黒夜行 (original) (raw)

いやー、ホントに、最初から最後まで最低だった。「映画が」とかではない。「描かれている現実が」である。

酷かった。

もしかしたら本作は、「良い話」と受け取られる可能性もあるかもしれない。主人公の風間彩人は、両親の念願だった店の借金を返し、さらに、「前頭側頭葉変性症」という、人格変化や行動障害を伴う病気になった母親の看病をしている。いや、それは「看病」と言えるようなものではない。食べ物を撒き散らし、止めようとすると暴れ、意思の疎通がかなり困難であり、彩人だけではなく、彩人の恋人の日向、彩人の弟の壮平も疲弊している。

しかし彩人は、「ヘルパーを呼ぶ」「施設に入れる」などの選択肢を強硬に拒絶する。どう考えても日常が成立していないにも拘らずである。日向も壮平も、彩人のその強い想いをある程度は理解しているようだ。そのため、「皆で疲弊する」みたいな生活が長いこと続いている。

彩人は、両親が残した店を継ぎ、毎晩酔客を相手にしている。日向は看護師として、夜勤の続く日々を過ごす。そして壮平は、タイトル戦を間近に控える総合格闘家であり、今はまさに減量の真っ最中である。

そんな、ギリギリのバランスで成り立っていた生活が、ついに崩れるタイミングが訪れる。日向に夜勤が続き、さらに、壮平は最後の追い込みのためにコーチの家にしばらく泊まり込みが決まったのだ。つまり、母親の面倒を看るのは彩人しかいないのである。

そしてそのタイミングで、学生時代からの友人・大和の結婚を祝う集まりが開かれることが決まった。夜の店を継いだ彩人は、いつもよりも早く店仕舞いをし、親友のお祝いに駆けつける……。

はずだった。

母親の扱いは、本当に大変だ。例えば本作には、彩人がスーパーの事務所で店長にお金を渡しているシーンが描かれる。初め、この描写の意味が分からなかった。「お金がなくて、毎月ツケで食料品を買っているのか」ととりあえず思っていたぐらいだ。

でも全然違った。実はこのお金は、「母親がスーパーで万引きしてしまう分を、あらかじめ支払っておく」という意味合いのお金なのである。スーパー側の協力あっての対応だが、やはりそれほどこの町では、彩人の大変さが伝わっているということなのだと思う。

さて、このシーンからはもう1つ判断できることがある。それは、「彩人が、母親の行動を無理に止めようとしない」ということだ。それが「前頭側頭葉変性症」の患者への正しい対応なのか、あるいは、彩人が母親に対する親愛の情からそのような対応にしているのか、それはよく分からない。ただ、彩人だけではなく、日向も壮平も同じような対応を取っているので、患者に対する正しい対応なのかもしれない。

まあどちらにしても、母親への対応はとにかく大変すぎる。彩人は「ほとんど表情がない」みたいな佇まいでずっと生きている。もう「表情を作る」みたいなことに使える労力など残っていないのだろう。

そういう、絶望的な状況が、最初から最後までずっと描かれていく。楽しい映画ではないし、救いもない。

そして僕は、そんな物語が描き出す現実を「不正解」と受け取るべきだと思うのだ。本作を「良い物語」と受け取ってはいけない。彩人は確かに頑張っていたし、その努力は報われてほしいと思うが、しかし、やはり彩人は「間違っていた」と思う。というか、「これは不正解でなければならない」という感じだろうか。こんなのが「正解」であっていいはずがない。

じゃあ、何が「正解」なのだろうか? それが問題だ。僕には、映画で描かれる現実が「正解」になる道筋が見えない。本当に、イヤな世の中だなと思う。

『若き見知らぬ者たち』というタイトルも、なかなかに示唆的である。つまり、「彩人のような人間はどこにでもいる」という意味を含んでいるのだと思う。幸いなことに、こんなクソみたいな現実は、僕の周囲にはない。運が良い。本当に、これはシンプルに「運」の問題だ。今風に言うなら「親ガチャ」だ。親ガチャに外れたら、どうしようもない。選択の余地などないのである。

フィクションであれドキュメンタリーであれ、映画でこういう「悲惨な現実」に触れることは結構ある。そしてその度に、「彼らの人生には、『マシな未来』の選択肢がどこかに転がっていたのだろうか?」と感じてしまう。もし選択肢があって、それを掴み損ねたというのであれば、多少「自己責任」的な要素もあるかもしれない。しかし僕には、どうしてもそんな風には思えない。採り得るすべての選択肢が「クソみたいな未来」にしか繋がっていなかったんじゃないか。そんな風にしか思えないのである。

そんな、「絶望」という名前を付ける以外にないような日常を踏ん張って生きる者たちの物語であり、鬱屈とした雰囲気のまま最後まで進んでいく映画である。

「日常」という意味で言うと、彩人も日向も壮平も、「母親が室内をグチャグチャにした様子」を目にしても、驚きもしない。以前、『ニトラム』という映画を観たが、その際にも同じことを感じた。あまりにも酷い日常が、ずっとずっとずっと続いてきたために、目の前の光景に感情が動かなくなっている様を。そういう描写もまた、彼らの人生の「クソサイテーな感じ」をリアルに抉り出している感じがあった。

彩人を演じるのは磯村勇斗。僕が観ている限りでは、『正欲』『月』、そして本作『若き見知らぬ者たち』と、かなりの難役を演じているイメージだ。もちろん「易しい役」なんてのは存在しないだろうが、磯村勇斗は、「人間の形を保つのが困難」と感じてしまうような境遇に置かれた人物を、「こういう人物も存在し得るかもしれない」というリアルさを感じさせる形で演じている。

本作でも、日向も壮平も、そして観客も、「彩人もういいよ、無理するな」と言いたくなるような状況にいる。しかし、日向はそんなことを言わないし、壮平は一度彩人と対峙する場面が描かれるが、それも「普段から口酸っぱく言っている」のではなく、「ずっと言わずに抑えてきたことを放出した」という雰囲気であり、だから壮平もいつもはそんなことを言っていないことが分かる(いや、もう一回言ってる場面があったか)。

普通なら、「そんな状況は成り立たない」と感じるのではないだろうか。母親が病気を発症してからどれぐらいの年月が経過しているのか分からないが、恐らくかなりの時間が経過しているはずだし、普通なら「そんな長期間に渡って身近な人以外の手を借りずに対処し続ける」なんてことは無理だと思うのだ。

でも磯村勇斗は、「彩人はそれをやり続けてきた」と感じさせるような佇まいでスクリーンの中にいる。やはりそのことに驚かされる。凄いものだなと思う。

さて、「驚かされた」と言えば、最後の総合格闘技のシーンもちょっと凄かった。壮平が控室を出てリングインし試合を終えるまでをワンカットで撮っていたと思う。僕の体感では、5分以上はカットが割られなかったように思う。

そういう作品は時々あるが、本作では「ガチで格闘技をやっているように見える映像」だったので、どうやって撮っているのか本当に不思議だった。ある程度の動きの演出はあるだろうけど、それにしたって、あれだけガチで闘ってるように見える試合運びをするためには、ガチガチに動きを固めるやり方では無理だと思う。ある程度2人の演者に動きが任されている部分もあったのではないだろうか。

しかしそうだとすると、2人の動きをずっとカメラが追い続けられているのも凄いと思う。「ある程度の予測不可能性を含めておかないと試合がリアルに見えない」が、「予測不可能性を含めるとカメラワークが難しくなる」という背反する要素をどう成り立たせているのかよく分からない。しかも、「本当に格闘技の試合をしているぐらいのエネルギーの消費量」だろうから、「ミスがあったから最初から撮り直し」みたいなこともしにくいだろう。その点を踏まえると余計、「一体このシーンはどう撮ったんだろう?」と感じられた。

まあそんなわけで、とにかくひたすら絶望的なシーンが続く作品であり、「面白いから観て」という風に進めることはなかなか難しい。というか、どんな文言で人に勧めたらいいのかなかなか難しいのだが、超理想的なことを言うと、「本作を観て、『こんな不正解は最悪だ』と感じる人が増えれば社会が少し変わるかも」なんて風になるだろうか。いや、やはり理想的に過ぎるな、それは。

「若き見知らぬ者たち」を観に行ってきました

いやー、途中までどうしたもんかと思っていたけど、最終的には面白い映画で良かった。しかし、前半は結構置いていかれたなぁ。全然意味が分からなかった。

友人が、「俺のオールタイムベスト級の作品が渋谷でやるから観てくれ」みたいなことを言ったので、この映画の存在を知った。相変わらず、散々映画を観ているくせに映画にまったく詳しくないので、どうやら有名な作品らしいこの『エターナル・サンシャイン』のことを、これまでまったく知らずに生きてきたようだ。20年前の公開かぁ。死ぬほど本読んでた時期だし、映画観る習慣なかったもんなぁ。

さて、その友人とは特に映画の趣味が合うわけではないのだけど、それはそれとして、基本的に「映画館で過去の名作が上映されたら可能な限り観るようにしている」というスタンスなので、本作も観てみることにした。

冒頭は、凄く分かりやすい。いや、ここにも「???」という違和感は無いではないんだけど、それはキャラクターの造形で上手く乗り越えている。冒頭からしばらくは、「偶然出会った男女がすぐに仲良くなり、恋に落ちていく」までの、よくありがちといえばありがちと言えるかもしれない展開である。ここで戸惑うことはない。

しかし作中で「ある事実」が明らかになってからは、「おいおい、今どうなってんねん」という感じだった。「ある事実」というのは別に伏せる必要はないと思うので書くと、「ラクーナ社が提供している『ピンポイントで記憶を消去できるサービス』」である。この物語世界では、このサービスは日常的に存在するようで、多くの人が当たり前に使っているらしい。

そして、冒頭で仲良くなる男女、ジョエルとクレメンタインが破局した後で、クレメンタインがこのサービスを使ってジョエルの記憶を消去した、という事実が明らかになるのだ。そしてそれを受けてジョエルも、腹いせにと、クレメンタインの記憶を消去する決断をするのだ。

で、ここからの展開が、2つの意味でややこしかしかった。

1つ目は割と僕の理解力の問題なのだが、「ジョエルの家で何が行われているのか、しばらくよく分からなかった」というのがある。いやもちろん、「ラクーナ社のスタッフが記憶の消去をしようとしている」ことは分かる。ただ、「どうしてジョエルの家でそれをやっているのか」や、「ジョエル宅を騙し討ちみたいに襲撃していた理由」が分からなかったのだ。

恐らくだが、「ジョエルの家でやっていた理由」は、ジョエルが順番を割り込んで無理やり早くやってもらおうと頼んだからだろう。それは後の方で「きっとそういうことだろう」と理解した。そして「襲撃していた理由」だが、きっとこれは僕の勘違いだと思う。展開が早すぎて僕にはそう思えたのだけど、後から振り返ると、ジョエルが薬(恐らく睡眠薬)を飲むシーンがあったから、ラクーナ社とは、「順番を早めるためには、あなたの自宅で行うしかない。そのため、家に帰ったら睡眠薬を飲んで寝ていてほしい」みたいな話がついていたのだろう。

ただその辺りのことはちゃんと説明されないので、僕には「ラクーナ社の人間が、不意をついてジョエル宅を襲撃し、無理やり記憶の消去をしようとしている」みたいに見えていて、だから「なんでそんなことするんだ?」としばらく理解できずにいた。まあ恐らく、こんなところで引っかかる人間はいないんだと思うが、前半はこの点でしばらく混乱していた。

そして2つ目は、僕だけではなく観ている人全員が困惑する部分だろう。「冒頭と話が繋がっていない問題」である。これもまた、混乱に拍車をかける要素だった。1つ目の理由で混乱しているところに、さらにこの「冒頭と話繋がってなくない?」問題が降り掛かってくるので、「おいおい、マジで訳わかんねー話だな」と思いながら観ていた。

ちなみに、この点は書いてもネタバレにはならないと思うが(そして、観る前に理解しておいても良いことだとは思うが)、この2つ目の問題は、後半できちんと解決する。しかし、かなりラストに近い方でのことなので、それまではずっと「どゆこと?」という感じになるだろう。ただ、この「解決」はなかなか絶妙で、前半で随所にあった「違和感」が、この「解決」によってちゃんと説明がつく。

さてそんなわけで、前半は結構混乱の中観ていたのだけど、徐々に状況が理解できるようになっていった。特に、「『脳内ジョエル』が、クレメンタインの記憶消去に抗うために奮闘する」という、本作の最も奇妙で最も面白い展開が明らかになってくるにつれて、徐々に混乱は収まっていった(映像的には、ここからますます混乱していくのだが)。

さて、「『脳内ジョエル』が、クレメンタインの記憶消去に抗うために奮闘する」についてもう少し説明しておこう。文字ではなかなか伝わらないとは思うが。

まず、実際のジョエルは部屋で寝ている(頭に装置を付けられて、記憶消去の真っ最中)なのだが、ジョエルの脳内にいるジョエル(これを「脳内ジョエル」と呼ぶことにしよう)は、「自分の部屋でラクーナ社のスタッフが自分の脳内からクレメンタインの記憶を消している最中である」と理解できている。そして「脳内ジョエル」は脳内で、「クレメンタインの記憶が少しずつ消えていく様」を体験していく。過去の様々な記憶が再現され、そこからクレメンタインが消えていくのである。

そして、そんな様子を何度も目にしたジョエルは少しずつ、「やっぱりクレメンタインの記憶を消したくない!!!」と思うようになる。しかし、時すでに遅し。ジョエルは寝ていて身体を動かせないし、「脳内ジョエル」が室内にいるラクーナ社のスタッフに意思を伝えることも出来ない。スタッフは、粛々とクレメンタインの記憶を消去していく。しかし「脳内ジョエル」は「脳内クレメンタイン」と協力し、「ラクーナ社のスタッフが知らない記憶領域に隠れる」という形で、どうにか記憶消去に抗おうとするが……。

というわけで、なんとなく伝わっただろうか? 観ていても結構混乱する設定だが、文字で説明しようとするともっと大変という感じで、「観てくれ」と言うしかなくなる作品という感じがする。

さてそんなわけで、「ストーリーがよく分かんない!」という混乱を抜けてからは、映像的には一層カオスになっていくのだけど、ただ「愛を貫こうとする男女のきらめき」みたいなものがぶん回されている感じがあって、爽快感がある。

しかしこの作品、あまり深く考えなければ「素敵な恋物語!」ってことになるんだけど、面白いのが、中盤以降映し出される恋模様って、「脳内ジョエル」と「脳内クレメンタイン」のものだってこと。「脳内ジョエル」と「ジョエル」はイコールと考えて良いけど、「脳内クレメンタイン」と「クレメンタイン」は決してイコールではない。つまり「ジョエル(脳内ジョエル)」は、「ジョエルの脳内で美化されたクレメンタイン」と恋をしているわけで、そりゃあ「きらめき」も満載だよなぁ、という感じになる。この設定が、個人的には秀逸に感じられた。

そうなると、「じゃあ現実はどうなのか?」とか「この物語どう終わるんだ?」みたいな話になってくると思うんだけど、この辺りもとても上手い。この物語、閉じるのメチャクチャ難しいと思うんだけど、それを「これしかない!」というやり方で終幕していて、この「物語の着地のさせ方」が絶妙だったことで、物語全体が一層良く見えているような感じもある。脚本はチャーリー・カウフマンという人だそうで、BunkamuraのHPの紹介には「唯一無二の脚本化」と書かれている。もちろん知らない人だが、凄い人なんだなぁと思う。

あと、「ジョエルの部屋で記憶消去を行っているスタッフが馬鹿騒ぎしている」という設定は必要なのか? と前半では感じていたのだけど、これもメチャクチャ必然性のある設定で、まさかそんな展開になるとは思ってなかったから驚いた。ホントに良く出来てる。たぶん、僕が気づいていないような繋がり・関連性・伏線みたいなものもあると思うんだけど、そういうのを見つけるのもきっと楽しいだろう。

しかしホント、観始めてからしばらくはどうなることかと思ったけど(あまりにも意味が分からなかったので)、実に良い作品だったなと思う。

「エターナル・サンシャイン」を観に行ってきました

まったく意味は分からなかったのだけど、メチャクチャ面白かったな、この映画。不思議だ。何が面白いのか全然分からないし説明も出来ないんだけど、面白い。なんか凄く「映画を観てるなぁ」という感覚になれた。ちなみに僕は、ヨルゴス・ランティモス監督の前作『哀れなるものたち』はあんまり面白くなくて、「うーん」って感じだった。というわけで、僕と同じように『哀れなるものたち』がダメだった人も、本作は観てみてもいいんじゃないかと思う。

本作は、まず構成がちょっと変わっている。タイトルにある通り3章の物語、つまり「まったく異なる3つの物語」で構成されているのだが、ただ、主要な登場人物を演じる役者は同じ面々である。僕がちゃんと知っているのはエマ・ストーンぐらいだが、彼女は、『R.M.F.の死』ではリタ、『R.M.F.は飛ぶ』ではリズ、そして『R.M.F.はサンドイッチを食べる』ではエミリーという名前で出てくるのである。ちなみにたまたまかもしれないが、「Lita」「Liz」「Emily」とすべて「L」が入っている。となると、ジェシー・プレモンスも役もそうかと思ったけど、「ロバート(Robert)」「ダニエル(Daniel)」「アンドリュー(Andrew)」と上手くいかなかった。「ダニエル」に「R」が入ってると、割と綺麗だったんだけど。

まあそんなことはどうでもいいのだけど、とにかく、「3つの物語において、同じ役者が、全然違う役として登場する」というのが本作の構成である。物語同士にはまったく繋がりがなく(少なくとも僕はそう理解した)、「役者が同じ」以外に共通点は特にない。実に変わった構成の物語である。

ただ、これは「共通点」と言えるようなものではないのだが、3つとも、実に奇妙な物語である。その奇妙さは、「ルールの分からないスポーツを鑑賞している」みたいな感じだろうか。「物語世界を支配する理屈が分からない」という感じで、登場人物たちの行動原理や目的がなかなか掴めない。物語を追っていくと、なんとなく理解できることもあるのだが、しかしその「理解」は「そういう理屈で物事が動いていることはとりあえず承知した」という程度のものであり、決して「納得」ではない。例えば「カバディ」というスポーツは「攻撃時に『カバディ』と言い続けなければならない」というルールになっている。この場合、「『カバディ』と言わなきゃいけないこと」は理解したが、しかし「何故『カバディ』と言わなければならないのか」という納得には至っていない。そういう感覚だと思ってもらえればいいだろう。

ただ、繰り返しになるが、164分もある長い物語は、最後までとても面白かった。本当に不思議だ。「ルールの分からないスポーツ」を観続けるのは普通は苦痛だと思うのだが、本作はそんな感覚にはならなかった。僕の場合、「エマ・ストーンが好き」とか「この監督の世界観はたまらん」とか「音響がメチャクチャ良かった」みたいな感覚はあまりないので、映画を観る時は大体シンプルに「ストーリー」を追っている。そして、「その肝心な『ストーリー』が意味不明な映画」が面白かったのだ。こんな奇妙な話を「面白い」と思わせる監督はちょっと凄いなと思う。

というわけで一旦、「ストーリーの意味不明さ」を理解してもらうために、内容を紹介しておこう。

『R.M.F.の死』
ロバートは深夜、車に乗ったまま待っていた。彼にはしなければならないことがある。そう、目の前を走り抜ける予定の車に全力で突っ込まなければならないのだ。ターゲットとなる車を確認し、彼はアクセルを踏んだ。そして、実際に車にぶつかりはしたのだが、それは十分と言えるような成果ではなかった。怖気付いて、アクセルを踏み切れなかったからだ。

翌日、レイモンドに呼ばれたロバートは、前日の不手際を謝罪した。しかし、レイモンドから改めて同じことをするように言われたロバートは、「他のことは何でもやるが、これだけは出来ない」と言って断ったのだ。10年の付き合いで、初めてのことである。レイモンドは、「2時間バーで考え直してから、改めて結果を伝えに来なさい」と言って去っていった。

これまでロバートは、レイモンドの指示した通りに生きてきた。妻のサラと付き合ったのも、セックスはするが子どもは作らなかったのも、住む家も、すべてレイモンドの指示だった。それでロバートは、あらゆるものを手にすることが出来たし、不自由のない生活が約束されていた。

しかし2時間後、ロバートは改めてレイモンドに依頼を断ることに決めた。のだが……。

『R.M.F.は飛ぶ』
警察官のダニエルは、気もそぞろのまま仕事をしていた。海洋研究者である妻リズが、他の研究者と共に船に乗って出かけた後行方不明になってしまったのだ。同僚のニールとその妻はダニエルのことを心配してくれている。彼らは、4人で乱交を楽しむ仲なのだ。

そんなある日、妻が無事発見されたと知らせを受ける。実に幸運だった。5人のメンバーの内3人は死亡、1人は片脚の切断を余儀なくされたが、リズは衰弱こそしていたものの、外傷もなく助け出されたからだ。

しかし、妻の帰りを待ちわびたダニエルは、リズに対する違和感を募らせていく。失踪前は履けていた靴に足が入らなかったり、「僕の一番好きな曲を掛けて」と車で頼んだ時にも一番ではない曲をセレクトしたのである。

ダニエルは思う。妻の姿形をしたこの女は、一体誰なんだ、と。

『R.M.F.はサンドイッチを食べる』
アンドリューとエミリーの2人は、ある女性を探している。分かっていることは多くはない。双子で、一方は既に亡くなっている。それぐらいだ。しかしエミリーには「見れば分かる」という確信があった。夢で観た、プールの底の排水口に髪が挟まった自分を助けてくれたシンクロナイズドスイミングの双子こそ、探している人物なのだと。

2人は、いつも水を持ち歩いている。持参している水以外は飲まないようだ。それは、彼らが慕う夫妻の涙が混じった水であり、2人を含む数十人のメンバーが共同生活を行っている。エミリーには実は夫と娘がいるのだが、彼らの元から失踪し、今はこの集団の中で生活をしている。

しかしエミリーは、こっそりと本来の自宅に戻っては、娘へのプレゼントをベッドに置いたりしている。彼女が共同生活をしている集団は「穢れ」を嫌うため、「涙入りの水」を飲まない人たちとは距離を置かなければならず、彼女の行為は本来であれば認められないのだが、そのことを察しているアンドリューは黙認している。

そんなある日、ダイナーで食事をしていると、見知らぬ女性から「あなたたちが探しているのは、私の双子の姉よ」と言われ……。

というような話です。

自分で書いていてもまったく意味が分からないし、読んでいる人も全然理解できないだろう。そして、観たって別に分からない。「物語がどこかに着地する」みたいなことが別にないのだけど、それでも惹きつける何かがあるのが凄い。しかも、3つの物語はすべて全然違う話なのだけど、「全体のトーン」は共通している感じも凄いなと思う。こんな訳わからん物語を3つも作ってたら、「てんでばらばらの雰囲気」になってもおかしくないと思うのだけど、本作は3つの物語の「統一感」みたいなものが凄くて、「よくもまあ、こんな似たようなトーンの奇妙な物語を3つも揃えたものだ」という感じになった。凄いものだ。

さて、その「トーン」は色んな要素によって生み出されているとは思うのだけど、物語のベースとなる設定の部分で言えば、「『人知を超えた何か』に対する畏怖」みたいなことが共通しているような気はした。まあ「一神教の国で作った映画」という先入観もあるのだけど。

『R.M.F.の死』では「すべての選択肢を与え続ける男」、『R.M.F.は飛ぶ』では「リズに姿形を似せてやってきた謎の存在」、そして『R.M.F.はサンドイッチを食べる』では「『水』を介して信者を支配する教祖」が「人知を超えた何か」に該当すると思うのだけど、それらに対する恐怖、無力感、信頼、畏敬、諦念、みたいなものが、どの物語にも通底している感じがあった。それがなんとなく「同じようなトーン」を生んでいるのではないかという気がする。

どの話も、割と狂気じみた感じで終わるのだけど、やはり2番目の『R.M.F.は飛ぶ』が凄かったなぁ。「まさかな」と思いながら観てたけど、そのまさかが実際に起こって、「すげぇことするな」って感じだった。普通なら、物語のラストとしてまず成立しないと思うのだけど、本作の場合、そこまでに積み上げてきた不穏な感じがちゃんと利いていて、「むしろこれ以外のラストはないだろう」という気分にさせられる。これ、脚本の段階で役者たちはどんな風に捉えたんだろうなぁ。映像とか音響ありきで成立しているはずだから、文字だけだと「いやいや、無理でしょ」みたいな感じになりそうな気がする。まあ、「監督を信頼しているから」ということでその辺りもクリアされたんだろうけど。

「監督を信頼している」と言えば、邦題も凄いなと思う。『憐れみの3章』って、「3つ物語があるよ」以上のことをほぼ伝えていない。しかも原題は『KINDS OF KINDNESS』で「3章」に相当するような要素はない。そういう中で『憐れみの3章』ってタイトルにGOサインが出たのは、「この監督・役者なら、どんなタイトルでもお客さんは来るだろう」的な感覚があるからだと思う。

ちなみに「KINDS OF KINDNESS」は直訳すると「親切の種類」という意味になるそうだ。まあ、それはそれで意味が分からない。本作中で「親切」が描かれているかと言われると、なかなか悩ましい。むしろ「親切」からは遠い極にあるものがたくさん描かれている感じさえするだろう。そう考えると、邦題の「憐れみ」の方がしっくりくる感じはある。というかむしろ、前作の「哀れなるものたち」の方がタイトルとしてぴったりかもしれないが。

さて、前作『哀れなるものたち』では、エマ・ストーンは「改造人間」みたいな設定であり、だからあまり表情のことは意識されなかったのだけど、本作では割とずっと「エマ・ストーンって良い顔するなぁ」と思っていた。確かに「綺麗な顔」だと思うけど、そういうことではなくて、「良い顔だなぁ」という感覚である。伝わるかよく分からないが。

あと、唯一のアジア人(ホン・チャウという女優らしい)の人、どっかで観たことあるなと思ったら、映画『ザ・ホエール』の人だと思い出した。ただ、これは別に人種差別のつもりはない(ってかそもそも僕がアジア人だし)のだけど、本作の物語にはちょっと「アジア人」はあまりしっくり来なかった気がする。1つの物語の中にアジア人が出てくるのは変ではないのだけど、3つすべてにアジア人が出てくるのはちょっとしっくり来なかったというカンジダ。

彼女の演技が悪かったとかそういう意味では全然なくて、アジア人じゃなくても良かったんじゃないかな、という気がする。ただ最近は、多様性を意識しないと賞レースのノミネートにそもそも残らないみたいな話も聞いたことがあるし、そういう理由もあったりするのかなと思ったりはするのだけど。この辺りはなかなか難しい問題である。

まあそんなわけで、全然意味不明だったのだけど、面白かった。全然もう一回観れるぐらいの感じはあるし、「良い映画を観たなぁ」という感覚が残る作品だった。観て良かったなぁ、これは。

「憐れみの3章」を観に行ってきました

なかなか面白い「モキュメンタリー(フェイクドキュメンタリー)」だった。本作は、「1977年のハロウィンの夜に生放送された番組のマスターテープが最近見つかった」という設定をベースにしており、『ナイト・オウルズ(Night Owls)』というその番組の遍歴をまとめたVTRの後、「悪魔と夜ふかし」と題されたハロウィンの夜の番組の映像を、CM中の舞台裏の映像も含めて1本の映画にまとめた、というものだ。もちろん、『ナイト・オウルズ』なんて番組は存在しないわけで、設定はすべて嘘なのだが、「ハロウィンの夜に生放送された番組」の作りがとてもリアルで、「本当にこんな番組が存在したんじゃないか」という気分にさせてくれる。

公式HPによると、「1970年代に存在した怪しげなテレビ番組の雰囲気」を出すのに最も苦労したとのこと。そのため、映画の撮影を「実際の生放送を収録しているかのように行った」そうだ。かなりリアリティにこだわった作品と言えるだろう。ちなみに、「Owl」とは「フクロウ」のことで、「Night Owls」は英語のスラングで「夜ふかしすること」を意味するそうだ。

では、まずは「ナイト・オウルズ」という番組の遍歴について紹介していこう。

1971年4月4日に始まったこの番組は、人気のラジオアナであるジャック・デルロイの司会の元、インタビュー・音楽・コントなどで構成される深夜の番組だった。観客を入れた生放送で、音響は基本的に、スタジオにいる生バンドが担っている。番組はすぐに人気になり、「週に5夜、彼は国民を不安にさせた」ほどだった。また、同番組を放送するUBCはジャックと5年契約を結んだ。毎年エミー賞の候補に上がり、彼はこのまま「深夜の帝王」を目指そうと考えていたのである。

そんな彼を支えたのは女優のマデリン・パイパー。芸能界屈指のおしどり夫婦と言われており、その仲はよく知られていた。しかし彼にはもう1つ、支えとなる存在があった。それが、「グローブ」という名の紳士クラブである。

1800年代に創立されたこの謎の団体との関わりはラジオ時代から噂されており、同団体には政治家や実業家など有力者が多く参加していた。「金持ちのサマーキャンプ」と呼ばれる奇妙な儀式を繰り返すなど謎の多い団体だったが、影響力も大きく、ジャックもこの「グローブ」と関わりがあると目されていたのである。

さて、鳴り物入りで始まった『ナイト・オウルズ』と司会者ジャックはどうなったのか。実は4年経っても、裏番組(「カーソン」という人物が司会を務めているようだ)に視聴率で負けていた。このままでは「負け組」のイメージがついてしまうと焦っていたところに、ジャックの世界を根底から揺るがす大事件が起こる。1976年9月、喫煙の習慣のない妻がなんと末期の肺がんと診断されたのだ。そんな中ジャックは、病弱な妻を番組に出演させることに決めた。そしてその放送回は、番組史上最高の視聴率を叩き出したが、惜しくもカーソンに1ポイント負けてしまった。その放送の2週間後、マデリンはこの世を去った。

最愛の妻を喪い、また番組の視聴率も低迷していたこともあり、ジャックは1ヶ月行方をくらませた。しかしその後復帰、また番組作りの精を出すのだが、なかなか結果は付いてこない。打ち切りも噂されていたぐらいだ。

そんな中放送されたのが「悪魔と夜ふかし」だった、というわけだ。

さて、そんな「悪魔と夜ふかし」は、主に3つの要素で構成されていた。1つは、「霊聴師」「奇跡の人」などと呼ばれていたスピリチュアリストのクリストゥ。彼は「霊の声が聴こえる」と言って、観客と対話をしながら、死者の声を届けるというパフォーマンスをする。そしてその次に出てくるのが、カーマケル・ヘイグ。元々はラスベガスなどでも人気を博す「ショービズ界の至宝」と呼ばれたマジシャンであり、彼の「集団催眠」についてジャックは「前代未聞」と評していたが、現在はショーの世界から引退している。今は「IFSIP(超常現象科学的調査国際連盟)」という団体に所属しており、「超常現象の存在を科学的に研究しつつ、超常現象を謳うエセ連中のトリックを暴き出す」という活動を行っている。カーマケルは、この日行われるデモンストレーションにどのようなトリックがあるのか見破る存在として呼ばれている。

そして、最も重要なのが、悪魔を召喚できるという少女リリーと、彼女の治療を担当しているジューン・ロスミッチェル博士である。ジャックがジューンの著書『悪魔との対話』を読んで衝撃を受けスタジオに呼ぶことにしたという、ジャック肝いりの企画である。

リリーは、3年前に保護された少女だった。彼女は、悪魔崇拝者であるサンダー・ディアボが率いるカルト集団「アブラクサス第一教会」に「生贄」として囚われていた。彼らは「犠牲さえ払えば何でも手に入る」みたいな思想を抱いており、その「犠牲」として子どもたちを悪魔に差し出していると噂されていたのである。

「アブラクサス第一教会」はFBIもマークしており、誘拐や銃犯罪に関与が疑われていたのだが、1974年8月に、教団施設で警察との銃撃戦が始まった。3日間の膠着状態の後、サンダーは信者たちに「家と身体にガソリンをかけろ」と指示、そのまま信者のほとんどが命を落とした。

しかしその現場から奇跡的に救い出された少女がいたのだ。それが、当時10歳だったリリーである。しかし彼女の扱いにFBIも手を焼いていた。どうにもまともなコミュニケーションが取れないのである。そこで、スタンフォード大学で超心理学の博士号を取得したジューンに話がやってきた。彼女はリリーに催眠退行の治療を施し、長い時間を掛けて信頼関係を築いてきた。そしてその過程でジューンは、「リリーの中には悪魔が憑いている」ことに気づいたのである。その悪魔は「アブラクサスの下僕」だそうで、リリー自身は「リグリス(もぞもぞ)」と呼んでいるという。もぞもぞとやってきて、もぞもぞと去っていくからだ。

こうしてリリーは、生放送の場で「悪魔の召喚」を行うことにするのだが……。

さて、物語の設定としてはこんな感じである。あとはとにかく、「『ナイト・オウルズ』という番組を楽しみましょう」という感じの作品です。「実際にこんな深夜番組が放送されててもおかしくないだろうなぁ」というなかなか軽妙な番組で、一応テイストとしては「ホラー」ではありますが、全体的には楽しく観られるんじゃないかと思います。

また本作のもう1つ面白いポイントは、「CM中の舞台裏がモノクロの映像で流れる」ということでしょう。舞台裏の様子については、生放送番組のマスターテープのように映像が残っていたという設定にするのはなかなか難しいと思うので、それで「モノクロ」にして「ここはちょっと違いますよ」ということが伝わる形にしているのだと思う。

さて、舞台裏では「トラブルへの対処」や「スタッフの説得」など色んな様子が映し出されるのだが、割とゲスい話が出てくるのも面白い。真相ははっきりとは分からないものの「番組で放送しているデモンストレーションが”ヤラセ”であることを示唆するような場面もあるし、あるいは、現在番組のメインスポンサーになってくれているキャベンディッシュの会長夫妻が観覧に来ていることに対する対応をプロデューサーと検討するようなやり取りもある。そもそもこの「悪魔と夜ふかし」と題したハロウィンの夜の番組も、低迷する番組の起死回生の策として放送しているわけで、映画『悪魔と夜ふかし』を観ている観客としても、「どれがホントの出来事で、どれが視聴率のためのヤラセなのか」がよく分からない感じで観ることになる。その辺りの判然としない雰囲気も、作品の雰囲気と凄く合っていて、良かったなと思う。

最後の最後だけ、ちょっと「???」となるのだが、もしかしたらここは考察しがいのあるポイントだったりするのかもしれない。ちょっと僕には上手くは汲み取れなかったが、「悪魔とジャックのやり取り」を踏まえると、「はっきりとは説明されないが、この背後には何かある」という感じがするし、考察が得意な人には、描かれた要素から何か見えているものがあるのかもしれない。

まあそんなわけで、かなりリアルに作り込まれたモキュメンタリーで、エンタメ作品としてシンプルに面白かったなと思います。

さて最後に。映画の冒頭で「色んな制作会社の短い動画」が流れると思うが、その中に「Future Pictures since 2068」と表示されるものがあった。「since 2068」という表記に「???」となったのでメモしておいたのだが、ネットで調べるとそういう制作会社が存在するそうだ。しかし「since 2068」の意味はよく分からなかった。僕のように「違和感を覚えて気になって調べる人を増やそう」とする戦略だろうか。まあいいんだけど。

「悪魔と夜ふかし」を観に行ってきました

実にシンプルな物語だけど、とても気持ちの良い物語だった。誰もが「良い映画だよね」と言うだろうし、人にも勧めやすい。さすが「名作」と言われているだけのことはあるなと思う。

しかも本作は、恐らく現代ではちょっと成り立たないだろう。というか、本作は2000年制作の映画なのだが、物語の舞台は1984年である。「1984年」という数字に意味があるのか(例えば、ジョージ・オーウェルの『1984』と関係があるのか)はよく分からないが、恐らく「2000年が舞台だと成り立たない物語」だったんじゃないかと思う。それは「炭鉱の町でストが起きている」という、割と本作の根幹となる設定にも絡んでくるのだが、もう1つ、「バレエは女がやることだ」という感覚もまた、2000年のイギリスではもう通用しなかったんじゃないかという気がする(これは僕の勝手な予想だが)。

そう、本作は、「男はバレエなんかするな!」という、マチズモ全開の世界観で展開されるからこそ良いのであって、そういう舞台設定なども含めて良かったなと思う。

というわけで、まずは内容の紹介をしよう。

ダーラムという貧しい炭鉱の町に生まれ育った11歳のビリー。普段は、ちょっとボケ始めているのだろう祖母の世話をしたり、近所のボクシングジムに通って弱っちい姿をさらしたりする、どこにでもいる少年である。母親は、どうやら病気で亡くなったらしい。今は、祖母と、炭鉱で働く父と兄の4人で暮らしている。

しかし、その炭鉱が大変だ。経営側と労働組合の条件交渉が折り合わなかったのだろう、労働組合はストに踏み切った。兄のトニーはストのリーダーであるようで、ピケを張ったり、組合の取り組みを破って鉱山にバスで向かう「スト破り」に卵を投げつけたりと忙しい。サッチャー首相が、「炭鉱でのストは、国家に背く行為だ」と発言するなど、イギリス全体で問題になっていた。

しかしビリーには、そんな大人の世界は関係ない。彼は、仲の良い友人マイケルが嫌がるボクシングジムに通い、全然強くなくて逃げたり倒されたりしているばかりなのに、ボクシングを頑張って続けようと思っている。

というのも、ビリーが使っているボロボロのグローブは、祖父が使っていたもので、父から子の3代に渡って受け継がれているのだ。つまり、ビリーがボクシングを頑張る理由は、「父親がそれを望んでいるから」なのである。

しかしある日、思わぬ出来事が起こった。ストのために部屋が必要だったのだろう、階下で行われていたバレエの練習を、ボクシングジムの半分を使って行うことが決まったのだ。ビリーはボクシングの居残り練習をさせられており、ジムの鍵はバレエのウィルキンソン先生に返すように言われた。そして鍵を返そうとバレエの集団の方に近づくと、先生の娘デビーから「踊ったら?」と言われ、そのまま女子の練習に参加することにしたのである。

ボクシングもバレエも、週に50ペンス支払う必要があった。お金のないビリーには、両方は無理だ。でもビリーは、バレエがやりたくなっていた。そこで、父親には内緒で、ボクシング用にもらっていた50ペンスをバレエの先生に支払い、そのままバレエの練習を続けたのである。彼は図書館で、「小学生には貸せない」と言われたバレエの本をこっそり持ち出し、家でターンの練習をするなど、バレエにのめり込んでいった。

しかし当然、そんな状態が長く続くはずもない。父・ジャッキーは、仲の良いボクシングジムの先生から、「50ペンス払えないなら無料でもいいんだぜ」と言われる。ジャッキーには意味が分からない。どうやらビリーは、しばらくボクシングジムを休んでいるようなのだ。そこで様子を観に行くと、息子がなんと女子たちに混じってバレエを踊っている。

父親としては、まったく許容できなかった。そこでビリーに「止めろ」と諭すが、ビリーは聞かない。「理由は?」と聞いても口にしない父親に代わって、ビリーは自ら、「バレエをやってるからって、オカマじゃない」と口にする。しかしそれでも父親の気持ちは変わらず、「お前はバレエもボクシングも止めて、家でばあ様の面倒を見ろ」と突きつけた。

さすがに父親には逆らえないビリーは、こっそりとウィルキンソン先生の家へと向かい、父親が反対するから辞めようと思ってるという話をする。それを聞くと先生は「残念だ…」と零す。その言葉を聞きとがめたビリーがさらに聞くと、「素質があるから、バレエ学校のオーディションを受けてみないかと思っていたの」と言われた。

こうして2人は、こっそりバレエの練習を続けることにするのだが……。

物語は全体的に予想通りに進んでいくし、特に驚くような展開もない。ただ、「家族に理解されないけれども、バレエに魅入られてしまったビリーの情熱」や、「炭鉱のストを背景にした父親の思いがけない行動」など、ぐっと来る人間ドラマが盛り込まれていて、凄く良い。特に、父親は良かったなぁ。と書くと若干ネタバレ的なことにもなってしまうかもしれないが、そうだとしても「父親が具体的にどんな行動を取るのか」までは分からないと思うのでいいだろう。

しかし、「炭鉱のスト」が物語にここまで密接に絡んでくるとは思わなかった。「バレエに打ち込むビリー」と「父と兄が積極的に関係しているスト」は、あまり関わりがなさそうに思えるだろうが、特に後半に入ると、物語は主に「ストに関係する出来事」によって動いていくことになる。ビリーが窮地に陥るのも、父親が思いがけない行動を取るのも、「スト」という背景があるからこそである。またそもそも、ビリーがバレエと出会うきっかけも、結局「スト」に関係している。その舞台設定の使い方が凄く良かったなと思う。

まあ、現代の感覚からすると、「ビリーが頑張ったから家族が認めてくれた」的な展開はあまりにもシンプルすぎて、現代に作られた映画だったらこれほど良くは感じられないかもしれない。そういう部分もまた、「昔の名作」でこの物語が描かれていることの良さかなという感じがする。

あと個人的に凄く印象的だったのが、バレエの先生の娘デビーとの会話だ。正直、「えっ?」と思うようなやり取りをしていて、作品全体の中でちょっと異質に感じられた。「見せなくたって好きだよ」は良い返しだなと思ったけど。ただ、イギリス人の感覚的には、これぐらいの会話は普通なのかもしれない。その辺りがよく分からないが、作中ではそこまで重要な人物としては出てこないデビーが、メチャクチャ強烈な印象を残していたなと思う。

そんなわけで、物語的にはムチャクチャシンプルだし、「予想した通りに展開する」というような作品だと思うけど、やっぱりシンプルな王道が一番強いよねということを実感させる物語でもある。しかしホント、父親が心変わりして思いがけない行動を取ったシーンは感動的だったなぁ。

「リトル・ダンサー デジタルリマスター版」を観に行ってきました

ドキュメンタリー映画も良かったなぁ。凄く良かった。本編でも「アクションの凄さ」と「主演2人の関係の良さ」が伝わってきたが、ドキュメンタリー映画からもさらにそれが伝わってきた。観て良かったなぁ。

ちなみに、先に書いておくと、僕は「ベイビーわるきゅーれ」の存在をつい最近知ったので、第3弾である『ナイスデイズ』しか観ていない。基本的に、映画館でしか映画を観ないという主義で生きているので、1・2はまた何か機会があったら観てみようと思う。

さて、色々と書きたいことはあるのだけど、まず、映画の冒頭でいくつか興味深いエピソードが紹介されていたので、まずはその辺りの話から始めよう。

というわけで最初は、「ベイビーわるきゅーれのシリーズが誕生したきっかけ」について。エグゼクティブプロデューサーである鈴木祐介はそれを「偶然」と表現していたのだが、確かに話を聞いてみると「偶然」と言いたくなるようなエピソードだった。

物語は、「ベイビーわるきゅーれ」シリーズの監督である阪元裕吾が2021年に発表した映画『ある用務員』まで遡る。投じ、この映画の編集をしていた監督のパソコンが壊れてしまい、鈴木祐介の会社に編集のために来ていたそうだ。当時たまたま、鈴木祐介の前の席が空いており、阪元裕吾はそこで編集をしていたのだが、鈴木祐介がタバコを吸いに行こうと思った時に、たまたまあるシーンが目に入ったという。

それが、『ある用務員』に出演していた髙石あかりと伊澤彩織の2人のシーンだった。

そのシーンがとても印象的だったため(僕は『ある用務員』を観ていないので、それがどんなシーンなのか知らないが)、鈴木祐介は阪元裕吾に「時間が出来たらでいいから、この2人の脚本を書いてくれない?」と言ったというそこから「ベイビーわるきゅーれ」というシリーズが始まっていったのである。確かに「偶然」と言いたくなるようなエピソードではないだろうか。

さてもう1つ。今度は、杉本ちさとを演じる髙石あかりについて。本作は、アクションパートを園村健介というアクション監督に一任しているそうなのだが、彼も本作ドキュメンタリーに出演している。そして、「第3弾で思いがけず杉本ちさとのアクションシーンが増えた理由」を語っていた。

彼は、もちろんシリーズの最初からアクション監督として関わっているわけだが、どうしてか、「1・2で、杉本ちさとが結構アクションをやっていた」みたいに勘違いしていたそうだ。そこで第3弾となる『ナイスデイズ』でもアクションをモリモリにしてみたらしいのだが、実はそれまでのシリーズでは、伊澤彩織演じる深川まひろが「アクション担当」という感じだったそうで、杉本ちさとのアクションシーンは決して多くなかったのである。

ただ、園村健介も驚いたらしいのだが、髙石あかりはモリモリに増やしたアクションシーンを、割と難なくこなしていったのだそうだ。不思議に思って彼は、「どこかでアクションの練習とかしてたりするの?」と髙石あかりに聞いてみたらしいのだが、「いや、全然!」みたいな反応だったという。

先ほど書いた通り、僕は第3弾しか観ていないので、「本職じゃないはずなのに、この髙石あかりって女優もアクションメチャクチャ凄いな」と思っていたし、当然、シリーズ1・2でも同じぐらいのアクションをしているものだと思っていたのだけど、全然そんなことはなかったみたいだ。本編を観た時も驚いたが、本作ドキュメンタリー映画を観て、改めて「髙石あかりすげぇ」ってなった。

ちなみに、園村健介が本シリーズのアクション監督を務めることになったのは、伊澤彩織から「私が主演の映画があるから、アクション監督やって下さいよー」みたいに言われたからだそうだ。元々伊澤彩織とは関わりがあったそうで、それで声を掛けてくれたということだったが、園村健介はこのシリーズに関わるきっかけをくれた伊澤彩織に感謝していると言っていたし、だからこそ、もしかしたら「集大成」になるかもしれない『ナイスデイズ』では、伊澤彩織(深川まひろ)にとっての「集大成」となるようなアクションにしようと思っていた、と言っていた。

そのアクションは、本編『ナイスデイズ』を観た時にも驚かされたのだけど、ドキュメンタリー映画でそのメイキングを観ていてもやっぱりビックリさせられた。今から僕は、とてつもなく当たり前のことを言うのだが、「ホントにアクションやってるんだ」と思った。もちろん、カットを割ってそれを繋いでいるわけだが、にしてもかなりの長さをワンカットで撮っている。ホントに、「後から音を足しただけ」という感じで、「マジでこんなことをリアルでやってるんだなぁ」と驚かされてしまった。

さて、髙石あかりのアクションにビックリしたことは確かなのだが、やはり『ナイスデイズ』では伊澤彩織演じる深川まひろと、池松壮亮演じる冬村かえでの闘いが圧倒的だった。そして、もちろん「スタントパフォーマー」という肩書を持つ伊澤彩織のアクションが圧倒的だったわけだが、池松壮亮がとにかく凄かった。

池松壮亮はたぶん、これまでそんなに本格的なアクションをやっていなかったと思うし、仮にやっていたとしても、「ベイビーわるきゅーれ」はアクションが世界レベルと言われているので、これほどのレベルのアクションに触れたことはまずないんじゃないかと思う。にも拘らず、本作では伊澤彩織と対等に見える(もちろん、あくまでも「見える」だとは思うが)アクションを披露していた。凄いなぁ、この人。

しかも、なんとなく「アクション監督の園村健介が色々教えたんだろう」と勝手に思っていたのだが、本作ドキュメンタリーを観て「どうもそうでもなさそうだぞ」と感じた。というのも、園村健介が、「池松さんはたぶん、ネットで色々見て練習して、でも試せる相手もいないから、この現場で色々試行錯誤してるんだと思う」みたいなことを言っていて、「えっ、自力でここまでたどり着いたん?」みたいな感じだった。ホント役者というのは、「役作り」になるとえげつない能力を発揮するものだなと思う。

ただ、身体作りや動きのキレなどはまあともかくとして、「ベイビーわるきゅーれ」のアクションに関しては、ちょっと普通とは違う部分があるそうだ。これは本作で言及されていたわけではなく、ネットで見つけたインタビュー記事の中で触れられていたことだ。

https://www.pintscope.com/interview/takaishi-izawa-ikematsu/

アクションというのは普通、「身体の動き」がメインで作られる。「スタントパフォーマー」として色んな映画のアクション部に所属していた伊澤彩織も、そのような認識でいるそうだ。しかし「ベイビーわるきゅーれ」の場合は、監督の阪元裕吾が「アクションにおける感情の動き」を言語化し、それを元にアクション監督である園村健介が動きを付けていくのだという。だから「ベイビーわるきゅーれ」のアクションでは「感情の流れ」が重視されているのだそうだ。

そしてそれを聞いて、「なるほど、そうだとしたら、動きを覚えやすいのかもしれないな」と思ったりもした。

僕は将棋が好きで(下手の横好きだが)、将棋の本を読むことも結構多いのだが、以前羽生善治が何かの著作の中で面白い言及をしていた。棋士というのは対戦が終わると、「感想戦」といって、頭からその日の対局の駒の動きを再現する。将棋は100手以上にも及ぶので、凡人には「よくそんな長い打ち手を覚えていられるな」と思うが、羽生善治は「棋士同士であれば、打ち手にはちゃんと意図があるから覚えられるんですよ」と言っていた。

そして比較のために話していたのが、将棋を詳しく知らない小学生との対局。棋士は普通、「この場面だったら相手はこう打ってくるよな」と考えて将棋を指しているわけだが、ルールや戦略に詳しくない小学生の場合、予想もしない手を打ってくる。だから、そういうことをされると、「感想戦」のように初手から再現するのは難しいかもしれない、ということだった。

これはもしかしたら、アクションにも同じことが言えるんじゃないかと思う。「身体の動き」メインの場合は、もちろんスタントパフォーマーである伊澤彩織のような人間であれば「合理的な身体の動かし方だな」みたいな意図を汲んで覚えられるかもしれないが、普通はなかなかそうはいかないだろう。しかし俳優であれば、「人間の心の動き」を覚えることは得意なんじゃないかと思う。そして「ベイビーわるきゅーれ」のアクションが「心の動き」に沿ったものになっているのであれば、一般的なアクションよりも動きを覚えやすかった可能性はあるな、という気はした。

さて、そんな風に書いてはみたものの、どう考えたって「動きを覚えられればいい」なんて話ではない。池松壮亮は動きがとにかくキレッキレで、ドキュメンタリーの中では、待ち時間にシャドーボクシングみたいな動きをしているシーンもあったのだけど、ボクサーみたいなスピードと軽やかさがあった。池松壮亮は「これは悪い意味だと思ってないんだけど、『ベイビーわるきゅーれ』が僕に声を掛けてくれるなんて全然思ってなくて」と、オファーが来た時の驚きを語っていたが、池松壮亮なくしては成立しなかっただろうし、制作側こそ「池松壮亮がオファーを受けてくれた!」と歓喜したのではないかと思う。

ちなみに、池松壮亮は、「『女の子のお腹を蹴る』とか、ホント本能的に無理なんだけど、伊澤さんは『蹴って下さい。リアクションもあるんで』っていうし、周りのスタッフも『伊澤は絶対大丈夫だから』とか言うので、仕方なくやってました」みたいに話していた。ただ、宮崎県庁での撮影で、「伊澤彩織がいかに強いのか」を実感したそうで、映画の撮影が終わる頃には、「伊澤さんに強くしてもらったし、引っ張ってもらった」という感覚になったそうだ。池松壮亮は、休憩中に左足をずっとアイシングしながら揉んでいるシーンが何度も映し出されたし、本人も、「人間の身体ってあんなにぶっ壊れるんですね」みたいに言っていた。アクションシーン2日目には、「昨日は身体が痛すぎて一睡も出来ませんでした」と園村健介に話していたという。とにかく、満身創痍だったようだ。

満身創痍なのは実は、他の役者も同じだった。撮影中に筋肉断裂(と言っていた気がする)を起こした俳優もいたし、髙石あかりも体調不良でダウンしていた。同じく伊澤彩織も体調不良でダウンを経験していたし、また、池松壮亮とのアクションシーンの合間には「身体がぶっ壊れそうだ」と言っていた。

まあそりゃあそうで、アクションも一般的な演技パートと同様、リハーサルやカメラテストがあるし、さらに、かなり細かく決まっている動きがちゃんと出来るまで何度も繰り返す。髙石あかりのシーンだったが、「盾として使っている男性の背中で銃をスライドさせ装弾する」という動きを忘れて指摘されている場面があった。これなんかは、ド素人の僕でも分かる話だが、伊澤彩織と池松壮亮のバトルシーンでは「何がどうミスなのか分からない」みたいな感じで何度も同じシーンを繰り返し撮っていた。そりゃあボロボロにもなるだろう。

そんなわけで、本作では、余計なナレーションなどまったく挿入されない状態で、圧巻のアクションシーンのメイキングを堪能することが出来る。人間には出来ることと出来ないことがあるはずだが、本作では「出来ないはずのこと」の領域にまで踏み込んでいる感じがして、そんな「狂気的なモノ作り」のスタンスと、全員がそれを楽しそうにやっているというところに良さを感じた。

ちなみに、先に紹介したインタビューの中で、「1つの作品に『良い作品にしたい』という高い熱量を持つ人が3~4人もいれば良い作品になるものだけど、本作にはそういう熱を持った人が多すぎる」みたいに言っていて、そのことはなんとなく、本作ドキュメンタリーを観て実感できたような気分になれた。

さて本作は、ほぼメイキング映像で構成されているのだが、一部インタビュー映像が差し込まれる。そしてやはり、髙石あかりと伊澤彩織の関係性がとても興味深かった。

「ベイビーわるきゅーれ」というシリーズは、「杉本ちさとと深川まひろの2人がお互いに支え合いながら緩い日常を過ごしつつ、殺し屋としての仕事をこなしていく」みたいなシリーズで、僕はもちろんアクションに圧倒されたのだけど、一番好きだったのは実場、杉本ちさとと深川まひろの会話である。ユルユルの特段中身の無い会話なのだけど、ずっと聞いていられる心地よさがあって、さらにその会話は、この2人の「得も言われぬ絶妙な関係性」を醸し出してもいる。

作中では、杉本ちさとが底抜けに明るいキャラクターで、深川まひろが暗いマイナス思考の人物という感じなのだが、それぞれを演じる髙石あかりと伊澤彩織も同じ感じなのだそうだ。作中で深川まひろは杉本ちさとに対して、「自分の太陽みたいな存在」「ちさとに出会えてなかった人生なんて考えられない」みたいなことを言うのだが、本作ドキュメンタリーのインタビューでは、伊澤彩織がほとんど同じようなことを言っていた。髙石あかりのことを「太陽のような存在」「あかりちゃんに出会えていない人生なんて考えられない」みたいに言うのである。

また、髙石あかりも興味深い表現を使っていた。世の中には「友達」「恋人」「家族」「仕事仲間」のような色んな「関係性のカテゴリー」が存在するが、「伊澤さんのことは、そのどのカテゴリーにも入れたくない。一生『ちさと』と『まひろ』のままでいたいんです」と言っていたのである。本当に、「ベイビーわるきゅーれ」の作中の関係を踏襲しているようなあり方で、そういう雰囲気が画面から伝わってくるからこそ、「この関係性、メッチャ良いなぁ」と観客も感じられるのだと思う。

ただ、髙石あかりはさらに面白い言い方をしていた。「私たち、『ちさと』と『まひろ』だとメチャクチャ仲良くなれるんですけど、『髙石あかり』と『伊澤彩織』だとちょっとシャイなんです」だそうだ。だから本当に、「『ベイビーわるきゅーれ』という作品のお陰で近くなれた関係性」なのだろうし、そういう話を聞くと、一層の「尊さ」みたいなものが感じられる気もする。

というわけで、ドキュメンタリー映画も超良かった。観て良かったなぁ。

さて最後に。本編『ナイスデイズ』を観ている時にはまったく思い出さなかったのだけど、本作ドキュメンタリーを観ていて唐突に思い出したことがある。死体処理業者・宮内茉奈を演じる中井友望をどこかで観たことあるなと思ったのだけど、映画『少女は卒業しない』で観たんだったと思い出したのだ。『少女は卒業しない』は、とにかく河合優実の印象が強かったが、中井友望も先生に憧れる役(だったと思う)が良かった。

「ドキュメンタリーオブベイビーわるきゅーれ」を観に行ってきました

そうだなぁ、これはちょっと、僕の期待が高すぎたかもしれない。いや、決して悪かったとは思わない。今泉力哉っぽさも感じる作風で、基本的には好きになれるタイプの作品だと思う。ただ、本作を観ようと思ったのは「Filmarksの評価がなんか高い」という理由で、普段はあんまりそういう理由で映画を観たりはしないんだけど、本作はメインビジュアルの感じもなんか良さそうだったし、ちょっと観てみるかという感じだった。まあそんなわけで、無駄にハードルが上がってしまっていた部分があって、ちょっとそれが今回はマイナスに働いたかという感じだった。

物語は全体として、主人公の佐野の妻・凪が出てきてからの方が面白い。というか、前半はちょっと退屈だった。割と早い段階で明らかにされる事実なので書くが、物語が始まる2023年8月19日には、凪は亡くなっている。「朝起きてこなかった」という死に方だったそうだ。そして佐野は、5年前、ちょうど凪と出会ったその日に、凪と出会った伊豆のホテルへとやってくる。そんな風に物語は始まるのである。

そこからしばらくの間は、「喪失感に苛まれる佐野」と「佐野の幼馴染で、佐野をなだめようとするが、あまりに酷い状態で手を焼く宮田」という2人のやり取りが描かれていく。

のだが、このパートが正直、そんなに面白くないんだよなぁ。佐野は終始不機嫌で、「妻を亡くした」という情報しか知らない観客には「イヤな奴」にしか見えない。また宮田は「SUPER HAPPY FOREVER」という名前のセミナーにハマっており「オーラ」だとか「メッセージ」だとかいう言葉をよく使う。佐野はそんな宮田にうんざりしているのだが、それは観客も同じじゃないかなと思う。まあ、別に「そういう役柄」なのでいいのだが、少なくとも僕は好感を抱けるタイプの人間ではないし、嫌だなぁという感じだった。

というわけで、冒頭からしばらくの間、「全然好きになれない男たちがなんやかんやしている」という映像が続くことになり、だから、「うーん」という感じだった。

前半で面白かったのは、「佐野と凪の出会い」についてだ。後半では、そのシーンが映像で映し出されるのだが、前半では、「旅先で出会った初対面の人間に語る」という形でその話が出てくる。それはこんな話だ。ホテルのロビーで寝てしまっている女性の手からスマホが落ちそうで落ちない。でも、ついに落ちるとなった時に、自分と凪だけが「あっ」って声を上げた。そんな風にして2人は知り合ったというわけだ。

このエピソードは結構好きだったなぁ。旅先で見知らぬ男女が自然と出会うにはそれなりの理由が必要だが、この出会いのエピソードはメチャクチャありそうで、メチャクチャ自然で、いいなと思った。確かにこういうきっかけなら、別の場面で顔を合わせた時に「さっき凄かったですよね」みたいに声を掛けやすいし、それは、いわゆる「ナンパ」みたいなことをしそうにない雰囲気の佐野を誰かと出会わすのにとてもしっくりくるものだったと思う。

さてそんなわけで、正直結構退屈だった前半が終わり、それから、佐野と凪が出会って仲良くなっていく過程が描かれていく。もちろん、前半で佐野があまりの絶望を示していたからこそ、2人の出会いのエピソードを知る前に「佐野がいかに妻を愛していたのか」を知れたわけで、そういう頭で観るからこそ、後半の物語が良く見えた、という可能性もあるだろう。だから、「前半が無意味だった」などと言いたいわけではないのだが、やはり、凪が出てきてからの方が物語は圧倒的に面白くなっていくと思う。

前半ではとにかくイヤな奴でしかなかった佐野が、後半では実に良い感じに凪との関係を深めていく。この感じが僕には、今泉力哉っぽく感じられたし、こうやって感想を書くのに調べていて初めて知ったのだが、凪役を演じた山本奈衣瑠は、今泉力哉監督『猫は逃げた』で主演に抜擢され注目された人物なのだそうだ。僕が感じた「今泉力哉感」も、あながち的外れとは言えないだろう。

別にこの2人の出会いについても、特段これと言ったエピソードがあるわけではないのだが、「凪がとにかくあらゆりものをするすると忘れてしまう」というキャラクターであることと、さらに「思いがけず、ホテルで働くベトナム人従業員が物語に関わってくる」という要素が、物語を少しおもしろくしている。特に、ベトナム人従業員の関わり方は割と意外なもので、その点もなかなか面白かったなと思う。

あと、エンドロールを観ていて謎だったのが、「企画協力:佐野弘樹・宮田佳典」という表記。実は本作は、佐野役を佐野弘樹が、宮田役を宮田佳典が演じており、そんなところからもなんとなく「企画段階から関わっていそう」という感じもするのだが、実際に何にどう絡んでいるんだろうなと思う。日本の場合はあまり、「企画段階から役者が関わる」というケースが多くないような気がするので、そんなところも少し気になった。

そんなわけで、個人的にはちょっとしっくり来ない作品だったのだけど、ただ、こういう雰囲気の作品を好きだと感じる人はもちろんいるだろうし、静かに淡々と進む物語ながら惹きつける要素のある作品という感じはする。僕ももう少しハマれると良かったんだけど、残念。

「SUPER HAPPY FOREVER」を観に行ってきました

うーむ、面白かった、のかなぁ。という感じの映画だった。

もちろん、映像の迫力は凄かった。本作は、「報道カメラマン」を主人公にした作品なので、銃撃の最前線で彼女たちがカメラを向ける、まさにそのアングルから「戦争」を体感出来る。もちろん、そんなアングルの映画はたくさんあるとは思うが、本作の場合、「今僕たちが観ているまさにこの情景を、直接目にしている者たちがいるのだ」という感覚で映画を観れるので、その臨場感は一層高まることになる。

しかし、戦争が起こった場合、本当に本作で描かれているぐらい、記者というのはギリギリの最前線にいるものなんだろうか? 僕は時々、美術館でやっている「報道写真展」なんかを観に行ったりするし、ピュリッツァー賞の写真を観たりもするので、「戦場を映した写真」をそれなりには観ているつもりである。ただ、「それを撮っているカメラマン」がどんな状況にいるのかは正直良くわからない。本作は、「最前線に張り付く報道カメラマン」を追っているので、「彼らがどんな状況下で写真を撮っているのか」が分かる。それはちょっと信じがたいものというか、「ホントに?」と感じられるものだった。

そして本作は、「そんな報道カメラマンの視点」から凄まじい現実を映し出す作品であり、そういう意味で「映像の臨場感」は凄まじかった。

ただ、なんというのか、「本作の大前提」を、日本人はアメリカ人ほど共有出来ていない気がして、それでちょっと上手く受け取れなかったのかなという気がしている。

たぶんだが、本作は、「アメリカでは、今まさに内戦が起こってもおかしくない」というアメリカに住む者たちの実感が土台に存在するからこそ成立する映画なのだと思う。何故なら、本作では「何故、どのように内戦が勃発したのか?」という部分の説明は、ほぼ存在しないからだ。

本作では「いつ」に関する情報が少ないのでざっくりした想定になるが、「内線が始まってから相当の時間が経っている」という舞台設定になっている。作中で、「大統領はもう14ヶ月もインタビューを受けていない」というセリフが出てくるので、となれば、少なくともこの内戦は14ヶ月は続いているということになるだろう。

そして、「14ヶ月前に何があって内戦が始まったのか?」に関する描写はない。

また、戦況についてはラジオニュースなどで報じられる程度でしか説明がないのだが、「テキサスとカリフォルニアが独立政府を樹立し、”西武勢力(WF)”として政府軍と対立、ホワイトハウスがあるワシントンDCを目指している」ぐらいのことしか分からない。アメリカについて詳しくないので、もしかしたらアメリカ人からしたら「確かに、テキサスとカリフォルニアだったらそういうことしそうだよなぁ」なんて感じたりするのかもしれないが、僕にはそういう感覚はない。

だから僕からしたら、「何で内戦が起こってるんだよ?」という部分に対する腹落ちが結局最後までなかったのである。

もちろん僕だって、「アメリカでは分断が広まっている」程度のことは知っているし、冒頭で映像が使われているように、「色んなデモ」が起こっていることだって知っている。ただ、そこから「内戦」はやっぱりちょっと飛躍するなぁ、という感じである。

もちろんこの辺りは、アメリカに住んでいる人とは大分感覚が異なるだろう。たぶん、アメリカに住んでいる人には「内戦はかなりリアル」なんじゃないかと思う。そして、僕にはそう感じられなかったからこそ、そこがずっと引っかかってしまった。

だから、「内戦が起こったんだ」という部分を無条件に受け入れられれば、本作はかなり楽しめるんじゃないかと思う。ただ僕みたいに、「内戦なんて起こるかねぇ」と思っている人には、そもそもこの物語をリアルに受け取るのが難しくなる。その辺りは、どうにもしようがないとは言え、ちょっと残念なポイントではあった。

ただ、じゃあ「内戦の勃発から描けば良かったのか」というとそうでもない。本作の、「内戦が長期化し、それが既に日常になってしまっている世界」で展開されるからこその面白さもある。特にそれは、ワシントンDCへと向かう一行が途中で寄ったある街の風景から感じ取れるかもしれない。その街では、「今まさにアメリカで内戦が起こっている」とは思えないような静かな日常が広がっていたのだ。この街はニューヨークとワシントンDCの間にあるはずで、恐らく色んな地理的な条件からたまたま戦闘に巻き込まれていないのだろうと思う。そしてそこは、恐らく内戦が始まってからずっとそんな感じだったのだ。

この「内戦に無関心な街」の異様さは、「内線が長く続いている」という背景があるからこそ浮かび上がるわけで、そして本作には他にも、上手く説明は出来ないが、そういう背景によって炙り出されるものが描かれているように思う。そもそも本作は全体的に「諦念」によって支配されている感じもあって、それは「政府軍が負けるかもしれない」という観測によるものなのだが、これも「内線が長く続いているから」こその設定だろう。

では、そんな状況下で、ニューヨークにいた記者たちは何故ワシントンDCを目指すことにしたのか。この点に関しては、記者たちが集まるニューヨークのホテルで繰り広げられた会話が興味深かった。

主人公のカメラマン、リー・スミスと、その相棒らしいジョエルは、ニューヨーク・タイムズの記者であるサミーと話をしていた。リーはサミーに「ワシントンDCへと向かおうと思う」と言うのだが、それに対してサミーは「前線に行くつもりなのか?」と返す。この時点で、西武勢力はワシントンDCの200kmのところまで迫っており、ワシントンDCは既に前線になっていたのだ。

しかしリーは「NO」と返す。これは「前線の取材に行くわけじゃない」という意味だったのだが、サミーには上手く意味が読み取れなかった。それはそうだろう、何故ならリーとジョエルは、「14ヶ月もインタビューを受けていない大統領に話を聞きに行く」ためにワシントンDCを目指すことに決めたからだ。そう、「前線」ではなく「大統領」の取材をするから「NO」と答えたというわけだ。

こうして彼らは、ニューヨークからワシントンDCを目指すのである。

さて、ニューヨークを出発した時点で「DCまで1379km」と表示されたので、僕はてっきり、これがニューヨークとワシントンDCの直線距離だと思っていたのだが、どうもそうではないようだ。調べると、直線距離だと約340kmだそうだ。リーがサミーにワシントンDCまで行くルートを尋ねた際、サミーは「州間道路は封鎖され、あの道もダメだから云々」みたいなことを言っていたのだが、要するに「だいぶ遠回りしないとワシントンDCにたどり着けない」ということなのだろう。この辺りの地理的な不案内も、本作を観る上では多少障害になるなと思う。

本作は先程触れた通り、基本的には「報道カメラマンを主人公にした物語」だ。「戦争そのもの」ではなく「戦争を誰にどう伝えるか」みたいな信念の部分がベースになっていく。4人の男女がワシントンDCへの旅路へと向かうのだが、彼らにはそれぞれ異なる動機がある。

23歳のジェシー・カレンは、リーと同じ名前を持つリー・ミラー(調べたら実在した人物のようだ)という報道カメラマンに憧れてこの道に進んだそうだ。リー・ミラーは、強制収容所があったドイツのダッハウに最初に入った報道カメラマンだそうで、その他にもいくつもの功績を残しているそうだ。そしてそんな女性に憧れて、ジェシーは戦場カメラマンを目指して奮闘しているというわけだ。

ニューヨーク・タイムズのサミーは、はっきりとは分からなかったが、恐らく「長年生きた者としての使命感」みたいなものから、「この現実を無視できるはずがない」みたいな感覚を抱いているんじゃないかと感じた。彼は多くの人から慕われているようで、彼のそういうスタンスが人を惹きつけているんじゃないかと思う。

主に運転手を買って出るジョエルは、ちょっと特殊である。それが本心なのかは定かではないが、夜間、そう遠くない場所で砲撃が行われている様子を目にした彼は、「あの銃声が猛烈に俺を勃起させるんだ」と口にしていた。もちろん、「これから戦場入りする面々の気持ちを軽くするためのジョーク」と捉えるのが妥当なのかもしれないが、このセリフ以外に、ジョエルが戦場へと向かう理由が分かるものはなかったように思うので紹介した。

さて、個人的には、リーのあるセリフがとても印象的だった。彼女もまた、「ANTIFAによる虐殺」を写真に収めたり、「マグナム(あのロバート・キャパが設立した写真家集団)に最年少で入った」という凄い実績を持つ写真家という設定で、これまでもアメリカ以外の様々な戦場で写真を撮り続けてきた。

そんな彼女が、「何故戦場の写真を撮り続けてきたのか」についてサミーに語る場面がある。彼女は、

【戦場での写真を撮る度に、祖国に警告しているつもりだった。「こうはなるんじゃないぞ」と】

と口にしていたのだ。しかし結果として、アメリカで内戦が起こってしまった。

つまり、厳密に言えば、リーは既に「戦場の写真を撮る動機」を失った状態なのである。この点は、リーの作中での行動を理解する上で割と重要かもしれない。繰り返すが、リーは「アメリカ国内で戦争が起こらないこと」を願いながら戦場で写真を撮り続けてきたのである。しかし、最悪の事態は起こってしまった。そんな彼女にとってはもう、「目の前の戦争を何のために撮ればいいのか分からない」という状態になっているだろう。

登場人物たちはほとんど、自身の内心を口にしない。だから、「リーがそんな風に思っているはず」というのも、僕の勝手な想像に過ぎない。ただ、後半のリーのあり方を見ていると、「絶望が臨界点を越えた」みたいな感じがするし、それ故にラストのあの瞬間にも繋がってくのかなという気もする。

さて、「登場人物がほとんど内心を口にしない」というのも、「内戦が長期化している」という本作の設定を一層リアルに見せている感じがする。つまり、「こういう場面でなら普通こういうことを言うだろう」みたいなセリフが想像出来たとしても、彼らにとってそれは「この14ヶ月以上の内戦期間の間に何度も感じたし、何度も口にしたこと」なのであり、そしてお互いにそれが分かっているからこそ「何も言わない」という選択をするのだと思う。

しかしやはり、「彼らにとってとても悲劇的な出来事」が起こってしまった時には、少し違った。キャラクターによって程度は様々だが、恐らくそれまで感じたことのない何かを感じ、「何か言わないと」という気分になったのだと思う。

ただ個人的に印象的だったのは、ジェシーが非常に抑制的だったことだ。恐らくだが、ジェシーには思うところが色々とあったと思う。もし僕がジェシーの立場だったら、ちょっと耐え難いと感じてしまうような状況にいる。しかし彼女は、冒頭で「同じミスはしない」と言っていたように、「戦場カメラマンとしてやっていくための覚悟」を、この旅路で獲得しようとしている。恐らくそういう気持ちから、かなり踏ん張って抑制的に振る舞っているのだと思う。そして、そんな「覚悟」が、ラストのあの瞬間にも発揮され、あのようなシーンになったんだろうなと思う。

さて、映画を観ながら他に感じていたことは、「撮影、大変だっただろうなぁ」ということだ。夜のシーンは、大規模なセットを組んだんだろうなとなんとなく想像出来るのだけど、昼間のシーンはなかなかそうはいかないような気がする。まるっとCGという可能性もあるかもしれないけど、「乗り捨てられた車が道を塞ぐ道路」や「車内から見える崩れた建物」、あるいは「グラフィティで埋め尽くされたスタジアム的なスペース」なんかは、CGじゃなくやってるとしたら結構大変だろうなと思う。公式HPには「今や世界を席巻するA24が、史上最高の制作費を投じ、」と書かれているので、相当金を使ったのだろう。

日本の場合、「渋谷のスクランブル交差点をグリーンバックで再現できる撮影所」が栃木県にあったりするが、同じようにアメリカにも、ニューヨークやワシントンDCを再現できる場所があったりするんだろうか。そういう「撮影の裏側」も気になるところだ。

あと最後にどうでもいいことを1つ。エンドロールに「SONOYA MIZUNO」という日本人的な名前が表記されたので調べてみたら、「ん?こんな人出てきたっけ?」という女優の写真が出てきたのだけど、さらに調べてみると、女性の従軍記者役の人だった。黒縁メガネを掛けてる役だったから全然印象が違っていた。日経イギリス人女優だそうだ。

「シビル・ウォー アメリカ最後の日」を観に行ってきました

予告を観た段階で「なかなか面白そうだな」と思っていたのだけど、思っていた以上に面白かった。メチャクチャ何かが展開するような物語ではないし、むしろ何も起こらないと言っていいと思うのだけど、舞台設定や役者の雰囲気がとても良く、それが作品全体の明度を上げている感じがする。

近未来の日本(と言ってもそんなに未来じゃない)を舞台にした本作中には、「パノプティ」というシステムが登場する。既に中国では実装されているので、別に近未来というほどの技術ではないが、「カメラで違反を検知し、個人を特定した上で罰点を課す」というものだ。

この「パノプティ」、間違いなく「パノプティコン」から取られているはずだ。18世紀の哲学者ベンサムが考えた「監視に向いた刑務所の構造」のことであり、僕はそのことを、以前読んだ哲学の本で知った。

さて、このような設定が出てくるとやはり、「パノプティが物語の中心に来る」と考えてしまうだろう。しかし、本作は全然そんなことがなかった。本作中では、「パノプティ」はあくまでも「主人公の若者たちを外側から拘束する制約条件の1つ」に過ぎず、もちろん物語の中で重要な要素にはなってくるのだが、決して中心には来ない。

そして本作には他にも、そんな制約条件が描かれる。1つは「地震」である。

さて、鑑賞後にネットで「空音央と濱口竜介は、どのように「当たり前の社会」と対峙しているか。映画『HAPPYEND』をめぐる対談」という対談を読んだ。別に検索したわけではなく、たまたまオススメ的な感じで記事が表示されたのだ。恐らく僕がこれまでに、濱口竜介の映画を結構検索していたからだろう。

https://www.cinra.net/article/202410-happyend\_ymmts

この中で監督の空音央は次のように語っている。

【映画の種は、いずれ起こるといわれている南海トラフ地震が、もうしばらく起こらなかった社会はどうなっているんだろうか、という思いつきといいますか、思考実験でした。】

我々もつい先日、「もしかしたら南海トラフ巨大地震の前兆だろうか」という初めての経験をしたわけだが、そんな経験を何度もしつつも結局南海トラフ巨大地震は起こっていない、という世界が舞台になっているというわけだ。作中では、緊急地震速報が何度も流れるが、その度に地震は来ない(来てもさほど大きな揺れではない)。恐らくだが、今の私たち以上に、「地震に対する鈍感さ」みたいなものを獲得しているのではないかと思う。しかし一方で、本作は主に高校が舞台であり、学生を守る教師の立場としては「地震」の存在を無視できないし、「起こること」を前提に物事を準備するしかない。そんな、「地震とかもういいよ」という若者たちと、「備えないわけにはいかない」という大人たちの間にも溝があるというわけだ。

そしてさらに本作では、総理大臣である鬼頭が物凄く評判が悪い。はっきりとした理由は分からないが、作中である学生が、「地震のためって言って緊急事態条項を発令する鬼頭はもう独裁者だよ」みたいなことを言う場面がある。恐らくだが、「地震」という名目を盾にとって、国民の支持を得られないような政策ばかり取っているんだろうと思う。そんな政治情勢を背景に、日本でもデモが頻発しているという状況が描かれる。

他にも、「警察が、在日朝鮮人のコウの特別永住者証明書の提示を求める」場面が何度も描かれる。本作の世界では、この「特別永住者証明書」は携帯する必要がなくなっているようだが(現在の日本でどういうルールになっているのかは知らない)、しかし警察は執拗に証明書の提示を求める。

という話の流れで書くと、舞台となる高校には「外国人」が多い。ある場面で、「日本に帰化していないものはこの時間教室から出るように」と教師が出席番号を読み上げる場面があるのだが、30~40人ほどのクラスに、10人以上の「帰化していない生徒」がいた。恐らく、他のクラスも同様だろう。本作の場合、メインとなる「仲良し5人組」の内3人が帰化していない。そういう説明は無かったので、これはこの高校に特殊なことではないはずだし、となると恐らくだが、「人口が減ったために移民を受け入れるようになった日本」が舞台になっているんじゃないかなと思う。たぶん、そうじゃないと、これだけの「多様性」は説明できない気がする。

そして、地震の話に戻すが、作中では総理大臣が「地震の際にはデマは差別が起こる」みたいなことを言っていた。先の対談の中でも「関東大震災の時の朝鮮人虐殺」に言及されていた。単に「地震が起こって被害が起こる」というだけではなく、「社会構造が変わった日本にさらに大きな打撃を与える存在」として「地震」が扱われているのだと思う。

そもそも、本作の監督である空音央は、アメリカ生まれだそうだ(というか、この記事を書くのに調べていて知ったが、坂本龍一の息子だそうだ)。国籍が日本なのかどうかは分からないが、恐らくアイデンティティ的には日本人だろうし、しかしずっとアメリカで生まれ育ってきたというバックボーンから言えば「外国人」的な眼差しもあるのだと思う。監督のそのような「外からの視点」みたいなものが、作品の設定に色濃く組み込まれているということなのだろう。

本作はまず、そのような「外側の環境」がとても興味深く映し出されていく。視覚的には「僕らが生きているのと変わらない日本」でしかないのだが(1点だけ、「緊急の案内文が夜の雲に映し出される」というのだけは、視覚的にも「近未来」を思わせるものだったが)、社会制度や仕組みや倫理や常識みたいなものはちょっとずつ違っていて、しかしそれらは間違いなく「現代の日本」の延長線上にあるものだと実感できる。僕は観ながら、「僕より下の世代の若者が描く未来予測なんだろうなぁ」と想像していたのだが、監督の空音央は33歳だそうで、イメージした通りという感じだった。

そしてそのような舞台装置の中で、「躍動的な若者たち」がどう生きていくのかを描き出す物語である。

「躍動的な」と書いたのは、メインで描かれる5人組が、実に「やんちゃ」だからだ。彼らは、「違法なクラブ」に不法侵入して警察の取り調べを受けたり、夜の学校に忍び込んで自分たちの音楽を作ったり、校長先生の愛車にイタズラしたりとやりたい放題やっている。「刹那的」という言葉がしっくり来ると思うが、「その瞬間の楽しさ」みたいなものをいかに追求していくか、みたいなところに命を賭けているところがある。僕にはあまり共感できる生き方ではないが、いつの時代にもそういう若者はいるし、さらに言えば、現代よりもさらに閉塞的な世の中になっている未来世界においては、「馬鹿騒ぎでもしないとやってられない」みたいな感覚もあったりするのだろう。

「ストーリー」という意味では、彼らがやった「校長の愛車へのイタズラ」が1つ大きな出来事となる。というのも、そのせいで「パノプティ」が導入されることになったからだ。さらに、恐らくこの5人組は元から目をつけられていたのだろう、また別の形でも学校から「排除」の憂き目に遭ってしまう。そういう、5人組を取り巻く「外的な環境」の変化に、彼らがどんな風に反応し前に進んでいくのか、みたいなところが、物語の1つの軸となっていく。

そして、登場人物の関係性という意味で言えば、5人組の中でも中心的な人物であるユウタとコウの関係性が挙げられるだろう。彼らは「幼稚園から一緒」だそうで、「初めてのオナニーも一緒にする」ほどの仲だそうだ。また、残りの3人からは、「あの2人はいつか音楽で凄い世界に行く」と思われていて、そういう意味でも結びつきの強い2人である。

しかし、この2人の関係性に少しずつズレが生まれていく。そしてその原因に、先程から書いている「制約条件」が色々関係してくるわけで、その辺りの展開がとても上手かったなと思う。

5人組は、いつもバカなことばかりやっているのだが、コウは学校での成績がよく、大学の奨学金がもらえるかもしれない、という立ち位置にいる。だからだろう、彼は社会に対する関心も持っている。カフェで待ち合わせしている時には、街頭でデモをしている人たちを眺めていた(残りの4人は興味なさそうだった)。あるいは、仲間の1人であるアタちゃんが「将来警察官になろうかな~」と教室で騒いでいた時に、クラスメートのフミが「警察なんて国と富裕層だけを守る、武器を持った官僚だよ」と叫ぶのだが、後にコウは、このフミと仲良くなっていくのである。

一方のユウタは、「音楽」のことしか考えていない。少なくとも、仲間たちもユウタのことをそう見ている。コウが、仲間の1人であるトムに、「ユウタの何も考えてない感じ、俺無理だわ」と口にした時に、トムも「分かるよ」と言っていたし、トムはトムで、高校卒業後にアメリカに移り住むことがだいぶ前から決まっていたにも拘らず、その話をユウタにだけは出来ずにいた。ユウタにはどこか、そういう雰囲気があるのだ。

自身の「在日朝鮮人」というアイデンティティのこともあってだろう、社会に何らかの形で関与することに少しずつ関心を持つようになっていったコウと、子どもの頃から「何も考えずに騒いでいる」だけのユウタ。幼稚園からの仲で、「こんな友達いないだろ?」とお互いに思っているはずの2人の間に、少しずつ不協和音が流れていく。その感じを、静かに、しかし絶妙な深さで描き出していく。

物語は全体としてコウの視点で進んでいくと言っていいだろう。つまり、「コウの目には世界がどう見えているのか?」が物語のベースになっているというわけだ。だからコウは、様々な場面で自身の考えや感覚を口にするし、周囲の人間ともそれを共有しようとする。

一方でユウタは、最初から最後までやはり何を考えているのか分からない。時折、コウと真剣な議論を交わす場面もあるのだが、そういう時でも、「本当にそれが本心なんだろうか?」と感じさせるような物言いしかしない。恐らく、コウとしても掴みきれなかったんじゃないだろうか。

ただ、コウとしても観客としても、「ユウタの本心」がはっきり分かったはずの場面が1度だけ描かれる。映画のラスト付近の展開なので具体的には触れないが、あのシーンがあったお陰で、ようやく皆(コウと観客)は、「ユウタは何も考えていないわけじゃない」という実感を得られたのではないかと思う。まあ、もちろんそれは我々受け手側の「妄想」に過ぎないのだが、ただあの瞬間、ユウタとコウの関係にまた別のギアが入ったみたいな感覚にはなれた。

さて、そんな2人の関係なのだが、「決定的に壊れはしない」という点がとてもリアルで良かった。「物語」という観点で考えれば、「ユウタとコウの関係性を一度絶望的にぶち壊して、その上で再生の過程を描く」という方が分かりやすいしドラマティックになるだろう。しかし本作はそういう展開にしていない。ユウタとコウは、他の3人が見て分かるぐらい関係が悪化していくわけだが、しかし決定的に壊れはしない。

そこにはきっと色んな要素があるのだろう。「幼稚園からの仲」とか、「一緒に音楽をやっていきたいから」とか、あるいは「コウの変化は一過性のものだとユウタは捉えていた」みたいな可能性もあるかもしれない。ただ、その中でも大きな要因だったのは、「壊れたら元には戻らないとお互いが理解している」みたいな部分があったんじゃないかと思う。

「幼稚園からの仲」ということは、もちろん喧嘩をしなかったわけはないのだが、「それまで決定的な仲違いはなかった」ということだと思う。そしてだからこそ、「仲直りの方法が分からない」なんて可能性は十分あるんじゃないかと思う。特に、先述した「トムがアメリカ行きを言えなかった」みたいな描写からも分かる通り、ユウタはなかなか掴みどころがない。だから仲違いした場合に、コウはともかく、「ユウタには何をどんな風に伝えたら状況が変わるか」みたいなものが見えないように思う。

そしてこの「『仲直り出来ること』を前提にしない人間関係」もまた、とても今っぽいと感じさせられた。

昔のスポーツマンガなんかでよくある描写だけど、一昔前はやっぱり、「お互いにぶつかって仲違いしても、最終的には分かり合えるし関係を元に戻せる」みたいなのが、比較的人間関係の「当たり前」みたいな感じだったように思う。でもたぶん、今の若者はそうじゃない。たぶんだけど、「一度壊れたらきっと、元には戻らない」みたいな感覚を大前提にしているように思う。もちろん、戻る可能性はある。ただそれはあくまでも「奇跡」であり、「元に戻せること」を前提に関係性を築くことは出来ない、というのが、今の若い世代のベースの感覚なんじゃないかな、と僕は勝手に思っている。

そして、ユウタとコウの関係性からも、そういうギリギリの緊張感みたいなものが感じられた。仲が良い時は「愛してるよ~」なんて街中で大声で叫べちゃうような関係である一方で、不穏な時には余計な衝突が発生しないように気を使う。それは、普段はコウの隣の席に座っているユウタが、別の奴に「席替わって」と言ってコウの隣を避ける場面からも伺える。徹底的に「衝突」を避け、ぶつからざるを得ない時には出来るだけ面白おかしくする。そんな風にして「決定的な決裂」みたいなものを絶妙に避けていた感じがある。

そしてだとすれば、コウはユウタにぶつけられない衝動みたいなものをデモに参加することで晴らしていたのかもしれないし、ユウタが一層音楽だけにのめり込んでいくようになったのも、コウに対峙できない鬱憤みたいなものが背景にあったのかもしれない。

そしてそんな2人の間の緊張感が、「ユウタが本心を曝け出したかもしれないシーン」以降、すっと溶けていく感じも良かったし、そしてそういう「ノンバーバルな雰囲気」を、ユウタとコウを演じた2人が絶妙に醸し出していたのがとても良かったなと思う。

この2人は、演技未経験だそうだ。というか、仲良し5人組の内4人が演技未経験での抜擢だったという。先の対談によれば、「演技未経験者を集めた」わけではなく、「役者を含めたオーディションで、『この人しかいない』と選んだのがたまたまノンアクターだった」のだそうだ。そして、「演技未経験者をどう演出したらいいか分からない」みたいなところから、同じく演技未経験の人たちを使って撮られた映画『ハッピーアワー』の監督である濱口竜介と関わりが生まれた、みたいなことらしい。

個人的には特に、ユウタ役の栗原颯人の雰囲気がとても良かったなと思う。ユウタというのは、ここまでで書いてきたように、「何を考えているのか分からない」「口にすることが本心なのか分からない」みたいな雰囲気の人物なのだが、その感じを凄く浮かび上がらせていたと思う。ホントに佇まいが魅力的で、セリフがないシーンでも、「ユウタとしてそこに存在している」だけで、割と場を支配するような雰囲気があったように思う。はしゃいでいる時には「ホントに何も考えていないみたいなノータリン」みたいな感じだし、しかしそうではない場面では「底知れない雰囲気」みたいなものを漂わせていて、メチャクチャ良かった。以前、映画『サクリファイス』で初めて青木柚を目にした時みたいな衝撃があるし、なんとなくだけど、栗原颯人には窪塚洋介みたいな雰囲気もあるように思う。分かんないけど、本人に役者を続ける気があるなら(本職はモデルらしい)、かなり良い役者になるんじゃないかと思った。

あと、対談の中で濱口竜介が指摘していたが、本作には「引きの画」がとても多くて、そしてそれが魅力的だった。あまり映像そのものに対しては感度は高くないのだけど、「1枚の画像として成立する」みたいな感じのシーンが結構多かったように思う。うろ覚えだが、「ウォン・カーウァイの映画は、どのシーンを切り取ってもポストカードになる」みたいな文章を何かで見かけた記憶があるのだけど、本作も、「どのシーンも」とはいかないだろうけど、結構そんな雰囲気を感じさせる作品だった。

あと、本作の撮影がどこで行われたのか分からないが、東京だとしたら、「東京だと分かるようなところで撮っていない」のも良かった。元々本作は、「近未来の日本のどこかの街」という、時代も舞台も特定しない作品なので、そういう「匿名性」みたいなことも考えて「どこで撮っているのか分からない」という感じになったのだろうけど、そのことも良かったなと思う。

あと、ラストシーン。これ凄くいいよなぁ。先述した「愛してるよ~」のシーンとの対比であり、「2人が別々の道を歩んでいく」ということが資格的に示唆される場面でもある。このシーンでは、コウはユウタに対して引け目を感じており、それ故に動き出せないでいるのだが、そんな「止まった時間」を無理やり動かすかのようなユウタの行動と、それによってほんの少しコウが抱く引け目が溶けたような雰囲気が、ほとんどセリフのない場面から伝わってくる感じがあった。メチャクチャ良いシーンだったなぁ。

そんなわけで、なんか凄く良い映画を観たなという気分にさせてくれる作品だった。

「HAPPYEND」を観に行ってきました

なんとも言えない映画だなぁ。まあ、「そんな感じの映画だろう」と思っていたので驚きも困惑もないのだが(予告を観た時点でなかなかヤバい映画だと分かっていた)、僕の中では「もう少し掴める部分があったら良かったな」という感じだった。ちょっと本作は、僕には掴みどころがなく、上手く捉えきれなかった。まあ、「少年にとっての、少年時代の狂気的な感じ」を描いているということは分かったが、それにしてもなぁという感じである。

ただ、冒頭の展開はなかなか面白かった。主人公の少年セスはやんちゃで、仲間であるイーブン、キムと共にイタズラばかりしている。その日もバカでかい蛙を見つけた。そして前から近所に住む女性がやってくるのが目に入ると、セスは葦の茎を使ったストローで蛙の肛門から空気を入れ、その女性の目の前で爆発させてみせるのだ。そしてそのことが母親にバレ、セスはドルフィンという女性の家まで1人で謝りに行かされる。

ドアを開けたドルフィンは、「噛みついたりしないから入って」と言って招き入れ、その上で、「蛙のことは別にいいのよ」と口を切る。その後彼女は、「自分は猫の尻尾に花火をつけて走らせたことがある」など、自分も酷いことをしていたという話をするのである。怒られると思っていたセスには意外だっただろう。

その後ドルフィンは、結婚後1週間で自殺してしまった夫の話をし、さらに「私は200歳なのよ」と、少年を幻惑するようなことを口にする。ちょうどその時、家にいた父親が吸血鬼の本を読んでいた。吸血鬼のことを知らなかったセスは父親に聞くのだが、その話が、「200歳なのに若く見えるドルフィン」と重なった。さらに、父親が読んでいた本の挿絵の女性がドルフィンに似ていたことから、セスは「ドルフィンは絶対に吸血鬼だ」と確信する。

その後、突然イーブンが行方不明になり、さらにその後死体が発見されたことで、セスの中の「ドルフィンは吸血鬼」という確信は深まっていくのだが、一方、この事件がきっかけで、セスが知らなかった父親のある秘密が掘り起こされることになり、セス一家は思いがけない状況に置かれるのだが……。

みたいな物語の始まり方はとても面白かったのだけど、全体的にはあまり好きじゃなかった。ただ、登場人物が割と全員狂気的なのは面白かったかな。人の死に対して「綺麗だった」みたいな感想を口にする人は結構いるし、また、セスの両親の関係性も結構な狂気である。恐らく軍にいたのだろう兄がある事情から戻って来るのだが、この兄も結構ヤバい。物語的には「それでいいのか?」と思うが(どちらかと言えば、他の人の狂気を抑えめにした方が、セスの狂気が際立つだろうと思ってしまう)、ただそういうことではきっとないんだろう。あまり上手く僕には捉えられていないのだが。

冒頭の蛙を爆発させるシーンはなかなかぶっ飛んでいたが、エンドロールで「No animals were harmed.」と書かれていたので、さすがに本物ではないようだ。まあそうか。結構昔の映画に見えたから、それぐらいの時代なら本物の蛙を爆発させててもおかしくないと思っていたのだけど、どうやら本作は、「1950年代を舞台にした1990年の映画」だそうで、まあそれなら納得という感じだった。

しかし変な映画だったなぁ。僕には刺さらなかったけど、刺さる人には刺さると思う。

「柔らかい殻」を観に行ってきました

いやー、メチャクチャ面白かったなぁ。びっくりしたー。

本作は、予告は何回か見たことがあるんだけど(だから「殺し屋の話」だということは知ってた)、全然観るつもりはなかった。本作がシリーズ第3弾だということも知らなかったし、もちろん前2作も見てないし、だから物語の設定は何も知らない。なんとなく漫画原作なのかと思ってたんだけど、違うのか。いや、それは別にどうでもいいんだけど、とにかく、シリーズの設定やキャラクター造形についてはまったく何も知らずに鑑賞した。

本作を観ようと思ったのは、Twitterで「池松壮亮が凄い」みたいなのがちょっと話題になっていたからだ。池松壮亮って、出てると見ちゃうよなぁ。というわけで、ただそれだけの理由で観てみたんだけど、やっぱり池松壮亮は凄かった。この人、「無茶苦茶な世界観でも成立させちゃう」みたいな雰囲気があって、それが凄い。本作も、普通に考えたら「いやいやいや」と思ってしまうようなあり得ない世界観で物語が展開されるのに、どことなくリアリティがある。「僕が知らないだけで、世界のどこかでこんなことが起こってるんじゃないか」みたいな予感を漂わせるのだ。

その一端を、池松壮亮が担ってる気がするんだよなぁ。どんな荒唐無稽な状況でも、池松壮亮が「大黒柱」的に作品を下支えしてるみたいなところがある気がする。いや、まあそれは作品にもよるのかもだけど、ちょっと前までやってたドラマ『海のはじまり』でも、やっぱり池松壮亮は凄かったし、そういう「作品を成立させる請負人」的なポジションに期せずしてなってるみたいなところがある感じするなぁ。

しかし、それ以上に、主人公の杉本ちさと、深川まひろを演じた2人がとても良かった。

という話は、少し後でしよう。

「本作を観て面白いと感じた」というのは正直、僕にとってはなかなか驚きの状況である。というのも、僕は基本的に「ストーリー」にしか興味がないからだ。小説でも映画でも、「話の筋」にほぼ集中していて、それ以外のことにはあまり関心が向かない。もちろん、「登場人物の会話がいい」とか「登場人物のキャラがメッチャ良かった」みたいなことはあるが、「この映像が綺麗」「あそこの音楽は良かった」「衣装が素敵」「この俳優をここで使うのか!」みたいなことには、正直あまり関心がないのである。

さて、本作『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』は、まぁストーリーが存在しない。潔い。「話の筋」なんて何もない。本作の紹介は、一瞬で終わる。「2人の殺し屋が、ターゲットを殺しに向かうと、”野良の殺し屋”が先回りしており、色々あって結局、ターゲットも”野良の殺し屋”も逃した。で、その”野良の殺し屋”を全力で殺しに行く」というだけである。本当に、物語としてはこれしかない。「ストーリー」にしか興味がない僕は普通、全然面白いと感じられない作品のはずなのだ。

にも拘らず、ムチャクチャ面白かった。だからビックリした。まあ、時々そういうことはあるが、にしても「ただ殺し合ってるだけの映画」がこんなに面白いとはなぁ。

で、やはりその凄みはアクションシーンにある。これ凄すぎないか? と思って、鑑賞後に公式HPを観たら、深川まひろを演じた伊澤彩織って人はガチのアクションスタントの人なのか。「~の人なのか。へぇ~」で終われるようなレベルのアクションじゃなかったんだけど、まあとりあえずは納得。

で、その相棒を務める杉本ちさとを演じた髙石あかりも、負けず劣らず凄かったと思う。もちろん、伊澤彩織がガチのアクションスタントだと知ると、「深川まひろの方がアクション多かったのはそういうことか」と納得出来るんだけど、髙石あかりも、素人の僕の目には全然見劣りしないぐらい動けていたから、むしろそっちの方に驚かされたという感じがする。

で、池松壮亮は、そんな2人に命を狙われる”野良の殺し屋”を演じてたんだけど、池松壮亮もアクションがちょっと凄まじかった。ガチのアクションスタントであり伊澤彩織とタイマンで肉弾戦を繰り広げるんだけど、「ホントに闘ってる風にしか見えない」ようなアクションだった。凄い。このアクション観るだけで、十分元取れる感じある。

しかし池松壮亮は、ちょっと前は映画『ぼくのお日さま』でスケートやってたし(元々出来たのかもしれないけど)、今回もメチャクチャなアクションやってたりで、「演技力がある」というだけでは乗り越えられない状況を努力で吹き飛ばしてる感じあるなぁ。ホント凄いなと思う。

あと、本作には、伊澤彩織と池松壮亮がガチで闘う場面が2回出てくるんだけど、この2つのシーンの対比も良かったですね。ただ、深川まひろの心中を想像すると「悔しいだろうな」という気がする。まあでも、別に「趣味」なわけじゃなくて「仕事」なんだから、そんな感情的な部分は置き去りにしていくしかないわけだけど。

そう、本作は「殺し屋」を「仕事」と割り切る者たち(元の設定をよく知らないけど、どうやら「殺し屋協会」みたいなものがあり、深川まひろも杉本ちさともそこに所属する”正規の殺し屋”らしい)が大暴れしていく。そんなわけで「清掃屋」なんて役割の人たちも出てきて、「仕事で人を殺してます感」が醸し出されていて面白かった。

また、日本であれだけドンパチやってるのに、警察も来なけりゃ、「キャー!」とか言ってる一般市民もほぼ出てこないってのも、「リアリティ」を潔く置き去りにしてて良かった。確かに本作には、そういう要素は要らないよなぁ。シンプルに「殺し屋稼業」に焦点を当てるのが正解で、そういう感じも凄く良かった。

と色々書いて来たんだけど、実はまだ、本作の一番好きな点に触れていない。それは、深川まひろと杉本ちさとの会話である。メチャクチャ良かった。この2人の会話、永遠に聞いてられるなって感じ。これ、脚本書いてるの男なんだよなぁ。この「ダルさ全開の女子トーク」を、聞いて面白いと思わせるレベルで成立させるのって、個人的にはちょっと凄いなって思う。

深川まひろと杉本ちさとは別に、中身のある会話は全然していない。マジでクソどうでもいい話を延々としているだけなんだけど、僕的には「混ざりてぇ!」って感じるぐらいの会話のテンションで凄く良かった。正直、既に今(映画を観終えてから2時間後ぐらい)には、彼女たちの会話の中身をまったく思い出せないのだが(それぐらい、まったく中身のない会話をしている)、ただ聞いている時には凄く面白かったし、少なくとも僕はああいう会話がとても好きだ。

そしてさらに言えば、「そういう会話が、2人にとっては必要だ」ということばビシバシ伝わってくる感じも良かった。1つ思い出したのが、深川まひろが落ち込んでいる時に杉本ちさとが話しかけにいった時の会話の内容。「元気出せよ~」みたいなことを杉本ちさとが言うわけないということは分かっていたが、彼女は、「東京戻ったら、どういう感じにする?」と話しかけるのだ。これは説明しなければ伝わらないやり取りなのだが、それより前に2人は、「美容院の予約を一緒にした」という話をしている。深川まひろは1人で美容院に行けないとかで、毎回杉本ちさとと同じタイミングで髪を切っているらしいのだ。

そしてそんなやり取りをしていたことを踏まえた上で、「東京戻っ(て美容院に行っ)たら(髪型)どういう感じにする?」と聞いているのである。もちろん深川まひろはこのやり取りを、「自分を勇気づけるためにしてくれている」と感じただろう。そういう心の繋がりみたいなものが2人にはあるのだ。そして2人はスマホを見ながら「こんな髪型がいいんじゃない」みたいな話をして元気を取り戻していく。

こういうやり取りも、とても良い。とても良かった。「クソどうでもいい会話をしている」ということが、ある意味で逆説的に「2人の間にある長い長い時間の堆積」を想像させるし、そしてそういうことを考えずとも、シンプルに2人の「ダルい会話」は、テンポがとても良かったりで、聞いていて心地よい。そしてそんな会話を、「人殺しをする前後」に普通にしているというギャップも、本作の魅力なんだと思う。

というわけで、もちろんアクションシーンは素晴らしかったし、本作の核となる部分なのだけど、僕は何よりも、2人の会話に惹きつけられた。マジで、この2人の会話、永遠に聞いてられるわー。

あと、クソどうでもいい話だけど、唐突に「灰原哀」が出てきてビックリした。

「ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ」を観に行ってきました

久々にちょっと信じがたい映画だった。冒頭で「実話を基にしている」と表記されるし、本作のラストには、まるでフィクションのようとしか思えない「ある計画」の実際の映像が流れもする。もちろん、主人公は実在の人物で、彼の奮闘により、アメリカ議会で新たな法案が可決されたそうだ。まあそうだろう、それぐらいちょっと凄まじいことをしている。

さて、先に触れておきたいが、本作は映画が始まる前に、非常に珍しい字幕が表示された。「エンドロール中にQRコードが表示されるので、それは読み取って構わない」というものだ。これまで1000本以上の映画を映画館で観てきたが、そんな表記は初めて観た。そしてエンドロールでは、主演を務めた俳優が本作制作の背景や込めた想いなどを語るスペシャルメッセージが流れ、その中で実際にQRコードが表示された。どうも、アメリカで上映されたのと同じQRコードのようで、英語のサイトに飛ばされたのはちょっと残念だったが。こういう仕掛けがあるなら、日本バージョンのサイトは作っておくべきだろうとちょっと感じた。

さて、僕が本作を観る前の時点で知っていたことは、「実話を基にした人身売買の話」という程度だ。で、映画が始まってすぐ、こんなシーンが描かれる。

ロシオという女の子は歌うのが好きで、家の中でサンダルをバシバシ叩いて音を出しながらいつも歌っている。そこに1人の女性がやってくる。オーディションの案内だ。「この子の歌は素晴らしい」と、父親同席で褒め称え、さらに、ちょうど帰ってきた弟のミゲルも一緒に、オーディションへとやってきた。子どもを送った父親は入室を禁じられ、「迎えは夜の7時」と女性から言われる。そうして集められた子どもたち(ロシオとミゲル以外にもたくさんいる)は、カメラに向かってポーズをする。

さて、こんなシーンから始まれば、続く展開は予想できるだろう。しかし、予想できるが、「まさか」と思っていた。そんな大胆なやり方で子どもを攫ったりするだろうか? と。しかし、やはり嫌な予感は当たる。19時に迎えにやってきた父親は、オーディションが行われていたはずの部屋がもぬけの殻であることを知り、絶望する。これが、ホンジュラスのテグシガルパで起こっているのだ。というか、恐らく、その周辺の南米各国で同じことが行われているのだと思う。

本作は最後に、色んなデータが表示されるのだが、人身売買は今、年間1500億ドル以上のいち大ビジネスになっているそうだ。1年間で2200万件のポルノ画像がネットに上がり、過去5年間で人身売買の件数は5000%に膨れ上がっている。さらに印象的だったのが次の表現だ。

【奴隷としての生活を余儀なくされている人の数は、奴隷制度が合法だった時代と比べても、過去最大だ】

悪名高き、アメリカの奴隷制度時代よりも、現代の方が「自らの意思に反した生活を強制される人の数」が多いというのである。そして、その内の数100万人が子どもなのである。信じられない話だ。恐らくそんな事実も関係しているのだろう、本作は5年前(いつの時点から5年前なのかはよく分からない。エンドロール中の主演俳優のメッセージ中に「5年前」と言っていた)に制作されたのだが、色んな障害にぶつかり、上映出来ないでいたそうだ。

そう、そんな子どもたちが最も多く送り込まれるのがアメリカなのである。アメリカとしては、そんな現実を知られたくはないだろうし、そういう意味での圧力みたいなものがあったのかと想像しているがよく分からない。しかしいずれにせよ、「何らかの事情で、完成から5年間も公開できなかった」というのもまた凄い話だと思う。

本作の主人公である米国土安全保障省の捜査官のティム・バラードは、そんなアメリカで「ペド(ペドフィリア 小児性愛者)」を逮捕する仕事をしている。子どもたちは、売られるまでアメリカ国内にいない。そして彼らは、アメリカにいる小児性愛者たちが、違法サイトにログインして子どもを注文したり、あるいは子どもたちのリストとなる顔写真をアップロードした瞬間を狙って逮捕する。つまり、子どもたちがアメリカに連れてこられる前に逮捕してしまうわけで、彼らは子どもを直接的に救うことは出来ない。ティムは、そんな仕事をもう12年間も続けている。映画の冒頭で、若い同僚は、「この仕事から降ります」とティムに伝えていた。まあそうだろう。あまりにもキツすぎる。

というのも捜査官は、報告書を作成するために、ペドたちが撮影していた「変態ビデオ」をすべて観なければならないのだ。そして、そんな苦痛を経ても、子どもたちを救い出せているわけではないのである。ティムだったか若い同僚だったか忘れたが、「殺人現場はいくらでも見てきたけど、これは違う」と、殺人現場を見るよりもさらにキツイ仕事だと言っていた。あまりに想像を絶する世界だが、安易に想像してみただけでもその凄まじさが理解できるだろう。

さて、本作は「実話」を基にしてるようだが、どこまで実話なのかは正直良くわからない。本作は、「発端・調査」「計画1」「計画2」という3つに分けられると思うが、恐らく「発端・調査」と「計画1」は大筋で事実をなぞっていると思う。ただ、「計画2」が分からない。正直、これを「実話」と受け取るのは難しい。そう感じてしまうぐらい、「あり得ない話」なのだ。今のところ僕は、「救い出したこと」と「その救出にティムが関わっていること」は事実だろうが、さすがにあそこまでの展開はなかったんじゃないか、と思っている。

が、本作の凄いところは、「もしかしたら『計画2』さえも真実かもしれない」と思わせてしまうところにある。というのも、「計画1」があまりにもフィクショナルだからだ。しかしこちらに関しては、先述した通り、映画の最後で実際の映像が流れるので、間違いなく事実である。公式HPに書いてあるのでここまでは触れていいと思うが、ティムは「壮大なおとり捜査」を仕掛けるのだ。それがまあ、「映画じみている」というか、「こんな計画を真面目にやる人間がいるとは思えない(しかも本物のアメリカの捜査官が、である)」というか、そんな感じの計画なのである。

そしてだからこそ、「『計画1』が実話なら、『計画2』だって事実かもしれない」と感じてしまうというわけだ。

正直、日本に住んでいると、本作で描かれるような人身売買はあまりピンと来ないだろう。日本は「子どもが1人で電車に乗れる国」であり、平均的な国と比べても安全性が異常だからだ(その理由の1つに、「島国だから」という特異性はあるだろうと思っているが)。ただ日本も、北朝鮮による拉致被害という、状況的にはまったく同じ問題を抱えているし、また、闇バイトによる雑な強盗が増えている現状では、いつ日本の子どもも狙われるか分からない。決して「対岸の火事」ではないと思う。

しかし同時に本作は、子どもを持つ親が観るとちょっとキツすぎるだろうなぁ、と思う。特に、今まさに幼い子どもを育てている最中の人であればなおさらだろう。ただ、そういう「恐怖」を植え付けられたとしても、「もしかしたら……」という可能性を頭の中にねじ込んでおいた方がいいんじゃないかと僕は思う。「娘のベッドがカラなのに、眠れるか?」なんて、絶望的な言葉を口にしなくていいように。

本作で描かれるティムはちょっと凄すぎて、「彼のように行動しよう!」なんて口が裂けても言えないぐらい、信じがたいことをやってのけている。ただ、ティムほどじゃないにせよ、誰にでも出来ることがあるはずだ。そういう主旨の話を、エンドロール中に主演俳優が語っていた。多くの人がこの現実を知ることが大事だし、そのためにこの映画はいい入口になる。普通なら「宣伝文句」に感じられてしまうこの言葉が、実に切実なものとして伝わってきたし、アメリカに生まれ住んでいる者だったら余計に響くだろうなと感じた。

というわけで、しんどいかもしれないが、本作を観てほしい。ただ、「しんどい状況を想像させる」という意味で「しんどい作品」ではあるが、実際には「視覚的にしんどいシーン」はほぼない。その点は安心してほしい。

本当に、ちょっと凄まじい映画だった。

「サウンド・オブ・フリーダム」を観に行ってきました

いやー、久々にまったく分からず、ネタバレサイトを熟読した。しかし、まったく分からなかったのだけど、観ている間も面白かったし、ネタバレサイトを読んで改めて面白かった。そんな、なかなか不思議な作品である。

しかし、僕が読んだネタバレサイトの解釈も「1つの仮説」なのだろうけど、「なるほどなぁ」と思ったのと同時に、「それはまた凄い構成の物語だな」とも感じた。ただそういう作品に仕上がったのには、1つ外的な要因もあったようだ。本作は元々「TVシリーズ」として制作が決まり、パイロット版も作られたが、TVシリーズの話はお蔵入りとなった。その後、フランスの映画配給会社の資金提供を得て映画化されたらしいのだが、元々TVシリーズのつもりで考えていたため、「映画の尺に収めるためのオチ」みたいなものを考えていなかったそうだ(と、僕が読んだネタバレサイトには書いてあった)。そのため、パイロット版として既に撮影済みだった部分から「どうやって物語を展開できるか」と考えて、本作のような話になった、らしい。そうだとしたら、「よくもまあ、後付でこんな物語を作り上げたものだな」とも感じる。

しかし、やっぱり凄いなと思うのは、「ストーリーが全然理解できないのに面白い」と感じたことだ。僕は本作を、1週間限定のリバイバル上映で観たのだが、劇場に入る前に特典のチラシをもらった。裏面には、「デイヴィッド・リンチによる10個のヒント」という文章があり、いつものことながら『マルホランド・ドライブ』について何も知らずに映画館に行った僕は、そこで初めて「なるほど、読み解きの難しい映画なのだな」と理解した。そこで、鑑賞前にその10個のヒントを読んで、なるべく物語を理解しようと思いながら観ていたのである。ちなみに、この10個のヒントは今、ウィキペディアで見れる。

さて、にも拘らず、物語の後半に差し掛かっても、一向に「物語の核を掴めそうな気がしない」という状態だった。メインとなる筋は2つあって、1つは「カナダからやってきた、ハリウッドで女優になるためにしばらく叔母の家に住むことになったベティが、何故か叔母の家にいた、記憶を失ってしまったという謎の女性リタの記憶を取り戻す手助けをする」というもの。そしてもう1つは、「アダムという映画監督が、主演女優の選定を強要されたり、妻に不倫されたりする」という話だ。そして、この大筋の2つの話さえ、一向に繋がっていかない。

さらに作中には、「夢で出てきたカフェを見に来た男性」や「明らかに服の上から乳首が透けた女性が男2人と会話する場面」などが描かれるのだが、それらも結局何がなんだか全然分からない。大筋の2つの物語は、一応「展開が存在するパート」という感じがするが、それ以外の映像は「断片の羅列」みたいな感じで、物語の中に収まる場所が存在するように思えないのだ。とにかく意味不明だった。

でも、にも拘らず、「面白い」という感覚になるんだよなぁ。これが不思議だった。何が面白かったのかは正直よく分からないし上手く説明できないのだが、「ストーリーが意味不明なのに全然観てられるなぁ」と感じた。まあそれは、主演を務めたナオミ・ワッツとローラ・ハリングのビジュアルの強さも関係しているかもしれないが。

さて、映画を観ても自力では何も分からなかったのだが、ネタバレサイトを読んで、「なるほど、そういう理由でああいう描写が出てくるのか!」と納得していく過程もまた面白い。特に、個人的に一番納得できたのが、「アダムが主演女優の選定を強制される」という描写。本作では、この点に関する描写がかなり出てくるのだけど、正直「何なんだこれは?」としか思えなかった。しかし、「ある人物の想い」を知ることで、「なるほど、だったらそういう描写になるよな!」と納得できたのである。正直、「単に訳の分からないシーンを描いているだけ」にしか思っていなかったので、この点にちゃんと説明が付くのは驚きだった。

他にもネットで調べると色んな人が色んなことを書いているので調べてみるといいだろう。僕は正直、「考察の入口」さえ潜れなかったので、他人の考察を読んで回るぐらいしか出来ないのだが。『TENET』や『鳩の撃退法』では、割と自分なりにしっくり来る仮説をネタバレサイトを読む前に構築出来たので、本作『マルホランド・ドライブ』でそれが出来なかったのは残念だった。でも、これはマジで無理だなぁ。自力でたどり着けた気がしない。ただ、この映画の構成は見事だったし、前例ももしかしたらあったりするのかもしれないけど(例えば小説などで)、だとしても本作は、そんなアクロバティックな構成をかなり見事に乗りこなした作品と言って良いだろうと思う。

僕はあまり同じ映画を2回以上観たりしないのだけど、本作は、「繰り返し観たい」という気になるのも分かるなと思う。世の中にある「もう一度観たくなる!」的な作品って結局、「ネタ」だけで引っ張ってるみたいなところがあるから、ネタが割れてしまうと「もう一度観よう」という気分にはならないことも多い(これは小説も同じ)。ただ本作は、「よく分からないけど面白い」という感覚をもたらす作品であるため、繰り返しの鑑賞に耐え得るだろうなと思う。考察したい人は何度も観て色んな描写にヒントを探すだろうし、そうでない人も、映像や役者など様々な要素を目当てに何度も観たい気分になるだろう。

そんなわけで、久々にまったく理解できない意味不明な映画だったが、観て良かったと思える非常に魅力的な作品だった。

「マルホランド・ドライブ」を観に行ってきました

これはなかなか興味深い映画だった。例によって「ブラッド・スウェット&ティアーズ(BS&T)」というロックバンドのことは知らなかったが、「米ソ冷戦」を背景に、「『鉄のカーテン』を越えた初のロックバンド」と称された彼らの数奇な運命が映し出される。しかも、「当時は言えなかった事情」により、彼らは「何故そんなことをしたのか?」を説明できなかったため、悔しい思いをしたそうだ。「アメリカのビートルズ」とも呼ばれ、「画期的なホーンアレンジ」「ジェネレーションギャップの時代に世代を越えられるバンド」とも呼ばれた超人気ロックバンドは、政治の渦に巻き込まれたために、その実力が大いに評価され、世間からも人気を集めていたにも拘らず、短命に終わってしまった。

さて、「『鉄のカーテン』を越えた」という表現からも分かる通り、彼らは「共産主義国」だった東欧の3国、具体的にはユーゴスラビア、ルーマニア、ポーランドに西側のロックバンドとして初めてコンサートを行ったのである。そしてこの出来事が、大人気だった彼らの運命を大きく変えてしまうことになった。

本作は冒頭で、「コンサート中やそこに至るまでの大変な出来事」についてのダイジェストがまとめられる。「空港を出ると銃を持った兵士がいた」「まるでスパイ映画のようだった」「客席に警察犬を放し、観客を追い払おうとしていた」など、ちょっと信じがたい話が色々と出てくる。これらは、後で分かるが、ほぼすべてルーマニアでのライブでの出来事である。

その後、「BS&Tが何故東欧ツアーに行くことになったのか?」という経緯を説明する流れの中に、「ラリー・ゴールドブラッドという謎のマネージャーの存在」や「BS&Tの結成秘話とアル・クーパーの脱退」「東欧ツアーに至るまでにいかにしてBS&Tは大人気ロックバンドになったのか?」みたいな話が挿入されていくことになる。どの話も、東欧ツアー中の出来事ほどではないものの面白く、エピソードに事欠かないバンドだなと感じた。

というわけでまずは、本作の最も核心的な部分である東欧ツアーの話をざっとしていくことにしよう。

先ほど触れた通り、このツアーの背景には米ソ冷戦の存在がある。1968年にニクソン大統領は「ベトナム戦争からの撤退」を掲げて支持を集めたが、結局戦争を悪化させただけであり、そしてベトナム戦争はアメリカ国民を分裂・分断していく。そしてこのような時代背景があったのだろう、アメリカでは「カウンターカルチャー」という、「高級文化に抵抗する文化」が広まっていくことになる。BS&Tがデビューし人気を集めたのも、そんなカウンターカルチャーの渦中であり、彼らはまさに「カウンターカルチャーの旗手」のような存在としても受け入れられていたのである。

またアメリカは、「米ソ冷戦において、アメリカが軍事化し冷酷な印象になっていくこと」を危惧していたそうだ。そこで国務省は、1954年から「他国の人にアメリカの芸術に触れてもらう」という国際文化交流プログラムを始めた。当初はクラシックがメインだったが、その後ジャズも組み込まれていく。そしてBS&Tは、当時誰もやっていなかった「ジャズとロックを融合させる」ことに成功したバンドであり、当時アメリカで大人気だったという事実も合わせ、彼らも「アメリカ文化に触れてもらう」という名目に合致すると見なされたのだろうと思う。

しかし、実はそれだけではなかった。BS&Tが東欧ツアーに”行かざるを得なかった”のには、もっと大きな理由が存在したのだ。

9人編成のバンドでボーカルを務めるデヴィッドはカナダ人で、アメリカのグリーンカードを取得していた。しかしある時、国が彼のグリーンカードを取り上げようとしたのだそうだ。カナダにいる時の犯罪歴などが問題視されたのだという。しかし、デヴィッドのグリーンカードが奪われたら、BS&Tは成り立たない。実はデヴィッドは、先程名前を出したアル・クーパーが抜けた後でオーディションによって選ばれた人物であり、彼の歌声を聴いた瞬間に、バンドメンバーが皆「こいつだ!」と言ったぐらい、バンドには欠かせない存在なのだ。アル・クーパーがいた頃に出したファーストアルバムは、そのクオリティの高さから称賛されたが、商業的には上手くいかなかった。しかしデヴィッドに変わってから出したセカンドアルバムは、当時のアルバムの販売記録を更新する凄まじい売上を記録したという。

つまりBS&Tは、なんとしてもデヴィッドのグリーンカード剥奪を阻止しなければならなかったのだ。実はこの事実こそ、当時口止めされていたものだった。この事実があったせいで、彼らは東欧ツアーに行かざるを得なくなったのだが、その説明はしてはいけないと言われていたため、世間的には「BS&Tが望んで東欧ツアーへ行った」ような印象になってしまい、それが帰国後、彼らを厳しい状況へと追い詰めることにもなった。

さて、ここで登場するのが、先述したマネージャーのラリー・ゴールドブラッドである。彼が何故マネージャーに就任したのかの説明は駆け足すぎてよく分からなかった、ある人物がバンドメンバーに「こいつをマネージャーに」と言った時、ラリーは刑務所にいた。しかし、とにかく才覚があったのだろう、BS&Tのマネージャーに収まり、そして彼はデヴィッドのグリーンカードを守るために国務省と取引をした。

それが東欧ツアーだったのだ。つまりBS&Tは「グリーンカードを剥奪されたデヴィッドを失って解散する」か「嫌だけど東欧ツアーへ行き、BS&Tを守るか」という2択を迫られていたのだ。こうして彼らは、東欧ツアーへと向かうことになったのだ。

さて、帰国後の記者会見の中で、記者から「共産主義国の独裁政治は、アメリカのプロパガンダでしたか?」と質問されていた。他にも色々と聞かれていたのだが、それらをメンバーの1人は「敵対的な質問」と表現していた。先の質問は、表面的には「『鉄のカーテン』の向こうでは本当に独裁政治なんて行われてるの? アメリカが冷戦を煽るために嘘ついてるだけじゃないの?」という意図が込められているのだが、さらに言えば、「国務省のお抱えで東欧に行ったあんたらは、アメリカの犬なんだろ? だから、本当は独裁政治なんてないのに『独裁政治が行われていた』と言ってるんだろ?」みたいな意図が含まれていたのだと思う。恐らくそれを捉えて「敵対的な質問」と表現していたのだろう。

まあそれはともかく、記者からそんな質問が出るぐらい、アメリカでは「鉄のカーテン」の向こう側のことはよく分かっていなかったと言っていいと思う。そして彼らは、そんな「『鉄のカーテン』の向こう側の現実」を見てしまったのである。

最初に訪れたユーゴスラビアは、大きな混乱はなかった。いや、観客が熱狂したり、そうかと思えばつまらなくて帰ったりみたいなことはあったが、2ヶ国目のルーマニアと比べれば大したことはない。

ルーマニアでのライブは、大いに盛り上がった。西側の文化がまず入ってこないルーマニアでは、あまりに画期的なイベントだったのだ。本作には、このライブを観に行った観客のインタビューも収録されているのだが、「単なるコンサートではなく、『国境の向こうの大いなる自由』を教えてくれた」「チェコのように解放される、このコンサートはそこへと向かっているという証なんだ、と思っていたが、そうではなかった」と、「単に音楽を聞きに行った」というのではない想いを抱く観客が多かったそうなのだ。

そして、盛り上がりすぎたが故に、問題が起こった。ルーマニアの時の政権が危険視したのだ。まあ、先の観客の証言を踏まえれば、政権の危惧もあながち間違っていなかったと言えるだろう。観客の盛り上がりは、もちろんBS&Tのライブが素晴らしかったことによるものだが、同時に、「ずっと抑圧されていて自身の感情を表に出せない」という日常に対する不満を爆発させたものでもあり、それが行き過ぎれば抑えきれない暴動のようなものに発展してしまう可能性もあっただろうと思う。

そのためルーマニアは、初日を終えたBS&Tに、「今後ライブを行う場合の条件」を提示した。「リズムを控えめに」「音量を下げろ」「服を脱がない」「長髪のスタッフはステージ下に」など色んな話がある中、「楽器を客席に投げない」というものがあった。これは、BS&Tの『微笑みの研究』という曲が関係している。この曲は、ドラを3回鳴らし、4回目のタイミングでドラを客席に投げ、それが落ちた音を合図に楽器の演奏が始まる、という始まり方をするのだ。それを止めろというわけだ。BS&Tは、とりあえずOKした。

しかし、ロックバンドである彼らが、そんな話を守るはずもない。彼らはやはり、ドラを客席に投げ捨てたのだ。しかし、それでもライブは中止にはされなかったようだ。それどころか、アンコールを求める客が帰らず、叫んだり歌ったりして興奮していた。そこで警察は、警察犬を客席に放ち、観客を帰らせようとしたというわけだ。

さて、この2度目のライブの様子は写真しか存在しない(映像の撮影は禁止というのもライブ継続の条件だった)のだが、東欧ツアーの様子は概ね映像に残っている。それは、「ドキュメンタリー映画の撮影隊」も同行していたからだ。ライブツアーは、国務省のスタッフも含めて57人だったそうだが、その中に撮影隊もいたというわけだ。そして、ルーマニアから3ヶ国目のポーランドへと移動する時に、また信じがたい出来事が起こる。

ルーマニアの空港スタッフは、撮影済みのフィルムをX線検査機に通せというのだ。もちろん、撮影したフィルムをダメにしようとしてのことだ。2日目の映像はないわけだが、初日も観客を抑え込むために警察が動いており、そういう様子が映っているとマズいと考えたわけだ。しかし実際には、ルーマニアで撮影した映像もきちんと残っている。一体どうなっているのか?

なんと、ライブが終わった後、彼らはフィルムをホテルではなくアメリカ大使館に持っていったというのだ。そしてそこで、「撮影済みのフィルム」と「未使用のフィルム」を入れ替え、空港には「未使用のフィルム」を持っていったのである。「撮影済みのフィルム」は大使館の冷蔵庫で保管し、その後回収したというから、本当にスパイ映画みたいな話である。ちなみに、ポーランドでのライブは大成功だったらしく、メンバーの1人は「素晴らしい観客だった」と語っていた。

しかし彼らは帰国後、先述した通り、「アメリカの犬」みたいな扱いをされてしまうことになる。「国務省の言いなりで東欧までライブに行ったダサい奴ら」みたいな感じなのだろう。メンバーの1人は、「政治的に批判される時は大体左派は右派のどちらかから攻撃を受けるものだが、僕らは両方からだった」みたいに話していた。ニクソン大統領への不満が高まっていたのだろうし、メンバーが帰国後の記者会見で「『国民』と『政府』の二項対立にしたがる」みたいなことを言っていたが、とにかくそういう状況だったんだろうなと思う。そんなわけで、彼らは「国の言いなりになった」ということであらゆる政治思想の持ち主から嫌われたという。ライブ中に馬糞が投げつけられたこともあったそうだ。

しかし、それはまだ仕方ないと言えるかもしれないが、決定的にダメだったのが、「カウンターカルチャー層からの支持を失ってしまったこと」である。「カウンターカルチャー」は「高級文化」に対するアンチテーゼなわけで、となれば、「国のお墨付きでライブに行く」などもっての外だろう。彼らは東欧ツアー以前に、ラスベガスのシーザーズパレスで行われたライブに出演した際にも同じようにカウンターカルチャー層からの支持を失った経験がある。だから、東欧ツアーに行くことで同じことが起こると理解できていただろう。それでも彼らは、デヴィッドのグリーンカードを守るために東欧ツアーに行くしかなかったわけだが、帰国後やはり、カウンターカルチャー層からの不支持を目の当たりにしたというわけだ。

こうして彼らは、一躍時の人となりながら、「冷戦」という、ロックバンドとは最もかけ離れているだろう時代背景に巻き込まれたために、その後長く活躍するはずだった時間を早々に失ってしまうことになったのである。メンバーの1人は、自身の身に起こったことを「フェアじゃない」「ハメられた」と話していたが、そう言いたくなるのも当然だと思う。「不運」という言葉では語れないが、実に不運だったと思う。

ちなみに、帰国後のコンサートの際に、アビー・ホフマンという人物がコンサート会場の前で「血と汗とデタラメ野郎」というビラを配っていたという話が出てきた。「アビー・ホフマン」という名前を聞いて、「映画『シカゴ7裁判』に出てきた気がする」と思ったのだが、調べてみるとやはりそうだった。彼は、自身の主張を広く伝えるためにBS&Tのライブが利用出来ると考えたのだそうだ。ちなみにある人物は、「アビーは写真の撮り方が分かっていた」「インスタグラムが出来る前に存在したインスタアーティストだ」みたいに表現していた。

また、本作にはBS&Tのドキュメンタリー映画のために東欧まで同行した監督も出演していたが、結局ドキュメンタリー映画はお蔵入りになってしまったと話していた。編集や上映には国務省の許可が必要で、その国務省は「アメリカ・東欧のどちらでも上映できる内容に」という指示を出したため、「そりゃあ無理だ」となったそうだ。まあ確かに、ドキュメンタリー映画としては、「東欧諸国が『出してほしくない』と感じる映像」にこそ価値があるわけだが、それが使えないのだから、監督が言うように、「単なる旅行記。しかもつまらない」みたいな内容になってしまうだろう。まあ、本作『ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?』でようやくその映像が日の目を見たわけで、それで良かったとするしかないだろう。

音楽のことはよく分からないが、彼らがこんな騒動に巻き込まれなければ、クイーンのように「今でも名前が残るミュージシャン」になれていたかもしれないわけで、本当に残酷だなと思うし、だからこそ、そんな彼らの数奇な人生を映し出した本作は面白いとも言える。

「ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?」を観に行ってきました

「きっと意味が分からないだろうなぁ」という想定で観に行ったので別に全然いいのだが、やはりよく分からなかった。

よく分からないというか、「別の惑星で展開される物語」という感じがしたと言ったらいいだろうか。

もちろん、見た目は人間だし、っていうか、菅田将暉や古川琴音、窪田正孝、岡山天音、奥平大兼と知っている俳優が出てくるわけで、当然、見た感じは「人間の物語」なのだが、ただ、登場人物は皆、「人間の理屈」で動いているように見えない。だから、「地球の人間と見た目がそっくりな地球外生命体が存在し、そこで展開されている物語を観ている」と思うほうがしっくり来る。

この物語には、人間はいない。「人間の理屈」では、彼らの行動を捉えきれない。

ただ、個人的にちょっと面白かったのは、菅田将暉演じる吉井良介が、最後の無茶苦茶な展開の中で、唯一「人間っぽくなった」ことだ。他の人物は最後の最後まで人間っぽくないのだが(一瞬だけ出てくるみたいな人物はその限りではないが)、吉井良介だけは、「ある物」を持って駆け回らなければならなくなった時から、急に「人間っぽく」なった。狂った世界の中で、1人だけ目が覚めたみたいな感じがある。それがこの物語の中でどういう意味を持つのかはよく分からないが、印象的だったことは確かだ。

ちなみに、本作を観る前に、菅田将暉がある番組内で、本作監督である黒沢清について語っていたのだが、その話は少し「人間っぽくない」話に関係するかもしれない。菅田将暉曰く、多くの監督は「感情ベースで演出をする」らしいが、黒沢清はそういうことはあまりなく、役者が「この時の役の感情は?」みたいに聞いても、「うーん、どうかな、分かんない」みたいに答えるという。しかし、「動きの演出」はかなりクリアにされるらしく、そしてそれが「不気味さ」を増すようなものなのだそうだ。そういう話を聞くと「人間っぽくない」みたいに見える理由も納得できるような気がする。

本作は、「クラウド」というタイトルらしく「匿名性」みたいなものが物語の背景にある。主人公の吉井は「転売ヤー」として社会に益をもたらさない存在として生きているが、仕入れはともかく、物品を「売る」時には吉井は「ラーテル」という匿名の存在になる。また、そんな吉井が「標的」にされる過程や「狩り」に関わる者たちにも「匿名性」が関係してくると言えるだろう。

ただなんというのか、そんな「根底に流れるテーマ」が、上層にはあまり上がってこない。確かに「物語がこう展開するということは、その陰で『匿名性』に関するあれこれがあったのだろう」みたいな感じにはなるのだが、あくまでもそれは「想像させる部分」であり、物語の中で実際に可視化されることは少ない。

そしてそれよりも、「対面の関係でも『本当の自分』を隠している」みたいな意味での「匿名性」の方が、本作においてはより強く浮き出る要素であるように感じられた。

先ほど「別の惑星に生きる地球外生命体の物語」みたいな話をしたが、本作を「人間の物語」と捉えるならば、「『表の自分』と『本当の自分』は異なり、『本当の自分』は隠れたまま」という風にも受け取れる。登場人物の中には「きっとこれが『表の自分』なのだろう」と感じさせる者も出てくるし、それはそれで「その両者には断絶がある」みたいな描写として機能する。しかし同時に、吉井やその恋人である秋子なんかは、「結局何が『本当』なのかよく分からない」みたいな感じになる。

菅田将暉は意識的に「アホみたいな喋り方」をしている気がするし、秋子を演じた古川琴音は割と過剰に「ミステリアス感」を出しているような印象があった。そして何となくではあるが、「彼らにとってそれは特に『鎧』というわけではない」みたいに感じさせる点もまた興味深い。

「本当の自分」を守るために「表の自分」を「鎧」として機能させるみたいな話は分かりやすいが、吉井にも秋子にも特にそんな雰囲気はない。だから「人間ではない」ように見えるし、さらに言えば、本作の「共感を完全に排除している雰囲気」にも繋がっているのだろう。「共感なんか微塵も狙っていない」と理解できればある意味では受け入れやすくもなるだろうし、そういう感じを突き詰めているところは良かったかなと思う。

しかし、「人間の行動原理なんてそうそう分かるもんじゃない」と思っているし、そういう複雑性みたいなものがあるから人間は面白いとも思うのだけど、それにしても本作は「どうしてそんな行動をしているのか分からない」みたいな人間が多すぎる。特に謎なのは、物語の割と早い段階で吉井に「君はそういう人間じゃない」と言っていた人物。このシーンの「他人のことを理解できていない感」も凄かったが、その後の「えっ?こいつは一体なんでここにいるわけ?」みたいな感じも凄まじかった。ただこの人物も、どちらかと言うと後半の方が「人間っぽい」感じがあって、それもまた奇妙な感想なのではあるが。

しかし何にしても、役者が上手いよなぁ。変な言い方だが、「ストーリーがちゃんとある物語」の場合は、役者の演技が多少下手でもストーリーがちゃんとしてれば楽しめるが、本作のように、ストーリーと言えるようなものがあるんだか無いんだかよく分からない作品の場合は、役者の演技が下手だと致命的だ。その点本作は、とにかく役者が皆上手いので、「人間っぽくない人物」を演じているのに、全体としては成立しているような雰囲気がある。また、ともすれば「感情が見えない下手くそな演技」に見えてしまいかねない演技をしていても「下手」には見えないという部分も大きい。特に吉井を演じた菅田将暉は、「吉井良介」という人物を成立させる絶妙なラインを渡りきっている感じがした。というか、「菅田将暉が演じている」という事実が吉井良介を成立させていると言えるかもしれない。

あと、奥平大兼が演じた役は、マジでまったくリアリティがないのだけど、そんな人物を「ぎりぎりリアルにいるかもしれない」と思わせる方に引き寄せる演技をしていた奥平大兼も良かったなと思う。この佐野って役も難しいよなぁ。ってか本作の役は全部難しいだろう。リアリティが全然ないから、役者も演じるのに苦労したんじゃないかと勝手に想像するんだけど、どうなんだろう。

まあそんなわけで、「共感」とか「納得」とか「爽快」みたいなものを求めて映画を観たい人にはまったくオススメしないが、「なんだかよく分からないけど凄いものを観た気がする」みたいな気分になりたいならオススメである。

「Cloud クラウド」を観に行ってきました

凄く良かったかというと、そんなことはないのだが(私はこういう淡々とした映像を観ると、どうしても眠気に襲われてしまう)、やはり「映像の圧力」みたいなものが圧倒的だった。雄大・壮大・荘厳、なんと呼んでもいいが、「オルデダーレン」と呼ばれる、世界有数だというフィヨルドの大地の自然が「凄まじい」という感覚をもたらすほどの存在感があり、そして、そこに住む84歳75歳の夫婦の日常もまた、穏やかで力強く、惚れ惚れするような雰囲気があった。

ただ、「壮大な自然を映し出すドキュメンタリー映画」というのは、まあ存在するだろう。自然そのものがメインだったり、あるいはそんな自然に立ち向かう冒険家を映し出すものだったりと種類は色々だろうが、「壮大な自然」という点だけを抜き出すなら、そう特筆すべき点はないだろう。

しかし本作には、この監督にしか撮れない「特異さ」が含まれている。なんとこのフィヨルドの大地は、監督の「故郷」だというのだ。映し出される老夫婦は彼女の両親であり、監督は「壮大な自然をバックに、両親にカメラを向けている」のである。これは、狙って手に入れられるような属性ではないし、この監督ならではの作品と言えるだろう。

監督は作中で、「家を出て30年」と言っていた。それからずっと、夫婦2人で、この「最果ての地」のような場所で暮らしてきたというわけだ。そして、恐らくそれまでもちょくちょく戻っては来ていただろうが、娘が30年ぶりに「実家」へと戻ってきた。娘は両親に「あなたたちのことをもっと知りたい」と、撮影を頼んだそうだ。すると、84歳の父親は、「1年は必要だろうね。そうすれば分かる」と言ったという。

そんなわけで本作は、1年を通した壮大な自然の変化を追う作品に仕上がっている。

84歳の父親は、凄まじく健脚である。彼は、若い人だって上るのに苦労するんじゃないかと思うような岩だらけの斜面や雪道などもすいすい歩いていく。妻は9歳年下なので、普通にしていたら妻の方が歩くのが早くなる。だから父親は、妻といつまでも一緒に歩けるように、鍛錬として毎日歩いているのだそうだ。この夫婦、キャンプファイヤーのような焚き火の傍で音楽に乗せて踊るなど、実に仲がいい。

父親を映し出すカメラは基本的に、ずっとどこかを歩く姿を追っている。父親は、自分でも言っていたが、「立ち止まっていられない」ようだ。歩いているのは「CGみたい」「オンラインゲームの舞台みたい」な、ちょっと現実感を失わせる自然で、そんなところを老人が黙々と歩いている様もまた、現実感が薄い。圧倒的な自然の圧力に押されっぱなしなわけだが、しかしどことなく「変な冗談」を見させられているような気分にもなる。

そして父親は時々、この地でのこれまでの暮らしについてポツリポツリと語る。そのどれもが、50年、100年以上前の話だ。雪崩が起きて親戚の多くが命を落とした、祖父が早くに亡くなったため、父親は11歳で牧場を継がなければならなかった、などなど、厳しい環境の中でどうにか生きてきた、先祖を含めた来歴について語る。雄大な自然をバックに、悠々自適と言っていいだろう日々を送る老人の口から語られる話としてはなかなか違和感がある。しかしその違和感が、「自然は美しいだけではない」という感覚を際立たせてもいるわけで、「視覚情報」との乖離にも意味があるように感じられた。

さてしかし、94分の上映中、「人間が映るシーン」は、僕の体感では3~4割といったところではないかと思う。そして残りは、「ドローンか何かで撮影した雄大な自然」である。繰り返しになるが、この自然が本当に「リアルに存在するとは思えないもの」で、その上でさらに「ここに人が住んでいる」という事実を重ね合わせることで、余計に現実感が失われる感じがある。

自然は、空・雲・川・滝・草原・雪原・凍った海・オーロラなど様々なものが映し出されるのだが、個人的に一番驚いたのは氷河だ。正確に言えば、「画面に氷河が映し出される際の音」である。「ギゴゴゴゴ」みたいな、何がどうなって発されているのか分からない音が、氷河が映るシーンには必ず聞こえた感じがある。それ以外の音は、「自然の音」と聞いてイメージできるものばかりだったが、この氷河だけは、自分の脳内にストックがない音で、その奇妙さにも惹きつけられた。

しかし、「ソング・オブ・アース」というタイトルは絶妙だなと思う。確かに本作は、映像にも圧倒されるが、自然が鳴らす音にも惹きつけられる。その音には「静寂」も含まれる。僕らはもう、「本当の静寂」みたいなものを体験することはなかなか出来ないが、オルデダーレンでの生活では、それが「聴こえる」と言っていいだろう。

本作を観ながら、映画『人生フルーツ』のことを連想したが、鑑賞後に公式HPを観ると、やはりその映画に言及されていた。スケールこそまったく違うものの、『人生フルーツ』で映し出される夫婦と本作の夫婦は、近いものが感じられる。「自然の中に生きる」というよりはむしろ、「自分は一個の自然である」みたいな感覚をまとって生活している雰囲気があるし、その考え方が夫婦で共有されているからこその「穏やかな生活」なのだろう。

さて、作品としては「ここでの生活を娘がどう感じているのか」という話が含まれていなくて正解だと思うが、個人的な興味として、彼女がどのように考えているのかは気になる。彼女は作中で、「今でもここが私の家よ」と言っていたが、果たして、両親のような生活をしたいと思っているだろうか。

僕はどうかと言うと、「60歳を超えたらこういう生活もいいだろうな」という気持ちもありつつ、それはやはり机上の空論で、僕にはきっとこんな生活は出来ないだろうなとも思う。憧れがないわけではないが、やはり僕は都会で雑音に塗れて生きていこう。

「SONG OF EARTH/ソング・オブ・アース」を観に行ってきました

さて、そんなに観ようと思って観たわけではないのだけど、テレビ観てると、死ぬほど番宣してるんで、まあ観とくかと思って観てみた。

全体的な感想としては、「脚本がよく出来てますね」という感じ。ただ、これが難しいのだが、「脚本がよく出来てる」のと「面白い」のとはちょっと違う。そして本作は、決してつまらないわけではないのだけど、「面白い」という感じにはなりにくい気がした。いや、「要素」としては面白い要素は色々あるのだが、「脚本」自体がその「面白い要素」になれているかというと、ちょっと微妙な気がする。脚本は「よく出来てる」が「面白い」かというとちょっとなんとも言えないなぁ。

というのも、物語がちょっとアクロバティックすぎる(まあ、それも捉え方次第ではあるが)ので、「フィクション」としか捉えられないからだ。

「フィクション」でもやはり、「この登場人物には共感できる」「この設定は凄く身近だなぁ」みたいな要素を加えることで「自分ごと」に感じさせれば「面白い」に近づいていく気がするのだけど、本作は、「物語を成立させるための制約条件」が多いので、「自分ごと」みたいな要素を加える余地がない。

例えば、少し前に観てビックリした映画『リバー、流れないでよ』は、「2分間が繰り返される」という、ちょっと観たことのないトリッキーな「制約条件」があったのだが、この作品の場合、その「制約条件」はある意味で「外枠」でしかないので、物語そのものにはさほど影響しない(まったくしないわけではないが)。なので、非常にトリッキーな設定の作品だったけれども、「物語」は「自分ごと」に感じられる要素があったし、だから「良い作品だなぁ」と思えたのだと思う。

しかし本作の場合は、その「制約条件」が「内容そのもの」に絡んでくるので、「そういう物語を展開させるなら、物語のこの部分はマストで固定されないといけない」みたいなものが多い。そういう中で工夫して面白くしているとは思うのだけど、やはりそれでも、「自分ごと」に感じられる要素は決して多くはなく、だから脚本に対しては、「よく出来てる」と思うけど、なかなか「面白い」というところまでいかなかったように思う。

あと、これも「内容そのものに制約条件が存在する」が故の難しさだと思うのだけど、1点、物語としてクリア出来ていないポイントがあると思う。ネタバレにならないように書くのでよく分からないかもしれないが、「小宮がかたる話には無理がある」と思う。というのは、「『丸子が何を知っているか』を知らなければかたれない話」だからだ。この点は恐らく、脚本を担当した監督もきっと理解していたとは思うが、たぶんどうやっても解消できないと思うので「えいやっ!」という感じで目を瞑ることにしたのだろう。エンタメ作品なのでそういう部分をとやかく言うものではないと思うのだけど、こういう「二転三転四転五転」みたいな物語の場合は、「辻褄は合ってるのか?」みたいな部分がどうしても気になってしまう。

さて、というわけで、ネタバレをしないように内容の紹介をしてみよう。

丸子夢久郎は、4年前のコロナ禍でバイトを切られ、学費を滞納するほど生活に困っていた。そんな折、テレビで「コロナ禍でネットショッピングが増え、宅配の需要が増えている」というニュースを見て、「誰かに必要とされたい」という気持ちもあって、八谷運輸で配送ドライバーとして働くことになった。しかし丸子は、仕事が遅いと怒られることが多く、所長からは「次はないからね」と言われている。

配送担当地域はドライバー毎に決まっており、丸子は2週間前から「クレマチス多摩」というマンションを担当することになった。普段から同じ場所に配送していると、住人のことにも詳しくなっていく。ゴミの分別をしない人や、配送の担当になってから一度も自宅にいたことがない人など、色んな人がいるものだ。

さて、八谷運輸で仲良くしている先輩の荒川は、「小説家になろう」というサイトで小説を書いており、以前から「読んでコメントを書いてくれ」と言われていた。仕方なく「ゾンビに転生する」という物語を読み始めるのだが、これがどうにもつまらなかった。しかし、荒川の小説を読んでいる時にたまたま見つけた「スパイ転生」という小説が、もの凄く面白かった。コミヤチヒロという名前で定期的に小説を発表する彼女の作品に、丸子は虜になり、いつしか彼女の小説を読むのが生きがいのようになっていった。

そしてなんと、クレマチス多摩の205号室に「小宮千尋」という住人がいるのである。配達の際、チラッと部屋の奥が視界に入り、そこには「小説家になろう」のページを開いたパソコンが置かれていた。やっぱり、間違いない。コミヤチヒロは、彼女だ。

しかし、クレマチス多摩へと配達を続ける中で、どうにも不穏なことが続いた。そして丸子にはそれが、「205号室の小宮千尋がストーカー被害に遭っている」ようにしか感じられなかったのだ。警察に通報するか? しかし、荒川から「もし違ってたら、所長が黙ってないぞ」と脅される。もっと確実な証拠を手に入れなければ。そう考え、丸子は「配達員」の領域を超え、「小宮千尋がストーカー被害に遭っている証拠」を掴もうとするのだが……。

本作は割と、高橋文哉の良い感じの演技で成立している部分はあるなと思います。高橋文哉演じる丸子は「ちょっとトロいし、弱いっぽいんだけど、『憧れの小説家を守る』ために奮起する」というキャラクターで、「そういうキャラクターじゃないと成立しないシーン」は結構あったように思う。とにかく、「どう考えても一番怪しいのは丸子」なんだけど、その違和感を可能な限り最小限にする役割を高橋文哉がちゃんと担えている感じがあって、そこは良かったなと思う。

あとは北香那と染谷将太の「何を考えているんだかよく分からない表情」も、本作を成立させるためには必要な要素だったなと思う。作品の設定に合ったエンドロールも凝ってて良い。

あと、作品とは全然関係ない話なのだけど、「マジか」と思った話を1つ。「北香那」のことを僕はずっと「きたかや」だと思ってたんだけど、それだとGoogle日本語入力では出ず、「?」と思ってたら、「きたかな」なんですね、この人。で、それはいいんですけど、Filmarksの「あらすじ」には「北香耶」と、そして「出演者」には「北香那」となってて混乱しました。っていうか、公式HPの「STORY」も「北香耶」ってなってるんで、公式がそもそも間違ってるんだろうな、と思うんだけど。まあ、そんなどうでもいい話を最後に書いて終わります。

「あの人が消えた」を観に行ってきました

さて、相変わらず「パトレイバー」の何たるかを知らないまま本作を観たけど、面白かった!僕が鑑賞前に知っていたのは、「確か押井守の作品だった気がする」ぐらい。そんな人間でもちゃんと楽しめるぐらいバッチリエンタメ映画をやってるし、シンプル(少なくとも2024年視点からはそう見える)なのに割と深い物語を描いている感じもあって、純粋に楽しめた。

しかし、本作が1989年の映画だってのはちょっと凄いなぁ。現代なら「OS」「プログラミング」「ウイルス」「ワクチン」「トロイの木馬」みたいな話はまあ普通に通じるだろうけど、「Windows95」が発売されたのが1995年なんだから、それよりも6年も前にそんな話を中核に据えた物語がエンタメ作品として上映されていたことにはちょっと驚かされる。当時の、コンピュータオタクというわけではないごく一般的な人たちは、物語の設定とかちゃんと理解できたんだろうか? そういう意味でも驚かされる物語だった。

さてそんなわけで、内容の紹介をしよう。

東京では今、政府主導の「バビロン・プロジェクト」が進行している。その一環として、東京湾に「木更津人工島」と「川崎人工島」の2つが作られ、既に人々が生活している。「木更津人工島」の広さは45万平方メートル。いずれ2つの人工島が大環状線によって接続され、さらに16箇所作られている排水装置により排水を行うことで、東京湾に4万5000ヘクタールもの用地を確保しようという壮大な計画だ。

しかしあまりにも壮大な計画故に、今世紀中の完成は不可能と思われていたが、それを解決したのが「レイバーシステム」だった。「レイバー」とは人が乗るタイプの産業用ロボットで、熟練の職人の数十倍の能力を発揮する。既に東京近郊では、「バビロン・プロジェクト」のために3600台のレイバーが稼働しているが、それは、国内で保有するレイバーの45%に相当する。そして、そんなレイバーの整備すべてを担っているのが、これも東京湾上に建設された通称「方舟」である。

さて、そんな木更津人工島に常駐する警視庁特車2課の第2小隊は、ここ1ヶ月の勤務で疲弊していた。というのも、ここ1ヶ月で「レイバーの暴走事件」が22件も起こっているからだ。先月まではほとんど起こっていなかったにも拘らず、である。さらに、交代としてやってくるはずの第1小隊は、「自衛隊の試作レイバーの暴走事件」のせいで1週間訓練期間が延びたため、第2小隊の面々はこの過酷な勤務を最低1週間も続けなければならなくなった。

一方、第1小隊の隊長である南雲は、先日新たに導入された新OS「HOS」の検証を行っていた。レイバー製造の後発だった篠原重工が、市場の独占を狙って発表した画期的なOSで、機体が旧式でも「HOS」のインストールによって性能が30%も上がるとされていた。しかし南雲はとある筋から確認を依頼され、内密に検証しているのだった。

そして、第2小隊に所属する篠原遊馬は、直近で起こった22件の暴走事件を精査し、共通項は「HOS」しかないと突き止めた。彼は名前からも分かる通り、篠原重工社長の息子であり、それ故、レイバーのこととなると熱くなってしまうところがある。しかも今回は、犬猿の仲である父親の会社の新OSが原因かもしれないのだ。彼は、徹夜を厭わずに調査を進める。

一方、第2小隊の隊長である後藤も密かに調査を進めており、遊馬の検証と合わせて1つの結論にたどり着く。それは、「HOSの不具合ではなく、最初から不正なプログラムが仕掛けられていた」というものだった。

そのため後藤は、最初から、「HOS」の開発者である天才プログラマー帆場暎一を探っていた。しかし、残念ながら一足遅かった。実は帆場は5日前、「方舟」から飛び降りて自殺していたのだ。

しかし帆場は一体、「HOS」にウイルスを仕掛けてまで何をしたかったのか…? 遊馬らはその検証を急ぐのだが……。

というような話です。

とにかくさっきも書いた通り、映画を観ながらずっと思っていたことは、「1989年当時の観客は、本作をちゃんと理解できたのだろうか?」ということだった。35年前だからなぁ。今なら全然違和感のない話だけど、35年前には「???」となってもおかしくないと思う。よくこんな企画が通ったなと思うし(もちろん、アニメの評判が良かったからだろうけど)、さらに、35年前によくもまあこんな物語を作れたものだなと思う。

物語の中にちょいちょいよく分からない部分が出てくるが、恐らくそれは「アニメを観ていないから」だと思う。そもそも「篠原遊馬」と「泉野明」の関係がよくわからないし、その泉野明がアルフォンスの話で泣くのも謎だった。あと、後半で唐突に出てきた女性(名前をなんて発音してるのかよく分からなかったのだけど、調べるとどうやら「香貫花」らしい。確かに「かぬか」と言ってた気がする)も「誰???」ってなった。まあでも、そういうシーンはさほどなく、基本的にはアニメを観ていなくても楽しめる作品と言っていいと思う。

ストーリー展開は「エンタメ作品の王道」という感じで、特別言及するようなところはないのだけど、王道を進んでいるからこそとにかく面白く観れる。「ロボットが出てくるのに、ぶっ壊される家は下町風情」みたいな違和感は随所にあるものの、それはそれで「35年前に想像された未来」みたいな感じがあって面白い。また恐らくそれは、「急速な機械化・都市化に対するアンチテーゼ」的な要素も含んでいるように思うし、それは作品全体のテーマにも絡んでくるものだと思う。

基本的にはエンタメなのだけど、「カミソリ後藤」と呼ばれる第2小隊隊長の後藤(事情はよく分からないが、超優秀にも拘らず人工島で燻っているらしい)が時々哲学的なことを口にしたりする。そんな後藤の「嘆き」は、「こんな日本でいいのかねぇ」と投げかけるような部分があって、そういう考えさせる要素も含んでいるところが良いなと思う。

またこの後藤は、人を使うのが上手い。具体的には触れないが、後藤の絶妙な采配によって、遊馬が「HOS」について徹底的に調べる流れになっていく感じはとても上手いなと思う。

また、天才プログラマーの仕掛けもなかなか絶妙だよなぁ。よくこんな設定考えたものだなと思う。帆場が一体何を考えてこんな仕掛けを組み込んだのかははっきりとは分からないものの、それを少し示唆させる描写はある。帆場は2年間で26回も引っ越し、そのすべてが、ボロボロの建物か、もうすぐ取り壊される再開発地域にあったことが分かっている。そしてさらにもう1つ共通点として、そのすべての建物から超高層ビルが見えるのである。恐らく「急速な都市化」みたいなものに何か感じるものがあったのだろう。そして、「それをぶち壊しにする計画」を立てたというわけだ。

しかし、普通には難しい。というのも、「HOS」は帆場がたった1人で作ったものだが、当然リリースされる前にはチェックが入る。だから、「レイバーを暴走させるような分かりやすいプログラム」を書いていたらバレバレだ。本作で示される「レイバー暴走の複雑な仕組み」は恐らく、そういう理由からではないかと思う。

帆場はとにかく、普通には分かりにくい形で「レイバーを暴走させてぶち壊しにする」必要があった。単にレイバーを暴走させるだけでは、プログラムをチェックする段階でバレるかもしれない。そのため、かなり複雑な”スイッチ”を用意しているのだが、これが「なるほどなぁ」という感じのものだった。単にプログラムをどうこうするだけではない仕掛けがあって、それ故に最後の「難関ミッション」にも繋がっていくわけだが、「天才の仕掛け」と「物語・映像的な展開」の両方を見事に両立させる絶妙な設定だったと思う。ほんと上手いよなぁ。

あと、「バベル」「方舟」「エホバ」などキリスト教的な要素が散りばめられていて、『エヴァンゲリオン』なんかもそうだけど、こういうやっぱりよくモチーフになるな、と思う。個人的には結構不思議だなと思ってる。日本人に、そんなに馴染みがあるモチーフとは思えないからだ。同じようなモチーフなら「古事記」とか「日本書紀」なんかの要素が散りばめられていてもいいように思うんだけど、そういうことってあんまりないよな、と。なんでだろう。

まあそんなわけで、エンタメ作品としてとても面白かった。押井守、やっぱ凄いんだなぁ。

「機動警察パトレイバー the Movie」を観に行ってきました

さて、相変わらず僕は、よく知らない人物のドキュメンタリー映画を見に行くのだが、今回はジョン・ガリアーノ。本作を観る前(正確には「本作の予告を観る前」)の時点で僕は、「ジョン・ガリアーノ」という響きを耳にしたことはあったと思うけど、それが「ファッションデザイナー」とは結びついていなかったと思う。本作で扱われる、彼がキャリアをすべて捨てることになった出来事についても知らなかった。

そんなわけで僕は、「本作で描かれていることしかジョン・ガリアーノについて知らない」ということになる。

そして、その姿はなかなか興味深いものだった。なにせ、「ロンドンでデザイナーとして話題を集めるも、デザインした服は売れず資金難に陥り、その後パリに移って話題をかっさらうも、やはり売上は厳しかったためコレクションを開けないぐらいの状態に陥ったが、支援者のお陰で起死回生のショーを開き『墓場から復活』と評され、その後ジバンシィ、ディオールと有名ブランドのデザイナーに就任、年間32回という尋常ではないコレクションをこなしていた最中、ユダヤ人差別発言で起訴され有罪判決を受け失墜した」という人物である。そしてそんな自身の過去について「洗いざらい話す」と言って、カメラの前でジョン・ガリアーノ本人が語るのである。

実に興味深い。しかも、本作はジョン・ガリアーノを扱う作品なのだから当然と言えば当然かもしれないが、それにしても、ジョン・ガリアーノに関わる者がみな、彼のことを様々な表現で絶賛しているのも印象的だった。「魔法使い」「唯一無二」「あんなデザイナーはいない」「ひらめき方が特殊」「別の惑星で生まれ育ったんだと思う」「ファッション界史上最高の天才」「生ける至宝」などなど、それはそれは様々な表現が登場する。僕はファッションに疎いので、彼がデザインした服を観ても、他のデザイナーと何が違うのか分からないが、とにかく「ファッションの歴史の中でも比較対象が存在しないぐらいの存在」であるらしい。ディオールのCEOで、ジョン・ガリアーノにデザイナーをオファーしたシドニー・トレダノは、「彼と私が成したことは再現不可能だ」と断言していた。

さて、本作は冒頭から、2011年2月24日にパリのカフェ・ラ・ペルルでジョン・ガリアーノが驚きの発言をする様子が収められた映像から始まるので、その辺りの話から触れていこうと思う。

さて、ジョン・ガリアーノにとって、この前後の出来事はかなり記憶が曖昧なのだそうだ。監督から「カフェ・ラ・ペルルでの2件の出来事」について聞かれると、彼は「1件じゃなかった?」と返していた。というか実は、カフェ・ラ・ペルルで起こった不適切発言騒動は実際には3件あったそうなのだが、ジョン・ガリアーノはそれらをすべて「同じ夜」のことと認識していたそうだ。

さて、2月24日に起こったのは、あるアジア系の男性(その時カフェにいた客で、ジョン・ガリアーノのことは知らなかったそうだ)に対しての暴言である。その男性と連れの女性はユダヤ系ではなかったのだが、ユダヤ人だと断定された上で批判されたのだ。この件について男性は警察署で被害届を提出した。

その後、この出来事が世界中で報じられると、被害者の男性は被害届を出したことを公開したそうだ。というのも、「ジョン・ガリアーノの名誉を傷つけようとする嘘」と受け取られたからだ。彼は、「世界中の人に『嘘つき』だと思われたまま生きていけないよ」と言っていたのだが、そこに、彼が「奇跡的」と呼ぶ出来事が起こった。彼が暴言を吐かれた2日後に、なんと、ジョン・ガリアーノの暴言を収めた映像がネット上にアップされたのだ。それが、本作冒頭で流れた映像である。

恐らく、女性がカメラ(かスマホ。当時あったかは知らないけど)で撮影した映像で、そこにはジョン・ガリアーノが、「私はヒトラーが好きだ」「あなたたちのような人間は死んでいるんです」「先祖はガス室送りになっただろう」と発言している様子が映し出されているのだ。もしこの映像が世に出なければ、先の被害男性は「嘘つき」のレッテルを貼られたまま泣き寝入りするしかなかっただろう。しかし、決定的な証拠により、ジョン・ガリアーノは差別発言の罪で逮捕・起訴され、後に有罪判決が下るのである。

そしてもちろん、彼はこの出来事によってすべてを失った。本作は、そんなジョン・ガリアーノの来歴や現在について描き出す作品である。

というわけでここからは、彼の生い立ちからのサクセスストーリーについて触れていくことにしよう。

ジョン・ガリアーノはジブラルタルの出身で、6歳の時にロンドンにやってきた。父親とは英語、母親とはスペイン語で話していたが、ちゃんと英語を学んだのはサウスロンドンに移ってから。向かいの家の中が見えるほど道路が狭く、何もかもが灰色の町だったそうだ。

配管工である厳格な父親と、ファッションに明るい陽気な母親の元で育ち、母親が妹の世話で忙しいため、常に姉にくっついて成長したという。姉は「弟が邪魔するからパーティーにも行けなかった」と言っていたが、一方で、パーティーに着ていくドレスを作ってくれたりもしたという。姉は、「食事も呼吸も人生も、すべてファッションのためだった」と表現していた。

しかしそうなったのは恐らく、セント・マーチンズに通うようになってからだろう。倍率の高い美術学校だったが、合格し助成金ももらえたそうだ。子どもの頃から絵を描くのが好きだったようで、当時は周りがサッチャーへの抗議デモに参加する中、1人絵を描いていたという。

大学に入学した頃のジョン・ガリアーノは、後の姿からは想像できないほど内気だったそうだが、同級生のデヴィッド・ハリソン(後に画家となった)が彼を変えた。彼はセックス・ピストルズのメンバーに誘われるくらいの派手さや交友関係があり、ブランドの服ばかり来ているジョン・ガリアーノにヴィンテージを教えたり、オールド・コンプトン通りにパブに連れて行ったりしたそうだ。そこでジョン・ガリアーノは「こんな世界があるんだ!」と衝撃を受け、一気にのめり込み、勉強も兼ねて国立劇場の衣装係の仕事に就いたりもしたのである。

さて、彼は子どもの頃から「ゲイ」だという自覚があったそうなのだが、それは隠していたという。厳格な父親やスペイン文化が、それを許容するはずがないと分かっていたからだ。時々バスルームに閉じこもっては、母親の化粧品を使ってメイクをしたりしていたが、バレなかったという。またある時は、父親がいる前で「彼ってゴージャスだね」と言ってしまったことがあるという。その時は特に何もなかったようだが、恐らく彼は一層気を引き締めることにしただろうと思う。

「人と違う」ことは分かっていたし、でもそれを表に出すことも出来ないため、彼は子どもの頃から「空想の世界」に浸るようになった。架空の人格を作り、空想の世界の中で生きたのである。「空想の方が幸せ」だと彼は言っていた。多くの人物が彼のデザインについて、「常に『逃避』がテーマになっている」と指摘していたのも、そんな子ども時代があってのことだろう。

そしてそんな空想の力が発揮されたのだろう、セント・マーチンズの卒業制作が大いに話題になった。それは校内に留まらず、ファッション誌の編集者も絶賛するほどのものだった。作中に登場したある編集者は、「私がこれまでに観た中でトップ5に入る」と言っていた。「卒業制作のトップ5」なのか「コレクションのトップ5」なのかはよく分からないが、とにかく凄まじく話題になったそうだ。

ジョン・ガリアーノが「レ・アンクロワイヤブル」と名付けた卒業制作は、フランス革命をイメージしたものだった。そこには、アベル・ガンス監督の伝説の映画『ナポレオン』の影響がある。この映画にもの凄く感銘を受けてリサーチを始めたのだそうだ。本作中には時々、古い映画らしき映像が挿入されるのだが、恐らくこれは映画『ナポレオン』のものなのではないかと思う。

この時のジョン・ガリアーノはとにかく絶好調だったようで、「右手で描くとあまりにも簡単に描けてしまうから、左手で羽ペンを持ってイラストを描いていた」みたいなことを言っていた。そしてそんな卒業制作は絶賛され、「天才が現れたと思った」と評されることになる。

それからあれよあれよという間にジョン・ガリアーノの名前はイギリスで知られるようになる。DJのジェレミー・ヒーリー(ヘイジ・ファンテイジー)は、当時付き合っていたモデルから「凄い人がいるから来て」と言われてショーへ足を運び、「頭に生魚をつけたモデルがランウェイを歩き、その魚を客席に向かって投げている」のを観てあごが外れるかと思ったそうだ。その後彼はジョン・ガリアーノから「是非組みたい」と声を掛けられ、ショーで彼の音楽を使うことにしたそうだ。

こうして、セント・マーチンズを卒業してたった3年で、ジョン・ガリアーノはイギリスで注目の的となった。1987年にはブリティッシュ・デザイナー賞を受賞している。しかし彼は、決して商売は上手くなかった。「至高の美を追い求めたい」「夢を描き続けたい」と思っていたのだが、ジョン・ガリアーノがデザインする服は「着こなすのが難しい」とあまり売れなかったのだ。ショーは常に話題をかっさらうのだが、服が売れないため経費ばかりがかさみ、商売的にはまったく上手くいっていなかった。当時彼と組んでいた人物は、「金の話をすると『君はファッションのことを何も分かっていない』と言われたので縁を切った」と言っていた。

しかしそれ以上に問題だったのは、コレクションを終える度にジョン・ガリアーノが壊れてしまうことだった。その様は、近くにいる者には明らかだったようである。凄まじい創造力を常に出し続けることに、心が疲弊していたのである。このことは、その後もずっと彼を苦しめることになる。

さて、イギリスでは出資者を見つけられなくなったジョン・ガリアーノは、1990年、パリを目指す。ファッションの本場で勝負してやろうというわけだ。そして、パリに拠点を移したことで、彼はスティーブン・ロビンソンという相棒と出会った。性的な関係はなかったが、ある人物は彼らの関係を「共依存」と評していた。ジョン・ガリアーノは彼のことを「天使」と表現し、「雑務をすべて引き受けてくれたから、創作に集中できた。僕のことを助けるという使命を持って生まれたのだと思う」みたいに言っていた。スティーブンの献身は周囲の人間も認めるところだったようで、人によっては彼を悪く言うこともあったが(話を聞いていると、まあ仕方ないかという気はするが)、「共依存関係にある」という点を除けば、彼らの関係性は非常に上手くいっていたようだし、周囲もそのように見ていたようである。ある人物はスティーブンのことを「ジョン・ガリアーノが唯一心を許す人」と表現していた。

そして、そんなスティーブンの献身もあって、ジョン・ガリアーノはパリでも大成功を収めることになる。本作には様々なモデル(ナオミ・キャンベルやケイト・モスみたいな、僕でも知っている人も多数)が出てくるのだが、彼らはジョン・ガリアーノのショーの特異さについて、「ステージ上で役割が存在する」みたいに表現していた。

ケイト・モスは、ジョン・ガリアーノのショーに出た時にはモデルになりたてだったそうだが、ジョン・ガリアーノから「君はヤリたがってる」という役柄を与えられたそうだ。ウォーキングさえ初めて習ったみたいな状態で、さらに「ヤリたがっている女性」を演じる必要があるので大変だったそうだが、それが良かったそうだ。彼女は後にジョン・ガリアーノに結婚式のドレスを依頼するのだが、結婚式当日にも「今日の役柄は?」と聞いたとジョン・ガリアーノが語っていた。

そもそもジョン・ガリアーノのショーには必ず「物語」が存在するという。あるモデルは「岸に流れ着いた設定」が与えられたそうだが、そこには「裕福な家から逃げ出し船に乗って逃げている」みたいな状況設定が存在するのだという。そしてここにも「逃避」がテーマになっていたのである。あるモデルは、「モデルを心の旅に連れ出してくれるから、皆興奮させられた」と言っていた。

しかし、ジョン・ガリアーノはショーは常に成功するのだが、やはり売上が伴わず、時には生地を買う金さえ無くなるほどだったという。監督から「食べていけなくなると考えたことはあるか?」と聞かれ、「ある」と答えている。それもあってだろう、彼は酒癖が悪くなり、ある人物は「飲み屋のステージの端っこで小便をしているのを見た」と証言していた。
「よほど不幸なんだろう」とも語っており、ステージ上での成功とはかけ離れた状況にあったという。

しかし、そんな状況を見かねたアンドレ・レオン・タリー(詳しく知らないが、ファッション界で大きな影響を持つ人物)が、「ジョン・ガリアーノが生地を買う金さえ無いなんてあり得ない」と訴え、支援を申し出た。彼は、「女性の服装や考え方を変えるような天才デザイナーは希少」「ジョン・ガリアーノは、そんな天才の1人だ」と、彼を絶賛していた。

そしてアンドレのお陰で、不遇をかこっていたジョン・ガリアーノが表舞台に出ることが出来るようになった。資金を集め、さらに裕福な社交人に「使っていない豪邸をジョンのために貸してくれ」と頼んだことで、ジョン・ガリアーノは「個人の邸宅でショーを行う」ことになったのである。そしてそんなショーに、これまでジョン・ガリアーノと関わったことがあるモデルたちがノーギャラで出演を快諾した。そこにはナオミ・キャンベルも含まれており、彼女は「心の底から開催を願っていた」といって、ストッキングやアクセサリーを自前で持ち込んでショーに臨んだそうだ。

こうして行われた「ブラックショー 1994年秋冬」は大成功を収めた。その際にジョン・ガリアーノがデザインしたスリップドレスはその後10年間流行したという。また、個人の邸宅で行ったことで「観客の目の前をモデルが歩く」ことになり、それによって、香水の匂いが届いたり、布が擦れる音が聴こえるなど、より臨場感のあるショーに仕上がったのだそうだ。こうしてジョン・ガリアーノは新聞に「墓場から蘇る」と報じられるような復活劇を果たすことになる。

その後の展開については、ジョン・ガリアーノも衝撃を受けたそうだ。なんと、50以上のブランドを保有するベルナール・アルノーから、傘下のジバンシィのデザイナーを依頼されたのだ。しかし、この決定には批判が殺到した。「パリの伝統に疎いよそ者」「新参者のイギリス人」「配管工の息子」「野生児はクチュールで成功できるのか?」と散々な批判を浴びたのである。ファッション界は誰もが、「ジョン・ガリアーノは失敗する」と考えていたそうだ。

しかし、アンデルセンの絵本から取られた「えんどう豆の上にねむったお姫さま」という名のジバンシィのコレクション(1996年初夏)は喝采を浴び、「あの時誰もが彼を認めた」というほど称賛された。そしてこのショーを機にジョン・ガリアーノは、ディオールのデザイナーへと大抜擢されるのである。

そんな彼は不適切発言の前にも、パリを騒がせる事態を引き起こしたことがある。「ホームレスをバカにした」として非難を浴びたのだ。この件について説明するためだろう、本作では前段階でいくつかの説明がなされていた。

あるモデルはジョン・ガリアーノの凄さについて、「高級感と低俗感のバランスが素晴らしい」と語っていた。彼の手に掛かれば、マーケットで買ってきた、変なデザインの安物のトレーナーさえも傑作に変えてしまうのだという。また別の人物は、「寄せ集めの要素をつなぎ合わせているようにしか見えないのに、そこから見えるビジョンには統一感がある」と絶賛していた。

さらに、次の点が最も重要なのだが、ジョン・ガリアーノは「あらゆるものからインスピレーションを得るが、その背景を見ることはなく、表面しか捉えない」のだそうだ。もちろん、「ビジョンに統一感がある」のだから、無意識の内に背景も捉えているのかもしれないが、少なくともジョン・ガリアーノを知る者には、「目に映るもの」だけが彼のインスピレーションを刺激するのだと認識されているのである。

そしてそれ故だろう、彼はチャップリンに着想を得たショーにおいて「セーヌ川沿いの人々(ジョン・ガリアーノはホームレスをこう呼んでいた)」のことも取り入れることにしたそうだ(詳しくはないが、何かチャップリンと取り合わせが良かったのだろう)。彼はホームレスをバカにするつもりなどなかったのだが、彼のショーがそのように受け取られ、パリの街で「ガリアーノのクソ野郎」「正式に謝罪すべきだ」という抗議の声が上がった。ジョン・ガリアーノはとても戸惑ったという。「新聞紙をドレスにしてみたらどうなるのか試したかったんだ。それは美しい案だった」と、自身の美的意識から来るアイデアだったと説明していた。

しかし、そんな批判はありつつも、ジョン・ガリアーノの名声はどんどん高まっていく。彼がデザイナーに就任してから売上は飛躍的に伸びたし、「デザイナーというより芸術家だ」というような評価も出てくる。また、当時はまだ決して大きくはなかった業界の黎明期に現れ、業界の成長と共に彼の才能も咲き誇るというタイミングも味方し、ジョン・ガリアーノの評価は最高潮に達したと言っていいかもしれない。

しかしそれ故に、プレッシャーも凄まじかった。毎回斬新なアイデアを出すことを求められるし、そもそもだが彼は、酷い時には年間32回もコレクションを受け持ったのだ。年に32回ということは、1ヶ月に3回ぐらいやらないといけないことになる。ほぼ、週1ぐらいのペースというわけだ。そりゃあ頭もおかしくなるだろうという気がする。

ジョン・ガリアーノは次第に、酒と処方薬の依存症になっていく(作中では「仕事にも依存している」と指摘されていた)。この頃のジョン・ガリアーノについて、その”奇行”を多くの人が語っていたが、ある人物は「裸のライオン」の話をしていた。あるホテルのエレベーターで裸になり、乗ろうとする人に「俺はライオンだ!」と4時間ぐらい言い続けていたというのだ。彼はそのホテルを出禁になったし、そんなホテルは20以上存在したそうだ。

さらに追い打ちを掛けるように、激務に耐えかねた「唯一の理解者」であるスティーブンが38歳という若さで亡くなってしまう。まともな状態ではなかったが、彼は仕事を続けた。尋常ではない仕事量を、まともとは言えない状態でこなし続けたのだ。

そうして彼は、2011年2月を迎えることになる。ラ・ペルルでの不適切発言だ。そして彼はすべてを失う。

そしてそこから13年後の2024年、彼はカメラの前ですべてを話す決断をするのである。

さて、映画の後半では「ジョン・ガリアーノはレイシスト(人種差別主義者)なのか?」という話になっていく。この点に関しては意見が大きく分かれていた。一般的にはやはり、「ユダヤ人に対する差別感情があるのだろう」と受け取られると思う。しかしジョン・ガリアーノと直接関わったことがある者ほど、「彼はそんな人間じゃない」「依存症だったことがすべての原因」と認識しているようだ。ナオミ・キャンベルはインタビューの中で、ジョン・ガリアーノが暴言を吐いている映像を見たかと問われ「見たことはない」と言い切っていた。「彼のことは知っているから、見る必要はない」と。

この点に関しては正直、他人がとやかく言うことではないのだが、「ジョン・ガリアーノが尋常ではない仕事をこなしながら心身ともにすり減っていた」という本作の描写を追っていくと、「深層心理の中で『この状況から逃れたい』と思っていたのではないか」みたいに感じられた。つまり、「このしんどい状況から抜け出すための”手段”として暴言を吐いた」のではないかと思うのだ。それが意識的なものなのか無意識的なものなのかは分からないが、少なくとも僕は、「ジョン・ガリアーノがすり減った状態にいなければ、暴言は吐かなかったのではないか」と思っている。

もちろん、本作で問題になっているのは「内心」であって「行為」ではないのだと思う。つまり、「仮に差別発言をしなかったとしても、差別的な意識を持っていればダメ」というだけだ。そういう判断をするのであれば、「すり減っていなければ暴言は吐かなかっただろう」という指摘は特段何の意味も持たないだろうと思う。

ただ僕は、「『内心』のことなど誰にも分からないのだから『行為』で判断されるべき」だと考えている。そしてジョン・ガリアーノは、「暴言を吐く」という行為を行ったのだから断罪されて然るべきなのだが、しかし、「その行為を反省している」という姿も垣間見えるので、そういう意味では許容される余地はあるんじゃないかとも思うのである。まあ、この辺りはとても難しい問題だとは思うが。

さて、本作ではちょっと触れられていた程度の話だったのだが、彼の復帰に関してある女性編集長が辛辣なことを言っていたのが印象的だった。ジョン・ガリアーノはNYで復帰を果たすのだが(結果としてそれは、ジョン・ガリアーノの”不手際”で大失敗に終わるのだが)、そのことについてその女性は、「彼を支援する有力者は多かったし、何より、彼は白人男性ですからね」と言っていたのである。要するに、「白人社会では、白人男性の行為は大体許される」という皮肉である。

まあ、その発言を帳消しにするかのように、本作ではその直後、アンドレ・レオン・タリーと共に不遇だったジョン・ガリアーノを支援した『VOGUE』の女性編集長のインタビューが挿入される。監督から「(差別発言後の)ジョン・ガリアーノを支援することに危険だとは思わなかったですか?」と問われた彼女は、きっぱり「NO」と答えていたのである。これはきっと、「白人男性だけが彼を支援していたわけではない」という要素として組み込まれているのだろう。もちろん、ジョン・ガリアーノと関わりのあるモデルたちも変わらず彼を支援している。「白人男性だから」という指摘がどこまで的確なのかはなんとも言えないが、確かに、まったく同じ状況に白人女性が陥った時に、ジョン・ガリアーノのように復活できるかはなんとも言えないようにも思う。この点もまた、難しい問題だ。

さて、最後に「天才」に対する僕の考え方に触れてこの記事を終えよう。

僕は、「ユダヤ人に対する差別発言」は言語道断で非難は当然だと思うが、一方で、ある一定の範囲内であれば「天才は自由に生きれた方がいい」とも思っている。犯罪行為まで許容しろなどと言うつもりはないが、「一般人なら許されないことでも、天才なら許されてもいい」という感覚が僕の中にはある。ジョン・ガリアーノもまさに、そんな人物の1人であるように思う。

そしてその上で大事なことは、「そんな天才をサポート出来る人物がいるかどうか」である。ジョン・ガリアーノには、ショーの準備に関してはスティーブン・ロビンソンという「相棒」が存在したが、もっと広い意味で、彼の人生全般をサポート出来る人がいたら良かったんじゃないかと思う。彼にはある時点以降アレクシスという恋人(ディオールのセレブ担当だった)が出来たし、彼からはかなり精神的な支えを得ていたようだが、そうではなくて、マネージャー的な感じで彼を管理・サポート出来る人がいたらもっと違ったんじゃないかと思う。

もちろん、ジョン・ガリアーノ自身が「仕事に依存していた」とも指摘されていたので、マネージャー的な存在がいたとしても難しかったかもしれないが、「仕事に依存する」という状態に陥る前からサポートがあれば、もっと違ったようにも思う。本作では、ジョン・ガリアーノの「そりゃあダメだろうよ」と感じるような言動が色々出てくるのだが、それらに対して「止めた方がいい」と忠告する人物がいなかったのだろうし、それ故にトラブルが色々起こってしまったのだと思う。まあ、「止めた方がいい」という忠告をジョン・ガリアーノが受け入れたかどうかはまた別の話ではあるが。

天才には天才にしか出来ないことがあるのだから、そんな天才が「社会」と適切に接点を持つことが出来るような役割の人物が、やはり天才の周りには必要だと思うし、ジョン・ガリアーノの不幸はその点にあったようにも思う。いや、繰り返すが、差別発言についてはジョン・ガリアーノが悪いし、別にそれを擁護したいわけでは全然ないのだけど、サポート的な人がいればもう少し違ったんじゃないかとも思う。

そんなわけで、様々な捉え方が可能なジョン・ガリアーノという複雑な人物像を映し出すドキュメンタリー映画であり、僕のようにファッションについてまったく詳しくない人間でも面白く観れた。ちなみにジョン・ガリアーノは現在、マルタン・マルジェラのデザイナーとして復帰を果たしているそうだ。それまで以上に演劇感の強いマルタン・マルジェラのショー「シネマ・インフェルノ」の様子も映し出されていたが、ファッションショーとしてはもの凄く斬新に見えたし、世間的にもそういう評価であるようだ。創作力は衰えていないということだろう。そんなわけで僕は、「天才にしか出来ないこと」をやってほしいと思う。もちろん、過去の行いを反省し、彼なりの償いをし続けつつということになるが。

「ジョン・ガリアーノ 世界一愚かな天才デザイナー」を観に行ってきました

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