是非読んで欲しいと思います。

今野敏「ST警視庁科学特捜班 青の調査ファイル」

人は1日に200回は嘘をつくという。
ホントかよ、とか思ったりします。自分のことを振り返ってみても、そこまで嘘をついている気はしません。そもそもこの200回という数字が一体どこから出てきたのか、根拠を知りたいところですけどね。
そもそも難しいのは、嘘とは何か、ということです。何をもっと嘘だということが出来るのか、ということです。
大抵の場合、大多数の人がそうだと信じていることではないことが嘘だと言われるような気がします。たとえば、ネッシーが存在するかどうかというのは、恐らくですがそう信じている人よりも信じていない人の方が遥かに多いでしょうから、嘘ということになる、というような判断がされることが多いだろうと思います。あるいはこうもいえるかもしれません。それを嘘だと思う人が多ければそれは嘘だということになる、と。政治家がありえない額の支出に対して、特殊な水だったのだ、と説明する。しかし、多くの人はそれを聞いて嘘だろうなと思う。であれば、真実がどうあれ、それは嘘であるということになってしまうだろうと思います。
重要なのは、真実がどうであるのかということが無視される傾向にある、ということではないかと思います。最近社会を見ているとよりそんなことを感じるようになりました。例えば、最近よく話題になりますが、ゴキブリを油で揚げたとかなんとかっていう書き込みがあったりするわけです。これは、対外的には嘘だったということになっています。そんなことは実際にはなかった、と。しかし、その書き込みがあった段階で、嘘なのかどうかという点は既にどうでもよくなっているという感じはあります。真実であるかどうかには関係なく、その書き込みが一人歩きしていく。週刊誌の記事なんかもそうなのでしょうが、それが真実であると思わせればそれは真実になり、それが嘘だと思わせればそれは嘘になるというような傾向があるな、と思います。
嘘について非常に難しい点は、嘘を吐こうとして嘘を吐いているのか、あるいは自分ではそうだと信じていて嘘をついているのか、という部分です。
嘘だと分かっていて嘘を吐くなら問題ありません。いや問題はあるんですけど、少なくともそれは正常の範囲内であると僕は思うわけです。僕も、意図的に嘘をつくことはよくあります。それは、周囲の状況を踏まえた上での嘘だったり、誰かの感情を守るための嘘だったり、自分の保身のための嘘だったりとまあいろいろありますけど、自分で「これは嘘だ」と認識した上で嘘を吐くのであれば、まあいいだろうと思うわけです。
しかし問題なのは、自分で嘘を本当のことだと信じ切って嘘をついているような場合です。
昔何か本で読みましたけど、嘘発見器に引っかからない人というのがいるのだそうです。明らかに嘘をついているのだけど、嘘発見器が反応しない。つまりそれは、自分で自分の言っていることを信じきっているからだ、ということなのだそうです。自分の吐いている嘘に自分が騙されているという風にもいえるかもしれません。とにかくそういう人は、危険だなと僕は思うわけです。
小学校時代の話ですけど、同級生にそれっぽい女子がいました。今となってはもうあんまり正確には覚えていないんですけど、とにかく喋れば嘘ばっかり吐いているような女子でした。まあもちろんみんなに嫌われていたわけですけど、先生とかに、周りの人間がこんなことをするのだ、というような嘘を平然と吐いたりしていたような気がします。あれは今考えてみると、恐らく自分が言っている嘘を信じていたんだろうなと思います。そうじゃなきゃ、あんな感じに生きていくことは出来ないだろうな、と思ったりします。
自分の嘘を信じている人にとって、真実というのは一体何なのだろうな、と思います。昔お笑い芸人の島田洋七がこんなことをテレビで言っていたのを思い出しました。
島田洋七は、とにかく自他共に認める嘘つきだそうで、あるエピソードの話をしていました。島田洋七はある日、誰かと待ち合わせで喫茶店にいたのですけど、結局その日は誰も来なかったのだそうです。で考えたところ、どうやら自分が吐いた嘘に騙されたっぽい、ということです。始終嘘ばっかりついているので、周りの誰かに「いついつ誰かと待ち合わせなんだ」というような嘘を言ったのを覚えていて、それが本当のことだと思い込んでその喫茶店で待っていたということのようです。まあ稀代の(?)嘘つきなようなので、この話もどこまでホントかわかりませんけどね。
そうやって、自分の嘘を信じている人からすれば、自分のついた嘘こそが現実であり真実になるのかもしれません。しかし、それは実際の状況とは間違いなく折り合いのつかないものであるでしょう。自分はお金持ちだと思い込んでいる人がいたとして、しかし実際は貧乏なのでお金はありません。実際の状況と合わないことになりますが、しかし恐らく消費者金融なんかから借りまくって、しかも借りたという事実を忘れてしまったりするのでしょう。彼らにとって自分の嘘こそが現実であり、実際の状況をねじ曲げてでも自分の嘘を貫こうとするのかもしれません。
ともかくそういう人間とは出来る限り関わらないようにするしかないなと思います。ただ、僕は接客業をしているのですけど、時々そういう、明らかにおかしなことを言っているのだけど自分が言っていることは間違いなく正しいというような主張をされる人がいたりします。そういう場合はとにかく反論せず、はいはいと言って話を聞いているしかないんですけど、そういう人と対応するのは大変だよなとか思います。
ただ難しいのは、この症状は恐らく自覚することが不可能だということですね。彼らは、自分の嘘が正しいと思い込んでいるわけで、いくら僕らが「それは実際とは違うんだよ」と教えてあげても聞く耳を持たないでしょう。
そう考えると、僕も不安になったりします。この症状は自覚出来ないのだから、僕自身がその症状であったとしても論理的にはおかしくはないわけです。実際は周囲の人間に「あいつはおかしい」と思われているのに、自分だけがそれに気づいていなかったとしたら…。そう考えるのか、かなり恐ろしいことですね。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は非常に内容紹介の難しい作品なので、まあざっと書くだけにしようと思います。
ヴィクトル・ラーレンツは、国内でも特に名声のある精神科医の一人である。メディアにもよく顔を出し、裕福でもある。しかし彼は現在、精神科医の看板を下ろしただけではなく、患者としてベッドに括りつけられているのである。
どうしてそんなことになったのか。それには、4年前に起きた娘の失踪事件が関わっている。ある病院に娘を連れて行った日、娘が突然いなくなったのだ。それまで原因不明の病気に見舞われた娘をなんとか治そうとありとあらゆる病院を転々としあれほどに可愛がっていた娘が失踪したショックは大きく、ラーレンツはちょっとおかしくなってしまったのだ。
その事件以来彼は、パルクムという島に籠って休養を取ることにした。しかしそこに、アンナと名乗る、統合失調症の女性がやってきたことからすべてがおかしくなった。アンナは、娘のこととしか思えない話を話し始めるのだけど…。
というような話です。
ドイツで出版されるやたちまち大ベストセラーとなり、amazonのランキングでも長いこと1位を独占し続けたという作品です。まあそれなりに楽しめる作品でしたけど、正直あのオチはありなのか?と僕は思ったりしました。いや、確かに作品としては普通に成立しているし、つまらないということもないのだけど、でもこのオチはちょっとやっぱり反則なんじゃないかなぁ、と僕は思ったりしてしまうわけです。何故なら、それまでに張った伏線の回収をほとんど放棄しても文句の言われないオチだからです。僕は、最後のオチまでに張られてきた伏線がどうやって一つにまとまるのかということが気になっていたわけですけど、でも本作のオチはその伏線の回収を根底から諦めるようなもので、ちょっとなぁ、と思ったりしたわけです。もしそのオチでいくなら、あそこまでの伏線はちょっといらなかったんじゃないかな、とも思ったり。
まあしかし、その点を含めてもまあなかなか面白い作品だったかなとは思います。どうなっていくんだろう、という興味が尽きない作品です。
あぁでもそういえば今思い出したけど、日本の作品でも本当によく似たような設定の作品がありました。もちろんその作品の名前を出すと完璧にネタバレになるので言いませんが、そっちの日本の作品の出来の方がよかったかもしれません。少なくとも、最後のオチはアリだなと思った記憶があるので。本作の場合、その最後のオチ一本しかネタがなかったことが敗因かなとも思います。
ドイツamazonでずっと1位でありつづけると言った感じになるようなすごい作品とも思えなかったですけど、まあそこそこ楽しめる作品だとは思います。強くはオススメはしませんが、まあ興味があれば読んでみてください。僕としては、外国人作家の作品は人の名前が覚えられないので読むのが辛いんですけど、本作は登場人物がかなり少ないので読みやすかったなと思います。

セバスチャン・フィツェック「治療島」

起こってしまったことを取り消すことは出来ない。
そんなのは当たり前のことなんだけど、それって残酷だよなって思ってしまう。
それは、時間がある一定の方向にしか流れないからだ、ということも出来るし、事実というのは固着してしまうものだからだ、とも言うことが出来るかもしれない。とにかく、起こってしまったことは一瞬で過去になり、その過去になった事実は、事実として時間のなかに固着されていく。
しかし一方で、取り消すことの出来ないはずの事実は、どんどんと変容していくのである。
事実というのは何によって支えられるかと言えば、結局記録と記憶でしかない。人間の記憶はまったくあてにならないし、人間が書いた記録には主観が混じる。僕らは、どんなに注意深く観察をしてみても、事実そのものを見ることが出来るわけではない。事実というのは取り消されもせずずっとそこに存在するのだけど、それを見る側の記録や記憶の変容によって、事実自体がどんどんと違った風に見えていってしまうものである。
だからこの世の中に、ちゃんとした形で残っている事実なんて一つもない。あるのは、個々人がそれぞれに咀嚼し解釈した真実だけである。
大きな事件が起きると、一瞬だけマスコミが大騒ぎする。あることないこと書き立てられ、関係のない情報まで氾濫し、その段階で既に事実がなんなのかまったく分からなくなる。どこかにあるはずの事実の形を、僕らはその片鱗さえ掴むことが出来ない。
そうして、何らかの形でマスコミの報道が収束していく。すると、事実の片鱗すら見ることが出来なかった僕らは、その事件自体を瞬時に忘れてしまう。自分自身の中で真実が作られるだけのきちんとした情報が提供されないためではないか、と僕は思う。
しかし、当事者というのはまた違う。
当事者の場合もまた、事実というのはきちんとした形では知ることが出来ない。強烈な印象を残す断片が事実の片鱗として残るだけで、全体像は分からない。警察やマスコミや周囲の人間から入ってくる渾沌とした情報に惑わされる。いつでも情報は氾濫する。
しかし一方で、当事者の場合、彼らなりの真実というのは常に形としてあるのだろうと思う。それが実際に起こったことかどうかはわからない。しかし、まあ仮説と呼んでもいいが、当事者は何らかの形で恐らく真実を持っているはずだ。
そうでなければ自分の中でその事件を消化することが出来ないはずだからだ。自分の中で何らかの決着をつけるために、どうしても真実を持っていなくてはいけない。
なんていうことを、事件の当事者になったこともない僕が言ったところで、という感じですけど。というか、自分でも何を書いているんだかよくわからなくなってきたので、そろそろ内容に入ろうと思います。
本作には、中心となるある事件があります。
それは、「あの帝銀事件のよう」とも言われた、集団毒殺事件です。地元の名士として知られるある医者一家の元にお祝いとして届けられた酒とジュース。その中に毒物が混入されており、12人が死亡するという大事件となった。
大捜査網が敷かれたが犯人は杳として見つからなかったのだが、しばらくしてある男が、自分が犯人であるとの遺書を残して自殺をした。事件はとりあえず、被疑者死亡という形で終焉を迎えた。
それから長い年月が経った現代、というのが舞台の小説です。
ある人物が、当時その事件に何らかの形で関わった人に話を聞きに行き、それを相手の独白という形で文章が進んでいくという形式のストーリーです。合間合間に事件当時の動きやある人の手記などと言ったものも挟み込みながら、事件当時本当は何が起こったのかということを複層的に明らかにしていこうという試みの作品です。
恩田陸という作家のことは僕は嫌いで、でも嫌いなくせに何でか手に取ってしまうという忌々しい作家です。既に15作以上読んでいますが、その中にかなり当たりの作品が数作あったことを除けば、どれもちょっと残念な作品という感じです。
本作も、なんともなぁ、という感じの作品でした。残念な方の作品です。まあそれでも、普段の作品よりは若干まとまりがあってまだマシという感じのする作品ではありますが。
恩田陸は、文章とか細かなエピソードを積み重ねていくという手法なんかはかなり巧いと思っています。ただ、なんともはっきりとしないストーリー性とか、カタルシスの得られない結末とか、そういう部分がどうも好きになれない感じの作家なんだよなぁ、と僕は思ったりします。まあ、ストーリーはあれかもしれないけどこの雰囲気が好き、という人はいるのだろうし、そういう人が恩田陸のファンなんだろうから、作品がダメというわけでもないんだろうとは思いますが。
いつも恩田陸を読む度、もう次はいいだろう、と思うんですけど、恐らくまた何か読んでしまうんだろうなという気はします。なんとなく無駄に期待させる作家なんですよね。憎らしいです。

恩田陸「ユージニア」

僕にとってお金というのは、目の前にある現金、のことである。それ以外は、どうにもお金としての実感が持てない。銀行口座の預金残高でさえ、僕にはただの数字にしか見えないのである。クレジットカードなどはそもそもお金という感じがない。その気軽さが受けてクレジットカードが出回っているのだろうけど、僕からすればお金とは思えないもので買い物をする気にはどうしてもならない。
まあそんなわけで、株だとか債権だとか保険だとか、他に何があるか知らないけど、そういうようなものにはまったく全然興味がないのだ。
そもそもお金をあっちこっち移動させるだけでお金が増えるなんて、どこかおかしくはないだろうか。株を買う。その株の値段が上がったら売る。それによって得た差額分のお金はもちろん自分の収入となる。なるけれども、僕にはどうにも実感が湧かないような気がする。実感が湧かなくたってお金として使えるのだから別にいいんだろうけど、やっぱりあんまり興味が持てない。
まあ問題は、そもそも僕の場合お金そのものにあんまり興味がなくて、別に使い道がないってことである。最低限の生活にちょっと色がつくぐらいの生活が出来れば、まあそれで満足出来てしまう人間である。車だの家だのと言った高い買い物はしないし、オーディオやカメラなんかに凝っているわけでもない。食べ物に興味があるわけでも、旅行に行きたいわけでも、女を買いたいわけでもなく、まあとりあえず屋根の下で退屈ではない生活を送ることができればまあ十分というような人間だ。そもそも金の掛からない人間なのである。
だから、世の中の人間が金金金と言っているのがどうも理解できなかったりする。
本作には香港人がたくさん出てくるのだけど、とにかく香港人は金が大好きらしい。まあ中国人というのが基本的にそういう感じなんだろうけど、どんなことでも最終的には金の話になってしまう。金をどれだけ持っているかということが価値判断のすべてであって、それ以外はとりあえずどうでもいい、というような人種であるようだ。
どうにもそういう感覚は僕には理解できないのだ。僕の中では、やりたいことがあってそのために金が必要、というなら分かる。旅行にも行きたいし服も買いたいし美味しいものも食べたいし彼女にプレゼントもあげたいし、とまあいろいろやりたいことがあるというなら、お金が欲しいというのは分からないでもない。
でも、僕のイメージでは、大抵の人はそうではないように思う。大抵の人は、なんとなくお金が欲しいのである。もちろん、お金があったらあんなことも出来るしこんなことも出来るし、というようなことは考えているだろうと思う。けど、どうしてもそれがやりたいのかと言えばたぶんそんなことはないんだと思う。それよりも重要なことは、お金をたくさん持っているということそのもの。言ってしまえば、旅行に行ったり美味しいものを食べたり周囲の人間に奢ったりブランド物を買い漁ったりするというのも、自分はお金をたくさん持っていますよ、ということをアピールするための行動でしかないのだと僕には思えるのだ。それをやりたいわけではないのだと思う。
また、将来の不安に備えてお金が欲しい、というのもあるだろう。これはたぶん日本人に多いのだろうけど、まあ確かに分からないでもない。分からないでもないが、しかしどうも動機としては弱い気がする。将来こうしたいから今お金が欲しいというのではなく、将来何が起こるかわからないから一応お金を持っておきたいという消極的な理由である。それも何だかなぁ、と僕は思うのである。
みんなそうやって、なんとなくお金が欲しいと思っている。少しでもお金を多く儲けることの出来る方法を知りたがる。そして、たくさんお金を手にすることが出来た人間は、いかにそのお金を減らさないでいられるかということを考える。そうやってみんなお金に執着していく。
本作では50億円という大金が絡む話が出てくる。しかし、考えても見て欲しい。50億円なんて大金、本当に欲しいと思いますか?もちろん、なんとなくお金が欲しいと思っている人からすれば、50億円もらえるというならもらうと答えるでしょう。しかし、僕ならいらないなぁ、と思います。だって、50億円なんてお金持ってても、一生の間にその10分の1も使えないだろうし、何だかいろんな善からぬ輩に付けこまれて身包み剥がされそうだし、そもそも50億円なんてお金を管理するのがめんどくさい。50億円もらえるのと1億円もらえるのと二つの選択肢があったら、僕なら1億の方でいいや、とか思いますね。まあ1億でも多いし、そもそもそんな状況にはなりえないから無駄な仮定なんですけどね。
最近、「お金は銀行に預けるな」っていう新書が出ました。銀行に預けておくんじゃなくて、きっちり運用して資産を増やしましょう、というような内容みたいです。でも、僕はいいや、とか思いますね。アホみたいに銀行に預けておこうと思います。本作にも、いろんな資産運用のやり方や税金を払わなくていい裏技なんかが書いてありますけど、恐らく一生使うことはないでしょう。
そろそろ内容に入ろうと思います。
香港で、「工藤秋生」という偽名でコンサルタントをしている男が主人公である。彼はもともと銀行員だったが、まあいろいろあって流されるようにして資産運用なんかのコンサルタントをするようになった。普段は、日本から香港の銀行の口座を開きたいと言ってやってくる連中の手伝いをしたりしている。
さてある時、日本から驚くような美女が訪ねてきた。麗子と名乗ったその美女は、5億円を海外に送金し、損金として処理したい、要するにマネーロンダリングをしたい、と言ってきた。そのためにどんな手段があるかと相談にやってきたのだ。秋生は考えてみたが、どうやってもうまくいく方法がなさそうだ。一旦は断ることも考えたが、多少のリスクを背負うって麗子にアドバイスをした。
さてその四ヵ月後、ふとしたことから麗子の消息を耳にすることになる。なんと、50億円の金を持って失踪したというのだ。その50億円にはヤクザの金も絡んでいるらしい。秋生は麗子と50億円を探すために東京へと向かうのだが…。
というような話です。
本作はとにかく投資だとか脱税だとかそういうような話がたくさん出てくるのだけど、そういう部分はほとんど何を言っているか分かりませんでした。いろんな法律の抜け穴とか、何が違法で何が合法なのかというような話から、どうすれば口座を開いたり高額の送金が出来るか、というようなやり方が書いてあるんですけど、経済の知識が全然ない僕にはかなり難しい話でした。解説で元大阪国税庁総務課長だった人が、この本に書かれていることを読んで初めて実体を正確に理解できたものもある、というようなことを書いていたので、恐らく専門家が読んでも初耳の話が結構あるのではないかと思います。それぐらいのものなので、ド素人には結構難易度の高い話だと思いました。
でもストーリーとしてはそれなりに楽しめました。結局麗子と50億円を追っていろいろ調査をするというだけの話なんですけど、初めて小説を書いたとは思えないほどちゃんとしています。香港の街並みの描写であるとか香港人や他の人種の特色なんかも分かりやすいし、平凡だけど無理のないストーリーもいいと思いました。絶世の美女とかハードボイルドチックな主人公とかがちょっと古臭い感じもしますけど、まあそこまでどうこういうようなところでもないかなという気もします。
とにかく、僕にはその凄さは判断できませんが、投資だとかそういう系の話の濃さはたぶんそこらの小説とは比較にならない程すごいのだろうと思います。たぶん、大金持ちだけではなく、サラリーマンや専業主婦のような個人でもそれなりに使える話が載っているんじゃないかな、と思います(まあ僕には分からないわけですけど)。そういう話に興味があるという人は、とりあえず読んでみるのもいいのかもしれません。なかなか有益な情報を得ることが出来るかもしれません。
まあやっぱり、投資とか資産運用みたいな話に興味がある人向けでしょうね。あとは、ちょっと古臭いハードボイルド的な雰囲気を匂わす探偵小説みたいなのが好きな人にもいけるかもしれません。まあ広く読者を獲得できる本ではないと思いますが、合う人にはかなり合う作品だと思います。

橘玲「マネーロンダリング」

今日は人を殺せそうなほど眠いのと、あとこの本があまりにもつまらなかったので、さっさと感想を終わらせようと思います。
ホント、僕には全然意味が分からない話でした。
女子高を舞台に、三人の少女がウダウダするという話で、先生と付き合ったり、セックスがどうのという話になったり、あるいは女子高特有とでも言うのか、友人同士の微妙なやりとりなんかを書いた作品なんですけど、まったく面白くなくて非常に読むのが苦痛でした。
ただもしかしたら女性が読んだらまた別の感想を抱くのかもしれません。少なくとも男にはこの作品を読むのはちょと無理ではないかなと思います。
三浦しをんは結構外れない作家だったんですけど、今回はかなり大外れと言った感じでした。

三浦しをん「秘密の花園」

人を笑わすことが出来る人が一番すごいんではないか、と僕は思う。
そりゃあ世の中にはいろんなすごい人がいて、すごい会社を作ったとか、すごい定理を発見したとか、すごい絵を描いたとか、すごい人を育てたとか、まあいろいろすごさはあると思うのだけど、その中でもやっぱり、人を笑わせるというのは別格のすごさがあるような気がするのだ。
何がすごいのかと言えば、結局のところ笑うという行為は理屈ではない、ということである。
世の中のすごいことというのは、大抵理屈でなんとか説明がついてしまうと思う。すごい会社を作ったというのなら、世の中の流れをうまく読んでとかなんとか言えるし、すごい定理を発見したのだって要するに理屈の積み重ねである。すごい絵を描いたというのだって、絵にはそもそも理論みたいなものがあるし、人を育てるというのだって人心術みたいなベースとなるような理屈はあるはずだ。
しかし、人を笑わすことについては理屈はないような気がするのだ。その証拠に、他のありとあらゆることについては学ぶ場があるのに(小説や映画もそうだし、コミュニケーションや経営学だって誰かが教えてくれるような場はある)、笑いを学ぶ場というのはないように思う。笑いというのは、要するに教えることができるようなものではないのだ。教えられないということは、要は理屈が存在しないということである。マニュアルもないからどんなやり方をしてもいい。ルールもないから何をやっても外れていることにはならない。別に笑いについて詳しいわけでもなんでもないのだけど、たぶんそうだろうと思う。
僕は最近ほとんどテレビを見ないのだけど、それでも芸人の話みたいなのはたまに知ることがある。最近では小島よしおとかいう変な芸人がいるわけだけど、見ていても意味不明である。面白いのかどうかと言われるとなんともいえないけど、でも見ているとなんとなく笑えてくる時がある。テレビにはこういう、「なんとなく面白い」芸人というのが多い気がする。まあそういう芸人はすぐに消えてしまって、その痕跡すら跡形も残さずに去っていくものなのだけど。飛ぶ鳥跡を濁さず…、とは違うか。
笑いというのはとにかくそうして常に新しさが求められる。見ている方としては、同じことをいつまでもやっていても飽きてしまうわけで、まあそうなるのは仕方ないだろうと思う。どんどん新陳代謝を繰り返し、一瞬で古くなっていく芸人をどんどん回していきながら、笑いという業界を支えているのだろうと思う。
しかし一方で、笑いというのはパターンが重宝されるようなこともある。つまり、同じ流れ、同じオチを繰り返すことで笑わせるというものである。かつてのドリフなんかがそんな感じだったのではないだろうか。よく知らないけど。いつも同じようなことをやっているのだけど、何だか笑ってしまう。そうやっていつの間にか普遍性を獲得していく笑いというのもある。
その代表的なものが落語なのだろう。
僕は落語を一度も聞いたことはないのだけど、要するに昔からある同じ噺を話者を変えてやっているというだけのことなのだ。しかし、自分で聞いたことがないからなんとも言えないけど、それが滅法面白いらしい。噺もオチも知っているのに面白いらしいのだ。笑いというのは不思議なものである。何が出てくるか分からない新しさを求めることもあれば、期待通りのオチがやってくるのを求めることもある。それが同じだけの笑いを生み出すというのだから、不思議なものであると思う。
笑いというのはそうやって、理屈もマニュアルもルールも何もないところから、面白いという唯一の基準だけにさらされて存在している。まさに笑いというのは、0から10を生み出さなくてはいけないのだろう。落語など、0から10を生み出すどころではなく、0を10にしなくてはいけないのだから余計大変かもしれない。噺もオチも完全に決まったまったくオリジナリティのない0を、自分だけの持ちネタである10にしなくてはいけないのだから。
世の中の多くの人達が、人を笑わすということだけを目標に様々な努力をしている。評価されるかどうかは、ただ面白いかどうかというその一点だけに掛かっているという、本当に大変な世界だと思う。そんな世界にいて、いつでもどんな状況でも人を笑わすことが出来る芸人というのは、やっぱりとにかくすごいなと思うのだ。僕には人を笑わせる才能なんてこれっぽっちもないから哀しい限りなのだけど、まあ大人しく、面白い人の話を聞いていつも笑っていようと思ったりします。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は7編の短編を収録した連作短編集になっています。というわけでまず、大雑把な設定だけ紹介します。
両親を失い、自棄になって不良になっていた金髪の竜二は、元担任教師である男の師匠のところに無理矢理連れて行かれた。その元担任はかつて落語をやっていたようで、その師匠というのも当然落語家、笑酔亭梅寿という名の大家だった。
もちろん竜二は落語をやりたいなんてひと言も言った覚えはないが、元担任に押し切られるようにしてその師匠の家に住み込むことになった。初めは嫌々落語をやっていた竜二だったが、その内落語の面白さを知る。そしてそんな竜二の元に、何故だかいろんなトラブルが振ってくるのである。

「たちきり線香」
無理矢理入門させられた竜二はしばらく雑用をさせられることになる。というか師匠がまったく稽古をつけてくれないだけなのだが。
とある寄席の手伝いに出かけた際、師匠のお囃子をしていた女性の三味線の弦が突然三本とも切れてしまった。師匠はそのトラブルもものともせず高座を乗り切ったが、その後なんでこんなことになったのかという話になった。そこで竜二は真相に気づくのだが…。

「らくだ」
東京からやってきた外人の噺家と一緒に組んで寄席をやらなくてはならなくなった師匠はどうも機嫌が悪い。それもそうで、その外人の噺家は吸血亭ブラッドとか言うふざけた名前で、大食いで絶倫で女性を食い物にしてポイポイ捨てると言った悪い噂ばっかり聞こえてくるような男だった。
まあ何だかんだで楽屋入りするが、そのブラッドは出番を前に酔っ払いやがった。慌てて順番を繰り上げてなんとか凌ぐも、しばらくするとなんとそのブラッドが死体で見つかった!一体誰がこんなことを…。

「時うどん」
竜二は、いたし・まっせという漫才コンビのいたし師匠にいびられている。どうやら他の多くの芸人もそういう経験があるらしく、下手に逆らわない方がいいらしい。しかし師匠も、弟子がいびられているのを見ても何もしないんか。
そのいたし・まっせにテレビの話が来る。伝説の芸人として売り出したいのだが、本人達がテレビに出るのを嫌がっているという。だからなんとか説得して欲しいというような話だったのだが…。

「平林」
竜二はついに初舞台を踏むことになった。弟子入りして九ヶ月。その初舞台がいよいよ三日後に迫ってきたが、しかしどうにもイライラして落ち着かない。ネタの仕上がりが悪いこもあるけど、他にも些細なことがいろいろあって、どうにもいけない。
で結局イライラしたまま初舞台を踏むことになるのだが、その壇上でとんでもないことに巻き込まれる。なんとどっかの気の狂ったオッサンにボコボコにされてしまったのだ…。

「住吉駕籠」
梅寿師匠の弟子には、梅毒という名の兄弟子がいる。この兄弟子滅法評判が悪く、ヤクザと付き合っているとかある病院の一人娘をたぶらかしてその財産をすべて散財したとか、酒ばっかり飲んで暴力を振るうとか、まあとにかくそんな具合である。
そんな梅毒に竜二は、新作をやらないかと声を掛けられた。竜二はその梅毒の噺を聞いて、これだ!と思った。師匠には内緒で、梅毒が主催する新作落語の会に出させてもらえることになったのだが、しかしその肝心の梅毒がこない。事情を探ってみると、なんと梅毒は殺人未遂の容疑で逮捕されたというのだ…。

「子は鎹」
師匠に内緒で新作落語に関わっていたことがバレて、竜二は破門を言い渡された。兄弟子達は、師匠は本気で言ってるわけではない、謝ればまだなんとかなると言ってくれるのだが、竜二にはその気はない。落語の世界には戻らないぞと決めて、自分で新しい笑いの道を探っていこうと決意する。
しかしそううまくいくわけもない。住む家もなく友人宅を転々とするも、もはやいい顔はされない。そんな折、久々に町で偶然師匠の奥さんに会ったのだけど、どうやら大変なことになっているようだ。なんと、師匠の孫が誘拐されたというのだ!

「千両みかん」
とある映像制作会社が主催する打ち上げに呼ばれた梅寿と竜二。しかしその打ち上げは、ある映画の打ち上げがメインであるようで、呼ばれた噺家たちにはほとんど触れられることがない。そんな状態に嫌気が差した師匠はまたぞろ大暴れして、さんざん引っ掻き回して店を出た。その会場で耳にしたところによれば、その映画に関連してある重要な問題が立ち上がっているが、それに最も重要なアイテムが手に入らなくて大変だとか云々ということらしい。
その後、同じ会社が「O-1」という落語版「M-1」を企画し、それになんと竜二も出ることになった。あれよあれよという間に勝ち進んでいく竜二だったが…。

というような話です。
それなりに評判のいい作品なんですけど、まあなかなか面白かったと思います。落語を題材にしているけどとっつき難さは全然ないし、むしろこれまで落語の経験なんかまったくない金髪男を主人公にしているせいか、落語を全然知らなくても普通に読める作品だと思います。
とにかく出てくるキャラクターが漫画みたいに無茶苦茶で、まあそういう作品にリアリティを感じられないという人もいるかもしれませんが、なかなか面白いと思います。まあ師匠が一番強烈なキャラクターで、謎解きの部分とか別にどうでもいいのでは、と思わせるような展開がどんどん繰り広げられていきます。
ストーリーはそれぞれ、題材となっている落語と何らかの形で関連付けられていて、なるほど落語とミステリをこんな形で融合させられるのか、と思いました。また著者はもともと落語が好きなようで、解説で桂文珍が、落語についてここまで詳しく書ける人は珍しいのではないか、というようなことを書いています。
軽妙な筆致でわかりやすいミステリを書いた作品です。スラスラ読めて読後感も悪くない作品だと思います。軽く小説を読みたいという時には結構いいと思います。読んでみてください。

田中啓文「ハナシがちがう! 笑酔亭梅寿謎解噺」

女子というのは何だかんだやっぱり僕には理解しがたい存在だなと思うわけです。で、僕はやっぱり男でよかったなとまあそんなことを思うわけです。
女子の不可解さというのは、表面と内面の落差という形で現れるような気がします。
女子というのはとにかく表面を繕おうとする本能があるように思います。とにかく、表面さえきちんとしていればオーケーみたいな、そんな感じがします。
例えばですが、化粧というのもその一つでしょう。まあ最近では男でも化粧みたいなことをするようなやつがいるようですけど、でも基本的に化粧というのは女性特有のものですよね。僕はあんまり化粧をしない女性が好きですけど、でもほとんどの女性はやっぱり化粧をするものなんでしょうね。あれも、表面をまず取り繕うという本能であるように思います。
また、態度なんかもそんな感じがしますね。僕のイメージですけど、女子同士というのは固まっている時はお互いに友好的というか、表面に悪意を出さないというか、そんな感じがします。だから、女子である集団を形成しているような時、何だかんだでその集団はそれなりにまとまっているような気がします。
ただ、内心ではいろいろとあるようで、その集団から離れたところではそういう内心で思っているようなことを口に出したりするわけです。
そういうわけで女子というのは、嫌っている相手同士でも、表面上はすごく親しい雰囲気を漂わせるような、そんなイメージがあったりします。基本的に八方美人なのかもしれません。
で、僕ら男としては何が困るかと言えば、女子があまりにも表面を繕うために、その裏側にあるものがさっぱり分からないということです。
男というのは単純な生き物で、どんな性格であるとか、どんなことを考えているかとか、誰が嫌いで誰が好きでとか、そういうようなのはやっぱり言動から結構分かったりします。もちろんそういうのを隠すのが得意な人もいるだろうけど、まあ全体的には男というのは、表面を取り繕うのが苦手だと言えるのではないでしょうか。だからこそ、表面を完全に取り繕う女子が何だか不可解な存在に思えてくるわけです。何を考えているか分からないし、どう接していいのか分からない、というような。相変わらず僕にとって女子というのは謎な存在です。
まあ女子の方からしたら男も謎なそんざいだったりするのかもしれないですけどね。よくわかりませんが、男と女というのはやっぱり深いところでは分かり合えないものなんだろうなと思います。
本作は女子高が舞台なんですけど、だから女子高とかってすごそうだな、とか思います。なんていうか、不可解さが山積みになっている場所ってわけで、女子高の男子教師とかちょっと羨ましいとか思ったりしないでもないですけど、でも実際はかなり大変なんだろうなとか思ったりします。女子高出身の女子の話を聞いても、やっぱすごいところみたいだし。女子というのはやっぱり恐ろしい生き物ですねぇ。
そんなわけで、そろそろ内容に入ろうと思います。
舞台は私立白鳩高校という女子高。そこでついこの間、江崎ハルナという女子生徒が屋上から転落死した。事故なのか自殺なのかはたまた殺人なのか判然としないが、警察は事故あるいは自殺と判断したようだ。しかしその死に不審を抱いた、美術部の後輩だった海生は、友人である双葉と共にその死の真相を探ろうとする。
ハルナ先輩が教師と付き合っていた、その教師がハルナ先輩の名前を叫びながら走っていた、ハルナ先輩の幽霊を見た…。そんな噂が飛び交うようになった。一方で、ハルナ先輩と関係があったと噂される国語教師の宮坂は小説を書いていて、その小説がとある新人賞を受賞していたのだが、その受賞を何故か辞退し、そのすぐ後に同じく転落死してしまう。
一体何が起こっているのだろうか…。
というような話です。
まあ別につまらないわけでもないけど面白いわけでもないという、中途半端な作品だったかなと思います。やっぱりこういう青春系のミステリは、最近では米沢穂信の台頭が著しいので、似たようなジャンルの作品はちょっとしぼんで見えてしまうところがあるのかもしれません。
まあ、それなりにちゃんとミステリしてる作品だとは思います。ラストの展開なんかも、まあ悪くはないと思いました。
ただ読んでてそこまで面白くないんですよね。いろいろドタバタあるわけなんですけど、まあどれもよくありがちな話で、それなりという感じのところに落ち着いている感じがしました。
またちょっとこれは大きな欠点だと思うんですけど、視点が入れ替わりすぎだと思います。なんか短い間隔でどんどん視点が入れ替わるのでせわしないという感じです。まあでも確かにこの小説を三人称で書いてもなぁ、という感じもするので、仕方ない選択だったのかもしれませんけど。でもうまくやれば、もう少しうまく書けたんじゃないか、と無責任なことを言ってみたりします。
あと意味不明なのは、解説の一人に笠井潔がいるってことですね。まあ別にいいんですけど。
まあそんなわけで、どこを切ってみてもそれなりの作品だと思います。わざわざ買って読むほどの作品ではないでしょう。まあ読みやすい作品だとは思いますけどね。

ほしおさなえ「ヘビイチゴサナトリウム」

僕は本屋でバイトをしているのだけど、最近店に来る女子中高生がこんな感じの会話をしていることがある。

「最近の小説って難しいよねぇ」
「だよねぇ」

ここで女子中高生が言う「最近の小説」が何を指すのかは正確にはわからないのだが、要するにエンターテイメント系の普通の小説ということだろうと思う。それを彼女等は「難しい」と評するのである。
昨日ヤフーのニュースでこんな記事があった。最近の学生の国語力は特に落ちていると感じる教師が9割いる。作文はほとんど平仮名ばかりで書き、「八つ」のことを「はちつ」と読むような学生が多い…。
この二つの出来事を併せて、僕は結構ヤバイなと思うのだ。とにかく、小説を読むという力がどんどん失われつつあるのだろうと思う。既存の小説を既に読むことが出来ない世代というのが確実に存在してきている。読みたいけど、難しいから読めないという世代である。
そういえばもう一つ思い出したことがある。前にバイト先にいた女性に、伊坂幸太郎の「重力ピエロ」を貸したことがある。この「重力ピエロ」は、今まで貸した人誰もが絶賛するような鉄板の小説なのだが、しかしその女性はダメだったという。理由を聞いてみると、「過去とか現在に話がどんどん入れ替わってよくわからなくなる」らしい。つまり、時系列が真っ直ぐに進んでいる小説ではないと読めないらしいのだ。
だからこそ、今携帯小説が台頭しているとも言える。彼女等にとって、携帯小説というのは「読める」小説なのである。もちろん面白いかどうかも重要なのだが、まず何よりも「読める」という点で携帯小説は重宝しているのだろうと思う。
僕は一度だけ携帯小説を読んだことがあるのだが、結構あれは酷い。ストーリーがどうとか言う前に、まず文章が酷い。状況の説明がちゃんと出来ていないし、誰が喋っているのかよくわからないということもある。漢字は少ないし、改行や会話文が多い。そしてさらにストーリーも、なんというかどうってことのないようなものばかりで、何がいいのか僕にはさっぱり分からないのだが、しかしその携帯小説が今とんでもない市場を形成しているのだ。苦々しく思うが、しかし追従するしかないのが書店の哀しいところである。
さてこれまで、「女子中高生」の「普通の小説」と「携帯小説」との関係について書いてきた。しかしこれは、「普通の人」の「文学作品」と「普通の小説」との関係とまったく同じなのではないか、と僕には思えてしまうのである。
僕は文学作品を読むというのがとにかく苦手なのである。苦手な理由の分析はまたあとで書くことにするが、時々気まぐれに文学作品を読んでみようという気になって読むのだが、大抵読めない。面白いとか面白くないとかいう前に、まず読めないのだ。なるほど、今の女子中高生が「普通の小説」を読めないというのはこういう感覚なのかもしれない、と思ったりもする。
だから僕は、エンタメ系の普通の小説をひたすら読むのだけど、しかしこの事実は一つの恐ろしい未来を示唆するのではないか、と僕には思えるのだ。
つまり、今後小説は、携帯小説みたいなものが主流になってしまうのではないか、という恐れである。
昔は文学作品が主流だったはずだ。しかしそこから、徐々にエンタメ系の小説が出てきた。ちょうど文学作品を「読めない」世代が出始めた頃だったのだろう。エンタメ系の作品はどんどん受け入れられ、文学作品を凌駕して主流になっていった。
今の若い世代はそんなエンタメ系の作品すら難しくて読めないと嘆く。そんな時代に、携帯小説というより簡単に読める作品が出始め、実際にバンバン売れている。敷衍して考えるに、これからエンタメ系の作品が駆逐され、携帯小説のような作品が小説の主流となっていってもおかしくはないのかもしれないと思う。しかしもしそうなったら、読む本がなくなってしまって僕なんかは大いに困るのだけど。
さて、先ほど書いた、何故僕は文学作品を読むのが苦手なのか、という分析をしようと思います。僕の分析では、文章とストーリーの間に断絶が見えるから、だと思うわけです。
普通のエンタメ系の作品は、文章を読むこととストーリーを理解することが一体化しています。文章を読めばストーリーが理解出来るわけです。それは、何を書かないかという前提が理解できているからだと僕は思うわけです。
僕の中で小説を書くという行為は、何を書くか決めることではなく、何を書かないか決めることであると思っています。つまり作家というのは、これは書かなくても理解出来るだろう、という部分を書かないという選択を積み重ねることで作品を生み出していると思うわけです。映画なんかでは、画面に映る部分は完璧にしておかなくてはいけないですけど、小説の場合は、例えば部屋の描写にしても壁のしみだとか干してある洗濯物の種類とか、そういうどうでもよさそうなものは書かないわけです。全部書いてたら、小説としては成り立たないわけです。
さてそう考えた時に、文学作品の場合には、その「何を書かないか」という前提が全然共有されていないということになるだろうと僕は思います。つまり、「これは書かなくても理解出来るだろう」という部分が時代を経て失われてしまっているのだ、と僕は思うわけです。それが僕の言う「断絶」の意味であって、だからこそ文学作品というのは、僕にはなかなか理解が難しいのだと思います。
有名な絵に、壺にも向き合っている人にも見えるという絵がありますよね。僕が文学作品を読んで受ける印象はまさにあの絵に近いものがあります。つまり、文章を理解しようとすればストーリーが理解できなくなり、ストーリーを理解しようとすれば文章が理解できなくなるという具合です。
まあそんなわけで、相変わらずやっぱり僕には文学作品は無理なんだなぁ、と再認識しました。
さていつもならここで内容に入るわけですけど、今回はタイトルだけ書いて終わらせようと思います。とてもじゃないけど、内容紹介が出来るほど内容を理解出来ていないので。

「檸檬」
「城のある町にて」
「泥濘」
「路上」
「橡の花」
「過古」
「雪後」
「ある心の風景」
「Kの昇天」
「冬の日」
「桜の木の下には」
「器楽的幻覚」
「蒼穹」
「筧の話」
「冬の蝿」
「ある崖上の感情」
「愛撫」
「闇の絵巻」
「交尾」
「のんきな患者」

そういえば触れていませんでしたが、何で僕が梶井基次郎の「檸檬」なんかを読もうと思ったかというと、まあ詳しいことは書きませんが、ある本を読んだ中に、その「檸檬」に触れたものがあって、それで気になったからということです。
やっぱり僕は大人しく、エンタメ系の作品をこれからもどんどん読もうと思いました。

梶井基次郎「檸檬」

僕にはどうも、ファン心理というようなものがあんまり理解できないようだ。
僕の場合本の例を挙げるしかないのだけど、例えば好きな作家がいたとしよう。まあファンと言えばファンである。しかし僕の場合その好きは、作家の作品に基本的に向けられている。もちろん作家個人に興味がまったく湧かないかと言えばそんなこともないのだけど、それよりは作品に対する興味の方が強く出る。だから、例えばサイン会が近くで開かれるぞ、となっても行かない。実際にこれまでサイン会というのに行ったことがない。森博嗣がサイン会をすると言う機会があって、それはちょっと行ってもいいなぁ、と思ったのだけど、結局行かなかった。
また、作家のオリジナルグッズだの限定のなんかだの私物だのと言ったようなものにも特別興味があるわけでもない。蒐集するような趣味はないし、とにかく本が読めれば充分であるといつも思っている。
作家と長いこと喋ることの出来る機会があるというなら別だけど(まあ緊張して喋れないだろうけど)、そうでなければそもそも作家に会うというのもまあ別にいいかな、と思ってしまう(話は逸れるのだけど、有名な方ではないけど、今日ある作家さんに来てもらってサイン本とサイン色紙をゲットしました。すごくいい人で、朴訥とした感じなんだけど面白い人で、楽しい会談になりました)。
だからどうも、ファン心理みたいなものが理解できないのだ。
僕のバイト先に、あるサッカー選手を追いかけている女性がいる。この女性は、近くで(あるいは近くなくても)その選手のいるチームが練習するとなればその練習を見学し、もちろん試合にも結構行き、プレゼントも上げているようだし、イベントにも行っているのだろう。その選手が結婚したと聞けば大いに嘆き、ブログで逐一情報を得てはいろいろ騒ぎ、とまあそんな人なのだけど、どうしてそこまで出来るんだろうかなぁ、と不思議なのである。
だって、どう考えても生きている世界が違う人である。もちろんそれを分かってなおファンでいるというなら全然それは構わないと思う。ただ僕の勝手なイメージでは、ファンというのは、ファンであり続ければいつか相手に気持ちが届いて近づけるのではないか、とそんな風に考えているような気が僕にはするのだ。
もちろんそういうこともあるかもしれない。芸能人だって、たまにファンの人と結婚したというような話は聞かないではない。しかしそれにしたって稀も稀あろう。そんなことはほとんど起こりえないと言っていい。しかしそのほとんど起こりえないことをかなり多くのファンが目指しているようなそんな気が僕にはしてしまうのだ。
ちょっと前に韓流ブームが来たけど、あの時はまたちょっとだけ別のことを感じた記憶がある。
それは、この人達は本当に韓国人俳優が好きなのだろうか、という疑問である。
もちろん、韓流ブームの火付け役になったような、もとから韓国人俳優のファンだったというような人達については別にいいと思う。でも、韓流ブームがマスコミでもてはやされて、それからファンになったという人は、僕はちょっと怪しいなぁ、と思うのだ。
大体中年の女性が多いのだと思うのだけど、僕の勝手な失礼なイメージだとこんな感じなのだ。中年の女性は、子育ても終わって旦那さんと二人での生活で張り合いがない。子育てに忙しくて、昔からやってた趣味ももう長いことやってない。どうも退屈だなぁ。そんな心の隙間に、たまたまちょうどよく嵌まったのが韓流だったのではないか。どうやらみんな熱中してるみたいだし、ほら私だって若い頃は○○の追っかけやってたんだし、趣味を持つのはいいことだってお父さんも言ってくれたしね、みたいな。そういうような微妙な心理が多くの中年女性に連鎖的に働いた結果、あれだけのブームになったのではないか、と僕は勝手に思うのだ。韓国人俳優が好きだからというよりは、暇だったから乗ってみたというように僕には見えてしまったのだ。もし僕の仮説が正しかったとして(まあどちらにしてもその真偽が判明することはないと思うけど)、そのパターンもやっぱり理解できないなと思う。
まあ別に、何かの熱烈なファンである人を貶そうと思っているわけでは全然ないのだけど、僕からはやっぱり遠い感情だなと改めて確認しました。まあそんなこと言って、いつかアイドルの追っかけとか始めてたりとかしたら、まず自分が引きますけどね(笑)。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、初め演劇として、そしてその後映画として発表された「キサラギ」という作品のノベライズになります。
ちょうど1年前の今日、僕らのアイドルだった如月ミキが自殺をしてこの世を去った。今日はその追悼会と称して、ネットで知り合ったミキちゃんのファンを集めて思い出を語り合おうと言う企画を立てた。「家元」「オダ・ユージ」「スネーク」「安男」「いちご娘」の五人。大いに楽しい会にしたいものだ。
メンバーが集まって会が始まる。しかし、徐々に驚くような事実がどんどん明かされていく。えっえっえっ、何これ、どういうことよ?
というような話です。
なるほど、これは話としてはかなり面白いと思いました。ただ、映画とか演劇とかで見た方がやっぱり面白いでしょうね。ノベライズ作品は大抵そうですが、やっぱりあんまりレベルが高くありません。この作品も、そうですねぇ、米澤穂信、奥田英郎、東野圭吾あたりがまったく同じ設定で話を書いたら、もっと小説として面白いものに仕上がっただろうな、と思います。
話自体はかなり秀逸ですね。それこそ驚くような事実が次々に展開していく話で、なるほど演劇的な作品だなと思いました。場面一つあれば見せることが出来るし、また短い間に展開がどんどんと変わっていくので、演劇でやったらぴったり来そうな話だなと思いました。内容については、どっか突くとネタバレになりそうなので触れられないんですけど。
結局なんで如月ミキは自殺をしたのか、という話になっていくんですけど、その最終的な結論みたいなものがお見事ですね。なるほどなるほど、なるほどなるほど、ってな感じです。
まあ小説で読んでもいいですが、これは映画を見た方がいいんじゃないかなと僕は思いました。たぶん映画はかなり面白いんじゃないかなと思います。二転三転どころではないストーリーの展開を楽しんでください。

原案:古沢良太 ノベライズ:相田冬二「キサラギ」

僕は歴史というものが苦手である。苦手という消極的な感情ではないかもしれない。はっきりと嫌いと言ってしまってもいいと思う。
僕の指す歴史というのは、過去起こったとされるありとあらゆる出来事のことである。つまり、人間の歴史まで否定するつもりは特にないということだ。僕の中では、ある人物がどのように生きたのかという歴史は、まあその真偽についてはまた問わなくてはいけないにしろ、まだ許容できる。実際、アインシュタインや著名な数学者なんかの話を読むのは好きである。織田信長や坂本竜馬といったような人達にはあんまり興味は持てないのだけど、それでも、彼らがどのように生きたのかという形で語られる歴史ならまあいいかな、とは思える。しかし、学校の授業でやるような、起こった出来事の羅列としての歴史、あるいは歴史を学ぶことは大事だと言われる時の歴史、そうしたものにはどうしても興味が持てない。
しかし、伝統であればまた別である。
歴史と伝統というのは、パッとした印象としては近いものがあるかもしれない。しかしそれはまるで違うものであると言えるだろう。
歴史は消化されるだけだが、伝統は守られるものである。
歴史は過去だが、伝統は現在進行形である。
歴史は繰り返さないが、伝統は繰り返すことこそが本質である。
歴史と伝統はまるで違うものである。
伝統というのは僕は結構好きだ。伝統と言ってパッと思い浮かぶのは京都であるが、昔からある建物や祭りが今も残っているというのは素敵だと思う。また、その伝統の周りに人が集い、その伝統を守ろうと一致団結している様もいいではないか。
それに、伝統というのは何も古ければありがたいというものでもないだろう。いろんな地域に、いろんな祭りや行事やなんかが残っていると思うのだけど、それらはどれくらい前から続いているのかということに関係なく、毎年違和感なく続いていけばもはや伝統なのである。
さてそう考えると、いつから伝統は伝統になるのだろうか、と思ったりするのだ。
例えば、初めは習慣だったり日常だったりするのだろうと思うのだ。初めから、これを伝統にしよう!なんて考えて物事が始まることはない。一番初めは何でもない風に始まって、特にどうということもない何でもないものだったに違いない。ある一定の期間で繰り返すのだけど、それは初めの内は習慣だったり日常だったりと言ったようなものだったに違いない。
しかし、ならばそれがいつ伝統に変わるのか。
僕の仮説では、それが起こったそもそもの始まりを実際に見て知っている人がすべて絶えた瞬間から、伝統は伝統になるのではないか、と思うのだ。
例えばあるお祭、なんでもいいのだけど名前だけ知ってる祇園祭りにしてみよう。この祗園祭りにしたって、遡っていけば一番初めというのがあるわけで、それからまあとりあえず続けていこうじゃないか、という形でずっと続いていくわけである。
その初期のうちの原動力というのは結局のところ何かと言えば、それを一番初めにやった人間の思い入れだと僕は思うのだ。祗園祭りを一番初めに計画し実行に移した人々というのは、生きている間ずっと、それがちゃんと行われるか気になるだろう。自分で計画に参加するかもしれないし、そういう役から降りたとしても、外からいろいろと口を出したりするに違いない。だから、初期の頃というのは、そういう発破を掛ける人間がいるからこそ物事というのは続いていくという側面がある。
しかし、その一番初めの祗園祭りを実行に移した人々がすべていなくなってしまったら(死ぬとかだけでなく、その地域からいなくなるとか、何らかの事情で関われなくなるとかなんでもいいのだけど)、さてどうなるだろうか。その時点で、それを続けるかどうかというすべての判断は、一番初めにそれを始めた人ではない人によって決断されることになる。この時初めて、伝統というのは伝統になるのではないかと僕は思うわけです。
つまり、これを始めた人の意思を継続させたい、という思いこそが伝統が伝統であることの本質ではないか、と思うわけです。祗園祭りを始めた人はもういないけど、でもそこに込めた思い、そこに費やした時間を想い、よしそれを受け継いでいこうではないか、となった段階で、ようやく伝統というのは伝統の片鱗を見せ始めるのだろう。
何も伝統というのは、格式の高いところにだけ存在するわけではない。
以前「鴨川ホルモー」の感想の中で、僕は大学時代とんでもなく奇妙なサークルにいたのだ、という話をたぶん書いたと想う。そのサークルだって、立派に伝統を受け継いでいたのである。
僕がいたサークルは、出来てから確か50年以上の歴史のあるサークルだったと思う(正確には覚えていないけど)。とにかくそのサークルで形作られていたありとあらゆることはとにかく奇妙で、いっそ理不尽と言ってしまってもいいぐらいのものが山積みだったのだけど、しかし結局僕らはその伝統を受け継いでいくことになった。僕はそれにそこまで貢献したわけではないけど、しかし伝統を後世に伝える要素の一つではあったと思う。
そのサークルにいて僕が実感したのは、伝統というのは始まってしまったら止めることが出来ないのだな、ということである。先ほども書いた通り、伝統というのはそれを始めた人間がいなくなって初めて伝統になりえる。それを始めた人がいる間であれば、その人の一声でその行事はなくなってもおかしくないかもしれない。しかし、その人がいなくなり、その人の意思を継いでいこうとなり、伝統が伝統として形になってしまうと、もはやそれを停止する装置というのはどこにも存在しない。何かを始めるのは簡単だけど、何かを終わらせるのは酷く難しいというのはまさにその通りで、それがどんなに奇妙でへんてこでおかしくて不気味で醜悪でとんでもないものであっても、一旦伝統になってしまうと、人間の意志でそれを止めることは本当に難しい。続いてきた時間の長さ、そしてその間に関わっただろう多くの人々のことを思い浮かべ、やっぱり自分の代でこれを終わらせることは出来ない、という風に考えてしまうことだろう。
みうらじゅんの著書に「とんまつりJAPAN」というものがある。僕は未読だが、要するに日本中の奇妙な祭りを紹介する本である。奇妙な踊りを踊ったり、奇妙な格好をしたり、中には男性器を模したオブジェがメインとなるような祭りもあるらしい。恐らくやっている人も、どうしてこんなことを続けているのかというその本質の部分を完全に失っていることだろう。
しかしそれでも伝統というのは止まらないのだ。だからいいとも、だから悪いとも言えるが、とにかく僕は、伝統というのはあり続けるだけで価値があるはずだ、と信じている。もちろん、その伝統を維持していくのには莫大な労力が必要なのだけど。
本作は「鴨川ホルモー」の続編であるが、要するに伝統に取り込まれ、そこから抜け出せなくなった人々の話である。しかもその伝統は500年も続いているというのである。そりゃあ止められないわ。ご愁傷様、というしかない。アーメン。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は「鴨川ホルモー」の続編で、「ホルモー」に関わる人々の恋愛模様を描いた短編集になります。というわけでまずは、「鴨川ホルモー」の大雑把な設定だけ書きましょう。
京都にある四つの大学で代々受け継がれてきたある競技がある。それが「ホルモー」である。ホルモーとはなんなのか語るのは難しいが、あっさりと言ってしまえば、普通の人間には見えない「オニ」を使役して戦うスポーツである。
500年も前から代々京都の四つの大学に伝わってきたというこのホルモー。京都の街を跳梁跋扈し、オッサンのえずくような「オニ語」を発しながら、自らの安泰を掛けて必死で戦い抜くのである。
まあそんなホルモーにどっぷりと関わっていた人々がそれぞれ出てくる短編集になります。

「鴨川(小)ホルモー」
ホルモーに参加する大学の一つ、京都産業大学の玄武組。そこに<二人静>と異名を取る、定子と彰子という二人の女性がいた。「黒い嵐」とも称され、しばしば「王者」とも号される京都産業大学の強さの源と言われる二人である。
この二人、共通項がそこまであるわけでもないのだが、妙に気があった。世の男どもを排除し、常に二人の世界を築き上げ、もちろん彼氏など出来るわけもなかった。二人の結束は強く、その結束がそのまま京都産業大学の強さに直結するのである。
しかし、ある日突然二人の結束が崩れた。彼女達に何かあったことは間違いないが、周囲の人間には何がどうなったのかさっぱりである。しかし二人はある事情を前に、もはやホルモーを以って戦わないわけにはいられない状況になってしまったのである…。

「ローマ風の休日」
僕が働いているイタリア料理店に、楠木ふみという、大木凡人に似た女性がアルバイトとして入った。とにかく不思議な人で、とにかく喋らないし仕事がない時でも黙って立っている。しかし仕事を覚えるのは驚異的に早かった。
ある時大変な事態がやってきた。店長がとある個人的な理由から早々と早退してしまったのだ。店長や古参クラスのスタッフにしか出来ない「仕分け」という仕事があるのだが、その日誰もその仕分け作業の出来る人間がいなかった。しかしそれなのに団体客の予約が入っている。どうしたらいいんだ!
そんな時、楠木ふみが僕らに指示を出し始めた。なんだなんだ、まさか楠さんが仕分けをやるっていうのか…。

「もっちゃん」
僕はもっちゃんと鴨川のほとりでボーっとしている。僕は、何故人間は光合成が出来ないのだろうか、などとくだらないことを考えていたのだが、もっちゃんの方はそうでもないようだ。なにしろ、食欲の塊りみたいなもっちゃんが、自分の持っているパンを僕にくれたのだ。これは何かある。恋でもしたのだろうか。いやいや、もっちゃんに限ってそれはなかろう。
「ラヴだ」
もっちゃんはそう呟いた。話を聞くに、どうやら電車の中で一目惚れをしたのだそうだ。よく分からない理屈により振られたと勝手に判断しているので、いやいやラブレターでも書こうぞよと提案してみるのだけど…。

「同志社大学黄竜陣」
どうしても桂先生の講義を受けたくて、浪人してまで同志社大学に入学した私。しかしそんな矢先驚くべき話を耳にする。なんと桂先生は今年限りで退官するのだとか。そりゃないよ~。
というわけで、上級生の教室に潜りこんででも桂先生の講義を受けてやろうと決意してキャンパスに乗り込むも、よくわからない展開からその桂先生から頼まれ事をされてしまう。
そしてその途中で、なんだか奇妙なものを見つけた。
手紙である。1枚目には「horumo」と聞きなれない単語。そして2枚目からは流暢な筆致の英文が書かれている。「Dear Joe」から始まる、「W・S・Clark」なる人物から送られた手紙と、そしてそれと一緒に入っていた浴衣。何なんだろうか、これは…。

「丸の内サミット」
榊原康と井伊直子は、ともに職場の同僚から合コンに誘われ、まあたまにはいいかという感じで出てみることにした。場所は東京丸の内。丸の内である。
さて合コンの場で顔を合わせた二人はビックリ仰天。なんとお互いに知り合いだったのだ。どんな知り合いなのかとそれぞれ聞かれて、二人は何て答えたらいいのか分からない。京都でホルモーっていう競技をやってた仲です…なんて言えるかぁ!

「長持ちの恋」
珠美はとんでもなく貧乏だった。その日の食事代にも事欠くような、それほどの貧乏だった。
とにかく働かねば。
そう思い立ち、「狐のは」という名の料亭でアルバイトをすることにした。いろんなものをただ持っては運ぶという仕事である。賄い付きというのもよかった。賄いの料理を初めて食べた時は、あまりの美味しさに涙してしまったくらいである。
ある日、蔵まで行って取ってきて欲しいものがあると仕事を仰せつかった。ひょこひょこ向かうと、蔵の中にはなんとも古い長持ちが置いてある。蓋の部分には「なべ丸」と書かれている。
その時珠美は何を思ったか、その蓋にマジックで「珠美」と書いてしまっていた。えっ、何で。どうしよう!
しかしその後、珠美は蔵に行く度に奇妙な文通をやり取りする羽目になるのである…。

というような話です。
いやぁ、最高に面白い話でした!これは無茶苦茶面白いです。最高です。もちろん「鴨川ホルモー」あっての本作ですけど、でもこっちもかなり面白いなぁ。
まず何よりも僕は、「もっちゃん」にやられました。これはホントいいなぁと思いました。「ホルモー」とは正直あんまり関係ないんですけど、なるほどそういう展開ですか!という驚きがあります。詳しくは書けないですけど、この「もっちゃん」を読んで、僕はある本を買ってしまいました。こういう、他の本に興味を向けさせるという意味でもすごくいいですね。
また「長持ちの恋」もよかったです。これなんかはまさに「ホルモー」の設定の幅広さをうまく利用していて、こういう感じでストーリーを書いていけば、このホルモー関係の話なんかいくらでも書けるんじゃないかな、と思ったりしました。長持ちを通じて文通をするという設定も斬新だし、しかも物語の終わらせ方がすごくよかったですね。なるほどなぁ。チョンマゲがまさかあんな風に関わってくるとは…。
「同志社大学黄竜陣」なんかも、パターンとしては「もっちゃん」に近いですけど、なんか馬鹿馬鹿しくて笑ってしまいます。これなんか、中身のなさで言えば本作中トップではないかと思うのですが、その中身がなくて馬鹿馬鹿しいというところが読んでて面白いわけで、やるなぁ、と思いました。
女同士の友情だったり、凡ちゃんの凄さだったり、あるいは舞台を東京に移したりと、とにかくいろんな話が詰まっていて楽しいです。いやホント、この作家はまだまだやりますね。底の見えない作家です。これからもまだまだ期待できることでしょう。ホルモーの続編でもいいし、新作でもなんでもいいので、早く書いてください!ちょっと万城目学からは目が離せないですよ!是非是非読んでみてください。

万城目学「ホルモー六景」

作中、奇策士とがめはこう述懐する。

『わたしにとっては―わたしの心でさえ、ただの駒にすぎぬのだ』

これに共感できる人はあまり多くはないかもしれない。僕も、共感というところには程遠いような気もする。しかし、少なくともこれだけは言えるが、世の中の人間を二種類に分けた時、僕は確実にとがめと同じグループになるだろう、ということである。
どうも、いろんなものと距離を取ってしまう。もちろん、僕が臆病であるということもある。無関心であるということでもある。また、ただ単にめんどくさいだけだということでもある。
しかし、たぶんそれだけじゃない。どうも僕には、自分を含めた僕の世界のすべての要素が、膜一枚隔てたその向こう側にあるような、そんな感覚があるのである。
どうも、それらに踏み込めないというか。
どうも、それらに近づけないというか。
どうも、それらに意味を感じられないというか。
だから僕は、いろんなものを蔑ろにできる。いろんなものを壊すことが出来る。いろんなものを捨てることが出来る。いろんなものをなかったことに出来る。
もちろん、表面上はなるべく普通の人間として許容される範囲で行動しようと思っているので、蔑ろにしたり壊したり捨てたりなかったことにしたりするというようなことはほとんどない。ないのだけど、でも実際やろうと思えば恐らくいくらでも出来る。だから僕は、自分自身を冷たい冷酷な人間であると自覚しているし、恐らく周囲の人間にもそれを感じ取っている人はたくさんいるだろうと思う。
それはさながら将棋のようなものなのだろうな、と思う。もちろん、駒からの連想である。
将棋というのは、手持ちの駒をいかに使って相手に攻め入るか、というものである。その過程で当然、自分の駒がたくさん犠牲になる。しかし、犠牲になった駒の数は問題ではない。どれだけ駒が犠牲になろうとも、最後に王将を取れば勝ちである。僕は周囲のありとあらゆるものを将棋の駒のように思っていて、いつそれを犠牲にしてもいいのではないか、と考えているような気がする。
特に仕事の時なんかはそうである。とにかく、いかにして人を動かし、いかにして人を配置して仕事を進めるか。仕事の場で誰かを犠牲にするなんてことはあんまりないけど、しかしとにかく配置だけはよく考える。どうしたら効率よく仕事が進むだろうか、どうしたら手が空いてしまうスタッフが出ないで済むか。そういうことを考える。管理者としては当然の発想だけど(まあウチの場合その当然は全然当然ではないのだけど)、しかし僕は別に管理者でもなんでもないのである。
将棋の場合、王将を取るというのが唯一にして最大の目標である。すべての行動はその一点に向けて決定されていく。しかし僕の場合どうだろう。僕は、何を目標に据えて周りの駒を動かしているのだろうか。
たぶんそれは、僕自身の平穏なのだろうな、と思う。自分自身が安定するように、盤石であるように、周りの駒を、そして時には自分自身という駒さえも操ってそれを実現する。操れない場合は切り取る。ずっとそうやって生きてきた気がする。
僕は酷い人間である。僕は、自分でそれを自覚しているだけでまだましだと思っているのだけど、しかし周囲の人間にはなかなか理解されないような気がする。表面上はそれなりに取り繕っているから仕方ないのかもしれないのだけど、酷い人間だといくら言ってもあんまり聞いてはもらえない。どちらかと言えば、酷い人間であると認識される方が多少は楽かな、と思っているんですけどね。
優しい人間だなんて思われると、身動きが取れなくなる。酷い人間だと思われれば、動ける幅が広くなる。だったらそっちの方がいい。
まあなんというか、いつも通りの結論を言えば、生きてるってやっぱめんどくせぇな、ということである。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、12ヶ月連続で出版されてきた刀語シリーズの最終話です。奇策士とがめと虚刀流の七花が、毎月一本の刀を蒐集するという形で進行していくこのシリーズ。さてさて、最後どんな結末を迎えたのか。
冒頭は前の巻の続きから。絶体絶命の窮地に立たされたとがめと七花。そこで彼らは一体何をどう決断したか…。
どうしても前の巻の終わりの内容をここでは書けないので、内容紹介のしようがありません。ちょっとこれぐらいでなんとか留めておきましょうか。
さてようやく完結です。最終巻としては、まあ妥当だったのではないかな、と思います。これまでのシリーズの流からすると順当で、まあそんな感じだろうなと思わせるようなところに落ち着いたかな、という感じです。まあしかし、ストーリーの最後の方は繰り返しの連続みたいな感じで、必要な手続きだったのかもしれないけど、まあどうかなという感じではありました。まあ、しかしこんなもんではないでしょうか。
シリーズ全体としては、まあまあかなという感じです。西尾維新のシリーズとしては、やっぱり一番評価の低いシリーズになってしまうかもしれません。まあ、リアルタイムだからここかで読みきったというのはあるかもしれません。普段こういうのは一気にまとめて買って読むんですけど、今回は毎月読んでいてよかったかなと思います。
やっぱり後半がちょっと失速したかなぁ、という感じですね。5巻くらいまではかなり面白い感じだったのだけど、それからちょっと中だるみを経て、そこから復旧できなかったというような印象があります。まあそれでも与えられた条件の中で充分健闘しただろうと思います。
それにしても西尾維新は、長いシリーズは似たような感じで締めくくるイメージがありますね。戯言の時も、このシリーズみたいに最後は煙に巻くような終わらせ方だった気がします。
まあそんなわけで、シリーズ全体の総括としては、それなりには楽しめる作品です、という感じですね。まあ西尾維新の作品を読もうと思っている人には戯言とか化け物シリーズなんかをオススメしますけどね。とにかく12ヶ月お疲れ様でした!

西尾維新「刀語第十二話 炎刀・銃」

街中でティッシュを配っている人達がいる。本書ではそういう人のことを「ティッシュペーパーボーイ」と呼んでいるのだが(ちゃんと女性の場合は「ティッシュペーパーガール」と書いているのでご安心を)、彼らについて僕は昔から感じていた疑問がある。
彼らはどうして真面目に仕事をしているのだろうか。
いや、たぶん誰でもそう思うのではないかと思うのだけど、あれは配ったフリをしてティッシュをどっかに捨てちゃっても、別にバレたりしないんじゃないかな、とか僕は思ったりするのである。
もちろん仕事として成立しているのだからそんな不正が通るような管理体制にはなっていないのかもしれないけど、それにしてもどうなっているのだろう。配っているかどうか監視するんだとしたらさらに人数が必要で、しかもそれなら監視している人がティッシュを配ればいいだけの話だ。後でチェックすると言っても、別にいくらでもちょろまかせるのではないか。もしかしたら、不定期に見回りが来るのかもしれない。その時に配っていなかったら即クビとか。でももしそうだとしたら、彼らの休憩とかトイレとかはどうなっているのだろうか。そもそもあの仕事は、ノルマを全部配り終えたら帰っていいのか、あるいはある一定の時間だけ拘束されていて、その間に配れるだけ配ればいいのか。
とまあそんなわけで、あのティッシュペーパーボーイにはどうにも疑問が満載なのである。
僕は、街中で配られるティッシュは絶対に受け取らないと決めている。これはもう僕の中で決定事項である。別にそこまで強い主張があるわけでも、あるいは何かトラウマ的なものがあるわけでもないのだけど、僕にはどうしてもあのティッシュを配る人たちの存在が納得いかないのである。
例えばですけど、街中に「ティッシュボックス」みたいなものがあって、ここにティッシュがありますよ、ご自由にお持ちくださいね、みたいな感じだったら僕はたぶんもらいます。でも、ティッシュペーパーボーイからはもらいたくはないんですよね(それがティッシュペーパーガールでもです)。結局あれは、どんなにいい解釈をしても(ちょうどその時ティッシュが必要なタイミングだったとしても)、押し付けられていることに変わりはないわけです。基本的には要らないものを勝手に渡そうとしてくるわけで、そのやり方がどうも僕には気に食わない気がするんですよね。
さらにそれに拍車を掛けるのが、ティッシュペーパーボーイのあり方ですね。彼らはいつもボーっと突っ立っていて、人が来るとおざなりに声を掛け、おざなりに手を突き出してくるわけです。やる気ねぇなぁ、とか思ってちょっとムカッとします。あんたみたいなやり方の人間から受け取るかよ、と僕はさらに強硬な態度を取ります。
でもさらに悪いのが、こっちが受け取らないオーラを前面に押し出しているのに(僕はまあいつもそのつもりなんですけど、相手がそう受け取ってくれてないだけかもしれませんが)、一度出した手をさらに動かして「もらえよ」みたいにして再度僕の前に突き出してくる奴ですね。こういうのは本当に最悪です。こんな風にされると、ますます「俺は受けとらねぇぞ!」という気分になります。まさにあの、「風と太陽」の話みたいなものです。
ただ、時々受け取ってもよかったかなと思う人に出会うこともあります。こう手を出してきて、僕が受け取らないとわかると、「ありがとうございます」とかなんとか言うような人ですね。そういう人に声を掛けられると、あぁもらってあげてもよかったかな、と少しだけ後悔しますね。まあそれでも受け取らないんですけど。一日にどんだけ「ありがとう」って言うのだろうとかすごく気になりますね。
今有名人になっているある人(誰だったかなぁ。忘れちゃいました)がどこかで言っていた(書いていた)のだけど、売れない頃にこのティッシュ配りのバイトをしていたことがあるのだそうです。しかしあれは結構キツイらしいですね。受け取ってくれない人がほとんどで、なんだか心が荒んでくるらしいです。だから有名になった今でも、街中で配られるティッシュはどうしても受け取ってしまうのだ、ということでした。なるほど、まあそんな話を聞くと受け取ってもいいかなと思ったりしないでもないですけど、でも所詮は同情を押し付けているような形になるわけで、やっぱり僕は受け取らないぞ、と固く決意をするわけです。
ティッシュペーパーボーイというのは、僕からしたら異物に他なりません。街中で人の往来を邪魔する存在でもあるし、僕にとっては取るに足らない存在です。
しかしそんな人であっても、僕の世界を構成する立派な要素であるのかもしれない、と本作を読んで感じました。
本作ではティッシュペーパーボーイというのは決して主人公にはなりえません。街中でただティッシュを配っている、そのままであればただの背景の一つである存在でしかありません。
しかしそんな些細な存在とちょっと接触することで人生が大きく変わった人びとの話が本作では描かれるわけです。ティッシュペーパーボーイという、普段は街中の風景以外の何者でもない存在が、もしかしたら僕らの生活を大きく変えてくれる使者だったりするのかもしれません。
僕らの生活というのは、どこがどうして成り立っているのか本当に誰もわからないわけです。もしかしたらですけど、誰かが電車を乗り過ごしてくれたお陰で、僕は今こうして生きている、なんていうこともありえるのかもしれません。無理矢理ストーリーを作ると、ある時誰かが電車を乗り過ごした。その人は仕方なくホームのベンチに腰掛けて本を読むことにしたのだけど、たまたま同じホームで電車を待っていたある女性がその人が読んでいる本を見て私も読んでみようかと思ったりする。それで電車に乗って家に帰る途中で本屋に寄ってみる。でも探している本が見つからなくて諦めて帰ろうとしたのだけど、面白そうな別の本があったのでそれを買った。それを職場で読んでいると、「その本僕も好きなんだよ」と言って後輩の男性が声を掛けてくる。そんな縁もあって付き合うようになった。
実はそれが僕の両親でした、なんてこともありえるかもしれない。グダグダと書いたけど、この場合要するに一番初めの男性が電車に乗り遅れなかったら僕は生まれていなかったかもしれない。一番初めの男性が電車に乗り遅れたのにも何か理由があるのだろうし、そうなるともっと遡ることが出来るかもしれない。
そうやって僕らは、全然関係ないはずの影響を微妙に受けながら人生を進んでいるものだと思う。そしてその些細な影響にはほとんど気づくことがない。
しかし、時々は気づくかもしれない。本作の主人公達のように、あのティッシュペーパーボーイに出会ったからこそ今の自分があるのだと気づくことが出来るかもしれない。だからどうなるわけでもないのだけど、自分の世界というのは案外いろんな要素で組みあがっているのだな、と実感できるかもしれません。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は5編の短編が収録された短編集になっています。一応連作短編集といって言えなくもないかもしれないけど、基本的な共通項は脇役であるティッシュペーパーボーイだけです。
ティッシュペーパーボーイについて先に少しだけ書きましょう。渋谷のスクランブル交差点付近でいつも目撃されるこのティッシュペーパーボーイは、赤いキャップに白いツナギというかなり特徴的な格好をしています。その正体は謎ですが、ティッシュ配りにかなりプライドを持っている風な印象を感じます。神出鬼没で、フラリと現れてはサラリと消えていく、そんな存在です。

「グッドラック」
高雄とはもう別れよう。翔子はそう決めた。何があったというわけではないが、むしろ何もなさすぎたからというのが正解かもしれない。これから彼に別れを告げるのだ。場所も自分で指定した。言うことも決まってる。
なのに、待ち合わせの時間に大分遅れちゃってる。どうしよう。連絡しといた方がいいかな。あと少しで着くんだけど…。
そんな時、後ろから突然掴みかかられた。えっ、何!?振り向くとそこには、赤いキャップに白いツナギのティッシュペーパーボーイがいた。何やら怒っているらしい。
「ぼくがティッシュを渡そうとしたのに、あなたはそれを振り払った」
なんて言われても困るのだけど、どうもそのティッシュペーパーボーイは、プロとしての沽券を踏みにじられてご不満らしい。もう一度歩いて来てよと言われて歩くのだけど、もっと自然に、何でこっち見るの、ほら先に手を出さない、と何度も文句を言われやり直し。
こんなことしてる場合じゃないんだけどなぁ…。

「ビーツって何?」
気がつくと公園にいた。目の前には両親と子供という親子連れがいて、三人が三人とも赤いキャップに白いツナギを着ている。そこで周平は、妻の麻子と自分の人生について考えている。
どこから狂ってしまったのだろう。
妻の麻子はもともと、周平が勤めていた証券会社の後輩だった。素直で可憐、仕事は丁寧でミスはないという大人しい女性だった。
その内周平は社内の試験をパスし、MBA取得のためにアメリカ留学をすることになった。その決定と同時に麻子にプロポーズした。そしてアメリカまで一緒に来て欲しい、と。麻子は、英語が出来ないけどと不安がったが、最後には付いてきてくれた。
アメリカに行っても、麻子はそれまでと変わりはなかった。英語が出来ないからと言って一人では外出せず、周平の影でいろいろと支えてくれる存在だった。
しかし、その内勉強が忙しくなり、どうしてもイライラしてしまうようになった。そんな時だ。二人で買い物に行った時。麻子に、
「ねぇ、Beetsって何?」
と聞かれたのは。そこで周平はこう言ってしまった。
「なんでもかんでもいちいち聞くな。せっかくアメリカにいるんだ。少しは英語を勉強したらどうなんだ」
やっぱりあのひと言がすべてを変えてしまったのだろうなぁ…。

「レオン」
尾崎はラブホテルで女子中学生の悩みを聞いてあげている。何でそんな事態になったのか…。
会社の同僚が、「ちょっといい思い」をさせてくれるという話を持ちかけてきたのだ。出会い系で女子高生と知り合ったのだけど、どうしても出張で都合がつかない。だから今回は替わりに行ってくれ、とまあそういうことである。
レオンと名乗った少女は実際には女子中学生で、もちろんセックスなんて出来る対象じゃない。話を聞いてみると、自分がどうにも蔑ろにされているようで、誰かに相手をされたいからと出会い系をやったのだとか。
それから尾崎は、レオンと度々会うようになった。レオンの悩みを聞いてあげるというのが一応の建前だが、なんだか一緒にいると若返ったような感じもしてくる。いつしか、自分が抱えている悩みまで吐き出していたのだけど…。

「恋が花盛り」
智樹のことが好きだ。好きで好きで仕方ない。こんなにも智樹のことを考えているのに…。
未だにセックスをしていない。
手も繋いだ。キスもした。なのに智樹はいつだってそこから先には進もうとしない。どうして?自分の浮気がバレて離婚しちゃったけど、でも私ってそんなに淫乱かな?好きになるって、愛し合うって、そういうことじゃないの?
一方智樹は思い悩んでいる。いつだって女性を傷つけていることは分かっている。七恵が恨めしげに見ていることだってちゃんと分かっている。でもダメなんだ。昔受けた傷をどうしても乗り越えられないんだ…。

「ボーイを探せ!」
地味だったはずの自分がスカウトされてタレントになった。そうして、特にこれと言った特徴もないままこれまでズルズルとここまで来てしまった。人の顔を覚えることだけが得意で、だから一度会った人でもちゃんと名前を呼んで挨拶できる。たぶんそれだけの理由で私はこの業界に残れているんじゃないかな。もうそろそろ芸能界は辞めて次のことを考えた方がいい。そうやっていつも悩んでいる。
一方でテレビの方では今、渋谷に現れる赤いキャップに白いツナギのティッシュペーパーボーイに注目が集まっている。最近そのティッシュペーパーボーイを見かけないなぁなんて話もある。よし!なら彼を探す企画を立てよう!話は順調に進み、生放送でやることが決まったのだけど…。

というような話です。
なかなか面白い話でした。ティッシュペーパーボーイという、作中でも現実の世界でも脇役でしかない存在を、一瞬かもしれないけど輝かせている作品で、ちょっと面白い趣向ですね。
ティッシュペーパーボーイというのは、基本的に何をするわけでもなく、ただティッシュを配っているだけです。相手の事情を知っているわけでも、何かいいことをしてやろうと思っているわけでもなく、ただ単に自分の仕事としてティッシュを配っているだけです。
しかしその彼が、結果的にいろんな人を救ったり元気にさせたりするわけです。なんかそれが楽しいですよね。僕もいつも本屋で働いていてそこまでお客さんに影響を与えられていないような気がしているのだけど、でも実は僕の知らないところで些細な影響を与えていたりするのかもしれない、と思ったりしました。
本作を読むと、よくも悪くも自分の行動が人に与える影響について考えてしまいますね。もちろん自分で制御できる話ではないですけど、自分がとった些細な行動が誰か別の人の人生を大きく決定していたりするのかもしれない、と思うとちょっと嫌ですね。まあ嫌って言っても仕方ないんですけど。世の中というのはやっぱり複雑だなと思いました。
話としては「レオン」が結構好きですね。なんとなく元気になるような話です。やっぱり女子中学生にはパワーがあるなぁ、なんて思ったり。いやホント、真剣に下心なしに(さすがに中学生とは無理でしょう)、中学生の女の子の友達とか欲しいとか思ったりしますね。なんか全然視点が違いそうで面白そうです。
あと「恋が花盛り」なんかもなかなかいいですね。これなんか、まさにティッシュペーパーボーイ様様と言ったような話で、幸せの神様という感じです。もちろんティッシュペーパーボーイは相変わらずただティッシュを配っているだけなんですけどね。
あと「グッドラック」に出てくるティッシュペーパーボーイにはかなり笑いましたね。受け取ってくれないからやり直しを命じるティッシュペーパーボーイなんて最高です。もちろん実際自分がそんなのを喰らったらイライラすると思いますけど。あくまでも人の話だと思うから面白いですね。
どうしたって脇役でしかありえないティッシュペーパーボーイという存在に光を当てた作品で、かなり面白いと思います。街中で配られるティッシュを受け取る人も受け取らない人も、是非読んでみてください。

有吉玉青「渋谷の神様」

下町というのは、イメージだけで言えば僕は結構好きなんだろうな、と思うわけです。なんか言い方が変ですけど。
古い建物がみっしりあって、商店街なんかがあって、そこには今でも八百屋だとか魚屋だとかがある。お寺や井戸なんかが点在していて、人が自然と集まるような場所があって、季節ごとのイベントがあって皆でそれを盛り上げて。そして何よりも、周りが周りのことを知っていて、隣の人が皆知り合いというのが僕の下町のイメージです。僕は別に下町に住んでいたことがあるというわけではないんですけど、「こち亀」で読んだりとか、あるいは古都京都なんかをイメージすると、そんな感じになりますよね。
少なくとも、殺風景なところに建つマンションなんかよりは全然面白いところだろうな、と思うわけです。日々何か起こっていて、日々誰かがそこにいて、常に誰かの笑顔があるような、そんな日常を送ることが出来るのは、やっぱり下町ならではなんじゃないかな、とか思ったりします。まあ現代では下町というのもいろいろ難しかったりするのかもしれないですけどね。
ちょっと前に、浅草でやってた祭りに行ったことがあります。あれは楽しかったですよ。何がいいって、やっぱり皆ものすごく楽しそうだってことですよね。だって、街中の道路を通行止めにして、そこを神輿で練り歩くんですからね。老いも若きもという表現がぴったりなくらい、いろんな世代の人々が混在していて、その中でとにかく楽しもうとしている。伝統だからいやいややってるなんて雰囲気はもちろんなくて、もう一年をこの日のために頑張ってるんじゃないかってぐらいの張り切りようでした。僕の下町のイメージというのは、そういう経験からも来ているのかもしれないですね。
ただ、本当に残念なのは、僕はどうしても社交的な人間にはなれない、ということなんですね。
ちょっと矛盾しているんですけど、僕は頭の中では人間同士の付き合いみたいなものに結構憧れているんです。その浅草の祭りの時も、ここに住んでたら楽しいだろうなと思ったし、「こち亀」なんかを読んでいても、こういう下町での日常もいいよなぁ、とか思うわけです。人間同士が、下町という環境を背景に深い関係になれるというのを、頭の中では羨ましく思えるわけです。
しかし、実際いざ人と付き合っていこうとすると、どうしてもうまくいかないのですね。それは、矛盾しているのはわかっているんですけど、やりたいのに出来ないのではなく、やりたくないと思ってしまうんですね。頭の中では、人間同士の深い付き合いに憧れているくせに、現実にそれを目の前にすると引いてしまうというか臆してしまうというか、いやもっとちゃんと表現しましょう、めんどくさいなと思ってしまうわけです。
本当は、八百屋さんや魚屋さんと顔見知りになって立ち話をしたり、いろんな行事に参加したり、近所づきあいみたいなものもちゃんと出来たらいいのにな、と頭の中では思うんです。というか、そんな風に出来たらいいな、というような願望というべきかもしれないですね。
しかし実際は、お店の人と顔見知りになって話し掛けられたくないからスーパーに行ったり、準備が面倒だからと言って行事には参加しなかったり、挨拶をしたりいろいろ頼み事をしたりされたりするのが面倒だから近所づきあいはしたくない、という発想になってしまうわけです。
つまり、たぶんこういうことなんだろうと思います。僕は、人間同士の付き合いのいい部分にだけとにかく憧れているんでしょうね。いつも誰かと喋っていたり、ふとした時に立ち寄れる場所があったりというような、まあ何でもないことなんでしょうけどそういう安心できるような部分はいいなと思っているわけです。でも、そのいい部分を得るためには、人間関係を持続させる努力をしなくてはいけないわけです。僕はそれが面倒に思えてしまうんだと思います。相手のことに気を遣って行動したり、自分がちょっとそういう気分でない時でも会ったら立ち話をしなくてはいけないとか、その他人間関係をずっと続けていくというのが僕には殊の外難しく思えてしまうわけです。
だから、頭の中では深い人間関係に憧れるくせに、実際にはそれを実現することは出来ないのだろうな、と思うわけです。
本作でも下町にある古本屋が舞台で、いろんなところに顔なじみがいるし、そもそも家族がわんさかいます。僕はこういう話を読むと、実際羨ましいと思うわけです。大家族というのも面白そうだし、近所の人との関係が近いというのも面白そうです。またこの古本屋にはいろんな事件が舞い込んで来るわけで、それもいいですよね。
しかし、実際この古本屋一家の中で暮らすとしたら、僕は結構大変だろうな、と思います。僕は3人兄弟の5人家族として高校まで実家にいましたが、たったそれだけの人間関係を持続させるのにもひいこら言っているような人間です。やっぱり僕には無理なんだろうな、と残念に思います。
今でも、下町とかあるいは京都みたいなところに住んでみたいという気持ちはあります。しかし同時に、僕にはそれは無理だろうなという気もしています。もともと下町で生まれていたら、下町に馴染む性格になったでしょうかねぇ。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、「東京バンドワゴン」シリーズの第二弾です。4作の短編が収録されていますが、まずは全体の設定から。
昔々から長く続く古書店である「東京バンドワゴン」は、今ではカフェまで併設したなかなかオシャレなお店です。とは言え、建物自体はかなり古いんですけど。そこに、当主である勘一を初め9人もの大家族が住んでいます。しかもそれぞれに複雑な出生を抱えたりして、実にややこしい家系になっていますが、まあそれはそれとして。
この東京バンドワゴンでは、日々何だか奇妙な出来事が起こります。まあ些細なことなんですけど、ミステリアスな出来事ですね。そんな彼らの日常を見ているのが、ちょっと前に死んでしまった勘一の妻であるサチです。物語はこのサチの視点で進行していきます。

「冬 百科事典は赤ちゃんと共に」
いつものようにドタバタと慌しい堀田一家ですが、なんだかもうクリスマス。いろいろあってプレゼントがたくさんあります。
それはいいのですが、珍客というか、妙なプレゼントも受け取ることになりました。
それが、カフェに置き去りにされた赤ちゃんです。置き去りにされてしまったのでしょうか?どうしたものか悩みます。
一方で、ある巻数ものの本をまとめて売りに出した学生さん。しかしその一冊にどうも穴が空いているんですね。さてこれもどうしたものやら…。

「春 恋の沙汰も神頼み」
橋田さんというお客さん。50冊からの本を売りに出されました。なかなかいい本揃いで、何でも妻の遺品だとか。
それはいいんですが、なんとも奇妙なことにその橋田さん、自分が売ったその本を、1日に1冊のペースで買い戻しているんですね。はて何ででしょうか?特に困ることはないですけど、やっぱり気になりますよね。
気になると言えば、我南人の動きも気になりますね。なにやら綺麗な女性と会っているのを目撃されたり、いつも行くことのない蔵に行ってみたり。さて何をしているのでしょうか?

「夏 幽霊の正体見たり夏休み」
正枝さんという近所の女性。我南人の小学校時代の先輩みたいですね。その女性がカフェまで来ています。その後で、正枝さんに頼まれたのでしょうね、我南人がなにやら相談です。何でも、正枝さんの家にいるお孫さんがどうにも幽霊を見ているようだと。というわけで、誰とでもすぐ仲良くなれる研人の出番ですね。同級生みたいですし。
それよりも変なのは勘一です。そうそう、研人と花陽は脇坂家にちょっと遊びに行っていたわけですけど、そこである老婦人から勘一へということで本を預かったのだそうです。その本を見て、勘一は何やら考え込んでいます。「幽霊みたいなもんかね」なんて言っていますが、はて。

「秋 SHE LOVES YOU」
さてもうすぐ秋実さんの七回忌です。定休日のない東京バンドワゴンもこの日だけはお休みです。しかし今では妊婦が二人。藍子とマードックの話も進展しないとかで、なんだか慌しいことには変わりないですね。
そんな中、すずみさんだけが知らない「呪いの目録」の話を聞かせてあげることになりました。しかしその後、その目録にちょっとだけ関わって警察の方がいらっしゃるのですよね。

というような話です。
ちょっと今日は時間がないので急ぎ足になりますけど、いやはやこのシリーズは相変わらず面白いです。もうどんどんシリーズを出していって欲しいと思える作品ですね。
この作品のいいところは、なんとなく定型が既に決まっているというところですね。「サザエさん」や「ドラえもん」みたいな感じと言っていいかもしれません。いろんなキャラクターがわらわらして話が進んでいくんですけど、毎回お決まりのパターン(ご飯を食べる時の会話の応酬とか、我南人の「LOVEだねぇ」とか)もあり、またストーリーの枠組みみたいなものも何となく大雑把に定型があるような感じで、それがすごくいいと思います。何がいいかと言えば、飽きられることなくシリーズを続けていくことが出来るのではないかな、ということです。
しかし今回もいろんな話が出てきましたね。特に「春 恋の沙汰も神頼み」なんかはかなり驚きましたよ。あの人がまさかあんなことを!という話です。またどの話でも、色んな人間の知られざる秘密がどんどん明かされていく感じで、このままシリーズが進んでいくとさすがに明かすべき秘密も尽きていってしまうだろうな、というところだけが心配です(ってこのシリーズが続くものだと勝手に思っていますが 笑)。
何と言ってもとにかくキャラクターが素敵で、読んでいて本当に楽しいです。一人一人の性格がこれでもかというぐらい際立っているし、会話も面白いです。それに<日常の謎>系のミステリとしてもそこそこよく出来ていると思うし、もう言うことない作品だと思いますね。
このシリーズはホントいつまでも読んでいたい気がします。小路さん、なんとかこのシリーズ、小説界のサザエさんみたいな、永遠に続くようなシリーズにしてくれないでしょうか。まあそうであれば、別にミステリ仕立てにはこだわらないので。
是非読んで欲しい作品ですね。本作から読んでもいいですけど、やっぱりシリーズ一作目から読んだ方がいろいろ人間関係がわかっていいような気がします。

小路幸也「シー・ラブズ・ユー 東京バンドワゴン」

僕は、テレパシーみたいなものはあってもおかしくはないのではないか、と思っている。残念ながらその能力は今の人間には失われて久しいものであるが、しかし時にはその能力を使えるような人がいたりするのではないか、という風に考えている。
僕がその根拠として考えているのが、言葉を持たないだろうと考えられる、人間以外の様々な動物についてです。
もちろん彼らの『会話』は僕らには永遠に理解できないでしょう。僕らは言葉というものを使って意思の疎通をしているわけですけど、彼らがどんなものを使って意思の疎通をしているのか分かりようがないからです。
動物によっては、鳴き声によって意思の疎通をしている種もあるでしょう。あるいはもしかしたら手話のようなやり取りをしているような種もあるかもしれません。
しかし全部が全部そういう意思疎通のための手段を持っているとはどうも考えにくい気がします。鳴き声をほとんど出さない種もあるし、手足の動きが判然としない種もあるでしょう。もちろん僕らには想像もつかないやり方で意思の疎通を図っているのかもしれませんが、もうそうなるとテレパシーと呼んでしまってもいいのではないか、と僕なんかは考えてしまいます。
もしかしたら意思の疎通が必要ではない種もあるのではないか、という反論もあるかもしれませんが、それはありえないと僕は思います。何故なら少なくともどんな生き物であっても、生殖だけはしないわけにはいかないからです。
そのためには、異性同士が何らかの意思の疎通をすることが絶対に必要です。種によっては、匂いであったりあるいは身体の色なんかでアピールをしたりするのでしょう。しかしはっきり言って僕は、それだけだとはどうしても思えないのです。これだけは根拠がないですけど、やはり何らかの形でもっと分かりやすい意思の疎通があるような気がするのです。
そうなるとその手段はテレパシーのようなものしかないように思われます。
僕の仮説では、元々どんな種もテレパシーのようなものを持っていたのではないかと思います。しかし進化するにつれて、他の手段で意思の疎通をするような機能を身に付けてきました。鳴き声や匂いと言ったようなものです。そちらの新しく獲得した手段の方が使い勝手がよければ、テレパシーの能力というのは退化してしまうのではないか、と思うわけです。
人間もそもそもはテレパシーのような能力を持っていたのではないでしょうか。言葉というものがいつ頃生まれたのか僕には分かりませんが、少なくとも人類が生まれた時から持っていたわけではないでしょう。長い年月を掛けて言葉というのは生まれたはずです。しかしそうなると、初期の人類は一体どのようにコミュニケーションをとっていたのでしょう。
あるいはこんなことも考えてしまいます。赤ちゃんというのは生まれたての段階ではまだ言葉が分かりません。なので言葉によるコミュニケーションは出来ませんが、しかしなんとなくですけどこちらの思っていることが赤ちゃんに伝わっているような感じを受けたりするのではないでしょうか(身近に赤ちゃんがいた経験がないので実感としては知りませんけど)。それは、赤ちゃんというのは生まれた時にはまだテレパシーの受容器みたいなものを備えているからかもしれません。それで、僕らが無意識の内に発しているテレパシーを受け取っているのかもしれません。
僕の仮説では、テレパシーの能力と言うのは電話に近いイメージです。誰でも好きな時に誰とでもコミュニケーションが出来るというわけではありません。お互いに周波数みたいなものがあって、それを調整することでやり取りが出来るわけです。テレパシーを発する発信器とテレパシーを受け取る受容器みたいなものがあって、その両方が存在するとテレパシーの能力というのは活用できるわけです。
それで、今では人類は、テレパシーの受容器の方を失ってしまったのではないか、と考えます。発信器の方はまだ残っていて、今でも僕らは無意味にテレパシーを発信し続けています。それで、たまに受容器を持って生まれた人間が出てきたとしましょう。そうすると、人の考えていることが分かったりするわけです。
また双子がお互いに考えていることが分かったりする話も、もしかしたらこれで解決できたりするかもしれません。双子というのは何らかの特殊な条件により、お互いに受容器を失わずにいるわけです。だからお互いに相手の考えていることがなんとなく分かったりする、と言ったようなことがあってもおかしくはないのではないかと思いました。
脳の機能というのは未だにほとんど分かっていないのが実情です。また人間は、脳が本来持っている力の3割ぐらいしか使っていないとも言われます。であれば、その使われていない7割の方に、機能を停止してしまっている受容器が存在するのだと考えてもそこまで不思議ではないのではないか、と思います。まあもちろん、検証するのはほとんど不可能なのではないか、と思いますけど。
まあ唯一穴があるとすれば、何故テレパシーの能力が失われたのか、ということですね。というのも、能力として考えた時に、テレパシーでのコミュニケーションと言葉によるコミュニケーションでは、やはりテレパシーの方が便利な気がするからです。便利な機能が失われ、便利ではない機能が残るというのは、生存の法則から外れているような気もします。まあ深く考えている話でもないので、戯言はこの辺で。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は5編の短編を収録した連作短編集です。まずは全体の大きな設定から書きましょう。
舞台は昭和30年代ぐらい。時代としてよく知っているわけではありませんが、戦争後で大変だったのと、なんとか国を盛り上げていこうという、その入り混じったような時代だったのでしょう。
その時代に生きていた二人の姉妹が主人公です。かなり貧しい生活をしていた、母との三人暮らしの生活ですが、生活そのものには悲壮感はありません。妹は姉のことを「姉さま」と呼んで慕っています。
さてその姉が特殊な能力を持っているわけです。どんな能力かと言えば、人や物をじっと見ていると、それらが見てきた過去を見ることが出来るという能力です。ただ姉さまはこの能力をあまり使いたがりませんでした。それでも、どうしても使わざるおえなかった時の話をまとめたものが本作です。

「追憶の虹」
私が警察官である秦野さんに淡い恋心を抱いてしまったがために、姉さまに迷惑を掛けることになってしまいました。
私の同級生の弟が車の当て逃げで怪我をした事件がありました。犯人は見つかりませんでしたが、私は秦野さんに手柄を立ててあげたくて、姉さまにその能力を使って犯人を突き止めて欲しいと頼みました…。

「夏空への梯子」
のちに「駒ノ辺女子高生殺人事件」と呼ばれ、昭和史を語る本では必ず触れられる大事件が起きました。事件は、新聞社に掛かって来た電話から幕を上げます。電話の男は、人を殺したと告げ、その死体が今どこにあるのかを誇らしげに伝えてきました。その後も自分の犯罪を誇示するかのような言動が続き、結局はそれが仇となって捕まってしまうわけですが。
その内、以前お世話になった刑事さんが姉さんの元へやってきました。そしてこう言うのです。自分には犯人の心がよくわからない。だから犯人を『見て』はもらえないだろうか…。

「いつか夕陽の中で」
茜ちゃんという女の子が我が家に出入りするようになりました。台風の時に出会ったのが縁で仲良くなり、その後も姉妹のような関係が続き、私ももう一人姉さまが出来たと喜んでいました。
しかしある時玄関先で見覚えのない巾着を拾いました。どうやら血のようなものがついているわけです。誰のものか分かりませんが、姉さまの能力を使えば大丈夫です。しかしそこで姉さまは、とんでもない映像を見てしまうことになるのです…。

「流星のまたたき」
茜ちゃんがどうにも納得がいかないとプンプンしながらやってきました。最近茜ちゃんはとあるアパートに入ったのですが、そこに住む慶応大学の学生に100円巻き上げられたのだと言います。3つあるマッチ箱の中で一つだけ中身が入っている。その中身が入っている箱を当てれば勝ちという賭けで、10回連続で負けてしまったのです。茜ちゃんは、あれは絶対イカサマだよと言い、姉さまに是非その謎を解いて欲しいと言いました。
それで私達はその学生さんと会うことになるわけですけど、どうやら姉さまはその学生さんに恋をしてしまったようなのです…。

「春の悪魔」
「クラさんのところにお使いにいく」時折母さまから頼まれる用事ですが、私達はこれが嫌で嫌で仕方ありませんでした。何故ならばクラさんは礼儀に非常に厳しく、行くと必ず怒られるからです。
しかし行かないわけには行きません。その日も私が行きました。しかしいつもいるはずのクラさんが家にいません。しばらくして待ってみてようやくクラさんに会えたわけですけど、何だか慌しい感じでいつもとは全然違います。
よく分からないまま帰ったわけですが、その日クラさんの家の近くで殺人事件があったことを知り、私は恐ろしくなってしまいました…。

というような話です。
相変わらずこの作家はなかなかいい作品を書きます。これまで僕が読んだ作品も、昔懐かしい日本を舞台にしたものが多かったですけど、しかし本作のように時代や場所が明確にされていたわけではありません。本作では、当時流行っていたものや時代の風潮なんかも結構書いていて、当時のことを僕は特に知りませんが、なんとなくノスタルジックな気分になりました。当時のことを知っている人であれば、なおさら懐かしい気持ちになるでしょう。ストーリーそのものよりも、そういう雰囲気作りの方に結構力を入れている印象を受けました。
また話自体も、昔のことを回想して書いていることや、また「姉さま」などという独特な呼び方なんかによって、普通とはちょっと違った雰囲気をかもし出している小説です。
気は強く好奇心も旺盛な妹と、病弱で心持ちも優しい姉さまという取り合わせで、しかもその姉さまは特殊な能力を持っているが故にいろいろなことに巻き込まれてしまいます。もちろんその能力は人を救うこともあります。しかし多くの場合その能力は、何らかの誤解を生んだり、あるいは人を傷つける結果になったりしました。姉さまはその度にこの能力を使わないように自戒するのですが、しかし状況がそれを許さないことがあります。姉さまはその度に心身を疲労してしまうわけで、なんというかあまり役に立つ能力というわけではありません。姉さまも、そんな能力を持っていなければよかったのに、と思っていたことでしょう。
姉さまの能力の使い方として一番好きだったのは「流星のまたたき」でのことです。まさかそんな発想をするとは思いませんでした。さすが恋に落ちると女性は強い、と言ったところでしょうか。しかしそれで体調を崩してしまっては元も子もありませんけど。
話としては「いつか夕陽の中で」が好きです。この話は、まさにその特殊能力さえなければなんの問題もなかった、という話で、すごく象徴的だと思いました。
あと、小説自体とは関係ないんですけど、僕はこの本の装丁がすごく好きですね。絵がすごくいいです。この作品の雰囲気をものすごくよく表してもいます。これは、朱川湊人という作家を知らなかったとしても、ジャケ買いしてしまったかもしれないな、と思いました。
まあそんなわけで、相変わらずこの作家はかなりいい作品を書きます。僕の中では結構注目の作家ですね。どの作品も雰囲気は似ているのに、読む度に違う印象を与えてくれる作家で、幅広いなという感じがします。これまで3作読みましたがどれも外れなしだったので、どれを読んでも面白いのではないか、と思います。オススメの作家なので是非読んでみてください。
そういえば「わくらば」ってどういう意味でしたっけ?漢字だと「病葉」みたいな感じだった気がするんですけど、どうだったでしょうか…。

朱川湊人「わくらば日記」

僕は建築というものには結構興味があったりする。だから京都や奈良なんかに行くと結構楽しい。昔の建築がたくさんあるからだ。別に見て、これがなんとか建築だとか、あるいはこれはこういう理由でこういう造りになっているのだな、というようなことが分かるわけではない。けど、美しい建築というのは見ているだけで楽しいではないか。
そういえば前に京都に行った時、「○○家住宅」(○○には僕の名字が入る)という家を見てきた。京都の重要文化財だかに指定されているようで、家の前に看板があってその写真を撮ってきた。よくわからないが、なんか自分の名前のついた建物があるというのも面白いものだと思った。その建物自体は特にどうという特徴があるようにも見えなかったけど、なんとなく嬉しい。
また、今年の初めに(となるともう一年近く前のことになるのか。早いものだ)エジプトに行ってきた。いろんな遺跡を見て、古代の人達はすごかったのだなぁ、と思ったものだ。どうやってあんなもんを造ったんだろうか、と感心してしまう。今、機械なしであれを作れと言われたら、たぶん無理だろう。人間の気力が足りないんではないかな、と思う。
まあそんなわけで、建築そのものには割と興味があったりするのである。しかし、家には全然興味がない。
僕はとにかく家というのは、屋根の下で住めさえすればあとはどうでもいいだろう、と考えている。今住んでいる部屋も、ある特定の地域に絞って、その中で最も家賃の安いところをインターネットで検索して決めたぐらいだ。日当たりだとか築年数だとか住み心地なんてのは、本当に興味がない。まあ結露が出たりネズミがいたりとかいうのは嫌だけど、だとしても仕方ないかぐらいで済ませてしまうような気がする。実際僕が今住んでいる部屋は、大雨になると雨漏りするのだけど、まあいいかと思っている。大した問題じゃない。
だから僕からしたら、多くの人がローンを組んで苦しい重いまでして一軒屋を持ちたいと考える気持ちがどうも理解できないのだ。
いや、もちろん僕だって、金を捨てるほど持っているとしたら、家の一軒や二軒買ってみるか、という気になるだろう。アイスを買うぐらい気軽に家を買えるというのなら、僕だって買うだろう。
しかし現実はそうではない。現実には、30年近くもの長いローンを組んで、毎月ローンを返済しながら、それでようやく家を持てるのである。しかも、地価の高いところには住めない。どうしても郊外になってしまう。そうなると、通勤にかなりの犠牲を強いなくてはいけなくなる。ローンを抱えるということは、少なくともその間は最低でも働き続けなくてはいけないし、リストラされるわけにもいかないということである。家を持つということは、ありとあらゆる意味で重圧と束縛を抱えるということで、そうまでして家が欲しいと思う気持ちが僕にはどうしても想像出来ないのだ。
僕は休みの日なんかほぼ家から出ないような出不精人間だけれども、今の家で充分快適に過ごせている。これ以上特に望むことはない。そんな人間だから、どうも家賃にそこまでお金を使いたくないなとか考えてしまうのである。
それでも万が一僕が自分の家を持つような状況になったとしよう。もしそんな状況になったら、僕はとことん変な家にして見たいと思う。壁が反転して向こう側に行ける仕掛けとか、地下通路を通らないと入れない部屋とか、その他隠し部屋や隠し扉なんかがふんだんにあるような、カラクリ屋敷みたいな家にしてみたい。当然住み心地は悪くなるだろうが、しかし面白ければいいと思う。僕にはやはりそれぐらいの感覚しか持てないのだ。
僕が家というものをあまりに軽視しすぎているというのは実感としてあるが、しかし多くの人があまりにも家というものを重視しすぎているという風にも思います。そんなに家というのは大事なものか、とか思います。よく分かりませんです、僕には。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、なかなか面白い趣向の作品です。現役の一級建築士である著者が、ミステリー小説に出てくる様々な『奇妙な家』を、本文中の記述を最大限に汲み取りながら、実際に設計図に落とし込んでみよう、という主旨の作品です。当初自らのHPで発表していたようですが、それを本として出版することになったようです。
ミステリーには本当に様々に奇妙な建築物が出てきて、素人の目から見てもこんなんありえねーだろ、と思うようなものが山ほどあります。僕も、これを現実の建築士の人が読んだらどう感じるんだろうな、と思ったりしたこともありますが、それを実現した人がいるとは思いませんでした。
本作では、本文中の記述や現実のデータなどを駆使して、どんな間取りでどれぐらいの大きさなのかということから、建築法や工事費、また建築基準法に違反していないかどうかということまで可能な限り追究しています。また、これには特に気を配っているようで、ネタバレになるような記述は基本的にはありません。まあ僕が読んでいない作品も結構あるので何とも言えないですけど、基本的なルールとしてネタバレはしないと書いているので大丈夫でしょう。
さてそんなわけで、本作で取り上げられている作品を以下に書こうと思います。

綾辻行人「十角館の殺人」
我孫子武丸「8の殺人」
歌野晶午「長い家の殺人」
篠田真由美「玄い女神」
東野圭吾「十字屋敷のピエロ」
森博嗣「笑わない数学者」
法月綸太郎「誰彼」
横溝正史「本陣殺人事件」
江戸川乱歩「三角館の恐怖」
島田荘司「斜め屋敷の犯罪」

以上10作品です。
それぞれ奇妙な建物が出てきますが、奇妙さの度合いで言えば「8の殺人」「長い家の殺人」「斜め屋敷の犯罪」が度肝を抜いていると思いました。
「8の殺人」は未読ですが、8の字型の家を作りたいというコンセプトを守ろうとするとすごいことになるのだな、と思いました。また、共有のバス・トイレがなく、それがすべて各部屋に備え付けられているというのも異常です。しかしこの建物は、周囲を廊下で覆われているため各部屋の採光は中庭からに限られているのですけど、著者はこの点から廊下や中庭がどれぐらい広さが必要かということを計算していて、すごいものだなと思いました。
また「長い家の殺人」は、その明らかに無意味な建物のあり方がすごいです。15の部屋がすべて横一列に並んでおり、しかもその部屋の前にある廊下には窓が一切ないという無謀さ。この点は建築基準法違反なのだそうです。
そして「斜め屋敷の犯罪」です。これは、著者をして「解析したくない」と言わしめたほど複雑怪奇な建物で、建物自体がなんと、ピサの斜塔と同じ角度だけ傾いている、というわけです。この作品はとにかくトリックがものすごいですけど、まあそのトリックが実現可能かどうかは別として、とにかくこの建物の解析には相当苦労したようです。まあそれはそうでしょうね。僕も作中に載っていた図を見ましたが、イマイチよく分かりませんでした。部屋同士の行き来にもかなり不自由がある、まさに奇妙な建物です。
個人的には森博嗣の「笑わない数学者」の解析にかなり興味がありました。というのも森博嗣というのはかつてとある国立大学の建築学科の助教授だったのであり、自分で家の設計もしたことがある(はず、確か)作家なので、その森博嗣が生み出した建物がどう解析されるのか楽しみでした。
その結果、なんとこの建物は建築基準法違反なのだそうです!まあもちろん森博嗣だってそんなことは知っていたでしょうけど、この結果はなかなか面白いなと思いました。
他の建物についても、時には文章を忠実に読み込んで詳細に、時には記述が少なすぎて想像力を飛躍させて、とにかく最大限作品とも現実とも折り合いのつけられるような解析に努めています。まあ時にそれでも無理が生じ、好意的な解釈により解決するようなこともあるわけですけど。
また本作を読んで強く思ったのは、やっぱり小説というのは現実とはかけ離れてしまうのだな、ということです。作家というのは、作中に出てくるありとあらゆる設定を考えなくてはいけません。しかし現実にはそのそれぞれに専門家がいるわけです。作家という一人の人間がそうあれこれ専門家になれるわけもなく、そうなると小説というのはかならずどこかで齟齬を生み出してしまうものなのだろう、と思います。家にしてもそうですね。そう考えると、あんまり現実的っぽく細かく描写するんじゃなく、曖昧にふんわりと書いておく方が良さそうだな、なんて思っちゃったりしますけどね。
しかしこの作品はかなり手間がかかっていると思いました。もともと出版するつもりはなく完全な趣味だったのでしょうけど、しかし1章分の内容を書くためにどれだけ時間が費やされているのか想像も出来ません。本文を何度も読み直さなくてはいけないし、様々な資料を参照しなくてはいけません。「誰彼」という作品の解析では、なんと特注しただろうと思われるエレベーターの大きさを、業者の仕様書などを見て計算するようなことまでやっています。これだけの手間を掛けることが出来るのですから、本当にミステリが大好きなのだろうなと思いました。
一応続編の計画もあるようなほのめかしが載っていますが、さてどうなるでしょうね。僕なんかは、最近読んだ、米澤穂信の「インシテミル」なんかを解析して欲しいですけどね。本作を読んだ知識を元に考えると、「インシテミル」で出てくる建物は明らかに建築基準法違反なんですけどね。
まあそれなりに楽しめる作品だと思います。買って読むほどの作品ではないような気はしますが、でも未読の作品があったらこの本と一緒にその作品を読んだりしたら結構面白いかもしれないなとか思ったりしました。

安井俊夫「犯行現場の作り方」

これまで誰にも話したことはないが、僕には少し変わった記憶がある。のっけから無茶苦茶な話をすることになるが申し訳ない。話としては荒唐無稽である。全体的に疑わしい。部分的には信用するしかないとは思うが、かなり疑問が多い。嘘をついているつもりはない。でも、恐らくきっと誰も信じてはくれないだろう。すくなくとも、自分は信じるしかないのだが。。
その記憶というのはどういうものかというと、僕のものではありえない記憶がある、ということである。
そもそも記憶というのは、自分がそう記憶しているというだけの話で、正しいとか正しくないとかと言うのは自分の記憶だけでは判断できないはずである。誰かの記憶と照合し、食い違いが発生した時にどちらかの記憶が間違っていると判定される。あるいは、新聞などの記録と照らし合わせ、その記録と食い違いがあるとなれば自分の記憶が間違っていると判定されることだろう。
しかし、その僕が持っている記憶というのは、僕自身の記憶単体で間違いであると断定できるものなのである。
どう思うだろうか。そんなことは決してありえないと思うだろうか。
自分の記憶のことを考えて見て欲しい。学校でのこと、家でのこと、会社でのこと、いろんな記憶があるはずだけど、それが自分のものではないと疑ったことは恐らくないだろう。それが現実にあったことであろうがなかろうが、少なくとも自分の記憶の中で矛盾が生じさえしなければ、それが自分の記憶であることに疑いはない。疑う理由がそもそもないのである。
しかし、僕の場合は、絶対に間違った記憶であると言えるのである。
具体的にどういうことかと言えば、僕の記憶の中に『僕』が出てくるのである。これから、僕自身のことを僕、僕自身の記憶の中に出てくる僕を『僕』と書くことにします。
例えばだけど、修学旅行の記憶があります。恐らく中学時代ではないでしょうか。その中で僕は何人かのメンバーと一緒の部屋なのだけど、その中に『僕』がいるわけです。意味が分かるでしょうか?つまり僕自身は別の誰の視点となって、『僕』を外側から見ているわけです。
その時は6人ぐらいで一つの部屋だったと思うのだけど、その部屋には、僕の視点である僕と、その僕が見ている『僕』と、他の4人のメンバーがいるというわけです。僕は僕自身の記憶を持ってその場にいるはずなのですけど、何故か『僕』の体は僕の外側にあるわけです。もちろん他のメンバーは『僕』のことを僕の名前で呼ぶし、僕も『僕』のことを僕の名前で呼びます。問題は僕がなんと呼ばれているのかですけど、それが実に曖昧で、僕の記憶の中だけからはいかんとも判断しがたい感じになっているわけです。
こういう記憶が僕の中にはいくつかあって、そのすべてに『僕』が出てくるわけです。姿かたちはまるっきり僕と同じで、まるで鏡を見ているような感じなのだけど、しかし鏡を見ているわけではなく、僕の姿かたちとまったく同じ人間が『僕』として存在するわけです。その僕の記憶の中で僕が鏡を見るような場面にはならないので、僕がどういう格好をしていうのか分かりませんが、周囲が違和感なく接しているところを見ると、僕は僕ではない姿かたちをしているということなのでしょう。
つまり状況を考慮すると、僕は他人の身体の中に僕の記憶だけがまるまる移ってしまった、という状況になるのだろうと僕は思います。
これはどう解釈すればいいでしょうか?別にこの記憶が僕の中にあるからと言って、特別困ったことがあるわけではありません。僕の中では、まあ何かの間違いか、あるいは空想のようなものが記憶として染み付いてしまったのだろう、というぐらいの理解をしているだけで、日常生活に何か支障をきたすということもありません。だから別にどうでもいいと言えばどうでもいいのですが、しかし気になると言えば気になります。
問題は、その記憶が、恐らく現実をなぞったものではない、ということです。
僕は残念ながら昔の記憶というのをあまり持っていなくて、だから先ほど例に出した修学旅行の話も、その時実際にその6人のメンバーと相部屋だったのか正確にはわかりません(正確に言えば6人と同じではなく、僕と『僕』を除いた残り4人と同じ部屋だったのかどうか、ということになりますが)。他の記憶でも、それが実際にあったことであるのか本当には起こっていないことなのかということがなかなか区別がつきません。
しかし一つだけ、絶対に現実とは違っていると確信を持って言える記憶があります。
それは、僕と『僕』を含めた男女四人で遊びに行っている時の記憶です。メンバーから判断する限り、高校生の時のことなのだろうと思います。しかしその記憶は、絶対に現実にはありえなかったことだと断言できます。
僕には当時好きな女の子がいました。しかしその女の子には結局告白もしなかったし、一緒にどこかに行って遊んだということもありません。もしそんなことがあったとしたら自分の中で忘れるはずがないので、それは絶対だと言い切れます。
しかしその男女四人で遊びに行っている時の記憶というのは、一緒にいる女の子の内の一人が、当時僕が好きだった女の子なわけです。その女の子を含めた四人で遊びに行っているという記憶なわけです。そんなことは現実にはまず間違いなく起こりえなかったはずなのです。なのに、『僕』が出てくるその記憶の中では、僕はその女の子と一緒に遊んでいるということになっています。これは一体どういうことなのか、僕にはなんとも理解しがたいわけです。
記憶というものがそもそも曖昧であるということは僕だって充分分かっています。自分がしたはずのことを忘れてしまう、してないはずのことをしたと思い込む。もちろんそんなことは日常茶飯事でしょう。僕のこの記憶の齟齬だって、恐らくそんな他愛もない説明がついてしまうようなものであるだろうとは思うわけです。しかしその記憶を持っている方からしたら、やっぱり不思議は不思議です。今となっては特に深く考えることもなくなりましたが、この変な記憶を自分の中で発見した時は、自分はおかしくなってしまったのだろうかと少し不安になりました。自分の存在というのは、突き詰めて考えてみれば自分自身が持っている記憶によってのみ示されると言っても言い過ぎではないと僕は思います。その主軸たる記憶が不自然な齟齬を遺しているとなれば、不安に駆られずにはいられないと思います。
まあ実際どうだったのか、僕には結局よくわかりません。毎年高校時代の同級生から同窓会に誘われますが、それさえも毎年断り続けているくら旧友との接点がないので、何が正しいことだったのか検証することはほぼ不可能です。僕はこの変な記憶をずっと持ったまま、恐らくその謎が解明されることなく死んでいくことでしょう。まあそれが哀しいかと言われれば特にそんなこともないですけど、でも誰かがきっちりと説明をしてくれるのであれば嬉しいなと思ったりします。
記憶というものの曖昧さについては、物忘れぐらいの程度でしか実感することはないでしょう。しかし、恐らく記憶というのはもっと曖昧で不完全なものであると僕は思います。自分の中に歴然と居座っているその記憶が、絶対に正しいもの、自分の中で本当に起きたことであると証明するものはほぼないと言っていいでしょう。しかし僕らはその記憶を頼りにこれからも生きていくしかないわけです。何とも淡い存在ではないですか。いっそ爬虫類や昆虫のように明確な記憶を持たない生き物であったらよかったかもしれない…、とはまあさすがに思いませんけどね(笑)。
あまり記憶を過信しすぎない方がいいような気がします…、とこれは老婆心からのささやかなアドバイスです。
そろそろ内容に入ろうと思います。
ある日目が覚めた僕は、微妙な違和感に不信を抱く。確かにここは僕の部屋であるはずなのだけど、細部が微妙に違うような気がする。思わず外の風景を見る。やっぱり昨日までとはちょっとした差異があるような気がする。なんだろう。そういえば、どうも昨日自分が何をしていたのか思い出せない。酒でも飲みすぎただろうか。
しかし、寝室に行くと男が一人寝ているのを見つけて、その違和感に拍車を掛ける。どういうことだろう。この男の顔は…、見たことがないはずだ。見知らぬ男の部屋で目が覚めるなんて…。
しかしその後、これまで見つけてきた違和感などすべて吹っ飛ぶような驚くべき事実を僕は知ることになる。
鏡を見ると、自分が女性になっていることに気づく。
何だこれは!僕は大学生で、篠井有一であるはずだ。間違いない。僕は、僕の記憶は、自分が男であると確信している。しかし、今鏡の前に映っている自分はどこからどう見ても間違いなく女だ。どうなってるんだ、これは。
しかもさらに驚くべき事実を知ることになる。なんと僕は5年後の世界に来てしまったようなのだ!昨日までは1989年だったはずなのに、今年はもう1995年になっている。もちろん僕にはその間の記憶はない。
一体どうなっているのだろう…。さっぱり分からないが、キャッシュカードの名前から判断するに、この自分がいる女性の名はヒロヤマトモコと言うらしい。つまり僕は、このヒロヤマトモコという女性の体の中に記憶が移ってしまったのだろうか。あの映画「転校生」のように…。
自分に何が起こっているのか知るべく、僕は様々な手段を使って調べを進めていく。しかしそのさらに驚くべきことが判明する。篠井有一という、僕であるはずの人間が存在しているというのだ。どういうことだろうか。僕が篠井有一であるはずなのに、もう一人自分が存在するということになる。一体何が起こっているのだろうか…。
人格の入れ替わりというSFとしか思えない設定から始まるが、しかしSF的な解釈を一切使うことなくそれを見事に説明してみせるミステリーです。
これはなかなかすごいストーリーだと思いました。僕も読み始めでは、これはSF的な解決しかありえないだろう、と思っていたんですけど、最終的には現実的に『ありえる』話に持っていきました。もちろん、ストーリーのそこかしこに無理はあるし、こんなことが現実にありえるかと言えばありえないと思うのだけど、しかし御都合主意だろうがなんだろうが、人格の入れ替わりという無茶苦茶な設定を合理的な解決へと導いたその手腕はなかなかのものではないかと僕は思いました。
物語は多少複雑で、そこはまあ難点かなとは思います。いろんな人間がとにかく入り乱れていて、その中で謎はどんどん増えて行くわけで、ついていくのは結構大変かもしれません。
あと一点僕がちょっと残念に思った点は、突然女性になってしまった僕が、現実となかなか折り合いがつけられずいろいろミスしてしまうところをもう少し書いて欲しかった気がします。例えば、ベタですけど間違って男子便所に入ってしまうとか、そういうようなところをもう少し作中に取り入れれば、もう少しリアリティがあって面白みのある作品になったのではないかな、と思ったりしました。
全体的に話は淡々としていますが、まあなかなか楽しめる作品だと思いました。ただ残念なのは、恐らくこの作品、絶版なんだと思うんですよね。確かめたわけではないですけど、たぶん絶版なんじゃないかという気がします。読みたい方は、古本屋で探すか、あるいは図書館で探すかというのがいいかと思います。

そういえば言い忘れていました。文章の一番初めの文字を繋げて読むことが重要ですよ。

北川歩美「僕を殺した女」

やりたいことというのは、いつやっても楽しいということは決してない。
例えば子供の頃、いろいろ夢みたいなものを持っていたのではないかと思う。それが将来の夢という形であれば、いつか実現すればいいというものであると思う。しかし中にはそうでないものもある。
例えば、ケーキを1ホール丸々食べたい、という夢を持っていたとしよう。これはなかなか子供の頃は実現することは出来ない。親が1ホール丸々自分のために買って来てくれれば別だが、そんなことはなかなかない。自分で買おうにも、なかなかそれだけのお金はないし、それだけのお金があってもケーキ1ホールに使ってしまうのはもったいないと思ってしまう。だから子供のうちにこれを経験することはなかなか出来ないものだ。
しかし、大人になって自分で生活するようになれば、恐らく誰でも実現できるだろうと思う。ケーキ屋に行って、自分で買って来て食べればいい。お金にもかなり余裕があることだろう。何の問題もなく実現できてしまう。
しかし、大人になってから実現できたそれは、やはり何となく味気ないものになってしまうような気が僕にはするのだ。やっぱりそれは、是非とも子供の内に叶えておきたかった夢なのだ。夢というのは、叶えばいいというものではなく、いつどのようなタイミングで叶うかということも非常に重要になってくる。
結局のところそれは、どれだけハードルが高く見えるのか、ということと関係してくるのだと思う。子供の頃にケーキ1ホールというのはとんでもなくハードルが高いものだ。しかし大人になるとそのハードルはぐんと下がる。そうなると、達成した喜びというのもかなり減ってしまう。そういうことなのだろうと思う。
そもそも、何かやりたいと思うようなことは、それが出来ない環境の中で生まれる感情である。出来ないけどなんとか実現しようとするからこそ面白いのであり、それが簡単に出来るようになってしまってからでは、もはややりたいという気持ちも薄れてしまうものだろう。
さてまた、やりたいことというのはいつでもやれるわけでもないものである。先ほどは大人になればすぐ出来る話を書いたけど、今度はその逆である。
大人になるということは余分なものをいろいろと抱えるということである。まるで脂肪のように、僕らの体にまとわりついて離れない。
それは、常識だったり家族だったり自立だったり責任だったり会社だったりとまあいろいろあるのだけど、とにかくそういう様々なものが僕らにベタベタとくっついてくる。
僕はとにかくそういうものが全然ダメな人間で、そういうものからとにかく逃げようと努力しながら生きてきたのだけど、やっぱり逃げ切れるものではないなとも思う。僕は大学も辞めて普通の社会人の道も捨て家族とも疎遠になり自発的に人と交流を持つことをせずふらふらとバイトをしながら日々だらだら本を読んでいるようなダメ人間なのだけど、それでもそういう常識だとか自立だとか責任だとか言ったものからは完全に逃れることは出来ていないと思う。これは本当に難しくて、日本で生きている限り恐らく振り切ることは出来ないだろう。最近出た新書で、「日本を降りる若者たち」というのがあって、要するに日本を出て外国に「外こもり」する若者について書いた本らしいのだけど(未読です)、そういう風にして日本を降りでもしない限り、恐らく振り切ることは出来ないだろうと思います。
そういう大人になるとぶよぶよ纏わりついてくるようなものたちは、まさに脂肪のように僕らの動きを制限します。常識的に考えて常に正しい行動を取ることを求められるものだし、自立することが求められるので何でもかんでも自分でやらないといけなくなります。言動に責任を取れるようにしなくてはいけないし、何よりも会社や家族に迷惑を掛けないことが求められるわけです。これらをすべて満たしながら、なおかつ自分のやりたいことをやるというのは、本当に困難であると言わざるおえません。
まあかと言ってじゃあ子供の頃はどうかと言えば、これもなかなか難しいものです。一番の問題はお金で、とにかく何をするにもお金がありません。まあ昨今の子供は、一人っ子であることもあって小遣いが多かったり、あるいは株をやったり援助交際をやったりカツアゲをしたりで収入源があってかなりお金を持っているのかもしれないのだけど、まあそういうのはまだ特殊でしょう。大抵の子供は金欠にあえいでいるはずです。
それにまた、子供というのは責任が取れない存在でもあって、親が責任を取れる範囲でしか行動をすることが出来ないという制限もあります。親がどれだけ懐が広いのかによっても制限されてしまうわけです。
まあ子供の場合、やる子はやるという感じで、例えば前にテレビで見たことがあるのは、小学六年生の女の子が会社を興した、という話です。何でもある商品を発明したらしく、その商品を作って売る会社まで作ってしまったらしいのです。もちろん家族の協力あってのことなんでしょうけど、すげーなとか思いました。とは言え、そんなことが出来る子供も本当に少ないと言えるでしょう。
だから僕は本当に思うのだけど、やりたいことをやるのはタイミングが重要だよなということです。僕の場合、やりたいことというのは本当にないので実感としては乏しいのですけど、でも本作のような本を読んだりするとやっぱり思います。本作では、大学の探検部のメンバーで、コンゴというアフリカの小国で、ムベンベという幻獣を探そうとする話なのだけど、これは本当にタイミングがばっちりと合っていたからこそ実現できたのだろうと思うわけです。
まず探検部が刺激的な活動を求めていたということ。最近どうもこじんまりとした活動ばかりに終始していた感があったわけです。そこに、ムベンベという幻獣についての情報を持ってきた高野と高橋という男が出てくる。そしてその話に乗っかってくる連中がどんどん増えてくる。コンゴという国はなかなか外国人を入れたがらないのだけど、しかし入国も許可された。いろんな企業がスポンサーになってくれた。行ったら行ったで、メンバーそれぞれが個性的な役割を果たして、結果オーライでいろんな物事がそれなりにうまくまとまった。
というような流れが出来たからこそ、このムベンベ探しの冒険というのが実現したわけです。恐らく高野氏が今現在大学生だったとしたら、このムベンベ探しは実現しないのではないかと思います。というのも、この計画に名乗りを挙げそうな心意気のある若者がいなそうな気がするからです。とにかく仲間に恵まれたというのが一番のポイントだったかもしれません。
大抵やりたいことというのは実現しないまま終わってしまうような気がします。世の中では、やりたいと思い続ければいつかは実現する、みたいな綿菓子みたいなふわふわしたメッセージが流れることがよくありますが、それは成功者が話をしているからそうなるだけの話で、じゃあその影にどれだけ挫折した人がいるんだよ、と僕はいつも思うわけですけど、とにかくやりたいことを実現するのは難しいです。ただそれでもやりたいことがあるなら、それに向かって無理矢理にでも前進するしかありません。最近の若者はそういう熱さを持っていない人が多いような気がしますが、どうせ無理だろという諦めみたいなものがあるのかもしれません。まあこれだけ荒んだ社会なら仕方ないのかもしれませんけどね。いくらでも夢を持つことが出来た時代に生まれたというのもまた、彼らの成功の要因だったのかもしれません。
そろそろ内容に入ろうと思います。
本作は、その後日本で唯一の<辺境ライター>になる高野秀行の初の著作です。これは著者がまだ早稲田大学の学生だった頃に、当時在籍していた探検部のメンバーで行ったムベンベ探しの顛末を一冊の本にまとめたものです。
当時探検部では、もっと探検という名に相応しいことをしようではないか、という空気がありました。小っちゃいことじゃなくて、これぞ探検だ!と言えるものをやろうと。そこに、ムベンベの情報を手にした高野と高橋が演説を打ちます。コンゴまでムベンベを探しに行こうではないか!
ムベンベというのは、コンゴのテレ湖に棲むと言われている謎の生き物で、過去二度ほど調査隊が組まれたことがあります。その時にそのムベンベの姿を目撃したという話もあり、また現地の人も度々見かけているというのです。しかし何しろコンゴという国がまだよく分かっていない国であり、さらにその奥地にあるというテレ湖については正直全然何も分かっていないというようなありさまです。まさに秘境と言ってもよく、そんなところになら未知の生物もまだ残っていそうではないか、と思われたのだ。
高野と高橋はその後探検部内に「コンゴ・ドラゴン・プロジェクト(CDP)」を立ち上げ、本格的にコンゴ行きへ向けて準備をしていくことになる。探検部ないでメンバーを募り(また探検部外からも参加者が出てくるのだが)、日本で手にすることが可能なコンゴやムベンベに関する情報をとにかく集めた。しかし日本ではどうしても情報が少ない。そこでフランス語の本を集めて(コンゴはかつてフランスの植民地だったらしい)辞書を片手になんとか読み込んでいく。それでもコンゴやムベンベについてはよく分からない。とにかく情報が少なすぎるのである。
一方で、機材や医療品なんかも方々から集めた。水中音波探知機や高指向性マイク、ビデオカメラやトランシーバーなどの高性能な機材を、松下電器やソニーといった大企業と交渉して手に入れ、また専門家に話を聞いて必要だと思われる医療品を確保する。また動物学者に話を聞いたところ、コンゴでの生物の生態は未だによく分かっていないので、どんな生き物でも持ち帰ったら価値があるとのことなので、メンバーの一人は標本のやり方を学んだりもした。さらに最大の難関であるコンゴへの入国の交渉も続け、なんとか許可を得ることが出来た。
さてこれでやっとコンゴに行ける!ムベンベを探しに行けるぞ!探検部のメンバーは意気揚揚とコンゴへと向かうのだが、まあもちろんトラブルは尽きないのである。
という話です。
これまで読んだ高野秀行の作品の中では一番落ち着きのある(破天荒さに欠ける)作品ではありましたが、それでも充分に面白い作品だなと思いました。
とにかくすごいなと思ったのは、やはり著者である高野秀行ですね。当時大学生だったとは思えないほどの行動力と交渉力には本当にお見事というしかありません。
まずムベンベを探しに行こうと言った言い出しっぺであるし、もちろんCDPのリーダーです。コンゴという国と交渉したり、また企業と交渉して機材を揃えたりなんていうことも、なかなか出来るものではないと思います。しかし何よりも僕がすごいなと思ったのは、高野氏がフランス語を学ぶ件です。
ムベンベを探しに本格的に行動をするようになったのだけど、そもそもコンゴという国は公用語がフランス語である。高野氏は辞書さえあればフランス語は読めたが、会話はさっぱりダメだった。フランス語で会話が出来るようにならなくては、と思った高野氏はどうしたか。
ちょうど乗っていた電車で隣に座っていた女性がたまたまフランス人であることに気づいたので、その女性にフランス語を教えてもらえるように頼み込んだ、というのである。
このフランス語を学ぶ件は、本作の中でもたった10行程度しか触れられていないのだけど、これは凄くないか?と僕は思いました。だって、電車の中のまったく見知らぬ人に突然フランス語を教えて欲しい、と頼み込むわけです。普通の日本人ならまず無理でしょう。電車の中にいる見知らぬ人に、煙草を一本くれというのだってほぼ無理でしょう(まあ僕は煙草は吸いませんけど)。有名人とかであればまだ声を掛けられるかもしれないけど、ホントこの行動力には凄まじいものがあるなと僕は思いました。
あともう一つすごいなと思ったことが、コンゴに行ってからのある決断に関する話です。
コンゴのテレ湖に着くや、田村というメンバーの一人が恐らくマラリアであると思われる病気に罹ります。結局田村はテレ湖にいる間ずっとマラリアに苦しむことになるのですが、そこで高野氏を初めメンバーの誰も帰ろうという決断を下さないというのがすごいなと思いました。
テレ湖というのはとにかく一番近い村からも相当離れている場所で、もちろん医療機関なんか全然ありません。だから選択肢としては、テレ湖での調査をすべて諦めて田村を医療機関に入れる(様々な要因があって、田村だけを医療機関に入れるという選択肢は取れないわけです)か、あるいは田村には薬などを与えて何とか頑張ってもらうという二つの選択肢しかありません。
その中でメンバーは後者を選ぶわけです。これはちょっとすごいなと思いましたね。薄情というのでは決してないと思います。それよりも、テレ湖での調査をどうしても続けたい、どうしても諦め切れないという執念みたいなものが異常に強かったということなんだと思います。それにしても、マラリアで死ぬかもしれないメンバーをそのまま放置して(時々薬を与えるだけで、誰も話相手になってあげなかったらしい。田村も、あまりに日々ぼーっと湖を眺めているだけなので、一週間ぐらいで考えることもなくなってしまった、と述懐しているほど)、自分達はムベンベの調査を続ける神経というのもなんかすごいなと思いました。
また他のメンバーもなかなかすごくて、企業に機材を提供してもらう際、ソニーは広報の段階で断られたのだけど、当時会長だった井深大に直訴し許諾をもらったとか、楽天的なメンバーの中にあって唯一細かなところにまで気を配る男とか、コンゴ人に「あいつは宇宙人だよ」とまで言わしめた変人であるとか、とにかくどのメンバーもひと言で言えば「濃い」です。そんな奴等が10数人からいるわけで、とんでもない探検隊だなという感じです。
しかし本当にやりたいことを無邪気に実現しちゃったという部分ではとにかくすごいです。とにかくすごい。現地で様々なトラブルに見舞われるのだけど、それを高野が現地の言葉を操って無理矢理押さえ込んだりする。そうやってなんとかやりたいことを完遂させる。その真っ直ぐな熱みたいなものは羨ましいなと思いました。
現代では失われつつあるものが本作には残っているような気がします。まあそれを取り戻したいかは別として、是非読んで欲しいと思います。冒険魂に火がつくかもしれません。

高野秀行「幻獣ムベンベを追え」

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